2023年1月23日 (月)

忘れてはいけない、覚えているうちに(12)1950年代の映画記録が~1957年から60年代へ③

1960年 大学2年~3年 58(邦画35+洋画23)本、テレビ3(邦画1+洋画2)本、シナリオ講座17(邦画4+洋画13)本、合計78本 

白波五人男(佐伯幸三)  暗黒街の対決(岡本喜八)春の夢(木下恵介)

わが愛(五所平之助)   雪之丞変化(渡辺邦男)女は抵抗する(弓削太郎)

美人蜘蛛(三隅研次)   珍品堂主人(豊田四郎)   黒い画集(堀川弘通)

女経(吉村公三郎、市川崑、増村保造)       バナナ(渋谷実)

国定忠治(滝沢英輔)  青年の樹(桝田利雄)     青い野獣(須川栄三)

接吻泥棒(石原慎太郎) 酔いどれ天使(黒澤明)    生きる(黒澤明)

娘・妻・母(成瀬巳喜男)女の坂(五所平之助)     青春残酷物語(大島渚)

学生野郎と女たち(中平康)大学の山賊たち(岡本喜八)

お姐ちゃんに任しとキ(筧正典 )                              乾いた湖(篠田正浩)

離愁(大庭秀雄)          西遊記(薮下泰司)           日蓮(田坂具隆)   

 悪い奴ほどよく眠る(黒澤明)                               秋立ちぬ(成瀬巳喜男)

がめつい奴(千葉泰樹)   誰よりも君を愛す(田中重雄)

偽大学生(増村保造)      炎上(市川崑)    

神坂四郎の犯罪(久松静児) 赤線地帯(溝口健二)

或る殺人(オットー・プレミンガー)

ガンヒルの決斗(ジョージ・スタージェス) 

灰とダイヤモンド(アンジェイ・ワイダ) 

今晩おひま?(ジャン・ピエール・モッキー)

旅情(デビット・リーン) 

北北西に進路をとれ(ヒチコック)

十二人の怒れる男(シドニー・ルメット)

自殺への契約書(ジュリアン・ディヴィヴィエ)

バベット戦場へゆく(クリスチャン・ジャック)

ロベレ将軍(ロベルト・ロッセリーニ)

追いつめられて(J・リ・トンプソン) 

大人は判ってくれない(フランソワ・トリュフォ)

鉄路の斗い(ルネ・クレマン)

危険な曲り角(マルセル・カルネ)

いとこ同士(クロード・シャブロル)

太陽がいっぱい(ルネ・クレマン) 

いまだ見ぬ人(ドニス・ド・ラ・パトリエ) 

バファロー大隊(ジョン・フォード) 

明日なき脱獄者(ポール・スチュアート)

刑事(ピエトロ・ジェルミ)

逢うときはいつも他人(リチャード・クワイン) 

奥様の裸は高くつく(リチャード・マ―シャル)

許されざる者(ジョージ・ヒューストン)

*テレビ:

山びこ学校(今井正、1952年)

巴里野郎(ピエール・ガスパル・ユイ、1955年) 

港のマリー(マルセル・カルネ、1949年)

*シナリオ研究所(登川直樹解説)

リの屋根の下(ルネ・クレール1930年)

自由を我らに(ルネ・クレール、1931年)

商船テナシティ(ジュリアン・ディヴィヴィエ、1934年)

別れの曲(ゲザ・フォン・ボルヴァリ、1934年)

ミモザ館(ジャック・フェーデ、1935年)

制服の処女(レオンテイーネ・サガン、1931年)

地の果てを行く(ジュリアン・ディヴィヴィエ、1935年)

我らの仲間(ジュリアン・ディヴィヴィエ、1936年)

美しき争い(レオニード・モギー、1938年)

旅路の果て(ジュリアン・ディヴィヴィエ、1936年)

邪魔者は殺せ(キャロル・リード、1947年)

赤い風車(ジョン・ヒューストン、1953年)

パリの空の下セーヌは流れる(ジュリアン・ディヴィヴィエ、1951年)

また逢う日まで(今井正、1950年)

花咲く港(木下恵介、1943年)

雁(豊田四郎、1953年)     

浮雲(成瀬巳喜男。1955年)

 1960年は、やはり私にとっても、特別な年だったと思う。大学では、毎日のように、自治会の集会があり、1学年15人程度の専攻クラスの討論が行われ、国会への安保改定反対の請願デモが続いていた。講義や掛け持ちのアルバイトの合間を縫って集会やデモに参加している友人たちが多かった。私もノンポリながら、それなりに集会やデモにも参加していた。「鉄路の斗い」は1945年の作品だが、これは大学の学園祭での上映作品であった。ルネ・クレマンの旧作に集客力があった時代であったか。

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「鉄路の斗い」(ルネ・クレマン監督、1945年)鉄道員たちがナチスと闘う抵抗映画である。

 私も、ご近所の小学生の家庭教師も務めていたが、自宅通学はそれだけでも恵まれていたのかもしれない。この頃、私は、「映画愛」?が高じてシナリオ研究所の研修講座(夜間部)にも4月から半年間通って、いつかは映画シナリオを書きたいと本気で思っていた。雑誌『シナリオ』を購読し、『キネマ旬報』は図書館で読んでいた。評論家の志賀信夫から寺山修司まで、いろいろなシナリオライターの話が聞けて楽しく、ほぼ週一で、登川直樹の解説で、1930年代の名画を見ることができたのは、収穫であった。大学と集会・国会議事堂と青山一丁目下車のシナリオ研究所の三か所を地下鉄で行き来する日も多い半年間だった。6月15日の夜の樺さんの事件は、遅い夕食のお蕎麦屋さんのテレビで知った。提出すべきシナリオのプロットは、いかにも面白くない、はしにも棒にもかからないものだと自覚するのだった。それでも、あきらめきれないで、就活の折、東映の教育映画部の大学の先輩を頼って訪ねたこともあった。

 1960年代に入ると、私の映画記録は、ますます簡略になってゆく。たとえば、1961年は、以下のようなメモでしかない。洋画26本、邦画28本、併せて54本であった。相変わらず二本立てが多い。

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 1962年には、映画館でみるのはぐっと減って、邦画9本、洋画8本。テレビで見たのがなんと18本で、その中には、「市民ケーン」(オースン・ウェルズ 1941年)、「パルムの僧院」(クリスチャン・ジャック 1948年)「鉄格子のかなたに」(ルネ・クレマン 1949年)などが記録されている ちなみに、63年21本(洋画18邦画3)64年28本(洋画18邦画10)、65年22本(洋画19邦画3)66年31本(洋画22邦画9)といった具合である。「誓いの休暇」「かくもながき不在」「ウェストサイド物語」「西部戦線異状なし」「慕情」などは、地元池袋の人世坐、その姉妹館の文芸座で見ていることも記されていた。洋画から伝わる熱量に圧倒され、日本の映画は遠ざかってゆくのだった。

 そして、何がきっかけだったのか思い出せないのだが、この頃から、演劇にも若干の関心を持ち始め、1959年「夜の季節」(菅原宅演出)、1960年「檻」(小林勝作 宇野重吉演出)、1962年「イルクーツク物語」(アルブーソフ作 宇野重吉演出)、前進座「雲と風と砦」(井上靖作)、63年には「るつぼ」(アーサー・ミラー作 菅原卓演出)、「泰山木の(木の下で」(小山祐士作 宇野重吉演出)、64年「冬の時代」(木下順二作 宇野重吉演出)、「奇跡の人」(菊田一夫演出)、66年「セールスマンの死」(アーサー・ミラー作 菅原卓演出)、68年「汚れた手」(サルトル作 宇野重吉演出)、劇団四季「チボー家の人々」(マルタン・デュ・ガール作)、72年「三人姉妹」(チェーホフ作 宇野重吉演出)、「泰山木の木の下で」(小山祐士作、宇野重吉演出)など民芸が多いのは、65年以降、当時、職場に”演劇青年“がいて、よく勧められては、何回かに一度買っていたものと思われる。プログラムや半券を残しているものもある。1967年の俳優座養成所の「第16期卒業公演」のプログラムと半券も出てきた。「47年3月10日」「ご招待」とあるので、例の同僚から譲り受けたものではないか。いまから見ると、16期卒業生の顔ぶれがスゴイ。古谷一行、太地喜和子、河原崎健三、大出俊、鶴田忍・・・。卒業生のプロフィルと名前から、卒業後、たしかに活躍していた前田哲男、田村寿子、松川勉らもいるが、いまはどうしているのだろうか。プログラムの巻末には、なんと、今では考えられないが、住所録までついている。〇〇アパート〇号室、〇〇方が圧倒的に多い。

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1963年12月、姪とクリスマス公演を見に行っていたはずだが。

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 1964年には「イタリア映画祭」、1965年10月末から一か月、国立近代美術館で、「イタリア映画戦後の歩み」が開催され、13本が上映されているが、スーパー付きが4本しかない。そんなこともあってか、イタリア文化会館の夜間講座にも通ったこともあるが、挫折。1964年から、10年近く「ソ連映画祭」に通ったことは、先のブログでも書いた。職場では、ロシア語の初級講座を受けさせてもらったが、これも挫折。いったい何をしたかったのか、何を考えていたのか。

 1950年代の映画記録から、いろいろ思い出すことも多かった。家族が映画好き、というより、ごく普通の家庭の娯楽と言えば、ラジオと映画くらいしかなかった時代、娯楽というより、映画は、私のもう一つの学校ではなかったか。1960年代になると、63年に就職、社会人となり、映画より実社会から学ぶ比重が高くなり、映画も選んで見るようになったのだと思う。

 私の映画記録は1966年を最後には途絶えているので、日記を追っていくなどしないとわからない。もうその気力もないので、映画の思い出はこの辺で終わりにしたい。

 

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2023年1月17日 (火)

忘れてはいけない、覚えているうちに(10)1950年代の映画記録が~1957年から60年代へ①

 1957年からの私の映画記録は、簡略化?されていた。日付と題名と監督名だけで、その監督の名前も書かれてない場合もあるが、今、わかる範囲で補った。字数の関係で、和洋に分けた。ここでは日付を省くが、ほぼ日付順に記した。洋画にはマーカーをしている。

 1957年(高2~高326(邦画22+洋画4)本

孤独の人(西河克己)  最後の突撃(阿部豊) 真昼の暗黒(今井正)

ビルマの竪琴(市川崑) 夜の河(吉村公三郎) 早春(小津安二郎)

米(今井正)                若さま侍捕物帖・鮮血の晴着(小沢弘茂)

朱雀門(森一生)    満員電車(市川崑)       黄色いカラス(五所平之助)

正義派(渋谷実)    東京暮色(小津安二郎) 雪国(豊田四郎)

柳生武芸帖(稲垣浩)    夜の蝶(吉村公三郎)   足摺岬(吉村公三郎)

雲ながるる果てに(家城巳代治)                      爆音と大地(関川秀雄)

鮮血の人魚(深田金之介)                               青い山脈(松林宗恵)

風の中の子供・善太と三平物語(山本嘉次郎)

理由なき反抗(ニコラス・レイ )

八月十五夜の月(ダニエル・マン) 

ジャイアンツ(ジョージ・スティ―ブンスン)

世界の七不思議(テイ・ガーネット)

   受験生真っ盛りながら、ジェームス・ディーンの「理由なき反抗」「ジャイアンツ」は、見逃したくはなかったのだろう。「米」は霞ケ浦の大きく帆を張った船のワカサギ漁のシーンが印象に残っている。ストーリーは思い出せないが、親子を演じた加藤嘉と中村雅子の結婚、去年亡くなった江原真二郎と中原ひとみが兄妹役で共演、後に結婚したなどというゴシップの方をよく覚えている。

1958年 高3~浪人中 31(邦画21+洋画10)本

二人だけの橋(丸山誠二) 大当たりタヌキ御殿(佐伯幸三)

氷壁(増村保造)              陽気な仲間(弘津三男) 忠臣蔵(渡辺邦男)

恋人よ我にかえれ 宝塚花詩集(白井鐵造)*    

陽のあたる坂道(田坂具隆)羅生門(黒澤明)       野良犬(黒澤明)  

つづり方兄妹(久松静児)   鰯雲(成瀬巳喜男)      裸の太陽(家城巳代治)

波止場ガラス(伊賀山正光)無法松の一生(稲垣浩)  異母兄弟(家城巳代治)

巨人と玩具(増村保造)      遠州森の石松(マキノ雅弘)

湯島の白梅(衣笠貞之助)    スタジオはてんやわんや(浜野信雄)

月形半平太(衣笠貞之助)    黒い炎(西村元男/ドキュメンタリー)

王様と私(ウォルター・ラング) 

野郎どもと女たち(ジョセフ・L・マンキウィッツ) 

マダムと泥棒(アレキサンダー・マッケンドリック) 

殿方ご免遊ばせ(ミッシェル・ボワロン)

OK牧場の決斗(ジョン・スタージェス) 

黒い牙(リチャード・ブルックス) 

白鯨(ジョン・ヒューストン)

情婦(ビリー・ワイルダー) 

三人の狙撃者(ルイス・アレン) 

若き獅子たち(エドワード・ドミトリック) 

 摸試などの合間を縫って、受験生にしては、見ていた方ではないか。これでは、勉強の方は頼りなかったわけである。黒沢の「羅生門」や「野良犬」や戦時中の名作「無法松の一生」(1943年)を見逃すわけにはいけないという気持ちがわからないではないが、どうでもいい?作品も結構見ていた。洋画といってもアメリカ映画だが、かなりの名作を見ていたことになる。マーロン・ブランド、バート・ランカスター、モンゴメリー・クリフト、グレゴリー・ペック・・・。誰もが魅力的に思えた。
   この頃、家の商売柄、製薬会社や問屋の招待というのがときどきあって、歌舞伎座、明治座、新橋演舞場などへ、両親や兄たちが出かけていたと思う。*の宝塚公演は、私が生まれて初めての宝塚で、次兄が私の卒業祝いか、予備校入学祝い?のつもりだったか、手配してくれて、一緒に出掛けている。その頃の日記帳には、こんな歌が書きつけてあった。私の二階の部屋には、ネオンだけでなく、店の向かいのパチンコ屋の店内放送も聞こえていた。短歌会などに入会する前なので、活字にもなっていない短歌で、第一歌集『冬の手紙』にも収めていない。なんだ、ここからの成長があまりみられないではないか。

・受験誌を求めし帰路のウインドにまといてみたき服地の流れ

・極端に襟幅広きコート着る女の吐息は夜道に残る

・窓染める赤きネオンの点滅は風邪に伏したる寝床に届く

・存分に日差しを受けて本探す合否の不安しばらく忘れ

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2020年10月14日 (水)

朝ドラ「エール」は、戦時下の古関裕而をどう描いているか

  9月末の週から「エール」は戦時下に入った。これまでのドラマの進行は、古関裕而の自伝『鐘よ鳴り響け』とも、いくつかに評伝とも、かけ離れていって、古関作曲の歌と周辺の都合のよい事実をつなぎ合わせたフィクションであることは、本ブログ記事でも、『現代短歌』の拙稿でも述べているが、戦時下に入ってからは、その度合いが一層色濃くなっている。この間、朝ドラを欠かさず見てるわけではなかったが、昼の再放送、土曜日のまとめ、NHK+などを利用して、なるべく見るようにはしていた。9月半ばの、放送再開前後の、8時半からの「あさイチ」での番組宣伝が半端ではなかった。ドラマに登場のタレントを連日ゲストとして出演させていたし、「歴史ヒストリア」などでも取り上げるという熱心さであった。

 肝心のドラマでの古関裕而(古山裕一)が、あのように立て続けに、戦時歌謡、軍歌を作曲し続けていたことだけは、隠しようもない事実なので、NHKは、そして脚本家たちは、必死になって周辺人物を作り出し、彼らに、戦争への疑問、統制・弾圧の強化、戦局の厳しさ、生活の不自由さを語らせている。今週は、従軍先の、さらにインパール作戦の前線での小学校の恩師との再会と戦死という展開を見せる。現実の古関は、ラングーンに留まり、危険な戦場には赴いていない。恩師や自分の歌をさっきまで歌っていた兵士たちが斃れていくのを目前にした古山は、恐怖と驚愕で、何かを叫んでいる?のが、10月14日のラストであった。だが、恩師との再会も戦死も事実ではない。古関裕而の妻の実家は、10人近くものきょうだいがいたが、ドラマでは、作家となる妹と軍人の妻になる姉の三姉妹という設定で、母親とともにクリスチャンということで、常に特高に監視されたり、妹の夫の家業の馬具づくり職人も入信し、馬具が軍隊に納められて、戦争に役立っていることへの疑問を語り、古山(古関)に「戦意高揚の歌は作らないで下さい」と願う場面を作ったり、商魂たくましいレコード会社や映画会社のプロデューサーは、コメディタッチで描かれたりするなかで、「国のために、戦っている兵士のために」作曲するという信念は動かない・・・。妻も、音楽教室から音楽挺身隊への転換を見せながらは、普通の家庭の主婦らしさが強調され、こんなブラウス、こんな割烹着、代用食・・・みたいな時代考証がなされているが、資料には妻・実家サイドの動向があまり見えないなか、盛りに盛ったストーリーに仕立てているように思えた。

 ドラマの古山の活躍は、さらに拡大する戦争末期に入ろうとしているが、どんな展開になるのだろうか。

 そんな折、「NHKとメディアを考える会(兵庫)」のニュース54号(2020年10月)が届いた。今号は、「ヤジと民主主義~小さな自由が排除された先に~」(北海放送制作 2020年4月26日放送)がギャラクシ賞報道活動部門優秀賞、日本ジャーナリスト賞の受賞を記念しての、24頁に及ぶ再録特集であった。連れ合いに送られてくる、この兵庫の会の会報とその活動ぶりには目を見張るものがあって、感心していたのだった。その会員のどなたかの目に留まったのか、先の本ブログ記事で紹介した拙稿「古関裕而はだれにエールを送ったのか」(『現代短歌』2020年11月号)の要約版を会報に載せたいとの依頼があったのだ。 
 表を含めて3頁をとってくださったのである。以下要約版ではあるが、ぜひ読んでいただきたく、ここにPDF版を掲載した。この作業の中で、雑誌での私の校正ミスをただすことができた。『現代短歌』の「古関裕而作曲の戦時歌謡の主な公募歌・委嘱歌一覧」89頁、「防空青年の歌」の作詞者は「柴野為亥知」であった。お詫びして訂正したい。

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下記の画像を拡大するか、上記のPDF版をご覧ください。

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2020年7月29日 (水)

古関裕而をめぐる動きから目を離せない(2)

 さまざまなエピソードで盛り上げるのは

 朝ドラ「エール」がきっかけになって、古関出身の福島市、福島県では、「古関裕而記念館」や地元の新聞や放送局、観光協会などが、「郷土の偉人」をめぐる情報やイベントを盛り上げている。先の「あなたが選ぶ古関メロデイー」の企画もそうであったが、つぎのような記事もあった。 

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「東京新聞」2020年1月23日

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『毎日新聞』2020年5月28日

 また、「中国新聞」では、つぎのような長い記事がネットで見られる。広島への原爆投下の一年後に古関はつぎのような歌詞での作曲を依頼されていたことがわかり、どこにも音源は残っておらず、古関裕而記念館でも把握していない作品であったという。
 1946年、原爆投下一周年という時期に「中国新聞」が「歌謡ひろしま」を公募して、その当選作を古関裕而が作曲している。「中国新聞」デジタルでは次のように伝えていた。

「原爆投下の翌年、広島の復興を願う歌が生まれた。「歌謡ひろしま」。被爆から1年の事業として中国新聞社が歌詞を公募した。曲を付けたのが古関である。「声も高らに 歌謡ひろしま」「古関氏鏤骨(るこつ)のメロデー完成」。そんな見出しとともに、歌は1946年8月9日付の朝刊で発表された。記事には古関のコメントも載る。「作曲にも苦心して何処でも誰にでもうたへるやうにした」。力の入れようが分かる。」

古関裕而を探して 戦没者への鎮魂の「鐘」
(2020年1月3日)
https://www.chugoku-np.co.jp/culture/article/article.php?comment_id=615326&comment_sub_id=0&category_id=1163

  つぎの公募歌発表当時の新聞記事1946年8月9日の写真によれば、五番までの歌詞と楽譜がっ掲載されているが、著作権法に触れるかもしれないので、ここでは、一~三番を再録する。作詩の入選者山本紀代子は、長男を原爆で亡くした歌人と報じられているが、調べてみると、当時の中国新聞社員で歌誌「真樹」を主宰していた歌人山本康夫の妻であることも分かって、私は少々驚いた。五番まである歌詞は、作曲者古関の「談」では「品があって、むづかしくなく、だれにでも歌える立派な」と評されていたが、その歌詞の内容の「軽さ」に、私はいささか違和感を覚えたのである。当時の市民たちの暮らしや気持ちからはかけ離れているようにも思えた。やがて、市民からも忘れ去られていったのではないか。それにしても、古関の変わり身の早さというか、「いつでも、どこでも、誰にでも」エールを贈っていることについての自覚があったのだろうかと。「歌謡ひろしま」(山本紀代子作)には、「誰がつけたかあの日から/原子砂漠のまちの名も/いまは涙の語り草」とか、「七つ流れの川も澄む/平和うつして川も澄む」などの文言が見える。

 以上のように、あちこちでの新聞記事やNHKの番組宣伝によっても量産・拡散される古関情報がもたらすものは何なのか。きっと、あの「戦時歌謡」も、さまざまなエピソードが付されて、「国民的な、天才作曲家」像が作られてゆくのだろう。 

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『赤旗』は、朝ドラ「エール」への応援が半端ではなく、<今週の「エール」>みたいな紹介もある。NHKにも”いい番組”がある、とのスタンスを崩さない。その報道の政府広報ぶりを改めさせなければ、受信料をとっての公共放送ではありえないのではないか

************   ようやく図書館から借り出せた、戸ノ下達也『音楽を動員せよ 統制と娯楽の十五年戦争』(青弓社 2008年2月)を何とか読み終えた。もっと早くに読むべき本だったと痛感しながら多くを教えられた。いまは『第三帝国の音楽』(エリック・リーヴィー著 望田幸男ほか訳 名古屋大学出版会 2000年12月)という翻訳書を読み始めている。私には、カタカナの人名や地名、曲名などが錯綜し、なかなか進まない。著者は序文で、ナチス時代の音楽活動に関する研究が進まない要因として、学術的資料が乏しいことと20世紀のドイツ音楽界の指導層の一貫性をあげている。つまり、ナチスの反ユダヤ主義政策は、たしかに影響力のある人たちを追い立てたが、「大多数の音楽家たちはナチスのもとにとどまることを選択し」、成功を収めた。そして、彼らの多くは、「戦後ドイツにおいても影響力の地位を保持したので、彼らとナチ体制との個別的関係を立ち入って調査することを妨げるのに多大の努力を払ったのである」と述べていたのである。ナチスの戦争犯罪に時効はないと、現在でも追及し続ける、あのドイツにおいてさえも、の思いしきりなのである。一体どういうことなのか、読み進めねばならない。

 

 

 

 

 

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2017年3月30日 (木)

二つのドキュメンタリーを見た~アウシュビッツと沖縄と(2)

「いのちの森 高江」(謝名元慶福監督作品 2016年)

 最近、友人からDVD「いのちの森 高江」を借りて見た。沖縄の基地闘争のドキュメンタリー映画は、いくつか制作されているようなのだが、私は、森の映画社のニュースリールを見る機会が何回かあった程度である。

 米軍の基地、北部訓練場の長い歴史、高江の住民たちの長い闘争の歴史と現状を怒りを込め、だが、 淡々と綴る。あわせて、アキノさんという蝶類研究者の女性が多くの小さな命の営みを求めて、高江の森を案内するのだった。

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1970年代、米軍がベトナムの密林に見立てた訓練がなされていた

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北部訓練場だけでもヘリコプター事故がこれだけ起きている。さらに、オスプレイの飛行・離着陸の危険は計り知れない

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高江の森の生態系のすべてを破壊する工事は許せないとするアキノ(宮城秋乃)さん

 

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高江の住民たちは、工事差し止めの訴えを起こしたが

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映画の中には、こんな映像もあった。生活道路が封鎖され、今はこの石碑に近づけない、との解説があった。1916年(大正5年)、大正天皇即位を記念し造林地に建てらえた石碑は傾いている

 

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二つのドキュメンタリーを見た、アウシュビッツと沖縄と(1)

 

「ただ涙を流すのではなく“分断する世界”とアウシュビッツ」(NHK-BS1226日)

旧聞に属するが、226日、国会や報道では、森友学園問題で大揺れであったが、夜は、NHK-BS1スペシャル「ただ涙を流すのではなく“分断する世界”とアウシュビッツ」を見ていた。番組予告では、「100万人を超えるユダヤ人が虐殺されたアウシュビッツ強制収容所。その悲劇を伝え続けているのが、世界各国出身のガイドたちだ。今、ガイドたちは、大きな危機感を抱いている。移民や難民をめぐり広がる排斥の声。世界が分断を深める中で、自分たちは何を伝えるべきなのか。ただひとりの日本人ガイド・中谷剛さんも語るべき言葉に悩んでいる。揺れるアウシュビッツのひと冬を追った。」とあった。

 

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 NHK-BS1、2017年226日午後8時~

 

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 NHK番組紹介ホームページより

 

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構内の収容所バラックのすぐ近くに、収容所長の住宅があり、家族とともに住んでいた。そこには平安な日常生活が営まれていたのだろう。私たちが見学した折は気づかなかった。NHK番組紹介ホームページより

 

2010年5月、私たち夫婦は、ポーランドのクラクフに2泊した折、アウシュビッツビルケナウ強制収容所見学のバスツアーに参加した。雨の朝、ホテルを出て、あちこちで道路工事の真っ只中の街に迷いながら、バスの発つマテイコ広場までたどり着くのに苦労した。ともかく、「英語コース」のバスに乗り、現地でも英語のガイドによる案内で、心細い思いをした。ただ一人の日本人ガイド、中谷剛さんとの縁はなかったけれども、この番組は逃してはならないと思った。

中谷さんは、1966年生まれ、1991年からポーランドに住み、猛烈な勉強をして、1997年アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所博物館の公式ガイドの資格をとり、ポーランドの女性と結婚されて、今もガイドの仕事を続けている。

日本から来た若い見学者のグループを伴い収容所構内や幾つもの展示室を案内するとき、ドイツナチス時代に、なぜこうした民族差別による大虐殺がなされたのかを、言葉を選びながら説明し、見学者が自ら考えるように、という思いを伝える。中谷さんは、偉そうには解説はできないと、丁寧で慎重な姿勢を崩さず、見学者に接しているようだった。同時に、ポーランド人、ドイツ人のガイドたちの悩みも語られてゆく。決して声高ではないけれど、力強く訴えるものがあった。ただ、ドイツ国民が、なぜナチスに雪崩れ打って、ここまでの虐殺がなされ得たのか、と、そこでなされた残虐の限りの実態を、そのファクトを検証する場でもある、アウシュビッツで起きたことをもっとストレートに語ってもよかったかと思った。

 

  私のわずかな経験からも、目の前に示される歴史上のファクトには、筆舌を超えるものがあり、それを次代に継承すること自体が、過去への反省と責任を伴って初めて成り立つことだと思えたからである。加害国のドイツ国内においてもかつての強制収容所跡を残し、ベルリンの中心部、国会議事堂直近の場所に、ホロコーストの碑を建設、様々な歴史博物館において国家としての反省の意思を示したドイツを思う。それに比べて、「自虐史観」と称して歴史教科書において、日本の侵略戦争の事実を少しでも薄めたい政府、民間人の集団自決に軍の関与がなかったような、曖昧な展示しかできない国立博物館、原発事故の原因究明がなされないまま、被災者切り捨て、原発再稼働を進める政府、教育勅語礼賛の安倍首相夫妻・・・を思うと、その格差に愕然とする。話はどこまでも拡散してしまうのだが、以下の、かつての旅行の記事も参照していただければ幸いである。

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展示室より

 

<当ブログ参考記事>

◇ポーランド、ウィーンの旅(2)古都クラクフとアウシュビッツ

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/05/post-f56e.html

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◇ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20289)(ザクセンハウゼン強制収容所ほか)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141020289-91f.html

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2016年8月 8日 (月)

8月6日、目黒五百羅漢寺の桜隊原爆殉難者追悼会へ

 

 

 猛暑が続く東京、目黒の五百羅漢寺に、夫と出かけた。夫はすでに何回か参列しているが、私は今回初めてだ。早朝から法要は始まっているが、私たちが参加したのは本堂前の原爆殉難碑「碑前祭」からで、住職のお話のあと、ご焼香となった。「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」の碑銘は徳川無声の書により、裏面には柳原白蓮の「原爆のみたまに誓ふ人の世に浄土をたてむみそなはしてよ」が刻まれているという。丸山定夫と園井恵子、高山象三、仲みどり、森下彰子、羽原京子、島木つや子、笠絅子、小室喜代9名の慰霊碑である。

Dscn0481

 

 「移動演劇さくら隊」とは、戦時の統制下で従来の演劇活動が出来なくなった演劇人たちだったが、丸山定夫らは、苦楽座を結成、後、さくら隊として、1944年から45年にかけて、内閣情報局管轄下で地方巡業中であった。その根拠地というか、疎開先が広島だったのである。詳しくは、以下のHPを参照。

 

「桜隊原爆忌の会」HP

http://www.photo-make.jp/sakura.html

 

Dscn0482
慰霊碑の右側の供花に「佐々木愛」の名が読める


 そして、今日は、新藤兼人(
19122012)作品『さくら隊散る』(1988年)が上映されるという。エアコン直下で少々冷房が効きすぎるくらいの席であった。「さくら隊」の成り立ち、活動の足跡、犠牲者の悲惨な最期までを克明にたどる。即死ではなかった、丸山定夫も厳島で、園井恵子と高山象三の二人は神戸の知人宅で、仲みどりは、やっとの思いで広島から東京の実家に逃れ、入院先の東大病院で亡くなるまでの痛苦の数日をリアルに再現している。彼らと同じ団員ながら、偶然、広島を離れていて助かった俳優の池田生二(19121998)と槇村浩吉(桜隊事務長、19102001、犠牲者小室喜代の夫)が案内役を務めて、ゆかりの場所や人を訪ねるのである。また、丸山定夫と昭和初期からプロレタリア演劇の同志として、新劇、大衆演劇、映画などを支えてきた人々、千田是也(19041994)滝沢修(19062000)小沢栄太郎(19091988)宇野重吉(19141988)山本安英(19021993)杉村春子(19061997)らが、証言者として、昭和前期、敗戦までの過酷な演劇の歴史、そこにおける丸山定夫や園井恵子らについて語るのである。私などは、1950年代から60年代の映画全盛時代に、スクリーンで見慣れた滝沢、小沢、宇野らであったし、証言者として登場する嵯峨善兵、薄田研二、松本克平、浜村純、殿山泰司らも、映画の名わき役、あるいは敵役として、当時は知らないまま見ていたが、彼らも筋金入りの演劇人だったことを改めて知ることになる。私が観た舞台は数えるほどで、滝沢の「セールスマン死」と宇野重吉くらいだったか。映画のナレーションは、聞き覚えのある声の乙羽信子(19241994)であった。杉村春子の証言を聞いていると、その語り口も、内容も実にドラマティックて、さすがと思ったのだが、小津安二郎作品などで、杉村が「あら、あんたたち、もう集まってるじゃい」とか、べらんめい調で他の出演者たちに割って入ってくると、その画面が一気に引き締まる、といった記憶がよみがえる。

 出演者の生没年は、家で調べてみたのだが、1987年からの制作、1988年公開の映画だったのだが、宇野や小沢は最晩年の証言であったし、百歳を迎えた新藤は別として、公開後の10年内外で多くの方が没している。この映画は、まさに貴重な証言集でもあったのである。

 私は、「さくら隊」で最も若くして亡くなった高山が、薄田研二夫妻の長男であったこと、槇村が敗戦後、真山美保と新制作座を立ち上げたことなどは、浅学にして知らなかった。案内役の池田生二も見たことのある風貌だと思ったら、1960年代の映画と、以降はテレビの刑事ものや時代劇に数多く出演していることもわかった。

 

 会場では、思いがけず、昔の職場の同僚と会い、旧交をあたためることができた。この日の参列者120人ほどと。


 さらに五百羅漢様たちに敬意を表してお参りもすることができた。 耳の痛い「ことば」も多い。

「周りに左右されず信念を貫く」
「おのれを制御できる人ほど自由である」
「広く学び、深く究める」
「多くを聞いて、少しく語る」・・・・。


 懇親会は失礼して、目黒駅に出て、私は、友人と久しぶりのおしゃっべりに時を過ごした。

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2014年7月16日 (水)

<ストップ詐欺被害!私はだまされない>だって?!そっくり政府とNHKにもお返ししたい

NHK(首都圏)で<ストップ詐欺被害!私はだまされない>が始まる

NHK総合テレビ夕方6時からの全国ニュースのあと、「首都圏ネットワーク」で、331日から「詐欺被害!私はだまされない」のコーナーが新設され、いまでも続いている。「オレオレ詐欺」の類の被害事件が頻発し、その勢いが止まらないらしい。だます手法は日に日に進化し、多くの高齢者たちが被害に遇っている。私の住む佐倉市でも、防災放送は、毎日のように、「不審な電話に注意せよ」との呼び掛けが続いている。被害額は全国で年間500億に上るという。事件の内容をテレビや新聞で知るかぎり、なぜ、そんな言葉に騙されてしまうのだろうと思うし、なぜ何百万円も、ときには何千万の大金をも手放してしまうのだろう、と不思議に思うことが多い。それだけ、言葉巧みに危機感をあおることに長けているのだろうと思う。

番組では、初回「携帯電話の番号が変わった」に始まり、毎回「カバンをなくした」「同僚が行くから渡してほしい」「あなたの口座が犯罪に使われている」「お金が返ってくる」「レターパック」などのフレーズが混じる電話が来たら、まず怪しいから、通報せよ、と直近に起こった実際の事件を例に解説するものだ。このキャンペーンでは、キーワードは繰り返されつつも、実際の事件は、より最近のものに変えられているので、臨場感はある。

その合間には、犯人サイドが悪用する「電話帳」「名簿」「個人情報」「親切心」「劇場型」などへの注意喚起もなされている。それは、それで、被害防止の一助にはなっているのだと思うが、効果はどれほどか。

「シッカリと」「テイネイに」と言ってだますのは誰?

私はといえば、毎回「私はだまされない」のコーナーでアナウンサーが丁寧に説明すればするほど、別の思いが頭をよぎる。政府、とくに安倍首相の記者会見や国会答弁を聞いていると、よくもまあ、次から次へと、国民をだまし続けているな、と思うからである。それ以前ももちろんなのだが、ともかく、一昨年の選挙公約から始まって、少なくとも国民との約束を次から次へと破っているではないか。そして、それを伝えるNHKの報道は、先に報道したこととの矛盾点は何のその、政府の広報に徹するばかりで、公共放送の役割を放棄しているに等しい。

首相が「国会ではシッカリと審議いただき、国民にはテイネイに説明していく」と答えるならば、それはもう「短期間の審議でしのぎ、審議打ち切りや強行採決に持ち込み、国民の疑問を押し切る」と同義といってよい。一度決まったことや国民にとって不都合なことを進めるには、手続きにのっとって「シュクシュク(粛々)と進める」というのも常套手段である。「シッカリと」「テイネイに」「シュクシュクと」がキーワードと言える。昨年の特定秘密保護法の折も衆参合わせて68時間の審議で打ち切り、126日の可決に持ち込んだ。先の71日の集団的自衛権行使容認の閣議決定については、71415日の衆参予算委の集中審議で済ませ、関連法案の改正は、来年の4月以降の一括提案、安保担当大臣新設で一気に片付けようという目論見である。なぜ、来年なのかと言えば、今年の11月沖縄知事選、年末消費税10%への引き上げ判断と日米ガイドライン改訂、来年春の統一総選挙を控えているので、本来ならば、その前に審議が必要なのだが、あえて先延ばしにするのは、公明党や選挙民への刺激をしたくないという策略にも近い。「シッカリと」「テイネイに」は、当たり前のように、どんどん遠のいていく。

そのとき、NHKは

一方、それを報道するメディアは、とくにNHKでは、昨年の特定秘密保護法成立に向けての与野党協議、今回の集団的自衛権行使容認の閣議決定に向けての自公協議の経緯についてのみ、それこそ「シッカリと」「テイネイに」報道したとしか言いようがない。肝心の「特定秘密保護法の問題点は何なのか」「憲法は集団的自衛権を認めるのか」をあっさりとスルーして、検証をしないまま、「客観報道」=「政府広報」を貫く。しかも、この間の中国、北朝鮮、韓国の不穏な政情や領土・領海問題での摩擦などを何回となく詳細に、「シッカリと」「テイネイに」報道することが顕著になり、日本を取り巻く環境への危機感を募らせるのに熱心であった。とくに、政府によるNHK人事への露骨な介入、新経営委員、新NHK会長の就任後の発言は、ことごとく、公共放送の中立・公平の理念を真っ向から崩す内容のものであり、同時に、現に、ニュースにおける報道内容や番組内容の政府広報化への偏向が顕著になっていった。まだ、一部の新聞やテレビ番組がかろうじてジャーナリズムの視点を失わずに健闘するのを目の当たりすると、NHKの堕落ぶりは明らかだろう。

特定秘密保護法が可決されたときも、今回の集団的自衛権が閣議決定されたときも、その後に及んで、たとえば「ニュース7」では、大きなパネルを作製して、武田アナウンサーが、大股で行き来をしながら、ややたかぶった調子で、その問題点を解説し始めるのである。そして担当記者との質疑、これもよく目にするNHKのニュースの光景なのである。与野党協議、与党協議の攻防戦・駆け引きがあたかも問題の焦点であるかのようなすり替えを行うのもいつものことだ。

その駆け引きが「やらせ」であり、国会での「質疑」に至っては

 71日午前中までのギリギリの与党協議というパフォーマンスを見せた「駆け引き」は、筋書き通りの茶番だったことは、ほぼ信じていいのだろう。というのは、620日の『西日本新聞』(「集団的自衛権を追う」)によれば、いわゆる集団的自衛権行使容認の新3要件は、613日の与党協議の会合で、高村自民党副総裁が私案として提出されたことになっているが、実は、その下書きは、北側公明党副代表が、内閣法制局に作成させたものであった、というのである。あとは、お互いの譲歩を示すために小出しにして71日に至ったということである。

自衛権行使「新3要件」公明が原案 自民案装い、落としどころ 

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/politics/article/96159

同様の「事実」は、今日716日の『読売新聞』(「憲法考9」)でも関係者の取材をもとに「北側案は法制局との<合作>」と報じられているのだから、その信憑性は高いとみてよい。とすると、520日から11回の密室の与党協議とは、何であったのか。それを、ことさらに集団的自衛権の焦点であるかのように報じる「ノー天気さ」加減にあきれる。

さらに、714日・15日の衆・参予算委での集中審議における高村議員、北側議員が質問に立ち、首相や横畠内閣法制局長官が答弁するという、その内容の空しさがいっそう際立つのであった。首相は「国民の命と暮らしを守るため」を繰り返すばかりながら、その一方で、新3要件などさえすっ飛ばして、他国の戦闘で石油の供給がストップして、国民の経済生活に支障をきたせば、自衛隊による機雷掃海も可能だといい、後方支援による武器使用も可能だという風に、拡大の一途をたどっている。

それでも、憲法の基本的な理念を変更していないと言い続けるのである。

「政治の現実ってそんなもんだよ」と納得するのが大人の対応?なのだろうか。

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2014年6月 5日 (木)

ドラマ「サイレント・プア」が終わった~現実とのギャップ

NHK火曜のドラマ10「サイレント・プア」が終わった。社協職員の深田恭子が、弱者には根気よく寄り添い、前向きに生きる力を引き出すという役柄で、自らも阪神淡路大震災の折、弟の手を離したので死なせてしまったという自責の念に苛まれているという設定だ。全回を見たわけではないが、その主人公は、ごみ屋敷にこもる老齢の女性、引きこもりの青年、認知症の母を抱える主婦、余命を知ったホームレス男性、東日本大震災の折、施設の職員として高齢者を助けられなかったと、これも自分を責める避難者である男性とその家族、一話、一話、どれも明るい兆しが見えて完結する。こんなにうまくいくのかな、現実はこんなものではないだろう。べテランの助演者に囲まれての深田の演技は、やはり単調さが目立った。繰り返されるクローズアップの表情には、心の葛藤が見えにくい・・・。ドラマの舞台は東京だが、豊中市の社会福祉協議会の全面的な協力をあおいでいるという。ドラマでは、社会福祉協議会の組織や業務、行政との関係、その位置づけが曖昧だし、職場の人間関係は図式的である。いま、ほとんどの社協の現場でその職務を担っているのは非正規・非常勤職員であり、地区社協のボランテイアである。

豊中市と言えば、2011年1月、当時の報道によれば、元資産家の60歳代の姉妹が唯一の所有となってしまったマンションの自室で、数十円の小銭しか残っていない、餓死状態の遺体で発見され、死後2週間以上経っていたという事件、が思い出される。相続した不動産の運用に失敗―その不動産に付け込まれ、多額の借金、相続税の滞納、差し押え、無収入への道をたどり、電気やガスもすでに止められていたという。裁判所執行官が豊中市役所担当課に連絡、相談するよう何回か張り紙やポスティングをしたものの、双方、それ以上のことはしなかった、という。豊中市男女共同参画推進センター「すてっぷ」初代館長でありながら、不当解雇事件で市や市議会と闘い、最高裁で勝訴が確定(2011120日)した三井マリ子さんも、当時、このニュースを聞いて、自身のブログ「三井マリ子の世界」で「救命力世界一宣言の豊中市で孤独死」(2011111)で次のように記していた。

「姉妹の住まいの周辺には病院もいくつもあり、駅も近い、市役所だって1駅だ。そんな環境にいて、なぜ餓死するまでほおっておかれたのか。市の福祉担当者や市議会議員は、死に至る前に、なぜその徴候を嗅ぎとれなかったか。電気ガス会社はなぜSOSを発しなかったのか。個人情報云々で善意のサポートが入り込めない事態を招いてはいなかったか・・・。」

「とよなか このまちいいな 救命力世界一宣言」というのが、20101月、豊中市のキャッチフレーズになったそうで、市役所や公用車にはこの標語の幕が付されていたそうだ。現実とのギャップは大きい。豊中市社協のコミュニティ・ソーシャル・ワーカーCSWで、いまは管理職となっている勝部さんという方が「CSWの星」のような形で活躍中のようであるが、社協をめぐる課題は、まだまだ不透明で重いはずだ。

ひるがえって、地元の社協だが、かねてより注視していた、佐倉市からの人件費補助について若干の動きがあった。次の記事でまとめたい。

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関東梅雨入りの6月5日、アマリリスが開いた

 

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2014年2月28日 (金)

「すてきなあなたへ」68号をマイリストに掲載しました

「すてきなあなたへ」68号がようやく発行されました。マイリストをご覧ください。久し振りの発行です。皆さんのご協力で、何とかここまで。しばらくは続けていきたいと話し合っています。
以下のURLクリックしてください。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/sutekinaanatae68.pdf

(目次)
佐倉市議会って、どんな?
―あなたが選んだ市議は何をしていますか

近頃の〈NHK〉っておかしくないですか?

菅沼正子の映画招待席40『ウォルト・ディズニーの約束」
~名作「メリーポピンズ」誕生秘話

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