2026年5月27日 (水)

アンドリュース・ワイエス展、行ってきました。

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チラシの作品は「クリステイーナ・オルソン」(1947、マイロン・クニン・コレクション)。幾何学的にも思われる陰、黒いワンピースのクリステイーナの前面が浮き立つように見えた。

  上野の都美術館で開催中の「ワイエス展」に行ってきた。開館時刻に間に合うように家を出たが、上野駅公園口で下車すると、あちこちに修学旅行生が群れをなしていた。シーズンなんだなと。それに美術館手前の広場では、大陶器市の旗が林立するテントの下は大賑わいであった。

  都美術館は、都民でなくとも、シニア料金ということで、2300円のところ1600円。なんでも値上がりの昨今、2千円でおつりがくると用意していると、やはりシニアの女性の方が「もしよかったら、これをどうぞ、ムダになってしまうので」とチケットを差し出された。驚いたが「いいんですか、ありがとうございます」と利用させていただくことにした。その方はご夫婦でロッカーに荷物を預けていらしたのを見かけたので、もう一度お礼の言葉を掛けた。約束した友人の都合でもわるくなったのかな。得をしたというより、ちょっぴり幸せな気分であった。

 作品一覧をみると、前の記事でも触れた「丸沼芸術の森」所蔵の「オルソン・ハウス」一連の作品も多い。そのカタログでしか見ていない「オルソン・ハウス」の作品は、習作も多いが、現物にお目にかかれるのはうれしい。オルソン・ハウスの模型も作られていて、この窓の絵は、ここの窓、このドアからの眺めがはこちらの絵という図解まであった。窓からの光、その光が織りなす翳と風を描き切ったかのような作品には不思議な魅力があった。

 1974年のワイエス展の個々の作品の記憶はすでに薄れているが、当時のカタログを見ていて好きだった作品にも出会うことができた。

 今回の展示で、私には初めての作品も多かった。『冬の野』(1942年 ホイットニー美術館)、「ハリケーンの海」(1944、ボストン美術館)、横長の「粉ひき場」(1962、フィラデルフィア美術館)、猫が可愛い「うたた寝」(1963、ファーンズワース美術館)など、個人蔵のものを近年、寄贈されたという記述が目立つ。

 また、1974年のカタログではモノクロだった作品を鑑賞できた喜びは大きい。たとえば、以下の「洗濯物」「ゼラニウム」であった。撮影可の二階にあった「ゼラニウム」は人気らしく、若い人たちも入れ替わりでスマホに収めていた。

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「ゼラニウム」(1960年、ファーンズワース美術館)。窓を通して見える向こうの窓との間には、クリスティーナと思われる後姿とゼラニウムの鮮明な赤が描かれ、窓をめぐる板塀の質量感にも圧倒される。

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「洗濯物」(1961年 カマ―美術館)。日差しを浴びて海からの風にはためく洗濯物の下では、かごの横で気持ちよさそうに寝そべっている犬がいるではないか。

 なお、今回の展示には「丸沼芸術の森」、福島県立美術館所蔵のほかにも、国内の企業や愛知美術館、メナード美術館の作品もあったのだが、「ユニマットグループ」所蔵のものがかなり多かったのである。「ユニマットグループ」って?知らなかった!調べてみると、1968年、個人商店からスタートして、不動産、リゾート・オフィス、メンテナンス、インテリアから飲食、美容・健康、保育・教育事業など手広く展開する企業と知った。その内、メセナの一環で美術館でも建てるのかしらとも。

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「松ぼっくり男爵」(1976年、福島県立美術館)。松ぼっくりは、さかさになった鉄カブトに集められている。この鉄カブトは、ワイエスの隣人カーナー牧場の主が、第一次大戦に出征した折に使用していたものだという。

 最後の展示室を出たところでは、ワイエスの技法を解説した映像が流されていた。描く対象の色合いや材質感を作り出すための、気が遠くなるほどの積み重ねがなされれているのを知った。

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「薄氷」(1969年、三井住友銀行)を例にテンペラの画法を解説していた。

 なお、今回の展示では、オルソン・ハウスに住む姉弟の姉クリスティーナを描いた作品は少なかったし、晩年、その作品群が明らかになった「ヘルガ」一連の作品はなかった。ワイエス全体像を見るにはやや不足感を否めなかった。

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 以下の当ブログ記事も参照いただければ幸いです。
アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(1)ワイエス(2026年4月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2026/04/post-1885f0.html

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(2)ワイエス(2026年5月 6日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2026/05/post-4532ad.html

 

 

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2026年5月20日 (水)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(4)ベン・シャーン

 ベン・シャーン(1898~1969)についても、すでに何回か当ブログでも書いている。彼は、リトアニア出身で、幼少期にロシア皇帝の独裁下から逃れ、一家で移民としてアメリカにたどり着き、苦労を重ねている。これまでのブログでは、私のベン・シャーンとの出会いにも触れてきた。つぎの二つの記事で、私の思いは言い尽くされているのだが、現在の、トランプ政権下のアメリカからの報道を見るにつけ、亡くなってから半世紀以上も経つというのに、この画家からのメッセージの力強さと新鮮さを思い知るのだった。彼が告発し続けた分断、差別、貧困、原爆、戦争という社会的なテーマは、現代のアメリカにおいて、そして現在の日本でも直面している問題であることがわかる。 

・葉山の「ベン・シャーン展~クロスメディア・アーティスト」へ行ってきました~はじめての神奈川近代美術館葉山館(1)2012年1月26日http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/01/1-1cf0.html

・葉山の「ベン・シャーン展~クロスメディア・アーティスト」へ行ってきました~はじめての神奈川近代美術館葉山館(2)2012年1月26日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/01/post-5478.html

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左が神奈川県立近代美術館葉山館のベン・シャーン展カタログ表紙。右は、葉山館所蔵の「麻生三郎コレクション」の版画集「リルケ「マルテの手記・一篇の詩の最初の言葉』」の絵はがき、ペンの力の強さを描いた普遍的なメッセージが伝わってくる一枚に思う。。

  上記事の葉山館での展示は、ベン・シャーンの画業のみならず、写真家としても、デザイナーとしても、ポスター、レコードジャケット、本の装丁、レタリングなど多岐にわたる。そして、これらの仕事の根底には、つねに社会的な弱者の味方として、社会の不条理にはきびしい批判や抵抗を示すという一貫した志が脈打っていることをあらためて知った。このカタログや数十年前の展覧会で購入した絵はがき、そして、古本で購入した、画家の没後、夫人の編集による“BEN SHAHN”(by Bernarda Bryson Shahn, H.N.Abrams New York 1972 ) などを眺めていると、初めて気づくことも多い。

 ベン・シャーンの絵には、「ベン・シャーン ペーパーズ」として見出された画家自らが収集していた写真や記事やメモをソースにした作品が多い。彼が初期に手掛けた「ザッコ・ヴァンゼティ」シリーズは、冤罪事件がテーマであった。1920年4月、二人の労働者は製靴工場の二人を射殺した強盗事件の容疑者として逮捕され、反政府運動に関与していたというだけで、明確な証拠がないまま死刑判決を受け、21年8月に処刑された。彼らの無実が公表されたのは1977年であったという。ベンは、1931ー32年、このシリーズを制作、33年にニューヨークで開催された個展は大きな反響を呼んでいる

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「四人の検事」(1931-32)は、パンフレット「ザッコとヴァンゼティ事件の話し」1921年掲載の4人の刑事の写真をソースに描かれた。検事たちの表情は、神妙ではあるが、まるで容疑者のように見えてしまう。上記葉山館カタログ22頁より。

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 左「ザッコとヴァンゼッティ」(1931-32)、右「ザッコとヴァンゼッティの受難」(1931-32)。二人をつなぐ手錠と棺から受ける衝撃は大きい。前掲、1972年ニューヨークで出版された画集130,131頁より

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左は2006年9月集英社から出版された詩画集の表紙は「That Friday,YAIZU」の一部。右は「落下物」(1957)ベンは、1954年3月、焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」が、ビキニ環礁付近のアメリカの水爆実験で被ばくした事件に強い関心を寄せ、「第五福竜丸」を「ラッキー・ドラゴン」と名付け、「ラッキー・ドラゴン」シリーズとして、1957年から65年にかけて描き続けている。アメリカの原子核物理学者ラルフ・E・ラップ経由の調査や写真が参照されているという(上記、葉山館展カタログ解説)。

 ベンは、1920年代と1960年の二度日本を訪れている。前者の詳細は不明という。1960年3月から4月にかけて、京都を中心に一カ月以上滞在している。日本への関心と取材は旺盛だったといい、聞きつけた日本の画家たちとの面会もなされている(藤慶之<抄録>「ヒューマニズムの画家ベン・シャーン」上記葉山館展のカタログ)。

 私が、今回、あらためて画集を見ていて気付いたのは、以下の絵が「ワルシャワ」と名付けられていることだった。そしてこの絵のソースは下段にあるデッサンと写真であった。              

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 さらに、この構図は、どこかで見たようなと、思い出すのは、つぎのハンブルグのニコライ教会で出会ったモニュメントだった。すでに当ブログでも触れているが、ナチスに抵抗した牧師のボンヘッファーの「試練」と題する言葉が刻まれている銘板の前で、頭を抱えるモニュメントは、2004年に制作されたらしい。あくまで、推測ではあるが、ベン・シャーンの先の絵が念頭にあったのではないか思うのだった。

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なぜ、いま「ボンヘッファー」か~神を信じなくとも: 内野光子のブログ   2025年11月30日)
オランダとハンブルグへの旅は始まった(15)ハンブルグの交通路線図にようやく慣れて: 内野光子のブログ2019年8月29日)

 ベン・シャーンの「ワルシャワ」と題する絵の構図は、さまざまな絵にも登場するが、その一つが、つぎの絵だった。

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「クラリネットとティン・ホルンのコンポジション」(1951)、1970年の「ベン・シャーン展」で求めた絵はがき。

 また、つぎの本のカバーが、どういう訳か、ファイルの中に紛れ込んでいた。どうして私の手元にあるのだろうか。いま、思い出せないでいる。友人の誰かが、私のベン・シャーン推し?を知ってカバーだけ譲ってくれたのだろうか。著者のプロフィルなのだろうか。ベンは、様々な人物の肖像画も描いている。オッペンハイマー、ハマショールド、そして第五福竜丸で被ばくした久保山さんの絵も。

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 以下は、1991年新宿の伊勢丹美術館でのチケットと気に入った「スーパーマーケット」(1957)と題する絵はがきだった。199120260516

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2026年5月10日 (日)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(3)モンドリアン

 モンドリアン(1872-1944)はアメリカの画家と言えないかもしれないが、最晩年をアメリカで過ごし、精力的に制作したことをもって、私は、勝手にそう呼んでいる。同じアメリカの画家と言っても、ワイエスとモンドリアンとの共通点は、何なのだろう。素人の私には、脈絡なく惹かれるものがあったのである。

 モンドリアンについては、このブログでも何度か触れたことがある。

・アンジェイ・ワイダの遺作『残像』を見て~ワイダと画家からのメッセージ
(2017年7月27日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/07/post-8567.html

・はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(9)デン・ハーグ市立美術館のモンドリアン(2019年8月13日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/08/post-ab1282.html

 というのも、これらの記事で、私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)の「あとがき」につぎのように書いていたからである。繰り返しになるが。

「モンドリアンの抽象に出遭ったとき、あの冷徹さに戸惑いながら惹かれていったのはなぜだろうかと考えています。そこには猥雑なものをいっさい拒否しようとする、ひとりの人間の生き方の美と思想があると思いました。この画家の幾何学的構成にいたる過程は、<樹木>連作が雄弁に語っています。さらに光と影から解放された垂直と水平の世界の展開を見せられたときの感動を忘れることができないでいます。主観的な表現を極度に排し、求めてやまなかったものはなんであったろう。・・・」

 

 2019年、出身のオランダのアムステルダムの王立美術館で出会ったモンドリアン、ハーグ市立美術館で、「モンドリアンコレクション」の<樹木>シリーズを目の当たりにしたときも、抽象への展開のナゾは解けたわけではないが、どちらの絵にも、短歌の精神と技法を見たような気がした。もちろん私は、抽象画への境地にはたどり着けない。映画やニュースで知る限りのニューヨークだが、その猥雑さと活力を色鮮やかな幾何学的構成もって描いた作品には不思議な魅力があったのである。

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モンドリアン展(西武美術館1987年)カタログより。右上段の絵は、叔父のフリッツ・モンドリアンの作品「小川の牛」。

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1987モンドリアン展のチラシより。

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2026年5月 6日 (水)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(2)ワイエス

 1990年、年頭の「ワイエス ヘルガ展」は、今はなつかしい、池袋のセゾン美術館(1975~1999)で見ている。残念ながら、カタログは買わずじまいだった。いま手元に残っているのは、チケットの半券と二枚の絵ハガキである。当時、ワイエスといえば、私は、メイン州のオルソン・ハウスとペンシルヴァニア州のチャッズ・フォードの住まいの周辺とそこに住む人々を丹念に、愛情をこめて描き続けていた、国民的人気も高い画家という印象が強かった。ところが、日本で「ワイエス ヘルガ展」が開かれる前から、1971から85年の15年間、隣家の農場で働く中年の女性ヘルガのヌードや肖像を、双方の家族にも知られず描き続けた未発表の作品群が公になったとの報道を聞くようになった。一つの対象を、一人のモデルを描き続けてきたワイエスなので、どんな作品なのだろうかと、興味津々だった。鉛筆によるデッサンや水彩画、テンペラ画と使い分けて、ヘルガを描き続ける執念は、胸に迫るものがあるが、ワイエスの妻も、ヘルガの夫も知らない間に二百数十点の作品が残されていたとは、驚異でもあり、そんなことってあるだろうかと不思議に思ったものである。少なくとも、ワイエスの妻は、気づいていたはずである、と下世話な推測もしているところである。

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上段は、「農道」(1979年)①、下段は「果樹園にて」(1982)②。

 いま改めて、1987年ニューヨークでに出版された画集“The Helga Pictures ”(Harry N.Abrahams,Inc.)の翻訳を見ている(「ワイエス画集Ⅲ」リブロポート 1987年5月)。この画集には、ヘルガシリーズコレクションのオーナーによる文章とナショナルギャラリー副館長の「アンドリュー・ワイエスの「ヘルガ組曲」」と題する、欧米美術史の中でのワイエスの位置づけと評価を丹念に追っている論文が付されている。画集は、裸の、戸外の、室内の眠っているヘルガなど、様々な季節、時間における30のポーズごとに関連する作品が集められている構成になっている。上記の副館長の論文の冒頭では「このシリーズ全体を通して明らかにされるのは、抑制と複雑さ、画面の質感と深い情感の表現に重要な焦点があてられていることだ」と評価している。

 例えば、上記の絵はがきとなっている「果樹園にて」のテーマのもとに、水彩画は1973年から85年まで10枚、鉛筆によるデッサンが1973年から1982年までの9枚の作品で編集されている。絵はがきの1982年の作品②が完成品というわけではなく、1985年にも季節が違う作品③が制作されている。デッサン④も、異なる構図で、長い年月にわたって描かれていることがわかる。同じモチーフで繰り返し、年月をかけて、さまざまな視角で対象を捉えていることになる。

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「果樹園にて」(1985)③

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「果樹園にて」(1973)④

 また、上記の絵はがき「農道」①と題される作品はこれ一作のみであった。また、ヌードの中には、「ネルと一緒に」(1979)⑤のような作品もあって、微笑ましくもなるのだった。

 今回のワイエス展が楽しみである。

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 「ネルと一緒に」(1979)⑤

 

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2026年4月28日 (火)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(1)ワイエス

 派手なネクタイで、カメラに向かってこぶしを上げたり、手を振ってみたりして登場するトランプ大統領が、ジェスチャーたっぷりで会見する映像を、毎日見せられると、もううんざりという感じの昨今である。そんなとき、ふと、ワイエスの『アメリカの詩情 オルソン・ハウスの物語』(丸沼芸術の森 2010年)をひらくと、そこには、あまりにも静寂な、海辺の一軒家にひっそりと暮らす姉弟の物語が繰り広げられる。アメリカ東部メイン州の海辺の丘の上のオルソン家の体が不自由だが自立心の高い姉と農業に勤しむ弟の暮らしを分け入るように子細に描き続けた画家の物語でもある。折しも4月28日から、上野の都美術館で開館100周年記念の「アンドリュー・ワイエス展」が開かれると知った。なんという偶然!

 アンドリュー・ワイエス(1917~2009)は、ペンシルヴァニア州のチャッズ・フォードに生まれ、著名な挿絵画家だった父親の教育もあって、幼少時から水彩画を描き始め、二十歳のころには、地元で個展を開くまでになっていた。1939年兵役に志願するが、身体虚弱で不合格になり、その翌年から、夏の間の避暑地であったメイン州のグッシングのオルソン家にアトリエを提供されるようになり、二拠点生活が始まり、姉弟が亡くなる1960年末まで続いたのである。

 姉弟を描くといっても、その姿が描かれるのは稀である。さまざまな視角でとらえられたオルソン家の全景と共に壁、屋根、窓であったり、納屋の中の農具や馬具であったり、収穫したトウモロコシを積んだ手押し車、ブルーべリーを運ぶバスケット、水を運ぶバケツなどをあるがままのその場所で克明に描いている。以下はいずれも、前掲「オルソン・ハウス物語」からのコピーである。この画集は、2010年9月から埼玉立近代美術館で開催された「丸沼芸術の森」所蔵の展覧会のカタログである。今回の都美術館の展示作品一覧によれば、「丸沼芸術の森」所蔵の作品もかなり多いようだ。直接、絵に出会えるのを楽しみにしている。

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「アメリカの詩情 オルソン物語」の表紙「オルソンの家」(1969)

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「干し草をかき集めるアルヴァロ」(1947)、右手遠くに家が見える

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「玄関の前に座るアルヴァロ」(1942)、働きづめだったアルヴァロは、1967年12月24日に死去。

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「クリスティーナの世界」習作(1948)何枚もある中の1枚。

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「クリスティナーの世界」習作(1967)、クリスティーナは、弟の後を追うように1968年1月27日死去、最後の肖像画となった。

 ワイエスに私が初め出会ったのは、1974年、東京国立近代美術館での「アンドリュー・ワイエス展」であった。職場の近くでもあったので、土曜の午後にでも出かけたのではなかったか。当時は週休2日など夢の夢であった。
 あらためて、このワイエス展のカタログを取り出してみると、すっかり茶色になった新聞切り抜きが落ちてきた。こんな記事を読んで出かけてみる気になったのかもしれない。

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   上記左の朝日新聞の記事は、文面から74年5月と分かるのだが、日にちは不明、執筆は小川正隆。毎日新聞の方は74年4月19日(夕刊)、執筆は安井収蔵記者となっている。調べてみると、両者ともすでに故人となっているが、社内の美術担当から、美術評論家となり、大学教員や美術館館長になっていたことを知る。なにせ半世紀以上も前のことだったのだ。当時の薄れたメモによれば、衝撃を受けたのは「冬の蜂の巣」(1959)と下記の「卵の計り」(1959)のリアルさだった。さらに、つぎの2点の寡黙さに注目していたようだ。後から思えば、オルソン家の姉クリスティーナと弟アルヴァロの暮らし方や生き方を象徴しているような作品だったのである。姉弟の晩年と没後のオルソン家のたたずまいが伺われる。

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「風下」(1965)

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「アルヴァロとクリステイーナの家」(1968)

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チケットの作品は「遥か彼方に」(1952)だった。

  ワイエスは、アメリカでも国民的画家とも言われ、人気が高いそうだが、日本でも、その後、何回か展覧会が開催されている。渋谷のbunkamuraで1995年「アンドリュー・ワイエス展 アメリカの郷愁」、2008年「アンドリュー・ワイエス展 創造の道程」などが開催されている。この時にも、以下のような記事を書いていたのである。

ワイエス展、Bunkamuraへ(2008年11月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/11/bunkamura-7f3a.html

 私が次に出かけたのは、1990年、池袋のセゾン美術館で開催された「ワイエス展 静逸な生命の肖像 ヘルガ」であった。ワイエスの後半生の意外な展開に驚かされたのであったが。(つづく)

 

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2024年1月 1日 (月)

 新春 2024.1.1.

  きょうも、当ブログをお訪ねくださいまして、ありがとうございます。国の内外の不安は去りませんが、皆さまにはすこやかな一年となりますよう祈っております。
 当ブログは、2006年に開設、お力添えいただきまして、18年目に入ります。今後ともよろしく、お願いいたします。

 『ポトナム』1月号の時評、相変わらずのテーマですが、寄稿しましたので、お読みいただければ幸いです。

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昨秋、俵万智が紫綬褒章を受章したが

  「もういい加減にして」の声も聞こえるが、やはり、私は、書きとどめておきたい。
  俵万智(六〇)が二〇二三年秋の紫綬褒章を受章した。多くのマス・メディアには、彼女のよろこびの言葉が報じられていた。短歌関係の雑誌は、どう扱うだろうか。

  紫綬褒章は、内閣府によれば「科学技術分野における発明・発見や、学術及びスポーツ・芸術文化分野における優れた業績を挙げた方」に与えられるとある。
 一九五五年に新設された紫綬褒章は、これまでも多くの歌人たちが受章している。近年では、二〇一四年栗木京子、一七年小島ゆかり、今年の俵万智と女性が続いたが、一九九四年馬場あき子以来女性は見当たらず、一九九六年岡井隆、一九九九年篠弘、二〇〇二年佐佐木幸綱、〇四年高野公彦、〇九年永田和宏、一一年三枝昂之、一三年小池光と続いてきた。女性が続いて、歌壇の現状がようやく反映されるようになったとよろこんでばかりいられない事情を知るのだった。

 そもそも、紫綬褒章は、いったい誰が決めるのだろうか。
「褒章受章者の選考手続について(平成一五年五月二〇日)(閣議了解)」によれば、根拠法は、なんと「褒章条例(明治一四年太政官布告第六三号)」とあり、「明治」なのである。
  褒章の種類は、紅綬、緑綬、黄綬、紫綬及び藍綬で、受章者の予定者数は、毎回おおむね八〇〇名とし、春は四月二九日に、秋は一一月三日に発令する、とある。
  衆参議長・最高裁判所長官・内閣総理大臣、三権の長をはじめ、各省庁大臣その他の内閣府外局の長などが褒章候補者を内閣総理大臣に推薦し、内閣府賞勲局との協議、審査を経て内示され、閣議で決定される。最初の候補者リスト作成は各自治体、関係団体になるのだろう。
  春の発令日はかつての「天皇誕生日」、昭和天皇の誕生日であった。秋の発令日は「明治節」、明治天皇の誕生日で、戦後は「文化の日」という祝日になった。
  要するに、紫綬褒章は役人たちが選んでいるので、「文書」に幾つかの押印があったとしても不問に近い。歌人を対象にした民間の賞には、選者や選考委員が示されるのが常である。
  新憲法のもとでは、国家による勲章や褒章制度は否定されたはずである。私も結論的には不要と思っている。というより、法の下の平等に反し、人間のランキングを助長する害悪とも思っている。さらに、選考過程をみると、役人サイドで“綿密な審査”がなされていることもわかる。文化勲章、文化功労者、芸術院会員にしても、形式的な選考委員会は立ち上げられるが、役人サイドのリストの承認機関に過ぎない。文化功労者選考委員十人は、毎年九月に任命され、会は一度しか開催されない。メディアはこぞって受章者の栄誉を称えるが、誰がどのように選んだかには、触れようとしない。(『ポトナム』 2024年1月) 

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手前は、我が家のツバキ、後方が主のいない隣家のサザンカ
  

 

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2023年10月31日 (火)

「官報に載せるのを忘れてた」って! 文化功労者選考分科会委員

 「官報」に載せるのを忘れてた?って、そんなことがあるのだろうか。
   10月22日、「文化勲章は誰が決めるのか」を書いたあと、やはり気になって、今年の委員は誰だったのだろうと、毎年発表のある9月1日前後の「官報」をもう一度調べてみたが、見つからない。10月23日、「官報」掲載の日だけでも聞きたいと思って、ネットで見つけた文化審議会委員任命(文化功労者選考分科会委員を除く)の報道資料担当「文化庁長官官房政策課」に電話した。一緒に電子版「官報」を検索するが、わからずじまい。「担当の者が調べて電話します」とのこと。翌日、文部科学省の担当?から回答があったのだが、「たしかに、9月2日に任命されていますが、官報担当の者が、登載を忘れていまして、10月31日の官報に登載します」という。「ええ! そんなことってあるんですか。10月31日?」といえば、「ご迷惑おかけしました。担当の者への引継ぎがうまくいかなかったもので・・・。記者クラブの記者さんには報道資料として配布しているんですが」ともいう。1週間以上も先ではないか。任命からほぼ2カ月後になるなんて。これぞ、役所仕事、責任の所在はどこへやら。

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2023年10月31日「官報」、浅川ひとみ(萩尾瞳)、天谷雅行、鍋島稲子、猪又宏治、木部暢子、塩見美喜子、清水玉青(有吉玉青)、寺井真実(片岡真実)、原久子、沼上幹、三島良直、村田善則とある。

  そして、きょう10月31日の「官報」に、なるほど小さく載っていた。私が電話しなかったら、ずっと忘れていた?っていうことなのか。たった一日しか開かれない「文化功労者選考分科会委員」とはいえ、ずいぶんと軽んじられたものである。それもそのはず、“選考”との名の付くものの、役所のどこかで選ばれた“文化功労者”を承認するだけのこと。250万円の年金がつき、やがて”文化勲章“の候補者にもなる人たちの決め方なのである。メデイアも、文化功労者や文化勲章の受章者は、華々しく報道するが、どんな仕組みで決まるのかは、報道しないことになっているようだ。きょう「官報」に文部科学省人事として発表されたのは10名の委員の氏名のみ。「清水玉青」?、下の名前から、もしかしたら有吉佐和子の娘?報道資料には、肩書も記されているだろうが、私が知るのは、この人くらい。自分でもかなりしつこなと思いながら、委員の肩書をネットで調べ始めると、元大学学長から元野球選手まで、取り揃えていた。いわゆる政府の審議会の常連もいる。しかし、その決め方について、なるほどという記事を見つけた。当時の新聞記事を見過ごしていたらしい。前川喜平元文部科学省事務次官が、日本学術会議の任命問題に関連して、つぎのように語っていたのである。

政権にたてつく人間は排除し気に入った者は重用する。官邸のその姿勢を、私自身、じかに感じたことがある。
文部科学事務次官だった2016年、「文化功労者選考分科会」の名簿を官邸に持っていった。この分科会は文化審議会の下に置かれており、選考する文化功労者のなかから文化勲章受章者が選ばれることもあって、人事について閣議で了解をとる必要があった。 約1週間後、呼びだされて官邸に行くと、杉田和博官房副長官から、10人の委員のうち2人を差し替えるようにと指示された。「政権を批判する発言をメディアでしたことがあった」「こういう人を選んじゃだめだよ。ちゃんと調べてくるように」と言われた。(朝日新聞デジタル「前川喜平元次官が語る官邸人事 不当と違法の分かれ目は」2020年10月28日)

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2023年10月22日 (日)

文化勲章受章者、文化功労者は、いったい誰が決めるのか。

  10月20日、政府は、7人の文化勲章受章者と文化功労者を発表した。21日の新聞は、話題性のある受章者のよろこびの声や文化勲章の川淵三郎、文化功労者の北大路欣也らは、写真入りのインタビュー記事が掲載されていた。学術・文化・芸術の分野で、最高の栄誉に輝く人々と報じられ、11月3日には、授与式があり、また、その“よろこび”の姿が報道されるだろう。

 文化勲章や文化功労者は、どこでどのように決まるのか。そんな疑問から、調べてみるのだが、釈然としない。

 2013年の省庁再編で、文化庁にあった従来の国語審議会、著作権審議会、文化財保護審議会、文化功労者選考審査会を統合して文化審議会を設置された。文化功労者選考審議会は、分科会の一つとなった。その分科会の選考委員名や選考過程も知りたかったのだが、ネット上の検索では、文化庁のホームページに「第23期文化審議会委員名簿」(2023年4月1日付)は掲載されているのだが、どういうわけか、「文化功労者選考分科会分属の委員は除く」との但し書きがついている。

 2019年、下記のブログ記事を書くにあたって、たどり着いた文科省の大臣官房人事課栄典班によれば、ホームページに載せないのは、「文化功労者選考分科会は他の分科会と違って、会合は年一度しか開かないので、載せないことになっています」という。一回きりなので、いつまでもホームページに名前が残るのは好ましくないという主旨のことも話していた。名簿が欲しいのなら、今から読み上げるからメモしてくださいという。ファックスもできないことになっているというので、理不尽ながら、慌てて書きとった12人の中で、知っているのは、田中明彦、都倉俊一くらい。この分科会委員の任命は毎年9月1日前後らしいので、今年は、と「官報」を調べてみるが、私には見つけることができなかった。お気付きの方、ご教示いただければありがたい。ただし、官報無料公開は直近90日までとなっている。

 文化審議会委員はすべて文科大臣の任命である。任命された文化功労者選考分科会委員は、今年だと、多分野にわたる20人の文化功労者を一日で選考できるわけでもないから、大臣官房の担当部署が作成した候補者名簿を承認することくらいしかできないだろう。名簿作成の資料は、いろいろな伝手から入手してのことだろうと推測する。要するに、選考分科会はすでに形骸化していることになる。文化勲章は、上記のような経過で“選考”された過去の文化功労者の中から文科大臣が推薦した文化勲章候補者を分科会委員全員の意見を聞き、内閣府賞勲局で審査を行い、閣議に諮り決定するのである。

 こうした状況は、各省庁の審議会も同様で、官僚の”作文“を了承するセレモニーの一端を担うに過ぎず、「審議会行政」と言われる所以である。そして、官僚が選んだ文化勲章・文化功労者なのに、学術・文化・芸術の分野での最高峰、到達点かのような、華々しさで報道するメディアも、メディア。政府に不都合と思われる人は選ばれない。不都合な言動があった人でも、政府は「なびき」そうな人に目星をつけるのも巧みである。 

 当ブログでは、すでに何度も繰り返し書いてきたり、拙著『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 2013年8月)の中でも、指摘していることなのだが、最近の記事としては、つぎの2件がある。 

・ほんとうの「学問の自由」とは~日本学術会議、日本芸術院、文化勲章は必要なのか(2020年10月4日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/10/post-02d75a.html

・いったい、文化勲章って、だれが決めているのだろう~その見えにくい選考過程は、どこかと同じ?  (2019年11月27日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/11/post-35d417.html

 

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2023年6月14日 (水)

川村記念美術館「芸術家たちの南仏」へ

 梅雨入り直前の晴れ間、6月8日、佐倉市内の川村美術館に出かけた。企画展の「南仏」が気になったといっても、私たちは、かつて、エクス・アン・プロバンスから日帰りのニース、マルセイユを訪ねたというレベルのことである。先日のマティス展に続いて、マティスにも出会うことができるかもしれない。

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 カタログの表紙も、チラシもマティスの切り紙絵「ミモザ」(1947年)だった。入館料、シニアは200円引きの1600円であった。

  今回、はじめて、午後2時からの学芸員による常設展、企画展をふくめてのガイドツアーに参加した。常設展は、印象派のルノアールから20世紀のアメリカ美術に至るまで、バラエティに富んでいるが、ふだんなら、通り越してしまいそうなマーク・ロスコの壁画やフランク・ステラの部屋での解説を聞いて知ることも多かった。ロスコの壁画はニューヨークのレストランからの注文であったというが、彼は、その店の雰囲気が気にいらず、納めなかったものの一部が、川村美術館に収蔵されたというエピソードも興味深い。ステラの作品の自在さと多様性には驚きつつ、美術館入り口近くのモニュメント「リュネヴィル」(1994年)という彫刻?には、職人たちとの苦労が偲ばれるのであった。

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ステラ「リュネヴィル」(1994年)、八幡製鉄所の職人さんたちとの汗をも思う。

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セザンヌ「マルセイユ湾、レスタック近郊のサンタンリ村を望む(1877-78)

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アルベール・アンドレ「マルセイユのプティ・ニース」(1918年)。プティ・ニースは、1917年にできたばかりのレストランであったが、現在では高級ホテルとレストランとして健在である。アンドレは、上記のセザンヌとは親子ほど年も違うが、親しく交流し、多大な影響を受けた。1918年はセザンヌの没年でもあった。

 マティスやシャガールには癒される作品も多いのだが、ピカソの前では、どうしても構えてしまう。しかし、今回は、以下のようなわかりやすいメッセージ性の高いポスターや広告もあって、心和むのだった。

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ピカソ「平和のための世界青年学生祭典(東ベルリン)」(1951年)。こんなスカーフがあったとは。この祭典は、第1回が、1947年プラハで開催され、第3回が東ベルリンであった。以後、中断もあったが、共産圏の都市を巡回して開催され、ソ連崩壊後も続いている。

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ピカソ「リュマニティ(日曜版)挿絵」(1953年12月27日)。ピカソの「ゲルニカ」(1937年)は有名であるが、彼は、フランスがドイツナチスから解放された1944年に、フランス共産党に入党、1973年亡くなるまで党員だった。しかし、スターリンの死去の折、描いたスターリンの肖像画はソ連から拒否されている。1949年以来、鳩は何度か
描かれ、平和のシンボルとして、定着し、世界に広がっていった。

 ピカソの女性遍歴は目まぐるしいが、最近、愛人の一人フランソワーズ・ジローの訃報が、小さな記事となっていた。抽象画家として活躍、6月6日、101歳で、ニューヨークのでなくなっている。1943年、1881年生まれのピカソが、1921年生まれの画学生ジローと出会い、二児をもうけたが、1953年の破局後は、ピカソはかなり未練がましかったらしい。

 なお、これまでまったく知らなかった、ラルフ・デュフィの「花束」の里芋の葉がなぜ青なのか、気になる作品だったし、また、マティスやピカソ、ボナール、シャガールらの作品で飾られた「ヴェルヴ」(1937年12月~1960年)という文芸美術雑誌の表紙にも興味をそそられたのだった。

 川村記念美術館は、DIC(旧大日本インキ)が所蔵する美術品を中心に、1990年に開館、3万坪の庭園は、みごとに整備され、折々の自然を楽しめる。京成佐倉・JR佐倉を巡回する無料のシャトルバスがありがたい。

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美術館の渡り廊下から。

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ツツジ、藤の花の季節は終わってしまったが。

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藤棚から美術館を望む。

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いまは、アジサイが見ごろ、ガクアジサイの下にひそむカタツムリ。

 

 

 

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2023年5月14日 (日)

マチス展へ~思い出いろいろ・・・

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  私には、なんとなく、なつかしくも、親しくもあるマチス、5月11日、都美術館開催中の「マティス展 The Parth to Color」に出かけた。予約制なので、並ぶこともなかったが、やはり、かなりの入場者ではあった。上記のチラシの眠る女性の絵には見覚えがあったので、手元のファイルを繰っていたら、1996年の「身体と表現1920ー1980 ポンピドゥーセンター所蔵作品」(国立近代美術館)のチラシにもあった「夢」(1935年)と題する作品だった。          

1996

 そして、2004 年秋のマチス展(国立西洋美術館)、この年は、やたらと忙しがっていた時期で、11月22日の日記では、「マチス展時間切れ、残念」との記述があって、出かけてはいない。ただ、記念のパスネットが残っていた。栞の2点はどこで入手したものかは分からないが、どちらも有名な切り絵のようである。

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パスネットの絵は「夢」(1940年)、中央はジャズシリーズの「イカロス」(1947年)、 左は「アンフォロとザクロの女」(1953年)。アンフォロとは、柄のついた深い壺のことを言うらしい。

 

 今回のマチス展は、つぎのような時系列の構成になっていて、とくに、私には苦手な彫刻の作品も多く展示されていたのも特徴だろうか。鑑賞の仕方がわかるといいのだが、多くは素通りしてしまった。

1. フォーヴィスムに向かって 1895─1909
2. ラディカルな探求の時代 1914─18
3. 並行する探求―彫刻と絵画 1913─30
4. 人物と室内 1918─29
5. 広がりと実験 1930─37
6. ニースからヴァンスへ 1938─48
7. 切り紙絵と最晩年の作品 1931─54
8. ヴァンス・ロザリオ礼拝堂 1948─51

 私が、気になったのは、第一次世界大戦期に重なる「ラディカルな探求の時代」のつぎのような作品だった。

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左「コリウーのフランス窓」(1914年)右「窓辺のヴァイオリン奏者」(1918年)。コリウールはスペイン国境に近い地中海に面した小さな港町で、マチスやピカソをはじめ多くの芸術家たちが愛した、美しい村というが、この黒い外の光景は、何を意味しているのだろうか。ヴァイオリン奏者のモデルは、息子のピエールかとも解説にあったが、誰とも分からない存在を強調しながら、窓の外には白い雲が立ちのぼっているのは、「コリウールのフランス窓」とは対照的だが、決して晴れてはいないことにも注目した次第。

 晩年の切り絵については、ニースのマチス美術館を訪れたときのことを思い出す。2004年9月末からのフランス旅行の折、アヴィニヨンに4泊して、エクサンプロバンスからの「セザンヌの旅」ツアーに参加したりしたが、大した前準備もなく、ニースへ、そしてマチス美術館にも行ってみたいと思い立ち、日帰りを強行した。ヴァカンスの季節はとうに終わったニースの街と海、バスでマチス美術館近くに下車したつもりだったが、なかなか見つからなかった。まさか、古代ローマの遺跡に隣接していようとは思っても見なかったのである。

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2005年10月1日、たどり着いたマチス美術館

 

 マチスは、金魚の絵を多く描いているようで、2005年秋の「プーシキン美術館展」(都立美術館)に出かけた折の「金魚」(1912年)の絵葉書が残っていたが、今回のマチス展では、「金魚鉢のある室内」(1914年)を見ることができた。1912年の作品はとてつもなく明るいのだが、1914年の作品には、シテ島近くのサン・ミッシェル河岸の住まいの窓から見下ろすサン・ミッシェル橋も描かれているが、全体的にブルーの暗い色調である。また、近くのノートルダム寺院も様々に描いているが、炎上を知ったら、何を思っただろうか。

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左「金魚」(1912年)プーシキン美術館蔵。 右「金魚鉢のある室内」(1914年)ポンピドゥーセンター国立近代美術館蔵

*日本語の表示は「マティス」が適切なのかもしれないが、私は、「マチス」として親しんできたので、そちらで統一した。

 

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