18年前の旅日記~スイスからウイーンへ(3)
2002年11月22日~世界遺産の街、ベルンへ
あと一日となったジュネーブ、お天気が定かでないので、丸一日かかるモンブラン観光よりベルンまでの遠出を勧められていた。夫は市内観光をほとんどしてないわけだが、レマン湖畔、鉄道の旅もよいのではということで、スイス国鉄SSBのIC(インターシティ)一等車に乗る。車窓に雨滴が流れるほどの雨であったが、少しずつ明るくなって、湖面越し見える、雪渓をいただいたやまなみが目に沁みる。 鉄路が何本となく広がり、ローザンヌ駅に近づく。列車は湖面よりだいぶ高いところを走る。湖面までの斜面に広がるローザンヌの町、列車がカーブを切る度に、湖岸線や街の展望ががらりと変わる。思わず席をたって車窓からの眺めに釘づけになる。ローザンヌからはモントルーに向かう線とは分かれ、列車はレマン湖を離れ、北上する。雪渓の山々が迫ってくるようだ。
ジュネーブから1時間45分、ベルンはスイスの首都ながら、人口13万、4番目の都市で、街全体が世界遺産に登録されているそうだ。地図を見れば、旧市街は、大きく蛇行したアーレ川に三方囲まれている。駅にも近い、官庁街、裁判所、郵便局、警察署と並んでいるベルン美術館にまず入る。ベルン近郊で生まれたパウル・クレーのコレクションが有名だが、常設だけでもかなりの部屋数である。彼の抽象にいたる過程が興味深かった。ピカソ、ブラック、カンジンスキーら同時代のキュービスムとも若干異なるその「やさしさ」が私には魅力的だったのだ。ジュネーブでその名を知ったベルン生まれのホドラーの作品も多い。印象派の作品も少数ながら捨てがたく、入館者も稀で、のんびりした時間に身を置いていると、異国にいることを忘れてしまうほどだ。
車窓からのアルプスの山並み、そのままに、ジュネーブからの乗車券にはアルプスの絵が描かれていた。左、旧市街の時計塔が見える
雨上がりのベルン市立美術館正面とパウルクレーコレクションから
パウルクレー、1932年の作品、私が訪ねた2002年当時のベルン市立美術館の案内パンフの表紙になっていた。2005年、ベルン郊外にパウルクレーセンターが開館、クレーコレクションは、そちらに移された。立派な斬新な建物らしいが、クレーファンにとって、その展示には不満があるらしい
ベルン生まれのホドラー(1853~1918)の作品も多い。「オイリュトミー」(1895年)、彼の表現の特徴でもある「パラレリズム(平行主義)による作品で、こうした構図の作品は多く、一昨年2018年ミュンヘンのノイエビテナコークで見た「生に疲れる人々」(1892年)を思い出した
メインストリートには、いろいろな由来のある像をあしらった噴水が立ち、牢獄塔を正面に右手に入ると連邦議会議事堂が長々と続く。裏手に回るとアーレ川が川幅を広くしてゆったりと流れる。雨上がりの寒さもさることながら、また昼食が心配な時間となる。お目当ての「コルンハウスケラー」は、地下の穀物倉庫をレストランに改造したというが、階段を下りて開けたドアの先の、その広さに驚く。最初は穴倉に入った感じだったが、かまぼこ型の天井には、みごとな絵が淡い灯りに映し出されている。中央の長いテーブルも、夜には賑わうのかもしれないが、今は壁際のテーブルに何組かが散らばっている程度だ。周辺の雰囲気はワインだが、ビールにとどめ、ビュッフェ式の料理とベルンの家庭料理といわれている、ベルナー・プラッテ(野菜とソーセージ、ベーコンを煮込んだポトフ風の料理)を頼んでみる。テーブルの鍋に火をつけてくれる、この煮込み料理は、冷え切った体には最適だった。ジャガイモもソーセージもよかったが、たっぷりと盛られた干しインゲンも残さずいただく。街では、小物や民芸品、チョコレートやケーキがいっぱいのショウ・ウインドウに目移りがし、もう少しゆっくりできたらな、という思いが募る。
そんな商店街の真中に、アインシュタインが下宿していた家があったりする。 アインシュタインといえば、物理学者で歌人の石原純が、日本への紹介者として有名である。その石原純は、留学中、1913年、チューリヒ工科大学でアインシュタインの指導を受け、「名に慕へる相対論の創始者に、/われいま見(まみ)ゆる。/こころうれしみ。」(『靉日』1922年)と詠んでいる。
歩道からいちだんと低い、半地下のようなところから、車道に向かって斜めに入り口が開いている、こんなお店が続くのも珍しい。老舗という「チレン」では、チョコレートの詰め合わせと自家用にも小袋をいくつか買ってみる。
すぐにたどりつけると思った駅にぶつからず、予定の列車の発車時刻も近い。通行人から教えてもらい、歩道から直接ホームに通じる階段を二人は夢中で駆け下りた。そんな風に駆け込み乗車をしたものの、十数分走ったところで、列車は止まってしまったのだ。時折、車内放送が流れるのだが、まずドイツ語で、つぎにフランス語でというわけで、さっぱり分からない。ジュネーブ空港行き列車だというのに、周辺の乗客はみな慌てず、本を読んだり、パソコンに向かったりしている。三〇分ほどしてようやく動き出して、最初に停車したのがフリブールという駅だった。日没近くになって空は晴れ、車窓からの雪渓やローザンヌの展望も行きにもましてすばらしいものとなった。
そして、今晩の食事は、駐在員の二人のお勧めでもあった、もう一軒の和食の店にゆく。コルナバン駅のすぐ近く、小料理やふうの店で、ご夫婦でのもてなしに心も和んだジュネーブ最後の夜となった。
突然ながら、1924 年、斎藤茂吉はパリからヨーロッパの旅に出て、スイスのベルンにも立ち寄っている。齊藤茂吉「ベルン、九月廿八日」(『遍歴』)においてつぎのように詠んでいた。
・ベルンなる小公園にあららぎの実を啄みに来ることりあり(一九二四)
・この町に一夜やどりてHodler(ホドラー)とSegantini(セガンチニー)をこもごも見たり
2002年11月23日~ジュネーブ空港で呼び出し放送をされて
朝は、ジュネーブのホテル前のローヌ川を渡ってすぐのデパート、8時には開店というグローブスに向かう。夫は、きのう目星をつけておいたスイスワインの別送を頼むと、三、四週間はかかりますよ、とのことであった。戻ったモンブラン通りではクリスマス・ツリーなどを積んだトラックが幾台も入り、大掛かりな飾り付けが始まっていた。ウイーン行きの便は10時55分発、空港には少し早めに着いた。免税店で、いま愛用しているスイス製の水溶性クレヨン10色がだいぶ減って来たので、15色を見つけて買えたのが何よりのお土産になりそうだ。丸善ではだいぶ高いはずだ。さらに民芸品などを見ていると、夫は、いま呼ばれなかったか、という。呼び出し放送で、自分の名前が呼ばれたというのである。時計を見れば、離陸まで17、8分しかない。慌ててゲイトへと急ぐが、この通路が長い。動く歩道を走るようにして、駆け込みで搭乗すると、離陸の5分前で、冷たい視線を向けられたような気がした。席を探すにも、天井に頭を何回かぶつける小型機だし、ステュワーデスの制服も、あの真紅のオーストリア航空のものではない。一瞬間違ったかと思ったが、オーストリア航空グループのチロリアン航空だったのだ。大型機が安心というわけではないが、七〇人乗りぐらいだろうか。しばらくレマン湖上空を飛んでいたが、山岳地帯に入ると、その壮大な雪景色は初めて経験するものだった。画面での高度表示もないのだが、かなり低いのではないか。山間の集落、白い川の流れ、点在する小さな湖、どこまでも続く雪の山脈。ウイーンまでの一時間余、飽きることがなかった。
- あまそそるアルプスの峰に入り日さし白雲のくづれおもむろにくだる(一九二三) 大塚金之助『アララギ』一九二三年三月
最近は、あまりスケッチもしなくなってしまったが、それでも、よく使う緑や黒、茶色は短くなっているし、折れている色もある
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