2023年5月14日 (日)

マチス展へ~思い出いろいろ・・・

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  私には、なんとなく、なつかしくも、親しくもあるマチス、5月11日、都美術館開催中の「マティス展 The Parth to Color」に出かけた。予約制なので、並ぶこともなかったが、やはり、かなりの入場者ではあった。上記のチラシの眠る女性の絵には見覚えがあったので、手元のファイルを繰っていたら、1996年の「身体と表現1920ー1980 ポンピドゥーセンター所蔵作品」(国立近代美術館)のチラシにもあった「夢」(1935年)と題する作品だった。          

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 そして、2004 年秋のマチス展(国立西洋美術館)、この年は、やたらと忙しがっていた時期で、11月22日の日記では、「マチス展時間切れ、残念」との記述があって、出かけてはいない。ただ、記念のパスネットが残っていた。栞の2点はどこで入手したものかは分からないが、どちらも有名な切り絵のようである。

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パスネットの絵は「夢」(1940年)、中央はジャズシリーズの「イカロス」(1947年)、 左は「アンフォロとザクロの女」(1953年)。アンフォロとは、柄のついた深い壺のことを言うらしい。

 

 今回のマチス展は、つぎのような時系列の構成になっていて、とくに、私には苦手な彫刻の作品も多く展示されていたのも特徴だろうか。鑑賞の仕方がわかるといいのだが、多くは素通りしてしまった。

1. フォーヴィスムに向かって 1895─1909
2. ラディカルな探求の時代 1914─18
3. 並行する探求―彫刻と絵画 1913─30
4. 人物と室内 1918─29
5. 広がりと実験 1930─37
6. ニースからヴァンスへ 1938─48
7. 切り紙絵と最晩年の作品 1931─54
8. ヴァンス・ロザリオ礼拝堂 1948─51

 私が、気になったのは、第一次世界大戦期に重なる「ラディカルな探求の時代」のつぎのような作品だった。

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左「コリウーのフランス窓」(1914年)右「窓辺のヴァイオリン奏者」(1918年)。コリウールはスペイン国境に近い地中海に面した小さな港町で、マチスやピカソをはじめ多くの芸術家たちが愛した、美しい村というが、この黒い外の光景は、何を意味しているのだろうか。ヴァイオリン奏者のモデルは、息子のピエールかとも解説にあったが、誰とも分からない存在を強調しながら、窓の外には白い雲が立ちのぼっているのは、「コリウールのフランス窓」とは対照的だが、決して晴れてはいないことにも注目した次第。

 晩年の切り絵については、ニースのマチス美術館を訪れたときのことを思い出す。2004年9月末からのフランス旅行の折、アヴィニヨンに4泊して、エクサンプロバンスからの「セザンヌの旅」ツアーに参加したりしたが、大した前準備もなく、ニースへ、そしてマチス美術館にも行ってみたいと思い立ち、日帰りを強行した。ヴァカンスの季節はとうに終わったニースの街と海、バスでマチス美術館近くに下車したつもりだったが、なかなか見つからなかった。まさか、古代ローマの遺跡に隣接していようとは思っても見なかったのである。

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2005年10月1日、たどり着いたマチス美術館

 

 マチスは、金魚の絵を多く描いているようで、2005年秋の「プーシキン美術館展」(都立美術館)に出かけた折の「金魚」(1912年)の絵葉書が残っていたが、今回のマチス展では、「金魚鉢のある室内」(1914年)を見ることができた。1912年の作品はとてつもなく明るいのだが、1914年の作品には、シテ島近くのサン・ミッシェル河岸の住まいの窓から見下ろすサン・ミッシェル橋も描かれているが、全体的にブルーの暗い色調である。また、近くのノートルダム寺院も様々に描いているが、炎上を知ったら、何を思っただろうか。

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左「金魚」(1912年)プーシキン美術館蔵。 右「金魚鉢のある室内」(1914年)ポンピドゥーセンター国立近代美術館蔵

*日本語の表示は「マティス」が適切なのかもしれないが、私は、「マチス」として親しんできたので、そちらで統一した。

 

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2022年10月24日 (月)

田端文士村散歩へ~初めての田端駅下車

 土曜10月22日は、秋晴れの予報だったが、すっきりしないものの、出かけることにした。久しぶりの東京、池袋育ちながら、田端には降りた記憶がない。国鉄の操車場のイメージである。北口を出ると、左手に高い陸橋、ほぼ正面に、曲線を描いた長い壁に「田端文士村記念館」とあった。

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 なんと、入館無料である。1993年開館、1988年設立の北区文化振興財団の運営という。今回の企画展「朔太郎・犀星・龍之介の友情と詩的精神」(10月1日~23年1月22日)は、こじんまりした展示ながら、充実しているように思えた。展示は以下のようで、常設展は「漱石と龍之介」「野口雨情の生誕140周年~童謡に込められた雨情の詩心」であった。漱石や龍之介にしても熱心な読者ではなかったし、教科書のほか少しばかり“義務的”に読んだ記憶しかない。朔太郎や犀星については、作品よりも伝記的関心の方が強かった。

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 企画展は、ほぼ同世代といえる三人、萩原(1886~1942)、室生(1889~1962)、芥川(1892~1927)の親密ながらも緊張感を失わない交流が立ち上がってくる。芥川が「文芸的な、余りに文芸的な」を『改造』に連載中の1927年7月24日に、自殺をしてしまう悲劇。その連載のなかの「十二 詩的精神」には、つぎのようなくだりがある。

僕は谷崎潤一郎氏に会ひ、僕の駁論ばくろんを述べた時、「では君の詩的精神とは何を指すのか?」と云ふ質問を受けた。僕の詩的精神とは最も広い意味の抒情詩である。僕は勿論かう云ふ返事をした。

 芥川は「神経衰弱」と不眠に悩まされていたのは一つ事実だが、「遺書」にある「ぼんやりした不安」どころではない、自らの病苦、家族8人での生活苦、人間関係での不信などに苛まれていたのではないか。展示室にある「田端の家」復元の模型を見て、この田端の地に大きな屋敷で大家族を養っていたことが思われてならなかった。これまでもよく見かけた、自宅の庭で、子供たちの前で木登りをする動画フィルム、出版社の宣伝用だったというが、この会場でも流されていた。
 また、ともに北原白秋に師事していた犀星と朔太郎だったが、1915年、朔太郎は、白秋宛の手紙で「室生は愛によって成長するでせう。私は悪によって成長する。彼は善の詩人であり、私は悪の詩人ある」などと記しているのも知った。

 連れ合いは、朔太郎のファンなので、撮影禁止といわれ、盛んにメモも取っていた。つい先日、赤城山の帰りに前橋文学舘に行ってきたばかりでもある。

 記念館を出て、高い陸橋、東台橋をくぐって、両脇が高い崖になっている、まさに「切通し」の道路を進むが、少し違うらしい。戻って陸橋の急な階段を上り切ると、高台に住宅が広がっている。童橋というところまで進むと、左手の路地から、十人近くの一団が出てきたと思ったら、入れ替わりに入っていく一団もあった。「龍之介の旧居跡」に違いないと、私たちも入っていくと、民家ならば3・4軒建ちそうな空き地に「芥川龍之介記念館予定地」の看板が見える。そしてその先の角のお宅の前には掲示板があった。

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『ココミテ シート」2018年夏号(田端文士村記念館)より。上段の写真は、龍之介没後の1930年7月撮影、右から、長男比呂志(俳優)三男也寸志(音楽家)、次男多加志、母、文。文は育児に苦労したにちがいない。多加志は、応召、1945年4月13日、ビルマで戦死、22歳であった。

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「木の枝の瓦にさはる暑さかな」という龍之介の俳句の書幅が展示されていた。旧居の敷地は200坪近くあったという。

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 今度は、童橋を渡って、童橋公園へ。犀星旧居の庭石を移したという一角がある。さらに一筋違う路地には、平塚らいてう、中野重治が住んでいたというが、何の表示があるわけでもなく、家がびっしりと立ち並び、女の子二人が、スケボーで遊んでいた。
 童橋から駅前を通り越すと、福士幸次郎の旧居があったところで、サトウハチローが転がり家でもあったらしい。福士はハチローの父、佐藤紅緑の弟子で、ハチローの面倒を見ることになったらしい。犀星はこの町で何度も転居を繰り返しているが、次に回ったのが、田端523番地の旧居跡、犀星が引っ越した後の家に菊池寛が転入している。その路地を抜けると広い道路に出て、右へと曲がり、八幡坂に向かう。今日の目的の一つが、大龍寺の正岡子規の墓参だった。緩いが長い坂をくだると右側には上田端八幡神社の生け垣が続く。坂を下り切れば、神社の隣が大龍寺、そこへタクシーを降りた中年の女性と出会い、子規のお墓ですよね、という。三人で、墓地に入るが、案内図があるわけでもない。手分けして探し、ウロウロする。墓参に来た若い家族連れにも尋ねてみたが、「うーん、あることは聞いているけど、どこだか・・・」という。古そうなお墓の一画、角に、あった! 一緒に探していた女性は、「俳句がうまくなりたいから、今日は、子規庵を回ってきて、墓参も」と群馬から上京したそうだ。 

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右側が子規の母八重の墓、子規の墓の文字は、子規が入社した新聞『日本』社主陸羯南の筆になる。 代々の墓と墓誌は子規の墓の左横にある。

 あとは八幡坂をのぼって、ひたすら、駅方面に向かう。田端高台通りを右に折れると江戸坂、いまは高層ビルもあるが、正面はJRの宿舎でもあった巨大な建物がある。短いながら、文士村散歩は終りとした。回れたのは、文士村と言われる地区の三分の一ほどだったろうか。

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八幡坂、駅方面に向かって登る。左手が上田端八幡神社のキンモクセイ          

 朔太郎の旧居跡も回れなかったし、『アララギ』の鹿児島寿蔵、土屋文明、五味保義、高田浪吉らや太田水穂・四賀光子、尾山篤二郎らの歌人も住んでいたという。きっと魅力のある街だったのだろう。1945年4月13日の城北大空襲ですべてが灰塵に帰したのだった。

 

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2021年11月10日 (水)

葉山から城ケ島へ~香月泰男と北原白秋(3)

10月28日、山口蓬春記念館を後にして、三ヶ丘でバスに乗車、葉山、長井をへて三崎口駅まで乗り継いだ。長井を出て、横須賀市民病院を過ぎると、さすがに軍港、横須賀自衛隊基地の関連施設が続き、停留所の三つ分くらいありそうだ。高等工科学校、海自横須賀教育隊、陸自武山自衛隊隊・・・。そして、道の反対側には、野菜畑が続き、小泉進次郎のポスターがやけに目に付く。調べてみると、横須賀市の面積の3.3%が米軍基地関係、3%が自衛隊関係施設で占められているそうだ。下の地図で赤色が米軍、青色が自衛隊施設という。

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横須賀市HPより

 三崎口駅舎は、京急の終点駅かと思うほど簡易なものに見えた。城ケ島大橋を渡って、昼食は、城ケ島商店街?の中ほど「かねあ」でシラス・マグロ丼を堪能、もったいないことに大盛だったご飯を残してしまう。

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 さらに、海の方に進むと、右側には城ケ島灯台への急な階段があり、草も絡まり、ハイヒールはご注意との看板もあった。なるほど足元はよくないが、階段を上がるごとに海が開けてゆく。1870年に点灯、関東大震災で全壊、1926年に再建されたものである。1991年に無人化されている。灯台から、元の道をさらに下って海岸に出ると長津呂の浜、絶好の釣り場らしい。この浜の右手には、かつて城ケ島京急ホテルがあったというが、今は廃業。その後の再開発には、ヒューリックが乗り出しているとか。今日の宿の観潮荘近くの油壷マリンパークも、ことし9月に閉館。コロナの影響もあったのか。

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城ケ島の燈明台にぶん廻す落日避雷針に貫かれけるかも 白秋
(
「城ケ島の落日」『雲母集』)

 いよいよ、城ケ島、県立公園めぐりと三浦市内めぐりなのだが、ここは、奮発して京急の貸切タクシーをお願いした。会社勤めの定年後、運転手を務めているとのこと、地元出身だけに、そのガイドも懇切だった。

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 城ケ島から城ケ島大橋をのぞむ。長さも600m近く、高さも20mを超えると。開通は1960年4月、小田原が地元の河野一郎の一声で建設が決まったとか。このふもとに、北原白秋の「城ケ島の雨」(1913年作)の詩碑が1949年7月に建立されている。近くに白秋記念館があるが、年配の女性一人が管理しているようで、入り口にある資料は、持って帰っていいですよ、とのことだったので、新しそうな『コスモス』を2冊頂戴した。

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白秋記念館から詩碑をのぞむ。三崎港の赤い船は、観光船だそうで、船底から海の魚が見えるようになっているけど、餌付けをしているんですよ、とはは運転手さんの話。

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 三崎港接岸の白い船はプロのマグロ船、出航すると一年は戻らないそうだ。脇の船は、県立海洋科学高校の実習船で、こちらは2~3カ月の遠洋航海で、高校のHPによれば、11月3日に出港、帰港は年末とのことだ。

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展望台から、ピクニック広場をのぞむ。湾に突き出ている白い塔のようなものが、古い安房埼灯台の跡ということだった。

 県立城ケ島公園は、散策路も、芝生も、樹木も手入れが行き届いていて、天気にも恵まれた。ただ、低空飛行のトンビが、人間の手にする食べ物を背後から狙うそうだ、というのはガイドさんの注意であった。途中に、平成の天皇の成婚記念の松があったりして、60年以上も前のことになるから、けっこう管理が大変なんだろうなと思う。黒松は、潮風で皆傾いている。途中、角川源義の句碑があったり、柊二の歌碑があったりする。目指すは、遠くに見えていた、あたらしい安房埼灯台である。昨年、デザインも公募、三浦半島名産の青首大根を逆さにしたような灯台となっている。

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野上飛雲『北原白秋 その三崎時代』(三崎白秋会 1994年)より。

 白秋が三崎にきて最初に住んだのが向ヶ崎の異人館だった。今は向ヶ崎公園になっているそうだが、今回は寄れなかった。その住まいの向かいが「通り矢」で、白秋が「城ケ島の雨」で「舟はゆくゆく通り矢のはなを」と詠んだところで、今は、関東大震災や埋め立てのため「通り矢のはな」はなくなって、バス停として残るのみという。城ケ島大橋は、この地図でいえば、鎌倉時代「椿の御所」と呼ばれた「大椿寺」の右手から、白秋の詩碑の右手を結んでいる。その後、「桃の御所」と呼ばれた「見桃寺」に寄宿することになるが、今回下車することができなかった。そもそも、白秋が三浦三崎に来たのは、最初の歌集『桐の花』(1913年)や第二歌集『雲母集』(1915年)の作品群からも明らかなように、1912年、医師の妻俊子との姦通罪で、夫から告訴され、未決囚として二週間ほど投獄され、後和解するも傷心のまま、1913年、「都落ち」するような形であった。同年5月には、あきらめきれず俊子との同居が始まり、翌年小笠原の父島に転地療養するまでの短期間ながら、多くの短歌を残している。以下、『雲母集』から、気になった短歌を拾ってみる。1914年7月、俊子は実家に帰り、白秋は離別状を書いて離別。1916年5月には詩人の江口章子と結婚、千葉県市川真間に住む。1920年には離別。1921年には佐藤菊子と結婚、翌年長男隆太郎誕生と目まぐるしい。軽いといえば軽いが、寂しさは人一倍なのだろう。ちなみに、高野公彦さんの『北原白秋の百首』(ふらんす堂 2018年)では、『雲母集』から14首が選ばれているが、重なるのは「煌々と」「大きなる足」「はるばると」「見桃寺の」の4首であった。

・煌々と光りて動く山ひとつ押し傾けて来る力はも(「力」)、
・寂しさに浜へ出て見れば波ばかりうねりくねれりあきらめられず(「二町谷」)
・夕されば涙こぼるる城ケ島人間ひとり居らざりにけり(「城ケ島」)
・舟とめてひそかにも出す闇の中深海底の響ききこゆる(「海光」)
・二方になりてわかるるあま小舟澪も二手にわかれけるかも(「澪の雨」)
・薔薇の木に薔薇の花咲くあなかしこなんの不思議もないけれどなも(「薔薇静観」)
・大きなる足が地面を踏みつけゆく力あふるる人間の足が(「地面と野菜」)

・さ緑のキャベツの玉葉いく層光る内より弾けたりけり(「地面と野菜」)
・遠丘の向うに光る秋の海そこにくつきり人鍬をうつ(「銀ながし」)
・油壷から諸磯見ればまんまろな赤い夕日がいま落つるとこ(「油壷晩景」)
・はるばると金柑の木にたどりつき巡礼草鞋をはきかへにけり(「金柑の木 その一 巡礼」)
・ここに来て梁塵秘抄を読むときは金色光のさす心地する(「金柑の木 その四 静坐抄」)
・燃えあがる落日の欅あちこちに天を焦がすこと苦しかりけれ(「田舎道」)
・馬頭観音立てるところに馬居りて下を見て居り冬の光に(「田舎道」)
・見桃寺の鶏長鳴けりはろばろそれにこたふるはいづこの鶏か(「雪後」)
・相模のや三浦三崎はありがたく一年あまりも吾が居しところ(「三崎遺抄」)

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北原白秋を継いで、戦後『コスモス』を創刊した宮柊二の歌碑「先生のうたひたまへる通り矢のはなのさざなみひかる雲母のごとく」が木漏れ日を浴びていた。

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福寺本堂前にて。

 城ケ島大橋をあとにして、県立公園に向かう折、三崎湾越しに「あの白い建物の奥に、大きな屋根が少し見えるでしょう、三浦洸一さんの実家のお寺さんなんです」のガイドの一言に、三浦ファン自認の夫が、ぜひ訪ねてみたい、とお願いしたのが最福寺だった。二基の風車が見えた宮川公園を素通りして、車一台が通れる細い道や坂を上がったり下ったりしてたどり着いた。今の住職さんは、洸一のお兄さんの息子、甥にあたるとのこと。93歳の三浦さんご自身は、東京で元気にされているとのことであった。

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 福寺から三崎湾を見下ろしたところにあるのが、三崎最大の商業施設「うらり」で、おみやげ品がそろうかもしれませんと、車を止めてくれた。やはり、朝から乗ったり歩いたりで、疲れてしまっていたので、その日の宿、油壷京急ホテル観潮荘の野天風呂にほっと一息ついたのだった。

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2021年11月 6日 (土)

葉山から城ケ島へ~香月泰男と北原白秋(2)

 葉山美術館で、ゆっくりできたが、道を挟んでの山口蓬春記念館は、3時半で閉館ということで、間に合いそうにもなく、明日の一番で出向くことにした。それではと、隣の葉山御用邸付属施設跡地のしおさい公園に回ることにした。

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葉山美術館の野外の彫刻などをめぐる散策路を進むと、車一台がようやく通れそうな、こんな小径に出た。このまま下ると海に出るのだろう。散策路の通用門の向かいは、土日限定開門のしおさい公園への小さな出入口となっていた。

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 御用邸の付属施設跡地だけを葉山町が譲り受けたものなのだろうか。公園入口までの石塀も長かったが、庭園も立派なもので、池あり、滝あり、黒松林あり、相模湾をのぞむ借景ありで、建物としては車寄せの部分が残され、中は海洋博物館になっていた。昭和天皇の”研究”の足跡まで展示されていた。今も使用されている葉山御用邸は、大正天皇が亡くなった場所なので、昭和天皇皇位継承の場でもあるということらしい。下の写真の「今上天皇」は昭和天皇である。池の緋鯉は、一幅の日本画のようでもあった。

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 10月27日、その日の宿は私学共済「相洋閣」であった。東京、名古屋、千葉と大学はかわったが、20年にわたる私大勤めではあった。部屋から夕焼けと翌日の富士山である。

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 10月28日、10時の開館を待っての入館だった。三ヶ岡緑地の斜面を利用した庭園と吉田八十八設計の蓬春旧居である。皇居宮殿の杉戸絵の完成に至るまでの取材や下絵、その過程がわかるような展示となっていた。写真は、別館のアトリエである。

 現在の葉山御用邸の内部は知る由もないが、1971年本邸は放火のため全焼、1981年に再建されている。下山川が敷地内を流れ、いま県立葉山公園になっているのかつては御用邸内の馬場であったというが、塀の長さは半端ではない。日本画の重鎮山口蓬春の記念館の世界といい、香月泰男の「シベリア・シリーズ」の世界との落差に思いをはせながら葉山を後にした。

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2021年11月 5日 (金)

葉山から城ケ島へ~香月泰男と北原白秋

 コロナに加えて腰痛と足の不調で、すっかり出不精になっていたのだが、10月27日、夫の言い出しっぺで、神奈川県立葉山美術館と城ケ島めぐりをすることになった。美術館のお目当ては「香月泰男展」であった。JR逗子駅を降りると思いがけず雨、バスを待たず、タクシーに乗車、しばらくすると、長いトンネルに入った。
 私は、二度ほど、美術館に来ているはずなのだが、たしか京急の新逗子駅からバスで、海岸線沿いに「日影茶屋」を通過して「三ヶ丘」へ向かった記憶がある。逗子駅でもらった観光地図には、その新逗子駅がない!逗子・葉山駅?ならある。後でわかったことだが、昨2020年、京急の開業120周年で、駅名変更になったとか。駅名はやたらに変えるものではないし、地名を二つ並べた駅名なんて紛らわしいし、センスもないではないか。

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 葉山美術館では、少し早めにレストランで昼食をとった。魚のコースのメインはクロダイのムニエルだったか。雨はすっかり上がっていた。まだ床が濡れているテラスから、眼下の波打ち際を撮ろうとするとシャッターが動かない。なんと充電が切れていたのだ。大失敗、私のカメラは使い物にならず、これからの画像は、すべて夫の撮影か、スキャンしたものとなる。

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まだ、レストランのテラスは濡れていたが

 美術館前では、イサム・ノグチの「こけし」が出迎えてくれる。これは、2016年、鎌倉館の閉館に伴い移設されたものであった。

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 香月泰男の「シベリア・シリーズ」は、『香月泰男』(別冊『太陽』2011年9月)で、おおよそは知っていたつもりだったが、実物を見るのは初めてだ。今回の展示は、生誕110年記念ということもあって「シベリア・シリーズ」全57点が見られるという。
 香月泰男(1911~74)の全画業をⅠ.1931~49、Ⅱ.1950~58、Ⅲ.1959~68、Ⅳ.1969~74に分けている。いわゆる「シベリア・シリーズ」は、シベリヤの収容所から復員後十年の沈黙破って描き続けた作品群である。 1943年1月入隊、満州国のハイラル市で野戦貨物廠営繕掛に配属①1945年6月吉林省鄭家屯に移動②、ソ連侵攻に伴い奉天へ③、朝鮮に南下中8月15日敗戦を知る。安東まで後退④、ふたたび奉天より⑤アムール川を渡りソ連に入ったが西に向かい、セーヤ収容所⑥、コムナール収容所⑦、チェルノゴスク第一収容所⑧を転々1947年4月帰国が決まり、ナホトカから⑨、引き揚げ船により舞鶴⑩に到着したのが1947年5月21日だった。

 

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 小さくてやや見づらいが、1943年1月入隊。後、ハイラル市に配属後、軍隊生活の様子を、下関の妻や子供たちに、600通余りの軍事郵便を送ったというが、到着したのは360通余りだった。家族を思い、ことのほか大切にしていたのがわかる。

 こうして、香月の入隊から復員までの動きを地図で追ってみると、極寒のシベリアの収容所で、森林伐採や収容所建設にという過酷な労働を強いられていたのは1945年11月から47年4月ごろまでと思うが、敗戦後のソ連兵監視のもとに長距離の移動がまた悲惨なものであったことが、彼の作品でわかってくる。
 シベリア・シリーズの特徴としては、黒一色で覆われたキャンバスから、人間一人一人の顔といっても、目鼻と口元だけを浮かび上がらせ、同時に、必死に何かをつかみ取ろうと掌の骨格だけが突き出されているといったイメージが強い。

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北へ西へ」(1959年)、敗戦後、ソ連兵によって行き先を知らされないまま、「北へ西へ」と列車で運ばれ、日本からは離れてゆくことだけはわかり、帰国の望みは絶たれたという。

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「1945」(1959年)、奉天から北上する列車内から、線路わきに放置されている幾多の屍体の光景を描いたという。1970

「朕」(1970年)、1945年2月11日紀元節の営庭は零下30度あまり、雪が結晶のまま落ちてくる中、兵隊たちは、凍傷をおそれて、足踏みをしながら天皇のことばが終わるのを待つ。朕のために、国家のために多くの人間の命が奪われてきた。中央の二つ四角形は、広げた詔書を意味しているのが、何枚かの下書きからわかる。

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「点呼」(1971年)、左右二枚からなる大作である(各73×117)。ソ連兵による最後の点呼であり、1947年5月17日、ダモイの文字が読め

 今回の展示で、「シベリア・シリーズ」以外では、藤島武治に師事した東京芸大の卒業制作の「二人座像」はじめ、好んで描いている水辺の少年たちの何点かにも着目した。

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「二人座像」(1936年)

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「水浴」(1949年)

 また、動物たちを描いたつぎのような作品にも惹かれるものがあった。

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「雨(牛)」(1947年)モンゴルの大草原、ホロンバイルの雨上がりのわずかな水たまりが見える。「シベリア・シリーズ」の第1作とも位置付けられている。

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絵葉書より。上「山羊」(1955年)、下「散歩」(1952年)

 なお、今回はわずかな展示ではあったが、1966年代後半から晩年にかけて、アメリカ、ヨーロッパなどへの旅行を重ね、いわば、黒から解放されたかのように、鮮やかな色彩の自在な作品を残していて、ほっとしたような思いに浸るのだった。

 

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2020年6月17日 (水)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(8)

短歌の歌謡曲と朗読と

 古関裕而について書き続けていると、キリもなく、伝えたいことは、満載なのだが、もうこの辺で終わりにしたい。なお、今回の作業で、興味深い一件があった。というのは、古関が有名な歌人の短歌に曲をつけて、レコード化していたことだった。

 一つは、敗戦まもない、1947年3月放送のラジオドラマ「音楽五人男」の主題歌として、藤山一郎が歌った「白鳥の歌」である。これは若山牧水の「白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ」に曲をつけたものである。その後、47年6月3日公開の映画『音楽五人男』(東宝、小田基義監督)では、「夢淡き東京」(サトウ・ハチロー作詞/藤山一郎・小夜福子)などの主題歌とともに挿入歌として「白鳥の歌」(藤山一郎・松田トシ)歌われたのは、「幾山河越えさり行かばさびしさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」「いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐うるや」の2首も加えられた3首で、レコードにもなった。当時にあっても愛唱性の高い人気の3首であったのだろう。

 一つは、芸術座公演「悲しき玩具」(1962年10月5日~27日、菊田一夫作・演出)の舞台で流された伊藤久男による石川啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」を含む17首で、同年LP盤で発売されている。短歌を選んだのは菊田で、作曲者の古関ではなかったらしい。古関は、短歌は、短すぎて曲がつけにくいと漏らしていたそうだが、17首の中の何首かの第五句が繰り返されている。実際の舞台ではどのように流されていたかはわからないのだが、ネット上で聴くかぎり、30分近くかかり、一首一首のつながりがなく、似たような間奏で歌い継がれるのだが、気分的にも盛り上がりがないように思えた。ただ古関裕而自身は、この「白鳥の歌」が自信作であったらしい(辻田⑦219頁)

 もう1件は、長崎医科大学で放射線医学を専門とする永井隆は、自らの白血病とも闘いながら、原爆の被災地長崎と原爆症患者たちの治療にあたる様子を記したエッセイ集『長崎の鐘』(日比谷出版社 1949年1月)にまつわる短歌だった。この書をモチーフに、サトウ・ハチローが作詞し、古関作曲の1949年7月に発売した「長崎の鐘」(藤山一郎)に感銘を受けた永井から、返礼として、つぎの2首が届けられたという。

・新しき朝の光りのさしそむる荒野に響け長崎の鐘
・原子野に立ち残りたる悲しみの聖母の像に苔つきにけり

それに曲をつけたものが「新しい朝の」であった。1950年9月22日に公開された映画『長崎の鐘』(松竹、大庭秀雄監督)の主題歌ともなった。ただ、「長崎の鐘」の歌詞も映画の物語も、長崎の原爆投下の経緯と原爆の犠牲者たちの実態に直接対峙することにはならなかった。というのも、前述のようにGHQの検閲下に制作されたものであり、永井の著書出版の経緯にも、大きな制約があった。それと同時に、クリスチャンの永井隆が「浦上への原爆投下による死者は、神の祭壇に供えられる犠牲であり、生き残った被爆者は、浦上を愛するがゆえに苦しみを与えてくださったことに心から感謝しなければならない、それが神の摂理というものである」と繰り返したことで、後の反核運動や多くのカトリック信者や被爆者たちは、その呪縛から逃れられなかったという。GHQによる原爆投下の責任や日本の戦争責任あいまいにし、免責へと連動していったことを思うと、「鎮魂」や「美談」では済まされない問題を内包したのではなかったか。(注)

(注)以下の過去記事も参照いただければと思う
・長崎の原爆投下の責任について~「神の懲罰」と「神の摂理」を考える (2013年5月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/05/post-15f2.html

 なお、今回の古関裕而のシリーズは、とりあえず終える。短歌や詩に音や声を伴ったときに、短歌や詩は、ある種の変貌を遂げるのではないか、音声表現が源流なのかと、考えてきた。かつて、短歌の朗読について、戦時下にあっては、「朗読」が推奨されていたことなどについて、当ブログでも何件か書いている。近くでは、高村光太郎についても、彼の詩が、戦時下で、どのように書かれ、発表され、NHKラジオから「愛国詩」として放送されたかについて言及したことがある。参考までにあげておこう。

 

短歌の森(*)「短歌の「朗読」、音声表現をめぐって」1~4
(初出:短歌の「朗読」、音声表現をめぐって1~11 『ポトナム』2008.3~2009.1)
「短歌の森」は当ブログ画面の左下の「短歌の森」の記事の中からお選びください  

関連文献:「暗愚小傳」は「自省」となりうるのか―中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして 『季論21』 46号 2019年10月                        

 

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芸術座公演の「悲しき玩具」(1962年10月)パンフレット、スタッフ・キャストには懐かしい名前。ハイシーは、我が家の薬局でもよく売れた栄養剤であった

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額縁に入った映画「長崎の鐘」のポスターを見つけて拝借。キャストにも懐かしい名前が並ぶ。左端には、音楽古関裕而の名はあるが、主題歌藤山一郎の文字は見当たらない。なお、脚本には、新藤兼人、橋田スガ子(寿賀子)の名前が読める

 

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「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(7)

  前述のように、敗戦直後、古関の活動は、菊田一夫とのコンビで、NHKのラジオドラマ「山から来た男」「鐘の鳴る丘」により再開する。「鐘の鳴る丘」の制作は、占領軍GHQの戦災孤児対策の一環としての要請であった。古関は、その主題歌の「とんがり帽子」とドラマの音楽を担当した。そして、「鐘の鳴る丘」は、私の小学生時代、リアルタイムで聞き続けた番組であったことはすでに述べた。

  その後、古関の放送界やレコード業界、演劇界での作曲活動には、華々しいものがある。古関のメロディーは、敗戦後の人々の心をとらえ、1960年代から70年代にかけては、東京オリンピック、札幌冬季オリンピックの行進曲や讃歌などによって、日本経済の高度成長期の人々の士気を高め、ときには、テレビや映画、舞台から流れるメロディーが人々の心を癒したかもしれない。すでに、紹介、引用している歌もあるが、戦時下にあっては、つぎのような歌詞の曲が盛んに流され、多くの人々に歌われた。そして、このような歌に見送られて出征し、このような歌を歌って戦場に果てた兵士たちが数え切れず、餓死や病死していった兵士が圧倒的に多いのだ。戦場には慰安婦たちもいただろう。銃後では、夫や息子のいない留守宅で頑張る妻や母もいただろう。さらに、最近こんなことも知った。植民地下の朝鮮の国民学校卒業前の少女たちを甘い言葉で募集し、いわゆる女子挺身隊として、内地、不二越の富山工場で労働を強いられていた。その少女たちが、いま年老いても、「君が代」を毎朝歌い、「勝って来ると勇ましく・・・」と歌って行進していたと証言していた。歌詞も間違いの少ない日本語で歌っていたのだ(TBS「報道特集」2020年6月13日、チューリップテレビの取材)。

  しかし、自伝や評伝を読んでいても、古関の戦時下の作曲活動が、軍部や新聞・雑誌・放送局・レコード会社の要請をそのままに受け入れていた事実に対して、多くを語らない。シリーズ記事の(6)で引いた評伝の執筆者や遺族の言葉からの聞こえてくるメッセージは以下のようなものであった。刑部は、古関の作曲になる「長崎の鐘」「フランチェスカの鐘」「ニコライの鐘」「みおつくしの鐘」など、多くのヒット曲に「鐘」が鳴り響くのは「かつて自分が作った戦時歌謡に送られて死んでいった人たちへの鎮魂と、生き残った人たちに対して、明るい希望を与えたいという想いが込められているように思えてならない」ともいう(刑部⑥184頁)。辻田は「古関の歩みとは昭和の歴史であり、政治、経済、軍事の各方面でよくも悪くも暴れまわった日本の黄金時代の記録であった。それゆえ、その生涯と作品は、音楽史やレコードファンの垣根を超えて、今後も広く参照され続けるだろう。昭和は古関裕而の時代でもあった」と総括する(辻田⑦291頁)。いずれにしても、いまとなっては開催も危ぶまれる「東京オリンピック2020」にあやかったNHK朝ドラ「エール」に便乗しての出版であるから、当然といえば当然なのだが、両者とも、貴重な資料や証言を入手した上での総括にしては、あまりにも、軽くて迎合的ではなかったか。とくに「よくも悪くも暴れまわった日本の黄金時代」と言い切れる認識には、執筆者世代の受けてきたと思われる日本の近現代史教育の影が如実に反映しているように思われた。(続く)

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露営の歌(1937年 薮内 喜一郎)から

勝って来るぞと 勇ましく/ちかって故郷(くに)を 出たからは
手柄たてずに 死なりょうか/進軍ラッパ 聴くたびに
瞼に浮かぶ 旗の波

土も草木も 火と燃える/果てなき曠野 踏みわけて
進む日の丸 鉄兜/馬のたてがみ なでながら
明日(あす)の命を 誰が知る

思えば今日の 戦闘(たたかい)に/ 朱(あけ)に染まって にっこりと
笑って死んだ 戦友が/ 天皇陛下 万歳と
残した声が 忘らりょか

愛国の花 (1938年 福田正夫)から

真白き富士の けだかさを/こころの強い 楯(たて)として
御国(みくに)につくす 女等(ら)は/輝く御代の やま桜
地に咲き匂う 国の花  

暁に祈る(1940年 野村俊夫)から

あああの顔で あの声で/手柄頼むと 妻や子が
ちぎれる程に 振った旗/遠い雲間に また浮かぶ

ああ傷ついた この馬と/飲まず食わずの 日も三日
捧げた生命 これまでと/月の光で 走り書き

あああの山も この川も/赤い忠義の 血がにじむ
故国(くに)まで届け 暁に/あげる興亜の この凱歌

若鷲の歌(1943年 西条八十)から

若い血潮の 予科練の/七つボタンは 桜に錨今日も飛ぶ飛ぶ 

霞ヶ浦にゃ/でっかい希望の 雲が湧く
*
仰ぐ先輩 予科練の/手柄聞くたび 血潮が疼く

ぐんと練れ練れ 攻撃精神/大和魂にゃ 敵はない

嗚呼神風特別攻撃隊(1944年 野村俊夫)から 

無念の歯噛み堪えつつ/待ちに待ちたる決戦ぞ

今こそ敵を屠らんと/奮い立ちたる若桜

この一戦に勝たざれば/祖国の行く手いかならん

撃滅せよの命受けし/神風特別攻撃隊

熱涙伝う顔上げて/勲を偲ぶ国の民

永久に忘れじその名こそ/神風特別攻撃隊

神風特別攻撃隊

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2020年6月13日 (土)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くか(6)

NHKと戦時歌謡、その果たした役割  

  1941年、情報局は、12月8日開戦3日前の12月5日に「国内放送非常体制要綱」を決定、番組編成の基本方針は、他のマス・メディアと同様、「戦況報道」と「世論指導」を二つの柱として、人心の安定、国民士気の高揚をはかることであった。番組の企画・編成・内容は、情報局主導の会議で決めるようになった(『日本放送史』上522頁)。大本営発表の「戦況報道」と「世論指導」、この頃のNHKのニュース、そのものではないのか。たとえば、夜7時の「ニュース7」と「ニュースウオッチ」を見ていると、その政府広報ぶりと項目選択と時間配分は、中立・公正どころか、世論操作そのものであり、いろいろ問題はあるものの、民放の報道番組と比べてみると一目瞭然である。政府に都合の悪いニュースは伝えないか、なるべく手短に伝えるので、わかりやすいといえばわかりやすい。その上、水面下でも、政府からの圧力やNHKからの忖度が日常化しているような事件がときどき露わになる。戦時下のNHKの在り様が重なって見えてくるではないか。現代のNHKの政治報道の偏向を目の当たりにしている多くの視聴者も、すでに気づいているはずである。
  これまで、私は、朝ドラと大河ドラマは、よほどの必要がなければ見ない。今回は6月に入ってからは見るようにしているが、どうもNHKと脚本家は、いつものことながら、やはり大きな間違いをしているのではないかと思う。大河ドラマ「坂の上の雲」の時もそうだったが、歴史上の人物をモデルにしていることを喧伝しながら、史実や人物の伝記的事実を、大きくゆがめて、というより、都合の良い部分をつまみ食いしながら、ときには「捏造」し、物語をもりあげる?ということをする。今回の「エール」でも、私が見た限り、仄聞する範囲でも、かなりひどい。
  最近見た中で、一例をあげる。高橋掬太郎作詞による古関裕而作曲「船頭可愛いや」が、レコード会社も苦労して、音丸という歌い手を押し立てて売り出し、ヒットしたのは1935年だったが、ドラマでは、そのレコードは売れ残り、オペラ歌手の三浦環をモデルとする人物が歌ったところレコードが飛ぶように売れてヒットしたことになっていた。音丸はあの世から悔しがっているだろうし、実際、三浦環がカバーしたのは、その数年後の1939年だったのである。三浦は、1935年には、まだドイツにいた頃で、ありえない「物語」になっていた。実在の人物の名前を、名当てゲームのようなノリで、似た名前を付けて登場させ、事実とは離れた話でつないでいく手法が、あちこちで見られたようだ。遺族の方が了解しているのかもしれないが、NHKに協力している研究者もいるなかで、私などは、見るたびに「違うだろう」と突っ込みたくもなる。

  そういえば、昨秋2019年、すでに「エール」の撮影が始まってから、脚本家林宏司の途中降板報道を思い出した。フジテレビのドラマでの活躍目覚ましい、NHKの「ハゲタカ」も手掛けた脚本家で、覚えていた。スタッフとの確執があったのではとも報じられていたが、いまの「エール」の制作姿勢をみると、納得する部分もある。主人公の窪田正孝の演技の設定からして、ドタバタのようにも見えてしまう。セリフが正しい福島弁なのかは不明だが、とにかくわかりづらい。工夫はないものなのか。

  1941年12月8日を境にして、レコード業界も放送―日本放送協会も一変した。というより、言論統制が一層明確になった。両者において、軍部とメディアとの一体化しが顕著となり、「戦時歌謡」が氾濫した中で、古関裕而の足跡をたどってみたい。もはや「公募」しているいとまなく、NHKは、12月8日夜から「ニュース歌謡」という番組を随時放送するようになった。未完ながらつぎのような表ができた。
  なお、下の表は、図表の上でクリックしていただくと拡大されるので、ぜひご覧ください。苦労して作成したが、間違いがあればご教示ください。

 

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  前述のように、退廃的な歌謡曲を、健全なものにしようと日本放送協会が力を入れたのが、1936年6月1日、大阪中央放送局から始まった「国民歌謡」だった。島崎藤村「椰子の実」(大中寅二作曲)、土岐善麿・佐佐木信綱・与謝野晶子らによる「新鉄道唱歌」(堀内敬三作曲)などを送り出したが、1937年7月7日盧溝橋事件を境に、歌も戦時色が色濃くなって、「愛国行進曲」(森川幸三作詞/瀬戸口藤吉作曲)「海行かば」(大伴家持作詞/信時潔作曲)などが放送されるようになり、紀元2600年を経て、1941年2月14日、「国民歌謡」は「われらのうた」と改称される。さらに、一年後の1942年2月8日には「国民合唱」に改められた。

  表に見るように、NHK「ニュース歌謡」は「宣戦布告」に始まり、翌年の3月31日まで続いた。「英国東洋艦隊壊滅」などは、ニュース放送の直後の数時間で制作・発表したという即興的なものであった。NHKで、歌謡曲関係を仕切っていたという丸山鉄男は、政治学者の丸山真男の兄であったこともよく知られるところである。 古関は、この41年12月には、作詞の野村俊夫とのコンビで、「新世紀の歌」(伊藤久男・二葉あき子)「新生の歌」(コロムビア合唱団)「東洋の舞姫」(渡辺はま子)「新しい道」(伊藤久男)を作曲、レコードを発売している。いずれもまだ、私は聴いてはいないが、想像がつきそうだ。

  古関は、翌1942年10月から翌年2月まで、NHKの南方占領地区慰問団に参加していた。すでに、1938年9月には中支派遣軍報道部の命により、飯田信夫、西條八十、佐伯孝夫らと従軍してはいるが、南方では様々な体験をしている。慰問の途中でも、南方軍報道部の依頼で2曲を作曲している。また、1943年4月下旬から8月にかけても、大本営陸軍報道部からインパール作戦に従軍せよとの命で火野葦平、向井潤吉、朝日新聞記者らとラングーンに向かう。ビルマでは、「ビルマ国軍行進曲」「ビルマ国独立一周年歌」とか各地の部隊歌などの作曲の依頼があり、引き受けている。そのころインパールでは死闘の行進の末、敗退した。帰路のサイゴンでは、母危篤の知らせを受けるも、現地の要請で「仏印派遣軍の歌」などを提供している。これらの現地での曲はレコード化には至っていない。

  古関は、コロムビア専属であったから、上記の表のレコード発売年月は、すべてコロムビアから発売であった。が、一つ例外なのは、「ラバウル海軍航空隊」で、NHKの企画で、作詞はビクター専属の佐伯孝夫であった。出来上がった歌は、43年11月18日が初放送で、歌唱は内田栄一と佐々木成子、古関が指揮をした。その後も何度か放送されたが、その都度、歌い手が変わっている。翌年の1月に出たレコードは、ビクター専属の灰田勝彦が歌っているが、これがかなりヒットしたらしい(⑥118頁)。なお、44年10月に初めて放送された「嗚呼神風特別攻撃隊」は、「神風特別攻撃隊の歌」と改題してレコードとなっている。NHKの「国民合唱」で、放送後レコード化するケースが多いのがわかるだろう。この時代になると、「公募歌」は少なくなり、古関への作曲依頼も、佐藤惣之助、西條八十、大木淳夫などのベテラン作詞家とのコンビが多くなる。

  こうして、軍部、そしてNHK及び新聞社などの要請に、応え続けて大量生産された古関の「戦時歌謡」について、評伝執筆者の一人辻田は、「特別攻撃隊『斬込隊』」、「ほまれの海軍志願兵」に至るまでを「最後の最後まで古関の軍歌を発信し、ともに必勝を叫んだのはNHKだった」(⑦195頁)と記す。とくに「比島決戦の歌」については、古関自身、後に「とってもいやな歌」と語り、東京で敗戦を知って、福島に疎開している家族のもとに戻る車中で「みずからの軍歌の作曲者であったことも、いささか気にならないではなかった」と心中を推し量っていた(⑦202頁)。もう一人の執筆者、刑部は、「自分は戦争によって作曲家として活躍する機会に恵まれた。一方で自分が書いた歌を大衆が支持し、その歌で戦場に送られ、多くの若者たちが死んでいった。そのような矛盾する状況を、古関は終生背負うこととなった」と戦時下の活動を総括する(⑥138頁)。また、古関の長男正裕は、「父は『戦時歌謡』と言っていました。軍に依頼されて作った曲というのはほとんどなく、多くは新聞社や映画会社からの依頼で作った曲なんです」とも語っている(菊池秀一『古関裕而・金子 その言葉と人生』 宝島社 1920年3月、44頁)。

  これまで見て来たように、少なくとも、遺族の方のことばには疑問符がつく。文化統制には、軍部が直接関与する場合もあるが、マスメデイアは、軍部や政府の「指導」を受け、あるいは「依頼」「要請」を受ける形をとるが、「命令」に近い実態であった。刑部、辻田のいうように、古関自身がみずからの戦時下の活動について語っているわけではない。次回は、敗戦後に間断なく続く活動のなかで、古関の戦争責任、戦後責任について触れてみたい。(続く)

<おまけ>

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 かなり汚れ切ったというか、劣化したハンカチの一部である。タンスの端っこの小さな袋の中にあった。左のサイン読めますか。傍らの「二九・六・三」は昭和の日付だ。それからすると私が中学生の頃の、最初にして最後の有名人のサインである。どこでもらったものかはっきりしない。もしかしたら、小学生の頃、島田舞踊(島田豊主催)の池袋教室に通っていたので、その発表会に出かけた折のアトラクションのゲストではなかったかと思う。会場はよみうりホール?どこかの大学の講堂のようなところ?だったような気がする。正解は、記事の表にある、「ラバウル海軍航空隊」の歌い手さんである。

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2020年5月27日 (水)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(2)

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ドクダミに囲まれながらも、アジサイが色づき始めた

  

 前述⑤「作曲一覧」は、「古関裕而記念館」のホームページで見られるが、レコード発売年月も付されている。古関の活動期間の長さと量に驚かされる。ただ、編年体のリストはない。④『歌と戦争』の「古関裕而戦時下歌謡曲」には、1934年から1945年までに限られるが、年別のリストがある。あげた曲名は、冒頭に記されたもので、代表作の意味ではない。

1939年:義人村上(佐藤惣之助・詞/中野忠晴・歌)ほか計4曲
1935年:来たよ敵機が(霞二郎/伊藤久男)5曲
1936年:月の国境(佐藤惣之助/伊藤久男)7曲
1937年:別れのトロイカ(松村又一/松平晃)17曲
1938年:夜船の夢(高橋掬太郎/音丸)13曲
1939年:麦と兵隊(原嘉章/松平晃)8曲
1940年:荒鷲慕いて(西条八十/松平晃ほか)12曲
1941年:七生報国(野村俊夫/伊藤久男)16曲
1942年:東洋の舞姫(野村俊夫/渡辺はま子)12曲
1943年:みなみのつわもの(南方軍報道部選定/伊藤久男)9曲
1944年:ラバウル海軍航空隊(佐伯孝夫/灰田勝彦)10曲
1945年:台湾沖の凱歌(サトウ・ハチロー/近江俊郎・朝倉春子)3曲

 これら120曲弱が、古関の軍歌ないし「戦時歌謡」のすべてはないし、ほかにも、いわゆるご当地ソング、行進曲、応援歌などの形をとるものもある。この生産量たるや目を見張るものがある。一カ月に一曲以上は作曲している計算になる。この中には、私などでも、題名はおぼつかなかったが、後付けながら、「勝ってくるぞと勇ましく 誓って国を出たからは 手柄立てずに死なれよか 進軍ラッパきくたびに・・・」(「露営の歌」1937年、薮内喜一郎作詞/中野忠晴ほか歌)「真白き富士のけだかさを こころの強い楯として・・」(「愛国の花」1938年、福田正夫/渡辺はま子)、「ああ あの顔であの声で 手柄たのむと妻や子が・・・」(「暁に祈る」1940年、野村俊夫/伊藤久男)、予科練の歌「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ霞ケ浦にゃ・・・」(「若鷲の歌」1943年、西条八十/霧島昇・波平暁男)など、歌い出すことができる。これはひとえに、敗戦後も、父や母、兄たちが、裸電球の下で歌っていたからにちがいない。

 また、上記にも登場する作詞家を含めて、特定の作詞家とのコンビの在り様も興味深い。⑤の作詞家別のリストにより、戦前・戦後を通じて上位10人は次のようになった。若干の数え間違い?はご容赦を。

西条八十(1892~1970)130曲
野村俊夫(1904~1966)107曲
菊田一夫(1908~1973)76曲
久保田宵二(1899~1947)69曲
高橋掬太郎(1901~1970)69曲
丘灯至夫(1917~2009)43曲
藤浦洸(1898~1979)41曲
サトウ・ハチロー(1903~1973)37曲
佐藤惣之助(1890~1942)28曲
西岡水郎(1909~1955)15曲

 久保田宵二と西岡水郎は、今回、初めて知る名前だった。久保田は、岡山県の小学校教師から、野口雨情の勧めもあって、日本コロンビアに入社、1931年「昭和の子供」(佐佐木すぐる作曲)を作詞、以降は、主として歌謡曲の作詞に転じた。古関とは、伊藤久男、松平晃、霧島昇などを歌い手とする「戦友の唄」(1936年)「南京陥落」(1937年)「戦捷さくら」(1938年)「世紀の春」(1939年)「戦場想へば」(1941年)などを残すが、1940年には、コロンビアを退社、晩年は、作詞家の著作権確立のために尽力したということである。また、西岡は、古関とのコンビで、して1930年代前半を中心に「歌謡曲」を残しているが、ちなみに、そのうちの一曲「たんぽぽ日傘」(1931年)の歌い手は、前年に結婚した古関の妻、内山金子(1912~1980)であった。同時に彼女は「静かな日」(三木露風作詞/古関裕而作曲)も吹き込んでいる。
 佐藤惣之助は、白樺派の影響を受けた詩人としてスタートするが、「赤城の子守歌」(1934年、竹岡俊幸作曲/東海林太郎)、「湖畔の宿」(1940年、服部良一作曲/高峰三枝子)など多くのヒット曲の作詞家として知ることになるのだが、太平洋戦争開始直後の戦時下に亡くなる。最晩年にも、古関と組んだ「国民皆労の歌」(1941年11月、伊藤久男・二葉あき子)、「大東亜戦争陸軍の歌」(42年3月、伊藤久男・黒田進)が発売されるが、1942年5月に亡くなっている。久保田宵二と佐藤惣之助の晩年の在り方には、時代とのかかわり、国策とのかかわり方の違いがあるように思えて、興味深いものがあった。

 古関とのコンビで、ベスト1の西条八十は、戦中・戦後を通じて、活動期間も長い。私の「歌を忘れたカナリヤ」(原題「かなりあ」『赤い鳥』1918年11月。「かなりや」『赤い鳥』1919年5月、成田為三作曲の楽譜付き。文部省教科書「六年生の音楽」1947年収録時に改題)との出会いは小学校6年生の時であった。西條は、英文学、フランス文学にも通じた象徴詩人としてスタートし、童謡も多く残したが、1920年代後半からは、中山晋平作曲による「東京行進曲」(1929年)、「銀座の柳」(1933年)などを始め、少し下っては、古賀政男、服部良一、万城目正らの作曲による数々の歌謡曲をヒットさせている。古関とは、1930年代後半から、ミス・コロンビア、二葉あき子、淡谷のり子、音丸、豆千代、松平晃などを歌い手とする歌謡曲を手掛けるが、同時に、1937年「皇軍入城」「今宵出征」、1938年「憧れの荒鷲」「勝利の乾杯」、1939年「荒鷲慕ひて」「戦場花づくし」1940年「起てよ女性」「空の船長」、1941年「みんなそろって翼賛だ」「元気で行こうよ」、1942年「空の軍神」1943年「決戦の大空へ」「若鷲の歌」1944年「海の初陣」「亜細亜は晴れて」1945年2月「神風特別攻撃隊の歌」「翼の神々」などの戦時翼賛の歌を数多く世に出している。

 ちなみに「みんなそろって翼賛だ」〈1941年1月/霧島昇・松平晃・高橋裕子〉をネットで検索してみると、つぎのような歌詞と楽曲もでてきた。

みんなそろって翼賛だ
作詞 西條八十
作曲 古関祐而

進軍喇叭で一億が
揃って戦へ出た気持ち
戦死した気で大政翼賛
皆捧げろ国の為国の為ホイ
そうだその意気グンとやれ
グンとやれやれグンとやれ

角出せ槍出せ鋏出せ
日本人なら力出せ
今が出し時大政翼賛
先祖ゆずりの力瘤力瘤ホイ
そうだその意気グンとやれ
グンとやれやれグンとやれ

おやおや赤ちゃん手を出した
パッパと紅葉の手を出した
子供ながらも大政翼賛
赤い紅葉の手を出した手を出したホイ
そうだその意気グンとやれ
グンとやれやれグンとやれ
(以下略)

  どうだろう。作詞者も作曲者もすでに”著名な”ながら、読み上げるのもはずかしいような言葉の羅列だが、大人が本気で制作し、国民は歌ったのだろうか。同じ年に、西條八十による古賀政男作曲「さうだその意気」(霧島昇・松原操・李香蘭)も発売されている。太平洋戦争末期に、もう一つ、なかなかミステリアスな、古関・西條コンビの歌がある。前述の⑤「作曲一覧」によれば、「比島沖の決戦(酒井弘・朝倉春子)1945年12月発売とある。敗戦後の発売?!とあるが、ありえないだろう、と不思議だった。④『歌と戦争』の古関裕而の部分には、この歌の詳細があり、つぎのような歌詞を読むことができる。

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④『歌と戦争』192~193頁より

 ④『歌と戦争』には、この歌の制作経緯について、日本コロンビアの資料や証言によれば1945年3月の新譜リストにあり、レコードが発売されているが、レコードが一枚も発見されていない、という。しかし、著者の櫻本は、学校で習ったことがないのに、歌うことができるのは、繰り返し放送されていたと思われ、放送用のレコードは存在していたと推測する。掲載されている歌詞は、NHKに残っていた「演奏台本」からの採録である。なお、この歌の題についても「「比島決戦の歌」であったり、「比島血戦の歌」であったりする。発売の時期について、上記の古関裕而記念館の「作曲一覧」のデータや③『日本流行歌史』の巻末年表の1944年3月というのは、歌詞の内容からは、間違いとみてよい。その歌詞たるや、上記に見るように、比島沖のレイテ海決戦における米軍の指揮官は、陸軍はマッカーサーであり、海軍はニミッツであったのである。


比島血戦の歌
西條八十作詞
古関裕而作曲

血戦かがやく亜細亜の曙
命惜しまぬ若桜
いま咲き競うフィリッピン
いざ来いニミッツ、マッカーサー
出て来りゃ地獄へ逆落とし

 一番の歌詞である。「いざ来い・・・」以下が四番まで繰り返されているのがわかるだろう。このリフレイン部分が垂れ幕や看板となって、都心のビルにかかげられたという(③120頁)。さらに、歌詞のこの部分は、西條のものではなく、陸軍報道部の親泊中佐の作だという、西條の弟子でもあったとする丘灯至夫の言を引用している(③120頁、④1)。こうした言い訳が通用するのかどうか。当時は、軍部やメディアの指令や要請で、戦局に合わせての、速成の歌が氾濫していたと思われる。西條の場合、『西條八十全集』や『詩集』などにはどのように収録されているのも検証しなければならない。

 古関、西條のコンビは敗戦後にも、つぎのような歌が作られていった。その題名からもわかるように、その歌詞も、曲も変わる。変われば変わるものだと思う。軍部や政府、そしてメディアと一体となって、国民の士気をあおるだけあおった作詞者や作曲者に、良心や責任が問われなくていいのだろうか。まさに「流行り歌」に過ぎないのだから、思想や信条など問われる筋合いがないとでもいうのだろうか。

1946年年11月:1947年への序曲 /霧島昇・藤山一郎他
1948年1月:平和の花 /松田トシ
1950年9月:希望の街 /藤山一郎・安西愛子
1950年6月:美しきアルプスの乙女/並木路子
1953年7月:ひめゆりの塔/伊藤久男
1953年7月:哀唱/奈良光枝
1955年11月:花売馬車/美空ひばり

 意外だったのは、「ひめゆりの塔」なのだが、映画「ひめゆりの塔」(今井正監督、原作石野径一郎、脚本木洋子)の音楽は古関裕而だったのだろうが、伊藤久男の歌が画面上流れていたような印象はない。レコード発売が1953年7月、映画の封切りが、それに半年ほど先立ったお正月だったのだから、映画の主題歌ということではなかったのだろう。西條の歌詞は次のようであったから、映画の雰囲気とはかけ離れているようにも思える。私は、リアルタイムで見たのではなく、数十年前に名画座などでみた、薄れかけた記憶なのだが。

ひめゆりの塔
西條八十作詞
古関裕而作曲

首途(かどで)の朝は愛らしき
笑顔に母を振りかえり
ふりしハンケチ今いずこ
ああ 沖縄の夜あらしに
悲しく散りしひめゆりの花

生まれの町ももえさかる
炎の底につつまれて
飛ぶは宿なきはぐれ鳥
ああ 鳴けばとて鳴けばとて
花びら折れしひめゆりの花

黒潮むせぶ沖縄の
米須の浜の月かげに
ぬれて淋しき石の塚
母呼ぶ声の永久(とこしえ)に
流れて悲しひめゆりの花

 

 その後、西條は、古賀政男、服部良一らと組むことが多くなり、数々のヒット曲を送り出している。

 つぎに、「とんがり帽子」を生んだ古関の菊田一夫との仕事をたどってみたい。(続く)

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庭の草とりでもしようものなら、隣の「さくら」ちゃんが吠えまくる。お留守らしいので?少し叱ってみたら、神妙な顔になった。

 

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2020年1月16日 (木)

『季論21』46号に寄稿しました高村光太郎についての拙稿が一部閲覧できるようになりました

 昨年10月12日の本ブログでお知らせしましたように、『季論21』(2019年秋号)には、以下を寄稿していました。その一部がネット上で閲覧できるようになりました。「ピックアップ記事」の一つとして、途中までご覧になれます。なお、昨年9月には、当ブログにも「あらためて、高村光太郎を読んでみた1~9」として、以下の拙稿に書ききれなかったことも連載していますので、あわせて、お読みいただければ幸いです。

「「暗愚小傳」は「自省」となり得るのかー中村稔『高村光太郎の戦後』を手掛かりとして

http://www.kiron21.org/pickup.php?112

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季論21


「暗愚小傳」は「自省」となり得るのか

――中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして

内野光子



はじめに

中村稔は、二〇一八年に『髙村光太郎論』(青土社)を出版し、二〇一九年にも同社から『髙村光太郎の戦後』を出版した。新著では髙村光太郎と斎藤茂吉の評価を変えたという。髙村光太郎と斎藤茂吉の愛読者は多く、それぞれに、自認する研究者も数多い中で、二冊の大著によって、一九二七年生まれの著者は、どんなメッセージを届けたかったのだろう。

私は、二〇一九年一月に、『斎藤史《朱天》から《うたのゆくへ》の時代――「歌集」未収録作品から何を読みとるのか』(一葉社)を出版した。そこでは、斎藤史が、一九四三年に出版した歌集『朱天』を生前に自ら編集した『斎藤史全歌集』(大和書房 1977年、1997年)に収録する際に、削除と改作をおこなった点に着目、その背景と実態を分析した。さらに、二・二六事件に連座した父の斎藤瀏、処刑された幼馴染の将校にかかわり、昭和天皇へ募らせていた怨念は、大政翼賛へ、さらに晩年の親天皇へと変貌していく様相を、作品や発言からの検証も試みている。

私としては、斎藤茂吉や斎藤史をはじめ多くの歌人たちが、そして、髙村光太郎も、戦時下に依頼されるままに、あれだけの作品を大量生産して、マス・メデイアに重用されていたにもかかわらず、敗戦後、自ら「歌集」や「詩集」を編集する際に、さまざまな「ことわり」をしつつ、戦時下の作品を積み残した経緯がある。

今回は、まず、新著『髙村光太郎の戦後』の光太郎の部分を中心に、中村の光太郎像を検証したい。なお、私自身の関心から、日本文学報国会における髙村光太郎と戦時下の朗読運動渦中の光太郎にも触れることになるだろう。さらに、拙著『斎藤史《朱天》から《うたのゆくへ》の時代』にかかわり、髙村光太郎に、戦中・戦後の作品の削除や隠蔽はなかったのか、についても言及できればと思う。

蟄居山小屋生活の実態

中村の新著、第一章の冒頭では、光太郎の敗戦後の七年にわたる山小屋での蟄居生活、それにいたる経過がたどられる。一九四五年から山小屋を去る一九五二年一〇月まで、光太郎の日記と書簡などを通じて、その暮らしぶり、人の出で入り、執筆・講演などの活動も記録にとどめ、作者、中村の見解も付せられる。

それにしても、光太郎の日記には、地元の人々や知人、出版関係者たちから届けられた食品などが、一品も漏らさないという勢いで、誰から何をどれほどと克明に記録されている。中村も書くように、光太郎は「礼状の名手であった」のである(本書43頁)。

礼状には、贈り主への感謝の気持ちとどれほど役に立っているかなど率直な心情を吐露する内容が多い。戦前からの著名な詩人から、このような手紙をもらったら、舞い上がる人も多かったのではないか。同時に、日記には、到来もののほかに、自分が食したもの、菜園の種まきや収穫、作付け、施肥などの農作業についてもこと細かく記録にとどめている。「食」へのこだわりは執念にも似て、正岡子規の病床日記を思い起こさせる。

書簡の中で興味深かったのは、東京の椛澤ふみ子との文通の多さと両者の間には屈託のない和やかな雰囲気が漂っている点であった。彼女から日常的に届く新聞のバックナンバーの束など、光太郎にとっては、大事な情報源ではなかったのか。たまに、山小屋を訪ねることもあり、「小生の誕生日を祝つて下さる方は今日あなた位のものです」(1947年3月13日、79頁)とも綴る。なお、余談ながら、中村は、一九四八年五月の訪問の記述を受けて、当時二十代の椛澤と光太郎との関係を、父と娘のような清潔な交際だったように見える、と述べている(124頁)。

敗戦後の光太郎を語る吉本隆明は、上記の「食」への執念は「自分と、自然の整序があれば、その両者がスパークするとき美が成り立つという思想」に基づき、「美意識と生理機構の複合物としての食欲であった」(「戦後期」『吉本隆明全著作集8』勁草書房 1973年、183頁)とも分析しているが、私は、より単純に、光太郎の戦前の暮らしにおける西欧趣向やブランド信仰にも起因する飢餓感と自らの健康・体調への不安からという現実的な背景を思うのだった。

『髙村光太郎の戦後』にみる光太郎の「自省」とは

そうした暮らしの中から、敗戦後初めて刊行された詩集『典型』の冒頭は「雪白く積めり」であった。その静寂な世界は、一見、戦前の饒舌さが後退したかに思えたが、詩の後半に「わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。」「敗れたるもの卻て心平らかにして……」などのフレーズをみると、大げさな身振りは変わっていないとも思った。

「雪白く積めり」

雪白く積めり。/雪林間の路をうづめて平らかなり。 /ふめば膝を沒して更にふかく/その雪うすら日をあび て燐光を發す。(後略)

(「雪白く積めり」1945年12月23日作『展望』1946年3月。『典型』収録)

  中村は、この「雪白く積めり」について、「さすがに高い格調の、精緻な叙景に高村光太郎の資質、非凡さを認めることができるとしても」いったい何を読者に伝えたいのかがわからない失敗作だとも断言している(46~47頁)。

  詩集『典型』に収録の「典型」と題する一篇の冒頭と末尾を記す。みずからの「愚直な」生を振り返るような作品である。中村は、前著の『髙村光太郎論』でも「光太郎の弁解の論理を肯定しないけれどもその思いの切実さを疑わない」としているが、新著ではさらに踏み込んで、最初に「典型」を読んだとき、作者が愚者を演じているようで反感を覚えたが、「弁解が多いにしても、『暗愚小傳』の諸作の結論として虚心にこの詩を読み返して、これが彼の本音だった、と考える。そう考えて読み直すと、深沈として痛切な声調と想念に心を揺すぶられる。この詩は決して貧しい作品ではない。詩人の晩年の代表作にふさわしい感動的な詩である」と絶賛する。さらに「これほど真摯に半生を回顧して、しみじみ私は愚昧の典型だと自省した文学者は他に私は知らない」との評価をする(160~161頁)。

「典型」

今日も愚直な雪がふり/小屋はつんぼのやうに黙りこむ。/小屋にゐるのは一つの典型、/一つの愚劣の典型だ。(中略)

典型を容れる山の小屋、/小屋を埋める愚直な雪、/雪は降らねばならぬやうに降り、/一切をかぶせて降りにふる。

(「典型」1950年2月27日作『改造』1950年4月。『典型』収録)

 しかし、敗戦後、疎開先の花巻から最初に発信された詩は、一九四五年八月一七日の『朝日新聞』に掲載された「一億の號泣」であった。「綸言一たび出でて一億號泣す。/昭和二十年八月十五日正午、/われ岩手花巻町の鎮守/……」で始まり、つぎのような段落がある。これは詩集『典型』に収録されることはなかった。その「序」で、光太郎は「戦時中の詩の延長に過ぎない」作品は省いたとある。こうした作品を指していたのだろう。
「一億の號泣」

(前略)天上はるかに流れ來る/玉音の低きとどろきに五体をうたる。/五体わななきとどめあへず。/玉音ひびき終りて又音なし。/この時無聲の號泣國土に起り、/普天の一億ひとしく/宸極に向つてひれ伏せるを知る。(後略)

(「一億の號泣」1945年8月16日作『朝日新聞』『岩手日報』1945年8月17日)

 

 また、中村が言及する「わが詩をよみて人死に就けり」も光太郎の敗戦後を語るには欠かせない作品であると、私も思う。

「わが詩をよみて人死に就けり」

爆弾は私の内の前後左右に落ちた。

電線に女の大腿がぶらさがつた。

死はいつでもそこにあつた。

死の恐怖から私自身を救ふために

「必死の時」を必死になつて私は書いた。

その詩を戦地の同胞がよんだ。

人はそれをよんで死に立ち向つた。

その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた

潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

 この九行の詩は、制作月日が不明だが、日記の一九四六年五月一一日には、「余の詩をよみて人死に赴けり」を書こうと思う、という記述があるが、この作品も詩集『典型』には収録されなかった。

(以下は本文をお読みください)

 

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