2024年1月 1日 (月)

 新春 2024.1.1.

  きょうも、当ブログをお訪ねくださいまして、ありがとうございます。国の内外の不安は去りませんが、皆さまにはすこやかな一年となりますよう祈っております。
 当ブログは、2006年に開設、お力添えいただきまして、18年目に入ります。今後ともよろしく、お願いいたします。

 『ポトナム』1月号の時評、相変わらずのテーマですが、寄稿しましたので、お読みいただければ幸いです。

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昨秋、俵万智が紫綬褒章を受章したが

  「もういい加減にして」の声も聞こえるが、やはり、私は、書きとどめておきたい。
  俵万智(六〇)が二〇二三年秋の紫綬褒章を受章した。多くのマス・メディアには、彼女のよろこびの言葉が報じられていた。短歌関係の雑誌は、どう扱うだろうか。

  紫綬褒章は、内閣府によれば「科学技術分野における発明・発見や、学術及びスポーツ・芸術文化分野における優れた業績を挙げた方」に与えられるとある。
 一九五五年に新設された紫綬褒章は、これまでも多くの歌人たちが受章している。近年では、二〇一四年栗木京子、一七年小島ゆかり、今年の俵万智と女性が続いたが、一九九四年馬場あき子以来女性は見当たらず、一九九六年岡井隆、一九九九年篠弘、二〇〇二年佐佐木幸綱、〇四年高野公彦、〇九年永田和宏、一一年三枝昂之、一三年小池光と続いてきた。女性が続いて、歌壇の現状がようやく反映されるようになったとよろこんでばかりいられない事情を知るのだった。

 そもそも、紫綬褒章は、いったい誰が決めるのだろうか。
「褒章受章者の選考手続について(平成一五年五月二〇日)(閣議了解)」によれば、根拠法は、なんと「褒章条例(明治一四年太政官布告第六三号)」とあり、「明治」なのである。
  褒章の種類は、紅綬、緑綬、黄綬、紫綬及び藍綬で、受章者の予定者数は、毎回おおむね八〇〇名とし、春は四月二九日に、秋は一一月三日に発令する、とある。
  衆参議長・最高裁判所長官・内閣総理大臣、三権の長をはじめ、各省庁大臣その他の内閣府外局の長などが褒章候補者を内閣総理大臣に推薦し、内閣府賞勲局との協議、審査を経て内示され、閣議で決定される。最初の候補者リスト作成は各自治体、関係団体になるのだろう。
  春の発令日はかつての「天皇誕生日」、昭和天皇の誕生日であった。秋の発令日は「明治節」、明治天皇の誕生日で、戦後は「文化の日」という祝日になった。
  要するに、紫綬褒章は役人たちが選んでいるので、「文書」に幾つかの押印があったとしても不問に近い。歌人を対象にした民間の賞には、選者や選考委員が示されるのが常である。
  新憲法のもとでは、国家による勲章や褒章制度は否定されたはずである。私も結論的には不要と思っている。というより、法の下の平等に反し、人間のランキングを助長する害悪とも思っている。さらに、選考過程をみると、役人サイドで“綿密な審査”がなされていることもわかる。文化勲章、文化功労者、芸術院会員にしても、形式的な選考委員会は立ち上げられるが、役人サイドのリストの承認機関に過ぎない。文化功労者選考委員十人は、毎年九月に任命され、会は一度しか開催されない。メディアはこぞって受章者の栄誉を称えるが、誰がどのように選んだかには、触れようとしない。(『ポトナム』 2024年1月) 

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手前は、我が家のツバキ、後方が主のいない隣家のサザンカ
  

 

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2023年11月20日 (月)

<座談会>、かなり緊張したのですが。

 11月18日、土曜の午後、G—W—G (minus) 同人の方からのご依頼で座談会に参加しました。同人の三方、位田将司さん、立尾真士さん、宮沢隆義さん、どなたも近代文学の若い研究者で、G—W—G (minus) のバックナンバーを一部拝読、これは手ごわいぞ、の第一印象でした。座談会に至るまでは、進行や資料など丁寧に対応していただき、1週間前にはzoomの打ち合わせもしていただきました。

 会場は、私の住まいの近くの古民家カフェ「入母屋珈琲」の2階の広々とした会議室、入るなり、中央のテーブルにはなんと、写真のように、私のこれまでの著作、収録された論文集、雑誌のコピーまでが、積まれているのを目にして驚き、もはや感動に近いものがありました。私も、拙著の一部や1960年代の雑誌などを持参しましたが、机上のこれらの資料から突っ込まれると、かなりの覚悟が・・・、などと思ったのですが、話が始まると、三人は各様に、私の4冊の歌集や拙著を読まれていて、おぼつかない私の話をうまく掬い取ってくださりで、あっという間の4時間!でした。多くの刺激をいただきました。

 当日の夕方には、以下のツイートにも。 

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本日、歌人の内野光子さんと座談会をおこないました。短歌と天皇制の関係を中心に、「60年安保」及び「68年」と短歌、阿部静枝と『女人短歌』、齋藤史と『万葉集』、前衛短歌、そして「歌会始」の問題を大いに議論しました。2024年5月刊行予定の『G-W-G(minus)』08号に掲載予定です。乞うご期待! pic.twitter.com/7y1qnDWvmx

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2023年11月11日 (土)

紫綬褒章の受章者はどのようにして決まるのか

「またまた、もういい加減にして」の声も聞こえるが、やはり、書きとどめておきたい。
 俵万智(六〇)が二〇二三年秋の紫綬褒章を受章した。多くのマス・メディアには、彼女のよろこびの言葉が報じられていた。短歌関係の雑誌は、どう扱うだろうか。

 紫綬褒章は、内閣府によれば、「科学技術分野における発明・発見や、学術及びスポーツ・芸術文化分野における優れた業績を挙げた方」に与えられるとある。
 1955年に新設された紫綬褒章は、これまでも多くの歌人たちが受章している。近年では、2014年栗木京子、2017年小島ゆかり、今年の俵万智と女性が続いたが、1994年の馬場あき子以来女性は見当たらず、1996年岡井隆、1999年篠弘、2002年佐佐木幸綱、2004年高野公彦、2009年永田和宏、2011年三枝昂之、2013年小池光と男性だった。女性が続いて、歌壇の現状がようやく反映されるようになったとよろこんはでいけない。
 そもそも、受章者はいったい誰が決めるのだろうか。当ブログでも、「文化勲章は誰が決めるのか」の記事を何度か書いてきた。さて、紫綬褒章はどうなのか。

 「褒章受章者の選考手続について(平成15年5月20日)(閣議了解)」によれば、根拠法は、なんと「 褒章条例(明治14年太政官布告第63号)」であって、「明治」なのである。 褒章の種類は、紅綬、緑綬、黄綬、紫綬及び藍綬で、受章者の予定者数は、毎回おおむね800名とし、春は4月29日に、秋は11月3日に発令する、とある。
 「議院議長、参議院議長、国立国会図書館長、最高裁判所長官、内閣総理大臣、各省大臣、会計検査院長、人事院総裁、宮内庁長官及び内閣府に置かれる外局の長は、春秋褒章候補者を内閣総理大臣に推薦し、文書により、あらかじめ、文書により内閣府賞勲局に協議する。内閣総理大臣は、推薦された候補者について審査を行い、褒章の授与について閣議の決定を求める」となっている。

 4月19日は、かつては「天皇誕生日」という祝日で、昭和天皇の誕生日であった。すでに知らない世代も多いのかもしれない。11月3日は、「明治節」、明治天皇の誕生日という祝日であった。 

 なお、内閣府の「栄典の手続き」によれば、その手続きは、以下のようになる。要するに、各自治体及び関係団体、各省庁、内閣賞勲局の間で行ったり来たりしながら、内示の段階でほぼ確定ということになる。つまりは、役人が選考しているので、「文書」にいくつもの押印はあったとしても責任は不問に近い。なお、「栄典に関する有識者」の会議の委員は3年任期で、年に1・2度開催して、栄典の在り方を大所高所からの意見を内閣総理大臣に届けるらしい。その委員たちは、大学教授だったり、会社の社長だったり、他の審議会にも掛け持ちのような「常連」が多い。中には、元内閣官房副長官杉田和弘の名もあった。

 以下、直近の受章者数、その中の紫綬褒章受章者、女性の割合を示し、選考過程の流れを図解してみた。

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 その点、少なくとも民間の、雑誌社やいろんな団体から、歌人に与えらる賞は、選者や選考委員が明確ではある。その先のことは知らないが。

 私は、かねてより、あたらしい憲法のもとでは、国家による勲章や褒章の制度を批判してきたし、結論的には不要と思っている。というより、法の下の平等に反するし、差別――人間のランキングを助長する害悪とも思っている。さらに、選考過程をみると、役人サイドで、綿密に審査がなされているらしいことがわかる。役人たちが、この人なら、「ハメ」を外さない、「安心安全な歌人」として、褒賞されるとみてよい。岸田内閣のような、閣僚、政務官選びの杜撰さとはわけが違うようなのだ。

 

 

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2023年10月31日 (火)

「官報に載せるのを忘れてた」って! 文化功労者選考分科会委員

 「官報」に載せるのを忘れてた?って、そんなことがあるのだろうか。
   10月22日、「文化勲章は誰が決めるのか」を書いたあと、やはり気になって、今年の委員は誰だったのだろうと、毎年発表のある9月1日前後の「官報」をもう一度調べてみたが、見つからない。10月23日、「官報」掲載の日だけでも聞きたいと思って、ネットで見つけた文化審議会委員任命(文化功労者選考分科会委員を除く)の報道資料担当「文化庁長官官房政策課」に電話した。一緒に電子版「官報」を検索するが、わからずじまい。「担当の者が調べて電話します」とのこと。翌日、文部科学省の担当?から回答があったのだが、「たしかに、9月2日に任命されていますが、官報担当の者が、登載を忘れていまして、10月31日の官報に登載します」という。「ええ! そんなことってあるんですか。10月31日?」といえば、「ご迷惑おかけしました。担当の者への引継ぎがうまくいかなかったもので・・・。記者クラブの記者さんには報道資料として配布しているんですが」ともいう。1週間以上も先ではないか。任命からほぼ2カ月後になるなんて。これぞ、役所仕事、責任の所在はどこへやら。

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2023年10月31日「官報」、浅川ひとみ(萩尾瞳)、天谷雅行、鍋島稲子、猪又宏治、木部暢子、塩見美喜子、清水玉青(有吉玉青)、寺井真実(片岡真実)、原久子、沼上幹、三島良直、村田善則とある。

  そして、きょう10月31日の「官報」に、なるほど小さく載っていた。私が電話しなかったら、ずっと忘れていた?っていうことなのか。たった一日しか開かれない「文化功労者選考分科会委員」とはいえ、ずいぶんと軽んじられたものである。それもそのはず、“選考”との名の付くものの、役所のどこかで選ばれた“文化功労者”を承認するだけのこと。250万円の年金がつき、やがて”文化勲章“の候補者にもなる人たちの決め方なのである。メデイアも、文化功労者や文化勲章の受章者は、華々しく報道するが、どんな仕組みで決まるのかは、報道しないことになっているようだ。きょう「官報」に文部科学省人事として発表されたのは10名の委員の氏名のみ。「清水玉青」?、下の名前から、もしかしたら有吉佐和子の娘?報道資料には、肩書も記されているだろうが、私が知るのは、この人くらい。自分でもかなりしつこなと思いながら、委員の肩書をネットで調べ始めると、元大学学長から元野球選手まで、取り揃えていた。いわゆる政府の審議会の常連もいる。しかし、その決め方について、なるほどという記事を見つけた。当時の新聞記事を見過ごしていたらしい。前川喜平元文部科学省事務次官が、日本学術会議の任命問題に関連して、つぎのように語っていたのである。

政権にたてつく人間は排除し気に入った者は重用する。官邸のその姿勢を、私自身、じかに感じたことがある。
文部科学事務次官だった2016年、「文化功労者選考分科会」の名簿を官邸に持っていった。この分科会は文化審議会の下に置かれており、選考する文化功労者のなかから文化勲章受章者が選ばれることもあって、人事について閣議で了解をとる必要があった。 約1週間後、呼びだされて官邸に行くと、杉田和博官房副長官から、10人の委員のうち2人を差し替えるようにと指示された。「政権を批判する発言をメディアでしたことがあった」「こういう人を選んじゃだめだよ。ちゃんと調べてくるように」と言われた。(朝日新聞デジタル「前川喜平元次官が語る官邸人事 不当と違法の分かれ目は」2020年10月28日)

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2023年10月22日 (日)

文化勲章受章者、文化功労者は、いったい誰が決めるのか。

  10月20日、政府は、7人の文化勲章受章者と文化功労者を発表した。21日の新聞は、話題性のある受章者のよろこびの声や文化勲章の川淵三郎、文化功労者の北大路欣也らは、写真入りのインタビュー記事が掲載されていた。学術・文化・芸術の分野で、最高の栄誉に輝く人々と報じられ、11月3日には、授与式があり、また、その“よろこび”の姿が報道されるだろう。

 文化勲章や文化功労者は、どこでどのように決まるのか。そんな疑問から、調べてみるのだが、釈然としない。

 2013年の省庁再編で、文化庁にあった従来の国語審議会、著作権審議会、文化財保護審議会、文化功労者選考審査会を統合して文化審議会を設置された。文化功労者選考審議会は、分科会の一つとなった。その分科会の選考委員名や選考過程も知りたかったのだが、ネット上の検索では、文化庁のホームページに「第23期文化審議会委員名簿」(2023年4月1日付)は掲載されているのだが、どういうわけか、「文化功労者選考分科会分属の委員は除く」との但し書きがついている。

 2019年、下記のブログ記事を書くにあたって、たどり着いた文科省の大臣官房人事課栄典班によれば、ホームページに載せないのは、「文化功労者選考分科会は他の分科会と違って、会合は年一度しか開かないので、載せないことになっています」という。一回きりなので、いつまでもホームページに名前が残るのは好ましくないという主旨のことも話していた。名簿が欲しいのなら、今から読み上げるからメモしてくださいという。ファックスもできないことになっているというので、理不尽ながら、慌てて書きとった12人の中で、知っているのは、田中明彦、都倉俊一くらい。この分科会委員の任命は毎年9月1日前後らしいので、今年は、と「官報」を調べてみるが、私には見つけることができなかった。お気付きの方、ご教示いただければありがたい。ただし、官報無料公開は直近90日までとなっている。

 文化審議会委員はすべて文科大臣の任命である。任命された文化功労者選考分科会委員は、今年だと、多分野にわたる20人の文化功労者を一日で選考できるわけでもないから、大臣官房の担当部署が作成した候補者名簿を承認することくらいしかできないだろう。名簿作成の資料は、いろいろな伝手から入手してのことだろうと推測する。要するに、選考分科会はすでに形骸化していることになる。文化勲章は、上記のような経過で“選考”された過去の文化功労者の中から文科大臣が推薦した文化勲章候補者を分科会委員全員の意見を聞き、内閣府賞勲局で審査を行い、閣議に諮り決定するのである。

 こうした状況は、各省庁の審議会も同様で、官僚の”作文“を了承するセレモニーの一端を担うに過ぎず、「審議会行政」と言われる所以である。そして、官僚が選んだ文化勲章・文化功労者なのに、学術・文化・芸術の分野での最高峰、到達点かのような、華々しさで報道するメディアも、メディア。政府に不都合と思われる人は選ばれない。不都合な言動があった人でも、政府は「なびき」そうな人に目星をつけるのも巧みである。 

 当ブログでは、すでに何度も繰り返し書いてきたり、拙著『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 2013年8月)の中でも、指摘していることなのだが、最近の記事としては、つぎの2件がある。 

・ほんとうの「学問の自由」とは~日本学術会議、日本芸術院、文化勲章は必要なのか(2020年10月4日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/10/post-02d75a.html

・いったい、文化勲章って、だれが決めているのだろう~その見えにくい選考過程は、どこかと同じ?  (2019年11月27日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/11/post-35d417.html

 

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2021年7月15日 (木)

代替わりに見る天皇の短歌と歌人たち―平成期を中心に(2)平成期における明仁天皇・皇后の短歌の果たした役割

 天皇夫妻の短歌と国民とのパイプ役をなすとされる歌会始はじめ、新聞・テレビなどへの登場、夫妻の歌集・鑑賞の書物の出版などが盛んになり、皇室行事、被災地訪問、慰霊の旅などを通して短歌の登場頻度が高くなり、歌碑などの形での接点も多くなった。 

<天皇・皇后の短歌と国民との接点>
a 1月1日の新聞:1年を振り返っての短歌、天皇(5首)、皇后(3首)の公表(天皇家の写真とのセットで)
b 1月中旬の歌会始:天皇・皇后はじめ皇族、選者、召人、入選者10人の歌とともに披講。NHKテレビの中継/当日の新聞夕刊と翌日の朝刊での発表/宮内庁HPでの登載
c 歌会始の詠進(応募)の勧め、入門書・鑑賞書などへ収録、出版
d 天皇の歌集、皇后との合同歌集での出版および鑑賞書の出版など
e 在位〇年、死去、代替わりの節目の図書の出版、新聞・雑誌など記事、特集、展示など
f 歌碑など

 平成期の天皇夫妻の短歌の特色として以下の三点があげられる。まず、短歌一覧をご覧ください。

資料 明仁天皇・美智子皇后の短歌一覧 

ダウンロード - e5b9b3e68890e69c9fe381aee5a4a9e79a87e5a4abe5a6bbe381aee79fade6ad8c.pdf

1)平和祈念・慰霊のメッセージ

 「平和祈念・慰霊」のための短歌を多く詠んでいるが、その一部⑮~㉔を資料に収めた。 天皇の短歌は、おおらかで、大局的、儀礼的だが、皇后の短歌は、人間や自然観察が細やかで、情緒的であると言われている。天皇の短歌には、明治天皇や昭和天皇の作かと思われるような⑮⑯のような短歌もある。

⑮ 波立たぬ世を願ひつつ新しき年の始めを迎へ祝はむ(天皇)(1994年 歌会始 「波」)
 国のため尽くさむとして戦ひに傷つきし人のうへを忘れず(天皇)(1998年 日本傷痍軍人会創立四十五周年にあたり)

 慰霊の旅で詠まれた、夫妻の短歌を見てみよう。

 精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき(天皇)(1994 硫黄島)(終戦50年)
 慰霊地は今安らかに 水をたたふ如何ばかり 君ら水を欲りけむ(皇后)(1994 硫黄島)

 ⑱について、大岡信は、「立場上の儀礼的な歌ではない。・・・気品のある詠風だが、抑制された端正な歌から、情愛深く、また哀愁にうるおう歌の数々まで、往古の宮廷女流の誰彼を思わせる(「折々のうた」(『朝日新聞』1997年7月23日)と記す。
 原爆のまがを患ふ人々の五十年の日々いかにありけむ(天皇)(1995年 原子爆弾投下されてより五十年経ちて)
 被爆五十年 広島の地に静かにも雨降り注ぐ雨の香のして(皇后)(1995年 広島)
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      2005年、サイパン、バンザイクリフにて

㉑ サイパンに戦ひし人 その様を浜辺に伏して我らに語りき(天皇)(2005年 サイパン島訪問)
㉒ いまはとて 島果ての崖踏みけりし をみなの足裏思へばかなし(皇后)(2005年 サイパン島)

 ㉒は、歌人たちの間でも評判になった歌で、たとえば、歌会始の選者である永田さんは、つぎのように話す。「日本女性が崖から飛び降りた景を思い出して、詠まれたものと思われます。崖を踏み蹴って、海へ身を投げた女性の「足裏」を思っておられるところに、繊細な感性を感じとることができます。悲しく、しみじみと身に沁みる歌であります。このような国内外の慰霊の旅が、平和を希求される両陛下の強い思いから出ていることは言うまでもありません。平成という時代は、近代日本の歴史のなかで、唯一戦争のなかった幸せな時代でした。その大切さを誰よりも強く感じて来られたのが両陛下であったのかもしれません。」(「両陛下の歌に見る『象徴』の意味」『視点・論点』2019年03月06日 NHK放送)

 また、皇后の次のような短歌には、海外の戦争や内乱における加害・被害の認識について、やや屈折した思いを詠んだものある。

㉓ 慰霊碑は白夜に立てり君が花 抗議者の花 ともに置かれて(皇后)(2000年 オランダ訪問の折りに)
㉔ 知らずしてわれも撃ちしや春闌くるバーミアンの野にみ仏在(ま)さず(皇后)(2001年 野)

 ㉔について、安野光雅さんは「文化の違うところに立つ自分自身をかえりみて、何もできなかった自分もまた、「知らずして」「(相対的に)弾を撃つ立場にいたのではないか、かなしまれるおもいは、痛切である」(『皇后美智子さまのうた』朝日文庫 2016年10月)とやさしいスケッチとともに語っている。

 こうして、天皇夫妻が発するメッセージは、国民にどう届いているのか。少なくとも、ジャーナリストや史家、歌人たちの鑑賞や解説では、一様にというか、判で押したように「国民に寄り添い、平和を願い、護憲を貫く」メッセージとして、高く評価されています。さらに、2015年、戦後七〇年の「安倍談話」と8月15日全国戦没者追悼式における天皇の「おことば」とを比較し、天皇の言葉には「反省」の思いがあり、当時の安倍政権への抵抗さえ感じさせるという声も少なくなかった。
 このようにして、平和や慰霊をテーマにした短歌に限らず、災害や福祉、環境などをテーマにした短歌を詠み続け、国民に発信することによって、ときどきの政治・経済政策の欠陥を厚く補完し、国民の視点をそらす役割すら担ってしまう事実を無視できないと思っている。 

2)沖縄へのこだわり  

 昭和天皇の負の遺産―本土決戦の防波堤として沖縄地上戦の強行、米軍による占領・基地化の長期・固定化という「後ろめたさ」を挽回するために、11回の訪問、おことば、短歌による慰霊・慰撫のみが続けられた。天皇は、5・7・5・7・7の短歌ではなく、8・8・8・6という沖縄に伝わる「琉歌」まで作っている。上記、短歌一覧の㉕から㊾までご覧ください。天皇夫妻の個人的な思いはともかく、日本政府のアメリカ追従策に対して、何の解決にも寄与していなかった。 

資料 明仁天皇・美智子皇后沖縄訪問一覧(ダウンロード済↓)e5b9b3e68890e5a4a9e79a87e383bbe7be8ee699bae5ad90e79a87e5908ee6b296e7b884e8a8aae5958fe4b880e8a6a7.pdf

  <明仁天皇・美智子皇后の沖縄を詠んだ短歌> ㉕~㊾  *琉歌
㉕いつの日か訪ひませといふ島の子ら文はニライの海を越え来し
(美智子皇太子妃)(1971年 島)
㉖黒潮の低きとよみに新世の島なりと告ぐ霧笛鳴りしと(皇太子妃)(1972年 五月十五日沖縄復帰す)
㉗雨激しくそそぐ摩文仁の岡の辺に傷つきしものあまりに多く(皇太子妃)(1972年 五月十五日沖縄復帰す)
㉘この夜半を子らの眠りも運びつつデイゴ咲きつぐ島還り来ぬ(皇太子妃)(1972年 五月十五日沖縄復帰す)
㉙戦ひに幾多の命を奪ひたる井戸への道に木木生ひ茂る(明仁皇太子)(1975年 沖縄県摩文仁)
㉚ふさ(フサケユル)かいゆる木(キ)草(クサ)めぐる(ミグル)戦跡(イクサアト)くり返し返し(クリカイシガイシ)思(ウムイ)ひかけて(カキテイ)*(皇太子)(1975年 沖縄県摩文仁)
㉛今帰仁(ナキジン)の(ヌ)城門(グスイジョオ)の(ヌ)内(ウチ) 入れば(イレバ)、咲き(サチ)やる(ヤル)桜花(サクラバナ)紅(ビンニ)に染めて(スミテイ) 
(皇太子)(1975年 今帰仁城跡)

㉜みそとせの歴史流れたり摩文仁(まぶに)の坂平らけき世に思ふ命たふとし(皇太子)(1976年 歌会始「坂」)
㉝いたみつつなほ優しくも人ら住むゆうな咲く島の坂のぼりゆく(皇太子妃)(1976年 歌会始「坂」)
㉞広がゆる畑 立ちゅる城山 肝ぬ忍ばらぬ世ぬ事 *(皇太子)(1976年 伊江島の琉歌歌碑)
㉟四年にもはや近づきぬ今帰仁(なきじん)のあかき桜の花を見しより(皇太子)(1980年 歌会始「桜」)
㊱種々(くさぐさ)の生命(いのち)いのち守り来し西表(いりおもて)の島は緑に満ちて立ちたり(皇太子)(1984年 歌会始「緑」)
㊲激しかりし戦場(いくさば)の跡眺むれば平けき海その果てに見ゆ(天皇)(1993年 沖縄平和祈念堂前)
㊳弥勒(ミルク)世(ユ)よ(ユ)願(ニガ)て(ティ)揃(スリ)りたる(タル)人(フィトゥ)た(タ)と(トゥ)戦場(イクサバ)の跡(アトゥ)に(ニ)松(マトゥ)よ(ユ)植(ウイ)ゑたん(タン) (天皇)(1993年 沖縄県植樹祭)
㊴波なぎしこの平らぎの礎と君らしづもる若夏(うりずん)の島(皇后)(1994年 歌会始「波」)
㊵沖縄のいくさに失せし人の名をあまねく刻み碑は並み立てり(天皇)(1995年 平和の礎)
㊶クファデーサーの苗木添ひ立つ幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負ふ(皇后)(1995年 礎)
㊷疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見出だされにけり(天皇)(1997年 対馬丸見出さる)
㊸時じくのゆうなの蕾活けられて南静園の昼の穏しさ(皇后)(2004年 南静園に入所者を訪ふ)
㊹弾を避けあだんの陰にかくれしとふ戦(いくさ)の日々思ひ島の道行く(天皇)(2012年 元旦発表、沖縄県訪問)
㊺工場の門の柱も対をなすシーサーを置きてここは沖縄(ウチナー)(皇后)(旅先にて)
㊻万座毛に昔をしのび巡り行けば彼方(あがた)恩納岳さやに立ちたり(天皇)(2013年 歌会始「立」)

㊼我もまた近き齢にありしかば沁みてかなしく対馬丸思ふ(皇后)(2014年 学童疎開船対馬丸)
㊽あまたなる人ら集ひてちやうちんを共にふりあふ沖縄の夜(天皇)(2018年 沖縄県訪問)
㊾与那国の旅し恋ほしも果ての地に巨きかじきも野馬も見たる
(皇后)(2018年 与那国島)

 3)美智子皇后の短歌の突出していたこと

  それでは、平成期に入って、天皇・皇后の短歌は、マス・メディアにどう扱われたかを見ていきたい。下記の文献一覧によれば、美智子皇后の短歌に特化した記事や図書が多数あり、昭和天皇への関心が維持されていることもわかる。美智子皇后には、皇太子妃時代の皇太子との合同歌集『ともしび』(1986)、単独歌集『瀬音』(1997)、NHK出版からの、在位10年、20年、30年記念の3回『道』には、天皇の歌とともに皇后の歌が収録されているが、ほかにも様々な執筆者により、美智子皇后の短歌の解説書や鑑賞の書が出版されていることがわかる。皇后の短歌は、観察・表現の繊細さに加えて、メデイア・世論への目配りが功を奏し、保守層からも、リベラル派からの支持を得、国民への影響力も大きいと言えよう。もっとも、明治天皇の昭憲皇太后、大正天皇の貞明皇后も、賢い皇后として、その足跡、短歌が残されているが、旧憲法下では限界があり、美智子皇后の積極性にはかなわず、歴代天皇の皇后にはなかった現象であった。

資料 天皇の短歌関係文献一覧(2000 ~)

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 4)「歌会始」と歌人たち、歌壇の反応
 選者の変遷の推移は、御歌所 ⇒民間歌人・女性歌人の登用 ⇒戦中派 ⇒「前衛歌人 ⇒戦後生まれ・人気歌人へとたどり、現代短歌との融合と選者任用が他の国家的褒章制度とのリンクが顕著となってきている。歌会始の選者になることが歌人としての一つのステイタスとなり、国家的褒章制度に組み込まれ、その出発点や通過点となったり、到達点になったりしている構図が見える。例外としての、馬場あき子、佐佐木幸綱さんには事情があるようで・・・。
 

資料 歌会始の推移

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 <歌会始選者たちの国家的褒章の受章歴>

木俣修(1906~1983): 歌会始選者1959 → 紫綬褒章1973 → 芸術選奨文部大臣賞1974→ 日本芸術院賞恩賜賞1983
岡野弘彦(1924~): 歌会始選者・芸術選奨文科大臣賞1979 → 御用掛1983~2007→ 

紫綬褒章1988 → 芸術院賞・芸術院会員・勲三等瑞宝章1998 → 文化功労者2013
岡井隆(1928~2020: 歌会始選者1993 → 紫綬褒章1996 → 御用掛2007~2018→

 芸術院会員2009 →  文化功労者2016 → 旭日中綬章追贈2020死去
篠弘(1933 ~):紫綬褒章1999 → 旭日小綬賞2005 → 歌会始選者2006 →御用掛2018~
三枝昂之(1944~):芸術選奨文科大臣賞2006 → 歌会始選者2008 →紫綬褒章2011
永田和宏(1947~):歌会始選者2004 → 紫綬褒章2009 →瑞宝中綬章2019 →?

 (参考)
栗木京子(1954~):芸術選奨文科大臣賞2007 → 紫綬褒章2014 → 歌会始召人控2020 →?
 現代歌人協会理事長(女性初)2019
馬場あき子(1928~):紫綬褒章1994 →芸術院賞2002 →芸術院会員2003 →文化功労者2019
佐佐木幸綱(1938~):芸術選奨文部大臣賞2000 → 紫綬褒章2002 → 芸術院会員2008

 5)明仁天皇の生前退位時前後の天皇制の行方~リベラル派、護憲派の天皇制への傾斜

リベラルな人たちの天皇制への傾斜、たとえば・・・・

矢部宏治(1960~):「初回訪問時の約束通り、長い年月をかけて心を寄せ続けた沖縄は、象徴天皇という時代の「天皇のかたち」を探し求める明仁天皇の原点となっていったのです」(『戦争をしない国―明仁天皇メッセージ』小学館 2015年)。著書に『日本は、なぜ基地や原発を止められないのか』(集英社インターナショナル 2014年)。
金子兜太(1919年~2018年):俳人。 金子兜太選「老陛下平和を願い幾旅路」(伊藤貴代美 七四才 東京都)選評、「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ」(「平和の俳句」『東京新聞』2016年4月29日)。「アベ政治を許さない」のプラカード揮毫者。
金子勝(1952~):マルクス経済学者。「【沖縄に寄り添う】天皇陛下は記者会見で、沖縄のくだりで声を震わせて「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました」「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と語る。アベは聞いているのか?」(2018年12月23日ツイート✔ @masaru_kaneko)。
白井聡(1977~):「今上天皇はお言葉の中でも強調していたように、「象徴としての役割」を果たすことに全力を尽くしてきたと思います。ここで言う象徴とは、「国民統合の象徴」を意味します。天皇は何度も沖縄を訪問していますが、それは沖縄が国民統合が最も脆弱化している場所であり、永続敗戦レジームによる国民統合の矛盾を押しつけられた場所だからでしょう。天皇はこうした状況全般に対する強い危機感を抱き、この危機を乗り越えるべく闘ってきた。そうした姿に共感と敬意を私は覚えます。天皇が人間として立派なことをやり、考え抜かれた言葉を投げ掛けた。1人の人間がこれだけ頑張っているのに、誰もそれに応えないというのではあまりにも気の毒です。」という主旨のことを述べています。(「天皇のお言葉に秘められた<烈しさ>を読む 東洋経済新報オンライン 2018年8月2日、国分功一郎との対談)。『永続敗戦論―戦後日本の核心』(太田出版 2013年)の著者。
内田樹(1950~):「天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること、天皇は祈ってさえいればよい、という形でその本義を語りました。これは古代から変りません。陛下はその伝統に則った上でさらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむ者の慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです。現代における天皇制の本義をこれほどはっきりと示した言葉はないと思います。(「私の天皇論」『月刊日本』2019年1月)
永田和宏(1947~):歌人、歌会始選者。「戦争の苛烈な記憶から、初めは天皇家に対して複雑な思いを抱いていた沖縄の人々でしたが、両陛下の沖縄への変わらぬ、そして真摯な思いは、沖縄の人々の心を確実に変えていったように思えます。両陛下のご訪問は、いつまでも自分たちの個々の悲劇を忘れないで、それを国民に示してくださる大きなと希望になっているのではないでしょうか」(『宮中歌会始全歌集』東京書籍 2019年)。安保法制の反対、学術会議の会員任命問題でも異議を唱えている。
望月衣塑子(1975~):東京新聞記者。。コロナの時こそ、天皇や皇后のメッセージが欲しいと天皇・皇后へ賛美と期待を示す(作家の島田雅彦との対談、「皇后陛下が立ち上がる時」(『波』新潮社2020年5月)。
落合恵子(1945~):新天皇の大嘗祭での「おことば」を「お二人に願うことは、お言葉で繰り返された平和を、ずっと希求される<象徴>であって」(「両陛下へ」『沖縄タイムズ』2019年11月12日)

 美智子皇后との交流を重ねて語る石牟礼道子、安保法制に反対を表明した憲法学者の長谷部恭男は天皇制は憲法の「番外地」といい、木村草太は天皇の人権の重要性を説く。政治学者の加藤陽子は、半藤たちとご進講を務める。著書『それでも、日本人は『戦争』を選んだ』(朝日出版社 2009年)、半藤・保阪との共著『太平洋戦争への道1931-1941』NHK出版 2021年)
 リベラル、革新政党の天皇制への傾斜と同時に、安保法制反対、学術会議任命問題に異議を表明する歴史家や歌人たちが親天皇制を表明し、天皇夫妻の言動や短歌を高く評価する傾向が顕著になった。中堅、若手の歌人たちも「歌会始」への抵抗感も薄れている。こうした状況の中で、民主主義の根幹である「平等」に相反する天皇制を廃するにはどうしたらよいのか、現在の憲法のもとでできることは何か。
 私としては、天皇制廃止への志は忘れずにいたい。現制度の下で、できること、願うことといえば、天皇夫妻はじめ、皇族たちには、ひそかに、しずかに、質素に暮らしてもらうしかないのではないか。なるべく、国民の前に現れないように、そして、メディアも追いかけることはしないでほしい。天皇たちの人権を言うならば、天皇制が、さまざまな差別や格差の助長の根源であったことを思い返してほしい。一人の人間が、国民の「象徴」であること自体、「統合」であるとする「擬制」自体が、基本的人権に反するのではないか、といった趣旨で、締めくくった。下記のような感想や質問が出された。

・反戦主義者と思っていた半藤一利さんが意外であった。
・まず、男女平等の観点から「皇室典範」で女性天皇を認めるべきではないか。
・日本人には、古くから、短歌という文学形式が深く身についているから、短歌による発信が浸透するのではないか。
・宮中祭祀における、いわゆる「秘儀」に皇后たちは、苦悩したに違いない。その実態が明らかになっていないのが問題ではないか。
・黙っていて、というのは、天皇夫妻にも表現の自由があるのだから、酷ではないか。
・退位後、ネット上の美智子皇后へのバッシングがひどいのは、どうしたわけか。
・落合恵子さんは共和制を主張している人だが、天皇制を支持するとは、信じられないのだが。

  短歌が、国民に根付いた文学形式といっても、文学史上、多くの国民が短歌による発信ができるようになるのは、たかだか、近代以降で、それ以前の「和歌」は、一部の国民の発信ツールに過ぎなかったのではないか。美智子皇后へのネット上のバッシングというのは、私は詳しく知らないが、昭和・平成期にも潜在的にあったし、それを煽るようなメディアもあったと思う。「宮中」に入るからには、美智子皇后、雅子皇后にしても、当然覚悟していたことだと思う。いじめやバッシングは、法的な措置も辞さず、それによって、宮中内の実態も明らかになってゆくだろう。
  また、いわゆるリベラル派による天皇夫妻への敬意や積極的にも思える天皇制維持の発言は、これからも、噴出、拡大していくのではないか。それは、革新政党の、ウイングを広げようとして「寛大さ」や「柔軟性」を掲げ、民主主義の根幹を忘れるという退廃と、その一方での若年層の、天皇や天皇制への無関心が相俟って、この国の進む方向には、不安は募るばかりである。
 質疑も含めて二時間弱、オンラインに慣れない私は、もうぐったりしてしまった。対面での研究会や集会が待たれるのであった。

 

 

 

 

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2019年12月 1日 (日)

<歌壇>における「賞」の在り方~「ショウほど素敵な商売はない」?

  一九五〇年代に「ショウほど素敵な商売はない」という、マリリン・モンロー出演のアメリカのミュージカル映画があったらしい。見る機会もないままいまに至っているが~。

  これまで私は、国の褒賞制度や栄典制度が、本来の学術・文芸の振興にどれほど寄与しているのかについて書こうとすれば、どうしても批判的にならざるを得なかった。その褒賞や栄典にあずかる者をだれが選ぶのかの視点でたどっていくと、恣意性や政治性が色濃いものであることがわかってきたからである。国際的なノーベル賞やアカデミー賞、ミシュランにいたるまで、さらに、たとえば日本レコード大賞はどうなのかといえば、詳しいことはわからないが、その主催の民間団体や業界団体における選出方法にもかなり問題があることも伝わってくるではないか。自分に縁がないこともあって、「賞」なるものに懐疑的にならざるを得ない。苦々しくは思うものの「どうでもいいでショウ(賞)」くらいの気持ちであった。

  しかし、長年、短歌にかかわってきた者として、短歌の世界、いわゆる「歌壇」でのさまざまな「賞」についても、いろいろ考えさせられることが多くなった。これまでも、拙著やこのブログでも触れてきたことではあるが、現状を確認しておきたいと思う。歌壇の賞のデータとして、一つの賞を編年体で見るのには、光森裕樹による「短歌賞の記録」(tankafulnet)(http://tankaful.net/awards に詳しく、便利でありがたい。横断的に見るには『短歌研究年鑑』の「短歌関連各賞が受賞者一覧」である。もちろん網羅的ではないが、主として短歌雑誌が主催する賞は、応募型のいわば新人発掘のための賞a型、中堅・大家を対象とする賞b型とに分けることができる。
 これらの受賞者や受賞作品の紹介や評論は、各誌の歌壇時評などで、その栄誉と称賛を後追いするものが圧倒的に多く、発信・拡散が繰り返される。近年、私は、受賞者や受賞作品への関心もさることながら、選考委員の傾向や重複が気になっている。こうした短歌賞が、雑誌の営業政策の一環であることは当然なのだが、それにしても、選考委員の重複にはあらためて驚かされるのであった。 
 たとえば、直近の一年間をみても、四つ以上の賞の選考委員を兼ねているのは、以下の7人であり、三つの賞の委員を務める高野公彦、大島史洋、小島ゆかりがそれに続く。

馬場あき子(1928生。芸術院会員、朝日新聞選者)b短歌研究賞、迢空賞、現代短歌新人賞(さいたま市)小野市詩歌文学賞

佐佐木幸綱(1938。芸術院会員、東京新聞選者、朝日新聞選者)a現代短歌評論賞、b短歌研究賞、迢空賞、現代短歌大賞、若山牧水賞(宮崎県)前川佐美雄賞

三枝昻之(1944。歌会始選者、日本歌人クラブ会長、日本経済新聞選者)a現代短歌評論賞、歌壇賞、b日本歌人クラブ賞・大賞・新人賞・評論賞、斎藤茂吉短歌文学賞、前川佐美雄賞

伊藤一彦(1943。毎日新聞選者)a角川短歌賞、筑紫歌壇賞、b現代短歌大賞、若山牧水賞(宮崎県)

永田和宏(1947。歌会始選者、朝日新聞選者)a角川短歌賞、b短歌研究賞、斎藤茂吉短歌文学賞、小野市詩歌文学賞、佐藤佐太郎短歌賞

小池光(1947。読売新聞選者)a      角川短歌賞、b短歌研究賞、斎藤茂吉短歌文学賞、現代短歌新人賞(さいたま市)

栗木京子(1954。読売新聞選者)a短歌研究新人賞、b現代短歌大賞、現代歌人協会賞、若山牧水賞(宮崎県)現代短歌新人賞(さいたま市)

 ということは、各賞の性格や特色が薄れていることを示していよう。ダブル受賞やトリプル受賞も決して珍しくなくなってきた。選考委員が複数の賞を掛け持ちしていれば、そんなことも起こり得るだろうし、話題性のある、横並びの「無難なところでショウ」にもなりかねないのではないか。たとえば、2018年の佐藤モニカ『夏の領域』の現代歌人協会賞と日本歌人クラブ新人賞、三枝浩樹『時禱集』の迢空賞と若山牧水賞であり、2019年では、春日真木子『何の扉か』の現代短歌大賞と斎藤茂吉短歌賞、小島ゆかり『六六魚』の詩歌文学館賞と前川佐美雄賞などに見られる。受賞者にはかかわりないことなのだが。

 また、いわゆるa 型に属する、短歌研究新人賞の選考委員、栗木京子・米川千嘉子・加藤治郎・穂村弘の4人は2009年から務め、角川短歌賞の伊藤一彦・永田和宏・小池光・東直子は2017年から変わっておらず、歌壇賞の選考委員も若干の入れ替わりはあるものの2015年から東直子、水原紫苑、吉川宏志の3人が続けて務めている。歌壇賞は、一時女性の選考委員が多いこともあって、女性の応募者が男性の倍以上になった時代もあったが、現在はその差が縮まっりつつあるし、短歌研究新人賞は、1990年代後半から今世紀初頭にかけて、女性が50%台から上昇し始め、60%を超えたこともあったが、現在は、50%前後を推移しているという傾向も興味深い。たしかに、選考委員選びにおいても、受賞者選考にしても、その賞、雑誌の性格や特色を出そうとしていることはうかがわれないこともないのだが、結果的には、なかなか効を奏することがないのではないか。

 しかし、いずれにしても、こうした選考委員の重複、固定化は、a型の新人に対しては、委員受け狙いも生じようし、b型においては、どこか委員同士の互酬性のきらいも否定できない。さらに、選考委員になることにより、歌集が爆発的に売れるということはないにしても、講演会や短歌教室の講師のオファーは、確実に増えるのではないか。 
 また、上記に登場する斎藤茂吉短歌賞、若山牧水賞、前川佐美雄賞、佐藤佐太郎短歌賞など過去の著名歌人の名を冠した賞も数多いが、遺族や後継者との関係はどうなっているのだろうかとか、その歌人の業績にふさわしい選考がなされているのかなどという疑問もわいてくる。

 そんな中で、『短歌研究』が「塚本邦雄賞」(坂井修一、水原紫苑、穂村弘、北村薫)を、『現代短歌』は、雑誌自体のリニューアルとともに「ブックレビュー賞」(加藤英彦、内山晶太、江戸雪、染野太郎)を新設するという。後者の選考委員となる加藤英彦は「短歌月評・ふたつの賞の創設」(『毎日新聞』2019年11月25日)において、期待と意気込み語っている。前者の選考委員にも新鮮さがないし、後者の委員たちに若さはあるかもしれないが、その鑑賞眼と評者としての知見が問われるだろう。

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2019年11月27日 (水)

いったい、文化勲章って、だれが決めているのだろう~その見えにくい選考過程は、どこかと同じ?  

 「桜を見る会」は、時がたつにつれて、実態が明らかになってきた。国費を使い<功労者>顕彰を標榜する催事の実態が明白になった以上、即刻廃止すべきだろう。
「見る会」の招待者名簿は、慌ててシュレッダーにかけたなど、子供じみた回答をする官僚たちが情けない。ホテルでの前夜祭で、安倍事務所後援会が会費領収書をホテル名義で発行していたことなど、まず常識的では考えられない商行為、その裏の仕掛けがあるに違いない。次から次にと疑惑を増幅する事実が出てくるが、私たち国民が知り得ないことも知る立場にある野党やマス・メディアもこれまで追及できなかったのはなぜなのか。一方、相変わらず安倍政権を支持している国民が半分近くいるという世論調査結果も現実である。
 今回だけではない。森友・加計問題における公文書廃棄・改ざんでも、私たちは、同じような体験をしている。直近の大学入試共通テストの英語の民間試験導入、記述式問題導入も、業者が絡むその導入過程を示す文書が公開されない。教育ビジネス、受験ビジネスの黒い霧が晴れない。たださえストレスの多い受験生を困惑に陥れている。国民をなめているとしか言いようがないが、それに甘んじている多数の国民がいることも確かなのである。

 少し間が空いてしまったが、前の記事の続きでもある。この間、私は、文化庁と何回かのやり取りをしていた。といっても「文化功労者選考分科会の名簿は何を見たらわかるか、その名前を知りたい」という質問への対応に多くの疑念が残った。この単純な回答に2週間もかかったのである。この文化庁の対応にも、その情報管理において、国民との遮断、閉鎖性の一端を知ることになった。「シツコイ」といわれるかもしれないが~。

 まず、文化庁の代表番号に電話をかけた。内線番号がわかっている場合は、続けて番号を押せとの音声が流れた。知らないので、交換には、用件を伝えて、担当部署につなぐよう伝えると、
「それはできないので、<意見・問い合わせ>の窓口につなぎます」
 簡単なことなので、担当部署に回すように再度伝えると、
「それはできないことになっています。ここでは、担当の内線番号を共有していません」
 ちょっと信じられないことを言うのだが、ともかく、その窓口につないでもらうと
「しばらくお待ちください。順番におつなぎしてます」
 という音声が数十秒ごとに流れて、それだけもうんざりして、何分待たせるのだろうかと。電話を切らせる意図がありありと見える。ともかく待つこと5分近く、これだけでも忍耐のいることなのだ。ようやく担当窓口が出たので用件を伝えると、
「折り返し、電話で回答しますので、電話番号と名前をどうぞ」
たちどころに回答できる内容なので、担当部署に回すように再度伝えても、
「それはできないことになっています」
と、繰り返すばかりなので、ともかく、折り返しの電話を待つことにした。数時間しても電話はないのでないので、もう一度代表番号からかけなおすと、また5分以上待たされて<窓口>がでたので、回答はまだかと尋ねると
「まだ回答は届いていません。担当者にも業務の手順?があるので、しばらくお待ちください」
 翌日も、電話をするが、まったく同様の返事なので、こんな簡単な質問にどうして時間がかかるのかといえば、催促しますとのこと。それでも、数日間、半分は忘れかけていたが、どうしても確認しておきたい内容だったので、2度目の電話の1週間後、再度電話してみると、
「まだ回答がありません・・・。ちょっと待ってください。確認してみます」
といって、しばらく待たされた後、
「申し訳ありません。回答が来ていました。ただいまから選考委員の名前を読み上げます」
いったい、回答はいつ届いていたのか、と問えば、
「2度目の電話をもらった、そのあとに回答は届いていたようです。申し訳ありません。ただいまから、名前を読み上げます。12人です」
ちょっと待ってください。回答が来てから1週間も放置していたのですね、12人の名前って、読み上げは不正確ですから、ファックスして下さい、といえば、
「申し訳ありません、ファックスはできないことになっています」
ほかの役所では情報提供ということで、ファックスしてもらったことがありますよ、とこれまでの経験を話せば、ほかは知らないがここではできないことになっているとの繰り返しであった。結局「文化功労者選考分科会」の委員の名前と肩書をメモしたのだが、以下の通りである。

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岩崎千鶴(萩原):お茶の水大学名誉教授
岩谷徹:東京工芸大学芸術学科教授・日本デジタルゲーム学会
笠原ゆう子:俳人
笹本純:筑波大学名誉教授
田中明彦:政策研究大学院学長
都倉俊一:作曲家、日本音楽著作権協会
富山省吾:神奈川映像学園理事長、日本アカデミー協会事務局長、映画プロヂューサー
坂東久美子:日本司法支援センター理事長、元文部科学省審議官
丸茂美恵子:日本大学芸術学部教授、舞踊家
村瀬洋:名古屋大学院情報学研究科長
山本一彦:理化学研究所生命医科学研究センター副センター長
渡邊淳子:東北大学院生命科学研究所教授

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 上記委員の発令は2019年9月2日とのこと。肩書のメモはやや不正確かもしれないが、『官報』で確かめてほしい。ただし『官報』は30日間はネットで無料で閲覧できるがそのあとは有料なので、紙の『官報』で確かめるかいずれかとなる。最初の質問で、何を見ればその名簿が出てくるのかを尋ねているのに、その回答がないので、文化庁のホームページのどこに出ているのか、出ていなければ何を見ればわかるのか、の回答を再び待つことにした。そして、1週間待てど回答はないので、今度は、他の検索でわかった文科省の大臣官房人事課栄典班という部署を知ったので、内線にかけてみた。名簿は何を見れば知ることができるのか、ホームページに載せていないのかを尋ねると
「9月2日の発令ですから9月3日の官報に掲載されています。ホームページには載せていません。ほかの文化審議会の委員と違って、会合は1回しか開催されないので、ホームページには載せないことになっています。1回きりなので、いつまでもホームページに名前を載せるのはどうも・・・」

 ことほど左様に、市民が国の情報を得るのには、いくつものバリアがあり、その困難さは半端ではない。情報社会といわれる中で、必要な情報の獲得がいかに難しいかは、これまでも当記事で、何回か伝えてきた。私が住む佐倉市でも、その情報公開制度の在り方を少しでも改善したいと思い、かつて、市の情報審議会に市民応募枠で、委員を2年間務めたことがある。専門的知見も怪しげな委員が何期も務め続けて居座り、いわば市の承認機関に成り下がっていた。もちろん私は再任されることはなかったのである。

 ところで、本題の文化勲章は、文化功労者の中から選ばれる。その文化功労者選考分科会は、なんと、年に1回しか開催されていない。ということは、一つ前の記事でも記したように、文部科学大臣から推薦された者について分科会の意見を聞き、内閣府賞勲局で審査を行い、閣議に諮り決定するのである。

 文科大臣というけれど、大臣官房人事課が用意した候補者名簿を承認するだけの分科会であることがわかる。多分野の以下の21人に対して、意見も言いようのない委員たちであろう。選考委員など何のチェック機関にもなり得ないのが実態であろう。候補者名簿がどのように作成されるのかは明らかではない。さまざまなルートを使って、官僚が選出することになるわけだが、そこに、さまざまな団体での活動や政府への貢献度が一つの目安となり、各団体の長や政治家の恣意性が入り込む余地が少なくないのは、他の褒賞制度や「桜を見る会」とも共通するではないか。にもかかわらず、文化勲章、文化功労者の受章者たちを、この上もない栄誉として追いかけるメディ
ア、その選考過程にも目を向けるべきであろう。文化勲章は親授式で天皇から直接手渡される勲章でもある。その本人たちには、350万円の終身年金も保証されるが、ほんとうに必要な人たちなのだろうか。

 「文化」を育て、継承していく方向性に間違いはないのか。

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<2019年文化功労者>

石井幹子(照明デザイン)猪木武徳(労働経済学、政治思想史)宇多喜代子(俳句)大林宣彦(映画)金出武雄(ロボット工学)興膳宏(中国古典文学)小林芳規(日本語学)近藤孝男(時間生物学)笹川陽平(社会貢献・国際交流・文化振興)佐々木卓治(作物ゲノム学)佐藤忠男(映画評論)田渕俊夫(日本画)萩尾望都(漫画)馬場あき子(短歌)坂東玉三郎(歌舞伎)藤原進一郎(障害者スポーツ振興)宮城能鳳(組踊)宮本茂(ゲーム)柳沢正史(分子薬理学)吉野彰(電気化学)渡辺美佐(文化振興)

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2019年11月12日 (火)

「桜を見る会」と「勲章」も同じ構図では

 今年の文化功労者の中に、歌人の馬場あき子の名があったし、秋の叙勲では永田和宏が歌人として瑞宝中綬章を受章していた。<注1>上に「文化」が付こうと「芸術」が付こうが国が取り仕切る栄典制度の一環である。拙著でも何度か触れていることだが、「シツコイ」といわれても、大事なことなので繰り返しておきたい。

 この度、「桜を見る会」が国会で問題になっているが、日本の現行の栄典制度には、同様の曖昧さと疑念が残る構図になっていることがわかる。要は、各行政省庁に自治体やさまざまな関係団体から上がってきた名簿を内閣府や文化庁、官邸などが最終的に調整する仕組みである。「桜を見る会」と一緒にしてもらっては困るという人は多いかもしれない。「桜を見る会」の招待者が決まる過程が徐々に明らかになればなるほど、そのあけすけな露骨さが問題にならなかったことの方が不思議でもある。大方のメディアは、宮内庁が取り仕切る園遊会にしても、一種の風物詩のような扱いで、主催者と人気者のツーショットを映像やコメントで報じる程度である。それというのも、首相は、報道関係者や「文化人」、タレント、スポーツ選手らとさかんに懇談や会食に勤しむことによって、牽制、懐柔を重ねてきた結果だろう。

 ところで、日本の栄典制度は、大きく分けて、春秋叙勲・文化勲章・褒章がある。 生存者叙勲授与は、1946年閣議決定より一時停止されたが池田勇人内閣の1963年「閣議決定」により翌年から再開、現在は毎年4月29日、11月3日に春秋叙勲として実施されている。 候補者は、栄典に関する有識者の意見を聴取した上、「要綱」や「基準」なるものに基づき、各省各庁の長から推薦された候補者につき、内閣府賞勲局が審査、閣議に諮り、決定される。ここでの「栄典に関する有識者」の会議とは、会社社長や大学教員らが召集され、一年に一度か二度開かれる。その議事要録を見ても、民間人や女性を増やせ、地方やNPOの活動にも目を向けるべきとか、井戸端会議的な意見が記録されているに過ぎなく、形式的なもので、実質的には、役人が選出する受章者なのである。

 その上、1964年から復活した生存者叙勲制度の根拠は「閣議決定」だけであって、法律的な根拠がなく、「要綱」のみで運用しているに過ぎない。敗戦後1948年来、幾度も「栄典法案」なるものが国会に提出されながら、反対意見は根強く、廃案が続く中、「閣議決定」という強引な方法により実施されることになった経緯があった。法律に基づかない制度として、当時は、憲法違反という研究者の声も大きかった。日本国憲法7条7号天皇国事行為の一つとして定める「栄典を授与すること」のみを根拠とし、法律ではない、政令(太政官布告、勅令)・内閣府令(太政官達、閣令)・内閣告示などに基づくという、明治の遺物のような制度なのである。

 文化勲章についても同様で、1937年文化勲章令(勅令)に基づくもので、1951年「文化功労者年金法」は、「文化勲章」への通過点である「文化功労者」の年金について定めているにすぎない。その年金は、現在は350万円だが、憲法14条「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない」に抵触しないかの疑念は払拭できない。その選出方法も文化庁「文化審議会」の中の「文化功労者選考分科会」委員の意見を聞いて文部科学大臣から推薦された者について内閣府賞勲局で審査を行い、閣議に諮り、決定されるのだが、その委員の名簿も公開されていないようだ。最近はノーベル賞の後追いのようなケースも目立ち、内閣はもちろんだが、かかわる役人たちの推薦、審査の評価の基準が曖昧な上に、評価のできる人材もいないという証拠だろう。

 こうした勲章を「名誉」として、嬉々としてもらう人たちがなんと多いことだろう。政治家や官僚、実業家たちはいわば仲間内の事情での授受であり、芸能人、スポーツ選手たちなど「人気商売」ならいざ知らず、多くの理系・文系の研究者や文芸にかかわる人たちまでが、はしゃいでいる姿、ほめそやすメディアを見るのは、この国の民度を思い知らされるようだ。

 文芸に関しては、国家的な褒賞制度として「日本芸術院会員」制度、<注2>「芸術選奨」制度もある。これについても何度か書いていることだが、前者については、分野ごとに定員制が採られ、会員の選考基準は政令「日本芸術院令」により、部会ごとの候補者を部員の過半数をもって推薦し、総会の承認を経て、文科大臣が任命する。芸術院賞の選考基準・手続きについての法令はなく、各部会に対して推薦を求め、全会員による選考で絞り、各部会の過半数で内定するのが慣習となっているようである。ということは、新しい会員や賞を決める過程で、関係分野の会員が直接関与できるという内向きな制度で、その恣意性は免れないであろう。「芸術選奨」については、かつて、私が作成した「芸術選奨(短歌関係)選考審査員・推薦委員・受章者の一覧」(『天皇の短歌は何を語るのか』82頁)を、あらためて眺めてみると、受賞者が選考審査員や推薦委員がなり、数年づつ続き、選考審査員と同じ結社の歌人が受賞者となるケースも何回か見られる。歌人に関しては、これらの加え「歌会始選者」という「ステイタス」もある。

 世間では、というよりはマス・メデイアでは、これらの栄典、褒賞制度における受章者や受賞者にライトをあて、その権威や栄誉を強調するけれども、その選考過程に目を向けることはない。しかし、こうした栄典・褒賞制度の閉鎖性や公平性、さらには、政権や天皇制との直接的な関係にこそ、焦点があてられるべきではないか。

<注1>褒賞履歴

馬場あき子(1928~):1993年紫綬褒章、2001年日本芸術院賞、2003年日本芸術院会員、2019年文化功労者

永田和宏(1947~):2004年芸術選奨文科大臣賞、歌会始選者、2007~9年芸術選奨推薦委員、2009年紫綬褒章、2015~17年芸術選奨選考委員、2019年瑞宝中綬章

<注2>「文芸」部門の現在員27名中の9人が「詩歌」関係で、歌人の会員は、岡野弘彦、馬場あき子、佐佐木幸綱、岡井隆の4人である

<参考>褒賞制度概要一覧~選考過程と根拠法令

ダウンロード - hosyousennkousosiki.pdf

 

昨年の4月にも怒っています!!

2018年4月27日 (金)

「桜を見る会」・「春の園遊会」と「歌会始」~そこに共通するのは

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/04/post-7492.html
(しばらくの間、このURLが間違えていました。訂正しお詫びします)

 

 

 

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2016年5月17日 (火)

「平和の俳句・老陛下平和を願い幾旅路」(『東京新聞』2016年4月29日)

 
 やや旧聞に属するが、連休中の新聞は、旅行中だったり、帰宅後高熱に見舞われたりして、しばらく読めなかった。まとめて読んでいて驚いたのである。
 冒頭の俳句は、東京新聞が昨年から戦後70年を記念して広く募集している「平和の俳句」企画の一環で、昭和の日に発表されたものだった。作者は74歳とある。いとうせいこうと金子兜太が選句、毎日、一面に一句づつ連載されている。ときどき、編集部員の選句などの特集をやっていて、興味深く読んでいた。ところが、この日の金子兜太の選評に驚いた。「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。」とあったのだ。

  
 しかしである。この句を選び、上記のような選評を寄せた金子兜太(1919~)といえば、直近では「アベ政治を許さない」とのプラカードを揮毫した俳人である。この違和感は何だろうか。もっとも、少し、さかのぼれば、日本銀行を定年まで勤め、句作に励み、俳句関係の賞を総なめにし、1988年紫綬褒章、1996年勲四等旭日章、2003年日本芸術院賞、2008年文化功労者を受章、残すは文化勲章くらいと思われる”順調な“コースを歩んできた俳人と言えよう。さらにさかのぼれば、1941年から『寒雷』に投句、加藤楸邨に師事、敗戦後、文芸上の「社会性」が問われると「社会性は態度の問題である。―社会性があるという場合、自分を社会的関連のなかで考え、解決しようという『社会的な姿勢』が意識的にとられている態度を指している」(「俳句と社会性」『風』1954年11月)と表明、方法を模索、前衛俳句の旗手として活躍」(松井利彦編『俳句辞典近代』桜楓社1977年11月126頁)した俳人だった。「俳句造型論」を掲げ、社会性俳句を経て、更に難解性を増し、主体の尊重から季語を持たない一行詩の性格を強めたが、その後は伝統への回帰を志向していると、その辞典にはあった。1962年『海程』を創刊、後代表となり、1987年からは「朝日俳壇」の選者を務め、今日に至っている。俳人だった父を持つ出自といい、歌壇でいえば岡井隆のコースにも似ているな、と思った。さらにさかのぼれば、1943年、東京帝大経済学部を繰り上げ卒業して、日本銀行に入り、海軍経理学校を経て海軍主計中尉として、トラック島に着任、飢えのため多くの部下を失って、捕虜となり復員・復職している。戦地を去る日を「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置いて去る」と詠んでいる。過酷な戦地体験が、後の句作に大きな影響をえていると、本人もいろいろなところで述べている。

    金子兜太に限らず、近年の天皇夫妻の被災地訪問や戦没や慰霊の旅や「おことば」についてメディアで発言するとき、突然、最高級の敬語を使ったり、その「平和を願う」内容を称揚したり、その労をねぎらう「識者」や「文化人」が増えてきている。「歌会始」の傘のもとにある歌壇人はじめ、保守政治家・論者・政治団体ならいざ知らず、リベラルや民主主義を標榜している人々の中にも、目立つようになった(文・矢部宏治、写真・須田慎太郎『戦争をしない国―明仁天皇メッセージ』 小学館2015年7月など)。また、これまでの「党是」により出席を拒んできた日本共産党が天皇の出席する国会開会式に出席し、歌会始の選者を赤旗歌壇の選者に据えるなど、天皇への傾斜や親密性をあらわに表明してはばからない。その理由が実に粗雑極まりないのである(「ことしのクリスマス・イブは(2)(3)~なんといっても、サプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった!(その1・2)」2015年12月28日。「ことしのクリスマス・イブは(4)~歌会始選者の今野寿美が赤旗「歌壇」選者に」2015年12月29日参照。http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/index.html   )。

  憲法上の「象徴天皇制」のもとですら、その法的根拠が曖昧な天皇や皇族の行為をこのまま見過ごしてしまってよいのかとも思う。いまの政治が余りにも反動的だからと言って、「天皇」にすがるような、寄りかかるような言動は、慎まなければならない(「戦後70年 二つの言説は何を語るのか」 2016年1月11日http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/01/70-6a1c.html)。
天皇夫妻は、今月の19日にも日帰りで熊本の被災地を訪問する予定という。被災住民の住居確保、瓦礫処理がすすまないところも多く、天皇夫妻を迎える準備や警備についても十分想像ができるなか、いつも思うのは、マス・メディアは好んで、訪問先の人々の感謝の言葉や前向きな声を拾おうとするけれど、具体的にはどんな成果が期待できるのだろうか。
 結論から言えば、現政府の対応のまずさや遅れを、精神的に少しでも補完し、緩和する役目しか果たしていないような気がしてならない。天皇夫妻の、その個人的な誠意とは別に、結果的に現政府を利するという政治目的のために利用されてはいないのか。そうした懸念を拭い去れないでいる。皇室、天皇への傾斜や親密性の拠って来るところは何なのか、日本にとっても、私にとっても大きな課題である。
 

    「日の丸・君が代」裁判の教師たちの弁護人の一人である澤藤統一郎弁護士のブログで、いち早く、くだんの「平和の俳句」に触れている記事を後から知った。あわせて、お読みいただければと思う (「昭和の日」の紙面に、「いま読む日本国憲法」と「天皇ご夫妻に頭が下がる」の記事「澤藤統一郎の憲法日記」2016年4月29日http://article9.jp/wordpress/?p=6807 )。

 

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2016年 4月29日『東京新聞』一面

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