2025年8月13日 (水)

『神近市子の猛進』を読む、神近は短歌も詠んでいた(2)神近市子、波乱の生涯

   神近市子は、長崎県出身、父と兄を幼少時に亡くし、姉二人との母子家庭で貧しかったが、読書する文学少女で,活水女学校を経て、津田梅子の女子英学塾で学ぶ。在学中に『青鞜』に参加、1913年女子英学塾卒業後、弘前の県立高等女学校の教師になるが、『青鞜』への参加がばれて一学期で退職。東京に戻り、尾竹一枝(後の富本紅吉)、伊藤野枝とも知り合い、小野賢一郎(1888~1943,俳号は蕪子)の紹介で東京日日新聞の記者となる。東京日日新聞の高木信威(1872~1935)との不倫関係にあって女児を出産、生家に預け、記者活動を続けていたことが、上記事件の公判中に明らかになった。

 1915年大杉と知り合い、16年上記の事件に至り、東京日々新聞社を退社。1919年服役後からは小説、翻訳、評論など多角的な文筆生活に入り、20年に鈴木厚と結婚、一男二女をもうけるが、39年に離婚。その間、プロレタリア文学運動にもかかわるが、28年長谷川時雨の『女人芸術』創刊より参加、その廃刊を継ぐような形で、34年には自ら『婦人文芸』を創刊する。当時の執筆メデイアは、新聞、総合雑誌、婦人雑誌、文芸雑誌、時局雑誌等多岐にわたる。人脈も広めてゆく。39年の離婚前後から、3人の子どもとの生計も神近の双肩にかかってきたためか、執筆量も多く、大手出版社による『中央公論』(中央公論社)『雄弁』(講談社)『現地報告』(文芸春秋社)『新女苑』(実業之日本社)などへの寄稿も増した。日本文学報国会の会員ではあったが、彼女の論稿の基調は、戦時下の女性労働者の重要性とその権利保護にあって、意識的に、戦意高揚に直接的につなげることを避けたきらいがある。また、とくに太平洋戦争開戦前後からは、語学力を生かして、1940年『トルキスタンの旅』『動物と人と神々』『アメリカ史物語』、1941年『アメリカ成年期に達す』、1942年『新疆紀行』、1943年『船と航海の歴史』などの翻訳が多いのが、他の評論家に見ない特色と言えるのではないか。

 近年よく使われるようになった、内閣情報局の内部資料『最近における婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)は、婦人雑誌八誌を対象に、婦人執筆者の執筆頻度、その内容種別などを、1940年5月号から翌年の4月号までを調査、各人、各文献の解説、出版社の評価など「量的」「質的」分析がなされている資料である。今回、神近市子を調べてみると、「純粋評論家」として3点が挙げられ、決して多い方ではないが、「彼女の婦人解放の思想は此の意味に於て依然として、社会組織に於ける不合理の状態の廃止を目指して社会を変化せんとするあの社会主義的態度を思はせるものがある」などと評されている。

 『神近市子の猛進』の著者石田は、戦時下における神近の文筆活動について、つぎのように述べている。
「そこに女性の戦争協力を先導するような言説はなく、運動として表舞台に立つこともなく、街頭に進出することもなかった。戦争を奇貨とする点では同じであったが、女性の国民化という大衆運動を展開し、公職追放となる市川房枝のように、戦争協力が問われることになる女性指導者たちとは、その点で一線を画していた。」(200頁)

 戦後は、その参議院議員市川房枝らとともに、神近は売春廃止の法案を何度も国会に提出するが廃案になっていたが、さまざまな曲折を経て、不備が指摘される中、t956年5月24日公布に至り、施行させた彼女たちの功績ははかりしれないものがある。 

 私は、短歌の師であった阿部静枝が、上記の資料で「純粋評論家」として、多くの婦人雑誌に重用された実態について触れたことがある。夫、阿部温知とともに無産政党の党員としての活動の過去がありながら、戦時下において、評論家としての執筆や活動を拡大してきたのは、かつての活動で得た知見や執筆・弁舌能力と社会性を備えていたからであり、歌人という肩書も加わって、翼賛へと傾いていった過程をたどったことがある。また、彼女には、結婚前に、男児を出産し、隠すように他人に預けて活動してきた経緯があり、夫と死別してからは、子供を引き取ったことによる経済的な必要と体制やメディアから「期待」される蜜の味も手離したくなかったため執筆活動に励んだ一面もあったと推測される。そして、戦後は、社会党から分かれた民社党の党員となり、豊島区区議会議員を三期務めたことを思うと、神近市子ほどの革新性や話題性はないが、一人の女性の歩みとして、似たような軌跡ではなかったかと、あらためて感慨深いものがあった。

参考:「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか 女性歌人起用の背景」『ポトナム』2006年1月~2月。『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 2013年8月)所収

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下段は「量的考察」の「純粋評論家」の図表の一部。氏名の五十音順で、阿部静枝は11点で座談会が多いのが目立つ。後のページで、トップは宮本百合子の22点、次が羽仁もと子の19点が突出している。

 

 

 

 

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2025年8月12日 (火)

『神近市子の猛進』を読んだ、神近は短歌も詠んでいた(1)神近市子の短歌

・ひとり居て思うことあり 嬉しきは孤独に生きる力もつこと

  神近市子が、このような短歌を詠んでいることを、石田あゆう『神近市子の猛進 婦人運動家の隘路』(創元社 2025年3月)で知った。なるほど、神近らしい、と思った。

 神近市子(1888~1981)といえば、なんといっても、アナーキストで自由恋愛を主張する大杉栄と恋愛関係にあったが、妻堀保子と愛人伊藤野枝(辻潤の妻)の四人の複雑な関係と確執から、1916年11月9日、葉山の日蔭茶屋で大杉を刺傷したという事件が有名で、裁判を経て、17年10月から2年間服役している。当時は、神近の嫉妬による犯行であるといったスキャンダルめいた報道が多かったようである。今ならば、有名人のW不倫以上の複雑な関係が取り沙汰されるに違いない事件だった。
  私は、神近市子の「社会党左派」の議員であった、もう一つの顔の方が身近だった。私の若いころ、生家のあった地元池袋を含む当時の中選挙区「東京5区」選出の政治家としての姿が印象に残っている。母と出かけた演説会や選挙ポスターから受ける印象はやはり、「闘士」の面影が色濃かった。1953年、吉田茂首相の「バカヤロー解散」後の選挙で 初当選、65歳であった。ちなみに、そのときの東京都の当選者は以下の図表の通りで、なんとなつかしい名前ばかりである。

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1953年4月衆議員選挙東京都当選者。5区に鈴木仙八、神近市子、河野密、中村梅吉の名前が見える。淡い空色が社会党左派で原彪、鈴木茂三郎、帆足計、島上善五郎、山花秀雄。ブルーが浅沼稲次郎、加藤勘十、三輪寿壮、菊川忠雄、山口シズエ、中村高一。社会党が強かった!

 

  この後も、神近は、60年11月の一度の落選を挟んで、55年1月、58年5月、63年11月、67年1月の選挙で当選、5期を務め、81歳で政界を引退している。

 1919年の出獄後から1953年衆議院選挙で初当選するまでの間の活動は、断片的に垣間見ることはあったが、『神近市子の猛進』で初めて知ることも多かった。

 その一つが、神近と短歌の出会いであった。(66頁)出典は、神近の長男鈴木黎児編集による『神近市子文集(三)』(武州工房 1987年11月)であった。さいわいにも、国立国会図書館でデジタル化されており、しかも個人送信により入手することができた。そこには、二本の短歌関係の随筆が収められていた。それらの文献によれば、神近が鈴木厚との結婚時に「(淀橋区)下落合」に住んでいたのは、半田良平宅の道路を隔てた向かいであり、その後も近くに家を建てたらしい。半田良平夫妻、子どもたちと家族ぐるみの交流があったことと、今井邦子の『明日香』には、気ままに投稿する仲だったことが書かれている。

 北海道に遊説で道南を回った折にはつぎの歌を含む五首を書き留めている。
・見はるかす札幌のかた夕陽はえて ポプラの並木赤くもえたつ(月寒の丘にて)

・開拓の長き苦難をかたるかに 古きサイロ山合にみゆ(倶知安にて)

 衆議院の法務委員会で、岐阜・愛知へ視察に出かけたとき、岐阜の宿で、請われて色紙に書いたのは、東海道での光景を詠んだつぎの歌だった。同行の議員たちも、その光景を見ていたので、喝さいを浴びたという。
・白鷺はおもしろきかな畔にいて 田植える人を眺めて立てり

  当時の「心境にはつぎの歌がもっともピッタリとくる」として、エッセイを閉じている。
・つれづれを史記よみてあり愛しきは 夏殷周の興亡のあと

 (以上「歌と詩と――半田氏の自称弟子」『随筆サンケイ』1961年3月。『神近市子文集(三)』所収)

 

 さらに、もう一本のエッセイ「私の短歌」では、今井邦子との出会いに始まり、自分の勉学の道をひらいてくれた家族やふるさとの大村藩という経済的に豊かだった背景にも及んでつぎのような短歌が記されている。
・ふるさとは友ありてよしこの宵を 心ゆくまでかたりあかして

  1958年7月のソ連視察時、公務が終わっての自由行動の折、トルストイの生地行きを提案、一同向かい、トルストイの墓を訪ねる。彼の墓はトルストイ一族の立派な墓ではなく、樹木の下にひっそりと石一つがあるのを目の当たりにして「何だか悲しかった」としながら、詠んだのがつぎの二首である。
・大樹の下に長方形の石一つ 墓をたずぬる人絶えまなし

・妻や子とは離れて眠るトルストイ 墓をたずぬる人絶えまなし

 二通りの表現を試みて、「主観と客観の違いだけで、どちらに重点をおいたわけでもない」と歌作にも余裕が感じられる一場面である。

 また、1959年、北欧諸国の福祉施設の視察で回ったときに「こんな一首がひょいと頭に浮かんだ」とある。
・北海の波分けてくる船ひとつ 我に希望もたらすがごと

 さらに、このエッセイの終わり近くには、「こうして原稿を書いていると、自分の生涯のことが次々に追憶され、私の生涯が成功と失敗の連続だったことが思い出されて来る」として、冒頭の一首が挙げられている。
・ひとり居て思うことあり 嬉しきは孤独に生きる力もつこと

  「孤独は自分でつくりだせることを知らなくてはならない。周囲に人なく物なくそれを孤独と考えるのは外形的なもので、外に求め、あこがれる場合は孤独ではない。求めず、あこがれぬ心境こそ孤独というものだろう。」「(芸術の)作者の側にも世俗に惑わされず、真実をあくなく追及してそれを表現する努力につとむべきだろう。」と。
(以上「私の短歌」『朝日新聞』1975年8月。『神近市子文集(三)』所収)

  なお、この『神近市子文集(一)(二)(三)』を編集した鈴木黎児は、神近と鈴木厚の長男で、離婚の際には神近に引き取られたのだが、苦労も多かったようだ。それでも、母の書き残したものを、自分なりの眼で収集しての私家版であったようだ。『神近市子著作集』全六巻(日本図書センター 2008年)が刊行される20年以上も前のことになる。さらに、鈴木黎児は、各文章の末尾に、解説を付し、執筆の背景や鈴木自身の率直な感想や批判もしているのである。その収集の努力と遺族による顕彰のみに陥りやすさを抑制している営為には敬意を表したい気持ちである。

  なお、今井邦子との関係ついて、神近の以下の文章がある。
「最後に会った今井さん」『明日香』今井邦子追悼号 13巻8号 1948年11月
「最後の会見」(今井邦子追悼講演録)『明日香路』1巻4・5合併号 1949年5月

  また、堀江玲子『今井邦子の短歌と生涯』(短歌新聞社 1998年1月)にも、邦子が鶴川村への疎開を紹介されたこと、再疎開した下諏訪の生家に、神近が4・5回訪ねていること、亡くなる年1948年2月にも見舞っていることなどが記されていた。

 半田良平については、さきの『文集』にも何度か出て来るが、「隣人としての半田先生(一)(二)」(『沃野』31~32号 1949年10月=11月)に詳しい。

*引用の短歌は、原文では二行の分かち書きになっているが、ここでは一字アキで示した。

(つづく)

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2023年4月25日 (火)

支持政党はないけれど、選びたい人を探してでも

選挙公報が遅いのは

 支持政党がない、選びたい人もいない、というときは、棄権か、白票を出したいときもある。今回は、通院のついでに、県議選も、市長・市議選も不在投票で済ませたのだが、ともに、選挙公報が届く前だった。23日の市長・市議選の公報が届いたのは4月20日だった。選挙のたびに思うのだが、公報をしっかり読んで選びたいのに、どうして遅れてしまうのか。地元の候補者の選挙カーが、何度も町内に回って来るのだが、政治姿勢や政策を伝えるのはムリで、いや、政策なるものを持たない候補者もいそうで、大方は名前の連呼で終わる。昼間は勤めに出ている現役世代は、それさえも知らずに投票することになる。何を基準に選んでいるのだろうか。

 私は、身近な議員の日常活動や事前運動のチラシなどを見るようにしている。かつては、関心のあるテーマでの質疑があるときは、議会の傍聴に出かけていたこともある。いまはその気力も失せてしまったし、いくつかの交通機関を利用しての市議会への道は遠い。

<無所属>の見極め

 県議選の千葉9区は定員3人、立候補4人で、自民、立憲、市民ネットワークの3人が当選した(自民以外は女性)。 市議選は、定員28人、立候補33人。前回の立候補は42人だったので、ある候補者は、「今回は“泡沫”がいないので、きびしい」と漏らしていた。無所属17人、自民4人、公明4人、市民ネットワーク3人、共産2人、新社会1人、国民民主1人、参政1人が立候補、無所属の5人が落選したが、他は全員当選している。当選した無所属の12人のうち、10人という保守系の最大会派さくら会は、今回の当選者が5人と半減した。2人の現職が落選、引退、元職2人が加われば7人か。自民系が2人、1人会派2人という内訳になる。保守系を寄せれば、さくら会系8人、自民系6人、公明4人合計17人、それに、参政1人が、どう動くのか。

 市民ネット3人、共産2人、新社会1人の計6人、そして、ひとり会派の2人は保守派に取り込まれることなく、頑張ってほしい。ひとつ残念なのは、つねに上位当選していた市民オンブズマンのFさんが立候補せず、後継者もいなかったことだ。

既成政党の停滞と地域政党の動向

 それでも、今回の地方統一選挙で、県議の3人の内2人が女性だったこと、市議全体28人中10人が女性であることに変わりはないのだが、当選者の上位5人がすべて女性であったこと、前回が1人であったことと比べれば、何かが少し変わるきっかけになればと期待したい。

 なお、前回と比べると、市民ネットは3人で9012票、2200票増やし、公明4人で8699票、1335票減らし、共産2人で3327票、前回は3人立てていたが、1319票減らしたことになる。市民ネットは、佐倉市特有ながら、この躍進ぶりは、かつてのように4人立候補してもよい勢いであるが、オンブズマンFさんの票が回ったのかもしれない。

 公明が減らしているのは、全国的な傾向でもあったらしい。現職の公明党議員が、支持者の高齢化を嘆いていたのを聞いたことがある。周辺を見ても、共産党の支持者の高齢化は著しいものがあり、党員のセクハラ、パワハラ、除名問題なども複合的な要因になっているのではないか。

 また市長選では、現職の西田三十五が当選したが、市民ネットと共産などが支援した弁護士の清田のり子とは185票の僅差であった。清田の善戦は、今後の市政に反映されるにちがいない。

 再選された西田市長は、市議・県議時代、「五か条御誓文」や「教育勅語」の復活などを主張していたと記憶する。現職を破って市長になったときは、どうなることかとびっくりしたが、その主張は「封印する」と市議たちには漏らしていたそうだ。コロナ対策交付金の手続きミスで、5・3億円を返還する羽目になり、介護保険の交付金でもミスをしている。図書館との複合施設「夢咲くら館」の建設にあたっても、予算をはるかに上まわった上に、このブログでも指摘ように、市民の声に耳を傾けない強引な手法で進めたこと、統一教会との濃密な関係など、この4年間の負の足跡はぬぐい切れず、不安が大きい。

 なお、選挙公報を読んでいて、これはまずいんじゃないの、という一件があった。どういうわけか、共産党の二人が横並びの枠で、名前と経歴だけが違うという以下のような誌面だったのである。ともかく他の候補者は、同じ政党であっても、少しづつ自分の政策、訴えらしきものを語っているのだが、判で押したように、とはこういうことなのだろう。同じ党なのだから、共通の政策を打ち出すのはいいが、やはり候補者なりの訴え方や個性のようなものが伺える紙面の方が親しみやすいのでは。

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右側に候補者名と党名、下段には小さな字での経歴が記されていた。

<参考>
2023年43日佐倉市議員選挙結果
https://www.city.sakura.lg.jp/material/files/group/1/20230423kaihyokekka0005_shigi_t.pdf

2019年421日佐倉市議員選挙結果
https://www.pref.chiba.lg.jp/senkan/chiba-senkyo/documents/010421sakura-gi_2.pdf

 

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