2024年7月16日 (火)

何年ぶりかな、御茶ノ水、聖橋あたり~短歌会の全国大会に参加して

  私の所属する「ポトナム短歌会」の全国大会が、7月14日、湯島の東京ガーデンパレスで開かれた。前回、私が参加したのは2019年の京王プラザホテル一泊での開催だった。この間、大会はコロナ禍で中止になったり、日帰りとなったりした。今回も、11時受付開始、夕方の6時半には懇親会も終えるという忙しない日程であった。講演、分科会、写真撮影、表彰式もほとんど休憩もなく続けられた。東京の会員を中心とする準備も苦労が多かったのではと思う。

  今年の「白楊賞」は、大学生の小野愛加さんの「先生になる」だった。懇親会の途中、立話ながら、若い編集委員と小野さんも交えて、中断している「ポトナム短歌会」のブログ再開やオンライン歌会の話にもなった。何とか実現してほしいものと願うばかりだ。

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  お料理を堪能しながら、同じテーブルの方との話が進む。当日欠席となった方の分のお料理も、何かと運ばれてきて、テーブルの上は賑やかになる。

  分科会終了後、配布された作品集にある、選者賞も、互選賞も、私には縁がなかったが、提出歌は「卓上のミモザの花の散り初めて触れたる棘に寛容なる朝」。ご近所で枝打ちさなかの一枝を分けていただいたミモザ、黄色い小さな花が散り始めて、灰色の棘に、思わず触れたけれど、しばらくの間、黄色い花を十分楽しんだのだから・・・といった気分の歌だった。分科会で、ある評者が、ミモザは、国際女性デーのシンボルの花だと触れてくださったのは、うれしかった。あの棘は、いつまでたっても、日本では、いや世界各地でも女性の権利が十分守られていないことへ抵抗のような気もして、寛容どころか、ストレートに怒りを表現すべきだったかとも。

 当日、佐倉の自宅に帰れる時間ではあったが、一泊することにした。翌日は、雨も上がったので、ホテルの近辺をまわることにした。

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 何十年ぶりかの「神田明神」だったが、境内は広く、整備されていて、外国人も多く、ミストが流れる休息所まであった。本殿の右手奥には、江戸時代の木材商、店舗兼家屋だった建物を移築された「神田の家・井政」があり、さらに進むと、木立に囲まれた「宮本公園」があった。その入り口に何やら消防車と数人の消防署員たち立っている。「何かあったのですか」と尋ねてみるが、「いや、何も、どうぞ、お気をつけて」と。ところが、消防署員の視線の先は、ベンチに、微動だにしない、老紳士風な人が座っていた。病人でもなさそうだし・・・。道にでも迷った人だったのか。

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 本郷通り(17)を渡ると小さな公園があって、湯島聖堂・昌平坂学問所跡との案内板があり、塀を隔てて、聖橋方面の本郷通りに面して、大成殿へと通じる入口がある。

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 湯島聖堂は、江戸時代、綱吉将軍が1690年、儒学振興のために設置されたもので、後、昌平坂学問所にもなった。明治維新後、文部省所管となり、日本最初の博物館が置かれた。1872年、日本最初の図書館と言われる書籍館、東京師範学校が設置されたので、近代教育発祥の地と言われるようになった。たしか、高校の校歌に「昌平 の跡とえば・・・」とあったような。関東大震災で焼失して、今はコンクリート造りの「大成殿」を背に階段をくだると「入徳門」に至る。上記写真の階段の先に見えるのが「大成殿」となる。

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 湯島聖堂を出て道路の反対側、聖橋の傍らにも、「近代教育発祥の地」の銘板があった。そして、聖橋の真ん中あたりからの眺めは、格別である。「松住町架道橋」というらしい緑のアーチ状の橋、神田川の水面すれすれに走るのが地下鉄丸ノ内線だそうだ。かつては毎日池袋始発で通学・通勤に利用していたというのに。

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2023年9月12日 (火)

図書館を支える人々~非正規と障がい害者の方々の待遇の実態(2)

2)障がい者の報酬はこんなことでよいのか

 国立国会図書館の資料のデジタル化は急速に進み、「図書館送信」と「個人送信」の範囲も拡大され、「個人送信」の場合は、自宅で、閲覧できるし、必要個所を印刷もできるようになった。その恩恵は計り知れない。

  国立国会図書館が進める蔵書のデジタル化に、障がい者の延べ約500人が本のスキャンやデータ入力などの作業をもって貢献しているという。図書館が自力でできる作業量でないことは理解できるし、しかも、その作業は決して単純ではなく、細かいノウハウも必要な作業だと思う。下記の毎日、日経の記事はともに、そうした作業に携わることが、障がい者の誇りとなり、やりがいにつながっている、という報道であった。

  ところが、共同配信の「時給222円を変えたい・・・」の記事を読んで愕然としたのである。障がい者雇用の実態がこれほどまでとは、知らなかったのである。近所で、障がい者のグループホームを運営している知人は、仕事探しの容易でないことを嘆いていた。商業施設でカートを集める仕事、近くのマンションの草刈りの仕事が見つかったの、と喜んでいたことがあった。また千葉市のハーモニプラザの売店では、作業所の人たちが作ったという紙すきの葉書や端切れで織り込んだコースターなどを買ったことがある。

 上述の222円というのは、作業所の全国平均の時給なのだが、国立国会図書館の上記デジタル化作業を請け負った日本財団が、全国8か所の作業所で実施し、月収がこれまでより3倍ほどの5万円にアップできたというのである。日本財団によれば、2022年度は、三億七千万円、約三万冊分を受注でき、これからも拡大の意向だという。

・「障害者、デジタル化一助に 根気必要な作業、黙々と 国立国会図書館」『毎日新聞』 (2022929日)https://mainichi.jp/articles/20220929/ddm/041/100/058000c

「「本を未来に」障害者誇り 国会図書館蔵書デジタル」『日本経済新聞』(2022103日)https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE260N90W2A920C2000000/

・(市川亨)「時給222円」を変えたい 障害者が国会図書館をデジタル化 品質に合格点「彼らの力なしでは成り立たない」『信濃毎日新聞』20221011日(共同配信)

・「障害者の実力」示す国会図書館のデジタル化作業(20221107日)日本財団ホームページhttps://blog.canpan.info/nfkouhou/archive/1431

・徳原直子「国立国会図書館のデジタルアーカイブ事業~資料デジタル化を中心に~」国立国会図書館 https://www.tamadepo.org/kouza/tokuhara20170203.pdf

  それにしても、月収5万円とは。何で、こんなにも安価な報酬なんだろう。何のための最低賃金制度なのか。調べてみると、最低賃金制度には、「減額の特例許可制度」というのがあって、最低賃金を一律で決めてしまうと、労働能力が著しく低い労働者の雇用機会が減ってしまうからという理由で、特例が設けられている。例えば、試用期間や職業訓練期間中の労働者と並んで「 精神又は身体の障害により著しく労働能力の低い者」との規定があって、障がい者雇用の場合は、これによって最低賃金制度から除外されてしまうのである。ずいぶんと雇用者にだけ都合の良い制度なのだろう。たとえ、特例を設けるにしても、「同一労働、同一賃金」の主旨を貫ける制度にしてほしい、思うのだった。

 ・「障害者雇用の賃金はなぜ安い? 最低賃金制度と減額特例」(2020年1月13日)『障がい者としごとマガジン』 https://shigoto4you.com/saitei-chingin/

 

 

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2023年4月21日 (金)

はや、新緑の小石川後楽園に出かけました

 桜の季節に、ぜひと話していたのだが、天候が定まらなかったりで、スケジュールが合わなかったり、機会を逸してしまった後楽園行き。きょうは、夏日との予報だったが、リュックにお茶のボトルも入れて、家を出た。ドームやジェットコースターはいつも横目で見ていたが、庭園に入るのは二人ともはじめてだった。

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入園料は、シニアは半額で150円、申し訳ないような・・・。

 

 石塀に沿って、東門に向かって歩いているつもりが、着いたのは、西門、入ってすぐの涵徳亭のレストランで、姪が働いているのだが、今日は出勤日だろうか。ランチには、まだ早いので、どんなメニューか見ておこうかと、のれんをくぐる。「いらっしゃいませ、履物はそのままで・・・」と迎えられたのだが、姪が出勤かどうか確かめたくて、「あのォー」と姪の名前をいうと「ええー」と、なんと本人だったのである。制服に、大きなマスク、眼鏡もかけていたので、一瞬わからなかったのは、おたがいさまで、大笑いとなった。
 姪は、数年前まで、シェフのお連れ合いと、長い間、三宿でイタリア料理の店を開いていた。ちょうどコロナ禍に見舞われる直前に閉店して、池袋の実家に転居、その後、しばらくして、この涵徳亭で働きだしたというわけで、仕事に関しては、かなり年季が入っている。

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庭園は、中国や日本の名勝や風物を取り入れた造りになっている。

 

 おおきな池を半回りほどして、涵徳亭に戻り、てんぷらそばの定食とお抹茶のランチをすませ、起伏のある、散策路をまわった。水戸の徳川家が手掛けた回遊式の庭園で、二代藩主光圀が完成させたという。桜の季節は、たいへんな人出だったそうだ。きょうも、家族連れや外国人のグループなどでにぎわっており、ところどころで、写生に余念のない人たちにも出会った。今度は東門を出て、ドームのゲイト脇に沿って、後楽園駅に戻った。

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日陰の並ぶ人は何?ドームのゲイトの回遊路は、何やら顔写真のついたウチワ持ってはしゃいでいる若い女性たちにもであった。帰宅後、ドームの日程を調べてみた。今晩の6時から「
SixTONES ストーンズ 慣声の法則 in DOME」のコンサートということらしかったが、わけが分からず、説明によると、2015年にデビューしたジャニーズ事務所の男性アイドルグループだった。ジャニーズ事務所といえば、いまもっぱら報じられている、忌まわしい記事の方が・・・。


 欲張って、メトロで一駅だからと東大前で下車、根津神社に向かった。東大の野球場の横をくだって、5分と看板にあったが、かなり歩かねばならなかった。根津神社のツツジは、テレビでも何度か報じられたが、かなりの人出で、小屋掛けの店も並び、騒がしかった。ツツジは、盛りを過ぎたとは言え、見事だった。と言っても300円の入園料が要る散策路は失礼して、並ぶ参拝客の列も横切って、神社を後にし、不忍通りへ。南北線の根津から大手町へと、階段と地下通路の長さにいささかげんなりしながら、帰途についた。久しぶりに1万1000歩を越えた一日だった。

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2023年3月18日 (土)

桜には少し早かったが~養老渓谷へ

 平日だったら宿もすいているだろう、ゆっくり温泉にでも入ってと、たった二泊ながら、近場の養老渓谷にでかけた。近いと言っても、車ではないので、かなりの時間を要した。

 J R船橋まで出て、内房線の五井まで行くのだが、通勤時間はとっくに過ぎているのに混んでいた。さすがにマスクを外している人は見当たらなかった。五井から小湊鉄道に乗り換えるには、パスモは使えず、乗車券を買うのにけっこう並んだ。約一時間、沿線には菜の花やこぶし、もくれんの花が咲き始めていたが、桜は、ちらほらという感じだった。放置の田んぼも多く、倒木の多い林も続き、竹林の葉が車窓をかすめることもある。それに、いまにも覆いかぶさってきそうな崖すれすれに走る。

 小湊鉄道終点は上総中野と初めて知った。その一つ手前が養老渓谷駅で、あらかじめお願いしていた宿「もちの木」さんの車が待っていた。チェックインの時刻までには、まだ時間があり、ランチはやっていませんという宿のラウンジで、船橋で買い込んだサンドイッチと持参のおにぎりとみかんでつつましい?昼食をすませ、近くを散歩することにした。

 宿は、養老川に面しているが、その崖が高く、みごとな地層を見せていた。折から、辺りの樹々からウグイスの掛け合う鳴き声が、あまりにもみごとなので、どこかに拡声器でもあるのかしらと思うほどだった。

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 早めの大浴場は、貸し切り同然、露天風呂からは、正面の崖とせせらぎを見ながらのひとときであった。持ってきた本を読むどころか、横になったら、連れ合いともども寝入ったらしく、夕飯コールに起こされる始末であった。

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 そしてなんと、翌朝8時という朝食も、電話で起こされ、さすがに慌てたのである。バスで「粟又の滝」まで行くつもりが、フロントから、車がちょうど空いたので、送りましょうとの申し出があったのは有難かった。下車後、急な階段を下ると、左手には銀色に光る滝が見えた。滝を背に、しばらく遊歩道を進むときも、ウグイスの声は途切れることがなかった。

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 バス停前の、宿の姉妹館でもある「滝見苑」の日帰り湯チケットを出がけに勧められもしたが、ともかく、こんどは、弘文洞跡へとバスに乗り込んだ。ここもパスモは利用できなかった。先に両替しなかったもので、余分に払ってしまって下車。バス停からくだるとすぐに、トンネルが見えてきた。1970年(昭和45年)竣工の「共栄トンネル」(110m)は、車の往来もけっこう多い。二重トンネルが見られるというのだが、ちょっと想像しにくかったのだが・・・。共栄橋を渡って中瀬遊歩道に入れば、ここも、ウグイスの声に癒されながら、川を渡るところで引き返した。 

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古いトンネルの下に、共栄トンネルが作られたということらしい。

 今日こそ、きちんとしたランチをとりたいと、宿の勧めもあって、バス停にも近い「清恵(きよえ)」食堂で、私はてんぷら釜揚げうどんを。ゆとりをもってバス停に向かったのだが、なんと路線バスが停留所を過ぎてやって来るではないか。これを逃したら、一時間以上待つことになる。庭先に出ていた民家の人が、手を挙げたら停まるかもという声に、二人して両手を振ったら、停まってくれたのである。宿に近い「老川」で下車しようとすると、「朝、20円もらいすぎたから、20円引いた額でいいですよ」と、朝と同じ運転手さんで、覚えていてくれたのである。バス停以外で乗車できたこと、20円ながら、清算してくれたこと、何かほっこりした気分で、宿に帰ったのであった。早めの入浴、ひとしきり夕寝をしたにもかかわらず、夕食後は、また眠くなってしまう情けなさ。連れ合いの読書はだいぶ進んだようだったが。 

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翌日も、養老渓谷駅まで送ってもらった。運転手さんによれば、「もちの木」は、もともとは企業の保養所であったそうだ。バブル後に買取り、改装を重ねたそうで、なかなかセンスのある宿だったし、従業員のもてなしも行き届いていた。帰りには、千葉で下車し、「青葉の森公園」にでも寄ろうかと算段していたが、お天気も下り坂というので、直帰することになる。少し落ちついて、小湊鉄道の沿線の風景を楽しむことができた。沿線の野辺の道では、ところどころで、立派そうなカメラを抱えた人が列車を待ち構えている光景に出会った。変わった駅名なども興味深く、乗り降りの乗客にも関心が向く。高滝の駅手前で、「市川ぞうの国」のマイクロバスを見かけたが、高滝がそのシャトルバスの発着駅だという。上総牛久では、10分近くの停車、学生の乗り降りも多かった。3月25日には、夜のお花見列車が走るとのことだった。

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養老渓谷駅の発車時刻表を見上げて、連れ合いが、おかしいと声を上げると、「いや、改正になって、明日から変わるんです」と、すべて一人で仕切っている駅員さんが教えてくれる。今日までは、右下の小さい時刻表だったのである。

もう、お土産をなど気にしなくてもいい、二泊の短い旅は終わった。

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五井行きの列車が入ってきた

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2023年1月30日 (月)

1月27日は「ホロコーストの日」だった(2)反省と責任のとり方

  2008年8月、初めてドイツを訪ねた折、観光客でにぎわうブランデンブルグ門のすぐ近くに、灰色のさまざまな大きさの四角いコンクリートブロックが幾千と続き、中は迷路のようになっている記念碑に出会った。これが、「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」であったのである。その広さと言い、モニュメントとしての着想と言い、それらに圧倒された。東西ドイツが統一する前の1988年からこの記念碑建設計画が始まったというが、追悼するのはユダヤ人だけなのか、そのモニュメントのデザインなど、いろいろな問題が噴出したが1999年、ユダヤ人に限定しての追悼碑に決まり、2005年5月に完成、公開の運びとなったという。さらに、驚いたのが、この追悼碑に隣接したところに国会議事堂があったのである。日本でいえば国会議事堂前と皇居のお堀の間の公園や尾崎記念公園辺りにあたるところだろう。また、ベルリンの繁華街、デパートKaDeWe近くのカイザー・ウィルヘルム教会の尖塔が焼け残りまま、戦跡として残されていた。その後の旅行では、ベルリンのドイツ歴史博物館、ドイツ抵抗博物館、焚書記念碑、グリューネヴァルト17番線ホーム、ライプチヒの歴史博物館、ルンデ・エッケ記念博物館、ミュンヘンのユダヤ歴史博物館、ドレスデンのフラウエン教会、ハンブルグの歴史博物館、ニコライ教会戦跡・追悼碑などの見学によって、近現代の歴史に重点を置いた戦跡、資料、展示物や映像に目を見張った。とくにナチスのユダヤ人迫害の歴史と検証・反省・継承に努力していることを肌で感じることができた。

 また、私たちが訪ねたドイツ以外のワルシャワ、ウィーン、オスロ、ベルゲンなどの都市に限っても、歴史博物館やユダヤ人犠牲者追悼碑などによる戦争の惨禍と反省を継承し、戦跡を守ろうとする意識が定着していることがわかるのであった。

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ベルリン「ホロコーストの碑」前方のドームの屋根が国会議事堂(2008年9月25日)

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国会議事堂の敷地に接した場所にある「国家社会主義の下で殺害されたシンチ・ロマの記念碑」前の池の周りの敷石には犠牲者の名前が彫られている。2012年10月に建てられたばかりだった(2014年10月25日)

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ベルリン郊外グリューネヴァルト駅17番線ホーム。貨物専用のホームであったが、ナチスにより連行されたユダヤ人がこのホームから各地の収容所に送られた。上は、ホームの端に並ぶ鉄の銘板の一枚、1942年1月25日、1014人のユダヤ人がベルリンからリガに送られたことを示している。これらの銘板がどこまでも続く。私たちが訪ねた日は、数日前に行われた記念式典の名残の献花があちこちに見られた。(2014年10月25日)

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ワルシャワゲットー記念碑から歴史博物館をのぞむ(2018年5月13日)

 昨年末には、「元ナチス女性秘書に有罪判決 97歳、執行猶予」のニュースに驚かされた。ニュース(jijicom 2022年12月22日)によれば、
 判決は20日、ドイツ北部のイツェホーの法廷で、ナチス・ドイツの収容所で秘書だった97歳の女性に執行猶予付き禁錮2年の判決を言い渡した。女性は、ナチス占領下のポーランドにあったシュツットホーフ強制収容所で1943~45年、勤務していた。「ユダヤ人、ポーランド人、そしてソ連人」(検察)ら6万5000人が犠牲になったと推定され、うち1万人以上の死について共犯と見なされた。 法廷で被告は「起きたことすべてに謝罪する」と述べた。ただ、昨年9月の開廷時には老人ホームから逃亡し、近くのハンブルクで逮捕されという経緯もあったらしい。

 ナチスへの断罪は今も続いている。日本における、朝鮮、中国はじめアジア諸国で犯した日本の戦争責任はどうなってしまったのか。昭和天皇は延命し、平成の天皇は、激戦地で追悼するが、誰を追悼しているのか。日本の戦後政治は、さまざまな分野の「戦犯」をやすやすと復帰させた。慰安婦、徴用工問題で、いまだに責任を取ろうとしない。慰安婦の少女像ですら、まともに展示できないというありさまである。細々と守り続けてきた戦跡を残す手立てを考えない国、自国民に対しては、被爆者への補償は極力抑制し、空襲被害者へ補償はいまだ皆無なのである。国内外の遺骨収集は進まず、遺骨の混じる土が沖縄の新基地造成に使われようとしている。挙句の果ての防衛力増強なのである。
 日本人は、忘却、過去を水に流すことが得意なのか、抵抗や抗議する人々を支えることもしない人々のなんと多いことか、情けない・・・。

 

 

 

 

 

 

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2023年1月29日 (日)

1月27日は、「ホロコーストの日」だった(1)三か所の強制収容所をめぐって

 127日は、「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」だった。ポーランド、クラクフ郊外にあるナチス・ドイツによるアウシュビッツ強制収容所が旧ソ連軍によって解放された日だったのである。
 昨年224日からのロシアのウクライナ侵攻は、ウクライナをナチスから解放するという名目だったのであるが、それは、まぎれもないウクライナへの侵略だったのである。

 私は、2000年以降、夫とともに何回かヨーロッパに出かけている。その折、アウシュビッツ、ザクセンハウゼン、ダッハウ、三か所の強制収容所を訪ねることができた。そのたびに、戦争の残虐、ナチスの狂気を目の当たりしたと同時に、その戦争責任の取り方、とくにドイツと日本の違いは何なのか、なぜなのかを考えさせられたのである。
 三か所の強制収容所の訪問については、すでに以下のブログに記しているが、「ホロコーストの日」にあたって、わずかな体験ながら、それぞれの収容所の成り立ちの違いや戦跡保存の仕方の違いなどあらためて思い起し、考えてみたい。

2010年5月31日「ポーランドとウイーンの旅(2)古都クラクフとアウシュビッツ」
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/05/post-f56e.html

2014年11月17日「ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチヒ・ベルリン~2014.10.20~28(9)」http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141020289-91f.html

2018年5月20日「 ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(2)」
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/05/post-22eb.html

アウシュビッツ強制収容所

 アウシュビッツ強制収容所は、ソ連邦の一つだったポーランドが、1940年政治犯収容のために建てたが、ドイツ軍に占領された国々のユダヤ人がここに集められるようになった。近くのビルケナウ、モノビッツェにも増設、収容された130万人の内ユダヤ人110万人、ポーランド人14、15万人とされ、犠牲者はユダヤ人100万、ポーランド人7万人以上に及んだという。1942年からナチス・ドイツがユダヤ人の絶滅計画が立てられ、実施に移された。175ヘクタール(53万坪)に300棟以上のバラックが建設されたが、今残るのは45棟のレンガ造りと22棟の木造の囚人棟だけで、19448月には約10万人が収容されていたという。ソ連軍による解放・侵攻を目前に、証拠隠滅のためドイツ軍が破壊・解体しきれなかった施設や遺品が、いまの博物館の核になっている。
 見学に訪れる日本人も多く、日本人の公式ガイド中谷剛さんもいるが、予約が大変らしい。2010517日、見学ツアーに参加し、語学別に分けられ、私たち夫婦は英語によるガイドに従った。
 最初に入館した4号館・5号館では、関係書類や資料、写真の間を通り抜けて、目にしたのは、ガラス越しのいくつもの展示室に積まれた、毛髪、それによって編まれた絨毯、眼鏡、靴、トランク、鍋・釜・スプーン、義足・義肢・松葉づえ、歯ブラシ・・・。その量とそれらを身に着けていた一人一人を思うと、いたたまれず、展示に目を背けることもあった。解放当時の残された衣服だけでも、男・女・子供用衣服は併せて120万着に及んだという。
 6号館では、収容所生活の実態が分かるような展示が続き、廊下には収容者の登録時の写真がびっしりと並ぶ。正面・横顔・着帽の三枚で、残されたものは初期のポーランド人のもので、ユダヤ人は写真も撮られなかったという。収容者の多くが、シャワー室ならぬガス室に送られたのである。

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収用列車は、ここで行きどまりになった。

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雨の中、いよいよ見学コースに入る。遠くに、”ARBEIT MACHT FREI”のアーチの一部が見える。

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棟と棟の間にも有刺鉄線が。

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雨は止まず、泥濘は続く。翌日は大雨に見舞われたそうだ。

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「死の壁」と呼ばれる処刑場だった。

 

ザクセンハウゼン強制収容所

 2014年1026日、ベルリン中央駅から、RB(Regional Bahn)5で約30分という、強制収容所の最寄駅Oranienburgオラニエンブルクに向かった。さらに、歩けば20分ほどだというが、1時間に1本のバスに乗る。バス停からも長い道路の石塀沿いには、大きな写真のパネルが並び、この収容所は、ドイツ・ナチスからの解放後は、ソ連・東独の特設収容所として使われていたという沿革がわかるようになっている。
 19333月、ナチ突撃隊によって開設された収容所は、一時3000人以上の人が収容されていたが、19347月に親衛隊に引き継がれ、1936年現在の地に、収容所建築のモデルとなるべく、設計されたのが、このザクセンハウゼン強制収容所だった。1938年にはドイツ支配下のすべての強制収容所の管理本部の役割を果たしていた。
 194542223日、ソ連とポーランドの軍隊により解放されるまで20万人以上の人が収容され、飢え、病気、強制労働、虐待、さらには「死の行進」などにより多数の犠牲を出した。19458月からは、ソ連の特設収容所として、ナチス政権下の役人や政治犯らで、その数6万人、少なくとも12000人が病気や栄養失調で犠牲になっている。1961年以降は、国立警告・記念施設としてスタートした。1993年以降東西ドイツの統一により、国と州に拠る財団で管理され、「悲しみと追憶の場所としての博物館」となり、残存物の重要性が見直され、構想・修復されて現在に至っている。

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 収容所は、見取り図でもわかるように、正三角形からなり、その一辺の真ん中が入り口となっており、その鉄格子の扉の「ARBEIT MCHT FREI」(労働すれば自由になる)の文字が、ここにも掲げられている。入り口近くに扇型の点呼広場を中心として、バラックと呼ばれる収容棟が放射線状に68棟建てられていたことがわかる。各棟敷地跡には区切られ、砂利が敷き詰められていて、いまは広場から一望できる。最も管理がしやすい形だったのだろうか。
 博物館では、収容所の変遷が分かるように、展示・映像・音声装置などにも様々な工夫がなされていたが、見学者は極単に少ない。ここでは、やはり、フイルムと写真という映像の記録の迫力をまざまざと見せつけられた。さらに、現存の収容棟の一つには、ユダヤ人収容者の歴史が個人的なデータを含めて展示され、べつの収容棟には収容者の日常生活が分かるような展示がなされていた。結局、2時間余りでは、全部は回りきれずに、見残している。

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バス停を下りるとこんなモニュメントが。

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収容所通りは、長い黄葉の道だった。

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ここの門扉にも、”ARBEIT  MACHT FREI”の文字が。

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手前が収容棟Barackeの跡地、後ろが博物館。

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こうしたバラック跡地に小石が敷き詰められ、68棟が続く、この広さである。

 

ダッハウ強制収容所

 ミュンヘン中央駅からSバーン2でダッハウに向かう。ミュンヘン在住48年というガイドさんと一緒である。ダッハウ収容所の公式ガイドの資格を持つ。収容所行きバスの乗り場は、若い人たちでごった返していた。学校単位なのか、グループなのか、みんなリゾート地のようなラフな服装で、行き先が収容所とはとても思えない賑やかさである。バスは満員で、次を待つ。学校では強制収容所学習が義務付けられているという。
 1933年、ヒトラーは首相になって開設したダッハウ強制収容所は政治犯のための強制収容所であり、他の強制収容所の先駆けとなりモデルにもなり、親衛隊SSの養成所にもなった。ミュンヘン近辺の140カ所の支所たる収容所のセンターでもあった。ドイツのユダヤ人のみならず、ポーランド、ソ連などの人々も収容した。ユダヤ人だけで死者32000人以上を数え、1945429日のアメリカ軍による解放まで、のべ約20万人の人々が収容され、ここからアウシュビッツなどの絶滅強制収容所に送られた人々も多い。また特徴としては、聖職者も多く専用棟があり、医学実験(超高温、超低温実験)と称して、人体実験が数多く実施されたことでも知られている。(つづく)

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ここの門扉にも

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ガス室を出た、若い見学者たち。

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何基もの焼却炉が続く。

 

 

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2021年11月10日 (水)

葉山から城ケ島へ~香月泰男と北原白秋(3)

10月28日、山口蓬春記念館を後にして、三ヶ丘でバスに乗車、葉山、長井をへて三崎口駅まで乗り継いだ。長井を出て、横須賀市民病院を過ぎると、さすがに軍港、横須賀自衛隊基地の関連施設が続き、停留所の三つ分くらいありそうだ。高等工科学校、海自横須賀教育隊、陸自武山自衛隊隊・・・。そして、道の反対側には、野菜畑が続き、小泉進次郎のポスターがやけに目に付く。調べてみると、横須賀市の面積の3.3%が米軍基地関係、3%が自衛隊関係施設で占められているそうだ。下の地図で赤色が米軍、青色が自衛隊施設という。

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横須賀市HPより

 三崎口駅舎は、京急の終点駅かと思うほど簡易なものに見えた。城ケ島大橋を渡って、昼食は、城ケ島商店街?の中ほど「かねあ」でシラス・マグロ丼を堪能、もったいないことに大盛だったご飯を残してしまう。

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 さらに、海の方に進むと、右側には城ケ島灯台への急な階段があり、草も絡まり、ハイヒールはご注意との看板もあった。なるほど足元はよくないが、階段を上がるごとに海が開けてゆく。1870年に点灯、関東大震災で全壊、1926年に再建されたものである。1991年に無人化されている。灯台から、元の道をさらに下って海岸に出ると長津呂の浜、絶好の釣り場らしい。この浜の右手には、かつて城ケ島京急ホテルがあったというが、今は廃業。その後の再開発には、ヒューリックが乗り出しているとか。今日の宿の観潮荘近くの油壷マリンパークも、ことし9月に閉館。コロナの影響もあったのか。

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城ケ島の燈明台にぶん廻す落日避雷針に貫かれけるかも 白秋
(
「城ケ島の落日」『雲母集』)

 いよいよ、城ケ島、県立公園めぐりと三浦市内めぐりなのだが、ここは、奮発して京急の貸切タクシーをお願いした。会社勤めの定年後、運転手を務めているとのこと、地元出身だけに、そのガイドも懇切だった。

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 城ケ島から城ケ島大橋をのぞむ。長さも600m近く、高さも20mを超えると。開通は1960年4月、小田原が地元の河野一郎の一声で建設が決まったとか。このふもとに、北原白秋の「城ケ島の雨」(1913年作)の詩碑が1949年7月に建立されている。近くに白秋記念館があるが、年配の女性一人が管理しているようで、入り口にある資料は、持って帰っていいですよ、とのことだったので、新しそうな『コスモス』を2冊頂戴した。

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白秋記念館から詩碑をのぞむ。三崎港の赤い船は、観光船だそうで、船底から海の魚が見えるようになっているけど、餌付けをしているんですよ、とはは運転手さんの話。

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 三崎港接岸の白い船はプロのマグロ船、出航すると一年は戻らないそうだ。脇の船は、県立海洋科学高校の実習船で、こちらは2~3カ月の遠洋航海で、高校のHPによれば、11月3日に出港、帰港は年末とのことだ。

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展望台から、ピクニック広場をのぞむ。湾に突き出ている白い塔のようなものが、古い安房埼灯台の跡ということだった。

 県立城ケ島公園は、散策路も、芝生も、樹木も手入れが行き届いていて、天気にも恵まれた。ただ、低空飛行のトンビが、人間の手にする食べ物を背後から狙うそうだ、というのはガイドさんの注意であった。途中に、平成の天皇の成婚記念の松があったりして、60年以上も前のことになるから、けっこう管理が大変なんだろうなと思う。黒松は、潮風で皆傾いている。途中、角川源義の句碑があったり、柊二の歌碑があったりする。目指すは、遠くに見えていた、あたらしい安房埼灯台である。昨年、デザインも公募、三浦半島名産の青首大根を逆さにしたような灯台となっている。

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野上飛雲『北原白秋 その三崎時代』(三崎白秋会 1994年)より。

 白秋が三崎にきて最初に住んだのが向ヶ崎の異人館だった。今は向ヶ崎公園になっているそうだが、今回は寄れなかった。その住まいの向かいが「通り矢」で、白秋が「城ケ島の雨」で「舟はゆくゆく通り矢のはなを」と詠んだところで、今は、関東大震災や埋め立てのため「通り矢のはな」はなくなって、バス停として残るのみという。城ケ島大橋は、この地図でいえば、鎌倉時代「椿の御所」と呼ばれた「大椿寺」の右手から、白秋の詩碑の右手を結んでいる。その後、「桃の御所」と呼ばれた「見桃寺」に寄宿することになるが、今回下車することができなかった。そもそも、白秋が三浦三崎に来たのは、最初の歌集『桐の花』(1913年)や第二歌集『雲母集』(1915年)の作品群からも明らかなように、1912年、医師の妻俊子との姦通罪で、夫から告訴され、未決囚として二週間ほど投獄され、後和解するも傷心のまま、1913年、「都落ち」するような形であった。同年5月には、あきらめきれず俊子との同居が始まり、翌年小笠原の父島に転地療養するまでの短期間ながら、多くの短歌を残している。以下、『雲母集』から、気になった短歌を拾ってみる。1914年7月、俊子は実家に帰り、白秋は離別状を書いて離別。1916年5月には詩人の江口章子と結婚、千葉県市川真間に住む。1920年には離別。1921年には佐藤菊子と結婚、翌年長男隆太郎誕生と目まぐるしい。軽いといえば軽いが、寂しさは人一倍なのだろう。ちなみに、高野公彦さんの『北原白秋の百首』(ふらんす堂 2018年)では、『雲母集』から14首が選ばれているが、重なるのは「煌々と」「大きなる足」「はるばると」「見桃寺の」の4首であった。

・煌々と光りて動く山ひとつ押し傾けて来る力はも(「力」)、
・寂しさに浜へ出て見れば波ばかりうねりくねれりあきらめられず(「二町谷」)
・夕されば涙こぼるる城ケ島人間ひとり居らざりにけり(「城ケ島」)
・舟とめてひそかにも出す闇の中深海底の響ききこゆる(「海光」)
・二方になりてわかるるあま小舟澪も二手にわかれけるかも(「澪の雨」)
・薔薇の木に薔薇の花咲くあなかしこなんの不思議もないけれどなも(「薔薇静観」)
・大きなる足が地面を踏みつけゆく力あふるる人間の足が(「地面と野菜」)

・さ緑のキャベツの玉葉いく層光る内より弾けたりけり(「地面と野菜」)
・遠丘の向うに光る秋の海そこにくつきり人鍬をうつ(「銀ながし」)
・油壷から諸磯見ればまんまろな赤い夕日がいま落つるとこ(「油壷晩景」)
・はるばると金柑の木にたどりつき巡礼草鞋をはきかへにけり(「金柑の木 その一 巡礼」)
・ここに来て梁塵秘抄を読むときは金色光のさす心地する(「金柑の木 その四 静坐抄」)
・燃えあがる落日の欅あちこちに天を焦がすこと苦しかりけれ(「田舎道」)
・馬頭観音立てるところに馬居りて下を見て居り冬の光に(「田舎道」)
・見桃寺の鶏長鳴けりはろばろそれにこたふるはいづこの鶏か(「雪後」)
・相模のや三浦三崎はありがたく一年あまりも吾が居しところ(「三崎遺抄」)

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北原白秋を継いで、戦後『コスモス』を創刊した宮柊二の歌碑「先生のうたひたまへる通り矢のはなのさざなみひかる雲母のごとく」が木漏れ日を浴びていた。

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福寺本堂前にて。

 城ケ島大橋をあとにして、県立公園に向かう折、三崎湾越しに「あの白い建物の奥に、大きな屋根が少し見えるでしょう、三浦洸一さんの実家のお寺さんなんです」のガイドの一言に、三浦ファン自認の夫が、ぜひ訪ねてみたい、とお願いしたのが最福寺だった。二基の風車が見えた宮川公園を素通りして、車一台が通れる細い道や坂を上がったり下ったりしてたどり着いた。今の住職さんは、洸一のお兄さんの息子、甥にあたるとのこと。93歳の三浦さんご自身は、東京で元気にされているとのことであった。

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 福寺から三崎湾を見下ろしたところにあるのが、三崎最大の商業施設「うらり」で、おみやげ品がそろうかもしれませんと、車を止めてくれた。やはり、朝から乗ったり歩いたりで、疲れてしまっていたので、その日の宿、油壷京急ホテル観潮荘の野天風呂にほっと一息ついたのだった。

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2021年4月29日 (木)

第4歌集『野にかかる橋』が出来上がりました ー元号の五つをもて語られる歴史の闇は問われぬままにー

 新型ウイルス、その変異ウイルスが蔓延するさなかですが、断捨離の途上、振り返ることも多く、拙いながら、歌集として残しておきたいと、まとめました。編集にあたって、多くの歌を落としましたが、きっぱり捨てることができず、歌数ばかり多くなってしまいました。自費出版の歌集の発送は、出版元に依頼するのが習いのようですが、読んでいただきたい方に、一筆添えて、ゆっくりとお送りしようと思っています。ながらみ書房さん(03-3234-2926)、ありがとうございました。

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表紙の写真は、ハンブルグのニコライ教会構内のモニュメント「試練」(2019年6月撮影)。ユダヤ人犠牲者追悼のため、2004年に建てられ、その礎石には、ルター派の神学者ディートリヒ・ボンヘッファーの言葉<真実は世界中の誰も変えることはできない。真実を求め、それを発見し、それを受け止めることはできる・・・>が刻まれている。彼自身も反ナチス運動のため、1945年4月9日に死刑に処さている。ナチス崩壊後の直前であった。裏表紙は、ベルリン郊外のグリューネバルト駅の「17番線ホーム」、追悼式の数日後に訪ねた(2014年10月撮影)。このホームから、ユダヤ人を乗せた列車は、毎日のように各地の強制収容所に送られていった。ホームのヘリには、年月日と人数と行き先の収容所名が示された銘板が埋め込まれ、続いている。いくつかの写真から選び、装幀してくださった伊崎忍さん、ありがとうございました

 

 

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2020年2月16日 (日)

豊島園がなくなる? ウォーターシュートの思い出

 2月3日、遊園地豊島園が段階的に閉園されることが、一斉に報じられた。経営主体の西武ホールデイングスからの正式の発表ではないらしいが、跡地が東京都の練馬城址公園とテーマパークになる話が進んでいることは確からしい。 豊島園といえば、私は池袋育ちなので、いろいろな思い出がある。敗戦後のことなのだが、母方の親類が千葉県だったので、我が家は、いとこたちが受験や用事で上京した折の東京の宿泊所代わりになっていたように思う。そんなときの手土産は、菓子箱にぎっしりと詰まって新聞紙に1個1個包まれた卵だったり、時代が下れれば麻生屋のスズメ焼きや柏屋の最中だったりした。母は、布団を干したり、カバーをかけたりと忙しく準備していたものだ。そして、半日でも時間に余裕があるときは、豊島園にでも行ってみようか、ということにもなるのだった。 

   豊島園は、小学校低学年の遠足の定番であり、写生大会などで連れて行ってもらったことがある。家族や親類と一緒のときは、ウォーター・シュートのある池で、あの船頭さんが高く飛び上がるのとお客さんの絶叫?する光景を何度も何度も飽かずに眺めていたらしい。乗ってもいいよと言われ、初めて乗ったときは、あの滑り落ちるときのあっけなさと水しぶきを浴びたことの方が印象に残っている。

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 流れるプールが話題になったり、新しい遊具が報じられたり、はた、新聞の全面を使った広告などに驚いたりしたが、半世紀以上訪ねたことがない。ただ、なつかしいあまり、残してほしいなどとは言わないつもりだが、都立の城址公園として、都民の憩いの場であり、いざという災害時にも役に立つ、水と緑の広いスペースにしてもらいたいと思った。計画にあるテーマパークなどに、個人的には全く関心がないながら、映画やキャラクターをテーマにしての集客を目論んでいるらしいが、長続きするものなのだろうか。

 豊島園は、1926年に開園し、ほぼ同時に、池袋の東口から出ていた、武蔵野鉄道の練馬~豊島園線も開通している。太平洋戦争中の1944年4月に閉園、再開されるのが1946年3月だったという。

*としまえんの歴史
http://www.toshimaen.co.jp/guide/history.html

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敗戦後、再開まもない豊島園、音楽堂。池袋第二小学校1年時の秋の遠足か。私は、疎開先の小学校から夏休みに池袋第二小学校に転校している。アルバムの黒い台紙には、「一年 豊島園 昭21」という次兄の文字での書き込みがある。担任は、若いO先生で、前列左に座っている。後列のには付き添いの「父兄」がみえるが、もんぺ姿の女性もいる。このころの池袋西口のやみ市では、揃わないものがないというほど隆盛を極めていた。


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誰が撮影したものか不明だが、我が家の三人兄妹が後ろのボートに、手前のボートには、いとこ姉妹が乗っていて、池畔で待つ母に近づいたところ。アルバムには「昭和25年」(1950)とのメモが記されているのみ。

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中学一年歓迎遠足が、豊島園だった。

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2020年2月10日 (月)

東北へ~短い旅ながら(4)仙台文学館

 翌日の午前中、仙台文学館へでかけることにしていた。仙台駅西口に広がるデッキは、どこまで続くのか、幾通りにも分かれ、複雑だ。うっかり地上に降りてしまうと、横断ができないで、また、デッキに戻ったりする。バスターミナルの宮城交通②番乗り場から、北根2丁目(文学館前)下車、進行方向に向かって右側、入口への坂を上る。この文学館は、昨年で20周年を迎えた由、初代館長は井上ひさしだったが、現在の館長は、歌人の小池光である。

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台原森林公園の一角にある仙台文学館

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文庫版ほどのリーフレットと入場券

 

  20周年記念特別展「井上ひさしの劇列車Ⅱ」からまわる。井上ひさしの特別展は何度か開催されているらしい。今回は、井上の「評伝劇」と称される宮沢賢治、樋口一葉、太宰治、林芙美子、小林多喜二、魯迅、河竹黙阿弥、吉野作造、チェーホフをテーマにした劇の直筆原稿やメモ、書簡、参考資料などの展示とともに、一作ごとの意図や主人公・登場人物への井上の思いや評価を綴るエッセイからもたどる解説がなされていた。井上が取り上げる対象は、いずれも魅力的な人物には違いない。私自身も、一葉、芙美子、作造など深入りしそうになった人たちである。演劇自体も見ず、脚本自体も読まず、軽々には言えないのだが、今回の展示を見た限り、井上は、劇の主人公、登場人物には、親しみと敬意のまなざしをもって、惚れ込んでしまっている側面がみられた。たとえば多喜二を描いた「虐殺組曲」の特高刑事が多喜二を追っていくうちに感化されていく過程とか、林芙美子の戦前・戦後の 評価などには、「実は懸命に生きた、みんないい人」という楽観的な部分が気になった。

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「虐殺組曲」の解説、右がと二人の特高刑事への思い、左が社会運動にかかわった井上の父と多喜二を重ね合わせていたなど

 

 つぎに、「手を触れないでください」という和紙による壁のトンネルを通って、常設展に進んだ。その冒頭は、館長小池光の短歌が天井からの白い布いっぱいに並べられた展示だった。ここにも井上ひさしと仙台ゆかりの文学者、土井晩翠、島崎藤村、魯迅などのコーナーがある一方、佐伯一麦、恩田陸や伊坂幸太郎などの<平成>の作家たちの大きな写真パネルが目を引く。名前は聞くが、すでに知らない小説の世界である。仙台との縁を教えられる。

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館長小池光へのオマージュが強烈で、短歌講座なども定期的に開催されているらしい。こうした傾向は山梨県立文学館長の三枝昂之の場合も同様で、館長が前面に出る催事というのはいかがなものなのだろう。

 

 つぎの「震災と表現」のコーナーは、数年前、北上市の現代詩歌文学館での東日本大震災のコーナーと比べてのことなのだが、やや物足りなさを覚えたのも確かであるが、多くの震災関係の作品を残している佐藤通雅のパネルに出会って、歌われている背後の現実に思わず祈るような気持ちにさせられるのだった。

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 最後になったが、今回の文学館訪問の目的でもあった、朗読ライブラリーの「阿部静枝」のビデオを見ることになった。連れ合いはカフェで休んでいるという。阿部静枝(1899~1974)つながりの知人Sさんからも聞いていた、たった4分ほどの朗読ビデオだったが、その操作や、ストップをしての写真撮影に手間取った。このビデオは「コム・メディア」制作(朗読黒田弘子)となっていたが、12首ほどの選歌は、静枝の特徴を捉えたもので、なるほどと思わせるところがあった。

 

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生みし子は他人に任せて顔ぬぐひ世に生きゆくは復讐の如し(『霜の道』1950年)

 

 他にもつぎのような作品が朗読されていた。カッコ内は筆者が補記した。

 

・叶はざるねがひひそむ嫉みゆゑ強ひてもひとにさからはんとす(「秋草」1926年)

・憎まんとしてなみだ落つきみをおきなにを頼りてわが生くべしや(同上)

・ひたすらに堪へんと空をみつめゐる眼底いつか熱く濡れつつ(同上)

・ひとは遂にひとりとおもふおちつきをもちてしたしき山河のながめ〈同上)

・濃むらさきを好きなのは誰なりしかなあやめのおもひでひっつにあらず(『霜の道』1950年)

・暗き海の浪迫り寄れ死は想はず生き抜きて世を見かへさんとす(同上)

・せめてわが男の子を生みしありがたさわれに似る女を想ふは苦し(同上)

・忘却の救ひがあれば生きてゐよくちびるに歌のわく日も来なむ(『冬季』1956年)

・東西を分てる橋の切断面ぎざぎざの尖まで取り歩みゆく(『地中』1968年)

・断絶の壁ある下を掘りつらぬき人の想ひを通はせし地中(同上)

・生きものなどよせつけぬ様の星を知り地上のもろもろ更に美し(同上)

 

 仙台駅に戻って、荷物を預けたホテルへの道すがら、利久という店でランチを済ませた。みやげというものをほとんど買っていない。駅構内では、かまぼこ、牛タンの店がしのぎを削っているようだったが・・・。やはり疲れていたのだろう、帰りの新幹線「はやぶさ」では、しばらく眠り込んでしまったようだ。

 

 

 

 

 

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