2016年8月 3日 (水)

ツイッターもフェイスブックもやらないのですが、感想を寄せてくださる方に感謝です。

①『ユリイカ』8月号、<特集・新しい短歌、ここにあります>に寄稿しました。

2016728 

②「時代」の所為(せい)にはするな~私の歌壇時評(2016730日)

先月末に、上記、筆者執筆の短歌関係の記事再録①と執筆エッセイ収録の雑誌②を紹介いたしました。「リアルタイム」でのネット検索で以下のコメントを知りました。(c)(d)のコメントは、①の『ユリイカ』8月号の拙文を読まれた感想であり、(b)は、②の紹介でした。(a)は、筆者のどの文章を読んでのコメントなのかは、特定していませんでした。私のブログの<短歌関係記事>へのコメントは、極端に少ないなか、ツイッターやフェイスブックでのコメントは、貴重で、大変ありがたかったです。ありがとうございました。もちろん面識のない方ばかりで、なかには私の短歌関係の記事で言及した方もいらっしゃいます。

(a)「正論なんだけど正論すぎて逆に間違い」な気がする。人間に首尾一貫性を求めすぎというか。人間とはもっとちゃらんぽらんなものではないか。~とツイートされた(shu matsuki)さん、若い方なのに、妙に達観されているのですね。「うん、うん」とうなずく「歌人」は多いはずですが、公言する「歌人」は少ないでしょう。自らを正当化するには、あまりにも、説得力に欠けるからではないでしようか。



(8月4日補記)

 新しくコメント(e)を発見、「未来短歌会」の藤原正樹さん、ありがとうございます。ウェブ上で、拙記事をご丁寧にご覧いただいていますようで、大変うれしく思います。まさに同じことを言い続けていますが、なるべく実証的にと、狭い資料・情報検索ながら、知りえた新しい事実をもって臨みたいと思っています。内容についての言及に、いつかで出会えればなおありがたいです。

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a)  内野光子さんの文章は「正論なんだけど正論すぎて逆に間違い」な気がする。人間に首尾一貫性を求めすぎというか。人間とはもっとちゃらんぽらんなものではないか。

Twitter reracise1972 shu matsuki - 2日前 (731)



b)  内野光子さん(歌人)の痛烈な現代歌人批判。ここでいう「現代歌人」とは三枝昻之、永田和宏、今野寿美の三人を...今野)が宮中歌会始めの選者であることに気づいた」と記す(「カナリアはいま卒倒するか」『蓮』20163月)。岩田亨は、永田は「怖い」を連発していたが、何がそんなに「怖い」のか、「<NHK短歌>や...

Facebook 東本高志 - 3日前 730日)



c)  ユリイカの特集、内野光子さんに依頼した編集部も立派だが、臆せずに自説を通す内野さんもさすが。

Twitter yoshiaki_oinuma (生沼義朗) - 3日前 730日)


d)  ユリイカ、いちばんおもしろかったのは内野光子さんのエッセイで、次が、清家雪子さんのインタビューでした。

Twitter seijiota (太田青磁) - 3日前 730日)


e) ユリイカ、内野光子に書かせているのはわかるのだが、いままでの主張の繰り返しになっていて、ウェブででも丁寧に見ている人は既視感ありあり。どうしても一般論的に荒くなってしまう。一回きりだし。 proofreader2010 (藤原正樹) - 7時間前(8月4日)

 

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2016年1月 1日 (金)

新年のご挨拶申し上げます。

 ブログをお訪ねくださいまして、ありがとうございます。

何から手をつけていいのか分からなほどの難問に直面した一年でした。多難な日々が待ち受けていると思います。ブログを始めて10年となりました。一日、一日を大切に、発信を続けることができればと思います。お気づきの点などご教示いただければうれしく存じます。 

 皆さまのご健康、ご活躍を祈ります。

 

 201611日  

                                         内 野 光 子

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  なお、1230日に、「澤藤統一郎の憲法日記」に直近記事4本をご紹介いただき、また、それを受けて「ちきゅう座」にも転載され、31日には、通常の倍以上のアクセスがありました。ありがとうございました。またNiftyのアクセス解析によれば、昨年1年間のアクセスの多かった記事と訪問組織20位は、以下の通りです。短歌関係の記事が3本と、少しい寂しい気もいたしました。どれほどお役に立てたのかわかりませんが、これを励みとして、調査、検証にもとづいた発信を心掛けたいと思っています

1月9日補記:blog「みずき」の1月1日、1月9日にて、以下の記事が紹介されました。
2015年12月29日 (火)
ことしのクリスマス・イブは(4)~歌会始選者の今野寿美が赤旗「歌壇」選者に

<アクセスの多かった記事20位まで>

1「自治会費からの寄付・募金は無効」の判決を読んで―自治会費の上乗せ徴収・...

2 赤い羽根共同募金の行方~使い道を知らずに納めていませんか、情報操作のテク...

3 自治会の募金・寄付の集金の問題点~やっぱりおかしい、全社協や共同募金会の...

4 住んでいる町の「社会福祉協議会」の実態を調べてみませんか

5 「奇跡の街、ユーカリが丘」、開発の基本に立ち戻ってほしい~「カンブリア宮殿」...

6 NHKスペシャル「密室の戦争~発掘・日本人捕虜の肉声」をみました

7 新松戸、「関さんの森」へ行ってきました

8 「朝日歌壇」、小学生短歌の入選について~『ポトナム』5月号「短歌時評」に...

9 佐倉市の大学誘致はどうなるのか~順天堂大学のおかしな動き、その蔭に

10 赤い羽根募金、社協の会費って、個人の自由ですよね!「希望ヶ丘自治会、募金...

11 ユーカリが丘、順天堂大学キャンパス誘致、見送り?

12 ユーカリが丘駅前の大学誘致をめぐるおかしな動き、やっぱり、山万が~第3...

13 「生協」の民主的な運営とは~生活クラブ生協で体験したこと~

14 佐倉市、順天堂大学誘致をめぐる「選挙戦」 ~誘致の効果は机上の空論、得を...

15 TBS「噂の現場」を見ましたか~再び佐倉市へ、志津霊園問題

16 中学校国語教科書の中の近代・現代歌人と短歌作品~しきりに回る「観覧車」:...

17 内野光子のブログ: 寄付・募金

18 藤田嗣治、ふたたび、その戦争画について

19 明日が投票日だというのに~佐倉市長選挙、あふれる違反ポスター、虚偽中傷ネ...

20 節度を失くした歌人たち―夫婦で選者、歌会始の話題づくりか

<訪問の多かった組織20位まで>
マス・メデイア:朝日新聞社、NHK、東京放送、博報堂、新学社~5
省庁・自治体等公共機関:都市再生機構、千葉県教育ネットワーク、厚生労働省、和歌山県~4機関
大学:順天堂大学、千葉大学、放送大学、慶応義塾大学~4大学
情報通信:東日本電信電話、空港情報通信、フリーセル~3
メーカー:日立製作所、日本電気~2
サービス業:日本郵政、三省堂~2

 

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2013年9月24日 (火)

自治会・社協関係のブログやホームページをご紹介します

このブログでは、地域の問題として、自治会と社協の問題を何度か取り上げています。実はこの一連の記事へのアクセスがコンスタントに上位を占めています。各地の自治会関係の方、住民の方、あるいは自治体関係の方々からと推測され、コメントも多くいただいております。その中のお一人、本日9月24日にコメントをくださった盛田様が、「自治会/見張り番」というホームページを立ち上げられました。ぜひ一度お訪ねになってはいかがでしょう。あたらしい情報交換の場になればと願っています。

自治会/見張り番

http://www.geocities.jp/mon5bu/index.html

すでにお知らせしたかと思いますが、つぎのブログも参考になると思います。合わせてお知らせいたします。

■地域活動<自治会 社協>navajoさんのブログ、2012年4月立ち上げ、在住地の自治会の改革実践記録で、いまのところ、更新がないようです)http://tiikikatudou.blogspot.jp/

■社会福祉協議会の集金のやり方はおかしい?

(社協についてのブログやサイトの紹介)

http://matome.naver.jp/odai/2134171605088994001

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2013年5月24日 (金)

ブログ開設、8年目に(2)解明いまだ、シベリア抑留

~最近のおたよりから~

島根県「静窟詩社」と中島雷太郎・ミヨ子歌集『径づれ』のこと 

 戦時下の歌人の記事に、「私は<静窟詩社>の中島雷太郎の息子です」というおたよりをいただいた。<静窟詩社>は、私が初めて知る、地方の文芸活動の一つだった。以下は、おたよりに付された中島雷太郎さん、中島ミヨ子さんがそれぞれ執筆された「自分史」による。

 

雷太郎(19122000、島根県静間村生)は、銀行(本店は松江市の八束銀行)勤めの傍ら、村内青年団の仲間でガリ版雑誌を発行したりしたが、1935年(昭和5年)12月、「静窟(しずがいわや)詩社」を結成して文芸誌『静窟』を創刊(19375月『山陰詩脈』と改名)した。満州事変前夜、無産派文芸台頭の時代でもあったが、警察からは、同人の思想調査や印刷物への手入れがあったりして、その介入により、『山陰詩脈詩歌集』(1933年)、中島雷太郎単著の詩集『磯松』(1935年)などを残し、『山陰詩脈』も廃刊、静窟詩社は、5年の活動に終止符を打った。仲間の紹介で、1936年、ミヨ子(19142013)と結婚した。1940年、地元出身の実業家、奉天の田原組に招ばれ、渡満した。 

敗戦までの夫妻の足跡は、ミヨ子の自分史につぎのような略年表であらわされているが、その一行、一行は重い。

 

 昭和一二年一〇月長女出生一一月死亡。 

 昭和一三年一二月次女出生。 

 昭和一五年九月次女を連れ渡満する。 

 昭和一六年一一月三女出生。 

 昭和一七年一二月姑死亡。 

 昭和一八年五月三女死亡。 

 昭和一八年一二月長男出生。 

 昭和二〇年七月夫召集にて入営。 

 昭和二〇年八月敗戦。 

 昭和二〇年九月夫抑留。 

 昭和二〇年一二月四女出生。

 

 雷太郎は、『満州日日新聞』の投稿欄に短歌を寄せていた時期もあったというが、敗戦後は、イルクーツクのマリタ収容所に始まるシベリア抑留生活は、194512月から194812月までに及んだ。その過酷な体験を、細部に至るまで、時の感情を交えながらも冷静なタッチで記録されている部分が、自分史の中での圧巻であり、読者には衝撃となる。 

時代は下って、1990年、雷太郎78歳、夫妻の金婚式を記念して、友人・知人・親類に配られたという夫妻の合同歌集『径づれ』(私家版)があるという。これは国立国会図書館には所蔵されていないようだ。このたびメールをくださった子息の中島さんが戦前を中心に再編集された『径づれ』のなかから、一部を紹介してみたい。

 

中島雷太郎 

(終戦直前直後) 

○やがてまた逢へる気のして妻子らへ手を振りつつも涙は出でず(奉天駅) 

○輜重兵のわれらに馬なく車なく蛸壺掘るを日課となせる 

○営庭に蛸壺掘るを日課とし、敵機は今日も見えず暮れゆく(海城輜重隊) 

○箱型の爆弾抱き敵戦車めがけ飛び込む任務なりとふ 

 (シベリア抑留) 

○重大放送を営庭に並び聞きおれど古きラジオの音声みだる 

○曳けど押せど橇は動かずアムールの氷上に捕虜のわれら声無し 

○冴えざえとつきに照らされ収容所の望楼に歩哨の動くが見ゆる 

○零下五十度寒さ肌刺す庭に立ち虱の検査に上衣脱がさる 

○日本の元旦のならひ偲びつつ一切れのパン噛みしむる今朝 

○在満の子らの年令を数へつつ元旦の今朝も作業に出でたつ 

○餓じさとノルマに力尽き果てて戦友あまたシベリアに死す 

○凍土を砕きて屍を埋めたりき冬回るたびに戦友の偲ばゆ 

○シベリアゆ白鳥今年も飛来せり埋もれしままに戦友は帰らず。 

○シベリアに消ゆべき生命守りきて平成元年喜寿を迎ふる 

○港湾の工事場のブル音止みて終戦記念日のサイレン響く 

○引き揚げに子ら幾人を喪いぬ遺影幼きまま五〇年

 

中島ミヨ子 

(終戦直前直後) 

○二重窓を越して黄砂の降れる日は幾度も畳拭きし奉天 

○ライラック杏柳と一刻に萌えて花咲く満州の春 

○手引く子も背の子も吾もベール被り目鼻覆いて市場に通ふ 

○冷蔵庫に残されしごと敗戦の冬のアパートに母子四人は 

○断水にベランダの雪掘りとりて炊けど飯にはならぬ日ありき 

○銃釼もつソ連兵来て靴のまま畳に突立つ母子の部屋に 

○夫の行方不明と聞けど三人の子に支えられて度胸を据えつ 

○子連れ吾に太く握りし飯を賜ぶ引き揚げ船の飯炊きの老 

○夫拉致され後に生まれし幼児は父にまみゆる日の遂になく 

○児を胸にくくりて重きリュック背に引き揚げしこと忘れ難しも 

○既に亡き吾が児の五人がいまあらばと孤児のニュースに涙新たなり 

○老祖母を訪ねて幼き遺児二人引き揚げしとふ友の悲話聴く 

○機銃掃射に高梁畑で母を失ふ孤児の語るは敗戦の悪夢 

○残留孤児人ごとならず吾児二人同時に喪ひしわが逃避行に 

○引き揚げし病院の窓に隈なかりし名月が今も愁に沈ます 

○体温計一ぱいに上がる高熱も医薬なければ只病児抱く 

○飢えに堪え病に堪えて命の灯暫し灯しぬ四才と二才 

○命の灯消えゆく見つつかの日より不可抗力という事を知る 

○十年経て尚癒えやらぬ創跡は一人耐えつつ生くべきものぞ

 

 今回のことがきっかけで、これまで、私が「シベリア抑留」についてあまりにも知らなかったことに愕然とする。これまでといえば、香月泰男(19111974)の「シベリア・シリーズ」、高杉一郎(19082008)の『極光のかげに』などを知るくらいだった。近年公刊された沢山の体験記があることも知った。私が参加している『ポトナム』短歌会の古くからの同人であった板垣喜久子さん(板垣征四郎夫人)次男板垣正さんもシベリアに抑留されていて、帰国後の去就、その後の政治活動なども後から知ったことだった。

 

 「シベリア抑留」の実態は、いまだに不明な点が多く、日本人抑留者の数、死亡者数などですら諸説があったが、日本政府は、約575000人の抑留者の中、死亡が確認された方々が55000人との推定を発表し続けていた。1991年には、ロシアから41000人の死亡者名簿が提出され、2009年にはロシア国立軍事公文書館で旧ソ連に抑留された日本人の記録カードが最大で76万人分発見されたというニュースも流れた(『東京新聞』2009724日)。なぜこれほどの多くの人々が抑留されることになったのか。 

 ここでは詳しく述べないが、敗戦直後の関東軍で何が起きていたか。ソ連で何が起きていたか。シベリア抑留に際して登場する朝枝繁春参謀の内地への報告書などから、敗戦直後、捕虜の扱いを超えた「抑留」という名のソ連による労働力確保策と日本の自国民放棄にも似た放置策が相まっての結果だということもわかってきた。さらに、現在に至るまで、日本政府や官僚たちは実態調査を怠り、抑留者の法的、経済的救済を求めた裁判も原告敗訴の最高裁判決で司法的な決着(19994月、20041月)がつけられた形だった。民主党政権下、「戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)」は、いろいろな課題や不備を持ちながらも、自民党と公明党の欠席のもと、ともかく可決されたのは2010616日だった。これまでの年月は何であったのだろう。そして、「国土と国民を守る」「国益を守る」と胸を張る安倍政権のいう「国土」「国民」「国益」って、何なのだろう。いざとなったら、「国民」を切捨てることを何とも思わない「国」を、歴史はもの語っているのではないか。

 

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島ミヨ子さんは、5月8日に99歳でお亡くなりになりました由、中島康信さんが私へのブログにおたよりくださった直後のことでした。ご冥福を祈ります。

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2013年 5月 30日追記:

折しも新聞でつぎのような記事を見つけた。

国際シンポ「シベリア抑留の実態解明へ―求められる国際交流と官民協力」

(毎日新聞2013年5月29日夕刊)

なお、シンポの案内チラシは、下記に掲載されている。

http://www.seikei.ac.jp/university//caps/japanese/06event_information/sympo-first.pdf#search='%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99%E3%81%AE%E5%AE%9F%E6%85%8B%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%B8+%E6%88%90%E8%B9%8A%E5%A4%A7%E5%AD%A6'

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2013年5月30日 鉢から植え替えて数年、ことしも開き始めたアマリリス


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2013年5月22日 (水)

ブログ開設、8年目に(1)~こんなこともあります~

 ブログを開設していると、思いがけず、見知らぬ読者の方からコメントやおたよりをいただくことがある。中学校時代の恩師の思い出の記事には、「それは私のオジです」と甥御さんからメールをいただき、池袋のキンカ堂閉店の記事には、ご両親がキンカ堂に勤めていらしたという女性から「なつかしかった」とおたよりをいただく。私の方からも、公開を可とする方には、ブログ上で返信をしたり、メールアドレスがあれば私信としてお返ししたりしている。多くは一過性であって、私にとっても、一瞬の緊張感はあるが、さわやかな思い出となる。

 

もう一つのパターンとしては、一つの特定のテーマに関心のある読者の方々、あるいは同じようなテーマで、ブログに記事を書いている「同志」が、お互いに連帯感をもって、活発な意見交換がなされる場合である。その一部が、お互いのブログ上のコメント欄で展開される。私の例でいえば、持続的なものは、「社会福祉協議会」の在り方、「自治会と各種の寄付」の在り方に疑義を持つ方々との交流である。もちろん顔の見えない、ネット上の関係なので、おのずからのルールや節度を心得なければならないだろう。最近「社協」について、市役所の担当課に申入れに行ったところ、課長が、私のブログのコピーにマーカーをしている資料を机上に置いているのにはびっくりさせられた。

 

また、2008年、麻生内閣誕生直前の自民党総裁選のNHKの「ニュース7」について「視聴者ふれあいセンター」に意見を述べたときの、NHKの余りにも非常識な、とはいっても、NHKの体質をよくあらわしていた担当者の対応をレポートしたところ、その反響の大きさに驚いたものである。アクセスが11万件を超えたこともあり、ネットの「おそろしさ」を実感した。NHKの担当部局が謝罪に来たり、それが新聞記事にもなったりという後日談までついてきた。あちこちのブログでリンクしてくださったこともあって、いまだにほそぼそながらアクセスは続いている。

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2013年5月30日 雑草に囲まれたアジサイ


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2009年4月27日 (月)

インターネット「歌壇」はどうなるか(2)

インターネット受容の行方2
      つい、この十年間のことであっても、同時代に進行していた事柄であっても、自分がことさら関心を寄せてこなかったことについて知るのは難しい。まして、その評価はなおさらのことである。まとまった記述の歴史書もまだない。ただ、最近、断片的ではあるが、これまであまり論評の対象とされなかった、踏み込むことが避けられていた、インターネット上の「歌壇」のいわば仕掛け人だった歌人やその作品、そこに育った歌人や作品について語り出した文章が目につくようになった。インターネットと短歌という、いまの私の地続きの世界のことなのだから、先入観はなるべく持たないように、と思う。さしずめ手探りの、もはや手遅れの「熟年のためのインターネット短歌案内」になるかもしれない。
 手探りのなか、インターネットと短歌にかかわる出来事として、最近印象に残った次の三件は、一つの時代の象徴にも思えた。

①前掲二〇〇三年創刊の『短歌ヴァーサス』が二〇〇七年一〇月に一一号をもって終刊したこと。
②二〇〇〇年一〇月に開設された藤原龍一郎による「電脳日記・夢見る頃を過ぎても」が二〇〇七年九月末日に終了したこと。
③二〇〇五年の歌葉新人賞(選考委員荻原裕幸・加藤治郎・穂村弘)を受賞、『ひとさらい』を刊行した笹井宏之が二六歳の若さで、二〇〇九年一月に亡くなったこと
①『短歌ヴァーサス』は、短歌の世界にインターネット導入に先駆的、精力的な活動を続けてきた、荻原裕幸が責任編集を務める雑誌であり、発行は、それまで短歌とはあまり縁がなかった、名古屋で地道にどちらかと言えば「硬い」書籍の刊行で頑張ってきた風媒社であった。私の旧著『短歌と天皇制』『現代短歌と天皇制』の出版で世話になった出版社でもある。『短歌ヴァーサス』の編集部には、拙著刊行の折に出会った若い編集者も加わっていた。そんな関係もあって、注目していた雑誌ではあったが、正直、あまり熱心な読者にはなれなかった。風媒社社主の稲垣喜代志氏の年賀状などには「若い人に任せている」という主旨のことが何度か書き添えられていた。
②『短歌人』同人の藤原が荻原裕幸を管理人として、発信し続けたサイトで、藤原の仕事柄、歌壇関係に限らない、放送・文芸全般にわたる知見を基盤にした日記だった。とくにその分野を超えての書評やイベントの記録は私もときどき覗いていた。また、掲示板「抒情が目にしみる」と合わせた形で、既存の歌壇と新しいインターネット歌壇の橋渡し的な役割を果たしてきたように思う。サイトの終了を知った枡野浩一は、上記掲示板に「当時、〈歌人〉の知り合いがいませんでした。ここは、インターネット短歌活動のスタート地点でした。そのことを忘れません・・」と感謝の言葉を書き込んでいる。
③笹井は、二〇〇七年、「未来」に入会、加藤治郎に師事しているが、それに先立って、二〇〇五年には、SSプロジェクト(荻原裕幸・加藤治郎・穂村弘)によるオンデマンド歌集出版サイト「歌葉(うたのは)」の新人賞を「数えてゆけば会えます」(三〇首)で受賞し、その副賞で『ひとさらい』(二〇〇八年一月)を出版した。『短歌年鑑平成二一年版』の「今年の秀歌集10冊を決める」の座談会出席者の一人、穂村弘の強力な推薦で、ベストテン入りする。笹井は、自らのブログで、少年期からの病歴も公表しているが、風邪をこじらせて急逝した。ベストテン入りを手放しで喜んでいた直前の文章は切ない。

・ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす 

・拾ったら手紙のようで開いたらあなたのようでもう見られません

 これらの三つの出来事に何らかの形で共通するキーパーソンは、前掲「SSプロジェクト」の荻原であり、加藤であり、穂村であった。ここに至るまでの過程をたどってみたい。インターネットと短歌との出会いをいつ頃とみるか。冒頭に掲げた年表「現代短歌クロニクル」の起点は一九八四年であるが、これは、担い手が少しずつ重なるライトヴァース、ニューウェーブを視野に入れてのことで、インターネットと短歌との接点は、一九九〇年前半ではなかったか。
ネット歌会の起源を「詩のフォーラム」(一九八七年八月にスタート)の中の一つの「電子会議室」とみれば、一九九三年一二月に発足したらしい(小林信也「ネット歌会の功罪と未来」『歌壇』二〇〇五年四月)。まだニフティサーブの時代のパソコン通信上での歌会であった。それを受け継ぐ形で、短歌だけの会議室「和歌の部屋」の時代が一九九七年まで続く。
一方、マイクロソフトからウィンドウズ95が発売されたのが一九九五年一一月であったが、『かりん』同人で電子情報学専攻の坂井修一が「マルチメディアと短歌」(『短歌』一九九五年一〇月)「ようこそ短歌ホームページへ」(『短歌研究』一九九六年六月)などを発表、インターネット上の短歌の可能性を示した。一九九五年一月阪神淡路大震災の折、もっとも機動力を発揮したコミュニケーションの手段が携帯電話だったという時代でもあった。坂井らが中心になって歌人有志のメーリングリスト(登録による一斉送信が可能な仕組み)を開設、ASAHIネット歌会もこの頃発足している。


・一九九六年四月二六日(カウント開始日) 結社を超えた「短歌ホームページ」(管理人大谷雅彦)がスタート
・一九九六年四月 『塔』が結社としてはじめてホームページを開設(「年表」『塔』二〇〇四年四月)、一〇月にはネット上の歌会「e歌会」もスタート
・一九九七年三月 『短歌人』ホームページ開設
・一九九七年一〇月七日 「短歌フォーラム」開設、二〇〇五年三月一二日終了、二月二〇日「新・短歌フォーラム」に引継がれる
・一九九八年二月 加藤・荻原・穂村による「SSプロジェクト」により、短歌ウェブリンク集「電脳短歌イエローページ」及び掲示板が立ちあげられ、荻原裕幸を管理人とする。

  九〇年代後半に入ると、歌壇・結社横断的な短歌のサイトや結社のホームページが競うように新設されてゆく。一九九七年から一九九八年にかけては、坂井修一、加藤治郎、荻原裕幸、大谷雅彦、大塚寅彦、大辻隆弘、穂村弘、江戸雪、川野里子ら一一人のメーリングリスト「現代歌人会議」上での合評や歌合せなどの活動が記録としても残された。一九九七年といえば、一九〇八年創刊の『アララギ』が九〇年の歴史を閉じて廃刊、一九四九年創刊『女人短歌』が一九一号をもって終刊した年でもあった。さらに、世紀末と言うこともあって、一九九九年には、『岩波現代短歌辞典』、二〇〇〇年には『(三省堂)現代短歌大事典』が刊行され、戦後短歌が総括なされる時期とも重なった。
パソコンソフト、ウィンドウズ98の普及とあいまって、二〇〇〇年に入ると、メーリングリストからさらに、歌人個人が運営するホームページ上での作品・エッセイ・日記などの発表が活発になり、お互いがリンクし合い、さまざまなリンクリストも発表され、インターネットによる情報発信力は相乗的に、爆発的に激増し、やがてピークへと向かう。

            (『ポトナム』20094月号、5月号所収)

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2009年3月 1日 (日)

インターネット「歌壇」はどうなるか(1)

インターネットの可能性             

パソコンでのメールは、地域の自治会活動やミニコミ誌編集には欠かせない存在となった。インターネット上の検索によって、私の図書館通いや調べものはかなり効率のよいものとなっている。「内野光子のブログ~地域と短歌の可能性をさぐる」を立ち上げて4年を経た。私がブログを開いたのは、調べたり、書いたりすることが嫌いではないので、書き溜めておくよりはと、その発表する手段が欲しかったこともある。発表された記事には、誰でもコメントがつけられるので(受付拒否、未公表も可)、双方向の情報伝達、伝達の速さと範囲が最大の強みである。

ホームページやブログを持つ歌人たちが多いのは知っていた。ときどき覗いてはいたが、社会性のないプライベートな記事、私にはなじめない作品、自己顕示の露骨さに辟易とすることが多かった。一方、パソコン、インターネット自体を毛嫌いする歌人たちがいることも確かである。私の拙い短いインターネット体験に、二〇〇八年の秋、衝撃的な出来事が加わった。

安倍、福田さんが首相の座を投げ出した後、九月には、まるで茶番のような自民党総裁選が展開された。さなかの九月一〇日、夜七時のNHK総合テレビのニュースで、いつもの三〇分枠を拡大して、四十五分間、候補者五人を特設スタジオに並べて所信表明をさせた。一政党の総裁選にもかかわらず、その報道ぶりがあまりにも異常であった。私はNHKの視聴者コールセンターに電話をし、「なぜこれほどまでに一政党の総裁選に時間をかけるのか」と問えば「そんなことも分からないですか、自民党のPRですよ」と担当者は答えた。一瞬信じられなかったのだが「公共放送としての中立性に欠けるのではないか」と問えば、「自民党総裁は首相にもなり、国民の関心が高いから」と答えた。その後も種々やり取りがあったが、あまりの理不尽さに、その夜「やっぱりおかしい、NHK七時のニュース」と題してブログに書いた。

この記事へのアクセス数がいつになく多いな、と思っていた所、翌日からコメントがつき始め、紹介やリンクをしてくれたりする人たちが連動したのか、瞬く間にアクセスは劇的に増大した。一日に一万件を超える日があったりして、驚いた。アクセスランキングのトップになったこともある。そんな矢先、NHKから電話があって、コールセンターの職員の対応に失礼があったので、お詫びに伺いたいというのだ。「NHKが謝罪、担当者処分へ」の情報は、他のブロガーがNHKからキャッチし、ネット上ただちに広がっていた。捏造とは思わなくても、私の記事が半信半疑だった読者は「謝罪」と聞いて、NHKの異常な報道や対応にあらためて怒りを募らせたのかもしれない。私がその後の経緯を報告すると、またアクセスが増えた。ネット上のフィーバーぶりに着目したのか、ある新聞社から電話取材が入ったのは、記事を書いた日からちょうど一か月後だった。翌日の夕刊に「総裁選報道への質問電話に NHK側<自民PR> 対応責任者ら処分」が載ると、他の新聞も翌朝一斉に報道した。NHKの広報がやむなく顛末を公表し、記事となったのだろう。いずれも私への取材はなかった。私にとっては想定外の展開であったが、掲示板での中傷や「炎上」などにも見舞われず、ブログの威力を知らされた一件であった。

折も折、『ブログ論壇の誕生』(佐々木俊尚 文春新書 二〇〇八年九月二〇日)が刊行され、その帯には「新しく巨大な言論の波 マスコミを揺るがし 政治を動かし旧弊な言説を一掃する」とあった。やや大げさではあるが、マスメディアや論壇の変容は確かで、多くの雑誌が休・廃刊に追い込まれている。

インターネット受容の行方

 まず、短歌とインターネットに関する出来事を年表作成によって確認、また、近年の短歌総合雑誌などの「短歌とインターネット」などの特集を眺めておこうと思う。

 年表に関しては、『短歌ヴァーサス』(一一<最終>号 二〇〇七年一〇月)の「現代短歌クロニクル一九八四-二〇〇六」(佐藤りえ作成)を参考に、手元の各年の『短歌年鑑』のレビュー・文献表と辞典の年表などを参照し、登場するサイトをネットで検索・確認しながら、年表を作成中である。ここでは、紙面の都合上、割愛する。短歌史にインターネットが登場する前に、その前史として、ライトバース短歌、ニューウェーブ短歌の存在がある。といってもこれは多分に短歌ジャーナリズムが仕掛けた部分も多かったとみるべきだろう。

「ライトバース」の定義がそもそもあったのかも問題だが、俵万智が「八月の朝」で角川短歌賞を受賞したのが一九八六年、『サラダ記念日』が空前のベストセラーになり、一九八八年には、現代歌人協会賞を加藤治郎『サニー・サイド・アップ』と同時受賞している。一九八四年・八五年頃からすでに中山明や紀野恵、大塚寅彦、仙波龍英らの歌集の軽くて饒舌な小気味よさが話題となっていたように思う。俵・加藤は、口語体、会話体を駆使した風俗詠で、恋愛や性も明るく歌う作品が多かったという印象だった。

一九八七年の『短歌研究』現代短歌評論賞は「ライトヴァースが残した問題」(谷岡亜紀)であり、一九九〇年には「ライトバースは終わったか」の特集(『歌壇』九月)も組まれている。

 一九八〇年代後半には、その担い手を微妙に重ねながら「ニューウェーブ」と名付けられた論評が目立ち始める。一九九〇年には、担い手といわれた荻原裕幸(『甘藍派宣言』)、穂村弘(『シンジケート』)、正岡豊(『四月の魚』)らの歌集が出そろう。

 これらの動きに呼応して、伝統短歌に抗する一つの運動の機運に乗じる部分もあって、短歌ジャーナリズムが活気を帯びてくるのも確かだ。一九八七年には『現代短歌 雁』、『歌壇』が、一九八九年には『短歌往来』、『短歌四季』が創刊されている。昭和から平成に変わる頃でもある。加藤治郎は、「ライトバース」「ニューウェーブ」と呼ばれた歌人群を<ニューウェーブ世代>とひと括りにし、この世代が口語化と大衆化を達成したとき、近代短歌の本質である「革新性」からの自由を得たと言い、現代短歌史がここに始まると宣言する(『短歌ヴァーサス』一一号、『短歌年鑑平成一八年度版』)。そしてポスト・ニューウェーブ世代の歌人とは一九九〇年代の半ばから活動する、「口語性、大衆性、ニューウェーブの技法を継承しながらも、やり尽くされた後で短歌という詩型の可能性をその外部(インターネット・朗読パフォーマンス)に求めざるを得なかった」歌人たちで、彼らがインターネット世代であるとも総括する。

いずれにしても、「詩型の可能性をインターネットに求める」という背景には次のようなインターネットの普及率はみのがせない。

パソコンの普及率は、内閣府の統計によれば一九八七年から一九九六年までは、一〇%台で推移していたが、次の一〇年間、二〇〇七年には七三%に達し、単身世帯を含めればもっと高い数字になるだろう。インターネットの普及率(携帯電話も含む)は、総務省の統計によれば一九九六年三・三%、二〇〇七年には九一・三%に達するのである。

インターネットは、短歌の世界に、どのような形で受容されてきたのか。次回からは本題に入りたい。(続く)

(『ポトナム』20092月号・3月号所収)

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