2021年11月10日 (水)

葉山から城ケ島へ~香月泰男と北原白秋(3)

10月28日、山口蓬春記念館を後にして、三ヶ丘でバスに乗車、葉山、長井をへて三崎口駅まで乗り継いだ。長井を出て、横須賀市民病院を過ぎると、さすがに軍港、横須賀自衛隊基地の関連施設が続き、停留所の三つ分くらいありそうだ。高等工科学校、海自横須賀教育隊、陸自武山自衛隊隊・・・。そして、道の反対側には、野菜畑が続き、小泉進次郎のポスターがやけに目に付く。調べてみると、横須賀市の面積の3.3%が米軍基地関係、3%が自衛隊関係施設で占められているそうだ。下の地図で赤色が米軍、青色が自衛隊施設という。

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横須賀市HPより

 三崎口駅舎は、京急の終点駅かと思うほど簡易なものに見えた。城ケ島大橋を渡って、昼食は、城ケ島商店街?の中ほど「かねあ」でシラス・マグロ丼を堪能、もったいないことに大盛だったご飯を残してしまう。

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 さらに、海の方に進むと、右側には城ケ島灯台への急な階段があり、草も絡まり、ハイヒールはご注意との看板もあった。なるほど足元はよくないが、階段を上がるごとに海が開けてゆく。1870年に点灯、関東大震災で全壊、1926年に再建されたものである。1991年に無人化されている。灯台から、元の道をさらに下って海岸に出ると長津呂の浜、絶好の釣り場らしい。この浜の右手には、かつて城ケ島京急ホテルがあったというが、今は廃業。その後の再開発には、ヒューリックが乗り出しているとか。今日の宿の観潮荘近くの油壷マリンパークも、ことし9月に閉館。コロナの影響もあったのか。

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城ケ島の燈明台にぶん廻す落日避雷針に貫かれけるかも 白秋
(
「城ケ島の落日」『雲母集』)

 いよいよ、城ケ島、県立公園めぐりと三浦市内めぐりなのだが、ここは、奮発して京急の貸切タクシーをお願いした。会社勤めの定年後、運転手を務めているとのこと、地元出身だけに、そのガイドも懇切だった。

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 城ケ島から城ケ島大橋をのぞむ。長さも600m近く、高さも20mを超えると。開通は1960年4月、小田原が地元の河野一郎の一声で建設が決まったとか。このふもとに、北原白秋の「城ケ島の雨」(1913年作)の詩碑が1949年7月に建立されている。近くに白秋記念館があるが、年配の女性一人が管理しているようで、入り口にある資料は、持って帰っていいですよ、とのことだったので、新しそうな『コスモス』を2冊頂戴した。

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白秋記念館から詩碑をのぞむ。三崎港の赤い船は、観光船だそうで、船底から海の魚が見えるようになっているけど、餌付けをしているんですよ、とはは運転手さんの話。

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 三崎港接岸の白い船はプロのマグロ船、出航すると一年は戻らないそうだ。脇の船は、県立海洋科学高校の実習船で、こちらは2~3カ月の遠洋航海で、高校のHPによれば、11月3日に出港、帰港は年末とのことだ。

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展望台から、ピクニック広場をのぞむ。湾に突き出ている白い塔のようなものが、古い安房埼灯台の跡ということだった。

 県立城ケ島公園は、散策路も、芝生も、樹木も手入れが行き届いていて、天気にも恵まれた。ただ、低空飛行のトンビが、人間の手にする食べ物を背後から狙うそうだ、というのはガイドさんの注意であった。途中に、平成の天皇の成婚記念の松があったりして、60年以上も前のことになるから、けっこう管理が大変なんだろうなと思う。黒松は、潮風で皆傾いている。途中、角川源義の句碑があったり、柊二の歌碑があったりする。目指すは、遠くに見えていた、あたらしい安房埼灯台である。昨年、デザインも公募、三浦半島名産の青首大根を逆さにしたような灯台となっている。

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野上飛雲『北原白秋 その三崎時代』(三崎白秋会 1994年)より。

 白秋が三崎にきて最初に住んだのが向ヶ崎の異人館だった。今は向ヶ崎公園になっているそうだが、今回は寄れなかった。その住まいの向かいが「通り矢」で、白秋が「城ケ島の雨」で「舟はゆくゆく通り矢のはなを」と詠んだところで、今は、関東大震災や埋め立てのため「通り矢のはな」はなくなって、バス停として残るのみという。城ケ島大橋は、この地図でいえば、鎌倉時代「椿の御所」と呼ばれた「大椿寺」の右手から、白秋の詩碑の右手を結んでいる。その後、「桃の御所」と呼ばれた「見桃寺」に寄宿することになるが、今回下車することができなかった。そもそも、白秋が三浦三崎に来たのは、最初の歌集『桐の花』(1913年)や第二歌集『雲母集』(1915年)の作品群からも明らかなように、1912年、医師の妻俊子との姦通罪で、夫から告訴され、未決囚として二週間ほど投獄され、後和解するも傷心のまま、1913年、「都落ち」するような形であった。同年5月には、あきらめきれず俊子との同居が始まり、翌年小笠原の父島に転地療養するまでの短期間ながら、多くの短歌を残している。以下、『雲母集』から、気になった短歌を拾ってみる。1914年7月、俊子は実家に帰り、白秋は離別状を書いて離別。1916年5月には詩人の江口章子と結婚、千葉県市川真間に住む。1920年には離別。1921年には佐藤菊子と結婚、翌年長男隆太郎誕生と目まぐるしい。軽いといえば軽いが、寂しさは人一倍なのだろう。ちなみに、高野公彦さんの『北原白秋の百首』(ふらんす堂 2018年)では、『雲母集』から14首が選ばれているが、重なるのは「煌々と」「大きなる足」「はるばると」「見桃寺の」の4首であった。

・煌々と光りて動く山ひとつ押し傾けて来る力はも(「力」)、
・寂しさに浜へ出て見れば波ばかりうねりくねれりあきらめられず(「二町谷」)
・夕されば涙こぼるる城ケ島人間ひとり居らざりにけり(「城ケ島」)
・舟とめてひそかにも出す闇の中深海底の響ききこゆる(「海光」)
・二方になりてわかるるあま小舟澪も二手にわかれけるかも(「澪の雨」)
・薔薇の木に薔薇の花咲くあなかしこなんの不思議もないけれどなも(「薔薇静観」)
・大きなる足が地面を踏みつけゆく力あふるる人間の足が(「地面と野菜」)

・さ緑のキャベツの玉葉いく層光る内より弾けたりけり(「地面と野菜」)
・遠丘の向うに光る秋の海そこにくつきり人鍬をうつ(「銀ながし」)
・油壷から諸磯見ればまんまろな赤い夕日がいま落つるとこ(「油壷晩景」)
・はるばると金柑の木にたどりつき巡礼草鞋をはきかへにけり(「金柑の木 その一 巡礼」)
・ここに来て梁塵秘抄を読むときは金色光のさす心地する(「金柑の木 その四 静坐抄」)
・燃えあがる落日の欅あちこちに天を焦がすこと苦しかりけれ(「田舎道」)
・馬頭観音立てるところに馬居りて下を見て居り冬の光に(「田舎道」)
・見桃寺の鶏長鳴けりはろばろそれにこたふるはいづこの鶏か(「雪後」)
・相模のや三浦三崎はありがたく一年あまりも吾が居しところ(「三崎遺抄」)

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北原白秋を継いで、戦後『コスモス』を創刊した宮柊二の歌碑「先生のうたひたまへる通り矢のはなのさざなみひかる雲母のごとく」が木漏れ日を浴びていた。

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福寺本堂前にて。

 城ケ島大橋をあとにして、県立公園に向かう折、三崎湾越しに「あの白い建物の奥に、大きな屋根が少し見えるでしょう、三浦洸一さんの実家のお寺さんなんです」のガイドの一言に、三浦ファン自認の夫が、ぜひ訪ねてみたい、とお願いしたのが最福寺だった。二基の風車が見えた宮川公園を素通りして、車一台が通れる細い道や坂を上がったり下ったりしてたどり着いた。今の住職さんは、洸一のお兄さんの息子、甥にあたるとのこと。93歳の三浦さんご自身は、東京で元気にされているとのことであった。

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 福寺から三崎湾を見下ろしたところにあるのが、三崎最大の商業施設「うらり」で、おみやげ品がそろうかもしれませんと、車を止めてくれた。やはり、朝から乗ったり歩いたりで、疲れてしまっていたので、その日の宿、油壷京急ホテル観潮荘の野天風呂にほっと一息ついたのだった。

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2021年4月29日 (木)

第4歌集『野にかかる橋』が出来上がりました ー元号の五つをもて語られる歴史の闇は問われぬままにー

 新型ウイルス、その変異ウイルスが蔓延するさなかですが、断捨離の途上、振り返ることも多く、拙いながら、歌集として残しておきたいと、まとめました。編集にあたって、多くの歌を落としましたが、きっぱり捨てることができず、歌数ばかり多くなってしまいました。自費出版の歌集の発送は、出版元に依頼するのが習いのようですが、読んでいただきたい方に、一筆添えて、ゆっくりとお送りしようと思っています。ながらみ書房さん(03-3234-2926)、ありがとうございました。

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表紙の写真は、ハンブルグのニコライ教会構内のモニュメント「試練」(2019年6月撮影)。ユダヤ人犠牲者追悼のため、2004年に建てられ、その礎石には、ルター派の神学者ディートリヒ・ボンヘッファーの言葉<真実は世界中の誰も変えることはできない。真実を求め、それを発見し、それを受け止めることはできる・・・>が刻まれている。彼自身も反ナチス運動のため、1945年4月9日に死刑に処さている。ナチス崩壊後の直前であった。裏表紙は、ベルリン郊外のグリューネバルト駅の「17番線ホーム」、追悼式の数日後に訪ねた(2014年10月撮影)。このホームから、ユダヤ人を乗せた列車は、毎日のように各地の強制収容所に送られていった。ホームのヘリには、年月日と人数と行き先の収容所名が示された銘板が埋め込まれ、続いている。いくつかの写真から選び、装幀してくださった伊崎忍さん、ありがとうございました

 

 

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2020年2月16日 (日)

豊島園がなくなる? ウォーターシュートの思い出

 2月3日、遊園地豊島園が段階的に閉園されることが、一斉に報じられた。経営主体の西武ホールデイングスからの正式の発表ではないらしいが、跡地が東京都の練馬城址公園とテーマパークになる話が進んでいることは確からしい。 豊島園といえば、私は池袋育ちなので、いろいろな思い出がある。敗戦後のことなのだが、母方の親類が千葉県だったので、我が家は、いとこたちが受験や用事で上京した折の東京の宿泊所代わりになっていたように思う。そんなときの手土産は、菓子箱にぎっしりと詰まって新聞紙に1個1個包まれた卵だったり、時代が下れれば麻生屋のスズメ焼きや柏屋の最中だったりした。母は、布団を干したり、カバーをかけたりと忙しく準備していたものだ。そして、半日でも時間に余裕があるときは、豊島園にでも行ってみようか、ということにもなるのだった。 

   豊島園は、小学校低学年の遠足の定番であり、写生大会などで連れて行ってもらったことがある。家族や親類と一緒のときは、ウォーター・シュートのある池で、あの船頭さんが高く飛び上がるのとお客さんの絶叫?する光景を何度も何度も飽かずに眺めていたらしい。乗ってもいいよと言われ、初めて乗ったときは、あの滑り落ちるときのあっけなさと水しぶきを浴びたことの方が印象に残っている。

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 流れるプールが話題になったり、新しい遊具が報じられたり、はた、新聞の全面を使った広告などに驚いたりしたが、半世紀以上訪ねたことがない。ただ、なつかしいあまり、残してほしいなどとは言わないつもりだが、都立の城址公園として、都民の憩いの場であり、いざという災害時にも役に立つ、水と緑の広いスペースにしてもらいたいと思った。計画にあるテーマパークなどに、個人的には全く関心がないながら、映画やキャラクターをテーマにしての集客を目論んでいるらしいが、長続きするものなのだろうか。

 豊島園は、1926年に開園し、ほぼ同時に、池袋の東口から出ていた、武蔵野鉄道の練馬~豊島園線も開通している。太平洋戦争中の1944年4月に閉園、再開されるのが1946年3月だったという。

*としまえんの歴史
http://www.toshimaen.co.jp/guide/history.html

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敗戦後、再開まもない豊島園、音楽堂。池袋第二小学校1年時の秋の遠足か。私は、疎開先の小学校から夏休みに池袋第二小学校に転校している。アルバムの黒い台紙には、「一年 豊島園 昭21」という次兄の文字での書き込みがある。担任は、若いO先生で、前列左に座っている。後列のには付き添いの「父兄」がみえるが、もんぺ姿の女性もいる。このころの池袋西口のやみ市では、揃わないものがないというほど隆盛を極めていた。


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誰が撮影したものか不明だが、我が家の三人兄妹が後ろのボートに、手前のボートには、いとこ姉妹が乗っていて、池畔で待つ母に近づいたところ。アルバムには「昭和25年」(1950)とのメモが記されているのみ。

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中学一年歓迎遠足が、豊島園だった。

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2020年2月10日 (月)

東北へ~短い旅ながら(4)仙台文学館

 翌日の午前中、仙台文学館へでかけることにしていた。仙台駅西口に広がるデッキは、どこまで続くのか、幾通りにも分かれ、複雑だ。うっかり地上に降りてしまうと、横断ができないで、また、デッキに戻ったりする。バスターミナルの宮城交通②番乗り場から、北根2丁目(文学館前)下車、進行方向に向かって右側、入口への坂を上る。この文学館は、昨年で20周年を迎えた由、初代館長は井上ひさしだったが、現在の館長は、歌人の小池光である。

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台原森林公園の一角にある仙台文学館

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文庫版ほどのリーフレットと入場券

 

  20周年記念特別展「井上ひさしの劇列車Ⅱ」からまわる。井上ひさしの特別展は何度か開催されているらしい。今回は、井上の「評伝劇」と称される宮沢賢治、樋口一葉、太宰治、林芙美子、小林多喜二、魯迅、河竹黙阿弥、吉野作造、チェーホフをテーマにした劇の直筆原稿やメモ、書簡、参考資料などの展示とともに、一作ごとの意図や主人公・登場人物への井上の思いや評価を綴るエッセイからもたどる解説がなされていた。井上が取り上げる対象は、いずれも魅力的な人物には違いない。私自身も、一葉、芙美子、作造など深入りしそうになった人たちである。演劇自体も見ず、脚本自体も読まず、軽々には言えないのだが、今回の展示を見た限り、井上は、劇の主人公、登場人物には、親しみと敬意のまなざしをもって、惚れ込んでしまっている側面がみられた。たとえば多喜二を描いた「虐殺組曲」の特高刑事が多喜二を追っていくうちに感化されていく過程とか、林芙美子の戦前・戦後の 評価などには、「実は懸命に生きた、みんないい人」という楽観的な部分が気になった。

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「虐殺組曲」の解説、右がと二人の特高刑事への思い、左が社会運動にかかわった井上の父と多喜二を重ね合わせていたなど

 

 つぎに、「手を触れないでください」という和紙による壁のトンネルを通って、常設展に進んだ。その冒頭は、館長小池光の短歌が天井からの白い布いっぱいに並べられた展示だった。ここにも井上ひさしと仙台ゆかりの文学者、土井晩翠、島崎藤村、魯迅などのコーナーがある一方、佐伯一麦、恩田陸や伊坂幸太郎などの<平成>の作家たちの大きな写真パネルが目を引く。名前は聞くが、すでに知らない小説の世界である。仙台との縁を教えられる。

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館長小池光へのオマージュが強烈で、短歌講座なども定期的に開催されているらしい。こうした傾向は山梨県立文学館長の三枝昂之の場合も同様で、館長が前面に出る催事というのはいかがなものなのだろう。

 

 つぎの「震災と表現」のコーナーは、数年前、北上市の現代詩歌文学館での東日本大震災のコーナーと比べてのことなのだが、やや物足りなさを覚えたのも確かであるが、多くの震災関係の作品を残している佐藤通雅のパネルに出会って、歌われている背後の現実に思わず祈るような気持ちにさせられるのだった。

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 最後になったが、今回の文学館訪問の目的でもあった、朗読ライブラリーの「阿部静枝」のビデオを見ることになった。連れ合いはカフェで休んでいるという。阿部静枝(1899~1974)つながりの知人Sさんからも聞いていた、たった4分ほどの朗読ビデオだったが、その操作や、ストップをしての写真撮影に手間取った。このビデオは「コム・メディア」制作(朗読黒田弘子)となっていたが、12首ほどの選歌は、静枝の特徴を捉えたもので、なるほどと思わせるところがあった。

 

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生みし子は他人に任せて顔ぬぐひ世に生きゆくは復讐の如し(『霜の道』1950年)

 

 他にもつぎのような作品が朗読されていた。カッコ内は筆者が補記した。

 

・叶はざるねがひひそむ嫉みゆゑ強ひてもひとにさからはんとす(「秋草」1926年)

・憎まんとしてなみだ落つきみをおきなにを頼りてわが生くべしや(同上)

・ひたすらに堪へんと空をみつめゐる眼底いつか熱く濡れつつ(同上)

・ひとは遂にひとりとおもふおちつきをもちてしたしき山河のながめ〈同上)

・濃むらさきを好きなのは誰なりしかなあやめのおもひでひっつにあらず(『霜の道』1950年)

・暗き海の浪迫り寄れ死は想はず生き抜きて世を見かへさんとす(同上)

・せめてわが男の子を生みしありがたさわれに似る女を想ふは苦し(同上)

・忘却の救ひがあれば生きてゐよくちびるに歌のわく日も来なむ(『冬季』1956年)

・東西を分てる橋の切断面ぎざぎざの尖まで取り歩みゆく(『地中』1968年)

・断絶の壁ある下を掘りつらぬき人の想ひを通はせし地中(同上)

・生きものなどよせつけぬ様の星を知り地上のもろもろ更に美し(同上)

 

 仙台駅に戻って、荷物を預けたホテルへの道すがら、利久という店でランチを済ませた。みやげというものをほとんど買っていない。駅構内では、かまぼこ、牛タンの店がしのぎを削っているようだったが・・・。やはり疲れていたのだろう、帰りの新幹線「はやぶさ」では、しばらく眠り込んでしまったようだ。

 

 

 

 

 

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2020年2月 8日 (土)

東北へ~今回も短い旅ながら(3)宮城県美術館へ

 東北大学の中善並木と反対方向に進むと地下鉄東西線の川内駅へ。中層の白い住宅棟が並ぶ団地(公務員住宅らしい)に突き当たり、右の坂を下りると、宮城県美術館である。 まず、常設展の方から見ることにした。大方、写真撮影はOKのようだった。最初の部屋は、「洲之内徹コレクション」だけの作品であった。洲之内(1913~87)といえば「気まぐれ美術館」なのだが、すでに記憶も遠く、画商の傍ら美術評論家としての発言が思い出される。その経歴をこれまでよく知らなかった。東京美術学校在学中の1932年にプロレタリア運動にかかわったとして検挙、退学している。故郷の松山でも、運動を続け再び検挙され、転向後の1938年、軍の宣撫工作のため中国にわたる。戦後はこの時代に知り合った田村泰次郎が始めた画廊を引き継ぎ、特異な画家たちの発掘や展覧会に尽力した。この部屋の萬鉄五郎(1885~1927)の風景画と中村彝(1887~1924)の自画像が目を引いた。

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上段が、洲之内コレクション、
萬鉄五郎「春」(1912年)
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洲之内コレクションの中村彝「自画像(帽子を被る自画像)」(1909年頃)、「帽子を被る自画像」(1910年)の習作か。

  つぎの「日本の近現代美術」の部屋にある萬の自画像も洲之内コレクションだった。この部屋の冒頭が、あの鮭の絵で有名な高橋由一の三点、松島の二点はともかく「宮城県庁門前図」は、馬車の配置、当時の雰囲気がよく伝わる作品に思えた。18 81年は明治天皇の東北行幸があり、宮城県にも立ち寄っている。直接の関係はないかもしれないが、県の依頼により描かれたという。

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高橋由一「宮城県庁門前図」(1881年)。江戸時代の学問所養賢堂だったが、1945年7月10日の仙台空襲で焼失した。

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洲之内コレクション、萬鉄五郎「自画像」(1915年)

 つぎのコーナーでは「地下鉄停車場」(1924年)が目を引いたが、清水登之(1887~1945)の作品だった。清水は、若くして渡米、働きながらの修行、画業が長く、都市の人々や光景を描いていたが、件の作品は、フランスに渡ったばかりの1924年制作である。清水といえば、かつて、東京国立近代美術館で見た戦争画の中の一点「工兵隊架橋作業」(1942年)の印象が強い。テーマはまるで異なるのだが、展示会場の他の近辺の画家とは何か別のメッセージ、「生活」や「労働」というものが直に伝わってくるからだろうか。

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清水登之「地下鉄停車場」(1924年)。オルレアンの文字も読める。

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清水登之「工兵隊架橋作業」(1942年)、マレー半島を進む日本軍が爆破された橋の
架け直し工事の様子を描いている。

 また、松本峻介(1912~1948)の五点に出会えたのも収穫だった。なかでも大作「画家の像」は、街を背景に、家族を傍らにしっかりと大地に立つ構図は、代表作「立てる像」を思い起こさせる。まだ少年の面差しさえ伺わせる画家の自画像である

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五点のうち、左より、洲之内コレクション松本竣介「白い建物」(1941年頃)・「ニコライ堂」(1941年頃)と「画家の像」

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松本竣介「立てる像」(1942年)、『新人画展(カタログ)』(2008年11月22日~2009年1月12日、板橋区立美術館開催)より。

 他にパウル・クレー(1879 ~1940 )とカンディンスキー(1886~1944)の展示室も興味深いものがあった。二人はミュンヘンで出会い、ドイツの前衛芸術運動の「青騎士」に参加、ともに、バウハウスで教鞭をとることになる。クレーは1931年にナチス政権によりバウハウスを追われ、移ったデュッセルドルフ大学も解雇され、出身のスイスに避難する。カンディンスキーも、1933年、ナチスによるバウハウス閉校後は、パリへと居を移している。クレーといえば、2002年11月下旬、粉雪が舞い始めたベルンの街をめぐり、市立美術館で、クレーの作品に出会った時を思い出す。現在は、篤志家の支援で、2005年ベルン郊外にオープンしたパウル・クレー・センターに、市立美術館所蔵作品と遺族寄贈の作品およそ4000点が一堂に集められているという。できればもう一度と、かなわない夢を。さらに、カンディンスキーのつぎのような作品もあるのを知っていささか意表を突かれたのである。

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カンディンスキー「商人たちの到着」(1905年)

 併設の佐藤忠良記念館もめぐることに。宮城県大和町出身の彫刻家、佐藤忠良(1912~2011)自身の寄贈により、1990年にオープン。展示は年に何回か入れ替えがあるらしい。今回は、さまざまな「顔」、さまざまな「しぐさ」といったテーマで幾つか部屋に分かれていた。彫刻は、どちらかというと苦手ではあるが、佐藤の作品は、どれも優しく、清潔感のある、わかりやすい作品が多かった。

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「さまざまな顔」の部屋には、「群馬の人」のほか、左「母の顔」(1942年)と右「オリエ」(1949年)が並ぶ。オリエは、新劇女優の佐藤オリエの少女期のものである

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さまざまなしぐさの作品が並ぶ。正面が「足なげる女」(1957年)その左右の女性像の作品名は失念。窓の外に見える右が「少年の像」(1981年)、左が「夏」、ほかに、「あぐら」(1978年)などという作品もあった。

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「ボタン」(1967-69年)

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「甦りの踊り」(1974年)

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「このはづく」(1970年)、こんなフクロウの像が家の部屋にあったらな、とも。

 以上、1時間半余り、疲れて館内カフェで、ランチ代わりのお茶をしながら、朝から別行動の連れ合いにメールをすると、なんと企画展「アイヌの美しき手仕事」を見終わったところだという。夫は、ホール近くのベンチでメモをとっていた。仙台駅近くの朝市をめぐってのランチ、仙台戦災・復興記念館をすべて歩きで回ってきたという。記念館では、88歳の空襲体験者からの話を聞きながら見学したということだった。お茶のあと、私は企画展へ、夫は常設展へ向かった。

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タルトはイチゴかリンゴか迷ったが、イチゴもなかなかの美味。イチゴといえば、夫が朝市で買ってきた仙台イチゴ「もういっこ」は、ホテルの夕食後、部屋でたっぷり食しもした。カフェでしっかりと休んだ後、私は、企画展会場に入った。下段、カフェから中庭をのぞむ。この美術館は前川国男の設計なのだが、いま、村井宮城県知事から県民会館との統合施設として仙台医療センター跡地に移転する計画が出され、郡仙台市長が市民の意向に反するものと、異議を唱え、大きな問題になっているらしい。秋保のホテルで、知事・市長の協議が始まったとのニュースを見たばかりだった。

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柳宗悦と芹沢銈介のコレクションからの出展であった。

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2020年2月 5日 (水)

東北へ~今回も短い旅ながら(1)はじめての秋保温泉

 東北へは高校の修学旅行以来、蔵王のスキー、ひとり旅、ゼミOB旅行、出張、家族旅行などで、何度か訪れているはずなのだが、何せ広いので、限られた日数の局地的な旅に終わっていた。今回も3泊という短い旅ながら、秋保温泉2泊、仙台1泊、連れ合いの仙台での講演が済んだら、すぐに秋保(あきう)に向かってのんびりしたいという私の希望がかなった。東北新幹線E5系はやぶさ22号は全席指定。東北新幹線からの富士山は久しぶりだった。

 仙台の集会の前には、知人のSさんとお会いすることができた。私の短歌の師だった阿部静枝つながりで、ネットで知り合ったSさんは、短歌はなさらないが、静枝の遠縁にあたり、自分のルーツを探る中で、静枝の家系探索も始め、資料検索のみならず、存命の方には会いに出かけ、手紙を出すという行動力の成果によって、さまざまな情報を収集、これまでもいろいろ教えてもらっている。その努力の成果の一つ、阿部温知・静枝夫妻の家系図が出来上がりつつあると聞いている。メールや資料交換などを重ねていたので、初対面とは思えないほど話が弾んだ。今回の仙台行きで、私は東北大学のキャンパスで、訪ねたいところがあった。Sさんは、ながらく大学生協に勤められていたので、川内、片平キャンパスにも詳しく、いろいろ教えていただいた。
 連れ合いの仕事が終えるとすぐに、仙台駅前からホテルZの送迎バスに乗り込んだ。市街地を抜けると、トンネルに入るが、その長いこと、避難通路が何か所もあって、事故でもあったらと少し恐ろしくなる。青葉山トンネル、2200mもあるらしい。沿道の林は、裸木のためか、絡み合った細い枝、倒木が目立つどこにもある風景が続く。

 11階もあるホテルだが、広いの部屋で、ゆったりと内湯と大浴場で身をほぐす。テレビも見ず、パソコンにも向かわない時間、少しばかり本を読んだり、スケッチを楽しんだりした。ただ、圧巻?は、朝夕のバイキング、若いカップル、学生グループ、家族連れ・・・が、料理の間の通路を右往左往、テーブルの上は、食べつくしたあとのお皿が積まれていく。久しぶりに目にした観光地の賑わいだった。二日目は、宿の裏手を流れる名取川の奇岩が続く「磊々(らいらい)峡」の遊歩道、最近できたらしい秋保・里センターとワイナリーに寄ってみる。大きなホテルが並ぶが、経営は大丈夫かなど余計な心配もする。私たちが泊まったホテルとまったく趣の異なるホテルが、後でわかったことだが同じ会社の経営と知った。日本の観光地のあちこちの倒産、破産したホテルを買収しているらしい。女将を廃し、バイキングに力を入れている由、なるほどと妙に納得するのだった。

 

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「磊々峡」は、土井晩翠が名付けた由、県道の下の遊歩道は歩いて10分たらずだった。クマに注意の看板もあったが、ここで出会ったら逃げ道はない・・・。新しくできたらしい秋保・里センターとワイナリーも近い。

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2019年5月12日 (日)

ぶどうの郷の「藤切り祭」とワインの旅(1)

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すでに鉄線満開の連休直後

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大善寺藤切り祭、5月8日

  今回は、連れ合いたっての旅、すべておまかせの旅程だった。近場だけれど、二泊してゆっくりしようということで、評判の良い民宿も予約。5月8日の夕方がクライマックスという大善寺の「藤切り祭」が初日のお目当てである。勝沼ぶどうの郷駅に午後1時過ぎ下車、タクシーで、等々力にある民宿「みゆき荘」へ。看板犬のゴマに迎えられ、一休みをし、祭りにはまだ時間があるので、近くの「ハーブ庭園」へと向かう。入場無料の「旅日記」と名付けられた庭園で、1万坪とのこと、ちょうど、さまざまなバラが咲き、広い一画、いちめんの黄色い花はカルフォニアポピーということだった。庭園のオーナーは、1960年、宝石の研磨をする志村製作所を起こした人物で、いまでは手広くレストランや地元の宝石、工芸品、化粧品などを扱う店を多数持っているとのこと。レストランで、遅いランチをいただく。

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「ハーブ庭園旅日記」にて、2019年5月8日。カルフォニアポピーとのこと。

 頼んでおいたタクシーが来ずに、別のお客さんを待つ運転手さんが、しきりに名前を呼んでいる。当方も催促の電話をするとどうやら、一足先に別のお客さんを間違えて乗せてしまったらしい。会社は違うが、待機の車に乗って、大善寺に向かう。ご縁と思って、帰りの車もその運転手さんにお願いすることに。ともかく急な階段をのぼりに上って、薬師堂までたどり着く。参道の石段の踊り場や境内は露店がいっぱい、子どもたちで大賑わいである。4時から始まるという稚児行列を待つが、少年指導員、交通指導員の腕章をつけた人たち、消防団の法被を着た人たち、警官たちの姿も目立つ。いったい何が始まるのだろう。

 山伏のような出で立ちの修験者たちがほら貝を吹きながら先導し、やがて稚児さんたちがお母さん付き添いでやって来た。稚児さん募集20名のポスターも見かけたが、抱っこされている子から小学校高学年の女子を含めて7・8人ほどだった。最後は、赤い大きな傘を捧げられ、ご住職だろうか、ぶどうを持つ仏様として有名な薬師如来像のお堂に吸い込まれてゆく。

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大善寺、拝観受付にはこんな張り紙とポスターがありました。

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稚児行列、笑顔で出発。 

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冠がイヤだととってしまう子も

 そして、修験者たちは、稚児堂という舞台で、ぶどう畑を荒らす大蛇を退治しようと、さまざまな方法で~矢を射る、刀や斧などで退治する様子を演舞し、稚児さん二人も太陽と月になぞらえ、演舞する。彼らのセリフで物語が進んでいるようなのだが、やがて、修験者たちは、境内の坂の上の神木にもとに集まり、すでにつるされている、藤の根っこを七回半巻きして、大蛇に見立ててたものを目がけて登り、先ほど演じた退治のさまざまな方法を、ここでも繰り返す、そして、最後に刀での一振りで、どさっと切り落とされた。つかさず、それまで神木を取り囲んで見上げていた若者たちが、叫び声とともに、その切り落とされた大蛇にどっと覆いかぶさるように重なり合って、土埃が高く上がる。

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いま、矢を放たんとするところ、右端に立っている方が総代さん?

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明治期の廃仏毀釈で、神仏混合になって、境内にある「神木」にしつらえられた藤の根っこの大蛇、長い赤い舌が生々しいが。

 後で聞いた話だが、昔は、自ら刃物をもって、グルグル巻の根っこを切って奪い合うという危険なこともあったそうだ。大蛇の頭の部分を競って取りたいがための闘いだそうだ。そういえば、坂の途中で、滑り止めなのか、救急隊員が横並びで、梯子を倒して待機しているではないか。まだまだ、この物語は続きそうだが、車の約束もあって、6時前には、熱気が増す大善寺を後にした。記念にとお守りを購入したところ、今日は大サービスで、と藤の根っこを切り分けた20センチほどの「神木」と「ぶどうと大蛇の物語」(シャトー勝沼の発行)という冊子も頂戴した。その冊子によれば、農民たちに追われて山奥に逃げた後、住処だった木の根っこの穴倉には、ぶどうが発酵して、よい香りを放つ液体となっていたのを知って、葡萄酒づくりが始まったという。

 宿での夕食は、ビールで乾杯、心づくしのお料理をいただき、明日の予定にはぜひ、と奥様からは、宮光園への川沿いの道などを勧められ、夫は、赤ワインを追加、ほどよいアルコールが眠りを誘う。この日の万歩計8643歩。

◆5月8日NHK甲府放送局「ニュースかいドキ」:映像は放送日より1週間で切れてしまうらしい。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kofu/20190508/1040006352.html

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「歴まちカード」に甲州市も参加しているとのこと。上は、お守りを入れてくれた袋です。

 

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2019年4月22日 (月)

新緑の多摩動物園の坂もきびしかった!

 選挙の騒音を逃れて、といっては候補者に失礼なのだが、週末は、少し遠出をしての動物園だった。京王線に乗るのも久しぶりで、高尾山の山歩きスタイルの乗客も多い。動物園は、高幡不動で乗り換え、多摩モノレールからは一駅で、日野市に位置する。初めての動物園、シニアは入園料300円にはいささか恐縮、やはり家族連れが多い。

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正門を入って左右に、イノシシ、シカ、ヤギ、ムフロン、ヒマラヤタールなどを見ながら、ひたすら坂をのぼる。広く、工事中のエリアもあって、高い塀が続くところもある。連れ合いが楽しみにしていた、今日のガイドツアーは、ユキヒョウ舎前、11時集合。一番奥になるのか、ゆるやかながら、登り坂がどこまでも続く。途中、シャトルバスにと思うが、すでに満員であった。50ヘクタール余の丘陵地帯を切り開いての開園、1958年だそうだ。日本で初めて柵を設けない動物園だったとのこと。都営ながら、いまは、東京動物園協会が指定管理者になっている。

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この日のツアーは「アジア山岳地帯の動物」ということで、ユキヒョウ、レッサーパンダ、ターキンについて、丁寧でもあり、楽しい説明を聞くことができた。ユキヒョウの絶滅の危惧(4000~6500頭)に関しては、密猟が絶えないのは、山岳地帯の住民たちの経済的な背景、その問題の解決も課題であるとの話にも及んだ。レッサーパンダの背中が茶色、腹部の黒っぽいのは、天敵から身を守るためとか、ターキンなどは、説明を聞かなければ、面白い顔立ちだな、と通り過ごしてしまうところ。

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ツアーの面々・・・

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ツアー参加者に配られた冊子とバッチです。

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何を考えているのか、ユキヒョウ

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右と奥にいる毛の深いのがメスのターキンで、左手前のつるっとした毛並みがオスで、体も大きい。足の二本の太い爪で、どんな岩場でも器用に上り下りするという。

 

オランウータンが、高い綱を渡る、スカイウォークを見上げながら、ぶらぶらと気ままに坂や階段を上がったり下りたりしながら、森林浴も楽しんだ。トラ、ゾウ、サイを経て、フクロウの愛らしい表情に癒されながら、向かいの巨大なケージの天井近くを翼を広げてゆったりと飛ぶワシたちの姿にも見とれてしまう。もっと広い空を飛びたいだろうにと。

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オランウータンの見事な空中演技

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上:アムールトラ、下:シロフクロウ

少し遅くなったが、サバンナキッチンというセルフサービスの食堂でランチを済ませた。見おろす広場で、キリンの群れがゆったりと歩き、ペリカンの群れは細長い池をせわしく行き来している姿は、遠くからでも近くからでも、さまざまなパフォーマンス見せてくれるので、目が離せず、思わず長居をしてしまうほどである。

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上:キリンとペリカン 下:ヒマラヤタール

もう一つの大きな工事現場に近い窪地にはライオンが寝そべり、その隣の池にはフラミンゴが、重なり合うように群れていた。ああもうすぐ入り口に戻る。どっと疲れが出そうなところ、ともかく駅まで頑張って帰路に就くのだった。この日は、家に着くまで13460歩であった。

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上は、タスマニアデビルの絵葉書、買いました。下は、サバンナキッチンのはし袋です。

 

 

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2017年3月 2日 (木)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(8)シンポジウム「時代の危機に立ち上がる沖縄の短歌」に参加

なぜ、参加したのか

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 しかし、私が聞いていた限りでは、やや印象が異なっていた。永田は、自作の「どうしても沖縄は私に詠へない詠へない私を詠ふほかなく」(『現代短歌』20172月)などを引いて、時代の危機に際して、短歌は政治の言葉ではないので、安易に意見を言ってはならない歯止めが必要であることを強調していた。三枝も、自作「自決命令はなかったであろうさりながら母の耳には届いたであろう」(『それぞれの桜』2016年)とこの作品と対になっている、資料には出ていない「自決命令はあったであろう母たちは慶良間の谷で聞いたであろう」などを前提に、自決命令の有無については、簡単には結論が出ないとしての両論を踏まえるもどかしさを語っていた。

 鼎談後の沖縄県内外の10人の歌人たちのスピーチで、一番バッターの玉城洋子は、上記の鼎談を受けて「沖縄の短歌はどこへ行く、辺野古の海は、沖縄人のアイデンティティ」の思いを語った。私も、永田と三枝の逡巡と用心深さは、何に由来するのかを考えていた。自らの未知や無知について、謙虚で、慎重になることは大切なことだが、ためらい、戸惑い、自らの思いをストレートに語ることをしないうちに、現実は待ったなしで、進んでしまうのではないか、の疑問がもたげた。この「逡巡」は、現実逃避にも連なる気がした。同じような趣旨の質問が会場からも提出されたような報告があったが、質問の詳細も回答もなかった。

後半の「沖縄の現在・未来の社会詠」には、中堅の大口玲子、光森裕樹、屋良、吉川の4人が登壇した。とくに、気になったのは、屋良が「言挙げしない/できない人々」の声として、米軍基地で働く人や高校生らの短歌への目配りの必要を説いたことだった。声をあげない人々といえば、いまだに真実を語れない、地上戦や集団自決で肉親を失った人々、土地を強制収用で家も失った人々、投降した兵士や強制隔離を余儀なくされたハンセン病の人々が、いまだにその体験を口にできない苦しさや事情を持ち、語り継ごうとすると様々な圧力・妨害と直面しなければならない実態、声なき声をも忘れてはならないはずである。

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 「沖縄の現在・未来の社会詠」左より大口、光森、屋良、吉川の各氏


 
私のわずかな沖縄体験ながら、伊江島、屋我地島、渡嘉敷島の人々の記録や証言に接し、また、中南部の戦跡をめぐるだけでも、その地の声、風の声の衝撃は、身を突き刺すほどであった。

午後1時から5時過ぎまで、鼎談やスピーチ、ディスカッションと盛りだくさんな集会ではあった。せっかくの機会なので、登壇者の発言を材料に会場との質疑や討論の時間を取ってほしかった。登壇者を絞っても、多くの沖縄の人たちの声を聞きたかった。それが心残りであった。

なお、今回のシンポに先立って、その前日に、辺野古へのツアーが企画され、現地の公民館で、条件付き基地建設容認の住民の話を聞いたとのこと、本土からの登壇者の言及もあった。企画者からは、本土の歌人たちの基地建設へのバイアスを解きたい、という趣旨だったとの発言もあった。それこそ「参加しなかった」私の感想ながら、その意図がわかりにくかった。

ただ、私は、今回配られた資料から、沖縄の若い歌人たちの短歌の一端を知ることができた。最近、総合短歌誌も、沖縄の歌人への注目度が高くなったことは、評価したい。ただ、沖縄歌人の一部に、中央歌壇、中央著名歌人たちへの傾斜志向が見られることには、やや違和感を覚えるのだ。 

 

会の終了後、これまで、直前に手紙のやり取りがあった平山良明さんはじめ何人かにお目にかかれたのがうれしかった。 

 

関係文献
 
このシンポのレポートはいずれ、短歌雑誌をにぎわすことになるだろう。現在まで、私が読むことができたのは、以下の通り。

・シンポ<時代の危機に立ち上がる短歌>に寄せて 基地への抵抗 言葉で
(『沖縄タイムス』吉川宏志 2017130日)
・沖縄の表現模索 県内外の歌人集い討論(『琉球新報』201726日)

・短歌時評 沖縄をどう詠むか(松村由利子『朝日新聞』2017220日)
スピーチ原稿載録(玉城洋子『くれない』
20172月)
・沖縄で問う<歌の力>歌人の向き合い方論議(『琉球新報』2017年2月23日) 



文献補記:(2017年3月3日~)

・短歌月評・線引きするならば(光森裕樹『東京新聞』夕刊2017年2月19日
・戦争と平和 沖縄から考える 社会詠をめぐる歌人の葛藤
 
(屋良健一郎『東京新聞』夕刊2017年2月21日)
・沖縄シンポジウム開催(屋良健一郎『現代短歌新聞』2017年3月5日)
・<相対化>と<類型化>について(田村元『うた新聞』2017年3月10日)
・シンポ「時代の危機に立ち上がる短歌」(『うた新聞』2017年3月10日)
・あきらめず、めげず、息切れせず―沖縄シンポジウムを終えて(三枝昂之『現代短歌』2017年4月)
・「時代の危機に立ち上がる短歌」報告(小石雅夫『新日本歌人』2017年5月)

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屋我地島の海岸で拾う

 

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2017年2月25日 (土)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(7) 那覇を離れる半日の過ごし方

 いよいよ那覇を離れる。この日の予定は組んでいなかった。あまり慌てることなく、市内を回ることにした。ゆいレールの駅から少し離れているということで、まず、ホテルから直接「識名園」にむかった。琉球王朝の別邸であったという。もちろん、19441010日の空襲で壊滅的な破壊を受けたが、1975年から復元整備が始まり、回遊式庭園で随所に中国風な要素を取り入れているが、池の周囲は、琉球石灰岩で積みまわしている。中心的な「御殿(ウドゥン)」と呼ばれる建物は赤瓦の木造であった。屋内を一回りして縁側で休んでいると、園内の清掃の人の何やら鋭い目つきが気になったので、「こんにちは」と声をかけると、ほっとしたように「中国の人は、平気で土足であがるんですよ」とグループで回っている人たちの足元に目をやった。その庭先には、桜が一本咲きだしていたので、ほかの外国の一団も代わる代わる写真を撮ったり、自撮りをしたりしている人たちがいた。私たちも、近くで一団が去るのを待っていると、先の清掃の人が、二人のところ撮りましょうかと声をかけてくれたのだ。その近くには「育徳泉」という池の水源にもなっている井戸があって、ここでも琉球石灰岩の「相方積み」という石組みが独特の曲線を描いていた。

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池は湧き水で、舟遊びの船着き場

識名園から首里まで車で移動、県庁前から歩いて「福州園」へ向かった。手前の松山公園には、「白梅の乙女たち」像が、その近くの「大典寺」に、沖縄戦で犠牲になった「積徳高女」の生徒らの慰霊碑が、あると聞いていたので、ぜひ、訪ねたかった。立派な碑は、大典寺に入って、すぐ右手にあった。

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 積徳高等女学校は、1918年浄土真宗の大典寺が設立した家政実科女学校としてスタートし、美栄橋に校舎を新築、後、積徳高等女学校と改名、沖縄戦では、学徒看護隊として動員された。なお、この大典寺には、渡嘉敷島のアリラン慰霊のモニュメント建設のきっかけになった、那覇市で孤独死していたぺ・ポンギさんの遺骨が納めらえていたのである、その後、ようやく遺族に返すことができたという

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1944年10月10日の空襲で全焼した松山公園内の県立第二高等女学校、1984年、その跡地に白梅同窓会によってたてられた「白梅の乙女たち」。また、学徒看護隊「白梅隊」、教職員、同窓生の戦没者の慰霊碑「白梅之塔」には、149人が祀られている(1947年に糸満市国吉(山部隊第一野戦病院跡) 

 

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並びには、県立那覇商業高校があって、甲子園出場で名をはせた記憶はあるが、スポーツの強豪校らしい。賑やかなことであった

松山公園の向かいの「福州園」、夫は一度ならずこの前を通っているのだが、入るのは初めて。ここは、また別世界の趣がある中国風の庭園であった。1991年、那覇市70周年、福州市との姉妹都市提携10周年を記念して作られた。やはり中国からの観光客が多い。滝の前では、中国からの家族に写真撮影を頼まれ、私たちも撮ってもらった。庭園の草木には、丁寧な説明が付されていて、植物園の感もある。この日のランチも少々遅くなったが、福州園の隣のレストランで一息ついた。いよいよ、沖縄の旅も最終盤である。

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 福州園前の松山通りの並木は、「鳳凰樹(ホウオウボク)」とのこと、福州園の受付の人に教えていただいた。昨年6月に来たときは、たしか黄色い花をつけていたように思うのだが。

 

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この落葉を拾ったのが、識名園だったのか、福州園だったのか定かでないし、何の木の葉だったのだろう

  今回の沖縄旅行の二つの目的の一つは、戦跡を少しでも訪ねることであった。もう一つは、2月5日に那覇市内で開かれた「時代の危機に立ち上がる沖縄の短歌」という集会に参加することだった。そちらの報告は次の記事に譲りたい。

 

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