2020年10月14日 (水)

朝ドラ「エール」は、戦時下の古関裕而をどう描いているか

  9月末の週から「エール」は戦時下に入った。これまでのドラマの進行は、古関裕而の自伝『鐘よ鳴り響け』とも、いくつかに評伝とも、かけ離れていって、古関作曲の歌と周辺の都合のよい事実をつなぎ合わせたフィクションであることは、本ブログ記事でも、『現代短歌』の拙稿でも述べているが、戦時下に入ってからは、その度合いが一層色濃くなっている。この間、朝ドラを欠かさず見てるわけではなかったが、昼の再放送、土曜日のまとめ、NHK+などを利用して、なるべく見るようにはしていた。9月半ばの、放送再開前後の、8時半からの「あさイチ」での番組宣伝が半端ではなかった。ドラマに登場のタレントを連日ゲストとして出演させていたし、「歴史ヒストリア」などでも取り上げるという熱心さであった。

 肝心のドラマでの古関裕而(古山裕一)が、あのように立て続けに、戦時歌謡、軍歌を作曲し続けていたことだけは、隠しようもない事実なので、NHKは、そして脚本家たちは、必死になって周辺人物を作り出し、彼らに、戦争への疑問、統制・弾圧の強化、戦局の厳しさ、生活の不自由さを語らせている。今週は、従軍先の、さらにインパール作戦の前線での小学校の恩師との再会と戦死という展開を見せる。現実の古関は、ラングーンに留まり、危険な戦場には赴いていない。恩師や自分の歌をさっきまで歌っていた兵士たちが斃れていくのを目前にした古山は、恐怖と驚愕で、何かを叫んでいる?のが、10月14日のラストであった。だが、恩師との再会も戦死も事実ではない。古関裕而の妻の実家は、10人近くものきょうだいがいたが、ドラマでは、作家となる妹と軍人の妻になる姉の三姉妹という設定で、母親とともにクリスチャンということで、常に特高に監視されたり、妹の夫の家業の馬具づくり職人も入信し、馬具が軍隊に納められて、戦争に役立っていることへの疑問を語り、古山(古関)に「戦意高揚の歌は作らないで下さい」と願う場面を作ったり、商魂たくましいレコード会社や映画会社のプロデューサーは、コメディタッチで描かれたりするなかで、「国のために、戦っている兵士のために」作曲するという信念は動かない・・・。妻も、音楽教室から音楽挺身隊への転換を見せながらは、普通の家庭の主婦らしさが強調され、こんなブラウス、こんな割烹着、代用食・・・みたいな時代考証がなされているが、資料には妻・実家サイドの動向があまり見えないなか、盛りに盛ったストーリーに仕立てているように思えた。

 ドラマの古山の活躍は、さらに拡大する戦争末期に入ろうとしているが、どんな展開になるのだろうか。

 そんな折、「NHKとメディアを考える会(兵庫)」のニュース54号(2020年10月)が届いた。今号は、「ヤジと民主主義~小さな自由が排除された先に~」(北海放送制作 2020年4月26日放送)がギャラクシ賞報道活動部門優秀賞、日本ジャーナリスト賞の受賞を記念しての、24頁に及ぶ再録特集であった。連れ合いに送られてくる、この兵庫の会の会報とその活動ぶりには目を見張るものがあって、感心していたのだった。その会員のどなたかの目に留まったのか、先の本ブログ記事で紹介した拙稿「古関裕而はだれにエールを送ったのか」(『現代短歌』2020年11月号)の要約版を会報に載せたいとの依頼があったのだ。 
 表を含めて3頁をとってくださったのである。以下要約版ではあるが、ぜひ読んでいただきたく、ここにPDF版を掲載した。この作業の中で、雑誌での私の校正ミスをただすことができた。『現代短歌』の「古関裕而作曲の戦時歌謡の主な公募歌・委嘱歌一覧」89頁、「防空青年の歌」の作詞者は「柴野為亥知」であった。お詫びして訂正したい。

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下記の画像を拡大するか、上記のPDF版をご覧ください。

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2020年7月29日 (水)

古関裕而をめぐる動きから目を離せない(2)

 さまざまなエピソードで盛り上げるのは

 朝ドラ「エール」がきっかけになって、古関出身の福島市、福島県では、「古関裕而記念館」や地元の新聞や放送局、観光協会などが、「郷土の偉人」をめぐる情報やイベントを盛り上げている。先の「あなたが選ぶ古関メロデイー」の企画もそうであったが、つぎのような記事もあった。 

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「東京新聞」2020年1月23日

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『毎日新聞』2020年5月28日

 また、「中国新聞」では、つぎのような長い記事がネットで見られる。広島への原爆投下の一年後に古関はつぎのような歌詞での作曲を依頼されていたことがわかり、どこにも音源は残っておらず、古関裕而記念館でも把握していない作品であったという。
 1946年、原爆投下一周年という時期に「中国新聞」が「歌謡ひろしま」を公募して、その当選作を古関裕而が作曲している。「中国新聞」デジタルでは次のように伝えていた。

「原爆投下の翌年、広島の復興を願う歌が生まれた。「歌謡ひろしま」。被爆から1年の事業として中国新聞社が歌詞を公募した。曲を付けたのが古関である。「声も高らに 歌謡ひろしま」「古関氏鏤骨(るこつ)のメロデー完成」。そんな見出しとともに、歌は1946年8月9日付の朝刊で発表された。記事には古関のコメントも載る。「作曲にも苦心して何処でも誰にでもうたへるやうにした」。力の入れようが分かる。」

古関裕而を探して 戦没者への鎮魂の「鐘」
(2020年1月3日)
https://www.chugoku-np.co.jp/culture/article/article.php?comment_id=615326&comment_sub_id=0&category_id=1163

  つぎの公募歌発表当時の新聞記事1946年8月9日の写真によれば、五番までの歌詞と楽譜がっ掲載されているが、著作権法に触れるかもしれないので、ここでは、一~三番を再録する。作詩の入選者山本紀代子は、長男を原爆で亡くした歌人と報じられているが、調べてみると、当時の中国新聞社員で歌誌「真樹」を主宰していた歌人山本康夫の妻であることも分かって、私は少々驚いた。五番まである歌詞は、作曲者古関の「談」では「品があって、むづかしくなく、だれにでも歌える立派な」と評されていたが、その歌詞の内容の「軽さ」に、私はいささか違和感を覚えたのである。当時の市民たちの暮らしや気持ちからはかけ離れているようにも思えた。やがて、市民からも忘れ去られていったのではないか。それにしても、古関の変わり身の早さというか、「いつでも、どこでも、誰にでも」エールを贈っていることについての自覚があったのだろうかと。「歌謡ひろしま」(山本紀代子作)には、「誰がつけたかあの日から/原子砂漠のまちの名も/いまは涙の語り草」とか、「七つ流れの川も澄む/平和うつして川も澄む」などの文言が見える。

 以上のように、あちこちでの新聞記事やNHKの番組宣伝によっても量産・拡散される古関情報がもたらすものは何なのか。きっと、あの「戦時歌謡」も、さまざまなエピソードが付されて、「国民的な、天才作曲家」像が作られてゆくのだろう。 

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『赤旗』は、朝ドラ「エール」への応援が半端ではなく、<今週の「エール」>みたいな紹介もある。NHKにも”いい番組”がある、とのスタンスを崩さない。その報道の政府広報ぶりを改めさせなければ、受信料をとっての公共放送ではありえないのではないか

************   ようやく図書館から借り出せた、戸ノ下達也『音楽を動員せよ 統制と娯楽の十五年戦争』(青弓社 2008年2月)を何とか読み終えた。もっと早くに読むべき本だったと痛感しながら多くを教えられた。いまは『第三帝国の音楽』(エリック・リーヴィー著 望田幸男ほか訳 名古屋大学出版会 2000年12月)という翻訳書を読み始めている。私には、カタカナの人名や地名、曲名などが錯綜し、なかなか進まない。著者は序文で、ナチス時代の音楽活動に関する研究が進まない要因として、学術的資料が乏しいことと20世紀のドイツ音楽界の指導層の一貫性をあげている。つまり、ナチスの反ユダヤ主義政策は、たしかに影響力のある人たちを追い立てたが、「大多数の音楽家たちはナチスのもとにとどまることを選択し」、成功を収めた。そして、彼らの多くは、「戦後ドイツにおいても影響力の地位を保持したので、彼らとナチ体制との個別的関係を立ち入って調査することを妨げるのに多大の努力を払ったのである」と述べていたのである。ナチスの戦争犯罪に時効はないと、現在でも追及し続ける、あのドイツにおいてさえも、の思いしきりなのである。一体どういうことなのか、読み進めねばならない。

 

 

 

 

 

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古関裕而をめぐる動きから目を離せない(1)

                                      

なぜ古関裕而なのか

 私は、学生時代から短歌を作っていたが、30代になって、戦時下の歌人たちが発表した短歌や動向に触れることがあって、時代の大きなうねりに呑み込まれ、大政翼賛的な短歌や評論が横行していたことを知った。また、そうした歌人たちの、敗戦後の「平和な」「自由な」時代においても変わらず活動も続けていたと知ることになった。そして、現代の歌人たちが、その先人たちの作品や評論をたどるとき、戦時下の作品や活動には目をつむるようにして、それを語ることをタブー視するのが大方の流儀となった。そればかりか、その歌人の戦時下の作品や活動について、言論が不自由な時代に、時代と真摯に向き合い、国や天皇に報いたとて、批難されるべきものではなく、困難な時代の営為を評価するという流れさえ生まれてきた。いまさら、戦争責任を云々するのは、時代遅れの、野暮なことでもあるかのような風潮もある。ましてや、短歌と天皇制との関係に触れようとすると、ここまで国民の間に定着してきた象徴天皇制に言及することも、同様に忌避されるようになった。

 最近の投書から

 そうした「歌壇」の動向と今回の古関裕而をモデルとするNHKの朝ドラ「エール」をめぐるさまざまな言動とが重なって見えるのだった。たまたま、目に留まった投書があった。
 朝ドラ「エール」が3月末に始まるが、その1月に、古関の出身地の地元紙「福島民報」社が主催し、レコード会社などが共催する古関裕而生誕110周年記念「あなたが選ぶ古関メロディーベスト30」の企画が東京新聞にも発表された。その東京新聞の投書「古関氏の多面性伝えて」(「ミラー」欄、59歳男性、2020年1月22日)は、以下のように訴えていた。東京新聞の記事は古関の応援歌や戦後の歌謡曲ばかりを代表作として紹介していたが、彼は軍歌を量産し、国家総動員体制を支える積極的な役割を果たした人であることに一切触れていなかったことには違和感を覚えた。各時代において音楽が果たした役割や人間性の多面性についても伝えてほしいというものだった。
 また、最近では、朝日新聞「声」欄の「平和のバトン」企画として、古関の歌にまつわる三人の投書が並んで掲載されていた(2020年7月25日)。まず、「若鷲の歌(予科練の歌)」にまつわる「元予科練生 古関作品に万感」(91歳男性)、「「若鷲の歌」あこがれと現実」(90歳男性)の二つで、前の方は1944年夏中学三年生のときに「海軍甲種飛行予科練習生」を志願、「敗戦後、(生き残った)予科練生のたどった道は複雑であった。背後の数多の先輩の死を背負って生きていった。古関先生も同様であったろう」とし、両者の思いを一つにまとめて、鎮魂の交響曲「予科練」を創ったらどうか、というものであった。後の方は、「七つボタン」にあこがれて、「東京陸軍少年飛行兵学校」での訓練の現実は厳しいものだったことを語った。卒寿を迎えた二人の「少国民」の声を真摯に受け止めたいと思う一方、バトンを受け取った者たちは、「鎮魂」という形とは別に、あの戦争が、負け戦が、かくも長く続いたのかの史実を掘り起こし、検証することが大事ではないかと思った。まだやり尽くしてないことがたくさんあるように思う。

 私は、数年前、友人たちと茨城県阿見町にある「予科練平和祈念館」の見学に出かけたことがある。霞ケ浦海軍航空隊におかれた海軍飛行予科の練習生、予科練の少年たちの生活や心情に迫る展示が印象的ではあったが、特攻隊として死に直面する極限状況におかれた若者たちをノスタルジックに、情緒的なスタンスで展示されてはいないかが不安になった。1944年6月から数週間、少年たちと生活を共にしながら写真を撮り続けた、あの土門拳の大量の作品の行方が知れず、自ら処分したのではないかとも聞かされた。展示されているのは、たまたま病床あった練習生に届けられた写真42枚が空襲にも遭わず残されたものであることが分かったのである。

<参照記事>
雨の霞ケ浦~吉崎美術館の高塚一成個展と予科練平和記念館と(2)
(2015年10月15日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/10/post-3abf.html

 もう一つの投書というのは「『長崎の鐘』に永井博士を思う」(77歳男性)と題するものであった。投書者は、永井隆と同郷で「長崎の鐘」は「被爆者治療に身を捧げた永井博士の生涯をたたえた曲」で、時代を超えて引き継がれている「長崎の鐘」を聞くと胸がいっぱいになり、朝ドラ「エール」でその曲が流れるのを心待ちにしているという主旨であった。

サトウハチロー作詩、古関の作曲になる「長崎の鐘」については、最近の私のブログでも書いた通り、この歌の背景には、かなり深刻な問題が潜んでいることを忘れてはならないと思う。

<参照記事>
「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(3)
(2020年5月31日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/05/post-48157e.html

 「長崎の鐘」の歌詞は、長崎原爆投下の犠牲者にささげた鎮魂の歌とされているが、モデルとなった永井隆の『長崎の鐘』(1941年1月)は、GHQの検閲下、半分近くの頁を日本軍のマニラにおけるキリスト教徒虐殺の記録「マニラの悲劇」の記事に割く本として出版された。この著書はじめ、永井は「浦上への原爆投下による死者は神の祭壇に供えられた犠牲で、生き残った被爆者は苦しみを与えてくださったことに感謝しなければならない」と繰り返し、原爆投下の責任を一切問うことをしていない。そして、これらの言説が、長崎のカソリック信者たちを、長い間、呪縛し続けたという。

 私自身は、信ずる神を持たないが、カソリックで、教会内部でのパワハラなどとも戦っている、若い時の歌友からは「浦上への原爆投下は『神の摂理』であり、死者は祭壇に供えられた犠牲であり、生き残った者には愛するゆえに苦しみを与えてくださったことに感謝しなければという考えは、カトリック教会の中ではいまでも罷り通っています。私自身、引き続く天災地変やウイルス禍を『神の怒り』と捉えたこともあります。そう捉えるのが簡単だからでしょうか。これまた反省してやみません」との感想もいただいたところである。

<参照記事>
長崎の原爆投下の責任について<神の懲罰>か<神の摂理>を考える
(2013年5月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/05/post-15f2.html

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2020年6月26日 (金)

びっくり仰天、ここまでやるか、NHK「エール」の番宣!

 古関裕而がモデルという、朝ドラ「エール」の“喜劇的”な展開には、驚いている。自伝や評伝ともかなり異なるストーリーになっているのは確かである。私の漫画歴は、「サザエさん」どまり、近くでは、雁屋さんの「美味しんぼ」や天皇制をテーマにした劇画を少しばかりかじった程度なので、最近の状況はわからない。「漫画的」といっては叱られるかもしれないが、幽霊が出没したり、役者が気の毒なるような誇張した振付けだったりで、もううんざりしているさなかだった。理由の詳細は知らないが、最初の脚本家が降板したのもわかるような気がする。

 その上、さらに驚いたというのは、「エール」の短い番組宣伝のスポット番組に登場した丸山明宏篇(現在は美輪明宏と改名しているらしい)と、かのデヴィ夫人篇だった。他にもあるのかもしれないが、とりあえず、私が6月21日、22日に見た二つの番組を紹介しよう。

 一つは、「長崎の鐘」の紹介で、あのキンキラキンの衣装で、自らの被爆体験と永井隆体験を通じて、丸山は、鎮魂の歌、平和を願う歌として高く評価した。歌「長崎の鐘」の成り立ちと永井隆については、当ブログでも、すでに触れたように、永井隆のエッセイが世に出た経緯やアメリカ、GHQの原爆投下、被爆状況の実態の隠ぺい対策を語らずに、永井隆にまつわる「悲しい美談」の増幅、サトウハチローの情緒的な歌詞に支えられた古関メロディーであったことを忘れてはならない。丸山の胸には、十字架のペンダントが光っていたが、永井の言葉に苦しみ続けた信者たちは、どう思うだろう。

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一つは、「愛国の花」の紹介で、どういうわけか、部屋いっぱいの胡蝶蘭の鉢を背に、現れたのがデヴィ夫人だった。インドネシアの大統領スカルノの第三夫人だったというタレントであることは知っているが、スカルノが愛したという「愛国の花」のインドネシア語訳を歌って見せた。インドネシアと日本との親交の証だという。「日本の国の花、さくら、インドネシアにはジャスミンという国の花があり、同じように花を愛でる気持ちでアジアは一つになる」という解説もする。

愛国の花 (1938年 福田正夫)

真白き富士の けだかさを/こころの強い 楯(たて)として
御国(みくに)につくす 女(おみな)等(ら)は/輝く御代の やま桜
地に咲き匂う 国の花  

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   そもそも「愛国の花」は上記に見るように、国のため、天皇のために尽くす銃後の女性たちを「花」にたとえた歌である。そして、1942年3月、日本軍がオランダ植民地だったインドネシアに侵攻、日本軍政下においては、オランダ語使用の禁止、インドネシア語を公用語としながら、日本語教育の一環として国民学校から大学では教科として、社会人には職場での実用日本語教育に力を入れた。その教育の手段の一つが日本の歌―童謡や戦時歌謡、軍歌であったのである。インドネシアの独立運動やナショナリズムの気運を利用する形で、指導者のスカルノらを取り込んだが、連合軍と闘う中で、多くの強制労働者ロームシャや犠牲者を出すことになる。このような背景を無視して、「愛国の花」にまつわる、日本とインドネシアのエピソードとして語らせる歴史認識は、戦時下のNHKと変わっていないのではないか。なお、知人からの情報によると、敗戦直後にスタートしたNHKの「婦人の時間」のテーマ曲が「愛国の花」のメロディだったそうである。

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  なお、この「愛国の花」は、現在でも、自衛隊のイベントや音楽祭、地域でのさまざまなイベントにおいて、陸海空の中央音楽隊はじめ、各地域での音楽隊による演奏が行われ、三宅由佳莉三等海曹、中川麻梨子海士長らによる歌唱が通常に行われているのが、you tube などで聞くことができる。イベントの司会者などからは、往年のヒット曲で、「現在も東南アジアの各地で愛唱されています」との紹介があるのみで、上記のような背景は語られることはない。

   ということは、戦時下の軍国主義や天皇制について、なんのわだかまりもなく、現在も歌い継いでいる、歌い継がせようとするメディアや自衛隊、それに異議を申し立てることもない人々、日本は変わってないのだな、だから、こんな体たらくの政権が倒れることもなく続いているのだとつくづく思う。

 

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2020年6月17日 (水)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(8)

短歌の歌謡曲と朗読と

 古関裕而について書き続けていると、キリもなく、伝えたいことは、満載なのだが、もうこの辺で終わりにしたい。なお、今回の作業で、興味深い一件があった。というのは、古関が有名な歌人の短歌に曲をつけて、レコード化していたことだった。

 一つは、敗戦まもない、1947年3月放送のラジオドラマ「音楽五人男」の主題歌として、藤山一郎が歌った「白鳥の歌」である。これは若山牧水の「白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ」に曲をつけたものである。その後、47年6月3日公開の映画『音楽五人男』(東宝、小田基義監督)では、「夢淡き東京」(サトウ・ハチロー作詞/藤山一郎・小夜福子)などの主題歌とともに挿入歌として「白鳥の歌」(藤山一郎・松田トシ)歌われたのは、「幾山河越えさり行かばさびしさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」「いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐うるや」の2首も加えられた3首で、レコードにもなった。当時にあっても愛唱性の高い人気の3首であったのだろう。

 一つは、芸術座公演「悲しき玩具」(1962年10月5日~27日、菊田一夫作・演出)の舞台で流された伊藤久男による石川啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」を含む17首で、同年LP盤で発売されている。短歌を選んだのは菊田で、作曲者の古関ではなかったらしい。古関は、短歌は、短すぎて曲がつけにくいと漏らしていたそうだが、17首の中の何首かの第五句が繰り返されている。実際の舞台ではどのように流されていたかはわからないのだが、ネット上で聴くかぎり、30分近くかかり、一首一首のつながりがなく、似たような間奏で歌い継がれるのだが、気分的にも盛り上がりがないように思えた。ただ古関裕而自身は、この「白鳥の歌」が自信作であったらしい(辻田⑦219頁)

 もう1件は、長崎医科大学で放射線医学を専門とする永井隆は、自らの白血病とも闘いながら、原爆の被災地長崎と原爆症患者たちの治療にあたる様子を記したエッセイ集『長崎の鐘』(日比谷出版社 1949年1月)にまつわる短歌だった。この書をモチーフに、サトウ・ハチローが作詞し、古関作曲の1949年7月に発売した「長崎の鐘」(藤山一郎)に感銘を受けた永井から、返礼として、つぎの2首が届けられたという。

・新しき朝の光りのさしそむる荒野に響け長崎の鐘
・原子野に立ち残りたる悲しみの聖母の像に苔つきにけり

それに曲をつけたものが「新しい朝の」であった。1950年9月22日に公開された映画『長崎の鐘』(松竹、大庭秀雄監督)の主題歌ともなった。ただ、「長崎の鐘」の歌詞も映画の物語も、長崎の原爆投下の経緯と原爆の犠牲者たちの実態に直接対峙することにはならなかった。というのも、前述のようにGHQの検閲下に制作されたものであり、永井の著書出版の経緯にも、大きな制約があった。それと同時に、クリスチャンの永井隆が「浦上への原爆投下による死者は、神の祭壇に供えられる犠牲であり、生き残った被爆者は、浦上を愛するがゆえに苦しみを与えてくださったことに心から感謝しなければならない、それが神の摂理というものである」と繰り返したことで、後の反核運動や多くのカトリック信者や被爆者たちは、その呪縛から逃れられなかったという。GHQによる原爆投下の責任や日本の戦争責任あいまいにし、免責へと連動していったことを思うと、「鎮魂」や「美談」では済まされない問題を内包したのではなかったか。(注)

(注)以下の過去記事も参照いただければと思う
・長崎の原爆投下の責任について~「神の懲罰」と「神の摂理」を考える (2013年5月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/05/post-15f2.html

 なお、今回の古関裕而のシリーズは、とりあえず終える。短歌や詩に音や声を伴ったときに、短歌や詩は、ある種の変貌を遂げるのではないか、音声表現が源流なのかと、考えてきた。かつて、短歌の朗読について、戦時下にあっては、「朗読」が推奨されていたことなどについて、当ブログでも何件か書いている。近くでは、高村光太郎についても、彼の詩が、戦時下で、どのように書かれ、発表され、NHKラジオから「愛国詩」として放送されたかについて言及したことがある。参考までにあげておこう。

 

短歌の森(*)「短歌の「朗読」、音声表現をめぐって」1~4
(初出:短歌の「朗読」、音声表現をめぐって1~11 『ポトナム』2008.3~2009.1)
「短歌の森」は当ブログ画面の左下の「短歌の森」の記事の中からお選びください  

関連文献:「暗愚小傳」は「自省」となりうるのか―中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして 『季論21』 46号 2019年10月                        

 

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芸術座公演の「悲しき玩具」(1962年10月)パンフレット、スタッフ・キャストには懐かしい名前。ハイシーは、我が家の薬局でもよく売れた栄養剤であった

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額縁に入った映画「長崎の鐘」のポスターを見つけて拝借。キャストにも懐かしい名前が並ぶ。左端には、音楽古関裕而の名はあるが、主題歌藤山一郎の文字は見当たらない。なお、脚本には、新藤兼人、橋田スガ子(寿賀子)の名前が読める

 

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「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(7)

  前述のように、敗戦直後、古関の活動は、菊田一夫とのコンビで、NHKのラジオドラマ「山から来た男」「鐘の鳴る丘」により再開する。「鐘の鳴る丘」の制作は、占領軍GHQの戦災孤児対策の一環としての要請であった。古関は、その主題歌の「とんがり帽子」とドラマの音楽を担当した。そして、「鐘の鳴る丘」は、私の小学生時代、リアルタイムで聞き続けた番組であったことはすでに述べた。

  その後、古関の放送界やレコード業界、演劇界での作曲活動には、華々しいものがある。古関のメロディーは、敗戦後の人々の心をとらえ、1960年代から70年代にかけては、東京オリンピック、札幌冬季オリンピックの行進曲や讃歌などによって、日本経済の高度成長期の人々の士気を高め、ときには、テレビや映画、舞台から流れるメロディーが人々の心を癒したかもしれない。すでに、紹介、引用している歌もあるが、戦時下にあっては、つぎのような歌詞の曲が盛んに流され、多くの人々に歌われた。そして、このような歌に見送られて出征し、このような歌を歌って戦場に果てた兵士たちが数え切れず、餓死や病死していった兵士が圧倒的に多いのだ。戦場には慰安婦たちもいただろう。銃後では、夫や息子のいない留守宅で頑張る妻や母もいただろう。さらに、最近こんなことも知った。植民地下の朝鮮の国民学校卒業前の少女たちを甘い言葉で募集し、いわゆる女子挺身隊として、内地、不二越の富山工場で労働を強いられていた。その少女たちが、いま年老いても、「君が代」を毎朝歌い、「勝って来ると勇ましく・・・」と歌って行進していたと証言していた。歌詞も間違いの少ない日本語で歌っていたのだ(TBS「報道特集」2020年6月13日、チューリップテレビの取材)。

  しかし、自伝や評伝を読んでいても、古関の戦時下の作曲活動が、軍部や新聞・雑誌・放送局・レコード会社の要請をそのままに受け入れていた事実に対して、多くを語らない。シリーズ記事の(6)で引いた評伝の執筆者や遺族の言葉からの聞こえてくるメッセージは以下のようなものであった。刑部は、古関の作曲になる「長崎の鐘」「フランチェスカの鐘」「ニコライの鐘」「みおつくしの鐘」など、多くのヒット曲に「鐘」が鳴り響くのは「かつて自分が作った戦時歌謡に送られて死んでいった人たちへの鎮魂と、生き残った人たちに対して、明るい希望を与えたいという想いが込められているように思えてならない」ともいう(刑部⑥184頁)。辻田は「古関の歩みとは昭和の歴史であり、政治、経済、軍事の各方面でよくも悪くも暴れまわった日本の黄金時代の記録であった。それゆえ、その生涯と作品は、音楽史やレコードファンの垣根を超えて、今後も広く参照され続けるだろう。昭和は古関裕而の時代でもあった」と総括する(辻田⑦291頁)。いずれにしても、いまとなっては開催も危ぶまれる「東京オリンピック2020」にあやかったNHK朝ドラ「エール」に便乗しての出版であるから、当然といえば当然なのだが、両者とも、貴重な資料や証言を入手した上での総括にしては、あまりにも、軽くて迎合的ではなかったか。とくに「よくも悪くも暴れまわった日本の黄金時代」と言い切れる認識には、執筆者世代の受けてきたと思われる日本の近現代史教育の影が如実に反映しているように思われた。(続く)

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露営の歌(1937年 薮内 喜一郎)から

勝って来るぞと 勇ましく/ちかって故郷(くに)を 出たからは
手柄たてずに 死なりょうか/進軍ラッパ 聴くたびに
瞼に浮かぶ 旗の波

土も草木も 火と燃える/果てなき曠野 踏みわけて
進む日の丸 鉄兜/馬のたてがみ なでながら
明日(あす)の命を 誰が知る

思えば今日の 戦闘(たたかい)に/ 朱(あけ)に染まって にっこりと
笑って死んだ 戦友が/ 天皇陛下 万歳と
残した声が 忘らりょか

愛国の花 (1938年 福田正夫)から

真白き富士の けだかさを/こころの強い 楯(たて)として
御国(みくに)につくす 女等(ら)は/輝く御代の やま桜
地に咲き匂う 国の花  

暁に祈る(1940年 野村俊夫)から

あああの顔で あの声で/手柄頼むと 妻や子が
ちぎれる程に 振った旗/遠い雲間に また浮かぶ

ああ傷ついた この馬と/飲まず食わずの 日も三日
捧げた生命 これまでと/月の光で 走り書き

あああの山も この川も/赤い忠義の 血がにじむ
故国(くに)まで届け 暁に/あげる興亜の この凱歌

若鷲の歌(1943年 西条八十)から

若い血潮の 予科練の/七つボタンは 桜に錨今日も飛ぶ飛ぶ 

霞ヶ浦にゃ/でっかい希望の 雲が湧く
*
仰ぐ先輩 予科練の/手柄聞くたび 血潮が疼く

ぐんと練れ練れ 攻撃精神/大和魂にゃ 敵はない

嗚呼神風特別攻撃隊(1944年 野村俊夫)から 

無念の歯噛み堪えつつ/待ちに待ちたる決戦ぞ

今こそ敵を屠らんと/奮い立ちたる若桜

この一戦に勝たざれば/祖国の行く手いかならん

撃滅せよの命受けし/神風特別攻撃隊

熱涙伝う顔上げて/勲を偲ぶ国の民

永久に忘れじその名こそ/神風特別攻撃隊

神風特別攻撃隊

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2020年6月13日 (土)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くか(6)

NHKと戦時歌謡、その果たした役割  

  1941年、情報局は、12月8日開戦3日前の12月5日に「国内放送非常体制要綱」を決定、番組編成の基本方針は、他のマス・メディアと同様、「戦況報道」と「世論指導」を二つの柱として、人心の安定、国民士気の高揚をはかることであった。番組の企画・編成・内容は、情報局主導の会議で決めるようになった(『日本放送史』上522頁)。大本営発表の「戦況報道」と「世論指導」、この頃のNHKのニュース、そのものではないのか。たとえば、夜7時の「ニュース7」と「ニュースウオッチ」を見ていると、その政府広報ぶりと項目選択と時間配分は、中立・公正どころか、世論操作そのものであり、いろいろ問題はあるものの、民放の報道番組と比べてみると一目瞭然である。政府に都合の悪いニュースは伝えないか、なるべく手短に伝えるので、わかりやすいといえばわかりやすい。その上、水面下でも、政府からの圧力やNHKからの忖度が日常化しているような事件がときどき露わになる。戦時下のNHKの在り様が重なって見えてくるではないか。現代のNHKの政治報道の偏向を目の当たりにしている多くの視聴者も、すでに気づいているはずである。
  これまで、私は、朝ドラと大河ドラマは、よほどの必要がなければ見ない。今回は6月に入ってからは見るようにしているが、どうもNHKと脚本家は、いつものことながら、やはり大きな間違いをしているのではないかと思う。大河ドラマ「坂の上の雲」の時もそうだったが、歴史上の人物をモデルにしていることを喧伝しながら、史実や人物の伝記的事実を、大きくゆがめて、というより、都合の良い部分をつまみ食いしながら、ときには「捏造」し、物語をもりあげる?ということをする。今回の「エール」でも、私が見た限り、仄聞する範囲でも、かなりひどい。
  最近見た中で、一例をあげる。高橋掬太郎作詞による古関裕而作曲「船頭可愛いや」が、レコード会社も苦労して、音丸という歌い手を押し立てて売り出し、ヒットしたのは1935年だったが、ドラマでは、そのレコードは売れ残り、オペラ歌手の三浦環をモデルとする人物が歌ったところレコードが飛ぶように売れてヒットしたことになっていた。音丸はあの世から悔しがっているだろうし、実際、三浦環がカバーしたのは、その数年後の1939年だったのである。三浦は、1935年には、まだドイツにいた頃で、ありえない「物語」になっていた。実在の人物の名前を、名当てゲームのようなノリで、似た名前を付けて登場させ、事実とは離れた話でつないでいく手法が、あちこちで見られたようだ。遺族の方が了解しているのかもしれないが、NHKに協力している研究者もいるなかで、私などは、見るたびに「違うだろう」と突っ込みたくもなる。

  そういえば、昨秋2019年、すでに「エール」の撮影が始まってから、脚本家林宏司の途中降板報道を思い出した。フジテレビのドラマでの活躍目覚ましい、NHKの「ハゲタカ」も手掛けた脚本家で、覚えていた。スタッフとの確執があったのではとも報じられていたが、いまの「エール」の制作姿勢をみると、納得する部分もある。主人公の窪田正孝の演技の設定からして、ドタバタのようにも見えてしまう。セリフが正しい福島弁なのかは不明だが、とにかくわかりづらい。工夫はないものなのか。

  1941年12月8日を境にして、レコード業界も放送―日本放送協会も一変した。というより、言論統制が一層明確になった。両者において、軍部とメディアとの一体化しが顕著となり、「戦時歌謡」が氾濫した中で、古関裕而の足跡をたどってみたい。もはや「公募」しているいとまなく、NHKは、12月8日夜から「ニュース歌謡」という番組を随時放送するようになった。未完ながらつぎのような表ができた。
  なお、下の表は、図表の上でクリックしていただくと拡大されるので、ぜひご覧ください。苦労して作成したが、間違いがあればご教示ください。

 

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  前述のように、退廃的な歌謡曲を、健全なものにしようと日本放送協会が力を入れたのが、1936年6月1日、大阪中央放送局から始まった「国民歌謡」だった。島崎藤村「椰子の実」(大中寅二作曲)、土岐善麿・佐佐木信綱・与謝野晶子らによる「新鉄道唱歌」(堀内敬三作曲)などを送り出したが、1937年7月7日盧溝橋事件を境に、歌も戦時色が色濃くなって、「愛国行進曲」(森川幸三作詞/瀬戸口藤吉作曲)「海行かば」(大伴家持作詞/信時潔作曲)などが放送されるようになり、紀元2600年を経て、1941年2月14日、「国民歌謡」は「われらのうた」と改称される。さらに、一年後の1942年2月8日には「国民合唱」に改められた。

  表に見るように、NHK「ニュース歌謡」は「宣戦布告」に始まり、翌年の3月31日まで続いた。「英国東洋艦隊壊滅」などは、ニュース放送の直後の数時間で制作・発表したという即興的なものであった。NHKで、歌謡曲関係を仕切っていたという丸山鉄男は、政治学者の丸山真男の兄であったこともよく知られるところである。 古関は、この41年12月には、作詞の野村俊夫とのコンビで、「新世紀の歌」(伊藤久男・二葉あき子)「新生の歌」(コロムビア合唱団)「東洋の舞姫」(渡辺はま子)「新しい道」(伊藤久男)を作曲、レコードを発売している。いずれもまだ、私は聴いてはいないが、想像がつきそうだ。

  古関は、翌1942年10月から翌年2月まで、NHKの南方占領地区慰問団に参加していた。すでに、1938年9月には中支派遣軍報道部の命により、飯田信夫、西條八十、佐伯孝夫らと従軍してはいるが、南方では様々な体験をしている。慰問の途中でも、南方軍報道部の依頼で2曲を作曲している。また、1943年4月下旬から8月にかけても、大本営陸軍報道部からインパール作戦に従軍せよとの命で火野葦平、向井潤吉、朝日新聞記者らとラングーンに向かう。ビルマでは、「ビルマ国軍行進曲」「ビルマ国独立一周年歌」とか各地の部隊歌などの作曲の依頼があり、引き受けている。そのころインパールでは死闘の行進の末、敗退した。帰路のサイゴンでは、母危篤の知らせを受けるも、現地の要請で「仏印派遣軍の歌」などを提供している。これらの現地での曲はレコード化には至っていない。

  古関は、コロムビア専属であったから、上記の表のレコード発売年月は、すべてコロムビアから発売であった。が、一つ例外なのは、「ラバウル海軍航空隊」で、NHKの企画で、作詞はビクター専属の佐伯孝夫であった。出来上がった歌は、43年11月18日が初放送で、歌唱は内田栄一と佐々木成子、古関が指揮をした。その後も何度か放送されたが、その都度、歌い手が変わっている。翌年の1月に出たレコードは、ビクター専属の灰田勝彦が歌っているが、これがかなりヒットしたらしい(⑥118頁)。なお、44年10月に初めて放送された「嗚呼神風特別攻撃隊」は、「神風特別攻撃隊の歌」と改題してレコードとなっている。NHKの「国民合唱」で、放送後レコード化するケースが多いのがわかるだろう。この時代になると、「公募歌」は少なくなり、古関への作曲依頼も、佐藤惣之助、西條八十、大木淳夫などのベテラン作詞家とのコンビが多くなる。

  こうして、軍部、そしてNHK及び新聞社などの要請に、応え続けて大量生産された古関の「戦時歌謡」について、評伝執筆者の一人辻田は、「特別攻撃隊『斬込隊』」、「ほまれの海軍志願兵」に至るまでを「最後の最後まで古関の軍歌を発信し、ともに必勝を叫んだのはNHKだった」(⑦195頁)と記す。とくに「比島決戦の歌」については、古関自身、後に「とってもいやな歌」と語り、東京で敗戦を知って、福島に疎開している家族のもとに戻る車中で「みずからの軍歌の作曲者であったことも、いささか気にならないではなかった」と心中を推し量っていた(⑦202頁)。もう一人の執筆者、刑部は、「自分は戦争によって作曲家として活躍する機会に恵まれた。一方で自分が書いた歌を大衆が支持し、その歌で戦場に送られ、多くの若者たちが死んでいった。そのような矛盾する状況を、古関は終生背負うこととなった」と戦時下の活動を総括する(⑥138頁)。また、古関の長男正裕は、「父は『戦時歌謡』と言っていました。軍に依頼されて作った曲というのはほとんどなく、多くは新聞社や映画会社からの依頼で作った曲なんです」とも語っている(菊池秀一『古関裕而・金子 その言葉と人生』 宝島社 1920年3月、44頁)。

  これまで見て来たように、少なくとも、遺族の方のことばには疑問符がつく。文化統制には、軍部が直接関与する場合もあるが、マスメデイアは、軍部や政府の「指導」を受け、あるいは「依頼」「要請」を受ける形をとるが、「命令」に近い実態であった。刑部、辻田のいうように、古関自身がみずからの戦時下の活動について語っているわけではない。次回は、敗戦後に間断なく続く活動のなかで、古関の戦争責任、戦後責任について触れてみたい。(続く)

<おまけ>

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 かなり汚れ切ったというか、劣化したハンカチの一部である。タンスの端っこの小さな袋の中にあった。左のサイン読めますか。傍らの「二九・六・三」は昭和の日付だ。それからすると私が中学生の頃の、最初にして最後の有名人のサインである。どこでもらったものかはっきりしない。もしかしたら、小学生の頃、島田舞踊(島田豊主催)の池袋教室に通っていたので、その発表会に出かけた折のアトラクションのゲストではなかったかと思う。会場はよみうりホール?どこかの大学の講堂のようなところ?だったような気がする。正解は、記事の表にある、「ラバウル海軍航空隊」の歌い手さんである。

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2020年6月 9日 (火)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(5)「公募歌」という国策とメディアの一体化

   古関裕而の作曲歴から、天皇関連というか、天皇とのかかわりをみてみよう。古関裕而が福島商業学校を卒業後、地元の川俣銀行に勤める傍ら、「御大典奉祝行進曲」を作曲している。1928年(昭和3年)11月10日、京都御所で行われたが、それに先立った5月27日福島公会堂で、この曲は演奏され、さらに式典後の11月、福島商業学校の「御大典奉祝音楽会」でも演奏された(⑥12~13頁)。1930年、内山金子と文通が実って結婚、上京、コロムビアの専属作曲家となって、翌年6月、「福島行進曲」(野村俊夫作詞)「福島小夜曲」(竹久夢二作詞)によりレコードデビューを果たし、縁あって早稲田大学応援歌の「紺碧の空」を作曲、レコード化もされたが、いずれもヒットしたわけではなかった。

  当時、レコード会社はいわゆる「時局歌謡」とも呼ぶべき、社会的な事件、大きな軍事行動や兵士の活躍の報道に連動した歌謡曲を、競うようにレコード化を進めた。古関もコロムビア専属作曲家として、1931年9月18日、柳条湖での関東軍による鉄道爆破で始まる「満州事変」をテーマに12月には「満州征旅の歌」(桜井忠温作詞)、1932年1月には「我らの満州」(西岡水朗作詞)、同年4月には、朝日新聞が歌詞を公募した一つ「肉弾三勇士の歌」(清水恒雄作詞)のレコードが発売されている。古関にとっての時局歌謡のスタートであったが、ヒットはしなかった。

 その後、作詞家の高橋掬太郎と組んだ「利根の舟唄」(1934年、松平晃)「船頭可愛いや」〈1935年、音丸〉がようやくヒットにこぎつける。ここで古関の作曲には、大きな三つの流れが出来上がってきたのではないか。一つは、スポーツ関連の愛唱歌ないし楽曲であり、一つは、「船頭可愛いや」を源流とするいわゆる歌謡曲であり、一つは「時局歌謡」ではなかったか。スポーツ関連では、1936年に「阪神タイガースの歌」(六甲おろしが)が発表されたが、以降は、戦局が厳しい中、もはやスポーツの応援歌どころではなくなっていく。

 やがて、戦前の「時局歌謡」が、大本営発表による戦局報道に基づく作詞に添っての作曲で成り立つ「戦時」歌謡一色になってゆく様相は、すでに、このシリーズ記事の2回目に概観している。

 軍事行動は、旧憲法下では、建前としてすべて統帥権を持つ「天皇の命令」であり、兵士たちの活動は、すべて「天皇のため」であったから、「戦時」歌謡の底流には、天皇制が厳として存在していたことはあきらかである。だから、作詞・作曲が軍部や情報局からの要請でなされていたことは、他の文芸、文化活動に対してと同様であったし、それに反する表現活動や行動は、法律上きびしく監視されていたし、取締まり対象となっていた。が、とくに「戦時」歌謡については、新聞社やNHKなどのメディアが企画、歌詞の公募という形をとるものも多くなった。(④櫻本富雄『歌と戦争』34~38頁、55~58頁)の公募歌のリストと「主な軍国歌謡・愛国歌謡の公募イベント」(中野敏男『詩歌と戦争』NHK出版 2012年、230頁)の二つのリストと、これまで紹介の文献を参考に、散見できる古関裕而の曲をまとめた。今回は、1941年12月8日の太平洋戦争が始まるまでをたどってみたい。それ以降は、次回としたい。

 一般に、「公募歌」とは、主として新聞社や雑誌社などが、国策のいわば旗振り役となって、国民の戦意高揚、士気を鼓舞する作詞を公募し、プロの作曲家に作曲を依頼、ラジオ放送やレコードによって、国民への浸透をはかるものであった。そうした公募歌にも、歌われもしないで沈んでしまうものもあったり、思いがけなく流行したり、前線や銃後における国民の間で定着するものも数多くあった。そして当然のことながら、それらの歌詞には、否が応でも「天皇への忠誠」をうたう文言の存在があった。そうした歌詞に添った作曲を続けた一人、古関裕而の記録である。次表は、その一部ではあるが、主なもものを一覧として、若干の背景を記してみた。

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上記の表をクリックすると拡大されます。

 

 「肉弾三勇士」は、1932年2月、上海の戦闘において自爆した三兵士の美談が報じられて、すぐに、朝日新聞社は歌詞を公募、入選作の三歌詞を、同時にコロムビアからレコード化した。後の二曲は、中野力作詞・山田耕筰作曲、渡部栄伍作詞・古賀政男作曲となった。また、東京日日・大阪毎日新聞社公募の入選作は、ふたを開けたら与謝野寛(鉄幹)の作で、「爆弾三勇士の歌」(陸軍戸山学校軍楽隊作曲)としてポリドール盤が発売されている。この二つの新聞社の応募歌詞数は、「朝日」が12万4500通、「毎日」が8万4000通を超えている。
 「露営の歌」は、1937年、東京日日・大阪毎日新聞の入選第1席は「進軍の歌」(本多信寿作詞/辻順治作曲/陸軍戸山学校軍楽隊)としてレコード化されたが、人気はむしろ、第2席の古関の作曲のものの方が高く、長く愛唱歌として残ったことになる。「勝って来るぞと勇ましく 誓つて故郷を出たからは 手柄立てずに死なれよか・・・」で始まるが、4番の「笑って死んだ戦友が 天皇陛下万歳と のこした声が忘らりょか」で終わる。1938年には、赤坂小梅ほかの女性歌手だけによるレコードも出されている。「進軍の歌」(佐々木康監督)も「露営の歌」(溝口健二監督)もともに前後して映画された。
 「愛国の花」は、NHKラジオの「国民歌謡」として1937年10月18日~23日まで放送された。レコードは翌年に発売され、1942年11月に公開の映画「愛国の花」(佐佐木啓祐監督)の主題歌となった。「真白き富士のけだかさを 心の強い楯として 御国につくす女等は かがやく御代の山ざくら 地の咲き匂う国の花」では始まり、「銃後」の女性に訴える内容になっている。
 
「国民歌謡」とは、1936年6月1日、大阪中央放送局から、第1回が放送され、「日本よい国」今中楓渓作詞/服部良一作曲、)/奥田良三)であった。この年、すでに、4月29日から前身の番組で、大木敦夫、佐藤惣之助、深尾須磨子らの抒情的な歌謡が放送されていたが、二・二六事件が起こり、阿部定事件という猟奇的な事件も起きる中、「忘れちゃいやよ」(最上洋作詞/細田義勝作曲/渡辺はま子)、「ああそれなのに」(星野貞志(サトウ・ハチロー別名)作詞/古賀政男作曲/美ち奴)などの歌が流行っていたさなか、歌謡曲浄化、家庭でみんなが歌える歌をというのが主旨だったか。1941年2月12日には、「国民歌謡」は「われらのうた」へと改称され、同時に「特別講演の時間」は「政府の時間」へ、「戦況日報」は「軍事報道」へと改称され、放送の軍事色は一層強化されることになる。その後のこの番組については次回に譲る。

 「婦人愛国の歌」は、1938年4月1日「国家総動員法」の公布を受けて、『主婦之友』4月号で菊池寛、西條八十、瀬戸口藤吉、吉屋信子、松島慶三(海軍中佐)を選者として公募し、1万7828通の入選作の中から二等のものを古関が作曲した。内務省・文部省・陸軍省・海軍省・国防婦人会・愛国婦人会。国民精神総動員中央連盟が後援となっていた。歌詞の一番は次のようにはじまるが、四番は、「御稜威に勇む皇軍の 銃後を守るわたしたち その栄光に日本の 婦人は強く立ちました」であった。作者は22歳の主婦だった。

抱いた坊やのちさい手に 手を持ち添へて出征の 
あなたに振つた紙の旗  その旗かげで日本の
妻の覚悟は出来ました

 なお、一等の上條操作詞の一番は「皇御国の日の本に 女と生まれおひ立ちし 乙女は妻は母は みな一すじ丈夫の 銃後を守り花と咲く」というもので、28歳の保母であった。歌詞の硬軟?によって、作曲者を選んだものか、一等入選作の作曲は、選者でもあった「軍艦マーチ」(1900年)、「愛国行進曲」(1937年)で著名な、元海軍軍楽隊のベテラン瀬戸口であった。

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『主婦之友』1938年6月号の「婦人愛国の歌」当選発表の記事

 

 「銃後県民の歌」は、1939年、福島民報社が懸賞募集をした当選作で、同社は、併せて「郷土部隊進軍歌」(野村俊夫作詞/霧島昇)もレコード化した。古関の地元、福島への思いを込めた曲であったろうが、彼の場合は、依頼があれば、どこへでも、その「ご当地ソング」を作り続けたし、社歌、校歌、団体歌は数限りないことは前述の通りである。 
 「満州鉄道唱歌」(藤晃太郎作詞/霧島昇・松原操・松平晃)は、1939年3月、満鉄鉄道総局旅客課企画公募、満州新聞社後援。古関は、1939年7月に選者・作曲者として満州旅行に出かけているが、まさに満蒙国境では日ソ軍の激闘が続くノモンハン事件のさなかであった。
 
「暁に祈る」は、「露営の歌」と並ぶ戦前の古関のヒット曲で、テーマが「馬」でありながら、馬を伴う兵士の死と向かう歌詞が身近にも思われたのだろうか、愛唱歌となったという。 40年4月公開の映画「征戦愛馬譜 暁に祈る」(松竹 佐佐木康監督)の主題歌となった。 
 
「嗚呼北白川宮殿下」は、「国民歌謡」として、1940年12月9日~13日まで放送されたが、これに先だって、40年11月17日華族会館で発表会が行われている。ここで歌われている北白川永久は、40年9月4日、軍務で滞在していた上海の飛行場で事故死したが、戦死として大きく報道された。作詞の二荒は、永久の大叔父にあたるという。
 
「海の進軍」は、読売新聞社が海軍省、情報局、大政翼賛会の後援で「海国魂の歌」と題して公募している。「菊の御紋のかげ映す固い守りの太平洋・・・」「御稜威かがやく大空に・・・」の文言とともに「進む皇国の海軍の晴れの姿に栄あれ」で結ばれている。

 なお、公募歌ではないが、1937年、38年、39年の宮中歌会始の御題、それぞれ「田家雪(でんかのゆき)」「神苑朝(しんえんのあした)」「朝暘映島(ちょうようしまにうつる)」と題し、西條八十作詞の曲も作られていたことも記憶にとどめておきたい。ストレートな天皇制への傾斜とともに、歌会始における題詠による短歌とテーマを与えられて作詞・作曲をする歌謡曲とに共通する限界が見いだされるのではないか。

 今回の作業には、下記の国立国会図書館の「歴史的音源」のリストと辻田真佐憲による紹介も参考にした。

国立国会図書館歴史的音源<古関裕而>(386件)
https://rekion.dl.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E5%8F%A4%E9%96%A2%E8%A3%95%E8%80%8C&viewRestricted=1

辻田真佐憲「商品だった<時局歌謡>」https://rekion.dl.ndl.go.jp/ja/ongen_shoukai_15.html

(続く

 

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2020年6月 4日 (木)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝どれ「エール」は戦時歌謡をどう描くのっか(4)誰にでもエールを送る人は

   私の育った家は、スポーツとはほぼ無縁だったといっていい。観戦したり、ラジオやテレビを視聴したりする習慣はほとんどなかった。休業日もなく、両親や長兄は店で働いていたし、スポーツは別世界のことに思えた。1964年の東京五輪の際も、およそどの種目も勝敗はどうでもよかったし、日の丸が掲げられるのを見るのも好きではなかった。私たちの世代は、小中高校の行事で国旗掲揚や君が代斉唱はなかったし、「道徳」の時間もなかった時代の教育を受けている。日の丸も君が代も、好きではないというより、いまでは嫌悪感を覚える。もし、スポーツでの勝負や記録を競うなら、チームや選手個人が単位であって、なぜ国を挙げて戦わねばならないのか。大きい国もあるし小さい国もある。日の丸を背負うとか、いい色のメダルを目指すとかいう選手のコメントを聞いていると、二位ではダメなの?と問いたくなり、健全なスポーツ精神とがなかなか結びつかない。チームに外国人はいるし、海外で指導を受けたり練習したりする選手も多いし、選手の出自も多様となった現代、スポーツにとって<国>はどれほど意味があるのだろうか。
 だから、私は、今回の東京五輪招致には反対であったし、ほかにやることが先にあるだろう、という思いだった。原発事故被害が懸念される中、安倍首相は、IOCのプレゼンで<アンダーコントロール>されているとウソを述べたことに始まり、新国立競技場の設計コンペの予算オーバーでのやり直し、入選エンブレム盗作疑惑によるやり直し、幹部の招致汚職疑惑などJOCの不祥事が続き、いくつかのスポーツ団体での暴力事件やパワハラ疑惑なども問題となった。いずれも、中途半端な収束が続いた。そして、今回の新型コロナウイルス感染拡大による「2020年東京オリンピック」の一年延期である。首相がいう「新型コロナウイルスに打ち勝った証として」の開催も、もはや不可能なのではないか。 

 前置きが長くなったが、古関裕而は、いわば作曲家としてクローズアップされた、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」(住治男作詞 1931年)に始まり、戦前・戦後を通して、スポーツ音楽、校歌、社歌など、選手、児童・生徒・学生、働く人たちを応援する作曲を数多く手掛けている。NHKの「エール」という題名も、ここに由来するのだろう。ここでは、スポーツ音楽に限ってたどってみよう。「日米野球行進曲」(久米正雄作詞 読売新聞社主催日米野球開催に際して米チーム歓迎の曲/コロンビア合唱団)に続き、主なものをあげてみる。この表の作成が、案外厄介で、⑤⑥の「作曲一覧」で、不明なものは、他の情報で補った個所もある。解説はあっても発表年やレコード発売年月の記述がないもの、歌い手、演奏者が不明なものもある。間違いがあればご教示いただきたい。
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 スポーツ関連の楽曲は数多いが、上記の表で見るように、早稲田大学のと慶應義塾大学の応援歌を共に引き受け、巨人ジャイアンツ、阪神タイガース、中日ドラゴンズの応援歌を共に引き受けている点で、依頼があれば拒まず、といった姿勢である。大学の応援歌は、他にも明治大学、中央大学、東京農業大学、名城大学などがある。校歌・社歌はじめ団体歌も自衛隊、日本赤十字社、仏教、新興宗教に至るまで、さまざまなのである。誰にでも、どこへでも、エールを送る人は、「いい人」なのだろうか。

今回の作業のさなかに注文をしておいた次の本が手に入った。

⑦辻田真佐憲『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』 文芸春秋 2020年3月

 この著者の本は、初めてなのだが、少し前に、ネット上で見つけたいくつかのエッセイなどは、時期を得た、鋭い指摘と知見には関心を寄せていた。かなりマニアックなほどの資料探索は、若い人には珍しいとも思っていた。とくに、1964年の東京オリンピックについては、改めていろいろ知ることが多かった。そんなこともあって、この本では、古関裕而とスポーツ音楽をどうとらえているかには深い関心を寄せていたのだが、一冊を通読しての感想は、ずいぶんとマイルドな書きぶりになっていると、まず感じた。

<参考>辻田真佐憲執筆
<ジセダイ総研>

20160823 更新

オリンピックの熱狂と「転向」する文学者たち 2020年われわれは冷静でいられるか

20160721 更新

多くの国民が無関心だった? 1964年のオリンピックはこんなにもダメだった

 なお、Wezzyというwebマガジンのインタビュー〈2020年5月9日〉では、「『エール』では「軍歌の覇王」としてのエピソードをどのように描くと思われますか」については、古関にとって重要な「軍歌だけでなく、彼はアジア太平洋戦争下には、その日の戦果をすぐ歌にして放送する「ニュース歌謡」というジャンルの作曲も手がけています。そういった歌はNHKラジオで放送されていました。つまり、古関の軍歌にはNHKも深く関わっているわけですよね。ドラマで戦争とNHKの関係を全スルーというのは、やはり難しいと思います」とも、語っている。また、「メディアや芸術家が国策に丸乗りした結果、社会になにがもたらされるかということについて歴史には学ぶべき例がたくさんあるわけですが、古関の過去もそのひとつだ」とし、「生活のために日々のお金は稼がなくてはならないわけですけどそのなかで政治とどう距離を保っていくか。そのバランス感覚の問題ですよね。身につまされる話です」とも。

 また、本書の末尾で、古関が「流行歌のヒットメーカーになり、軍歌の覇王になり、そして大衆音楽のよろず屋となった」要素として、二つのねじれをあげている。一つは若い時からのクラシック願望による「芸術志向と商業主義のねじれ」であり、一つは「ノンポリゆえにかえってどんな政治的音楽でも自由自在に作れるというねじれ」であったとする。前者が多様な楽曲を生んだ要素となり得たかもしれないが、後者の「自由自在」とは、何なのだろう。私が言い換えるとすれば、表現する者の「無節操」「無責任」の極みにも取れてしまう。

 ⑦の著者も、⑥刑部『古関裕而』と同様、古関の遺族、古関裕而記念館、日本コロムビアからの資料提供を受けている。とくに遺族への取材や遺族から資料提供を受けている場合は、のちの書きぶりに大きな影響を与えるのはたしかで、それだけでも、客観性において、一つの限界があるように思うからだ。さらに、レコード業界などにも切り込んだデータや記述がある一方で、事実を羅列するのではなく、「物語性」も加味したというのでは、歴史、評伝もののドラマや、ドキュメンタリーにさえ、物語性を入れ込むNHKの手法にも与することになりはしないか。歴史を語るのには、物語性より、事実と資料による明快さが優先されるべきだろう。

 次回は、古関裕而及び新著2冊の著者と天皇制にかかわる部分に言及してみたい。(続く)


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上段は『川田正子・孝子愛唱曲全集』(海沼実撰曲、白眉社 1948年8月)には、41曲が収録されているが、「とんがり帽子」はない。下段は『日本童謡唱歌百曲集改訂版』(加藤省吾編 新興楽譜出版社 1950年11月)には、童謡80曲、文部省唱歌20曲が収められているが、ここにも1947年7月に始まった「鐘の鳴る丘」主題曲の「とんがり帽子」はなかった。前回記事の、歌謡曲集に収められていたということは、「童謡」としては認められていなかったようだ。その辺に何かの事情があったのだろうか。

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2020年5月31日 (日)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(3)

 古関裕而と菊田一夫の出会いに移る前に、近くの書店を回って、入手できた本について書いておきたい。
⑥刑部芳則『古関裕而―流行作曲家と激動の昭和』中央公論新社 2019年11月(2020年3月 3版)

 この本の執筆は、少年時代から古関裕而の大ファンであったことに加えて、NHK朝ドラ「エール」の放送企画が契機となり、古関裕而の遺族、古関裕而記念館学芸員、日本コロムビアなどの協力のもとに始めたと、著者は「あとがき」に記している。そして、「エール」の時代考証を担当することにもなったという。本のオビには「昭和の光と影を歩んだ作曲家の軌跡」とうたわれ、これまで見られなかった史料や既刊の関係雑誌文献や図書を駆使した労作である。同時に、古関への敬慕とオマージュが色濃い書でもあった。私が、まず着目したのは、巻末の「作曲一覧」で、レコード発売作品、映画音楽作品、舞台音楽作品の三つの編年体のリストで、それぞれ、発売年月日、封切り年月日、公演期間と現在の聴取手段が記されている貴重なデータであった。古関を語るには、基本的な資料であり、私の前回、前々回の当ブログ記事を書いている折の疑問が解けたものもあり、データの大切さを知った。

 その一つが、古関裕而記念館の「作曲一覧」で「比島沖の決戦」(西條八十作詞/酒井弘・朝倉春子)の発売年月が敗戦後の1945年12月となっていたことで、記念館に電話で問い合わせたところ、電話口の館長は「論理的におかしいですね。学芸員に伝えます」とのことだった。今回、⑥の「作曲一覧」を見ると、1945年2月20日となっていた。本文の記述によると、1944年12月17日に「比島決戦の歌」がラジオで発表され、以降、いくつかの歌番組で放送されていたが、実際にレコードが発売されたかは不明ともいう(⑥129頁)。これは、④の著者の記憶や推測とも一致する。なお、この「作曲一覧」によれば、1945年2月20日には、「フィリッピン沖の決戦」(藤浦洸作詞/伊藤武雄)も発売されていることになっていて、ラジオでは、1945年1月5日まで放送されていたという(⑥128頁)。また、この本について、は後にも触れることにする。

 さて、古関の生涯、作曲家としての仕事に大きな影響を与えた菊田一夫との出会いは、菊田の脚本によるNHKラジオドラマ「当世五人男」の音楽を担当することになった1937年が最初であったが、戦時下に途絶え、再会するのは、1945年10月28日から7回シリーズのNHKラジオドラマ「山から来た男」であった。そして、「鐘の鳴る丘」(1947年7月5日~1950年12月29日)、「さくらんぼ大将」(1951年1月4日~1952年3月31日)、「君の名は」(1952年4月10日~1954年4月8日)と続くのである。
 私が聴いていた記憶があるのは、前二つで、「君の名は」は、兄たちが「すれ違いだらけのメロドラマだよ」みたいなことを口にしていたのは覚えているが、母も店が忙しい時間帯でもあり、聴いていた姿の記憶はない。銭湯の女湯ががら空きになった、とかの宣伝文句も後に聞いたことはあった。営む店が「平和湯」という銭湯のはす向かいだったので、石鹸やへちま、軽石、アカスリなどのお風呂用品が普通に売れていたが、「がら空き」の件は、もちろん話題にもなっていなかったと思う。当時は、大人の洗髪料金を申し出により?番台で余分に払っていた時代ではなかったか。そもそも料金はいくらだったのかな、など思い出も尽きないのだが。
 当時のラジオ番組で、私が欠かさず聴いていたのは、「鐘の鳴る丘」と「おらあ、三太だ」で始まる「三太物語」(青木茂作)であったと思い、調べてみると、後者の放送期間は1950年4月30日から51年10月28日とあり、「鐘の鳴る丘」「さくらんぼ大将」と一部重なっていることがわかった。

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『全音歌謡傑作集』(全音楽譜出版社 1948年10月 45円)は、私が、建て替え前の実家の物置から持って出た、敗戦直後の数冊の流行歌集のなかで一番古いもの。いわゆる仙花紙なので、どこを触っても崩れそうな、補修もままならない。やや扇情的にも思える表紙絵のこの歌集に「とんがり帽子」が、載っていた。「とんがり帽子」は、レコードでもラジオドラマでも、川田正子が歌っていて、海沼実が指揮する「音羽ゆりかご会」の合唱が入っているはずなのだが、敗戦直後の何冊かの川田孝子・正子の愛唱歌集や童謡集にも、収録されていないのが不思議だったのだが。


 また、当時の記憶に残る番組は、いくつかあるが、7時のニュースの後に始まる「向こう三軒両隣り」(1947年7月1日~53年4月10日)、「朝の訪問」(1948年4月4日~64年4月5日)、「日曜娯楽版」(1947年10月12日~52年6月8日)、日曜の8時からの「音楽の泉」(1949年9月11日~、進行役の初代:堀内敬三)とたどってゆくときりがない。「日曜娯楽版」が、政府の圧力か、いまでいう、NHKの政府への「忖度」で終了したらしいと、次兄などが悔しがっていたのを思い出す。この件は、当時国会でも議論されていて、末尾の「敗戦とラジオ」の記事をご覧いただけたらと思う。

 古関と菊田との仕事の流れを見てみよう。1947年7月にラジオドラマ「鐘の鳴る丘」が始まる前に、菊田一夫の新国劇「長崎」の劇中で歌った歌が、映画「地獄の顔」で渡辺はま子が歌ったのが「雨のオランダ坂」(1947年1月)であり、それに続いたのが「とんがり帽子」だった。二人が映画やらラジオドラマに関係ない歌を作り出そうとできたのが「フランチェスカの鐘」(1949年3月)だった。サトー・ハチロー作詞「長崎の鐘」(1949年6月)、菊田との「イヨマンテの夜」(1950年1月)とヒット曲が続いた古関・菊田は、その後も、1952年に始まった「君の名は」および関連曲のレコードなど、1956年ころまでは、年に4~8曲は発売されるというブームが維持される。同時に、西條八十、サトウ・ハチローらのベテランの作詞家とともに、古関と同郷の野村俊夫、丘灯至夫(十四夫)とのコンビも多くなるとともに、映画音楽の仕事も1950年代の半ばから後半にかけて、年に5本から多いときは13本までに及びピークをなす。そして、菊田との仕事は、1956年から、東京宝塚劇場、梅田コマ劇場、芸術座などを中心に舞台音楽が多くなり、演目は、歴史もの、文芸作品から母物、剣豪もの、喜劇、ミュージカル、外国の翻案ものなど菊田の多種多様な舞台での名コンビぶりを発揮していたようだ。帝国劇場の「風と共に去りぬ」芸術座の「がめつい奴」「がしんたれ」などの大阪もの、「放浪記」などのロングランは、演劇界をにぎわしていたが、私は残念ながら、これらの舞台とは無縁ではあった。1973年、菊田一夫の死去に伴い、古関の舞台音楽も終わり、同時に、1960年代後半になると、テレビの普及、テレビドラマの台頭により、映画自体の流れも大きく変わり、斜陽産業といわれる時代に至り、古関の映画音楽も終息に向かった。

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『歌のアルバム』(全音楽譜出版社 1948年1月)は、12.5×9㎝の横長の小さな歌集で、最終頁に載せられた「雨のオランダ坂」と「夜更けの街」ともに古関・菊田のコンビだが、楽譜はない。左頁の端が切れているが、こんな製本ミスの本も25円で買ったということだろう。裏表紙に父のサインがある。

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同じ『歌のアルバム』から「フランチェスカの鐘」、これには楽譜がついている。どこを開いても崩れそうな・・・。 

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古関とサトウ・ハチローの「長崎の鐘」の歌詞はもっぱら長崎原爆投下の犠牲者の鎮魂をうたっているが、元になった、永井隆の『長崎の鐘』(1941年1月)は、GHQの検閲下、半分近くの頁を日本軍のマニラにおけるキリスト教徒虐殺の記録「マニラの悲劇」付録とするものであった。この著書はじめ、永井は「浦上への原爆投下による死者は神の祭壇に供えられた犠牲で、生き残った被爆者は苦しみを与えてくださったことに感謝しなければならない」と繰り返していた。原爆投下の責任を一切問うことをしていない。「長崎の原爆投下の責任について<神の懲罰>か<神の摂理>を考える」(2013年5月30日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/05/post-15f2.html
も併せてご覧ください


 なお、古関は、ドラマ以外にも、多くのラジオ番組のテーマ曲や主題歌を提供した。最初の農事番組といわれる「早起き鳥」(1948年4月1日~終了日?)の「おはよう、おはよう」で始まる歌やにぎやかなオープニングの「今週の明星」(1950年1月8日~1964年4月2日)、ゆったりとした「ひるのいこい」(1952年11月17日~)「日曜名作座」(1957年7日~2008年3月30日)のテーマ曲が思い起こされる。「日曜名作座」の、後継番組「新日曜名作座」(2008年4月6日~)では、テーマ音楽のみが継承されているとのことである。1960年以降になると、ほとんどラジオを聞かなくなるので、これらのメロディーを耳にすることはなくなった。

次回は、古関裕而とスポーツ、応援歌を中心に、振り返ってみたい。(続く)

当ブログの過去記事もご参照ください。

◇2012年9月26日 
緑陰の読書とはいかないけれど②『詩歌と戦争~白秋と民衆、総力選への「道」』(中野敏男)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/09/post-9cea.html

◇2010年12月2日・3日 
『敗戦とラジオ』再放送(11月7日、夜10時)」を見て(1)(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/12/11710-50ed.html
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/12/11710nhk-960d.html

◇2006年2月17日
書評『歌と戦争』(櫻本富雄著)(『図書新聞』所収)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/02/post_d772.html

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