2020年5月 1日 (金)

18年前の旅日記~スイスからウイーンへ(3)

20021122日~世界遺産の街、ベルンへ
 あと一日となったジュネーブ、お天気が定かでないので、丸一日かかるモンブラン観光
よりベルンまでの遠出を勧められていた。夫は市内観光をほとんどしてないわけだが、レマン湖畔、鉄道の旅もよいのではということで、スイス国鉄SSBのIC(インターシティ)一等車に乗る。車窓に雨滴が流れるほどの雨であったが、少しずつ明るくなって、湖面越し見える、雪渓をいただいたやまなみが目に沁みる。 鉄路が何本となく広がり、ローザンヌ駅に近づく。列車は湖面よりだいぶ高いところを走る。湖面までの斜面に広がるローザンヌの町、列車がカーブを切る度に、湖岸線や街の展望ががらりと変わる。思わず席をたって車窓からの眺めに釘づけになる。ローザンヌからはモントルーに向かう線とは分かれ、列車はレマン湖を離れ、北上する。雪渓の山々が迫ってくるようだ。

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 ベルンの旧市街は、アーレ川の蛇行に囲まれている

   ジュネーブから1時間45分、ベルンはスイスの首都ながら、人口13万、4番目の都市で、街全体が世界遺産に登録されているそうだ。地図を見れば、旧市街は、大きく蛇行したアーレ川に三方囲まれている。駅にも近い、官庁街、裁判所、郵便局、警察署と並んでいるベルン美術館にまず入る。ベルン近郊で生まれたパウル・クレーのコレクションが有名だが、常設だけでもかなりの部屋数である。彼の抽象にいたる過程が興味深かった。ピカソ、ブラック、カンジンスキーら同時代のキュービスムとも若干異なるその「やさしさ」が私には魅力的だったのだ。ジュネーブでその名を知ったベルン生まれのホドラーの作品も多い。印象派の作品も少数ながら捨てがたく、入館者も稀で、のんびりした時間に身を置いていると、異国にいることを忘れてしまうほどだ。

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車窓からのアルプスの山並み、そのままに、ジュネーブからの乗車券にはアルプスの絵が描かれていた。左、旧市街の時計塔が見える

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雨上がりのベルン市立美術館正面とパウルクレーコレクションから

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パウルクレー、1932年の作品、私が訪ねた2002年当時のベルン市立美術館の案内パンフの表紙になっていた。2005年、ベルン郊外にパウルクレーセンターが開館、クレーコレクションは、そちらに移された。立派な斬新な建物らしいが、クレーファンにとって、その展示には不満があるらしい

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ベルン生まれのホドラー(1853~1918)の作品も多い。「オイリュトミー」(1895年)、彼の表現の特徴でもある「パラレリズム(平行主義)による作品で、こうした構図の作品は多く、一昨年2018年ミュンヘンのノイエビテナコークで見た「生に疲れる人々」(1892年)を思い出した

  メインストリートには、いろいろな由来のある像をあしらった噴水が立ち、牢獄塔を正面に右手に入ると連邦議会議事堂が長々と続く。裏手に回るとアーレ川が川幅を広くしてゆったりと流れる。雨上がりの寒さもさることながら、また昼食が心配な時間となる。お目当ての「コルンハウスケラー」は、地下の穀物倉庫をレストランに改造したというが、階段を下りて開けたドアの先の、その広さに驚く。最初は穴倉に入った感じだったが、かまぼこ型の天井には、みごとな絵が淡い灯りに映し出されている。中央の長いテーブルも、夜には賑わうのかもしれないが、今は壁際のテーブルに何組かが散らばっている程度だ。周辺の雰囲気はワインだが、ビールにとどめ、ビュッフェ式の料理とベルンの家庭料理といわれている、ベルナー・プラッテ(野菜とソーセージ、ベーコンを煮込んだポトフ風の料理)を頼んでみる。テーブルの鍋に火をつけてくれる、この煮込み料理は、冷え切った体には最適だった。ジャガイモもソーセージもよかったが、たっぷりと盛られた干しインゲンも残さずいただく。街では、小物や民芸品、チョコレートやケーキがいっぱいのショウ・ウインドウに目移りがし、もう少しゆっくりできたらな、という思いが募る。
  そんな商店街の真中に、アインシュタインが下宿していた家があったりする。 アインシュタインといえば、物理学者で歌人の石原純が、日本への紹介者として有名である。その石原純は、留学中、1913年、チューリヒ工科大学でアインシュタインの指導を受け、「名に慕へる相対論の創始者に、/われいま見(まみ)ゆる。/こころうれしみ。」(『靉日』1922年)と詠んでいる。
  歩道からいちだんと低い、半地下のようなところから、車道に向かって斜めに入り口が開いている、こんなお店が続くのも珍しい。老舗という「チレン」では、チョコレートの詰め合わせと自家用にも小袋をいくつか買ってみる。

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  すぐにたどりつけると思った駅にぶつからず、予定の列車の発車時刻も近い。通行人から教えてもらい、歩道から直接ホームに通じる階段を二人は夢中で駆け下りた。そんな風に駆け込み乗車をしたものの、十数分走ったところで、列車は止まってしまったのだ。時折、車内放送が流れるのだが、まずドイツ語で、つぎにフランス語でというわけで、さっぱり分からない。ジュネーブ空港行き列車だというのに、周辺の乗客はみな慌てず、本を読んだり、パソコンに向かったりしている。三〇分ほどしてようやく動き出して、最初に停車したのがフリブールという駅だった。日没近くになって空は晴れ、車窓からの雪渓やローザンヌの展望も行きにもましてすばらしいものとなった。
  そして、今晩の食事は、駐在員の二人のお勧めでもあった、もう一軒の和食の店にゆく。コルナバン駅のすぐ近く、小料理やふうの店で、ご夫婦でのもてなしに心も和んだジュネーブ最後の夜となった。

  突然ながら、1924 年、斎藤茂吉はパリからヨーロッパの旅に出て、スイスのベルンにも立ち寄っている。齊藤茂吉「ベルン、九月廿八日」(『遍歴』)においてつぎのように詠んでいた。

・ベルンなる小公園にあららぎの実を啄みに来ることりあり(一九二四)

・この町に一夜やどりてHodler(ホドラー)とSegantini(セガンチニー)をこもごも見たり

 

20021123日~ジュネーブ空港で呼び出し放送をされて
 朝は、ジュネーブのホテル前のローヌ川を渡ってすぐのデパート、8時には開店というグローブスに向かう。夫は、きのう目星をつけておいたスイスワインの別送を頼むと、三、四週間はかかりますよ、とのことであった。戻ったモンブラン通りではクリスマス・ツリーなどを積んだトラックが幾台も入り、大掛かりな飾り付けが始まっていた。ウイーン行きの便は10時55分発、空港には少し早めに着いた。免税店で、いま愛用しているスイス製の水溶性クレヨン10色がだいぶ減って来たので、15色を見つけて買えたのが何よりのお土産になりそうだ。丸善ではだいぶ高いはずだ。さらに民芸品などを見ていると、夫は、いま呼ばれなかったか、という。呼び出し放送で、自分の名前が呼ばれたというのである。時計を見れば、離陸まで17、8分しかない。慌ててゲイトへと急ぐが、この通路が長い。動く歩道を走るようにして、駆け込みで搭乗すると、離陸の5分前で、冷たい視線を向けられたような気がした。席を探すにも、天井に頭を何回かぶつける小型機だし、ステュワーデスの制服も、あの真紅のオーストリア航空のものではない。一瞬間違ったかと思ったが、オーストリア航空グループのチロリアン航空だったのだ。大型機が安心というわけではないが、七〇人乗りぐらいだろうか。しばらくレマン湖上空を飛んでいたが、山岳地帯に入ると、その壮大な雪景色は初めて経験するものだった。画面での高度表示もないのだが、かなり低いのではないか。山間の集落、白い川の流れ、点在する小さな湖、どこまでも続く雪の山脈。ウイーンまでの一時間余、飽きることがなかった。 

  • あまそそるアルプスの峰に入り日さし白雲のくづれおもむろにくだる(一九二三)                       大塚金之助『アララギ』一九二三年三月

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最近は、あまりスケッチもしなくなってしまったが、それでも、よく使う緑や黒、茶色は短くなっているし、折れている色もある

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2020年4月30日 (木)

18年前の旅日記~スイスからウィーンへ(1)

 もう整理のつかないCDの山から、乱雑なメモを頼りに昔の原稿を探していたところ、思いがけず、かつて、短歌の同人誌に載せてもらっていた旅行記をみつけた(『風景』106・107号 2004年9月・11月)。拙ブログを始める前のことである。私にとっては、まだ、海外旅行を始めてまもないころの文章であり、なにぶんにも冗長で、ひとり昂ぶっている感、満載なのだが、ともかく、このブログにも記録として残しておきたい衝動にかられた。ところが写真のCDが見つからないので、アルバムからスキャンしたものであるが、これはというものを撮ってないこともわかった。拙文とともにお目障りを承知しながら。

20021119日~レマン湖畔のホテルへ
 今回の旅は、あまりにも唐突であった。ベルギー・フランスの旅から帰って、3週間も経っていないある日、夫は、「ジュネーブの国際会議に参加するけど、一緒に行かないか」という。私は、前回の海外旅行の疲れがようやく抜けたばかりだったし、犬二匹の世話もある。留守番を決め込んでいたが、会議の後はウイーンに回ってもいい、との一言に決心したのだった。昨秋訪れたウイーンには機会があれば、もう一度訪ねたいと思っていたからだ。
 出発まであと3週間しかない。夫は総務省関係の仕事や原稿の締め切りを控え、私は自治会関係の厄介な問題を抱えていたし、自分の仕事もあった。夫はともかくホテルと飛行機をおさえ、ウイーンのコンサートを予約したという。私も、図書館や書店を回って本を探したり、東京芸大の美術館で開催中だった「ウイーン美術史美術館展」へも出かけたりした。

 結局、成田を発つ前の晩は、夫も私も3時間ぐらいしか眠っていなかったので、機内では、私は眠り込んでしまったが、夫は英語での報告ということもあって、その準備で、眠れなかったらしい。ジュネーブへの直行便がないので、フランクフルトの空港で1時間余過ごしたが、あまりにも閑散としているので気味が悪いくらいだった。夕刻の4時半というのに、あたりは真っ暗。月が出ているので、天気が悪いというわけではないらしい。ジュネーブまでもう一時間、空港からは、もう夜だし、ホテルまでタクシーにしようと決めていたが、国際会議担当の駐在員の二人が迎えに来てくれていた。お二人ともジュネーブ着任1年半、三十歳過ぎたばかりの国家公務員である。外交特権があるので空港内まで入れるのだそうだ。疲れている私たちにはありがたいことだった。ベンツに乗って夜のジュネーブの街へと走る。7時過ぎにホテルに着いたが、夫は、出迎えの二人と明日からの会議の打合せでロビーへと降りてゆく。ブリストル・ホテルはレマン湖畔に建っているはずだが、窓の下は、木立やベンチが街灯に映し出されている、静かな中庭、いやモンブラン広場だった。一人になると、慌てて家を出たとき、冷ましておいた犬のえさのタッパーを冷蔵庫にしまい忘れたことを思い出す。週末に帰省する娘の手間を省こうとしたのに、また文句のひとつも言われそうだ。
 打ち合せが済んだ夫とモンブラン通りからシャントブレ通りに入った和食の店を目指す。初日から和食とはだらしない話、五組ほどの客で賑わってはいるものの、古普請だからか階段や床が改装中みたいに埃っぽくも思え、早くひと風呂浴びたいの一心でホテルに戻る。

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ホテルの部屋から中庭にもなっているモンブラン広場、紅葉が見事だった

 

20021120日~美術歴史博物館の開館を待ちながら
 9時半から会議のある夫なので、早めに朝食をと思って、早起きをしたつもりだったが、7時を過ぎている。でも、窓の外は暗く、白みかけたのは、私たちが朝食のため部屋を出た8時近くだった。食後、向かいのモンブラン橋を渡って、イギリス公園まで出かけてみる。帰りはローヌ川の中ノ島になっているルソー島に寄って戻るという寒い朝の散歩であった。国連ヨーロッパ本部近くの会場に向かう夫を見送り、さあ、私一人の自由時間、昨日の駐在員の二人には市内の観光バスはいかがですかと勧められたが、それは午後から一便しかない。ジュネーブの観光シーズンは、10月でほとんどが終る。レマン湖めぐりの観光船も、あの有名なジェット噴水も夏だけの風物らしい。通年では、丸一日かかるモンブラン観光が唯一らしい。私は再び橋を渡り、イギリス公園の花時計の前を過ぎ、まずは旧市街へと急ぐ。たいした距離はなく、10時開館という美術歴史博物館には九時半に着いてしまう。  

 高台にある博物館だが、前の公園(オブセルバトワール公園)からリブ広場、レマン湖への道が一望できる。スケッチの一枚でも描いて置こうとベンチにすわる。じっとしているとかなり寒い。公園では、犬を遊ばせる人たちが集まってきた。なんと犬の糞を始末する小さいビニール袋が自由に引き出せる箱が設置されている。その下には専用のゴミ箱が置いてある。犬専用のゴミ箱はロンドンの公園でも見かけたことがあったが、袋まで用意してあるとは。公園の周囲は立体交差となっていて、すぐ左手には、紅い蔦が絡まるカレッジがあり、裁判所がある。荒いスケッチが出来上がり、体もかなり冷え切った頃、博物館はようやく開いた。入場してすぐ左手の古武器室では、講座が開かれているらしく、すでに20人近くの市民が話を聞いていた。二階に上がって、いきなり、モネ、シスレー、セザンヌ、ピサロ、クールベ、ルノアールなどが並ぶ一室がある。絵についてのキャプションは何一つない。ただ、壁に絵が並べてあるだけなのだ。画風でだいたいの見当はつくものの、絵の中のサインや額縁の記述を読んで確かめるしかない。入館は無料だし、実にラフな展示に驚きもしたが、これが本来の美術鑑賞なのかもしれないと妙に納得してしまう。どの部屋でも入館者に出会うのは稀で、実にゆったりと絵に向き合えるのがありがたかった。 

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ジュネーブ美術歴史博物館の案内のリーフレットがなかなかおしゃれであった

 12、3点はあろうかと思われるコロー・コレクションの部屋では、ここも講習会の準備なのだろうか、コローの一点をイーゼルに立てかけ、囲むように椅子が並べられてゆく。職員の出入りが多いなか、つぎの部屋へと急ぐ。ジュネーブゆかりの画家、フェルディナント・ホドラーのユングフラウを描いた作品、何枚かの青衣女性立像などが印象に残る。そういえば市内にはホドラーのフルネームが付けられた通りがあったはずだ。*注

 すでに12時近いが、近くのプチ・パレ美術館にまわってみたところ、ドアは閉まっていたので、ジュネーブ大学まで足をのばす。ルソー記念館があるはずなのだが、ここも昼休みなのだろうか。大学前の公園(バスティヨン公園)には壮大な100メートルにも及ぶ宗教改革記念碑が広がる。世界史では「カルヴィン派」と習ったが、「カルバン」生誕四〇〇年記念のこの碑の前のベンチで、私は、昨日のフランクフルトからの機内では食べられなかったサンドイッチとミネラル・ウォターという、みすぼらしい昼食となった。記念碑の裏側の広い道(クロワ・ルージュ通り)の後方が旧市街地のはずである。公園の端に、数面ある路上チェスでは、まさに多国籍の人たちがせわしく大きなコマを動かしている。

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上が「宗教改革記念碑」、下が広場のチェスに興じる人たちである

 トレイユ通りという坂を上がりきると、そこは見晴しのいい公園になっていて、世界一長いという木製のベンチがひたすら続く。石畳の路地に入ると、すぐに旧武器庫に突き当たり、その向かいが市役所である。ルソーの生家があるという通りを歩いてみるが、見つからなかった。そのうち、サン・ピエール寺院にぶつかるが、どこが入り口かわからないまま、一段と低い公園に紛れ込み、そのまま回り続けると、狭い広場に出る。メリーゴーランドがしつらえられ、テントの土産ものやが2、3軒並んでいる。人影はまばらで、なんとなくうらぶれた風情を横目に通り過ぎて、にぎやかなリブ通りに出たが、少し戻ったところのカフェで一休み。街は、すでにクリスマス気分で、ローヌ通りのブランド店のショーウィンドウもその飾り付けにさまざまな工夫が凝らされ、見て回るのは楽しい。しかし、見知らぬ街の一人歩きに疲れたのだろうか。早いがひとまずホテル戻ってみる。

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左が、サン・ピエール大聖堂。右、博物館の正面から大聖堂の尖塔が見える

  夫が帰るまでは、まだだいぶ時間がある。少し元気を取り戻して、再び街に出る。最寄りの鉄道ターミナル、コルナバンまでたいした距離ではないはずだ。ホテルの近くにはイギリス教会の石壁が柵も何もないまま、道行く人々の影を映している。その後ろが、バスターミナルになっている。モンブラン通りを進んでみる。この地の土産といえば、チョコレート、チーズ、時計、ナイフ、オルゴール、刺繍製品などらしい。急いで歩いたら5、6分の駅界隈は、さすがに人出も多い。雑多なビルが並ぶ駅前にはノートルダム教会がひっそりと建っている。
 夕食は、民族音楽の生演奏もあるという「エーデルワイス」というホテル内の店に決めていた。湖岸通りから入るのだが、一歩路地に入ると人通りがなく、二人連れでもなんとなく物騒な雰囲気が気になった。駐在員の一人Tさんが「ジュネーブの物価は高いが、治安はいい」と言っていたので、地図を頼りに進む。あちこちで工事現場に突き当たってしまって実にわかりにくかったが、ようやくたどり着いた店では、若くはない二人のミュージシャンが山岳地帯の民族楽器を使っての歌や演奏が始まっていた。夫は、明日の会議が控えていることもあり、ビールだけにとどめ、ワインは、明日の夜までお預けとする。明日の夕食は、Tさんたち二人と会食することにもなっていたからだ。

*注 すでに記憶が薄れていいるが、つぎのような作品だったろうと思う。

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上「無限のまなざし」1913~15年、下「恍惚とした女」1911年

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「白鳥のいるレマン湖からみたモンブラン」1918年、最晩年の作で、ガイドブックの表紙にもなっていた

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2020年4月29日 (水)

18年前の旅日記~スイスからウィーンへ(2)

20021121日~ナシオンから歩けば迷子になって
 夫が参加している会議の会場は、国連ヨーロッパ本部の近くでもあるので、朝は車に同乗し、報告をする夫には「がんばってね」とITUビルの前で別れる。国連の周囲は、何重もの移動用の鉄柵で囲まれているのが目立つ。正門からのぞくと、びっしりと加盟国国旗のポールが並ぶ。夫は昨日の昼休みに、中まで案内してもらったそうだ。観光客用の一時間ツアーもあるらしいが、先を急ぐことにする。振り返ると前の広場の巨大な椅子が目を引く。よく見ると、四本足の一本が途中で折られたというか、壊れたというか、そんな異様な姿で立っている椅子である。これは後からの話だが、あの椅子は戦争によって負傷した者を象徴しているといい、平和へのメッセージが込められているそうだ。が、それだけの説得力があるかどうかは、現在の国連のあり方にもかかっていよう。国連の建物はパレ・デ・ナシオンと呼ばれ、広いアリアナ公園に接している。

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正面が国際連合ヨーロッパ本部(パレ・デ・ナシオン)、加盟国の旗が林立する

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あまりうまく撮れていないが、中央の車の上に見えるのが、一本足を失った巨大な「壊れたイス」

  アリアナ公園に入ると、人影はほとんどなく、黄葉を樹下一面に敷き詰めている大木がまず目に入る。珍しく赤く紅葉している巨樹にも出会う。その木の間に現れたのが、ドームを持ち、外壁に朱鷺色のレリーフをめぐらしている瀟洒な建物、アリアナ美術館である。開館一〇時までには時間がある。ここにはベンチもないが、スケッチをはじめる。時折、目前の柳の枝は揺れ、昨夜の雨滴を振り落とし、今朝の冷え込みが一段と身に沁みる。がまんも限界かと思われた頃、開館と同時に入館する。見上げた吹き抜けの天井の豪華さと回廊に目を見張る。ドイツのマイセン、フランスのセーブルくらいは分かるのだが、中国、朝鮮をはじめ日本の伊万里、柿右衛門、スイスのニヨンなど世界各地の陶磁器が時代順に展示されている。知識のない者でも、その量と種類の多さに圧倒されるのだった。

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アリアナ美術館のうち・そと

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こんなものも出てきたので。アリアナ美術館の開館を待っている間、寒い中でのスケッチ?小学生並みのといっては、小学生に叱られるかも・・・

 せっかくジュネーブを訪ねたのだから、赤十字社にも敬意を表しておきたい。アリアナ公園の向かいとなる赤十字博物館では、日本語のオーディオ・ガイドを借りる。新しい展示技術を駆使し、音と光、映像による演出は、若者向けなのかもしれない。1863年、アンリ・デュナンにはじまる赤十字の活動が曲線をなす壁に、長い年表として現れる。そして、私がもっとも貴重なものに思えたのは、展示場の中央、天井にまで届く棚が続き、ぎっしり収納されている、第一次世界大戦時、三八の交戦国の捕虜収容所に拘束されていた200万人の700万枚に及ぶ調査カードのファイルである。どこの国の高校生たちか、ここで何を学んで帰って行くのだろう。クロークに山盛りになったダウンジャケットやコートは彼らのものにちがいない。

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 国際赤十字社博物館の案内リーフレットから

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国際赤十字博物館の全景

 コルナバン駅までだったら歩いて一五分はかからないはずだ。国連を背に、大通りを歩き始めたが、歩いても、歩いても、駅らしきものが見えない。30分も経つと不安になった。ビルばかりで人の気配がない街、地図を頼りに方向を変えて歩き出してみるが、今度は大きなマンションが続く住宅街に入ってしまう。歩いている人に、中学生程度の英語でコルナバン駅を聞くのだが、なかなか通じない。英語は話せないと断わるひと、ただ首をふるひと、肩をすぼめて腕を広げるひと・・・。そして出遭った、買い物帰りの年配の女性、歩いて行くなら途中まで一緒に、と言ってくれる。中国から来たのか、いつ来たのか、色々尋ねられ、話しかけられるのだが、残念なことに私にはほとんどが聞き取れない。にぎやかな商店街に出て、この道をどこまでも下っていくと、線路に突き当たるから、左に曲がれ、と。何度もお礼を言って別れた後は、びっしょりかいた汗が急に冷たくなる。10分以上歩いて、高架の線路が見えたときのうれしさといったらなかった。15分で着くところを1時間半は歩いていたことになる。

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ビルのてっぺんに、「OMPI」「WIP O」の文字が見えるが、上がフランス語、下が英語で、「世界知的所有権機構」を示す。このあたりで、駅に向かう道を間違えたらしい

 午後からは、ジュネーブ市内の南、カルージュに行きたいと思っていたのだが、コルナバン駅前から出る市バス13番の自動販売機の前で切符の買い方が分からず、まごまごしていて、バスを逃してしまう情けなさ。カルージュは時計職人をはじめ、工芸品、民芸品を作って売る店も多い町ということだったが、残念。午前中の迷子ですっかり自信を失った私は、計画を変えて、より確かな鉄道で、レマン湖沿いの隣町二ヨンへ行くことにする。二ヨンは特急IR(インターレギオ)で16分、アリアナ美術館にも収蔵されていた二ヨン焼きで有名らしい。ジュネーブで働く人々のベットタウンにもなっているという。案内書によれば二ヨン城は2005年まで工事中とのことだった。二ヨン駅も工事中で、間違って山側へ少し歩いてしまったが、静かな住宅街のあちこちでマンション建設が進んでいた。ガードをくぐってレマン湖へくだる街は、古いながら季節はずれの避暑地といったたたずまいである。昼下がりのこともあって、駅周辺は下校の高校生がたむろしている。小さなデパートも、スーパーもある。土産ものやも並ぶが、ドアを開けてみるには勇気が要りそうな雰囲気である。ひっそりと陶器を扱う店もあったが、右手に工事中の二ヨン城を見れば、すぐにアルプス湖岸通りに行き着く近さだ。湖を背に城を見上げると左手の高台には、ローマ時代の遺跡、神殿の柱塔が見える。石段を振り返り、振り返り登って行くと、また市庁舎前の広場に出る。回るといっても、駅を降りてからわずか一時間余りの滞在時間だった。帰りの列車の車窓には、すでに収穫を終えた葡萄畑が湖岸へと斜面いっぱいに広がっている光景が続いていた。
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ニヨンの街からニヨン城をのぞむ、四景

 夜にはとうとう冷たい雨が降りだしたが、会議を終えた夫とTさんたち二人との食事が予定されていた。スイス料理を食べさせてくれる店ということで、着いた先は、おととい私が一人で歩いた旧市街、その中心ともいえる市役所近くのレストラン「レ・ザミュール」である。二人の話だとジュネーブでもっとも古く、クリントン大統領も寄った店とのことだ。注文は、ほとんど二人にお任せで、ボトルの白ワイン、ムール貝の蒸しもの、ハーブ入りチーズ・フォンデユー。ビールはフォンデユーには合わず、おなかをこわす人がいるとのこと、つめたい水も飲まない方がいいですよ、とのことで、ワインをいつになく杯を重ねる。フォンデューは、パンをちぎって、チーズをつけるという単純なものだった。レマン湖でとれたわかさぎのような小魚の皿もあった。デザートは、今夜のお勧めというアイスクリームの上にカラメルソースをかけて焦がしたという、熱くてやがて冷たいという珍しいものだった。昼の会議の話も続いていたが、お子さんの話にも熱が入る。少し先輩の方のTさんは、娘さんは地元小学校の二年生だが、土曜日には日本の補習学校に通っているという。国際的な学校社会のなかで日本を代表しているという自負を身につけさせたいと語る。若い方のTさんの娘さんは一歳半、夫人が画家で託児所に預けているが、言葉が少し遅れていると心配していた。日本語とフランス語の混乱もあるけれど、不安は無用と医師にいわれているそうだ。バイリンガルな子供が育っていくのだろう。羨ましい話だ。私がニヨンまで出かけた話から、いまジュネーブ駐在員の奥さんたちの間で、ニヨン焼き教室が人気だという話になった。それというのも、継承する者が少ないニヨン焼き復活を目指す地元から日本人の器用さが期待されているのだそうだ。そろそろワインがまわってきた。夫とTさんとだいぶ押し問答をしていたが、当然のことながらお礼ということで夫が支払うことになった。雨はまだやまない。ライトアップされたサン・ピエトロ寺院の尖塔を見上げながら、旧市街を駐車場まで歩く。ジュネーブの雨は土砂降りが少なく、傘をさして歩くことは稀だともいう。車での移動が多いのだろう。それにしても、飲酒運転には寛大な国なのかな、と小さな疑問が頭をかすめるが、ホテルまで送っていただいたのはありがたい限りであった

 

 

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