2022年6月11日 (土)

戦時下に、ひたすら家族を歌い、房総の地を詠み続けた伯父がいた~若くして、病にたおれた無念を思う(1)(2)

戦時下に、ひたすら家族を歌い、房総の地を詠み続けた伯父がいた~若くして、病にたおれた無念を思う(1)

昭和十一年
大利根の曲りて廣く見ゆるところ浚渫船は烟ながしぬ(佐原短歌誌抄)

まばゆくてま向かひがたき入りつ日にしばし目つむりあたたまりけり

昭和十二年
大土堤に登りてゆける子供たち空のさ中に見えて遊べり(寒光) 

ラヂオをばかくるべしと言ひ止めよと言ひ妻起ちゆかし心さびしも

傾きて石の祠の小高きに野火はするどく燃え寄りにけり(野焼)

椿咲く忠魂の碑に人寄りて他愛なきこと語り居にけり(さくら)

銅像は桜の上にそびえたり灯ともし頃の公園の空を

わが命つたなきものかこの十年むしばまれつつ生き来りける(病床吟)

附添ひをやめてかへれる妻はいま花札など送りよこしぬ(病院にて)

出征兵士の列車止まれる駅の屋根に早やも積もれる樫の落葉か

萬歳のとどろく汽車の中にゐてわが腑甲斐無き病を憶ふ
『宮田仁一作品集』(LD書房 1988年8月)より

 母方の伯父宮田仁一は、1901年生まれで、1941年に亡くなっている。会うことはなかったが、母方の叔母やいとこたちから話は聞いていた。とくに、長女だった母は、二歳年上の長兄仁一は、自慢の兄だったらしい。千葉県佐原で中学校卒業後、父親と同じ銀行員になったが、すぐにやめて、その後の事情は、聞いてはいないが、英語は先生に教えるほどだったと言い、当時は、ヴァイオリンも得意とし、東京には本やレコードを買いに、映画を見にも出かけていたらしい。兵役は、佐倉連隊から近衛歩兵第4連隊に移ったことも、母は誇らしげに話していた。仁一は、いっとき、東京で、サイレント映画の楽士を務めていたこともあったというから、「大正デモクラシー」のさなかに青春時代を送ったのではなかったか。

 その片鱗は、いま私の手元にある一枚のハガキにも残されていた。左の宛書(元は鉛筆書きで、後から墨でなぞった形跡が見える、薄れるのを怖れて、母がなぞったのかもしれない)は、母が千葉県女子師範学校本科第二部(高等女学校卒業後の一年制)の卒業後、教師生活を始めたのが伊能小学校だったと聞いているが、消印は読み取れない。おそらく、1922年(大正11年)年前後、東京の仁一から母に届いたハガキである。2006年には成田市に編入された伊能村にあった分教場である。ハガキの裏には、仁一の作詞・作曲と思われる歌詞と楽譜が書かれているが、薄れてしまって、判読が難しい個所もある。

ああ世の中はゆめなれや/□の小草をふみわけて/花の錦を身にまとひ/吾が故郷へきてみれば

誓ひし山はかはらねど/くみし水はかはらねど/君は昔の君ならで/悲しや去りて人の花

「おれは最高音楽と俗歌との間のリズムの妥当性と□□とを研究してゐる」との文面も読める。

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 宮田仁一は、短歌も俳句も作っていたし、クラッシク音楽にも詳しかった。長女の歌人でもあった河野和子(『橄欖』所属)が、五十年忌にあたる1988年8月、『宮田仁一作品集』(LD書房)として遺されていた短歌と俳句をまとめた。出版当時、もちろん私もいただいていたのだが、歌の背景なども知りたい、きちんとした感想も伝えたいと思いながら、当方の佐倉市への転居、転職などが重なっていたこともあって、その後も失礼を重ねていた。佐原に住んでいた河野和子とは、同じ県内なので、いつでも会えるような気がしていたが、和子さん、カッちゃんは、十数年後に鬼籍の人となってしまったのである。    そして、今、『宮田仁一作品集』を読んいると、果たせなかった夢、妻と三人の子どもを残し、時代をも嘆き、水郷佐原を愛してやまなかったが、闘病の末、41歳で亡くなった伯父の口惜しさが、思われてならなかった。肺結核からの腎臓結核で片腎を失い、父親から経済的支援を受けながら、養鶏を、養蚕を試みるも、家族を養えない闘病生活が続いた。それでも、千葉の大学病院の近くに下宿して療養生活や入退院を繰り返していた暮らしが歌われている。もちろん一冊の歌集も句集も残すことはなかった。個人的な感慨ながら、率直で、やさしい多くの作品には、ときには涙して読み続けた作品集だった。ここに、その一部を記録に留めておきたい。
 伯父は、1927年に結婚、佐原に落ち着き、長女和子、長男を授かったが、幼い長男を病気で失った頃からか、俳句や短歌を作り始め、地元の仲間たちと句会を開き、雑誌も発行しており、その一部が作品集に収められている。短歌の方は、購読していた短歌雑誌があったことは歌にも詠まれているが、寄稿していたかどうかはわからない。遺品や遺稿の中から、収集し、編集した河野和子の熱い思いも伝わってくる作品群だった。

 昭和十三年
(死児の三周年に)
壁に画きし自動車の落書は叱りたれども形見となりぬ

急性腎臓炎とわかりて医者より連れ帰りしは寒き日なり

吾子が通夜は集ふ人らにまかせつつ我は切なき思ひにふける

学校を休みたがる幼子を病と知らず行かしめにけり

(短歌日記)
積みてある薪すでにしみにけり寒き雨いま降りつづきをり

病院へ通ふ下宿にほど近く見ゆる師範学校に妹は学びき

遺りをる右腎も悪きならむと言はれ我汗ばみて緊張しぬ

樹を透きてはつかに見ゆる千葉の海ひかりきらひて春めきにけり

師範学校より竹刀の音きこえくる夕べを寒むみ佇みてをり

吾子逝きて吾子が鞦韆幾とせか雨かぜにさらされて立つなり

節分の門辺に吊す柊は祖母がなしつつ杳かなるかな

大雪を犯して活動見に行きし少年のころを思ひ出しけり

俳優の顔ぶれ移り変るのみ映画は少しも進歩してゐず

離りゐる妻を思ひて目覚むればそのままあとは眠れざりけり

一週に一度帰れる父われと会ひ居て子供らは夜更かしをせり

四十分でゆくといふ東京へゆきて見たしと脳裏に浮かぶ

長く病むたつきを噂すならむとひがみ心は妻にありけり

この汽車に遺骨を守る人らゐてその故郷へ帰りゆくなり

映画の原作者となりし友ありてその如き職う羨ましと思ふ

アララギと多磨と二つへ歌を出す進歩はせざる歌人の名あはれ

ゆくゆくは妻子が困るならむ銭をかろかろしくも費ふわれなる

金持ちでもあるが如き振舞ひを幼きときよりして来しあはれ

夕庭に白きつつじの暮れ残り子を負ふ妻は戻りにけり

むづかりし子を抱き出でて空の中の白き昼月を見するほかなし

洪水の波のさなかに映りゐるあはれに黒き電柱のかげ

入りつ日は鉄道官舎のかたはらの並み立ちそよぐポプラに射しぬ

飲み忘れし薬のまむと廊に出ぬはたと止みたるこほろぎの声

久しく家をあけしかば短歌雑誌たまり請求書も来てゐぬ 

銭なしと妻に言ひしが妻もまた銭もたざれば泪うかべぬ

子を負ひてまゆ売りて来しとふわが妻はみすぼらしくも雄々しとも思ふ

週毎に親より銭をもらひつつ幾年病院へ通ふならむか

海へ行く道 夕立の雨に会ひ県庁前の街路樹にやどりぬ

病気にて銭かかりをれどなほ写真機を買ひレコードを買はむとす

この夜頃目覚めて殊に咳出づる かの病かあらむと思ひて寝られず

水害地のはつかに実る田の端に真白き山羊はつながれてをり

防空演習の飛行機あまた飛ぶ見れば重爆などと覚えたりし吾子憶ふ

深靄に駅もポプラもほのかなる中のシグナルはね上りけり

 「短歌日記」の二首目は、まさに、妹の私の母が在学した師範学校を詠んでいる。40分もあれば、東京へ行けるのにと、好きな映画に携わっている旧友を羨ましがり、貧困に直面しながらも、カメラやレコードを買おうとする自分を戒める一面を見せる一方、つぎのような歌も詠む。

冒頭「昭和十二年」の末尾で
出征兵士の列車止まれる駅の屋根に早やも積もれる樫の落葉か

萬歳のとどろく汽車の中にゐてわが腑甲斐無き病を憶ふや

「昭和十三年」では、
師範学校より竹刀の音きこえくる夕べを寒むみ佇みてをり

この汽車に遺骨を守る人らゐてその故郷へ帰りゆくなり

防空演習の飛行機あまた飛ぶ見れば重爆などと覚えたりし吾子憶ふ

戦争の暗雲は、身近な人々へも、ひたひたと押し寄せてくる息苦しさをも歌っていた。(つづく)

 

戦時下に、ひたすら家族を歌い、房総の地を詠み続けた伯父がいた~若くして、病にたおれた無念を思う(2)

 昭和十四年
この朝のラヂオで言ひし雪降りぬ鶏の住む屋は筵掛けたり

バッハのツーヴァイオリンコンチェルト聞き居る時算術の問題を子に問はれぬ

かくばかり冷めたきものか米とぐと手を濡らしゐぬ妻臥せせしかば

買ひ与ふ事とてはなき幼年雑誌 借り集めつつ読む子となりぬ

夕焼が薄れて暮れゆくこの庭に病を忘れゐるが寂しき

妹が連れ来し子等が立ち騒ぎ魂祭る夜もしみじみとせず

夕空のあきつのむれをながめゐて 野をかへりくる妻にすまなし

いささかの蚕飼ひする身は生糸の相場をいち早く見ぬ

昂りて妻を責めたる夕つべは吾が非を悔いぬいつものごとくに

諍ひは眼にあまりたるか四歳の子われに向ひて挑みかかれり

手紙などはさみあるかと今日妻が送よこせし肌着しらべぬ

病室に陽を恋ふ幾日たちにけり三十九歳の働きざかりを

旅の歌作るによしなし歎かざらむ子規は臥しゐて歌をつくれり

さむざむと国防婦人かたまりて川の向うへ戻りゆくらし

昭和十五年
妾腹の赤子の記憶よみがへる高校受験準備してをり

十日目毎医者に支払ふ札束を出ししぶりつつ父は出したり

都合良く運ぶがままに弟を恋愛もなきところへやりぬ

女学生ら勤労奉仕の鎌もちて散らばる道をわれはゆくなり

くらぐらに起き出て村の産土神へ参りしといふ入試の朝を(和子、県立佐原高女)

江間に出て消防ポンプを洗ひをる村人達をわれは避けゆく

新体制を言挙げしつつこの村に強くいら立ちて踏むものもなし

昏れてなほ止まぬ細雨に白々と十薬の花散らばり咲けり

枯桑を透きて働く人の見ゆはるかに遠き桑畑にして

 宮田仁一は、1941年8月に亡くなるのだが、作品集には、1940年までの作品しかない。ここに挙げたのは、多く妻子を詠んだ歌に偏っているかもしれない。しばしば水害をもたらすと利根川だったが、魚釣りにもしばしば出かけた水郷の風景や庭の草花や農作業にいそしむ人々をも歌っていることも忘れてはならないだろう。また、つぎのような歌も作り続けるが、決して声高な反戦歌ではないが、憂慮する一部の国民の思いを代弁しているかのように思える。

さむざむと国防婦人かたまりて川の向うへ戻りゆくらし

女学生ら勤労奉仕の鎌もちて散らばる道をわれはゆくなり

新体制を言挙げしつつこの村に強くいら立ちて踏むものもなし

 「昭和十五年」の冒頭の二首には、やや説明がいるかもしれない。母と二人の叔母からよく聞かされた話だったのだが、この伯父も、晩年になって、このように歌っていたとなると、なかなかな複雑な人間模様だったことが、いっそう鮮明になったのである。いまは関係者が、みなが故人となられたので、私なりの理解でいうならば、つぎのようなことらしい。

仁一や母の父親は、銀行員で、二人の息子と三人の娘がいたが、その後、妻を亡くした。そして、家を出て、駅前食堂の女将だったところに住み着いしまったが、子供たちの反対もあって再婚することはなかった。息子や娘は、父親を取られたという思いがあったのかもしれない。その女将は、連れ子の娘と店を切り盛りする、いわゆる「やりて」だったらしい。そんなことから「妾」という表現がなされたのだと思う。父親とその女性との間には、一人息子が生まれ、はや、高校受験の年になり、彼は頑張って、仙台二高を経て医師となる。一方、年の離れた仁一や母たち三人姉妹の実弟、私の叔父は、例の女性の連れ子と結婚したことを詠んだのが三首目だったのである。いわば政略結婚とみていたようで、私たち家族が、東京の空襲を逃れて佐原に疎開した折も、母たち三人姉妹は、その女将と連れ子の蔭口をよくたたいていたようだった。その実弟は、実直な信用金庫勤めを全うしている。
 仁一は、そんな父親から経済的援助を受けざるを得なかった不甲斐なさにも耐えていたことになる。かくいう、私たち、疎開家族も、その祖父のお陰もあって暮らすことができた部分があったかもしれない。その頃の祖父は、食堂の奥の小さな和室で、冬は炬燵に入って食堂の客や立ち働く人たちを眺めていて、母が私を連れて立ち寄ると、なにがしかのお菓子や御馳走がふるまわれたことも確かであった。 
 疎開先で、まず世話になったのが、伯父仁一の奥さん、三人の遺児を育てているさなかに、私たち家族が転がり込んだのである。細長い庇の部屋を貸してもらって、七輪で煮炊きをしていたものの、食料も何かと融通してもらい、別の家を借りるまで、厠も風呂も使わせてもらっていた。すでに、仁一伯父が他界していたにもかかわらず、母にすれば、自分の実家という思いもあったかもしれないが、敗戦前後のお互いに苦しいときに厄介になったことになり、いま思えば、きちんとした感謝の言葉も伝える機会を失ってしまったという思いがある。

 河野和子は、母親の死後、遺品整理の中で、父親の短歌や俳句関係の資料を見出だし、『宮田仁一作品集』を編むに至ったというが、この作品集の「あとがき」の末尾に、河野和子自身の母親への挽歌が何首も綴られていた。

耐ふる事のみに終りし一生なれど母の死顔花咲くがに

色褪せぬ母との会話冬は冬の夜をぬくめつつ我らを包みき

父の遺稿編みつつ涙やまざりき国も人も貧しかりし杳かなる日よ

父の弾くバイオリンの音が聞こえ来る五十年祭の夏近づきて

 河野和子自身は、次の4冊の歌集を出版している。父宮田仁一の歌風とは違って、情熱的で、幻想的な歌も多い。いつかじっくり読みたいと思っている。まだ読み残している『作品集』の宮田仁一の俳句とともに。なお、宮田仁一、河野和子の両名は、ともに、章を違えて、新井章『房総の歌人群像』(短歌新聞社 1989年9月)に収録されている。

『花宴』 短歌研究社 1966年2月
『艶』柏葉書院 1971年2月
『移ろい』 東京四季出版 1990年10月
『ら・ろんど』 東京文芸館 1996年8月

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2022年3月 4日 (金)

歌人の自律性を考える~歌会始、学術会議任命拒否問題に触れて

   以下は、『ポトナム』三月号の「歌壇時評」に掲載されたものである。『ポトナム』は、今年4月で創刊100年を迎える。同人の高齢化は否めないが、健詠、健筆を願うとともに、若い人たちにも頑張って欲しいと思うばかりである。

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 ことしの「歌会始」の選者は、岡井隆引退後の二〇一五年以来、篠弘、三枝昂之、永田和宏、今野寿美、内藤明と変わっていない。応募歌数は、東日本大震災後、二万首前後を推移したが、平成からの代替わりとコロナ禍由来なのか一九年約一万六千、二〇年約一万四千、二二年は一万三八三〇首と下降線をたどっている。それでも、多くの人たちが、応募を繰り返し、入選を目指している。『短歌往来』の新人紹介欄で、ある一人は、さまざまな短歌コンクールに入賞し、「歌会始は未だ入選できず」と短いエッセイに書き(二〇二一年七月号)、一人は、所属結社とともに「令和三年度宮中歌会始佳作」と記していた(同年九月号)。二人は、ごく自然に「歌会始」の入選を目指していることを明言している。若い人たちが、天皇や天皇制に対して関心が薄いことは知っていたが、その延長線上で、「歌会始」を他の短歌コンクールや新聞歌壇と並列的に認識していることもわかった。それを象徴するかのように、ことしの入選者は、六〇歳以上が六人、四〇・五〇代三人と高校生一人、併せて一〇人であった。高校生は、直近九年間で七人の入選者を輩出した新潟県の私立高校の生徒であった。熱心な教師の指導のままに、高校生たちは、「歌会始」の意味を十分理解することなく、応募しているにちがいない。
 「歌会始」は、宮中行事の一つに過ぎなかったが、現在のような形になったのは一九四七年以降である。皇室と国民を結ぶ伝統的な文化的、国家的行事として守られるべきだとする説には、財政や人事においても国家的な介入を前提とするものだろう。

 国家的介入といえば、日本学術会議が推薦した新会員一〇五人の内六人が総理大臣の任命を拒否された事案が発生した。学術会議はじめ、日弁連ほか多くの学会が、任命拒否の理由を質し、学問の自由を侵すものだとして抗議声明を発し、多くの識者たちも抗議の声をあげた。二〇年一〇月、現代歌人協会の栗木京子理事長、日本歌人クラブの藤原龍一郎会長との連名で「任命拒否を速やかに撤回し」、国民への説明責任を果たすべきとする声明を出した。また、一九年五月にも、高校の新しい学習指導要領のもとに、従来の必修「総合国語」の教科書が、二二年度から「現代の国語」と「言語文化」に再編されるのを受けて、現代歌人協会理事長と日本歌人クラブ会長名で声明を出していた。「現代の国語」は、論理的、実用的文章を中心とし、「言語文化」の中で扱われる近現代文学、近現代詩歌は、大きく後退するのではないかとの危機感からだったか。
 上記団体の会員でもない私だが、さまざまな意見を持つ歌人たちを束ねた形で「声明」を出すにあたって、どのように合意形成がなされたのか不安になった。表現者としての自覚を持つ歌人たちの団体であるならば、自主・自律性が問われよう。国からの財政支援はないとしても、団体の役職者たちが、歌会始の選者や召人、靖国神社献詠の選者だとしたら、自由な論議が展開されるのだろうか。
 学術会議にしても、欧米のように財政や人事は政府から独立した「アカデミー」として活動すべきではなかったかと、私は考える。また、近現代文学との出会いは、学校教育における教科書だけではないはずで、教科書による押し付け的な文学教育からの解放を目指す考え方もある。本誌一月号でも述べたように、若手歌人たちの「最も印象に残った一首」との出会いは、大半、教科書ではなかった。

 国家権力と本気で対峙するならば、「声明を出しておく」ことよりも、歌人、歌人団体は、「歌会始」や「靖国神社」とは、きっぱり縁を切るべきではないか。

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まだ、やってくるヒヨドリ。ヤマボウシの枝から、真下のえさ台を監視しているのか。ちょっと見ただけでは、枝に紛れていて、気がつかなかった。

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2022年2月 3日 (木)

根付く「不平等」の壁

 以下は、『ポトナム』に寄稿した歌壇時評である。
 一つ前の記事は、貞明皇后の短歌を引いた。今回は、明治天皇美子皇后、昭憲皇太后の短歌の引用で始まる。今は、旧著でも、このブログでも何回か触れているが、平成期の美智子皇后の短歌を読み、少しまとまった文章を書こうと思っている。昭和期の良子皇后、現代の雅子皇后も含めて、近現代の皇后は、それぞれに、ことなった性格や能力を持っていたと思うが、彼女らの行動や例えば短歌にしても、政治に利用されるという大きな役割からはみ出すことはなかった。あったであろう葛藤や配慮が痛ましいだけに、現代こそ、天皇制そのものが、不平等や格差を広げ、その根源になっていることを自覚しなければならないだろう。

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・松が枝にたちならびてもさく花のよわきこころは見ゆべきものを(「男女同権といふこと」)

・むつまじき中洲にあそぶみさごすらおのづからなる道はありけり(「夫婦有別」)

 最近、明治以降の皇后の短歌を読んでいる。類歌が多い中で、「詞書」が珍しかったので、この二首に立ち止まった。一八七九年、明治天皇の美子皇后の歌である。教育、とくに女子教育の普及に熱心であったことは知られるところだが、女性の「よわきこころ」、「おのづからなる道」、その弱さ、役割分担というものをわきまえ、それを積極的に自覚すべきだと説いている。皇后としては、女性の「エリート」の育成を目論みながらも、女性低位の教育制度をはみ出るものではなかった。当時、中村正直によるJ・S・ミルの訳書や福沢諭吉の『学問のすすめ』などが刊行され、「新聞紙上では”男女同権”が一大流行語になった」(関口すみ子「男女同権論」『女性学事典』岩波書店 二〇〇二年六月 三三三頁)ことを、見逃さずに詠んだものと思う。

 「男女同権」とは、もはや死語に近いのかもしれない。近年は、ジェンダーの平等、多様性の尊重という言葉に入れ替わりながら、平等が語られるようになった。二〇一五年、国連サミットで、二〇三〇年を達成期限として採択された「SDGs(持続可能な開発目標)」の一七の目標の一つとして「ジェンダー平等を実現しよう」が掲げられた。政治家やタレントたちが、あの一七色?のドーナツ型のバッジをつけはじめた。「世界中の人々が豊かに暮らし続けていくための世界共通」の「開発目標」の一環なのかと思うと、どこか違和感を持ってしまう。さらに、社会的性差、文化的性差をなくすことが「多様性の尊重」に束ねられてしまうことにも危惧を覚えてしまう。あのバッジが氾濫しても、現実には「世界経済フォーラム」によるジェンダーギャップ指数はいずれの分野でも低位から抜け出せず、各様のパワハラ、セクハラは後を絶たない。夫婦別姓すらも法制化することができない。

・「新しい女」と言ひしは百年前いまなほ上書き入力つづく
    寺島博子『歌壇』二〇二一年八月

・旧姓を筆名とするその後の厨の海鼠は真夜ふとりぬ
    大野景子「作品点描」『角川短歌年鑑』二〇二二年版

   新刊の『角川短歌年鑑』では、「作品点描」「自選作品集」の配列が、従来の世代別から五十音順に変更された。「編集後記」によれば年代を超えてより多くの作品に触れ、氏名による検索がしやすいようにということであった。年齢によって作品の評価がされがちなことから解放されるという意味でもよかったと思う。
   また、最近、大学を拠点とする短歌会出身の若い歌人たちが活躍するようになった。すると、歌壇では、大学院生とか大学教員などの肩書がさりげなく表示されることが多くなり、いまだ学歴社会を引きづっているようにも思う。そして、職業に貴賤はないというものの、「図書館長になった」の詞書のある、つぎのような一首に出会った。館長は閑職ではなく、激職のはずなのに。

・大学の最後の仕事 書生らの守り神なりわれはよろこぶ
   坂井修一「漏刻」『短歌』二〇二一年一〇月

   三〇余年、その大半を大学図書館で働いてきた身としては、「いまだに変わっていないな」の思いしきりであった。教員にとって、図書館職員は「書生?」なのである。(『ポトナム』2022年2月) 

 

 

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2022年1月24日 (月)

1929年、貞明皇后は詠んでいた!「世の人にひろくたからをわかつこそまことのとみといふべかるらめ」

 論文とも言えない、エッセイにしてはいかにも気の利かない原稿ながら、「貞明皇后の短歌」について書き終えた。活字になるのはいつ頃のことか。
 貞明皇后(1884~1951年)は、明治天皇には皇太子妃として、大正天皇には皇后として、昭和天皇には皇太后として、天皇三代に仕えた人だった。貞明皇后の歌集や伝記などを読んでいると、15歳で、嘉仁皇太子と結婚し、病弱な夫を助け、女官制度の改革などにも取り組み、天皇家の一夫一婦制を確立したが、その苦労も格別だったことがわかる。天皇と政府、自身と政府との間での自らの立ち位置、長男、後の昭和天皇との確執などに悩みながら、慈善事業や「神ながらの道」に活路?を見出していく過程などを知ると、その健気さと痛ましさに、同情の念さえ覚え、のめり込んでしまいそうになる。しかし、片野真佐子さんの『近代の皇后』(講談社 2003年)と原武史さんの『皇后考』(講談社 2017年)の政治思想史からの論考に助けられながら、冷静さを取り戻すことにもなった。 そんな中で、私は、つぎのような短歌に立ち止まり、しばし考えさせられた。

・かなしさを親はかくしてくにのためうせしわが子をめではやすらむ」(1907年)

・生きものににぎはひし春もありけるをかばねつみたる庭となりたる(1923年)

・世の人にひろくたからをわかつこそまことのとみといふべかるらめ(1929年)

 1首目は、日露戦争後に詠まれたものだが、太平洋戦争下では、決して公には歌ってはならぬテーマであったろう。2首目は、関東大震災直後に詠まれたもので、「庭」はどこを示しているのかは定かではないが、「宮城前広場」は、震災直後は三十万人の避難民であふれかえっていたという(原武史『皇居前広場』光文社 2003年)。3首目は、1929年世界恐慌の不況時の歌で、富の格差への疑問が率直に詠まれている。1・3首目は、『貞明皇后御歌集』(主婦の友社編刊 1988年)に収録されているが、2首目は、その生々しい内容からか、上記『御歌集』には収録されておらず、伝記の一つ『貞明皇后』(主婦の友社編刊 1971年)に記されていた1首だった(148頁)。
 3首目は、「成長と分配の好循環?」などと岸田首相は叫んでいるが、この歌を「しっかり」読みこんで欲しいとさえ思う。三首とも、皇后らしからぬ、現代にあっても決して触れてはならない領域、暗部を詠んでいて、あの平成の美智子皇后だって、詠みはしなかった。
 アメリカの富裕層や欧米9か国の富豪たちが「今こそわれら富裕層に課税せよ」と提言しているというのに、日本は、日本企業は、富豪たちは何をやっているのか。

参照
ソロス氏ら米大富豪「超富裕層に課税を」(日本経済新聞 2019年6月25日)

世界の富豪102人が19日、「今こそ私たち富裕層に課税を」(2022年1月20日 AFP=時事)

 

 

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2022年1月12日 (水)

ものを言う気も失せる?!近頃の歌壇

   前の記事で、「書き続けたい」など宣言したものの、もう、近頃の世の中や小さな短歌の世界を見ていて、何を言ってもむなしくなる日が続いたりする。気を取り直して、植物図鑑や年表を取り出して眺めたり、パソコンに向かったりするが、いっこうに原稿は進まない。断捨離もはかどらず、帰省した娘には、しっかりと叱られる年始だった。以下は、11月に送稿した『ポトナム』の歌壇時評である。

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   昨年三月号の本時評*でも触れたのだが、松村正直の「短歌時評」(『朝日新聞』二〇一九年一二月二〇日)が「雪見だいふくだとあまりにふたりで感なのでピノにして君の家に行く 月」(石井大成)を引いて、なんとも不安定な「ふたりで感」という造語が、二人の関係に「ぴったりではないか」と言い、「最先端」の作品と評価していた。
*2021年3月3日「現代短歌の”最先端””最前線”とは」(http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/03/post-794792.html) 
 また、最近、山田航による同紙の「短歌時評」(二〇二一年一〇月二四日)でも、「ふたりで感、遠い感」と題して、上記、石井の一首や同じ一九九八年生まれの郡司和斗の「遠い感 食後に開けたお手拭きをきらきらきらきら指に巻いている」を引き、「ディテ―ルを突き詰める従来のリアリズムの方向に逆行して」、「雑でゆるいからこそリアル」と評価していた。私は、どちらの歌にもなじめず、「勝手にしたら」の感想しか持てないでいる。一九七〇年生まれの松村と一回り若い山田の評価には若干の違いはあるが、先輩歌人としての自負と過褒がないまぜになっているのが気になった。
  昨年九月、『現代短歌』が組んだ、一九九〇年以降生まれの六〇人のアンソロジー特集では、それらの作品を対象とした、一九八九年生まれの大森静佳と薮内亮輔の対談には、興味深いものがあった。対談は、身近な先輩の、よき理解者であるという雰囲気の中で進められていた。ちょうど石井、郡司の二首に触れている部分で、「身のまわりのこと、トリビアルなことを詠っているようだけど、言葉を工夫しようというのは通底してるんですね」「そうそう・・・」というのが、二人の結論であった。「言葉の工夫」というならば、多くの近・現代の歌人たちの骨身を削っての工夫と努力と比べて、少し甘くはないのか、の疑問も残った。
  特集の六〇人に限っても、一括りにはできないが、アンケート「最も影響を受けた1首」についても、かなりのばらつきがあるのがわかる。三票集めたのが、俵万智、雪舟えま、笹井宏之、平岡直子、小原奈美。二票が与謝野晶子、葛原妙子、穂村弘、小島なお、五島諭、服部万里子、大森静佳、山中千瀬、浅野大輝。一票の中には、啄木、茂吉、牧水、佐太郎、修司に続き、岡井隆、山中智恵子、小野茂樹なども登場するが、他は、自分たちと同世代の作品がほとんどらしく、私などは、初めて接する名前もあった。ちなみに、塚本邦雄、春日井建、岡野弘彦、馬場あき子、佐佐木幸綱はだれからも引かれていないし、中学校の国語の教科書すべてに登場する栗木京子の「観覧車」の歌もなかった。ちなみに、『ポトナム』の松尾唯花は、晶子の一首をあげ、安森敏隆前代表との出会いを語っていた。
  こうした現象をどうとらえるべきなのか。東郷雄二は「歌壇時評」(『短歌』二〇二一年一〇月)において、「少し意外だったのは穂村弘(一九六二年~)がトップではなかったことだ。一九八一年生まれの永井祐の世代の歌人はほぼ全員が穂村チルドレンである。永井より十年後に生まれた世代は穂村以後の歌人の影響下から出発したことがわかる」とし、特集自体、歌人の世代幅が狭いのが特徴だが、「昔の歌人よりも、自分の年齢に近い身近な歌人に共感を感じる傾向が見える。世代の輪切りがいっそう進行しているのだろう」と総括、「穂村チルドレン」とは、言い得て、頷けるものがあった。
  穂村の第一歌集『シンジケート』(一九九〇年)の新装版(講談社)が出るほどだから、その影響力はまだ大きいのだろう。短歌総合誌の露出度も高いし、『朝日新聞』紙上では、「フロントランナー」(二〇二〇年一一月二八日)として登場、昨年からは、同紙の「言葉季評」を執筆するという活躍ぶりである。(『ポトナム』2022年1月号)

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1月7日朝、雪に覆われたエサ台、鳥は来らず

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2021年12月20日 (月)

どうしても言い続けたいこと~天皇制はどこへゆく

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  また、狭い短歌の世界の話、歌会始の話であるが、天皇制とも密接にかかわっていることは間違いないのだから。
  ことしの歌会始は、新型ウイルス感染拡大のため一月から三月に延期された。さらに、密を避けるため、いわゆる招待者である陪聴者は一けたに縮小したが、普段だと100人近い年もあった。また入選作や皇族の歌を独特の朗詠―披講する役の人たちは、アクリル板とフェイスシールドを用いていた。他の参加者は、天皇夫妻はじめすべてマスク着用であり、入選者の一人はオンライン参加だった。テレビ中継のどの画面も、どこか異様な光景にも見えた。こうまでして開催すべきだったのか。来年も同様の方法、規模で実施する予定らしい。年末には、入選者氏名が発表されるはずである。

  選者は、2015年、岡井隆が引退して以来、篠弘、三枝昂之、永田和宏、今野寿美、内藤明というメンバーは替わってはいない。応募歌数は、東日本大震災後の2012年以来2万首前後を推移していたが、平成からの代替わりとコロナ禍が大きく影響しているのか、昨年が約1万6000首、ことしが約1万4000首とかなり落ち込んでいる。9月末日締め切りだったから、増える要因は見つからないが、来年はどうだろうか。昭和から平成への代替わりの折にも、1992年1万3000首台になったことがある。

   それでも、短歌愛好者の中で一定の人たちが、応募を繰り返し、入選を楽しみにしている人たちがいることは確かである。そして、最近、知って驚いたことがある。『短歌往来』という短歌雑誌で、新人紹介の欄がある。1969年生まれの男性は、NHK全国短歌大会などさまざまな短歌コンクールに入選していて、『未来』という結社に入会、「歌会始は未だ入選できず」と短いエッセイに書いていた(7月号)。また、同じ欄で、女性(生年不明)は、「令和3年度宮中歌会始佳作」、『好日』『湖笛』に所属の旨、記されていた(9月号)。「新人」なので、短歌をはじめて日が浅い二人が、何の抵抗もなく「歌会始」の入選を目指していることを明言していることだった。若い人たちが、天皇や天皇制に対して関心がないことは知っていたが、その延長線上で、「歌会始」が、ほかのさまざまの短歌コンクールや新聞歌壇と並列的に語られていることだった。ということは、彼らの指導にあたっている歌人たちの意識の反映でもあるのだろう。

  選者という地位は、さまざまな国家的な褒章制度の対象者となり、ひいては、芸術院会員、文化功労者、文化勲章への期待も高まろうというもの。文化勲章受章者の歌人は斎藤茂吉、佐佐木信綱、土屋文明だったが、いずれも選者であった。ことしの受章者の岡野弘彦は30年間近く選者であり、ついにたどり着いたという印象である。同じく選者だった窪田空穂と岡井隆は、文化功労者になったが、もう少し長生きをしていれば、文化勲章を受章したかもしれない。

  平成期の天皇の生前退位や眞子さんの結婚問題、また、女性天皇論などをきっかけに、天皇制自体について考える良い機会であったのに、ただ、ただ皇位継承者の減少を危惧する論調ばかりが先行している昨今である。政府の有識者会議の示す対策は、天皇家を存続させるためとはいえ、あまりにもアクロバット的な、時代錯誤的なものでしかない。

 

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2021年12月12日 (日)

『青葉の森へ』第4集ができあがりました

 

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 2002年から続けている月1回の歌会「短歌ハーモニー」の合同歌集の第4集がきのうできあがりました。旧千葉市女性センター(現千葉市男女参画センター、ハーモニープラザ内)の短歌講座の受講者の有志の方たちで立ち上げられた歌会でした。会場が青葉の森公園の近くであり、ときどき公園で歌会を開いたこともあり、合同歌集を『青葉の森へ』と名付けました。会員の方の出入りはありましたが、振り返ってみれば、なんと5年ごとに歌集を出していたことになります。二十年という年月の重さとときどきの楽しさを思い出す昨今です。出詠者は、10人、8人、11人と変わり、今回は6人と少し寂しくはなりましたが、歌集を出すたびに、皆さんの熱意には励まされる思いをしてきました。80首ほどの表題の頁には、自作やお気に入りのカットを配するのも恒例となりました。

秋元京子「野の花咲く道」
夏の朝レースのカーテンふうありと慌てる乙女のスカートのよう
焼夷弾の雨に衣服に火が着き都川にとび込む人無念

岡村儔子「鈍色の尾花」
早朝に吾子抱きて千葉医大冷たき廊下薄あかりの中
狭き路地セグロ鶺鴒近づきて艶やかな羽に触れてみたし

鈴木佐和子「生きる(二)」
美しく供えし花に囲まれてなお寂しげなる遺影の眼あり
すずかけの木漏れ日落ちる昼下がり残暑の日射し少し緩みぬ

藤村栄美子「玉手箱」
コロナ禍に孫の顔が遠ざかりメールを頼りに記憶をつなぐ
鳥の目で見つけてほしい藤袴アサギマダラよ迷わずこの地に(種を植える)

美多賀鼻千世「満月おぼろ」
幕張の「花の広場」に桜さく高層ビルに満月おぼろ
建て替える庇のじゃまになる青いみかんの食べごろ待たず

内野光子「違うだろう」
いまならば治療の術も選べたろう亡母の日記の余白が続く
画面なるひとに向かいて荒々と「違うだろう」と叫んでみても

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元気だったころの飼い犬、チビとウメなのですが、表題頁はこんな風です

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2021年11月10日 (水)

葉山から城ケ島へ~香月泰男と北原白秋(3)

10月28日、山口蓬春記念館を後にして、三ヶ丘でバスに乗車、葉山、長井をへて三崎口駅まで乗り継いだ。長井を出て、横須賀市民病院を過ぎると、さすがに軍港、横須賀自衛隊基地の関連施設が続き、停留所の三つ分くらいありそうだ。高等工科学校、海自横須賀教育隊、陸自武山自衛隊隊・・・。そして、道の反対側には、野菜畑が続き、小泉進次郎のポスターがやけに目に付く。調べてみると、横須賀市の面積の3.3%が米軍基地関係、3%が自衛隊関係施設で占められているそうだ。下の地図で赤色が米軍、青色が自衛隊施設という。

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横須賀市HPより

 三崎口駅舎は、京急の終点駅かと思うほど簡易なものに見えた。城ケ島大橋を渡って、昼食は、城ケ島商店街?の中ほど「かねあ」でシラス・マグロ丼を堪能、もったいないことに大盛だったご飯を残してしまう。

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 さらに、海の方に進むと、右側には城ケ島灯台への急な階段があり、草も絡まり、ハイヒールはご注意との看板もあった。なるほど足元はよくないが、階段を上がるごとに海が開けてゆく。1870年に点灯、関東大震災で全壊、1926年に再建されたものである。1991年に無人化されている。灯台から、元の道をさらに下って海岸に出ると長津呂の浜、絶好の釣り場らしい。この浜の右手には、かつて城ケ島京急ホテルがあったというが、今は廃業。その後の再開発には、ヒューリックが乗り出しているとか。今日の宿の観潮荘近くの油壷マリンパークも、ことし9月に閉館。コロナの影響もあったのか。

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城ケ島の燈明台にぶん廻す落日避雷針に貫かれけるかも 白秋
(
「城ケ島の落日」『雲母集』)

 いよいよ、城ケ島、県立公園めぐりと三浦市内めぐりなのだが、ここは、奮発して京急の貸切タクシーをお願いした。会社勤めの定年後、運転手を務めているとのこと、地元出身だけに、そのガイドも懇切だった。

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 城ケ島から城ケ島大橋をのぞむ。長さも600m近く、高さも20mを超えると。開通は1960年4月、小田原が地元の河野一郎の一声で建設が決まったとか。このふもとに、北原白秋の「城ケ島の雨」(1913年作)の詩碑が1949年7月に建立されている。近くに白秋記念館があるが、年配の女性一人が管理しているようで、入り口にある資料は、持って帰っていいですよ、とのことだったので、新しそうな『コスモス』を2冊頂戴した。

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白秋記念館から詩碑をのぞむ。三崎港の赤い船は、観光船だそうで、船底から海の魚が見えるようになっているけど、餌付けをしているんですよ、とはは運転手さんの話。

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 三崎港接岸の白い船はプロのマグロ船、出航すると一年は戻らないそうだ。脇の船は、県立海洋科学高校の実習船で、こちらは2~3カ月の遠洋航海で、高校のHPによれば、11月3日に出港、帰港は年末とのことだ。

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展望台から、ピクニック広場をのぞむ。湾に突き出ている白い塔のようなものが、古い安房埼灯台の跡ということだった。

 県立城ケ島公園は、散策路も、芝生も、樹木も手入れが行き届いていて、天気にも恵まれた。ただ、低空飛行のトンビが、人間の手にする食べ物を背後から狙うそうだ、というのはガイドさんの注意であった。途中に、平成の天皇の成婚記念の松があったりして、60年以上も前のことになるから、けっこう管理が大変なんだろうなと思う。黒松は、潮風で皆傾いている。途中、角川源義の句碑があったり、柊二の歌碑があったりする。目指すは、遠くに見えていた、あたらしい安房埼灯台である。昨年、デザインも公募、三浦半島名産の青首大根を逆さにしたような灯台となっている。

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野上飛雲『北原白秋 その三崎時代』(三崎白秋会 1994年)より。

 白秋が三崎にきて最初に住んだのが向ヶ崎の異人館だった。今は向ヶ崎公園になっているそうだが、今回は寄れなかった。その住まいの向かいが「通り矢」で、白秋が「城ケ島の雨」で「舟はゆくゆく通り矢のはなを」と詠んだところで、今は、関東大震災や埋め立てのため「通り矢のはな」はなくなって、バス停として残るのみという。城ケ島大橋は、この地図でいえば、鎌倉時代「椿の御所」と呼ばれた「大椿寺」の右手から、白秋の詩碑の右手を結んでいる。その後、「桃の御所」と呼ばれた「見桃寺」に寄宿することになるが、今回下車することができなかった。そもそも、白秋が三浦三崎に来たのは、最初の歌集『桐の花』(1913年)や第二歌集『雲母集』(1915年)の作品群からも明らかなように、1912年、医師の妻俊子との姦通罪で、夫から告訴され、未決囚として二週間ほど投獄され、後和解するも傷心のまま、1913年、「都落ち」するような形であった。同年5月には、あきらめきれず俊子との同居が始まり、翌年小笠原の父島に転地療養するまでの短期間ながら、多くの短歌を残している。以下、『雲母集』から、気になった短歌を拾ってみる。1914年7月、俊子は実家に帰り、白秋は離別状を書いて離別。1916年5月には詩人の江口章子と結婚、千葉県市川真間に住む。1920年には離別。1921年には佐藤菊子と結婚、翌年長男隆太郎誕生と目まぐるしい。軽いといえば軽いが、寂しさは人一倍なのだろう。ちなみに、高野公彦さんの『北原白秋の百首』(ふらんす堂 2018年)では、『雲母集』から14首が選ばれているが、重なるのは「煌々と」「大きなる足」「はるばると」「見桃寺の」の4首であった。

・煌々と光りて動く山ひとつ押し傾けて来る力はも(「力」)、
・寂しさに浜へ出て見れば波ばかりうねりくねれりあきらめられず(「二町谷」)
・夕されば涙こぼるる城ケ島人間ひとり居らざりにけり(「城ケ島」)
・舟とめてひそかにも出す闇の中深海底の響ききこゆる(「海光」)
・二方になりてわかるるあま小舟澪も二手にわかれけるかも(「澪の雨」)
・薔薇の木に薔薇の花咲くあなかしこなんの不思議もないけれどなも(「薔薇静観」)
・大きなる足が地面を踏みつけゆく力あふるる人間の足が(「地面と野菜」)

・さ緑のキャベツの玉葉いく層光る内より弾けたりけり(「地面と野菜」)
・遠丘の向うに光る秋の海そこにくつきり人鍬をうつ(「銀ながし」)
・油壷から諸磯見ればまんまろな赤い夕日がいま落つるとこ(「油壷晩景」)
・はるばると金柑の木にたどりつき巡礼草鞋をはきかへにけり(「金柑の木 その一 巡礼」)
・ここに来て梁塵秘抄を読むときは金色光のさす心地する(「金柑の木 その四 静坐抄」)
・燃えあがる落日の欅あちこちに天を焦がすこと苦しかりけれ(「田舎道」)
・馬頭観音立てるところに馬居りて下を見て居り冬の光に(「田舎道」)
・見桃寺の鶏長鳴けりはろばろそれにこたふるはいづこの鶏か(「雪後」)
・相模のや三浦三崎はありがたく一年あまりも吾が居しところ(「三崎遺抄」)

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北原白秋を継いで、戦後『コスモス』を創刊した宮柊二の歌碑「先生のうたひたまへる通り矢のはなのさざなみひかる雲母のごとく」が木漏れ日を浴びていた。

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福寺本堂前にて。

 城ケ島大橋をあとにして、県立公園に向かう折、三崎湾越しに「あの白い建物の奥に、大きな屋根が少し見えるでしょう、三浦洸一さんの実家のお寺さんなんです」のガイドの一言に、三浦ファン自認の夫が、ぜひ訪ねてみたい、とお願いしたのが最福寺だった。二基の風車が見えた宮川公園を素通りして、車一台が通れる細い道や坂を上がったり下ったりしてたどり着いた。今の住職さんは、洸一のお兄さんの息子、甥にあたるとのこと。93歳の三浦さんご自身は、東京で元気にされているとのことであった。

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 福寺から三崎湾を見下ろしたところにあるのが、三崎最大の商業施設「うらり」で、おみやげ品がそろうかもしれませんと、車を止めてくれた。やはり、朝から乗ったり歩いたりで、疲れてしまっていたので、その日の宿、油壷京急ホテル観潮荘の野天風呂にほっと一息ついたのだった。

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2021年11月 6日 (土)

葉山から城ケ島へ~香月泰男と北原白秋(2)

 葉山美術館で、ゆっくりできたが、道を挟んでの山口蓬春記念館は、3時半で閉館ということで、間に合いそうにもなく、明日の一番で出向くことにした。それではと、隣の葉山御用邸付属施設跡地のしおさい公園に回ることにした。

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葉山美術館の野外の彫刻などをめぐる散策路を進むと、車一台がようやく通れそうな、こんな小径に出た。このまま下ると海に出るのだろう。散策路の通用門の向かいは、土日限定開門のしおさい公園への小さな出入口となっていた。

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 御用邸の付属施設跡地だけを葉山町が譲り受けたものなのだろうか。公園入口までの石塀も長かったが、庭園も立派なもので、池あり、滝あり、黒松林あり、相模湾をのぞむ借景ありで、建物としては車寄せの部分が残され、中は海洋博物館になっていた。昭和天皇の”研究”の足跡まで展示されていた。今も使用されている葉山御用邸は、大正天皇が亡くなった場所なので、昭和天皇皇位継承の場でもあるということらしい。下の写真の「今上天皇」は昭和天皇である。池の緋鯉は、一幅の日本画のようでもあった。

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 10月27日、その日の宿は私学共済「相洋閣」であった。東京、名古屋、千葉と大学はかわったが、20年にわたる私大勤めではあった。部屋から夕焼けと翌日の富士山である。

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 10月28日、10時の開館を待っての入館だった。三ヶ岡緑地の斜面を利用した庭園と吉田八十八設計の蓬春旧居である。皇居宮殿の杉戸絵の完成に至るまでの取材や下絵、その過程がわかるような展示となっていた。写真は、別館のアトリエである。

 現在の葉山御用邸の内部は知る由もないが、1971年本邸は放火のため全焼、1981年に再建されている。下山川が敷地内を流れ、いま県立葉山公園になっているのかつては御用邸内の馬場であったというが、塀の長さは半端ではない。日本画の重鎮山口蓬春の記念館の世界といい、香月泰男の「シベリア・シリーズ」の世界との落差に思いをはせながら葉山を後にした。

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2021年11月 5日 (金)

葉山から城ケ島へ~香月泰男と北原白秋

 コロナに加えて腰痛と足の不調で、すっかり出不精になっていたのだが、10月27日、夫の言い出しっぺで、神奈川県立葉山美術館と城ケ島めぐりをすることになった。美術館のお目当ては「香月泰男展」であった。JR逗子駅を降りると思いがけず雨、バスを待たず、タクシーに乗車、しばらくすると、長いトンネルに入った。
 私は、二度ほど、美術館に来ているはずなのだが、たしか京急の新逗子駅からバスで、海岸線沿いに「日影茶屋」を通過して「三ヶ丘」へ向かった記憶がある。逗子駅でもらった観光地図には、その新逗子駅がない!逗子・葉山駅?ならある。後でわかったことだが、昨2020年、京急の開業120周年で、駅名変更になったとか。駅名はやたらに変えるものではないし、地名を二つ並べた駅名なんて紛らわしいし、センスもないではないか。

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 葉山美術館では、少し早めにレストランで昼食をとった。魚のコースのメインはクロダイのムニエルだったか。雨はすっかり上がっていた。まだ床が濡れているテラスから、眼下の波打ち際を撮ろうとするとシャッターが動かない。なんと充電が切れていたのだ。大失敗、私のカメラは使い物にならず、これからの画像は、すべて夫の撮影か、スキャンしたものとなる。

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まだ、レストランのテラスは濡れていたが

 美術館前では、イサム・ノグチの「こけし」が出迎えてくれる。これは、2016年、鎌倉館の閉館に伴い移設されたものであった。

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 香月泰男の「シベリア・シリーズ」は、『香月泰男』(別冊『太陽』2011年9月)で、おおよそは知っていたつもりだったが、実物を見るのは初めてだ。今回の展示は、生誕110年記念ということもあって「シベリア・シリーズ」全57点が見られるという。
 香月泰男(1911~74)の全画業をⅠ.1931~49、Ⅱ.1950~58、Ⅲ.1959~68、Ⅳ.1969~74に分けている。いわゆる「シベリア・シリーズ」は、シベリヤの収容所から復員後十年の沈黙破って描き続けた作品群である。 1943年1月入隊、満州国のハイラル市で野戦貨物廠営繕掛に配属①1945年6月吉林省鄭家屯に移動②、ソ連侵攻に伴い奉天へ③、朝鮮に南下中8月15日敗戦を知る。安東まで後退④、ふたたび奉天より⑤アムール川を渡りソ連に入ったが西に向かい、セーヤ収容所⑥、コムナール収容所⑦、チェルノゴスク第一収容所⑧を転々1947年4月帰国が決まり、ナホトカから⑨、引き揚げ船により舞鶴⑩に到着したのが1947年5月21日だった。

 

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 小さくてやや見づらいが、1943年1月入隊。後、ハイラル市に配属後、軍隊生活の様子を、下関の妻や子供たちに、600通余りの軍事郵便を送ったというが、到着したのは360通余りだった。家族を思い、ことのほか大切にしていたのがわかる。

 こうして、香月の入隊から復員までの動きを地図で追ってみると、極寒のシベリアの収容所で、森林伐採や収容所建設にという過酷な労働を強いられていたのは1945年11月から47年4月ごろまでと思うが、敗戦後のソ連兵監視のもとに長距離の移動がまた悲惨なものであったことが、彼の作品でわかってくる。
 シベリア・シリーズの特徴としては、黒一色で覆われたキャンバスから、人間一人一人の顔といっても、目鼻と口元だけを浮かび上がらせ、同時に、必死に何かをつかみ取ろうと掌の骨格だけが突き出されているといったイメージが強い。

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北へ西へ」(1959年)、敗戦後、ソ連兵によって行き先を知らされないまま、「北へ西へ」と列車で運ばれ、日本からは離れてゆくことだけはわかり、帰国の望みは絶たれたという。

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「1945」(1959年)、奉天から北上する列車内から、線路わきに放置されている幾多の屍体の光景を描いたという。1970

「朕」(1970年)、1945年2月11日紀元節の営庭は零下30度あまり、雪が結晶のまま落ちてくる中、兵隊たちは、凍傷をおそれて、足踏みをしながら天皇のことばが終わるのを待つ。朕のために、国家のために多くの人間の命が奪われてきた。中央の二つ四角形は、広げた詔書を意味しているのが、何枚かの下書きからわかる。

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「点呼」(1971年)、左右二枚からなる大作である(各73×117)。ソ連兵による最後の点呼であり、1947年5月17日、ダモイの文字が読め

 今回の展示で、「シベリア・シリーズ」以外では、藤島武治に師事した東京芸大の卒業制作の「二人座像」はじめ、好んで描いている水辺の少年たちの何点かにも着目した。

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「二人座像」(1936年)

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「水浴」(1949年)

 また、動物たちを描いたつぎのような作品にも惹かれるものがあった。

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「雨(牛)」(1947年)モンゴルの大草原、ホロンバイルの雨上がりのわずかな水たまりが見える。「シベリア・シリーズ」の第1作とも位置付けられている。

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絵葉書より。上「山羊」(1955年)、下「散歩」(1952年)

 なお、今回はわずかな展示ではあったが、1966年代後半から晩年にかけて、アメリカ、ヨーロッパなどへの旅行を重ね、いわば、黒から解放されたかのように、鮮やかな色彩の自在な作品を残していて、ほっとしたような思いに浸るのだった。

 

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