2017年7月27日 (木)

アンジェイ・ワイダの遺作『残像』を見て~ワイダと画家からのメッセージ

 友人の映画評論家の菅沼正子さんから、早くよりお勧めのあった映画『残像』を見に、岩波ホールまで出かけた。昨年、90歳で亡くなったワイダ(19262016)の遺作である。ワイダの作品『カティンの森』と『大理石の男』を見たのが2009年だから、久しぶりのことである。このブログにも、つぎのようなレポートを書いている。

◆『カティンの森』『大理石の男』、ワイダの新旧二作品を見る

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http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/12/post-9c03.html

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プログラムの表紙から

640_2 画家のアトリエは正面のアパートの階上の一室、ある日突然スターリンの垂れ幕が下ろされ、窓からの光は断たれた。 画家は、自らの松葉づえで、それを引き裂くのだった。写真はいづれもプログラムから
         


 今回の『残像』は、ポーランドの実在の抽象画家、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(18931952)が、社会主義政権下の最も弾圧の厳しかった中で、自らの芸術的信条を曲げずに貫いた晩年の4年間を描いたもの。私は、この画家の名前は初めて聞くが、ポーランドを代表する芸術家の一人で、両世界大戦間期に国際的な前衛美術運動に大きな役割を果たした画家であり、理論家であったという。1931年には、妻の彫刻家コブロとともに、ポーランド中部、ワルシャワとクラクフの中間に位置する都市ウッチに美術館も設立している。映画は、そのウッチを舞台に、造形大学の教授として、学生たちからも絶大な信頼を得ていた教育者でもあった彼が、社会主義リアリズムこそが、政治と一体化するという文化政策に抵抗したとして、さまざまな迫害を受け、職も奪われ、絵具も食料も入手できない状況に追い込まれ、病に倒れるまでがリアルに描かれる。プライベートでは、宗教の違いなどから別れた妻と娘ニカはともに暮らしているが、病弱の母親の介護と第一次大戦の戦傷で手足が不自由な一人暮らしの父親を気に掛けて、両親のもとを行き来する一人娘との葛藤をも丁寧にたどられる。

官憲による弾圧・迫害は、徐々に過酷なものとなる。大学での講義が、文化大臣の演説で中断され、その会場で自説を述べれば、以降一方的に休講とされ、馘首される。美術館の展示室から彼の作品は倉庫入りとなり、彼の学生たちの作品展の作品はすべて打ち砕かれ、造形芸術家協会からは除名されてしまう。悩む学長、美術館長も体制にのまれてゆく。それでも、古くからの友人の詩人ユリアン、慕う学生たちの陰ながらの支援で得た生活のための仕事も、密告のため失ってしまう。また、画家を慕い、アトリエでの口述筆記に通う、教え子の女性すらも拘束される事態となるなか、映画には一度も姿を見せない元妻の様子は、娘を通してのみ語られるが、画家には知らされないまま病死する。それしかない赤いコートのまま、母の棺に従うのは、ニカの一人だけという墓地の場面、行き倒れのような形で救急車で運ばれた病院から抜け出した画家が、そのコブロの墓に青い花を捧げる場面、やがて、画家が仕事先のマネキンが並ぶショーウインドウのなかで壮絶な死を遂げるが、通行人の一人にも気づかれないという場面の寂寞と荒涼は、胸に迫るものがあった。

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自宅のアパートのアトリエに集う学生たち
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職を失った画家の仕事先の似顔書きの工房を訪ねる娘のニカ

監督のワレサは、クラクフの美術大学を中退して、ウッチの映画大学を卒業したという。生前の画家との出会いはないが、この映画に寄せたメッセージの末尾でつぎのように述べている。

「私は、人々の生活のあらゆる面を支配しようと目論む全体主義国家と、一人の権威ある人間との闘いを描きたかったのです。一人の人間がどのように国家機構に抵抗するのか。表現の自由を得るために、どれだけの対価を払わなければならないのか。全体主義国家で個人はどのような選択を迫られるのか。これは過去の問題と思われていましたが、いまもゆっくりと私たちを苦しめは始めています。どのような答えをだすべきか、私たちはすでに知っている。そのことを忘れてはならないのです」

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自らの病をおして元妻の墓を訪ねる

 

 また、映画で語られる画家のセリフのなから、断片的に飛び込んでくるいくつかの言葉があった。同じく抽象絵画を目指したカンディンスキー(18661944)やモンドリアン(18721944)の名前も飛び出し、「彼らは、自分の模倣を続けている」と学生たちに語り、公安当局に呼ばれて、大事な分かれ道、体制に従うのか従わないのか、どちらの側につくのか、と選択を迫られたとき、「私の側だ」と立ち去る場面が印象的だった。

モンドリアンといえば、昔のことになるが、私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)の「あとがき」の冒頭で、つぎのように書いているのを思い出した。合評会で、この「あとがき」に言及される方はいなかったが、立ち話で、玉城徹さんが「モンドリアンとはねェ・・・」と苦笑されていたのも思い出の一つである。

「モンドリアンの抽象に出遭ったとき、あの冷徹さに戸惑いながら惹かれていったのはなぜだろうかと考えています。そこには猥雑なものをいっさい拒否しようとする、ひとりの人間の生き方の美と思想があると思いました。この画家の幾何学的な構成にいたる過程は、<樹木>連作が雄弁に語っています。さらに光と影から解放された垂直と水平の世界の展開を見せられたときの感動を忘れることができないでいます。主観的な表現を極度に排し、求めてやまなかったものはなんであったろうか・・・・」

恥ずかしいけれど、歌集の最終章には、こんな歌も残していた。

・描かれたる<樹木>連作たどるとき闇に熱き思いを放つ

・老画家のひとりの冬の死のまぎわコンポジションの原色冷ゆる

 ところで、映画では、ストゥシェミンスキの絵画作品を正面から映し出すことはしていなかった。美術館での展示室での作品群、コラージュ帖やアトリエで制作中の絵としては、何度か映される程度だった。ネット上で検索しても、すぐには出てこない。どんな作品を残していたのか。一度ゆっくり鑑賞したいと思っている。

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2016年8月 8日 (月)

8月6日、目黒五百羅漢寺の桜隊原爆殉難者追悼会へ

 猛暑が続く東京、目黒の五百羅漢寺に、夫と出かけた。夫はすでに何回か参列しているが、私は今回初めてだ。早朝から法要は始まっているが、私たちが参加したのは本堂前の原爆殉難碑「碑前祭」からで、住職のお話のあと、ご焼香となった。「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」の碑銘は徳川無声の書により、裏面には柳原白蓮の「原爆のみたまに誓ふ人の世に浄土をたてむみそなはしてよ」が刻まれているという。丸山定夫と園井恵子、高山象三、仲みどり、森下彰子、羽原京子、島木つや子、笠絅子、小室喜代9名の慰霊碑である。

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 「移動演劇さくら隊」とは、戦時の統制下で従来の演劇活動が出来なくなった演劇人たちだったが、丸山定夫らは、苦楽座を結成、後、さくら隊として、1944年から45年にかけて、内閣情報局管轄下で地方巡業中であった。その根拠地というか、疎開先が広島だったのである。詳しくは、以下のHPを参照。

「桜隊原爆忌の会」HP

http://www.photo-make.jp/sakura.html

 

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慰霊碑の右側の供花に「佐々木愛」の名が読める

そして、今日は、新藤兼人(19122012)作品『さくら隊散る』(1988年)が上映されるという。エアコン直下で少々冷房が効きすぎるくらいの席であった。「さくら隊」の成り立ち、活動の足跡、犠牲者の悲惨な最期までを克明にたどる。即死ではなかった、丸山定夫も厳島で、園井恵子と高山象三の二人は神戸の知人宅で、仲みどりは、やっとの思いで広島から東京の実家に逃れ、入院先の東大病院で亡くなるまでの痛苦の数日をリアルに再現している。彼らと同じ団員ながら、偶然、広島を離れていて助かった俳優の池田生二(19121998)と槇村浩吉(桜隊事務長、19102001、犠牲者小室喜代の夫)が案内役を務めて、ゆかりの場所や人を訪ねるのである。また、丸山定夫と昭和初期からプロレタリア演劇の同志として、新劇、大衆演劇、映画などを支えてきた人々、千田是也(19041994)滝沢修(19062000)小沢栄太郎(19091988)宇野重吉(19141988)山本安英(19021993)杉村春子(19061997)らが、証言者として、昭和前期、敗戦までの過酷な演劇の歴史、そこにおける丸山定夫や園井恵子らについて語るのである。私などは、1950年代から60年代の映画全盛時代に、スクリーンで見慣れた滝沢、小沢、宇野らであったし、証言者として登場する嵯峨善兵、薄田研二、松本克平、浜村純、殿山泰司らも、映画の名わき役、あるいは敵役として、当時は知らないまま見ていたが、彼らも筋金入りの演劇人だったことを改めて知ることになる。私が観た舞台は数えるほどで、滝沢の「セールスマン死」と宇野重吉くらいだったか。映画のナレーションは、聞き覚えのある声の乙羽信子(19241994)であった。杉村春子の証言を聞いていると、その語り口も、内容も実にドラマティックて、さすがと思ったのだが、小津安二郎作品などで、杉村が「あら、あんたたち、もう集まってるじゃい」とか、べらんめい調で他の出演者たちに割って入ってくると、その画面が一気に引き締まる、といった記憶がよみがえる。

 出演者の生没年は、家で調べてみたのだが、1987年からの制作、1988年公開の映画だったのだが、宇野や小沢は最晩年の証言であったし、百歳を迎えた新藤は別として、公開後の10年内外で多くの方が没している。この映画は、まさに貴重な証言集でもあったのである。

 私は、「さくら隊」で最も若くして亡くなった高山が、薄田研二夫妻の長男であったこと、槇村が敗戦後、真山美保と新制作座を立ち上げたことなどは、浅学にして知らなかった。案内役の池田生二も見たことのある風貌だと思ったら、1960年代の映画と、以降はテレビの刑事ものや時代劇に数多く出演していることもわかった。 

 会場では、思いがけず、昔の職場の同僚と会い、旧交をあたためることができた。この日の参列者120人ほどと。

 さらに五百羅漢様たちに敬意を表してお参りもすることができた。 耳の痛い「ことば」も多い。

「周りに左右されず信念を貫く」
「おのれを制御できる人ほど自由である」
「広く学び、深く究める」
「多くを聞いて、少しく語る」・・・・。

 懇親会は失礼して、目黒駅に出て、私は、友人と久しぶりのおしゃっべりに時を過ごした。

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2015年11月 3日 (火)

「ヒトラーの暗殺、13分間の誤算」(2015年)を見て

藤田嗣治の展覧会の後、夫と日比谷で待ち合わせ、映画を見てきた。今回の映画の主人公、ゲオルク・エルザーは、昨年のドイツ旅行の折、ベルリンの抵抗運動記念館で、初めて知った名前だった。下記の当ブログにも、つぎのように記していた。

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.2028(7)20141115日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/2014102028-d8b1.html

「第7室は、たった一人での暗殺計画で1939118日に逮捕されたミュンヘンの家具職人ゲオルグ・エルザーについてで、彼の生い立ちから始まって、アウシュヴィッツ強制収容所を経て、19454月ダッハウ強制収容所で殺害されるまでの足跡を克明に追跡した記録が展示されていた。」

(一部訂正済み)

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ドイツ抵抗運動記念館第7室のエルザーのパネル(リーフレットより)

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ドイツ抵抗運動記念館第7室入口(2014年10月撮影)

 この映画の主人公がエルザーと知ったとき、見逃してはならないと思った。実話に基づいた映画を見、その後調べてみると、上記の私の記事には、間違いがあることがわかった。抵抗運動記念館の展示の解説の肝心のところが読み取れていなかった。エルザーが生まれたのは、ミュンヘンの北西ケーニヒスブロンという町であり、ミュンヘンは、ヒトラーの演説中の暗殺計画が未遂に終わった事件の現場、ビヤホールがあった都市である。なお、アウシュヴィッツに送られたかは、今回確かめられなかった。映画でも、「5年後」のダッハウ収容所で解放直前の194549日に銃殺されたことはわかったが、途中が定かではない。ただ、調べてみると、やはり昨年訪ねたベルリン北部のオラニエンブルク市のザクセンハウゼン強制収容所に、かなりの期間収容されていることもわかってきた。収容所の資料館でもエルザーに関する展示があったのを思い出す。こうなるともう語学の問題で、情けないながら、資料の前を素通りしていたのだ。それはさておき、映画に移ろう。

 ミュンヘンのビヤホールの柱に、暗がりの中、時限爆弾を仕掛けている男がいた。ミュンヘン一揆を記念して、毎年開かれるヒトラーの演説会の壇上の柱にである。1939年11月8日、ヒトラーは、演説中に、天候の不順で飛行機が飛ばなくなったことが知らされる。ちょうどその頃、爆弾を仕掛けていた男エルザーは、仕掛けた時刻が迫るのを気にしながら、スイスとの国境を超えようとしていたところを不審者として捕えられた。ヒトラーが会場を後にした直後、ビヤホールは爆破し、8人の犠牲者を出し、ヒトラー暗殺は未遂に終わった。13分早く、演説を切り上げたためだった。エルザーが所持していた設計図などから実行犯と目されるのだが、名前や生年月日さえ明かさない。さまざまな拷問の末、元婚約者まで動員して、ついに自供させる。その取調べの過酷さの合間に、田舎の、気のいい家具職人の青年エルザーが、なぜ、暗殺を計画するまでに至ったのかが、丁寧に描かれる。取調べにあたったのは、親衛隊組織の両翼をなす保安警察(ジポ)と秩序警察(オルポ)の保安警察、その保安警察の中の、いわゆるゲシュタポ(秘密警察局)の局長ハインリヒ・ミュラー、刑事警察局長アルトゥール・ネーベという超大物で、ヒトラー自身の指示であったという。ヒトラーは、エルザーの単独犯行が信じられず、必ず共犯者や黒幕がいるとの見立てで、拷問に続く拷問で自供を迫れとの指示を出す。飲んだくれの父や貧困との葛藤、夫からの暴力被害にさらされている女性との恋、特定の政党に属するわけでもなかったが、地域の有力者や子どもたちまでが、ナチスのプロパガンダにはまってゆくことに危機を感じていた。共産党員の友人やユダヤ人と付き合っていただけの幼馴染の女性が捕えられ、自らの自由も日毎に狭められていく息苦しさと正義感から思い詰めたエルザーは、綿密な計画により決行に到る。

 ミュラーとネーベの取調べの手法は対照的で、ミュラーが強権的で、ネーベはやや温情的な側面を見せる。事務的で冷やかな女性書記も、ときには、ひそかに頼みごとを聞いてくれることもある。しかし、エルザーの信念と単独決行は揺るぎないままであったようだ。映画では、その後、彼は収容所に送られ、処刑されないまま5年を経、ダッハウ強制収容所の特別囚として過ごしていたことが伝えられる。19452月半ばのドレスデン爆撃、ナチスの崩壊が確実となった194549日、突然、処刑ではなく、テロによる殺人ということにして、銃殺される。それに先立つ、3月には、かつて取調べにあたったネーベは、その後、ヒトラー暗殺計画に関与したとして絞首刑に処されるのである。 映画は、このネーベとエルザーの死で終る。エルザーの婚約者だった女性は、1994年に亡くなるが、波乱の人生だったようである。

 戦後70年、ドイツでの、いまだこうしたレジスタンス映画を通じて、ナチスの歴史の真相に迫ろうとする姿勢や動向を、つい、いまの日本と比べてしまう。ナチス時代のドイツは決してヒトラー一色ではなかった証として、ヒトラー暗殺事件は、40件にも及んでいた、という指摘もうなずける。いまの日本は、歴史の不都合を消し去ろう、消し去ろうとする勢力が、暗雲のように頭上を覆う時代、この現実をしかと記憶に留め、異議を唱え、過去とは真摯に向き合いたいと思う。

 もっとも、戦後の東ドイツと西ドイツにおいても、エルザーにまつわる史実は、長い間封印されていた。なぜかと言えば、映画のプログラムでは、つぎのように語られている。「西ドイツでは、共産主義者の偏屈なドイツ人とみなされ」、「東ドイツでは、ドイツを解放したのはソ連赤軍だとして」、エルザーのような存在は無視され続けた(鳥飼行博「ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺計画」)と。エルザーの復権署名運動は1993年に始まり、ミュンヘンには、「ゲオルク・エルザー広場」があり、爆弾が仕掛けられたビヤホールには、記念碑がつくられ、切手まで発売されるようになった。

 なお、ゲオルク・エルザーが、未遂とはいえ暗殺事件の実行犯であったのにもかかわらず、すぐに処刑されなかったことには、諸説があるらしい。イギリスの謀略による暗殺事件だと内外に公表しているので、将来、エルザーはその証人となる大事な要員であったからとか、ヒトラーがエルザーの暗殺を免れたのは「神の摂理」であるということが喧伝されたので、暗殺未遂は、ヒトラーサイドによる自作自演の要員として利用したからとか・・・。エルザーが収容されていたダッハウは、他と比べて、政治家や聖職者、文化人などが多い収容所であり、処遇の定まらない要人も多かったらしい。

 また、エルザーの取調べにあたった、ネーベは、意外な展開で処刑されるに至るのだが、過去にはさまざまな大量処刑の指揮を執った軍人であった。ミュラーは、ヒトラーの最期に立ち会った人物ながら、その後、行方不明となり、海外に逃亡して生き延びているという噂も飛び交った。しかし最近になって、ドイツ抵抗運動記念館の調査により、すでに19458月、ベルリンで遺体となって発見された後、ユダヤ人墓地に埋葬されていたことが確認されたという。

 できるなら、ドイツ再訪の折は、一度、ミュンヘンには立ち寄りたいと思っている。かつて、このブログの記事にもした映画「白バラの祈り ソフィー・ショル、最後の日々」(2005年) の舞台もミュンヘンだったのだ。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/07/post-6185.html2013715日)

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映画のスタッフについて(プログラムより)

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エルザーが一時収容されていたザクセンハウゼン強制収容所跡(2014年10月撮影)



 

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2015年6月29日 (月)

沖縄とジャーナリズム(2)シンポジウムご案内

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シンポジウム

「沖縄戦後70年:基地問題とジャーナリズム」が開催されます。私も参加している「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」が協賛団体になっています。近頃は、激励しようという気持ちもなえてしまうほど、報道の劣化が続いているNHKです。沖縄報道に携わるジャーナリストたちの生の声が聴けると思います。ぜひお立ち寄りください。
貴重なドキュメント映像も公開されます。

会場:7月12日(日)13時~16時半

場所:明治大学グローバルフロント棟グローバルホール(1F)

研究報告~自治接収・返還に揺れた共同体―読谷村の事例から 
   山内健治(明治大学)政経学部教授

パネル討論~辺野古から考える日本のジャーナリズム

   金平茂紀(TBSキャスター)
   影山あさ子(映画「圧殺の海」監督)
   宮城栄作(沖縄タイムス東京支社報道部長)
   司会:醍醐聰(東京大学名誉教授)

拡大チラシは下記をクリックしてください。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/712sinpotirasi.pdf

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2015年6月 7日 (日)

「すてきなあなたへ」70号(2015年6月8日)をマイリストに掲載しました

目次
川崎簡易宿泊所火災に思う~ある記憶に重ねて~
嵐のような、あの佐倉市長選は、何だったのか
          ~これからが大事、見抜く力の大切さ*
編集後記~70号までたどり着きました
菅沼正子の映画招待席 42 「アリスのままで」
          ~明日はわが身かもしれない

*6月5日の前記事と重なる内容ですが、年表も付してコンパクトにまとめましたので
 あわせてお読みいただければと思います。下をクリックしていただくか、左のマイリスト欄の70号をクリックしていただいても読むことができます。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/sutekinaanatahe70.pdf

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2014年12月 7日 (日)

「すてきなあなたへ」69号(2014年12月8日)をマイリストに掲載しました

(目次)
市民としてできることって、どんな?ある検討委員会に参加して
市役所に聞きたい!ちょっとおかしくない?そんな時どうしますか
ベルリンへ、ふたたび~壁の崩壊から25年 黄葉散り敷く、17番ホーム
菅沼正子の映画招待席 41 「シャトーブリアンからの手紙」(シュレンドルフ監督)

遅れましたが、ようやく発行の運びとなりました。何とか軌道にのせたいと思います。
ぜひ、ご一覧ください。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/sutekinaanatae69.pdf 

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2014年1月29日 (水)

久し振りに、20世紀メディア研究所研究会(第82回)参加しました(2)占領期からポスト占領期の日本の映画における「女」と「キリスト教」の表象

②占領期からポスト占領期の日本の映画における「女」と「キリスト教」の表象(紙屋報告)

表題は難しそうだが、報告者のレジュメにあるように、その目的は、敗戦直後に流行した「パンパン映画」と敗戦直後から復興期にかけて流行した「母もの映画」に焦点をあてて、その連動性と同時代性を検証しようとするものであった。

これらの映画の時代、私は小学生だったので、自営業の両親は、映画に連れて行ってはくれなかった。ただ七つ上の次兄は、池袋という地の利もあって、一人で映画館へ行くことが多く、のちのち、松竹の助監督試験で最終面接まで残ったというのが自慢?の映画青年となった。父も長兄も映画は決して嫌いではなく、映画の話では、結構、盛り上がってはいたと思う。私はといえば、銭湯の脱衣所の天井近くに所せましと貼られている映画ポスターを見上げては、子どもながらいろいろな情報を仕入れていたのだと思う。

報告では、「パンパン映画」とは広義の「娼婦」が登場する映画と解し、つぎのような作品が紹介された。堕落と解放との合わせ鏡の二面性を持つ娼婦という仕事から抜け出すには「改悛」とリンチという「ムチ打ち」の過程を示唆する場面がしばしば登場するという。「夜の女たち」のラストの数分間を会場で見せてもらった。主人公の田中絹代がみずから娼婦の仕事から足を洗おうとし、妹をも仲間から連れ出そうとすると周りの女たちからリンチを受ける場面が長々続くが、そこがどういうわけか教会の焼け跡の瓦礫のなかで、焼け残った聖母子像のステンドグラスの下だったのである。闇の焼け跡からよろよろと連れ立って去る二人を見送るしかない女の群像だったのである。全編を見ている報告者は、このステンドグラスは、いかにも唐突で、マッカーサーのキリスト教の布教精神が表れているとみる。

「夜の女たち」(松竹 溝口健二監督 田中絹代主演 19485月公開)

「肉体の門」(吉本映画 マキノ雅弘+小崎政房監督 轟由紀子・月丘千秋主演 19488公開)

「白い野獣」(東宝+田中プロ 成瀬巳喜男監督 三浦光子・山村聡主演 19506月公開  

「日本の悲劇」(松竹 木下恵介監督 望月優子主演 19536月公開)

「赤線地帯」(大映 溝口健二監督 三益愛子・若尾文子・京マチ子・ 木暮実千代主演 19569月公開)

*主演者などは筆者が補った

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「夜の女たち」のラスト近く,田中絹代(左)

「母もの映画」では、広くは母性愛映画ということだが、報告では、1948年から1950年代に量産された、母親の自己犠牲を描いたつぎのような作品などが紹介された。三益愛子が主演した母ものだけでも30本を超える。「母三人」あたりから「母もの」シリーズが定着し、「山猫令嬢」は母もの第1号と言われ、最初の題は「マダム上海」で、上海から引揚げた母が主人公で、三益・三条が母娘を演じている。大映以外の会社からも「母もの」と銘打って続々と製作されるようになった。母に幻滅する子たちが登場し、その母の脱性化の過程で、母性愛が強調されてゆくパターンが多いという。「母」「母子像」などでは、聖母のイメージと重ね合わせとなり、とくにそのラストは、キリスト信仰が暗示される。

山猫令嬢」(大映 森一生監督 三益愛子・三条美紀・小林桂樹・高田稔主演 1948 3公開)

「母」 (大映 小石栄一監督 三益愛子・三条美紀・若原雅夫主演 19488月公開)

「母三人」(大映 小石栄一監督 水戸光子・入江たか子・三益愛子主演 19494月公開)

「母恋草」(松竹 岩間鶴夫監督 宮城千賀子・井川邦子・岸恵子主演  19516月公開)

「母子像」(東映 佐伯清監督 山田五十鈴主演 19566月公開) 

 報告者は、「パンパン映画」と「母もの映画」と称せられる両者に共通して現れるこれらの傾向を「機械仕掛けの神」と表現していた。

 なんといっても、私は、これらの映画を残念ながら見ていない。そんな仕掛けがあったとは。「ハンカチをご用意ください」とのキャッチコピーや娼婦たちの肌をあらわにした姿態やリンチ場面を強調するのは、あくまでも観客動員のための宣伝くらいに思っていたのだが、占領軍の検閲というより、積極的な介入がここまで及んでいたことを、あらためて知った次第である。そして、製作者サイドには、占領軍の意図を「忖度」をするという自主規制もあったのかもしれない。

  しかし、そうした枠のなかでの表現者の意欲とエネルギーをどう評価すべきかも考えなければならないだろう。

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2013年7月15日 (月)

猛暑の夜だが、映画「白バラの祈り」を見る

 「白バラの祈り ソフィー・ショル、最後の日々」(ドイツ 2005年) 

 この映画については、私がかかわっている、地域のミニコミ誌『すてきなあなたへ』44号(2006120日)の「菅沼正子の映画招待席NO.16」ですでに紹介済みである。http://dmituko.cocolog-nifty.com/sutekinaanatano44.doc

 

しかし、その後なかなか見る機会がなかったが、今回、ひよんなことで、連れ合いの知人からDVDを借りることができたのである。詳しいことは上記の菅沼さんの映画評に譲るが、私が映画を観た感想を簡単に記しておきたい。 

1943年、ヒットラー政権に対して、非暴力で抵抗する組織、ミュンヘン大学の「白バラ」に、兄の医学生とともに参加していた女子学生ソフィー・ショルが、ビラまきで逮捕され、処刑されるまでの5日間を実話に基づいて描かれたドラマである。キリスト教の精神と倫理観に裏付けられた学生たちがやむに已まれず、学生や市民に抵抗を呼びかけるべくパンフレットを配る決意をする。街角やキャンパスにパンフレットを置いて回るというささやかな行動をもゲシュタポは許さず、執拗な取り調べが続き、5日後には、形式的な裁判によって即日死刑に処せられるという過酷な運命をたどるストーリーには息をのむ。ショル兄妹は、人目をはばかりながら、パンフを置いては走り去り、大学のホールの最上階からはパンフを下に向けてばらまくということにもなるのだが、まず、大学の用務員に捕えられてしまう。なぜ、そこまで危険な行動に出たのだろうか。 

尋問のやり取りは、1990年代、旧東ドイツから発見されたという資料に基づき、忠実に再現される。尋問官の誘導や恫喝にもめげず、敢然と答える女子学生、その中で明らかになってゆく生い立ち、愛と友情、信念・・・。もはや狂信者となった裁判官、沈黙の弁護人の中で、宣告される死刑。尋問官のわずかな配慮か、処刑直前に両親との面会、牧師との対話でかわされる、信頼と恐怖がない交ぜになった、感受性に満ちた女子学生のことばの数々であった。 

東西ドイツの時代にも、よく読まれたという女子学生の姉、I・ショルによる『白バラは散らず』(内垣啓一訳 未来社 1964年)は未見だが、C・ペトリによる『白バラ抵抗運動の記録』(関楠生訳 未来社 1971年)は、目を通すことができた。その資料編によれば、「白バラ」の学生たちが配布したパンフレットの末尾には、必ず「できる限り多くの複写を、広く配布を」の文字がある。学生たちに政治的な展望があったのかなど、抵抗運動の在り方の問題点を指摘するのは容易だが、市民と学生、そして反体制を掲げる組織、例えば野党との連帯が、いつの時代にあっても、どこの国でも、重要であることを考えさせられた。

 

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2013年2月12日 (火)

すてきなあなたへ67号(2013年2月12日)をマイリストに掲載しました

前号から間があきました。映画評は、早くから原稿を頂いていましたのに、今日に至りました。左側のマイリストの「すてきなあなたへ67号」をクリックしてください。

(目次)

皇帝ダリア~花の思い出 いまむかし
雪のあとは、5月の陽気、井野の辻切りは
佐倉市の来年度予算説明会に参加して~社協への疑問が噴出
菅沼正子の映画招待席 39 「東ベルリンから来た女」~自由とはどういうものなのか

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2012年9月19日 (水)

「すてきなあなたへ」66号を掲載しました。左のマイリストから66号をお選び下さい。

すてきなあなたへ66号

<目次>  
夏の終わりに~アクティブレストを取り入れてみては
荒谷直之介展へ~この絵に見覚えありませんか
志津地区上空の航空機騒音~ようやく調査が・・・ 
菅沼正子の映画招待席38『ソハの地下水道』

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http://dmituko.cocolog-nifty.com/sutekinaanatahe66.pdf

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