2017年3月24日 (金)

「歌会始」を通して考える「天皇制」

「歌会始」を通して考える「天皇制」

以下の文章は、昨年の7月下旬に発売された雑誌『ユリイカ』(20168月号)に寄稿したものである。以降、天皇をめぐってのさまざまな環境も変化した。私自身の周辺でも、以下の文章をめぐって、いくつかの批判も公にされたし、論争の的にもなった。その一方で、いささかの励ましもいただいた。『ユリイカ』を読む機会が少ない当ブログの読者や歌人の方にも是非お読みいただければと、掲載することにした。「歌会始」は、憲法上規定のある天皇の「国事行為」でもなければ、「私的行為」でもない「公的行為」とされているが、憲法上にも皇室典範上にも規定があるわけではない。 


( 3月27日補記)

下記のエッセイと直接関係はないのですが、昨日、下記のブログ「短歌のピーナツ」に、牛尾今日子さんという方が、拙著『現代短歌と天皇』(2001年)の書評を書いてくださっているのを知りました。ありがとうございます。1994年生まれの京都にお住いの歌人です。ていねいに読んでくださって、疑問を呈されている個所もありますが、ともかく、拙稿に記された「事実」と文献をたどって、役に立つことがありましたら幸いです。

「短歌のピーナツ」の書評シリーズの51冊目に当たります。私も、時々寄らせてもらっています。読んでない本は、読んだ気になってしまいそうになるほど長いです。最近では、「万葉集の発明」、「短歌のジェンダー」「窪田空穂の身の上相談」などが面白かったです。

「短歌のピーナツ」

2017年3月25日

http://karonyomu.hatenablog.com/

◇◇◇◇◇

タブーのない短歌の世界を―「歌会始」を通して考える

今回の特集の企画書によれば、筆者は、まさにアウェイの感を免れない。あえて飛びこんだのは、現代短歌は、歌会始・天皇・天皇制を看過できないはずとの思いからである。

「歌会始」、無関心を標榜する歌人たち

岡野弘彦や岡井隆の世代はもちろんのこと、穂村弘、さらに山田航の世代に至るまで、無関心であろうはずがなく、必ずや少なくとも、歌会始の現況を見極めているはずである。和歌御用掛り、選者、召人となった歌人自身が、そのことを世間にあらわにして、その地位を誇らしげに語るのは、岡野・岡井どまりで、以降、多くの歌人は、選者、召人になったり、陪聴者になったりしたことすらも、身内や仲間内ではともかく、自ら世間には公けにせず、語らないのが流儀のようなのである。「歌壇」を構成する歌人たちといえば、まったく無関心のふりをしながらも、横目で一瞥していることは確かであろう。天皇や天皇制について考えるのは面倒な上、いつか自分が招ばれる日が来るかもしれないと、静かに控えている歌人は多いにちがいない。

 

①ゴージャスな背もたれから背を数センチ浮かせ続ける天皇陛下(穂村弘)

(『短歌往来』20102月)

②天皇は死んでゆきたりさいごまで贔屓の力士をあかすことなく(穂村弘)

(『短歌研究』200610月) 

穂村弘は、①について「これは、歌会始での天皇陛下の様子なんです。歌会始に招待されるシステムみたいなのがあって、毎年いろんな人が呼ばれていますが、それに行ったことがあって、わりと近くで天皇がいらして・・・これはわりと、リアルな歌で、現在の天皇のことです」と自作を語り、平成に入って、歌会始の陪聴者になったことをさりげなく明かしている(『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』新潮社 二〇一二年、178 )。また、同書の山田航の解説によれば、①は、岡井隆、石井辰彦らと朝日カルチャーセンターの朗読会(二〇〇九年九月六日)の「皇居を詠む」のテーマで朗読した作品だったという。続けて、山田は、①について、穂村は、ある時期「天皇であるということは尋常ではないほど厳しい自己規律が必要なのだと気づき、そこに激しい他者性を見て」「時代と自己との関係性を見つめなおすようになった」として、②では、平成の天皇には「昭和天皇に見出している人間くささとはまったく異なっている」ものを見て取る(177p)。

穂村の「歌会始に招待されるシステムみたいなのがあって、毎年いろんな人が呼ばれていますが」の書きぶりからは、あえて深く考えないポーズをとる。山田は、「他者性」「関係性」といった用語を使用するが、近頃のテレビタレントのキャスターでさえ好んで口にする、一種の流行語にも思え、内容的には何も踏み込んで語っていないことになる。

世代的には確かにバランスをとっている現在の歌会始選者、篠弘から三枝昂之、永田和宏、内藤明、今野寿美の五人に至るまでの曲折や現状について触れる時評や論評は極端に少ない。選者の出自や師系をたどると、篠(まひる野)、三枝(かりん⇒りとむ)、永田(塔)、 今野(まひる野⇒かりん⇒りとむ、三枝の妻)、内藤(まひる野⇒音)ということになり、アララギ系の高安国世創刊の「塔」の永田を除いて他の四人は、すべて窪田空穂・窪田章一郎系にたどり着く。かつては、いいも悪いも偏らない配慮がなされていた。現在にあっては、多くの歌人が、所属結社の主張、師の系統による特色を厳密に受け継いでいるとはいいがたく、薄らいでいるとは言うものの、いかにも偏向のそしりは免れないだろう。

かつて、岡野・上田三四二の戦中派が選者入りした一九七九年、そして、天皇の代替わり後の岡井隆が選者になった一九九三年のときには、歌壇の反応は熱く、持続していた。さらには、敗戦直後の論争にもさかのぼることができる。 

戦後短歌史における「歌会始」

戦後短歌史における短歌と天皇制の問題は、具体的には「歌会始」の問題に集約されるだろう。詳細は、拙著『短歌と天皇制』(一九八八年)『現代短歌と天皇制』(二〇〇一年、ともに風媒社)『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 二〇一三年)にゆずるが、ここで、要点をさらっておけば、つぎのようになる。

一九四七年からの“新生”歌会始は、宮内省の御歌所の旧寄人二人と佐佐木信綱、斉藤茂吉、窪田空穂のいわゆる民間歌人三人を選者としてスタートした。御歌所主事を経て、当時は歌詠課課長、その後長い間侍従長を務める入江相政が実務を取り仕切っていたことは『入江相政日記』に詳しい。天皇制自体、天皇の戦争責任論、退位論などが取りざたされる存亡の危機に瀕した激動の時期であり、昭和天皇の歌会始以外の短歌を一般の雑誌や新聞にリークするなど、現在では考えられないほど、その政治的利用も活発であった。

一九五〇年六月に始まった朝鮮戦争による日本は特需景気を経て、一九五二年四月のサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約発効により独立することになるが、同時に、沖縄はアメリカの軍政が固定化し、日本の各地での米軍基地は強化されていった。さらに、日本遺族会設立、軍人恩給復活、自衛隊法成立、小学校に「道徳」復活など「逆コース」をたどる。一九五八年皇太子の婚約が決まると、皇室ブームを週刊誌ブームが支えることになる。歌会始の選者も、木俣修や五島美代子の起用によって、四賀光子と女性二人の時代がしばらく続くことになる。一九六〇年新安保条約成立後は、安保反対の国民運動も後退し、経済高度成長期を迎える、そのころの岡井といえば、現代歌人協会が歌会始入選者の祝賀会を開催したことについて、かなりのハイテンションで、つぎのように述べていた。

 「(宮中の)の一行事に文学の仮面をかぶせた歌人たちは、その仮面性を知っている以上、腹であれらの歌の形をしたものどもをわらっているか、否定している筈である。あるいは仮面でも詐称でもないという人がいるかもしれない。その人には、あの皇室関係者の御歌を一つ一つ自己の文学観に照らして価値づけてもらわねばならない」

「この歌会始の儀につながる一切事は、旧支配者に対する民衆の残忍な戯れなのであろうか。尊王の至誠が、皇室の民主化の至情が、とにかくそうした熱情のたぐいをすっかり凍結しつくしたところに生まれる非情な遊びなのだろうか。しかし、そこには美がない。この非情な穢醜を、私を肯定することができない」

(「非情の魅力について」『現代歌人』創刊号一九六〇年五月 4748頁)。 

一九七九年いわゆる「戦中派」の中核でもあった上田三四二(一九二三年生)と岡野弘彦(一九二四年生)が佐藤佐太郎と宮柊二に代わって、歌会始の選者になったとき、一九六〇年代には角川『短歌』の編集にも携わった同世代の片山貞美は、つぎのように批判した。

 

「事は天皇・皇族の参加する宮廷行事である。当然のことに参加する者の意識は改って、天皇を頂点とする制度の秩序のなかに整然と組み入れられることをあらわにする。(中略)つまり詠進歌の行事は今日では短歌の文学的問題をほとんど含まず、政治的問題が主だと見なければならないのだ。だから選者は選歌を通して天皇制支持という姿勢をあらわにすると見なければなるまい」

(「二人の戦中派」(角川)『短歌年鑑一九七九年版』) 

さらに、天皇制は家父長制とともにわたしたちの生活の根にかかわる問題で、「戦中派はそうした問題に一九四〇年代の戦争体験によって最も鋭く迫った人びとのはずである」から、選者になることは許せないと言い切った。しかし、一九七九年六月元号法が施行され、『短歌』は、一九八四年から、翌年の「宮中歌会始詠進要領」の掲載を開始する。短歌総合雑誌が「要領」を掲載、選者の一人岡野弘彦の詠進の勧めともいうべきエッセイや宮内庁での歌会始のプロモーターである入江相政のエッセイなどが続く時代の始まりとなった。戦後の短歌史上、短歌総合誌が、国の皇室行事に加担するというエポックをなした。さらに菱川善夫の『短歌』論文削除事件などが明らかになるのもこの時期であり(菱川善夫「変化と病―昭和五十年代の時代状況」『短歌現代』一九八五年二月)。歌壇全体が自粛ムードのなかで推移することになったことは、ある年代以上の歌人には覚えがあるのではないか。

一九九年の歌会始選者に岡井隆が就任することが公になった一九九二年秋、歌壇の様相は少し違っていた。「前衛歌人」の岡井が選者になったことの衝撃は少なからずあった。詳しくは筆者作成の「岡井隆歌会始選者就任関係書誌(一九九二~二〇〇〇)」(前掲『現代短歌と天皇制』所収)を見ていただけばわかるように、全国紙から同人誌に至るまで、必ずしも網羅的ではないにしても、その反響は数年にも及び、八〇点近く、アンケートなどを含めればその発言者は一〇〇人に達するだろう。岡井自身の発言も7点ほど含んでいる。岡井が、繰り返し主張し続けたのは、「歌会始は、だれもが参加できる奔放最大の、知名度の高い短歌コンクールで、国家や皇室との関係はいまや薄くなってきた。これからの歌会始は、参加する多くの応募歌人により、反権力を歌ってきた歌人らが選者になることによって、イメージは変わる」ということだったのだろうか。座談会やインタビュー記事からだけでは不明確な点が多い。さりとて、岡井自身の執筆になる、たとえば、「あるニヒリストの演舌―歌会始の件につき」(『未来』一九九三年一月)、「歌会始の選者として」(『短歌往来』一九九三年二月)などを読んでも、独特の言い回しではぐらかされた感じがしないでもない。代表的な反響として、上記『短歌往来』の一五名による「アンケート・岡井隆氏が歌会始の選者を引き受けられました。そのことにつき率直な意見を述べてください」の回答が、温度差はあるものの、裏切り、嫌悪、遺憾、不可解、失望、好ましくない、納得できない、天皇との距離を保つ、などが一〇名、一方、騒ぐこともない、興味がない、ぴんと来ない、驚くこともない、今後に注目したいという五名だったというのも興味深い。当時、『未来』で岡井隆の選歌から離れた会員、『未来』から離れた会員もいたという。

 近年の岡井隆は、歌会始の選者はやめたが、和歌御用掛として、皇居に通っているし、メディアへの露出度は高く、その発信力は衰えてはないようで、むしろ焦りさえもかんじさせる。昨年から今年にかけて、短歌誌ばかりでなく、つぎのような一般メディアにも登場する。

『朝日新聞』(夕刊)「人生の贈りもの」(二〇一五年二月)という一〇回のインタビュー記事では、

「かつてのマルキストが、歌会始の選者を引き受けたのはなぜか」の質問に、一九七〇年に蒸発して九州へ行った後で考え方を変え、五〇歳前後で思想転向したとして、つぎのように続ける。 

「ぼくみたいに若いころ天皇制を否定していた左翼の人間が転向したわけです。日本の文化人って、転向しても理由を述べない人が多いねえ。あれはやっぱり書くべきだと思います。説明責任があります。僕はその理由をいろんな機会に『自分が若いころには分かっていなかった』とちゃんと書きましたよ。それを経たあとは、ずーっと揺るがない。その一つの表れとしての歌会始です」(『朝日新聞』二〇一五年二月二六日付夕刊) 

ここでは、明確に「転向」に言及し、何度も「説明責任」を果たしてきたというが「若気の至り」

では、説明したことにはならない。現に、二〇〇八年の段階では、これも、小高賢との対談で「岡井さんの選者就任で一番足りないのは、ご自身の論理的説明ではなかったか」の質問につぎのように答えていた。

 「振り返って客観的に眺めてみると、やっぱり僕は転向したのだと思う(中略)。自分自身のためだけでもいいから、きちっとあきらかにしておく必要があったかなあと思う。ただなにか書こうとすると、みんな、大島史洋君もそうだったけれど、『岡井さん、もうやめなさい。何を言ったって、全部、言い訳に取られるから、何も言わない方がいいですよ』というから、そう思っちゃった」

(『私の戦後史』角川書店 二〇〇九年 二九六頁)

 

私の検索の限りでは、以後も論理的に説明している発言が見当たらない。岡井は、さらに「宮内庁和歌御用掛が明かす 佳子さまの和歌の素養」(『文藝春秋』二〇一五年六月)においても、歌会始を「国民参加型の文化行事」と位置づけ、最近体調を崩した折に(和歌御用掛の)後継者を探したが「適任者が見つかりませんでした」と記す。しかも、天皇・皇后は平和への特別な想いを持っているので「お歌に助言をさせていただく人間として戦争体験者の私がお役にたてるのではないかと、考えるようになり」、「両陛下がご公務に頑張っておられるわけですから、私も頑張らねばいけません。体力が続く限り、御用掛を続けさせていただこうかと思っております。」と結ぶ。

二〇一六年に入って、『朝日新聞』の「はじめての歌会始~皇室と国民 同じお題で心詠む」(「文化の扉」一月一〇日)にも登場、「2万人以上の人が一つのお題で定型の詩を作りあうのは、他国にはない」「歌会始は、日本の伝統が脈々と続いていることを世界に知らせる良い機会なのです」と述べている。はたして「日本の伝統が脈々と続いている」歌会始なのかは、明治以降の歌会始のありようを見ても、そんな素朴なことではなく、戦略的な結果が今に至っていることを承知の上、見て見ぬふりをしていることではないか。

現在五〇代以下の歌人たちは、先にも述べたような歌人への言論統制・圧力について、今の世の中においては、なおさらそれはありえない、自分はそんな目には合ってはいないと、楽観している向きも多いかもしれない。しかし、現在にあっても、天皇・歌会始のことに言及するとき、選者と師弟関係・友好関係があったり、自分に目をかけてくれる選者であったりすると、たとえ異議があっても、急に言葉を改め、敬語が増えたり、慎重な言い回しになるか、無関心・無言をつらぬくことが多いと、私は見ている。自覚的、無自覚的を問わず、すでに自粛や萎縮にもつながっていることを指摘しておきたい。

 

聖域やタブーをつくらない議論の場を

こうした歌壇の大きな流れのなかで、私は、最近、一つの事件に遭遇した。それに連なるもろもろのことに共通して見えてくるものは、やはり国家権力の文芸への介入を受忍する、民主主義の衰退であった。

二〇一五年一二月、現在の歌会始選者の一人今野寿美が二〇一六年から『赤旗』の歌壇選者になるという記事であった(『赤旗』1228日)。今野寿美の思想の自由、『赤旗』の編集の自由だといって、片づけられる問題なのだろうか。今野の選者としての歌会始の自身の作品と『赤旗』歌壇の選歌の結果を比べてみてほしい。明らかにダブルスタンダード的な要素が伺える。『赤旗』歌壇の選者を務めたことのある歌人の「なんかおかしい、今野さんの選歌は、明らかに『赤旗』におもねすぎている」との感想は聞いていたが、この件についての論評は、今のところ見当たらない。だが、これには、前触れがあった。一九四七年以来、七〇年近きにわたって、「玉座」から天皇の「おことば」が述べられている国会開会式には参加していなかった日本共産党が、二〇一五年のクリスマス・イブに、二〇一六年の通常国会から出席すると発表したのだった。そのために開かれた記者会見の模様を、『赤旗』より詳しく報道したのが『産経新聞』であった(一二月二五日)。「共産党、国会開会式に出席へ 天皇陛下御臨席に反対方針を転換「アレルギー」払拭へ」の見出しで、共産党は安全保障関連法の廃止を求める野党連立政権「国民連合政府」構想を提案しており、従来の対応を変えることで他党に根強い「共産党アレルギー」を払拭する狙いがあるとみられる、と報じた。ちなみに、「朝日新聞デジタル(12241249分)」では、「共産党が通常国会開会式へ 党として初、野党と同調」の見出しで、これまで天皇陛下の出席を理由に欠席してきたが、方針を転換した。開会式に出ている他の野党と足並みをそろえることで、来夏の参院選での共闘へ環境を整える狙いがある、とした。

さらにさかのぼれば、二〇〇四年の新綱領、昨二〇一五年一〇月の「日米安保条約廃案一時凍結」の発表で、野党共闘、アレルギー払拭をめざし、一枚一枚、たけのこのように、皮をはいで行って、残るものは何なのだろう。そういう流れのなかで、一見、寛容で、ウイングを広げたかのような『赤旗』紙面への著名歌人の登場、歌会始選者の『赤旗』歌壇への起用であったのである。だが、一方、歌人に限らず、いささかでも異を唱える者の排除や無視という非民主的な要素、開かれた議論の場を想定しがたい状況が、蔓延しているのではないかが懸念される。思想の自由、表現の自由を守ることの難しさを痛感するのである。

歌壇に限って言えば、そんな風潮を早くよりキャッチし、警鐘を鳴らし続けている歌人もいる。そして、二〇一六年の年末になって、佐藤通雅は、拙著3冊をあげて「果敢にタブーに踏み込んだこれだけの作業を、見て見ぬふりをいいのかと義憤の念にかられて、私はいくつかの文章を書いてきた」との論考が発表された。拙著で述べた「天皇・皇后の被災地訪問は、政府や企業あるいは自治体の被災地・被災者対策の不備を補完する役割」とすることについて、佐藤は、「補完の域を脱した、内部からの抵抗を感じることが何度もある」「為政者への無言の異議申し立て」であると、私の考えとの違いをも踏まえ、「いずれにしても、選者になったとたん黙して語らないのも、周りが見て見ぬふりをするのも不健全にはかわりはない。タブーはもう脱ぎ捨てて、さまざまな角度から意見を出し合い、問題を共有していくことを私は望んでいる」と結論付けた(「歌の遠近術12短歌と天皇制への視点」『短歌往来』二〇一五年一二月)。

しがらみのない、インターネットの世界から巣立つ歌人たちにも、ぜひ、歴史から学び、聖域やタブーをつくらない議論の場を構築し、こまやかな感性とゆたかな感情を大切にしてほしい、と願う。

 

 

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2016年12月24日 (土)

紅葉のシーズンは終わったはずだが~久しぶりの京都(2)平等院から三月書房へ

宇治上神社から平等院へ

「山宣」墓参の後は、「花やしき」の山本氏と別れ、部屋の窓から見えていた朱塗りの喜撰橋を塔の島へと渡る。辺りは護岸工事たけなわで、観光シーズンを外して実施しているとのこと。対岸へは、朝霧橋を渡る。橋の下は、天ケ瀬ダムからの流れでかなりの早さである。橋を渡り切ると右正面に福寿園の店と工場があり、製茶の手順が分かる展示室もあった。

反対側に進むと宇治神社、境内ですれ違った女性に、新しい鈴が奉納されたばかりなので、お参りしてください、と声をかけられた。なるほど、新しく太い鈴緒であった。早速拝礼の後は綱を振ってみるが、鈴の音が鈍い。房が閉じられた木枠には奉納のスポンサー「山崎製パン」などの文字が見える。さらに、奥の宇治上神社へ向かうと、今度は、数人で、赤い鳥居に太いしめ縄をしつらえているさなかであった。先の鈴と言い、初詣の備えなのだろうか。広い境内を一回りした後、与謝野晶子の歌碑にむかう。この辺りも、まだ、紅葉が残る。斜面の上から、何やら元気な声がと思えば、朱色のスモックの園児たちが列をなして、手を振ってくれていた。保母さんとともに、「コンニチワー」の大合唱である。

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宇治神社、奉納されたばかりの鈴


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宇治上神社の鳥居を出た帰り道にも出会った別の園児たち、素晴らしい散歩コースですね、「コンイチワ」と先に声をかけられ、「イッテラッシャーイ」を繰り返す

ふたたび二つの橋を渡って、散策路から平等院に入った。ここはさすがに、観光客が多い。鳳凰堂の見学はスルーして、源頼政の墓所や鳳翔館を回り、池の前のベンチで一休み。昼食は、どこにするか迷いながら、表参道半ばのお茶の中村藤吉店の茶そばに決め、スイーツの誘惑にも負け、二人で一品、いただくことに。

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源頼政墓所から鳳凰堂を望む

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  茶そばとスイーツを。前の店では、「中村茶」を勧められた。〇に十の商標は、
中村藤吉の「藤」の音読みに由来するとか、店員さんは、「はっきりしないのですが、
と言われています」とのこと

夕食は、娘と京都で約束しているので、早めに戻り、立ち寄りたいところがあった。島津製作所の資料館と三月書房だった。

島津製作所創業記念資料館

今日の宿、八条口前の新都ホテルに荷を預け、地下鉄の市役所前下車、京都ホテルオークラ、日本銀行の角をぐるりと回る。老舗の京都はテル、夫は、いつ「オークラ」が付いたんだろうというので、後で調べてみたら、業務提携をしたのが2001年だったらしい。島津製作所創業記念資料館は、なかなか風情のある建物で、その展示内容も充実していた。1975年、創業百周年記念としてオープンしたという。ノーベル賞の田中耕一さんのコーナーもあるが、明治のものづくりの精神を脈々と受け継ぐ企業の面目躍如といったところか。学校の顕微鏡から家庭の電化製品、病院の医療機器、航空機器にいたるまで、どこかで島津製品にお世話になっていたような気がしてくるほどである。

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中京区木屋町二条南、創業時の社屋で、近代化産業遺産に認定されたそうだ

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資料館2階から望む

三月書房

 
そしてすぐ近くのはずの本屋さん、三月書房に向かった。詩歌関係の書籍が充実していることで知られる。そのホームページの短歌コーナーで、私のブログを歌人のブログの一つとしてリンクしてくださっていることを知って以来、一度訪ねたいと思っていた。店に入って、そのことを伝えると、「まもなく帰るはずですが、主人は、いま出かけていまして」とのことだったが、ほんとにすぐに戻られ、ご主人の宍戸氏にお会いすることができた。三月書房は新刊の本屋さんなのだが、つい、いただく歌集の始末を、皆さんどうされているのだろうという話になってしまった。「出版される歌集の90%以上は、古書店でも買い取りません」ときっぱりおっしゃる。たしかに、数年前、私も東京の古書店に発送した6箱目以降断られた経験がある。

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ようやくたどり着いた三月書房、中京区寺町通二条上ル西側

娘と待ち合わせたレストランでは、その夜からクリスマス・メニューをはじめたところとのこと、私たちは、まず、ワインや特製カクテルで、乾杯となった。

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中京区河原町通理に条下ル一之船入町、フォーチュンガーデンにて

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紅葉のシーズンは終わったはずだが~久しぶりの京都(1)宇治の「花やしき」へ

 結婚して間もないころ、宇治を訪ねた折、山宣のお墓にはお参りしたが、その生家の旅館「花やしき」は何となく敷居が高く、前を通り過ぎただけだった。今回の京都行きでは、ぜひ泊まってみたいというのが、目的の一つだった。ランチは、娘が予約しておいてくれた、京都タワーが眼前に迫るレストランで済ませた。休日とあって、伊勢丹のレストラン街は、その人通りと各店の行列とでごった返し、その賑わいには少々驚いた。京都駅も一人だったら迷うだろう。

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宇治に直接向かうつもりが、かつて夫が名古屋から単身赴任で住んでいた合同宿舎があった桃山で下車。「泰長老官有地」の宿舎は4階建ての14棟ほど立ち並ぶが、現在は廃止が決まり、各棟に数家族が住んでいるのが現状で、娘と訪ねた2年前とあまり変わらず、廃屋めいた棟もある、閑散とした団地であった。夫は、ベランダに住み着いた鳩の鳴き声で目がさめたといい、私が娘と訪ねた週末などは近くのテニスコートの球音で目が覚めたことなどを思い出す。30年以上前のことである。

御香宮神社

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御香宮表門

 今回は、明治天皇・昭憲皇太后の桃山御陵は失礼して、京阪の桃山御陵駅まで歩いてみると、御香宮神社の灯篭が歩道にはみ出しているような格好で建っていた。神功皇后をまつり、「御香宮」名は、香りの良い湧き水に由来するという、貞観年間9世紀にさかのぼる。安産・子育てにご利益があるとのこと。表門は伏見城の大手門を移築したといい、立派なものだったが、入るのは初めて。奥が深いようなのだが、門をくぐった左手の「伏見義民碑」が目をひいた。京都市の案内板「伏見義民事蹟」によれば、1785年(天明5年)、伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自らは獄死するなど悲惨な最期を遂げた文殊九助ら7人を伏見義民として、1887年(明治20年)に建てられた慰霊碑で、碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書という。義民の墓所は近くの大黒寺に、江戸で獄死した3人は門前仲町の陽岳寺にあるという。佐倉では、佐倉惣五郎が有名だが、どうも脚色やフィクションが多く、どこまでが史実か不明な「物語」なのに比べ、伏見の7人は確かなのである。

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御香宮「伏見義民の碑」

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「伏見義民事蹟」

桃山基督教会

その御香宮の隣に続く白い塀に沿えば、奥まったところに古い木造の建物が見えた。門柱には、「桃山幼稚園」「日本聖公会桃山基督教会」とあった。かつては余裕もなく、前を通り過ぎていたのだろう、この教会には覚えがないのだが、歴史は古く、2017年には100周年を迎えるという。機会があれば、教会内部も見学したい、と思う。

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日本聖公会桃山基督教会、来年100周年を迎える

 大手筋のアーケード商店街は、変わりがないようで、生活感あふれる露店も並ぶ。市内の錦小路はすっかり観光地化され、外国人目当ての店が多くなってしまった。同じようなことは、上野のアメ横でもあるらしく、アジア系の店がめっきり多くなってきたと、テレビで嘆いていた店のオーナーがいた。

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大手筋商店街(1)

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大手筋商店街(2)

 花やしき浮舟園~山宣の生家と墓所と

 冬至も近いことから、暮れるのが早い。京阪宇治駅に着き、宇治橋を渡る頃の夕映えは格別だった。平等院表参道は賑やかだったが、川沿いの散策路は、見事な紅葉も残っていて、人影もない。いよいよ宿の「花やしき」へ。

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宇治橋から

ひと風呂浴びての夕食が、和食のごちそうで、ビールも進む。2泊分の荷物を背負って歩いたので、肩や腰の張りが心配ながら、早々と就寝。

朝から湯豆腐のお鍋や茶がゆも選べる朝食をしっかりといただき、ロビーで、目の前の護岸工事のことをお尋ねしたところ、答えてくださったのが、オーナー4代目の山本哲治氏であった。山本宣治のお孫さんにあたる。「山宣」の墓参のことを話すと「車でお送りしましょう」との言葉、恐縮しながら、甘えることになる。

山本宣治(18891929)、ご存知の方も多いと思うが、非合法だった日本共産党からの要請で、当時の無産政党、労働農民党から立候補、1928年、第1回普選で当選した政治家で、治安維持法の改悪に反対していたが、その法案可決の日に右翼により刺殺され、1929年、39歳の波乱の人生を閉じた。彼の両親が創業したのが、この旅館「花やしき」で、熱心なクリスチャンでもあった。彼は10代でカナダに留学、帰国後、三高、東大と進み、動物学を専攻、同志社大学(予科)講師になり、性教育の啓発、産児制限運動にも貢献している。

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花やしき浮舟園

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墓石の文字「花屋敷山本家の墓」は、宣治の母、多年の短歌の師、阪正臣の揮毫による

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山本家の墓碑の裏面、上段に、父亀松、母多年、宣治の命日と享年が記されている。ちよは、宣治の妻。左には、大山郁夫の筆になる、全国農民組合大会での 宣治の演説の一節が刻まれている。「山宣ひとり孤塁を守る だが僕は淋しくはない 背後には多くの大衆が支持しているから」とある

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宇治川沿い散策路に残る紅葉

  

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2016年12月 9日 (金)

婦人矯風会創立130周年記念集会へ、講演とコンサート

東京生まれながら、大久保という駅には下りたことがなかった。駅から徒歩1分の新宿区百人町にある「矯風会館」も、初めてである。まさに、130年前の今日、1886126日に、矢島楫子ら56人のキリスト教徒の女性たちが、「禁酒・純潔・平和」をかかげて立ち上げたのが「東京婦人矯風会」だった。一夫一婦の確立、在外売笑婦取締り、廃娼運動から大正以降は婦人参政権獲得運動、昭和の敗戦後は売春防止法制定、平和運動にも大きく貢献してきた「日本キリスト教婦人矯風会として、現在まで続く。

この日のプログラムと機関誌『婦人新報』の最新号は以下に掲げた。30分ほどの礼拝があり、聖書の話、祈り、献金、祝祷と続いた。ホールは横に広く、百数十人だろうか、やはり、年配の方が圧倒的に多い。

続いて、矯風会理事長の川野安子さんから挨拶があった。長い歴史は苦難の歴史でもあり、日中戦争下における矯風会の在り方にも及び、柏木義円の名を挙げて、反省にも言及された。

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『婦人新報』は、1895年2月に創刊、1893年11月創刊された『婦人矯風雑誌』の後継 誌である。多くの婦人運動の論客や活動家も執筆している歴史ある雑誌である。来年4月から、その誌名が『k-peace』と横文字になってしまうそうだ。ちょっと残念な気もするのだが。

そして、小林緑さんの講演は「見せない半分/聴かない半分~クラシックの女性作曲家“不在”の理由」と題して、作曲家でハーピストのフランスのアンリエット・ルニエ(18751956)をめぐるジェンダー問題のさまざまについてであった。小林さんの話は何回かお聞きしているが、ルニエに特化しての話は、私は初めてである。ハープを語ることは、ルニエを語ること、ハーピストとして自ら作曲、ハープのための編曲、ハープの指導に貢献したが、クラシックの世界では、フランス人であること、女性であること、ハープであることという幾重もの壁になって、音楽事典にも載らず、知られざる音楽家になってしまったというのだ。

続いての、演奏は、今日はすべて、ルニエの作曲、編曲になるもので、若い演奏者の力強いハーモニーは快かった。当日のプラグラムは以下の通りであった。

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2016年11月12日 (土)

小春日和の青山通り~「音を紡ぐ女たち―女性作曲家を知り、聴くPart2 」とマルシェ

 かねてよりご案内いただいていた、表記のコンサートに夫と出かけた。東京ウィメンズプラザフォーラムの一環としてのコンサートで、昨年に続く2回目だった。知られざる作曲家を広める活動をされている小林緑さんの事務所の企画である。

 

今日は、ハープが主役である。ハープは、ピアノよりも長い歴史を持ち、重要な楽器でありながら、現在ではオーケストラの一部としかみなされない楽器になってしまった。しかも、その音色から、女性にふさわしい、いや「女々しい」楽器とさえ言われるようになった歴史もあるということだ。今回は、この優美な楽器のために作曲・演奏した女性たちに焦点をあてたとのこと。ヨーロッパでは、男性のハーピニストも増えているとのこと、小林さんからの解説があった。

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 演奏者の有馬律子さんは、ピアノを習っていたが、8歳のとき、自らハープを望み、始めたという。ハープ一筋で芸大を卒業後は、チェコのヤナ・プシュコヴァに師事、帰国したばかりの新進。190センチに近い、40キロを超え、47弦、7つのペタルの楽器を駆使する颯爽とした姿で、繊細で、しなやかな、やさしい音色を奏でるのだった。

 

 コッリ=ドゥシェク(17751831?)の「ハープのためのソナタ」、パラディス(17591824)の「シシリエンヌ」、ド=グランヴァル(18281907)の「メランコリックなワルツ」は、伊藤倫子さんのフルートとのアンサンブルだった。さらに、ヴァルター=キューネ(18701930)、ルニエ(18751956)のハープ演奏、とくにルニエの「バラード第2番」(1911)は、本邦初演ではないかとのことであった。

 久しぶりのハープの音色に癒されるひとときを過ごした。

 ☆☆☆

 昼下がりのウィメンズプラザを出ると、青山通りには、テントが立ち並ぶマルシェが出現、大変な人出であった。毎週土日に開催しているファーマーズマーケットだという。どのテントでも普段、近くのスーパーではお目にかかれない野菜や様々な食材が並んでいた。

 青森のりんごの店では、おすすめの「おいらせ」、スターキング系の掛け合わせといい、品種を聞き逃した王林よりはやや黄色がかったものと2種類を、屋久島のお茶「縄文」というのを購入・・・、あれもこれもと欲しくなるのだが、食事のコーナーへと移る。ここも様々な移動車での呼び込みが盛んである。ようやく座れた相席のテーブルで、ピザとおでんというメニューとなったのがおかしかった。今日は、日本酒のフェアーが開かれている由、19の蔵元が参加、辺りは、おちょこ片手で、ご機嫌の人も多かった。ヨーロッパ旅行では、よく出会うマルクト広場の市場、我が家の近くにもこんなマーケットが欲しい、と帰路につくのだった。

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2016年11月 4日 (金)

勲章が欲しい歌人たち、その後~岡井隆が文化功労者に

 「勲章が欲しい歌人たち」と題して、15年ほど前に、同人誌に書いたことがある。その後の新しいデータを踏まえ、補筆したものを、拙著『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房20138月)に再録した。「しつこいね」との声も聞こえないでもないが、やはり、伝え続けたいと思う。

 1028日、政府から、文化勲章の受章者と文化功労者の発表があった。叙勲もあった。ここ数年、学生時代のクラスメートや職場の後輩たちの名前を見出し、もうそんな年になったのかと愕然とする。とくに、付き合いの長い短歌の世界で、いずれも他人事として、聞き流せばいいのだけれど、少しばかり、つまらない情報を持ち合わせているから、「やっぱり」「まさか」の思いがよぎる。

 今年の文化功労者の中には、歌人岡井隆の名があった。岡井については、いろいろなところで書いているので、繰り返さないが(最近では、「タブーのない短歌の世界を~<歌会始>を通して考える」『ユリイカ』20168月号)、後掲の「日本芸術院会員歌人の褒章・栄典一覧」でも明らかなように、国家的な栄典制度を歌人にあてはめてみると、一つの方向性が見えてくると思う。

 文化勲章は、太平洋戦争下、広田弘毅首相時代の1937年に発足した。これまで、文化勲章を受章した歌人は、佐佐木信綱(1937年)、斎藤茂吉(1951)、土屋文明1986)の三人で、年金が伴う文化功労者になったのは、佐佐木(1951)、斎藤(1952)、土屋(1984を含め、窪田空穂(1958)、近藤芳美(1996)、岡野弘彦(2013)、そして今年の岡井隆(2016)となった。文化勲章は、1979年以降は、原則的に前年度までの文化功労者の中から選ばれることになっているので、岡野、岡井は、文化勲章の待機組ということになる。

 岡井隆(1928~)は、アララギ系の歌人で、塚本邦雄、寺山修司らと戦後の前衛短歌運動の推進者であったが、現在『未来』主宰、19932014年まで歌会始の選者を務め、その後、宮内庁御用掛となった。

では、文化功労者は、どのように選ばれ、さらに、文化勲章は、どのように決められるのだろうか。

 当ブログでは、すでに、岡野弘彦が文化功労者になった折、以下の記事を書いているので、合わせてお読みいただければと思う。

 

・文化功労者はどのように決まるのか~歌人岡野弘彦の受章に思う(20131027日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/10/post-5776.html

 

 まず、「文化功労者」は、文部科学大臣が文化庁に設置されている文化審議会の中の文化功労者選考分科会にその選考を諮問する。選考分科会の委員は、毎年9月に710人程度発令され、多分野から候補者15人程度を選考し、文科大臣に答申し、文科大臣が決定・発令という流れで決まる(文化功労者年金法)。 文化勲章は、文科大臣が、前年度までの文化功労者から選考し、内閣総理大臣に推薦する。総理大臣は、閣議決定を経て、天皇に上奏、天皇が裁可、発令となる(文化勲章受章候補者推薦要綱)。 決定するのが、文科大臣か内閣総理大臣かの違いを設け、文化勲章は、従来の「伝達式」は、1997年から、天皇から直接手渡される「親授式」に格上げされ、いっそう、その「重み」が加わったことになる。その様子は、昨日のニュース映像でも伝えられたとおりである。

 

 


文化勲章受章候補者推薦要綱  

平成2年12月12日 内閣総理大臣決定

平成2年12月14日 閣議報告 

平成12年12月28日    

 

 文化勲章の受章者の予定数は、毎年度おおむね5名とする。

 文部科学大臣は、文化の発達に関し勲績卓絶な者を文化功労者のうちから 選考し、当該年度の文化勲章受章候補者(以下「候補者」という。)として 内閣総理大臣に推薦するものとする。ただし、必要と認めるときは、その年 度の文化功労者発令予定者を候補者とすることができる。 

 文部科学大臣は、候補者の推薦に当たっては、学術及び芸術の特定の分野 に候補者が偏ることのないように努めるものとする。 

 2の推薦は、内閣府賞勲局長が指定する日までに、文書により行うものと する。

 

 


文化功労者年金法
              十六年四月三日法律第百二十五号

 最終改正:平成一一年七月一六日法律第一〇二号

(この法律の目的) 

第一条  この法律は、文化の向上発達に関し特に功績顕著な者(以下「文化功労者」という。)に年金を支給し、これを顕彰することを目的とする。 

(文化功労者の決定) 

第二条  文化功労者は、文部科学大臣が決定する。 

  文部科学大臣は、前項の規定により文化功労者を決定しようとするときは、候補者の選考を文化審議会に諮問し、その選考した者のうちからこれを決定しなければならない。(後略) 

 

それでは、文化功労者選考分科会の委員はどのように選ばれ、どういう人たちがなっているのだろうか。20人の文化審議会委員は、毎年2月に報道発表され、文科省のホームページにも掲載されるが、同じ文化審議会委員ながら、文化功労者選考分科会委員は、9月に報道発表されるものの、ホームページへの掲載はない。それを報道するメディアも少ないことから、あまり知られていない。文科省に問い合わせ、ファックスで送ってもらったのが以下の書類である。ホームページに掲載しないのは、情報公開は必要なので報道発表はするが、栄典に関することなので、ホームページに載せるようなことはしたくないという配慮らしい。

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 さて、そのメンバーだが、10人のうち、私が名前を知っていたのは、田中明彦、松浦寿輝の両名だったし、小説家「宮本正仁」って誰?と思って調べてみると「宮本輝」の本名だった。あとの委員は、武蔵野音大の人を除いては、すべて国立の研究機関や大学に属する人たちで、元文科省事務次官次だった官僚もいる。たしかに研究分野を異にする委員ではあるが、彼らの眼が各分野での「文化の向上発達」に「勳績卓越」「功績顕著」な人たちに届くとは思えない。若干の意見は聞き置かれようとも、おそらく他の省庁の「審議会」と同様、おおかたは、事務方の提案の了承機関になっているのではないか、と。今年の選考委員で、文学関係では、松浦と宮本の両委員ということになる。両名は、ともに、芸術選奨文科大臣賞(松浦2000年、宮本2004年)、紫綬褒章(松浦2012年、宮本2010年)を受けている仲である。こうしたな環境の中で選考され、歌人の文化功労者岡井隆が誕生した。

 世の中の様々な賞、歌壇における短歌雑誌や歌人団体、新聞社やNHKなど民間の組織が主催する賞についても様々な問題、例えば、選考委員の重複・集中、選考委員結社間での互酬性、受賞者の重複、各賞の特色の薄弱化など、これまで指摘してきたつもりである。政府が関与する各種の褒章・栄典制度において、とくに文藝にあって、政府の関与、情報の不透明性、選考委員・選者の常連化などによる権威性を伴う現実は、文芸の自律を脅かさないのか、権力からの独立性が保たれるのか、という危惧なのである。権力は、露骨に、あるときは巧妙な手口で、表現の自由や学問の自由をひたひたと侵害してくる現実に対して、あまりにも無防備なのではないか。私たちの抵抗の手段として何が有効なのか、歴史に学び、世界に学び、もっと賢くならなければの思い頻りである。

 

 以下、参考までに二つの一覧表を作成した。

・日本芸術院会員歌人褒章・栄典一覧

・歌会始選者を中心とした受賞栄典一覧

http://dmituko.cocolog-nifty.com/kajnnohosyoeiten.pdf

 

 

 

 

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2016年8月 8日 (月)

8月6日、目黒五百羅漢寺の桜隊原爆殉難者追悼会へ

 猛暑が続く東京、目黒の五百羅漢寺に、夫と出かけた。夫はすでに何回か参列しているが、私は今回初めてだ。早朝から法要は始まっているが、私たちが参加したのは本堂前の原爆殉難碑「碑前祭」からで、住職のお話のあと、ご焼香となった。「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」の碑銘は徳川無声の書により、裏面には柳原白蓮の「原爆のみたまに誓ふ人の世に浄土をたてむみそなはしてよ」が刻まれているという。丸山定夫と園井恵子、高山象三、仲みどり、森下彰子、羽原京子、島木つや子、笠絅子、小室喜代9名の慰霊碑である。

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 「移動演劇さくら隊」とは、戦時の統制下で従来の演劇活動が出来なくなった演劇人たちだったが、丸山定夫らは、苦楽座を結成、後、さくら隊として、1944年から45年にかけて、内閣情報局管轄下で地方巡業中であった。その根拠地というか、疎開先が広島だったのである。詳しくは、以下のHPを参照。

「桜隊原爆忌の会」HP

http://www.photo-make.jp/sakura.html

 

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慰霊碑の右側の供花に「佐々木愛」の名が読める

そして、今日は、新藤兼人(19122012)作品『さくら隊散る』(1988年)が上映されるという。エアコン直下で少々冷房が効きすぎるくらいの席であった。「さくら隊」の成り立ち、活動の足跡、犠牲者の悲惨な最期までを克明にたどる。即死ではなかった、丸山定夫も厳島で、園井恵子と高山象三の二人は神戸の知人宅で、仲みどりは、やっとの思いで広島から東京の実家に逃れ、入院先の東大病院で亡くなるまでの痛苦の数日をリアルに再現している。彼らと同じ団員ながら、偶然、広島を離れていて助かった俳優の池田生二(19121998)と槇村浩吉(桜隊事務長、19102001、犠牲者小室喜代の夫)が案内役を務めて、ゆかりの場所や人を訪ねるのである。また、丸山定夫と昭和初期からプロレタリア演劇の同志として、新劇、大衆演劇、映画などを支えてきた人々、千田是也(19041994)滝沢修(19062000)小沢栄太郎(19091988)宇野重吉(19141988)山本安英(19021993)杉村春子(19061997)らが、証言者として、昭和前期、敗戦までの過酷な演劇の歴史、そこにおける丸山定夫や園井恵子らについて語るのである。私などは、1950年代から60年代の映画全盛時代に、スクリーンで見慣れた滝沢、小沢、宇野らであったし、証言者として登場する嵯峨善兵、薄田研二、松本克平、浜村純、殿山泰司らも、映画の名わき役、あるいは敵役として、当時は知らないまま見ていたが、彼らも筋金入りの演劇人だったことを改めて知ることになる。私が観た舞台は数えるほどで、滝沢の「セールスマン死」と宇野重吉くらいだったか。映画のナレーションは、聞き覚えのある声の乙羽信子(19241994)であった。杉村春子の証言を聞いていると、その語り口も、内容も実にドラマティックて、さすがと思ったのだが、小津安二郎作品などで、杉村が「あら、あんたたち、もう集まってるじゃい」とか、べらんめい調で他の出演者たちに割って入ってくると、その画面が一気に引き締まる、といった記憶がよみがえる。

 出演者の生没年は、家で調べてみたのだが、1987年からの制作、1988年公開の映画だったのだが、宇野や小沢は最晩年の証言であったし、百歳を迎えた新藤は別として、公開後の10年内外で多くの方が没している。この映画は、まさに貴重な証言集でもあったのである。

 私は、「さくら隊」で最も若くして亡くなった高山が、薄田研二夫妻の長男であったこと、槇村が敗戦後、真山美保と新制作座を立ち上げたことなどは、浅学にして知らなかった。案内役の池田生二も見たことのある風貌だと思ったら、1960年代の映画と、以降はテレビの刑事ものや時代劇に数多く出演していることもわかった。 

 会場では、思いがけず、昔の職場の同僚と会い、旧交をあたためることができた。この日の参列者120人ほどと。

 さらに五百羅漢様たちに敬意を表してお参りもすることができた。 耳の痛い「ことば」も多い。

「周りに左右されず信念を貫く」
「おのれを制御できる人ほど自由である」
「広く学び、深く究める」
「多くを聞いて、少しく語る」・・・・。

 懇親会は失礼して、目黒駅に出て、私は、友人と久しぶりのおしゃっべりに時を過ごした。

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2016年5月17日 (火)

「平和の俳句・老陛下平和を願い幾旅路」(『東京新聞』2016年4月29日)

  やや旧聞に属するが、連休中の新聞は、旅行中だったり、帰宅後高熱に見舞われたりして、しばらく読めなかった。まとめて読んでいて驚いたのである。  冒頭の俳句は、東京新聞が昨年から戦後70年を記念して広く募集している「平和の俳句」企画の一環で、昭和の日に発表されたものだった。作者は74歳とある。いとうせいこうと金子兜太が選句、毎日、一面に一句づつ連載されている。ときどき、編集部員の選句などの特集をやっていて、興味深く読んでいた。ところが、この日の金子兜太の選評に驚いた。「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。」とあったのだ。

    しかしである。この句を選び、上記のような選評を寄せた金子兜太(1919~)といえば、直近では「アベ政治を許さない」とのプラカードを揮毫した俳人である。この違和感は何だろうか。 もっとも、少し、さかのぼれば、日本銀行を定年まで勤め、句作に励み、俳句関係の賞を総なめにし、1988年紫綬褒章、1996年勲四等旭日章、2003年日本芸術院賞、2008年文化功労者を受章、残すは文化勲章くらいと思われる”順調な“コースを歩んできた俳人と言えよう。さらにさかのぼれば、1941年から『寒雷』に投句、加藤楸邨に師事、敗戦後、文芸上の「社会性」が問われると「社会性は態度の問題である。―社会性があるという場合、自分を社会的関連のなかで考え、解決しようという『社会的な姿勢』が意識的にとられている態度を指している」(「俳句と社会性」『風』1954年11月)と表明、方法を模索、前衛俳句の旗手として活躍」(松井利彦編『俳句辞典近代』桜楓社1977年11月126頁)した俳人だった。「俳句造型論」を掲げ、社会性俳句を経て、更に難解性を増し、主体の尊重から季語を持たない一行詩の性格を強めたが、その後は伝統への回帰を志向していると、その辞典にはあった。1962年『海程』を創刊、後代表となり、1987年からは「朝日俳壇」の選者を務め、今日に至っている。俳人だった父を持つ出自といい、歌壇でいえば岡井隆のコースにも似ているな、と思った。さらにさかのぼれば、1943年、東京帝大経済学部を繰り上げ卒業して、日本銀行に入り、海軍経理学校を経て海軍主計中尉として、トラック島に着任、飢えのため多くの部下を失って、捕虜となり復員・復職している。戦地を去る日を「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置いて去る」と詠んでいる。過酷な戦地体験が、後の句作に大きな影響をえていると、本人もいろいろなところで述べている。

    金子兜太に限らず、近年の天皇夫妻の被災地訪問や戦没や慰霊の旅や「おことば」についてメディアで発言するとき、突然、最高級の敬語を使ったり、その「平和を願う」内容を称揚したり、その労をねぎらう「識者」や「文化人」が増えてきている。「歌会始」の傘のもとにある歌壇人はじめ、保守政治家・論者・政治団体ならいざ知らず、リベラルや民主主義を標榜している人々の中にも、目立つようになった(文・矢部宏治、写真・須田慎太郎『戦争をしない国―明仁天皇メッセージ』 小学館2015年7月など)。また、これまでの「党是」により出席を拒んできた日本共産党が天皇の出席する国会開会式に出席し、歌会始の選者を赤旗歌壇の選者に据えるなど、天皇への傾斜や親密性をあらわに表明してはばからない。その理由が実に粗雑極まりないのである(「ことしのクリスマス・イブは(2)(3)~なんといっても、サプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった!(その1・2)」2015年12月28日。「ことしのクリスマス・イブは(4)~歌会始選者の今野寿美が赤旗「歌壇」選者に」2015年12月29日参照。http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/index.html   )。

  憲法上の「象徴天皇制」のもとですら、その法的根拠が曖昧な天皇や皇族の行為をこのまま見過ごしてしまってよいのかとも思う。いまの政治が余りにも反動的だからと言って、「天皇」にすがるような、寄りかかるような言動は、慎まなければならない(「戦後70年 二つの言説は何を語るのか」 2016年1月11日http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/01/70-6a1c.html)。 天皇夫妻は、今月の19日にも日帰りで熊本の被災地を訪問する予定という。被災住民の住居確保、瓦礫処理がすすまないところも多く、天皇夫妻を迎える準備や警備についても十分想像ができるなか、いつも思うのは、マス・メディアは好んで、訪問先の人々の感謝の言葉や前向きな声を拾おうとするけれど、具体的にはどんな成果が期待できるのだろうか。  結論から言えば、現政府の対応のまずさや遅れを、精神的に少しでも補完し、緩和する役目しか果たしていないような気がしてならない。天皇夫妻の、その個人的な誠意とは別に、結果的に現政府を利するという政治目的のために利用されてはいないのか。そうした懸念を拭い去れないでいる。皇室、天皇への傾斜や親密性の拠って来るところは何なのか、日本にとっても、私にとっても大きな課題である。  

    「日の丸・君が代」裁判の教師たちの弁護人の一人である澤藤統一郎弁護士のブログで、いち早く、くだんの「平和の俳句」に触れている記事を後から知った。あわせて、お読みいただければと思う (「昭和の日」の紙面に、「いま読む日本国憲法」と「天皇ご夫妻に頭が下がる」の記事「澤藤統一郎の憲法日記」2016年4月29日http://article9.jp/wordpress/?p=6807 )。

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2016年 4月29日『東京新聞』一面

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2015年11月 1日 (日)

ようやく、藤田嗣治の戦争画14点が公開~国立近代美術館<特集・藤田嗣治、全所蔵作品展示。>  

 これまで、GHQに接収された戦争画が返還(無期限貸与)された1970年以降も、決して全面公開しない国立近代美術館の方針は、理解に苦しむ。これまでも何度かそのことには触れてきた。*1 国立近代美術館が所蔵する153点の2・3点ずつを常設展の片隅で展示していたに過ぎなかった。あるいは、雑誌などの特集や特定画家の回顧展や種々の企画展などへ小出しに撮影されたり、貸出されたりした作品しか目にすることしかできなかった。このたび、「(接収)戦争画」の中でもっとも点数の多い藤田嗣治の14点すべてが初めて一度に展示されることになったのだ。出かけないわけにはいかない。私にとっては、下記の葉山での「戦争/美術」展で「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943年、下記のリスト⑧*2)「ブキテマの夜戦」(1944年、⑩)、国立近代美術館「ゴーギャン展」の折の常設展で「血戦ガダルカナル」(1944年、⑦)に接したとき以来である。

*1今回のテーマに触れた主な当ブログ記事 
・藤田嗣治、ふたたび、その戦争画について(14/02/18)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/02/post-dd37.html

ようやくの葉山、「戦争/美術1940—1950―モダニズムの連鎖と変容」へ(13/09/27) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/19401950-0aad.html

・緑陰の読書とはいかなかったが④断想「〈失われた時〉を見出すとき(102)(木下長宏) (12/09/21)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/09/102-0230.html

・国立近代美術館へ~ゴーギャン展と戦争画の行方(09/9/21)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/09/post-5b23.html

・ 上野の森美術館「レオナール・フジタ展」~<欠落年表>の不思議(08/12/13) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-13fc.html

 今回の展示は、4階の第5室から3階の8室まで、14点の展示が続く。  <特集・藤田嗣治、全所蔵作品展示。>の概要については、以下を参照。 http://www.momat.go.jp/am/exhibition/permanent20150919/

  5室で最初に目に飛び込んでくるのが、①の192×518cmという大作だった。1943年7月18日、まるでグライダーのような小型機(九六式艦上爆撃機というらしい)が中国の南昌飛行場に強行着陸して奇襲した模様が描かれている。大作ではあるが、少年雑誌の挿絵のような趣であった。②③④⑤も他の作品と同じように、多くは報道写真などから構図を得て、描かれていたと思うが、画面のどこかで火の手が上がっていなければ、戦場とも前線とも思えない静寂さが漂うような雰囲気が、⑥「アッツ島玉砕」から一転して、目を凝らさないと重なり合う兵士たちの生死や表情が読み取れない暗さに覆われる。というより、すでに遺体と化した兵士たち、死に直面した女性たちの姿や表情を捉えている。にもかかわらず、日本の戦局の悪化を隠蔽し、「玉砕」「血戦」「神兵」「奮戦」「死闘」「臣節」などという字句により死の美化に貢献した藤田は、他の多くの画家たちと同じ道を歩んだといえる。

*2 今回展示の藤田嗣治の戦争画一覧
①南昌飛行場の焼打 1938-39
②武漢進撃 1938-40 無期限貸与
③哈爾哈(はるは)河畔之戦闘 1941
・(猫 1940 購入 )
④十二月八日の真珠湾 1942
⑤シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地) 1942
⑥アッツ島玉砕 1943
⑦血戦ガダルカナル 1944
・(藤田嗣治:「戦争画の写実とは?―現地で語る戦争画問題―」『旬刊美術新報』25号   1942年5月)
⑧ソロモン海域に於ける米兵の末路 1943
⑨神兵の救出到る 1944
⑩ブキテマの夜戦 1944
⑪大柿部隊の奮戦 1944
・( 藤田嗣治:「南方戦線の感激を山口蓬春藤田嗣両氏の消息に聴く」『旬刊美術新報』29号1942年7月)
・( 藤田嗣治:「戦争画制作の要点」『美術』第4号1944年5月)
⑫○○部隊の死闘−ニューギニア戦線 1943
⑬薫(かおる)空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す 1945
⑭サイパン島同胞臣節を全うす 1945  

  今回の展示室には、当時の雑誌などにおける藤田の発言の一部も紹介されている。広げられた頁をよく読むと、「戦争画の写実とは?」においては、軍服のボタンとか首筋の汗とかのディティールに及ぶ、主観を含めた客観描写の必要を説き、「主観によって誇張していいと思う」といい、「戦争画制作の要点」では、「忠誠の精神」と「体験と知識の必要性」を強調していたことがわかる。解説にはない文言だが、記憶にとどめておくべきだろう。  各作品の解説において、藤田の戦争画は、フランスで活躍中に学んだヨーロッパの名画を手本にして描いていることをかなり詳細に検証していることが特徴的だったと思われる。

  なお、今回の展示カタログが、800円ということで、入館後すぐに購入した。年譜も、作品解説もあるということなので、あまりメモを取らなかったところ、すべての作品解説が収録されているわけではなく、戦争画に関しては③⑥⑦⑭のみであったのは残念だった。それに、他の作品はあっても戦争画の絵葉書は販売されていなかった。 今回は藤田の作品だけだったが、戦争画153点の全面公開が待たれるのであった。 公開されてこそ、その評価も多様に展開されるだろう。過去と向き合うことの大切さは、戦後70年経た今日でも決して遅くはないはずだ。

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65歳以上は入館料が無料ということで、保険証で通過、入場券というものを頂かなかったので、宣伝チラシの片面を代わりに。左が「五人の裸婦」(1923年)、右が「アッツ島玉砕」(1943年)の一部が配されている。

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「南昌飛行場の焼討」(1938~39)

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「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943年)。「ロストシップ」というジャンルがあるほど、難破船を題材にした名画は多いそうだ。解説によれば、ターナー「難破船」(1805年)、ドラクロワ「ダンテの小舟」(1822年)、ジェリコーの「メデューズ号の筏」(1891年)などの影響は大きく、似ている部分もあるという。(『展示カタログ』より)

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「サイパン島同胞臣節全うす」(1945年)(『画家たちの「戦争」』新潮社 2010年、より)
1944年7月7日、サイパン島守備隊全滅。製糖が盛んだったので、多くの日本人移民もいて、彼らを巻き込んだ。作品の右手には、崖から身を投げる女性たちが描かれている。約5000人が身を投げたマッピ岬を米軍は「バンザイ・クリフ」と呼んだ。右下の写真は、従軍先での左から藤田嗣治、小磯良平、宮本三郎。

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2015年9月15日 (火)

<池袋学>夏季講座に参加しました~生活者の視点が欲しかった―池袋のヤミ市への熱い視線は、“男のロマン”にも似て―

 池袋第五小学校同窓の伊藤一雄さん(『池袋の西口、戦後の匂い』の著者、当ブログの7月22日記事参照)からのメールで知った、下記「池袋学」のシンポジウムに出かけた。2日ぼど前に、立教大学の係からは、参加申込が多く会場を変えたという電話まで頂戴した。912日には、国会周辺で「止めよう!辺野古埋め立て」の集会もあり、迷いながらこちらに参加したというわけだ。数日前に熱を出して体調が万全ではないこともあった。この日のキャンパスは、長雨の後だけに、芝生や蔦の緑が鮮やかで、レンガの校舎に映えていて、見学に来ていた女子高生が感嘆の声を上げていた。

 

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戦後池袋の検証~ヤミ市から自由文化都市へ

2015912日(土)14:0016:00

池袋キャンパス 11号館地下1 AB01教室

川本 三郎 氏(評論家)

吉見 俊哉 氏(東京大学教授)

マイク・モラスキー氏(早稲田大学教授)

石川 巧(立教大学文学部教授)

主催:東京芸術劇場、立教大学

後援:豊島区

協力:NPOゼファー池袋まちづくり、立教大学ESD研究所

※戦後70年「池袋=自由文化都市プロジェクト」と共同企画

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 300席の会場はほぼ満席、若い人が多い集まりに出るのは久しぶりだった。これまで川本、吉見両氏の本や発言には、若干接しているつもりだが、モラスキー、石川両氏は初めて聞く名前だった。実行委員長の挨拶が終わると、吉見氏の「池袋・東京・戦後~貫戦期の狭間としての闇(ヤミ)市」と題しての報告が始まった。

吉見氏から、池袋のどんな話が聞けるかな、と思っていたが、その中心は、ご自身が、2020年の東京オリンピック招致が決まったころから、いろいろな場で盛んに発言し続けている「東京文化資源構想」であった。東京には、北東部の上野・本郷・谷中・秋葉原、神保町など江戸・明治・大正の趣を維持している盛り場があり、南西部の渋谷・原宿・六本木・青山というアメリカナイズされた盛り場も生まれた。1964年の東京オリンピックを境に、東京の中心は北東部から南西部のエリアへと移行した、というのだ。それらのエリアは、いずれも歩いて移動できる範囲でもあるという。そのどちらにも属さない池袋はどんな位置を占めているのか、については、若干触れるには触れた。従来の二つのエリアの核となったのは、「駅」ではなく、「墓地」と「大学」であり、池袋周辺にも、雑司ヶ谷墓地、護国寺があり、立教・学習院・日本女子大などの大学があるから、盛り場の要素を十分持ち合わせている、という。氏の報告のサブタイトルにある「貫戦期」とは聞き慣れない言葉だが、「ヤミ市」は敗戦後に成立したものではなく、口にこそ出さないが、戦時下には日本の「負け戦」を認識していた国民は多く、すでに「ヤミ市」の要素は、市民の間では容認されていたことであった、ということを意味しているらしい。また2回目の発言では、人間のスケールに合った「ストリートカルチャー」としての「ヤミ市」の中の自由に着目し、「ゆっくり、細く、楽しく」を目指し、路面電車も復活させたいとも。

モラスキー氏は、1970年代の日本への留学以来、日本の戦後文化史を研究、日本の居酒屋やジャズの受容史などにも及ぶ。池袋については、上野、新宿などと比べてとらえどころがない盛り場である。現在、文学作品に現れた「ヤミ市」について研究していて、その作品集を編集している由。「ヤミ市」には、流通システムとしての「市場」、イチバとしての「場所」、履歴書のいらない、素人も参加できる「解放区」としての役割があるという。「店」と「街」との境界線が曖昧なことが特徴の一つとも言える。2度目の発言で、「ヤミ市」には、無計画的な自由、管理されない自由があり、従来の価値体系への挑戦とみることができる、と。

川本氏は、大正末期の永井荷風の日記に登場する「池袋」を紹介する。荷風が港区の自宅から雑司ヶ谷墓地の父の墓参りのついでに池袋に立ち寄り、予想していた以上に、市内の商店街に劣らず賑わっていたと記していたことに着目、関東大震災後の東京市内の人口移動の様相を反映していると見る。また、池袋の三業地生まれの種村季彦のエッセイからも、各地からの流入者や大泉撮影所が近いこともあって映画関係者も多く、移住者を拒まない独特の文化圏を形成していたのではないか。現在でも中央線沿線には「ヤミ市」が現存するということは、自然に出来上がった、居心地のよい空間を人が求めている証ではないか。日本の住宅は狭いので、サラリーマンは街に出て、居酒屋を求めるのではないかとも。

3人の話は、興味深かく、私の知らないこともあって、楽しかった。しかし、どうもしっくりとこないのはどうしてなのかな、の印象なのだ。吉見氏は、「東京文化資源構想」に、池袋をややムリをして当てはめようとした感じがしないでもなかった。それに、東京の中心を種々の文化資源が潜在する北東部に取戻すことが、新しい都市としての方向性を示すかのような話しぶりであったが、高度成長期にこれほどまでに変貌してしまった東京を、文化資源を核にして改造することは、並大抵のことではないだろう。都市として、人口減少、インフラの老朽化、自然災害などをどう克服していくのかという不安も伴うのだった。

モラスキー、川本両氏の話では、居酒屋、墓地、寺、大学などにしても、都市の中の点景や文化・風俗として捉えているように思えて、やや違和感を覚えた。たしかに、池袋におけるヤミ市、人世坐、池袋演芸場、沖縄料理おもろ、祥雲寺、鬼子母神、トキワ荘、サクマ式ドロップなどなど・・・について語られるのだが、それは、やはり、池袋を訪れる人々の感覚や感性によるものであって、必要以上に美化されたり、昭和への郷愁に駆られたりした結果ではなかったかと危惧するのだった。

パネリストの3人は、池袋に住んだことがなく、それだけに客観的ではあるが、生活者としての視点に欠けているように、私には思われたのである。いわば、「男のロマン」ではなかったのかとも。だから、今回の「戦後池袋の検証~ヤミ市から自由文化都市へ」で、戦後70年を池袋に暮らし、見つめてきた人をパネリストに迎えたら、もっと立体的に、池袋を活写・検証することができたのではないか、と。 

そういう意味で、私が着目したのは、東京芸術劇場のギャラリー・トークで、日替わりで、池袋に暮らし働いた方々のの話が聞けそうな企画である。一日でもいいから聴きに出かけてみたいと思っている。ぜひ記録に残し公開してほしい。さらに、豊島区制施行80周年記念事業「記憶の遺産80」(豊島区地域区民ひろば課作成・NPOとしまの記憶をつなぐ会協力)というインタビュー動画アーカイブであった。これら動画の作成と公開は、貴重な企画だったと思う。立教大学放送研究会と大正大学の放送・映像表現コースの学生が、戦前・戦後の豊島区を知る高齢者33人にインタビューしたものを、話題ごとに80タイトルにまとめたものだ。「池袋」に限っても、「池袋三業町会とともに生きる」「戦後池袋の焼け跡」「坂下通り商店街の遊び」「思い出の人世坐」「池袋西口戦中戦後の娯楽」などなど・・・、各編34分程度に編集されている。ここに、登場する方々は、居住歴が7080年が平均だろうか。私が、池袋の実家を離れたのは30歳過ぎ、記憶にあるのは戦後のことだから、知らないことも多いはずである。父母や兄たちから聞いたことのある話もよみがえってくるのだった。いま、長兄も亡くなり、義姉と姪たち家族が住む実家には、体調のこともあって、立ち寄ることもなく、家路につくのだった。

 

「記憶の遺産80」の詳細は以下参照。

http://www.toshima-kioku.jp/toshima80/80toha.html

 池袋に限らず、生活者・企業による記録や記憶の積み重ねによる、足が地に着いた都市(計画)論の展開に期待したいと思った。

 

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