2019年8月21日 (水)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(12)ユダヤ歴史博物館へ

 ハーレムからアムステルダムに戻り、ユダヤ歴史博物館に向かうことにしていて、中央駅前の14番のトラムに乗る。地図を見れば先日、ガイドさんと回った市役所、ワーテルロー広場とそんなに離れてはいない。博物館の周辺は、かつてのユダヤ人街だった。ナチスの迫害が始まる前には、アムステルダムのユダヤ人人口は14万人だったのが、大戦後は3万人に激減したという。
夕食は、中央駅近くの中華料理屋さんで、海老の料理と焼きそばとチャーハンをシエアしたが、美味しかったのにやはり残してしてしまった。午前中のハーレム行きとあわせて、この日、2万814歩。

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案内書とユダヤ関係施設の共通チケット、ただ、私たちは、閉館時間のこともあって、ユダヤ歴史博物館の「1900年~現代」の部分とユダヤレジスタンス博物館を大急ぎでしか見ていない。どこも、かしこも時間不足なんだなあ、と。

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展示は、様々工夫されていて、各コーナーには、かつての写真や実写の動画が編集されていて、操作一つで見られるようになっている。比較的裕福なユダヤ人が多かったというアムステルダム、その日常生活が、突然中断されて、収容所での恐怖に直面する市民の姿が、強烈な印象となった。噴霧器の写真には、かつての敗戦直後の暮らしを思い出させられた。東京池袋で焼け跡のバラック店舗で暮らし始めた私たちは、こうした噴霧器でDDTをかけられた経験はなかったが、この噴霧器とアースの殺虫剤や平たい円形の容器をパクパクさせるDDTの粉の噴霧器、よく使いもしたし、実家は薬屋だったのだ、よく売れた商品だったのである。

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続くシナゴーグ、アムステルダムには、ユダヤ人だけを特定区域に集めたゲットーは設けられなかった、という。

 

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2019年8月17日 (土)

はじめてのオランダとハンブルグへのへ旅は始まった(11)ハーレムへ

  アムステルダム中央駅9時17分発、ハーグ行きでハーレムへ、途中のライデンでは、学生たちの乗降が多い。20分弱でハーレム着、ホームや駅前も何となく閑散としていた。

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ホームの階上には、木造の待合室か。


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地味なたたずまいのハーレム駅舎、駅前の花屋さんが店開き。

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新しそうな銅像だが、ガイドブックによれば、オランダ独立戦争、80年戦争(1568~1648年)時代、ハーレムの知事だったヴィッグボルト・リッペルダ男爵と防衛隊の女性の銅像だという。

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駅から、クライス通りを進んで、路地に入ると、ユダヤ人をかくまった町の時計屋さん、その隠れ家は、いまは、コリー・テンボーム博物館となって、公開されている。私たちが訪ねた時は、どうも閉館中らしく、ツアーの人たちがガイドさんの話を聞いているところだった。

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グローテ・マルクト広場と聖バッフォ教会、立派なパイプオルガンがあって、ヘンデルもモーツアルトも演奏したという。中も見学したいところだが、先を急ぐ。フランス・ハルス美術館もスルー。

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市庁舎の観光案内所で、1ユーロの地図を買い、テイラー博物館への道を教えてもらう。日本からですかと、歓迎される。

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広場の裏手はすぐ川になっていて、跳ね橋が見える。係員がひとりいて、通行人や自転車は、橋が上がると赤信号で待つ。

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垂直に立った橋、小さな船が過ぎてゆくのどかな風景。

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実は通り過ぎていた、目当てのテイラー博物館、右手中央の黒い建物だった入り口は狭いが、中の広さと豪華さに圧倒される。

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博物館のフロアガイドとハーレム、私たちが歩いたところ。↓下はテイラー博物館のホームページ・

https://www.teylersmuseum.nl/en/teylers-museum#/en/frontpage/walter-isaacson

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ここでもレンブラントの特別展が5月から開催中で、多くのデッサンが展示されていた。

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博物館のカフェのアップルケーキもおいしかった

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これは「デンハーグの花市」、ヨハネス・クリスティアーン・クリッケンベルグという画家の作品ということが、絵葉書で分かった。

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風車の変遷を示す展示も。

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コレクションの主、銀行家のテイラー(1702~1778)の肖像、絵画ばかりでなく、化石から始祖鳥、万物?の歴史をたどる展示物。とくに失われがちな古い道具や機械類の収集にも圧倒される。

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テイラー博物館からスパーネル川に沿って歩いていくと、大きな風車が見えてきたが、ここも博物館になっていて、見学には20分はかかるということで、パスすることに。途中にあった警察署に寄って駅までの道を尋ねると、川沿いの道から、線路沿いの道へ左折せよとのことで、人っ子一人通らない広い炎天下の道を歩きに歩いて、30分?ハレーム駅に着いた。アムステルダムに戻る予定が大幅に遅れてしまった。

 

 

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2019年8月13日 (火)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(10)ハーグ国際裁判所へ

 世界史でよく聞く、ハーグ条約、国際裁判所・・・ 、正式には「国際司法裁判所」と呼ぶらしく、裁判所一帯を「平和宮」とも、ガイドブックにはあった。夕方6時近いのに、日差しは強い。

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門の外からの見学だったが、日本語を話す母娘さんがいらしたので、どちらからですか、と尋ねると「カナダからです」とのことだった。

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駅へ向かう帰り道、どうしたわけか中華街に迷い込んでしまった。

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ようやくたどり着いたデン・ハーグ中央駅だった。

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 この日の夕食は、アムステルダム中央駅にある、カフェ・ファーストと決めていた。かつて、列車の一等席の客専用の待合室だったところが今はカフェになっている。なかなか風情のある店内で、写真ではやや見づらいが、正面に三個の時計が掛けられている。真ん中がアムステルダム、右が東京の時刻が示され、時差がわかるようになっていた。地元のグループやカップルも多いようで、看板鳥なのか、カウンターの脇でオームがはしゃいでいた。チーズと野菜たっぷりのサラダとパンで、もう十分という感じだった。ビールのおいしかったこと。この日、21705歩。

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カフェ・ファーストから階段を降りると、こんなスペースもある駅だった。

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はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(9)デン・ハーグ市立美術館のモンドリアン

 ハーグ歴史博物館を素通りして、次に向かったのがハーグ市立美術館である。ここでのお目当ては、モンドリアンコレクションだった。モンドリアンといえば、色鮮やかな幾何学模様の絵がスカーフになったり、さまざまな商品のデザインに取り入れられているので、ご存知の方も多いだろう。私はどういうわけか、1960年代の終わりころ、モンドリアンに出会って衝撃を受けてしまったのだ。私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)の「あとがき」は、つぎのような書き出しである。

「モンドリアンの抽象に出遭ったとき、あの冷徹さに戸惑いながら惹かれていったのはなぜだろうかと考えています。そこには猥雑なものをいっさい拒否しようとする、ひとりの人間の生き方の美と思想があると思いました。この画家の幾何学的構成にいたる過程は、<樹木>連作が雄弁に語っています。さらに光と影から解放された垂直と水平の世界の展開を見せられたときの感動を忘れることができないでいます。主観的な表現を極度に排し、求めてやまなかったものはなんであったろう。・・・」

 なんとも気恥ずかしい書きぶりであるが、モンドリアンの絵画の出発が、「彼の生地、オランダの日常的な海であり、砂丘であり、なんの変哲もない一本の樹木であったのです。対象にはひと一倍鋭い感受性とこまやかな愛情を重ねていた時期は決して短くはありませんでした」ということを知って、自らを省みたという顛末を記していたのである。そのモンドリアンに、このデン・ハーグで、会うことができるのである。1987年の夏、池袋の、今はなくなってしまった「西武美術館」でのモンドリアン展には、その頃暮らしていた名古屋から見に来た記憶がある。まとめてみるのはそれ以来か。その後、私の、暮らしや短歌においても、モンドリアン熱は冷めたけれども、やはり懐かしい。

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ハーグ市立博物館、左右に人工池を見て、進む。

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入場券は、エゴンシーレ(1915)で、パンフの表紙はモンドリアン(1908)であった。入場券は16€。

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手前が、「明るい色による市松模様のコンポジション」(1919年) 

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左が「ドンブルフの風車」(1909)、右が「赤い樹木」(1908~10)

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 パンフレットより:モンドリアンのオランダ時代、パリ時代、オランダ帰還時代、ニューヨーク時代の作風の変遷を簡単にたどっている頁もあった。

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「モンドリアン展」(1987年7月25日~8月31日、西武美術館)パンフの表紙より。上段「樹Ⅱ」、中段「灰色の樹」、下段「花咲くりんごの樹」、いずれも1912年制作。

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思いがけず、モネにもモランディにも出会えた。

 

 

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2019年8月12日 (月)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(8)マウリッツハイス王立美術館へ

 ビネンホフに接する池に沿う中世の建物は超高層ビルを背負っていた。美術館は意外にこじんまりした外観だった。受付には、日本の若い女性もいらして、にこやかに迎えてくださった。

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レンブラントの「自画像」(1669)とフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」(1665)に出迎えられて

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アムステルダム―デン・ハーグ乗車券と美術館チケットとフロアガイド。

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ヨハン・マウリッツ(1604~1679)像。大航海時代、オランダは、ブラジルを制し、マウリッツは 総督として1644年まで務めたのち、デンハーグのこの地の邸宅に住む。砂糖貿易で大儲けをして建てたとして「砂糖の館」と中傷もされたらしい。邸宅は、オランダ王室に買い取られ、ウィレム五世が築いた絵画のコレクションは、オランダ政府に寄贈された。その後もナポレオン時代のフランスに渡ったりして受難は続いたらしい。それにしても、見聞きしてきた名画が多く、ここでも時間が足りないほどだった。

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ルーベンスの「ローソクを持った少年と老婆」に思わず立ち止まった。

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上はフェルメールの「デルフトの眺望」(1660~61)、下がロイスダールの「ハーレムの風景」(1670 ~75)。今回デルフトは訪ねることはできなかったが、ハーレムは翌日訪ねることにしていた。どちらも雲の描写がすばらしい。フェルメールの絵の前で、夫に写真を撮ってもらおうとうろうろしていると、地元の?年配の男性から一緒にとってあげるよと言われて収まった。旅行中二人の写真というのは貴重なのだけれど、後で見ると、ともにお疲れ?の様子だった。

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美術館から、歴史博物館を望む。この博物館にもモンドリアンの絵などもあるはずだったが、時間の関係で素通りになってしまった。

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館内のカフェで、私はクリームパスタ、夫はコロッケのランチとなった。

 

 

 

 

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2019年8月 6日 (火)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(7)ハーグへ

  オランダの国会議事堂も王宮も、アムステルダムではなく、ハーグに、デン・ハーグ(というらしい)にある。それに、目当ての美術館もあるので、一日かけて出かけることにした。

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アムステルダム中央駅、9時34分発より9時49分発の方がデンハーグには先に着くはず。

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インターシティの車窓から。下は、帰路の車窓から、風力発電の風車が当たり前の景色になっていた。

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デンハーグ中央駅からメインストリートを進むといきなり高層ビルが。高いクレーンが交差していて、まだまだ建設たけなわのようであった

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ライデン大学ハーグキャンパスがこんなところに

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こんなところに荒物屋さんが、日本では見かけなくなってしまったが。ちょっと寄ってみたいような。道案内の矢印➡が頼りなのだけれど、結局観光案内所にはたどり着けず、国会議事堂を目指す。

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迷い込んで、工事の人にビネンホフはどこか、と尋ねると怪訝な顔をして、この辺全部だよ、と。そして現れたのが、右の「騎士の館」国会議事堂だった。あたりに警備の警官が立つでもなく、のんびりした中庭である。日本の、あの警備は、いったい何を恐れているのだろう。たしか、ベルリンの国会議事堂前の広場だって、実に和やかで開放的だったが。

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トラムの通り側から議事堂を望む。

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池のホフフェイファから13~17世紀の中世の建築群を望む。この右手の奥がマウリッツハイス王立美術館のはずである。鳩を見守るのは?

  

 

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2019年7月29日 (月)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(6)運河クルーズというけれど

 国立美術館を後にして、夕方は、といっても、まだまだ日差しが強い。中央駅前の遊覧船乗り場へ。50分弱で、12€とのこと。ここぞとばかり、チケット売り場で、二人の財布にたまった小銭をそろえて渡すと、小銭分は受け取らないというのだ。美術館の売り場などでは使うことが出来たのにと、何となく腑に落ちない。船はたちまちに満席となって、出発した。オランダ語と英語のガイドが流される。どんどん景色が変わっていく上に、窓越しなので、写真も思うように撮れなかったのが残念だった。

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見どころの一つ、七つの橋が見通せるスポットというのだが。

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船の形をした、科学技術博物館でした。

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だいぶ波が荒くなってきた。

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遊覧船を降りて、ふたたび中央駅前、ビクトリアホテル前で振り返ると、旧教会の尖塔が見えた。

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お目当ての、ガイドさんからも進められたお店を探しに、ダム広場に向かう途中、どうもタトゥーの専門店?の看板が見えた。ともかく、若い人に限らず、タトゥーをあらわに見せて?いる人がなんと多いことか。スーパーのレジのおばさんの手の甲にも、家族連れの若いお父さんお母さんも、屈強な男性の腕一杯の見事な花の絵だったり、若い細身の女性の二の腕にも・・・、というわけで、写真を撮りたい衝動にも駆られたが、見送るばかりだった。

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ダム広場では、ミュージシャンと日陰に集う人々、奥の広場では大きなシャボン玉を飛ばす芸人さんもいて、子どもたちが追いかけていた。ようやく見つけた店は、なんと、閉まっていて、しばらく前から休業中らしく、張り紙はあったが、その理由は読み取れなかった。

 夕食は、駅近くのピザ屋さんで。この日、1万2755歩。

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2019年7月26日 (金)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(5)アムステルダム国立美術館 2

 

  アムステルダムを夢中で歩いていた日から、はや1カ月もたってしまった。記憶もだんだん薄れてゆくのだが、わずかなメモを頼りに、記しておきたい一心で。

 喫茶室で一息入れてから、まためぐり始める。さまざまな絵に登場する犬、そのさまざまな表情や姿が印象的だったのは、かつてわが家に二匹の犬が暮らしていた頃を思い出したからかもしれない。

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アルベルト・カイプ「旗手と川のある風景」右手の赤い服を着た人の足元に身を低くく座っている犬がいる

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ここにもあったゴッホの自画像(1887年)、パリ時代、歯を抜いた後だったという。

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朝方の涼しさとは違って、強い日差しの中、庭園の噴水、間歇的に低くなったり高くなったり、その間を縫って出たり入ったり、若者たちが楽しんでいた

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はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(4)アムステルダム国立美術館 1

 6月26日、今日は一転して涼しい、過ごしやすい朝だった。朝食のバイキングは、目移りするが、5泊することでもあるし、体重管理もあるしで、あまり欲張らずに行儀よく?済ませた。きょうは、国立美術館、9時過ぎにホテル前のトラム停留所から2番で、きのうのゴッホ美術館の一つ手前で降りればよいはずだ。24時間チケットを車掌さんから買う。トラムの中央車両には、必ず車掌さんが席にいるので、チケットの自動販売機が苦手でも、何となく安心感がある。

 美術館前は、すでに、かなりの人で、正面には、見たことのある、赤い文字の”I am"のモニュメントが迎えてくれた。例のダジャレとでもいうのか”Iam"と、"amsterdam"をドッキングさせているのだが、ただいま、作業中で、”Iam"の後ろの白い文字を読むとamazon? ということになるらしい。 美術館がこの建物に移転して開館したのが1885年とのこと。アムステルダム中央駅と同じ、ペトロス・カイバースの設計による。なんと美術館の地上階の中央は、一般道路が通り抜けになっていて、自転車の往来も頻繁である。

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I amamazon・・・と読めるが、モニュメントはただいま工事中らしい。

 受付で、日本語のオーディ・ガイドがあるというので借りたが、ここでもガラケーの私 は、操作に戸惑う。私は、ふだん日本ではこの種のガイドは借りないことにして、気ままに自分のペースで鑑賞することにしているのだが、ここでは、あればありがたく、選択的に拝聴した。まさに「名画」が目白押しなので、どういう順序で回ればよいのか、いささか迷いもした、というより迷ってしまったのである。フロアガイドを落ち着いてみれば、それなりにわかりやすかったのだが、ともかく17世紀前のゼロ階の展示はスルーすることにした。

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日本語のフロア・ガイドがなかった。

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大がかりなショップ

 

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2階の中央の細長い部屋が「名誉の間」と名付けられ、レンブラント、フェルメール、ロイスダール、カイプなどが並ぶ。

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絵葉書より、フェルメールの「恋文」と「牛乳を注ぐ女」、ほかにも「デルフトの小路」「手紙をよむ青衣の女」があった。

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レンブラントの「夜警」は、かなりの大作と知る。その前で、小学生たちが、学芸員の話に耳を傾けている。こんな光景があちこちで見られたが、日本の展覧会では、あまり見かけない光景ではある。この部屋ではレンブラントの「ユダヤの花嫁」も人気のようだった。

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いずれもレンブラントだが、「老女の読書」も気にかかる絵だった。レンブラントの「自画像」は、現在、プラド美術館に貸し出し中とのことだった。

 昼食も忘れ、途中、アップルケーキでのお茶を挟んで、6時間くらい滞在したことになろうか。連れ合いが熱心に写真やメモを取っている間、私はベンチで休んだりしていることもあったし、もう一度確かめたいと部屋を行き来したり、フロアを上がったり下がったりもした。

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まん中のクッキーには、アムステルダムの市の紋章「アンドレの十字架」が焼かれていた。かなりのボリュームのあるアップルケーキも、美味であった。

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デフルトの陶磁器の展示も見ごとなものだったが、申し訳ない、駆け足で通り過ぎることもあった。

 

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2019年7月14日 (日)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(3)ゴッホ美術館

 午前中、案内いただいたMさんからは、停留所スパイからゴッホ美術館へは、トラムの②か⑫ですよと念を押されていた。トラムのチケットは、Mさんから渡された一日乗車券を使い、美術館のチケットは、当日売りでは行列するかもしれないというので、夫が日本を発つ前に予約、その時間14時と迫っていた。少し遅れて入館、エントランスは大変な賑わいだった。最初別館の方に入ってしまって、迷ってしまったのだが、何のことはない、エントランスのエスカレーターを利用すればよかったのだ。

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フロアマップの日本語版があって、一安心。この自画像は「暗色のフェルト帽をかぶった自画像」(1887年)。

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突き当りの奥には広いショップがあり、右手の奥の白い丸テーブルのドリンク売場も大賑わいだった。

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本館は、ゴッホ作品を管理する財団から永久寄託を受けて、1973年にオープン、窓から見える丸い建物が別館で、黒川紀章設計、1999年オープンしている。

 印象に残った作品は、「ひまわり」というよりは、執拗に描き続けた「自画像」であった。年表と共に自殺する1890年まで、その時代、時代の自画像が示され、それぞれの眼光で見つめられると重苦しい気分になってしまうのだが、最晩年の「花咲くアーモンドの木」のような、やさしい色合いの作品に出会うと、なぜかほっとした。初期の「じゃがいもを食べる人々」など農民を描いた作品は、その表情にもみられる彼らの逞しさと力強さへの羨望もあったのかもしれないと思った。以下作品の写真は、ネットから拝借した。

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「ジャガイモを食べる人々」(1885年)。
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「花咲くアーモンドの木」(1890年)。

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左が1887年制作、右が1888年制作の自画像

 午前中、よく歩いたので、ともかく、早めながら、美術館のカフェで、夕食をとることにした。といっても、あまり食欲なく、私は、生春巻きのようなものを、ドリンクといただいた。暑い一日が終わろうとしていたが、西日の日差しはまだまだきつい。早く汗を流したい一心で、ホテルに戻った。シャワーの後は、家から持参した緑茶を入れ、プッチーニのチョコレートをいただき、途中で買い込んだリンゴをしっかりと食べ、ようやくのどの渇きが収まったのだった。

 いま、ゴッホ美術館関係の資料を見ていると、館内のカメラは禁止で、ショップでも絵葉書はほとんど買っていなかったので、手元にあるのは、まさに花より団子で、ご覧のような絵に包まれたチョコレート、「花咲くアーモンドの木」のワッフル入りの缶、布財布だったりのグッズばかりであった。

 この日、歩いたのは、1万3207歩。

 

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もったいなくて?まだ開いてはいないチョコレート。

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左が「ポブラの小道」右が「夕暮れのポプラ並木」(いずれも1884年)、私の好きな作品。

 

 

 

 

 

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