2020年6月17日 (水)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(8)

短歌の歌謡曲と朗読と

 古関裕而について書き続けていると、キリもなく、伝えたいことは、満載なのだが、もうこの辺で終わりにしたい。なお、今回の作業で、興味深い一件があった。というのは、古関が有名な歌人の短歌に曲をつけて、レコード化していたことだった。

 一つは、敗戦まもない、1947年3月放送のラジオドラマ「音楽五人男」の主題歌として、藤山一郎が歌った「白鳥の歌」である。これは若山牧水の「白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ」に曲をつけたものである。その後、47年6月3日公開の映画『音楽五人男』(東宝、小田基義監督)では、「夢淡き東京」(サトウ・ハチロー作詞/藤山一郎・小夜福子)などの主題歌とともに挿入歌として「白鳥の歌」(藤山一郎・松田トシ)歌われたのは、「幾山河越えさり行かばさびしさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」「いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐うるや」の2首も加えられた3首で、レコードにもなった。当時にあっても愛唱性の高い人気の3首であったのだろう。

 一つは、芸術座公演「悲しき玩具」(1962年10月5日~27日、菊田一夫作・演出)の舞台で流された伊藤久男による石川啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」を含む17首で、同年LP盤で発売されている。短歌を選んだのは菊田で、作曲者の古関ではなかったらしい。古関は、短歌は、短すぎて曲がつけにくいと漏らしていたそうだが、17首の中の何首かの第五句が繰り返されている。実際の舞台ではどのように流されていたかはわからないのだが、ネット上で聴くかぎり、30分近くかかり、一首一首のつながりがなく、似たような間奏で歌い継がれるのだが、気分的にも盛り上がりがないように思えた。ただ古関裕而自身は、この「白鳥の歌」が自信作であったらしい(辻田⑦219頁)

 もう1件は、長崎医科大学で放射線医学を専門とする永井隆は、自らの白血病とも闘いながら、原爆の被災地長崎と原爆症患者たちの治療にあたる様子を記したエッセイ集『長崎の鐘』(日比谷出版社 1949年1月)にまつわる短歌だった。この書をモチーフに、サトウ・ハチローが作詞し、古関作曲の1949年7月に発売した「長崎の鐘」(藤山一郎)に感銘を受けた永井から、返礼として、つぎの2首が届けられたという。

・新しき朝の光りのさしそむる荒野に響け長崎の鐘
・原子野に立ち残りたる悲しみの聖母の像に苔つきにけり

それに曲をつけたものが「新しい朝の」であった。1950年9月22日に公開された映画『長崎の鐘』(松竹、大庭秀雄監督)の主題歌ともなった。ただ、「長崎の鐘」の歌詞も映画の物語も、長崎の原爆投下の経緯と原爆の犠牲者たちの実態に直接対峙することにはならなかった。というのも、前述のようにGHQの検閲下に制作されたものであり、永井の著書出版の経緯にも、大きな制約があった。それと同時に、クリスチャンの永井隆が「浦上への原爆投下による死者は、神の祭壇に供えられる犠牲であり、生き残った被爆者は、浦上を愛するがゆえに苦しみを与えてくださったことに心から感謝しなければならない、それが神の摂理というものである」と繰り返したことで、後の反核運動や多くのカトリック信者や被爆者たちは、その呪縛から逃れられなかったという。GHQによる原爆投下の責任や日本の戦争責任あいまいにし、免責へと連動していったことを思うと、「鎮魂」や「美談」では済まされない問題を内包したのではなかったか。(注)

(注)以下の過去記事も参照いただければと思う
・長崎の原爆投下の責任について~「神の懲罰」と「神の摂理」を考える (2013年5月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/05/post-15f2.html

 なお、今回の古関裕而のシリーズは、とりあえず終える。短歌や詩に音や声を伴ったときに、短歌や詩は、ある種の変貌を遂げるのではないか、音声表現が源流なのかと、考えてきた。かつて、短歌の朗読について、戦時下にあっては、「朗読」が推奨されていたことなどについて、当ブログでも何件か書いている。近くでは、高村光太郎についても、彼の詩が、戦時下で、どのように書かれ、発表され、NHKラジオから「愛国詩」として放送されたかについて言及したことがある。参考までにあげておこう。

 

短歌の森(*)「短歌の「朗読」、音声表現をめぐって」1~4
(初出:短歌の「朗読」、音声表現をめぐって1~11 『ポトナム』2008.3~2009.1)
「短歌の森」は当ブログ画面の左下の「短歌の森」の記事の中からお選びください  

関連文献:「暗愚小傳」は「自省」となりうるのか―中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして 『季論21』 46号 2019年10月                        

 

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芸術座公演の「悲しき玩具」(1962年10月)パンフレット、スタッフ・キャストには懐かしい名前。ハイシーは、我が家の薬局でもよく売れた栄養剤であった

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額縁に入った映画「長崎の鐘」のポスターを見つけて拝借。キャストにも懐かしい名前が並ぶ。左端には、音楽古関裕而の名はあるが、主題歌藤山一郎の文字は見当たらない。なお、脚本には、新藤兼人、橋田スガ子(寿賀子)の名前が読める

 

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「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(7)

  前述のように、敗戦直後、古関の活動は、菊田一夫とのコンビで、NHKのラジオドラマ「山から来た男」「鐘の鳴る丘」により再開する。「鐘の鳴る丘」の制作は、占領軍GHQの戦災孤児対策の一環としての要請であった。古関は、その主題歌の「とんがり帽子」とドラマの音楽を担当した。そして、「鐘の鳴る丘」は、私の小学生時代、リアルタイムで聞き続けた番組であったことはすでに述べた。

  その後、古関の放送界やレコード業界、演劇界での作曲活動には、華々しいものがある。古関のメロディーは、敗戦後の人々の心をとらえ、1960年代から70年代にかけては、東京オリンピック、札幌冬季オリンピックの行進曲や讃歌などによって、日本経済の高度成長期の人々の士気を高め、ときには、テレビや映画、舞台から流れるメロディーが人々の心を癒したかもしれない。すでに、紹介、引用している歌もあるが、戦時下にあっては、つぎのような歌詞の曲が盛んに流され、多くの人々に歌われた。そして、このような歌に見送られて出征し、このような歌を歌って戦場に果てた兵士たちが数え切れず、餓死や病死していった兵士が圧倒的に多いのだ。戦場には慰安婦たちもいただろう。銃後では、夫や息子のいない留守宅で頑張る妻や母もいただろう。さらに、最近こんなことも知った。植民地下の朝鮮の国民学校卒業前の少女たちを甘い言葉で募集し、いわゆる女子挺身隊として、内地、不二越の富山工場で労働を強いられていた。その少女たちが、いま年老いても、「君が代」を毎朝歌い、「勝って来ると勇ましく・・・」と歌って行進していたと証言していた。歌詞も間違いの少ない日本語で歌っていたのだ(TBS「報道特集」2020年6月13日、チューリップテレビの取材)。

  しかし、自伝や評伝を読んでいても、古関の戦時下の作曲活動が、軍部や新聞・雑誌・放送局・レコード会社の要請をそのままに受け入れていた事実に対して、多くを語らない。シリーズ記事の(6)で引いた評伝の執筆者や遺族の言葉からの聞こえてくるメッセージは以下のようなものであった。刑部は、古関の作曲になる「長崎の鐘」「フランチェスカの鐘」「ニコライの鐘」「みおつくしの鐘」など、多くのヒット曲に「鐘」が鳴り響くのは「かつて自分が作った戦時歌謡に送られて死んでいった人たちへの鎮魂と、生き残った人たちに対して、明るい希望を与えたいという想いが込められているように思えてならない」ともいう(刑部⑥184頁)。辻田は「古関の歩みとは昭和の歴史であり、政治、経済、軍事の各方面でよくも悪くも暴れまわった日本の黄金時代の記録であった。それゆえ、その生涯と作品は、音楽史やレコードファンの垣根を超えて、今後も広く参照され続けるだろう。昭和は古関裕而の時代でもあった」と総括する(辻田⑦291頁)。いずれにしても、いまとなっては開催も危ぶまれる「東京オリンピック2020」にあやかったNHK朝ドラ「エール」に便乗しての出版であるから、当然といえば当然なのだが、両者とも、貴重な資料や証言を入手した上での総括にしては、あまりにも、軽くて迎合的ではなかったか。とくに「よくも悪くも暴れまわった日本の黄金時代」と言い切れる認識には、執筆者世代の受けてきたと思われる日本の近現代史教育の影が如実に反映しているように思われた。(続く)

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露営の歌(1937年 薮内 喜一郎)から

勝って来るぞと 勇ましく/ちかって故郷(くに)を 出たからは
手柄たてずに 死なりょうか/進軍ラッパ 聴くたびに
瞼に浮かぶ 旗の波

土も草木も 火と燃える/果てなき曠野 踏みわけて
進む日の丸 鉄兜/馬のたてがみ なでながら
明日(あす)の命を 誰が知る

思えば今日の 戦闘(たたかい)に/ 朱(あけ)に染まって にっこりと
笑って死んだ 戦友が/ 天皇陛下 万歳と
残した声が 忘らりょか

愛国の花 (1938年 福田正夫)から

真白き富士の けだかさを/こころの強い 楯(たて)として
御国(みくに)につくす 女等(ら)は/輝く御代の やま桜
地に咲き匂う 国の花  

暁に祈る(1940年 野村俊夫)から

あああの顔で あの声で/手柄頼むと 妻や子が
ちぎれる程に 振った旗/遠い雲間に また浮かぶ

ああ傷ついた この馬と/飲まず食わずの 日も三日
捧げた生命 これまでと/月の光で 走り書き

あああの山も この川も/赤い忠義の 血がにじむ
故国(くに)まで届け 暁に/あげる興亜の この凱歌

若鷲の歌(1943年 西条八十)から

若い血潮の 予科練の/七つボタンは 桜に錨今日も飛ぶ飛ぶ 

霞ヶ浦にゃ/でっかい希望の 雲が湧く
*
仰ぐ先輩 予科練の/手柄聞くたび 血潮が疼く

ぐんと練れ練れ 攻撃精神/大和魂にゃ 敵はない

嗚呼神風特別攻撃隊(1944年 野村俊夫)から 

無念の歯噛み堪えつつ/待ちに待ちたる決戦ぞ

今こそ敵を屠らんと/奮い立ちたる若桜

この一戦に勝たざれば/祖国の行く手いかならん

撃滅せよの命受けし/神風特別攻撃隊

熱涙伝う顔上げて/勲を偲ぶ国の民

永久に忘れじその名こそ/神風特別攻撃隊

神風特別攻撃隊

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2020年6月13日 (土)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くか(6)

NHKと戦時歌謡、その果たした役割  

  1941年、情報局は、12月8日開戦3日前の12月5日に「国内放送非常体制要綱」を決定、番組編成の基本方針は、他のマス・メディアと同様、「戦況報道」と「世論指導」を二つの柱として、人心の安定、国民士気の高揚をはかることであった。番組の企画・編成・内容は、情報局主導の会議で決めるようになった(『日本放送史』上522頁)。大本営発表の「戦況報道」と「世論指導」、この頃のNHKのニュース、そのものではないのか。たとえば、夜7時の「ニュース7」と「ニュースウオッチ」を見ていると、その政府広報ぶりと項目選択と時間配分は、中立・公正どころか、世論操作そのものであり、いろいろ問題はあるものの、民放の報道番組と比べてみると一目瞭然である。政府に都合の悪いニュースは伝えないか、なるべく手短に伝えるので、わかりやすいといえばわかりやすい。その上、水面下でも、政府からの圧力やNHKからの忖度が日常化しているような事件がときどき露わになる。戦時下のNHKの在り様が重なって見えてくるではないか。現代のNHKの政治報道の偏向を目の当たりにしている多くの視聴者も、すでに気づいているはずである。
  これまで、私は、朝ドラと大河ドラマは、よほどの必要がなければ見ない。今回は6月に入ってからは見るようにしているが、どうもNHKと脚本家は、いつものことながら、やはり大きな間違いをしているのではないかと思う。大河ドラマ「坂の上の雲」の時もそうだったが、歴史上の人物をモデルにしていることを喧伝しながら、史実や人物の伝記的事実を、大きくゆがめて、というより、都合の良い部分をつまみ食いしながら、ときには「捏造」し、物語をもりあげる?ということをする。今回の「エール」でも、私が見た限り、仄聞する範囲でも、かなりひどい。
  最近見た中で、一例をあげる。高橋掬太郎作詞による古関裕而作曲「船頭可愛いや」が、レコード会社も苦労して、音丸という歌い手を押し立てて売り出し、ヒットしたのは1935年だったが、ドラマでは、そのレコードは売れ残り、オペラ歌手の三浦環をモデルとする人物が歌ったところレコードが飛ぶように売れてヒットしたことになっていた。音丸はあの世から悔しがっているだろうし、実際、三浦環がカバーしたのは、その数年後の1939年だったのである。三浦は、1935年には、まだドイツにいた頃で、ありえない「物語」になっていた。実在の人物の名前を、名当てゲームのようなノリで、似た名前を付けて登場させ、事実とは離れた話でつないでいく手法が、あちこちで見られたようだ。遺族の方が了解しているのかもしれないが、NHKに協力している研究者もいるなかで、私などは、見るたびに「違うだろう」と突っ込みたくもなる。

  そういえば、昨秋2019年、すでに「エール」の撮影が始まってから、脚本家林宏司の途中降板報道を思い出した。フジテレビのドラマでの活躍目覚ましい、NHKの「ハゲタカ」も手掛けた脚本家で、覚えていた。スタッフとの確執があったのではとも報じられていたが、いまの「エール」の制作姿勢をみると、納得する部分もある。主人公の窪田正孝の演技の設定からして、ドタバタのようにも見えてしまう。セリフが正しい福島弁なのかは不明だが、とにかくわかりづらい。工夫はないものなのか。

  1941年12月8日を境にして、レコード業界も放送―日本放送協会も一変した。というより、言論統制が一層明確になった。両者において、軍部とメディアとの一体化しが顕著となり、「戦時歌謡」が氾濫した中で、古関裕而の足跡をたどってみたい。もはや「公募」しているいとまなく、NHKは、12月8日夜から「ニュース歌謡」という番組を随時放送するようになった。未完ながらつぎのような表ができた。
  なお、下の表は、図表の上でクリックしていただくと拡大されるので、ぜひご覧ください。苦労して作成したが、間違いがあればご教示ください。

 

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  前述のように、退廃的な歌謡曲を、健全なものにしようと日本放送協会が力を入れたのが、1936年6月1日、大阪中央放送局から始まった「国民歌謡」だった。島崎藤村「椰子の実」(大中寅二作曲)、土岐善麿・佐佐木信綱・与謝野晶子らによる「新鉄道唱歌」(堀内敬三作曲)などを送り出したが、1937年7月7日盧溝橋事件を境に、歌も戦時色が色濃くなって、「愛国行進曲」(森川幸三作詞/瀬戸口藤吉作曲)「海行かば」(大伴家持作詞/信時潔作曲)などが放送されるようになり、紀元2600年を経て、1941年2月14日、「国民歌謡」は「われらのうた」と改称される。さらに、一年後の1942年2月8日には「国民合唱」に改められた。

  表に見るように、NHK「ニュース歌謡」は「宣戦布告」に始まり、翌年の3月31日まで続いた。「英国東洋艦隊壊滅」などは、ニュース放送の直後の数時間で制作・発表したという即興的なものであった。NHKで、歌謡曲関係を仕切っていたという丸山鉄男は、政治学者の丸山真男の兄であったこともよく知られるところである。 古関は、この41年12月には、作詞の野村俊夫とのコンビで、「新世紀の歌」(伊藤久男・二葉あき子)「新生の歌」(コロムビア合唱団)「東洋の舞姫」(渡辺はま子)「新しい道」(伊藤久男)を作曲、レコードを発売している。いずれもまだ、私は聴いてはいないが、想像がつきそうだ。

  古関は、翌1942年10月から翌年2月まで、NHKの南方占領地区慰問団に参加していた。すでに、1938年9月には中支派遣軍報道部の命により、飯田信夫、西條八十、佐伯孝夫らと従軍してはいるが、南方では様々な体験をしている。慰問の途中でも、南方軍報道部の依頼で2曲を作曲している。また、1943年4月下旬から8月にかけても、大本営陸軍報道部からインパール作戦に従軍せよとの命で火野葦平、向井潤吉、朝日新聞記者らとラングーンに向かう。ビルマでは、「ビルマ国軍行進曲」「ビルマ国独立一周年歌」とか各地の部隊歌などの作曲の依頼があり、引き受けている。そのころインパールでは死闘の行進の末、敗退した。帰路のサイゴンでは、母危篤の知らせを受けるも、現地の要請で「仏印派遣軍の歌」などを提供している。これらの現地での曲はレコード化には至っていない。

  古関は、コロムビア専属であったから、上記の表のレコード発売年月は、すべてコロムビアから発売であった。が、一つ例外なのは、「ラバウル海軍航空隊」で、NHKの企画で、作詞はビクター専属の佐伯孝夫であった。出来上がった歌は、43年11月18日が初放送で、歌唱は内田栄一と佐々木成子、古関が指揮をした。その後も何度か放送されたが、その都度、歌い手が変わっている。翌年の1月に出たレコードは、ビクター専属の灰田勝彦が歌っているが、これがかなりヒットしたらしい(⑥118頁)。なお、44年10月に初めて放送された「嗚呼神風特別攻撃隊」は、「神風特別攻撃隊の歌」と改題してレコードとなっている。NHKの「国民合唱」で、放送後レコード化するケースが多いのがわかるだろう。この時代になると、「公募歌」は少なくなり、古関への作曲依頼も、佐藤惣之助、西條八十、大木淳夫などのベテラン作詞家とのコンビが多くなる。

  こうして、軍部、そしてNHK及び新聞社などの要請に、応え続けて大量生産された古関の「戦時歌謡」について、評伝執筆者の一人辻田は、「特別攻撃隊『斬込隊』」、「ほまれの海軍志願兵」に至るまでを「最後の最後まで古関の軍歌を発信し、ともに必勝を叫んだのはNHKだった」(⑦195頁)と記す。とくに「比島決戦の歌」については、古関自身、後に「とってもいやな歌」と語り、東京で敗戦を知って、福島に疎開している家族のもとに戻る車中で「みずからの軍歌の作曲者であったことも、いささか気にならないではなかった」と心中を推し量っていた(⑦202頁)。もう一人の執筆者、刑部は、「自分は戦争によって作曲家として活躍する機会に恵まれた。一方で自分が書いた歌を大衆が支持し、その歌で戦場に送られ、多くの若者たちが死んでいった。そのような矛盾する状況を、古関は終生背負うこととなった」と戦時下の活動を総括する(⑥138頁)。また、古関の長男正裕は、「父は『戦時歌謡』と言っていました。軍に依頼されて作った曲というのはほとんどなく、多くは新聞社や映画会社からの依頼で作った曲なんです」とも語っている(菊池秀一『古関裕而・金子 その言葉と人生』 宝島社 1920年3月、44頁)。

  これまで見て来たように、少なくとも、遺族の方のことばには疑問符がつく。文化統制には、軍部が直接関与する場合もあるが、マスメデイアは、軍部や政府の「指導」を受け、あるいは「依頼」「要請」を受ける形をとるが、「命令」に近い実態であった。刑部、辻田のいうように、古関自身がみずからの戦時下の活動について語っているわけではない。次回は、敗戦後に間断なく続く活動のなかで、古関の戦争責任、戦後責任について触れてみたい。(続く)

<おまけ>

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 かなり汚れ切ったというか、劣化したハンカチの一部である。タンスの端っこの小さな袋の中にあった。左のサイン読めますか。傍らの「二九・六・三」は昭和の日付だ。それからすると私が中学生の頃の、最初にして最後の有名人のサインである。どこでもらったものかはっきりしない。もしかしたら、小学生の頃、島田舞踊(島田豊主催)の池袋教室に通っていたので、その発表会に出かけた折のアトラクションのゲストではなかったかと思う。会場はよみうりホール?どこかの大学の講堂のようなところ?だったような気がする。正解は、記事の表にある、「ラバウル海軍航空隊」の歌い手さんである。

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2020年6月 9日 (火)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(5)「公募歌」という国策とメディアの一体化

   古関裕而の作曲歴から、天皇関連というか、天皇とのかかわりをみてみよう。古関裕而が福島商業学校を卒業後、地元の川俣銀行に勤める傍ら、「御大典奉祝行進曲」を作曲している。1928年(昭和3年)11月10日、京都御所で行われたが、それに先立った5月27日福島公会堂で、この曲は演奏され、さらに式典後の11月、福島商業学校の「御大典奉祝音楽会」でも演奏された(⑥12~13頁)。1930年、内山金子と文通が実って結婚、上京、コロムビアの専属作曲家となって、翌年6月、「福島行進曲」(野村俊夫作詞)「福島小夜曲」(竹久夢二作詞)によりレコードデビューを果たし、縁あって早稲田大学応援歌の「紺碧の空」を作曲、レコード化もされたが、いずれもヒットしたわけではなかった。

  当時、レコード会社はいわゆる「時局歌謡」とも呼ぶべき、社会的な事件、大きな軍事行動や兵士の活躍の報道に連動した歌謡曲を、競うようにレコード化を進めた。古関もコロムビア専属作曲家として、1931年9月18日、柳条湖での関東軍による鉄道爆破で始まる「満州事変」をテーマに12月には「満州征旅の歌」(桜井忠温作詞)、1932年1月には「我らの満州」(西岡水朗作詞)、同年4月には、朝日新聞が歌詞を公募した一つ「肉弾三勇士の歌」(清水恒雄作詞)のレコードが発売されている。古関にとっての時局歌謡のスタートであったが、ヒットはしなかった。

 その後、作詞家の高橋掬太郎と組んだ「利根の舟唄」(1934年、松平晃)「船頭可愛いや」〈1935年、音丸〉がようやくヒットにこぎつける。ここで古関の作曲には、大きな三つの流れが出来上がってきたのではないか。一つは、スポーツ関連の愛唱歌ないし楽曲であり、一つは、「船頭可愛いや」を源流とするいわゆる歌謡曲であり、一つは「時局歌謡」ではなかったか。スポーツ関連では、1936年に「阪神タイガースの歌」(六甲おろしが)が発表されたが、以降は、戦局が厳しい中、もはやスポーツの応援歌どころではなくなっていく。

 やがて、戦前の「時局歌謡」が、大本営発表による戦局報道に基づく作詞に添っての作曲で成り立つ「戦時」歌謡一色になってゆく様相は、すでに、このシリーズ記事の2回目に概観している。

 軍事行動は、旧憲法下では、建前としてすべて統帥権を持つ「天皇の命令」であり、兵士たちの活動は、すべて「天皇のため」であったから、「戦時」歌謡の底流には、天皇制が厳として存在していたことはあきらかである。だから、作詞・作曲が軍部や情報局からの要請でなされていたことは、他の文芸、文化活動に対してと同様であったし、それに反する表現活動や行動は、法律上きびしく監視されていたし、取締まり対象となっていた。が、とくに「戦時」歌謡については、新聞社やNHKなどのメディアが企画、歌詞の公募という形をとるものも多くなった。(④櫻本富雄『歌と戦争』34~38頁、55~58頁)の公募歌のリストと「主な軍国歌謡・愛国歌謡の公募イベント」(中野敏男『詩歌と戦争』NHK出版 2012年、230頁)の二つのリストと、これまで紹介の文献を参考に、散見できる古関裕而の曲をまとめた。今回は、1941年12月8日の太平洋戦争が始まるまでをたどってみたい。それ以降は、次回としたい。

 一般に、「公募歌」とは、主として新聞社や雑誌社などが、国策のいわば旗振り役となって、国民の戦意高揚、士気を鼓舞する作詞を公募し、プロの作曲家に作曲を依頼、ラジオ放送やレコードによって、国民への浸透をはかるものであった。そうした公募歌にも、歌われもしないで沈んでしまうものもあったり、思いがけなく流行したり、前線や銃後における国民の間で定着するものも数多くあった。そして当然のことながら、それらの歌詞には、否が応でも「天皇への忠誠」をうたう文言の存在があった。そうした歌詞に添った作曲を続けた一人、古関裕而の記録である。次表は、その一部ではあるが、主なもものを一覧として、若干の背景を記してみた。

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上記の表をクリックすると拡大されます。

 

 「肉弾三勇士」は、1932年2月、上海の戦闘において自爆した三兵士の美談が報じられて、すぐに、朝日新聞社は歌詞を公募、入選作の三歌詞を、同時にコロムビアからレコード化した。後の二曲は、中野力作詞・山田耕筰作曲、渡部栄伍作詞・古賀政男作曲となった。また、東京日日・大阪毎日新聞社公募の入選作は、ふたを開けたら与謝野寛(鉄幹)の作で、「爆弾三勇士の歌」(陸軍戸山学校軍楽隊作曲)としてポリドール盤が発売されている。この二つの新聞社の応募歌詞数は、「朝日」が12万4500通、「毎日」が8万4000通を超えている。
 「露営の歌」は、1937年、東京日日・大阪毎日新聞の入選第1席は「進軍の歌」(本多信寿作詞/辻順治作曲/陸軍戸山学校軍楽隊)としてレコード化されたが、人気はむしろ、第2席の古関の作曲のものの方が高く、長く愛唱歌として残ったことになる。「勝って来るぞと勇ましく 誓つて故郷を出たからは 手柄立てずに死なれよか・・・」で始まるが、4番の「笑って死んだ戦友が 天皇陛下万歳と のこした声が忘らりょか」で終わる。1938年には、赤坂小梅ほかの女性歌手だけによるレコードも出されている。「進軍の歌」(佐々木康監督)も「露営の歌」(溝口健二監督)もともに前後して映画された。
 「愛国の花」は、NHKラジオの「国民歌謡」として1937年10月18日~23日まで放送された。レコードは翌年に発売され、1942年11月に公開の映画「愛国の花」(佐佐木啓祐監督)の主題歌となった。「真白き富士のけだかさを 心の強い楯として 御国につくす女等は かがやく御代の山ざくら 地の咲き匂う国の花」では始まり、「銃後」の女性に訴える内容になっている。
 
「国民歌謡」とは、1936年6月1日、大阪中央放送局から、第1回が放送され、「日本よい国」今中楓渓作詞/服部良一作曲、)/奥田良三)であった。この年、すでに、4月29日から前身の番組で、大木敦夫、佐藤惣之助、深尾須磨子らの抒情的な歌謡が放送されていたが、二・二六事件が起こり、阿部定事件という猟奇的な事件も起きる中、「忘れちゃいやよ」(最上洋作詞/細田義勝作曲/渡辺はま子)、「ああそれなのに」(星野貞志(サトウ・ハチロー別名)作詞/古賀政男作曲/美ち奴)などの歌が流行っていたさなか、歌謡曲浄化、家庭でみんなが歌える歌をというのが主旨だったか。1941年2月12日には、「国民歌謡」は「われらのうた」へと改称され、同時に「特別講演の時間」は「政府の時間」へ、「戦況日報」は「軍事報道」へと改称され、放送の軍事色は一層強化されることになる。その後のこの番組については次回に譲る。

 「婦人愛国の歌」は、1938年4月1日「国家総動員法」の公布を受けて、『主婦之友』4月号で菊池寛、西條八十、瀬戸口藤吉、吉屋信子、松島慶三(海軍中佐)を選者として公募し、1万7828通の入選作の中から二等のものを古関が作曲した。内務省・文部省・陸軍省・海軍省・国防婦人会・愛国婦人会。国民精神総動員中央連盟が後援となっていた。歌詞の一番は次のようにはじまるが、四番は、「御稜威に勇む皇軍の 銃後を守るわたしたち その栄光に日本の 婦人は強く立ちました」であった。作者は22歳の主婦だった。

抱いた坊やのちさい手に 手を持ち添へて出征の 
あなたに振つた紙の旗  その旗かげで日本の
妻の覚悟は出来ました

 なお、一等の上條操作詞の一番は「皇御国の日の本に 女と生まれおひ立ちし 乙女は妻は母は みな一すじ丈夫の 銃後を守り花と咲く」というもので、28歳の保母であった。歌詞の硬軟?によって、作曲者を選んだものか、一等入選作の作曲は、選者でもあった「軍艦マーチ」(1900年)、「愛国行進曲」(1937年)で著名な、元海軍軍楽隊のベテラン瀬戸口であった。

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『主婦之友』1938年6月号の「婦人愛国の歌」当選発表の記事

 

 「銃後県民の歌」は、1939年、福島民報社が懸賞募集をした当選作で、同社は、併せて「郷土部隊進軍歌」(野村俊夫作詞/霧島昇)もレコード化した。古関の地元、福島への思いを込めた曲であったろうが、彼の場合は、依頼があれば、どこへでも、その「ご当地ソング」を作り続けたし、社歌、校歌、団体歌は数限りないことは前述の通りである。 
 「満州鉄道唱歌」(藤晃太郎作詞/霧島昇・松原操・松平晃)は、1939年3月、満鉄鉄道総局旅客課企画公募、満州新聞社後援。古関は、1939年7月に選者・作曲者として満州旅行に出かけているが、まさに満蒙国境では日ソ軍の激闘が続くノモンハン事件のさなかであった。
 
「暁に祈る」は、「露営の歌」と並ぶ戦前の古関のヒット曲で、テーマが「馬」でありながら、馬を伴う兵士の死と向かう歌詞が身近にも思われたのだろうか、愛唱歌となったという。 40年4月公開の映画「征戦愛馬譜 暁に祈る」(松竹 佐佐木康監督)の主題歌となった。 
 
「嗚呼北白川宮殿下」は、「国民歌謡」として、1940年12月9日~13日まで放送されたが、これに先だって、40年11月17日華族会館で発表会が行われている。ここで歌われている北白川永久は、40年9月4日、軍務で滞在していた上海の飛行場で事故死したが、戦死として大きく報道された。作詞の二荒は、永久の大叔父にあたるという。
 
「海の進軍」は、読売新聞社が海軍省、情報局、大政翼賛会の後援で「海国魂の歌」と題して公募している。「菊の御紋のかげ映す固い守りの太平洋・・・」「御稜威かがやく大空に・・・」の文言とともに「進む皇国の海軍の晴れの姿に栄あれ」で結ばれている。

 なお、公募歌ではないが、1937年、38年、39年の宮中歌会始の御題、それぞれ「田家雪(でんかのゆき)」「神苑朝(しんえんのあした)」「朝暘映島(ちょうようしまにうつる)」と題し、西條八十作詞の曲も作られていたことも記憶にとどめておきたい。ストレートな天皇制への傾斜とともに、歌会始における題詠による短歌とテーマを与えられて作詞・作曲をする歌謡曲とに共通する限界が見いだされるのではないか。

 今回の作業には、下記の国立国会図書館の「歴史的音源」のリストと辻田真佐憲による紹介も参考にした。

国立国会図書館歴史的音源<古関裕而>(386件)
https://rekion.dl.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E5%8F%A4%E9%96%A2%E8%A3%95%E8%80%8C&viewRestricted=1

辻田真佐憲「商品だった<時局歌謡>」https://rekion.dl.ndl.go.jp/ja/ongen_shoukai_15.html

(続く

 

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2020年6月 4日 (木)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝どれ「エール」は戦時歌謡をどう描くのっか(4)誰にでもエールを送る人は

   私の育った家は、スポーツとはほぼ無縁だったといっていい。観戦したり、ラジオやテレビを視聴したりする習慣はほとんどなかった。休業日もなく、両親や長兄は店で働いていたし、スポーツは別世界のことに思えた。1964年の東京五輪の際も、およそどの種目も勝敗はどうでもよかったし、日の丸が掲げられるのを見るのも好きではなかった。私たちの世代は、小中高校の行事で国旗掲揚や君が代斉唱はなかったし、「道徳」の時間もなかった時代の教育を受けている。日の丸も君が代も、好きではないというより、いまでは嫌悪感を覚える。もし、スポーツでの勝負や記録を競うなら、チームや選手個人が単位であって、なぜ国を挙げて戦わねばならないのか。大きい国もあるし小さい国もある。日の丸を背負うとか、いい色のメダルを目指すとかいう選手のコメントを聞いていると、二位ではダメなの?と問いたくなり、健全なスポーツ精神とがなかなか結びつかない。チームに外国人はいるし、海外で指導を受けたり練習したりする選手も多いし、選手の出自も多様となった現代、スポーツにとって<国>はどれほど意味があるのだろうか。
 だから、私は、今回の東京五輪招致には反対であったし、ほかにやることが先にあるだろう、という思いだった。原発事故被害が懸念される中、安倍首相は、IOCのプレゼンで<アンダーコントロール>されているとウソを述べたことに始まり、新国立競技場の設計コンペの予算オーバーでのやり直し、入選エンブレム盗作疑惑によるやり直し、幹部の招致汚職疑惑などJOCの不祥事が続き、いくつかのスポーツ団体での暴力事件やパワハラ疑惑なども問題となった。いずれも、中途半端な収束が続いた。そして、今回の新型コロナウイルス感染拡大による「2020年東京オリンピック」の一年延期である。首相がいう「新型コロナウイルスに打ち勝った証として」の開催も、もはや不可能なのではないか。 

 前置きが長くなったが、古関裕而は、いわば作曲家としてクローズアップされた、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」(住治男作詞 1931年)に始まり、戦前・戦後を通して、スポーツ音楽、校歌、社歌など、選手、児童・生徒・学生、働く人たちを応援する作曲を数多く手掛けている。NHKの「エール」という題名も、ここに由来するのだろう。ここでは、スポーツ音楽に限ってたどってみよう。「日米野球行進曲」(久米正雄作詞 読売新聞社主催日米野球開催に際して米チーム歓迎の曲/コロンビア合唱団)に続き、主なものをあげてみる。この表の作成が、案外厄介で、⑤⑥の「作曲一覧」で、不明なものは、他の情報で補った個所もある。解説はあっても発表年やレコード発売年月の記述がないもの、歌い手、演奏者が不明なものもある。間違いがあればご教示いただきたい。
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 スポーツ関連の楽曲は数多いが、上記の表で見るように、早稲田大学のと慶應義塾大学の応援歌を共に引き受け、巨人ジャイアンツ、阪神タイガース、中日ドラゴンズの応援歌を共に引き受けている点で、依頼があれば拒まず、といった姿勢である。大学の応援歌は、他にも明治大学、中央大学、東京農業大学、名城大学などがある。校歌・社歌はじめ団体歌も自衛隊、日本赤十字社、仏教、新興宗教に至るまで、さまざまなのである。誰にでも、どこへでも、エールを送る人は、「いい人」なのだろうか。

今回の作業のさなかに注文をしておいた次の本が手に入った。

⑦辻田真佐憲『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』 文芸春秋 2020年3月

 この著者の本は、初めてなのだが、少し前に、ネット上で見つけたいくつかのエッセイなどは、時期を得た、鋭い指摘と知見には関心を寄せていた。かなりマニアックなほどの資料探索は、若い人には珍しいとも思っていた。とくに、1964年の東京オリンピックについては、改めていろいろ知ることが多かった。そんなこともあって、この本では、古関裕而とスポーツ音楽をどうとらえているかには深い関心を寄せていたのだが、一冊を通読しての感想は、ずいぶんとマイルドな書きぶりになっていると、まず感じた。

<参考>辻田真佐憲執筆
<ジセダイ総研>

20160823 更新

オリンピックの熱狂と「転向」する文学者たち 2020年われわれは冷静でいられるか

20160721 更新

多くの国民が無関心だった? 1964年のオリンピックはこんなにもダメだった

 なお、Wezzyというwebマガジンのインタビュー〈2020年5月9日〉では、「『エール』では「軍歌の覇王」としてのエピソードをどのように描くと思われますか」については、古関にとって重要な「軍歌だけでなく、彼はアジア太平洋戦争下には、その日の戦果をすぐ歌にして放送する「ニュース歌謡」というジャンルの作曲も手がけています。そういった歌はNHKラジオで放送されていました。つまり、古関の軍歌にはNHKも深く関わっているわけですよね。ドラマで戦争とNHKの関係を全スルーというのは、やはり難しいと思います」とも、語っている。また、「メディアや芸術家が国策に丸乗りした結果、社会になにがもたらされるかということについて歴史には学ぶべき例がたくさんあるわけですが、古関の過去もそのひとつだ」とし、「生活のために日々のお金は稼がなくてはならないわけですけどそのなかで政治とどう距離を保っていくか。そのバランス感覚の問題ですよね。身につまされる話です」とも。

 また、本書の末尾で、古関が「流行歌のヒットメーカーになり、軍歌の覇王になり、そして大衆音楽のよろず屋となった」要素として、二つのねじれをあげている。一つは若い時からのクラシック願望による「芸術志向と商業主義のねじれ」であり、一つは「ノンポリゆえにかえってどんな政治的音楽でも自由自在に作れるというねじれ」であったとする。前者が多様な楽曲を生んだ要素となり得たかもしれないが、後者の「自由自在」とは、何なのだろう。私が言い換えるとすれば、表現する者の「無節操」「無責任」の極みにも取れてしまう。

 ⑦の著者も、⑥刑部『古関裕而』と同様、古関の遺族、古関裕而記念館、日本コロムビアからの資料提供を受けている。とくに遺族への取材や遺族から資料提供を受けている場合は、のちの書きぶりに大きな影響を与えるのはたしかで、それだけでも、客観性において、一つの限界があるように思うからだ。さらに、レコード業界などにも切り込んだデータや記述がある一方で、事実を羅列するのではなく、「物語性」も加味したというのでは、歴史、評伝もののドラマや、ドキュメンタリーにさえ、物語性を入れ込むNHKの手法にも与することになりはしないか。歴史を語るのには、物語性より、事実と資料による明快さが優先されるべきだろう。

 次回は、古関裕而及び新著2冊の著者と天皇制にかかわる部分に言及してみたい。(続く)


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上段は『川田正子・孝子愛唱曲全集』(海沼実撰曲、白眉社 1948年8月)には、41曲が収録されているが、「とんがり帽子」はない。下段は『日本童謡唱歌百曲集改訂版』(加藤省吾編 新興楽譜出版社 1950年11月)には、童謡80曲、文部省唱歌20曲が収められているが、ここにも1947年7月に始まった「鐘の鳴る丘」主題曲の「とんがり帽子」はなかった。前回記事の、歌謡曲集に収められていたということは、「童謡」としては認められていなかったようだ。その辺に何かの事情があったのだろうか。

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2020年5月31日 (日)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(3)

 古関裕而と菊田一夫の出会いに移る前に、近くの書店を回って、入手できた本について書いておきたい。
⑥刑部芳則『古関裕而―流行作曲家と激動の昭和』中央公論新社 2019年11月(2020年3月 3版)

 この本の執筆は、少年時代から古関裕而の大ファンであったことに加えて、NHK朝ドラ「エール」の放送企画が契機となり、古関裕而の遺族、古関裕而記念館学芸員、日本コロムビアなどの協力のもとに始めたと、著者は「あとがき」に記している。そして、「エール」の時代考証を担当することにもなったという。本のオビには「昭和の光と影を歩んだ作曲家の軌跡」とうたわれ、これまで見られなかった史料や既刊の関係雑誌文献や図書を駆使した労作である。同時に、古関への敬慕とオマージュが色濃い書でもあった。私が、まず着目したのは、巻末の「作曲一覧」で、レコード発売作品、映画音楽作品、舞台音楽作品の三つの編年体のリストで、それぞれ、発売年月日、封切り年月日、公演期間と現在の聴取手段が記されている貴重なデータであった。古関を語るには、基本的な資料であり、私の前回、前々回の当ブログ記事を書いている折の疑問が解けたものもあり、データの大切さを知った。

 その一つが、古関裕而記念館の「作曲一覧」で「比島沖の決戦」(西條八十作詞/酒井弘・朝倉春子)の発売年月が敗戦後の1945年12月となっていたことで、記念館に電話で問い合わせたところ、電話口の館長は「論理的におかしいですね。学芸員に伝えます」とのことだった。今回、⑥の「作曲一覧」を見ると、1945年2月20日となっていた。本文の記述によると、1944年12月17日に「比島決戦の歌」がラジオで発表され、以降、いくつかの歌番組で放送されていたが、実際にレコードが発売されたかは不明ともいう(⑥129頁)。これは、④の著者の記憶や推測とも一致する。なお、この「作曲一覧」によれば、1945年2月20日には、「フィリッピン沖の決戦」(藤浦洸作詞/伊藤武雄)も発売されていることになっていて、ラジオでは、1945年1月5日まで放送されていたという(⑥128頁)。また、この本について、は後にも触れることにする。

 さて、古関の生涯、作曲家としての仕事に大きな影響を与えた菊田一夫との出会いは、菊田の脚本によるNHKラジオドラマ「当世五人男」の音楽を担当することになった1937年が最初であったが、戦時下に途絶え、再会するのは、1945年10月28日から7回シリーズのNHKラジオドラマ「山から来た男」であった。そして、「鐘の鳴る丘」(1947年7月5日~1950年12月29日)、「さくらんぼ大将」(1951年1月4日~1952年3月31日)、「君の名は」(1952年4月10日~1954年4月8日)と続くのである。
 私が聴いていた記憶があるのは、前二つで、「君の名は」は、兄たちが「すれ違いだらけのメロドラマだよ」みたいなことを口にしていたのは覚えているが、母も店が忙しい時間帯でもあり、聴いていた姿の記憶はない。銭湯の女湯ががら空きになった、とかの宣伝文句も後に聞いたことはあった。営む店が「平和湯」という銭湯のはす向かいだったので、石鹸やへちま、軽石、アカスリなどのお風呂用品が普通に売れていたが、「がら空き」の件は、もちろん話題にもなっていなかったと思う。当時は、大人の洗髪料金を申し出により?番台で余分に払っていた時代ではなかったか。そもそも料金はいくらだったのかな、など思い出も尽きないのだが。
 当時のラジオ番組で、私が欠かさず聴いていたのは、「鐘の鳴る丘」と「おらあ、三太だ」で始まる「三太物語」(青木茂作)であったと思い、調べてみると、後者の放送期間は1950年4月30日から51年10月28日とあり、「鐘の鳴る丘」「さくらんぼ大将」と一部重なっていることがわかった。

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『全音歌謡傑作集』(全音楽譜出版社 1948年10月 45円)は、私が、建て替え前の実家の物置から持って出た、敗戦直後の数冊の流行歌集のなかで一番古いもの。いわゆる仙花紙なので、どこを触っても崩れそうな、補修もままならない。やや扇情的にも思える表紙絵のこの歌集に「とんがり帽子」が、載っていた。「とんがり帽子」は、レコードでもラジオドラマでも、川田正子が歌っていて、海沼実が指揮する「音羽ゆりかご会」の合唱が入っているはずなのだが、敗戦直後の何冊かの川田孝子・正子の愛唱歌集や童謡集にも、収録されていないのが不思議だったのだが。


 また、当時の記憶に残る番組は、いくつかあるが、7時のニュースの後に始まる「向こう三軒両隣り」(1947年7月1日~53年4月10日)、「朝の訪問」(1948年4月4日~64年4月5日)、「日曜娯楽版」(1947年10月12日~52年6月8日)、日曜の8時からの「音楽の泉」(1949年9月11日~、進行役の初代:堀内敬三)とたどってゆくときりがない。「日曜娯楽版」が、政府の圧力か、いまでいう、NHKの政府への「忖度」で終了したらしいと、次兄などが悔しがっていたのを思い出す。この件は、当時国会でも議論されていて、末尾の「敗戦とラジオ」の記事をご覧いただけたらと思う。

 古関と菊田との仕事の流れを見てみよう。1947年7月にラジオドラマ「鐘の鳴る丘」が始まる前に、菊田一夫の新国劇「長崎」の劇中で歌った歌が、映画「地獄の顔」で渡辺はま子が歌ったのが「雨のオランダ坂」(1947年1月)であり、それに続いたのが「とんがり帽子」だった。二人が映画やらラジオドラマに関係ない歌を作り出そうとできたのが「フランチェスカの鐘」(1949年3月)だった。サトー・ハチロー作詞「長崎の鐘」(1949年6月)、菊田との「イヨマンテの夜」(1950年1月)とヒット曲が続いた古関・菊田は、その後も、1952年に始まった「君の名は」および関連曲のレコードなど、1956年ころまでは、年に4~8曲は発売されるというブームが維持される。同時に、西條八十、サトウ・ハチローらのベテランの作詞家とともに、古関と同郷の野村俊夫、丘灯至夫(十四夫)とのコンビも多くなるとともに、映画音楽の仕事も1950年代の半ばから後半にかけて、年に5本から多いときは13本までに及びピークをなす。そして、菊田との仕事は、1956年から、東京宝塚劇場、梅田コマ劇場、芸術座などを中心に舞台音楽が多くなり、演目は、歴史もの、文芸作品から母物、剣豪もの、喜劇、ミュージカル、外国の翻案ものなど菊田の多種多様な舞台での名コンビぶりを発揮していたようだ。帝国劇場の「風と共に去りぬ」芸術座の「がめつい奴」「がしんたれ」などの大阪もの、「放浪記」などのロングランは、演劇界をにぎわしていたが、私は残念ながら、これらの舞台とは無縁ではあった。1973年、菊田一夫の死去に伴い、古関の舞台音楽も終わり、同時に、1960年代後半になると、テレビの普及、テレビドラマの台頭により、映画自体の流れも大きく変わり、斜陽産業といわれる時代に至り、古関の映画音楽も終息に向かった。

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『歌のアルバム』(全音楽譜出版社 1948年1月)は、12.5×9㎝の横長の小さな歌集で、最終頁に載せられた「雨のオランダ坂」と「夜更けの街」ともに古関・菊田のコンビだが、楽譜はない。左頁の端が切れているが、こんな製本ミスの本も25円で買ったということだろう。裏表紙に父のサインがある。

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同じ『歌のアルバム』から「フランチェスカの鐘」、これには楽譜がついている。どこを開いても崩れそうな・・・。 

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古関とサトウ・ハチローの「長崎の鐘」の歌詞はもっぱら長崎原爆投下の犠牲者の鎮魂をうたっているが、元になった、永井隆の『長崎の鐘』(1941年1月)は、GHQの検閲下、半分近くの頁を日本軍のマニラにおけるキリスト教徒虐殺の記録「マニラの悲劇」付録とするものであった。この著書はじめ、永井は「浦上への原爆投下による死者は神の祭壇に供えられた犠牲で、生き残った被爆者は苦しみを与えてくださったことに感謝しなければならない」と繰り返していた。原爆投下の責任を一切問うことをしていない。「長崎の原爆投下の責任について<神の懲罰>か<神の摂理>を考える」(2013年5月30日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/05/post-15f2.html
も併せてご覧ください


 なお、古関は、ドラマ以外にも、多くのラジオ番組のテーマ曲や主題歌を提供した。最初の農事番組といわれる「早起き鳥」(1948年4月1日~終了日?)の「おはよう、おはよう」で始まる歌やにぎやかなオープニングの「今週の明星」(1950年1月8日~1964年4月2日)、ゆったりとした「ひるのいこい」(1952年11月17日~)「日曜名作座」(1957年7日~2008年3月30日)のテーマ曲が思い起こされる。「日曜名作座」の、後継番組「新日曜名作座」(2008年4月6日~)では、テーマ音楽のみが継承されているとのことである。1960年以降になると、ほとんどラジオを聞かなくなるので、これらのメロディーを耳にすることはなくなった。

次回は、古関裕而とスポーツ、応援歌を中心に、振り返ってみたい。(続く)

当ブログの過去記事もご参照ください。

◇2012年9月26日 
緑陰の読書とはいかないけれど②『詩歌と戦争~白秋と民衆、総力選への「道」』(中野敏男)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/09/post-9cea.html

◇2010年12月2日・3日 
『敗戦とラジオ』再放送(11月7日、夜10時)」を見て(1)(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/12/11710-50ed.html
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/12/11710nhk-960d.html

◇2006年2月17日
書評『歌と戦争』(櫻本富雄著)(『図書新聞』所収)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/02/post_d772.html

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2020年5月24日 (日)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(1)

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「古関裕而生誕110周年記念・あなたが選ぶ古関メロディーベスト30」(福島民報社主催 2019年12月10日~2020年2月7日実施)は、古関裕而の長男正裕氏、日本コロムビアプロデューサー、古関裕而記念館館長が監修した110曲についての投票で、31位以下の曲目と投票数、および110曲の音源一覧は、以下のサイトに詳しい。https://koseki-melody.com/

   この3月30日から始まった、NHKの朝ドラ「エール」のモデルは、古関裕而と喧伝されて久しいが、私は見たことがない。番組の紹介のコーナーhttps://www.nhk.or.jp/yell/、 では、コロナ禍の影響により6月27日までの放送で、ひとまず中止するとのお知らせが出ている。放送分は、各週のあらすじが記されているので、それを読んでいる。今後の放送分の進行で、どこあたりで休止するのかわからないが、たぶん、1940年前後以降は再開時の放映になるのだろうか。古関が、いわゆる「戦時歌謡」を数多く作曲した時代を、ドラマでは、どう描くのかを注視したいところである。いや、敗戦後もアメリカ占領軍の要請で、NHKは、新しい放送番組を次々と放送し始めたのである。あの「鐘の鳴る丘」も、GHQの検閲下において、CIE(民間情報教育局)の”積極的な指導”により成立し得たものだった。(『日本放送史(上) 日本放送協会編刊 1965年 746頁)

 1947、8年ころ、私たち子どもの楽しみといえば、放課後、家の近くで、石けり、缶けり、チヨコレイト、スイライ・カンチョウ、ナワとび、ゴム段などの外遊びとお風呂屋さんの横丁にやってくる紙芝居だった。それでも、夕方になると、5時すぎから始まる「鐘の鳴る丘」のラジオを聞くために、大急ぎで家に戻ったものである。「緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台、鐘が鳴りますキンコンカン、メイメイ小山羊も鳴いてます、風がそよそよ丘の上、黄色いお窓はおいらの家よ・・」のテーマ曲は、歌詞を覚えられない私が、今でも歌えるのだ。 
 「鐘の鳴る丘」は戦争浮浪児の物語なのだが、当時、空襲の焼け跡に建てた、店と六畳一間と台所というバラックに親子五人で住んでいた私などには、「緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台」って、いったいどこにあるのだろう、まさに「あこがれ」にも思え、メルヘンの世界ではなかったか。この誰にも歌える「とんがり帽子」の作曲者が「古関裕而」だと知るのは、だいぶ後のことである。そもそも、このテーマ曲は「鐘の鳴る丘」だとばかり思っていたが、その曲名は「とんがり帽子」だったのである。そして、ハモンドオルガンのオープニングとともに、どこか重々しい語りで「そして、カガミシュウヘイ(加賀美修平)とリュウタ(隆太)は・・・」と物語が進んでゆくのに耳を傾けたが、詳細はすでに忘れている。あのナレーションの主が、巌金四郎であることも後で知る。1947年7月5日から放送は始まったが、そもそも、この番組の構想は、マッカーサーの招へいで日本にやってきたフラナガン神父の助言があったからという〈1950年12月29日まで790回)。こうした事柄を後で知るきっかけが何であったのか定かではないが、私が過去に口すさんだ歌、両親や7歳、14歳違いの兄二人がよく歌っていた歌のルーツ知りたくなったのではないか。私が、社会人になって間もない1965年~1970年ころで、いまもつぎのような本が手元に残っている。

①高橋磌一『流行歌でつづる日本現代史』音楽評論社 1966年10月(第4版)
②朝日新聞社編『東京のうた その心をもとめて』朝日新聞社 1968年8月
③古茂田信男ほか著『日本流行歌史』社会思想社 1970年9月

 さらにその後、私自身が、短歌と天皇制について、戦中・戦後の歌人たちと天皇制との関係について、調べたり書いたりしている中で、戦中・戦後の表現者の戦争責任について実証的に書き続けている櫻本富雄さんの仕事に出会い、その労作の一つがつぎの本だった。古関裕而に多くの頁が割かれていた〈180~197頁〉。

④『歌と戦争 みんな軍歌を歌っていた』アテネ書房 2005年3月(5月に第2版)

 「古関裕而記念館」のホームページによれば、古関は、生涯、5000曲以上もの曲を残している。このホームページの「作曲一覧」では、網羅的ではないらしいが、曲目・作詞家・歌手別に閲覧することができる。

⑤古関裕而作曲一覧
https://www.kosekiyuji-kinenkan.jp/person/composition/song-a.html

 

 

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2019年4月12日 (金)

1960年代、池袋の映画館~こんなチラシが出てきました

 身辺整理が一つも進まない中、映画館のチラシが十数枚出てきた。残念ながら、上映や封切り予定の月日がわかっても「年」がわからないものが多い。チラシに明記されたものだけを選んでみた。市民運動の集会やデモのチラシも同様で、年月を経ると、年の明記がないと、何年のものかがわからない。必要があって、それを知るには、内容から「時代考証」をする手間がかかることになる。それでも特定できない、ということを何度か経験している。それはさておき、2月のテレビ「アド街・昭和の池袋」につられ、下の記事で、1950~60年代の池袋の映画館についても書いたので、あわせてお読みいただければと思う。

私の「195060年代の池袋」ベスト5は~「アド街」を見て(2019年218)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/02/post-0013.html

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1964年9月上旬号とある恵通チェーンの冊子で、1頁が池袋劇場で、2頁新宿座は武智鉄二の「紅閨夢」と「のぞかれた美女」「痴情の家」の三本立て、3頁新宿地球座は「座頭市シリーズ大会」、4頁新宿名画座、渋谷日活地球座のいずれも3本立ての上映案内だった。
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人世坐系列の1965年8月の上映スケジュールである。池袋の人世坐、文芸坐、文芸地下、弁天坐というのは、東上線板橋駅前にあったが、私は入ったことはない。このころは「サンカ」小説の三角寛(1903~1971)の経営だったことでも知られ、「人生」ではなく「人世」、「座」ではなく「坐」に文士のこだわりがあったのだろうか。「人間の条件」の「終夜興行」といわれても・・・、結局「人間の条件」は見ることがなかった。第6部までの全巻で夜の10時
30分から翌朝の8時まで、入場料は200円とある。
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池袋大映劇場のチラシだが、年号の記載がないが、1966年秋の封切り予告ではないか。キャストは拡大してみてほしい。そうそうたるメンバーである。主演の田宮二郎を民芸や文学座の新劇人たちが支えている。脚本橋本忍、監督山本薩夫。何度か映画化やドラマ化されているが・・・。
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1968年1月の池袋世界館のチラシなのだが、世界館ってどこにあったのだろう。広告で見ると、どうも西口の三業
通りににあったようなのだ。手元にある池袋日本館のチラシも、三業通り、トキワ通りの店が広告を出しているので、二館は並んでいたのだろう。上映作品を見ていると、クレイジー・キャッツ、高倉健、ドリフターズ、ザ・タイガーズ全盛時代の感がある
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この池袋日本館のチラシには年の記載はない。裏は松竹文芸大作、総天然色「紀ノ川」(1966年6月公開)と東京オリンピック長編記録映画「世紀の感動」(1966年5月公開)とあるから、2番館、3番館だったろうから、1966年後半~67 年ころか。このチラシを受け取ったころ、私はどんな映画を見ていたのだろう。一時期メモしていた映画の手帳がどこかにあるはず・・・。
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1957年6月、特集文芸春秋の「映画読本」が、本棚の隅から出てきました。懐かしい名前がズラリ・・・。(4月26日付記)

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2019年2月18日 (月)

私の「1950~60年代の池袋」ベスト5は~「アド街」を見て

先週土曜日の「アド街」は池袋だった。、しかも「昭和の」がついていたのである。池袋生まれの私は、見逃すわけにはいかない。ほんの時々だが、アド街は、見ることはあったが、聞き流しの程度のことが多かった。

録画こそ取らなかったが、テレビの前に座った。私は、生れも育ちも池袋で、社会人となり、家を離れた1970年代初めまで暮らしていた。敗戦後の池袋の様子を、育った環境を振り返りたくなった年になったのだろう。昨年の夏には、くすりやの娘としての体験を、このブログでも書き綴ってしまった。

参照

20190216 21:00 - 21:54

出没!アド街ック天国~昭和の池袋~

https://yomu.tv/CodWY

 

この番組は、どういう基準なのかわからないが、20位のランク付けによって、20位から順に、場所や店、人物などが紹介される。いわば、話題性が低いか高いかなのだろう。今回は、流行した歌などにひっかけているのが、特徴なのかもしれない。「私の昭和」とは、ほぼ1015年ほど、いわば一回りくらいはずれ込んでいる感じではあったが、知らなかったことも沢山あって、それなりに楽しかった。

私にとって、池袋といえば、なんだろう。「昭和」というより1950年代、60年代の池袋である。

<ヤミ市>

番組では、どういうわけか「ブラックマーケット」と呼ばれていたが、いつからそんな呼び方をするようになったのだろう。出演者の内の高齢者?に入る荒俣宏(1947~)と渡辺えり子(1955~)は「ヤミ市」と口にしていたようだった。私たち家族には、敗戦後の暮らしの衣食がかかっていた西口の「ヤミ市」であり、子ども心に、強烈な印象を残している。西口のヤミ市の入り口のヘビ屋?は不気味で怖かったが、アイスキャンデーを売っていた食堂の「のとや」があったし、大抵の食料や日用品はそろうのだった。母の買い物にはよくついていった。ヤミ米を調達したのもここだった。

 

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「戦後池袋~ヤミ市から自由文化都市へ 展示資料解説」(池袋=自由文化都市プロジェクト実行委員会編刊 2015年9月)より

<映画>
 高校からの学生時代には、ずいぶんと通った映画館である。番組でも登場した、東口の人世坐(19481968)、文芸座(19561997)、文芸地下劇場(1955~)、西口のシネマロサ(1947~)はもちろん、もっとさかのぼれば、ロサの近くにはエトワールというのもあって、邦画の二本立て、三本立てがかかっていて、ジメジメして、周りに怖いオニイさんがいるような、なんか一番居心地の悪い座席だったような気がする。ロサには、その後、シネマセレサ、シネマリリオなんて言う名の映画館も併殺されたのは、1950年代半ばだったか。さらに駅近には、ピース座(⇒松竹名画座、19511990)というのもあって、池袋演芸場(19511990、新築1993~)と同じ建物だった。さらに、さかのぼれば、旧豊島師範の先、ヤミ市を抜け出たところに邦映座というのがあった。小学校の映画教室でも入ったような気がする。下の地図で言えば東横百貨店の向かいの「東宝シネマ」ということになるのか。東口には、今のジュンク堂の先、旧雑司ヶ谷5丁目の一角に山手劇場(194671957~?)もかなり古く、松竹映画専門だったような記憶がある。家の近くの銭湯「平和湯」の脱衣所の天井近くには、映画館のポスターがぐるりとひしめいていた時代である。

下の図は、手元にあった『新旅行案内5 東京』(日本交通公社 19556月初版、19604月Ⅶ版)の「池袋付近」(84P)の地図である。これによれば、今の池袋駅北口を出たところの東口に抜ける地下道を上がった、現在のパルコ別館とビックカメラ本店のあるところ、丸物デパート(19571969、現在パルコ)の向いに、池袋日活、池袋東急、池袋日勝館の三館が並んでいるが、この辺りにも映画館は建て込んでいた。多分、この中の池袋東急だったのか、高校の映画教室で、『エデンの東』を見た記憶がある。『エデンの東』の日本封切りが195510月とあるから、高校1年か2年生の時だったのか。今でも映画教室なんてやっているのかなあ。池袋東急は、池袋東洋劇場として1949年には開館、改築後のビルで1998年からのシネマコンプレックスとして2011年まで営業していたらしい。

日勝館は、戦前からあった映画館だったらしいが、焼け跡にいち早く開館したのが1946年、1960年には池袋松竹となり1963年池袋スカラ座になっているが、日勝地下や日勝文化劇場というのも記憶にある。いずれも、ハタボーリング場などで知られる旗興行の運営だったというが、1995年再開発のためすべて閉館したという。

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      『新旅行案内5東京』(日本交通公社 19556月初版、19604月Ⅶ版)より

参照

・豊島区映画館・池袋東口地区

https://www.japan-post.com/me/data2/res-me-std.php?FRTWID=FW000237

豊島区映画館・池袋西口地区

https://www.japan-post.com/me/data2/res-me-std.php?FRTWID=FW000238

 

現在はヤマダ電機が入っている旧三越の裏手にも、いくつかの映画館があった。巣鴨プリズン跡のサンシャイン60がオープンしたのが19784月というから、私は、結婚・転職・出産、すでに両親もなくなっている池袋の生家に帰省することはめったになかった10年余を過ごしていた。この間の池袋の変貌ぶりは、大きかった。

 

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         『東京区分地図』(国際地理学協会編刊 1990年5月)より

<立教大学>
 1945414日未明の城北大空襲で、池袋は焼野原になったが、立教のキャンパスだけは大方焼け残った。長兄は、戦前に立教中学校を卒業しているし、次兄は、戦後、疎開先から立教中学校に編入し、そのまま大学に進んでいる。時代は下るが、私も娘も社会人入学した修士課程で世話になっているだけに、我が家には縁のあるキャンパス。私の場合、メデイア史をと思って入学したが、原書購読はきつかった。若い院生に助けられながら、何とか単位も取れ、修論も提出できた。学内外のメンバーで立ち上げられた天皇制研究会にも参加することができたのは貴重な体験で、その後の仕事にも活かすことができたのではないかと思っている。愛校心ともちがう、育った池袋と一体となって立ち現れる、何かと気になるキャンパスにもなっている
 「アド街」の習いによれば、私にとっての「昭和の池袋」ベスト5ということになれば、上記の「ヤミ市」「映画」「立教大学」に続くのは、やはり、「百貨店」だろうか。西口の東横・東武であり、東口の西武である。5番目が、生家のある「平和通り」か。いまは「へいわもーる」というらしいが、その商店街としての変貌ぶりを見ると、懐かしさよりは、やはり寂しさの方がまさってしまう昨今ではある。思いは、いろいろこみあげてくるものがあるのだけれど・・・。

・<池袋学>夏季講座に参加しました~生活者の視点が欲しかった―池袋のヤミ市への熱い視線は、“男のロマン”にも似て―2015年9月15日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/09/post-9a00.html

2015年、戦後70年企画として、立教大学が中心になって開催された「戦後池袋 ヤミ市から自由文化都市へ」という展示とシンポジウムをのぞいてみた。その時の報告は、以下の記事にもあるが、「自由文化都市」といわれても・・・の思いは変わらない。シンポの講師4人のだれもが池袋に住んだことのない研究者ばかりだったのである。

下の地図は「戦後イケブクロ会場案内MAP」『戦後池袋 ヤミ市から自由文化都市へ』2015年9月)より

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2018年11月19日 (月)

はじめて、ポーランド映画祭へ

 旧友、映画評論家の菅沼正子さんから「ポーランド映画祭」の案内をいただいていた。昨年もいただきながら、行くことができなかった。彼女からは、これまでも、封切りの「カティンの森」「残像」「ユダヤ人を救った動物園」などを勧められては、見に出かけ、ポーランドへ二度ほど出かけるきっかけの一つにもなっていた。今年のポーランド映画祭(1110日~23日、東京写真美術館ホール)にも見たい映画がたくさん並んでいる。

 なにしろ2週間、14本のスケジュールで、短編も含め、24本の映画が上映されるというイベントである。2度上映される作品もある。夫の都合もあって、1115日の「大理石の男」「灰とダイヤモンド」「リベリオン ワルシャワ大攻防戦」の三本を見るという欲張った計画で、家を早く出た。私は、「大理石の男」(1976年)はテレビで、「灰とダイヤモンド」(1958年)は、公開当時というよりは、あとになって、名画座のようなところで見た記憶がある。どれも、印象深い感動作であったが、記憶はすでに薄れているので、もう一度見てもいいな、のつもりだった。

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はじめての東京都写真美術館でもあった。

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映画祭プログラムから

 「大理石の男」のあらすじとなると、なかなかまとめにくい。上記の過去記事も参照していただければと思う。1970年代、女子学生が映画の卒業制作として選んだのが、かつてレンガ工として労働者の英雄にまで仕立て上げられ、大理石像にまでなった青年、いまでは、美術館の地下倉庫に横倒しになっている、その大理石像の男の人生をたどることだった。スターリン体制下のポーランドで、レンガ工が、その熟練ぶりを各地の建設現場で披露し、高く評価されてゆくなかで、高熱のレンガを渡され、重傷を負った事件をきっかけに、組織や職場の仲間たち、家族からも疎まれ、失墜してゆくさまを、学生は、関係者を訪ね歩き、口の重い人々から聞き出し、テレビ局に残る過去のニュース映像などを交え、次第に真実が明らかにしてゆく。その過程で、党組織やメディアのなかで、優柔不断に、立ちまわる人物にも幾度か遭遇するし、あからさまな取材の妨害も受ける。

 それにしても、2時間40分、取材を進める学生とその協力者たち、取材を受けるさまざまな人物の現在と過去、回想場面や実写映像による過去が複雑に入り組んでの展開に戸惑うことも多い。“巨匠”、アンジェイ・ワイダ監督に、あえて言うとすれば、あまり欲張らないで、サイドストーリーをもう少し整理して欲しかったな、と思ったものだ。伝えたいことがたくさんあるのはわかるのだけれど・・・。ワイダの、スターリン体制への鋭い批判の眼は揺るがず、制作から40年近くたっている現代にあっても、日本のみならず、世界各国にも共通する問題提起をしている作品の数々には脱帽する。

 「大理石の男」については、当ブログの以下の記事参照

『カティンの森』『大理石の男』、ワイダの新旧二作品を見る20091226 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/12/post-9c03.html

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真実の解明に、果敢に挑むアグニェシュカ。

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労働者の英雄に仕立て上げられる煉瓦工のマテウシュ・ビルクート。

 

私たちは、2010年と今年5月にポーランドに出かけている。「大理石の男」の映画で見る、1950年代のクラクフ郊外のノヴァフタの製鉄所建設や住宅建設の規模のすさまじさと労働環境の劣悪さ、1970年代のクラクフやワルシャワの復興状況からは、想像できないほど、どちらの都市も、緑豊かな落ち着いた街並みになっているとも思えたが、今年の旅行中には、ワルシャワでは大規模な反政府デモにも出会い、現在のポーランドが必ずしも安定した政治状況ではなかったのを知ることになったのだった。

二本目の「灰とダイヤモンド」は、アンジェイ・ワイダの初期の作品だ。ある町の中央から派遣されている県委員会の書記、いわば市長を狙うテロリストの青年が主人公である。待ち伏せを市長が乗る車を狙撃したところ、別人で、二人の犠牲者を出すところから映画は始まる。その日は、ドイツ軍が降伏した194558日、町は、花火を上げて祝い、人々は解放を喜び、市長が主催する盛大なパーティーも開かれようとしている。青年は、さらに市長を狙うべく、準備を整えるが、パーティー会場のホテルのバーで働く女性に恋し、語らうようにもなり、市長暗殺から手を引きたいとも考えるようになるがそれもかなわないまま、市長暗殺を最後に、女性との生活をも夢見るが、暗殺に失敗、翌朝には軍に射殺されるという、たった一日の出来事を描いた映画である。広大なごみ集積所のゴミにみまみれて息絶えるというラストシーンの壮絶さが、当時の体制側からは、政府への抵抗の無意味さを強調したとして評価され、検閲を逃れたという。

 この映画でも、体制への屈折した心情や不満を持つ市長秘書や老新聞記者、反体制運動で捕まる市長の息子などが登場するのだが、やはり、私には煩雑に思えたのは、理解不足もあるのだろう。

 つねにサングラスをかけ、冷徹なテロリストとナイーブな青年をも演じた俳優は、ジェームス・ディーンをも想起させるが、ポーランドでは人気のさなかの39歳の若さで、鉄道事故で亡くなるとい悲劇の主人公でもあったらしい。

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有名なラストシーンだが、当時のポーランドの観客は、どう見ていたのか。

 

 三本目のリベリオンは、比較的最近の作品であるし、三人の若者を通して描かれるワルシャワ蜂起、そして現代にその意味を問うという映画、見たかったのだが、どうも、私の体調も眼も限界だった。もともと、二本を見て、別の用事に向かうという夫と一緒に会場を出たのだった。

 

 恵比寿ガーデンガーデンプレスの遊歩道を秋の日差しを浴びながら帰路につく。あらためて辺りを見まわせば、こんな恵比寿を見るのは初めてであった。振り返れば、ガーデンプレスのタワービルの横には、白い三日月が出ていた。地下鉄までの長い長い「動く歩道」に、疲れ切った身を任せて・・・。映画祭開催中に、もう一度出かけたいの思い頻りだった。

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振り返ればタワービル、写真では三日月が消えてしまったのだが。

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会場で配られたポーランド映画人協会出版のパンフレット。ここには、バルトシュ・ジュラヴィエツキーの執筆による、灰とダイヤモンド、約束の土地、夜と昼、大理石の男、戦場のピアニスト、リベリオン、ヴォウィンという7本の解説が収録されている。私はこのうち、「戦場のピアニスト」を含め、3本しか見ていないことになる。

 

 

 

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