2022年3月 8日 (火)

責任のとり方~ドイツと日本と

                                                                                                                                                                                                                                                                         

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 やや旧聞に属するが、1月27日、ドイツ連邦議会主催の「ナチ犠牲者のための追悼式典」が行われたという。なぜ1月27日かというと、ポーランドのクラクフ郊外にある、ナチが作った最大の絶滅収容所、アウシュヴィッツ強制収容所が、1945年1月27日に旧ソ連軍に解放された日だったからである。ナチによるユダヤ人大量虐殺がなされた象徴的な場所にもなっているからだという。
 追悼式典のことは、「ベルリン通信」の池田記代美さんの「連邦議会で行われたナチ犠牲者のための追悼式典」というレポートによって知った。
(『みどりの1kWh』https://midori1kwh.de/2022/02/13/13180 2022年2月13日)
 
1996年、「想起に終わりがあってはならない」と当時のロマン•ヘルツォーク大統領(在任期間1994-1999) が、犠牲者を追悼する記念日の制定を提案してから始まったというから、そんなに古いことではない。以来、ドイツでは官庁が半旗を掲げ、各地のナチの加害の歴史を継承する記念館、記念碑を中心にさまざまな行事が行われる。

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 2021年1月27日、アウシュヴィッツ強制収容所跡地で開催された追悼式典は、コロナ禍のためオンラインで開催された。

 一方、国連は、ホロコーストには、国や民族、宗教をこえて全人類に普遍的な教訓があると宣言し、教育の場でとりあげていこうと加盟国によびかけ(第60回国連総会決議 2005 年11月1日)、アウシュヴィッツが解放された1月27日を「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」に定めている。そして各国、各地で、追悼行事が行われるようになった。
 UNIC国際連合広報センター
https://www.unic.or.jp/news_press/info/11945/

 日本ではというと、この日に何かなされているのか、その報道というのにもあまり接したことがなかった。この日の追悼行事というのではなく、以下のような関連施設で、ナチによる差別や大量虐殺の暴挙を後世に伝えるべく、さまざまな展示や行事がなされていることがわかった。

ホロコースト記念館(広島県福山市聖イエス会御倖教会内、1995年6月~)
=HOME= of HEC (hecjpn.org)

アンネ・フランク資料館(兵庫県西宮市アンネのバラの教会内、1980年~)
http://www.annesrose.com/

NPO法人ホロコースト教育資料センター(東京都品川区、1998年~、2003資料館閉館移設)
https://www.npokokoro.com/https://www.npokokoro.com/

杉原千畝記念館・人道の丘(岐阜県八百津町、2001年3月~)
http://www.sugihara-museum.jp/

人道の港敦賀ムゼウム(福井県敦賀市、2008年3月~、2020年移設リニューアル)
https://tsuruga-museum.jp/

 しかし、私は、ドイツでは、連邦議会において追悼式典が続いていることに驚いた。冒頭の池永さんのレポートによれば、今年の式典では二人の来賓がスピーチをしている。
 一人は、幼少時からナチによるさまざまな迫害を体験し、チェコのテレージエンシュタット強制収容所から生還し、アメリカに渡った女性アウアーバッハーさん(87歳)で、ナチに殺害された150万人の子どもたちのことを忘れないで欲しいと訴えている。もう一人は、イスラエル議会の議長ミッキー・レヴィさんで、ナチ時代の帝国議会が1934年3月「全権委任法」を採択し、自ら立法権を内閣に手渡し、ナチの独裁政治を可能にした歴史を振り返って、600万人というホロコーストの犠牲者を数字で理解するのではなく600万の命と物語があったことを思い起して欲しいと訴えた。このように、生き延びた体験者の話を聞くことを議会自らがしているところに、ドイツと日本の大きな違いをまざまざと見せられる思いであった。

 日本の国内外における戦争犯罪に対する責任追及は、自らの手でなされることがなかったことが、アメリカ従属の、今に至る日本の戦後史を決定的なものにしてしまったのではないか。昭和天皇の責任論や退位論が活発になされていた敗戦後を思い起すべきではないか。事件や不正が発生して、閣僚や官僚がようやくその職を辞任しても、罪に問われることはなく、どこかで生き延びている。会社の幹部がそろって頭を下げて、一件落着といったケースがあまりにも多すぎる無責任体制が怖い。

 今のプーチンとその指令に従う人々の責任はどうなるのだろう。考えることをやめてしまう恐ろしさ、いわゆる「凡庸なる悪」という「言葉」に逃げ込んではならないと思う。

*************

 私たちがワルシャワとクラクフを訪ねたのは、2010年5月であった。その年、ワルシャワは、ショパン生誕200年ということで盛り上がっていた一方、「カチンの森」事件から70年ということで、さまざまな行事が企画され、街角にもあちこちに追悼の写真とメッセージが展示がなされていて、いささか驚いたことを思い出す。

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ワルシャワ空港の歓迎パネル

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上記は、一日中雨のアウシュヴィッツ強制収容所跡、昼食をとることも忘れて。

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クラクフ城の入り口にも「カチンの森」のパネルが。

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ワルシャワからウイーンに移動し、近郊のホイリゲを訪ねると、こんなパネルも。

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2022年3月 3日 (木)

ロシアのウクライナ侵攻への抗議、何ができるのか

 毎日、ロシア国防省の侵攻映像や各国メディアによるその被害状況やウクライナ市民の声に接するたびに、心が痛み、いったい私は何をすればいいのだろう、と<重い腰>を上げられないでいる。実際、私はいま、整形外科のリハビリで通院している身でもある。

  かつて、映画館に行くたびに見たい映画の前の「ニュース映画」での朝鮮戦争、写真や映画で知るベトナム戦争の戦闘や悲惨な場面を思い出してしまう。いまは、茶の間にいても、痛ましい情報が目に飛び込んでくる。

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キエフ市ネイのテレビ塔爆破される(ウクライナ内務省フェイスブックより、3月1日)

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キエフに次ぐ第二の都市、ハリコフ市庁舎前(AFPbbbewsより、3月1日)

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キエフ北部、壊された橋を渡る市民たち(AFPbbnewsより、3月1日)

  友人からは、change.orgによるウクライナ侵攻反対署名の呼びかけがもある。しかし、change.orgの署名画面を見ていて、いま誰が署名したか、署名総数が刻々と報じられる仕組み、そして、この署名は、いつ、どこで、だれに、どうやって届けられるのかが分からない。開設者にもその全貌が把握できないばかりか、一人が何度でも署名が可能であり、その個人情報の行方も不安である。その署名の数に焦って、署名し、そこでの達成感はあるかもしれないが、そこで終わってしまうのではないか・・・。  紙の署名もネット署名も、明確な主題と主催者、期限、あて名が肝心である。そして次の行動につなげてゆくことも重要な目的にならなければならない。いつか、どこかで、すでに署名したかもしれない署名を迫られることもしばしばであった。コロナ禍にあって、集会やデモもままならないなか、ズームでは、なかなか盛り上がらない昨今ではある。

  しかし、しかし、今回の各国の抗議デモの報道写真を見る限り、場所を埋め尽くす、その数の多さに驚くのである。そのメッセージの多様さにも。とくに、その場所が、かつて訪ねた街の、あの通あったり、広場だったりすると、私はといえば、単純ながらも そこに参加しているような気分になるのだった。プラハだったり、パリやニースだったり・・・。日本政府はもちろん、自戒込めて言うならば、私たち日本人の行動は、どれほど有効なのだろうか。自己満足と言われるかもしれないが、今の私は、一人ででも、家からでも、ロシア侵攻反対とウクライナ復興支援の意思表示を発信していきたい。

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ロンドン、ロシア大使館前(2月24日)

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ベルリン、ブランデンブルグ門前(2月24日)

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ウイーン(2月26日)
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渋谷駅前(2月26日)
フォト特集】「戦争反対」世界に広がる ウクライナ侵攻に抗議 ...
ワシントン、ホワイトハウス前(3月2日)、ワシントンには出かけたことはないのですが。

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モスクワ、プーシキン広場をブロックする装甲車(2月24日)、こんな光景は、日本でも、国会議事堂付近ではよく見かけます。

(上記いずれもAFPbbnewsより)

 それにしても、私は、ウクライナの歴史についてあまりにも知らなすぎた。教科書に登場するクリミア戦争とナイチンゲール、穀倉地帯のイメージ、映画史には必ず登場するオデッサの階段シーン、ソ連邦下のウクライナ。映画やニュースで知るナチス占領下のウクライナ、オレンジ革命と女性闘士、そして、近年のユシチェンコ大統領の暗殺未遂事件、ロシアのクリミア併合、コメディアンの大統領誕生など、実に断片的な情報でしかなかった。その現代史はつねにソ連やロシアの脅威と隣り合わせだったことは知りながらも、点と点、そのつながりや間の出来事には無関心に近かった。

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2022年2月21日 (月)

無内容な答弁が続く、総理、「しっかり」してよ!(2)

 朝食を終えて、一段落、きょうが最終日らしい衆院予算委員会の中継を10時から一時間ほど見ていた。立憲の大串議員と江田議員の質問だった。よくもまあ、国会答弁用語、岸田首相答弁用語満載の答弁であった。主に物価・原油高対策、コロナ対策についてであった。「しっかり」の頻出はもちろんだが、どんな質問、問題についても以下の言葉が繰り返されていた。

①(現状や実態について)「認識しております」 「承知しております」

②(3回目接種の遅れ、救急搬送不能多発、自宅療養者の死亡など問われて)「現場の”混乱”につきましては・・・」

③(対策を問われて)「重層的に」「あらゆる選択肢を排除せず」

④(決断を迫られて)「注視してまいります」「用意しております」「検討しております」「努力してまいります」

 現状や実態について「認識」はするが、政策の不備や失敗は現場の「混乱」と言い換え、「重層的に」「あらゆる選択肢を排除せず」は、対策の何一つも満足に機能していないことの言い訳にしか聞こえない。どんな対策を、どんな選択肢の何をかを示すことがない。
 高齢者の3回目ワクチン接種の遅れ解消、前倒し実施はについては、「とにかく、皆さんに足を運んでいただくこと」が大事と繰り返していた。これって、まさに「自己責任」ですよね。気楽なものなのですね。現場では、訪問接種の努力がなされているというのに。

   私の場合は、かかりつけ医からは、当初よりワクチンの供給が前回の半分なので、予約はかなりむずかしいと言われていたし、接種券の配達を待ち受けて、予約すべく、パソコンに向かったが、もうすでに、大方は埋まっていて、モデルナの集団接種しか残っていなかった。モデルナについての副反応の情報が先行し、政府が慌てて、交差接種の安全性や有効性を強調しても、にわかに信じがたく、不安が先だったこともある。

 

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2022年2月19日 (土)

無内容な答弁が続く、総理、「しっかり」してよ!

・さっきから「しっかり」ばっかり言っている総理の会見しっかりしろよな(千葉 山本信明)「読者歌壇」(荻原裕幸選)『現代短歌』2022年3月)

 ご近所の山本さんの短歌である。重厚な作品も多い山本さんだが、「やったな」というより「やられたな」の思いだった。たぶん昨年12月21日の記者会見に取材したものだろう。私もこの「しっかり」を詠んでみたかったのだ。

 2月17日、岸田首相の2か月ぶりの記者会見、何も変わってはいなかった。短歌はできなかったが、やはり、どうしても調べておきたかった。首相官邸のホームページには、会見の文字起こしが収録されている。改めて読んでみよう。数え間違いはあるかもしれないが、この「しっかり」がなんと19回!は確認できた。さすがに冒頭発言は、読み違いや読み飛ばしがないように「しっかり」原稿を読んでいたようで、「しっかり」は登場しなかった。ところが、質疑になると、俄然、頻発してくるのである。たとえば、以下のような具合である。ただの言葉の上げ足とりではなく、岸田首相の発言の無内容を象徴しているようではないか。それに、記者会見をNHKの夜の7時のニュースにぶつけ、ジャックし、NHKは国営放送と化す。

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コロナの感染法上の2類・5類の引下げの問題
 「引き続き厚生労働省の審議会等において、政府としてもしっかりと専門家の意見も聴きながら議論は続けていきたいと考えています。」

ワクチンの3回目接種について
「更なる接種の加速化に向けてしっかり努力をしていきたいと思っています
(他の記者からの再度の質問)
「是非希望する入所者の方等への接種はしっかり進めていくべく全力で取り組んでいきたいと考えております
「安全性、さらに有効性についてしっかり説明しなければいけないということで、SNSももちろんですし、様々なメディアを通じてその有効性、あるいは安全性についてしっかり説明をさせていただいている」

水際対策について 
「検疫体制等をしっかりにらみながら、この数字につきましてもどうあるべきなのか、しっかり検討は続けていきたい」

最悪の事態を想定しての対策について
「昨年の夏の状況をしっかり振り返って、十分な医療提供体制をしっかり用意」「一つ一つももちろん大事でありますが、こうした「全体像」をしっかり用意することによって」「この「全体像」をしっかりと説明することによって、国民の皆さんに少しでも安心を感じていただけるように、努力を続けていくことが大事であると思います

原油高はじめ物価高が国民に与える影響について
「大きな問題意識をしっかりと持ちながら、今後これに何を加えるべきなのか、何を改良すべきなのか、これはしっかり議論を続けていきたいと思います。具体的な状況をしっかり見つめながら、具体的な対策、用意してまいります」

米軍基地のコロナ感染状況/ゲノム解析について
「日米でしっかり協議して」「医療提供体制をしっかり充実させること、これが地元、県民の皆さんの命や健康を守る上で重要であるという観点から、そちらの充実にまずはしっかり努めていかなければならないと思っています

 折しも、今朝の朝日新聞で、プチ鹿島が、衆院予算委員会の首相答弁を分析していた(「首相は<後回しの人> 野党はどんどん突っ込んで」『朝日新聞』2022年2月19日)。首相が答弁でよく使うのが「認識しております」「謙虚に受け止めます」「引き続き考えていきたい」だという。一見「聞く力」を発揮しているようだが、ただ受け止めているだけで、「後回し」にしているに過ぎない、と厳しい。鹿島は「時事芸人」と自称しているそうだが、新聞14紙を読み込んでいるとかで、報道番組の並のコメンテイターよりよほど見識があるかもしれない。かつて、レギュラーで出演していたテレビ番組があったのだが、いまは、文春オンラインでの連載が面白い。

 17日の記者会見でも、上記のゴシックの「しっかり」とセットでも見られる「努力」「全力」の文言も、ほかの何か所かにも登場する。「後回し」というのか、ただの「言うだけ努力」の人ではないのか。記者たちの質問ももちろんだが、予算委員会の野党の質問すら「受け止め」や「見通し」を尋ねることが大半だから、「しっかりと努めます」の答弁で流されてしまうのだ。 現場の実態、データやファクトに基づいて、政府の不備を質す具体的な対案の実現を迫る質問を展開してほしい。しっかりしてほしいのは、記者や野党の方もなのである。

 

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2022年1月24日 (月)

1929年、貞明皇后は詠んでいた!「世の人にひろくたからをわかつこそまことのとみといふべかるらめ」

 論文とも言えない、エッセイにしてはいかにも気の利かない原稿ながら、「貞明皇后の短歌」について書き終えた。活字になるのはいつ頃のことか。
 貞明皇后(1884~1951年)は、明治天皇には皇太子妃として、大正天皇には皇后として、昭和天皇には皇太后として、天皇三代に仕えた人だった。貞明皇后の歌集や伝記などを読んでいると、15歳で、嘉仁皇太子と結婚し、病弱な夫を助け、女官制度の改革などにも取り組み、天皇家の一夫一婦制を確立したが、その苦労も格別だったことがわかる。天皇と政府、自身と政府との間での自らの立ち位置、長男、後の昭和天皇との確執などに悩みながら、慈善事業や「神ながらの道」に活路?を見出していく過程などを知ると、その健気さと痛ましさに、同情の念さえ覚え、のめり込んでしまいそうになる。しかし、片野真佐子さんの『近代の皇后』(講談社 2003年)と原武史さんの『皇后考』(講談社 2017年)の政治思想史からの論考に助けられながら、冷静さを取り戻すことにもなった。 そんな中で、私は、つぎのような短歌に立ち止まり、しばし考えさせられた。

・かなしさを親はかくしてくにのためうせしわが子をめではやすらむ」(1907年)

・生きものににぎはひし春もありけるをかばねつみたる庭となりたる(1923年)

・世の人にひろくたからをわかつこそまことのとみといふべかるらめ(1929年)

 1首目は、日露戦争後に詠まれたものだが、太平洋戦争下では、決して公には歌ってはならぬテーマであったろう。2首目は、関東大震災直後に詠まれたもので、「庭」はどこを示しているのかは定かではないが、「宮城前広場」は、震災直後は三十万人の避難民であふれかえっていたという(原武史『皇居前広場』光文社 2003年)。3首目は、1929年世界恐慌の不況時の歌で、富の格差への疑問が率直に詠まれている。1・3首目は、『貞明皇后御歌集』(主婦の友社編刊 1988年)に収録されているが、2首目は、その生々しい内容からか、上記『御歌集』には収録されておらず、伝記の一つ『貞明皇后』(主婦の友社編刊 1971年)に記されていた1首だった(148頁)。
 3首目は、「成長と分配の好循環?」などと岸田首相は叫んでいるが、この歌を「しっかり」読みこんで欲しいとさえ思う。三首とも、皇后らしからぬ、現代にあっても決して触れてはならない領域、暗部を詠んでいて、あの平成の美智子皇后だって、詠みはしなかった。
 アメリカの富裕層や欧米9か国の富豪たちが「今こそわれら富裕層に課税せよ」と提言しているというのに、日本は、日本企業は、富豪たちは何をやっているのか。

参照
ソロス氏ら米大富豪「超富裕層に課税を」(日本経済新聞 2019年6月25日)

世界の富豪102人が19日、「今こそ私たち富裕層に課税を」(2022年1月20日 AFP=時事)

 

 

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2020年1月28日 (火)

60年前の1960年、50年前の1970年、今、何が変わったのか(2)1970年の私

 身辺の資料を整理していると、思いがけないところから、意外なものが見つかり、思わず読み入ってしまい、まるっきり片付かない日があったりする。私が在職していたころ、1970年代の国立国会図書館の組合関係の綴りが出てきた。私は、組合の役員をやったこともないのに、総会資料や機関誌、情宣ビラの一部などが結構まとめて残されていた。私は、レファレンス担当の法律政治関係の課に在籍、かなりの頻度で組合役員を出すような「自由な」雰囲気の職場だった。入館当初、直接の上司が組合の委員長でもあった。印刷カードのかなふりのローマ字が訓令式だったのを、突如ヘボン式への変更を強行しようとした、鈴木隆夫館長の<外遊みやげ>と闘っていて、館長を辞任にまで追い込んだと意気軒高!に思えた組合だった。周辺の課では、課長を除いて全課員が組合員であった。輪番制で職場委員になったこともある。当時は「婦人部」というのがあって、昇格人事における女性や学歴、それに発足当時来の非試験採用職員への差別などがいつも問題になっていた。それに、産休前後8週間要求(当時は6週間)、保育所難問題、女性職員の宿舎入居資格などが、よく取り上げられていた印象が強い。保育所入所難は、現在に至っても解消されていない大問題であるが、当時、職場内保育所設置が問題が浮上すると、「文化の殿堂たる図書館に、オムツがはためくんですかね」という男性職員も現れたりしたのだった。また、婦人部のあっせんで、「ハイム化粧品」が月一で、館内で店開きするのを手伝ったりした。安くて余計な添加物が少ない化粧品ということで、現在、生活クラブ生協でも扱っているので、私も利用することが多い。ただ、当時、池袋の実家の薬屋では、資生堂化粧品のチェーン店となって、その売り上げアップに必死になっていたころで、私も店に立てば、お客さんの花椿会入会を勧めていたりもしていた。また、女子休養室の新設が実現したので、「利用せねば」と昼休み出かけたりしたが、利用者に出くわすことはまれであった。
 そんな組合活動とは、つかず離れずの職員だったが、ある事件によって、組合というものに、一気に不信感を持つようになってしまった。私と同期入館ながら少し若い職員が、1969年11月16日、いわゆる佐藤訪米阻止闘争で逮捕され、12月初旬に起訴、年末に休職処分となる。組合執行部は、「民主勢力の統一と団結を乱す」から支持しない、組合の機関決定によらない行動だからという理由で救援しないことを決めたのである。
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組合の機関誌『スクラム』222号(1970年1月27日)。1969年の年末にでた休職処分について、各職場代表により特別委員会が設置されたことを報じる。それ以前に開かれた評議員会では、その職員の行動は、組合の決定によるものでもなく、運動方針に沿うものでもないが、基本的人権の観点から、判決前の休職処分の不当であることを確認、今後、執行部は、特別委員会の助言による旨が記されている。

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館内の有志「6/15統一行動への参加を呼びかけた会」から出された『窓』、第1号(1969年6月30日)の巻頭には、「窓をあけましょう。このままでは息がつまりそう。」とある。その編集後記では、「逆セクトは望まない。とはいっても相手のあること、どうなるかわからない。『窓』の誌名はいつでも捨てて良いと思っている。窓は壁よりこわれやすいものなのだから。自らに問い自己理解を深め、新しい意識へ、そのための広場としたい」とあった。「6/15統一行動」とは、中核など8派政治組織と15大学全共闘と市民団体が加わり229団体による「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6・15集会実行委員会」が開いた「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6・15統一行動」で日比谷野外音楽堂における5万人の集会で、デモのさなかに吉川勇一ら71名逮捕されている。誌面は、テーマも自在で、広く内外の政治問題から市民運動の在り方、館内の諸問題を語り合う場であったようだ。出入り自由の集いであったが、私は参加せずじまいで、昼休みの会のあと、処分職員救援や組合批判について熱く語る僚の話を聞くことが多かった。

  各職場での討議が重ねられたが、組合の決定に疑問や不信を募らせる職員も多かった。そして、処分職員を支援する会が発足した。組合は、権利の問題として処分の撤回を求め、公平委員会が開催されることになる。請求者職員の代理人として羽仁五郎や吉川勇一、直接の上司らが陳述した。中山伊知郎委員長と使用者側・職員側各二名と中立代表が衆参議院運営委員長(自民党)という構成の公平委員会のもと2回にわたる公開審査がなされた。

 初めて開催された公平委員会となって、その規程にも様々な不備が指摘される中、館当局も組合も請求者側も苦労が多かったようだ。傍聴者数も限られていたが、私も一回だけ傍聴することができた。傍聴席からヤジも飛んだりして、緊張した雰囲気の中で行われていた。記録によれば、請求者の陳述は、1万字を超えるものであった(『十一・一六佐藤訪米阻止闘争と国立国会図書館―公平委員会の記録』記録刊行会 1971年4月)。陳述で訴えたのは、自分自身の日常の生活を佐藤訪米阻止に賭けることになったのは、<真理は我らを自由にする>という国立国会図書館法前文の精神を冒涜し続けている図書館の日常、「当局者のみならず、組合さえも、その中で昇任昇格や、手当の増額しか考えず、ベトナムの問題もその手段としか考えていない。そんな状況の中で目をつぶることが出来なかったのです。王子で(1968年、野戦病院設置反対デモの野次馬であったとき)機動隊が平然と『黙れ、朝鮮人』と言ってのけるような現実を聞き流していいのでしょうか」と、その動機を述べていた。さらに、「日米安保条約のもとで参戦の道を歩み、しかもその方向がなお一層進められている私たちのまわりにはさまざまな抑圧された状況が作り出され社会不安がうずまいています」、そうした中での「佐藤訪米」「日米共同声明」の持つ意味は何なのか、と訴えている。アメリカのアジアの軍事的支配によって朝鮮、台湾、ベトナム、ひいては日本自身の平和と安全が確保され、日本への沖縄72年返還によって基地が強化されることを前提にするものであるとも述べている。自分がとった行動は「反戦という目的のため」であるにもかかわらず、「図書館内外にわたって好ましくない影響を与える恐れがあると判断し、それらの支障未然にふさぐため」といった抽象的一般的な推測をもって休職にすることは不当であり検察庁と一体となって政治的弾圧を加えていると断ぜざるを得ません」と述べている。この陳述で述べられた状況は、今でも変わっていない上に、処分理由においても「好ましくない」「恐れ」「それらの支障」「未然に」などどいう、具体性のないものであった。

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1970年9月末に開かれた組合定期総会の議案書の表紙と「起訴休職処分反対の闘い」と題した総括部分である。1.組合としての救援活動は行わない。2.館当局の同君に対するいかなる処分にも断固反対し、これを口実とする組合活動への干渉・攻撃と闘う。3.これを機会に安保廃棄、沖縄即時無条件全面返還を真にかちとるため、どう団結を強め闘うかについて積極的に組合内の合議をおこす」とある。

 1970年6月に、公平委員会は、委員の4対3の多数決で、休職処分には違憲性も違法性もなく手続き上も問題なく、承認するという判定がなされた。9月には、休職処分取消を求めて提訴し、行政訴訟の段階に入った。長い準備手続きを経て。4回の口頭弁論の末、1972年11月に原告の請求はいずれも棄却されるという判決であった。

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館内有志による会やミニコミ誌がいくつか出され、組合の朝ビラ、情宣が盛んに撒かれた時期であった。上段は、処分職員を支援する会が70年2月に創刊された「会報」で、途中で「広場」と名を変えている。行政訴訟で第一審の判決が出た後は、部落問題と図書館、図書館創設当時の副館長だった中井正一論など幅広いテーマが載るようになった。下段は、館内の「(1969年)10・11月闘争救援会」発行のニュース。前年の佐藤訪米阻止運動で捕らえられた人たちの統一公判の要求を続けている中で、ニュースによって、日常の私たちからは知り得ない事実を知ることができた。例えば、8号の「監獄法体制の粉砕を」の記事では、新憲法下での1908年の「監獄法」は基本的人権がいかに無視されているかを知ることになる。その後、今世紀になって何度かの改正、最終的には、2007年、まさに100年を経て「刑事収容施設及び被収容者等の諸郡移管する法律」となったが、現在でも、ゴーン被告や籠池被告の長期拘留など問題は絶えない。

 1970年という年は、いうまでもなく、3月には大阪万博が始まり、赤軍派によるよど号乗っ取り事件が起きている。6月23日、日米安保条約は自動延長されるいたる。企業やそこで働く日本人はエコノミックアニマル、モーレツ社員と揶揄される中、新宿駅地下広場にはフォークゲリラと呼ばれる集会も続くという時代であった。そして11月には、三島由紀夫が市ヶ谷で自衛隊決起を呼びかけ、割腹自殺を図るという事件まで起こる。いわゆる日本経済の高度成長のゆがみは「公害」として、その被害は頂点に達し、不備ながら公害関基本法はじめ関連法が成立するのはこの年の年末であった。

 なお、1970年少し前の組合青年部の機関誌『新声』8号(1968年9月30日)は100頁ほどの冊子だが、その巻頭につぎのような詩「青春について」を見出すことができた。この詩の作者滝口雅子さんは、『鋼鉄の足』(1960年)、『窓ひらく』(1963年)などの詩集を持ち、室生犀星賞を受賞した詩人で、当時レファレンス部門の人文関係の担当課に在籍の大先輩で課の場所も近かったので、私も若かったのだろう、臆せず拙い短歌をなどを見せたり、詩や詩人の話を伺ったことなどを懐かしく思い出すのだった。ただ、この詩に関して言えば、滝口さんにしては、かなり甘くて優しい作品にも思えた。当時の私などには、計り知れないながら、滝口さんの詩の中の「窓」や「扉」は果てしなく重く、「死」や「愛」は、深くて暗い水底を覗くような感想を持ったものである。

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 「青春について」滝口雅子
青春は/虹のようなものだ/うっかりしいていると/消えて跡かたもない/虹が空にかかっているうちに/そのまるい橋を渡ろう/そして空までも/旅をしよう/青春の広やかな翼を/惜しげなく/ひろげよう
青春!この不思議な魔力をもつ言葉。いま青春のなかにいて、あなたがどっぷり青春にひたっているために、
(中略)
”若さ”がダイヤモンドに匹敵し、或いはそれ以上であるかも知れないと知ったらーー
”若さは”は宝石です

 そして、個人的なことを言えば、1970年のクリスマスも近い朝、明治29年、1896年生まれの父が他界した。その年の9月、那須高原行が父娘の最後の旅となった。

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当時のことは、すでに、次のブログにも綴っているので、重なる部分もあったかもしれない。

今年の615日は、第一歌集『冬の手紙』(1971年)の頃を思い出す2018619日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/06/615-076c.html

 

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2019年8月31日 (土)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(17)ハンブルグ歴史博物館を最後に、旅も終わる

午後にハンブルグを発って、ドゴール空港乗り換えで、帰国する日がとうとうやって来た。午前中に、きのう休館で見学しそこなった歴史博物館は見ておこう、と今日ばかりは、少し遠回りだが、市庁舎広場を通り越して、jungfernstiegからU2でシュランプ乗り換えでサンクト・パウリへと行く。博物館の中は、私たちにはやはりわかりにくいが、貿易により大発展を遂げた海運都市時代の展示も、ゆっくり見たら面白いのだろうけれど、ともかく現代を中心にということで、大急ぎの見学になった。

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ガイドブック。

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博物館中庭。

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館内から ドームを見上げる

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ナチスの時代。

 見学もそこそこに、はやめにハンブルグ空港に向かい、念のため、荷物がどうなっているか、訪ねてみることにした。そして、係員と一緒に案内されたのが、バッゲジ・トレース・センター、到着時にロスト・バゲッジを申し出たところだ。すると、一緒に探しにということで、ターンベルトの横に置き去りになっている、いくつかの塊の中に、ないかという。え?こんなところにまだほっとかれているの?そしてさらに、そうした荷物が、床いっぱいに置かれている部屋3つくらいまわっても、もちろん見つからない。そして、4つ目ほどの部屋だったろうか、夫が探し出したのである。ナンバーを照合して、落着。何のことはない、ずっとこんな具合に、ほっと置かれたのである。腹立たしいKLMの対応に、怒りが収まらない。ともかく見つかったのだから、良しとしようか。いろいろあったけれど、無事に帰れそうではあった。(了)

 

 

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2018年12月25日 (火)

2018年、「ゴーン、ゴーン」「ヘイカ、ヘイカ」で暮れるのか

1223日は、天皇誕生日ということで、皇居には、8万人以上の人たちが「参賀」に訪れたという。そして、あの「お出まし」に振られている「日の丸」の小旗は、なに?という光景が繰り広げられている。現天皇の即位以降に生れた若者たちも多かったとの報道もあった。これが、国民主権をカナメとする日本国憲法を持つ国の出来事なのか、「明治かよォ」という「化石」のようなツッコミもしたくなる。

 

新聞やテレビでは「平成三〇年回顧」にとどまらず、生誕以降の、天皇85年を振り返る企画も多い。当然、太平洋戦争をはさむ構成にはなるのだが、「815日」の皇居前広場で土下座する人たちの映像に「耐えがたきに耐え」の玉音放送をかぶせる手法は、相も変わらず、23日のNHK「天皇 運命の物語①」でも流された。あの815日の写真や映像は、「814日」のメデイアの「やらせ」ではないかとされているのにもかかわらずである。そして、「国民に寄り添い」「平和を願って」きた平成の天皇夫妻の戦争犠牲者慰霊と被災地慰問の映像ばかりが流される。19481223日は、東京裁判におけるA級戦犯7人が処刑された日でもある。昭和天皇の戦争責任論、退位論がふつうにメディアで展開された敗戦直後の緊張感を忘れてはならないはずである。

 

誕生日に先立っての天皇の記者会見の「戦争のなかった時代に心から安堵」という言葉への違和感を拭いきれないでいる。多くの災害、公害、事故、虐待、過労による犠牲者、自死などによる遺族はどう受け止めただろうか。東日本大震災の原発事故について、「原発事故による死者は一人もいない」と言った閣僚がいたのを思い出すのだった。

 

日産の前会長ゴーンの保釈予想が一転して、再逮捕されたのを受けて「ゴーン、ゴーン」と関係ニュースが騒々しい。これって、内部告発に端を発したというが、最初の逮捕直後の西川社長の会見の時、これほどの桁違いの金銭の移動があったというのに、取締役会が関与してなかったのかという疑問が頭をかすめた。後からの報道によれば、西川社長もサインしている支出であったとか、取締役会ではゴーンの名を伏せての投資決議だったとかの情報も確認されたということだった。まさに、素人の感、庶民の感ながら、なのである。

 

そして思うのは、ゴーンをかばう意図はないが、日産の日本人経営者がやりたくてもできなかった、工場の撤退や2万人余の従業員馘首をゴーンの手で行わせ、再建ができたら追い出すという構図は、今年強行採決して成立した働き方改革関連法、出入国管理法改正にも共通するところがあるのではないかと思ったのである。「深刻な人手不足」の対応と言いながら、日本人労働者の働き方の多様化の名のもとに「都合のよく」変え、結局は、外国人に安い労働力できつい仕事を担ってもらおうという、経営者や政府の発想でしかないように思う。

 

消費税増税対策って、なんのための増税か、単なるバラマキではないのか。「防衛大綱」に基づく防衛費の拡大、イージス・アショア2基、F35105機購入だけでも、それぞれ6000億、15000億に迫るともいわれている、アメリカの「言い値」での購入とはあきれるばかりである。一方で、沖縄県の民意に反しての米軍基地辺野古新設の強行、外交においても、対米・対ロでは押される一方で、中国・韓国に対しては、こじらせる一方なのだ。社会福祉予算の削減―生活保護費の段階的引き下げ、年金の抑制、診療報酬の減額、7074歳の医療費1割から2割負担などすでに高齢者の負担が拡散し、消費抑制、受診抑制で、命まで危険にさらされている。若年者にとっても、国の借金は増大し、将来へのツケも拡大するばかりなのだ。経済再生の目玉ともいわれた、東芝を初めとする原発輸出の破たん、一方で、かつてほど「世界一厳しい基準」というセリフも言い出せないまま推進する国内原発の再稼働・・・、いくつもの重要課題が国民に上にのしかかっている2018年、「ゴーン」と「ヘイカ」で終わらせてはならない。迎える2019年も、消費増税対策、天皇代替わり、2020オリンピックのフィーバーの目くらましに、だまされてはイケない。政府による、ヤルヤル詐欺、大掛かりな特殊詐欺に、だまされてはイケない!

 

 

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2018年12月17日 (月)

あの、巨大な飛行機は!その正体は?下総基地(航空自衛隊)、市役所、習志野空てい団(陸上自衛隊)に電話する

きょう1217日、雨も上がり、昼過ぎに買い物に出た。すると、頭上に大きな爆音がと思って、空を見上げると、家一軒分くらい?!の飛行機が現れて、北の方に去って行った。23分後にはもう一機が同じコースで飛んで行ったと思ったら、また2機が繋がって現れた。旋回をしていたのだ。下総航空基地の訓練機は、見慣れてしまったのだが、少なくとも、高度はかなり低く、500mもないのではないか。。明らかに下総基地のものとは機種も違う。最近、家の中で、大きな爆音を何度か聞いたような気もするが、窓からはいつも機影が確認できないでいた。

近くを歩いていた男子小学生、制服制帽を身に着けていたので、私立の児童なのだろう。マンションの屋根すれすれにも思える機体の大きさに驚いていた。「なに?こんなの見たことない」と見知らぬ私に話しかけてきた。 

下総航空基地では

ともかく、家に帰ってから下総基地の広報に電話を入れたところ、「通常の訓練はしているが、そんな訓練はしていない」という。「明らかに自衛隊機と思うが、どこの所属の飛行機でどんな訓練をしているのか」と尋ねても「自分たちには分からない、たぶん、入間からきているC1ではないか」とのことだった。

それでは入間の基地の連絡先はと聞いても、当方ではわからない、というつれない返事。自衛隊の基地同士で連絡先が分からないなんていうことあり得ないと思うのだが、本当だとすると日本の防衛はどうなっているのか!? 

佐倉市役所では

仕方がないので、佐倉市役所に電話をすると、生活環境課が出た。ともかく、とても不安で、危険に思うので、佐倉市として至急調べてくださいと依頼すると、こちらではわからない、直接自衛隊に聞いてくれ、調べた後どうするのか、ともいう。そこで、市民が不安に思っているのだから、ともかく調べてくれるよう依頼した。その返事によれば、「習志野空てい団の訓練で、123日から始まって、今日17日が最後ですよ、そういう連絡は貰っています」という。ついでながら、これは以前からも市役所に要望していることなのだが、「佐倉市上空を通過する、自衛隊の訓練日程を広報してください、隣の八千代市では、広報誌にちゃんと載せていますから」「オレオレ詐欺や行方不明者のお知らせも大事だけれど、今回のような訓練日程は、防災放送で知らせしてもいいのではないか」と再び要望しておいたのだが。

習志野空てい団では

 そのあと、習志野空てい団に電話してみると、広報担当に回された。「それは、C2という大型輸送機です」という。それにしてもこんな低空での訓練は初めてのような気がするけど、恐ろしいですね、といえば、「実は、来年113日の空てい団公開日のための訓練を124日~21日までやってます。普段の訓練とは違う訓練で、低空での訓練は、今日17日が最後です。お正月から13日のイベントに向けて、また始めます、一般市民に公開しますからぜひ」とまで言われる。どの基地でも行っている、いわゆる航空祭のようなイベントで、私も下総基地のイベントに出かけたこともあるが、基地周辺の家族連れやどうもオタクぽい人たちが詰めかけているのを目の当たりにしたことがある。ちなみにC2という輸送機はどのくらい大きさですか、と尋ねると「C1の1.5倍くらいのパラシュート隊員が乗れます」とのことで、先は教えてもらえなかった。なお、空てい団は、陸上自衛隊なので、航空機は所有していないので、下総か入間の基地の軍用機と滑走路を借りて訓練ををしているという。さらに、今日の訓練はどこから離着陸しているのかと聞くと「下総だと思いますよ」とのこと。広報担当から適当にあしらわれているとしか思えなかった。むかしから、陸軍と海軍の権力闘争みたいなことは聞いていたが、いまだに、イージス艦の対空ミサイル(海上自衛隊)とイージスアショア(陸上自衛隊)との対抗関係が取りざたされているのも記事で読んだことがあるが、あの莫大な防衛予算がそんなことのために使われているのかと思うとやりきれない。

 ともかく、低空飛行の経緯はわかったが、あの低空による不安感と住宅街の真上の飛行の危険性は、拭いようもなかった。米軍、自衛隊による航空機事故はあとを絶たないのだから。

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<参考>

習志野空てい団訓練日程表201812月/191

http://www.mod.go.jp/gsdf/1abnb/img/file21.pdf 

 

一機230億円もするそうだ、これも言い値?

 これを機に、少し調べてみた。C-2は、C-1の後継機として防衛省と川崎重工業が2000年から開発し、2017327日完成と公表され、川崎重工業が製造している。すでに鳥取県境市の美保基地に8機配属、事故も起こしている。17年度18年度で5機の製造も計画されているというが。長さ43.9m、巾44.4m、高さ14.2mというから2階建ての一戸分というのも大げさではなかった。最大搭載量、約30トン、人員にすると110人まで乗れるそうだ。まだ、完成して間のない新型機である。あれが、住宅街に墜落したらどうなるのだろう。

パラシュートの降下訓練は340mからということは聞いたことがある。今回、空てい団の広報の話によれば、低空と言っても、飛行は、340m以下になることはないといい、むずかしい計算の上、高度というのは、半径600m圏内の一番高い建築物から、150m上空を飛行することになっているそうだ。ということは、佐倉市のユーカリが丘には、高層マンションが何棟かあるので、あの150m上空を飛んでいるということなのだろう。それにしても、頭上の、あの機体の低さと重量感からくる恐怖を拭い去ることができない。

なお、メーカーの川崎重工は、機材高騰などを理由に、一気に70億円値上げの価格230億円を要求しているという。競争原理が働かない防衛産業、これも、もしかして川崎機重工業の言い値?イージス・アショアやF35戦闘機がトランプの言い値で購入を決めている防衛省とも報じられるように、国内でも・・・。内外から、日本の防衛予算はいいカモにされているのではないか。専守防衛などといかがわしいお題目のもと、国民の安全・安心などは、どうでもよいのだろう、日本の政府は。

C2

出典:朝日新聞デジタル(2018年66月22日)「空自C2輸送機、価格高騰に疑義 1機あたり70億円増」

 

 

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2018年12月 7日 (金)

<NHKを辞め記者の道を貫く>相澤さんの講演会へ

相澤冬樹さんの講演会<NHKを辞め記者の道を貫く~森友事件の本質と移籍への思い> (1125130分~/京都教育文化センター/NHK・メデイアを考える京都の会主催)

  

 11月下旬の京都行きの目的の一つは、上記の講演会に出かけるためでもあった。講演会は、ほぼ三部に分かれていた。 

➀ 講演は、まず、相澤さん(1962年生)のNHKでの記者としての31年間を振り返る形で、記者として守ってきたポイントを語った。初任地の山口で、吉田松陰に傾倒し、みずからを真正右翼と称し、取材には思想信条・主義主張が重要ではなく、取材先には、誠意と信念を持って語ること、相手が伝えて欲しいことを必ず伝え、こちらの伝えたいことも聞きだすことに尽きるという。 

② つぎに、森友問題の本質について、森友学園の事件ではなく、国(財務省)と大阪府(私学課)の事件であること。財政的基盤も、教員の確保も不確実な森友学園に小学校の設置がなぜ認可されたのかがまず問題であること、さらに、小学校用地となった国有地は、豊中市の防災公園、大阪音楽大学が購入を希望したときは、財務省側が高値を譲らず折り合いがつかなかった物件だったが、森友学園が小学校用地として望んだとたん、国有地としては異例の貸付契約を可としたこと、であるという。さらに、売買を希望すればと、財務省側が、森友が出せる金額の上限を尋ね、それ以下の価格と分割払いを自ら提案した事実は、音声データなどですでに検証されているが、なぜ、役人がそこまで加担したのか、その解明の必要を強調した。 

③ 最後に、NHKをなぜ辞めたかについては、考査部門への異動が決まり、記者の仕事を続けられなかったからという。しかし、NHKに対しては31年間育ててもらったこと、日本一厳しい水準で取材・報道をしてきたという自負がもてたこと、NHKを愛する一人として、最近の報道には思うことがある、とも語った。現在は大阪日日新聞の記者となり、論説委員をしながら、執筆や講演活動を続け、12月には新著『安倍官邸vsNHK 森友事件をスクープした私が辞めた理由』(文芸春秋刊)を出版するという。

 

講演後、1時間30分の質問討論の時間が確保されていた。こうした講演会ではよく時間切れで、質問が打ち切られることが多いので、よかったと思う。100人ほどの参加者からの質問は途切れることはなかった。講演・討論を含めて、私が印象に残ったことを書きとどめておきたい。 

★相澤さんは、森友問題の解明が今後の課題という。が、すでに、わかっている背景があると思うのだが、それについてはあえて踏み込んだ事実を語らなかった。新著では、そのあたりを書いているのだろうか。 

★NHKの取材においては、新聞社や民放に比べて、日本一厳しい水準があって、それに基づいて取材してきたという。その水準というのは、取材においては、可能な限りの事実の解明が必要ということなのだろう。一方、その報道に関しては、中立性とバランスの重要性が問われるが、現在の報道については、それがどれほど実現されているかは、疑問の方が大きい、と私は思っている。質問者の一人も、沖縄の慰霊の日の安倍総理、翁長前知事の葬儀の際の菅官房長官の参列や式辞への野次の声が、NHKの放送の際には、完全に消されていた事実と「厳しい水準」との整合性を質していたが、相澤さんは、「取材では、あくまで『厳しい水準』を全うするが、報道の内容・編集については、報道部門の判断であって、記者は関知しない」という主旨の回答であった。取材と報道の双方が「厳しい水準」を全うすることによって、放送は完結すると、私は考えるので、その断絶はやはり、納得できなかった。 

★他のメディアより潤沢な取材費がかけられる、その財政基盤は受信料あってのものなので、受信料を払ってもらえるような放送内容にしなければならない。視聴者が、おかしいと思ったら、どんな形でもNHKに、その意見を届けてほしい。その数の力によってNHKを変えることもできる、とも語った。しかし、私も、ふれあいセンターに電話したり、意見や質問をメールで送信したりしているが、電話では、「ご意見として、担当者に伝えます」の一方通行だし、メールの返信は、まるで、木で鼻をくくったような、定例文で、まともな回答が返ってきたことがない。視聴者の願いは、意見の伝達と受信料を手段として届ける、という相澤さんは、いささか楽観的過ぎるのではないか、と思った。

 

このごろのNHKについて 

 この頃のNHKのテレビ番組や報道を見ていると、視聴者を見くびっているとしか思えないものが多い。 

・「ニュース7」では、国内政治、国会開会中でも、報じる順番は後回し、時間は極力圧縮される。たとえば、国会質疑でも、野党の質問は、端折りに端折って、質問の背景を伝えずに、総理や閣僚の答弁はもっともらしいところだけを伝える。また、法案の審議中は、与野党の「攻防」「駆け引き」としか報じない。法案の問題点などは、成立後や成立のめどが立ったころ、ようやく解説や問題点、今後の課題が報道されるというパターンが定着してしまった。その上、専門家と称する人の素人でもいえそうな、コメントを麗々しく、賛否とその中間の街の声とやらを流すだけだ。 

・また、海外ニュースも、中国やロシア、韓国や北朝鮮のマイナス情報に飛びつき、災害や事件が発生すれば、大々的に全国ニュースとして取り上げる。災害や事件の犠牲者に対して、「親切で、まじめな人だった」とか「素直で元気な子だった」とか・・・、関係者の情緒的なコメントを流すことはしても、災害や事件の背景や核心、今後の対策に迫ることを避けるのが常套手段である。「対応を指示した」という政府や自治体の「やっている感」を助長する。 

・スポーツニュースは、勝敗の結果だけで十分で、後はスポーツ番組に任せればよい。今年続いたスポーツ界の不祥事についても、おそらく、担当の取材記者たちは、かつてより知り得る立場であったろうし、少しでも丁寧な取材や調査をすればわかったことであろうと容易に想像がつくことに思えた。何をいまさら・・・の思いもする。 

・また、NHKのバラエティ番組にしても、本業がなんだかわからないようなタレントやお笑い芸人を並べ、出演者だけで盛り上がっているような番組が多くなった。タレント事務所に妙な気づかいすらしている様子もうかがえる。チャンネルを回していると、えッ!これがNHK?と思うことがしばしばあって、民放と全く区別がつかなくなった。 

・「教養番組」、「教育番組」と称するものですら、タレントの起用は著しい。はたして、所期の目的が達せられるのだろうかと疑問に思うし、視聴率を高めているとも思えない。かつては、見ることもあった「短歌」や「美術」関係の番組も、じっくり見せたり、聞かせたりすることがなくなって、その展開の速さや余分なタレントのコメントが煩わしいと思うようになってしまった。歴史もののドキュメンタリーにしても、「今だから話そう」「過去から学べ」式の現代の問題とは一線を画する編集に終わるのが常である。

 

 NHKを退職したプローデューサーや記者たちが大学教員や評論家になったり、民放のコメンテーターとなったり、アナウンサーまでがフリージャナリストと称したりで、マス・メディアに登場する例が多い。在職中の高給、高額な退職金、年金を思うと、受信料は止めたくなってしまう。テレビを持っただけで受信料が発生するなんて、もってのほかとしか思えない。せめて、見た分だけ支払う仕組みにするべきではないか。それに、ふれあいセンターのオペレーターたちは、すべて下請けで、職員がまったくタッチしていないのも問題である。本気で視聴者の声を聴く姿勢には思えない。現場の職員や管理職が、交代でもいい、視聴者の声をナマで聴く仕組みも考えるべきではないかと。  

 相澤さん、視聴者のそんな気持ちを分かってほしいな。「森友」問題に一石を投じた相澤さんには、フリーな立場での取材を頑張ってほしいな、という気持ちが交錯するのだった。

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