2019年4月12日 (金)

1960年代、池袋の映画館~こんなチラシが出てきました

 身辺整理が一つも進まない中、映画館のチラシが十数枚出てきた。残念ながら、上映や封切り予定の月日がわかっても「年」がわからないものが多い。チラシに明記されたものだけを選んでみた。市民運動の集会やデモのチラシも同様で、年月を経ると、年の明記がないと、何年のものかがわからない。必要があって、それを知るには、内容から「時代考証」をする手間がかかることになる。それでも特定できない、ということを何度か経験している。それはさておき、2月のテレビ「アド街・昭和の池袋」につられ、下の記事で、1950~60年代の池袋の映画館についても書いたので、あわせてお読みいただければと思う。

私の「195060年代の池袋」ベスト5は~「アド街」を見て(2019年218)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/02/post-0013.html

Img132
1964年9月上旬号とある恵通チェーンの冊子で、1頁が池袋劇場で、2頁新宿座は武智鉄二の「紅閨夢」と「のぞかれた美女」「痴情の家」の三本立て、3頁新宿地球座は「座頭市シリーズ大会」、4頁新宿名画座、渋谷日活地球座のいずれも3本立ての上映案内だった。
Img140
Img134_1
人世坐系列の1965年8月の上映スケジュールである。池袋の人世坐、文芸坐、文芸地下、弁天坐というのは、東上線板橋駅前にあったが、私は入ったことはない。このころは「サンカ」小説の三角寛(1903~1971)の経営だったことでも知られ、「人生」ではなく「人世」、「座」ではなく「坐」に文士のこだわりがあったのだろうか。「人間の条件」の「終夜興行」といわれても・・・、結局「人間の条件」は見ることがなかった。第6部までの全巻で夜の10時
30分から翌朝の8時まで、入場料は200円とある。
Img141
池袋大映劇場のチラシだが、年号の記載がないが、1966年秋の封切り予告ではないか。キャストは拡大してみてほしい。そうそうたるメンバーである。主演の田宮二郎を民芸や文学座の新劇人たちが支えている。脚本橋本忍、監督山本薩夫。何度か映画化やドラマ化されているが・・・。
Img1301968-1
1968年1月の池袋世界館のチラシなのだが、世界館ってどこにあったのだろう。広告で見ると、どうも西口の三業
通りににあったようなのだ。手元にある池袋日本館のチラシも、三業通り、トキワ通りの店が広告を出しているので、二館は並んでいたのだろう。上映作品を見ていると、クレイジー・キャッツ、高倉健、ドリフターズ、ザ・タイガーズ全盛時代の感がある
Img135
この池袋日本館のチラシには年の記載はない。裏は松竹文芸大作、総天然色「紀ノ川」(1966年6月公開)と東京オリンピック長編記録映画「世紀の感動」(1966年5月公開)とあるから、2番館、3番館だったろうから、1966年後半~67 年ころか。このチラシを受け取ったころ、私はどんな映画を見ていたのだろう。一時期メモしていた映画の手帳がどこかにあるはず・・・。

|

2019年2月18日 (月)

私の「1950~60年代の池袋」ベスト5は~「アド街」を見て

先週土曜日の「アド街」は池袋だった。、しかも「昭和の」がついていたのである。池袋生まれの私は、見逃すわけにはいかない。ほんの時々だが、アド街は、見ることはあったが、聞き流しの程度のことが多かった。

録画こそ取らなかったが、テレビの前に座った。私は、生れも育ちも池袋で、社会人となり、家を離れた1970年代初めまで暮らしていた。敗戦後の池袋の様子を、育った環境を振り返りたくなった年になったのだろう。昨年の夏には、くすりやの娘としての体験を、このブログでも書き綴ってしまった。

参照

20190216 21:00 - 21:54

出没!アド街ック天国~昭和の池袋~

https://yomu.tv/CodWY

 

この番組は、どういう基準なのかわからないが、20位のランク付けによって、20位から順に、場所や店、人物などが紹介される。いわば、話題性が低いか高いかなのだろう。今回は、流行した歌などにひっかけているのが、特徴なのかもしれない。「私の昭和」とは、ほぼ1015年ほど、いわば一回りくらいはずれ込んでいる感じではあったが、知らなかったことも沢山あって、それなりに楽しかった。

私にとって、池袋といえば、なんだろう。「昭和」というより1950年代、60年代の池袋である。

<ヤミ市>

番組では、どういうわけか「ブラックマーケット」と呼ばれていたが、いつからそんな呼び方をするようになったのだろう。出演者の内の高齢者?に入る荒俣宏(1947~)と渡辺えり子(1955~)は「ヤミ市」と口にしていたようだった。私たち家族には、敗戦後の暮らしの衣食がかかっていた西口の「ヤミ市」であり、子ども心に、強烈な印象を残している。西口のヤミ市の入り口のヘビ屋?は不気味で怖かったが、アイスキャンデーを売っていた食堂の「のとや」があったし、大抵の食料や日用品はそろうのだった。母の買い物にはよくついていった。ヤミ米を調達したのもここだった。

 

Img096

「戦後池袋~ヤミ市から自由文化都市へ 展示資料解説」(池袋=自由文化都市プロジェクト実行委員会編刊 2015年9月)より

<映画>
 高校からの学生時代には、ずいぶんと通った映画館である。番組でも登場した、東口の人世坐(19481968)、文芸座(19561997)、文芸地下劇場(1955~)、西口のシネマロサ(1947~)はもちろん、もっとさかのぼれば、ロサの近くにはエトワールというのもあって、邦画の二本立て、三本立てがかかっていて、ジメジメして、周りに怖いオニイさんがいるような、なんか一番居心地の悪い座席だったような気がする。ロサには、その後、シネマセレサ、シネマリリオなんて言う名の映画館も併殺されたのは、1950年代半ばだったか。さらに駅近には、ピース座(⇒松竹名画座、19511990)というのもあって、池袋演芸場(19511990、新築1993~)と同じ建物だった。さらに、さかのぼれば、旧豊島師範の先、ヤミ市を抜け出たところに邦映座というのがあった。小学校の映画教室でも入ったような気がする。下の地図で言えば東横百貨店の向かいの「東宝シネマ」ということになるのか。東口には、今のジュンク堂の先、旧雑司ヶ谷5丁目の一角に山手劇場(194671957~?)もかなり古く、松竹映画専門だったような記憶がある。家の近くの銭湯「平和湯」の脱衣所の天井近くには、映画館のポスターがぐるりとひしめいていた時代である。

下の図は、手元にあった『新旅行案内5 東京』(日本交通公社 19556月初版、19604月Ⅶ版)の「池袋付近」(84P)の地図である。これによれば、今の池袋駅北口を出たところの東口に抜ける地下道を上がった、現在のパルコ別館とビックカメラ本店のあるところ、丸物デパート(19571969、現在パルコ)の向いに、池袋日活、池袋東急、池袋日勝館の三館が並んでいるが、この辺りにも映画館は建て込んでいた。多分、この中の池袋東急だったのか、高校の映画教室で、『エデンの東』を見た記憶がある。『エデンの東』の日本封切りが195510月とあるから、高校1年か2年生の時だったのか。今でも映画教室なんてやっているのかなあ。池袋東急は、池袋東洋劇場として1949年には開館、改築後のビルで1998年からのシネマコンプレックスとして2011年まで営業していたらしい。

日勝館は、戦前からあった映画館だったらしいが、焼け跡にいち早く開館したのが1946年、1960年には池袋松竹となり1963年池袋スカラ座になっているが、日勝地下や日勝文化劇場というのも記憶にある。いずれも、ハタボーリング場などで知られる旗興行の運営だったというが、1995年再開発のためすべて閉館したという。

 Img092

      『新旅行案内5東京』(日本交通公社 19556月初版、19604月Ⅶ版)より

参照

・豊島区映画館・池袋東口地区

https://www.japan-post.com/me/data2/res-me-std.php?FRTWID=FW000237

豊島区映画館・池袋西口地区

https://www.japan-post.com/me/data2/res-me-std.php?FRTWID=FW000238

 

現在はヤマダ電機が入っている旧三越の裏手にも、いくつかの映画館があった。巣鴨プリズン跡のサンシャイン60がオープンしたのが19784月というから、私は、結婚・転職・出産、すでに両親もなくなっている池袋の生家に帰省することはめったになかった10年余を過ごしていた。この間の池袋の変貌ぶりは、大きかった。

 

Img093

         『東京区分地図』(国際地理学協会編刊 1990年5月)より

<立教大学>
 1945414日未明の城北大空襲で、池袋は焼野原になったが、立教のキャンパスだけは大方焼け残った。長兄は、戦前に立教中学校を卒業しているし、次兄は、戦後、疎開先から立教中学校に編入し、そのまま大学に進んでいる。時代は下るが、私も娘も社会人入学した修士課程で世話になっているだけに、我が家には縁のあるキャンパス。私の場合、メデイア史をと思って入学したが、原書購読はきつかった。若い院生に助けられながら、何とか単位も取れ、修論も提出できた。学内外のメンバーで立ち上げられた天皇制研究会にも参加することができたのは貴重な体験で、その後の仕事にも活かすことができたのではないかと思っている。愛校心ともちがう、育った池袋と一体となって立ち現れる、何かと気になるキャンパスにもなっている
 「アド街」の習いによれば、私にとっての「昭和の池袋」ベスト5ということになれば、上記の「ヤミ市」「映画」「立教大学」に続くのは、やはり、「百貨店」だろうか。西口の東横・東武であり、東口の西武である。5番目が、生家のある「平和通り」か。いまは「へいわもーる」というらしいが、その商店街としての変貌ぶりを見ると、懐かしさよりは、やはり寂しさの方がまさってしまう昨今ではある。思いは、いろいろこみあげてくるものがあるのだけれど・・・。

・<池袋学>夏季講座に参加しました~生活者の視点が欲しかった―池袋のヤミ市への熱い視線は、“男のロマン”にも似て―2015年9月15日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/09/post-9a00.html

2015年、戦後70年企画として、立教大学が中心になって開催された「戦後池袋 ヤミ市から自由文化都市へ」という展示とシンポジウムをのぞいてみた。その時の報告は、以下の記事にもあるが、「自由文化都市」といわれても・・・の思いは変わらない。シンポの講師4人のだれもが池袋に住んだことのない研究者ばかりだったのである。

下の地図は「戦後イケブクロ会場案内MAP」『戦後池袋 ヤミ市から自由文化都市へ』2015年9月)より

Img097

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2018年11月19日 (月)

はじめて、ポーランド映画祭へ

 旧友、映画評論家の菅沼正子さんから「ポーランド映画祭」の案内をいただいていた。昨年もいただきながら、行くことができなかった。彼女からは、これまでも、封切りの「カティンの森」「残像」「ユダヤ人を救った動物園」などを勧められては、見に出かけ、ポーランドへ二度ほど出かけるきっかけの一つにもなっていた。今年のポーランド映画祭(1110日~23日、東京写真美術館ホール)にも見たい映画がたくさん並んでいる。

 なにしろ2週間、14本のスケジュールで、短編も含め、24本の映画が上映されるというイベントである。2度上映される作品もある。夫の都合もあって、1115日の「大理石の男」「灰とダイヤモンド」「リベリオン ワルシャワ大攻防戦」の三本を見るという欲張った計画で、家を早く出た。私は、「大理石の男」(1976年)はテレビで、「灰とダイヤモンド」(1958年)は、公開当時というよりは、あとになって、名画座のようなところで見た記憶がある。どれも、印象深い感動作であったが、記憶はすでに薄れているので、もう一度見てもいいな、のつもりだった。

Dscn2283
はじめての東京都写真美術館でもあった。

Img539
映画祭プログラムから

 「大理石の男」のあらすじとなると、なかなかまとめにくい。上記の過去記事も参照していただければと思う。1970年代、女子学生が映画の卒業制作として選んだのが、かつてレンガ工として労働者の英雄にまで仕立て上げられ、大理石像にまでなった青年、いまでは、美術館の地下倉庫に横倒しになっている、その大理石像の男の人生をたどることだった。スターリン体制下のポーランドで、レンガ工が、その熟練ぶりを各地の建設現場で披露し、高く評価されてゆくなかで、高熱のレンガを渡され、重傷を負った事件をきっかけに、組織や職場の仲間たち、家族からも疎まれ、失墜してゆくさまを、学生は、関係者を訪ね歩き、口の重い人々から聞き出し、テレビ局に残る過去のニュース映像などを交え、次第に真実が明らかにしてゆく。その過程で、党組織やメディアのなかで、優柔不断に、立ちまわる人物にも幾度か遭遇するし、あからさまな取材の妨害も受ける。

 それにしても、2時間40分、取材を進める学生とその協力者たち、取材を受けるさまざまな人物の現在と過去、回想場面や実写映像による過去が複雑に入り組んでの展開に戸惑うことも多い。“巨匠”、アンジェイ・ワイダ監督に、あえて言うとすれば、あまり欲張らないで、サイドストーリーをもう少し整理して欲しかったな、と思ったものだ。伝えたいことがたくさんあるのはわかるのだけれど・・・。ワイダの、スターリン体制への鋭い批判の眼は揺るがず、制作から40年近くたっている現代にあっても、日本のみならず、世界各国にも共通する問題提起をしている作品の数々には脱帽する。

 「大理石の男」については、当ブログの以下の記事参照

『カティンの森』『大理石の男』、ワイダの新旧二作品を見る20091226 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/12/post-9c03.html

Yjimage_4
真実の解明に、果敢に挑むアグニェシュカ。

Yjimage_5
労働者の英雄に仕立て上げられる煉瓦工のマテウシュ・ビルクート。

 

私たちは、2010年と今年5月にポーランドに出かけている。「大理石の男」の映画で見る、1950年代のクラクフ郊外のノヴァフタの製鉄所建設や住宅建設の規模のすさまじさと労働環境の劣悪さ、1970年代のクラクフやワルシャワの復興状況からは、想像できないほど、どちらの都市も、緑豊かな落ち着いた街並みになっているとも思えたが、今年の旅行中には、ワルシャワでは大規模な反政府デモにも出会い、現在のポーランドが必ずしも安定した政治状況ではなかったのを知ることになったのだった。

二本目の「灰とダイヤモンド」は、アンジェイ・ワイダの初期の作品だ。ある町の中央から派遣されている県委員会の書記、いわば市長を狙うテロリストの青年が主人公である。待ち伏せを市長が乗る車を狙撃したところ、別人で、二人の犠牲者を出すところから映画は始まる。その日は、ドイツ軍が降伏した194558日、町は、花火を上げて祝い、人々は解放を喜び、市長が主催する盛大なパーティーも開かれようとしている。青年は、さらに市長を狙うべく、準備を整えるが、パーティー会場のホテルのバーで働く女性に恋し、語らうようにもなり、市長暗殺から手を引きたいとも考えるようになるがそれもかなわないまま、市長暗殺を最後に、女性との生活をも夢見るが、暗殺に失敗、翌朝には軍に射殺されるという、たった一日の出来事を描いた映画である。広大なごみ集積所のゴミにみまみれて息絶えるというラストシーンの壮絶さが、当時の体制側からは、政府への抵抗の無意味さを強調したとして評価され、検閲を逃れたという。

 この映画でも、体制への屈折した心情や不満を持つ市長秘書や老新聞記者、反体制運動で捕まる市長の息子などが登場するのだが、やはり、私には煩雑に思えたのは、理解不足もあるのだろう。

 つねにサングラスをかけ、冷徹なテロリストとナイーブな青年をも演じた俳優は、ジェームス・ディーンをも想起させるが、ポーランドでは人気のさなかの39歳の若さで、鉄道事故で亡くなるとい悲劇の主人公でもあったらしい。

Yjimage

Yjimage_3
有名なラストシーンだが、当時のポーランドの観客は、どう見ていたのか。

 

 三本目のリベリオンは、比較的最近の作品であるし、三人の若者を通して描かれるワルシャワ蜂起、そして現代にその意味を問うという映画、見たかったのだが、どうも、私の体調も眼も限界だった。もともと、二本を見て、別の用事に向かうという夫と一緒に会場を出たのだった。

 

 恵比寿ガーデンガーデンプレスの遊歩道を秋の日差しを浴びながら帰路につく。あらためて辺りを見まわせば、こんな恵比寿を見るのは初めてであった。振り返れば、ガーデンプレスのタワービルの横には、白い三日月が出ていた。地下鉄までの長い長い「動く歩道」に、疲れ切った身を任せて・・・。映画祭開催中に、もう一度出かけたいの思い頻りだった。

Dscn2288_2
振り返ればタワービル、写真では三日月が消えてしまったのだが。

Img540_2
会場で配られたポーランド映画人協会出版のパンフレット。ここには、バルトシュ・ジュラヴィエツキーの執筆による、灰とダイヤモンド、約束の土地、夜と昼、大理石の男、戦場のピアニスト、リベリオン、ヴォウィンという7本の解説が収録されている。私はこのうち、「戦場のピアニスト」を含め、3本しか見ていないことになる。

 

 

 

| | コメント (0)

2018年5月19日 (土)

ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(1)

Dscn13852018

Dscn13842018
今年のモクレンとツツジは開花が早かった

4年ぶりのドイツ

 

訪ねたい町は数ある中で、迷いに迷ってミュンヘンとワルシャワ再訪という希望が二人で一致した。私には、ミュンヘンは初めてである。数か月前から、57日出発、15日帰国のホテルと航空機の予約を代理店にお願いしていたが、夫が準備のための情報収集を始めたのは2週間ほど前だったか。私の方は、あちこちの体の不調が続いていて、病院通いをしていた。もしかしたら最後の海外旅行になるかもしれない、との思いだった。しかし、今回の旅程の数週間後にパスポートが切れるので、念のため更新に出かけた。迷ったが10年の申請をしてきたと告げたところ、体調が悪いと言いながら、やることが違うではないかと笑われた。私は病院の待合室で、ガイドブックを読む程度の準備しかできなかった。

今回は、少しゆったりした気持ちで街歩きをしたいとの思いから、ミュンヘンで一日半、ワルシャワでは一日、現地でのガイドさんをお願いすることにしていた。 

天気予報によれば、ミュンヘンは、千葉県よりやや低めの気温ながら、天気はまずまず、後半が崩れるかなというところだった。傘は持って行った方が安心か。航空機は、ANAとルフトハンザの共同運航便羽田1235発ミュンヘン行きであった。ミュンヘンは中国語で「慕尼黒」と書くらしい?とも気づいた。

 

57日、ミュンヘン、ホテルのアジサイ

 

羽田発ANA・ルフトハンザ共同NH5851便NH5851、12:35発だったが、 20分遅れの離陸、11時間弱の飛行、かつてはおいしいと思った機内食(朝食・夕食・軽食)だったが、この頃はあまり食欲をそそらない。映画は、公開当時見てみたいと思っていた「めぐり合う時間たち」を選んだ。原題は「Hours」とそっけない。数年前の作品と思っていたが、なんと2002年のアメリカ作品だった。バージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』(1925年)をめぐって、生きる時代を異にする3人の女性の物語である。1923年からロンドン郊外に転居して、自殺に至るまでの晩年のウルフ自身(ニコール・キッドマン)、1950年代ロサンンゼルスの一見幸福そうな主婦(ジュリアン・ムーア)、現代のニューヨークに生きる作家(メリル・ストリープ)の生と死をめぐるストーリーが同時進行しているらしい。やや複雑な構成だが、見ているうちにひきこまれていくような作品だったが、旅の道中には、重すぎたテーマだったかもしれない。

 

ミュンヘン空港ターミイナルⅡ着が夕方の540分だったが、夏のような日差しがまぶしい。預けた荷物を受け取るのに、長いエスカレーター、動く歩道、構内の電車に乗って移動し、市内へのシャトルバスは、610分発(11€)、中央駅前下車、目の前のホテル、エデン・ヴォルフには730分にチェックイン、予想よりかなり時間がかかったことになる。半袖で十分な気温、日没は、8時半過ぎという。

Dscn1396
バスは、空港の幾つものターミナルをぐるぐる回っていた。市内に入っても、渋滞気味だった。前席には、留学している学生の息子さんが両親を迎えたかのような日本人の家族が乗っていた。

Dscn1400
空港シャトルバスのテーブル席、新聞や雑誌も提供されているらしい

Dscn1408
 ホテルのロビーにはあちこちにアジサイが

 部屋は広めで、木製の壁や家具はシンプルで落ち着いた雰囲気に和む。入浴後、夕食は、ホテル内のレストランで済ます。野菜サラダ、ホワイトアスパラのスープ、シュニッツェル、トマト・ナスのソースのパスタとすべて一皿づつ、シェアすることに。それでもパスタは残してしまった。夫は細長いグラスの白ビール。私はしばしアルコールを控えることに。静かな雰囲気のレストランでも、大きなジョッキを前に仕事帰りの男性たちがあちこちのテーブルで話し込んでいた。ホテルのロビーやレストランには、しっかり花をつけたアジサイがあちこちに置かれていた。出がけの我が家のアジサイは、まだまだだったが、テッセンは散ってしまっていた。 

食後、明日、ガイドKさんと待ち合わせ場所のミュンヘン中央駅構内のスタバを確認、売店は10時で店じまい、あわてて水を買って置く。駅構内警備の警官は2人で巡回、2階の通路から見渡している警官もいる。かなり物騒なのかな、とも思う。外気は、だいぶ涼しくなっていた。戻った部屋では、湯沸かしポットの備えがなかったので、持参の湯沸かしで日本茶を入れ、一服、ほっとするまもなく、どっと疲れも出てきた。

 

| | コメント (0)

2018年1月 1日 (月)

新春

新年のご挨拶申し上げます。 

当ブログをお訪ねくださりありがとうございます。 

おかげさまで、なんとかほそぼそ書き続けています。 

続けて調べ、続きを書かねばと思うテーマを幾つかかかえ、 

もどかしさを感じながら過ごしています。 

昨年は、国の内外で受け止めがたいできごとが続きました。2月には、沖縄に出かけました。今回は、屋我地島の沖縄愛楽園と渡嘉敷島の戦跡を訪ねることができました。多くを知らずに過ごしていたことを知る旅でもありました。 

来年となる天皇代替わりに向けての時代や人々の動向を見届けなければの思いです。 

今年もいろいろご教示いただければ幸いです。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「ユダヤ人を救った動物園」を見てきました。

Photo

 映画評論家の友人から、「ポーランド映画祭2017」と「ユダヤ人を救った動物園」の案内をもらっていた。ポーランド映画祭は、残念ながら出かけられなかったが、暮れに「ユダヤ人を救った動物園」を見に行った。

 

 ナチス・ドイツへの抵抗映画というか、ナチスと戦った様々な人々のさまざまな抵抗を本や展示で知ることはつらいけれども、やはり必要なことと思っている。さらに映画やドキュメント映像となると、より衝撃的な場面に遭遇することが多い。

  そんな中で、今回の映画は、チェコ・イギリス・アメリカの合作ともいうべき映画で、主役の動物園長夫人アントニーナをアメリカのジェシカ・チャスティンが演じ、夫のヤンはアイルランドの俳優が、夫妻にからむドイツ・ナチス軍の獣医へックをスペインの俳優が演ずる。最近の映画事情はさっぱり分からないので、白紙で見られるのがかえっていいのかもしれない。

 1939年、ポーランド・ワルシャワ。ヨーロッパ最大の規模を誇るワルシャワ動物園を営んでいたヤンとアントニーナ夫妻の実話をもとにした物語である。映画は、毎朝、園内を自転車で巡り動物たちに声をかけるアントニーナの日課から始まる。我が家のベッドで我が子同様に育てられることもある動物たち、その命の危機とも向き合いながら、アントニーナの献身に支えられる動物園でもあった。ところが、その年の9月には、ドイツがポーランドに侵攻し、親友のユダヤ人夫妻も捕らえられ、ユダヤ人たちが次々とゲットーに収容されてゆく。動物園の動物たちも殺処分されてゆくことになる。そんな中、夫ヤンから「この動物園をユダヤ人たちの隠れ家にする」との提案がなされ、夫妻の奮闘が始まる。まず、園内一部を養豚場とし、その餌として、ゲットーの生ごみをもらい受けるというものだ。きびしい監視のもとに、生ごみを車で運び出す折に、何とそのゴミの下にユダヤ人たちを一人、二人と隠して脱出させるのだ。そして、動物園内の地下室の檻の中に彼らをかくまい、食料を分け合う。ゲットーと動物園のドイツ軍による監視は、ますます強化される中、夫妻は共にさまざまな危険を冒しながら、ユダヤ人の救出に命を賭ける。かねてより、アントニーナに好意を持っていたドイツ軍の獣医へック、自分の地位を利用して思いを遂げようとする彼と夫妻の関係も重くのしかかる。

Zookeepers_10
国内軍兵士による動物の殺処分が始まる

ワルシャワへの空襲も始まり、ゲットーも焼き尽くされる。19438月、ポーランド国内軍と市民によるワルシャワ蜂起にヤンも加わり、行方も分からなくなる。ワルシャワ市民の激しい抵抗も、近郊まで侵攻してきたソ連軍の支援もないまま、ドイツ軍の軍事力により壊滅的な打撃を受け、市民20万人以上の犠牲者を出すにいたる。

 

生れたばかりの長女を人に託し、幼い長男とワルシャワを脱出する。そして映画は、19445月、ドイツが連合軍に無条件降伏後の、ワルシャワと飛び、再開を目指す動物園で、園長夫妻家族4人の暮らしが始まるところで終わる。たしかにホっとするラストではあった。しかも、かくまったユダヤ人は300人にも及び、母娘の二人が移動先でユダヤ人とわかって殺害された以外は無事であったとのテロップが流れた。 

 

「敵役」であるドイツ軍の獣医へックも、実在の人物で、ベルリン動物園の園長を務めたことのあるとのこと、動物に希少種復元に熱心な研究者であったらしい。映画のラスト近くで、夫妻の監視にたびたびやってくるヘック、長男の少年が「ヒットラーを倒せ」と叫んだとして、捕らえられ、銃を構えるヘックにアントニーナが命乞いをし、思わぬ展開で少年が解放される場面、また、ユダヤ人たちがかくまわれていた動物園の地下室に立ち入ったヘックが、壁一面に描かれた彼らの絵やメッセージを前に立ち尽くす場面に、わずかな良心を垣間見るのだったが、かつて見た「戦場のピアニスト」にも通じるものがあった。どうもこのあたりが、アメリカの映画色を垣間見る思いがしたのだが。

Img354
 地下室で息を凝らすユダヤ人たちとアントニーナと息子、パンフレットより

 20105月に、ワルシャワとクラクフを訪ねている。この動物園のことは知らず、キューリー夫妻の記念館を見学、休館で見学しそこなった歴史博物館の辺りを歩いている。近くを流れるヴィスワ川の対岸一帯が動物園だったのだ。1928年開設、40ヘクタールもあるという。もしチャンスがあれば寄ってみたい。 

 

| | コメント (0)

2017年7月27日 (木)

アンジェイ・ワイダの遺作『残像』を見て~ワイダと画家からのメッセージ

 友人の映画評論家の菅沼正子さんから、早くよりお勧めのあった映画『残像』を見に、岩波ホールまで出かけた。昨年、90歳で亡くなったワイダ(19262016)の遺作である。ワイダの作品『カティンの森』と『大理石の男』を見たのが2009年だから、久しぶりのことである。このブログにも、つぎのようなレポートを書いている。

◆『カティンの森』『大理石の男』、ワイダの新旧二作品を見る

20091226 ()

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/12/post-9c03.html

320
プログラムの表紙から

640_2 画家のアトリエは正面のアパートの階上の一室、ある日突然スターリンの垂れ幕が下ろされ、窓からの光は断たれた。 画家は、自らの松葉づえで、それを引き裂くのだった。写真はいづれもプログラムから
         


 今回の『残像』は、ポーランドの実在の抽象画家、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(18931952)が、社会主義政権下の最も弾圧の厳しかった中で、自らの芸術的信条を曲げずに貫いた晩年の4年間を描いたもの。私は、この画家の名前は初めて聞くが、ポーランドを代表する芸術家の一人で、両世界大戦間期に国際的な前衛美術運動に大きな役割を果たした画家であり、理論家であったという。1931年には、妻の彫刻家コブロとともに、ポーランド中部、ワルシャワとクラクフの中間に位置する都市ウッチに美術館も設立している。映画は、そのウッチを舞台に、造形大学の教授として、学生たちからも絶大な信頼を得ていた教育者でもあった彼が、社会主義リアリズムこそが、政治と一体化するという文化政策に抵抗したとして、さまざまな迫害を受け、職も奪われ、絵具も食料も入手できない状況に追い込まれ、病に倒れるまでがリアルに描かれる。プライベートでは、宗教の違いなどから別れた妻と娘ニカはともに暮らしているが、病弱の母親の介護と第一次大戦の戦傷で手足が不自由な一人暮らしの父親を気に掛けて、両親のもとを行き来する一人娘との葛藤をも丁寧にたどられる。

官憲による弾圧・迫害は、徐々に過酷なものとなる。大学での講義が、文化大臣の演説で中断され、その会場で自説を述べれば、以降一方的に休講とされ、馘首される。美術館の展示室から彼の作品は倉庫入りとなり、彼の学生たちの作品展の作品はすべて打ち砕かれ、造形芸術家協会からは除名されてしまう。悩む学長、美術館長も体制にのまれてゆく。それでも、古くからの友人の詩人ユリアン、慕う学生たちの陰ながらの支援で得た生活のための仕事も、密告のため失ってしまう。また、画家を慕い、アトリエでの口述筆記に通う、教え子の女性すらも拘束される事態となるなか、映画には一度も姿を見せない元妻の様子は、娘を通してのみ語られるが、画家には知らされないまま病死する。それしかない赤いコートのまま、母の棺に従うのは、ニカの一人だけという墓地の場面、行き倒れのような形で救急車で運ばれた病院から抜け出した画家が、そのコブロの墓に青い花を捧げる場面、やがて、画家が仕事先のマネキンが並ぶショーウインドウのなかで壮絶な死を遂げるが、通行人の一人にも気づかれないという場面の寂寞と荒涼は、胸に迫るものがあった。

Afterimage11500x944_2
自宅のアパートのアトリエに集う学生たち
Img322
職を失った画家の仕事先の似顔書きの工房を訪ねる娘のニカ

監督のワレサは、クラクフの美術大学を中退して、ウッチの映画大学を卒業したという。生前の画家との出会いはないが、この映画に寄せたメッセージの末尾でつぎのように述べている。

「私は、人々の生活のあらゆる面を支配しようと目論む全体主義国家と、一人の権威ある人間との闘いを描きたかったのです。一人の人間がどのように国家機構に抵抗するのか。表現の自由を得るために、どれだけの対価を払わなければならないのか。全体主義国家で個人はどのような選択を迫られるのか。これは過去の問題と思われていましたが、いまもゆっくりと私たちを苦しめは始めています。どのような答えをだすべきか、私たちはすでに知っている。そのことを忘れてはならないのです」

Img321
自らの病をおして元妻の墓を訪ねる

 

 また、映画で語られる画家のセリフのなから、断片的に飛び込んでくるいくつかの言葉があった。同じく抽象絵画を目指したカンディンスキー(18661944)やモンドリアン(18721944)の名前も飛び出し、「彼らは、自分の模倣を続けている」と学生たちに語り、公安当局に呼ばれて、大事な分かれ道、体制に従うのか従わないのか、どちらの側につくのか、と選択を迫られたとき、「私の側だ」と立ち去る場面が印象的だった。

モンドリアンといえば、昔のことになるが、私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)の「あとがき」の冒頭で、つぎのように書いているのを思い出した。合評会で、この「あとがき」に言及される方はいなかったが、立ち話で、玉城徹さんが「モンドリアンとはねェ・・・」と苦笑されていたのも思い出の一つである。

「モンドリアンの抽象に出遭ったとき、あの冷徹さに戸惑いながら惹かれていったのはなぜだろうかと考えています。そこには猥雑なものをいっさい拒否しようとする、ひとりの人間の生き方の美と思想があると思いました。この画家の幾何学的な構成にいたる過程は、<樹木>連作が雄弁に語っています。さらに光と影から解放された垂直と水平の世界の展開を見せられたときの感動を忘れることができないでいます。主観的な表現を極度に排し、求めてやまなかったものはなんであったろうか・・・・」

恥ずかしいけれど、歌集の最終章には、こんな歌も残していた。

・描かれたる<樹木>連作たどるとき闇に熱き思いを放つ

・老画家のひとりの冬の死のまぎわコンポジションの原色冷ゆる

 ところで、映画では、ストゥシェミンスキの絵画作品を正面から映し出すことはしていなかった。美術館での展示室での作品群、コラージュ帖やアトリエで制作中の絵としては、何度か映される程度だった。ネット上で検索しても、すぐには出てこない。どんな作品を残していたのか。一度ゆっくり鑑賞したいと思っている。

| | コメント (2)

2016年8月 8日 (月)

8月6日、目黒五百羅漢寺の桜隊原爆殉難者追悼会へ

 猛暑が続く東京、目黒の五百羅漢寺に、夫と出かけた。夫はすでに何回か参列しているが、私は今回初めてだ。早朝から法要は始まっているが、私たちが参加したのは本堂前の原爆殉難碑「碑前祭」からで、住職のお話のあと、ご焼香となった。「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」の碑銘は徳川無声の書により、裏面には柳原白蓮の「原爆のみたまに誓ふ人の世に浄土をたてむみそなはしてよ」が刻まれているという。丸山定夫と園井恵子、高山象三、仲みどり、森下彰子、羽原京子、島木つや子、笠絅子、小室喜代9名の慰霊碑である。

Dscn0481

 「移動演劇さくら隊」とは、戦時の統制下で従来の演劇活動が出来なくなった演劇人たちだったが、丸山定夫らは、苦楽座を結成、後、さくら隊として、1944年から45年にかけて、内閣情報局管轄下で地方巡業中であった。その根拠地というか、疎開先が広島だったのである。詳しくは、以下のHPを参照。

「桜隊原爆忌の会」HP

http://www.photo-make.jp/sakura.html

 

Dscn0482
慰霊碑の右側の供花に「佐々木愛」の名が読める

そして、今日は、新藤兼人(19122012)作品『さくら隊散る』(1988年)が上映されるという。エアコン直下で少々冷房が効きすぎるくらいの席であった。「さくら隊」の成り立ち、活動の足跡、犠牲者の悲惨な最期までを克明にたどる。即死ではなかった、丸山定夫も厳島で、園井恵子と高山象三の二人は神戸の知人宅で、仲みどりは、やっとの思いで広島から東京の実家に逃れ、入院先の東大病院で亡くなるまでの痛苦の数日をリアルに再現している。彼らと同じ団員ながら、偶然、広島を離れていて助かった俳優の池田生二(19121998)と槇村浩吉(桜隊事務長、19102001、犠牲者小室喜代の夫)が案内役を務めて、ゆかりの場所や人を訪ねるのである。また、丸山定夫と昭和初期からプロレタリア演劇の同志として、新劇、大衆演劇、映画などを支えてきた人々、千田是也(19041994)滝沢修(19062000)小沢栄太郎(19091988)宇野重吉(19141988)山本安英(19021993)杉村春子(19061997)らが、証言者として、昭和前期、敗戦までの過酷な演劇の歴史、そこにおける丸山定夫や園井恵子らについて語るのである。私などは、1950年代から60年代の映画全盛時代に、スクリーンで見慣れた滝沢、小沢、宇野らであったし、証言者として登場する嵯峨善兵、薄田研二、松本克平、浜村純、殿山泰司らも、映画の名わき役、あるいは敵役として、当時は知らないまま見ていたが、彼らも筋金入りの演劇人だったことを改めて知ることになる。私が観た舞台は数えるほどで、滝沢の「セールスマン死」と宇野重吉くらいだったか。映画のナレーションは、聞き覚えのある声の乙羽信子(19241994)であった。杉村春子の証言を聞いていると、その語り口も、内容も実にドラマティックて、さすがと思ったのだが、小津安二郎作品などで、杉村が「あら、あんたたち、もう集まってるじゃい」とか、べらんめい調で他の出演者たちに割って入ってくると、その画面が一気に引き締まる、といった記憶がよみがえる。

 出演者の生没年は、家で調べてみたのだが、1987年からの制作、1988年公開の映画だったのだが、宇野や小沢は最晩年の証言であったし、百歳を迎えた新藤は別として、公開後の10年内外で多くの方が没している。この映画は、まさに貴重な証言集でもあったのである。

 私は、「さくら隊」で最も若くして亡くなった高山が、薄田研二夫妻の長男であったこと、槇村が敗戦後、真山美保と新制作座を立ち上げたことなどは、浅学にして知らなかった。案内役の池田生二も見たことのある風貌だと思ったら、1960年代の映画と、以降はテレビの刑事ものや時代劇に数多く出演していることもわかった。 

 会場では、思いがけず、昔の職場の同僚と会い、旧交をあたためることができた。この日の参列者120人ほどと。

 さらに五百羅漢様たちに敬意を表してお参りもすることができた。 耳の痛い「ことば」も多い。

「周りに左右されず信念を貫く」
「おのれを制御できる人ほど自由である」
「広く学び、深く究める」
「多くを聞いて、少しく語る」・・・・。

 懇親会は失礼して、目黒駅に出て、私は、友人と久しぶりのおしゃっべりに時を過ごした。

Img193_2

 

| | コメント (0)

2015年11月 3日 (火)

「ヒトラーの暗殺、13分間の誤算」(2015年)を見て

藤田嗣治の展覧会の後、夫と日比谷で待ち合わせ、映画を見てきた。今回の映画の主人公、ゲオルク・エルザーは、昨年のドイツ旅行の折、ベルリンの抵抗運動記念館で、初めて知った名前だった。下記の当ブログにも、つぎのように記していた。

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.2028(7)20141115日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/2014102028-d8b1.html

「第7室は、たった一人での暗殺計画で1939118日に逮捕されたミュンヘンの家具職人ゲオルグ・エルザーについてで、彼の生い立ちから始まって、アウシュヴィッツ強制収容所を経て、19454月ダッハウ強制収容所で殺害されるまでの足跡を克明に追跡した記録が展示されていた。」

(一部訂正済み)

Img095
ドイツ抵抗運動記念館第7室のエルザーのパネル(リーフレットより)

7
ドイツ抵抗運動記念館第7室入口(2014年10月撮影)

 この映画の主人公がエルザーと知ったとき、見逃してはならないと思った。実話に基づいた映画を見、その後調べてみると、上記の私の記事には、間違いがあることがわかった。抵抗運動記念館の展示の解説の肝心のところが読み取れていなかった。エルザーが生まれたのは、ミュンヘンの北西ケーニヒスブロンという町であり、ミュンヘンは、ヒトラーの演説中の暗殺計画が未遂に終わった事件の現場、ビヤホールがあった都市である。なお、アウシュヴィッツに送られたかは、今回確かめられなかった。映画でも、「5年後」のダッハウ収容所で解放直前の194549日に銃殺されたことはわかったが、途中が定かではない。ただ、調べてみると、やはり昨年訪ねたベルリン北部のオラニエンブルク市のザクセンハウゼン強制収容所に、かなりの期間収容されていることもわかってきた。収容所の資料館でもエルザーに関する展示があったのを思い出す。こうなるともう語学の問題で、情けないながら、資料の前を素通りしていたのだ。それはさておき、映画に移ろう。

 ミュンヘンのビヤホールの柱に、暗がりの中、時限爆弾を仕掛けている男がいた。ミュンヘン一揆を記念して、毎年開かれるヒトラーの演説会の壇上の柱にである。1939年11月8日、ヒトラーは、演説中に、天候の不順で飛行機が飛ばなくなったことが知らされる。ちょうどその頃、爆弾を仕掛けていた男エルザーは、仕掛けた時刻が迫るのを気にしながら、スイスとの国境を超えようとしていたところを不審者として捕えられた。ヒトラーが会場を後にした直後、ビヤホールは爆破し、8人の犠牲者を出し、ヒトラー暗殺は未遂に終わった。13分早く、演説を切り上げたためだった。エルザーが所持していた設計図などから実行犯と目されるのだが、名前や生年月日さえ明かさない。さまざまな拷問の末、元婚約者まで動員して、ついに自供させる。その取調べの過酷さの合間に、田舎の、気のいい家具職人の青年エルザーが、なぜ、暗殺を計画するまでに至ったのかが、丁寧に描かれる。取調べにあたったのは、親衛隊組織の両翼をなす保安警察(ジポ)と秩序警察(オルポ)の保安警察、その保安警察の中の、いわゆるゲシュタポ(秘密警察局)の局長ハインリヒ・ミュラー、刑事警察局長アルトゥール・ネーベという超大物で、ヒトラー自身の指示であったという。ヒトラーは、エルザーの単独犯行が信じられず、必ず共犯者や黒幕がいるとの見立てで、拷問に続く拷問で自供を迫れとの指示を出す。飲んだくれの父や貧困との葛藤、夫からの暴力被害にさらされている女性との恋、特定の政党に属するわけでもなかったが、地域の有力者や子どもたちまでが、ナチスのプロパガンダにはまってゆくことに危機を感じていた。共産党員の友人やユダヤ人と付き合っていただけの幼馴染の女性が捕えられ、自らの自由も日毎に狭められていく息苦しさと正義感から思い詰めたエルザーは、綿密な計画により決行に到る。

 ミュラーとネーベの取調べの手法は対照的で、ミュラーが強権的で、ネーベはやや温情的な側面を見せる。事務的で冷やかな女性書記も、ときには、ひそかに頼みごとを聞いてくれることもある。しかし、エルザーの信念と単独決行は揺るぎないままであったようだ。映画では、その後、彼は収容所に送られ、処刑されないまま5年を経、ダッハウ強制収容所の特別囚として過ごしていたことが伝えられる。19452月半ばのドレスデン爆撃、ナチスの崩壊が確実となった194549日、突然、処刑ではなく、テロによる殺人ということにして、銃殺される。それに先立つ、3月には、かつて取調べにあたったネーベは、その後、ヒトラー暗殺計画に関与したとして絞首刑に処されるのである。 映画は、このネーベとエルザーの死で終る。エルザーの婚約者だった女性は、1994年に亡くなるが、波乱の人生だったようである。

 戦後70年、ドイツでの、いまだこうしたレジスタンス映画を通じて、ナチスの歴史の真相に迫ろうとする姿勢や動向を、つい、いまの日本と比べてしまう。ナチス時代のドイツは決してヒトラー一色ではなかった証として、ヒトラー暗殺事件は、40件にも及んでいた、という指摘もうなずける。いまの日本は、歴史の不都合を消し去ろう、消し去ろうとする勢力が、暗雲のように頭上を覆う時代、この現実をしかと記憶に留め、異議を唱え、過去とは真摯に向き合いたいと思う。

 もっとも、戦後の東ドイツと西ドイツにおいても、エルザーにまつわる史実は、長い間封印されていた。なぜかと言えば、映画のプログラムでは、つぎのように語られている。「西ドイツでは、共産主義者の偏屈なドイツ人とみなされ」、「東ドイツでは、ドイツを解放したのはソ連赤軍だとして」、エルザーのような存在は無視され続けた(鳥飼行博「ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺計画」)と。エルザーの復権署名運動は1993年に始まり、ミュンヘンには、「ゲオルク・エルザー広場」があり、爆弾が仕掛けられたビヤホールには、記念碑がつくられ、切手まで発売されるようになった。

 なお、ゲオルク・エルザーが、未遂とはいえ暗殺事件の実行犯であったのにもかかわらず、すぐに処刑されなかったことには、諸説があるらしい。イギリスの謀略による暗殺事件だと内外に公表しているので、将来、エルザーはその証人となる大事な要員であったからとか、ヒトラーがエルザーの暗殺を免れたのは「神の摂理」であるということが喧伝されたので、暗殺未遂は、ヒトラーサイドによる自作自演の要員として利用したからとか・・・。エルザーが収容されていたダッハウは、他と比べて、政治家や聖職者、文化人などが多い収容所であり、処遇の定まらない要人も多かったらしい。

 また、エルザーの取調べにあたった、ネーベは、意外な展開で処刑されるに至るのだが、過去にはさまざまな大量処刑の指揮を執った軍人であった。ミュラーは、ヒトラーの最期に立ち会った人物ながら、その後、行方不明となり、海外に逃亡して生き延びているという噂も飛び交った。しかし最近になって、ドイツ抵抗運動記念館の調査により、すでに19458月、ベルリンで遺体となって発見された後、ユダヤ人墓地に埋葬されていたことが確認されたという。

 できるなら、ドイツ再訪の折は、一度、ミュンヘンには立ち寄りたいと思っている。かつて、このブログの記事にもした映画「白バラの祈り ソフィー・ショル、最後の日々」(2005年) の舞台もミュンヘンだったのだ。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/07/post-6185.html2013715日)

Img094
映画のスタッフについて(プログラムより)

Gedc3994
エルザーが一時収容されていたザクセンハウゼン強制収容所跡(2014年10月撮影)



 

| | コメント (0)

2015年6月29日 (月)

沖縄とジャーナリズム(2)シンポジウムご案内

Omote_2_3

Ura5_3

シンポジウム

「沖縄戦後70年:基地問題とジャーナリズム」が開催されます。私も参加している「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」が協賛団体になっています。近頃は、激励しようという気持ちもなえてしまうほど、報道の劣化が続いているNHKです。沖縄報道に携わるジャーナリストたちの生の声が聴けると思います。ぜひお立ち寄りください。
貴重なドキュメント映像も公開されます。

会場:7月12日(日)13時~16時半

場所:明治大学グローバルフロント棟グローバルホール(1F)

研究報告~自治接収・返還に揺れた共同体―読谷村の事例から 
   山内健治(明治大学)政経学部教授

パネル討論~辺野古から考える日本のジャーナリズム

   金平茂紀(TBSキャスター)
   影山あさ子(映画「圧殺の海」監督)
   宮城栄作(沖縄タイムス東京支社報道部長)
   司会:醍醐聰(東京大学名誉教授)

拡大チラシは下記をクリックしてください。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/712sinpotirasi.pdf

| | コメント (0)

2015年6月 7日 (日)

「すてきなあなたへ」70号(2015年6月8日)をマイリストに掲載しました

目次
川崎簡易宿泊所火災に思う~ある記憶に重ねて~
嵐のような、あの佐倉市長選は、何だったのか
          ~これからが大事、見抜く力の大切さ*
編集後記~70号までたどり着きました
菅沼正子の映画招待席 42 「アリスのままで」
          ~明日はわが身かもしれない

*6月5日の前記事と重なる内容ですが、年表も付してコンパクトにまとめましたので
 あわせてお読みいただければと思います。下をクリックしていただくか、左のマイリスト欄の70号をクリックしていただいても読むことができます。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/sutekinaanatahe70.pdf

| | コメント (0)

より以前の記事一覧