2018年6月19日 (火)

今年の6月15日は・・・、第一歌集『冬の手紙』のころを思い出す

 今年の615日は、病院で少し大掛りな検査を受けた直後だったので、家で静かに過ごし、1960615日前後のことから私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)のころまでのことを思い出していた。1960年は、私が母を亡くした翌年で、大学に入って二年目だった。末っ子で、お母さんっ子と言われていた割には、当時の立ち直りが早かったらしく、家族は、いささか安堵したらしいことを、後から聞いた。

1960615日は、安保闘争のさなか、学生だった樺美智子さんが、国会南通用門で、警官隊との衝突の混乱の中で死亡し、その死をめぐって、反体制運動の分断が図られようとしていた。620日の安保条約改定の自然承認を前に、私も何度か学生自治会の一員としてあるいは一人で、集会やデモに参加することがあった。在学の大学自治会は、いわゆる全学連「反主流派」と呼ばれ、「過激」とされる「主流派」とは一線を画することが強調されていた。いわばノンポリに近い、シナリオ研究所に通う映画青年?を気取ってもいた私には、その深層には触れないまま卒業した。卒業後は、2年間の私大職員を経て、国家公務員となっていた。その頃の職場の労働組合は、職員約800人のうち、管理職を除いて、ほとんどの職員が組合に加入することが当たり前という状況だった。政党色が濃い組合とされていた。そして、私の配属先の10人余りの課からは組合の委員長や執行部役員が選出されていた時期でもあった。

永田町の職場は、国会議事堂に近いこともあって、私は、615日の昼休みには、ひとりで、議事堂を一周して樺さんを偲び、いま、何をしたらよいのかを考える時間になればと、いささかの感傷も手伝って、毎年続けていた。その頃、職場の男性たちの間で始まっていた、昼休みの皇居一周のジョギングというものに、女だって走りたいよねと、週に23回、友人と誘い合うようになっていた。約5キロのジョギングは、当初は、かなりきつく、千鳥ヶ淵の土手で、一息入れながらストレッチをしたりしていた。約30分、それまで、知らなかった四季折々のお堀端の風景を楽しめるようにもなった。そんな折、同期採用で、組合青年部で活躍していると思っていた友人が、ある「過激派」とされる人たちの集会で、逮捕・拘留されるという事件が起きた。数か月後、保釈されたが、人事課は、職場復帰を認めなかった。その時、労働組合は、「過激派」の活動に参加していたことをもって、いっさい支援することをしなかった。この時の組合の対応がきっかけになって、「労働組合」って何だろうという疑問が、かつての615日の樺さんの死をめぐる「革新政党」の対応とつらなっていることにも気づくのだった。しかし、私は、職場内で立ち上げられた「支援」の会にも参加することをしないまま、労働組合を抜け出すということもできなかった。この私の曖昧さを、いま、どう考えたらいいのだろう。そして、いまは・・・。忸怩たる思いもある。

当時は、短歌に関わっていることすら、職場では言い出してはいなかったし、ごくわずかな友人にしか話していなかったと思う。こんな歌ばかりではないのだけれど、当時の拙いつぶやきを恥ずかしいながら・・・。

・晶子・雷鳥・菊栄らの論争いまだ越ええず<女の仕事>

・等分に与野党責めて傷つかぬ立場というを知らされており

・キャンパスは整いゆけるに組合の成らぬ私大に働き慣れて

・理事室の明るきに抗議を続けたる会を見守る側に立ちいて

・好奇なる問いに遇いたり新しき職場に小さき嘘を重ねん

・シュプレヒコール禁じたるマイクの声に列は少しく昂ぶり見せる

・少数者意見を葬る手続を自らの組織が如実に見せる

・首相発ちし日より一つの空席を持せる職場に冬を迎えん

・ひそやかに救援資金が集めらるる職場の冬の混濁におり

・陽に手紙かかげて解かん検閲を受けて抹殺されたる幾語

・ようやくに保釈なりたる友が来て涙見せたり職場の隅に

・いささかの力となるか抗議文手渡す友の背後に並ぶ

『冬の手紙』(五月書房 19717月)より 

 獄中より職場に届いた手紙を同僚たちと、陽にかざして読んだことが、歌集名「冬の手紙」の由来となった。母の没後11年後に父を亡くした。晩年の父とはよく旅に出た。歌集には、そんなときの一首もある。

・すすき野にすすき折りいる父が言うぱっと明るい顔はないのか

 そして、半世紀近くが経とうとしている昨年、ネット上で公開された私の評論集への書評が縁で知り合った青年から、就職先が、私のかつての職場であることを伝えられた。それではと、職場の近くでランチをすることになった。孫の世代にもあたる若者に、話の成り行きながら、現在の組合の加入具合を尋ねてみると、2割くらい、ともいう。官民問わず、組合の組織率が著しく低下しているというのは聞いていたが、やはり愕然とした。本人が加入しているか否かは聞きそびれてしまったのだが。

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2018年6月 9日 (土)

短歌における「改ざん」問題 ~斎藤史を通して考える  

 『梧葉』という季刊の短歌新聞の「視点論点」に以下を寄稿しました。

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短歌における「改ざん」問題

①國こぞり戦ひとほす意気かたし今撃たずして何日の日にまた
  

❶国こぞり戦ひとほす意気かたし今起たずして何日の日にまた

 

亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が死も又今日の日のため
 
➋亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が憂ひしとき至りたり 

  ①②は、斎藤史の初版『朱天』(一九四三年)八九頁の掲載作品だが、❶➋ は、後年の『斎藤史全歌集』(一九七七年、一九九七年)の収録作品である。初版では「天つ御業」の小題のもと、②には「すぐる二・二六事件の友に」という詞書を付す。『全歌集』での小題は「天雲」となり、傍線部分が改作されている。傍線部分を比べると、作者には、『全歌集』編集時に、歌の意味を大きく変更する意図があったことは明白である。ちなみに、①②は、『大東亜戦争歌集愛国篇』(一九四三年)『新日本頌』(一九四二年)にも収録されている。 
 

  また、斎藤史は、『全歌集』編集時に、『朱天』の冒頭に「はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば昭52記」の一首を付記した。『全歌集』刊行時、この一首は、戦時下の自らの作品を隠そうとしなかった潔い宣言として、高く評価され、その後、しばしば引用されている。ところが、『全歌集』に収録された『朱天』は、初版の『朱天』から



(あき)つ神在(ゐ)ます皇国(みくに)を醜(しこ)の翼つらね来るとも何 かはせむや

 等を含む一七首が削除されていた。その上、『全歌集』の「後記」に「・・・多少の手直しはあるが、発表当初と大差はない。世渡り上手に生きるならば削ったであろう戦争時の歌もあえてそのまま入れたの・・・」とも記していた。
 隠さずに公表したと言いながら、あとから、改ざん、削除、隠蔽が徐々に明らかになってきた、公文書改ざんの一件の構図を思い起こす。文芸の世界でも、用字・用語等の修正はともかく、一度、世に問うた作品や歌集には、表現者としての責任が伴うはずである。斎藤史は一例に過ぎない。(『梧葉』2018年4月春号 所収)

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2018年5月 4日 (金)

ゴールデンウィークのさなかですが~

 ゴールデンウィークのさなかのお知らせですが、先月号にインタビュー記事と短歌時評が掲載されました。もし機会がありましたら、ご覧いただければと思います。

 

➀「私の歌に連なる他者へ」(インタビューアー:佐藤むつみ、「あなたとランチを」NO.35)  『法と民主主義』(日本民主法律家協会) 2018年4月 

 弁護士の澤藤統一郎さんのご紹介があって、インタビュー「あなたとランチを」に声をかけていただいたようでした。この雑誌では親しまれているコーナーなんですよ、と弁護士の佐藤むつみさん、「私の歌に連なる他者へ」という立派なタイトルまでつけていただきました。四谷の閑静な住宅街にある佐藤さんの事務所での、楽しいアフタヌーンティーでした。帰り道には、佐藤さんがくださった「近道マップ」にも記された、行列ができるという「わかば」のタイ焼きを買ってしまいました。(画像は記事の一部)

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②「短歌における<改ざん>問題」 『梧葉』春号 2018年4月25日

 
このブログでも、何度か取り上げている斎藤史の戦時下の歌集『朱天』(1943年)が、『斎藤史全歌集』(1977年、97年)に収録される際に、17首の削除、多数の改作がなされていた事実を一例として、表現者の責任について書きました。 

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2018年5月 3日 (木)

「和歌御用掛」は岡井隆から篠弘へ~憲法記念日に

 憲法記念日に、またも何を些細な「歌会始」とは、と思うかもしれない。 天皇の代替わりを一年後に控えた430日、2007年から御用掛を務めてきた岡井隆(90)が辞職し、51日付で、2006年から歌会始選者を務めている篠弘になった、との報道があった。岡井は、1993年から2014年まで歌会始選者を務めているので、御用掛と兼務の時代もあった。2015年からは和歌の御用掛として、「お歌に助言をさせていただく人間として戦争体験者の私がお役にたてるのではないかと、考えるようになり」、「両陛下がご公務に頑張っておられるわけですから、私も頑張らねばいけません。体力が続く限り、御用掛を続けさせていただこうかと思っております。」とも語っていた(岡井隆「宮内庁和歌御用掛が明かす 佳子さまの和歌の素養」『文藝春秋』20156月)。20168月の天皇の生前退位表明の一年以上前のことだった。当時、岡井は、体調を崩して、後継者を探したが「適任者が見つかりませんでした」とも、上記記事で述べていた。その後、天皇の状況は大きく変わったが、岡井も心境や体調の変化があったのだろうか。

  いずれにしても、「歌会始」の状況は、大きく変わることはないだろう。ただ、それ以上に危惧するのは、代替わりを控え、歌会始の選者たちを中心に、「幅広い」歌人たちによって、天皇・皇后の短歌について光が当てられ、その鑑賞や「深い読み」が展開されるだろう。「国民に寄り添った」心情や家族愛、政情や歴史認識に分け入った解釈もして見せるに違いない。しかし、そうしたことが、結果的に「象徴」の地位を脱して政治利用につながることは必至で、避けるべきではないかと思うのだ。天皇・皇后(及び皇族)がたしなむ短歌が発信されたならば、いまの私たちができることは、自ら選択することのできない、憲法上矛盾に満ちた特異な存在である人々の短歌作品として、各々が一読者として鑑賞するほかないのではないか、と思っている。 

 すでに、マス・メディアでは様々な形で、「平成回顧」がなされている。政治的権限を持たない天皇の在位期間、元号をひとくくりにする意味は何処にあるのだろう。 

 すでに、このブログ記事でも触れたが、公文書類や出版物、メディア上での年号表記は、西暦で統一すべきである。少なくとも併記が必要である。そうでないと、元号表示だけでは、何年前のことであったのかが、即座に定まらず、まるで、頭の体操を強いられることになる。明治、大正、昭和、平成・・・で示される年号では、「地球規模」の課題や動向、グローバルな国際情勢とはリンクできないし、その換算は容易なことではないからだ。その混乱はどうしてくれるのだろう。

 

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2018年4月16日 (月)

<金井美恵子の短歌批判をめぐる歌壇の反応>関係書誌を作成してみました

 3月9日の下記の当ブログ記事でも予告させてもらったのだが、「自浄作用が働かない歌壇―金井美枝子の短歌批判に歌人はどう応えたか」を寄稿している『早稲田文学』春号<金井美恵子特集>が、3月下旬に発売となった。機会があればぜひお読みいただければと思う。執筆の際に作成した、金井美恵子による「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」(『KAWADE道の手帖 深沢七郎』二〇一二年五月)に対する歌人の反応を「歌人などによる『解毒する』関係文献リスト」としてまとめてみたので、ここに再録しておきたい。

 

 お気づきの点があればぜひご教示くださいますよう、お願いします。

〇自浄能力を失った歌壇か―「腰が引ける」とは(2018年3月9日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/

<<<<歌人などによる「解毒する」関係文献リスト>>>>

①松村正直「角川『短歌』9月号」『やさしい鮫日記 松村正直の短歌と生活』2012824日*

②松村正直「歌壇時評:短歌への嫌悪感」『短歌』20129 

③松村正直「金井美恵子と短歌」『やさしい鮫日記 松村正直の短歌と生活』201293日*

④松村正直「続・金井美恵子と短歌」『やさしい鮫日記 松村正直の短歌と生活』20120916日*

⑤大辻隆弘「短歌月評:歌否定論」『毎日新聞』 20121119

⑥佐佐木幸綱・島田修三・栗木京子・小島ゆかり・穂村弘「座談会・東日本大震災を振り返って」『2013短歌研究年鑑』2012121日(「金井美恵子の現代短歌批判」が議題になっている)

⑦三枝昂之「業界内の必然、外から見える不自然」 角川『短歌年鑑』平成25年版 2012127

⑧川野里子「世界への断念、突出するトリビア」(同上)

⑨島田修三「もの哀しさについて」(同上)

⑩風間祥「1、大辻隆弘さんの毎日新聞「短歌月評:「短歌否定論」を読んで 」『銀河最終便』2012128日*

⑪風間祥「2.再び、金井美恵子さんの文章と歌人の反応の不思議さ」『銀河最終便』2012129日*

⑫松村正直「続・金井美恵子論に対する反応」『やさしい鮫日記 松村正直の短歌と生活』20121215日*

⑬沢口芙美「厳しい自己批評の目を」『歌壇』2013年1月

⑭風間祥「今さらもう何を言っても詮ないとすべてを諦めてゆくよ折節」『銀河最終便』 2013111日*

⑮山田消児「短歌時評第85回・「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」を解毒する」『詩客』2013118日*

⑯梶原さい子「短歌時評・私性と共同体と批評について」『塔』20133

⑰阿木津英 「超大衆的短歌の和歌的権威空間化──金井美恵子が『風流夢譚』で短歌を解毒したもの 」『図書新聞』 20130316

⑱島田修三「短歌の学校①和歌と短歌―やっぱり短歌は」『うた新聞』 20134

⑲江田浩司「金井美恵子の現代短歌批判から思ったことなど」『万来舎 短歌の庫・江田浩司評論』2013321日*

㉑松村由利子「短歌時評」『かりん』201312

㉒嵯峨直樹「コミュニティから見る短歌史の生まれる場所」『美志(復刊5号)2014.3月 * 

 

*印は 201712月末日、インターネット上での閲覧を示す。

 

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2018年3月30日 (金)

3月29日、天皇夫妻は、3日間の沖縄の旅から戻る

・日本人(きみ)たちの祈りは要らない君たちは沖縄(ここ)に来るな

  日本で祈りなさい(中里幸伸)

(「オキナワに詠む歌―百人の沖縄・アンソロジー」『歌壇』20156月)

 327日から29日までの天皇夫妻の沖縄訪問は、多くのメディアによって、皇太子時代から沖縄に寄り添い続けたことと在位最後の沖縄行きへの希望をかなえたことが合わせ報じられ、多くの新聞は以下のように「社説」を立てている。

➀「天皇陛下の沖縄訪問 よせ続けた深いお気持ち」『毎日新聞』327

②「天皇沖縄訪問 命とうとし平和を願う」『東京新聞』327

③「両陛下来県 平和願う姿勢の継承を」『琉球新報』328

④「沖縄ご訪問 鎮魂と交流をつなげたい」『産経新聞』329

⑤「両陛下来県 際立つ<寄り添う姿勢>」『沖縄タイムス』329

⑥「天皇と沖縄 <心痛む>歴史への思い」『朝日新聞』330

1975年から皇太子時代に5回、天皇即位後には6回目の訪問となることも、一覧表など付して強調する記事もある(「象徴天皇と平成第2部沖縄の旅・上」『東京新聞』324日、「慰霊の旅を重ね」『毎日新聞』326日)。

➀は、現政権の沖縄への冷淡さや一部政治家らの沖縄への中傷を指摘した後、「本土との溝が深まる中での両陛下の訪問は、国民統合の象徴としての存在をより深く感じさせられる」と結ぶ。

②では、「みそとせの歴史流れたり摩文仁の坂平けき世に思ふ命たふとし」(1976年歌会始「坂」)という皇太子時代初めて沖縄を訪ねたときの短歌を引用し、「陛下が大事にされている公的行為として、沖縄の地を踏む意味は一貫し、慰霊と平和を願うお気持ちに他ならないであろう」と結ぶ。

⑥は、天皇の沖縄への発言や重ねた訪問は、沖縄の人々の「日本にとって我々は何なのか」の問いへの答えではないかとし、次のように結ぶ。「以前は強い反発を示していた『天皇』という存在を、沖縄は自然体で迎え入れるようになった。翻ってそれは、本来、問いに向き合うべき政治の貧しさ、社会のゆがみを映し出す」

➀における「国民統合の象徴としての存在」、②における「陛下が大事にされている公的行為」の背景には憲法上の疑義がある。⑥における「以前は強い反発を示していた『天皇』という存在を、沖縄は自然体で迎え入れるようになった」・・・というくだりは、さらりと述べてはいるが、その事実認識には、多くの疑問が残る。NHKテレビのニュースでも、女手一つで育てられた女性が若いとき、遺族として天皇夫妻を迎えたときの違和感が、現在は払しょくされた、とのコメントが流されたが、⑥と同じスタンスで、沖縄の現実を歪めてはいないか、の疑問は大きい。

一方、③『琉球新報』では、1972年「沖縄は平和憲法の下に復帰した。しかし、米軍による相次ぐ事件事故、新基地建設強行にみられるように、沖縄では今でも憲法の基本理念がないがしろにされている。「象徴天皇」として憲法を順守する天皇に、この事実を受け止めてもらいたい」と結び、現憲法順守の強い願いがこめられている。⑤『沖縄タイムス』は、「国事行為は憲法に列記されているが、象徴としての公的行為については憲法上の定めがない。公的行為はどうあるべきか、国政の場での議論が必要だ。<寄り添う天皇像>は多くの国民の支持を得ているが、<男性中心>の天皇制に対する疑問は根強い。女性天皇の是非や皇族のあり方なども幅広く議論する必要がある」と、現憲法自体への疑義が指摘されていることに、他のメディアにない特色を読み取ったのである。

  私は、かつて、天皇夫妻の10回の沖縄の旅とそのたびごとに述べた「おことば」や詠んだ短歌に焦点を当て、そのタイミングで、どのようなメッセージが込められ、その発信・報道が、政治や社会においてどんな役割を果たしたのか、沖縄県民や本土の人々がどのように受け止めたかについて、検証したことがある(「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」『社会文学』20168月 6580頁)。もちろん、やり残していることもあり、新たな課題もみつかり、途上ではあるが、次のような思いは変わってはいない。

天皇夫妻の短歌には、沖縄を詠んだものが数多くある。天皇のときどきに発せられる「おことば」とあわせて、なぜこれほどまでに沖縄を語り続けるのかについて、「昭和天皇が沖縄に対して負うていた責任を、いわば<負の遺産>として継承した者としては、当然と言えば当然の姿勢といえる。だがもう一つの理由として、戦後の日本政治が沖縄と真摯に向き合うことがなかったからではないのか」と記した(「天皇の短歌、平和への願いは届くのか」『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 20138月)。また、とくに、天皇の発言や振る舞いを忖度して、必要以上に美化したり過大評価したりすることのリスクに言及、天皇のメッセージが、たとえ国民との距離を縮め、共感や謝意を醸成したとしても、政治・経済政策の欠陥を厚く補完し、国民の視点を逸らす役割を担ってしまう不安と危惧が去らない、と述べたこともある(「戦後70年―ふたつの言説は何を語るのか」『女性展望』20151112合併号)。

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一九七一年(島)『瀬音』(1997)
①いつの日か訪ひませといふ島の子ら文はニライの海を越え来し
(美智子皇太子妃)
一九七六年(伊江島の琉歌歌碑)
②広がゆる畑 立ちゅる城山 肝ぬ忍ばらぬ 戦世ぬ事
(明仁皇太子)
一九九三年(沖縄平和祈念堂前)『道』(在位10年記念 1999)
③激しかりし戦場(いくさば)の跡眺むれば平らけき海その果てに見ゆ
(天皇)
一九九七年(対馬丸見出さる)『道』(在位10年記念 1999)
④疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見出だされにけり
(天皇)
二〇〇四年(南静園に入所者を訪ふ)
⑤時じくのゆうなの蕾活けられて南静園の昼の穏(おだ)しさ
(皇后)
二〇一二年(元旦新聞発表、沖縄県訪問)
⑥弾を避けあだんの陰にかくれしとふ戦(いくさ)の日々思ひ島の道行く
(天皇)

 ここに、ほんの一部ではあるが、天皇夫妻の短歌を掲げてみた。➀の復帰前の皇太子妃の作品は、いま、ふたたび語られることの多い、毎年、沖縄の子供たちを本土に招いて皇太子夫妻が面会を続けてきたという「豆記者」からの手紙を詠んだ。②は、海洋博の閉会式に出席の折、本島中部、本部港から渡った伊江島での琉歌で、天皇が琉球の伝統・文化に深い関心を寄せていることの象徴として琉歌を詠むことが語られ続けている。伊江島は、米軍の空襲が323日に始まり416日に上陸が開始され、島民の半数1500人、兵士2000人が犠牲となっている。生き残った住民は強制移住させられている。戻った島の土地は「銃剣とブルドーザー」によって強制収用され、島の3分の一以上が基地という島である。そして現在は、オスプレイなどの基地として滑走路の拡張工事が進んでいる。島の中央にある城山の中腹に、歌碑は建てられているが、私が訪ねたときは、観光客は素通りで、案内の運転手も「そういえば、あったかもしれない」程度の関心しか示さなかった。④は「対馬丸」が発見されたときの歌だったが、2014年には、夫妻の強い希望で、対馬丸記念館を訪ねるために沖縄行きが計画されたという。⑤は、宮古島のハンセン病国立療養所を訪ねた折の歌である。全国13カ所ある療養所が沖縄県に二カ所、宮古島の南静園と名護市屋我地島の愛楽園が設置された。ハンセン病者の隔離政策が誤っていたこと、その国策に、皇室が大きくかかわっていたことは、このブログ記事にも何回か記しているので、合わせてお読みいただきたい。

 慰霊や慰問先で犠牲者に祈りを捧げ、面会した遺族や関係者に「大変でしたね」「ご苦労なさったでしょう」「いつまでもお元気で」と声をかける姿が映され、声をかけられた人々は、「ありがたかった」「感激した」と涙をぬぐう姿も報道され続けてきた。これは、本土の人たちが、そして、ときの政権が望む「物語」を、報道関係者が率先して発信している姿ではなかったか。

 少し遡ってアンソロジーをひもとけば、つぎのような短歌を読むことができる。大城作品の「勇気持て言ふ」の一首が「萎縮」や「自粛」が蔓延している状況を物語っているといえよう。

・天皇のお言葉のみで沖縄の戦後終はらぬと勇気持て言ふ

(大城勲1939年~)

・戦争の責めただされず裕仁の長き昭和もついに終わりぬ

(神里義弘1926年~)

・国体旗並ぶ街道囚はれの如く島人に警備の続く

(玉城洋子1944年~)

(『沖縄文学全集第三巻・短歌』19966月) 

   ところで、3月27日というのは、1879年3月27日、明治政府が処分官松田道之が、600人の兵士らを従え、首里城に入城、廃藩置県の布達をもって明け渡させ、「琉球王国」が廃された日でもあった。また、3月28日は、私が、昨年、渡嘉敷島に渡ったとき、案内人は、渡嘉敷にとって忘れることのできない日、1945年3月28日は、多くの島民が自決を余儀なくされた日であった、と語っていたことを思い出した。この日には、毎年慰霊祭を行っているという。

・歴博の「大久保利通とその時代」に行ってきました(2015年12月6日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-4db7.html

・冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはいけないこと―渡嘉敷村の戦没者・集団自決者の数字が錯綜している背景(2017年2月22日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-0e0c.html

 

なお、「沖縄の天皇の短歌」について詳しい資料は、以下をご覧ください。  

http://dmituko.cocolog-nifty.com/okinawanotennonotanka.pdf

 

 

 

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2018年3月28日 (水)

『国策紙芝居からみる日本の戦争』のページを繰って(2)

<登場する短歌作品>

私が、解題篇を読んで、やはり気になったのは、短歌や和歌が「国策紙芝居」にどう登場したかであった。 

➀「風流蜀山人」(鈴木景山脚本 石原徴絵 194181日) 

・色白く羽織は黒く裏赤く御紋はあをいきいの殿様 

・唐人もここまで来いよ天の原三国一の富士を見たくば 

 

短歌ではないが、狂歌師の太田蜀山人にまつわる小噺で、何首かの狂歌もが紹介されている中の2首を記した。1首目は、紀伊の殿さまにまつわる狂歌であり、2首目は、中国を意識した時局を反映したものだろう。


②「楠木正行」(平林博作 西正世志絵 1941925日)

・かへらじとかねて思へばあずさ弓なき数にいたる名をぞ止むらん 

南朝の天皇への「忠孝」を誓い、この「忠魂」は世の若人に「道を教え、励ましを与えて」いると結ばれている。ここに、登場する後醍醐天皇の声は聞こえるが、その姿は雲のなかであって、姿は描かれていない。

 ③「忠魂の歌」(大日本皇道歌会編国民画劇研究会脚色・絵 1942531日)

・海ゆかば水漬くかばね山ゆかば草むすかばね大君のへにこそ死なめかへりみはせじ 

萬葉集収録の大友家持作が読み上げられ、「尽忠報国。まことに、皇軍勇士の亀鑑たる鈴木庄蔵軍曹のお話であります」ではじまる。「海ゆかば」は、国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲として信時潔がNHKの嘱託を受けて1937年に作曲したものだが、下の句の「天皇のそばで死ぬのだから、決して後悔はしない」とのメッセージが重要なのだろう。主人公の鈴木庄蔵は、東京羽田で父と漁師をしていたが、出征、193810月、中国、徳安城攻撃で重傷を負う。臨時東京第一陸軍病院での入院生活で短歌を看護婦の勧めで始めるが、1940810日に没する。臨終の際に、次の一首を詠むに至るストーリーである。 

・半身は陛下のみために捧ぐれどいまだ半身われに残れる

 作中には、ほかに、次のような短歌が挿入される。

・大場鎮突破なしたるその時は隊長も兵も共に泣きたり

(靖国神社権宮司 高原正作揮毫) 

・わが體砲煙の中にくだくとも陛下の御為なに惜しからん

(明治神宮権宮司 中島正國揮毫)

 なお、鈴木の作品内危篤から臨終までの遺詠が70首あるといい、そのうちの21首が『白衣勇士誠忠歌集』(由利貞三編 日本皇道歌会 1942年3月)に収録されている。また、編者の由利の解説に拠れば、1941年5月26日皇太后(貞明皇后)訪問の折、「戦傷勇士」5名12首を献上したと記す。鈴木の4首が一番多く「半身は」の他以下3首も記されている。

 

・吾が身をばかへりみるたび思ふなり陛下のみためいかに盡せし
・傷おもきわが身にあれど大君の股肱にあれば元気かはらず
・陛下より恩賜の煙草いただきて我はすはずに父におくりぬ

 

④「物語愛国百人一首」(納富康之脚本 佐東太朗子絵 斉藤瀏題字 1943820日)  

「愛国百人一首」は、日本文学報国会が、佐佐木信綱、窪田空穂、尾上柴舟、太田水穂、斎藤茂吉、土屋文明ら12名の歌人を選定委員として、「尊王愛国」を喚起するカルタの普及を目指して作成し、内閣情報局が19421120日に発表した。協賛した東京日日新聞、大阪毎日新聞はじめ、短歌雑誌はもちろん、主婦や子供向け雑誌などでも鑑賞や評釈が盛んになされた。この紙芝居では、百首の中から20首近くを紹介、その中には、前掲、大伴家持の「海行かば・・・」、楠木正行の「かへらじと・・・」などを含む次のような短歌が次々と紹介されてゆく。

 

・しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花

(本居宣長) 

・皇(おほぎみ)は神にしませば天雲の雷(いかづち)の上に盧(いほり)せるかも(柿本人麻呂)  

・身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂 

(吉田松陰)  

・御民吾生ける験あり天地の榮ゆる時に遇へらく念へば

(海犬養岡麻呂)

  題字を揮ごうした斎藤瀏は、選定委員の一人でもあり、「心の花」同人で二・二六事件に連座、反乱幇助罪で入獄。出獄後は「短歌人」を創刊、太平洋戦争下では、戦意高揚短歌を数多く作り、「短歌報国」にまい進した。斎藤史の父でもある。 

<描かれなかった天皇、登場する天皇の短歌>

 

『国策紙芝居から見る日本の戦争』における論考篇の中で、もっとも関心を寄せたのは小山亮「国策紙芝居のなかの描かれない天皇―神奈川大学所蔵コレクションから」であった。紙芝居の絵の中で、「描かれることがなかった天皇」―脚本には言及がありながら、図像には決して描かれなかった天皇について、各作品の絵と脚本とを照合しながら丹念に検証した労作である。身体の一部が絵になりながら、顔や全体像は見せなかったり、雲の上に存在を思わせながら姿を見せなかったりする紙芝居の中の天皇の存在が「御真影」との関係、他のメディアとの差異など、何を意味するのか、興味深く思われた。私は、それを読みながら、それでは紙芝居に登場する天皇の短歌はどんな場面で登場し、どんな作品が選ばれているのかを、探ってみたいと思った。制作年月日順にみてみよう。 

➀「大政翼賛」(日本教育紙芝居協会(作成)19401230日) 

19401012日の大政翼賛会が成立の直後から制作にかかったのだろうか。当時の標語「なまけぜいたくは敵」「公益優先」などの羅列と解説に終始する作品で、が引用されるということで、最終場面<臣道実践>の文字と二重橋の絵の台本に、1904年の明治天皇の短歌が記されている。 

・ほどほどに心をつくす国民のちからぞやがてわが力なる

(明治天皇)

 

②「戦士の母」(日本教育紙芝居協会脚本 西正世志絵 1941618日) 

 千葉県のある村で、息子の出征を励ます母を描きながら、強い皇軍の支えは銃後の力であり、ことに「母こそわが力」が大きいことを力説する作品だが、1904年の短歌が登場する。 

・子らは皆戦の場に出ではてゝ翁や一人山田守らん

(明治天皇) 

*こらは皆軍のにはにいではてゝ翁やひとり山田守るらん(『明治天皇御集』明治神宮社務所編刊 195211月)

 

③「産業報国」(平林博脚本 油野誠一絵 1941105日) 

 大日本産業報国会提供作品で、冒頭場面では、1904年の短歌が使用され、最終場面は工場街を背景に「護れ!職場はわれらの陣地!」の大きな文字が描かれている。 

・よもの海みなはらからと思う世になど波風の立ち騒ぐらん

(明治天皇)

 ④「あまいぶだう」(日本教育紙芝居協会脚本 羽室邦彦絵 1941105日) 

 軍事援護強化運動の一環として制作された作品で、国民学校の児童たちと近所の傷痍軍人との交流を描いている。ここでは、昭和天皇の良子皇后の短歌が引かれている。1938103日(軍事援後強化時期1034日)に寄せた短歌であった。戦時下の女性皇族の役割として、傷病兵やハンセン病者たちへの慰問などが担わされていたことがわかる。 

・あめつちの神ももりませいたつきにいたでになやむますらをの身を
(香淳皇后)

 

⑤「英東洋艦隊全滅す」(日本教育紙芝居協会脚本 小谷野半二絵 1942121日) 

 19411210日、128日の日米開戦直後の、日英マレー半島沖戦の戦闘場面を誇る戦意高揚作品。次の1905年短歌で締めくくられる。 

・世の中にことあるときぞ知られける神のまもりのおろかならぬは(明治天皇) 

⑥「大建設」(選挙粛正中央聯盟(作成)1942317日) 

表題の上段に「大東亜戦争完遂」、下段には「翼賛選挙貫徹運動」が掲げられる。太平洋線追うが始まっての翌月19421月の歌会始のお題「連峰雲」の昭和天皇の短歌が絵や台本に刷り込まれている。 

・峰つゞきおほふむら雲吹く風の早くはらへとたゞいのるなり
(昭和天皇)

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⑦「学の泉」([斎藤史弦絵] 1943123日) 

 仁徳天皇、菅原道真、伊能忠敬など歴史的人物が一人一枚で登場する「教育勅語」の解説作品のなかで、1891年の歌会始「社頭祈世」の作品が引かれている。 

・とこしへに民やすかれと祈るなるわがよをまもれ伊勢の大神

(明治天皇) 

 

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「峠」(斎田喬脚本 伊藤文乙美術 1945年7月10日)東京から農村に疎開してきた少年の成長を描く物語。斎田(1895〰1976)は香川師範卒業後、成城小学校の教師に招かれ、学校劇・自由画教育に携わった。戦後は児童劇作家協会を設立している。

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「三ビキノコブタ」(川崎大治脚本 西正世志絵 1943年3月20日)昔ながらの童話もある。川崎(1902~1980)は巌谷小波に師事、一時、プロレタリア児童文学運動にも参加、戦後は児童文学者協会設立にかかわり、後、会長となる。

 

 

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『国策紙芝居からみる日本の戦争』のページを繰って(1)

<研究会に参加できなかったけれど>

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      チラシ: http://www.kanagawa-u.ac.jp/att/16525_29237_010.pdf 

 

 325日は神奈川大学横浜キャンパスに出かける予定にしていたが、所用で、見送ることになってしまった。以下のプログラムで神奈川大学非文字資料研究センターによる研究会「アジア太平洋戦争と国策紙芝居」が開催されていた。1週間ほど前に、そのセンターから『国策紙芝居からみる日本の戦争』と題する、厚さ3センチ以上、A4 の立派な図書(同センター「戦時下日本の大衆メディア」研究班編著 勉誠出版 20182月 463頁)を頂戴した。センター所蔵「戦意高揚紙芝居コレクション」239点(193612月~19457月制作)の解題篇、論考篇、データ篇からなり、解題篇は、各作品1頁のスペースに、表題紙・書誌事項・あらすじ・解題から構成され、34枚の絵がカラーで収められている。私の紙芝居体験は、敗戦後からなので、収録の紙芝居は見たことがない。ただ、201312月、同センターの紙芝居コレクションの整理が終了した時点で、展示・実演と共にシンポジウムが開催されたときには、参加したので、何点かの実演を見せてもらっている。そのレポートは、以下のブログ記事にとどめている。

 ■「国策紙芝居」というのがあった~見渡せば「国策メディア」ばかり・・・にならないために(2013126日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/12/post-1e1c.html

  この紙芝居コレクションの旧蔵者は、櫻本富雄さんで、近年、個人的に古書を譲っていただいたり、資料のご教示をいただいたりしている方だった。そんなご縁もあったので、今回は参加できなかったのは残念なことであった。 

そもそも「国策紙芝居」とは、「政府各省や軍関係団体、政府に協力する翼賛団体などが紙芝居制作会社につくらせたもの」(「まえがき」)で、上記コレクションの大半が日本教育画劇という会社の編集出版部門である日本教育紙芝居協会が制作したものである。

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表題紙の一部、上段の絵は、後掲の「忠魂の歌」の一枚、傷痍軍人鈴木庄蔵の歌が書かれている。「わが體 砲弾の中に くだくとも 陛下の御為 なに惜しからん」とある。

<多様なメッセージのなかで>

 

解題篇の一点一点を読み進めていくと、20枚前後の絵と口演台本ながら、実に様々なメッセージが込められているのが分かる。金次郎や桃太郎、さるかに合戦、花咲か爺などの昔話をはじめ、動物ものには「森の運動会」(伊馬鵜平(春部)原作 永井貞子脚本 宇田川種治絵 19421030日)川崎大治作・西正世志絵による「コグマノボウケン」(19421130日)「三ビキノコグマ」(1943320日)などがあり、これらは幼児向けと言ってもよい。細部に時局が反映されたりするが、ほのぼのとしたものが多い。また、家庭向けの実用的な作品としては、次のように、時局を直に反映したものが多い。

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「フクチャントチョキン」(横山隆一案 19401130日)は「支那事変国債」購入の勧めである。「家庭防空陣」(日本教育紙芝居協会脚本 浦田重雄絵 19411015日)は、空襲はおそろしくない、国民の魂・気力で征服できる、一つの隣組で一つの爆弾を引き受ける覚悟などを説き、「大建設・大東亜戦争完遂、翼賛選挙貫徹運動」(選挙粛清中央聯盟編 1942317日)「總意の進軍・翼賛選挙貫徹のために」(大政翼賛会宣伝部元作翼賛紙芝居研究会脚色 近藤日出造絵 1942330日)は、表題通り、翌月に迫った430日の投票に向けた作品で、前者は種々の威勢のいい標語やスローガン、後者は東條首相の演説が取り入れられていた。「戦時お臺所設計図」(金子しげり原作 日本教育紙芝居協会脚本 浦田重雄絵 1942820日)は、食材の切れ端を工夫・活用し、ゴミ減量を説くのである。「午前二時」(鈴木景山編輯 油野誠一絵 19441020日)は、空襲は必至として、普段の備えと心構えが語られるが、珍しく単色で描かれ、真夜中の雰囲気を出しているようでもあるが、印刷の紙は粗悪らしい。この作品から、私自身の空襲への恐怖がかすかに思い起こされるのだ。夜中に眠いのを起されて、防空壕に連れ出そうとする母に「死んでもいい」と駄々をこねたことは、後から聞いた。また、病気で寝込んでいた母を、家の中の縁の下の待避場所に残して、防空壕へと父に連れ出されたときに、暗闇で布団にくるまっている母の姿の記憶がうっすらとあるのだ。そんなことがあって、父と学生だった長兄を東京に残して、母と次兄と私の三人は、母の実家に疎開することになったのだろう。

 

歴史上の人物の伝記ものでも、時代も分野も異なり、さまざまなパターンがある。 「兵制の父大村益次郎」(大政翼賛会宣伝部作 中一彌絵 19421130日)、「山本五十六元帥」(鈴木景山作 小谷野半二絵 19431215日)などは、ストレートな軍国主義、徴兵強化を意図し、「キューリー夫人傳」(鈴木紀子作 西原比呂志絵 194175日)、野口英世(木實谷喬壽原作 池田北鳥脚本 藤原成憲絵 19411231日)は、それぞれ、非常時の国防に役立つことを考えた研究者、戦う科学の戦士という位置づけであった。「二宮金次郎」(成瀬正勝構成 西正与志作絵 1941130日)など、もっぱら質素・節約を説くものもある。 

 

一方、堀尾勉作・西正世志絵というコンビによる「芭蕉」(1941101日)は、作画や印刷にも工夫がこらされ、淡い色調で、文学性が高められ(松本和樹)、「一茶」(1943110日)は、朗読によって、一堂に会して視聴する者の感動を誘うような意図が感じさせるが、一茶の消えない悲しみや苦しみが打ち出すカタルシスと文学性の成否が問われるといった解題(鈴木一史)も付されていた。どんなふうに描かれたのか、知りたいと思った。

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2018年3月 9日 (金)

自浄能力を失った歌壇か~「腰が引ける」とは

最近の歌壇の事情には疎いが、歌人たちの書く文章を読んでいて、なんとも言い難い焦燥感に駆られてしまうことが多い。あまりにも周囲をおもんぱかった、近頃の言葉でいえば「忖度」に充ち溢れた言葉の応酬を目の当たりするからかもしれない。

 

そういえば、拙い時評や拙著について、いただく私信のなかで、自分などは「腰が引けて」しまうところを踏ん張っていますね、といった感想を寄せてくださる方が幾人かいらした。また、めったに参加することのない短歌関係の会だが、そんなとき、久しぶりに会った方や初対面の方から、脅迫されるようなことはないんですか、とささやかれることもあった。私は、思わず笑い飛ばしてしまうのだが、皆さん、何を恐れているのだろう。 

以下は、『ポトナム』に寄せた時評だが、同じテーマで、3月27日発売

(筑摩書房)の『早稲田文学』春号<金井美恵子>特集にやや長いものを執筆したので、くわしくはぜひそちらも合わせてお読みいただければありがたい。 

なお、きのうの報道で、金井美恵子が『カストロの尻』で2017年度芸術選奨大臣賞受賞を知った。私はいささか動揺したが、受賞にめげずに?従来通りの活動を続けて欲しい。

     ◇

 もう数年前のことになり、歌壇では、忘れかけている人も多いかもしれない。作家の金井美恵子の「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」(『KAWADE道の手帖 深沢七郎』二〇一二年五月)という長い題を持ったエッセイが、痛烈な短歌批判をしているとして、歌壇を騒がしていた。エッセイのタイトルは、歌壇にいささかの関心のある人ならば、「たとへば(君)」が、河野裕子・永田和宏歌人夫妻が、妻の没後刊行された永田の『たとへば君 四十年の恋歌』(文芸春秋 二〇一一年七月)と河野の一首「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」に由来し、「告白」は、岡井隆の自伝『わが告白 コンフェシオン』(新潮社 二〇一二年一二月)を念頭に置いていることがわかる。 

「『風流夢譚』は短歌について書かれた小説である。では、短歌とは・・・」で始まる、金井のエッセイは天皇賛美を繰り返し、歌会始選者から御用掛となった岡井とともに、夫妻で歌会始選者を務め、在任中に病死した河野への挽歌が新聞歌壇に溢れた現象を斬ったのである。彼らを「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」、「短歌という巨大な共同体的言語空間」をなす歌壇のなかに位置づけ、短歌批判を展開している。歌人による反響がかなり見られたのだが、その大方は、真っ向からの反論というわけではなかった。

 

私としては、かねてより、現代短歌が天皇や皇室から自立しないかぎり、文芸の一ジャンルとしては成り立たないと考えているので、金井からの問題提起は、刺激的でもあり、説得力があると思えた。

 

松村正直は、「短歌を作るものは、短歌の世界だけにとどまってはいけない。短歌の魅力や仕組みを多くの人に広めていく必要がある」(「短歌への嫌悪感」『短歌』二〇一二年九月)として、「金井の論考は、何よりもそのことに気づかせてくれた」という。島田修三は、「昨今の現代歌壇に対する洞察としては、かなり正確に中心を射ぬいている」としながら、「金井には短歌を同時代に文学として理解しようとする意思はほとんどなく、とりつく島のない高飛車な狭量に腹立たしさを覚えたりもしたのだった」と書く(「もの哀しさについて」 角川『短歌年鑑』平成25年版 二〇一二年一二月)。沢口芙美は「いつの間にか歌壇内だけの視野狭窄に私たちは陥っているのではないか」として、金井の論考に触発されて「うた全体に亘るきびしい自己批評の目をもたなければならないのではないか」と述べた(「今年の提言―きびしい自己批判の目を」『歌壇』二〇一三年一月)。 

そんな中で、激しい口調で反論したのは、大辻隆弘だった。「金井の文章に底流するのは、文壇のなかに今も根強く残る短歌への蔑視である。それは、現代短歌を<和歌>とみなし、それを天皇制と直結させる偏狭で硬直した戦後左翼的な短歌観に他ならない」とするものだった(「短歌月評:短歌否定論」『毎日新聞』二〇一二年一一月)。現代短歌と天皇制とを直結させる「偏狭で硬直した戦後左翼的な短歌観」など、いまどこを探しても見出せないほど、歌人たちは、ものわかりがよくなって、ウィングを広げに広げてエールを送り合っている。 

金井の他のエッセイや小説を少しでも読めば、発想の自由さと表現の自在さに圧倒されることはあっても、「偏狭」「硬直」などとの批判は、むしろ的外れの感がある。

  真っ向から反論しなかった論者たちも、金井の指摘する具体的な歌壇の現象についてのコメントは避けて、配慮に満ちた、未来志向の模範解答に逃げ込んではいなかったか。(『ポトナム』2018年3月)

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「自浄作用が働かない歌壇―金井美恵子の短歌批判に歌人はどう応えたか」(付関係文献目録)を書いています。

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2018年2月12日 (月)

『九州大学生体解剖事件』を読む~スガモ・プリズンの歌会にも触れて

126日の森友学園問題を考える会主催の「院内集会」の折、出会った森友学園の地元豊中市市議の熊野さんから著書『九州大学生体解剖事件 七〇年目の真実』(熊野以素著 岩波書店 20154月)をいただいた。 

そこで展開される事実は、不勉強で、知らなかったことも多く、胸の痛む思いで読み進めた。19455月、九州大学医学部が「実験手術」の名のもとに、米軍の捕虜8人が、生体解剖の犠牲になった事件で、それにかかわった医師、鳥巣太郎についてのドキュメントである。戦後に行われた「横浜法廷」で、その首謀者の一人として死刑判決を受けたのだが、4回行われた「実験」に2回かかわったことで、極刑を言い渡された鳥巣が、その「実験」に抵抗し、回避をしてきたことを知っている妻が、判決の理不尽と戦った記録である。膨大な裁判記録や再審査資料、関係者の証言を駆使しての労作であった。 

著者の伯父鳥巣太郎・蕗子夫妻、鳥巣の苦悩、蕗子夫人の奮闘の軌跡がたどられる。夫人が苦労して書いた嘆願書が検察側の資料となる経緯、西部軍、九大側の隠蔽工作、サイデル弁護士の証言工作などが明らかになる過程、時には裏切られながらも、協力者を得てゆく過程が克明に描かれる。再審査の結果、死刑は10年に減刑されたのだった。 

Img368_2

 

    そして私が何よりも思いがけなかったのは、鳥巣太郎が短歌を詠んでいたことであり、それが、<戦犯歌集>と呼ばれた『巣鴨』(第二書房 19539月)に収録されていたことだった。
 この歌集の「序」を鹿児島寿蔵と並んで書いていたのが阿部静枝であった。静枝は、私の母と私が師事した『ポトナム』の歌人だった。1960年代、『ポトナム』の東京歌会に参加していた頃、歌集『巣鴨』については、聞くともなく聞いていた。阿部静枝は、『女人短歌』、『潮汐』、『ポトナム』の同人たちとともに、巣鴨拘置所内での巣鴨短歌会に出向いて短歌の指導に当たっていて、その成果の一つが、この歌集であった。時を経て、知人から譲り受けた『巣鴨』を通読はしていたが、鳥巣太郎が九州大学生体解剖事件に関係する医師だったとは知らなかった。静枝は、戦前から池袋の西口、二丁目に住み、我が家も大正時代から一丁目で店を営んでいて、巣鴨拘置所へは、東口ながら歩いて行ける距離であった。1970年まで拘置所だった、その跡地には、1978年にサンシャインビル60が竣工、当時は、その高さはアジアで一番を誇っていたのだった。巣鴨拘置所は、私の生活圏のなかにあった。  

 阿部静枝は、その「序」において、「有刺鉄線の境界、アメリカの旗がひらめくその上の空、敗戦国を見下している監視塔があるスガモ・プリズンは、戦争の抽象として、人間不幸の具象として、私の感情を締め上げる場所であった。・・・」と書き起こし、講和条約締結後は、面会の制限が幾分緩やかになり、集団面会の形で歌会が持たれたという。さらに、当初は、戦争への憎悪、悲運への忿怒、孤独の狂いが歌われていたが、次第に、透徹した祈りが底流となった、とも述べている。 

 

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鳥巣太郎の「孤心」と題する50首の中から10首を選んでみた。 

・郷愁のひたにせまれば少年の頃のわが村地圖に描きをり(愁翳)
・つぎつぎに売り細りゆくわが家のせまれる生活(くらし)今日は告げ来し
・何事も死が解決するといふことを我はうべなはず生きゆかむとす
・死に就きし友の監房に入りゆけば鉛筆書きの暦のこれり(訣別)
・口數の少きままにひたぶるの眸はわれに向けをりし子よ(面会)
・永らへし命思ひぬ秋づきて朝はすがしき窓に佇ちつつ(蟋蟀)
・咳をするも一人とよみし山頭火おもひ出でつつ臥床をのぶる
・秋の陽の寂かに照れる廣庭にわが出でしとき眼(まなこ)眩みぬ(命生きて)
・ある時はわれのみを人らが目守りゐる心地覚えて護送車にゐる
・講和調印終りし今朝も平凡に護送車の中にうづくまり居り

 

 鳥巣には、『ヒマラヤ杉』(1972年)という歌集もあるという。また後年、上坂冬子とのインタビューでは、事件当時の九大医学部の医局員は一体どうすればよかったのかを尋ねられて、「どんなことでも自分さえしっかりしとれば阻止できるのです。・・・ともかくどんな事情があろうと、仕方なかったなどというてはいかんのです」と答えたそうだ。著者の熊野さんは、「最終章」で書かれている(189190頁)。

 

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