2017年11月 5日 (日)

「忖度」が「まんじゅう」になって~正岡子規の「忖度」ふたたび

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 出先の夫から、大阪の知り合いから「忖度まんじゅう」をいただいたとのメールが入っていた。帰宅後、さっそく、熱いお茶を入れていただいたが、石川県の会社が製造した、大阪土産という、かわいらしいお饅頭であった。「商標登録申請中」と、その包み紙には刷り込まれているので、今年の「森友・加計問題」が浮上してからの急ごしらえなのだろう。

「まんじゅう」にもなった「忖度」だが、今回、永田町や霞が関で飛び交うのは「忖度」なんていう上品な言葉では言いあらわせない、もっと下世話な、犯罪のにおいすらもする実態を浮かび上がらせた。日本には、「おもねる」「媚びる」「へつらう」という言葉もあるし、日常的には「オベッカをつかう」「ゴマをする」とか「お追従」「ご機嫌をとる」という言い方もある。「迎合」「配慮」「意向をくむ」という少し上品そうな言葉もあるが、忖度する側・される側、双方の心中に共通してあるのは「贔屓」「縁故」「情実」「私情」であり、必ず「見返り」が期待され、「互酬性」を伴う。政府や役人による優遇、不正見逃しなどが横行し、「献金」「天下り」などという「金銭」「地位」「栄誉」が行き交う。その行き着く先を考えると、環境破壊、テロや戦争の土壌にもなり、人間の命を人間が奪うことにもなり得る。

「忖度」が泣き出しそうでもある。たかが「まんじゅう」されど「まんじゅう」ながら、包み紙の地の模様は、模様ではなく、いくつかの文章が連ねてあった。すなわち、石川啄木「硝子窓」、福沢諭吉「「学問の独立」、太宰治「ダス・ゲマイネ」などの一節で、いずれも「忖度」の語が使われている個所が印刷されていたのである。そして最後は、今年、生誕150年を迎えた正岡子規の「歌よみに与ふる書」から、つぎの一節が刷られていた。

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「・・・今は古人の心を忖度するの必要無之、ただ此処にては、古今東西に通ずる文学の標準(自らかく信じをる標準なり)を以て文学を論評する者に有之候。」 

 

「歌よみに与ふる書」は18892月「日本」から10回にわたって連載されたいたものだが、この節は、第6回目(224日)に掲載されたものの一部である。念のため、前後を引用しておこう。現代の短歌の世界でも、先人や同時代人の作品鑑賞や評伝などにおいて、この「忖度」が充満しているとは言えないか。自らの「文学の標準」がいつの間にか、ブレてゆく歌人も少なくはない。

 

同じ用語同じ花月にても其れに対する吾人の観念と古人のと相異する事珍しからざる事にて」云々、それは勿論の事なれどそんな事は生の論ずることと毫も関係無之候。今は古人の心を忖度する必要無之、只此処にては古今東西に通ずる文学の標準(自ら斯く信じ居る標準なり)を以て文学を論評する者に有之候。昔は風帆船が早かつた時代もありしかど蒸汽船を知りて居る眼より風帆船は遲しと申すが至当の理に有之、貫之は貫之時代の歌の上手とするも前後の歌よみを比較して貫之より上手の者外に沢山有之と思はば貫之を下手と評すること亦至当に候。歴史的に貫之を褒めるならば生も強ち反対にては無之候へども、只今の論は歴史的に其人物を評するにあらず、文学的に其歌を評するが目的に有之候。

(講談社『子規全集』に拠る青空文庫)

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2017年10月15日 (日)

晩年の母と、1959年の私に出会う

 今、必要があって、国立国会図書館で『女人短歌』のバックナンバーを調べている。デジタル資料化されているので、マイクロやフィッシュと違って、現物の雑誌の頁を繰る楽しさがある。こちらの視力もあって、画面は、たしかに見にくいこともあるが、つい、今は必要のない短歌や記事に寄り道することが多い。

 33号(19579月)の作品欄の最終頁は、蒔田やよひ、清水千代、阿部静枝、五島美代子であり、その左頁の雑報欄に「第一回女流短歌連盟の会」とある。そんな「連盟」があったんだと、読み進めてみると、何と、母親の名前「内野佳子」が出てきたのだ。「えッ」と読み返す。女流短歌連盟主催、毎日新聞社後援の第一回女人短歌会では、応募1213首の中から選ばれた入選者10人の名前の中の一人として列記されていたのである。選者は生方たつゑ、長澤美津、五島美代子、阿部静枝であった。私は知らなかった!私が高校生の時代、母には、晴れがましいことだったに違いないのに、私には記憶がない。一体どんな作品だったのだろう。当時の毎日新聞を調べなければいけないと、帰宅後思い立ったのである。

 また、そんな中で、なんと、わたくしの短歌にも出会ったのである。いつだったか手元の1997年の『女人短歌』終刊号の「初出の一首一覧」のようなコーナーを目にして、自分の一首を見つけたことは覚えているが、バックナンバーがあるわけでなく、そのままになっていた。今回、1959年発行の40号と41号に掲載されていることがわかった。高校時代からほそぼそ始めていた短歌だが、大学に入学直後、母の短歌の師だった阿部静枝先生の紹介で『女人短歌』に入会したような記憶がある。しかし、錚々たる歌人のおば様たちとご一緒するのは気も引けたし、気も重かったのだろう、そして、その年の12月に母を亡くしていることもあって、早々に退会したようなのだ。現在も所属している「ポトナム短歌会」入会前のことである。恥ずかしいが、以下のような作品だった。といっても、現在の作品と何ほど違うのかと思うとつらいものがある。

40号(19596月)

コーラスの聞こゆる屋上春の風に髪を吹かせて舊師を想ふ

勇気ある判決讀みて法律を学ぶ徒のわが今日を祝へり

闇の中鐵路に残る響きありて生きものごとき心を傳ふ

41号(19599月)

店頭に少女が並べるカン詰は雨季の朝陽に鋭く光れり

水道を太くして皿洗う遅き夕飯ひとりで終えぬ

白桃を冷やしてありぬ桶の水淡き紅色明るく映す

閉店のチャイムが流れるデパートに追はるる如く干物を買ひぬ

一箱のトマトを置きて豊かなる如き厨は灯さぬままに

ミキサー車静かな廻りが暑を誘うビルに囲まれしビルの工事場

ギリギリと土掘る機械を隙間よりながめて去れり和服の老女

 40号に表れる旧字は、当時の私は書くことが出来なかったと思うので、漢和辞典を引いたのか、阿部先生が直されたのか、編集部が直されたのか、定かではない。旧かな表記に関しては、古文の知識から必死になって使ったのだろうと思う。2首目の「勇気ある判決」とは、この年の330日の東京地裁の米軍駐留を違憲とした、いわゆる伊達判決だったのだろう。当時、創刊されたばかりの『朝日ジャーナル』を小脇に抱えたりした先輩がカッコよく見えた。私自身は、学友からは「氷川下セツルメント」の活動に幾度となく誘われたり、出版まもない丸山真男の『現代政治の思想と行動』、当時はまだ上下の2巻本だったが、読書会のメンバーに声を掛けられたりした時代だったが、参加するでもなかった。他大学の高校時代の旧友で「全学連主流派」の活動家から「法律なんて、いったい何の」とか責められたりもしていたが、といって、まじめに法律の勉強をする学生にもならなかった。

41号になると旧かな・新かなの混在であって、ちょっとまずいことになっている。41号末尾の2首は、実家がある、当時の池袋は、建設ラッシュのさなかであったことがわかる。

さっそく、連れ合いにも読んでもらうと、「若いね、前向きだったんだ」との感想であった。 

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国立国会図書館新館で開催中の「挿絵の世界」2017年10月10日~11月11日、図書館に通いながら素通りだったが、この日、複写の待ち時間を利用して、大急ぎで一巡りした。すこし想像とは違っていた。第1部挿絵の確立 第2部挿絵の展開 第3部挿絵の多様化 の構成であったが、なんか焦点が定まらない形だった。同じ挿絵でも、焦点を絞るべきではなかったか。新聞小説に限るとか、児童読み物に限るとか、印刷術の発達が挿絵をどう変えたか、一人の挿絵画家を追ってもいい・・・・などと。

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2017年6月23日 (金)

なぜ、いま、「斎藤史」なのか~6月12日の「大波小波」に寄せて

「大波小波」では

 もう、十日以上も過ぎてしまったので、旧聞に属するが、612日『東京新聞(夕刊)』の匿名のコラム「大波小波(魚)」は「<濁流>に立つ言葉」と題して、斎藤史の『魚歌』(1940年)と『朱天』(1943年)の各一首を取り上げていた。前者の「濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ」と後者の「御いくさを切に思ひて眠りたる夢ひとところ白き花あり」を引用して、史の「美しいイメージは権力に奉仕」する「一変ぶり」に「自立性」を失うことへの警告を発している。問われるのは、史ばかりではないとして「第二の<濁流>の中で立ち続ける言葉を持てるかどうかなのだ」と結んでいる。

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『東京新聞(夕刊)』2017年6月12日




  安倍政権が推し進めた特定秘密保護法(
201412月施行)成立、そして「テロ等準備罪」新設への疑問は、依然として根深い。しかも、テロ等準備罪に関しては、衆議院法務委員会で強行採決を経て、本会議で可決、参院では法務委員会の審議を打ち切り、委員長による「中間報告」をもって、即、本会議の採決とするなどの異例の手段で、可決、成立させた。法務大臣はじめ、曖昧な答弁が続き、解明されないままである。質疑は参議院に移っても、法務大臣がまともな答弁が出来ず、疑問は解明できず、「テロ等準備罪」の必要性がどんどんと崩れていった。組織的犯罪集団の解体、テロ防止、オリンピック開催に役立つどころか、監視社会の強化により市民の活動や言論は萎縮をもたらすだろう。短歌という小さな世界にかかわる表現者としても、このコラムでの指摘は、重く受け止めねばならない。

 

斎藤史研究の基礎的な作業は

斎藤史は、194112月の「開戦」を境に「一変」したというより、彼女が短歌や時代に向き合う姿勢に問題があったのではないかと思う。というのは、私自身、作歌とともに近現代短歌史に関心を持ったころから、著名歌人の戦争責任に触れないわけにはいかなくなって、斎藤史に着目した。彼女の短歌は、老若を問わず、その作品の魅力や生き方を賞賛してやまない歌人たちや読者が多い。そうした人々には、「一変」したのは時代の流れで、だれもが遭遇した、致し方のないことだったとする論調が多い。

 しかし、斎藤史に関しては、短歌にかかわる「事実」を、きちんと整理しておかなければならないことに気が付いた。もう20年以上も前のことになるが、私は『風景』という短歌同人誌に「斎藤史 戦時・占領下の作品を中心に」と題して連載していたことがある。「『斎藤史全歌集』への疑問」として、「大波小波」(東京新聞1998115日)に紹介された。基本的な作業として、史が、いつどのようなメディアに、どんな作品を発表していたかを明確にしておかなければと思った。当時に比べると、現在は、資料をめぐる環境も随分変わった。古本は、なかなか入手しにくくなる一方、国立国会図書館で、雑誌のデジタル化が進み、プランゲ文庫の新聞雑誌の検索可能になり、遠隔コピーの利用もたやすくなった。しかし、例えば、史が属していた『心の花』は復刻版もあるのでありがたいが、いわゆる短歌総合雑誌も欠号なく所蔵している図書館が少ない。父親の斎藤瀏と立ち上げた『短歌人』、さらに『原型』などを所蔵する図書館や文学館があっても欠号が多い。前川佐美雄らとの雑誌「日本歌人」「オレンジ」などになると、さらに難しい。最近思いがけず『灰皿』がデジタル化されているのを見つけたりした。
 
 史は、短歌総合雑誌だけでなく、さまざまな文芸誌、女性雑誌、業界雑誌や地方雑誌、児童雑誌、そして新聞と、その寄稿対象が広いので、網羅的な著作目録作成は不可能に近いかもしれない。これまで私は、作品を含めてほそぼそと著作目録の作成を続けて来たが、何ほどのものが集められたか心細い。史の場合は、同じ作品を、さまざまなメディアに、組み合わせを変えたり、あるいは、そっくり同じ作品を、再録との注記もなく、題を変えて、同時に発表したりすることもある。さらに、次に述べるように、歌集収録や『全歌集』収録の際の削除、改作にいたっては、夥しい数にのぼる。歌集収録に当たっての取捨や改作は、「歌集」自体を一冊の文学的な結実として評価するところから、普通によく行われていることであろう。その異同などが、作品鑑賞や研究、作家研究などの対象になることも多い。

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『朱天』1943年7月15日発行の初版の奥付けと「後記」の末尾。出版会承認3000部とある。スキャンすると、どうしても歪んでしまって・・・

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『朱天』1944年1月15日発行の再版の表紙とカバー。奥付けには出版会承認3000部とある。初版・再版ともに櫻本富雄氏から頂戴したものである

二つの『朱天』が意味することは

ところで、1977年刊行の『全歌集』に収録された『朱天』は、初版『朱天』より、つぎのような神がかり的な戦意高揚短歌を含む17首が削除されていたことが分かったのである。それは、『全歌集』刊行時、編集にあたった史が、どういう評価をし、どういう意図で、17首を削除したかは、定かではない。

多くの著名な歌人たちには、生前だったら自らの手で、没後は、遺族の手で、あるいは弟子や第三者の手で、さまざまな編集過程を経て、刊行される≪全歌集≫や≪全集≫を持つ。刊行の折には、明確な編集方針を示すとともに、その意図、理由をも示してほしい、というのが読者の願いでもある。そうすることが、≪全歌集≫や≪全集≫の資料的価値の決め手になるのではないかと思うからだ。歌集は、「てにをは」のミス訂正はともかく初版の原本が基本だろう。編集時の改作、作品の加除は、なすべきではないと、私は考えている。もし、どうしても、その必要があるならば、異同が生じた理由や経緯を明らかにしておくことが重要かと思われる。

 歌集『朱天』は、作歌時期によって、大きく「戦前歌」「開戦」に分かれるのだが、『全歌集』に『朱天』を収録する際に、斎藤史は、「戦前歌」という表題の下方に、「昭52記」と添え書きをして、次の1首を付記したのである。 

はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば 昭52 

 

 そして、初版1943年、再版1944年の「後記」は、「昭和十八年二月」付で、364首を集めた、と記している。『全歌集』の収録時には、この「後記」と同じ頁に、「昭52付記今回三百四十八首」と付記した。これだけを読むと、16首(364348首)を削除したことが推測されるが、その理由などは示されていない。その上、初版の『朱天』の収録歌数の実数は、365首だったので、実際の削除は17首であることが分かったので、照合してみると、たしかに、『全歌集』に収録されていない作品が17首あり、その中に、つぎのような作品があったのである。

國大いなる使命(よざし)を持てり草莽のわれらが夢もまた彩(あや)なるを(『朱天』6頁)


 初出は『日本短歌』19412月号、「秋より冬へ」15首の内の1

首であった。さらに、「使命」の部分は「理想」であった。




現(あき)つ神在(ゐ)ます皇国(みくに)を醜(しこ)の翼つらね来るとも何かはせむや(『朱天』95頁)



 初出は、『公論』19423月号「四方清明」5首の内の1首であり、『日本短歌』19424月号「春花また」6首の中にも見出すことができる。




神怒りあがる炎の先に居て醜の草なすがなんぞさやらふ
(『朱天』
147頁)

 

初出は『文芸春秋』194212月号、「北の防人を偲びて」10首の内の1首であった。『文芸春秋』の短歌のコラムは、現在も続いている、歌人も注目のコラムであるが、斎藤史の登場は、戦前戦後を通して、他の歌人に比べれば、例がないほど、その頻度は突出している。当時、1940年以降、平均すれば、年に1回は作品を寄稿していることになるのである。 

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『朱天』初版・再版とも頁割は同一で、最終の2頁5首の内、4首が『全歌集』から削除され、収録されたのは、最後の1首であった。綴じが崩れている個所もあって・・・


 『全歌集』刊行の
1977年以降、「昭和52付記」の「はづかしき・・・」の一首は、削除した作品を検証することもなく、独り歩きをした格好で、史が戦時下の歌集を隠すことなく、さらけ出した「勇気」や「覚悟」を称揚する論調が拡散した。

それは、戦時下においては、斎藤史が歌壇内外で“人気”の若手女性歌人であったからだろう。しかし、それは、歌人の父、斎藤瀏が226事件の反乱将校たちを幇助したとして服役し、1938年仮釈放された後、『心の花』を離れ、『短歌人』立ち上げたのが1939年であった。娘の史は、親しかった反乱将校たちを銃殺刑で失うという、“悲劇”を背負った歌人の父娘であったことと、瀏が、仮釈放後、歌壇に復帰したのが、軍国主義が強化され、軍による言論統制が露骨になった時期であり、歌壇のファッショ化の先陣を切る形での活動が始まったことと無関係ではなかった。その華々しい活動は、著作目録から見ると、他の女性歌人と比べて、そのメディア進出頻度は破格だったことが分かる。

さらに、戦後の斎藤史は、戦前の歴史的な検証というよりは昭和天皇との確執という「物語」を背負い、疎開地の長野にとどまって、父を看取り、長きにわたった母の介護に続き、夫の介護をも担うことになる。初版の『全歌集』が刊行されたのは、夫が亡くなった直後でもあった。

占領下、その後の斎藤史については、別稿としたい。


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2017年6月19日 (月)

戦時下の女性雑誌における「短歌欄」と歌人たち―『新女苑』を中心に   

 加計問題について調べていくと、いろいろ出て来て、書きとどめておきたいことがある。諮問会議のもとでは、ワーキンググループ、区域会議などの組織が設けられている。さらに、安倍首相が、「<分科会>で専門の先生方にも議論いただいて・・・、<分科会>知ってますか、知らないでしょう!」と、質問の議員に応えていた分科会、その議論の中身とて、首相の言う内容のあるものではないが、分科会自体と諮問会議との関係、内閣府地方創生推進事務局の中での位置づけが明確ではない・・・。今問い合わせているのだが・・・。

 今回、加計問題は小休止をして、最近、活字になった論稿をアップしておきたい。

 歌人、ジャーナリストであり、国文学研究者であった窪田空穂は、今年生誕140年、没後50年ということで、角川『短歌』6月号で「いまこそ空穂」という特集を組んでいる。私は、ここ数年、阿部静枝と斎藤史研究の基礎作業として、著作目録を作成中だが、二人とも幅広いメディアで活躍したので、かつての「婦人雑誌」と呼ばれ、多くの読者数を誇っていた女性雑誌に多くの作品やエッセイを残していた。そこでの文献探索中に、「婦人雑誌」の短歌欄に着目した。その一端を、『ポトナム』95周年記念号(2017年4月)に寄稿したので、再録しておきたい。紙面に制限があったので、かなり端折ってしまったが、あらためて、本などにまとめる際には、追補したい。

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 空穂の戦時下の作品については、島田修三「窪田空穂、戦時詠」『昭和短歌の再検討』砂小屋書房 2001年)の論稿があり、空穂の「戦争観」をたどり、「本人の意に添っての錯誤ないしは禁忌として封殺しつづけるならば、この巨大な歌人は生の全貌を不自然に歪ませたまま短歌史の闇をさままいつづけることになりはしないか」と結んでいる。今回の特集の執筆者は、ほぼ、空穂系の歌人で固められているので、
この辺りに触れているのは、今野寿美「忘るる得たり」で、『明闇』から戦時下の作品を除いた『茜雲』編集に衝撃をうけ、戸惑い、「報道のままに歓喜する姿の浮かぶ様相は、むしろ痛ましい」ともいうが。

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戦時下の女性雑誌における「短歌欄」と歌人たち―『新女苑』を中心に 

 

はじめに

拙稿「女性歌人はマス・メディアにおいてどのように位置づけられたか―敗戦前の女性雑誌の短歌欄を中心に」(『扉を開く女たち』二〇〇一年)では、主に『主婦の友』『婦人之友』を対象とし、「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか~女性歌人起用の背景」(『天皇の短歌は何を語るのか』二〇一三年)では、阿部静枝の執筆が多かった女性雑誌の短歌欄に言及した。本稿では、太平洋戦争下における女性雑誌『新女苑』の短歌欄と選者、女性歌人の短歌に焦点をあてたい。

『新女苑』は、『少女の友』の主筆内山基(19031983)が主筆を兼ね、一九三七年一月、實業之日本社から創刊され、当時としては、若い女性向きの斬新な雑誌であり、敗戦をはさんで一九五九年まで刊行された。「創刊のことば」によれば「若き女性の静かにして内に燃える教養の伴侶」「少女雑誌と婦人雑誌の中間的存在」を目指した雑誌であった。当時の主婦向けの実用雑誌『主婦の友』『婦人倶楽部』などとは一線を画し、働く女性たちをもターゲットにした女性雑誌であった。吉屋信子ら著名作家による小説、グラビア、エッセイ、手記、座談会などに加え、翻訳文学、海外事情などにも及び、各分野の時評欄を充実させるなど編集に工夫が見える。平塚らいてう・宮本百合子・山川菊栄・金子しげり・奥むめお・高良富子ら女性の論客たちもしきりに登場していた。そうした編集方針を背景にしている「読者文芸」の一つ、「短歌」欄における選歌の動向や入賞作品の推移を見てみよう。

 『新女苑』の研究として、入江寿賀子「『新女苑』考」(『戦争と女性雑誌』二〇〇一年)と石田あゆう「<若い女性>雑誌に見る戦時と戦後―『新女苑』を中心に」(『マス・コミュニケ―ション研究』二〇一〇年)があるが、歌人や短歌についての言及はない。内山基については、ともに二〇〇四年刊の遠藤寛子『《少女の友》とその時代』(本の泉社)、佐藤卓己「実業之日本社の場合―内山基の恨み」『言論統制』(中央公論新社)がある。 

窪田空穂が選ぶ「短歌」欄

一九三七年三月号からスタートした「読者文芸」の「短歌」欄の選者は窪田空穂(18771967)であった。

・いねし子の口は静かにほころべり夢みつるらしほほゑみのうく

(一九三七年三月 大分 黄金眞弓)

・此の襖へだてヽ未だ寝ぬ人のありと思へばお落ちつかぬかも

(同上 奈良 松谷千鶴子)

入賞作品は、家庭の日常、相聞や働く女性の歌も多く、毎月三頁にわたる一〇〇首以上の作品が掲載された。いわゆる戦時詠、銃後詠などは、他誌の読者歌壇に比べてかなり少ない。つぎに、一九四〇年二月号をのぞいてみると、四首目のような作品は極めて稀であった。

・つきつめし思ひにふれてこほろぎは一直線の聲透すなり

(西宮 徳山くら)

・務終へ心つかれし吾が目には時雨にぬれし舗道は美し

(京城 丘志津)

・つつがなく今日も終りて安らかに我が事務机ふき清めたり

 (東京 浜田彰子)

・やうやくに召さされし兄は胸張りて秋の大空にこヽろよげなり

 (鹿児島 立山成子)

一般的に、新聞・雑誌が読者歌壇を設けるのは、まず、短歌愛好者の読者獲得という営業目的のためと同時に、「短歌」は、比較的気軽に嗜むことができる文芸の一つであり、作歌をしない読者にとっても、教養・実用記事が続くなかで、ほっとできるオアシス的な存在であったのではないか。さらに、短歌愛好者、投稿者にとっては、読者層やテーマも限定的で、より親しみやすく、入選頻度が高く、満足度も高かったにちがいない。投稿される短歌も表現技術や公式的な戦意高揚を競うものではなく、心情を吐露する素直な作品が多かったことが垣間見られるのである。

『新女苑』「短歌」欄の選者は、通して窪田空穂が務めていた。『主婦之友』『婦人之友』の二誌では若山喜志子が長く、『主婦之友』では太田水穂も長かった。『婦人朝日』は今井邦子、『婦人倶楽部』は、交代ながら選者はすべて女性歌人であった。『婦女界』の佐佐木信綱も長い。『婦人画報』『婦人公論』は読者歌壇を持たなかったが、『婦人公論』は、一九四二年、「愛国の歌」を募集、土屋文明、北原白秋、佐佐木信綱が交代で選者を務めたことがある。

一九三七年七月七日中戦争開始を受けて、出版統制はますます厳しい時代に入った。翌年四月国家総動員法が成立、五月内務省警保局から「婦人雑誌ニ対スル取締方針」が発表され、九月内務省図書課から雑誌社代表に貞操軽視の小説は不可の指示が、一一月内務省から婦人雑誌編集者へは健全な母親教育・用紙節約の要請が、一二月厚生省からは婦人雑誌編集者に戦没者出征遺家族精神援護の要請が出された。一九四〇年一二月大政翼賛会は婦人雑誌編集者に対して母たる自覚の鼓吹を要請した。「要請」という名の弾圧は、さらに具体的になっていった。一方、女性執筆者に向けても、一九三八年一二月企画院は婦人団体への時局対策協力要請、一九四〇年一一月女流文学者会議発足、一九四一年五月内閣情報局の女性指導者らの時局懇談会召集などによって、統制と自主規制の両面から強化されてゆく。それは、一九四一年七月の警視庁による家庭婦人雑誌の整理統合要請につながり、八〇誌発行されていたものが一七誌に絞られ、一九四四年三月には、中央公論社解散により『婦人公論』は終刊、一九四四年末には、「婦人雑誌」として『主婦の友』『婦人倶楽部』『新女苑』、「生活雑誌」として『婦人之友』が残るのみとなった。

一九四四年、『新女苑』の「短歌」欄も、たった一頁に圧縮されてしまい、三四~五首のうち、三〇首近くが戦局・銃後詠であって、かかわらない作品は五首にも満たないという、当初との逆転現象が起きていた。選後評はなくなり、末尾に選者詠が二首だけ記されるようになった。

・引く線の機となり銃となる日の日に近し吾等励まむ

(東京 中越愛子 一九四四年九月)

・待ちしもの今し皇土に来向ふと配置に在りて人等臆せず

(島根 森蔦子 同上)

・この大事決せむ前の静けさの相見て笑めど言に出ださず

(窪田空穂 同上)

・民族の命は長し吉き事のかぎりあらぬをのちに譲らむ

(同上)

さらに、雑誌自体の頁数も激減し、「短歌」欄が見当たらない月もあって、一九四五年三月をもって、その灯は消える。三五首の入賞作から二首と選者詠二首を記しておこう。その後は、二冊の合併号を刊行して敗戦を迎える。

・わが包むこの菓子はもよ神兵の糧となるものぞ思ひ清しも

(山形 結城ひとみ 一九四五年三月)

・子の寝顔あどけなくしてゆり起すことをためらふサイレン聞きつつ

(三重 室井きよか 同上) 

・言にして怒りをいはむ時は過ぎ憎み極まる憎みを遂げむ

(窪田空穂 同上)

・奇しき火の見えぬ炎の揺らぎつつ国内をおほふこの神力

(同上)

 

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『新女苑』1945年3月号の表紙、目次と1頁だけになった「短歌欄」

選者、窪田空穂にとっての敗戦

ところで、選者の空穂は、与謝野鉄幹の『文庫』をスタートとして、短歌を中心とする文学活動に入り、ジャーナリストを経て、早稲田大学を根拠地とする古典の研究者となり、『槻の木』を主宰、十数冊の歌集を出版している。一九四一年には、歌人として、斎藤茂吉、佐佐木信綱らに続いて、北原白秋と前後して帝国芸術院会員となっている。この間の作品は第一四歌集『冬日ざし』(収録一九三七~一九四〇年。一九四一年六月刊)、第一五歌集『明闇(あけぐれ)』(収録一九四一~一九四年。一九四五年二月刊)がある。これらは、いま手元にある『窪田空穂全歌集』(短歌新聞社 一九七六年一二月)には収録されているが、『明闇』の改装版としての「戦時下の詠を除いた」『茜雲』(西郊書房 一九四六年二月)だけを収録する「全歌集」や「選集」があることがわかった。『明闇』は、刊行直後の空襲により大部分が出版元で焼失したという。『茜雲』の「後記」に、つぎのように記す。「内容の点からも見ても、再版は不可能なものである。それは戦時下の著者の感慨は、新聞ラヂオの報ずるところをそのままに受け入れ、国民の一人として発しさせられたもので、その他の何物でもなかつたのである。その間の詠は終戦後の今日、戦役その物に対しての認識を改めさせられた心よりしては、再び見るに忍びないものである。」

なお、一九五三年七月刊行の選集『窪田空穂歌集』(新潮文庫)の『茜雲』末尾の自筆メモでは、「(茜雲は)長歌三首、短歌六二八首より成つてゐる。戦局の明らかに険悪となつて来た期間の作で、その方面のものが相應にあつたが、出版は占領下の検閲の厳しい際であつた」と記されている。

そして、第一七歌集『冬木原』(一九五一年七月)に到る

のだが、戦時末期一九四四年から、病弱の次男茂二郎がシベリアの捕虜収容所で病死していたことを知る一九四七年までを収め、その「後記」にも、つぎのように記す。「選をするに当たつては戦局そのものを対象としたものはすべて捨てることとした。その当時にあつては、それらが感傷の主体をなしてゐたのであるが、既に敗色の歴然たる段階であり、新聞ラヂオ刺激としての長太息に過ぎないもので、時の距離を置いて読みかへすと、きわめて空疎なもののみで、とるにたりないものばかりだつたからである。」

『冬木原』は、「慟哭の歌集」「反戦の歌集」として、評価の高い歌集である。敗戦直後に刊行された『茜雲』『冬木原』の「後記」、後年のメモなどにおける解説をどう読むべきなのか。「戦時詠」「戦局詠」を除いたのは、占領軍の検閲の故なのか、戦時報道を受け入れただけの作歌が取る足りない故だったのか、判然としない。たしかに空疎な作品が多いのは事実であろう。しかし、その時代に、多くのメディアに発表し、それを歌集となし、多くの読者を得て、さらには、結社や読者歌壇欄などで、翼賛的な作品を選んだ指導者としての責任はどうなるのだろうか。もちろん、窪田空穂だけではない多くの歌人たちが遭遇した問題であった。すなわち、敗戦後、戦時下の作品をいかに「処理」したのかは、現代にいたるまで戦争責任、戦後責任の課題を提示しているはずである。

 


『新女苑』に登場した女性歌人たち

女性歌人は、短歌作品に限らず、エッセイなどでも、柳原白蓮、今井邦子、若山喜志子、茅野雅子、四賀光子らのベテランが起用されるなかで、中堅や新進も登場した。一九三六年『暖流』を刊行、一九四〇年『新風十人』に参加した五島美代子(18981978)は、『暖流』の序文で川田順に「母性愛の歌人」と称揚され、胎動を詠んだ初めての歌人とも言われている。夫のイギリス留学に伴い、海外体験のある美代子は、空襲下のロンドンの惨状にも思いをはせるが、日米開戦前後は、二首目のような変化を見せる。

・ロンドン空襲の記事なまなましく胸にありていはけなき子のしぐさ見てゐる

(五島美代子 一九四一年三月)

・ますらをが建てやまぬ天の柱のもと踏みてかひある女の道見ゆ

(五島美代子 一九四二年一一月)

また、大正末期以降、働く女の母性、愛児の歌を詠み続けた中河幹子18951980)もつぎのような歌を寄せる。

・ますらをの北に南にいのち死に國ぬち安けきに涙ぐましき日々

 (中河幹子 一九四三年七月)

・警戒警報の笛なりわたるうす月夜子をかかへ強き女を感ず
(同上)

五島とともに、『新風十人』に参加、二・二六事件にかかわった父斎藤瀏、反乱軍として刑死した幼馴染を詠んで注目された斎藤史(19092002)も、短歌をたびたび寄稿する。

・街の果に冬雲垂りてにごりつつ我にとよもすたたかひの歌

(斎藤史 一九四一年三月)

・微少なるわれらが生を思へらくいのちはいよよしろじろと燃ゆ

(斎藤史 一九四二年九月)

 しかし、こうした女性歌人の作品すらも、一九四三年後半から登場することがなくなり、一九四四年に入ると、男性歌人のストレートな戦意高揚歌やエッセイが毎号登場するようになる。その実態と背景については別稿に譲りたい。

(『ポトナム』2017年4月所収)(画像は、ブログ再録に際して掲載した)


<参考>
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いずれも『新女苑』の短歌のコラムで、1942年頃から、女性歌人に代わって男性歌人が起用され、ほかに、浅野晃、会津八一、半田良平、影山正治、逗子八郎(=井上司朗、吉井勇らの作品が登場する。

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2017年5月17日 (水)

正岡子規について書きました

 今年は子規生誕150年という。『現代短歌』の特集<子規考>に書いたものです。誌上では子規作品の発表年に誤植がありましたので、送稿の原稿を掲載します。先日発売の6月号には、訂正記事が掲載されています。

 

              ◇ ◇ ◇

子規との気ままな出会いから      

 

子規について、私は、中学校の国語教科書においても、作歌を始めてからの文学史・短歌史においても、素通りに近かった。私の関心は、もっぱら現代短歌にあった。ただ、一九六〇年、学生時代に入会した『ポトナム』は、小泉苳三の書誌学的研究の伝統がまだ残っていたし、私の職場が図書館だったこともあって、書誌への関心は深まった。例えば、戦時期の発禁歌集・歌書、占領期のプランゲ文庫内歌集・歌書の目録や『ポトナム』の小泉苳三、阿部静枝らの著作目録の作成を始めたのが1970年代であった。苳三の『近代短歌史(明治篇)』(白楊社、一九五五年。一九六九年再版)では、近代短歌史の時代区分や子規の役割をめぐる考え方に違いがあることを知った(拙著「小泉苳三と『近代短歌史・明治篇』」『ポトナム』一九八四年八月)。

 

退職後、マス・メディア史を少し学ぶ時期があって、明治期の新聞史において、藩閥政府を批判する陸羯南の『日本』を根拠地とする、ジャーナリスト・俳人・歌人としての正岡子規に出会う。そこで、私が何よりも興味深く思ったのは、病身ながら従軍を思い立ち、種々の曲折を経て、実行したことであった。同僚や『国民新聞』の徳富蘇峰、国木田独歩の従軍記事に刺激されたからだろう。一九八五年三月三日広島に向かい、四月一〇日宇品港を発つが、日清戦争はすでに休戦、船上で下関条約批准を知る。日記には「五月十日 講和成り万事休す」とまで記し、五月一七日帰国船上で喀血するという顛末であった。子規の従軍日記は、愛国的というよりは、軍隊内の差別に激しく抗議する一方、戦後の大陸の山河や小動物、村人の営み、日本兵や記者たちの日常を克明に綴るものであった(拙著「子規の従軍」『運河』199712月)。

 1894年: 
生きて帰れ露の命と言ひながら(従軍の人を送る)
日の旗や淋しき村の菊の垣(天長節)

1895年: 

戦ひのあとに少き燕かな(金洲 燕) 

君が代は足も腕も接木かな(予備病院 接木) 

行かばわれ筆の花散る処まで(従軍の時) 

なき人のむくろを隠せ春の草(金洲城外 春草)

  当時の私の子規認識はここまでで、その後、『正岡子規、従軍す』(末延芳晴 平凡社 2011年)を読み、子規の従軍の目的や背景について新たな示唆を得た。子規は「なぜ、従軍したのか」について、戦争を国と国との喧嘩とみなし、正義による制裁をすべく主体的に参加する意欲と、天皇を国家の中心的頂点に位置づけ、戦争翼賛・植民地容認への過程をたどることによって解明し(304308頁)、「国家と国民は、共同の敵を打ち倒し、祖国の危機を救うという意識と使命感の共同性」を希求した結果だとする(318頁)。 

子規は、八〇句ほどの従軍俳句を詠んだが、同時に、一七もの漢詩を残した。従軍という過酷な世界の印象やイメージ、感慨や情念を、俳句ではストレートに表現できない限界を感じたのではないかとする(218219頁)。さらに、従軍俳句のベースには漢詩があったとし、俳句との相関関係を具体的に示す。「なき人のむくろを隠せ春の草」「戦のあとにすくなき燕かな」の原イメージは、漢詩「三崎山」の「枯骨に春草生じ」、「金州城外」の「乱後の亡民 求むべからず/杏花の空屋に 燕児愁ふ/遼陽の四月 草猶短く/行人の為に 髑髏を掩はず」にあったとする(229263頁)。子規の漢詩や新体詩には、「敵を斬って斬り払え」といった過激で物騒な文言が並び、アジア民族への蔑視をあらわにする。こうした傾向は子規に限らず、子規の時代に限らず、本来ならば、国家の方向を質してゆくべき多くの知識人、文学者、ジャーナリストという市民社会のリーダーたちの陥穽であったのかもしれない。 

 また、品田悦一『万葉集の発明』(新曜社 2001年)に接したときは、日本の近代化の過程で萬葉集は<発明>されたとするなか、萬葉集が時代を超えて「国民歌集」となってゆく経緯を教えられた。品田の書誌的な分析の起点は、小泉の『近代短歌史(明治篇)』の萬葉集再評価の系譜であり、さらには子規による萬葉集評価にあったのではないか。  

その後、ふたたび子規に出会ったのは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』であり、それを原作とするNHKのテレビドラマであった。その子規像は、原作とも異なり、史実とも異なるフィクションに戸惑ったのであった。

  そして今、年を経て、病床記たる『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病牀六尺』などを読んで思うのは、子規の「終活」の見事さであり、介護を担った母と妹、律の存在であった。(『現代短歌』2017年5月)  

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2017年3月24日 (金)

「歌会始」を通して考える「天皇制」

「歌会始」を通して考える「天皇制」

以下の文章は、昨年の7月下旬に発売された雑誌『ユリイカ』(20168月号)に寄稿したものである。以降、天皇をめぐってのさまざまな環境も変化した。私自身の周辺でも、以下の文章をめぐって、いくつかの批判も公にされたし、論争の的にもなった。その一方で、いささかの励ましもいただいた。『ユリイカ』を読む機会が少ない当ブログの読者や歌人の方にも是非お読みいただければと、掲載することにした。「歌会始」は、憲法上規定のある天皇の「国事行為」でもなければ、「私的行為」でもない「公的行為」とされているが、憲法上にも皇室典範上にも規定があるわけではない。 


( 3月27日補記)

下記のエッセイと直接関係はないのですが、昨日、下記のブログ「短歌のピーナツ」に、牛尾今日子さんという方が、拙著『現代短歌と天皇』(2001年)の書評を書いてくださっているのを知りました。ありがとうございます。1994年生まれの京都にお住いの歌人です。ていねいに読んでくださって、疑問を呈されている個所もありますが、ともかく、拙稿に記された「事実」と文献をたどって、役に立つことがありましたら幸いです。

「短歌のピーナツ」の書評シリーズの51冊目に当たります。私も、時々寄らせてもらっています。読んでない本は、読んだ気になってしまいそうになるほど長いです。最近では、「万葉集の発明」、「短歌のジェンダー」「窪田空穂の身の上相談」などが面白かったです。

「短歌のピーナツ」

2017年3月25日

http://karonyomu.hatenablog.com/

◇◇◇◇◇

タブーのない短歌の世界を―「歌会始」を通して考える

今回の特集の企画書によれば、筆者は、まさにアウェイの感を免れない。あえて飛びこんだのは、現代短歌は、歌会始・天皇・天皇制を看過できないはずとの思いからである。

「歌会始」、無関心を標榜する歌人たち

岡野弘彦や岡井隆の世代はもちろんのこと、穂村弘、さらに山田航の世代に至るまで、無関心であろうはずがなく、必ずや少なくとも、歌会始の現況を見極めているはずである。和歌御用掛り、選者、召人となった歌人自身が、そのことを世間にあらわにして、その地位を誇らしげに語るのは、岡野・岡井どまりで、以降、多くの歌人は、選者、召人になったり、陪聴者になったりしたことすらも、身内や仲間内ではともかく、自ら世間には公けにせず、語らないのが流儀のようなのである。「歌壇」を構成する歌人たちといえば、まったく無関心のふりをしながらも、横目で一瞥していることは確かであろう。天皇や天皇制について考えるのは面倒な上、いつか自分が招ばれる日が来るかもしれないと、静かに控えている歌人は多いにちがいない。

 

①ゴージャスな背もたれから背を数センチ浮かせ続ける天皇陛下(穂村弘)

(『短歌往来』20102月)

②天皇は死んでゆきたりさいごまで贔屓の力士をあかすことなく(穂村弘)

(『短歌研究』200610月) 

穂村弘は、①について「これは、歌会始での天皇陛下の様子なんです。歌会始に招待されるシステムみたいなのがあって、毎年いろんな人が呼ばれていますが、それに行ったことがあって、わりと近くで天皇がいらして・・・これはわりと、リアルな歌で、現在の天皇のことです」と自作を語り、平成に入って、歌会始の陪聴者になったことをさりげなく明かしている(『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』新潮社 二〇一二年、178 )。また、同書の山田航の解説によれば、①は、岡井隆、石井辰彦らと朝日カルチャーセンターの朗読会(二〇〇九年九月六日)の「皇居を詠む」のテーマで朗読した作品だったという。続けて、山田は、①について、穂村は、ある時期「天皇であるということは尋常ではないほど厳しい自己規律が必要なのだと気づき、そこに激しい他者性を見て」「時代と自己との関係性を見つめなおすようになった」として、②では、平成の天皇には「昭和天皇に見出している人間くささとはまったく異なっている」ものを見て取る(177p)。

穂村の「歌会始に招待されるシステムみたいなのがあって、毎年いろんな人が呼ばれていますが」の書きぶりからは、あえて深く考えないポーズをとる。山田は、「他者性」「関係性」といった用語を使用するが、近頃のテレビタレントのキャスターでさえ好んで口にする、一種の流行語にも思え、内容的には何も踏み込んで語っていないことになる。

世代的には確かにバランスをとっている現在の歌会始選者、篠弘から三枝昂之、永田和宏、内藤明、今野寿美の五人に至るまでの曲折や現状について触れる時評や論評は極端に少ない。選者の出自や師系をたどると、篠(まひる野)、三枝(かりん⇒りとむ)、永田(塔)、 今野(まひる野⇒かりん⇒りとむ、三枝の妻)、内藤(まひる野⇒音)ということになり、アララギ系の高安国世創刊の「塔」の永田を除いて他の四人は、すべて窪田空穂・窪田章一郎系にたどり着く。かつては、いいも悪いも偏らない配慮がなされていた。現在にあっては、多くの歌人が、所属結社の主張、師の系統による特色を厳密に受け継いでいるとはいいがたく、薄らいでいるとは言うものの、いかにも偏向のそしりは免れないだろう。

かつて、岡野・上田三四二の戦中派が選者入りした一九七九年、そして、天皇の代替わり後の岡井隆が選者になった一九九三年のときには、歌壇の反応は熱く、持続していた。さらには、敗戦直後の論争にもさかのぼることができる。 

戦後短歌史における「歌会始」

戦後短歌史における短歌と天皇制の問題は、具体的には「歌会始」の問題に集約されるだろう。詳細は、拙著『短歌と天皇制』(一九八八年)『現代短歌と天皇制』(二〇〇一年、ともに風媒社)『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 二〇一三年)にゆずるが、ここで、要点をさらっておけば、つぎのようになる。

一九四七年からの“新生”歌会始は、宮内省の御歌所の旧寄人二人と佐佐木信綱、斉藤茂吉、窪田空穂のいわゆる民間歌人三人を選者としてスタートした。御歌所主事を経て、当時は歌詠課課長、その後長い間侍従長を務める入江相政が実務を取り仕切っていたことは『入江相政日記』に詳しい。天皇制自体、天皇の戦争責任論、退位論などが取りざたされる存亡の危機に瀕した激動の時期であり、昭和天皇の歌会始以外の短歌を一般の雑誌や新聞にリークするなど、現在では考えられないほど、その政治的利用も活発であった。

一九五〇年六月に始まった朝鮮戦争による日本は特需景気を経て、一九五二年四月のサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約発効により独立することになるが、同時に、沖縄はアメリカの軍政が固定化し、日本の各地での米軍基地は強化されていった。さらに、日本遺族会設立、軍人恩給復活、自衛隊法成立、小学校に「道徳」復活など「逆コース」をたどる。一九五八年皇太子の婚約が決まると、皇室ブームを週刊誌ブームが支えることになる。歌会始の選者も、木俣修や五島美代子の起用によって、四賀光子と女性二人の時代がしばらく続くことになる。一九六〇年新安保条約成立後は、安保反対の国民運動も後退し、経済高度成長期を迎える、そのころの岡井といえば、現代歌人協会が歌会始入選者の祝賀会を開催したことについて、かなりのハイテンションで、つぎのように述べていた。

 「(宮中の)の一行事に文学の仮面をかぶせた歌人たちは、その仮面性を知っている以上、腹であれらの歌の形をしたものどもをわらっているか、否定している筈である。あるいは仮面でも詐称でもないという人がいるかもしれない。その人には、あの皇室関係者の御歌を一つ一つ自己の文学観に照らして価値づけてもらわねばならない」

「この歌会始の儀につながる一切事は、旧支配者に対する民衆の残忍な戯れなのであろうか。尊王の至誠が、皇室の民主化の至情が、とにかくそうした熱情のたぐいをすっかり凍結しつくしたところに生まれる非情な遊びなのだろうか。しかし、そこには美がない。この非情な穢醜を、私を肯定することができない」

(「非情の魅力について」『現代歌人』創刊号一九六〇年五月 4748頁)。 

一九七九年いわゆる「戦中派」の中核でもあった上田三四二(一九二三年生)と岡野弘彦(一九二四年生)が佐藤佐太郎と宮柊二に代わって、歌会始の選者になったとき、一九六〇年代には角川『短歌』の編集にも携わった同世代の片山貞美は、つぎのように批判した。

 

「事は天皇・皇族の参加する宮廷行事である。当然のことに参加する者の意識は改って、天皇を頂点とする制度の秩序のなかに整然と組み入れられることをあらわにする。(中略)つまり詠進歌の行事は今日では短歌の文学的問題をほとんど含まず、政治的問題が主だと見なければならないのだ。だから選者は選歌を通して天皇制支持という姿勢をあらわにすると見なければなるまい」

(「二人の戦中派」(角川)『短歌年鑑一九七九年版』) 

さらに、天皇制は家父長制とともにわたしたちの生活の根にかかわる問題で、「戦中派はそうした問題に一九四〇年代の戦争体験によって最も鋭く迫った人びとのはずである」から、選者になることは許せないと言い切った。しかし、一九七九年六月元号法が施行され、『短歌』は、一九八四年から、翌年の「宮中歌会始詠進要領」の掲載を開始する。短歌総合雑誌が「要領」を掲載、選者の一人岡野弘彦の詠進の勧めともいうべきエッセイや宮内庁での歌会始のプロモーターである入江相政のエッセイなどが続く時代の始まりとなった。戦後の短歌史上、短歌総合誌が、国の皇室行事に加担するというエポックをなした。さらに菱川善夫の『短歌』論文削除事件などが明らかになるのもこの時期であり(菱川善夫「変化と病―昭和五十年代の時代状況」『短歌現代』一九八五年二月)。歌壇全体が自粛ムードのなかで推移することになったことは、ある年代以上の歌人には覚えがあるのではないか。

一九九年の歌会始選者に岡井隆が就任することが公になった一九九二年秋、歌壇の様相は少し違っていた。「前衛歌人」の岡井が選者になったことの衝撃は少なからずあった。詳しくは筆者作成の「岡井隆歌会始選者就任関係書誌(一九九二~二〇〇〇)」(前掲『現代短歌と天皇制』所収)を見ていただけばわかるように、全国紙から同人誌に至るまで、必ずしも網羅的ではないにしても、その反響は数年にも及び、八〇点近く、アンケートなどを含めればその発言者は一〇〇人に達するだろう。岡井自身の発言も7点ほど含んでいる。岡井が、繰り返し主張し続けたのは、「歌会始は、だれもが参加できる奔放最大の、知名度の高い短歌コンクールで、国家や皇室との関係はいまや薄くなってきた。これからの歌会始は、参加する多くの応募歌人により、反権力を歌ってきた歌人らが選者になることによって、イメージは変わる」ということだったのだろうか。座談会やインタビュー記事からだけでは不明確な点が多い。さりとて、岡井自身の執筆になる、たとえば、「あるニヒリストの演舌―歌会始の件につき」(『未来』一九九三年一月)、「歌会始の選者として」(『短歌往来』一九九三年二月)などを読んでも、独特の言い回しではぐらかされた感じがしないでもない。代表的な反響として、上記『短歌往来』の一五名による「アンケート・岡井隆氏が歌会始の選者を引き受けられました。そのことにつき率直な意見を述べてください」の回答が、温度差はあるものの、裏切り、嫌悪、遺憾、不可解、失望、好ましくない、納得できない、天皇との距離を保つ、などが一〇名、一方、騒ぐこともない、興味がない、ぴんと来ない、驚くこともない、今後に注目したいという五名だったというのも興味深い。当時、『未来』で岡井隆の選歌から離れた会員、『未来』から離れた会員もいたという。

 近年の岡井隆は、歌会始の選者はやめたが、和歌御用掛として、皇居に通っているし、メディアへの露出度は高く、その発信力は衰えてはないようで、むしろ焦りさえもかんじさせる。昨年から今年にかけて、短歌誌ばかりでなく、つぎのような一般メディアにも登場する。

『朝日新聞』(夕刊)「人生の贈りもの」(二〇一五年二月)という一〇回のインタビュー記事では、

「かつてのマルキストが、歌会始の選者を引き受けたのはなぜか」の質問に、一九七〇年に蒸発して九州へ行った後で考え方を変え、五〇歳前後で思想転向したとして、つぎのように続ける。 

「ぼくみたいに若いころ天皇制を否定していた左翼の人間が転向したわけです。日本の文化人って、転向しても理由を述べない人が多いねえ。あれはやっぱり書くべきだと思います。説明責任があります。僕はその理由をいろんな機会に『自分が若いころには分かっていなかった』とちゃんと書きましたよ。それを経たあとは、ずーっと揺るがない。その一つの表れとしての歌会始です」(『朝日新聞』二〇一五年二月二六日付夕刊) 

ここでは、明確に「転向」に言及し、何度も「説明責任」を果たしてきたというが「若気の至り」

では、説明したことにはならない。現に、二〇〇八年の段階では、これも、小高賢との対談で「岡井さんの選者就任で一番足りないのは、ご自身の論理的説明ではなかったか」の質問につぎのように答えていた。

 「振り返って客観的に眺めてみると、やっぱり僕は転向したのだと思う(中略)。自分自身のためだけでもいいから、きちっとあきらかにしておく必要があったかなあと思う。ただなにか書こうとすると、みんな、大島史洋君もそうだったけれど、『岡井さん、もうやめなさい。何を言ったって、全部、言い訳に取られるから、何も言わない方がいいですよ』というから、そう思っちゃった」

(『私の戦後史』角川書店 二〇〇九年 二九六頁)

 

私の検索の限りでは、以後も論理的に説明している発言が見当たらない。岡井は、さらに「宮内庁和歌御用掛が明かす 佳子さまの和歌の素養」(『文藝春秋』二〇一五年六月)においても、歌会始を「国民参加型の文化行事」と位置づけ、最近体調を崩した折に(和歌御用掛の)後継者を探したが「適任者が見つかりませんでした」と記す。しかも、天皇・皇后は平和への特別な想いを持っているので「お歌に助言をさせていただく人間として戦争体験者の私がお役にたてるのではないかと、考えるようになり」、「両陛下がご公務に頑張っておられるわけですから、私も頑張らねばいけません。体力が続く限り、御用掛を続けさせていただこうかと思っております。」と結ぶ。

二〇一六年に入って、『朝日新聞』の「はじめての歌会始~皇室と国民 同じお題で心詠む」(「文化の扉」一月一〇日)にも登場、「2万人以上の人が一つのお題で定型の詩を作りあうのは、他国にはない」「歌会始は、日本の伝統が脈々と続いていることを世界に知らせる良い機会なのです」と述べている。はたして「日本の伝統が脈々と続いている」歌会始なのかは、明治以降の歌会始のありようを見ても、そんな素朴なことではなく、戦略的な結果が今に至っていることを承知の上、見て見ぬふりをしていることではないか。

現在五〇代以下の歌人たちは、先にも述べたような歌人への言論統制・圧力について、今の世の中においては、なおさらそれはありえない、自分はそんな目には合ってはいないと、楽観している向きも多いかもしれない。しかし、現在にあっても、天皇・歌会始のことに言及するとき、選者と師弟関係・友好関係があったり、自分に目をかけてくれる選者であったりすると、たとえ異議があっても、急に言葉を改め、敬語が増えたり、慎重な言い回しになるか、無関心・無言をつらぬくことが多いと、私は見ている。自覚的、無自覚的を問わず、すでに自粛や萎縮にもつながっていることを指摘しておきたい。

 

聖域やタブーをつくらない議論の場を

こうした歌壇の大きな流れのなかで、私は、最近、一つの事件に遭遇した。それに連なるもろもろのことに共通して見えてくるものは、やはり国家権力の文芸への介入を受忍する、民主主義の衰退であった。

二〇一五年一二月、現在の歌会始選者の一人今野寿美が二〇一六年から『赤旗』の歌壇選者になるという記事であった(『赤旗』1228日)。今野寿美の思想の自由、『赤旗』の編集の自由だといって、片づけられる問題なのだろうか。今野の選者としての歌会始の自身の作品と『赤旗』歌壇の選歌の結果を比べてみてほしい。明らかにダブルスタンダード的な要素が伺える。『赤旗』歌壇の選者を務めたことのある歌人の「なんかおかしい、今野さんの選歌は、明らかに『赤旗』におもねすぎている」との感想は聞いていたが、この件についての論評は、今のところ見当たらない。だが、これには、前触れがあった。一九四七年以来、七〇年近きにわたって、「玉座」から天皇の「おことば」が述べられている国会開会式には参加していなかった日本共産党が、二〇一五年のクリスマス・イブに、二〇一六年の通常国会から出席すると発表したのだった。そのために開かれた記者会見の模様を、『赤旗』より詳しく報道したのが『産経新聞』であった(一二月二五日)。「共産党、国会開会式に出席へ 天皇陛下御臨席に反対方針を転換「アレルギー」払拭へ」の見出しで、共産党は安全保障関連法の廃止を求める野党連立政権「国民連合政府」構想を提案しており、従来の対応を変えることで他党に根強い「共産党アレルギー」を払拭する狙いがあるとみられる、と報じた。ちなみに、「朝日新聞デジタル(12241249分)」では、「共産党が通常国会開会式へ 党として初、野党と同調」の見出しで、これまで天皇陛下の出席を理由に欠席してきたが、方針を転換した。開会式に出ている他の野党と足並みをそろえることで、来夏の参院選での共闘へ環境を整える狙いがある、とした。

さらにさかのぼれば、二〇〇四年の新綱領、昨二〇一五年一〇月の「日米安保条約廃案一時凍結」の発表で、野党共闘、アレルギー払拭をめざし、一枚一枚、たけのこのように、皮をはいで行って、残るものは何なのだろう。そういう流れのなかで、一見、寛容で、ウイングを広げたかのような『赤旗』紙面への著名歌人の登場、歌会始選者の『赤旗』歌壇への起用であったのである。だが、一方、歌人に限らず、いささかでも異を唱える者の排除や無視という非民主的な要素、開かれた議論の場を想定しがたい状況が、蔓延しているのではないかが懸念される。思想の自由、表現の自由を守ることの難しさを痛感するのである。

歌壇に限って言えば、そんな風潮を早くよりキャッチし、警鐘を鳴らし続けている歌人もいる。そして、二〇一六年の年末になって、佐藤通雅は、拙著3冊をあげて「果敢にタブーに踏み込んだこれだけの作業を、見て見ぬふりをいいのかと義憤の念にかられて、私はいくつかの文章を書いてきた」との論考が発表された。拙著で述べた「天皇・皇后の被災地訪問は、政府や企業あるいは自治体の被災地・被災者対策の不備を補完する役割」とすることについて、佐藤は、「補完の域を脱した、内部からの抵抗を感じることが何度もある」「為政者への無言の異議申し立て」であると、私の考えとの違いをも踏まえ、「いずれにしても、選者になったとたん黙して語らないのも、周りが見て見ぬふりをするのも不健全にはかわりはない。タブーはもう脱ぎ捨てて、さまざまな角度から意見を出し合い、問題を共有していくことを私は望んでいる」と結論付けた(「歌の遠近術12短歌と天皇制への視点」『短歌往来』二〇一五年一二月)。

しがらみのない、インターネットの世界から巣立つ歌人たちにも、ぜひ、歴史から学び、聖域やタブーをつくらない議論の場を構築し、こまやかな感性とゆたかな感情を大切にしてほしい、と願う。

 

 

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2017年3月 2日 (木)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(8)シンポジウム「時代の危機に立ち上がる沖縄の短歌」に参加

なぜ、参加したのか

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当日資料の表紙

 

これまでの沖縄紀行記事と時系列的には前後するが、25日(日)に那覇市で開催されるシンポジウム「時代の危機に立ち上がる沖縄の短歌」に参加するのが、今回の沖縄行きの目的の一つであった。これまでの沖縄行きに引き続き、戦跡を訪ね、基地反対の現場を訪ねることがもう一つの目的で、計画を立てた夫は、最後まで調整にあわただしかった。シンポの時間帯はもちろん別行動としたが、辺野古・高江行きは、今回断念せざるを得ず、(1)~(7)の記事の通りの成り行きとなった。

 沖縄愛楽園から那覇市のシンポ会場まで車をお願いすることにした。計画では、名護からは高速バスと思っていたところ、愛楽園から乗った車の運転手は、「ご提案なんですが」と、高速バスの二人分の料金に1000円上乗せすれば那覇に直行できますよ、とのこと。上記シンポの会場となっている青年会館までお願いすることになった。高速を乗ったり降りたり、路線バス状況だったりの行きとは違って、いくつかのトンネルをぬけて、渋滞もなく、運転手さんの話を聞きながらのドライブで、予定より早く会場に着き、正解だった。

 

  今回のシンポに出かけることになったのは、本ブログでも紹介した『うた新聞』紙上の吉川宏志さんと私の論争?なるもので、吉川さんが「京都と東京で開かれたシンポに参加もしないで、不確かな伝聞で批評するのは、けしからん」というところから端を発し、私の他の文章の批判にも及んだ件があったからである。この件について、吉川さんの文章自体は、ブログへの再掲はできないが、私の反論は、再掲しているので参考にしてほしい。


吉川氏との<論争>、その後(2016年12月14日) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/12/post-0945.html


 ここで、あらためて、言っておきたいのは「不確かな伝聞云々」は、明らかに間違いで、私は、シンポ開催当事者のレポートと、参加者の氏名明記のブログ記事、同人誌の文章を、出典明示の上で、引用していたのである。それを「不確かな伝聞」とすることが、理解できないでいる。直接体験がなければ批評できない、ということになれば、歴史研究など成立しないことになりはしまいか。資料や史料の読解・分析がカギであろう。そんな経緯があって、京都、東京に続く、沖縄でのシンポであったのである。会場は、たしかに遠いが、沖縄の歌人の何人からか、お誘いも受けていたので、参加した次第。



何が語られたのか

 始まる前に、沖縄側のコーディネーターの屋良健一郎さん、事前に私信や資料のやり取りもあったので、まず挨拶を。本土側の吉川さんにも挨拶、少しびっくりした様子で「おっ、ほッほッほ、どうも」ということだった。(以下敬称略)

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鼎談「沖縄返還から現在まで」、左から名嘉真、永田、三枝の各氏

 

 

 比嘉美智子の開会のあいさつに始まり、鼎談は、三枝昂之、永田和宏と沖縄在住の名嘉真恵美子の3人によるものであった。進行は三枝で、永田の最初の発言は「今日の会は政治集会ではないので、短歌の表現を問題にしたい」というもので、「沖縄に基地が集中していることへの思いや考えはある。しかし、そのまま短歌にすると空々しくなるので、自己相対化が必要」とする。三枝は、遠く離れた沖縄は日本なのか、本土ともいえない戸惑いを感じる、とする。また、名嘉真からは、沖縄の短歌を本土のモノサシで批判する傾向にある、とする。

 このあたりのことを、『琉球新報』は、翌日の記事で、鼎談では「<沖縄>を詠む際の後ろめたさ戸惑いのようなものを含めて話し合われた」(「沖縄の表現模索 県内外の歌人集い討論」『琉球新報』201726日)と報じ、後の223日の記事では、3人の作品を通して「沖縄を詠うときの逡巡。<沖縄は日本か><日本はこれでいいのか>。他者そして自身に問いながら、答えの出ないもどかしさが見える」と報じた(「時代の危機に立ち上がる短歌 沖縄で問う<歌の力>歌人ら向き合い方議論」『琉球新報』)。

 しかし、私が聞いていた限りでは、やや印象が異なっていた。永田は、自作の「どうしても沖縄は私に詠へない詠へない私を詠ふほかなく」(『現代短歌』20172月)などを引いて、時代の危機に際して、短歌は政治の言葉ではないので、安易に意見を言ってはならない歯止めが必要であることを強調していた。三枝も、自作「自決命令はなかったであろうさりながら母の耳には届いたであろう」(『それぞれの桜』2016年)とこの作品と対になっている、資料には出ていない「自決命令はあったであろう母たちは慶良間の谷で聞いたであろう」などを前提に、自決命令の有無については、簡単には結論が出ないとしての両論を踏まえるもどかしさを語っていた。

 鼎談後の沖縄県内外の10人の歌人たちのスピーチで、一番バッターの玉城洋子は、上記の鼎談を受けて「沖縄の短歌はどこへ行く、辺野古の海は、沖縄人のアイデンティティ」の思いを語った。私も、永田と三枝の逡巡と用心深さは、何に由来するのかを考えていた。自らの未知や無知について、謙虚で、慎重になることは大切なことだが、ためらい、戸惑い、自らの思いをストレートに語ることをしないうちに、現実は待ったなしで、進んでしまうのではないか、の疑問がもたげた。この「逡巡」は、現実逃避にも連なる気がした。同じような趣旨の質問が会場からも提出されたような報告があったが、質問の詳細も回答もなかった。

後半の「沖縄の現在・未来の社会詠」には、中堅の大口玲子、光森裕樹、屋良、吉川の4人が登壇した。とくに、気になったのは、屋良が「言挙げしない/できない人々」の声として、米軍基地で働く人や高校生らの短歌への目配りの必要を説いたことだった。声をあげない人々といえば、いまだに真実を語れない、地上戦や集団自決で肉親を失った人々、土地を強制収用で家も失った人々、投降した兵士や強制隔離を余儀なくされたハンセン病の人々が、いまだにその体験を口にできない苦しさや事情を持ち、語り継ごうとすると様々な圧力・妨害と直面しなければならない実態、声なき声をも忘れてはならないはずである。

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 「沖縄の現在・未来の社会詠」左より大口、光森、屋良、吉川の各氏




 
私のわずかな沖縄体験ながら、伊江島、屋我地島、渡嘉敷島の人々の記録や証言に接し、また、中南部の戦跡をめぐるだけでも、その地の声、風の声の衝撃は、身を突き刺すほどであった。

午後1時から5時過ぎまで、鼎談やスピーチ、ディスカッションと盛りだくさんな集会ではあった。せっかくの機会なので、登壇者の発言を材料に会場との質疑や討論の時間を取ってほしかった。登壇者を絞っても、多くの沖縄の人たちの声を聞きたかった。それが心残りであった。

なお、今回のシンポに先立って、その前日に、辺野古へのツアーが企画され、現地の公民館で、条件付き基地建設容認の住民の話を聞いたとのこと、本土からの登壇者の言及もあった。企画者からは、本土の歌人たちの基地建設へのバイアスを解きたい、という趣旨だったとの発言もあった。それこそ「参加しなかった」私の感想ながら、その意図がわかりにくかった。

ただ、私は、今回配られた資料から、沖縄の若い歌人たちの短歌の一端を知ることができた。最近、総合短歌誌も、沖縄の歌人への注目度が高くなったことは、評価したい。ただ、沖縄歌人の一部に、中央歌壇、中央著名歌人たちへの傾斜志向が見られることには、やや違和感を覚えるのだ。 

会の終了後、これまで、直前に手紙のやり取りがあった平山良明さんはじめ何人かにお目にかかれたのがうれしかった。 

関係文献
 
このシンポのレポートはいずれ、短歌雑誌をにぎわすことになるだろう。現在まで、私が読むことができたのは、以下の通り。

・シンポ<時代の危機に立ち上がる短歌>に寄せて 基地への抵抗 言葉で
(『沖縄タイムス』吉川宏志 2017130日)
・沖縄の表現模索 県内外の歌人集い討論(『琉球新報』201726日)

・短歌時評 沖縄をどう詠むか(松村由利子『朝日新聞』2017220日)
スピーチ原稿載録(玉城洋子『くれない』
20172月)
・沖縄で問う<歌の力>歌人の向き合い方論議(『琉球新報』2017年2月23日) 



文献補記:(2017年3月3日~)

・短歌月評・線引きするならば(光森裕樹『東京新聞』夕刊2017年2月19日
・戦争と平和 沖縄から考える 社会詠をめぐる歌人の葛藤
 
(屋良健一郎『東京新聞』夕刊2017年2月21日)
・沖縄シンポジウム開催(屋良健一郎『現代短歌新聞』2017年3月5日)
・<相対化>と<類型化>について(田村元『うた新聞』2017年3月10日)
・シンポ「時代の危機に立ち上がる短歌」(『うた新聞』2017年3月10日)
・あきらめず、めげず、息切れせず―沖縄シンポジウムを終えて(三枝昂之『現代短歌』2017年4月)
・「時代の危機に立ち上がる短歌」報告(小石雅夫『新日本歌人』2017年5月)


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屋我地島の海岸で拾う

 

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2017年2月14日 (火)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(1)

沖縄、屋我地島、愛楽園を訪ねる

出発の前、数日間は、那覇の気象情報が気になっていたが、この季節の気温は、千葉より10度は高い。朝、着ていくものに迷ったが、セーターに薄いコートにマフラーで家を出る。羽田1030分発ANA469便、修学旅行の高校生も乗っていて、ほぼ満席ながら静かな機内であった。あの重量の航空機が空を飛ぶこと自体信じがたい私は、いつも無事の着陸を祈るしかないのだ。夫は5回目、私は3回目の沖縄行きである。

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屋我地島は、1953年に屋我地大橋が架けられ本島と結ばれ、1960年にはチリ津波で損壊し、1963年に再建、現在は1993年建設の三代目。2005年古宇利大橋、2010年に今帰仁の天底からワルミ大橋が架けられた

 

今回の最初の目的地は、沖縄本島中部の名護市澄井出、屋我地島の沖縄愛楽園なので、空港前からの高速バスで、名護バスセンターに直行、タクシーに乗り継いでの長距離移動である。高速バスとはいえ、各所の高速道路を乗ったり降りたり、停留所の多い路線バスなのである。最後の高速道路を降りて、終点までのあとわずかのところで、道路工事のため対面交通の個所があり、世富慶(よふけ)辺りの海岸道路の渋滞には参った。本土より日没が遅いとはいえ、不案内な愛楽園構内は明るいうちに回りたいと思っていた。

 

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愛楽園航空写真。右手上の岬の手前の赤い屋根の建物が交流会館、資料室が2015年新設された。左手上の橋が古宇利大橋

 

この日、朝720分に家を出て、愛楽園に着いたのが5時近くだったから、10時間近い移動時間を要したことになる。すでに閉館時刻をすぎていたが、交流会館の受付で案内図をいただく。会館の前には、「高松宮・同妃殿下」(1985年)、「三笠宮寛仁親王・同妃殿下」(1992年)来園記念植樹の掲示があった。地図を頼りに歩き始めると、建物の番号は付されているものの案内板らしきものがない。出会う人は親切に教えてくれるのだが、似たような建物が多く、道路も微妙に曲がりくねっていて、迷ってしまうのだ。そんなとき、広場の隅に何かモニュメントのようなものがみえたので、近づくと、そのモニュメントの脇には、大きな碑と台座が横倒しになっていた。覆うブルーシートが、ところどころ破れていて、「貞明皇后」(大正天皇の皇后、18841951)と読めたので、訳が分からないながら、いささかの衝撃が走った。

なお、「愛楽園」は、現在「国立療養所沖縄愛楽園」となったが、そこには苦難の歴史があった。沖縄ではハンセン病者の療養所設置が各地での反対でなかなか進まない中、自らも16歳の時に発病した、クリスチャンの青木恵哉(18931969)がこの屋我地島北東の小さな岬に土地を求め、1935年末に病者とともに上陸、開園したのが、愛楽園の前身であった。愛楽園発行の案内によれば、1938年沖縄県告示により「国頭愛楽園」と命名、1941年国立に移管、19441010日米軍空襲以降、赤十字の標識が掲げられていなかったため兵舎と間違われ、幾度かの爆撃や機銃掃射により施設は壊滅状態となる。米軍、琉球政府の所管を経て、1972年日本復帰とともに厚生省に移管された。敷地約10万坪、201612月末現在、入所者数164人、園内物故者1348人という。私が関心を寄せたのは、「沖縄における天皇の短歌」について調べていて、現天皇の皇太子時代、沖縄海洋博開会式に出席するために訪れた1975年に、ここ愛楽園を訪ね、琉歌「だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔目にど残る」と詠んでいたことを知ったときだった。

 

*青木恵哉『選ばれた島~沖縄愛楽園創設者の生涯』(聖公会沖縄教区祈りの家教会 195810月)

 

 

さらに、案内図を見ながら、この辺りに「早田壕(はやたごう)」があるはずと、渡り廊下を給食の配膳台を押してきた女性に尋ねると、しばらく間をおいて「ソウダ壕かしら」と、屋根付きの渡り廊下の奥に走って行って、手招きをしてくれる。「ここですよ」と廊下の右側のガラス戸のカギを開けて「向かいにもありますから、済んだら両方ともカギをかけておいてくださいね」と足早に仕事に戻られた。壕の入り口には格子が嵌められていて、中には入れないが、傍らには「早田壕」の説明パネルがあった。

 

「早田壕」とは、19443月に愛楽園に着任した早田晧(19031985)園長は、入所者避難のために横穴式の壕を掘らせた。貝殻の多い硬い地層のため、約一年で、怪我をした人も多く、病状の悪化、栄養失調、マラリアなどで288人が亡くなっている、とあった。

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結局、この日は、日も暮れてきたので、名護市内のホテルに向かい、明日また訪ねることにした。すでに沖縄各地でのプロ野球キャンプ入りが始まり、このホテルにも、間もなく、日ハムの一同がやって来るそうだ。近くの名護球場は、もっぱら夜間練習などで使用するとのことだった。

 

翌日の愛楽園再訪で、交流会館内の資料室をゆっくり見学することができた。資料室は一昨年オープンしたばかりであるが、時系列での展示とテーマごとの展示もあって、多くを教えられた。

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とたん屋根が暑い、かまぼこ型の居室

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澄井出小中学校の年表、1951年開校、1981年閉校の歴史

  また、皇室とハンセン病については、片野真佐子『皇后の近代』(2003年)原武史『皇后考』(2015年、いずれも講談社)に詳しいが、その皇室とハンセン病との関係は、戦前の救ライ事業における、貞明皇后の短歌「つれづれの友となりても慰めよ ゆくことかたきわれにかはりて」と療養所への下賜金が、象徴的に表しているような皇室による「慈悲の心」が、強制隔離や差別を助長したとされる。らい予防法は、1996年に廃止されたが、小泉純一郎内閣時、国家賠償裁判で、2001年の熊本地裁の病者差別違憲判決を受けて政府は謝罪した。2005年には「検証会議最終報告書」が出され、そこにおいても、皇室とのかかわりによって「隔離強化という国策を支持する世論を喚起したのである」と結論づけている。資料室の展示パネルにも、そうした事実が明確にされていた。

 

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復帰1972年を経て1974年再建されたという

ところで、昨夕、探すことができなかった「青木恵哉頌徳碑」、強制断種や堕胎によって葬られた子どもたちの「声なき子供たちの碑」、愛楽園で亡くなった人々の慰霊碑に手を合わせることができた。今でこそ、屋我地島と本島には橋が架かり、これらの慰霊碑は、リゾート地として名高い古宇利島との長い橋も望める地となった。私は、波打ち際に出て、思わず白い砂を掬い、小さな貝殻を拾って小さな箱に収めたのであった。

 

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小島の間に見えるのが古宇利島

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青木恵哉頌徳碑

 

 

 

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2017年2月 3日 (金)

私の好きな木~ポプラ

『ポトナム』の今年のリレーエッセイ「私の好きな木」2月号に寄稿しました

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「あなたが会員になっている『ポトナム』って、何のこと?」と尋ねられることも少なくない。「朝鮮語で、ポプラのことらしいです。朝鮮で創刊された雑誌なので」と答えている。小泉苳三『夕潮』最後尾の二首のルビに拠る。日本では、ポプラとドロノキ(白楊)と違うらしいのだが、いずれもポプラの仲間らしい。

・うつつなく吹きゆく風の見ゆるかも庭につづける白楊(ポプラ)の垣に

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・白楊(ポトナム)の直ぐ立つ枝はひそかなりひととき明き夕べの丘に

 一九四四年の秋、私は、東京の池袋の家から千葉県の佐原(現香取市)に疎開した。店を続ける父と薬専に通う長兄は残り、母は私を連れて、自分の生家に身を寄せた。そこには、すでに、小学生の次兄が「縁故疎開」で世話になっていた。私たちは廂を借りての暮らしとなった。立派な長屋門を出ると、目の前には水田がどこまでも続き、その彼方には、細くて高い木の幾本かが等間隔で並んでいた。ポプラだと教えられたその木の枝は、やや片側になびいているようにも見えた。その脇には鉄橋の姿もあった。子供心にも、戦局の不安と暮らしの不自由さが日に日に迫ってくるのを感じていたのだろう。そして、あのポプラの先に何があるのかも知らないまま、毎日眺めていた。あの先には、今は知らない何かがあるに違いないとでも思ったのだろうか。いまでも、ポプラの木を見ると、懐かしさと憧憬の念がよみがえる。のちに、ポプラが旧佐原市の「市の木」であったとも知った。明治生まれの母が通った高等女学校が「佐原白楊高校」と改称、共学になったのは今世紀に入ってからという。

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2017年1月22日 (日)

「短歌サロン九条」で「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」について報告しました。

「短歌サロン九条」は、「憲法九条を守る歌人の会」の有志の方が、隔月に開く勉強会だという。今回121日に、表記の題での報告の機会をいただいた。20人ほどの参加者であった。

テーマは、昨年6月「思想史の会」での報告と同じなのだが、その報告後、私自身は、2度目ながら34日で沖縄に出かけ、8月末日には、『社会文学』への寄稿「沖縄における天皇の歌は何を語るのか」が活字になったこともある。

「思想史の会」の会での報告の模様は、以下の本ブログ記事を参照

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/06/post-167c.html(2016年6月27日)

昨2016年88日には、現天皇の「生前退位」表明があり、近く「有識者会議」の論点整理が発表され、国会でも各党協議が始まるというが、政府は、特例法による対応など、ほぼ着地を決めている。辺野古新基地建設承認取消訴訟では、最高裁の上告棄却を経て、工事が再開された。北部訓練場の一部返還はされたが高江のヘリパッド建設によって、基地機能は強化された。さらに、1213日には、名護市沿岸にオスプレイMV22が墜落、19日には飛行再開、年明けには空中給油再開、その後も米軍機の事故が相次いでいる。このような状況の変化によって、沖縄、天皇にかかわる問題は、重大な局面を迎えたと言える。本来ならば、日本国憲法下における日米安保条約・地位協定、そして象徴天皇制が照射され、論議されるべき機会であったはずなのに、政治やマス・メディアの世界では、そういう流れにはなっていない。

そんな時期に、新しい情報を踏まえて報告することは、いささかの緊張を伴った。準備を進めている間に、現天皇が、皇太子時代、夫妻で初めての沖縄訪問の折、1975年に、訪ねた国立ハンセン病療養所「愛楽園」(屋我地島)、2004年に訪ねた「南静園」(宮古島)に触れて、皇室と日本のハンセン病対策との密接な関係に着目せざるを得なかった。(注)1931年らい予防法の成立を機に「らい撲滅」「患者の強制隔離」の徹底を推進するため、節子皇太后による「御歌」(「つれづれの友となりても慰めよ ゆくことかたきわれにかはりて」)と「下賜金」に象徴される救らいとして「慈悲の心」が強調された。不治の病ではないとして治療を進める医師、特効薬プロミンの開発を無視する形で、敗戦後も隔離政策は引き継がれ、貞明皇后没後は、高松宮・喜久子夫妻が継承した。らい予防法が廃止されたのは1996年であり、ハンセン病患者への差別が違憲とされたのは、2001511日、国家賠償法訴訟の熊本地裁判決で、当時の小泉純一郎首相は控訴を断念、患者への謝罪がなされた。その後の報告書でも、ハンセン病対策に皇室がかかわったことによって差別が助長されたと、つぎのような報告がなされている。

「このように、藤楓協会は、その誕生から厚生省と一体の関係にあったのである。皇室の「仁慈」を強調することにより、全患協の運動を抑制し、「純然たる民間団体」を装って、「文化国家」に反するハンセン病患者の絶滅を目指し、隔離強化という国策を支持する世論を喚起したのである。」

(「第四章(4)藤楓協会及び皇室の役割)『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』20053月 150頁   https://www.jlf.or.jp/work/pdf/houkoku/saisyu/4.pdf

なお、藤楓協会は、2001年の本地裁判決を踏まえ、2003年3月解後「、その事業の一部は、社会福祉法人「ふれあい福祉協会」が引き継いでいる。

 というのも、現天皇夫妻の沖縄訪問は、皇太子時代の5回を含め10回を数え、訪問の折の夫妻の短歌や天皇の「おことば」、天皇誕生日記者会見での発言で、繰り返される沖縄戦犠牲者への慰霊や鎮魂、沖縄の現状への言及は、現天皇夫妻の個人的な沖縄への思い入れや意図とは異なり、別の役割を果たしていたのではないかと考えられたからである。

天皇の短歌や発言によって、沖縄の戦争犠牲者の慰霊を続け、沖縄の人々の心に寄り添い続けるということは、昭和天皇の沖縄にかかる「負の遺産」、敗戦末期の本土防衛のための沖縄捨て石作戦、敗戦直後の国体維持のための「天皇メッセージ」を払拭しようとする意図があるように思われたからである。さらに、敗戦後から現在に至るまで「国益」と称して、沖縄を差別し続けている政府の沖縄対策の欠陥を、情緒的に慰撫し、補完していないかとの危惧をいだいたからであった。

私の報告は、ほぼレジュメのような流れで進めて、約1時間半で終了、最後に、近年、いわゆるリベラル派と称される論者や表現者が、現天皇の発信や振る舞いから、その人間性に、親しさや信頼を寄せる発言が相次いることが、現憲法下での「象徴天皇制」の本質を見極めることへのバリアになっていないかとの不安を語ったのだった。

また、質疑の中で、参加者のお一人は、とくに歌会始の「選者」につながる人脈について、「短歌結社」に深く由来すること、選者の継承や陪聴者選びに至るまで、大きく影を落としていることを指摘された。私も、結社の主宰や選者たちが「右といえば右、左といえば左」的に、逆らわない歌人たちが多いことも実感していたので、これからも見据えていきたいと思った。また、お一人は、橋本喜典と岡井隆の短歌作品を比較して、岡井の無邪気なまでの宮廷入りに酔いしれている様子が紹介された。一方、美智子皇后の短歌の魅力を語る参加者もいらした。

会場の喫茶店「パンドラ」のオーナーでもある梓志乃さん、司会の久々湊盈子さんと田村広志さん、城間百合子さんらのお世話になった。当日配布の「報告概要」と「資料」を若干補充し、添付した。

なお、近く、私は、屋我地島の「愛楽園」、渡嘉敷島の戦跡などを訪ねたいと計画を進めている。

「報告概要」と「資料」:

http://dmituko.cocolog-nifty.com/okinawanotennonotanka.pdf

(注)

皇室とハンセン病との関係については、以下の文献などを参考にした。

片野真佐子『皇后の近代』 講談社 2003年11月

大塚郁「戦中期の<皇恩>とハンセン病者の文芸―序説」『千葉大学社会文化科学研 究プロジェクト成果報告書』156号 2008年3月

原武史『皇后考』 講談社 2015年2月

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