2016年12月 9日 (金)

婦人矯風会創立130周年記念集会へ、講演とコンサート

東京生まれながら、大久保という駅には下りたことがなかった。駅から徒歩1分の新宿区百人町にある「矯風会館」も、初めてである。まさに、130年前の今日、1886126日に、矢島楫子ら56人のキリスト教徒の女性たちが、「禁酒・純潔・平和」をかかげて立ち上げたのが「東京婦人矯風会」だった。一夫一婦の確立、在外売笑婦取締り、廃娼運動から大正以降は婦人参政権獲得運動、昭和の敗戦後は売春防止法制定、平和運動にも大きく貢献してきた「日本キリスト教婦人矯風会として、現在まで続く。

この日のプログラムと機関誌『婦人新報』の最新号は以下に掲げた。30分ほどの礼拝があり、聖書の話、祈り、献金、祝祷と続いた。ホールは横に広く、百数十人だろうか、やはり、年配の方が圧倒的に多い。

続いて、矯風会理事長の川野安子さんから挨拶があった。長い歴史は苦難の歴史でもあり、日中戦争下における矯風会の在り方にも及び、柏木義円の名を挙げて、反省にも言及された。

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『婦人新報』は、1895年2月に創刊、1893年11月創刊された『婦人矯風雑誌』の後継 誌である。多くの婦人運動の論客や活動家も執筆している歴史ある雑誌である。来年4月から、その誌名が『k-peace』と横文字になってしまうそうだ。ちょっと残念な気もするのだが。

そして、小林緑さんの講演は「見せない半分/聴かない半分~クラシックの女性作曲家“不在”の理由」と題して、作曲家でハーピストのフランスのアンリエット・ルニエ(18751956)をめぐるジェンダー問題のさまざまについてであった。小林さんの話は何回かお聞きしているが、ルニエに特化しての話は、私は初めてである。ハープを語ることは、ルニエを語ること、ハーピストとして自ら作曲、ハープのための編曲、ハープの指導に貢献したが、クラシックの世界では、フランス人であること、女性であること、ハープであることという幾重もの壁になって、音楽事典にも載らず、知られざる音楽家になってしまったというのだ。

続いての、演奏は、今日はすべて、ルニエの作曲、編曲になるもので、若い演奏者の力強いハーモニーは快かった。当日のプラグラムは以下の通りであった。

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2016年11月12日 (土)

小春日和の青山通り~「音を紡ぐ女たち―女性作曲家を知り、聴くPart2 」とマルシェ

 かねてよりご案内いただいていた、表記のコンサートに夫と出かけた。東京ウィメンズプラザフォーラムの一環としてのコンサートで、昨年に続く2回目だった。知られざる作曲家を広める活動をされている小林緑さんの事務所の企画である。

 

今日は、ハープが主役である。ハープは、ピアノよりも長い歴史を持ち、重要な楽器でありながら、現在ではオーケストラの一部としかみなされない楽器になってしまった。しかも、その音色から、女性にふさわしい、いや「女々しい」楽器とさえ言われるようになった歴史もあるということだ。今回は、この優美な楽器のために作曲・演奏した女性たちに焦点をあてたとのこと。ヨーロッパでは、男性のハーピニストも増えているとのこと、小林さんからの解説があった。

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 演奏者の有馬律子さんは、ピアノを習っていたが、8歳のとき、自らハープを望み、始めたという。ハープ一筋で芸大を卒業後は、チェコのヤナ・プシュコヴァに師事、帰国したばかりの新進。190センチに近い、40キロを超え、47弦、7つのペタルの楽器を駆使する颯爽とした姿で、繊細で、しなやかな、やさしい音色を奏でるのだった。

 

 コッリ=ドゥシェク(17751831?)の「ハープのためのソナタ」、パラディス(17591824)の「シシリエンヌ」、ド=グランヴァル(18281907)の「メランコリックなワルツ」は、伊藤倫子さんのフルートとのアンサンブルだった。さらに、ヴァルター=キューネ(18701930)、ルニエ(18751956)のハープ演奏、とくにルニエの「バラード第2番」(1911)は、本邦初演ではないかとのことであった。

 久しぶりのハープの音色に癒されるひとときを過ごした。

 ☆☆☆

 昼下がりのウィメンズプラザを出ると、青山通りには、テントが立ち並ぶマルシェが出現、大変な人出であった。毎週土日に開催しているファーマーズマーケットだという。どのテントでも普段、近くのスーパーではお目にかかれない野菜や様々な食材が並んでいた。

 青森のりんごの店では、おすすめの「おいらせ」、スターキング系の掛け合わせといい、品種を聞き逃した王林よりはやや黄色がかったものと2種類を、屋久島のお茶「縄文」というのを購入・・・、あれもこれもと欲しくなるのだが、食事のコーナーへと移る。ここも様々な移動車での呼び込みが盛んである。ようやく座れた相席のテーブルで、ピザとおでんというメニューとなったのがおかしかった。今日は、日本酒のフェアーが開かれている由、19の蔵元が参加、辺りは、おちょこ片手で、ご機嫌の人も多かった。ヨーロッパ旅行では、よく出会うマルクト広場の市場、我が家の近くにもこんなマーケットが欲しい、と帰路につくのだった。

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2015年11月13日 (金)

「音を紡ぐ女たち―女性作曲家を知り、聴く」を聴く

かねてよりご案内いただいていた、表題のコンサートに行ってきた。この日、117日は、午後がNHK包囲行動であり、宮下公園までのデモの後、会場のウィメンズプラザ・ホールへは、週末の宮益坂を経て、歩いてもそう遠くはない距離だった。東京ウィメンズプラザフォーラムのプログラムの一つであった。企画・構成が「小林緑カンパニー」、小林緑さんは、国立音楽大学で教鞭をとられていた研究者だが、昼のNHKへの抗議行動とも無関係ではない。小林さんは、数年前まで、NHKの経営委員を2期務められ、NHKの内部を知って、NHKの改革を提唱しているお一人である。825日の第1回NHK包囲行動集会の折は、リレートークをされた。私が参加する地元の「憲法9条をまもりたい会」の講演会にもお呼びしている。

久し振りのウィメンズプラザのホールは初めてである。この日のプログラムは以下の通り。

最初の「乙女の祈り」(1851年)は、聴き慣れた曲ではあるが、プロの方の生演奏は初めてのような気がする。作曲のテクラ・バダジェフスカ(ポーランド語の読みだと異なるらしいのだが)17歳の時の曲で、その後、結婚、5人の子をもうけ、1859年頃、音楽雑誌に楽譜が載って以降、大人気になったという。私たちが想像するような感傷的な“乙女の祈り”ではなく、分割統治されていた祖国ポーランドの平和への「祈り」ではなかったかとの解説であった。

吉田隆子の歌曲、1949年発表の「君死に給ふことなかれ」(与謝野晶子18781942)は、すでに聴いたことがあるが(以下の当ブログ参照)。

   
 

「雪よりも、雪よりも、白くなし給え、君がみめぐみに」~「吉田隆子の世界」聴きにいきました

 
 

13/04/11

 

組曲『道』からの「頬」(竹内てるよ19042001)は初めて聴いた。竹内てるよ「頬」(『花とまごころ』所収 渓文社 1933)は、作者の没後、美智子皇后の国際児童図書評議会(IBBY)創立50周年記念大会(2002929日、スイス:バーゼル市)でのスピーチの結びで「子どもを育てていた頃に読んだ,忘れられない詩があります。・・・」と「頬」の冒頭を引用したことでも知られるようになった。スピーチは英語でなされ、つぎのように訳されている。

 

生まれて何も知らぬ 吾子の頬に

母よ、 絶望の涙を落とすな

その頬は赤く小さく

今はただ一つの巴旦杏(はたんきょう)にすぎなくとも

いつ 人類のための戦いに

燃えて輝かないということがあろう

Of your innocent newly born,

Mothers,

Do not drop

Tears

Of your own despair.・・・ 

 

コンサートでは、歌詞の「絶望」が「悲しみ」と歌われていたようである。てるよの詩人としてのスタートは、貧困と闘病のさなかの1920年代、アナーキスト系の詩人と言われていたが、1940年代に入ると、多くの文学者とともに日本文学報国会の諸事業に参加するようになり(櫻本富雄『日本文学報国会』青木書店 1995)、『辻詩集』(日本文学報国会編刊 1943)や種々のアンソロジーに作品が収録されるようになり、詩集も数多く出版された。朗読会やラジオ放送では「白梅」「母の大義」「女性永遠の歌」などの作品が朗読されている(坪井秀人『声の祝祭』名古屋大学出版会 1997)。

クララ・シューマンのピアノ協奏曲から「ロマンツェ」(1835)、ル・ボー「チェロとピアノのための4つの小品」(1881)、ガルシア・ヴィアルド「歌曲集」(1864)から「夜に」「星」の2曲だった。

いずれの作曲家も、日本でいえば幕末から明治にかけての時代を生き抜いた人たちで、西欧といえども女性へのさまざまな偏見にさらされていたのだろうと想像ができた。だからこそ、現代には、きちんとした評価がなされなければならないと思った。素人の私には、ピアノの河野さんは、テレビ「のだめカンタービレ」の上野樹里の手や音の吹き替えをした方とか、ヴィアルドの生涯にあっては、ロシアのツルゲーネフの存在が大きかった、といったエピソードも興味深く、チェロの江口さんのやさしい音色にも魅せられた。まだまだにぎやかな表参道の街を、コンサートの余韻をまとい、帰路につくのだった。

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2015年1月13日 (火)

「自由と平等を求めた女性作曲家たち~ル・ボーとアンドレーを中心に」 (1月9日、19時~、津田ホール)を聴きに

   風は冷たく、体調は万全ではなかったけれど、思い切って、上記のコンサートに出かけた。そんなわけで、コンサートに先だって開催された、企画者である小林緑さんの講演を聴くことができなかったのが残念だった。 会場の津田ホールには、数回しか入ったことはないが、千駄ヶ谷駅前という便利さが何よりも魅力だった。しかし、この3月に、専門家たちからも惜しまれながら閉鎖される。津田塾大学のキャンパスとして、再開発されるということではあるが、やはり残念に思えた。「津田ホールで聴く女性作曲家たち」(知られざる作品を広める会主催)というシリーズも今日の5回で最終回ということだった。 ル・ボーもアンドレーもまったくなじみのない名前であったが、プログラムにクララ・シューマンの名があって、正直、ほっとしたのであった。

●エレーヌ・ド・モンジェルー(1764-1836):
「ピアノ教育大全」より練習曲集」99番,106番,66番,111番〔ピアノ独奏〕
●ルイーゼ・アドルファ・ル・ボー(1850-1927):
ヴァイオリン・ソナタ ハ短調(op.10), エレジー ト短調(op.44 )〔ヴァイオリンとピアノ〕
●クララ・ヴィーク〔=シューマン〕(1819-1896):
ピアノ協奏曲イ短調ロマンツェ(op.7) 第2楽章〔チェロとピアノ〕
●マリー・ヴィーク(1832-1916):
スカンジナヴィア民謡による幻想曲〔チェロとピアノ〕
●エルフリーダ・アンドレー(1841-1929):
ピアノ三重奏曲 ト短調〔ピアノとチェロとヴァイオリン〕

遠藤香奈子(ヴァイオリン)江口心一(チェロ)宮崎貴子(ピアノ)
企画・構成・講演:小林 緑(国立音楽大学名誉教授)

    エレーヌの練習曲には、それぞれ練習目的と解説が記されているそうで総数114曲に及ぶ。フランスのリヨンに生まれ、12歳よりピアノを学びはじめ、モンジェルー侯爵と結婚、1793年、革命政府からの排斥を逃れ、夫妻で国外脱出を図るも捕えられ、夫は獄中死し、彼女は辛うじて救われるが、パリに帰還後再び逮捕、その折、国歌の「ラ・マルセイユ」の即興変奏を繰り広げ免罪になったという。1795年創設のパリ音楽院ピアノ科の女性唯一人の正教授となったが、指導方針の違いからか辞職、作曲活動と共に「ピアノ教育大全」を出版。結婚生活も波乱に満ちているが、フィレンツェで死去。今回の演奏には、革命の激動とロマンティズムが感じられる曲もあって、頷けるものがあった。
  ルイーゼは教育熱心だった父親を持ち、ヴァイオリン、ピアノ、作曲を学びはじめ、ドイツロマン派最高の女性作曲家と目されるようになる。1893年ベルリン王立音楽院の教授職招聘が撤回されるなどの屈辱を味わう。1910年自伝『ある女性作曲家の生涯の思い出』を出版。ドイツや日本でもほとんど演奏されることがなく、「エレジー  ト短調」は、日本での初演ではないか、とのことである。
  クララ・シューマンは、ライプチヒに生まれ、父親ヴィークの教育もあり、9歳でピアニスト・デビュー。演奏曲は、なんと16歳の時の完成作品で、1835年11月には、クララ自身、メンデルスゾーンの指揮のもとゲヴァントハウスで初演を果たしたという。父親の反対を押し切り、父親の弟子でもあったロベルト・シューマンと1840年に結婚するが、その生活は、自身の活動より夫のそれを優先しなければならず、自由がなく、1854年シューマンが自殺を図った以後の療養中は、7人の子どもの養育とコンサートをこなし生計を立てていた。甘美でゆったりしたメロデイが魅力的だった。
   つぎのマリー・ヴィークは、クララの父親ヴィークの再婚後の娘で、クララの義妹に当たる。ピアニスト、声楽家として名高く、ヨーロッパ各地の演奏旅行先での民謡にも深い関心を寄せ、この日の幻想曲も、聞き覚えのあるメロディがテーマの一つになっていた。
   エルフリーダー・アンドレーは、スウェーデンの初の大聖堂オルガニストとしての地位を築いた。医者の父親から周到な音楽教育を受けるチャンスを与えられ、作曲、指揮などに多彩な能力を発揮し、 女性解放運動にも参画している。  

   音楽には、素人ながら、この日は若い3人の演奏者にも恵まれ、戦いながら、自らの才能を信じた女性作曲者たちを思い起こしながら、充実した時間を過ごすことができた。

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写真の上段がルイーゼ・アドルファ・ル・ボー、下段がエルフリーダ・アンドレーです。

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2014年11月17日 (月)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(9)

ベルリン3日目、冬時間へ

私たちが日本を発ってすぐに小渕・松島両大臣が辞任したことは、ホテルの新聞で知った。その後の娘からのメールでは、後任の両大臣にも、つぎつぎとボロが噴出しているとのことであった。こちらではテレビを見るゆとりもなく、天気予報を見るくらいだった。青空を見ることは少なかったが、傘をさして歩いたのは、フランクフルトの2日目の夕方だけだったように思う。

1026日(日)、いよいよベルリンも3日目となった。朝6時、早すぎるかなと思いながら、旅のメモでも取っておこうと、ふたたび枕元の時計を見ると、?まだ5時?ホテルの時計が止まっている!と夫に告げると、「そう、きょうからだったのかな、冬時間に切り替わったかもしれない。旅行社のMさんが言っていた」とのこと。この時期に影響の少ない日曜日に夏時間から冬時間に切り替わるらしい。少し得をした気分ではあった。ほんとうにドイツの朝は、明るくなるのが遅く、7時になっても真っ暗だった。早めの食事を済ませ、夫は、きょうの目的地、ザクセンハウゼン強制収容所への予習に余念がない。そして、きのう、私が「なんか気持ちの重くなる所ばかりをまわてきたので、コンサートにでも行きたいね」と口走ったばかりに、夫は、昨晩のうちに、今夜ベルリン・フィルハーモニーでドイツ・シンフォニー・オーケストラのコンサートがあることをホテルで確認、予約を依頼したが、当日売りで入手してくれとのことだった。その方もやや気がかりではあった。

ザクセンハウゼン強制収容所へ

Sバーンでベルリン中央駅に出て、RB(Regional Bahn)5で強制収容所の最寄駅Oranienburgオラニエンブルクに向かう。944分発、約30分。駅からは歩いて20分というが、804系バスには、学生だろうか、日本の若い女性3人組と一緒に乗った。終点バス停の前で、帰りのバスを確かめ、1時間に一本なので午後19分とした。厚いコンクリートの壁の切れ目から入場、収容所の入り口は、長い石の塀に沿った一本道、いわゆる「収容所通り」を進んだところらしい。その途中の塀には、強制収容所での出来事が大きな写真で展示され、その役割を強く印象づけられる。ナチス解体後は、ソ連、東独の特設収容所となっていたのである。入口の正面にはレーニンの顔写真が掲げられている写真もあった。

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バス停を降りると、こんな壁の間を縫って

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 収容所通りには黄葉が舞う

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目を覆いたくなるような展示が続く

以下は、入り口で購入したコピーの日本語案内(50セント)による。19333月、ナチ突撃隊によってオラ二エンブルク市の中心部に開設された収容所は、一時3000人以上の人が収容されていたが、19347月に親衛隊に引き継がれ閉鎖している。1936年現在の地に、収容所建築のモデルとなるべく、親衛隊により設計されたのがザクセンハウゼン強制収容所だった。1938年にはドイツ支配下のすべての強制収容所の管理本部の役割を果たしていた。以降194542223日、ソ連とポーランドの軍隊ににより解放されるまで20万人以上の人が収容され、飢え、病気、強制労働、虐待、さらには「死の行進」などにより多数の犠牲を出した。当初は政治犯が主だったが、後は人種による収容が多くなった。19458月からは、ソ連の特設収容所として、ナチス政権下の役人や政治犯らで、その数6万人、少なくとも12000人が病気や栄養失調で犠牲になっている。1961年以降は、ソ連軍東独軍の施設として利用されていたが、1961年に国立警告・記念施設としてスタートした。1993年以降東西ドイツの統一により、国と州に拠る財団で管理され、「悲しみと追憶の場所としての博物館」となり、残存物の重要性が見直され、構想・修復されて現在に至っている。

案内所では、オーディオガイドも借りられるが、日本語はなくて、上記のA420数頁のコピーによる案内だけが用意されていた。収容所は、見取り図でもわかるように、正三角形からなり、その一辺の真ん中が入り口となっており、その鉄格子の扉の「ARBEIT MCHT FREI」(労働すれば自由になる)の文字は、アウシュヴィッツ収容所の入り口のアーチに掲げられている文言と一緒である。その一辺を底辺とすれば頂点に近い位置に、東独時代の石の記念碑が立っている。入り口近くに扇型の点呼広場⑫を中心として、バラックと呼ばれる収容棟が放射線状に68棟建てられていたことがわかる。各棟敷地跡には区切られ、砂利が敷き詰められていて、いまは広場から一望できる。最も管理がしやすい形だったのだろうか。

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入口から正面のオベリスクは高さ40mあるという

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”ARBEIT MACHT FREI”の文字が見える

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③ 収容所通り ⑩ 入り口 ⑫ 点呼広場

 まず、博物館で、予備知識をと思い入館した。収容所の変遷が分かるように、展示・映像・音声装置などにも様々な工夫がなされていたが、見学者は極単に少ない。ここでは、やはり、フイルムと写真という映像の記録の迫力をまざまざと見せつけられた。さらに、現存の収容棟の一つには、ユダヤ人収容者の歴史が個人的なデータを含めて展示され、べつの収容棟には収容者の日常生活が分かるような展示がなされていた。結局、2時間余りでは、全部は回り切れず、いわば、本部に当たる監査棟、病理棟、強制労働がなされた工場棟、犠牲者の墓地など大半を見残している。が、総じて、権力を持った人間が持つ狂気、それに押しつぶされる人間の良心と抵抗の力をも、あらためて知ることになるのだった。

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博物館、ある画家の残したエッチングなど

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博物館、流れる映像と鉄条網の束

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バラック38は、収容棟博物館になっている

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遠くの施設には足を運べなかった

当日券でコンサートへ
 オラニエンブルクからポツダム広場に直行、きのうも出かけた「文化フォーラム」の一画にある「フィルハーモニー」のコンサート会場には3時過ぎに着いたのだが、夜8時からの開演で、当日券は630分から発売とのことだった。それではと、近くの新国立美術館に入ってみることにしたが、これまた、まさにドイツの現代美術展であって、抽象画や奇妙なオブジェも多く、正直なところ馴染めないまま、一回りだけはしたのだった。この間にとソニー・センターの2階のレストランで夕食となり、少しゆっくりしたのだった。きょうも結構歩いたなと、万歩計をのぞけば、13000歩、ドイツに来てからは、130002万歩で、日常的には多くて5000から6000歩なのだから、いつもの3倍は歩いていることになる。頑張っているではないかと自分をほめたい?感じ。
 ようやく当日券入手、迷いはしたが、座席はFブロックで32€(プログラム2€)、7時には開場とのことだったが、だいぶ遅れた。大ホールは、複雑な重層的な構造で、F席は3階のようである。この会場では、まだ先のようであるが、内田光子や辻井伸行のリサイタルも開催されるらしい。開演間際になると、AB席はほぼ満席、F席は67割か、まるで空席のブロックもあり、全体として45割程度なのかもしれない。ワグナーの「ジークフリート牧歌」とバルトークの「弦楽器と打楽器、チェレスタのための音楽」で休憩に入るので、そこで失礼することにした。ワグナーは、やさしい子守唄を聞いているようであったし、バルトークは、チェレスタ・ピアノ・木琴をはじめ打楽器が多彩で、ピアノの連弾もあって、たのしく聴くことができた。ベルリン最後の日も長い一日となった。

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チケットと大ホールの見取り図

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大ホールをF席から見ると

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2014年11月 6日 (木)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(5)

マルクト広場に金曜の市場が

 1024()、今日の午前中で、ライプチッヒを離れる。まず、マルクト広場を経て、元国家保安省にあるルンデ・エッケ記念博物館に行ってみることになった。今朝のマルクト広場は、乗り入れの車とテント、市場の準備に実ににぎやかで、すでに買い物を始めている人もいる。

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金曜朝のマルクト市場、かぼちゃもごろごろ・・・。

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”kaki"は、平たいものでなく、筆柿を大きくしたような形で、甘かったので、今回、2度ほど買い込んだ

 

ルンデ・エッケ記念博物館~まーるい角の国家保安省跡に
 ルンデ・エッケ記念館というのは、ナチス時代、東独時代における国家保安省の建物に、当時の国民監視・弾圧の実態を詳細に、その実際の手口などが紹介されているという程度の前知識である。ちょっと想像もつかなかったのだけれど、トーマス教会前のマルティン・ルター・リングを、昨日と反対の東に折れて広い公園の緑地に沿ってしばらく歩く。もうこの辺なのにと思い、通行の男性に尋ねると、やはり近かった。大きな垂れ幕のある円形の建物が見えてきた。1010分前、開館を待つ23人が見えた。今日はスムーズにたどり着けたぞ、の思い。ここも、入場無料。入り口正面の階段上には、「この建物は政府と国民会議によって建てられた?」の垂れ幕が。1989年までは、国家保安省としての機能を果たしていた場所に、なるほど、案内にあったように、14室と狭い廊下には、壁の展示と展示物でいっぱいであった。展示は、写真や図表が多いので、私にはわかりやすい部分もあった。1989124日、ライプチィヒ地区の秘密警察本部はデモ隊により占拠され、平和革命の象徴的な出来事だったという。「ルンデ・エッケ」とは、丸い角とよばれた国家保安省の建物を指している。ナチス時代、青少年や女性の教育、組織にいかに力を入れたか。そしてスポーツ、マスゲームなどを通じて、統制を強めて行ったかなど、数々の写真が示していた。それは東独時代も同様であった。さらに、信書や電話の秘密がいかに侵されていたか、住居や会議がいかに監視されていたかなどが、具体的にどんな組織や機器で実施していたかが説明されている。現在の中国・北朝鮮・ロシア、アメリカのCIAなどにおいても、その技術こそ進化しているけれど、似たようなことをしているに違いない。日本におけるかつての特別高等警察いわゆる「特高」やアメリカの占領軍が、その手口をこれほどまで克明に明かしているだろうか。「ナチスを真似れば」の発言で物議をかもした閣僚もいる日本である。やはり不安を禁じ得なかった。

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ルンデ・エッケ記念博物館の10時の開館を待つ

Gedc3861「子どもとスポーツ」とあり、見出しは、すべて段ボールをちぎって、凹凸のある裏側に手書きされていた

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通信・電話の秘密?(盗聴の仕組み)

ようやくのメンデルスゾーン・ハウス

 重い気分で出たルンデ・エッケだったが、あらためて、メンデルスゾーン・ハウスに再挑戦した。近くまで来ているはずなのだがと、乳母車を押す若い女性に尋ねてはみるが分からなっかった。さらに少し歩いたところで、今度は、年配のご夫婦づれに尋ねると、「こんにちは」と日本語が返ってきた。「このすぐ先です」とのこと。聞けば、大阪に仕事で住んでいたことがあるということだった。もっとお話ししたい気持ちだったが、ライプチッヒを離れる時も迫っているので、「ありがとう、さよなら」と先を急いだ。通り過ぎてしまいそうな入り口であった。この博物館は、若死にしたメンデルスゾーン(18091847年)が最晩年1845年から住んでいた家で、丁寧に修復された後、1997年にオープンしている。そんな昔のことではないことが分かった。日本語のオーディオ解説が聞けるというのでお借りした。係員は、その機器の使い方と館内の回り方を案内してくれる。ほんとうは、ゆっくり説明を聞きながら、回りたかったけれど、3040分ほどで切り上げたのが残念だった。メンデルスゾーンの早くよりその才能に着目した父親による英才教育、メンデルスゾーン自身はイギリスはじめ各国の演奏旅行をしながら多くの文化人と交流をし、作曲家としても注目された様子が伺われた。また、バッハ音楽復興にも尽力している。ユダヤ系の一族は、迫害を受けていたが、ナチス時代には、彼の曲の演奏まで禁じられた。ゲバント・ハウス前の記念像は1936年撤去され、トーマス教会前の公園で、バッハ像と向かい合っているように思えたメンデルススゾーン像は、比較的最近の2008年に、再建されたものだという。

ライプチッヒ中央駅1453分発、ベルリンに向かう。

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建物は大きいのだが、入り口は、うっかりすると通り過ぎてしまいそうなメンデルスゾーン・ハウス

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 書斎

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 中庭、正面のバラに囲まれた胸像と白いベンチが眩しい

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メンデルスゾーン・ハウスのガイドとチケット

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 このタワービルを目印に、道を教えてくれたのだが 

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 ライプチッヒ中央駅、さようなら

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ドイツ鉄道の駅のホームは、どこも広く、日本の倍以上はありそうだ。
ホーム・線路改修工事に働く人々。駅に改札というものはないが、長距離の場合は、
必ず車掌の検札がまわってくる

 

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2014年5月13日 (火)

「これでいいのか、NHK~元経営委員小林緑さんが語る」、会場の熱気につつまれて

 一つ前の当ブログ記事でも紹介しましたが、私が参加している地元の9条の会主催の講演会(5月10日午後1時30分~佐倉市ミレニアムセンター)は大盛況のうちに、終了しました。受付を始めたときは、どれほどの方が参加されるか心細かったのですが、開会の時刻が迫る頃には行列ができましたし、足りなくなった資料もあって大慌てしたほどです。100名定員の佐倉市ミレニアムセンターホールは、満席となり、20席近い補助席を設置しました。受付で記名をしてくださったのが110余名。5月8日東京新聞(千葉中央版)に詳しい記事として掲載され、それを見たという方も多かったと思います。

 これまで、NHKに対してくすぶっていた視聴者の不満は、125日の籾井会長の就任員記者会見直後、いっきに火が付いた形です。その後も「やってくれるじゃないの」というほど、会長に加えて、新任の百田尚樹、長谷川三千子経営委員の言動もひどいものでした。その言動が、民主主義を根底から覆すものであり、あからさまに安倍政権の応援団を自称してはばからず、加えて、その語り口は、三人とも品格が問われるものでした。

 放送法によって、経営委員会から任命されるNHK会長は、当然のことながら、高い資質が要請されています。「放送法順守」をお題目のように繰り返す会長ですが、放送法第1条に大きく外れた資質は、その資格がないでしょう。経営委員も、何を勘違いしているのか、個人の思想の自由を楯に暴言を繰り返すことが、放送法、服務基準に違反していることは明らかです(末尾の資料参照)。

 こんな人物に、会長は年俸3092万円、非常勤の経営委員で495万円(平成25年度、月2回の会議日の日当約20万以上)が受信料から支払われることになるのですから、視聴者にしてみたらやりきれません。政府広報のようなニュース番組、お笑いや歌い手等のタレントが司会をしたり、コメンテイターになったりという民放のそっくり番組を見せ続けられたら・・・。 

  小林緑さんは、ご自分の経営委員の就任の経緯から、音楽史専攻の研究者として音楽とジェンダーの視点などから、NHKとN響の実態、ETV番組改変問題などを通じ、NHK改革の発言や行動への道筋を示されました。とくに、クラシック音楽の世界に埋もれている女性作曲家の話は、多くの参加者にとっては印象深いものでした。小林さんの講演のあとは、地元のNHKを監視・激励する視聴者コミュニティの醍醐聰共同代表が聞き手となって、さらに現在のNHK問題の核心を探りました。

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 会場からは、現在のNHK改革のためには、視聴者として何ができるかについての質問や提案が相次ぎました。NHKへの意見や抗議の仕方、署名や受信料の凍結について、さらにNHK職員・労働組合との共闘の限界などにも及びました。視聴者の手で、会長はじめ二人の経営委員を辞めさせ、政権寄りの放送内容を改めさせるための手段として、コールセンターへの抗議や受信料凍結運動の展開によって、視聴者の声を届けようということになりました。

 

佐倉市内からの参加者が多かったですが、近隣の千葉市、船橋、習志野、八千代、成田はじめ各市からの参加が多いのもうれしいことでした。20近くの人が、小林さんを囲んでの二次会に参加、大いに語り合いました。なお、小林さんが遠慮がちに配られた、流山市男女共同参画室主催の小林さん解説による演奏会の案内がありました。ノルウェーのグレンダールはじめ19世紀に凛として輝いた女性作曲家たちの作品の若い女性演奏家たちによるコンサートです。そのチラシの問い合わせが数件ありましたので、以下をご覧ください。

 

http://www.na-shimin.org/pdf/forame.pdf#search='%E6%B5%81%E5%B1%B1%E5%B8%82%E7%94%B7%E5%A5%B3%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%8F%82%E7%94%BB%E5%AE%A4+%E5%B0%8F%E6%9E%97%E7%B7%91'

  

 

 なお、小林さんの企画によるコンサート「吉田隆子の世界」に私が出かけたときの記事は、以下をご覧ください。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/04/post-79ba.html2013411日)

<参考資料 >

放送法

(目的)

第1条 この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。

一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。

二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。

三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

(委員の任命)

31条 委員は、公共の福祉に関し公正な判断をすることができ、広い経験と知識を有する者のうちから、両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する。この場合において、その選任については、教育、文化、科学、産業その他の各分野及び全国各地方が公平に代表されることを考慮しなければならない。(委員の権限等)

経営委員会委員の服務に関する準則

総則)

 第1条 この準則は、放送法第62条に基づき、日本放送協会の経営委員会委員が、公共放送の使命と社会的責任を深く自覚し、高い倫理観を持って職務を適切に執行するために必要な服務に関する事項を定めたものである。

(服務基準)

 第2条 経営委員会委員は、放送が公正、不偏不党な立場に立って国民文化の向上と健全な民主主義の発達に資するとともに、国民に最大の効用と福祉とをもたらすべき使命を負うものであることを自覚して、誠実にその職責を果たさなければならない。

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2013年4月11日 (木)

「雪よりも、雪よりも、白くなし給え、君がみめぐみに」~「吉田隆子の世界」聴きにいきました

 この2月に、NHKのETV特集「吉田隆子を知っていますか」の再放送を見て、このブログでも吉田隆子に触れた。410日は、「吉田隆子の世界」を聴きにルーテル市ヶ谷センターまで出かけた。

参照:2月10日記事
 ETV特集「吉田隆子を知っていますか―戦争・音楽・女性」(2013年2月2日再放送

  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/02/etv201322-6f37.html

 開演まで30分近くあるというのに、満席に近く補助椅子まで用意されていた。 作曲家、隆子のデビュー作は2分弱の小品「カノーネ」(1931年。ピアノ:山田武彦)の軽快なカノンで開幕した。あとは作曲の暦年順に演奏されてゆく。ものがなしい旋律の「ポンチポンチの皿回し」(1929年、1931年改作。ソプラノ:波多野睦美、山田)、「青年の歌」(1933年。バイオリン:大谷康子、中川直子)は、二つのバイオリンだけの演奏で前半後半の躍動と静寂のコントラストが際立っていた。戦前は演奏されることがなかった混声合唱曲「小林多喜二追悼の歌」(1933年。山田、大谷、中川)は、男性パートがピアノ、女性パートが2本のバイオリンという見立てで、沈痛な中の力強さ、ラストのバイオリンが強烈であった。ゲーテ『ファウスト』から「蚤の唄」、シラー『群盗』より「ヘクトールの別れの歌」、いずれも、吉田隆子の伴侶、久保栄による訳詩を山田のピアノで波多野が歌い上げた。一部の締めくくりの『組曲・道』(1948年)で、歌われた竹内てるよ「頬」(『花とまごころ』1933年)は、「生まれて何も知らぬ吾子の頬に/母よ 悲しみの涙をおとすな」で始まる。「母よ 絶望の涙をおとすな」で終る詩は、竹内てるよの貧困と病による過酷な人生とも重なり、2002年美智子皇后のスイスでのIBBY(国際児童図書評議会)大会での講演で紹介された作品としても知られる。 

 第2部は、戦後に作曲された大塚楠緒子「お百度詣」(1953年)と与謝野晶子「君死にたもうことなかれ」(1953年)から始まった。いずれも反戦詩と言えるものだが、前者は、独唱用、合唱用に作曲されたものをピアノとバイオリンで演奏され、後者のソプラノの力強さとピアノの連打は圧巻であった。与謝野晶子の詩の強いメッセージ性が胸に迫る。最後の「ソナタ・ニ調」は、演奏時間も長く、落ち着いて聴き入ることが出来た。 

なお、プログラムの演目が終わると、各演奏者が、吉田隆子との出会いや演奏の感想などを語るコーナーもあった。全員が、彼女の曲の力強い、突き動かされるようなメッセージ性に触れていた。アンコールの最後は、オペラ「君死にたもうことなかれ」から、吉田隆子の詩、讃美歌「雪よりも」が演奏者全員で演じられ、幕は降りた。詩も曲もとても分かりやすく、すがしい思いで会場を後にするのだった。

下は、当日のプログラムの表紙です。↓
http://dmituko.cocolog-nifty.com/yosidatakako.pdf

<追記>

なお、今回のコンサートの主催者の前代表、小林緑さんの「顛末記」が下記に掲載されています。(JNP通信2013年5月6日)

http://www.news-pj.net/npj/kobayashi-midori/20130506.html

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2013年2月10日 (日)

ETV特集「吉田隆子を知っていますか―戦争・音楽・女性」(2013年2月2日再放送)

  昨年9月に見損ねていた。わずかながらに知っていた吉田隆子(19101956年)、番組にも登場された小林緑さんの編著書『女性作曲家列伝』(平凡社1999年)であった。その著書を知ったのが2008年で、その中で、取り上げられていた一人、エセル・スマイスついての講演と演奏会に出かけた折の報告は、このブログでも書いた。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-da49.html 

 また、上記の本には番組にも登場した辻浩美さんが、日本の女性作曲家の一人として、吉田隆子について書いていた。最近、『作曲家吉田隆子・書いて、恋して、闊歩して』(教育史料出版会 2011年)を刊行したが、 まだ見ていない。2010年には、吉田隆子生誕100年記念のコンサートも開催されたというが、行かずじまいであった。今回、ようやく再放送を見ることができた。番組を振返ってみたい。 

 父親が軍人であったが、厳しく育てられ、女性の自立を説き、大正時代の自由な気風を備えた母親の影響で幼児より琴、12歳よりピアノに励んだ。父親の反対で音楽学校にも進学できなかったが、作曲を学び、「シンプルな素材をシンプルに」をモットーに、虐げられた人々に寄り添い、日本プロレタリア音楽同盟(PM)(19281934年)の活動に参加、1932年の発表会での歌曲「鍬」(一田アキ=中野鈴子、中野重治の妹、作詞)の作曲は高く評価された。アテネフランセなどにも学び、多くの芸術家たちに出会っていた。1933年小林多喜二の獄死直後には「小林多喜二追悼の歌」(佐野嶽夫作詞)、8月には拘留される。弾圧によるPM解散後、1935年には楽団「創生」を結成、民衆のための音楽運動をめざし、啄木の短歌に曲を付けたりする。人形劇団プークの舞台や新協劇団の久保栄「火山灰地」など現代劇の舞台に音楽を取り入れるという仕事をする中で久保栄と結婚、二人の住いの自由が丘の家は常に特高警察の監視下に置かれ、隆子もいくたびも拘留されたが、1940年、半年にも及ぶ投獄で病に倒れ、自宅に帰された後は、寝たきりの闘病生活が続く。その生活は悲惨ではあったが、日記だけは書き続けていて、没後そのままになっていた自由が丘の家から最近見つかったという。 

 敗戦後は奇跡的に病も癒えて、音楽活動を再開し、世界に通用する音楽をめざして、作曲、評論などに精力的に立ち向かう。与謝野晶子の「君死にたまうなかれ」をオペラ化した作曲台本を書き、「バイオリンソナタ二調」の初演にも漕ぎつける。しかし、1956年、ガンに冒され、46歳の若さで他界、久保栄も2年後に後を追うように亡くなった。 

 私は、正直、作曲した作品の評価は分からないが、小林緑さんが話すように、音楽界においても女性の役割分担はきつく、女性の作曲家をまともに認めようとしなかった歴史、ついこの間までのこととして、苦労が多かったことは、多分野と同様であったと理解ができた。今回の番組で、一番印象的だったのは、自由が丘の旧居が、二人の住人が世を去って、半世紀以上も経っているのに、当時のままの佇まいが残っていたことだ。311の大震災で、本棚が傾き、書籍が散乱したままになっている光景もうなづけた。遺品や資料管理をしていた久保栄の助手も亡くなったそうだ。そこから発見された日記は、特高に押収されて他の人に迷惑を掛けてはと、人名などの固有名詞が消されていた。 

 いま手元にある、先の辻さんの隆子の記述や『日本流行歌史』(社会思想社1970年)、『近代日本女性人名事典』(ドメス出版 2001年)などをひっぱり出してきて、参考にしながら、若干補ったところもある。辻さんの記述によれば、久保栄というパートナーを得るまでには、男女間の波乱もあったらしいことが書かれている。隆子は、親の決めた結婚を拒み、恋愛を貫いて結婚したものの病気と貧困等から破局していたという経緯もあり、画家三岸好太郎との関係も妻の三岸節子を悩ませたこともあったらしい。2005年には、北海道立三岸好太郎美術館で吉田隆子をテーマにコンサートが開かれて、つぎのように紹介されていた。

 

   〔〈オーケストラ〉のひと-吉田隆子の曲〕吉田隆子は、北海道出身の画家・三岸好太郎に大きな影響を与えた女性作曲家です。三岸は、〈黄服少女〉〈少女の首〉などで吉田隆子をモデルにするとともに、さまざまな音楽的知見を彼女から得て、後年の、音楽と美術を結びつけた独特の画論を形成する契機とします。また、同時に、彼女と一緒に聴きに行った新交響楽団コンサートから、傑作〈オーケストラ〉の着想を得たとされています。 

*出演者*渡辺ちか(ソプラノ)、則竹正人(バリトン)、浅井智子(ピアノ) 

 *曲 目*吉田隆子「カノーネ」「君死にたもうことなかれ」ほか

 

1934年、31歳で急逝した三岸だが、「オーケストラ」が制作されたのは1932年、ピアノの鍵盤に手を触れて立つ隆子を描いた「黄服少女」が1930年、「少女の首」が1932年の制作だった。 このあたりのことにはまったく触れないのが、NHK的なのかな。 

これまでのいくつかの女性史関係の年表には、まったくと言っていいほど「吉田隆子」は登場していない。上記のドメス「近代日本女性人名事典」にその名を見出し、なぜかほっとしたのだった。久保栄との関係でも「夫婦の絆」「同志の絆」が強調され、反戦、抵抗の作曲家であったことは、たしかであった。が、演劇史研究の井上理恵さんは、ブログ上で、吉田隆子が作曲家として現代劇に音楽を取り入れたことは、演劇史上画期的なことであったが、今回の番組には、そうした視点がなかったことを指摘していた。 

410日には、東京で「吉田隆子の世界」のコンサートが開かれるという。ぜひ出かけてみたいと思っている。

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佐倉市の井野の辻切り、井野本村への8か所の出入り口に、魔よけと豊穣を祈って

掲げられたワラの大蛇、大辻といわれる。毎年1月25日新しいものに替えられる。

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村の各戸の門周辺に掲げるワラの蛇、小辻と呼ばれる

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2012年11月 7日 (水)

緑陰の読書とはいかなかったが<番外>『歌と戦争』(櫻本富雄)

 『歌と戦争』(櫻本富雄 アテネ書房 20053月) 

本ブログに、9月から10月にかけて、俳人、詩人、歌人、画家たちの戦時下における活動とその責任について書かれた書物をまとめて読むことになり、その感想を5回にわたって書いた。だいぶ前に『図書新聞』の求めに応じて書いた櫻本富雄著『歌と戦争』の書評(2005611日)もあらためて、ここに張り付けておきたい(本ブログ2006217日掲載)。著者の櫻本さんは、1933年生まれで、1978年『詩人と戦争』を発表以来、とくに太平洋戦争下の文化人たちの表現活動を検証し続けている詩人であり、研究者である。その手法は、自らが徹底的に発掘・収集した文献を中心に、翼賛運動の実態を実証的に明らかにすることに徹している。その著作は、20数冊に及び、その精力的な活動に、私は圧倒され、多くを教示いただいている。私が最初に出遭ったのは『空白と責任』(1983年)だったろうか。『文化人たちの大東亜戦争』(1993年)『日本文学報国会』(1993年)『本が弾丸だったころ』(1996年)などは、いまも身近に置いている重要参考文献である。『歌と戦争』はホームページ「空席通信」に連載していたものである。

 

『図書新聞』の2005611日に掲載された『歌と戦争』の書評は、以下をご覧ください。 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/02/post_d772.html

  

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