2018年9月 3日 (月)

「サザエさん」に見る敗戦直後のくすり事情(2)

 

 手元の「サザエさん」の八巻分の後半をたどりたい。

第五巻19508月刊。第1頁から、チリンチリンと鐘を鳴らす納豆屋さんから買うのが、110円のわらづとの納豆だ。2頁目が、郵便屋さんが「年賀はがき」を売りに来る。1949121日、お年玉付き年賀はがきが売り出されている。ちなみに1円の寄付づきの年賀はがきが3円、普通の葉書が2円なので、寄付の割合が3分の1というのも、今では考えられないが、はがき代の5倍が納豆1本という時代だったのだ。

 タラちゃんのノドの具合が悪いらしく、ルゴール液を綿棒の先の脱脂綿につけている場面もあったが、一般家庭でもされていたことだったのだろう。私は、水銀体温計で、かっちり5分間かけて計るという場面が興味深かった。いまでこそ、額に触れもしない電子体温計でたちどころに計測されるが、かつては、1分計、3分計、5分計、7分計などというのがあった。そのメーカーも、仁丹(森下仁丹⇒1974年デルモ)、マツダ(マツダランプ⇒武田薬品)、柏木というのがあり、平たいのと三角形の棒状のものがあったはずだ。私も、たしかに、「何分計にしますか」などと売っていた覚えがある。父は、どういうわけか、お客さんには、必ず「1分計や3分計でも、10分は計らないと、正確には出ませんよ」と、念を押すのが常だった。少々高額な体温計を買ったお客さんにしては何となく腑に落ちなかったのではないか。

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第5巻、水銀体温計は、計り終わって、水銀を下げるときに、手首を何度も振って、近くの何かにぶつけて壊してしまうということが一度ならずあった。ころころと玉になって転がる水銀を息をつめて?集めたことが思い出される。テルモが家庭用電子体温計を発売したのが1983年という

第六巻:1951年2月刊。サザエは、大阪のマスオの父親の法事に二人で出かける。大阪までの東海道線の列車内の光景や親戚との出会いや大阪、京都観光もなかなか面白い。まだ、回虫の寄生率は高かったらしく、「怖い話」として登場している
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 また、なんと「サンマータイム」が題材となって何度か登場しているのも興味深い。現在、安倍首相やJOCが、2年後のオリンピックの猛暑が不安になったのか、思いつきのように「サマータイム」の検討を言い出した。ヨーロッパでは廃止や廃止の方向にあるなか、何をいまさらと思う。GHQの指導で、19484月「夏時刻法」公布、52日から911日まで実施、以降、51年の夏まで実施され、1952年、独立を機に廃止した。実施中は、混乱も多く、残業の増加、寝不足など、すこぶる評判が悪かった。日本列島の日の出・日の入りの時間差や夏の湿気の多さは、夜になっても変わらないことから、サマータイムは不向きとされているし、第一、付随する機器の切り替え費用が半端ではないらしい。

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第六巻、何度目かのサマータイムに関わらず、混乱している様子が分かる。一家に時計なるものが、一つしかない時代であった。現在、家の中の時計をサマータイムに合わせろと言ったら大変ことになるはずだ

第七巻19518月刊。この巻あたりから、「朝日新聞」の夕刊での連載を経て、1951年4月16日から「朝日新聞」の朝刊での連載分だろうか。
 2018年の猛暑は、当方の加齢もあってか、きびしいものだった。アセモこそできなかったが、冷房をかなりの時間かけていたし、少し動くとどっと汗が出て下着を替えたりした。「サザエさん」で、涼をとると言えば、うちわ・扇子か扇風機であった。また、ワカメが泣いておねだりするのを、母親に「アセモできますよ」と言われて、鏡台の前で、しきりに「天花粉」をパタパタとパフではたく場面があった。そういえば、シッカロール(和光堂)、あせ知らず(徳田商店)は、銭湯に持参する人もいて、よく売れた。丸い缶入り、ボール紙の容器もあった。大人も子どもも、赤ちゃんもアセモをよくつくっていたような気がする。

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第7巻、こんな鏡台もなつかしい

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箱に入った布袋の「あせ知らず」は、粉が飛び散らず、携帯用にもなっていた

 一方、物価は上昇を続け、サザエは編み物の内職までするようになる。ご近所には喜ばれていた様子もうかがえる。当時は、つぎあて、染め直し、洗い張り、仕立て直しなどは、主婦の日常の仕事だった。わが家でも、母は、みやこ染めを使って、大きな鍋で染め直しをやっていたのを思い出すし、近くで洋裁をしている方に、何かとお願いしているようだった。
 なお、相変わらず、衛生状態は悪く、1948年と50年には、蚊を媒体とする日本脳炎の大流行があって、1950年、患者は約5000人に達したが、54年からは法定伝染病に指定され、予防ワクチン接種が勧められるようになって、いまでは発症はまれである。脳炎ではないけれど、私には、ご近所の同学年の男子Yちゃんが狂犬病で亡くなったという出来事があった。狂犬病は、戦時下の1944年から流行し始め、1947年伝染予防法で患者届け出制ができ、1950年に狂犬病予防法が成立している。Yちゃんは、映画大好きで、夏の夕涼みの折など、「鞍馬天狗」の話や嵐寛寿郎の真似が得意で、みなを和ませていた。狂犬病にやられ、10日ほどで亡くなってしまったのだ。我が家で20年以上前から犬を飼うようになって、毎年4月の予防注射の時期になると、Yちゃんのことを思い出しては悔やまれるのだったが、いまはその二匹も亡くなって数年経ち、予防注射とも縁が無くなってしまった。

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第7巻、ちょうど続き頁でこんな2本があった。ワカメならずとも、ピー・ティーエー、ビーシージーもD・D・Tの略語は分りにくかったはずだ。保健所からの強制散布が日常的だったことが分かる一コマだ

第八巻1952年1月刊。サザエの父親が、庭に花の種を蒔いたつもりが、「仁丹」とわかる一コマは、微笑ましい。第三巻には、ワカメが、ご近所からサツマイモ1本をもらったと、息せき切って、庭いじりをしていた父親に届けると、なんとダリヤの球根だったという一本もあったことと比べると、暮らしにもややゆとりが感じられるようになったことが分かる。さらに、父親は、サザエに婦人雑誌の新年号を土産に買ってきて喜ばれるが、サザエが寝入ると、そっと「抜け毛を防ぐ方法」という記事を見ながら、鏡台の前で試している1本もあり、そんな余裕も若干感じられるのだった。

 

 

 

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2018年9月 2日 (日)

「サザエさん」に見る敗戦直後のくすり事情(1)

いま私の手元には姉妹社発行の長谷川町子『サザエさん』が第一~八巻まである。19491952年に発行されていたものである。たぶん、中学生だった次兄か私が、購入したものではないかと思う。当時、次兄は、私のことを「サザエさんやワカメみたいだ、まるでオッチョコチョイなんだから・・・」なんていわれていたことを思い出すからだ。

現在、『朝日新聞』では「サザエさんをさがして」というシリーズで、サザエさんの4コマ漫画一本を選んで、その背景を探るもので、サザエさんで見る194574年の歴史と言っていいのかもしれない。

手元の八巻分のサザエさんは、当ブログでの「73年の意味」シリーズの本篇・番外篇の時代と重なるので、続きのような内容になるかもしれない。巻数を追って、上シリーズと重なり合うテーマを中心に、たどってみたい。

第一巻19502月刊。「はしがき」も「あとがき」もない。第1頁は、母親が、両脇にかしこまるワカメとカツオを紹介、呼ばれたサザエが、湯気の上っている蒸しパンのようなものを頬張って登場、「どうもあんなふうでこまります」と母親のセリフで終わる。これが、サザエさん1号の4コマ。なお、第四巻の巻頭には、「サザエさんと私」という4頁にわたって、漫画付きの文章が載っている。サザエさん誕生のこと、疎開先の福岡の新聞「夕刊フクニチ」に連載を始めたこと(1946422日)、東京に引っ越し、姉が出版社の姉妹社を起したことなどの経緯が綴られている。

第一巻での薬の登場は何度かあるが、その一つ、寝床で「ゴホンゴホン」とやっている父親にたのまれたサザエが持ってきた「せきどめ」を服んで、「ピタッとやんだよ」と喜ぶ傍らで、薬瓶をよく見たサザエの「これはげざいグスリだ」にのけぞる父親。もう一つは、私が「熱さまし」としてよく服まされたのが、父の調合による粉薬を思い起こさせる。確か「フェナスチン」という薬が入っているので、よく効く、という話をしているのを覚えている。薬包紙を開いて、三角になったところで、薬を口にすべり落として、水と一緒に一気にのみこむ。後はひたすら布団をかぶって汗をかくまで我慢する。直りかけると、母親は、大事にしていたみかんの缶詰を開けてくれたのは敗戦からだいぶ時が経てからだろう。その「フェナセチン」を、いま調べると、長期服用の副作用は、前から指摘されていたようで、2003年には「日本薬局方」から外されていた。かなりアブナイ?薬を服まされていたことになる。

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第一巻の表紙。最初の書籍化は、横長の装丁だったらしい


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第1巻。やや不鮮明だが、4コマ目の父親の手元には薬瓶と薬袋、右手には今、服まんとして薬包紙を持っているのに、バケツの水を運んできたサザエさんだ

第二巻19502月刊。東京への引っ越しの際の疎開地の人々との別れ、東京の住まいのご近所との出会いが描かれ、はんぺん、果物などの配給の場面と物価の実情も分かる場面も面白い。タクアン百目5円50銭、ガラス一枚80円、シャケ一切れ8円などと。サザエは「新円かせぎ」に友人の働いている出版社ハロー社に勤め始め、これまでにない経験をする。婦人警官に<密着取材>した折の、発疹チフス予防注射の場面で、思い出す。発疹チフスが大流行したのは1946年、3300人以上の死者を出したという。シラミやダニ駆除のため、殺虫剤として、GHQが持ち込んだDDTが大量にあちこちで散布されたという。私は、夏に疎開地から池袋に帰ってきているが、学校で頭から散布されたという記憶がない。戦時下は、マラリヤ予防には威力を発揮したという。日本での製造は、1949年に「味の素」が製造開始したとある。BHCという殺虫剤もあった。私の記憶では、ボール紙の平たい丸い容器に入ったコナのDDTを、箱の上部をぺこぺこ押して、小さな穴から噴霧していたこともある。ボール紙の筒状の容器から、畳のヘリなどに落とし、大掃除で畳を上げたときは、新聞紙の上に、やたら撒いたこともある。日本では、環境ホルモンへの影響や発がん性のため1971年には販売禁止された。

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第2巻。筒状の容器にいれて、後ろから押し出して噴霧させていた液体の殺虫剤もあった。金属製の「噴霧器は別売りです」とお客さんに言ったのを覚えている。エアゾール式は、1952年のキンチョール、1953年のアースまで待たねばならない


第三巻19502月刊。サザエはフグ田マスオと結婚して、タラも生まれる。当初実家を離れていたが、すぐに、両親たちの家に引っ越し、同居する。NHKのど自慢が人気だったらしいが、私には、あまり記憶がない。忙しい予選申し込みができないので、係に電話して、サザエが電話口に唄っているのは「啼くな小鳩よ」であった。学生がアルバイトで、南京豆ふた袋15円、ノート2冊で30円で売ってたり、米一升一40円の夢を見たりする。

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第三巻の冒頭、サザエよりの挨拶の「ことば」が載り、結婚・出産の報告がなされている

第四巻19496月刊。巻頭には前述の「サザエさんと私」を掲載、出版社勤めはどうなったのか不明だが、洋裁の仕立ての内職を始めたりする。取引高税が出て来るので1948年発表の作品か。相変わらず、もち米、魚などの配給、停電の場面などが何度か登場する。

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第4巻。4コマ目になんと吸入器が登場する。サザエさんの家にもあったんだ。たしかに、我が家にもあったし、売ってもいた。これはアルコールらんぷで、水を温めて、その蒸気を吸入する装置。メーカーなどは覚えていないのだが、どこか仰々しい箱に入っていて、父や兄も、お客さんに説明するときは、実に慎重に扱っていた。一時期、私はのどの具合が悪いとき、と言っても40歳前後のころ、クリニックに行くと、水ではない薬剤の入った吸入をやらせられることがあった。最近ではあまり見かけなくなった光景だ

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こんな感じだったのかな。ネットから拝借した

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購入先から受け取った、使用済みの印紙が、各家庭のあちこちに置かれていたのだろう

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2018年8月31日 (金)

73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(8)

(8)くすり屋の雑貨

 今回のシリーズを書くにあたって、本棚にあったつぎの2冊を取り出した。こうした懐古趣味は、結構、昔から私にはあったのだなと思う。

・串間努:図説・昭和レトロ商品博物館 河出書房新社 2001

・初美健一:まだある 今でも買える”懐かしの昭和“カタログ―生活雑貨篇 大空出版 2006

 著者の串間は1963年生まれ、初美は1967年生まれ、というから、私の子どもの世代と言ってもいい若さである。こうしたものを、記憶を残そう、ものを残そうという人がいるということは、頼もしい限り。私は、たまたま30年間近く、まちのくすり屋の娘として過ごしたときの記憶をたどりながら、当時の暮しや家族、商品、お客さんとのさまざまな思いを、後付けながら、できれば社会的背景も自分ながらの理解で綴っている。「自分史」というくくりはあまり好きではないけれど、これからも綴っていくことができればと思う。

 当時のくすり屋が扱っていた、さまざまな雑貨にも、さまざまな思い出がある。

「チリ紙」や「綿花」も大事な商品だった。チリ紙に関しては、厚い束で届いたものを小分けに、二つ折りにし、紙テープで束ね、それを積み重ねて店頭に出していた。「京花」という上質紙は、個別に袋に入っているものもあった。また、少し時代が下ると、色も灰色っぽく、しわしわの柔らかい紙質のものを平らに積み重ねたまま手洗いに置く「落とし紙」もあったと思う。いわゆるテイッシュ・ペーパーは、日本では、1953年にクリネックスから売り出されていたが、高価だったので、普及するのはかなりあとだったのでは。70年代の初めに私が生家を離れるころ、ロール式のトイレットペーパーは一つずつ包装されていたようにも思う。

「綿花」あるいは「脱脂綿」は、平たく折りたたんで「衛生綿」などと書かれた20センチ四方くらいの紙袋に入っていた。子どものころは、消毒用や傷あてに使用するものとばかり思っていたが、化粧用品でもあり、生理用品でもあったのである。アンネ・ナプキンが売り出されるのは1961年のことだった。いま、ドラッグ・ストアで見る、あの多様さは夢のようでもある。

 店は、銭湯「平和湯」の斜め向かいでもあったので、石鹸はよく売れた。石鹸の登録・クーポン制については前述したが、1950年統制解除になると、品物が多くなる。店さきの台の最上段に、何種類かの石鹸を半ダースの箱からばらして並べる仕事もあった。花王、ミツワ、牛乳、アデカ、ニッサン、資生堂(オリーブ)、ライオン、ミヨシ・・・。当時は、石鹸と言えば、固形の化粧石鹸、洗濯石鹸、粉石鹸・・・とあり、父などは、化粧石鹸を「シャボン」と呼んでいた。この頃の石鹸事情については、『暮しの手帖』(20号 1953年)で、「商品テスト」を実施していることがわかった。これを見ると、私の記憶では、化粧石鹸と洗濯石鹸の売れ筋がごっちゃになっていたようだ。『暮しの手帖』のテスト結果は、今でこそ商品名が明らかにされるのが特徴だが、まだABC・・・の匿名だったようだ。

 現在でも、「ワ、ワ、ワが三つ・・・」(1954)「…牛乳石鹸、よい石鹸」(1956)「あごのしゃくれたお月様~うぶゆのときから花王、花王石鹸、・・・」(1956)を思い出すが、なんと、このすべての作詞・作曲が、「日曜娯楽版」(NHKラジオ番組1947年10月12日~1952年6月8日)の三木鶏郎と知ったのが、今回だったのである。お中元やお歳暮の時期になると、半ダース入りの箱にのし紙をつけて、手軽な贈答品としても、売れていた時代があった。

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「暮しの手帖」20号(1953年)より。カラーでないのが残念なのだが、当時「「舶来」石鹸などとは縁がない店であり、暮らしだった。また、洗濯用の粉石鹸はどれほど普及していたのか。花王ビーズ、ライオン、ゲンブ、ニッサン・・・、思い出す。合成洗剤としては、モノゲン(1934発売、1964年モノゲンユニ、2006年販売終了)、エマールというのもあって、純毛や絹ものなどを洗うときは、ぬるま湯で溶いて、丁寧に洗っていた記憶もある。

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現在、我が家で使っている「化粧石鹸」は、ほぼ、上の二つ。一番下のは、娘が帰省したときに使う石鹸で、無添加、釜練りというが・・・

   番外編の方が、回を重ねることになってしまったのだが、ひとまず今回で終わりたい。「73年の意味」については、これからも、天皇の代替わりに向けて、オリンピックに向けて、自分のなかで、渦巻く思いを伝えていきたいと思う。

 

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2018年8月30日 (木)

73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(7)

街のくすり屋の経営改革?② 

 小太郎漢方薬(エキス剤)の販売を始める

 1960年代に入っての頃、私には突如のように思われたのだが、父が、小太郎漢方製薬の漢方薬を店に置くようになった。当時、漢方薬と言えば、中将湯(津村順天堂⇒1988年ツムラ)、実母散(喜谷実母散本舗⇒1950ヒサゴ薬品⇒1995年キタニ)、命の母(笹岡薬品⇒2005年小林製薬独占販売)などの女性向けの薬や浅井万金膏(1997年製造中止)とお灸のための百草などを思い浮かべていた。大きな流れとして、「生薬」の時代から、ティーパック化した「煎じ薬」「振り出し薬」になって、エキスの錠剤化、糖衣錠化が進むのが1950年代半ばから1960年代だったか。

  小太郎漢方がエキス剤、いわゆる錠剤の製造販売を開始したのが19574月であり、父は、漢方の研修会に何度か出かけているようだった。いわゆる、慢性化した症状を訴えるお客さんや売薬ではなかなか効かないというお客さんに、父は熱心に勧めていたようだ。と言っても即効というわけではないので、リピーターは少なかったと思われた。というのも、「ビスラット(スラっと痩せて美しくなる? 石原薬品⇒2008年小林製薬)ってやせられますか」などとやってきた、漢方志向のお客さんに、「奥さん、薬飲むより、まず、余分なものは食べないようにしなきゃ。奥さん、おやつなんか結構つまんでいませんか」などと応ずるものだから、お客は、怒って帰ってしまうなんていうこともあった。母がこぼしていたように、父の「バカ正直」な一面であったかもしれない。

 

 漢方薬のメーカーでは、津村順天堂が有名であったが、1967年に漢方薬の一部が保険適用になり、徐々に適用も拡大し、1988年社名を「ツムラ」と変えた頃には、医療用漢方薬のシェアを伸ばしていた。2009年、民主党政権下、事業仕分けで、漢方薬の適用外しが目論まれたが、医療用漢方薬はすでに定着して、多くの利用者の反対にあって終息したという経緯もあったらしい。保険適用が拡大して、街のくすり屋の漢方薬はどうなっていったのだろうか。父が目論んだ”多角経営“も功を奏さないうちに、しぼんでしまったのかもしれない。

 製薬会社と卸と薬局と  

 どうしても、曖昧な記憶に頼らざるを得ないのだが、つぎに述べるような、メーカーから直接届けられる医薬品は別として当時の店の仕入れはどうなっていたのだろう。仕入れは、主に兄の仕事になっていったらしい。「ナカダ」という卸問屋の社員が注文を取りに来ていた。父や兄に向って、「センセー、センセー」を連発しながら、新製品の説明や売れ筋商品の説明をし、ときには、世間話を交え、注文を取っていた。「センセー」というのは、学校の「先生」しか知らなかったので、何とも奇妙な気分だったのを覚えている。三共、武田、塩野義、山之内などの大手の品は「ナカダ」から仕入れていたのではないか。1950年代の後半、たどれば戦前から創業していた大正製薬と佐藤製薬だが、新しい大衆薬を開発して、特約店方式で販路を開拓しているようだった。卸を通さず、街の薬局に直接、営業社員を回らせ、注文を取っていた。この辺のことを調べようとして、会社のHPの沿革を見るのだが、どうもはっきりしない。会社史などの資料を見なければと思うが、23の文献が見つかった。前述の化粧品の資生堂と同じ方式である。卸を通さない分だけ、若干、利益も多いので、販売にも熱が入る。同じ風邪薬でも、佐藤製薬の「ストナ」や大正製薬の「パブロン」「ナロン」などを勧めていたのも確かであった。

  60年代に入ると、テレビが普及し、薬品・化粧品のコマーシャルが登場し、華やかな宣伝合戦が始まるのが、この頃だろう。当時、栄養ドリンク剤で、少し大きめのアンプル入りが大流行していた。店さきで、アンプルの突起の根元にハート形のヤスリを入れてから、中指で弾いたり、てのひらで抑え込むようにすれば、すぐに折れた。お客さんは、短いストローで一気に服んでいくという光景がよく見られた。最初、私も、アンプルを切るのに緊張したが、次第に慣れていった。ところが、カラスの粉が液剤に混じることもあるということで、今のようなびん入りになったという。大正製薬からはリポビタンD1962年)や佐藤製薬からはユンケル黄帝液(1967年)などが疲労回復、栄養剤としてよく売れた。多くのサラリーマンはよほど疲れていたのだろう。さて、その効き目のほどなのだが、わが家の家族は、誰ひとり、口にする者はいなかった。

 なお、私は、1972年にくすり屋の生家を離れ、76年には名古屋に転居しているので、その後の店の様子には疎くなっていった。 しかし、この度、医薬品卸の「ナカダ」を調べていると、約業界の流通は、激変しているのを知った。私の理解ではつぎのような流れがあったようなのだ。

1961年に国民皆保険制度が発足すると、それまで、薬はくすり屋で売るもの、くすり屋で買うものであったのが、薬は、医者からもらうものになっていったのである。 

しかし、薬事法の改正で、前述のように、販売規制が緩和されるなかで、医薬品の部外品化が進み、1999年には、ドリンク剤は「指定医薬部外品」になってコンビニにも並ぶようになったのだ。2006年、薬剤師養成は6年制となって、専門性が要請された。その一方で、2009年には、薬剤師でなくとも登録販売者が一部医薬品を販売できるようになった。同時に、独禁法により、再販制度が緩和される過程において、医薬品も化粧品もすべて指定からはずれることになり、現在は、書籍・新聞・雑誌・音楽ソフトに限られている。 

 こうした規制緩和の進むなかで、医薬品卸の「ナカダ(中田薬品)」は、1983年に丹平商事と合併、2008年には、200410月に発足したアルフレッサホールディングスと資本提携、2010年には、完全な子会社となっている、ことも分かった。そして、かつて1600もあった医薬品卸は100となり、いまは全国4つのグループに統合され、その4グループには大手製薬会社が大株主になっているのが現状らしい。  

 (参考)
・澤野孝一朗:日本の薬事法制と医薬品の販売規制―薬局・薬剤師・商業組合及び規制緩和 オイコノミカ(名古屋市立大学) 442号(2007年)file:///C:/Users/Owner/Desktop/B41-20071101-121沢野医薬品9規制緩和.pdf
・丹野忠晋・林 行成:日本の医療用医薬品の卸売企業の 
現状とその経済学的分析
跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 第15号 (2013315
日)
file:///C:/Users/Owner/Desktop/contentscinii_20180827165910卸と製薬会社
.pdf
・角田博道:医薬品流通経済研究  流通再編
http://www.pharma-biz.org/Column_ryutu/ryutu01.html 

 

   週刊誌の販売  

  これも、うちの店で、いつ始まったのかが、明確ではない。ともかく、1960年代は週刊誌ブームといわれた時代であった。私が大学に入った直後くらいだろうか。安保闘争の最中で、創刊まもない「朝日ジャーナル」などを小脇に抱える学生も多かった。店先の端っこに、雑誌を差し込む台が置かれ、発売日ごとに週刊誌は届けられるのだが、それと交換するため、前週の雑誌、売れ残った雑誌は、束ねて何部返品かの伝票を添えて用意しておく、その作業はかなり厄介なものだったが、すべて兄の仕事のようだった。売り切れる雑誌もあるが、残る雑誌も多い。このコーナーでどのくらいの利益を上げていたのだろうか。通常は二割程度とのことではあったが、それに加えて、週刊誌の販売は、我が家への「カルチャーショック」が大きかった。新聞は、隣が読売の専売店だったこともあって、読売・朝日・毎日のうちの23紙はいつも購読していたが、それまで縁のなかった週刊誌がどっと押し寄せてきた感じだった。買ってくださるお客さんには申し訳なかったが、汚さぬように丁寧に読ませてもらうことになったのである。私などは、歴史ある?週刊朝日、サンデー毎日(共に1922年創刊)はじめ、週刊女性(1957)、女性自身(1958)、女性セブン(1963)はもちろん、週刊新潮(1956)、週刊文春(1959)などは、発売日の夜にでも読まないと、売り切れてしまうので、読み切るには、いささか過密スケジュールでもあった。週刊明星(195891)、週刊平凡(195987)、平凡パンチ(196488)などにも目を通していたから、自慢ではないが雑学?やスキャンダル・ゴシップ類は、結構、身に着けていたかもしれない。長兄は、店番をしながら、あるいは寝室にまで持ち込んで、アサヒ芸能(1956)、週刊実話(1957)、週刊大衆(1958)、週刊現代(1959)、週刊ポスト(1969)などにも手を広げていたかもしれない。隔週に刊行される、表紙もグラビアも過激な男性向けの雑誌もあった。

 

 こうしてみると1960年代前後に創刊された週刊誌が多いのが分かる。週刊誌販売も、くすり屋が、薬・雑貨・化粧品の他に、商売になる品は何でも置かねばという不安の表れだったのではないか。
 生家を離れて、一人暮らしをすることになった時は、しばらく「週刊誌ロス」に見舞われたが、購入することはまずなかった。新聞に出る広告の見出しを見て、楽しむことを覚えた。これは今でも変わっていないかもしれない。

 

 

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73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(6)

街のくすり屋の経営改革?➀

  今回、薬や化粧品のことを、ひとまずメーカーだけは確認しておきたいと思って、ネットで調べていると、会社にはそれぞれ「今昔物語」があった。発展を続ける会社、身売りをする会社、合併や統合をする会社、廃業した会社といろいろであった。さまざまな商品の現代にいたる来し方を探ると、さらに興味深い事実に出会うこともある。その才があるならば、朝ドラの脚本が何本もかけそうな物語がいっぱい潜んでいるのではないか。経済高度成長期、激動の日本の近現代史を垣間見る思いがする。

 

ここでは、街の小さなくすり屋にも、私の知る限りながら、さまざまな時代の波をかぶらざるを得なかった。父が池袋で薬局を開いたのが1925年か24年、それまでは、十代にして両親を亡くし、薬剤師の資格を持って、朝鮮に渡り、兵役をはさんで、仁川の薬局、ジョホールのゴム園の診療所、日本に帰国後の病院、ずっと雇われ薬剤師だったはずだ。結婚を機に開業しているが、やはり、1945年の空襲による住居兼店舗の焼出は、痛手だったと思う。もともと正直ではあっても、決して商売上手とは言えなかった。それに蓄えるということも苦手だったらしく、母は、よく嘆いていた。お父さんは、一人暮らしが長かったから、自分勝手なところもあって困ることも多いと。店の経理のようなことも苦手だったのだろうか。

 

 

企業組合に加入

 

1950年、たぶん設立まもない「東優企業組合」という東京の薬局が加入する企業組合に加入したのである。売り上げや帳簿類をすべて組合に提出して、父も兄も母も組合の従業員として給与をもらうというシステムで、税金対応などを組合に任せるという趣旨であったと思う。今でも、中小企業協同組合の一つとして、街の薬局や調剤薬局、ドラッグストアが加入する組合として健在のようである。当時の母は、なぜ、せっかくの売り上げをすべて組合に納入しなければならないのか、どんな利点があるのかと、いつも不満げだったのを覚えている。父は、月に何度か、組合に足を運んでいた。「トーユー」に行ってくると、店を留守にすると、そんな愚痴が、私にも聞こえてきた。

 

薬局の開業には、「調剤室」の確保が義務付けられていたが、この調剤室が、どの店でもお飾りのような状態であったことは否めない。うちの店も、事務室のような、もの置きのような様相を呈していた。父たちは、迷った上、改築を機に「調剤室」を造らず、薬局から「薬店」に衣替えをした。

 

敗戦後のくすり屋にとって、1951年、GHQの指示による薬事法改正が掲げる医薬分業は、医師には特例があって、既得権が維持され、処方も販売も可能であったため、分業は定着しなかった。1961年に国民皆保険制度発足すると、それまで、くすり屋で買うものであった薬の多くは、医者からもらうものになっていった。1974年には、医療報酬費の改定がなされ、処方箋料が大幅にアップしたこともあったが、大きな進展は見られなかった。1992年段階での分業率は14%台だった。院外薬局、門前薬局が目につくようになり、調剤薬局大手の医師へのリベート問題も発覚するなか、院外処方箋は増加を続け、2003年で51%となり、その後の2016年には70%を超えた。

(参考)

・早瀬幸俊:医薬分業の問題点 薬業雑誌 1233号(2003年)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/yakushi/123/3/123_3_121/_pdf/-char/ja

 

たばこの販売許可をとる

 

ほぼ同じころ、たばこの小売販売の許可を取ったのだった。さまざまな条件をクリアしなければならないことがあったらしく、販売できるようになってほっとしたようだった。喫煙の健康上被害は、いま厳しく問われ、喫煙できる場所も制限される時代になった。しかし、販売店の数は、明らかに増加しているが、販売の規制はどうなっているのだろうか。うちの店では、まだ、外国たばこを扱うことができなかった。私が店番をしていた頃は、ピース(1946年発売)、ホープ(1957年~)、ハイライト(1960年~)が全盛、しんせい(1949年~)、ゴールデンバット(1906年~)、わかば(1966年~)というのもあった。我が家はだれも煙草を喫まずに、売っていたことになる。利益は一割程度だったとも。やはり、発注・納品事務に、自動販売機への補充など楽ではなかったと思う。

 

 

ドラッグストアの進出に対抗して

 

さらに、1960年代、大学に入ってまもない頃、池袋のくすり屋が騒然としたことがある。いわゆる安売りのドラッグストアが池袋西口に進出して来たことがある。父や兄の存命中に、きちんと聞いておくべきだったのだが、どこの経営のどんな店だったのか、確かな記憶も情報もない。池袋一帯のくすり屋が潰されるのではないかとの危機感から、池袋の同業者が集まって、その安売り店の近くに、仮店舗を建てて対抗して安売りを始めたのである。そして、各店から一名づつ交代で人を派遣し、常時、数人が店員となって詰めていて、かなりの賑わいだった。私も何度か、二つの店の前を通ったことがある。いったい、いつまで続いてどんな決着を見たのか、思い出せない。相手は進出をあきらめたのか、あきらめさせたのか。

 

それにしても、当時は1954年以来定価が決められ、値下げできないという再販制度があって、医薬品45品目が指定されていたはずなので、それ以外の商品の値下げ競争だったのか。この再販制度は、消費者の利益を損なうとして、73年に26品目、93年に14品目と縮小され、1997年に撤廃された。1974年には、薬局を開店するには一定の距離を要する薬事法が職業の自由に反するという違憲判決により改正され、撤廃された。街のくすり屋の安売り競争は激化、さらに大型ドラッグストアやスーパー内の薬局進出が盛んとなり、197080年代は街の小さなくすり屋にとっては厳しい時代であったにちがいない。

 

現在の池袋西口近辺には、かつて私も回覧板や書類などを届けに行ったような個人経営の薬局が何店か、たしかに営業を続けている。しかしその何倍もの、チェーン店のドラッグストアが乱立しているようなのだ。池袋の兄の店は、存命中に閉業して、すでに久しい。

 

 

 

 

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2018年8月26日 (日)

73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(5)

ポマードとコールドクリームの時代から

 それでも、世の中は、少しずつ変わりつつあったのか、庶民の暮らしにもいささかのゆとりができたのか、男性は身だしなみ、女性はおしゃれにも気が回るようになった。くすり屋では、女性化粧品や男性の整髪料などが売れ筋になったのである。
 

 例のテカテカに塗り付けて、独特の匂いを放っていたポマード、その商品名が、今でも口をついて出てくるから不思議である。メヌマ(井田京栄堂)、ケンシ(ケンシ精香)、柳屋(柳屋本店)、エーワン(エーワン本舗)などなど・・・、製造元は、さすがにネットで調べたのだが、店のカウンターのガラスケースに並べていたような気がする。それにチックもポマードのメーカーが作っていたと思うが、思い出すのは「丹頂チック」(金鶴香水⇒1959 年丹頂KK1971年マンダム)、細長い筒状だから、ケースの中でよく倒れてしまっていた。ポマードもチックも戦前から製造されていたものだが、ワセリンを主原料とした鉱物性と植物性があるなどといった説明を聞くともなく聞いていた。男性整髪料は、やがてヘアリキッドの時代に移行していくのである。そういえば、敗戦直後、歌手の岡晴夫が、当時売れっ子ながら、今でいうサイドビジネスでポマード工場を持っていたことも聞いていたが、その商品名が分からない。薬剤師になりたての長兄が、彼の「東京の花売り娘」(佐々詩生作詞 上原げんと作曲1946年)、「憧れのハワイ航路」(石本美由起作詞 江口夜詩作曲1948年)、「啼くな小鳩よ」(高橋掬太郎作詞 飯田三郎作曲1947年)など、裸電球の下で、拳をマイクに見立てて唄っていた姿を思い出す。当時の私と言えば、銭湯「平和湯」横に来る紙芝居と夕方のラジオ放送劇「鐘の鳴る丘」(194775日~19501229日、当初は土日だけだったが、のち月~金放送)に釘付けになった時代である。巌金四郎の語りとパイプオルガンの音楽は重々しかったが、「とんがり帽子」(菊田一夫作詞 古関裕而作曲)は、いまでも一番は歌える。
 

話はややそれるが、数十年ほど前、池袋の生家を解体、建て直すとき、物置からこんなものも拾っていた。もうぼろぼろの崩壊寸前なので、スキャンするのも気が気ではなかったが、当時の雰囲気が伝えられればと思う。

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崩壊寸前の「全音歌謡傑作集」(全音楽譜出版社 1948年11月 61頁 45円)「懐かしのメロデイ」として「別れのブルース」「影を慕いて」などもふくめて48曲収録。どういうわけか。「ブンガワンソロ」と「東京ブギウギ」の間に「とんがり帽子」が紛れた込んでいた。上段の表紙絵、岩田専太郎の挿絵をもっと俗っぽくしたような、こんな絵が、人気があったのだろうか

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『全音流行歌集』(全音楽譜出版社 1950年5月 64頁 40円)表紙は高峰秀子。見開きで一曲、必ず上記のように挿絵が付く。30曲収録。挿絵の作者名はどこにもないが、上の「傑作集」の表紙絵とも共通する雰囲気がただよう

そして女性の化粧品はといえば、脈絡なく、浮かんでくる商品名、化粧水では、ヘチマコロン(近源商店⇒ヘチマコロン社)明色アストリンゼン(桃谷順天館)、クリームでは、明色クリンシンクリーム、クラブ(美身)クリーム(中山太陽堂⇒1971年クラブコスメチック)、ウテナバニシングクリーム(ウテナ)、マダムジュジュ(寿化学⇒1961年ジュジュ化粧品⇒2013年小林製薬)、キスミー(伊勢半⇒1965年キスミーコスメチックス⇒2005年伊勢半)の口紅などで、寿化学を除いては、いずれも歴史の古い化粧品メーカ―で、いわば大衆的な化粧品だったかもしれない。口紅は、「変色」といって、塗る前はオレンジ色なのに塗ると紅色に変色し、色落ちしにくいという実用性もあって、売れ筋だった。なお、子ども心の印象では、資生堂やパピリオは、どこかこだわりのある、やや高級品めいた雰囲気があった。コールドクリームと呼ばれるものがあったが、「栄養」が強調されたイメージで、やがて、脂分の少ないバニシングクリームが好まれたようだった。50年代になると、女性化粧品はますます多様化し、細分化していった。
 

父たちの店も改築を機会に、資生堂の特約店となって、少し様子が変わった。私が高校生のころだったか、贅沢なホネケーキという洗顔石鹸や四角い壜の真っ赤な化粧水オイデルミンなどが珍しかった。しかし特約店というかチェーン店になると、注文にはノルマが課せられ、高額な商品がセットで届けられ、返品なしであった。容器のフタがゴールドとシルバーで価格が異なり、差別化していたようだ。また、お客さんを花椿会の会員に入会させ、買い上げ額によって景品も異なった。売り上げが多いと、会社から美容部員がやってきて、一日近く張り付いて、宣伝・販売・実演などをしていた。わが店の成績は良くないので、たまにやってきた美容部員が暇そうにしていたのを覚えている。兄の奥さんは、子育てに忙しいこともあって、大学生の頃、資生堂の美容研修講座に参加したことも何度かあった。新商品の使い方、基礎的化粧品の説明、果ては、化粧のフルコースを実演で見せられ、実技まで課せられる。ふだんは、化粧をしない私だが、講習を受けた日は、バリバリのファンデーションの上にさまざまな商品をフルに使った厚化粧で帰宅したものだった。それでも、化粧っけなしで、資生堂コーナーでは、受け売りの商品説明をしたのだった。
 卒業後の職場では、朗読見合いの婦人部の催しで、「ちふれ」の出張販売の手伝いをしたこともある。私が使う化粧品と言えば、店のケースから失敬する化粧水、乳液、クリームくらいなものだったが。
 

 
 

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73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(4)

  

 配給通帳と取引高税 

 

二つの配給通帳

  敗戦直後から食糧事情が劇的に改善されたわけではなく、私の手元に残っているいわば配給通帳なる「家庭用主要食糧購入通帳」(農林省発行)と「家庭用品購入通帳」(東京都発行)の数年分を見てみると、記入された数字などは乱数表にも見え、解読がむずかしいし、通帳についている引換券のようなもの意味も分からない。ただ、興味深かったのは、さまざまな広告が掲載されていることで、農林省も東京都も、印刷物や配給の諸経費を賄っていたのだろうと思う。広告からは、当時の暮しの一部が見えてくる。池袋駅付近は、まだ、白衣の傷痍軍人たちが募金箱を携え、何人も立っていたし、ガード内や駅構内には、浮浪者や浮浪児たちも多かった時期である。

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昭和23年(1948年)の「家庭用主要食糧購入通帳」農林省発行、西暦の表示がない。右肩に「砂糖通帳5枚交付済み」、左肩に「衣料切符5枚交付済」の判がおされている。下段は家族名簿となっていて、割当定量の瓦数が手書きされている

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表紙を開くとまるで乱数表にも思えるのだが、左の「世帯一日当たり配給割当量及び月別人員確認欄」には、6-10歳 1 320/16-25歳 2 810/26-60歳 2 770、とあり、我が家の家族と配給量が分かる。116-25歳2人というのは兄二人で、食べ盛りということで量が多い。この単位は瓦で、表紙の割当定量の人数分が記されている

 右の「配給明細表書」には、月日・品名・配給量実量・米換算・金額・配給済み月日・備考・印の欄がある。品名のところには、米・馬・甘・押などが並ぶ。馬は馬鈴薯、甘は甘薯、押は押し麦。サは砂糖、ミは味噌、正は醤油か。換算表の脇には、砂糖5、味噌醤油5枚交付済みとなっているので、この通帳で配給を受けていたのだろう。  価格を見ると、米5キロ133円と読めるのだが・・

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昭和23年「家庭用主要食糧購入手通帳」の裏表紙の上段の「代替え食糧の米換算表」
押し麦・丸大豆・小麦粉・脱脂大豆・高粱は、米と同量だが、食パン1斤(こっぺ3個)は米360瓦、馬鈴薯10瓩は2222瓦、甘薯10瓩は2857瓦などと細かい

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1949年の「家庭用品購入通帳」で、元号が小さく併記されている、東京都発行。左の引換券のようなものが、無秩序に切り抜かれ、虫食いのように白く写っている

石鹸のクーポン制
  配給で思い起こすのは、うちの店から石鹸を買ってくれるお客さんに登録してもらい、ある程度の登録者を確保しないと石鹸が売れない、という時期があったと思う。まだ調べ切れていないのだが、その登録者を確保するために、近くの知り合いや共同住宅の人たちを、母に連れられて、一軒一軒お願いして回わったことを断片的に思い出すのだ。なかには、学校の同級生の家もあったりして、どこか恥ずかしい思いをしたこともあった。 石鹸は、生活の必需品であったが、戦時中は配給も止まっていたらしい。19465月に3年ぶりに配給開始と、年表などには記されている。2年ほどは、年間一人45gのものが3個とかの程度だったらしく、標準価格10銭の石鹸が20円の闇値がついていた。GHQの指示で19494月石鹸配給規則により、小売りや卸売りの段階で「予約注文制(クーポン制)」が実施されることになり、上記のような予約注文のクーポン券を集めることが必至とされたのだろう。メーカーは、クーポン獲得実績により原料の量が決まるので、過剰な競争をもたらしたらしい。それも、19507月には、配給撤廃、同年12月には油脂製品価格統制が撤廃されている

(参考)
・宝子山嘉一:石鹸業界における流通の変遷12
「経営学紀要(亜細亜大学)」92号、101(2002)
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180825211702.pdf?id=ART0000946483
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180825213018.pdf?id=ART0000946358

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花王石鹸のHPより。配給当時の石鹸たち、花王、ゲンブ、ADK(アデカ)の文字、ミツワのマークなどが見える

取引高税
「石鹸配給規則」は一年半ほどで廃止したのだが、この時期、子ども心にも記憶に残っているのが、印紙騒動だった。後でわかることなのだが、消費税の一種の「取引高税」がなせるところだったのだ。これは、1948年に導入されて一年で廃止された税制だったことになる。

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こんなポスターが作られていた! 国税庁のHPより

  我が家の店先での騒動というのは、お客さんごとの売り上げ額の1%にあたる印紙に消印を押して、お客に手渡せ、というものだった。レジスターというものなどなかったので、売り上げやつり銭は、カウンター下の仕切られた箱に金額の違いごとに納め、それとは別に、あらかじめ購入しておいた印紙も金額ごとに仕切って入れて置かれた。間違いなくお客さんに印紙を手渡すのはかなり煩雑なことのようだった。それに、ちゃんと印紙を渡しているかどうか、「脱税」していないかどうか、税務署員が客を装って、店頭に現れるというのである。いつ頃まわってきそうだとか、どの店には来たらしいとか、同業同士の情報交換などもしていたらしいことも、大人たちの話から伝わってくるのだった。厄介さに加えて、何かと緊張が重なるのがわかった。

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税務署員だけでなく、お客さんからの通報制度まであった? 国税庁のHPより

 

 消費税の一種で、この時の取引高税は39業種にわたり、主食・みそ・醤油・家賃・入浴料はのぞくとなっていたという。しかし店頭での煩雑さは、予想可能であったろうに、その完全実施の困難さもあったのだろう、一年で廃止になった。シャウプ勧告がなされたのは、翌年の1949年であった。

 現代の消費税もややこしいことになっているが、非課税や軽減税率の制度もないまま、10%まで引き上げたらどうなるのだろうか。そしてその使い道も問題である。それ以前に、所得税での総合課税や累進課税の実施、法人税の税率を高くする方が先なのではないか。現在のような高所得者、法人優遇税制では、景気が良くなるはずがない、とも思えるのだ。いったい、政府と日銀は何をやっているのだろう?!

 

 

 

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2018年8月25日 (土)

73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(3)

ヒロポンからハイミナールへ 

 「ヒロポンあるかい?」という常連の客をよく見かけたことを覚えている。オールバックの中年の男性で、マンドリンの演奏者だって、と聞いていた。お金周りがよく、お得意さんだったらしい。ヒロポン(大日本製薬)は疲労回復、眠気覚ましに効くとして、くすり屋でも普通に売られていた。これはあとから知ったのだが、特攻隊員が出撃の時にも服用していた覚せい剤の一種で、米軍でも使用されていたという。中枢神経を冒されて中毒になり、敗戦後の日本にかなりの中毒者が蔓延していたらしい。1951年の覚せい剤取締法で「劇薬」に指定されている。平たい箱にアンプルが交互に並んでいた包装でなかったか。また、同じころ、麻黄を原料とする「エフェドリン」が風邪薬や喘息薬として売られていたが、興奮剤としても使用されていたことは、父や兄たちから聞いていた。現在では、スポーツ選手のドーピング検査の対象であり、ダイエットの薬にもなっていて、20146月からは、一人ひと箱しか買えないことになっているという。 

 それにしても、風邪薬や催眠剤ブロバリン(日本新薬)、グレラン(グレラン製薬⇒あすか製薬)など、精神安定剤アトラキシン(第一製薬)などの市販薬が、口コミで合法ドラッグのように使用される時代がやってきたのだ。

 

 なお、強烈な印象として残っているのは、1950年代後半の「ハイミナール」(エーザイ)である。催眠剤として市販されていて、よく売れる薬の一つだったのだが、しばらくすると、若者たちの間で合法ドラッグとして流行しだしてしまったのだ。店では、青少年には売ることはしなかったようだが、一人サラリーマンらしい青年が、眠れないと言って、よく買いに来ていたのは知っていた。あまりに度重なるので、ほかの薬に変えた方がよいと言って売らなかったり、品切れと言ったりして断ると、しばらく姿を見せなくなった。ところが、私の通学路でもあった、池袋のガード近くの山手線のフェンスにしがみついて、ふらふらしている彼に出会って驚いた。朝から、あんな状態では、仕事もできないだろう。中毒症状というのか禁断症状というのか、目の当たりにして恐ろしかったのを覚えている。うちの店に来なくなってからは、他所のあちこちの店で、買いあさっていたのだろう。薬の恐ろしさ、くすり屋の責任みたいなものを感じたのだった。手軽なシンナーが若者の間で横行するのは、さらに、時代は下っての1960年代後半のことで、19728月「毒物及び劇物取締法」の改正で、使用、販売等が規制されることになる。

 

 なお、このシリーズ執筆中に、以下、二つのホームページを知った。北多摩薬剤師会によるホームページの「昔こんなくすりがありました」「今は昔 売薬歴史シリーズ」は、私の記憶を呼び覚ましてくれ、内藤記念くすり博物館では、「人と薬のあゆみ」が楽しませてくれる。

 

・おくすり博物館 

http://www.tpa-kitatama.jp/museum/index.html

 

・内藤記念くすり博物館 

http://www.eisai.co.jp/museum/index.html

・日本家庭薬協会・家庭薬ロングセラー物語
 http://www.hmaj.com/long-seller.html

 

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2018年8月24日 (金)

73年の意味・番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(2)

ヨーチンかマーキロか、医者嫌い

 現在でも、テレビのコマーシャルに登場する、養命酒、救心、龍角散、太田胃散、エビオス、わかもと、正露丸、浅田飴、仁丹、メンソレータム、イチジク浣腸、・・・などは、ただひたすらなつかしいばかりだ。こうした売薬は、お客さんが名指しで買いにやってくることが多い。私は、店の棚での位置はすぐに覚え、カウンターに差し出すことができた。値段のシールを見て応対することもあったが、薬剤師の父や長兄の手があけば、応対は代わった。「キズ薬ください」といえば、「ヨーチンにしますか、赤チン(マーキロ)にしますか、ヨーチンの方が沁みて痛いですけど、良く効きます。それとも、色がつかないオキシフルにしますか」なんて、父の口移しで応えていた。お客さんは、小学生相手で、さぞ頼りなかったことだろうな。父が衛生兵だったころ、行軍での怪我は、ヨーチンが一番、後で化膿することが少ない」というのが持論だった。

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 1946年1月1日『朝日新聞』3面の広告欄で、薬と化粧品会社の広告がほとんどで、山ノ内製薬、藤沢薬品、森永、武田薬品、田辺製薬、塩野義、三共…の名がみえる。ナショナルとテイチクレコードくらいが、異業界である。なおこの日の新聞の一面は、天皇の「人間宣言」がなされていて「天皇、現御神にあらず 君民信頼と敬愛に結ぶ」の見出しが見える

 目薬と言えば、大学目薬(参天堂製薬)かロート目薬(信天堂山田安民薬房⇒1949年ロート製薬)、スマイル(玉置製薬⇒1972年ライオン歯磨)というのもあったし、トラホームや結膜炎らしいといえば、たしか「オプト」?いう軟膏状の目薬もあった。私も、目が赤くなったり、「ものもらい」ができたりすると、母に教わりながら、ホウ酸を熱湯で溶かして、新しい割りばしを使って、脱脂綿で、悪い方の眼を湯気で蒸すようにした後で、少し冷めたら、ホウ酸水がしみている脱脂綿で拭い、軟膏状の目薬をつけた。しばらくの間、べたつく眼では何もできなかったことが何度かあった。小学校6年の夏のプールの時間に、結膜炎がうつったらしく、その時から、視力が急に落ちてきてびっくりしたことがある。

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細長い箱に入っていた目薬、上は「ロート目薬」の点眼器で、下のゴムの栓を開け、上部の丸いゴムのフタを押すと、一滴が落ちる仕組みだった

  風邪をひいたときは、父が調合してくれた粉薬を服み、それでも熱が下がらないときは、アスピリン、ダイヤジン?テラマイシンなどを服んでいたと思う。さらに、新薬のペニシリンは、病院に行かねばもらえない薬だったが、父たちは、しょっちゅう服用すると、肝心な時に薬は効かなくなり、人によってはショック死の危険もあるとかで、敬遠していた。ペニシリン軟膏などは気軽に売っていたのではないか。

 たいていの病気は、そんな風にして治してしまって、我が家では、商売柄、医者に行くということはほとんどなく、薬で解決していた。行くのは歯医者さんくらいだった。そんな悪い習慣が、母の病気の発見をおくらせてしまったのではないかと、今になって思う。それがトラウマになっているのか、私は、医者通いが嫌いではなく、すぐに、クリニックや病院に駆け込むことが多い。せめてと、せっせと保険料のモトを取っていることになるのかもしれない。(つづく)

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 1948年1月1日『朝日新聞』4面の広告欄。この広告の上には、「今年ぼくはこうする」と古橋広之進選手が抱負を語っている記事が写真入りで掲載されている

 

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2018年8月23日 (木)

73年の意味・番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(1)

重曹とサッカリンと
   

敗戦の翌年、疎開先で小学校に入り、夏には、父が奔走して、池袋の焼け跡に薬局を再建した。両親と兄2人、5人家族が一緒に暮らせることになった。当時は「バラック」と呼ばれ、ベニヤ板で囲った小屋のようなものだった。横長の3坪もない店と6畳一間と手洗い・台所だった。停電は、毎晩と言っていいほど続いた。「バラック」は、ヨーロッパ旅行で、訪ねたナチスによる収容所の宿舎や兵舎の意味もあることを知った。周りは、まだ焼け野原で、バラックがちらほらと建ちはじめ、通りを挟んで、2軒の土蔵だけが焼け残っているのを覚えている。

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  日付が分からないのだがバラックを建てて、まもなくで、長兄が、まだ明治薬専に通い、次兄が中学生だった1947年の冬頃か。右と中央が、店を背景に兄二人が直立不動で写っている。左は、長兄の薬専の同級生のIさん、その間に白衣の父が顔をのぞかせている。父は、マメにポスターまがいのものをよく描いた。左のガラスの格子には、「氷嚢」「絆創膏」の文字が見える。残念ながら店のカウンターなどにはさまざまな商品名が書かれているのだが、その文字が判読できない

  最寄りの池袋駅西口のヤミ市は駅前から立教通りの手前まで続き、豊島師範の塀にぶつかるまであったような気がする。次兄は、立教中学に通い、私は、母の意向で、豊島師範の付属小学校の編入試験を受けさせられた記憶があるが、結局、池袋第二小と近くにできた池五小学校に通った。我が家の隣は、キリスト教系の病院跡で、コンクリートのたたきやタイルの壁が一部残っていた。両親からは、ガラスの破片や体温計の水銀が残っているかも知れないからと、たたき以外のところでは遊ばないようにとも注意されていた。とはいっても、敷地の一角には、おそらく無断だったと思うが、さやえんどうやニンジンを育て、ジャガイモの種イモまで植えて、収穫を楽しみ、食糧不足を補っていたのではないか。

  薬局といっても、何を商っていたかというと、こども心に覚えているのは、重曹とサッカリンだった。重曹は、「ふくらまし粉」として、サッカリンは人工甘味料として、我が家でも使用していたが、父は主に、飲食店に自転車で納めて回っていたようだ。店では、重曹やサッカリンは小さな薬用袋に小分けしていたような気がする。「ズルチン」という人口甘味料もあったが、体に良くないと言われつつも、サッカリンよりも安価だったため、「あの店はズルチンを使っているらしい」などと父たちが話しているのを聞いたことがある。

  そして、つぎに思い出す薬は、「虫下し」。当時は、農作物の肥料は人糞が当たり前だったから、回虫の寄生率は高く、野菜などはよく洗って食べるようにしなきゃ、というのが母の口癖だった。小学校でも「検便」があって、回虫が居るかいないか、その結果にはいつもびくびくしていたが、「サントニン」(日本新薬)が、いわば特効薬だったらしく、よく売れていた。さらに、やや後発の「マクニン」という薬は、父がお客さんに「マクニンは海藻からできているので、穏やかに効くので体には良い」と勧めているのを聞いていた。蟯虫やサナダムシなどの寄生もマレではなかったらしいが、どんな薬があったのか、思い出せない。いまは、化学肥料の普及や衛生環境が整い、寄生率は1%にも満たないとのことだが、当時は80%を超える「国民病」であったとのこと。 

  つぎに、思い出すのが、薬ではない「みやこ染め」(桂屋)である。布地の染粉で、当時は染め直し、仕立て直しては、着まわし、衣類は大事なものだった。私はけっこう店番が好きで、小学校4年ころから、一人前?に応対することもあった。

 「みやこ染めありますか」というお客には「木綿ですか人絹ですか、絹ですか羊毛ですか」とまず尋ね、それぞれ用向きによって、別々の色見本を広げて見せて、「どの色にしますか」ということになる。この色見本というのは、見開きの台紙に色名とその下には染めた布や毛糸が、ほんのわずかずつ、張り付けられているのだ。その色見本を見ているだけでも楽しかった。聞いたことのない色の名前、その華やかさが好きだったのだろう。時間が経って色褪せてくると、新しいものが届き、その鮮やかさが、何となくうれしい気分にしてくれるのだった。そして、染め粉の媒染として、酢酸かお酢を媒染として使うのは、木綿やスフではなかったか、化学的にはどうだったのか、これまた記憶の彼方である。

 こんな形で、食や衣料にまでかかわっていたのが、当時のくすり屋であった。(つづく)

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ネット検索したら、こんな写真が出てきた。壜の高さが、もっと低いようにも思えたが、「国防色」とあるので戦時中のものだろう。私が見ていた色見本は、中央の「染色標本」だったのだろうか

 

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