2024年1月 1日 (月)

 新春 2024.1.1.

  きょうも、当ブログをお訪ねくださいまして、ありがとうございます。国の内外の不安は去りませんが、皆さまにはすこやかな一年となりますよう祈っております。
 当ブログは、2006年に開設、お力添えいただきまして、18年目に入ります。今後ともよろしく、お願いいたします。

 『ポトナム』1月号の時評、相変わらずのテーマですが、寄稿しましたので、お読みいただければ幸いです。

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昨秋、俵万智が紫綬褒章を受章したが

  「もういい加減にして」の声も聞こえるが、やはり、私は、書きとどめておきたい。
  俵万智(六〇)が二〇二三年秋の紫綬褒章を受章した。多くのマス・メディアには、彼女のよろこびの言葉が報じられていた。短歌関係の雑誌は、どう扱うだろうか。

  紫綬褒章は、内閣府によれば「科学技術分野における発明・発見や、学術及びスポーツ・芸術文化分野における優れた業績を挙げた方」に与えられるとある。
 一九五五年に新設された紫綬褒章は、これまでも多くの歌人たちが受章している。近年では、二〇一四年栗木京子、一七年小島ゆかり、今年の俵万智と女性が続いたが、一九九四年馬場あき子以来女性は見当たらず、一九九六年岡井隆、一九九九年篠弘、二〇〇二年佐佐木幸綱、〇四年高野公彦、〇九年永田和宏、一一年三枝昂之、一三年小池光と続いてきた。女性が続いて、歌壇の現状がようやく反映されるようになったとよろこんでばかりいられない事情を知るのだった。

 そもそも、紫綬褒章は、いったい誰が決めるのだろうか。
「褒章受章者の選考手続について(平成一五年五月二〇日)(閣議了解)」によれば、根拠法は、なんと「褒章条例(明治一四年太政官布告第六三号)」とあり、「明治」なのである。
  褒章の種類は、紅綬、緑綬、黄綬、紫綬及び藍綬で、受章者の予定者数は、毎回おおむね八〇〇名とし、春は四月二九日に、秋は一一月三日に発令する、とある。
  衆参議長・最高裁判所長官・内閣総理大臣、三権の長をはじめ、各省庁大臣その他の内閣府外局の長などが褒章候補者を内閣総理大臣に推薦し、内閣府賞勲局との協議、審査を経て内示され、閣議で決定される。最初の候補者リスト作成は各自治体、関係団体になるのだろう。
  春の発令日はかつての「天皇誕生日」、昭和天皇の誕生日であった。秋の発令日は「明治節」、明治天皇の誕生日で、戦後は「文化の日」という祝日になった。
  要するに、紫綬褒章は役人たちが選んでいるので、「文書」に幾つかの押印があったとしても不問に近い。歌人を対象にした民間の賞には、選者や選考委員が示されるのが常である。
  新憲法のもとでは、国家による勲章や褒章制度は否定されたはずである。私も結論的には不要と思っている。というより、法の下の平等に反し、人間のランキングを助長する害悪とも思っている。さらに、選考過程をみると、役人サイドで“綿密な審査”がなされていることもわかる。文化勲章、文化功労者、芸術院会員にしても、形式的な選考委員会は立ち上げられるが、役人サイドのリストの承認機関に過ぎない。文化功労者選考委員十人は、毎年九月に任命され、会は一度しか開催されない。メディアはこぞって受章者の栄誉を称えるが、誰がどのように選んだかには、触れようとしない。(『ポトナム』 2024年1月) 

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手前は、我が家のツバキ、後方が主のいない隣家のサザンカ
  

 

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2023年10月31日 (火)

「官報に載せるのを忘れてた」って! 文化功労者選考分科会委員

 「官報」に載せるのを忘れてた?って、そんなことがあるのだろうか。
   10月22日、「文化勲章は誰が決めるのか」を書いたあと、やはり気になって、今年の委員は誰だったのだろうと、毎年発表のある9月1日前後の「官報」をもう一度調べてみたが、見つからない。10月23日、「官報」掲載の日だけでも聞きたいと思って、ネットで見つけた文化審議会委員任命(文化功労者選考分科会委員を除く)の報道資料担当「文化庁長官官房政策課」に電話した。一緒に電子版「官報」を検索するが、わからずじまい。「担当の者が調べて電話します」とのこと。翌日、文部科学省の担当?から回答があったのだが、「たしかに、9月2日に任命されていますが、官報担当の者が、登載を忘れていまして、10月31日の官報に登載します」という。「ええ! そんなことってあるんですか。10月31日?」といえば、「ご迷惑おかけしました。担当の者への引継ぎがうまくいかなかったもので・・・。記者クラブの記者さんには報道資料として配布しているんですが」ともいう。1週間以上も先ではないか。任命からほぼ2カ月後になるなんて。これぞ、役所仕事、責任の所在はどこへやら。

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2023年10月31日「官報」、浅川ひとみ(萩尾瞳)、天谷雅行、鍋島稲子、猪又宏治、木部暢子、塩見美喜子、清水玉青(有吉玉青)、寺井真実(片岡真実)、原久子、沼上幹、三島良直、村田善則とある。

  そして、きょう10月31日の「官報」に、なるほど小さく載っていた。私が電話しなかったら、ずっと忘れていた?っていうことなのか。たった一日しか開かれない「文化功労者選考分科会委員」とはいえ、ずいぶんと軽んじられたものである。それもそのはず、“選考”との名の付くものの、役所のどこかで選ばれた“文化功労者”を承認するだけのこと。250万円の年金がつき、やがて”文化勲章“の候補者にもなる人たちの決め方なのである。メデイアも、文化功労者や文化勲章の受章者は、華々しく報道するが、どんな仕組みで決まるのかは、報道しないことになっているようだ。きょう「官報」に文部科学省人事として発表されたのは10名の委員の氏名のみ。「清水玉青」?、下の名前から、もしかしたら有吉佐和子の娘?報道資料には、肩書も記されているだろうが、私が知るのは、この人くらい。自分でもかなりしつこなと思いながら、委員の肩書をネットで調べ始めると、元大学学長から元野球選手まで、取り揃えていた。いわゆる政府の審議会の常連もいる。しかし、その決め方について、なるほどという記事を見つけた。当時の新聞記事を見過ごしていたらしい。前川喜平元文部科学省事務次官が、日本学術会議の任命問題に関連して、つぎのように語っていたのである。

政権にたてつく人間は排除し気に入った者は重用する。官邸のその姿勢を、私自身、じかに感じたことがある。
文部科学事務次官だった2016年、「文化功労者選考分科会」の名簿を官邸に持っていった。この分科会は文化審議会の下に置かれており、選考する文化功労者のなかから文化勲章受章者が選ばれることもあって、人事について閣議で了解をとる必要があった。 約1週間後、呼びだされて官邸に行くと、杉田和博官房副長官から、10人の委員のうち2人を差し替えるようにと指示された。「政権を批判する発言をメディアでしたことがあった」「こういう人を選んじゃだめだよ。ちゃんと調べてくるように」と言われた。(朝日新聞デジタル「前川喜平元次官が語る官邸人事 不当と違法の分かれ目は」2020年10月28日)

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2023年10月22日 (日)

文化勲章受章者、文化功労者は、いったい誰が決めるのか。

  10月20日、政府は、7人の文化勲章受章者と文化功労者を発表した。21日の新聞は、話題性のある受章者のよろこびの声や文化勲章の川淵三郎、文化功労者の北大路欣也らは、写真入りのインタビュー記事が掲載されていた。学術・文化・芸術の分野で、最高の栄誉に輝く人々と報じられ、11月3日には、授与式があり、また、その“よろこび”の姿が報道されるだろう。

 文化勲章や文化功労者は、どこでどのように決まるのか。そんな疑問から、調べてみるのだが、釈然としない。

 2013年の省庁再編で、文化庁にあった従来の国語審議会、著作権審議会、文化財保護審議会、文化功労者選考審査会を統合して文化審議会を設置された。文化功労者選考審議会は、分科会の一つとなった。その分科会の選考委員名や選考過程も知りたかったのだが、ネット上の検索では、文化庁のホームページに「第23期文化審議会委員名簿」(2023年4月1日付)は掲載されているのだが、どういうわけか、「文化功労者選考分科会分属の委員は除く」との但し書きがついている。

 2019年、下記のブログ記事を書くにあたって、たどり着いた文科省の大臣官房人事課栄典班によれば、ホームページに載せないのは、「文化功労者選考分科会は他の分科会と違って、会合は年一度しか開かないので、載せないことになっています」という。一回きりなので、いつまでもホームページに名前が残るのは好ましくないという主旨のことも話していた。名簿が欲しいのなら、今から読み上げるからメモしてくださいという。ファックスもできないことになっているというので、理不尽ながら、慌てて書きとった12人の中で、知っているのは、田中明彦、都倉俊一くらい。この分科会委員の任命は毎年9月1日前後らしいので、今年は、と「官報」を調べてみるが、私には見つけることができなかった。お気付きの方、ご教示いただければありがたい。ただし、官報無料公開は直近90日までとなっている。

 文化審議会委員はすべて文科大臣の任命である。任命された文化功労者選考分科会委員は、今年だと、多分野にわたる20人の文化功労者を一日で選考できるわけでもないから、大臣官房の担当部署が作成した候補者名簿を承認することくらいしかできないだろう。名簿作成の資料は、いろいろな伝手から入手してのことだろうと推測する。要するに、選考分科会はすでに形骸化していることになる。文化勲章は、上記のような経過で“選考”された過去の文化功労者の中から文科大臣が推薦した文化勲章候補者を分科会委員全員の意見を聞き、内閣府賞勲局で審査を行い、閣議に諮り決定するのである。

 こうした状況は、各省庁の審議会も同様で、官僚の”作文“を了承するセレモニーの一端を担うに過ぎず、「審議会行政」と言われる所以である。そして、官僚が選んだ文化勲章・文化功労者なのに、学術・文化・芸術の分野での最高峰、到達点かのような、華々しさで報道するメディアも、メディア。政府に不都合と思われる人は選ばれない。不都合な言動があった人でも、政府は「なびき」そうな人に目星をつけるのも巧みである。 

 当ブログでは、すでに何度も繰り返し書いてきたり、拙著『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 2013年8月)の中でも、指摘していることなのだが、最近の記事としては、つぎの2件がある。 

・ほんとうの「学問の自由」とは~日本学術会議、日本芸術院、文化勲章は必要なのか(2020年10月4日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/10/post-02d75a.html

・いったい、文化勲章って、だれが決めているのだろう~その見えにくい選考過程は、どこかと同じ?  (2019年11月27日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/11/post-35d417.html

 

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2023年6月14日 (水)

川村記念美術館「芸術家たちの南仏」へ

 梅雨入り直前の晴れ間、6月8日、佐倉市内の川村美術館に出かけた。企画展の「南仏」が気になったといっても、私たちは、かつて、エクス・アン・プロバンスから日帰りのニース、マルセイユを訪ねたというレベルのことである。先日のマティス展に続いて、マティスにも出会うことができるかもしれない。

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 カタログの表紙も、チラシもマティスの切り紙絵「ミモザ」(1947年)だった。入館料、シニアは200円引きの1600円であった。

  今回、はじめて、午後2時からの学芸員による常設展、企画展をふくめてのガイドツアーに参加した。常設展は、印象派のルノアールから20世紀のアメリカ美術に至るまで、バラエティに富んでいるが、ふだんなら、通り越してしまいそうなマーク・ロスコの壁画やフランク・ステラの部屋での解説を聞いて知ることも多かった。ロスコの壁画はニューヨークのレストランからの注文であったというが、彼は、その店の雰囲気が気にいらず、納めなかったものの一部が、川村美術館に収蔵されたというエピソードも興味深い。ステラの作品の自在さと多様性には驚きつつ、美術館入り口近くのモニュメント「リュネヴィル」(1994年)という彫刻?には、職人たちとの苦労が偲ばれるのであった。

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ステラ「リュネヴィル」(1994年)、八幡製鉄所の職人さんたちとの汗をも思う。

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セザンヌ「マルセイユ湾、レスタック近郊のサンタンリ村を望む(1877-78)

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アルベール・アンドレ「マルセイユのプティ・ニース」(1918年)。プティ・ニースは、1917年にできたばかりのレストランであったが、現在では高級ホテルとレストランとして健在である。アンドレは、上記のセザンヌとは親子ほど年も違うが、親しく交流し、多大な影響を受けた。1918年はセザンヌの没年でもあった。

 マティスやシャガールには癒される作品も多いのだが、ピカソの前では、どうしても構えてしまう。しかし、今回は、以下のようなわかりやすいメッセージ性の高いポスターや広告もあって、心和むのだった。

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ピカソ「平和のための世界青年学生祭典(東ベルリン)」(1951年)。こんなスカーフがあったとは。この祭典は、第1回が、1947年プラハで開催され、第3回が東ベルリンであった。以後、中断もあったが、共産圏の都市を巡回して開催され、ソ連崩壊後も続いている。

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ピカソ「リュマニティ(日曜版)挿絵」(1953年12月27日)。ピカソの「ゲルニカ」(1937年)は有名であるが、彼は、フランスがドイツナチスから解放された1944年に、フランス共産党に入党、1973年亡くなるまで党員だった。しかし、スターリンの死去の折、描いたスターリンの肖像画はソ連から拒否されている。1949年以来、鳩は何度か
描かれ、平和のシンボルとして、定着し、世界に広がっていった。

 ピカソの女性遍歴は目まぐるしいが、最近、愛人の一人フランソワーズ・ジローの訃報が、小さな記事となっていた。抽象画家として活躍、6月6日、101歳で、ニューヨークのでなくなっている。1943年、1881年生まれのピカソが、1921年生まれの画学生ジローと出会い、二児をもうけたが、1953年の破局後は、ピカソはかなり未練がましかったらしい。

 なお、これまでまったく知らなかった、ラルフ・デュフィの「花束」の里芋の葉がなぜ青なのか、気になる作品だったし、また、マティスやピカソ、ボナール、シャガールらの作品で飾られた「ヴェルヴ」(1937年12月~1960年)という文芸美術雑誌の表紙にも興味をそそられたのだった。

 川村記念美術館は、DIC(旧大日本インキ)が所蔵する美術品を中心に、1990年に開館、3万坪の庭園は、みごとに整備され、折々の自然を楽しめる。京成佐倉・JR佐倉を巡回する無料のシャトルバスがありがたい。

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美術館の渡り廊下から。

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ツツジ、藤の花の季節は終わってしまったが。

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藤棚から美術館を望む。

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いまは、アジサイが見ごろ、ガクアジサイの下にひそむカタツムリ。

 

 

 

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2023年5月14日 (日)

マチス展へ~思い出いろいろ・・・

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  私には、なんとなく、なつかしくも、親しくもあるマチス、5月11日、都美術館開催中の「マティス展 The Parth to Color」に出かけた。予約制なので、並ぶこともなかったが、やはり、かなりの入場者ではあった。上記のチラシの眠る女性の絵には見覚えがあったので、手元のファイルを繰っていたら、1996年の「身体と表現1920ー1980 ポンピドゥーセンター所蔵作品」(国立近代美術館)のチラシにもあった「夢」(1935年)と題する作品だった。          

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 そして、2004 年秋のマチス展(国立西洋美術館)、この年は、やたらと忙しがっていた時期で、11月22日の日記では、「マチス展時間切れ、残念」との記述があって、出かけてはいない。ただ、記念のパスネットが残っていた。栞の2点はどこで入手したものかは分からないが、どちらも有名な切り絵のようである。

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パスネットの絵は「夢」(1940年)、中央はジャズシリーズの「イカロス」(1947年)、 左は「アンフォロとザクロの女」(1953年)。アンフォロとは、柄のついた深い壺のことを言うらしい。

 

 今回のマチス展は、つぎのような時系列の構成になっていて、とくに、私には苦手な彫刻の作品も多く展示されていたのも特徴だろうか。鑑賞の仕方がわかるといいのだが、多くは素通りしてしまった。

1. フォーヴィスムに向かって 1895─1909
2. ラディカルな探求の時代 1914─18
3. 並行する探求―彫刻と絵画 1913─30
4. 人物と室内 1918─29
5. 広がりと実験 1930─37
6. ニースからヴァンスへ 1938─48
7. 切り紙絵と最晩年の作品 1931─54
8. ヴァンス・ロザリオ礼拝堂 1948─51

 私が、気になったのは、第一次世界大戦期に重なる「ラディカルな探求の時代」のつぎのような作品だった。

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左「コリウーのフランス窓」(1914年)右「窓辺のヴァイオリン奏者」(1918年)。コリウールはスペイン国境に近い地中海に面した小さな港町で、マチスやピカソをはじめ多くの芸術家たちが愛した、美しい村というが、この黒い外の光景は、何を意味しているのだろうか。ヴァイオリン奏者のモデルは、息子のピエールかとも解説にあったが、誰とも分からない存在を強調しながら、窓の外には白い雲が立ちのぼっているのは、「コリウールのフランス窓」とは対照的だが、決して晴れてはいないことにも注目した次第。

 晩年の切り絵については、ニースのマチス美術館を訪れたときのことを思い出す。2004年9月末からのフランス旅行の折、アヴィニヨンに4泊して、エクサンプロバンスからの「セザンヌの旅」ツアーに参加したりしたが、大した前準備もなく、ニースへ、そしてマチス美術館にも行ってみたいと思い立ち、日帰りを強行した。ヴァカンスの季節はとうに終わったニースの街と海、バスでマチス美術館近くに下車したつもりだったが、なかなか見つからなかった。まさか、古代ローマの遺跡に隣接していようとは思っても見なかったのである。

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2005年10月1日、たどり着いたマチス美術館

 

 マチスは、金魚の絵を多く描いているようで、2005年秋の「プーシキン美術館展」(都立美術館)に出かけた折の「金魚」(1912年)の絵葉書が残っていたが、今回のマチス展では、「金魚鉢のある室内」(1914年)を見ることができた。1912年の作品はとてつもなく明るいのだが、1914年の作品には、シテ島近くのサン・ミッシェル河岸の住まいの窓から見下ろすサン・ミッシェル橋も描かれているが、全体的にブルーの暗い色調である。また、近くのノートルダム寺院も様々に描いているが、炎上を知ったら、何を思っただろうか。

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左「金魚」(1912年)プーシキン美術館蔵。 右「金魚鉢のある室内」(1914年)ポンピドゥーセンター国立近代美術館蔵

*日本語の表示は「マティス」が適切なのかもしれないが、私は、「マチス」として親しんできたので、そちらで統一した。

 

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2022年10月24日 (月)

田端文士村散歩へ~初めての田端駅下車

 土曜10月22日は、秋晴れの予報だったが、すっきりしないものの、出かけることにした。久しぶりの東京、池袋育ちながら、田端には降りた記憶がない。国鉄の操車場のイメージである。北口を出ると、左手に高い陸橋、ほぼ正面に、曲線を描いた長い壁に「田端文士村記念館」とあった。

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 なんと、入館無料である。1993年開館、1988年設立の北区文化振興財団の運営という。今回の企画展「朔太郎・犀星・龍之介の友情と詩的精神」(10月1日~23年1月22日)は、こじんまりした展示ながら、充実しているように思えた。展示は以下のようで、常設展は「漱石と龍之介」「野口雨情の生誕140周年~童謡に込められた雨情の詩心」であった。漱石や龍之介にしても熱心な読者ではなかったし、教科書のほか少しばかり“義務的”に読んだ記憶しかない。朔太郎や犀星については、作品よりも伝記的関心の方が強かった。

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 企画展は、ほぼ同世代といえる三人、萩原(1886~1942)、室生(1889~1962)、芥川(1892~1927)の親密ながらも緊張感を失わない交流が立ち上がってくる。芥川が「文芸的な、余りに文芸的な」を『改造』に連載中の1927年7月24日に、自殺をしてしまう悲劇。その連載のなかの「十二 詩的精神」には、つぎのようなくだりがある。

僕は谷崎潤一郎氏に会ひ、僕の駁論ばくろんを述べた時、「では君の詩的精神とは何を指すのか?」と云ふ質問を受けた。僕の詩的精神とは最も広い意味の抒情詩である。僕は勿論かう云ふ返事をした。

 芥川は「神経衰弱」と不眠に悩まされていたのは一つ事実だが、「遺書」にある「ぼんやりした不安」どころではない、自らの病苦、家族8人での生活苦、人間関係での不信などに苛まれていたのではないか。展示室にある「田端の家」復元の模型を見て、この田端の地に大きな屋敷で大家族を養っていたことが思われてならなかった。これまでもよく見かけた、自宅の庭で、子供たちの前で木登りをする動画フィルム、出版社の宣伝用だったというが、この会場でも流されていた。
 また、ともに北原白秋に師事していた犀星と朔太郎だったが、1915年、朔太郎は、白秋宛の手紙で「室生は愛によって成長するでせう。私は悪によって成長する。彼は善の詩人であり、私は悪の詩人ある」などと記しているのも知った。

 連れ合いは、朔太郎のファンなので、撮影禁止といわれ、盛んにメモも取っていた。つい先日、赤城山の帰りに前橋文学舘に行ってきたばかりでもある。

 記念館を出て、高い陸橋、東台橋をくぐって、両脇が高い崖になっている、まさに「切通し」の道路を進むが、少し違うらしい。戻って陸橋の急な階段を上り切ると、高台に住宅が広がっている。童橋というところまで進むと、左手の路地から、十人近くの一団が出てきたと思ったら、入れ替わりに入っていく一団もあった。「龍之介の旧居跡」に違いないと、私たちも入っていくと、民家ならば3・4軒建ちそうな空き地に「芥川龍之介記念館予定地」の看板が見える。そしてその先の角のお宅の前には掲示板があった。

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『ココミテ シート」2018年夏号(田端文士村記念館)より。上段の写真は、龍之介没後の1930年7月撮影、右から、長男比呂志(俳優)三男也寸志(音楽家)、次男多加志、母、文。文は育児に苦労したにちがいない。多加志は、応召、1945年4月13日、ビルマで戦死、22歳であった。

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「木の枝の瓦にさはる暑さかな」という龍之介の俳句の書幅が展示されていた。旧居の敷地は200坪近くあったという。

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 今度は、童橋を渡って、童橋公園へ。犀星旧居の庭石を移したという一角がある。さらに一筋違う路地には、平塚らいてう、中野重治が住んでいたというが、何の表示があるわけでもなく、家がびっしりと立ち並び、女の子二人が、スケボーで遊んでいた。
 童橋から駅前を通り越すと、福士幸次郎の旧居があったところで、サトウハチローが転がり家でもあったらしい。福士はハチローの父、佐藤紅緑の弟子で、ハチローの面倒を見ることになったらしい。犀星はこの町で何度も転居を繰り返しているが、次に回ったのが、田端523番地の旧居跡、犀星が引っ越した後の家に菊池寛が転入している。その路地を抜けると広い道路に出て、右へと曲がり、八幡坂に向かう。今日の目的の一つが、大龍寺の正岡子規の墓参だった。緩いが長い坂をくだると右側には上田端八幡神社の生け垣が続く。坂を下り切れば、神社の隣が大龍寺、そこへタクシーを降りた中年の女性と出会い、子規のお墓ですよね、という。三人で、墓地に入るが、案内図があるわけでもない。手分けして探し、ウロウロする。墓参に来た若い家族連れにも尋ねてみたが、「うーん、あることは聞いているけど、どこだか・・・」という。古そうなお墓の一画、角に、あった! 一緒に探していた女性は、「俳句がうまくなりたいから、今日は、子規庵を回ってきて、墓参も」と群馬から上京したそうだ。 

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右側が子規の母八重の墓、子規の墓の文字は、子規が入社した新聞『日本』社主陸羯南の筆になる。 代々の墓と墓誌は子規の墓の左横にある。

 あとは八幡坂をのぼって、ひたすら、駅方面に向かう。田端高台通りを右に折れると江戸坂、いまは高層ビルもあるが、正面はJRの宿舎でもあった巨大な建物がある。短いながら、文士村散歩は終りとした。回れたのは、文士村と言われる地区の三分の一ほどだったろうか。

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八幡坂、駅方面に向かって登る。左手が上田端八幡神社のキンモクセイ          

 朔太郎の旧居跡も回れなかったし、『アララギ』の鹿児島寿蔵、土屋文明、五味保義、高田浪吉らや太田水穂・四賀光子、尾山篤二郎らの歌人も住んでいたという。きっと魅力のある街だったのだろう。1945年4月13日の城北大空襲ですべてが灰塵に帰したのだった。

 

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2021年11月10日 (水)

葉山から城ケ島へ~香月泰男と北原白秋(3)

10月28日、山口蓬春記念館を後にして、三ヶ丘でバスに乗車、葉山、長井をへて三崎口駅まで乗り継いだ。長井を出て、横須賀市民病院を過ぎると、さすがに軍港、横須賀自衛隊基地の関連施設が続き、停留所の三つ分くらいありそうだ。高等工科学校、海自横須賀教育隊、陸自武山自衛隊隊・・・。そして、道の反対側には、野菜畑が続き、小泉進次郎のポスターがやけに目に付く。調べてみると、横須賀市の面積の3.3%が米軍基地関係、3%が自衛隊関係施設で占められているそうだ。下の地図で赤色が米軍、青色が自衛隊施設という。

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横須賀市HPより

 三崎口駅舎は、京急の終点駅かと思うほど簡易なものに見えた。城ケ島大橋を渡って、昼食は、城ケ島商店街?の中ほど「かねあ」でシラス・マグロ丼を堪能、もったいないことに大盛だったご飯を残してしまう。

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 さらに、海の方に進むと、右側には城ケ島灯台への急な階段があり、草も絡まり、ハイヒールはご注意との看板もあった。なるほど足元はよくないが、階段を上がるごとに海が開けてゆく。1870年に点灯、関東大震災で全壊、1926年に再建されたものである。1991年に無人化されている。灯台から、元の道をさらに下って海岸に出ると長津呂の浜、絶好の釣り場らしい。この浜の右手には、かつて城ケ島京急ホテルがあったというが、今は廃業。その後の再開発には、ヒューリックが乗り出しているとか。今日の宿の観潮荘近くの油壷マリンパークも、ことし9月に閉館。コロナの影響もあったのか。

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城ケ島の燈明台にぶん廻す落日避雷針に貫かれけるかも 白秋
(
「城ケ島の落日」『雲母集』)

 いよいよ、城ケ島、県立公園めぐりと三浦市内めぐりなのだが、ここは、奮発して京急の貸切タクシーをお願いした。会社勤めの定年後、運転手を務めているとのこと、地元出身だけに、そのガイドも懇切だった。

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 城ケ島から城ケ島大橋をのぞむ。長さも600m近く、高さも20mを超えると。開通は1960年4月、小田原が地元の河野一郎の一声で建設が決まったとか。このふもとに、北原白秋の「城ケ島の雨」(1913年作)の詩碑が1949年7月に建立されている。近くに白秋記念館があるが、年配の女性一人が管理しているようで、入り口にある資料は、持って帰っていいですよ、とのことだったので、新しそうな『コスモス』を2冊頂戴した。

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白秋記念館から詩碑をのぞむ。三崎港の赤い船は、観光船だそうで、船底から海の魚が見えるようになっているけど、餌付けをしているんですよ、とはは運転手さんの話。

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 三崎港接岸の白い船はプロのマグロ船、出航すると一年は戻らないそうだ。脇の船は、県立海洋科学高校の実習船で、こちらは2~3カ月の遠洋航海で、高校のHPによれば、11月3日に出港、帰港は年末とのことだ。

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展望台から、ピクニック広場をのぞむ。湾に突き出ている白い塔のようなものが、古い安房埼灯台の跡ということだった。

 県立城ケ島公園は、散策路も、芝生も、樹木も手入れが行き届いていて、天気にも恵まれた。ただ、低空飛行のトンビが、人間の手にする食べ物を背後から狙うそうだ、というのはガイドさんの注意であった。途中に、平成の天皇の成婚記念の松があったりして、60年以上も前のことになるから、けっこう管理が大変なんだろうなと思う。黒松は、潮風で皆傾いている。途中、角川源義の句碑があったり、柊二の歌碑があったりする。目指すは、遠くに見えていた、あたらしい安房埼灯台である。昨年、デザインも公募、三浦半島名産の青首大根を逆さにしたような灯台となっている。

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野上飛雲『北原白秋 その三崎時代』(三崎白秋会 1994年)より。

 白秋が三崎にきて最初に住んだのが向ヶ崎の異人館だった。今は向ヶ崎公園になっているそうだが、今回は寄れなかった。その住まいの向かいが「通り矢」で、白秋が「城ケ島の雨」で「舟はゆくゆく通り矢のはなを」と詠んだところで、今は、関東大震災や埋め立てのため「通り矢のはな」はなくなって、バス停として残るのみという。城ケ島大橋は、この地図でいえば、鎌倉時代「椿の御所」と呼ばれた「大椿寺」の右手から、白秋の詩碑の右手を結んでいる。その後、「桃の御所」と呼ばれた「見桃寺」に寄宿することになるが、今回下車することができなかった。そもそも、白秋が三浦三崎に来たのは、最初の歌集『桐の花』(1913年)や第二歌集『雲母集』(1915年)の作品群からも明らかなように、1912年、医師の妻俊子との姦通罪で、夫から告訴され、未決囚として二週間ほど投獄され、後和解するも傷心のまま、1913年、「都落ち」するような形であった。同年5月には、あきらめきれず俊子との同居が始まり、翌年小笠原の父島に転地療養するまでの短期間ながら、多くの短歌を残している。以下、『雲母集』から、気になった短歌を拾ってみる。1914年7月、俊子は実家に帰り、白秋は離別状を書いて離別。1916年5月には詩人の江口章子と結婚、千葉県市川真間に住む。1920年には離別。1921年には佐藤菊子と結婚、翌年長男隆太郎誕生と目まぐるしい。軽いといえば軽いが、寂しさは人一倍なのだろう。ちなみに、高野公彦さんの『北原白秋の百首』(ふらんす堂 2018年)では、『雲母集』から14首が選ばれているが、重なるのは「煌々と」「大きなる足」「はるばると」「見桃寺の」の4首であった。

・煌々と光りて動く山ひとつ押し傾けて来る力はも(「力」)、
・寂しさに浜へ出て見れば波ばかりうねりくねれりあきらめられず(「二町谷」)
・夕されば涙こぼるる城ケ島人間ひとり居らざりにけり(「城ケ島」)
・舟とめてひそかにも出す闇の中深海底の響ききこゆる(「海光」)
・二方になりてわかるるあま小舟澪も二手にわかれけるかも(「澪の雨」)
・薔薇の木に薔薇の花咲くあなかしこなんの不思議もないけれどなも(「薔薇静観」)
・大きなる足が地面を踏みつけゆく力あふるる人間の足が(「地面と野菜」)

・さ緑のキャベツの玉葉いく層光る内より弾けたりけり(「地面と野菜」)
・遠丘の向うに光る秋の海そこにくつきり人鍬をうつ(「銀ながし」)
・油壷から諸磯見ればまんまろな赤い夕日がいま落つるとこ(「油壷晩景」)
・はるばると金柑の木にたどりつき巡礼草鞋をはきかへにけり(「金柑の木 その一 巡礼」)
・ここに来て梁塵秘抄を読むときは金色光のさす心地する(「金柑の木 その四 静坐抄」)
・燃えあがる落日の欅あちこちに天を焦がすこと苦しかりけれ(「田舎道」)
・馬頭観音立てるところに馬居りて下を見て居り冬の光に(「田舎道」)
・見桃寺の鶏長鳴けりはろばろそれにこたふるはいづこの鶏か(「雪後」)
・相模のや三浦三崎はありがたく一年あまりも吾が居しところ(「三崎遺抄」)

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北原白秋を継いで、戦後『コスモス』を創刊した宮柊二の歌碑「先生のうたひたまへる通り矢のはなのさざなみひかる雲母のごとく」が木漏れ日を浴びていた。

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福寺本堂前にて。

 城ケ島大橋をあとにして、県立公園に向かう折、三崎湾越しに「あの白い建物の奥に、大きな屋根が少し見えるでしょう、三浦洸一さんの実家のお寺さんなんです」のガイドの一言に、三浦ファン自認の夫が、ぜひ訪ねてみたい、とお願いしたのが最福寺だった。二基の風車が見えた宮川公園を素通りして、車一台が通れる細い道や坂を上がったり下ったりしてたどり着いた。今の住職さんは、洸一のお兄さんの息子、甥にあたるとのこと。93歳の三浦さんご自身は、東京で元気にされているとのことであった。

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 福寺から三崎湾を見下ろしたところにあるのが、三崎最大の商業施設「うらり」で、おみやげ品がそろうかもしれませんと、車を止めてくれた。やはり、朝から乗ったり歩いたりで、疲れてしまっていたので、その日の宿、油壷京急ホテル観潮荘の野天風呂にほっと一息ついたのだった。

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2021年11月 6日 (土)

葉山から城ケ島へ~香月泰男と北原白秋(2)

 葉山美術館で、ゆっくりできたが、道を挟んでの山口蓬春記念館は、3時半で閉館ということで、間に合いそうにもなく、明日の一番で出向くことにした。それではと、隣の葉山御用邸付属施設跡地のしおさい公園に回ることにした。

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葉山美術館の野外の彫刻などをめぐる散策路を進むと、車一台がようやく通れそうな、こんな小径に出た。このまま下ると海に出るのだろう。散策路の通用門の向かいは、土日限定開門のしおさい公園への小さな出入口となっていた。

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 御用邸の付属施設跡地だけを葉山町が譲り受けたものなのだろうか。公園入口までの石塀も長かったが、庭園も立派なもので、池あり、滝あり、黒松林あり、相模湾をのぞむ借景ありで、建物としては車寄せの部分が残され、中は海洋博物館になっていた。昭和天皇の”研究”の足跡まで展示されていた。今も使用されている葉山御用邸は、大正天皇が亡くなった場所なので、昭和天皇皇位継承の場でもあるということらしい。下の写真の「今上天皇」は昭和天皇である。池の緋鯉は、一幅の日本画のようでもあった。

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 10月27日、その日の宿は私学共済「相洋閣」であった。東京、名古屋、千葉と大学はかわったが、20年にわたる私大勤めではあった。部屋から夕焼けと翌日の富士山である。

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 10月28日、10時の開館を待っての入館だった。三ヶ岡緑地の斜面を利用した庭園と吉田八十八設計の蓬春旧居である。皇居宮殿の杉戸絵の完成に至るまでの取材や下絵、その過程がわかるような展示となっていた。写真は、別館のアトリエである。

 現在の葉山御用邸の内部は知る由もないが、1971年本邸は放火のため全焼、1981年に再建されている。下山川が敷地内を流れ、いま県立葉山公園になっているのかつては御用邸内の馬場であったというが、塀の長さは半端ではない。日本画の重鎮山口蓬春の記念館の世界といい、香月泰男の「シベリア・シリーズ」の世界との落差に思いをはせながら葉山を後にした。

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2021年11月 5日 (金)

葉山から城ケ島へ~香月泰男と北原白秋

 コロナに加えて腰痛と足の不調で、すっかり出不精になっていたのだが、10月27日、夫の言い出しっぺで、神奈川県立葉山美術館と城ケ島めぐりをすることになった。美術館のお目当ては「香月泰男展」であった。JR逗子駅を降りると思いがけず雨、バスを待たず、タクシーに乗車、しばらくすると、長いトンネルに入った。
 私は、二度ほど、美術館に来ているはずなのだが、たしか京急の新逗子駅からバスで、海岸線沿いに「日影茶屋」を通過して「三ヶ丘」へ向かった記憶がある。逗子駅でもらった観光地図には、その新逗子駅がない!逗子・葉山駅?ならある。後でわかったことだが、昨2020年、京急の開業120周年で、駅名変更になったとか。駅名はやたらに変えるものではないし、地名を二つ並べた駅名なんて紛らわしいし、センスもないではないか。

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 葉山美術館では、少し早めにレストランで昼食をとった。魚のコースのメインはクロダイのムニエルだったか。雨はすっかり上がっていた。まだ床が濡れているテラスから、眼下の波打ち際を撮ろうとするとシャッターが動かない。なんと充電が切れていたのだ。大失敗、私のカメラは使い物にならず、これからの画像は、すべて夫の撮影か、スキャンしたものとなる。

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まだ、レストランのテラスは濡れていたが

 美術館前では、イサム・ノグチの「こけし」が出迎えてくれる。これは、2016年、鎌倉館の閉館に伴い移設されたものであった。

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 香月泰男の「シベリア・シリーズ」は、『香月泰男』(別冊『太陽』2011年9月)で、おおよそは知っていたつもりだったが、実物を見るのは初めてだ。今回の展示は、生誕110年記念ということもあって「シベリア・シリーズ」全57点が見られるという。
 香月泰男(1911~74)の全画業をⅠ.1931~49、Ⅱ.1950~58、Ⅲ.1959~68、Ⅳ.1969~74に分けている。いわゆる「シベリア・シリーズ」は、シベリヤの収容所から復員後十年の沈黙破って描き続けた作品群である。 1943年1月入隊、満州国のハイラル市で野戦貨物廠営繕掛に配属①1945年6月吉林省鄭家屯に移動②、ソ連侵攻に伴い奉天へ③、朝鮮に南下中8月15日敗戦を知る。安東まで後退④、ふたたび奉天より⑤アムール川を渡りソ連に入ったが西に向かい、セーヤ収容所⑥、コムナール収容所⑦、チェルノゴスク第一収容所⑧を転々1947年4月帰国が決まり、ナホトカから⑨、引き揚げ船により舞鶴⑩に到着したのが1947年5月21日だった。

 

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 小さくてやや見づらいが、1943年1月入隊。後、ハイラル市に配属後、軍隊生活の様子を、下関の妻や子供たちに、600通余りの軍事郵便を送ったというが、到着したのは360通余りだった。家族を思い、ことのほか大切にしていたのがわかる。

 こうして、香月の入隊から復員までの動きを地図で追ってみると、極寒のシベリアの収容所で、森林伐採や収容所建設にという過酷な労働を強いられていたのは1945年11月から47年4月ごろまでと思うが、敗戦後のソ連兵監視のもとに長距離の移動がまた悲惨なものであったことが、彼の作品でわかってくる。
 シベリア・シリーズの特徴としては、黒一色で覆われたキャンバスから、人間一人一人の顔といっても、目鼻と口元だけを浮かび上がらせ、同時に、必死に何かをつかみ取ろうと掌の骨格だけが突き出されているといったイメージが強い。

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北へ西へ」(1959年)、敗戦後、ソ連兵によって行き先を知らされないまま、「北へ西へ」と列車で運ばれ、日本からは離れてゆくことだけはわかり、帰国の望みは絶たれたという。

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「1945」(1959年)、奉天から北上する列車内から、線路わきに放置されている幾多の屍体の光景を描いたという。1970

「朕」(1970年)、1945年2月11日紀元節の営庭は零下30度あまり、雪が結晶のまま落ちてくる中、兵隊たちは、凍傷をおそれて、足踏みをしながら天皇のことばが終わるのを待つ。朕のために、国家のために多くの人間の命が奪われてきた。中央の二つ四角形は、広げた詔書を意味しているのが、何枚かの下書きからわかる。

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「点呼」(1971年)、左右二枚からなる大作である(各73×117)。ソ連兵による最後の点呼であり、1947年5月17日、ダモイの文字が読め

 今回の展示で、「シベリア・シリーズ」以外では、藤島武治に師事した東京芸大の卒業制作の「二人座像」はじめ、好んで描いている水辺の少年たちの何点かにも着目した。

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「二人座像」(1936年)

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「水浴」(1949年)

 また、動物たちを描いたつぎのような作品にも惹かれるものがあった。

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「雨(牛)」(1947年)モンゴルの大草原、ホロンバイルの雨上がりのわずかな水たまりが見える。「シベリア・シリーズ」の第1作とも位置付けられている。

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絵葉書より。上「山羊」(1955年)、下「散歩」(1952年)

 なお、今回はわずかな展示ではあったが、1966年代後半から晩年にかけて、アメリカ、ヨーロッパなどへの旅行を重ね、いわば、黒から解放されたかのように、鮮やかな色彩の自在な作品を残していて、ほっとしたような思いに浸るのだった。

 

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2020年6月17日 (水)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(8)

短歌の歌謡曲と朗読と

 古関裕而について書き続けていると、キリもなく、伝えたいことは、満載なのだが、もうこの辺で終わりにしたい。なお、今回の作業で、興味深い一件があった。というのは、古関が有名な歌人の短歌に曲をつけて、レコード化していたことだった。

 一つは、敗戦まもない、1947年3月放送のラジオドラマ「音楽五人男」の主題歌として、藤山一郎が歌った「白鳥の歌」である。これは若山牧水の「白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ」に曲をつけたものである。その後、47年6月3日公開の映画『音楽五人男』(東宝、小田基義監督)では、「夢淡き東京」(サトウ・ハチロー作詞/藤山一郎・小夜福子)などの主題歌とともに挿入歌として「白鳥の歌」(藤山一郎・松田トシ)歌われたのは、「幾山河越えさり行かばさびしさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」「いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐うるや」の2首も加えられた3首で、レコードにもなった。当時にあっても愛唱性の高い人気の3首であったのだろう。

 一つは、芸術座公演「悲しき玩具」(1962年10月5日~27日、菊田一夫作・演出)の舞台で流された伊藤久男による石川啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」を含む17首で、同年LP盤で発売されている。短歌を選んだのは菊田で、作曲者の古関ではなかったらしい。古関は、短歌は、短すぎて曲がつけにくいと漏らしていたそうだが、17首の中の何首かの第五句が繰り返されている。実際の舞台ではどのように流されていたかはわからないのだが、ネット上で聴くかぎり、30分近くかかり、一首一首のつながりがなく、似たような間奏で歌い継がれるのだが、気分的にも盛り上がりがないように思えた。ただ古関裕而自身は、この「白鳥の歌」が自信作であったらしい(辻田⑦219頁)

 もう1件は、長崎医科大学で放射線医学を専門とする永井隆は、自らの白血病とも闘いながら、原爆の被災地長崎と原爆症患者たちの治療にあたる様子を記したエッセイ集『長崎の鐘』(日比谷出版社 1949年1月)にまつわる短歌だった。この書をモチーフに、サトウ・ハチローが作詞し、古関作曲の1949年7月に発売した「長崎の鐘」(藤山一郎)に感銘を受けた永井から、返礼として、つぎの2首が届けられたという。

・新しき朝の光りのさしそむる荒野に響け長崎の鐘
・原子野に立ち残りたる悲しみの聖母の像に苔つきにけり

それに曲をつけたものが「新しい朝の」であった。1950年9月22日に公開された映画『長崎の鐘』(松竹、大庭秀雄監督)の主題歌ともなった。ただ、「長崎の鐘」の歌詞も映画の物語も、長崎の原爆投下の経緯と原爆の犠牲者たちの実態に直接対峙することにはならなかった。というのも、前述のようにGHQの検閲下に制作されたものであり、永井の著書出版の経緯にも、大きな制約があった。それと同時に、クリスチャンの永井隆が「浦上への原爆投下による死者は、神の祭壇に供えられる犠牲であり、生き残った被爆者は、浦上を愛するがゆえに苦しみを与えてくださったことに心から感謝しなければならない、それが神の摂理というものである」と繰り返したことで、後の反核運動や多くのカトリック信者や被爆者たちは、その呪縛から逃れられなかったという。GHQによる原爆投下の責任や日本の戦争責任あいまいにし、免責へと連動していったことを思うと、「鎮魂」や「美談」では済まされない問題を内包したのではなかったか。(注)

(注)以下の過去記事も参照いただければと思う
・長崎の原爆投下の責任について~「神の懲罰」と「神の摂理」を考える (2013年5月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/05/post-15f2.html

 なお、今回の古関裕而のシリーズは、とりあえず終える。短歌や詩に音や声を伴ったときに、短歌や詩は、ある種の変貌を遂げるのではないか、音声表現が源流なのかと、考えてきた。かつて、短歌の朗読について、戦時下にあっては、「朗読」が推奨されていたことなどについて、当ブログでも何件か書いている。近くでは、高村光太郎についても、彼の詩が、戦時下で、どのように書かれ、発表され、NHKラジオから「愛国詩」として放送されたかについて言及したことがある。参考までにあげておこう。

 

短歌の森(*)「短歌の「朗読」、音声表現をめぐって」1~4
(初出:短歌の「朗読」、音声表現をめぐって1~11 『ポトナム』2008.3~2009.1)
「短歌の森」は当ブログ画面の左下の「短歌の森」の記事の中からお選びください  

関連文献:「暗愚小傳」は「自省」となりうるのか―中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして 『季論21』 46号 2019年10月                        

 

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芸術座公演の「悲しき玩具」(1962年10月)パンフレット、スタッフ・キャストには懐かしい名前。ハイシーは、我が家の薬局でもよく売れた栄養剤であった

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額縁に入った映画「長崎の鐘」のポスターを見つけて拝借。キャストにも懐かしい名前が並ぶ。左端には、音楽古関裕而の名はあるが、主題歌藤山一郎の文字は見当たらない。なお、脚本には、新藤兼人、橋田スガ子(寿賀子)の名前が読める

 

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