2023年3月12日 (日)

2011年3月11日、あれから12年、原発回帰は許さない

 あの日は、すばらしい晴天に恵まれた朝だった。私たち夫婦は、浅草公会堂での東京大空襲展を見学、被災者の体験談のコーナーで話をお聞きした後、新宿の写真展に向おう山手線に乗っていた。午後2時46分、大きな揺れとともに電車は止まった。なんどもの余震、車内の停電、不安は募るばかりだった。九段会館の天井が落下、死者が出たというニュースが車内でささやかれていた。4時をまわった頃、先頭車両から線路に降ろされ、最寄りの代々木駅まで歩き、さらに新宿まで歩くほかなかった。新宿駅南口は、すでに人でごった返していて、駅頭の大きなテレビ画面には、被害の状況と津波予想の日本地図がなんども映し出されていたが、巨大津波の被害や原発事故は、知る由もなかった。千葉県佐倉市の自宅に帰る術もなく、池袋の実家に向かうことしか思いつかなかった。歩いたことはないが、歩けない距離でないだろうと。それでも、連れ合いは、近いホテルに飛び込んだり、問い合わせたりしたが断られ、携帯もつながらなくなっていた。明治通りの歩道は人の列でいっぱいになり、道路いっぱいの車列の動きは鈍くなっていた。進まぬ人間の塊、動かない車列・・・。公衆電話への長い列があれば、歩道の人間の列は少しく崩れる。そんな目に何度か会いながら、ただただ黙々と歩いて、千歳橋まで来ると、サンシャインの明かりだけが親しく思えた。二人とも持っていたカメラだったが、この状況を写すということを思いつかなかった、そんな気持ちのゆとりもなかったのだろう。電話もつながらないまま、義姉が一人住む池袋西口の実家へたどり着き、玄関口を開けてもらったときは、ほっとしたものだった。
 「帰宅難民」ということばも、この地震で流布し始めたのではなかったか。私たちは、まさに帰宅難民だったわけだが、実家へ歩ける距離でなかったら、どうなっていたのだろう。 
 しかし、岩手、宮城、福島県、そして千葉県の人たちも、津波では多くの人が肉親を失い、家や職場を失うという被災者となった。原発事故は、住む家のみならず、町や村自体を失い、避難を余儀なくされ、その関連による多くの犠牲者をももたらした。その悲劇や打撃は「帰宅難民」の比ではない。 

 そんなことを思い出させる一日だったが、3月10日、仙台高裁(小林久起裁判長)は、原発事故の国の賠償責任を認めない判決が出た。2022年6月、国の賠償責任を否定した最高裁判決後の初めての高裁判決であった。この判決では、政府が公表していた地震予測「長期評価」にもとづき津波は予測でき、東電に津波対策を命じていれば「重大事故を避けられた可能性は相当程度高く」「経産相が規制権限を行使しなかった不作為に義務違反がある」としながらも「津波の防護措置には幅があり、取られる措置によって必ず重大事故を防げたと断定はできない」として国家賠償法上、権限の行使を怠ったことで原告に損害を与えたとは言えず、賠償責任はないとの結論を下したのである。東電には、国の賠償基準の「中間指針」を上回る賠償額を命じた。

 国は、上記指針を上回る賠償を東電に命じる判決が相次いで出されても、その指針を見直すことにすら消極的で、昨年の12月に、9年ぶりに改訂するありさまであった。

 折も折、岸田政権は、原発の建て替えと運転期間の60年以上を容認する方針を決定した。これは、福島第一原発事故後の2014年、「可能な限り原発依存度を低減」し、「再生エネルギーの導入を加速」すると明記していた第4次「エネルギー基本計画」を大きく転換するものである。3月3日の参院予算委員会で「エネルギーの安定確保」と「脱炭素」への対応として原発の必要性を明言した。「再生エネルギーの主力電源化」は掛け声だけで終わったのか。

 さらに、原発事故後に発生している汚染水の置き場所がないことを理由に、薄めて海へ放流するという拙速な計画が、地元の漁業関係者はじめ、県民、国民の不安が募る中、実施されようとしている。

 国民の命と暮らしを守ると言いながら、真逆のことを進め、防衛費の増強、軍拡への道は、国民の命と財産を守るどころか、アメリカ依存、アメリカへの隷従を強化することによって、国民の不安は高まり、ことによっては、国自体をも危うくしているのではないか。

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2022年3月12日 (土)

2022年3月11日、そして、これから

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私たちは、この町の名前忘れてはならない。2022年3月『毎日新聞』より 

  14時46分、私は、病院の会計待ちで、電光板と脇の時計を見ていた。まず、思い起すのは、新宿に向かう山手線で、電車が大きく揺れたと思ったら停車し、2時間近く閉じ込められ、帰宅困難者となったことだった。そして、五年後、訪ねた女川の高台の病院、津波に襲われ、奪われた多くの命、石巻の日和山でガイドさんから聞いた家ごと、バスごと流され、失われた命を思い、うつむくほかなかった。また、福島の原発事故から逃れ、故郷に戻れない人々にも思いをはせるばかりであった。病院を出た後は、歯痛のため慌てて予約した歯科クリニックにも寄った。この日、私はいったい何をしていたのか、あわただしいばかりの一日であった。この11年間、いったい、私は何を見て、何をしてきたのか。

 マス・メディアは、犠牲者を慰霊し、残された家族や被災者の「絆」や再出発の希望を、ことさら報じるけれども、離れて暮らす私たちには、その現実は、なかなか見えてこない。 それでも、たとえば『東京新聞』の「こちら原発取材班」の記事などで、福島第一原発事故の見えない収束の実態を知り、被災地の歌人たちの歌集などで、その思いが伝わってくる。 ボランティア体験も乏しく、想像力も旺盛とは言えない私の根底には、ささやかな現地体験と限りある収集の術による情報しかない。

 2011年3月11日当日、自宅の佐倉には帰宅できないことを知った私たち夫婦は、新宿から私の実家のある池袋へとひたすら明治通りを歩くしかなかった。実家にもケータイではつながらず、途中の公衆電話は、どこも長蛇の列だった。高層ビルが続く明治通りは、まるで海の底のようで、隙間がない人々の黒い塊が、まるで巨体生物が実にゆっくり移動する様にも思えた。みな黙々と足を運ぶだけだった。サンシャインビルの灯りを目指し、神田川を渡ると池袋も近いと思う反面、義姉が一人暮らす実家はどうなのだろうと不安でもあった。車道の車の列は、どちらの車線にもびしりと連なり、まったく動く気配がなかった。不思議なことに、私たち二人はカメラを持っていながら、この状況を一枚も撮っていないことが後になってわかった。周辺の人たちも、カメラを持ち出す人はまず見受けられなかった。

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3月11日4時半近く、山手線の電車を降ろされ、歩き出す、原宿駅付近。

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3月11日4時半近く、新宿駅に向かって歩く、このころまでは写真を撮る余裕があったのか。

 当日の4時半ころ、歩くしかないと決めた新宿南口の巨大テレビ画面でも、津波予報の日本地図が映し出されてはいたが、津波の被害状況は分からなかった。7時少し前に着いた実家での熱いお茶に、ともかく恐怖心から解放されたという思いだった。その後にもたらされる、津波、原発事故のおそらしさを知らないままではあった。

 五年後、縁あって、父親の代から原発反対の運動にかかわっていらした女川町議会のA議員の話を聞きながら、女川原発近くまで案内していただいた。沿道の木立の枝にひっかかったままのブイや新たなトンネル工事、廃校跡、太平洋戦争時の特攻艇庫の跡などを目の当たりにした。原発が見える窓からの撮影は禁止という、原発のPRのための施設のそらぞらしさは、現在流されている電気事業協会の石坂浩二のエネルギーミックスのCMにもつながる。
 石巻では、ガイドの案内のあと、雨の中、私たちだけで、街中を歩いた。そこで、出会ったのが立町のプレハブの仮設商店街のパン屋さんだった。津波で流された店を継ぐ形で立ち上げたというパン工房パオ。仮設もあと数カ月で立ち退かなければならない中、頑張っていた。周辺の店に立ち寄る客の姿もなく寂しい限りであった。パオさんの名物、ゆば食パンは、いまも移設先で健在らしい。漁師相手のバーや居酒屋が立ち並んでいたであろう一画は、ほとんど更地になっていて、残された看板と街の角々に立つ石ノ森章太郎のキャラクターが記憶から去らない。

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2022年3月7日『朝日新聞』より

 最近の新聞で、上記「復興商店街 再生の正念場」(『朝日新聞』2022年3月7日)という記事を見かけた。そういえば、女川駅前の、完成して間もない「シーパルピア」はどうなっているのだろう。安倍首相や天皇夫妻を迎えた折の写真が目についたが、私たち観光客を迎えるにしては、さびしげな店が並んでいるだけだった。新しい駅舎の山側では、削った土砂でのかさ上げ工事の真っ盛りであった。高い防潮堤を築かず、海の見える街を目指し、女川町と都市再生機構URと鹿島・オオバ共同体による復興事業は、復興のシンボルのようにもてはやされていた。基盤工事は完了、鹿島は、そのホームページで、女川町の「震災復興から次のステージへ」と「祈念」するが、どれほどの人たちが戻ってきたのだろうか(「東日本大震災における鹿島の取組み―女川まちづくり事業」)。
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2014年3月、女川駅周辺、この2枚は、鹿島のホームページから。
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2020年3月、女川駅周辺。新しい駅は、2015年、中央の煉瓦通りの手前に建設されている

 石巻でも、2兆円近い復興費を注がれたものの、街の賑わいは戻らないという(「復興1・9兆 街には空き地」『朝日新聞』2021年1月28日)。
 福島の場合はより深刻なのではないか。たとえば、大熊町では、来年4月に町立義務教育学校「学び舎 ゆめの森」が開かれる。新学校は小・中学校が一貫し、認定こども園(保育園と幼稚園)も併設され、0歳から15歳までを対象にするという。国からの予算をもとに総工費は45億3900万円に及んだが、来年通学予定の児童・生徒たちは6人だという。会津若松市へ避難した保護者たちからは、就業や住環境が整わない大熊町に戻るメリットがないというのだ。大熊町は、約6割が帰還困難区域になっているが、地図で見る青色地域が「特定復興再生拠点区域」になるという。

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大熊町の青色の地域に限って、帰還できるといい、学校も建設したのだろうけれど。環境省除染情報サイトより。

 復興というが、復旧もままならず、国や自治体がすることは、ほんとうに住民の意に沿うものなのか、疑問は増すばかりである。

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