2023年1月23日 (月)

忘れてはいけない、覚えているうちに(12)1950年代の映画記録が~1957年から60年代へ③

1960年 大学2年~3年 58(邦画35+洋画23)本、テレビ3(邦画1+洋画2)本、シナリオ講座17(邦画4+洋画13)本、合計78本 

白波五人男(佐伯幸三)  暗黒街の対決(岡本喜八)春の夢(木下恵介)

わが愛(五所平之助)   雪之丞変化(渡辺邦男)女は抵抗する(弓削太郎)

美人蜘蛛(三隅研次)   珍品堂主人(豊田四郎)   黒い画集(堀川弘通)

女経(吉村公三郎、市川崑、増村保造)       バナナ(渋谷実)

国定忠治(滝沢英輔)  青年の樹(桝田利雄)     青い野獣(須川栄三)

接吻泥棒(石原慎太郎) 酔いどれ天使(黒澤明)    生きる(黒澤明)

娘・妻・母(成瀬巳喜男)女の坂(五所平之助)     青春残酷物語(大島渚)

学生野郎と女たち(中平康)大学の山賊たち(岡本喜八)

お姐ちゃんに任しとキ(筧正典 )                              乾いた湖(篠田正浩)

離愁(大庭秀雄)          西遊記(薮下泰司)           日蓮(田坂具隆)   

 悪い奴ほどよく眠る(黒澤明)                               秋立ちぬ(成瀬巳喜男)

がめつい奴(千葉泰樹)   誰よりも君を愛す(田中重雄)

偽大学生(増村保造)      炎上(市川崑)    

神坂四郎の犯罪(久松静児) 赤線地帯(溝口健二)

或る殺人(オットー・プレミンガー)

ガンヒルの決斗(ジョージ・スタージェス) 

灰とダイヤモンド(アンジェイ・ワイダ) 

今晩おひま?(ジャン・ピエール・モッキー)

旅情(デビット・リーン) 

北北西に進路をとれ(ヒチコック)

十二人の怒れる男(シドニー・ルメット)

自殺への契約書(ジュリアン・ディヴィヴィエ)

バベット戦場へゆく(クリスチャン・ジャック)

ロベレ将軍(ロベルト・ロッセリーニ)

追いつめられて(J・リ・トンプソン) 

大人は判ってくれない(フランソワ・トリュフォ)

鉄路の斗い(ルネ・クレマン)

危険な曲り角(マルセル・カルネ)

いとこ同士(クロード・シャブロル)

太陽がいっぱい(ルネ・クレマン) 

いまだ見ぬ人(ドニス・ド・ラ・パトリエ) 

バファロー大隊(ジョン・フォード) 

明日なき脱獄者(ポール・スチュアート)

刑事(ピエトロ・ジェルミ)

逢うときはいつも他人(リチャード・クワイン) 

奥様の裸は高くつく(リチャード・マ―シャル)

許されざる者(ジョージ・ヒューストン)

*テレビ:

山びこ学校(今井正、1952年)

巴里野郎(ピエール・ガスパル・ユイ、1955年) 

港のマリー(マルセル・カルネ、1949年)

*シナリオ研究所(登川直樹解説)

リの屋根の下(ルネ・クレール1930年)

自由を我らに(ルネ・クレール、1931年)

商船テナシティ(ジュリアン・ディヴィヴィエ、1934年)

別れの曲(ゲザ・フォン・ボルヴァリ、1934年)

ミモザ館(ジャック・フェーデ、1935年)

制服の処女(レオンテイーネ・サガン、1931年)

地の果てを行く(ジュリアン・ディヴィヴィエ、1935年)

我らの仲間(ジュリアン・ディヴィヴィエ、1936年)

美しき争い(レオニード・モギー、1938年)

旅路の果て(ジュリアン・ディヴィヴィエ、1936年)

邪魔者は殺せ(キャロル・リード、1947年)

赤い風車(ジョン・ヒューストン、1953年)

パリの空の下セーヌは流れる(ジュリアン・ディヴィヴィエ、1951年)

また逢う日まで(今井正、1950年)

花咲く港(木下恵介、1943年)

雁(豊田四郎、1953年)     

浮雲(成瀬巳喜男。1955年)

 1960年は、やはり私にとっても、特別な年だったと思う。大学では、毎日のように、自治会の集会があり、1学年15人程度の専攻クラスの討論が行われ、国会への安保改定反対の請願デモが続いていた。講義や掛け持ちのアルバイトの合間を縫って集会やデモに参加している友人たちが多かった。私もノンポリながら、それなりに集会やデモにも参加していた。「鉄路の斗い」は1945年の作品だが、これは大学の学園祭での上映作品であった。ルネ・クレマンの旧作に集客力があった時代であったか。

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「鉄路の斗い」(ルネ・クレマン監督、1945年)鉄道員たちがナチスと闘う抵抗映画である。

 私も、ご近所の小学生の家庭教師も務めていたが、自宅通学はそれだけでも恵まれていたのかもしれない。この頃、私は、「映画愛」?が高じてシナリオ研究所の研修講座(夜間部)にも4月から半年間通って、いつかは映画シナリオを書きたいと本気で思っていた。雑誌『シナリオ』を購読し、『キネマ旬報』は図書館で読んでいた。評論家の志賀信夫から寺山修司まで、いろいろなシナリオライターの話が聞けて楽しく、ほぼ週一で、登川直樹の解説で、1930年代の名画を見ることができたのは、収穫であった。大学と集会・国会議事堂と青山一丁目下車のシナリオ研究所の三か所を地下鉄で行き来する日も多い半年間だった。6月15日の夜の樺さんの事件は、遅い夕食のお蕎麦屋さんのテレビで知った。提出すべきシナリオのプロットは、いかにも面白くない、はしにも棒にもかからないものだと自覚するのだった。それでも、あきらめきれないで、就活の折、東映の教育映画部の大学の先輩を頼って訪ねたこともあった。

 1960年代に入ると、私の映画記録は、ますます簡略になってゆく。たとえば、1961年は、以下のようなメモでしかない。洋画26本、邦画28本、併せて54本であった。相変わらず二本立てが多い。

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 1962年には、映画館でみるのはぐっと減って、邦画9本、洋画8本。テレビで見たのがなんと18本で、その中には、「市民ケーン」(オースン・ウェルズ 1941年)、「パルムの僧院」(クリスチャン・ジャック 1948年)「鉄格子のかなたに」(ルネ・クレマン 1949年)などが記録されている ちなみに、63年21本(洋画18邦画3)64年28本(洋画18邦画10)、65年22本(洋画19邦画3)66年31本(洋画22邦画9)といった具合である。「誓いの休暇」「かくもながき不在」「ウェストサイド物語」「西部戦線異状なし」「慕情」などは、地元池袋の人世坐、その姉妹館の文芸座で見ていることも記されていた。洋画から伝わる熱量に圧倒され、日本の映画は遠ざかってゆくのだった。

 そして、何がきっかけだったのか思い出せないのだが、この頃から、演劇にも若干の関心を持ち始め、1962年には、民芸「イルクーツク物語」(アルブーソフ作 宇野重吉演出)、前進座「雲と風と砦」(井上靖作)、63年には「るつぼ」(アーサー・ミラー作 菅原卓演出)、「泰山木の木の下で」(小山祐士作 宇野重吉演出)、64年「冬の時代」(木下順二作 宇野重吉演出)「奇跡の人」(菊田一夫演出)、66年「セールスマンの死」(アーサー・ミラー作 菅原卓演出)や72年「三人姉妹」(チェーホフ作 宇野重吉演出)など民芸が多いのは、65年以降、当時、職場に”演劇青年“がいて、よく勧められては、何回かに一度買っていたものと思われる。プログラムや半券を残しているものもある。1967年の俳優座養成所の「第16期卒業公演」のプログラムと半券も出てきた。「47年3月10日」「ご招待」とあるので、例の同僚から譲り受けたものではないか。いまから見ると、16期卒業生の顔ぶれがスゴイ。古谷一行、太地喜和子、河原崎健三、大出俊、鶴田忍・・・。卒業生のプロフィルと名前から、卒業後、たしかに活躍していた前田哲男、田村寿子、松川勉らもいるが、いまはどうしているのだろうか。プログラムの巻末には、なんと、今では考えられないが、住所録までついている。〇〇アパート〇号室、〇〇方が圧倒的に多い。

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1963年12月、姪とクリスマス公演を見に行っていたはずだが。

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 1964年には「イタリア映画祭」、1965年10月末から一か月、国立近代美術館で、「イタリア映画戦後の歩み」が開催され、13本が上映されているが、スーパー付きが4本しかない。そんなこともあってか、イタリア文化会館の夜間講座にも通ったこともあるが、挫折。1964年から、10年近く「ソ連映画祭」に通ったことは、先のブログでも書いた。職場では、ロシア語の初級講座を受けさせてもらったが、これも挫折。いったい何をしたかったのか、何を考えていたのか。

 1950年代の映画記録から、いろいろ思い出すことも多かった。家族が映画好き、というより、ごく普通の家庭の娯楽と言えば、ラジオと映画くらいしかなかった時代、娯楽というより、映画は、私のもう一つの学校ではなかったか。1960年代になると、63年に就職、社会人となり、映画より実社会から学ぶ比重が高くなり、映画も選んで見るようになったのだと思う。

 私の映画記録は1966年を最後には途絶えているので、日記を追っていくなどしないとわからない。もうその気力もないので、映画の思い出はこの辺で終わりにしたい。

 

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2023年1月21日 (土)

忘れてはいけない、覚えているうちに(11)1950年代の映画記録が~1957年から60年代へ②

1959年 浪人中~大学1年 41( 邦画30 +洋画 11)本

花のれん(豊田四郎)  初夜なき結婚(田中重雄)女ごころ(丸山誠治)

祈りのひと(滝沢英輔) キクとイサム(今井正) 新婚列車(穂積利昌)

若い川の流れ(田坂具隆)風花(木下恵介)    地上(吉村公三郎)

白い山脈(今村貞雄)  お嬢吉三(田中徳三)  狐と狸(千葉泰樹)

野獣死すべし(須川栄三)次郎長富士(森一生)  弁天小僧(伊藤大輔)

あたらしい製鉄所(瀬川順一)          子の刻参上(田坂勝彦)   

伊達騒動風雲六十二万石(佐伯清)        謎の十文字(荒井良平)

隠し砦の三悪人(黒澤明)潜水艦イー59号降伏せず(松林宗恵)

素晴らしき娘たち(家城巳代治)      千代田上炎上(安田公義)

決斗水滸伝・怒涛の対決(佐佐木康)    新吾十番勝負(松田定次)

江戸っ子判官とふりそで小僧(沢島忠)   電話は夕方鳴る(吉村公三郎)

酔いどれ天使(黒澤明) 浪花の恋の物語(内田吐夢)人間の壁(山本薩夫)

大いなる西部(ウィリアム・ワイラー)

最後の歓呼(ジョン・フォード) 

人間と狼(ジュゼッペ・デ・サンティス)

ボクの伯父さん(ジャック・タチ) 

モンプチ私の可愛い人(ヘルムート・コイトナー)

くたばれヤンキース(ジョージ・アボット、スタンリー・ドーネン) 

先生のお気に入り(ジョージ・レートン)

お熱いのがお好き(ビリー・ワイルダー) 

恋人たち(ルイ・マル) 

お嬢さん、お手やわらかに(ミシェル・ポワロン) 

騎兵隊(ジョン・フォード)

 「新平家物語」(1955年)以降、市川雷蔵(1931~1969)主演の「月形半平太」「弁天小僧」「お嬢吉三」「次郎長富士」などはマメに見ていた。いまでいう「推し」だったのかもしれない。当時は、毎月のように!!雷蔵の主演映画が公開され、大映を背負う稼ぎ頭であった。酷使された上の早世ではなかったか。社長の永田雅一は、そのワンマンぶりや語り口から「永田ラッパ」と呼ばれていた時代だった。悪名高い「五社協定」も主導し、話題になったのを思い出す。一方で、高度成長を後押しするような記録映画にも力を入れていたようで、夕張炭鉱を舞台に石炭の重要性を説く「黒い炎」(1958年)、北アルプスの景観に迫った「白い山脈」(1959年)、千葉川崎製鉄の「あたらしい製鉄所」(1959)なども封切り映画と併映されていた。

 「新・平家物語」(吉川英治)は『週刊朝日』で、「氷壁」(井上靖)、「人間の壁」(石川達三)などは、新聞の連載中にも愛読したものだが、連載が終わるとすぐに映画化されることが多かった。

 この年は、大学に入った解放感も大きかったが、夏からの半年間の闘病の末、12月に母が56歳で亡くなった寂しさもあった。前年に結婚した長兄の初孫の誕生、私の進学をも見届けてくれたのが、せめてものなぐさめであった。いまだったら、手術や化学療法で助かった命であったかもしれない。

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2023年1月17日 (火)

忘れてはいけない、覚えているうちに(10)1950年代の映画記録が~1957年から60年代へ①

 1957年からの私の映画記録は、簡略化?されていた。日付と題名と監督名だけで、その監督の名前も書かれてない場合もあるが、今、わかる範囲で補った。字数の関係で、和洋に分けた。ここでは日付を省くが、ほぼ日付順に記した。洋画にはマーカーをしている。

 1957年(高2~高326(邦画22+洋画4)本

孤独の人(西河克己)  最後の突撃(阿部豊) 真昼の暗黒(今井正)

ビルマの竪琴(市川崑) 夜の河(吉村公三郎) 早春(小津安二郎)

米(今井正)                若さま侍捕物帖・鮮血の晴着(小沢弘茂)

朱雀門(森一生)    満員電車(市川崑)       黄色いカラス(五所平之助)

正義派(渋谷実)    東京暮色(小津安二郎) 雪国(豊田四郎)

柳生武芸帖(稲垣浩)    夜の蝶(吉村公三郎)   足摺岬(吉村公三郎)

雲ながるる果てに(家城巳代治)                      爆音と大地(関川秀雄)

鮮血の人魚(深田金之介)                               青い山脈(松林宗恵)

風の中の子供・善太と三平物語(山本嘉次郎)

理由なき反抗(ニコラス・レイ )

八月十五夜の月(ダニエル・マン) 

ジャイアンツ(ジョージ・スティ―ブンスン)

世界の七不思議(テイ・ガーネット)

   受験生真っ盛りながら、ジェームス・ディーンの「理由なき反抗」「ジャイアンツ」は、見逃したくはなかったのだろう。「米」は霞ケ浦の大きく帆を張った船のワカサギ漁のシーンが印象に残っている。ストーリーは思い出せないが、親子を演じた加藤嘉と中村雅子の結婚、去年亡くなった江原真二郎と中原ひとみが兄妹役で共演、後に結婚したなどというゴシップの方をよく覚えている。

1958年 高3~浪人中 31(邦画21+洋画10)本

二人だけの橋(丸山誠二) 大当たりタヌキ御殿(佐伯幸三)

氷壁(増村保造)              陽気な仲間(弘津三男) 忠臣蔵(渡辺邦男)

恋人よ我にかえれ 宝塚花詩集(白井鐵造)*    

陽のあたる坂道(田坂具隆)羅生門(黒澤明)       野良犬(黒澤明)  

つづり方兄妹(久松静児)   鰯雲(成瀬巳喜男)      裸の太陽(家城巳代治)

波止場ガラス(伊賀山正光)無法松の一生(稲垣浩)  異母兄弟(家城巳代治)

巨人と玩具(増村保造)      遠州森の石松(マキノ雅弘)

湯島の白梅(衣笠貞之助)    スタジオはてんやわんや(浜野信雄)

月形半平太(衣笠貞之助)    黒い炎(西村元男/ドキュメンタリー)

王様と私(ウォルター・ラング) 

野郎どもと女たち(ジョセフ・L・マンキウィッツ) 

マダムと泥棒(アレキサンダー・マッケンドリック) 

殿方ご免遊ばせ(ミッシェル・ボワロン)

OK牧場の決斗(ジョン・スタージェス) 

黒い牙(リチャード・ブルックス) 

白鯨(ジョン・ヒューストン)

情婦(ビリー・ワイルダー) 

三人の狙撃者(ルイス・アレン) 

若き獅子たち(エドワード・ドミトリック) 

 摸試などの合間を縫って、受験生にしては、見ていた方ではないか。これでは、勉強の方は頼りなかったわけである。黒沢の「羅生門」や「野良犬」や戦時中の名作「無法松の一生」(1943年)を見逃すわけにはいけないという気持ちがわからないではないが、どうでもいい?作品も結構見ていた。洋画といってもアメリカ映画だが、かなりの名作を見ていたことになる。マーロン・ブランド、バート・ランカスター、モンゴメリー・クリフト、グレゴリー・ペック・・・。誰もが魅力的に思えた。
   この頃、家の商売柄、製薬会社や問屋の招待というのがときどきあって、歌舞伎座、明治座、新橋演舞場などへ、両親や兄たちが出かけていたと思う。*の宝塚公演は、私が生まれて初めての宝塚で、次兄が私の卒業祝いか、予備校入学祝い?のつもりだったか、手配してくれて、一緒に出掛けている。その頃の日記帳には、こんな歌が書きつけてあった。私の二階の部屋には、ネオンだけでなく、店の向かいのパチンコ屋の店内放送も聞こえていた。短歌会などに入会する前なので、活字にもなっていない短歌で、第一歌集『冬の手紙』にも収めていない。なんだ、ここからの成長があまりみられないではないか。

・受験誌を求めし帰路のウインドにまといてみたき服地の流れ

・極端に襟幅広きコート着る女の吐息は夜道に残る

・窓染める赤きネオンの点滅は風邪に伏したる寝床に届く

・存分に日差しを受けて本探す合否の不安しばらく忘れ

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2023年1月 7日 (土)

忘れてはいけない、覚えているうちに(9)1950年代の映画記録が~1956年

 1956年といえば、高1から高2の時期だが、私の映画歴では、一つの小さな山をなしていて、二本立てながら、44本見ているので、20回くらいは映画館に足を運んでいることになる。

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  セレサは西口のロサ映画街の一画の旧作洋画の専門館だったのだろう。同じく洋画のフランス座は東口にあったが、1955年に開館、数年で閉館してしまっている。文芸地下、日勝地下は、この頃、入場料は50円だったか、それらしい半券が残っている。「終着駅」、「旅情」、「地上より永遠に」などを、いま見たらどうだろう。二人の、あるいは二組の恋の行方に胸を締め付けられるような思いで見ていた頃がなつかしい。「潮騒」や「太陽の季節」は話題作だったので、出かける前は少しドキドキしたものだったが、宣伝に踊らされた感じであった。

  松竹、東宝、大映、東映の封切館やときにはエトアールなどの二番館の招待券を、店の前の銭湯「平和湯」からもらうことがあった。脱衣場の天井近くにずらりと並んだ映画館のポスターは壮観であった。私もあのポスターを見るのが楽しみでもあった。銭湯に掲げられるポスターには、招待券がついてきたらしい。そのおこぼれを、ときどき、番台の奥さんからいただいていたのを覚えている。いただいた招待券は、無駄にはしまいと、家族の誰かが見に出かけていた。今回の一覧には、そんな映画も含まれていると思う。

 

 

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2023年1月 5日 (木)

忘れてはいけない、覚えているうちに(8)1950年代の映画日記が

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「エデンの東」より

 古い日記帳に混じって、映画記録の手帳が出てきた。先に1953年の日記によって、観た映画を記録にとどめたが、54年以降は、映画メモとして日記帳の巻末に一覧にしている年や別の手帳に記録していたものが出てきた。それによって、とりあえず、二年分を、あらためて一覧にしてみた。

 連れ合いからは「かなりシツコイね!」と言われそうだし、娘からは「どうしたの、急に?」と言われそうだが、おつきあいいただければ幸いである。

 日付、劇場名、題名、監督、脚本、出演者に短評を付した年もある。この頃はまさに映画全盛の時代であったし、我が家では父、二人の兄の映画好きの影響は大きかったようだ。中学校では、映画は付き添いがなければといけないと言い渡されていたので、大学生の次兄や母と一緒のことが多かったと思うが、池袋という土地柄もあり、父・長兄・母は、店の仕事で忙しかったこともあって、一人で見に行くこともあったようだ。

 一覧でもわかるように、ほとんどが二本立てで、製作年のないものは、新作の封切りであるとみてよい。中学3年の夏休み以降の記録がないのは、高校受験を控え、映画は見なかったのか、それとも、別のメモがあるのか不明である。中学校でも、高校でも、映画教室というイベントがあったことを思い出す。映画館に出かけることも、学校の講堂で見ることもあった。

 池袋の映画館は全盛期にいくつくらいあったのだろう。一覧にある「山手」は、明治通りの今のジュンク堂の先の路地を入った、雑司ヶ谷にあった、松竹専門の映画館であった。旧作名画劇場の日勝地下は、いまの池袋駅北口からのガードをくぐった直ぐ左手に並ぶ映画館の一つであったし、人世坐は、日ノ出町に近い、三角寛経営の文士映画館として有名であった。セレサは、西口の一画、ロサのある映画館街にあった。1955年の正月には、洋画専門館の渋谷のエビス本庄まで出かけている。記録では、「二十四の瞳」も同時に見ているが、三本立てだったのか、別の映画館でみたのか、日記も見つからず、今となってはわからない。

<参考過去記事>
1960年代、池袋の映画館~こんなチラシが出てきました【2019年4月12日】
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/04/post-d296d0.html

一覧表は、クリックして拡大してご覧ください。

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2022年12月 7日 (水)

1960~70年代の<ソビエト映画祭>を振り返る~ロシア映画は、今

なぜ、ソ連映画だったのか
 10年以上前にも、当ブログで触れているのだが、私が通っていた頃のソビエト映画祭のプログラムやキネ旬の特集などが、「日本におけるソビエト文化の受容」の研究を進めている知人からもどってきた。ロシアのウクライナ侵攻以来、当時見ていたソ連映画はどんなだったのだろうという思いに駆られていたので、さっそく読み返している。かなりは、忘却のかなたであるが、あれほど熱心に毎年ソビエト映画祭(在日ソ連大使館主催)に通ったのはなぜだったのか。

書庫の隅から見つけた、私の昭和(2)昭和40年代のソ連映画(2010年4月16日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/04/40-7f18.html

 60年安保反対運動のさなか、通っていた大学の自治会は、「全学連反主流派」が主導していた。1960年6月15日樺美智子の死、その年末に、大学歌人会で、一・二度顔を合わせたことのある岸上大作の自死に直面した。たしかに情緒的な反応をしていた時期もあったが、既存の革新政党への疑問が去らなかった。職場では、70年安保を体験することになり、大学の二部に通う同僚職員が、いわゆる「過激派」のデモに参加して逮捕されたときの職員組合の冷たい対応が、余りにもセクト的であったことを、苦々しく思い出す。
 何で知ったのか、1964年の秋、初めて、第二回ソビエト映画祭(10月26~28日 有楽町読売ホール、新潟巡回)に出かけている。プログラムには、「ソビエト映画・一九六四年―誕生四十五周年を迎えて」の解説が付されている。上映は「アパショナータ」「怒りと響きの戦場」「白いキャラバン」(グルジアフィルム)「私はモスクワを歩く」「ハムレット」(1964年)だった。「白いキャラバン」以外はモスフィルム撮影所製作であり、新作の「ハムレット」を除きいずれも1963年作であった。何を観たのか定かでないなか、「私はモスクワを歩く」だけが印象に残っている。偶然出会った男性3人、女性1人という4人の青年たちのモスクワの街での一日のできごとを描いた作品で、けれんみのない、清新な青春群像にどこかほっとした思いがしたのである。監督のゲオルギー・ダネリヤ(1930~2019)は、ソビエト、ロシア時代を通じて、さまざまなヒット作を生むが、検閲との折り合いをつけてきたらしい。この「私はモスクワを歩く」にも、ロケ地やセリフにまでチェックが及んだという。脚本・テーマソングの作詞のゲンナヂ・シュバリコ(1937~1974)は、この作品の10年後に自死したということである。つぎの上段の写真で、左で首をかしげている「モスクワっ子」を演じたニキータ・ミハルコ(1945~)は、俳優から監督も手掛けるようになるのだが、現在は、プーチンを支持し、ウクライナ戦線に送られた囚人の兵士を英雄視する発言などで、ウクライナの裁判所からは「領土保全の侵害」の疑いで逮捕状が出ているという。
 ソ連映画といえば、「歴史・革命もの」や「レーニンもの」などの個人崇拝的なプロパガンダ映画が多く、その種の映画を見るときは、どこか不信感を拭えず、冷めた目になってしまうのだった。

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「私はモスクワを歩く」には、スチールにしたい場面が数多い。上は、グム百貨店内のレコード店で店員のアリョーナと青年たちが出会う場面。レコードというのも懐かしいが、古めかしいレジスターも。真ん中の青年には何かともめているらしいが婚約者がいる。左右の青年と店員と関係が微妙なことになる。下のシーンは、主人公たちとは関係ない?カップルで、濡れながら裸足で踊る恋人を自転車で追い巡る青年との場面、ポリスボックスから警笛がしきりに聞こえてくる。「警笛」がほかのいろんな場面でも鳴り続けるのも興味深い。それにしても、今、ユーチューブで見られる字幕なしでも十分楽しめるが、会話が分かったらどんなにかと。https://www.youtube.com/watch?v=vbjs5zfxDMs&t=2829s

  1965年、第三回も10月下旬(虎の門ホール 大阪・広島巡回)で、短編を含むと7本を上映、もちろん全部を観てはいないが、今でも思い出すのが、短編ながら、ラトビアのリガを舞台にした「ふたり」(リガ・フィルム製作 1965年)である。音楽大学に通う青年が美しい女性に出会うが、彼女は幼時に爆撃で聴覚を失い、言葉が不自由であった。彼女は音のない音楽の世界へと導かれ、青年は彼女の書く文章によって、愛は深まっていくという展開だったと思うが、ラトビアの過酷な歴史を忘れるほど、港町リガの街並みに魅せられた。監督ミハイル・ボーギンの映画大学卒業制作であったという。間違いなく私も若かったのだなと思う。「戦火を越えて」(1965年)は、戦地で負傷した息子と彼を訪ね巡る一徹な父親との物語であるが、グルジアフィルムの製作であった。
  1966年、第四回の長編「ポーランドのレーニン」(1965年)はモスフィルムとポーランドの合作であり、「忘れられた祖先の影」(1964年)はウクライナのキエフ撮影所製作であって、各民族共和国製作の映画が日本でも多く紹介されるようになった頃だった。
 1967年第五回は<ソ連50周年記念>として、「ジャーナリスト」(ゴーリキイ撮影所製作 1967年)、アルメニアの「密使」(アルメンフィルム製作 1965年)、ゴーリキイ撮影所とポーランドとの合作「ゾージャ」(1967年)の長編が上映された。「ゾージャ」は、女性の名前で、ボーギンの長編第一作。プログラムの解説によれば、1944年のポーランドの小さな村で、戦火の合間、再編を待つ部隊の兵士とゾージャ、村人たちとの愛と信頼を描くが、私には、ラストの、ふたたび、ドイツ軍との戦闘へと向かう兵士との別離の画面だけがかすかに甦るのである。

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パンフの装丁は、なかなか定まらなかったようで、A4の横組みで始まるが、B5の横組みになり、B5の縦組みに落ち着く。 

日本でのソビエト映画
 ソビエト映画の国際的な進出は著しく様々な国の映画コンクールで受賞が続いている。日本では、1966年7月~8月に国立近代美術館において「ソ連映画の歩み」と題して、1924年~1961年製作の16本を上映している。手元のパフレット「ソ連映画の歩み」(山田和夫ほか編 フィルムライブラリー助成協議会)によれば、私は、ここでエイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」やグリゴーリ・チュフライの「誓いの休暇」を観ていたらしい。翌年の秋にも同美術館で「ソ連映画祭の回顧上映」が開催されているが、私が出かけた形跡はない。

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「ソ連映画の歴史(1)誕生から大祖国戦争まで」を岩崎昶 , 「同(2)大祖国戦争から今日まで」を山田和夫が、「ソ連の撮影所」を牛原虚彦が書いている。ソ連全土で撮影所は41を数える。山田和夫は、フルシチョフの政治路線は「矛盾と破綻をむき出しにした」との評価であったが。表紙絵のドームの中は「戦艦ポチョムキン」のオデッサの階段のシーンのようだ。

 また、『キネマ旬報』も1967年11月下旬号で<ソビエト革命五十周年記念特集 ソビエト映画の全貌>と題して、かなり多角的な特集を組んでいて、これは購入していたものと思われる。1967年前後には、革命50年周年を記念するか革命や歴史をテーマとする作品が目白押しの中、文芸大作「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」、「カラマーゾフの兄弟」なども一般上映されている。
 当時のソビエトは、1953年のスターリン没後、1956年、フルシチョフによるスターリン批判―個人崇拝と粛清排除によって、大きな転換期を迎え、1964年10月にはフルシチョフが失脚するという微妙な時期でもあった。革命や「大祖国戦争」のリアリズムによる伝達、いわばプロパガンダの要素が高い作品より、現代の都市や農村の生活、家族や個人の内面に目を向けた作品が好んで製作され、歓迎されるようになったのではないか。そうした映画の端々には、公式的な官僚主義の体制をそれとなく批判するセリフや映像が散見できるのであった。
  映画祭のパンフには、必ず駐日ソビエ大使の挨拶が巻頭に掲載されていて、1967年4月にウラジミール・ヴィノグラードフ
からオレグ・トロノヤスキーへと交代している。本国では、1972年8月、国家閣僚会議映画委員会議長(映画大臣)アレクセイ・ロマノフが解任され、フィリップ・イェルマッシュが就任している。その背景について、私の古い雑誌のコピーには、つぎのように書かれていた。

(更迭の直後の)『プラウダ』が「新しい課題にこたえる映画の製作に望む」とい論文を掲載し、「社会主義リアリズムと無縁な外国映画の無批判な模倣をやめよ」「社会的関心のないの代りに共産主義思想に一身を捧げる主人公を登場させよ」「革命精神をもって青少年を教育する作品を作れ」などとアピールしたことを合わせると、やはり映画大臣の更迭は政府の映画sで遺作の大幅な変更のあらわれだと見るのが至当であろう。(「ロマノフ更迭で路線変更ー引き締めに向かうソ連映画」『朝日ジャーナル』1972年10月6日、末尾にPANとの署名がある)

 記事は続けて、ロマノフは、党幹部出身ながら、自由主義的な思想の持ち主で、チュフライやタルコフスキーなどの「芸術派」の輩出を可能にしたのではないか、としていた。

 私が観た映画で、かすかに記憶があるのは・・・。 

1968年第六回「月曜今でお元気で」(ゴーリキ撮影所 1968年)
1969年第七回「夜ごとのかたらい」(モスフィルム撮影所 ?年)
1971年第九回「デビュー」(レン<レニングラード>フィルム 1970年)
「白ロシア駅」(モスフィルム 1971年)
1972年第十回「うちの嫁さん」(トウルクメンフィルム 1972年)
1973年第十一回「おかあさん」(モスフィルム ?年)
 「ルカじいさんと苗木」(グルジヤフィルム?)
1974年第十二回「モノローグ」(レンフィルム1973年)

 第十回の出品作品は、上記以外の「先駆者の道」(モスフィルム 1972年)は、宇宙開発の先駆者の半生を描き、「ルスランとリュドミーラ」(モスフィルム 1972年)はプーシキン原作、古代キエフ公国の人びとを異民族の襲撃から守った英雄のファンタジックな児童向けの作品という。そのパンフに挟まっていた新聞切り抜きには、当時のソ連映画について、端的につぎのように報じていた。

「ここ数年ソビエト映画はやわらかくなりつつある。本国では「社会主義リアリズムに忠実ではない」と、当中央委から大目玉をくったというが、日本ではむしろこの軟化がソビエト映画のファンをつくっている。」(毎日新聞 1972年10月17日)

 いまから思えば、プーシキンの原作の児童向け物語ではウクライナのキエフはどう位置づけられていたのだろうか。独り身の気ままな私のソ連映画祭通いは、1974年で終わる。

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その後の、ソビエト・ロシア映画祭は
 ソビエト映画祭は、1991年第二十三回まで開催されたようであるが、その後は、「ロシア・ソビエト映画祭」として、実行委員会形式で散発的に開催されていたらしい。2006年には、日ロ国交回復50年を記念し、「ロシア文化フェスティバル」の一環として、東京国立近代美術館フィルムセンター、ロシア・ソビエト映画祭実行委員会の共催で「ロシア・ソビエト映画祭」が開催されている。12年間の空白を経て、「日本におけるロシア年 2018年 ロシア・ソビエト映画祭」として、国立映画アーカイブが引き継いでいるが、定期的に開かれているわけではないようだ。

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上記は、ネットから拝借した1989年のプログラム。1991年まで続いているが、どんな映画が上映されていたのだろう。「秋のマラソン」はゲオルギ—・ダネリアの監督作品である。

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2022年11月28日 (月)

ポーランド映画祭~見逃した「EO」と「赤い闇」

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 11月22日から始まった、11回目を迎えたというポーランド映画祭、パンフの解説を頼りに、26日「ショパン」「EO(イオ)」、27日「赤い闇と「パンと塩」に出かける予定にしていた。26日の朝は雨、寝不足もあって、11時には間に合いそうにもない。13時30分からのポーランドの巨匠とも言えそうなイエジー・スコリモフスキ監督の新作「EO」(2022年)だけでもと出かけたのだが、なんとチケットは午前中に売り切れていた。この監督は、若干24歳でポランスキーの「水の中のナイフ」(1962年)のシナリオを手掛けている。目当ての「EO」は、動物愛護グループにサーカス団から連れ去られたロバのイオが主人公というのである。イオの目を通してみた現代のポーランドの人間模様・・・。残念ではあったが、それではと、気を取り直して、2時間待ちながら15時30分開演の同じ監督の「イレブン・ミニッツ」(2016年)を見ることにした。隣の会場での星野道夫の写真展もにぎわっていたが、恵比寿のガーデンプレイスを巡ってみることにした。週末だけあって、家族連れやカップルの往来をコヒー店の窓から眺めたり、行列ができているパン屋さんで食パンを買ってみたり、真っ白いテントが並んでいるので何かと思えば、「婚活フェア」だったり・・・。

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 そして「イレブン・ミニッツ」は、夕方5時から11分間の出来事を同時多発、同時進行の形でまとめているという解説だったが、画面のテンポについてゆけず、私には、もう容赦なく目まぐるしいばかりで、最初は理解不能の世界だった。進むにしたがって分かりかけてきたものの、舞台がワルシャワの街中なのに、観光客が巡るような場所はいっさい出てこない。さもありなんという、さまざまな夫婦やカップル、家族が交差しながらの分刻みでの展開である。その核になるのが、ホテルの一室での男女―映画監督と女優という設定で、抜擢を条件に関係を迫るという、いわば映画界の内輪話というのが、私には少し安易すぎると思った。もっとも、日本の映画界でも、パワハラ、セクハラが表ざたになって問題視されるようになっているのだから、ポーランドでも、よくある話なのだろうか。ホテルの部屋を突き止めた女優の夫、出所したばかりの屋台のホットドック屋、息子と分かるバイク便の配達夫、元カレから犬を渡され、ホットドックを買いに来る若い女、強盗に入った店のオーナーが首をつっているのに出くわして、慌てて逃げる若い男・・・、まだまだいろんな人物が登場する。そして最後に、登場人物たちの想像を絶する衝撃的な死の連鎖で幕を閉じるのだが、エンドロールの前には、画面いっぱいに小さい画面が並び、そのコマは際限なく無数となったところで、画面は真っ暗になるという仕掛けである。

 制作の意図はわからないではないが、私の体調もあってか、“疲労困憊”の一語に尽きるのだった。恵比寿駅への長い、長い動く歩道、乗換駅を乗り過ごさないように必死であった。電車のなかでは、ワルシャワの高層ビルの間を巨大な航空機が低空飛行をする、9・11を想起するような画面が何度か現れたのは、なんの暗喩なのか・・・を考えたりしていたら眠らずに済んだ。

 そして、見逃した「赤い闇」は、一足先の11月24日に見ていた連れ合いから、話を聞いてはいた。1933年、世界恐慌の中で、なぜソ連だけが繁栄しているのかを謎に思ったイギリスの若いジャーナリストが、モスクワへ、そしてウクライナへと向かって目にしたのは、スターリンによる人工的大量餓死の悲惨な姿であったのである。まさに、いまのウクライナとプーチンを想起するではないか。くすしくも、11月26日は、ホロドモールの追悼の日であった。

 そして、“体力の限界”を感じて、翌日の二本は、あきらめたのである。

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2022年5月17日 (火)

岩波ホール、さようなら~「メイド・イン・バングラデシュ」を見る

   東京に出たついでに、思い切って、岩波ホールに寄ってみた。上映時間もちょうどいいので、予備知識もなく飛び込んだ。 整理券に従って入館したが、観客は30人程度か。7月には閉館と聞けば、なおさらさびしい。熱心に通ったというわけでもないが、大昔の映画ファンとしては、やはり悔しさもある。

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岩波ホールはこの神保町ビルの10階にある。

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廊下の壁には、これまでの上映映画のポスターがびっしりと展示されていた。

 

「メイド・イン・バングラデシュ」(2019年、フランス・バングラデシュ・デンマーク・ポルトガル)

 バングラデシュのダッカには、世界の衣料品メーカーの多くの縫製工場が集中している。というより、各国のメーカーは、安い素材と工賃によって安く仕上げるために、安い労働力の得られる他国に多数の系列工場を抱えている。メイド・イン・バングラデシュの衣料品が世界に出回っているのだが、その縫製工場の劣悪な労働環境の中、低賃金で働く、縫製工場の一人の女性労働者が、仲間たちと、さまざまな苦難に遭いながら、労働組合を立ち上げるストーリーである。

   教室のような狭い場所に、三、四十人の若い女性たちが古いミシンでTシャツを縫い上げてゆく。その縫製工場では、アイロン室からの失火で火事になったり、夜勤の末、扇風機も止められたミシンの下の床でごろ寝をさせられたり、賃金や残業代の遅配は日常的だったりする上、男性監督の監視もきびしい。1日にTシャツ1600枚以上仕上げながら、月給がその2・3枚分という過酷さなのだ。地方からダッカに来て、色々な職場を転々としながら、いまの工場に勤める23歳の主人公は、家庭では、無職の夫を養う苦しい暮らしだった。
  工場近くで出会った、労働者支援団体の女性から、工場の実態を知りたい、お礼も出すからと声を掛けられる。出向いた彼女は、支援者から労働法や労働者の権利について教えられ、署名を集めれば組合が作れると勧められる。与えられたスマホを使い、工場の実態や経営者の発言などを記録するようにもなる。労働法を学び、集会にも参加、署名も集まり、監督官庁の労務省?への組合結成申請にまでこぎつける。条件が満たしているのに、なかなか認可が下りず、何度も役所に通うが、上司のところで止まっているらしいと知る。家に帰れば、職を得た夫からは、もう働かなくてもよい、組合を作るなんてやめろ、とまで、暴力を振るわれもする。
 いつまでも組合認可が下りない役所で、受付を突破、幹部の部屋になだれ込んで、なぜ認可が下りないのか詰め寄ると「外からの・・・業者からの圧力があって・・・」と言いよどむ。そこからが彼女の底力というか、勇気というか、スマホで録音した発言を言質にとって、とうとう書類にサインをさせるのだった。 
 映画は、そこで終わり、そこからも苦難が続くであるだろうに、彼女は、成し遂げたという力強い眼差しながら、かすかな笑みを浮かべるのだった。

   ドキュメンタリータッチに徹したという監督のルバイヤット・ホセインは、足踏みミシンで、黙々と縫い続ける女性たち、主人公の住む街の狭い路地、そして家賃の支払いもままならない暗くて狭い家、家主とて、やっとテレビが置ける程度の貧しさ・・・を丹念に描いている。路地に行き来する人たち、サッカーボールをただ転がしているだけの子どもたち。仕事を終えた主人公たちは、みな若い、恋の話にも興じながら家路につく・・・、 印象深い場面がよみがえる。

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監督、主人公のモデルは語る

 2020年に来日したとき、監督は、インタビューで、縫製工場で働くのは女性が80%を占め、平均年齢は25歳、2013年頃の状況だったと語る。その後、たしかに、月給は2倍、シャツ4枚分程度にはなったが、現在の縫製工場は機械化が進み、そこで働くのは男性が多くなり、女性の失業者が増えているともいう。なお、業者と政府の癒着という構図も映画では描かれているが、主人公に詰め寄られた役人のモデルは、政府から解雇され、いまは労働者の支援をしているとのことであった。この映画製作の動機は、主人公のモデル、活動家のダリヤ・アクター・ドリに出会ったことにあり、そこから調査や取材も始めたという。

 一方、モデルとなったダリヤ・アクター・ドリも、同年、来日した折に、「私は工場の仕事に誇りを持って働いてきました。それなのに解雇されかけた。労働者の権利を守るためには、今、自分が動かなければいけない。後に続く若い人たちの夢や希望まで潰えてしまう。自分1人のための戦いではないと思ったから、苦しくても続けられたのだと思います」と語り、映画で描かれているよりも、私の労組の活動に対し、夫は、協力的ではなく、離婚したとも語っている。

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振り返って、日本の場合~ユニクロは大丈夫?

 最近、中国の新疆ウイグルスで過酷な労働条件のもとに生産されたワタを使用しているとされたユニクロが問題視され、会社側は、その否定に必死であった。ちなみに、ファストリテイリングの2022年3月現在の「生産パートナー工場リスト」によれば453工場のうち約半分の239工場が中国にあり、ベトナムが58、その次がバングラデシュの30、続いて日本22、カンボジア、インドネシア、ポルトガルと続く(間接取引、直接取引を含む)。「主要素材工場リスト」(91工場)には中国50、ベトナム10、インドネシア8、日本6、・・・バングラデシュ3と続く。
ファストリテイリングホームページ、参照。
https://www.fastretailing.com/jp/sustainability/labor/list.htm

 それでは、ZALA、GAP、H&Mなどの大手アパレルの場合はどうなんだろうか。わたしも、自分や家族の衣類のタグを見るようになった。自分の下着などは、ほとんど生活クラブ生協から購入しているつもりだが、かつて購入した衣類では、もちろん日本製が多いのだが、ほかでは、メイド・イン・中国が多く、ベトナム、韓国なども見受けられた。

 映画を見始めたとき、これは日本の『女工哀史』か、紡績工場や製糸工場の「女工」ではないかの感想を持った。組合結成の話になると、いまの日本の働く人たちの非正規の割合、その待遇の低さ、正社員、正職員であっても、その労働組合の加入率は、私たちが働いていた頃には想像もつかないくらい、極端に低くなってしまった現実がある。
 働き方改革? 多様な働き方? 選択肢が広がった? 一億総活躍? 高度プロフェッショナル制度? 同一労働同一賃金? コトバだけは踊るが、その実態は、働く者が一番よく知っているはずではないか。
 それなのに、日本では、労働組合は働く者から遠ざかり、働く者の労働組合離れが主流になってしまった。そして、組合の必要性を身をもって体験した人たちにより、各業界でユニオンなどが結成されることが多くなり、活動を続けている。

 近くの工業団地のアマゾンや食品会社のシャトルバスから降りて来る働き終えた人たちが、黙々と駅へと急ぐのを目にすることがある。外国の人も多い。三交代制とも聞く人たちの労働環境を思わずにはいられない。「メイド・イン・バングラデシュ」が外国の話には思えないでいる。

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2020年6月17日 (水)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(8)

短歌の歌謡曲と朗読と

 古関裕而について書き続けていると、キリもなく、伝えたいことは、満載なのだが、もうこの辺で終わりにしたい。なお、今回の作業で、興味深い一件があった。というのは、古関が有名な歌人の短歌に曲をつけて、レコード化していたことだった。

 一つは、敗戦まもない、1947年3月放送のラジオドラマ「音楽五人男」の主題歌として、藤山一郎が歌った「白鳥の歌」である。これは若山牧水の「白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ」に曲をつけたものである。その後、47年6月3日公開の映画『音楽五人男』(東宝、小田基義監督)では、「夢淡き東京」(サトウ・ハチロー作詞/藤山一郎・小夜福子)などの主題歌とともに挿入歌として「白鳥の歌」(藤山一郎・松田トシ)歌われたのは、「幾山河越えさり行かばさびしさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」「いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐うるや」の2首も加えられた3首で、レコードにもなった。当時にあっても愛唱性の高い人気の3首であったのだろう。

 一つは、芸術座公演「悲しき玩具」(1962年10月5日~27日、菊田一夫作・演出)の舞台で流された伊藤久男による石川啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」を含む17首で、同年LP盤で発売されている。短歌を選んだのは菊田で、作曲者の古関ではなかったらしい。古関は、短歌は、短すぎて曲がつけにくいと漏らしていたそうだが、17首の中の何首かの第五句が繰り返されている。実際の舞台ではどのように流されていたかはわからないのだが、ネット上で聴くかぎり、30分近くかかり、一首一首のつながりがなく、似たような間奏で歌い継がれるのだが、気分的にも盛り上がりがないように思えた。ただ古関裕而自身は、この「白鳥の歌」が自信作であったらしい(辻田⑦219頁)

 もう1件は、長崎医科大学で放射線医学を専門とする永井隆は、自らの白血病とも闘いながら、原爆の被災地長崎と原爆症患者たちの治療にあたる様子を記したエッセイ集『長崎の鐘』(日比谷出版社 1949年1月)にまつわる短歌だった。この書をモチーフに、サトウ・ハチローが作詞し、古関作曲の1949年7月に発売した「長崎の鐘」(藤山一郎)に感銘を受けた永井から、返礼として、つぎの2首が届けられたという。

・新しき朝の光りのさしそむる荒野に響け長崎の鐘
・原子野に立ち残りたる悲しみの聖母の像に苔つきにけり

それに曲をつけたものが「新しい朝の」であった。1950年9月22日に公開された映画『長崎の鐘』(松竹、大庭秀雄監督)の主題歌ともなった。ただ、「長崎の鐘」の歌詞も映画の物語も、長崎の原爆投下の経緯と原爆の犠牲者たちの実態に直接対峙することにはならなかった。というのも、前述のようにGHQの検閲下に制作されたものであり、永井の著書出版の経緯にも、大きな制約があった。それと同時に、クリスチャンの永井隆が「浦上への原爆投下による死者は、神の祭壇に供えられる犠牲であり、生き残った被爆者は、浦上を愛するがゆえに苦しみを与えてくださったことに心から感謝しなければならない、それが神の摂理というものである」と繰り返したことで、後の反核運動や多くのカトリック信者や被爆者たちは、その呪縛から逃れられなかったという。GHQによる原爆投下の責任や日本の戦争責任あいまいにし、免責へと連動していったことを思うと、「鎮魂」や「美談」では済まされない問題を内包したのではなかったか。(注)

(注)以下の過去記事も参照いただければと思う
・長崎の原爆投下の責任について~「神の懲罰」と「神の摂理」を考える (2013年5月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/05/post-15f2.html

 なお、今回の古関裕而のシリーズは、とりあえず終える。短歌や詩に音や声を伴ったときに、短歌や詩は、ある種の変貌を遂げるのではないか、音声表現が源流なのかと、考えてきた。かつて、短歌の朗読について、戦時下にあっては、「朗読」が推奨されていたことなどについて、当ブログでも何件か書いている。近くでは、高村光太郎についても、彼の詩が、戦時下で、どのように書かれ、発表され、NHKラジオから「愛国詩」として放送されたかについて言及したことがある。参考までにあげておこう。

 

短歌の森(*)「短歌の「朗読」、音声表現をめぐって」1~4
(初出:短歌の「朗読」、音声表現をめぐって1~11 『ポトナム』2008.3~2009.1)
「短歌の森」は当ブログ画面の左下の「短歌の森」の記事の中からお選びください  

関連文献:「暗愚小傳」は「自省」となりうるのか―中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして 『季論21』 46号 2019年10月                        

 

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芸術座公演の「悲しき玩具」(1962年10月)パンフレット、スタッフ・キャストには懐かしい名前。ハイシーは、我が家の薬局でもよく売れた栄養剤であった

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額縁に入った映画「長崎の鐘」のポスターを見つけて拝借。キャストにも懐かしい名前が並ぶ。左端には、音楽古関裕而の名はあるが、主題歌藤山一郎の文字は見当たらない。なお、脚本には、新藤兼人、橋田スガ子(寿賀子)の名前が読める

 

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「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(7)

  前述のように、敗戦直後、古関の活動は、菊田一夫とのコンビで、NHKのラジオドラマ「山から来た男」「鐘の鳴る丘」により再開する。「鐘の鳴る丘」の制作は、占領軍GHQの戦災孤児対策の一環としての要請であった。古関は、その主題歌の「とんがり帽子」とドラマの音楽を担当した。そして、「鐘の鳴る丘」は、私の小学生時代、リアルタイムで聞き続けた番組であったことはすでに述べた。

  その後、古関の放送界やレコード業界、演劇界での作曲活動には、華々しいものがある。古関のメロディーは、敗戦後の人々の心をとらえ、1960年代から70年代にかけては、東京オリンピック、札幌冬季オリンピックの行進曲や讃歌などによって、日本経済の高度成長期の人々の士気を高め、ときには、テレビや映画、舞台から流れるメロディーが人々の心を癒したかもしれない。すでに、紹介、引用している歌もあるが、戦時下にあっては、つぎのような歌詞の曲が盛んに流され、多くの人々に歌われた。そして、このような歌に見送られて出征し、このような歌を歌って戦場に果てた兵士たちが数え切れず、餓死や病死していった兵士が圧倒的に多いのだ。戦場には慰安婦たちもいただろう。銃後では、夫や息子のいない留守宅で頑張る妻や母もいただろう。さらに、最近こんなことも知った。植民地下の朝鮮の国民学校卒業前の少女たちを甘い言葉で募集し、いわゆる女子挺身隊として、内地、不二越の富山工場で労働を強いられていた。その少女たちが、いま年老いても、「君が代」を毎朝歌い、「勝って来ると勇ましく・・・」と歌って行進していたと証言していた。歌詞も間違いの少ない日本語で歌っていたのだ(TBS「報道特集」2020年6月13日、チューリップテレビの取材)。

  しかし、自伝や評伝を読んでいても、古関の戦時下の作曲活動が、軍部や新聞・雑誌・放送局・レコード会社の要請をそのままに受け入れていた事実に対して、多くを語らない。シリーズ記事の(6)で引いた評伝の執筆者や遺族の言葉からの聞こえてくるメッセージは以下のようなものであった。刑部は、古関の作曲になる「長崎の鐘」「フランチェスカの鐘」「ニコライの鐘」「みおつくしの鐘」など、多くのヒット曲に「鐘」が鳴り響くのは「かつて自分が作った戦時歌謡に送られて死んでいった人たちへの鎮魂と、生き残った人たちに対して、明るい希望を与えたいという想いが込められているように思えてならない」ともいう(刑部⑥184頁)。辻田は「古関の歩みとは昭和の歴史であり、政治、経済、軍事の各方面でよくも悪くも暴れまわった日本の黄金時代の記録であった。それゆえ、その生涯と作品は、音楽史やレコードファンの垣根を超えて、今後も広く参照され続けるだろう。昭和は古関裕而の時代でもあった」と総括する(辻田⑦291頁)。いずれにしても、いまとなっては開催も危ぶまれる「東京オリンピック2020」にあやかったNHK朝ドラ「エール」に便乗しての出版であるから、当然といえば当然なのだが、両者とも、貴重な資料や証言を入手した上での総括にしては、あまりにも、軽くて迎合的ではなかったか。とくに「よくも悪くも暴れまわった日本の黄金時代」と言い切れる認識には、執筆者世代の受けてきたと思われる日本の近現代史教育の影が如実に反映しているように思われた。(続く)

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露営の歌(1937年 薮内 喜一郎)から

勝って来るぞと 勇ましく/ちかって故郷(くに)を 出たからは
手柄たてずに 死なりょうか/進軍ラッパ 聴くたびに
瞼に浮かぶ 旗の波

土も草木も 火と燃える/果てなき曠野 踏みわけて
進む日の丸 鉄兜/馬のたてがみ なでながら
明日(あす)の命を 誰が知る

思えば今日の 戦闘(たたかい)に/ 朱(あけ)に染まって にっこりと
笑って死んだ 戦友が/ 天皇陛下 万歳と
残した声が 忘らりょか

愛国の花 (1938年 福田正夫)から

真白き富士の けだかさを/こころの強い 楯(たて)として
御国(みくに)につくす 女等(ら)は/輝く御代の やま桜
地に咲き匂う 国の花  

暁に祈る(1940年 野村俊夫)から

あああの顔で あの声で/手柄頼むと 妻や子が
ちぎれる程に 振った旗/遠い雲間に また浮かぶ

ああ傷ついた この馬と/飲まず食わずの 日も三日
捧げた生命 これまでと/月の光で 走り書き

あああの山も この川も/赤い忠義の 血がにじむ
故国(くに)まで届け 暁に/あげる興亜の この凱歌

若鷲の歌(1943年 西条八十)から

若い血潮の 予科練の/七つボタンは 桜に錨今日も飛ぶ飛ぶ 

霞ヶ浦にゃ/でっかい希望の 雲が湧く
*
仰ぐ先輩 予科練の/手柄聞くたび 血潮が疼く

ぐんと練れ練れ 攻撃精神/大和魂にゃ 敵はない

嗚呼神風特別攻撃隊(1944年 野村俊夫)から 

無念の歯噛み堪えつつ/待ちに待ちたる決戦ぞ

今こそ敵を屠らんと/奮い立ちたる若桜

この一戦に勝たざれば/祖国の行く手いかならん

撃滅せよの命受けし/神風特別攻撃隊

熱涙伝う顔上げて/勲を偲ぶ国の民

永久に忘れじその名こそ/神風特別攻撃隊

神風特別攻撃隊

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