2022年7月22日 (金)

『朝日新聞』川柳欄への批判は何を意味するのか

 わたしは、長年、短歌を詠み、かかわってきた者ながら、新聞歌壇にはいろいろ物申したいこともあり、この欄でもたびたび書いてきた。最近は、毎日新聞や朝日新聞の川柳欄をのぞくことの方が多くなった。

・疑惑あった人が国葬そんな国

・利用され迷惑してる「民主主義」

・死してなお税金使う野辺送り

 7月16日の「朝日川柳」は「国葬」特集なのかな、とも思われた。短歌やブログ記事ではなかなか言えなかったことが、短い中に、凝縮されていると思った。

 安倍元首相の銃撃事件について、「民主主義への挑戦」といった捉え方に違和感を持ち、さらに、全額国費負担で「国葬」を行うとの政府にも疑問をもっていたからでもある。こうした川柳をもって、安倍元首相や政府方針を「揶揄」したのはけしからん、ということであれば、安倍批判や政府批判を封じることに通じはしまいか。政府への「忖度」が、言論の自由を大きく後退させ、自粛への道をたどらせたことは、遠くに、近くに体験してきたことである。  

 大手新聞社やNHKは、たださえ、安倍元首相と旧統一教会との関係、政治家と統一教会との関係に、深く言及しないような報道内容が多い。もっぱら週刊誌やスポーツ紙が取材や調査にもとづく報道がなされるという展開になっている。テレビのワイド番組が、それを後追いするような形でもあることにいら立ちを覚える昨今である。

 朝日新聞社は19日、J-CASTニュースの取材に対し「掲載は選者の選句をふまえ、担当部署で最終的に判断しています」と経緯について説明。「朝日川柳につきましてのご指摘やご批判は重く、真摯に受け止めています」と述べ、「朝日新聞社はこれまでの紙面とデジタルの記事で、凶弾に倒れた安倍元首相の死を悼む気持ちをお伝えして参りました」とし、「様々な考え方や受け止めがあることを踏まえて、今後に生かしていきたいと考えています」と答えたという。どこか腰が引けたようなスタンスに思えた。さらに7月22日には、重大な訂正記事が載っていた。上記「利用され迷惑してる『民主主義』」の作者名が編集作業の過程で間違っていたというのである。なんとも「シマラナイ」話ではないか。

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二句目のの作者が、「群馬県 細堀勉」さんだったとの訂正記事があった(『朝日新聞』2022年7月22日)

 また、今回のNHKの報道姿勢について、当ブログでも若干触れたが、視聴者団体「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」は、7月19日、「犯罪捜査差の発表報道に偏せず、事件の社会的背景に迫る公正な調査報道を」とする要望書を提出した。番組のモニタリングから、容疑者の銃撃の動機についての解説や識者のコメント、安倍元首相の政治実績の情緒的な称揚、東日本大震災の復興政策、経済再生政策、安全保障政策において、事実と国民の意識とはいかに離反していたかの分析もない報道を指摘している。NHKはどう応えるのか。

 NHKには「政治マガジン」というサイトがある。事件後の関連記事には、安倍元首相と旧統一教会、政治家と旧統一教会の記事は一本も見当たらず、もっぱら警備体制、国葬に関する記事ばかりで、7月19日号の特集では「安倍晋三元首相銃撃事件<政治が貧困になる>」と題して、政治学者御厨貴へのインタビュー記事が掲載されている。「戦後日本が築き上げてきた民主主義が脅かされていると同時に、今後の政治全体の調和までもが失われる深刻な事態だと警鐘を鳴らした」という主旨で、今度の事件は「民主主義への挑戦」とのスタンスを展開している。NHKよ、どこへゆく。

 

 

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2022年7月18日 (月)

動機は明白になって来た~容疑者に「精神鑑定」は必要か

 安倍晋三元首相銃撃報道における容疑者と旧統一教会との関係、容疑者が「なぜ安倍をねらったのか」について、大手メディア、とくに、テレビの報道番組のスタンス、メインキャスターやコメンテイターの発言は、そろいもそろって、旧統一教会と安倍との関係を薄めよう、薄めようという意図が歴然としてきた。加えて、安倍の功績をたたえ、その上塗りをするものであった。安倍の銃撃事件と旧統一教会・政治家との関係は切り分けて考えないといけないとの論調も依然として有力である。

 NHKは、容疑者は旧統一教会と安倍が密接な関係があると「思い込み」によって犯行に及んだと「7時のニュース」では言い続けている。旧統一教会と容疑者の母親の寄付・金銭トラブルや安倍との関係は極力触れず、旧統一教会の記者会見後も 「宗教団体(世界平和統一家庭連合)」というのがテロップでの表示である。7月12日の「ニュースウオッチ9」ではこともあろうに、第一次・第二次安倍政権で、防衛大臣や党の副総裁を務めた高村正彦を登場させ、安倍晋三の“政治的功績”をるる述べさせた。そして「(安倍への)批判も確かにあったが、その評価は後世の史家に委ねられる」と締めくくり、MCの田中正良もなんと高村と同様に「事件の判断は歴史に委ねられる」と言い放った。メディアの機能不全、自殺行為にも等しい。ちなみに、高村は、弁護士時代、旧統一教会の訴訟代理人だった人である。政権・政治家への擁護がここまで露骨だと、視聴者の疑問をかえって深めてしまうだろう。

  テレビ朝日「報道ステーション」の大越健介は、容疑者がなぜ安倍を狙撃したのかは「理解不能」とまで明言した。日テレ「ウエークアップ」(7月16日)の野村修也は、安倍元首相の銃撃事件を「教団を壊滅させようと道具として利用した面もあるかもしれない」などと述べる。複数の局の番組で、田崎史郎は「政治家は、選挙で一票でも欲しいから、頼まれれば、祝辞やメッセージ、行事への参加も断れない」などとぬけぬけというではないか。

 そして、政府は、警備体制の不備を強調し、今後の強化を進めるといい、捜査当局は、容疑者の銃や火薬の製造やその性能をしきりに究明するのに熱心で、挙句の果て、奈良地検は、容疑者の動機には「飛躍」があり、刑事責任能力を調べるために本格的な「精神鑑定」を実施する方針を固めたという(毎日新聞7月17日)。容疑者の動機の解明、政治家と旧統一教会との長期間にわたる密接な関係究明からはますます離れてゆく様相がみえてきた。

 さらに、岸田首相は、早々と全額国費で、秋には、安倍晋三の「国葬」を実施すると表明し、憲法改正を突破しようという魂胆である。コロナ感染が収まらず、物価高騰に歯止めがかからず、経営苦の中小企業、生活苦の非正規雇用の人たち、医療費の負担増額が強いられる高齢者たちは、事件や人の死を利用した税金の無駄遣いを許せるわけがない。

 

 

 

 

 

 

 

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2022年5月17日 (火)

岩波ホール、さようなら~「メイド・イン・バングラデシュ」を見る

   東京に出たついでに、思い切って、岩波ホールに寄ってみた。上映時間もちょうどいいので、予備知識もなく飛び込んだ。 整理券に従って入館したが、観客は30人程度か。7月には閉館と聞けば、なおさらさびしい。熱心に通ったというわけでもないが、大昔の映画ファンとしては、やはり悔しさもある。

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岩波ホールはこの神保町ビルの10階にある。

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廊下の壁には、これまでの上映映画のポスターがびっしりと展示されていた。

 

「メイド・イン・バングラデシュ」(2019年、フランス・バングラデシュ・デンマーク・ポルトガル)

 バングラデシュのダッカには、世界の衣料品メーカーの多くの縫製工場が集中している。というより、各国のメーカーは、安い素材と工賃によって安く仕上げるために、安い労働力の得られる他国に多数の系列工場を抱えている。メイド・イン・バングラデシュの衣料品が世界に出回っているのだが、その縫製工場の劣悪な労働環境の中、低賃金で働く、縫製工場の一人の女性労働者が、仲間たちと、さまざまな苦難に遭いながら、労働組合を立ち上げるストーリーである。

   教室のような狭い場所に、三、四十人の若い女性たちが古いミシンでTシャツを縫い上げてゆく。その縫製工場では、アイロン室からの失火で火事になったり、夜勤の末、扇風機も止められたミシンの下の床でごろ寝をさせられたり、賃金や残業代の遅配は日常的だったりする上、男性監督の監視もきびしい。1日にTシャツ1600枚以上仕上げながら、月給がその2・3枚分という過酷さなのだ。地方からダッカに来て、色々な職場を転々としながら、いまの工場に勤める23歳の主人公は、家庭では、無職の夫を養う苦しい暮らしだった。
  工場近くで出会った、労働者支援団体の女性から、工場の実態を知りたい、お礼も出すからと声を掛けられる。出向いた彼女は、支援者から労働法や労働者の権利について教えられ、署名を集めれば組合が作れると勧められる。与えられたスマホを使い、工場の実態や経営者の発言などを記録するようにもなる。労働法を学び、集会にも参加、署名も集まり、監督官庁の労務省?への組合結成申請にまでこぎつける。条件が満たしているのに、なかなか認可が下りず、何度も役所に通うが、上司のところで止まっているらしいと知る。家に帰れば、職を得た夫からは、もう働かなくてもよい、組合を作るなんてやめろ、とまで、暴力を振るわれもする。
 いつまでも組合認可が下りない役所で、受付を突破、幹部の部屋になだれ込んで、なぜ認可が下りないのか詰め寄ると「外からの・・・業者からの圧力があって・・・」と言いよどむ。そこからが彼女の底力というか、勇気というか、スマホで録音した発言を言質にとって、とうとう書類にサインをさせるのだった。 
 映画は、そこで終わり、そこからも苦難が続くであるだろうに、彼女は、成し遂げたという力強い眼差しながら、かすかな笑みを浮かべるのだった。

   ドキュメンタリータッチに徹したという監督のルバイヤット・ホセインは、足踏みミシンで、黙々と縫い続ける女性たち、主人公の住む街の狭い路地、そして家賃の支払いもままならない暗くて狭い家、家主とて、やっとテレビが置ける程度の貧しさ・・・を丹念に描いている。路地に行き来する人たち、サッカーボールをただ転がしているだけの子どもたち。仕事を終えた主人公たちは、みな若い、恋の話にも興じながら家路につく・・・、 印象深い場面がよみがえる。

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監督、主人公のモデルは語る

 2020年に来日したとき、監督は、インタビューで、縫製工場で働くのは女性が80%を占め、平均年齢は25歳、2013年頃の状況だったと語る。その後、たしかに、月給は2倍、シャツ4枚分程度にはなったが、現在の縫製工場は機械化が進み、そこで働くのは男性が多くなり、女性の失業者が増えているともいう。なお、業者と政府の癒着という構図も映画では描かれているが、主人公に詰め寄られた役人のモデルは、政府から解雇され、いまは労働者の支援をしているとのことであった。この映画製作の動機は、主人公のモデル、活動家のダリヤ・アクター・ドリに出会ったことにあり、そこから調査や取材も始めたという。

 一方、モデルとなったダリヤ・アクター・ドリも、同年、来日した折に、「私は工場の仕事に誇りを持って働いてきました。それなのに解雇されかけた。労働者の権利を守るためには、今、自分が動かなければいけない。後に続く若い人たちの夢や希望まで潰えてしまう。自分1人のための戦いではないと思ったから、苦しくても続けられたのだと思います」と語り、映画で描かれているよりも、私の労組の活動に対し、夫は、協力的ではなく、離婚したとも語っている。

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振り返って、日本の場合~ユニクロは大丈夫?

 最近、中国の新疆ウイグルスで過酷な労働条件のもとに生産されたワタを使用しているとされたユニクロが問題視され、会社側は、その否定に必死であった。ちなみに、ファストリテイリングの2022年3月現在の「生産パートナー工場リスト」によれば453工場のうち約半分の239工場が中国にあり、ベトナムが58、その次がバングラデシュの30、続いて日本22、カンボジア、インドネシア、ポルトガルと続く(間接取引、直接取引を含む)。「主要素材工場リスト」(91工場)には中国50、ベトナム10、インドネシア8、日本6、・・・バングラデシュ3と続く。
ファストリテイリングホームページ、参照。
https://www.fastretailing.com/jp/sustainability/labor/list.htm

 それでは、ZALA、GAP、H&Mなどの大手アパレルの場合はどうなんだろうか。わたしも、自分や家族の衣類のタグを見るようになった。自分の下着などは、ほとんど生活クラブ生協から購入しているつもりだが、かつて購入した衣類では、もちろん日本製が多いのだが、ほかでは、メイド・イン・中国が多く、ベトナム、韓国なども見受けられた。

 映画を見始めたとき、これは日本の『女工哀史』か、紡績工場や製糸工場の「女工」ではないかの感想を持った。組合結成の話になると、いまの日本の働く人たちの非正規の割合、その待遇の低さ、正社員、正職員であっても、その労働組合の加入率は、私たちが働いていた頃には想像もつかないくらい、極端に低くなってしまった現実がある。
 働き方改革? 多様な働き方? 選択肢が広がった? 一億総活躍? 高度プロフェッショナル制度? 同一労働同一賃金? コトバだけは踊るが、その実態は、働く者が一番よく知っているはずではないか。
 それなのに、日本では、労働組合は働く者から遠ざかり、働く者の労働組合離れが主流になってしまった。そして、組合の必要性を身をもって体験した人たちにより、各業界でユニオンなどが結成されることが多くなり、活動を続けている。

 近くの工業団地のアマゾンや食品会社のシャトルバスから降りて来る働き終えた人たちが、黙々と駅へと急ぐのを目にすることがある。外国の人も多い。三交代制とも聞く人たちの労働環境を思わずにはいられない。「メイド・イン・バングラデシュ」が外国の話には思えないでいる。

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2022年3月 8日 (火)

責任のとり方~ドイツと日本と

                                                                                                                                                                                                                                                                         

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 やや旧聞に属するが、1月27日、ドイツ連邦議会主催の「ナチ犠牲者のための追悼式典」が行われたという。なぜ1月27日かというと、ポーランドのクラクフ郊外にある、ナチが作った最大の絶滅収容所、アウシュヴィッツ強制収容所が、1945年1月27日に旧ソ連軍に解放された日だったからである。ナチによるユダヤ人大量虐殺がなされた象徴的な場所にもなっているからだという。
 追悼式典のことは、「ベルリン通信」の池田記代美さんの「連邦議会で行われたナチ犠牲者のための追悼式典」というレポートによって知った。
(『みどりの1kWh』https://midori1kwh.de/2022/02/13/13180 2022年2月13日)
 
1996年、「想起に終わりがあってはならない」と当時のロマン•ヘルツォーク大統領(在任期間1994-1999) が、犠牲者を追悼する記念日の制定を提案してから始まったというから、そんなに古いことではない。以来、ドイツでは官庁が半旗を掲げ、各地のナチの加害の歴史を継承する記念館、記念碑を中心にさまざまな行事が行われる。

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 2021年1月27日、アウシュヴィッツ強制収容所跡地で開催された追悼式典は、コロナ禍のためオンラインで開催された。

 一方、国連は、ホロコーストには、国や民族、宗教をこえて全人類に普遍的な教訓があると宣言し、教育の場でとりあげていこうと加盟国によびかけ(第60回国連総会決議 2005 年11月1日)、アウシュヴィッツが解放された1月27日を「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」に定めている。そして各国、各地で、追悼行事が行われるようになった。
 UNIC国際連合広報センター
https://www.unic.or.jp/news_press/info/11945/

 日本ではというと、この日に何かなされているのか、その報道というのにもあまり接したことがなかった。この日の追悼行事というのではなく、以下のような関連施設で、ナチによる差別や大量虐殺の暴挙を後世に伝えるべく、さまざまな展示や行事がなされていることがわかった。

ホロコースト記念館(広島県福山市聖イエス会御倖教会内、1995年6月~)
=HOME= of HEC (hecjpn.org)

アンネ・フランク資料館(兵庫県西宮市アンネのバラの教会内、1980年~)
http://www.annesrose.com/

NPO法人ホロコースト教育資料センター(東京都品川区、1998年~、2003資料館閉館移設)
https://www.npokokoro.com/https://www.npokokoro.com/

杉原千畝記念館・人道の丘(岐阜県八百津町、2001年3月~)
http://www.sugihara-museum.jp/

人道の港敦賀ムゼウム(福井県敦賀市、2008年3月~、2020年移設リニューアル)
https://tsuruga-museum.jp/

 しかし、私は、ドイツでは、連邦議会において追悼式典が続いていることに驚いた。冒頭の池永さんのレポートによれば、今年の式典では二人の来賓がスピーチをしている。
 一人は、幼少時からナチによるさまざまな迫害を体験し、チェコのテレージエンシュタット強制収容所から生還し、アメリカに渡った女性アウアーバッハーさん(87歳)で、ナチに殺害された150万人の子どもたちのことを忘れないで欲しいと訴えている。もう一人は、イスラエル議会の議長ミッキー・レヴィさんで、ナチ時代の帝国議会が1934年3月「全権委任法」を採択し、自ら立法権を内閣に手渡し、ナチの独裁政治を可能にした歴史を振り返って、600万人というホロコーストの犠牲者を数字で理解するのではなく600万の命と物語があったことを思い起して欲しいと訴えた。このように、生き延びた体験者の話を聞くことを議会自らがしているところに、ドイツと日本の大きな違いをまざまざと見せられる思いであった。

 日本の国内外における戦争犯罪に対する責任追及は、自らの手でなされることがなかったことが、アメリカ従属の、今に至る日本の戦後史を決定的なものにしてしまったのではないか。昭和天皇の責任論や退位論が活発になされていた敗戦後を思い起すべきではないか。事件や不正が発生して、閣僚や官僚がようやくその職を辞任しても、罪に問われることはなく、どこかで生き延びている。会社の幹部がそろって頭を下げて、一件落着といったケースがあまりにも多すぎる無責任体制が怖い。

 今のプーチンとその指令に従う人々の責任はどうなるのだろう。考えることをやめてしまう恐ろしさ、いわゆる「凡庸なる悪」という「言葉」に逃げ込んではならないと思う。

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 私たちがワルシャワとクラクフを訪ねたのは、2010年5月であった。その年、ワルシャワは、ショパン生誕200年ということで盛り上がっていた一方、「カチンの森」事件から70年ということで、さまざまな行事が企画され、街角にもあちこちに追悼の写真とメッセージが展示がなされていて、いささか驚いたことを思い出す。

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ワルシャワ空港の歓迎パネル

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上記は、一日中雨のアウシュヴィッツ強制収容所跡、昼食をとることも忘れて。

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クラクフ城の入り口にも「カチンの森」のパネルが。

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ワルシャワからウイーンに移動し、近郊のホイリゲを訪ねると、こんなパネルも。

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2022年3月 3日 (木)

ロシアのウクライナ侵攻への抗議、何ができるのか

 毎日、ロシア国防省の侵攻映像や各国メディアによるその被害状況やウクライナ市民の声に接するたびに、心が痛み、いったい私は何をすればいいのだろう、と<重い腰>を上げられないでいる。実際、私はいま、整形外科のリハビリで通院している身でもある。

  かつて、映画館に行くたびに見たい映画の前の「ニュース映画」での朝鮮戦争、写真や映画で知るベトナム戦争の戦闘や悲惨な場面を思い出してしまう。いまは、茶の間にいても、痛ましい情報が目に飛び込んでくる。

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キエフ市ネイのテレビ塔爆破される(ウクライナ内務省フェイスブックより、3月1日)

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キエフに次ぐ第二の都市、ハリコフ市庁舎前(AFPbbbewsより、3月1日)

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キエフ北部、壊された橋を渡る市民たち(AFPbbnewsより、3月1日)

  友人からは、change.orgによるウクライナ侵攻反対署名の呼びかけがもある。しかし、change.orgの署名画面を見ていて、いま誰が署名したか、署名総数が刻々と報じられる仕組み、そして、この署名は、いつ、どこで、だれに、どうやって届けられるのかが分からない。開設者にもその全貌が把握できないばかりか、一人が何度でも署名が可能であり、その個人情報の行方も不安である。その署名の数に焦って、署名し、そこでの達成感はあるかもしれないが、そこで終わってしまうのではないか・・・。  紙の署名もネット署名も、明確な主題と主催者、期限、あて名が肝心である。そして次の行動につなげてゆくことも重要な目的にならなければならない。いつか、どこかで、すでに署名したかもしれない署名を迫られることもしばしばであった。コロナ禍にあって、集会やデモもままならないなか、ズームでは、なかなか盛り上がらない昨今ではある。

  しかし、しかし、今回の各国の抗議デモの報道写真を見る限り、場所を埋め尽くす、その数の多さに驚くのである。そのメッセージの多様さにも。とくに、その場所が、かつて訪ねた街の、あの通あったり、広場だったりすると、私はといえば、単純ながらも そこに参加しているような気分になるのだった。プラハだったり、パリやニースだったり・・・。日本政府はもちろん、自戒込めて言うならば、私たち日本人の行動は、どれほど有効なのだろうか。自己満足と言われるかもしれないが、今の私は、一人ででも、家からでも、ロシア侵攻反対とウクライナ復興支援の意思表示を発信していきたい。

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ロンドン、ロシア大使館前(2月24日)

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ベルリン、ブランデンブルグ門前(2月24日)

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ウイーン(2月26日)
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渋谷駅前(2月26日)
フォト特集】「戦争反対」世界に広がる ウクライナ侵攻に抗議 ...
ワシントン、ホワイトハウス前(3月2日)、ワシントンには出かけたことはないのですが。

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モスクワ、プーシキン広場をブロックする装甲車(2月24日)、こんな光景は、日本でも、国会議事堂付近ではよく見かけます。

(上記いずれもAFPbbnewsより)

 それにしても、私は、ウクライナの歴史についてあまりにも知らなすぎた。教科書に登場するクリミア戦争とナイチンゲール、穀倉地帯のイメージ、映画史には必ず登場するオデッサの階段シーン、ソ連邦下のウクライナ。映画やニュースで知るナチス占領下のウクライナ、オレンジ革命と女性闘士、そして、近年のユシチェンコ大統領の暗殺未遂事件、ロシアのクリミア併合、コメディアンの大統領誕生など、実に断片的な情報でしかなかった。その現代史はつねにソ連やロシアの脅威と隣り合わせだったことは知りながらも、点と点、そのつながりや間の出来事には無関心に近かった。

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2022年2月21日 (月)

無内容な答弁が続く、総理、「しっかり」してよ!(2)

 朝食を終えて、一段落、きょうが最終日らしい衆院予算委員会の中継を10時から一時間ほど見ていた。立憲の大串議員と江田議員の質問だった。よくもまあ、国会答弁用語、岸田首相答弁用語満載の答弁であった。主に物価・原油高対策、コロナ対策についてであった。「しっかり」の頻出はもちろんだが、どんな質問、問題についても以下の言葉が繰り返されていた。

①(現状や実態について)「認識しております」 「承知しております」

②(3回目接種の遅れ、救急搬送不能多発、自宅療養者の死亡など問われて)「現場の”混乱”につきましては・・・」

③(対策を問われて)「重層的に」「あらゆる選択肢を排除せず」

④(決断を迫られて)「注視してまいります」「用意しております」「検討しております」「努力してまいります」

 現状や実態について「認識」はするが、政策の不備や失敗は現場の「混乱」と言い換え、「重層的に」「あらゆる選択肢を排除せず」は、対策の何一つも満足に機能していないことの言い訳にしか聞こえない。どんな対策を、どんな選択肢の何をかを示すことがない。
 高齢者の3回目ワクチン接種の遅れ解消、前倒し実施はについては、「とにかく、皆さんに足を運んでいただくこと」が大事と繰り返していた。これって、まさに「自己責任」ですよね。気楽なものなのですね。現場では、訪問接種の努力がなされているというのに。

   私の場合は、かかりつけ医からは、当初よりワクチンの供給が前回の半分なので、予約はかなりむずかしいと言われていたし、接種券の配達を待ち受けて、予約すべく、パソコンに向かったが、もうすでに、大方は埋まっていて、モデルナの集団接種しか残っていなかった。モデルナについての副反応の情報が先行し、政府が慌てて、交差接種の安全性や有効性を強調しても、にわかに信じがたく、不安が先だったこともある。

 

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2022年2月19日 (土)

無内容な答弁が続く、総理、「しっかり」してよ!

・さっきから「しっかり」ばっかり言っている総理の会見しっかりしろよな(千葉 山本信明)「読者歌壇」(荻原裕幸選)『現代短歌』2022年3月)

 ご近所の山本さんの短歌である。重厚な作品も多い山本さんだが、「やったな」というより「やられたな」の思いだった。たぶん昨年12月21日の記者会見に取材したものだろう。私もこの「しっかり」を詠んでみたかったのだ。

 2月17日、岸田首相の2か月ぶりの記者会見、何も変わってはいなかった。短歌はできなかったが、やはり、どうしても調べておきたかった。首相官邸のホームページには、会見の文字起こしが収録されている。改めて読んでみよう。数え間違いはあるかもしれないが、この「しっかり」がなんと19回!は確認できた。さすがに冒頭発言は、読み違いや読み飛ばしがないように「しっかり」原稿を読んでいたようで、「しっかり」は登場しなかった。ところが、質疑になると、俄然、頻発してくるのである。たとえば、以下のような具合である。ただの言葉の上げ足とりではなく、岸田首相の発言の無内容を象徴しているようではないか。それに、記者会見をNHKの夜の7時のニュースにぶつけ、ジャックし、NHKは国営放送と化す。

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コロナの感染法上の2類・5類の引下げの問題
 「引き続き厚生労働省の審議会等において、政府としてもしっかりと専門家の意見も聴きながら議論は続けていきたいと考えています。」

ワクチンの3回目接種について
「更なる接種の加速化に向けてしっかり努力をしていきたいと思っています
(他の記者からの再度の質問)
「是非希望する入所者の方等への接種はしっかり進めていくべく全力で取り組んでいきたいと考えております
「安全性、さらに有効性についてしっかり説明しなければいけないということで、SNSももちろんですし、様々なメディアを通じてその有効性、あるいは安全性についてしっかり説明をさせていただいている」

水際対策について 
「検疫体制等をしっかりにらみながら、この数字につきましてもどうあるべきなのか、しっかり検討は続けていきたい」

最悪の事態を想定しての対策について
「昨年の夏の状況をしっかり振り返って、十分な医療提供体制をしっかり用意」「一つ一つももちろん大事でありますが、こうした「全体像」をしっかり用意することによって」「この「全体像」をしっかりと説明することによって、国民の皆さんに少しでも安心を感じていただけるように、努力を続けていくことが大事であると思います

原油高はじめ物価高が国民に与える影響について
「大きな問題意識をしっかりと持ちながら、今後これに何を加えるべきなのか、何を改良すべきなのか、これはしっかり議論を続けていきたいと思います。具体的な状況をしっかり見つめながら、具体的な対策、用意してまいります」

米軍基地のコロナ感染状況/ゲノム解析について
「日米でしっかり協議して」「医療提供体制をしっかり充実させること、これが地元、県民の皆さんの命や健康を守る上で重要であるという観点から、そちらの充実にまずはしっかり努めていかなければならないと思っています

 折しも、今朝の朝日新聞で、プチ鹿島が、衆院予算委員会の首相答弁を分析していた(「首相は<後回しの人> 野党はどんどん突っ込んで」『朝日新聞』2022年2月19日)。首相が答弁でよく使うのが「認識しております」「謙虚に受け止めます」「引き続き考えていきたい」だという。一見「聞く力」を発揮しているようだが、ただ受け止めているだけで、「後回し」にしているに過ぎない、と厳しい。鹿島は「時事芸人」と自称しているそうだが、新聞14紙を読み込んでいるとかで、報道番組の並のコメンテイターよりよほど見識があるかもしれない。かつて、レギュラーで出演していたテレビ番組があったのだが、いまは、文春オンラインでの連載が面白い。

 17日の記者会見でも、上記のゴシックの「しっかり」とセットでも見られる「努力」「全力」の文言も、ほかの何か所かにも登場する。「後回し」というのか、ただの「言うだけ努力」の人ではないのか。記者たちの質問ももちろんだが、予算委員会の野党の質問すら「受け止め」や「見通し」を尋ねることが大半だから、「しっかりと努めます」の答弁で流されてしまうのだ。 現場の実態、データやファクトに基づいて、政府の不備を質す具体的な対案の実現を迫る質問を展開してほしい。しっかりしてほしいのは、記者や野党の方もなのである。

 

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2022年1月24日 (月)

1929年、貞明皇后は詠んでいた!「世の人にひろくたからをわかつこそまことのとみといふべかるらめ」

 論文とも言えない、エッセイにしてはいかにも気の利かない原稿ながら、「貞明皇后の短歌」について書き終えた。活字になるのはいつ頃のことか。
 貞明皇后(1884~1951年)は、明治天皇には皇太子妃として、大正天皇には皇后として、昭和天皇には皇太后として、天皇三代に仕えた人だった。貞明皇后の歌集や伝記などを読んでいると、15歳で、嘉仁皇太子と結婚し、病弱な夫を助け、女官制度の改革などにも取り組み、天皇家の一夫一婦制を確立したが、その苦労も格別だったことがわかる。天皇と政府、自身と政府との間での自らの立ち位置、長男、後の昭和天皇との確執などに悩みながら、慈善事業や「神ながらの道」に活路?を見出していく過程などを知ると、その健気さと痛ましさに、同情の念さえ覚え、のめり込んでしまいそうになる。しかし、片野真佐子さんの『近代の皇后』(講談社 2003年)と原武史さんの『皇后考』(講談社 2017年)の政治思想史からの論考に助けられながら、冷静さを取り戻すことにもなった。 そんな中で、私は、つぎのような短歌に立ち止まり、しばし考えさせられた。

・かなしさを親はかくしてくにのためうせしわが子をめではやすらむ」(1907年)

・生きものににぎはひし春もありけるをかばねつみたる庭となりたる(1923年)

・世の人にひろくたからをわかつこそまことのとみといふべかるらめ(1929年)

 1首目は、日露戦争後に詠まれたものだが、太平洋戦争下では、決して公には歌ってはならぬテーマであったろう。2首目は、関東大震災直後に詠まれたもので、「庭」はどこを示しているのかは定かではないが、「宮城前広場」は、震災直後は三十万人の避難民であふれかえっていたという(原武史『皇居前広場』光文社 2003年)。3首目は、1929年世界恐慌の不況時の歌で、富の格差への疑問が率直に詠まれている。1・3首目は、『貞明皇后御歌集』(主婦の友社編刊 1988年)に収録されているが、2首目は、その生々しい内容からか、上記『御歌集』には収録されておらず、伝記の一つ『貞明皇后』(主婦の友社編刊 1971年)に記されていた1首だった(148頁)。
 3首目は、「成長と分配の好循環?」などと岸田首相は叫んでいるが、この歌を「しっかり」読みこんで欲しいとさえ思う。三首とも、皇后らしからぬ、現代にあっても決して触れてはならない領域、暗部を詠んでいて、あの平成の美智子皇后だって、詠みはしなかった。
 アメリカの富裕層や欧米9か国の富豪たちが「今こそわれら富裕層に課税せよ」と提言しているというのに、日本は、日本企業は、富豪たちは何をやっているのか。

参照
ソロス氏ら米大富豪「超富裕層に課税を」(日本経済新聞 2019年6月25日)

世界の富豪102人が19日、「今こそ私たち富裕層に課税を」(2022年1月20日 AFP=時事)

 

 

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2020年1月28日 (火)

60年前の1960年、50年前の1970年、今、何が変わったのか(2)1970年の私

 身辺の資料を整理していると、思いがけないところから、意外なものが見つかり、思わず読み入ってしまい、まるっきり片付かない日があったりする。私が在職していたころ、1970年代の国立国会図書館の組合関係の綴りが出てきた。私は、組合の役員をやったこともないのに、総会資料や機関誌、情宣ビラの一部などが結構まとめて残されていた。私は、レファレンス担当の法律政治関係の課に在籍、かなりの頻度で組合役員を出すような「自由な」雰囲気の職場だった。入館当初、直接の上司が組合の委員長でもあった。印刷カードのかなふりのローマ字が訓令式だったのを、突如ヘボン式への変更を強行しようとした、鈴木隆夫館長の<外遊みやげ>と闘っていて、館長を辞任にまで追い込んだと意気軒高!に思えた組合だった。周辺の課では、課長を除いて全課員が組合員であった。輪番制で職場委員になったこともある。当時は「婦人部」というのがあって、昇格人事における女性や学歴、それに発足当時来の非試験採用職員への差別などがいつも問題になっていた。それに、産休前後8週間要求(当時は6週間)、保育所難問題、女性職員の宿舎入居資格などが、よく取り上げられていた印象が強い。保育所入所難は、現在に至っても解消されていない大問題であるが、当時、職場内保育所設置が問題が浮上すると、「文化の殿堂たる図書館に、オムツがはためくんですかね」という男性職員も現れたりしたのだった。また、婦人部のあっせんで、「ハイム化粧品」が月一で、館内で店開きするのを手伝ったりした。安くて余計な添加物が少ない化粧品ということで、現在、生活クラブ生協でも扱っているので、私も利用することが多い。ただ、当時、池袋の実家の薬屋では、資生堂化粧品のチェーン店となって、その売り上げアップに必死になっていたころで、私も店に立てば、お客さんの花椿会入会を勧めていたりもしていた。また、女子休養室の新設が実現したので、「利用せねば」と昼休み出かけたりしたが、利用者に出くわすことはまれであった。
 そんな組合活動とは、つかず離れずの職員だったが、ある事件によって、組合というものに、一気に不信感を持つようになってしまった。私と同期入館ながら少し若い職員が、1969年11月16日、いわゆる佐藤訪米阻止闘争で逮捕され、12月初旬に起訴、年末に休職処分となる。組合執行部は、「民主勢力の統一と団結を乱す」から支持しない、組合の機関決定によらない行動だからという理由で救援しないことを決めたのである。
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組合の機関誌『スクラム』222号(1970年1月27日)。1969年の年末にでた休職処分について、各職場代表により特別委員会が設置されたことを報じる。それ以前に開かれた評議員会では、その職員の行動は、組合の決定によるものでもなく、運動方針に沿うものでもないが、基本的人権の観点から、判決前の休職処分の不当であることを確認、今後、執行部は、特別委員会の助言による旨が記されている。

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館内の有志「6/15統一行動への参加を呼びかけた会」から出された『窓』、第1号(1969年6月30日)の巻頭には、「窓をあけましょう。このままでは息がつまりそう。」とある。その編集後記では、「逆セクトは望まない。とはいっても相手のあること、どうなるかわからない。『窓』の誌名はいつでも捨てて良いと思っている。窓は壁よりこわれやすいものなのだから。自らに問い自己理解を深め、新しい意識へ、そのための広場としたい」とあった。「6/15統一行動」とは、中核など8派政治組織と15大学全共闘と市民団体が加わり229団体による「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6・15集会実行委員会」が開いた「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6・15統一行動」で日比谷野外音楽堂における5万人の集会で、デモのさなかに吉川勇一ら71名逮捕されている。誌面は、テーマも自在で、広く内外の政治問題から市民運動の在り方、館内の諸問題を語り合う場であったようだ。出入り自由の集いであったが、私は参加せずじまいで、昼休みの会のあと、処分職員救援や組合批判について熱く語る僚の話を聞くことが多かった。

  各職場での討議が重ねられたが、組合の決定に疑問や不信を募らせる職員も多かった。そして、処分職員を支援する会が発足した。組合は、権利の問題として処分の撤回を求め、公平委員会が開催されることになる。請求者職員の代理人として羽仁五郎や吉川勇一、直接の上司らが陳述した。中山伊知郎委員長と使用者側・職員側各二名と中立代表が衆参議院運営委員長(自民党)という構成の公平委員会のもと2回にわたる公開審査がなされた。

 初めて開催された公平委員会となって、その規程にも様々な不備が指摘される中、館当局も組合も請求者側も苦労が多かったようだ。傍聴者数も限られていたが、私も一回だけ傍聴することができた。傍聴席からヤジも飛んだりして、緊張した雰囲気の中で行われていた。記録によれば、請求者の陳述は、1万字を超えるものであった(『十一・一六佐藤訪米阻止闘争と国立国会図書館―公平委員会の記録』記録刊行会 1971年4月)。陳述で訴えたのは、自分自身の日常の生活を佐藤訪米阻止に賭けることになったのは、<真理は我らを自由にする>という国立国会図書館法前文の精神を冒涜し続けている図書館の日常、「当局者のみならず、組合さえも、その中で昇任昇格や、手当の増額しか考えず、ベトナムの問題もその手段としか考えていない。そんな状況の中で目をつぶることが出来なかったのです。王子で(1968年、野戦病院設置反対デモの野次馬であったとき)機動隊が平然と『黙れ、朝鮮人』と言ってのけるような現実を聞き流していいのでしょうか」と、その動機を述べていた。さらに、「日米安保条約のもとで参戦の道を歩み、しかもその方向がなお一層進められている私たちのまわりにはさまざまな抑圧された状況が作り出され社会不安がうずまいています」、そうした中での「佐藤訪米」「日米共同声明」の持つ意味は何なのか、と訴えている。アメリカのアジアの軍事的支配によって朝鮮、台湾、ベトナム、ひいては日本自身の平和と安全が確保され、日本への沖縄72年返還によって基地が強化されることを前提にするものであるとも述べている。自分がとった行動は「反戦という目的のため」であるにもかかわらず、「図書館内外にわたって好ましくない影響を与える恐れがあると判断し、それらの支障未然にふさぐため」といった抽象的一般的な推測をもって休職にすることは不当であり検察庁と一体となって政治的弾圧を加えていると断ぜざるを得ません」と述べている。この陳述で述べられた状況は、今でも変わっていない上に、処分理由においても「好ましくない」「恐れ」「それらの支障」「未然に」などどいう、具体性のないものであった。

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1970年9月末に開かれた組合定期総会の議案書の表紙と「起訴休職処分反対の闘い」と題した総括部分である。1.組合としての救援活動は行わない。2.館当局の同君に対するいかなる処分にも断固反対し、これを口実とする組合活動への干渉・攻撃と闘う。3.これを機会に安保廃棄、沖縄即時無条件全面返還を真にかちとるため、どう団結を強め闘うかについて積極的に組合内の合議をおこす」とある。

 1970年6月に、公平委員会は、委員の4対3の多数決で、休職処分には違憲性も違法性もなく手続き上も問題なく、承認するという判定がなされた。9月には、休職処分取消を求めて提訴し、行政訴訟の段階に入った。長い準備手続きを経て。4回の口頭弁論の末、1972年11月に原告の請求はいずれも棄却されるという判決であった。

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館内有志による会やミニコミ誌がいくつか出され、組合の朝ビラ、情宣が盛んに撒かれた時期であった。上段は、処分職員を支援する会が70年2月に創刊された「会報」で、途中で「広場」と名を変えている。行政訴訟で第一審の判決が出た後は、部落問題と図書館、図書館創設当時の副館長だった中井正一論など幅広いテーマが載るようになった。下段は、館内の「(1969年)10・11月闘争救援会」発行のニュース。前年の佐藤訪米阻止運動で捕らえられた人たちの統一公判の要求を続けている中で、ニュースによって、日常の私たちからは知り得ない事実を知ることができた。例えば、8号の「監獄法体制の粉砕を」の記事では、新憲法下での1908年の「監獄法」は基本的人権がいかに無視されているかを知ることになる。その後、今世紀になって何度かの改正、最終的には、2007年、まさに100年を経て「刑事収容施設及び被収容者等の諸郡移管する法律」となったが、現在でも、ゴーン被告や籠池被告の長期拘留など問題は絶えない。

 1970年という年は、いうまでもなく、3月には大阪万博が始まり、赤軍派によるよど号乗っ取り事件が起きている。6月23日、日米安保条約は自動延長されるいたる。企業やそこで働く日本人はエコノミックアニマル、モーレツ社員と揶揄される中、新宿駅地下広場にはフォークゲリラと呼ばれる集会も続くという時代であった。そして11月には、三島由紀夫が市ヶ谷で自衛隊決起を呼びかけ、割腹自殺を図るという事件まで起こる。いわゆる日本経済の高度成長のゆがみは「公害」として、その被害は頂点に達し、不備ながら公害関基本法はじめ関連法が成立するのはこの年の年末であった。

 なお、1970年少し前の組合青年部の機関誌『新声』8号(1968年9月30日)は100頁ほどの冊子だが、その巻頭につぎのような詩「青春について」を見出すことができた。この詩の作者滝口雅子さんは、『鋼鉄の足』(1960年)、『窓ひらく』(1963年)などの詩集を持ち、室生犀星賞を受賞した詩人で、当時レファレンス部門の人文関係の担当課に在籍の大先輩で課の場所も近かったので、私も若かったのだろう、臆せず拙い短歌をなどを見せたり、詩や詩人の話を伺ったことなどを懐かしく思い出すのだった。ただ、この詩に関して言えば、滝口さんにしては、かなり甘くて優しい作品にも思えた。当時の私などには、計り知れないながら、滝口さんの詩の中の「窓」や「扉」は果てしなく重く、「死」や「愛」は、深くて暗い水底を覗くような感想を持ったものである。

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 「青春について」滝口雅子
青春は/虹のようなものだ/うっかりしいていると/消えて跡かたもない/虹が空にかかっているうちに/そのまるい橋を渡ろう/そして空までも/旅をしよう/青春の広やかな翼を/惜しげなく/ひろげよう
青春!この不思議な魔力をもつ言葉。いま青春のなかにいて、あなたがどっぷり青春にひたっているために、
(中略)
”若さ”がダイヤモンドに匹敵し、或いはそれ以上であるかも知れないと知ったらーー
”若さは”は宝石です

 そして、個人的なことを言えば、1970年のクリスマスも近い朝、明治29年、1896年生まれの父が他界した。その年の9月、那須高原行が父娘の最後の旅となった。

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当時のことは、すでに、次のブログにも綴っているので、重なる部分もあったかもしれない。

今年の615日は、第一歌集『冬の手紙』(1971年)の頃を思い出す2018619日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/06/615-076c.html

 

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2019年8月31日 (土)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(17)ハンブルグ歴史博物館を最後に、旅も終わる

午後にハンブルグを発って、ドゴール空港乗り換えで、帰国する日がとうとうやって来た。午前中に、きのう休館で見学しそこなった歴史博物館は見ておこう、と今日ばかりは、少し遠回りだが、市庁舎広場を通り越して、jungfernstiegからU2でシュランプ乗り換えでサンクト・パウリへと行く。博物館の中は、私たちにはやはりわかりにくいが、貿易により大発展を遂げた海運都市時代の展示も、ゆっくり見たら面白いのだろうけれど、ともかく現代を中心にということで、大急ぎの見学になった。

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ガイドブック。

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博物館中庭。

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館内から ドームを見上げる

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ナチスの時代。

 見学もそこそこに、はやめにハンブルグ空港に向かい、念のため、荷物がどうなっているか、訪ねてみることにした。そして、係員と一緒に案内されたのが、バッゲジ・トレース・センター、到着時にロスト・バゲッジを申し出たところだ。すると、一緒に探しにということで、ターンベルトの横に置き去りになっている、いくつかの塊の中に、ないかという。え?こんなところにまだほっとかれているの?そしてさらに、そうした荷物が、床いっぱいに置かれている部屋3つくらいまわっても、もちろん見つからない。そして、4つ目ほどの部屋だったろうか、夫が探し出したのである。ナンバーを照合して、落着。何のことはない、ずっとこんな具合に、ほっと置かれたのである。腹立たしいKLMの対応に、怒りが収まらない。ともかく見つかったのだから、良しとしようか。いろいろあったけれど、無事に帰れそうではあった。(了)

 

 

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