佐倉市のニュータウンは、いま~お花見がてら、街の今昔を思う
今日を逃すと、散ってしまうような気もして、ご近所の桜を見てみようと散歩に出た。
近くの調整池辺りは、土地区画整理組合と言っても地元の開発業者「山万」によって、公園として整備され、接した工区に、いまは、戸建て、マンション、高齢者施設、小ぶりの商業施設が並ぶ。四半世紀も前になるが、自治会館建設をめぐって、住民を二分するような事態が起こって、夫婦ともども、この地区の住民自治会とかかわることになった。開発に伴う「自然環境の保全」「地区計画」「住居地域の安全」「道路整備」・・・などをめぐって、業者、市役所、県庁などとの交渉が続いた時期もあった。街のあちこちに、さまざまな思い出がまつわるのだった。
正面が井野村の鎮守「八社大神」と井野城跡の森。浅間神社の小さな鳥居も見える。この北部調整池が作られる前は、八社の森を囲むように田んぼだったそうで、近くの井野中学校辺りが、腰までつかるほどの一番深い田んぼだったという。いま宮の杜公園となり、森の向こう側に、マンション、手前左側に戸建て住宅が並ぶ。この写真を撮っている私の背後は、木々に囲まれるように井野の集落が残されている。竹林に沿った坂道を上ると三叉路の左手に井野の自治会館があり、その前の桜の木には「井野の辻切り」として有名なワラで作った龍が昇っている。いまは八か所の辻、辻でこの龍が集落の安全を守っているという。毎年1月に新しい龍と替えられ、家家の門にも小さな龍が掲げられている。
三叉路を左に行けば、豊山派の千手院があり、まっすぐ進めば志津へ。引っ越してきた1988年には、まだ、志津駅から千手院前が終点の路線バスが走っていた。
さらに、進むと、右手に庚申塚がある。大小五つの庚申塔が並ぶ。小さめの手前が、一番古くて寛政4年(1792年)とあり、まさに寛政の改革の時代である。奥にあるのが天保8年(1837年)、一番奥に見えるのが、万延元年(1860年)で、手前の正面に石像の姿がある塔と蔭にある2基が大正年間とある。
再び、八社大神に戻る。このあたりはイノシシが出ることもあるらしく警告の看板が出ている。左手の八社の森の切り株が何本か見える。この木々の伐採については、いろいろあった。開発業者が、八社の井野の氏子たちからの依頼で、八社の森の枯れ木・古木などの伐採と参道・駐車場整備の工事を開始すると、突然、近辺の住民に知らされた。八社の森の環境が気に入って住宅を購入したばかりという人たちは、最後の一戸売れた途端に工事を始めるとはと、怒り心頭であった。自治会・住民有志と何回かの交渉の末、200本伐採予定が70本で済んだし、参道の変更や駐車場の台数・運用変更などを経て落着した。
そういえば、この工区の造成時には、産廃の捨て場にもなっていた雑木林から、トラック800台分が搬出されたことが確認された。そこに盛り土がなされ、その危険性に加えて、マンションや高齢者施設建設に伴う日照時間の減少、工事中の振動・騒音、通学路の安全性など近隣の住宅に与える影響などをめぐっても、さまざまな交渉が長期間なされた。マンションの階数と戸数自体を減らし、高齢者施設の階数や部屋数を減らすことで、日照時間を延ばすことができた。盛り土については、工事中、大雨で植栽ごと流されたこともあった。マンションの目の前の商業施設をめぐっては、24時間営業を売りにするスーパーを招致したものの、営業時間はどんどん短縮、10年で撤退していった。いまは、10時~18時の生鮮食品に限っての店が入ってホッとしているところだが、続いてくれることを願うばかりである。
ゆっくり、ゆっくり歩いて4800歩、近くの公園に戻った。この公園には、新しい自治会館が完成、オープンを待つばかりとなった。そもそも、地域にかかわるようになったきっかけが自治会館建設問題だった。ニュータウンながら、昔のムラ意識丸出しの自治会の役員会から、突如、いまある他の自治会と共用の自治会館に加えてもう一つ近くに建設するから、その資金の一部として、各戸3万円を徴収するとの回覧がまわってきたのである。それに怒った主婦たちが調べていくと、その建設に至る手続き、建設費予算の杜撰さ、建設予定地の立地の悪さ、開発業者との関係など次々に問題が浮上し、情報合戦もすさまじく?住民を二分するような状況の中、臨時総会では150対300という大差で、会館建設自体が否決されたという経緯があった。その後、地域住民の高齢化に伴い、近いところに自治会館が欲しいという要望も多く、近隣二つの自治会の協力のもと、建設委員会の粘り強い交渉で、公園内の建設が決まったのだった。公園内の施設建設は公園緑地法などのハードルが高いことは承知していたが、ともかく完成に至ったことはありがたく、大いに利用したいものと思っている
上記自治会会館問題が落着した後、いささか機運が盛り上がったこともあったのだろう、知り合った主婦たち4人で、ミニコミ誌を出すことにした。1998年1月、その創刊号の「創刊のことば」は、いま読むと気恥ずかしいばかりではあるが、まだ、当時はみな若かった。新川和江の「わたしを束ねないで」の一節になぞらえて「わたしを束ねないでください、主婦という名で」で結んでいる。拡大して読んでいただけるとありがたい。また、小さな記事「宮ノ台むかしばなし」には、きょうの散歩コースの辺りにも触れている。また、1999年度には、佐倉市の「夢のまちづくりさぽーと事業」の助成(16万円)を受けて、自然観察会などの行事や地域の要人?のインタビューなど行い、ミニコミも毎月のように出していた奮闘の時期もあった。
なお、「すてきなあなたへ」の47号からは、このブログの左欄から読むことができる。1~70号まで、ミニコミ誌の収集・利用を進める立教大学の共生社会研究センターで保管していただいている。2015年、スタッフの事情により、70号をもって終刊となったが、「終刊のことば」はない。<3月30日記>
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