2019年12月10日 (火)

忘れてはならない12月8日

記憶せよ、十二月八日。
この日世界の歴史あらたまる。
アングロ・サクソンの主権、
この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは彼らのジャパン、
眇たる東海の國にして
また神の國なる日本(につぽん)なり。
そを治(しろ)しめたまふ明津御神なり。(後略)
―昭和十六年十二月十日―

 「十二月八日」と題する高村光太郎の詩である。初出は、『婦人朝日』1942 年1月号であった。詩集『大いなる日に』(道統社 1942年6月、第二刷3000部、初版1942年4月)に収められているが、「十二月十日」は作詩の月日で、真珠湾攻撃の二日後に作られたことがわかる。

 一昨日12月8日は、「真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦」の日、78年目の日だった。一部のテレビニュースでは、ハワイでの戦没者2400人の追悼式が行われ、生き残りの兵士の参列が数少なくなったと報じていた。日本の新聞では、12月8日の、いわばサイドストーリーのように、「朝日新聞」(12月8日)は「ペリリュー島<最後の生還者>遺言」、『毎日新聞』(12月3日)、『朝日新聞』〈12月8日〉の千葉版では、船橋市の行田の海軍無線電信所の歴史を記した労作「行田無線史」と著者の郷土史家滝口昭二さん(82)の紹介記事が掲載されていた。行田無線電信所から真珠湾攻撃を命じた暗号電文「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」から発信されていたという記事が目についた程度だった。

1971-2 
『読売新聞』(2018年8月7日)より、18年7月撮影の行田無線電信所跡の現在。上の奥の楕円形のグランドは中山競馬場。私たち家族は、名古屋から千葉に転居した時、この円形の電信所跡の左上の扇形部分に建ち並ぶ公務員宿舎に半年ほど暮らしていた、懐かしい場所。
1971-1
1971年当時は無線塔がたっていたらしい (船橋市資料視聴覚センター)

 

 日本でも、太平洋戦争開戦の日は、忘れてはならない大事な日であるはずだ。この日を境に、日本軍はアジア解放のためにと標榜しながら、戦局は拡大し、日本軍の兵士はもちろんアジア各地で多くの犠牲者を出し続けた。各地での敗退が続くなか、政府は、メディアや文化人を総動員して、国民の戦意を高揚、多くの犠牲を強いた。そんな中で、高村光太郎も、従軍作家や従軍画家に先んじるかのように、戦争詩を発表し続けた。

五月二十九日の事

もとより武士(もののふ)のあはれを知らぬ彼らの眼には
ただ日本軍全滅すとのみ映じたのだ。
皇軍二千餘人悉く北洋の孤島に戦死す。
この悲愴の事実に直面して
その神の如き武人の心にわれら哭く(後略)

 光太郎自身の詞書によれば「昭和十八年六月一日作。五月卅日十七時の大本営発表によりのアツツ島守備部隊の全員玉砕を知る。(後略)」とあり、6月3日夜のNHKラジオ放送の特集番組「アツツ島の勇士に感謝し戦争完遂を誓ふ」において、朗読され、後の詩集『記録』I(龍星閣1944年3月初版 10,000部)に収められている。

 すでに1944年から始まっていた東京空襲、1945年3月10日に続く4月13・14日の大規模空襲で、光太郎自身のアトリエも焼失するのだ、その間の4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸した即日4月1日に作った詩を4月2日の『朝日新聞』に発表している。この即応性と器用さが多くのメディアに重用され、政府のプロパガンダに徹したのである。

 さらに、1945年8月15日の敗戦の玉音放送を、疎開先で聞いた光太郎は、8月16日午前中に作り、翌日の『朝日新聞』に「一億の號泣」を発表しているのである。まさに、この早業に脱帽するばかりである。

一億の號泣

綸言一たび出でて一億號泣す。
昭和二十年八月十五日正午、
われ岩手花巻町の鎮守
鳥(と)谷崎(やがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ來(きた)る
玉音(ぎょくいん)の低きとどろきに五體をうたる
五體わななきとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無聲の號泣國土に起り
普天の一億ひとしく
究極に向つてひれ伏せるを知る(後略)

(1945年8月16日作『朝日新聞』『岩手日報』1945年8月17日)

 その後、疎開先から東京に戻ることなく山小屋生活を続け、「暗愚小傳」という20篇の詩作品を発表(『展望』1947年7月)し、「わが詩をよみて人死に就けり」と題する詩を書き、戦時下の活動を「自省」したという。しかし、光太郎の晩年の詩を通読して思うのは、いわゆる新聞の元旦号、雑誌の新年号を飾る「新しい年を祝う」「めでたい」作品が並ぶことだった。そしてそこに散見する「原子力の未来への期待」であったのだ。1955年1月1日『読売新聞』に発表された「新しい天の火」では、つぎのように歌い上げる。

新しい天の火

(前略)
ノアの洪水に生き残つた人間の末よ、
人類は原子力による自滅を脱し、
むしろ原子力による万物生々に向へ。
新年初頭の雲間にひかる
この原始爆発大火団の万能を捕へよ。
その光いまこのドームに注ぐ。
新しい天の火の如きもの
この議事堂を打て。
清められた新しき力ここにとどろけ。

1956年1月1日『読売新聞』に発表された最晩年の作品「生命の大河」には、こんな一連がある。

科学は後退をゆるさない。
科学は危険に突入する。
科学は危険をのりこえる。
放射能の故にうしろを向かない。
放射能の克服と
放射能の善用とに
科学は万全をかける。
原子力の解放は
やがて人類の一切を変へ
想像しがたい生活図の世紀が来る。

 

 この発表の直前12月16日には原子力基本法など関連三法が成立し、まさに新年の1月1日に施行、発足した原子力委員会の初代委員長が読売新聞の正力松太郎であったのである。この間の事情は、当ブログの以下を参照いただけたらと思う。

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(8)晩年の「新しい天の火」
(2019年9月25日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/09/post-1f9939.html

 12月8日から、つい話は飛んでしまったが、高村光太郎の『智恵子抄』と表裏一帯をなす戦争詩を知ることによって、文芸の国家権力からの自立の重要さを知ることにもなるのではないか、の思いに至るのだった。

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2019年11月27日 (水)

いったい、文化勲章って、だれが決めているのだろう~その見えにくい選考過程は、どこかと同じ?  

 「桜を見る会」は、時がたつにつれて、実態が明らかになってきた。国費を使い<功労者>顕彰を標榜する催事の実態が明白になった以上、即刻廃止すべきだろう。
「見る会」の招待者名簿は、慌ててシュレッダーにかけたなど、子供じみた回答をする官僚たちが情けない。ホテルでの前夜祭で、安倍事務所後援会が会費領収書をホテル名義で発行していたことなど、まず常識的では考えられない商行為、その裏の仕掛けがあるに違いない。次から次にと疑惑を増幅する事実が出てくるが、私たち国民が知り得ないことも知る立場にある野党やマス・メディアもこれまで追及できなかったのはなぜなのか。一方、相変わらず安倍政権を支持している国民が半分近くいるという世論調査結果も現実である。
 今回だけではない。森友・加計問題における公文書廃棄・改ざんでも、私たちは、同じような体験をしている。直近の大学入試共通テストの英語の民間試験導入、記述式問題導入も、業者が絡むその導入過程を示す文書が公開されない。教育ビジネス、受験ビジネスの黒い霧が晴れない。たださえストレスの多い受験生を困惑に陥れている。国民をなめているとしか言いようがないが、それに甘んじている多数の国民がいることも確かなのである。

 少し間が空いてしまったが、前の記事の続きでもある。この間、私は、文化庁と何回かのやり取りをしていた。といっても「文化功労者選考分科会の名簿は何を見たらわかるか、その名前を知りたい」という質問への対応に多くの疑念が残った。この単純な回答に2週間もかかったのである。この文化庁の対応にも、その情報管理において、国民との遮断、閉鎖性の一端を知ることになった。「シツコイ」といわれるかもしれないが~。

 まず、文化庁の代表番号に電話をかけた。内線番号がわかっている場合は、続けて番号を押せとの音声が流れた。知らないので、交換には、用件を伝えて、担当部署につなぐよう伝えると、
「それはできないので、<意見・問い合わせ>の窓口につなぎます」
 簡単なことなので、担当部署に回すように再度伝えると、
「それはできないことになっています。ここでは、担当の内線番号を共有していません」
 ちょっと信じられないことを言うのだが、ともかく、その窓口につないでもらうと
「しばらくお待ちください。順番におつなぎしてます」
 という音声が数十秒ごとに流れて、それだけもうんざりして、何分待たせるのだろうかと。電話を切らせる意図がありありと見える。ともかく待つこと5分近く、これだけでも忍耐のいることなのだ。ようやく担当窓口が出たので用件を伝えると、
「折り返し、電話で回答しますので、電話番号と名前をどうぞ」
たちどころに回答できる内容なので、担当部署に回すように再度伝えても、
「それはできないことになっています」
と、繰り返すばかりなので、ともかく、折り返しの電話を待つことにした。数時間しても電話はないのでないので、もう一度代表番号からかけなおすと、また5分以上待たされて<窓口>がでたので、回答はまだかと尋ねると
「まだ回答は届いていません。担当者にも業務の手順?があるので、しばらくお待ちください」
 翌日も、電話をするが、まったく同様の返事なので、こんな簡単な質問にどうして時間がかかるのかといえば、催促しますとのこと。それでも、数日間、半分は忘れかけていたが、どうしても確認しておきたい内容だったので、2度目の電話の1週間後、再度電話してみると、
「まだ回答がありません・・・。ちょっと待ってください。確認してみます」
といって、しばらく待たされた後、
「申し訳ありません。回答が来ていました。ただいまから選考委員の名前を読み上げます」
いったい、回答はいつ届いていたのか、と問えば、
「2度目の電話をもらった、そのあとに回答は届いていたようです。申し訳ありません。ただいまから、名前を読み上げます。12人です」
ちょっと待ってください。回答が来てから1週間も放置していたのですね、12人の名前って、読み上げは不正確ですから、ファックスして下さい、といえば、
「申し訳ありません、ファックスはできないことになっています」
ほかの役所では情報提供ということで、ファックスしてもらったことがありますよ、とこれまでの経験を話せば、ほかは知らないがここではできないことになっているとの繰り返しであった。結局「文化功労者選考分科会」の委員の名前と肩書をメモしたのだが、以下の通りである。

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岩崎千鶴(萩原):お茶の水大学名誉教授
岩谷徹:東京工芸大学芸術学科教授・日本デジタルゲーム学会
笠原ゆう子:俳人
笹本純:筑波大学名誉教授
田中明彦:政策研究大学院学長
都倉俊一:作曲家、日本音楽著作権協会
富山省吾:神奈川映像学園理事長、日本アカデミー協会事務局長、映画プロヂューサー
坂東久美子:日本司法支援センター理事長、元文部科学省審議官
丸茂美恵子:日本大学芸術学部教授、舞踊家
村瀬洋:名古屋大学院情報学研究科長
山本一彦:理化学研究所生命医科学研究センター副センター長
渡邊淳子:東北大学院生命科学研究所教授

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 上記委員の発令は2019年9月2日とのこと。肩書のメモはやや不正確かもしれないが、『官報』で確かめてほしい。ただし『官報』は30日間はネットで無料で閲覧できるがそのあとは有料なので、紙の『官報』で確かめるかいずれかとなる。最初の質問で、何を見ればその名簿が出てくるのかを尋ねているのに、その回答がないので、文化庁のホームページのどこに出ているのか、出ていなければ何を見ればわかるのか、の回答を再び待つことにした。そして、1週間待てど回答はないので、今度は、他の検索でわかった文科省の大臣官房人事課栄典班という部署を知ったので、内線にかけてみた。名簿は何を見れば知ることができるのか、ホームページに載せていないのかを尋ねると
「9月2日の発令ですから9月3日の官報に掲載されています。ホームページには載せていません。ほかの文化審議会の委員と違って、会合は1回しか開催されないので、ホームページには載せないことになっています。1回きりなので、いつまでもホームページに名前を載せるのはどうも・・・」

 ことほど左様に、市民が国の情報を得るのには、いくつものバリアがあり、その困難さは半端ではない。情報社会といわれる中で、必要な情報の獲得がいかに難しいかは、これまでも当記事で、何回か伝えてきた。私が住む佐倉市でも、その情報公開制度の在り方を少しでも改善したいと思い、かつて、市の情報審議会に市民応募枠で、委員を2年間務めたことがある。専門的知見も怪しげな委員が何期も務め続けて居座り、いわば市の承認機関に成り下がっていた。もちろん私は再任されることはなかったのである。

 ところで、本題の文化勲章は、文化功労者の中から選ばれる。その文化功労者選考分科会は、なんと、年に1回しか開催されていない。ということは、一つ前の記事でも記したように、文部科学大臣から推薦された者について分科会の意見を聞き、内閣府賞勲局で審査を行い、閣議に諮り決定するのである。

 文科大臣というけれど、大臣官房人事課が用意した候補者名簿を承認するだけの分科会であることがわかる。多分野の以下の21人に対して、意見も言いようのない委員たちであろう。選考委員など何のチェック機関にもなり得ないのが実態であろう。候補者名簿がどのように作成されるのかは明らかではない。さまざまなルートを使って、官僚が選出することになるわけだが、そこに、さまざまな団体での活動や政府への貢献度が一つの目安となり、各団体の長や政治家の恣意性が入り込む余地が少なくないのは、他の褒賞制度や「桜を見る会」とも共通するではないか。にもかかわらず、文化勲章、文化功労者の受章者たちを、この上もない栄誉として追いかけるメディ
ア、その選考過程にも目を向けるべきであろう。文化勲章は親授式で天皇から直接手渡される勲章でもある。その本人たちには、350万円の終身年金も保証されるが、ほんとうに必要な人たちなのだろうか。

 「文化」を育て、継承していく方向性に間違いはないのか。

*****

<2019年文化功労者>

石井幹子(照明デザイン)猪木武徳(労働経済学、政治思想史)宇多喜代子(俳句)大林宣彦(映画)金出武雄(ロボット工学)興膳宏(中国古典文学)小林芳規(日本語学)近藤孝男(時間生物学)笹川陽平(社会貢献・国際交流・文化振興)佐々木卓治(作物ゲノム学)佐藤忠男(映画評論)田渕俊夫(日本画)萩尾望都(漫画)馬場あき子(短歌)坂東玉三郎(歌舞伎)藤原進一郎(障害者スポーツ振興)宮城能鳳(組踊)宮本茂(ゲーム)柳沢正史(分子薬理学)吉野彰(電気化学)渡辺美佐(文化振興)

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2019年11月12日 (火)

「桜を見る会」と「勲章」も同じ構図では

 今年の文化功労者の中に、歌人の馬場あき子の名があったし、秋の叙勲では永田和宏が歌人として瑞宝中綬章を受章していた。<注1>上に「文化」が付こうと「芸術」が付こうが国が取り仕切る栄典制度の一環である。拙著でも何度か触れていることだが、「シツコイ」といわれても、大事なことなので繰り返しておきたい。

 この度、「桜を見る会」が国会で問題になっているが、日本の現行の栄典制度には、同様の曖昧さと疑念が残る構図になっていることがわかる。要は、各行政省庁に自治体やさまざまな関係団体から上がってきた名簿を内閣府や文化庁、官邸などが最終的に調整する仕組みである。「桜を見る会」と一緒にしてもらっては困るという人は多いかもしれない。「桜を見る会」の招待者が決まる過程が徐々に明らかになればなるほど、そのあけすけな露骨さが問題にならなかったことの方が不思議でもある。大方のメディアは、宮内庁が取り仕切る園遊会にしても、一種の風物詩のような扱いで、主催者と人気者のツーショットを映像やコメントで報じる程度である。それというのも、首相は、報道関係者や「文化人」、タレント、スポーツ選手らとさかんに懇談や会食に勤しむことによって、牽制、懐柔を重ねてきた結果だろう。

 ところで、日本の栄典制度は、大きく分けて、春秋叙勲・文化勲章・褒章がある。 生存者叙勲授与は、1946年閣議決定より一時停止されたが池田勇人内閣の1963年「閣議決定」により翌年から再開、現在は毎年4月29日、11月3日に春秋叙勲として実施されている。 候補者は、栄典に関する有識者の意見を聴取した上、「要綱」や「基準」なるものに基づき、各省各庁の長から推薦された候補者につき、内閣府賞勲局が審査、閣議に諮り、決定される。ここでの「栄典に関する有識者」の会議とは、会社社長や大学教員らが召集され、一年に一度か二度開かれる。その議事要録を見ても、民間人や女性を増やせ、地方やNPOの活動にも目を向けるべきとか、井戸端会議的な意見が記録されているに過ぎなく、形式的なもので、実質的には、役人が選出する受章者なのである。

 その上、1964年から復活した生存者叙勲制度の根拠は「閣議決定」だけであって、法律的な根拠がなく、「要綱」のみで運用しているに過ぎない。敗戦後1948年来、幾度も「栄典法案」なるものが国会に提出されながら、反対意見は根強く、廃案が続く中、「閣議決定」という強引な方法により実施されることになった経緯があった。法律に基づかない制度として、当時は、憲法違反という研究者の声も大きかった。日本国憲法7条7号天皇国事行為の一つとして定める「栄典を授与すること」のみを根拠とし、法律ではない、政令(太政官布告、勅令)・内閣府令(太政官達、閣令)・内閣告示などに基づくという、明治の遺物のような制度なのである。

 文化勲章についても同様で、1937年文化勲章令(勅令)に基づくもので、1951年「文化功労者年金法」は、「文化勲章」への通過点である「文化功労者」の年金について定めているにすぎない。その年金は、現在は350万円だが、憲法14条「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない」に抵触しないかの疑念は払拭できない。その選出方法も文化庁「文化審議会」の中の「文化功労者選考分科会」委員の意見を聞いて文部科学大臣から推薦された者について内閣府賞勲局で審査を行い、閣議に諮り、決定されるのだが、その委員の名簿も公開されていないようだ。最近はノーベル賞の後追いのようなケースも目立ち、内閣はもちろんだが、かかわる役人たちの推薦、審査の評価の基準が曖昧な上に、評価のできる人材もいないという証拠だろう。

 こうした勲章を「名誉」として、嬉々としてもらう人たちがなんと多いことだろう。政治家や官僚、実業家たちはいわば仲間内の事情での授受であり、芸能人、スポーツ選手たちなど「人気商売」ならいざ知らず、多くの理系・文系の研究者や文芸にかかわる人たちまでが、はしゃいでいる姿、ほめそやすメディアを見るのは、この国の民度を思い知らされるようだ。

 文芸に関しては、国家的な褒賞制度として「日本芸術院会員」制度、<注2>「芸術選奨」制度もある。これについても何度か書いていることだが、前者については、分野ごとに定員制が採られ、会員の選考基準は政令「日本芸術院令」により、部会ごとの候補者を部員の過半数をもって推薦し、総会の承認を経て、文科大臣が任命する。芸術院賞の選考基準・手続きについての法令はなく、各部会に対して推薦を求め、全会員による選考で絞り、各部会の過半数で内定するのが慣習となっているようである。ということは、新しい会員や賞を決める過程で、関係分野の会員が直接関与できるという内向きな制度で、その恣意性は免れないであろう。「芸術選奨」については、かつて、私が作成した「芸術選奨(短歌関係)選考審査員・推薦委員・受章者の一覧」(『天皇の短歌は何を語るのか』82頁)を、あらためて眺めてみると、受賞者が選考審査員や推薦委員がなり、数年づつ続き、選考審査員と同じ結社の歌人が受賞者となるケースも何回か見られる。歌人に関しては、これらの加え「歌会始選者」という「ステイタス」もある。

 世間では、というよりはマス・メデイアでは、これらの栄典、褒賞制度における受章者や受賞者にライトをあて、その権威や栄誉を強調するけれども、その選考過程に目を向けることはない。しかし、こうした栄典・褒賞制度の閉鎖性や公平性、さらには、政権や天皇制との直接的な関係にこそ、焦点があてられるべきではないか。

<注1>褒賞履歴

馬場あき子(1928~):1993年紫綬褒章、2001年日本芸術院賞、2003年日本芸術院会員、2019年文化功労者

永田和宏(1947~):2004年芸術選奨文科大臣賞、歌会始選者、2007~9年芸術選奨推薦委員、2009年紫綬褒章、2015~17年芸術選奨選考委員、2019年瑞宝中綬章

<注2>「文芸」部門の現在員27名中の9人が「詩歌」関係で、歌人の会員は、岡野弘彦、馬場あき子、佐佐木幸綱、岡井隆の4人である

<参考>褒賞制度概要一覧~選考過程と根拠法令

ダウンロード - hosyousennkousosiki.pdf

 

昨年の4月にも怒っています!!

2018年4月27日 (金)

「桜を見る会」・「春の園遊会」と「歌会始」~そこに共通するのは

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/04/post-7492.html
(しばらくの間、このURLが間違えていました。訂正しお詫びします)

 

 

 

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2019年9月25日 (水)

あらためて、高村光太郎を読んでみた(9)芸術院会員辞退のこと

 光太郎の詩集の解説や評伝のようなものでは、彼の「反骨精神」の証として、あるいは、戦時下の活動やたくさんの戦争詩を書いたことへの「自省」の現れとして、芸術院会員への推薦を辞退したこと、しかも二度も辞退していたことを高く評価している。
 194710月と195311月の辞退の顛末については、晩年連載を始めたエッセイの第1回目に書いている(「日本芸術院のことについて―アトリエにて1」『新潮』19542月)。この件では、世間にいろいろなうわさが流れているが、自分としての記録を残しておきたいということであった。人選については若干の変化はあるようだが、日本芸術院の前身の「帝国芸術院」に抱いている不潔感、その成立自体に「政治的かけ引き」を見てしまい、その内容や機構に大した違いがない以上、「あのやうなどさくさで出来上つた芸術院の内側に自分が入ることはとても出来ない」としている。まさに、正論というほかない。後世の人間が「反骨精神」や「自省」で跡付けるのには疑問が多い。

 私も、各分野ごとの定員制をとる日本芸術院、その会員推薦や芸術院賞選考過程について、何度か書いているので、ここでは詳しく述べない。その閉鎖性と政治性は現在でも変わりはない。にもかかわらず、文化勲章や文化功労者、芸術選奨など国家による褒章制度と並んだ、日本芸術院の存在は、学術や文芸の振興に役立つところか悪影響が大きいことを指摘してきた。そういう意味でも、光太郎の対応は、現代の政府にかかる褒章制度とその恩恵にあずかる人々とそれをもてはやすメディアへの警告となるだろう。

 光太郎はつぎのような詩を残している。1回目の推薦を踏まえて作ったことになる。詩集『典型』には収録しなかった。

「赤トンボ」

禿あたまに赤トンボがとまつて

秋の山はうるさいです

うるさいといへばわれわれにとつて

芸術院というものもうるさいです

美術や文學にとつて

いつたいそれは何でせう

行政上の権利もないそんな役目を

何を基準に仰せつけるのでせう

名誉のためとかいふことですが

作品以外に何がわれわれにあるでせう

さういふことは前代の遺物でせう

芸術院会員などといふものよりも

宝くじ五六本あてたやうな現ナマの方が

作家にとつて実益になるでせう

文化勲章といふものとても

授ける以上はらくに食へる年金を

死ぬまで贈らねば無意味でせう

実益のないことは子供だましでせう

レジヨン ドヌウル ルウヴル入の時代は

もう通り越してもいいでせう

作家は作ればいいでせう

政府は作家のやれるやうにすればいいでせう

無意味なことはうるさくて

禿あたまの赤トンボのやうです

19491024日作。『展望』19501月)

   ひとまず、髙村光太郎については今回で終了、別稿では書けなかったもろもろを記録にとどめた。拙稿が活字になった折は、お知らせしたい。

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あらためて、髙村光太郎を読んでみた(8)晩年の「新しい天の火」

 光太郎は、1956年4月2日、74歳の生涯を終えるが、その最晩年における、あるテーマの詩作品をさかのぼってみた。みごとに、雑誌の新年号、新聞の元旦号を飾る詩人であったことがわかる。これは、戦争詩を書いていた頃と変わりはない。

「おれの詩」
(1948年11月25日作。『心』1949年1月、『典型』収録)

「山荒れる」
(1949年11月8日作。『心』1950年1月『典型』収録)

「明瞭に身よ」
(1950年12月14日作。『出版ニュース』1951年1月)

「新しい天の火」
(1954年12月25日作。『読売新聞』1955年1月1日)

「開びゃく以来の新年」

(1955年12月5日作。『中部日本新聞』1956年1月1日)

「お正月の不思議」                              

(1955年12月19日作。NHK放送1956年1月1日)

「生命の大河」
(1955年12月19日作。『読売新聞』1956年1月1日)

 生涯最後の詩作品とされるのがつぎの「生命の大河」であった。末尾の8行は省略したが、『読売新聞』の元旦号に掲載された。題は、壮大で、何事かと思わせるが、「原子力」の未来をうたいあげたものだった。1956年とはどういう年だったのか。前年12月16日に成立した原子力基本法など三法が56年1月1日に施行、発足した原子力委員会の初代委員長に読売新聞の正力松太郎が就任した日でもあった。前年12月26日には日米原子力協定調印、年が明けると、日本原子力産業会議、原子燃料公社発足、東海村には原子力研究所の建設が始まる。すでに、1950年前後から米ソの原爆・水爆実験が盛んに行われるが、その一方で、唯一の被爆国、日本の原子力政策は進む。1953年からは『読売新聞』傘下の日本テレビが発足し、新聞・テレビを通じて、「原子力の平和利用」のキャンペーンが展開されている。

Img301

「生命の大河」『髙村光太郎全詩集』より。読みにくいので、念のため下記にも再録する。

「生命の大河」
生命の大河ながれてやまず、
一切の矛盾と逆と無駄と悪とを容れて
がうがうと遠い時間の果つる処へいそぐ。
時間の果つるところ即ちねはん
ねはんは無窮の奥にあり、
またここに在り、
生命の大河この世に二なく美しく、
一切の「物」ことごとく光る。

人類の文化いまだ幼く
源始の事態をいくらも出ない。
人は人に勝たうとし、
すぐれようとし、
すぐれるために白己否定も辞せず、
自己保存の本能のつつましさは
この亡霊に魅入られてすさまじく
億千万の知能とたたかひ、
原子にいどんで
人類破滅の寸前にまで到着した。

科学ほ後退をゆるさない。
科学は危険に突入する。
科学は危険をのりこえる。
放射能の故にうしろを向かない。
放射能の克服と
放射能の善用とに
科学は万全をかける。
原子力の解放は
やがて人類の一切を変へ
想像しがたい生活図の世紀が来る。

(後略)

 1954年3月焼津の「第五福竜丸」が操業中ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験により多くの被爆者が出て、後、そのうちの一人久保山愛吉さんが原爆症で亡くなった。日本学術会議では原子力研究の自主・民主・公開の三原則を声明、市民による水爆禁止署名運動なども見られた。そんな中で、光太郎は、『読売新聞』1955年元旦号にも、下記の作品を寄稿している。

Img300a

「新しい天の火」『髙村光太郎全詩集』より。1955年元旦は『読売新聞』にとっては、上述のように特別の日であった。『髙村光太郎全詩稿』の北川太一によれば、「その光いまこのドームに注ぐ。/‥‥/清められた新しき力ここにとどろけ。」の末尾4行は、編集部の要請で追加されたという。元旦号第1頁の”陽を受ける国会議事堂”の写真に呼応するような主旨の要請での追加であった。最後の1行は、「真に新しきもの起れ」「すさまじく新しき光ここにとどけ」のメモが草稿の欄外に残されているが、光太郎みずからの修正要請で、「清められた新しき力ここにとどろけ」に落着した経過があるという。

 光太郎が、「原子力」を詩作品に取り込んだのは、以下の1948年の「おれの詩」が最初だろうか。1949年「山荒れる」が続く。湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞したのが1949年11月だった。それにしても、光太郎は、「原子爆発大火団の万能を捕へよ」と言いながら、いとも簡単に、「原子力平和利用政策」に取り込まれてしまったのか。戦争詩へとのめり込んでいったことへの「自省」とは何だったのだろうか。みずからの体験から「学習」することができなかったことへの一つの証でもあろうか。

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「おれの詩」『典型』より。

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山荒れる」『典型』より。末尾の9行は省略した。

 光太郎は、科学の力、原子力への期待は大きく、歌い上げるのだが、政府の原子力政策には何の疑いももなかったのだろうか。私など、子ども心に、広島や長崎の原爆の「怖さ」を見聞きするたびに、「原子力」への拒否反応のようなものがあったように思う。部分的な批判をしながらも、詩人としての髙村光太郎にもっとも影響を受けたという吉本隆明の『「反核」異論』(1983年)、前衛歌人から宮廷歌人へと「転向」した(1993年)という岡井隆のたどった道、原発事故への対応を思い起こすのだった。

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2019年9月24日 (火)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(7)敗戦後、天皇をどうよんだか

 光太郎は、前述のように1950年に『典型』という詩集を出版し、敗戦後の詩作品をまとめた。そこには、「暗愚小伝」という題でまとめられた20篇からなる詩があり、これは、雑誌『展望』の1947年7月号に一挙に掲載されたものである。これらの詩を念頭においてだろうか、光太郎は『典型』の「序」において「昭和二十年十月私がこの小屋に移り住んでから以降の作にかかるものであり、それ以前の作は含まない。終戰直後に花巻町で書いたものや、ここに來てから書いたものでも、その頃の感情の餘燼の殘つてゐるものははぶいた。それらのものは、いはば戰時中の詩の延長に過ぎないものであるからである。」とも書き、「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、ひとつの愚劣の典型を見るに至つて魂の戦慄をおぼえずにゐられなかつた。」と。さらに、敗戦後五年間の「これらの詩は多くの人々に悪罵せられ、軽侮せられ、所罰せられ、たはけといわれづづけて来たもののみである。私はその一切の鞭を自己の背にうけることによつて自己を明らかにしたい念慮に燃えた。その一切の憎しみの言葉に感謝した。」とも記す。当初は、この潔さに着目したのだが、実際に収録された作品やその後の戦争詩への扱い方について知るに及び、大きな疑問が残ったのである。
 「暗愚小伝」については、多くの詩人たちが、いわゆる戦争詩について、光太郎ほど「自省」をした文学者がいただろうか、との高い評価をしていることや私自身の読み方については、別稿に譲るが、ここでは、他の作品にも触れてみたい。

 

「東洋的新次元」
東洋は押石(おもし)のやうに重く、
東洋は鉄鍋のやうに暗い。
君主と英雄と先輩と親分とは
六千年の昔から頭上にあつて人を圧し、
人は虫けらとなつて営営なほ且つ痩せた。
この伝統が何に由るかを知らず、
しかもこの伝統は争ひ難い習性となつて、
千百の変貌をとげながら
綿々として今も尽きない

東洋の民の吐息は詩となるほかない。
詩は弁論の矛を持たない。
詩はただ訴へる。
東洋の詩人は民の吐息を総身にあびる。
(後略)
東洋はのろいが大きい。
東洋的新次元の発見は必ず來る。
未見の世界が世界に加はる。
東洋の美はやがて人類の上に雨と注ぎ、

東洋の詩は世界の人の精神の眼にきらめくだらう。
(後略)

(1948年8月21日作。『知識人』1948年11月、『典型』収録)        

 「詩集」の中で11頁にも及び100行に近い長詩ながら、「東洋の美」は絶対で、熱が入れば入るほど揺らぎを見せない。疲弊している敗戦後の、占領下の日本国民を励まそうとでもいうのだろうか。「東洋の美」も「東洋的新次元」の実態や具現の方向性もない。「民の吐息を総身にあびる」という詩人としての自負というか、エリート意識が顕著にも見える。戦時下の、この詩人の意識と変わらない。もっとも、光太郎自身も、この詩集の中で、つぎのように明言している。

 

「月にぬれた手」
わたくしの手は重たいから
さうたやすくはひるがへらない。
手をくつがへせば雨となるとも
雨をおそれる手でもない。
(後略)
(1949年10月10日作。『大法輪』1950年1月、『典型』収録)

 

「鈍牛の言葉」
(前略)
おれはのろのろのろいから
手をかへすやうにてきぱきと、
眼に立つやうな華やかな飛び上がつた
さういふ切りかへは出来ないが、
おれの思案の向ふところ
東西南北あけつぱなしだ。
(後略)
(1949年11月2日作。『群像』1950年1月、『典型』収録)

 後者の「鈍牛の言葉」の中には「今こそ自己の責任に於いて考へるのみだ。/随分高い代償だつたが、/いまは一切を失なつて一切を得た。」という個所もある。また詩集の題名にもなった「典型」(1950年2月27日作。『改造』1950年4月、『典型』収録)は、「今日も愚直な雪がふり/小屋はつんぼのやうに黙りこむ。小屋にいるのは一つの典型、一つの愚劣の典型だ」で始まり、「典型を容れる山の小屋、小屋を埋める愚直な雪、雪は降らねばならぬやうに降り、一切をかぶせて降りにふる。」でおわる。これらのフレーズの中の「一切」がキーワードではないのか。「典型」の結句「一切をかぶせて降りにふる」と「たやすくはひるがえさない手」とに通底するものは何なのか、を考えてみる必要がある。戦争詩でも数多く登場する「一切」などという言葉は、断定を伴い、論理性を排除する言葉だけに「たやすく」使用すべき言葉ではないはずなのだが。
 どうしても「暗愚小伝」の作品にも触れなければならない。20篇の詩の最初は、「土下座(憲法発布)」なのだが、これは、1883年生まれの光太郎が、1889年2月11日大日本帝国憲法発布の翌日、上野行幸啓の祝賀行列のときの天皇体験を綴ったものである。誰かに背負われて行列に近づいたが、人波をこじあけて、一番前に出て「土下座」をさせられた、というわけである。

 

「土下座(憲法発布)」
(前略)
錦の御旗を立てた騎兵が見え、
そのあとの馬車に
人の姿が二人見えた。
私のあたまはその時、
誰かの手に強く押へつけられた。
雪にぬれた砂利のにほひがした。
―眼がつぶれるぞ―

 その後の日本の戦争体験と父親らの天皇体験を重なり合わせ、自らの海外体験、デカタンスな生活、智恵子との出会いと別れも綴られ、日中戦争における厳しい戦局のさなか、太平洋戦争に入ると、詩人としての大政翼賛にのめりこんでいく過程が描かれる。詩によって、いわば敗戦に至るまでの「精神史」を形成したとされる。
 「真珠湾の日」と題する作品には「天皇あやふし。ただこの一語が私の一切を決定した。」とある。また、「終戦」では、つぎのように綴られているが、「六十年の重荷」と認識されていた「天皇」から解放されたのだろうか。Img295
「終戦」の前半、3頁目は省略している。『記録』より。

 ここで、吉本隆明の「高村光太郎」を開いてみると、彼は、髙村光太郎の戦争責任のつきつめ方をつぎのように分析する。「戦争責任というものに軽重があるとすれば、髙村光太郎のそれはもっとも重いかもしれなかった。髙村が、内的な世界にどのような過剰な要素をかくしていたとしても、公的な文学活動によって、いいかえれば大衆にたいする影響によって裁断するとき、戦争への没入は、たれよりも強く、かくれがなく、大きな影響を与えた」ことを前提に、「天皇(制)にたいするもの、大衆への影響、自身の思想にたいするものに分けてかんがえることができる」(「髙村光太郎論」『吉本隆明全著作集8』勁草書房 1973年166頁)とする。「天皇(制)」の問題は、光太郎にとって、天皇崇拝の父髙村光雲を持つ出自もあり、あくまでも「骨がらみの内的な問題」であって、思想の問題とはなり得ず、「意識のなかで、ひきずり落としたのではなく、ただ、追いはらったにすぎない」という(前掲書172頁)。
 吉本は、別の論稿で、光太郎の戦争詩は「自我意識に固執しながらも、もっとも典型的に日本的な近代性と庶民性との綜合された性格」をもつとした。日本人の自然観が伝統的な感性を掘り起こすことによって「必然的に絶対主義的な天皇制によって推進された戦争の肯定、讃美、プロパガンダに入った」とし、「近代意識の庶民的な意識への接着から庶民意識を超越的な論理をもちいて積極的に意味づける過程」として捉えている(「詩人の戦争責任論」『吉本隆明著作集13』 勁草書房1969年。468~469頁)。
 しかし、私は、吉本のいう光太郎の「庶民的な意識への接着」にしても、このシリーズの記事でも触れた中村稔が『髙村光太郎の戦後』でも強調していた暮らしや詩作の「庶民性」には、違和感を覚えざるを得ない。光太郎は、その出自や生育環境、海外体験、恋愛・結婚生活、詩人・彫刻家としての活動、敗戦後の花巻での山小屋蟄居生活をたどってみても、その作品をたどってみても、「庶民」というよりは、「庶民」とは隔絶した高みから、庶民を啓蒙、リードしようという意識が垣間見えてしまうのである。吉本のいう「超越的な論理」、すなわち「東方の倫理」「天然の叡智」「宇宙理法」「東洋の美」などという実体のない言葉で「煙に巻いて」いるようにも読めてしまうのである。

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2019年9月23日 (月)

あらためて、高村光太郎を読んでみた(6)戦争詩において天皇はどうよまれたか

 「戦後、髙村をほんとうに苦しめたのは、天皇(制)の問題と、自分の詩をよんで人は死んでいったという問題だけであった」 (「髙村光太郎論」『吉本隆明全著作集8』勁草書房 1973年 171頁)とは吉本隆明のいうところであるが、光太郎はほんとうに苦しんだのだろうか。

 光太郎の詩に、天皇が「天皇」として登場するのは、「紀元2600年」のころだろうか。「紀元二千六百年のむかしは昨日のやうだ。」で始まる以下の詩には、つぎのような個所がある。

 

「紀元二千六百年にあたりて」
(前略)
二千六百年の後、
今またわたしくしは此処に居る。
今はどういふ時だ。
天皇(てんのう)はわれらの親(みおや)、
その指さしたまふところ、
天然の機おのづから迫り、
むかしに変らぬ久米の子等は海超えて
今アジヤの広漠の地に戰ふ。
(後略)
(1939年11月26日作。『婦人公論』1940年1月、『大いなる日に』収録)

 

 それまでは「天皇」をよんだ作品はなかなか見あたらないのだが、光太郎が、長沼智恵子を知るのは1911年、そして翌年、明治天皇は7月30日死去、「諒闇」の時期の作品につぎの「涙」があるのだが、光太郎と智恵子は、「いみじき歎き」のさなかであって、天皇の死に涙しているわけではなかったことを作品にしていた。

 

「涙」
世は今、いみじき事に悩み
人は日比谷に近く夜ごとに集ひ泣けり
(中略)
君の小さき扇をわれ奪へり
君は暗き路傍に立ちてすすり泣き
われは物言はむとして物言はず
路ゆく人はわれらを見て
かのいみじき事に祈りするものとなせり
あはれ、あはれ
これもまた或るいみじき歎きの為めなれば
よしや姿は艶に過ぎたりとも
人よ、われらが涙をゆるしたまへ
(1912年8月作。『スバル』1912年9月、『智恵子抄』収録)

 

 ちなみに、1940年の1月には、上記の作品のほかに、「先生山を見る」(1939年11月20日作。『明日香』、『をぢさんの詩』収録)、「重大なる新年」(1939年12月19日作。『新聞聯盟』)、「源始にあり」(1939年12月30日作。『東京朝日新聞』1月2日、『大いなる日に』収録)があり、『新女苑』、『文芸』にも寄稿しているが、その後も、いわゆる、新聞での<元旦>、雑誌での<新年号>および<記念日>に登場する詩人たる地位を保つことになる。

 

「彼等を撃つ」
(前略)
理不尽のいひがかりに
東亜の国々ほとんど壊滅され、
宗教と思想との摩訶不思議に
東亜の民概ね骨を抜かる。
わづかにわれら明津(あきつ)御神(みかみ)の御稜威により、
東亜の先端に位して
代々(よよ)幾千年の錬磨を経たり。
(後略)
(1941年12月15日作。『文芸』1942年1月、『記録』収録)

 

「ことほぎの詞」
久しいかな、二千六百二年。
(中略)
世界の倫理あらたまり、
人類の秩序また再建せられんとす。
これ遠つみおやの息吹して
義(ことわり)必ず時に随ふものならざらんや。
こころすがし。
今上陛下指したまふところ、
われらよろこびおもむくなり。
あきらけきかな、大いなるかなけふの賀(よき)節(ひ)。
(1942年2月9日作。『読売新聞』2月11日、『大いなる日に』収録)

 

「海軍魂を詠ず」
(前略)
人は仰ぎ見る、
波を切る艦首に光かがやくもの、
一切を超えて高きもの、
一切を超えて聖なるもの、
金色の菊花御紋章。
(1943年5月5日作。 『中部日本新聞』5月27日『記録』収録)

 

「大決戦の日に入る」

(前略)
所謂文明を誇称する敵はわれらを知らず、
ひとへにただもみつぶさうとする。
われら大御神よりうけたみをしへのまま、
神州の権威と品格とを堅持して
一億の民空前の戦に集中する。
一億の民一切を神のみ前に捧げてすがしく、
今こそ奮然として大決戦に突入する日だ。
(1943年11月14日作。『婦人之友』12月、『記録』収録)

 

 「大決戦の日に入る」は、1943年11月に始まるブーゲンビル島で戦いをよみ、長い戦いになる局面となるが、すでにこの時期になると、「倫理」や「日本の美」をうたいあげる作品は後退し、天皇への忠誠をひたすら捧げることが叫ばれ、やがて、下記の諸作品に見るように、皇国、皇軍、皇民、神州などという言葉のみが強調され、頻用されるにいたる。
「われら海陸皇軍の機略」(「敵ゆるすべからず」『毎日新聞』1944年2月26日)「神裔国民の正気」(「必勝の品性」『西日本』1944年4月)、「われら美しき皇国の天地」(「美をすてず」『週刊朝日』1944年4月30日)「神州の臣民、神州の尊貴」(「神州護持」『主婦の友』1944年12月)「皇国必勝の枢機」(「新春に面す」『日本農業新聞』1945年1月)などの例を挙げることができる。
 
そして、敗戦直後の「一億の号泣」(『朝日新聞』1945年8月17日)、「犯すべからず」(『週刊少国民』1945年8月)においても、光太郎の天皇観は変わってはいない。まさに、戦時下の作品の延長のよう作品は省いたとする、敗戦後の詩集『典型』に収めることもしなかったのである。

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2019年9月19日 (木)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(5)民族の「倫理」と「美」と

 光太郎は、地政学をはじめ、天文学などに自然の必然があるかのような、そして数学・物理という論理と「倫理」「美」という言葉を頻用する。しかし、頻繁に登場するそれらのことばは、よくよく考えてみると無内容であるにもかかわらず、繰り返される。当時のほとんどの作品は、具体的な方策もありようがなく、民族の倫理や美という言葉を通じ、国民の士気を鼓舞するだけのものであった。

「必死の時」
必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋洋として豊かなのは
われら民族のならひである。
(後略)
(1941年11月19日作。『婦人公論』1942年1月号、『大いなる日に』収録)

 「必死の時」は、太平洋戦争開始前夜ともいえる頃の40行を超える詩であるが、冒頭のこの4行が末尾でも繰り返されて終わる作品である。つぎの「新しき日に」は開戦直後の作品ということになる。

「新しき日に」
新しき年真に新たなり。
東方の光世界に東方の意味を宣す。
幾千年の力鬱積していま爆発するのみ
東方は倫理なり。
東方は美なり。                                                                                                               (後略)

(1941年12月19日作。『家庭週報』1942年1月号、『大いなる日に』収録)

さらに、敗戦がもはや避けようもなくなった時期の、光太郎にとっては、敗戦直前の作品が、つぎの「勝このうちにあり」であった。

「勝このうちにあり」
(前略)
勝このうちにあり。
われらの勝や清浄(せいじょう)にして
他の無辜をいためず、自ら驕らず、

ただ民族至純の倫理動いて
おのづから人類に深き省みをあたへ
静に稀有の変革を八紘に現成(げんじやう)せんとするなり。
(1945年7月18日作。未発表か、草稿の欄外のメモに『満州良男』とある。北川『全詩稿』)

 敗戦に至るまで、光太郎の作品を読んでいて、前述の「倫理」もそうだが、光太郎にとって「美」とは何だったのか。次のような作品を立て続けに読んでしまうと、やりきれなさと空しさがよぎる。「決戦の年に志を述ぶ」では、前半に、「今年六十一の老骨でも・・・むしろ数字を逆さにして 一十六から始めたい」などという個所もある。当時、これらの詩を読んだり、朗読を聴いたりした人々は、どのような受け取り方をしたのであろうか。

「決戦の年に志を述ぶ」
(前略)
この生活の一切をかけて彼等を撃ちながら

厳として美の世界を守り抜かう
老兵必ずしも老を語らない。
(1942年12月30日作。『東京新聞』1943年1月2日、『記録』収録)

「軍人精神」
今にしておもふ、
われらが軍人精神の美
古今東西にその比なし。
美ならざるはわれらが武人にあらず、
その精神人倫の極致にいたる。
(後略)
(1943年5月9日。『読売報知新聞』6月24日、『記録』収録)

「戦に徹す」
(前略)
世界を奪はんとしてのぼせ上るは米英にして
世界を清めんとするはわれらである。
この戦のいづれに神のみこころありや。
明々白々、われら断じて信ずる。
米英破る。
世界健康の美かならず成る。
われらの手によつてかならず成る。
(1943年10月26日作。10月28日放送、『記録』収録)

  光太郎の戦前の単独詩集には、『道程』(1914年)『智恵子抄』(1941年)に続き、いわゆる「戦争詩」を収録したものに、先に紹介した『大いなる日に』(1942年)、青少年向きに編集した『をぢさんの詩』があり、『記録』(1944年)には、上記二詩集と重なる作品もある。いずれも、光太郎自身が「序」を記しており、その収録の選択は自身によるものである。そして、当然のことながら、どの「詩集」にも収録しなかった作品も数多く、戦時下の「詩集」に収録しながら、敗戦後出版の文庫本の詩集などには、戦時下の作品がすっぽり抜け落ちていることもある。

 なお、戦時下の日本放送協会における「愛国詩」の朗読の時間で、光太郎の詩は数多く放送されたが、中でも放送回数が多かったのは、つぎの作品であった。詳しくは、坪井秀人『声の祝祭―日本近代史と戦争』(名古屋大学出版会 1997年)、近刊の別稿「『暗愚小傳』は「自省」となり得るのか―中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりにして」を参照いただきたい。

  1940年において、すでに、「欲しがりません勝つまでは」(1942年大政翼賛会などが公募した標語の当選作)などと同旨の詩が書かれていたことを知った。私は、東日本大震災後のNHKから流されて続けている歌謡「花は咲く」は、形を変えた「愛国詩」なのではないかの思いがするのだった。そして、この詩人の作品に登場する「倫理」や「美」は、現代の政治家たちがよく口にする「国民に寄り添った」「被災者に寄り添って」とか、「真摯に受け止め、再発防止に努める」「できることはすべてやる」などという発言と同様、無内容で、無策でしかなく、一過性のパフォーマンス、慰撫に過ぎない、と思われてならない。 

「最低にして最高の道」
もう止そう。
ちひさな利慾とちひさな不平と、
ちひさなぐちとちひさな怒りと、
さういふうるさいけちなものは、
ああ、きれいにもう止そう。
(後略)
(「大きく生きよう」を改題、1940年7月10日作『家の光』1940年9月。『大いなる日に』収録)

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2019年9月18日 (水)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(4)光太郎の世界地図帳

 若いころ、国際関係論を専攻した同僚が「地政学」という言葉をよく口にしていた。なんとも古めかしく、怪しげな・・・などと思っていた。ナチスの国土拡張、侵略の理論的な支柱になっていたことなどのうろ覚えでもあったのだろう。しかし、最近になって、ときどき、「地政学」の言葉を聞くようにもなった。先日も、トランプ大統領がノルウェーの自治領であるグリーンランドを買収したいと言い出したとき、ある番組の解説者は「地政学的問題だけでなく・・・」といった形で発言していた。グリーンランドは日本の約6倍近くの広さに、6万人弱の人々が暮らしているといい、地下資源などを持つという。中国の一帯一路をけん制する意味もあると書く新聞記事もあった。サウジアラビアの石油施設攻撃のニュースでは、『石油地政学』という著書を持つ「専門家」が登場していた。現代の「地政学」とは何なのだろう。

 前の記事の「地理の書」が「日本列島の地理第一課だ」を題名にも考えていたような草稿を前の記事にも収めた。このフレーズで締めくくっている詩は、まさに、当時のナチス流の「地政学」が日本にも横行していたからだろう。光太郎は、他にも、この「地政学」を踏まえたかのような詩をたくさん書いている。以下の作品など典型的なものであろう。光太郎は、どんな地図帳と百科事典をもっていたのだろう。

 余談ながら、私の小学校時代は、『少年朝日年鑑』(1949年創刊、1988年終刊)を毎年買ってもらっていた。いまでも、地図帳と年表が嫌いではない。「紳士録」的な関心はないのだけれど、近代の歴史や文学関係の人名辞典が気になって仕方がない時代があり、古いものは若干手元にあるのだが、いまは、とりあえず、ウィキペディアのお世話になることが多い。

「ビルマの独立」

印度と支那と仏印と泰との山嶽を押しわけ、
サルウィン、イラワヂ、シッタンの大河を縦に並べ、
東南アジヤの大陸に巨大な楔をうちこむもの、
西蔵、雲南の高みからベンガル湾の波打ち際まで
チークと稲と木綿とに地表を被はれ、
天のきざはしの如く壮大に位置するもの、
北回帰線を頭上にいただき、
雨季と乾燥季と一年を恵まれ、
黄金のパゴダに國をあげて信篤きもの
ビルマはいま独立を宣する。
(後略)
(1943年7月30日作、8月1日放送。『記録』収録)

「マキン、タラワの武人達」

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 (1943年12月27日作。『少国民文化』(少国民文化協会)1944年2月号、『全詩集』のみに収録)                        

 引用が長くなるので、その冒頭部分を画像とした。1943年11月21日マキン、タラワ両島は、米軍5万人による攻撃を受け、日本軍3000人は玉砕した戦いだった。 

 

 

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2019年9月14日 (土)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(3)「地理の書」の改作と削除

 

「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。」のリフレインのある「樹下の二人」(1923年3月11日作『明星』同年4月)も、そうなのだが、「葱」(1925年12月28日作、『詩人俱楽部』1926年4月)という短い詩の前半にも見るように、光太郎の詩には地名がよみ込まれている作品が多い。

「葱」
立川の友達から届いた葱は、
長さ二尺の白根を横(よこた)へて
ぐっすりとアトリエに寝こんでゐる。
三多摩平野をかけめぐる
風の申し子、冬の精鋭。
(後略)

 光太郎は、地図帳に親しみ、地理好きの人間なんだな、くらいの思いだった。智恵子は1938年10月に亡くなるのだが、1937年辺りからの作品になると、たんなる地理好きとは違う様相を呈してくる。1937年7月7日盧溝橋事件を機に、全面的な日中戦争に入り、1938年4月国家総動員法公布とともに言論思想統制はますます強化され、作家の従軍、戦争文学隆盛の時代に入った。ちょうど、その頃、光太郎は「地理の書」(1938年5月9日作、『改造』同年6月)を発表している。私は、かつて入手した大政翼賛会文化部編のアンソロジー『朗読詩集地理の書他八篇』(翼賛図書刊行会 1941年7月)で「地理の書」を読んだ。また、最近、光太郎の単独詩集『大いなる日に』(道統社 1942年4月)を入手した。いわゆる「戦争詩」と言われる「秋風辞」(1937年9月29日作)で始まり、「昭南島に題す」(1942年2月20日)というシンガポール陥落をよんだ作品で終わる37篇を収録した詩集である。

「地理の書」
深い日本海溝に沈む赤粘土を壓して
九千米突の絶壁にのしかかる日本島こそ
あやふくアジヤの最後を支へる。
崑崙は一度海に没して又筑紫に上る。
両手をひろげて大陸の没落を救ふもの
日本南北の両彎は百本の杭となり
そのまん中の大地溝(フォッサマグナ)に富士は秀でる。
(中略)
稲の穂いちめんになびき
人満ちてあふれやまず
おのづからどつと堰を切る。
大陸の横壓力で隆起した日本彎が
今大陸を支へるのだ
崑崙と樺太とにつながる地脈はここに尽き
うしろは懸崖の海溝だ。
退き難い得意の地形を天然は
氷河のむかしからもう築いた。
これがアジヤの最後を支へるもの
日本列島の地理第一課だ。
(「大いなる日に」道統社1942年4月。『朗読詩集・地理の書他八篇』大政翼賛会文化部編 翼賛図書刊行会 初版1941年7月27日、1942年10月10日修正再版)

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『大いなる日に』の「地理の書」の冒頭部分。

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『髙村光太郎全詩稿』より。「地理の書」の冒頭部分。
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『髙村光太郎全詩集』の「地理の書」冒頭部分。

 「地理の書」は、65行に及ぶ長い詩だが、「日本列島の地理第一課だ。」という最後の一行でも明らかなように、日本列島の成り立ちや地形・位置を事細かに、執拗に語り続ける。私なども中学校の社会科や理科で習ったが、大方忘れかけている用語がふんだんに使用されている。当時の中学生や青年たちが学んだばかりの知識がちりばめられていて、刺激にもなったろうし、大人たちにとっては、妙な説得力を持つ内容であったのではないか。先の朗読詩集の「地理の書」には、編者の大政翼賛会文化部によると思われる、つぎのような解説文が付されていることからも、作者光太郎の意図も大政翼賛会がこの詩の普及に努めたのも、大陸進出の必然と正当化をもくろんでいたことは確かであろう。

「これは日本列島の地理地形の説明にことよせて、われわれ民族の性格と運命と決意をうたつた詩であります。地質地形の術後は中学校程度のものに限つて使用してあります。国土の位置や気候風土の特色によつて、われわれ民族の特質美点も形づくられ、又それがおのづから世界に対するわが国の使命となつてあらはれて来ます。日本が太平洋にアジヤの最東端に在ることの意味を思ひめぐらしてみませう」

 今回、北川太一による『髙村光太郎全詩集』(新潮社 1966年)を繰っていて、この詩に目を止めたところ、「えッ?」と驚いたのである。その1行目が「深いタスカロラ海溝に沈む赤粘土を圧して」となっていたのである。「日本海溝」が「タスカロラ海溝」になっているのだ。
 北川太一『髙村光太郎全詩稿』(タブロイド判の2分冊、厚さ8センチの箱入り豪華本、重い!)の解説も慌てて読んでみると、どうも、『改造』の初出は、「タスカロラ」で、『大いなる日に』に収録する際に、「日本」と変えたが、北川は『髙村光太郎全詩集』収録の際に初出に戻した、ということらしい。「タスカロラ」はどこかで聞いたことがあるが、今回、調べてみると、宮沢賢治の『風の又三郎』には「タスカロラ海床」として登場していたのだ。光太郎は賢治を敬愛してやまなかったから「タスカロラ」を使ってみたかったのかもしれない。そもそも「タスカロラ」は海溝ではなく、カムチャッカ・千島海溝の南端部に9000m近い「海淵」があるのを、アメリカ人が1873年発見し、その船の名の「タスカロラ」号から名づけられたという。だから、カムチャッカ・千島海溝の南端近くにあるのが「タスカロラ海淵」で、「日本海溝」はそれに続いて日本列島に沿う位置にあり、まるで別物なのである。2行目にある「九千突米」の「突米」はメートルのことで、フリガナがふられている詩集もある。日本海溝は、最深部でも8000mであって、9000mの絶壁も存在しない。

 1942年4月発行の『大いなる日に』への収録にあたって、なぜこんな改変をしなければなかったのだろう。日本列島の成り立ちから言って、どちらが学術的に正確なのか、私にはわからないのだが、「タスカロラ海溝」という用語自体は、あまり正確でないことに気づいてなのか、それとも他の理由によるものかを考えてみた。   
 前年の12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争は始まり、日本放送協会が開局翌年1926年から続けてきたラジオ英語講座は12月8日の朝を最後に中止され、年末にはアメリカ映画の上映が禁止された。「敵性語」であるということから、1942年4月1日から、ラジオアナウンサーが「放送員」と改められた(ちなみに、1943年4月1日からはニュースが「報道」と改称している)。さらに、1942年7月8日文部省通達により高等女学校での「英語」は、随意科目となり、時間は減らされている。43年2月からは、カタカナ雑誌名の改題が続いた。『キング』が『富士』(1942年2月~)に、『エコノミスト』が『経済毎日』(1943年2月~)に変更されたことなどがよく知られている。学校名や会社名なども続々とカタカナ名を日本語に改められた。

 光太郎が『大いなる日に』の「序」を書いたのが1942年3月、「支那事変勃発以来皇軍昭南島入城に至るまでの間に書いた詩の中から三十七篇を選んでここに集めた。ただ此の大いなる日に生くる身の衷情と感激を伝へたいと思ふばかりである。」とある。その前月の2月15日にはシンガポールが陥落し、光太郎も、これを主題とした三篇の詩を作り、すべて収めた。

「シンガポール陥落」
シンガポールが落ちた。
イギリスが砕かれた。
シンガポールが落ちた。
(中略)
大英帝国がばらばらになつた。
シンガポールが落ちた。
つひに日本が大東亜を取りかへした。
(後略)

 この詩の末尾には、1942年2月12日に「A・K〈東京放送局〉に渡す」と記されている。ということは、「陥落報道」の前に、見込原稿というのだろうか、予定原稿というのだろうか、事前に用意されていて、陥落報道の翌日2月16日は、陥落祝勝放送や新聞報道が満載の中、この詩が朗読放送(山村聰)されている。また、「夜を寝ねざりし暁に書く」も陥落をテーマにした詩である。

「夜を寝ねざりし暁に書く」
あのざッ、ざッといふ音は何だ。
あの轆轆たるとどろきは何だ。
あの堂堂として整然たるひびきは何だ。
(中略)
シンガポールだ。
皇軍シンガポール入城の耳がきくのだ。
堂堂として整然たるあのひびきの中に
一切の決意と栄光がある。
(後略)
(1942年2月18日作、『朝日新聞』同年2月21日掲載の際には、「戦捷の祝詩―夜を寝ねざりし暁に書く」となっている)       

 同年2月27日には「戦捷の祝詩」としてラジオで朗読放送(北沢彪)されている。陥落直後、シンガポールは「昭南島」と名付けたことを受けたのだろうか、光太郎は、2月20日には「昭南島に題す」として制作、『週刊朝日』3月8日号に発表したのがつぎの誌面である。

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『週刊朝日』1942年3月8日号から。

 また、「地理の書」に戻るのだが、カタカナの言葉が、和語に改変している個所がもう一つあった。六段落目の最初の一・二行に「水蒸気この島にヴエイルをかけ/天然の強もてを中和する」とあるのが、『大いなる日に』では「ヴエイル」が「ぼかし」に直され、「強(こは)もて」が「恐(こは)もて」と漢字が直されていた。後者のような修正は、詩集収録の際にはよく見られるケースで、カナふりを加筆したり、漢字をカナに変えたり、その逆などもよく見られるのだが、前者の直しは、いささか気になるのは、「日本海溝」に直したのと同様、前述したように、「敵性語」排除の大きな流れの中での配慮ではなかったのか、と考えられるのである。

   なお、敗戦後1951年から、『髙村光太郎選集』全6巻(中央公論社)が出版されたが、第1巻・2巻に詩が集められた。そこの収録された「地理の書」からは、 最後の段落の前半の5行が削除されている。この選集の編者は、明確ではないのだが、草野心平があたったとされ、光太郎自身も校閲に携わっている、という。繰り返しになるが、削除されたのは以下の5行だった。

稲の穂いちめんになびき
人満ちみちてあふれやまず
おのづからどつと堰を切る
大陸の横圧力で隆起した日本彎が
いま大陸を支へるのだ。
                                                                                         

   この稿では、「地理の書」を中心に、戦時下での書き換えや敗戦後の削除の一例を見てきた。こうした一件は、髙村光太郎においてどのような意味を持つのか。敗戦後、出版した詩集『典型』(中央公論社 1950年)の自序において、戦時下を振り返ってのことなのだろう「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、ひとつの愚劣の典型を見るに至つて魂の戦慄をおぼえずにゐられなかつた。」と述べ、そこに収録された20篇の「暗愚小傳」をもって「自省」したとした髙村を高く評価する流れも検証してみたい。

 

 

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