2017年3月 2日 (木)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(8)シンポジウム「時代の危機に立ち上がる沖縄の短歌」に参加

なぜ、参加したのか

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当日資料の表紙

 

これまでの沖縄紀行記事と時系列的には前後するが、25日(日)に那覇市で開催されるシンポジウム「時代の危機に立ち上がる沖縄の短歌」に参加するのが、今回の沖縄行きの目的の一つであった。これまでの沖縄行きに引き続き、戦跡を訪ね、基地反対の現場を訪ねることがもう一つの目的で、計画を立てた夫は、最後まで調整にあわただしかった。シンポの時間帯はもちろん別行動としたが、辺野古・高江行きは、今回断念せざるを得ず、(1)~(7)の記事の通りの成り行きとなった。

 沖縄愛楽園から那覇市のシンポ会場まで車をお願いすることにした。計画では、名護からは高速バスと思っていたところ、愛楽園から乗った車の運転手は、「ご提案なんですが」と、高速バスの二人分の料金に1000円上乗せすれば那覇に直行できますよ、とのこと。上記シンポの会場となっている青年会館までお願いすることになった。高速を乗ったり降りたり、路線バス状況だったりの行きとは違って、いくつかのトンネルをぬけて、渋滞もなく、運転手さんの話を聞きながらのドライブで、予定より早く会場に着き、正解だった。

 

  今回のシンポに出かけることになったのは、本ブログでも紹介した『うた新聞』紙上の吉川宏志さんと私の論争?なるもので、吉川さんが「京都と東京で開かれたシンポに参加もしないで、不確かな伝聞で批評するのは、けしからん」というところから端を発し、私の他の文章の批判にも及んだ件があったからである。この件について、吉川さんの文章自体は、ブログへの再掲はできないが、私の反論は、再掲しているので参考にしてほしい。


吉川氏との<論争>、その後(2016年12月14日) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/12/post-0945.html


 ここで、あらためて、言っておきたいのは「不確かな伝聞云々」は、明らかに間違いで、私は、シンポ開催当事者のレポートと、参加者の氏名明記のブログ記事、同人誌の文章を、出典明示の上で、引用していたのである。それを「不確かな伝聞」とすることが、理解できないでいる。直接体験がなければ批評できない、ということになれば、歴史研究など成立しないことになりはしまいか。資料や史料の読解・分析がカギであろう。そんな経緯があって、京都、東京に続く、沖縄でのシンポであったのである。会場は、たしかに遠いが、沖縄の歌人の何人からか、お誘いも受けていたので、参加した次第。



何が語られたのか

 始まる前に、沖縄側のコーディネーターの屋良健一郎さん、事前に私信や資料のやり取りもあったので、まず挨拶を。本土側の吉川さんにも挨拶、少しびっくりした様子で「おっ、ほッほッほ、どうも」ということだった。(以下敬称略)

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鼎談「沖縄返還から現在まで」、左から名嘉真、永田、三枝の各氏

 

 

 比嘉美智子の開会のあいさつに始まり、鼎談は、三枝昂之、永田和宏と沖縄在住の名嘉真恵美子の3人によるものであった。進行は三枝で、永田の最初の発言は「今日の会は政治集会ではないので、短歌の表現を問題にしたい」というもので、「沖縄に基地が集中していることへの思いや考えはある。しかし、そのまま短歌にすると空々しくなるので、自己相対化が必要」とする。三枝は、遠く離れた沖縄は日本なのか、本土ともいえない戸惑いを感じる、とする。また、名嘉真からは、沖縄の短歌を本土のモノサシで批判する傾向にある、とする。

 このあたりのことを、『琉球新報』は、翌日の記事で、鼎談では「<沖縄>を詠む際の後ろめたさ戸惑いのようなものを含めて話し合われた」(「沖縄の表現模索 県内外の歌人集い討論」『琉球新報』201726日)と報じ、後の223日の記事では、3人の作品を通して「沖縄を詠うときの逡巡。<沖縄は日本か><日本はこれでいいのか>。他者そして自身に問いながら、答えの出ないもどかしさが見える」と報じた(「時代の危機に立ち上がる短歌 沖縄で問う<歌の力>歌人ら向き合い方議論」『琉球新報』)。

 しかし、私が聞いていた限りでは、やや印象が異なっていた。永田は、自作の「どうしても沖縄は私に詠へない詠へない私を詠ふほかなく」(『現代短歌』20172月)などを引いて、時代の危機に際して、短歌は政治の言葉ではないので、安易に意見を言ってはならない歯止めが必要であることを強調していた。三枝も、自作「自決命令はなかったであろうさりながら母の耳には届いたであろう」(『それぞれの桜』2016年)とこの作品と対になっている、資料には出ていない「自決命令はあったであろう母たちは慶良間の谷で聞いたであろう」などを前提に、自決命令の有無については、簡単には結論が出ないとしての両論を踏まえるもどかしさを語っていた。

 鼎談後の沖縄県内外の10人の歌人たちのスピーチで、一番バッターの玉城洋子は、上記の鼎談を受けて「沖縄の短歌はどこへ行く、辺野古の海は、沖縄人のアイデンティティ」の思いを語った。私も、永田と三枝の逡巡と用心深さは、何に由来するのかを考えていた。自らの未知や無知について、謙虚で、慎重になることは大切なことだが、ためらい、戸惑い、自らの思いをストレートに語ることをしないうちに、現実は待ったなしで、進んでしまうのではないか、の疑問がもたげた。この「逡巡」は、現実逃避にも連なる気がした。同じような趣旨の質問が会場からも提出されたような報告があったが、質問の詳細も回答もなかった。

後半の「沖縄の現在・未来の社会詠」には、中堅の大口玲子、光森裕樹、屋良、吉川の4人が登壇した。とくに、気になったのは、屋良が「言挙げしない/できない人々」の声として、米軍基地で働く人や高校生らの短歌への目配りの必要を説いたことだった。声をあげない人々といえば、いまだに真実を語れない、地上戦や集団自決で肉親を失った人々、土地を強制収用で家も失った人々、投降した兵士や強制隔離を余儀なくされたハンセン病の人々が、いまだにその体験を口にできない苦しさや事情を持ち、語り継ごうとすると様々な圧力・妨害と直面しなければならない実態、声なき声をも忘れてはならないはずである。

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 「沖縄の現在・未来の社会詠」左より大口、光森、屋良、吉川の各氏




 
私のわずかな沖縄体験ながら、伊江島、屋我地島、渡嘉敷島の人々の記録や証言に接し、また、中南部の戦跡をめぐるだけでも、その地の声、風の声の衝撃は、身を突き刺すほどであった。

午後1時から5時過ぎまで、鼎談やスピーチ、ディスカッションと盛りだくさんな集会ではあった。せっかくの機会なので、登壇者の発言を材料に会場との質疑や討論の時間を取ってほしかった。登壇者を絞っても、多くの沖縄の人たちの声を聞きたかった。それが心残りであった。

なお、今回のシンポに先立って、その前日に、辺野古へのツアーが企画され、現地の公民館で、条件付き基地建設容認の住民の話を聞いたとのこと、本土からの登壇者の言及もあった。企画者からは、本土の歌人たちの基地建設へのバイアスを解きたい、という趣旨だったとの発言もあった。それこそ「参加しなかった」私の感想ながら、その意図がわかりにくかった。

ただ、私は、今回配られた資料から、沖縄の若い歌人たちの短歌の一端を知ることができた。最近、総合短歌誌も、沖縄の歌人への注目度が高くなったことは、評価したい。ただ、沖縄歌人の一部に、中央歌壇、中央著名歌人たちへの傾斜志向が見られることには、やや違和感を覚えるのだ。 

会の終了後、これまで、直前に手紙のやり取りがあった平山良明さんはじめ何人かにお目にかかれたのがうれしかった。 

関係文献
 
このシンポのレポートはいずれ、短歌雑誌をにぎわすことになるだろう。現在まで、私が読むことができたのは、以下の通り。

・シンポ<時代の危機に立ち上がる短歌>に寄せて 基地への抵抗 言葉で
(『沖縄タイムス』吉川宏志 2017130日)
・沖縄の表現模索 県内外の歌人集い討論(『琉球新報』201726日)

・短歌時評 沖縄をどう詠むか(松村由利子『朝日新聞』2017220日)
スピーチ原稿載録(玉城洋子『くれない』
20172月)
・沖縄で問う<歌の力>歌人の向き合い方論議(『琉球新報』2017年2月23日) 



文献補記:(2017年3月3日~)

・短歌月評・線引きするならば(光森裕樹『東京新聞』夕刊2017年2月19日
・戦争と平和 沖縄から考える 社会詠をめぐる歌人の葛藤
 
(屋良健一郎『東京新聞』夕刊2017年2月21日)
・沖縄シンポジウム開催(屋良健一郎『現代短歌新聞』2017年3月5日)
・<相対化>と<類型化>について(田村元『うた新聞』2017年3月10日)
・シンポ「時代の危機に立ち上がる短歌」(『うた新聞』2017年3月10日)
・あきらめず、めげず、息切れせず―沖縄シンポジウムを終えて(三枝昂之『現代短歌』2017年4月)
・「時代の危機に立ち上がる短歌」報告(小石雅夫『新日本歌人』2017年5月)


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屋我地島の海岸で拾う

 

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2017年2月25日 (土)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(7) 那覇を離れる半日の過ごし方

 いよいよ那覇を離れる。この日の予定は組んでいなかった。あまり慌てることなく、市内を回ることにした。ゆいレールの駅から少し離れているということで、まず、ホテルから直接「識名園」にむかった。琉球王朝の別邸であったという。もちろん、19441010日の空襲で壊滅的な破壊を受けたが、1975年から復元整備が始まり、回遊式庭園で随所に中国風な要素を取り入れているが、池の周囲は、琉球石灰岩で積みまわしている。中心的な「御殿(ウドゥン)」と呼ばれる建物は赤瓦の木造であった。屋内を一回りして縁側で休んでいると、園内の清掃の人の何やら鋭い目つきが気になったので、「こんにちは」と声をかけると、ほっとしたように「中国の人は、平気で土足であがるんですよ」とグループで回っている人たちの足元に目をやった。その庭先には、桜が一本咲きだしていたので、ほかの外国の一団も代わる代わる写真を撮ったり、自撮りをしたりしている人たちがいた。私たちも、近くで一団が去るのを待っていると、先の清掃の人が、二人のところ撮りましょうかと声をかけてくれたのだ。その近くには「育徳泉」という池の水源にもなっている井戸があって、ここでも琉球石灰岩の「相方積み」という石組みが独特の曲線を描いていた。

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池は湧き水で、舟遊びの船着き場

識名園から首里まで車で移動、県庁前から歩いて「福州園」へ向かった。手前の松山公園には、「白梅の乙女たち」像が、その近くの「大典寺」に、沖縄戦で犠牲になった「積徳高女」の生徒らの慰霊碑が、あると聞いていたので、ぜひ、訪ねたかった。立派な碑は、大典寺に入って、すぐ右手にあった。

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 積徳高等女学校は、1918年浄土真宗の大典寺が設立した家政実科女学校としてスタートし、美栄橋に校舎を新築、後、積徳高等女学校と改名、沖縄戦では、学徒看護隊として動員された。なお、この大典寺には、渡嘉敷島のアリラン慰霊のモニュメント建設のきっかけになった、那覇市で孤独死していたぺ・ポンギさんの遺骨が納めらえていたのである、その後、ようやく遺族に返すことができたという

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1944年10月10日の空襲で全焼した松山公園内の県立第二高等女学校、1984年、その跡地に白梅同窓会によってたてられた「白梅の乙女たち」。また、学徒看護隊「白梅隊」、教職員、同窓生の戦没者の慰霊碑「白梅之塔」には、149人が祀られている(1947年に糸満市国吉(山部隊第一野戦病院跡) 

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並びには、県立那覇商業高校があって、甲子園出場で名をはせた記憶はあるが、スポーツの強豪校らしい。賑やかなことであった

松山公園の向かいの「福州園」、夫は一度ならずこの前を通っているのだが、入るのは初めて。ここは、また別世界の趣がある中国風の庭園であった。1991年、那覇市70周年、福州市との姉妹都市提携10周年を記念して作られた。やはり中国からの観光客が多い。滝の前では、中国からの家族に写真撮影を頼まれ、私たちも撮ってもらった。庭園の草木には、丁寧な説明が付されていて、植物園の感もある。この日のランチも少々遅くなったが、福州園の隣のレストランで一息ついた。いよいよ、沖縄の旅も最終盤である。

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 福州園前の松山通りの並木は、「鳳凰樹(ホウオウボク)」とのこと、福州園の受付の人に教えていただいた。昨年6月に来たときは、たしか黄色い花をつけていたように思うのだが。

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この落葉を拾ったのが、識名園だったのか、福州園だったのか定かでないし、何の木の葉だったのだろう

 

  今回の沖縄旅行の二つの目的の一つは、戦跡を少しでも訪ねることであった。もう一つは、2月5日に那覇市内で開かれた「時代の危機に立ち上がる沖縄の短歌」という集会に参加することだった。そちらの報告は次の記事に譲りたい。

 

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2017年2月24日 (金)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(6)

渡嘉敷を半日走り抜けて

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灰谷健次郎(1934~2006)さんの住んでいた家、1991年移住されてきたそうで、別荘のようにも利用されていた由。現在のオーナーは、カフェレストランを開いているが、左手の門には「灰谷健次郎」の表札が残されているまま。私は、娘の教科書に載っていた「ろくべいまってろよ」くらいしかなじみがないのだけれど、『週刊新潮』の神戸での事件の犯人、少年Aの写真掲載に抗議していた、気骨のある作家くらいの記憶しかない。代表作の『太陽の子』は、沖縄出身の両親が神戸で開いている沖縄料理店に出入りする沖縄出身者たちの中で成長してゆく少女の物語という。ぜひ読みたいと思っている。

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渡嘉志久ビーチからビーチを阿波連ビーチへ

阿波連ビーチのあとさき

 遅い昼食をすることになった阿波連ビーチに向かいながら、通り過ぎたのが、灰谷健次郎が別荘のように使用していた家であり、先にも紹介した特攻艇秘匿壕であり、戦跡碑であった。昼食後、初めて、今はだれもいない波打ち際に立った。晴れていれば、その海の色は格別だったのかもしれない。目の前の離島(ハナリ)にも米軍の砲弾がいまでも見つかるそうだ。米軍が繰り返し、繰り返し、兵を上陸させていた浜の一つである。

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店の前の猫は、地域猫とでもいうのだろうか。近くで遊んでいる女の子に聞いてみると、全部で、12ひきとのことであった。背中に大きな傷を持った猫が私について回って離れず困ってしまったのだが

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阿波連ビーチ

出航の3時30分までということで、途中、立ち寄ったのが根元家跡であり新垣筑兵衛家跡であっ。渡嘉敷小中学校前では、卒業制作のさなかの中学生たちに出会った。

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今年度は、幼稚園児15人、小学生29人、中学生18人の学校で、中学校卒業時には、外の石塀に壁画を残すことになっているそうだ。小学生より中学生の方が少ないということは、本島の中学校にでも進学するのだろうか

 

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さようなら、渡嘉敷

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冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(5)「アリラン慰霊のモニュメント」をめぐる

渡嘉敷の半日の訪問で立ち寄ったり、知ったりできることは、わずかにすぎない。慰霊碑や戦跡の地に立って、ひたすら祈ることしかできなかった。なかでも、「アリラン慰霊のモニュメント」の建立の経緯などを読んだり、聞いたりするたびに胸が痛む思いがするのだった。

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案内のAさんによれば、村のホームページの戦跡案内図には載っているけれど、商工会の観光地図には載っていない、とのことだった。渡嘉敷で亡くなった軍夫や慰安婦たちは、人数も名前も定かでなく、ほんの一部が祀られているにすぎない。摩文仁の「平和の礎」にも、朝鮮半島出身の戦没者(20156月現在)は韓国365人、北朝鮮82人のあわせて447人にとどまる。県援護課が公表している沖縄戦戦死者の推計にも朝鮮人戦死者は含まれていない。渡嘉敷における戦没者も、前述のように村のホームページに朝鮮・韓国人として10人の数字が記述されているのみである。沖縄には、一万余の朝鮮半島の人々が徴用、連行されたとしながら、その詳細がわかっていない(摩文仁の「韓国人慰霊塔」建立委員会による碑文、19758月)。前述のように、渡嘉敷にも防衛庁の戦史によれば、19449月の段階で特設水上勤務中隊として210人の軍夫が任務に就いた記録がある。さらに、海上挺進第三戦隊の「陣中日誌」によれば、戦死・戦傷者が日本兵であれば氏名が記録されているが、軍夫の戦死者は人数しか記録されていない。「戦傷死者戦没者遺族等援護法」(1952年)、「改正恩給法」(1953年)、「戦没者遺骨収集推進法」(2016年)においても、日本国籍を持たないため、対象とはならなかった。幾重もの差別に苦しんできた人々への日本政府の姿勢に、新たな怒りがこみ上げる思いだった。

こうした状況の中で、このモニュメントは、渡嘉敷で、犠牲となった韓国・朝鮮の人たち慰霊するために、199710月に建てられた。 渡嘉敷の慰安婦で生き残ったぺ・ポンギさんが、戦後石川収容所を出てから転々とした苦難の道を歩んできた末、199110月那覇市内で死後数日後に発見されたということを知った市民たちの基金によって、モニュメント建設への運動が始まった。呼びかけ人の橘田浜子さん、土地を提供した小嶺隆良さん、映画監督の朴壽南さん、設計の陶芸家伊集院真理子さんたちの協力による成果であった。その碑文には、以下のような文言が記されている。 

「(前略)海上特攻艇の秘密基地とされた慶良間の島々には、千余の「軍夫」が苦役に、21人の女性が「慰安所」につながれました。

1945326日米軍上陸の前夜、住民たちは日本軍によって無念の死を強制されました。一方で「慰安婦」たち4人は非業の死をとげ、日本軍の迫害と虐殺による「軍夫」たちの犠牲は数百人にのぼります。

「将兵に性を売った女」として、半世紀以上も歴史から抹殺されてきた20万人余の女性たち。その存在に光をあてた記録映画「アリランのうたーオキナワからの証言」(1991年監督朴壽南)の制作活動に参加した橘田浜子は、戦後、帰郷の道を失って沖縄に取り残された渡嘉敷の元「慰安婦」ペ・ポンギさんが死後五日目(19911019日)に発見されたことに衝撃を受け、悲惨な犠牲を強いられた女性たちを悼み、心に刻むモニュメントの建立を呼びかけました。(中略)

生命を象徴する玉石は、韓国の彫刻家チョン・ネジン氏より寄贈された作品です。モニュメント制作には、伊集院真理子・本田明など県内外から多くの人が参加して、渡嘉敷に築窯、共同作業によって、完成しました。

 モニュメントの完成に至る年月は、日本の国家責任を問い、自らの尊厳の回復を求めて立上がった、アジアの被害者のたたかいと結び合い、私たちが歴史への責任を自らに課した日々でもありました。このモニュメントが、再び侵略戦争を繰り返さないために真実を語り継ぎ、生命の讃歌をうたう広場となることを祈念しつつ。

 

美しければ 美しきほどに 悲しかる島 ゆきゆきて 限りなき 恨  

                                                   浜子

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アリラン慰霊のモニュメントをつくる会」

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 このモニュメントのテーマである潮の渦のなかの中心に拝所が位置付けられている、という。辺りに植え られたケラマツツジの朱が鮮やかであった。碑文の末尾の短詩の作者橘田浜子さんは、山梨県に住む人である

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  拝所としてのモニュメントの中央に「環生」の文字がある


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慰安所跡。1945年3月23日爆撃により全焼した。7人ペ・ポンギさん他、ハルコ、ミっちゃん、アイコ、カズコ、キクマル、スズランの名を持っていた慰安婦の内、ハルコさん死亡、ミっちゃん、アイコさんが重傷、ペ・ポンギさんと3人は、のち、軍の炊事班に組み込まれた(川田文子「渡嘉敷島の<慰安婦>と集団自決」『週刊金曜日』2015年8月7日)

参考
・渡嘉敷村ホームページ→集団自決について

http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/aisatsu/jiketsu

15年戦争資料@wiki→沖縄戦資料

  https://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1415.html

 

 

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2017年2月22日 (水)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(4)渡嘉敷村の戦没者、集団自決者の数字が錯綜する、その背景

「戦跡碑」と「白玉之塔」

渡嘉敷島において、前記事の「集団自決跡地」の碑とともに、前述のように、当初、この地にあって1960年米軍基地収用のために移転を余儀なくされ、1962419日に建立された戦没者慰霊碑「白玉之塔」と曽野綾子撰文による「戦跡碑」という碑の存在も記憶にとどめておかなければならないだろう。

先にも引用した渡嘉敷村のホームページに収録の「本村関係者戦没者数」の表を再掲する。

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 上記「慶良間諸島の沖縄戦」の記事における、下段の<集団自決>の注記について:『沖縄タイムス』『琉球新報』や多くの文献で、「集団自決(強制集団死)」という表現が使用されている。「集団自決」には、「自ら進んで死を選んだ」という死を美化した趣旨で使用されることも多いからだと思う。私は、カッコをつけずに使用するが、とくに強調したいときにカッコを付けて使用している。そこには、これまで知り得たところから、軍の命令や強制力が働いていたという趣旨を含めて使用している

上記の表の防衛隊とは兵力の不足のため住民から招集して兵士になった者をいい、住民としての戦没者は防衛隊42人、一般住民380を合わせた422人ということになる。この数字はホームページ上の「白玉之塔」の記述とも一致し、以下の渡嘉敷村遺族会の資料がもとになっている。この資料によれば、一般住民380人の戦没者の出身地別の内訳は左側の表、また、集団自決者329人という数字は、たしかに様々な文献の記述に見られるが、右の表では330人としている。これらの数字の齟齬は、気になるところで、渡嘉敷村の役場にも問い合わせてもみたが、数字については役場としてどちらが正確とも、いまとなっては確認できないし、並列的に提示している。おそらくは、数字の違いの多くは、聞きとり調査が元になっているからだろう、とのことであった。

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上記の文書は、渡嘉敷村遺族会のもの。「村では毎年3月28日を慰霊の日(住民玉砕の日)と定め、慰霊祭を執り行っています」とあり、「玉砕」の語が使用されていることに着目したい。なお、慰霊碑右手前の歌碑には「忘れじと思う心は白玉の塔に託して永久につたえん 中井盛才」とある。作者は元渡嘉敷区長とのことである。

しかし、これらの数字の中には、赤松戦隊の兵士の戦死者の数字が表れない。それに言及しているのが、1979年建立の「戦跡碑」であった。その碑文には、一家が集団自決をする凄惨な場面が記述されたあとに「そこにあるのは愛である」という文言が唐突であり、いささか驚いたのであるが、集団自決の背景には、「家族愛」と「殉国美談」に仕上げたい意図が働いていたかのようだ。

「(前略)3 27 日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所 に集結したが、 28 日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、 車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。この日の前後に 394 人の島民の命が失われた。 その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。(中略)  315 名の将兵のうち 18 名は栄養失調のために死亡し、 52 名は、 米軍の攻撃により戦死した。 昭和 20 8 23 日、軍は命令により降伏した」

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曽野綾子による撰文であり、1979年2月の日付が見える。当初、曽野は、村からの依頼で撰文をしたためたと言っていたが、のち1988年、「家永教科書裁判」の証人尋問において、赤松戦隊生存者の依頼であることを証言している。曽野綾子は、1973年『ある神話の背景』において、住民の証言を以て軍の命令はなかったと主張していた。なお、「戦跡碑」裏面には「海上挺第三戦隊」となどの記述があるが、「挺進」の間違い

 この「戦跡碑」にある集団自決者394名という数字が他の数字と大幅に異なっている。また、赤松戦隊の将兵315名のうちの死者の数の根拠が不明である。防衛庁の戦史「沖縄方面作戦」によれば、当時の渡嘉敷の兵力は、海上挺進第三戦隊104人、整備中隊55人、特設水上勤務中隊14名と軍夫210人となっている(林『沖縄戦 強制された「集団自決」』39頁)。また、1994年9月には、戦隊の後方支援として海上挺進基地大隊として座間味、阿嘉、渡嘉敷の各島に1000人が投入されたが、1945年2月には沖縄本島に帰っている(。同上120頁)。碑文では、「将兵」とあるので、軍夫は含んでいないのだろう。

 そもそも海上挺進戦隊とは、どんな任務があったのだろうか。陸軍において1944年9月編成され、一戦隊、将兵104人、特攻舟艇㋹(マルレ)100隻を配備した。今回訪ねた秘匿壕跡の説明板にあるように、ベニヤ板製の巾1.8m、長さ5.6mの小さな舟艇で、当初は、爆雷を投下する方法が取られたが、特攻艇となった。ここでは、「人員540人余」の記述がある。これにはたぶん朝鮮人の軍夫が含まれていたと思われる。

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特攻艇㋹(マルレ)秘匿壕の一つ、固い黒色の千枚岩は多く軍夫によって掘られた

 

   今回、渡嘉敷島で訪ねたところを整理してみたが、適当な地図もなかったので、ひとまず手書きの地図を作ってみた。帰りのフェリーに乗って気付いたのだが、なんと「白玉之塔」と伊江島民収容所跡の「記念碑」を訪ねてないことが分かった。案内の方と話に夢中になって、手元のメモを見ることも忘れていたのかもしれない。とくに伊江島の住民が1945年4月に渡嘉敷に1700人、座間味に300人が立ち退きを強制されて移送されてきたのである。その収容所の跡は、ぜひ確かめておきたかった。昨年伊江島を訪ねたとき、まさに伊江島の住民が島を離れている間に、米軍の収用は着々進められていたことを知ったからであった。

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2017年2月19日 (日)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(3)

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ランナーが去った後の渡嘉敷島で

今回、夫がどうしても訪ねたいと、日程の調整に苦労していたのが渡嘉敷島行きだった。24日が渡嘉敷島マラソンで、5日までは、車の予約ができなかったが、ようやく、26日に確保でき、夫はほっとした様子だった。次に心配なのは、海が荒れて欠航にならないかで、波が3m以上になると高速船は欠航になり、フェリーの方が波に強いという。所要時間は、フェリーの方が高速船の2倍、70分かかるのだ。欠航か否かは、当日の朝8時に決定するという。気のもめることだったが、高速船は2便とも欠航で、那覇泊港から1030分発のフェリー「とかしき」に乗った。約30キロの海路である。船内のアナウンスにもあったが、内海を出るところで大きく波をかぶるかもしれないが、すぐにおさまる、とのことだった。船の先端でカメラを構えていると半端ではない揺れ方、波しぶきをまともにかぶってしまったのだが、アナウンスの通り、以降、揺れはほとんど感じなかった。

港では、案内のAさんが出迎えてくれた。待合室には、まだ、マラソン大会の幟が片付けられずに残っていた。新聞報道によれば、800余人がエントリー、ハーフマラソン他711人が完走したそうだ。島の人口は近年700人前後を推移しているから、この日ばかりは2倍に膨れ上がっていたことになる。

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 那覇市、泊港。高速船は欠航、フェリー「とかしき」は10時30分出航

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 まもなく、渡嘉敷島へ、70分の船旅

「集団自決跡地」の碑

最初に訪ねたのは、北山(ニシヤマ)にある広大な「国立沖縄市青少年交流の家」だった。起伏のある広大な敷地は、1970年代まで、米軍基地だった。1960年、米軍がミサイル配備の基地建設のため、辺りの山は削られ、谷を埋め、地形は一変した。今も残る野球場などは谷底を埋め立て建設されたという。しかし、69年に基地は閉鎖され、本土復帰の数年後に返還、この国有地には、現施設の前身たる「国立青年の家」の一つとして建設された。

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 国立青少年交流の家、野球場を望む

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  右手の島が座間味、左手が阿嘉島、座間味島には、3月26日に米軍は上陸、ここでも集団自決はあった

この施設の隣接地に「集団自決跡地」の碑があった。まず、中央には「集団自決跡地」と刻まれた自然石が置かれ、その後方には細い壕があるといい、この辺りがが、夜を徹して集まって来た住民たちの集団自決の地となった。

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この奥には細い壕が掘られているが、集団自決時の惨状は、筆舌に尽くしがたく、米軍の写真が残されているというが、村の人たちもめったに足を踏み入れないという

 向かって右側の石碑には「平成五年三月二十八日 渡嘉敷村」とあり、石碑建立の経緯が記されている。1951328日、「白玉の塔」として、この地に集団自決者の追悼碑が建立されたが、1960年、周辺地域が米軍基地になったため移転を余儀なくされた、とある。

「(前略)米軍の上陸により追いつめられた住民は友軍を頼ってこの地に集結したが敵の砲爆は熾烈を極め遂に包囲され行く場を失い、刻々と迫る危機を感じた住民は 『生きて捕虜となり辱めを受けるより死して国に殉ずることが国民としての本分である』として昭和20年3月28日祖国の勝利を念じ笑って死のうと悲壮な決意をした。兼ねてから防衛隊員が所持していた手榴弾2個づつが唯一の頼りで 親戚縁故が車座になり1ケの手榴弾に2、30名が集まった瞬間不気味な炸裂音は谷間にこだまし清流の流れは寸時にして血の流れと化し 老若男女315名の尊い命が失われ悲惨な死を遂げた。(後略)」

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の白い説明板では「平成十七年十一年三十日 渡嘉敷村教育委員会」とあり、194542日の「ロサンゼルスタイムズ」(朝刊)の記事により、集団自決の現場が具体的かつ克明に記述されていた。後半部分には、米軍の捕虜となった島民が、捕虜になると女性は強姦・拷問を受け、男は殺されると信じていたが、医療行為や食料も避難所も与えられることを知って、娘を殺してきたことが悔やまれる、との声も記されている。

渡嘉敷島での集団自決について、渡嘉敷村のホームページでは、つぎのように解説している。戦没者の内訳表の下には*以下の注記も付されている。

「(前略)日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後から奇襲攻撃をかけるねらいで、慶良間の島々に海上特攻艇200隻をしのばせていました。ところが、予想に反して米軍の攻略部隊は、1945323日、数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、特攻艇壕をシラミつぶしに破壊した後、ついに326日には座間味の島々へ、327日には渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸作戦の補給基地として確保しました。

日本軍の特攻部隊と、住民は山の中に逃げこみました。パニック状態におち  いった人々は避難の場所を失い、北端の北山に追込まれ、328日、かねて指示されていたとおり、集団を組んで自決しました。手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で首を絞めたり、山火事の中に飛込んだり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていったのです。」

 集団自決: 狭小なる沖縄周辺の離島において、米軍が上陸直前又は上陸直後に警備隊長は日頃の計画に基づいて島民を一箇所に集合を命じ「住民は男、女老若を問わず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以て対抗できる処までは対抗し癒々と言う時にはいさぎよく死に花を咲かせ」と自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである。

(「慶良間諸島の沖縄戦」 2011220日)

 渡嘉敷島の「集団自決」が語られるとき、問題となるのが、日本軍による組織的な誘導・関与や強制・命令があったか否かなのであるが、渡嘉敷村ホームページや碑文のマーカー筆者が付した太字部分に見るかぎり、「パニックにおちいった人々は・・・かねて指示されていたとおりに」住民の「悲壮な決意」のもとに自決した、とする文言や「警備隊長」の自決命令や「兼ねてから防衛隊員が所持していた手榴弾2個づつ」という表現や主語が不明な記述もある。

案内のAさんは、二つの説明板の内容をよく読み比べてください、とあまり多くは語らなかったが、車の中では、若いときに聞いたという不発弾が爆発しなかったり、飢餓の中を生き延びたり、米軍の捕虜になって生き残った人々の証言が、固有名詞や地名を以てつぎつぎと飛び出てくるのだった。それらは、私がこれまで接した本や論文などで読んだ内容と重なるものもあったが、初めて聞く話も多かった。米軍が、まず326日に座間味島に上陸、翌27日渡嘉敷島に上陸し、28日の集団自決までの、まさに時間を追うようなドキュメントとして、聴いていた。さらにその後、815日を経ても赤松嘉次大尉のもと立てこもっていた海上挺進第三戦隊は、815日の終戦詔勅を傍受しながら、投降したのは822日であった。投降を勧めにきた捕虜となった島民たちを、やはり投降を勧めに来た渡嘉敷島へ強制収容されていた伊江島の島民たちを処刑、自決に追い込んだことも明らかになっている。

当時の肉親や村人の「集団自決」を目の当たりにしていた人々の証言による悲惨かつ残酷な状況、米軍撮影の容赦ない現場写真などには、目を覆いたくなるのだが、どうしてこうしたことが起こったのかを、しっかりと記憶にとどめ、伝えていかねばならないと思う。渡嘉敷村のHPでは、一般住民の戦没者数は380人とされ、0歳から10歳までが101人にのぼり、乳幼児の犠牲者が多い。このうち329人が集団自決で亡くなっている。さらに防衛隊42人、本土出身の将兵81人、防衛隊42人であり、朝鮮人の軍夫、慰安婦は公簿に無いので名前も人数も不明なのである。なお、渡嘉敷村出身で島外で亡くなった軍人軍属は91人とされる。民間人が圧倒的に多いのも、この島の特徴でもある。

「集団自決」について軍の命令があったのか否かについては、大江健三郎の『沖縄ノート』(岩波書店 1970年)をめぐっての裁判(渡嘉敷島の赤松戦隊長の弟、座間味島の梅沢戦隊長を原告、大江・岩波を被告とする二人の戦隊長の名誉棄損が争われて、原告敗訴)や2007年の教科書検定問題(高校日本史教科書の沖縄における「集団自決」に日本軍の強制があったとする文言削除)という二つの出来事で、再度クローズアップされることになった。

赤松戦隊長の命令により、米軍の上陸が迫った327日の夜から村の巡査が住民に陣地近くのニシヤマ頂上付近に集結するように伝えた。防衛隊員があらかじめ、個別に2個の手榴弾を「いざとなったら、一つは敵に投げつけ、一つは自決用に」との趣旨で配っていた。また、19411月東條英機陸軍大臣によって布達された「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という教育や「捕虜となれば、女は辱めを受け、男は無残な殺され方をする」といった恐怖心をあおる宣伝が浸透している状況下にあった事実までは、多くの証言で確認されている。

さらに、村の人々、民間人が集団での自決に至ったのかについて、その背景には、軍の命令があったか否か、戦隊長から直接、命令を聞いた者がいたか否かになると明確ではない。「ただ確実に言えることは、『軍命』が下されたと伝えられたとき、その軍命に従って自決するのが当然であると信じ込まされていたことであ」り、「日本軍ならびに日本国家全体として、民間人であっても軍とともに玉砕するのが当然であるという国家意思が軍官民の上から覆いかぶさっていたとき、戦隊長や将校らによる、住民の自決を示唆するようないかなる言動も巨大な国家意思による命令と受け止められる状況にあった。個々の将兵による自決の指示、示唆もそうした命令と受け止められる状況にあった」(林博史『沖縄戦 強制された「集団自決」』吉川弘文館 2009年、199201頁)だろうと思う。また、同時に、離島という状況下で、軍は、村人の協力なしには陣地建設はできなかったわけで、軍事機密を知り得た島民を米軍の捕虜にするわけにはいかなかった、というのが日本軍の論理であり、その上、前掲書(204216頁)の分析に見るように、地域社会におけるリーダーと軍との関係、家制度のなかの男の役割を見据えたうえでの、軍による誘導や強制が機能したという見方には説得力があると思った。

案内のAさんから聞いた、雨の中を村民が集結し、村の有力者も集っていたが、陣地から駆け付けた防衛隊の一人が村長に耳打ちをした直後に、村長の「天皇陛下万歳」を合図に一斉に手榴弾を爆発させた、という証言が意味することや、前述のように、乳幼児の集団自決による犠牲者が多いのは、一家の長たる父親が、まず、幼い者から手をかけただろう結果ではなかったか、に思いが及ぶのだった。

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2017年2月15日 (水)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(2)今帰仁城は桜まつりのさなか

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 平郎門 、1962年、琉球政府により修復された

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カンヒザクラの並木、2月12日までが桜まつりで、夜はライトアップされる由

やや前後するが、愛楽園再訪の前に、今帰仁城跡を訪ねた。今回の旅で、夫がどうしても訪ねたいと、計画に入れた。ガイドのYさんは、券売所前で迎えてくださる。城址の模型の前での説明が懇切、丁寧で、予定の時間で回れるのかしらと少し心配になるのであった。沖縄本島で南山・中山・北山の三大勢力が争ったグスク(城)時代、今帰仁城は、北山最大の城であり、中山、那覇の首里城に次ぐ規模であったが、15世紀初頭、中山の首里に尚氏によって滅ぼされた。以降は、首里から派遣された「監守」が置かれたが、1609年薩摩軍の琉球侵攻により、城は炎上したという。寺社の少ない沖縄では、無人の時代が長い城跡は拝所の役割を果たしてきたという。

朝が早かったためか、観光客はそれほどでもない。本土ではあまり見かけない濃い桃色の寒緋桜は、少し開花が遅れたそうだ。それでも七・八分咲きくらいだろうか。雄大な城壁を背景として、あるいは起伏のある石段に沿っての桜、最近は、お花見というものをしなくなっているだけに、見事な桜に出会えたのは忘れがたい思い出となった。

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城壁は野面積みという石組みで、危険なので城壁の上を歩くことは禁じられている

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本丸跡、発掘調査により、築城の変遷が分かってきたという

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この日は薄曇りで、海の青さは今一つではあったが



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ガイドのYさん、20年前に、沖縄のことが心配になって京都から移住されてきた由、私たちも『琉球新報』を購読していると伝えると、握手を求めてくるのだった

 

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2016年5月10日 (火)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(3) はじめての「日本現代詩歌文学館」 ~「塚本邦雄展」開催中

   翌4月27日訪れた、北上市にある「日本現代詩歌文学館」(1990年~)は、数十年来、一度は訪ねてみたいと思っていた。私にとっては今回の旅の目的の一つでもあった。盛岡からの道順はいたって簡単、東北本線50分ちょっとで北上駅で下車、車で5分のところだ。新幹線も停るが、その必要もない。前夜の夕食時、農協関係の方に、翌日の文学館行きの話をしたところ、北上は地元だけど「知らない、知らない!」といいながら、スマホで調べて「エエッー、母校だよ、私の母校の跡地ですよ。知らなかった!」と声を上げる。地元での知名度がこれほどとは、少し驚いたりもした。ラグビーで有名な黒沢尻工業が移転したのは、1980年代らしかった。辺りは、芝生の広場で、その一画には、たしかに「塚本邦雄展」の看板が見えるが、文学館前の庭園の池では、何組かの親子連れが遊んでいた。

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   入館後、連れ合いは、閲覧室で、東日本震災関係の詩歌集、とくに詩集や体験集などのコーナーに張り付いていた。いま執筆中の原発関係のものに関連? 私は、ともかく企画展「塚本邦雄展」に入場(300円)したが、ここも、入場者は、2・3人のグループの姿を見かけただけで、閑散としたものだった。受付で、どちらからかと問われて答えれば、「遠くからご苦労様です」とねぎらわれた。一通り回ったところで、「動画のコーナーをぜひ見て行ってください。塚本さんの肉声も聞けますよ」とおっしゃって、スクリーンの前に座らされたのには参った。「歌人朗読集成」の声と何かの受賞記念会の挨拶の映像が流れていた。早々にそこは退散、もう一度会場を回る。塚本は、私の短歌の世界とは別世界ながら、その歌稿の几帳面な筆跡には感心させられた。ワープロやパソコンを利用した形跡は展示にも年譜にも見当たらなかったが、晩年、ゼミの学生とのやり取りは「ファクシミリ」が活用されたという(森井マスミ「「塚本邦雄展」カタログ2016年3月81頁)。展示に見える、その華麗な人脈にも、やはりさもありなんと思いつつめぐった。寺山修司が、歌集の題名を塚本に選んでもらいたい旨の依頼をして、催促したりしている手紙もあって、どこか「甘えて」いるような雰囲気があって、興味深かった。私の塚本への関心は、天皇制との「距離感」にあった。

・われの戦後の伴侶の一つ陰険に内部にしづくする蝙蝠傘も(「悪」『短歌』1956年1月)
・日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも(「貝殻追放」『短歌研究』1956年6月)
・冬の河口 乏しき水が泡だちて落つる日本の外へ必死に(同上)

  五十代で他界した、晩年の私の母が購読していた短歌雑誌を、ときどき取り出して読むが、塚本にこんな作品が散見できる。時代は下って、1990年紫綬褒章を、1997年勲四等旭日小綬章を受章したときに、歌壇でも、若干批判的な論評もあったが(拙著「勲章が欲しい歌人たち」『天皇の短歌は何を語るのか』御茶の水書房 2013年8月 72~75頁)、現在は、誰が受章してもでお祝いの記事しか目にしなくなった。

 

  あれはいつのことだったか、書肆季節社の政田岑生(~1994)氏から、「塚本が、『短歌と天皇制』(風媒社 1988年10月)を読みたいと申しているので、余部があれば分けていただけないか」と代金のことまで書かれた、丁寧な手紙をもらったことがある。出版直後ではなく、しばらく経ってからのことだったと思う。出版元で品切れになった頃だろうか、私は、手元の拙著を差し上げたところ、礼状と『玲瓏』の最新のバックナンバー3冊分が送られてきた。政田氏の訃報を聞いたのは、それから1・2年してからのことだったか。読みたいと言っていたご本人からの音沙汰はもちろんなかったが、政田氏の手紙を保管しておけばよかったと今にして思う。

  再び閲覧室に戻って、私が所属している『ポトナム』、すでに終刊の『風景』の所蔵状況を調べてみた。他にも、いま私の手元にある雑誌類で、ここに寄贈して役に立つものはないだろうか、そんな思いもあった。自宅からも検索できるので、本気で考えようと思った。ただ、一巡しての感想を言えば、ここで刊行している『詩歌の森』という広報誌にしても、案内のリーフレットにしても、どこかよそよそしいのはなぜかなと思う。地元の人にどれほどアピールしているのか、あるいは、全国の詩歌愛好者にどれほど認知されているのか、もう少しリサーチした方がいいのでは、とも思ったものである。短歌に限っていえば、企画や姿勢が中央の短歌総合誌に傾斜するよりは、まず保存図書館としての使命を全うした上で、つぎの一歩を考えるという役割分担をしたらどうだろうか。

 同じ詩歌の森公園内の山口青邨旧居が移築されているので、立ち寄ってみた。昭和の一軒家のたたずまいの色濃いものだった。

  この後、その日の宿泊地、石巻に向かう。15時49分発一の関行き、小牛田乗継ぎ、途中、高校生や地元の人たちの乗降が多い。ドアの開閉は、自分でボタンを押さねばならないらしい。停車時間のエアコン管理のためなのだろう。6時11分石巻着。東京・盛岡間より時間がかかったことになる。

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2016年5月 8日 (日)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(2)

岩手県立美術館へ~モランディと松本竣介  

  4月27日、ホテルの窓の左手には、ゆったりした北上川が朝日に輝いていた。昨夕の北上川とは、また風情が違う。朝食前に歩いてみると、すぐそこには旭橋、川沿いの遊歩道があるらしいが、どういうわけかどこも立ち入り禁止、よく見れば、「木伏緑地工事中」の看板。「木伏」は「きっぷし」と読むと、きのう、 地元の案内の方に教えてもらったばかりである。「材木町」といい、盛岡は山林と北上川の恩恵にあずかる林業の町であったことがわかる。「木伏」は、山から降ろしてきた木材を、しばらくの間、水につけて置く貯木場であった。東京でいう「木場」だったのかもしれない。 立派な「開運橋」は通勤の人波であふれていた。のんびりカメラなどもった観光客は見当たらない。橋上からの岩手山は、意外と近くに見え、壮観でもあった。もう一つ先の橋が「不来方橋」らしいが、花盛りの対岸の遊歩道を旭橋に戻った。

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岩手山は、もっと近くに見えたはず

  お天気には恵まれたが、今日は少し欲張ったスケジュールである。まず、岩手県立美術館の「ジョルジョ・モランディ展」にむかう。少し前まで東京ステーションギャラリーで開催中だった。これまで知らなかった画家の名だった。現代イタリア画家(1890~1964)で、ひたすらアトリエにこもっては、首の長いビンや円筒、直方体、逆さ漏斗などとっかえひっかえ、並べ直しては描き続けていたという、地味と言えば地味な作家だと知った。その描くところ、地元でご一緒している9条の会の代表を務める画家の高塚一成さんの画風にも似ていて、東京で見ていた高塚さんに勧められていた「モランディ展」だった。美術館は、盛岡駅を挟んで、反対側の雫石川を渡るとすぐの中央公園の一画にあった。弧を描き、2階建ての白いシンプルな外観、近づくと、コンクリート打ちっぱなしの外壁だった。2001年オープンとのこと、常設展の郷土の作家たち萬鐵五郎、松本竣介、舟越保武も期待されるのだった。 モランディは後にも先にも、入場者は私たち二人のみ、会場のスタッフは各室ごとに一人だから10人以上がいらっしゃったはず。東京の美術展では考えられない鑑賞環境ではある。明けても暮れても、“still life”を描き続けていながら、各室の展示は、時代を少しずつ重ねながら、晩年に向かう。第ⅹ室「風景の量感」では、一転してすべてが風景画となり、一気に解放された感がした。その風景とて「フォンダッツァ通りの中庭」(1958年)など、アトリエの窓からの光景だというが、窓もない方形の壁の平面だけで構成されている。絵の真ん中に描かれた階段や小さなドアには人間が通った形跡が見えない無機質さである。それでも、私にとって、閉塞感から少しでも突き抜けられた、というのが、全体の印象ではあった。

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展示会チラシ裏、こんな絵ばかりが100点近く・・・

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私が気に入った一点

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ようやく出会った風景画

  そして、常設展は、カメラも自由ですよということだった。萬鐵五郎(1885~1927)に墨絵のような屏風絵があるのをはじめて知り、さまざまな手法を試みていたことがわかった。どちらかと言えばタッチの荒々しいフォービズムかキュービスムの影響を受けたイメージが強かっただけに意外だった。松本竣介(1912~1948)は、これまでも、「新人画会展」(練馬美術館)、「戦争と美術」(神奈川県立美術館葉山館)などで見かけた「Y市の橋」(1942)、また、「有楽町駅付近」(1936)「議事堂のある風景」(1942)など、都市の建築物をしきりに描いていた時期、油の乗り切っていた時期ではなかったか。1948年の早世が惜しまれてならない。「盛岡の冬」(1931)は十代の作品なのに、やさしさのあふれるいい作品だったなあ、と。そして、彼と盛岡中学校同期の舟越保武(1912~2002)の作品も多く収蔵され、キリスト教・キリスト教受難を題材とするに作品が目立った。 また、この常設展では、深沢省三・紅子も盛岡出身と知った。二人の絵は、数年前か、国際こども図書館での「童画の世界」展で、『コドモノクニ』『子供の友』誌上で活躍していた頃の作品を、また紅子は野の花を好んで描いていたことなども思い出す。盛岡には深沢紅子の野花美術館もあるそうだ。原敬記念館もあるというのに。 時間が足りないなあ。 今回啄木は、素通りである。


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萬鉄五郎、自画像二点

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盛岡の冬(1931年)、竣介十代の作品

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Y市の橋

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議事堂のある風景

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舟越保武常設展示室

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ながい廊下の窓からも見える岩手山

  つぎに向かったのが、美術館の隣にある、盛岡市先人記念館も立派な和風の建物、予備知識なく入館、受付近くに陣取っていたボランティアの方に、ここでの予定時間を問われた。30分ほどいう時間に合わせての説明となった。新渡戸稲造、米内光政、金田一京助の各室をまさに大急ぎであり、2階には130人ほど顕彰されているんですよ、と残念そうだった。米内光政が昭和天皇からの信頼がいかに厚かったか、「賜った硯を見てください、墨を磨った跡が見える、直前まで使用されていた、大事なものだったのでしょう」とボランティアの方は力説した。それに「米内さんは、昭和天皇と一緒の平和論者で、アメリカとの戦争はしたくなかったんですよ」という説明、しかし、こんな風な昭和史だけが、後世に伝えられてしまっていいのかの疑問も去らない。なお、庭園には、盛岡駅構内にあった、金田一京助の筆になる啄木の歌碑がここに移築されていた。写真を撮ろうとしたところ、これも「資料」なので、学芸員の許可と立ち合いが必要である、とのことで、閲覧申請後、ようやく近づくことができた次第であった。
 中央公園のしだれ桜満開の一画では、結婚式場を飛び出してきたカップルと家族たちだろうか、記念撮影の真っ只中、お幸せに。 

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「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」が萬葉仮名交じりで
彫られていた。碑面は凹凸があって読みにくい

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盛岡市先人記念館

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連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(1)

 連休中にもかかわらず、当ブログにお訪ねくださった方も多く、恐縮しています。時節柄、多くは、自治会会費や社協・日赤関係記事へのアクセスですが、熊本地震への義捐金にかかわってのアクセスも混じっていたと思います。続く余震の中、被災者の方々には、ただただお見舞いの言葉しか申し上げられず、むなしさが募っています。  一か月以上も、長い間、ブログへの投稿が途切れてしまいました。ともかく、目の前の仕事に追われ、その途中、かねてからの予定通り、連休前に、東北旅行に出ました。4月29日に帰宅した折には、わが家の垣根は、テッセンの花盛りになっていました。  

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北海道新幹線「函館北斗行き・はやぶさ・こまち」に乗って  

   4月26日午後、連れ合いが、盛岡で、岩手県生協関係団体のTPP学習会で報告をするというので、便乗してついて行くことにしていた。はらずも、開業間もない「はやぶさ」10時24分発に乗ることになり、指定も7割くらいは埋まっていたか。盛岡には12時半過ぎには到着。ホテルに荷物を預け、学習会会場へ。「TPP合意の内容、くらしへの影響」と題された話、端々には聞いてはいるものの、まともに客席で聴いたのは久しぶりである。国会審議最中に明らかになった西川公也『TPPの真実』の内容、結局出版取りやめになったものの、ゲラ刷りが出回って、交渉過程は秘密と言いながら、結構踏み込んで書かれているという。熊本地震対応もあって、結局批准は先送りになった。問題は山積みで、この日は、TPPは、定着しかけてきた「地産地消」を侵害し、高額医療・薬価高止まりを助長し、国民の命が危なくなるという話は身につまされた。ご苦労様でした。  

高松の池、平和の像は桜吹雪くなか   

    生協、農協関係の二方のご案内で、桜の名所でもあるという「高松の池」まで。「先週末が最後の見ごろ」ということだったが、遊歩道は、ジョガーが行き交い、散った桜が薄紅のじゅうたんを敷いたようでもあった。ここには、二つの平和の像があるという。最初に案内してもらったのは、岩手県生協連と婦人団体、青年団体、原爆被害団体協議会4つの市民団体の提唱・賛同により、1995年に建立された、郷土の彫刻家、舟越保武とその弟子による家族の群像「望み」だった。もう一つは、池のちょうど対岸に位置する、自身もシベリア抑留体験者であった佐藤忠良による「ひまわり」、とてもかわいらしい少女像である。少し風が冷たくなり、池の端の桜並木から、目を空に転じると、雪を頂いた岩手山が望めるのだった。

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高松の池、平和記念像「望み」舟越保武他制作

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高松の池から岩手山を望む

    そして次にと案内いただいたのは、材木町の「光原社」だった。材木町の「いはーとぶアベニュー」と名付けられた商店街は、なかなか雰囲気のある通りで、その真ん中あたり、生前の宮沢賢治が出版した唯一の童話集「注文の多い料理店」、その印刷・出版をしたのが友人の経営になる「光原社」だったらしい。通りから一歩、店の中庭に踏み入れると、大正の香がする、独特の世界が展開する。喫茶室も資料室もあり、中庭を突き抜けると、北上川に直面する。通りの向かいには、民芸店があり、陶器、鉄器、笊、織物からアクセサリーまで有り、時間が許すなら、ゆっくりしたいところであった。  夜は、生協連の方々との会食となり、さまざまはお話を伺うことになった。ありがとうございました。

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光原社中庭

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光原社、中庭から望む北上川
かつては松尾鉱山から流れる汚水で川は赤かったそうだ

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