2020年4月 5日 (日)

もう一度見たかったハマスホイ~都美術館の展覧会は中止になった

 もう十年以上も前に、当時はハンマースホイと表記されていたと思うが、国立西洋美術館での展覧会(「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」2008年9月30日~12月7日)は見逃しながらも、デンマークの、この画家の室内画に、どこか心惹かれるものがあった。そして、たまたま、2009年8月、連れ合いとの海外旅行が北欧になり、一泊ながらデンマークに寄ることができた。コペンハーゲンでは、さっそく国立美術館に出かけて、大急ぎで、見て回った。

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デンマーク国立美術館 2009年8月26日

 

当時のスナップには、こんな絵が残されていた。

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右手の中央が「古いストーブのある室内」(1888)

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央が「自画像」(1911)、右が「ティーカップを持つ画家の妻」(1907)

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この裸婦の絵の前で映してもらった写真もあるのだが

 新型ウイルス感染予防のため会期の途中で中止となった「ハマスホイとデンマーク絵画」では、どんな作品が見られたのだろう。展覧会の公式ホームページの出品目録によれば、40点ほどの作品のうち、デンマーク国立美術館所蔵は10点ほどだろうか。すでに記憶が薄れてしまっただけに、あらためて見てみたかった

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「ピアノを弾く妻イーダのいる室内(1910)、国立西洋美術館蔵

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「陽光習作」(1906)デーヴィズコレクション。こんな絵を見たかった

 

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 4月5日、東京都のあらたな感染者が143人になったという。今朝、雨上がりのイチジクのえさ台にやってきたヒヨドリ、ガラス戸のカーテンを開けようが、戸を開けようが、背を見せてミカンをついばみ、シャターの音を聞きつけてか、キッと横を向いたのには、こちらが驚く。

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2019年6月12日 (水)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人たちを振り返る(3)1959年(続)

短歌研究1959年6月号/7月号/8月号/9月号                  

社会問題、天皇制からの切り口へ
 1959年の後半も「主題制作」と「長期連作」の企画は続き、「連載短歌」は吉井勇、生方たつゑ、塚本邦雄に代わって、5月号からは、佐藤佐太郎「北の海」「佛桑華」「雨季」、斎藤史「密閉部落Ⅰ~Ⅲ」が始まっていた。また、6月号からは、<未発表歌集シリーズ>という新企画が始まる。第一弾が木俣修青春歌集「市路の果」152首(1928年3月~1931年6月)は、北原白秋系の『香蘭』時代の作品が中心で、木俣は、1935年6月には白秋創刊『多磨』に参加している。8月号は、前川佐美雄青春歌集「”春の日”以前」150首(1920~1925年)であった。

・教室をおはれし友はつひにまた會ふはなからむと重々といふ
・とめどなく思ひまよふ十行に足らぬ履歴を紙にしるして
(木俣修「市路の果」『短歌研究』1959年6月)

・野の駅に汽車待ちをれば少女子が和えに雨に濡れ来て川をたためり
・俄雨に合歓の花散る草山をから傘すぼめてわれら行くなる
(前川佐美雄「”春の日”以前」『短歌研究』1959年8月

・落人は笛の音のごとく痩せながら空よるべなくさまよひにけり
・とほき歴史のかたより落つ聲かともはるかにたかし 天上の雁
(斎藤史「密閉部落Ⅱ」『短歌研究』1959年6月)

 また、6月号で目についたのは、竹山広(1920~2010)の作品だった。
・ものかげに潜みて燠を吹くごときくるしき愛をわれら遂げきつ
・朝来てなほ生ける脈しるしゆく残るくるしみをはかり見むため
(竹山広「ルルドの水」『短歌研究』1959年6月)  

 竹山の『心の花』に復帰直後の発表作で、長崎で結核療養中に被爆、兄を失い、長い空白の後、被爆体験の作品を出版したのは、1981年、第一歌集『とこしへの川』であったのである。 

 7月号・8月号には、「短歌による社会時評」があり、7月号の吉田漱「皇室ブーム」、井伊文子「今日の沖縄」、君島夜詩「北鮮帰還」は、歌人による時評であった。8月号のそれは、勤評闘争のさなかの教師の短歌、少年院や女子刑務所の入所者の短歌、ハンセン病者の短歌、労働者の短歌を現場に近い歌人が紹介する形をとる。私が注目したのは、吉田による、皇太子結婚への慶祝短歌の背景を分析したもので、大きく皇室への関心層と無関心層に分け、前者には、もっとも時流に敏感で、警職法反対と奉祝歌が同居できる「率先型」から懐疑型、傍観型、憧れ型、天皇制自体には決定的な意見を持たない良心型、天皇制廃止の抵抗型などに分けているのが辛辣であった。つぎのような結語部分は重大な指摘であったと、いまさら思う。
「天皇制、皇室、国家、これらの、ふりかえりが、本当にまだ各々のうちで、不十分なところに、実は問題があるので、その大きな大衆層は、いつたいどういうものかの分析、「保守的ムード」の検討、マスメデアに対する考察、ひいては世界の機構、国家の位置に目がとどかぬかぎり、今回のようなブームはきわめて容易におこる」

 前後するが、前記事の5月号の秋村功「道化師を操るもの」の反響として、6月号の「読者の批評」欄には、2件の投稿があった。秋村・吉田のいう「皇室ブーム」について共感し、皇室ブームへの疑問や違和感を持つ人たちが、声を上げていたことの証ではないか。その一つは、秋村の「皇室のプライベートな慶事がそのまま庶民のめでたさに通じるかのごとく錯覚させるむなしい報道」や「日本文学の源泉である短歌」と、歌会始にのぞむ選者たちは「誰かが作りあげた筋書きの上で踊つている悲しい道化であるかもしれない」とする主旨に対して、重要な問題を投げかけているとして、「文学の将来を左右するような切実な問題に、目を蔽って見すごすことは、とりも直さず“戦前“の愚を再びおかそうとする危険なしとしないからだ」「伝統があるから尊いのではなく、その発展を求めてこそ伝統は生き継がれるので、未来に通(じ)る詩でなくては伝統も死に絶えて終う」と訴えていたことも目に留まった。寄稿は、「大阪市 片山碩」となっていた。『覇王樹』の1960年代の同人だったらしい。
 皇太子の結婚をきっかけとしたミッチーブーム、皇室ブームへの歌壇の反応は、天皇制自体への疑問と危機感を率直に吐露している編集者、執筆者も、読者も、実に健全であったことを示しているのではないか。現在の天皇の代替わりをきっかけに、当然論議されるべきであった課題を、野党もメディアも歌人も、スルーして、奉祝ムードになだれ込んでいる実態を目の当たりにして、いっそうその感を強くした。
 また、歌人であり、琉球王家、尚家出身の井伊文子(1917~2004)の「今日の沖縄」は、当時、沖縄の情報が少ないなか、貴重なレポートであったと思う。中野菊夫や吉田漱らとともに、短歌を通じて沖縄と本土と数少ないパイプの役割を果たしたことは見逃せない。
 さらに、8月号の斉木創(香川県青松歌人会、1914~1995)による「H氏病者の現状」は、ハンセン病者の短歌が盛んになった昭和初期、「療園と皇室との紐帯は周知のように、極めて厳密な格別の庇護のもとにあり」、数知れないご慈悲に守られ、“聖恩感謝”の思想」は、病者にとっては血肉化された金科玉条であった、と書き起こされる。斉木は、自作「厳かしき世代におはし来て天皇は癩の上にすらやさしかりける」を引いて、昭和天皇の1950年、四国視察の際の「あな悲し病忘れて旗をふる人の心のいかにと思へば」に応えた過去のさまざまな呪縛から放たれ、意識変革をもたらしたのは民主憲法であったと述べながらも、現実の厳しさ、レプラ・コンプレックスを取り払う道を探ろうとする。斉木は、らい予防法が撤廃される1996年を目前に亡くなっている。
 なお、9月号の五十首詠では、特選は、山口雅子「春の風車」、石井利明「座棺土葬」であったが推薦作3人の内の一人に新井節子「流離の島」があったことにも着目したい。新井は、沖縄県屋我地島の国立療養所沖縄愛楽園に暮らすハンセン病者であり、その作品は、つぎのようなものだった。
・離れ島の中また隔つ境界の並木に日暮れの風こもり鳴る
・爆撃に皹破れし窓揺さぶりて北風酷薄の日を育ち来ぬ

(新井節子「流離の島」『短歌研究』1959年9月)

 なお、この年の5月号にさかのぼるのだが、中野菊夫「署名簿」(20首)は、私が近年知ることになる、ハンセン病者とされて、殺人事件の容疑者(熊本県の菊池恵楓園入所者)が最高裁まで争った「菊池事件」を詠んだ連作である。死刑が確定したのが1957年9月、直後に「救う会」が発足し、再審、助命嘆願、特赦など様々な運動を展開したが、1962年9月には、死刑が執行されたのである。中野は、事件自体にも冤罪ではないかという疑問、裁判制度への怒りをあらわにして、死刑確定後の被告にも面会し、恩赦申請の署名活動を進めていた。中野は、前述のように、早くより、ハンセン病者の短歌指導も積極的に行っていた。作品にある「隔離裁判」とは、感染などを理由に、ハンセン病者が裁判所以外の「特別法廷」でなされた裁判のことで、最高裁は、2016年になって、その特別法廷は法の下の平等な裁判を受ける権利を侵して違法であることを認め、謝罪している。1996年「らい予防法」の廃止後も、ハンセン病者や家族への差別は依然と根強く、「菊池事件」の再びの再審請求もいまだ続いている。現代においても、皇族のハンセン病者に「寄り添う」姿が、ことさら強調されるということは、何を意味しているのだろうか。
・隔離裁判なしたる狭き法廷に椅子ありうすく埃かぶりて
・ライを忌み親しきすら詳言をなさざりき偏見は今も變らず
・無力にして皇太子結婚をいまは待つ君の恩赦をたのめるがため
(中野菊夫「署名簿」『短歌研究』1959年5月)

 なお、8月号には、1956年の五十首詠特選となった小崎碇之介(『ポトナム』同人、1918~1995)が、「焱と死者の街」(53首)を発表している。小崎は、船員で、公務のため門司に赴く途中、広島駅近くの壕で仮眠中に被爆するが、助かった直後に綴った作品で、14年間、筐底に秘めていたという。GHQの占領下では、原爆に言及する出版物には極めて厳しい検閲がなされていたので、その後も、多くの歌人たちは出版には慎重だった時期でもある。
・まなぶたを刺す閃光にまどろみの覚めき砂零る壕におびえて
・雨昏く火の街にふり死者へふり生者をうちて心狂はしむ
(小崎碇之介「焱と死者の街」『短歌研究』1959年8月)

短歌研究1959年10月号/11月号

<未刊歌集>という方法

 10月号の未刊歌集は、斎藤史の「杳かなる湖」(87首、1943~45年、1946年)であった。1946年分は、歌文集『やまぐに』(臼井書房 1947年7月)に収めたと、「あとがき」には記している。また「総数百首」とも書く(うーん、簡単な足し算のはずだが)。この「杳かなる湖」の成り立ちと『斎藤史全歌集』への収録状況などは、拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』でも触れている(表5「『全歌集』に収録された敗戦前後の「歌集」と初版『歌集』の歌数などの比較」)。史は、この未刊歌集をもって、「昭和三年から頃から今日までのものを、どこかに一応整理したことになるのだろうが、年月の風化の中に、どれほどとどまるものやら・・・」とも述べている。
・からからと子の乳母車押しながら風に逆らひゆく夕昏れを
・我は今かく渇(かは)けるをいづ方に夕凪美(は)しき湖(うみ)はありなむ
・東京に居らざる我をおとしむることば伝へて来し秋だより
(斎藤史「杳かなる湖」『短歌研究』1959年10月

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拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』から

 新しい企画が重層的に展開するのはめまぐるしくもあるが、書き手の意欲もそそり、雑誌全体から躍動感が伝わり、読者の期待感も大きかったことだろう。しかし、主題制作や連作については、加藤克己、高尾亮一や当時の若い論者、菱川善夫、秋村功らによる厳しい批判も現れていた。たとえば、小崎の五十首詠特選(8月号)について、「私の五選」10月号で、高尾は「異常な体験の作品としては叙述的にすぎている」、加藤は「一首一首の終着の常識性、報道性のため主題を貫く思想が寸断される」、秋村は「被爆当時の死や実体として捉えず、その後の観念化された視点からしか捉えられていないのが惜しい」と。斎藤の「密閉部落」についても、秋村は「あらかじめ予定された視点から、悲劇の観念が事実との遭遇により、形を持つたまでであ」り、「”部落“を支える深部を抉り出すようにつとめてこそ、通俗ロマン主義的傾向から脱しうる道なのだ」とする。
 また、10月号で岡井隆「暦表(カレンダア)組曲」が3回で完結するのだが、加藤は、9月号の「私の五選」で、岡井の生活批評として注目するが、「持前の生への傲慢と不逞の変形として、もつときびしい深傷の感覚をふまえた上での、現実へのもうひとつ痛烈な風刺のコトバがほしい」と評している。同号では、9月号の五十首詠について、前身の編集部選から1958年選考委員方式になって2年目、初めて特選となった山口雅子「春の風車」、石井利明「座棺土葬」の批評もあり、なかなか手厳しいものであった。
 11月号の<未刊歌集>は近藤芳美の未発表歌集「大地の河」(120首、1940年9月~1941年末)であった。『早春歌』前の召集兵として戦地から妻への軍事郵便で送付した短歌がノートにまとめられていたのを忘れかけていたが、今回、若干手直しをしてをまとめたと「あとがき」に記している。
・前線に夜半発ち行くトラックか塀の銃眼をてらしつづけり
(敵前上陸の訓練をうく。暁舞台と呼ばれる)
・死せる兵運ばれて去り夜具一つたたまれており朝明くる窓
(軍医に胸を病んでいることを告げられ、そのまま内科病棟に移された)
・白衣着て佇つ身にまぶし夏となる大地の河の黄なるみなぎり
(朝鮮人娼婦らの一団に見送られて病院船に乗る)

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『短歌研究』1959年10月号、11月号より

 また、11月号では、三大連載と銘打った、山本健吉「人麻呂私抄」が11回、木俣修「昭和短歌史」が24回、柴生田稔「斎藤茂吉・その歌と生涯」11回と佳境に入っていた。そして、現在から振り返ってみれば、毎号、一冊、一冊に意欲的な作品や論文が多く、歌人研究や短歌史における資料的な価値が高い。現在の短歌総合誌の大方の「軽さ」からは想像もつかない。

 

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2015年5月26日 (火)

なつかしい人々~恩師の訃報に接して

 私にとって、高校時代は、あまりいい思い出がないのだが、なつかしい人々は決して少なくない。先日、100歳に近いご高齢で亡くなった担任のY先生である。化学の先生だったので選択科目でもお世話になった。級友からの連絡にもかかわらず、告別式に伺えなかったのが残念だった。お目にかかった最後は、先生の米寿か卒寿を祝うクラス会だったと思う。「なぜってぇ、おめぇ」が口ぐせで、卒業文集の表題にもなった。「その拠って来るところを考えろ」というメッセージだったのだと思う。高校からの入学者で何となくクラスになじめなかった私を気遣ってくださることもあった。付属小学校時代から進学してきた人も多く、高校からの入学者は45人中10人に満たず、女子は15人中3人だったこともある。人見知りの上、なにしろ成績も思わしくないものだから、なおさらだったのだろう。

 

 そんななかでも、Uさんとは、話が合って、仲よくしてもらった。卒業後、彼女は、女子大の被服科に進み、私は浪人の身となったが、励ましの手紙はうれしかった。当時は、進学先の大学祭などにクラスメイトを招くことも多く、受験生の身ながら五月祭や徽音祭にも出かけた。

 大学卒業後、Uさんはアメリカのテキスタイル・スクールへ留学することになった。船旅を選んだということで、横浜の大桟橋に見送りに行ったことを思い出す。留学中は、手紙のやりとりも頻繁になり、日本からの資料を送ったりもした。帰国後は、語学力を生かして平河町のIBMに就職、職場が近かったこともあって、何度かおしゃべりすることがあった。ほどなく結婚され、家族でのアメリカ生活が長く、帰国後は、なんと自宅で料理教室を開くほどの専門家になっていた。女性雑誌でその記事を読んだりすることもあった。「お料理って、化学実験みたいなところがあるのよ。かならず結果に表れるから面白いわ」と話していたこともある。私も転職や転居が重なり、なかなかお会いするチャンスがないまま、先のY先生のお祝いの会では久しぶりのことだった。とてもそんな風には見えなかったのだが、闘病中とのことだった。ふたたび、間遠ながら、手紙やメールのやりとりがあったりしたが、数年前に亡くなられた。途切れがちながら、細くて長いお付き合いだったなあと思うことしきりである。

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2009年5月 7日 (木)

ディベロッパーの責任~宣伝がすぎると

 地元のディベロッパーとは、友好的でありたいものだ。20年以上この街に暮らしてきてつくづく思う。しかし、最近出遭った二つの出来事がさらに業者への不信感を深めてしまった。

音もなくあらわれる電気バス

 424日、近くのモノレールの駅に接して24時間営業のスーパーが出店開業した。開店後数時間は入店に行列ができるほどの賑わいだったそうだ。落ち着いた後の買い物客の動向が今後の営業方針を左右するのだろう。

スーパーの家主でもある地元のディベロッパー山万は、かねてよりスーパーへの集客アクセスの一つとして、電気バス運行の計画をほのめかしていた。スーパーの開店日が決まり、どんなルートでいつから走行するのか、さっぱり情報が入らず、地元でも心配していた。そんな折、突然のプレス発表があったらしく、全国紙の地方版や地元紙で、「ユーカリが丘電気バス導入」の記事が次々に載った。記事によれば、電気バスは排気ガスもなく、騒音もなく、環境にやさしく、住民の高齢化に対応する。424日から1か月間の実験運行ということで、その間は無料ということだった。

それにしてもどこを走るのか、停留所は決まったのかなど私たち住民は不安もあったが少しばかりの期待もあった。数日後、電気バスのルートと時刻表のチラシがポスティングされていた。そして、その直後、我が家の生垣の下の縁石に黄色のガムテープが貼ってあるのを発見。犬の散歩の折、ご近所を回ってみると、あちらの角にも、公園の角にもあちこち色違いのテープが貼ってあるではないか。ともかく市役所の交通防災課に電話を入れると、現地確認にあらわれた職員は、同じような通報が何か所からかあって調べたところ、電気バスルートの目印であることがわかったという。地元に説明がないばかりか、住民の家の縁石にことわりもなく目印を貼ってゆくなんて。縁石がいくら市有であったとしても断りのない目印はおかしいし、6mの生活道路に了解もなくバスを走らせるなんて・・・。いいことづくめのプレス発表優先、住民無視もはなはだしい。自治会にも説明はなかったという。事前の地元への説明は何かと面倒なことにもなるので、抜き打ち的にチラシを全戸配布してしまおう、というつもりだったのか。あとで、山万の責任者に尋ねると、実験運行の実施が製作会社や大学と共同であったため調整が遅れて行き届かなかった、住民にはなるべくチラシを手渡して了解いただいた、自治会連合会会長には了解いただいている、という返答であった。面談した住民の多くは喜んでくださっているのにと不満が返ってきた。ここには、少なくとも住民に周知の上、了解を得ようとする姿勢が感じられない。音の小さい電気バスの危険性や住民の安全安心への配慮に欠けていたのではないか。オルゴールを鳴らすはずの電気バスは、まだ、音もなく住宅地の角からぬっと姿をあらわすのだ。

スーパーのオープンに合わせて、地元の政治家、役人、商工関係者、福祉や自治会関係者、それにメディアなどを招待して大々的に開催した電気バスの出発式、それを報道する新聞、テレビ局・・・。これには後日談があって、実験運行の5日目428日には、電気バス2台のうちの1台が故障し、一日8回の運行は4回の運休で半減し、復旧しそうにもない。

モノレールの駅名変更中止

京成のユーカリが丘駅からニュータウンを15分ほどで1周する新交通システム・モノレールは、車を持たない私は週に1・2度利用する。昨年の今頃、山万の鉄道部は開通25周年を記念して、新駅名を公募すると盛んに宣伝していた。車内放送、チラシはもとより新聞やミニコミ誌でも伝えられた。このモノレールの駅名は、ユーカリが丘、地区センター、公園、女子大、中学校、井野の6つあり、鉄道マニアの間では、とくに「公園」「女子大」「中学校」などの駅名のユニークさ、そっけなさ、不思議さが結構話題になっていたらしい。ザックとカメラを背負ったマニアがモノレールの車体や駅をカメラに収めているのをよく見かけてもいた。マニアでなくとも、新しい駅名って、どうなるのだろうと若干の関心もあったが、いっこうに変わる風でもないし、不思議に思っていた。山万のホームページでは、「応募が多かったのでしばらくお待ちください」みたいなお知らせを読んだことがある。ところが、応募した知り合いによると、今年の4月になって「変更しない方がよいとする意見が多かったので変更はしないことになった」というお知らせが届いたという。詳しい事情はわからないが、いったいあの物々しい新駅名公募の宣伝は何だったの?たんなる話題作り? それにしても無責任というか、人騒がせなことだった。

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