2018年4月16日 (月)

<金井美恵子の短歌批判をめぐる歌壇の反応>関係書誌を作成してみました

 3月9日の下記の当ブログ記事でも予告させてもらったのだが、「自浄作用が働かない歌壇―金井美枝子の短歌批判に歌人はどう応えたか」を寄稿している『早稲田文学』春号<金井美恵子特集>が、3月下旬に発売となった。機会があればぜひお読みいただければと思う。執筆の際に作成した、金井美恵子による「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」(『KAWADE道の手帖 深沢七郎』二〇一二年五月)に対する歌人の反応を「歌人などによる『解毒する』関係文献リスト」としてまとめてみたので、ここに再録しておきたい。

 

 お気づきの点があればぜひご教示くださいますよう、お願いします。

〇自浄能力を失った歌壇か―「腰が引ける」とは(2018年3月9日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/

<<<<歌人などによる「解毒する」関係文献リスト>>>>

①松村正直「角川『短歌』9月号」『やさしい鮫日記 松村正直の短歌と生活』2012824日*

②松村正直「歌壇時評:短歌への嫌悪感」『短歌』20129 

③松村正直「金井美恵子と短歌」『やさしい鮫日記 松村正直の短歌と生活』201293日*

④松村正直「続・金井美恵子と短歌」『やさしい鮫日記 松村正直の短歌と生活』20120916日*

⑤大辻隆弘「短歌月評:歌否定論」『毎日新聞』 20121119

⑥佐佐木幸綱・島田修三・栗木京子・小島ゆかり・穂村弘「座談会・東日本大震災を振り返って」『2013短歌研究年鑑』2012121日(「金井美恵子の現代短歌批判」が議題になっている)

⑦三枝昂之「業界内の必然、外から見える不自然」 角川『短歌年鑑』平成25年版 2012127

⑧川野里子「世界への断念、突出するトリビア」(同上)

⑨島田修三「もの哀しさについて」(同上)

⑩風間祥「1、大辻隆弘さんの毎日新聞「短歌月評:「短歌否定論」を読んで 」『銀河最終便』2012128日*

⑪風間祥「2.再び、金井美恵子さんの文章と歌人の反応の不思議さ」『銀河最終便』2012129日*

⑫松村正直「続・金井美恵子論に対する反応」『やさしい鮫日記 松村正直の短歌と生活』20121215日*

⑬沢口芙美「厳しい自己批評の目を」『歌壇』2013年1月

⑭風間祥「今さらもう何を言っても詮ないとすべてを諦めてゆくよ折節」『銀河最終便』 2013111日*

⑮山田消児「短歌時評第85回・「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」を解毒する」『詩客』2013118日*

⑯梶原さい子「短歌時評・私性と共同体と批評について」『塔』20133

⑰阿木津英 「超大衆的短歌の和歌的権威空間化──金井美恵子が『風流夢譚』で短歌を解毒したもの 」『図書新聞』 20130316

⑱島田修三「短歌の学校①和歌と短歌―やっぱり短歌は」『うた新聞』 20134

⑲江田浩司「金井美恵子の現代短歌批判から思ったことなど」『万来舎 短歌の庫・江田浩司評論』2013321日*

㉑松村由利子「短歌時評」『かりん』201312

㉒嵯峨直樹「コミュニティから見る短歌史の生まれる場所」『美志(復刊5号)2014.3月 * 

 

*印は 201712月末日、インターネット上での閲覧を示す。

 

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2018年3月30日 (金)

3月29日、天皇夫妻は、3日間の沖縄の旅から戻る

・日本人(きみ)たちの祈りは要らない君たちは沖縄(ここ)に来るな

  日本で祈りなさい(中里幸伸)

(「オキナワに詠む歌―百人の沖縄・アンソロジー」『歌壇』20156月)

 327日から29日までの天皇夫妻の沖縄訪問は、多くのメディアによって、皇太子時代から沖縄に寄り添い続けたことと在位最後の沖縄行きへの希望をかなえたことが合わせ報じられ、多くの新聞は以下のように「社説」を立てている。

➀「天皇陛下の沖縄訪問 よせ続けた深いお気持ち」『毎日新聞』327

②「天皇沖縄訪問 命とうとし平和を願う」『東京新聞』327

③「両陛下来県 平和願う姿勢の継承を」『琉球新報』328

④「沖縄ご訪問 鎮魂と交流をつなげたい」『産経新聞』329

⑤「両陛下来県 際立つ<寄り添う姿勢>」『沖縄タイムス』329

⑥「天皇と沖縄 <心痛む>歴史への思い」『朝日新聞』330

1975年から皇太子時代に5回、天皇即位後には6回目の訪問となることも、一覧表など付して強調する記事もある(「象徴天皇と平成第2部沖縄の旅・上」『東京新聞』324日、「慰霊の旅を重ね」『毎日新聞』326日)。

➀は、現政権の沖縄への冷淡さや一部政治家らの沖縄への中傷を指摘した後、「本土との溝が深まる中での両陛下の訪問は、国民統合の象徴としての存在をより深く感じさせられる」と結ぶ。

②では、「みそとせの歴史流れたり摩文仁の坂平けき世に思ふ命たふとし」(1976年歌会始「坂」)という皇太子時代初めて沖縄を訪ねたときの短歌を引用し、「陛下が大事にされている公的行為として、沖縄の地を踏む意味は一貫し、慰霊と平和を願うお気持ちに他ならないであろう」と結ぶ。

⑥は、天皇の沖縄への発言や重ねた訪問は、沖縄の人々の「日本にとって我々は何なのか」の問いへの答えではないかとし、次のように結ぶ。「以前は強い反発を示していた『天皇』という存在を、沖縄は自然体で迎え入れるようになった。翻ってそれは、本来、問いに向き合うべき政治の貧しさ、社会のゆがみを映し出す」

➀における「国民統合の象徴としての存在」、②における「陛下が大事にされている公的行為」の背景には憲法上の疑義がある。⑥における「以前は強い反発を示していた『天皇』という存在を、沖縄は自然体で迎え入れるようになった」・・・というくだりは、さらりと述べてはいるが、その事実認識には、多くの疑問が残る。NHKテレビのニュースでも、女手一つで育てられた女性が若いとき、遺族として天皇夫妻を迎えたときの違和感が、現在は払しょくされた、とのコメントが流されたが、⑥と同じスタンスで、沖縄の現実を歪めてはいないか、の疑問は大きい。

一方、③『琉球新報』では、1972年「沖縄は平和憲法の下に復帰した。しかし、米軍による相次ぐ事件事故、新基地建設強行にみられるように、沖縄では今でも憲法の基本理念がないがしろにされている。「象徴天皇」として憲法を順守する天皇に、この事実を受け止めてもらいたい」と結び、現憲法順守の強い願いがこめられている。⑤『沖縄タイムス』は、「国事行為は憲法に列記されているが、象徴としての公的行為については憲法上の定めがない。公的行為はどうあるべきか、国政の場での議論が必要だ。<寄り添う天皇像>は多くの国民の支持を得ているが、<男性中心>の天皇制に対する疑問は根強い。女性天皇の是非や皇族のあり方なども幅広く議論する必要がある」と、現憲法自体への疑義が指摘されていることに、他のメディアにない特色を読み取ったのである。

  私は、かつて、天皇夫妻の10回の沖縄の旅とそのたびごとに述べた「おことば」や詠んだ短歌に焦点を当て、そのタイミングで、どのようなメッセージが込められ、その発信・報道が、政治や社会においてどんな役割を果たしたのか、沖縄県民や本土の人々がどのように受け止めたかについて、検証したことがある(「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」『社会文学』20168月 6580頁)。もちろん、やり残していることもあり、新たな課題もみつかり、途上ではあるが、次のような思いは変わってはいない。

天皇夫妻の短歌には、沖縄を詠んだものが数多くある。天皇のときどきに発せられる「おことば」とあわせて、なぜこれほどまでに沖縄を語り続けるのかについて、「昭和天皇が沖縄に対して負うていた責任を、いわば<負の遺産>として継承した者としては、当然と言えば当然の姿勢といえる。だがもう一つの理由として、戦後の日本政治が沖縄と真摯に向き合うことがなかったからではないのか」と記した(「天皇の短歌、平和への願いは届くのか」『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 20138月)。また、とくに、天皇の発言や振る舞いを忖度して、必要以上に美化したり過大評価したりすることのリスクに言及、天皇のメッセージが、たとえ国民との距離を縮め、共感や謝意を醸成したとしても、政治・経済政策の欠陥を厚く補完し、国民の視点を逸らす役割を担ってしまう不安と危惧が去らない、と述べたこともある(「戦後70年―ふたつの言説は何を語るのか」『女性展望』20151112合併号)。

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一九七一年(島)『瀬音』(1997)
①いつの日か訪ひませといふ島の子ら文はニライの海を越え来し
(美智子皇太子妃)
一九七六年(伊江島の琉歌歌碑)
②広がゆる畑 立ちゅる城山 肝ぬ忍ばらぬ 戦世ぬ事
(明仁皇太子)
一九九三年(沖縄平和祈念堂前)『道』(在位10年記念 1999)
③激しかりし戦場(いくさば)の跡眺むれば平らけき海その果てに見ゆ
(天皇)
一九九七年(対馬丸見出さる)『道』(在位10年記念 1999)
④疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見出だされにけり
(天皇)
二〇〇四年(南静園に入所者を訪ふ)
⑤時じくのゆうなの蕾活けられて南静園の昼の穏(おだ)しさ
(皇后)
二〇一二年(元旦新聞発表、沖縄県訪問)
⑥弾を避けあだんの陰にかくれしとふ戦(いくさ)の日々思ひ島の道行く
(天皇)

 ここに、ほんの一部ではあるが、天皇夫妻の短歌を掲げてみた。➀の復帰前の皇太子妃の作品は、いま、ふたたび語られることの多い、毎年、沖縄の子供たちを本土に招いて皇太子夫妻が面会を続けてきたという「豆記者」からの手紙を詠んだ。②は、海洋博の閉会式に出席の折、本島中部、本部港から渡った伊江島での琉歌で、天皇が琉球の伝統・文化に深い関心を寄せていることの象徴として琉歌を詠むことが語られ続けている。伊江島は、米軍の空襲が323日に始まり416日に上陸が開始され、島民の半数1500人、兵士2000人が犠牲となっている。生き残った住民は強制移住させられている。戻った島の土地は「銃剣とブルドーザー」によって強制収用され、島の3分の一以上が基地という島である。そして現在は、オスプレイなどの基地として滑走路の拡張工事が進んでいる。島の中央にある城山の中腹に、歌碑は建てられているが、私が訪ねたときは、観光客は素通りで、案内の運転手も「そういえば、あったかもしれない」程度の関心しか示さなかった。④は「対馬丸」が発見されたときの歌だったが、2014年には、夫妻の強い希望で、対馬丸記念館を訪ねるために沖縄行きが計画されたという。⑤は、宮古島のハンセン病国立療養所を訪ねた折の歌である。全国13カ所ある療養所が沖縄県に二カ所、宮古島の南静園と名護市屋我地島の愛楽園が設置された。ハンセン病者の隔離政策が誤っていたこと、その国策に、皇室が大きくかかわっていたことは、このブログ記事にも何回か記しているので、合わせてお読みいただきたい。

 慰霊や慰問先で犠牲者に祈りを捧げ、面会した遺族や関係者に「大変でしたね」「ご苦労なさったでしょう」「いつまでもお元気で」と声をかける姿が映され、声をかけられた人々は、「ありがたかった」「感激した」と涙をぬぐう姿も報道され続けてきた。これは、本土の人たちが、そして、ときの政権が望む「物語」を、報道関係者が率先して発信している姿ではなかったか。

 少し遡ってアンソロジーをひもとけば、つぎのような短歌を読むことができる。大城作品の「勇気持て言ふ」の一首が「萎縮」や「自粛」が蔓延している状況を物語っているといえよう。

・天皇のお言葉のみで沖縄の戦後終はらぬと勇気持て言ふ

(大城勲1939年~)

・戦争の責めただされず裕仁の長き昭和もついに終わりぬ

(神里義弘1926年~)

・国体旗並ぶ街道囚はれの如く島人に警備の続く

(玉城洋子1944年~)

(『沖縄文学全集第三巻・短歌』19966月) 

   ところで、3月27日というのは、1879年3月27日、明治政府が処分官松田道之が、600人の兵士らを従え、首里城に入城、廃藩置県の布達をもって明け渡させ、「琉球王国」が廃された日でもあった。また、3月28日は、私が、昨年、渡嘉敷島に渡ったとき、案内人は、渡嘉敷にとって忘れることのできない日、1945年3月28日は、多くの島民が自決を余儀なくされた日であった、と語っていたことを思い出した。この日には、毎年慰霊祭を行っているという。

・歴博の「大久保利通とその時代」に行ってきました(2015年12月6日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-4db7.html

・冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはいけないこと―渡嘉敷村の戦没者・集団自決者の数字が錯綜している背景(2017年2月22日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-0e0c.html

 

なお、「沖縄の天皇の短歌」について詳しい資料は、以下をご覧ください。  

http://dmituko.cocolog-nifty.com/okinawanotennonotanka.pdf

 

 

 

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2018年3月28日 (水)

『国策紙芝居からみる日本の戦争』のページを繰って(2)

<登場する短歌作品>

私が、解題篇を読んで、やはり気になったのは、短歌や和歌が「国策紙芝居」にどう登場したかであった。 

➀「風流蜀山人」(鈴木景山脚本 石原徴絵 194181日) 

・色白く羽織は黒く裏赤く御紋はあをいきいの殿様 

・唐人もここまで来いよ天の原三国一の富士を見たくば 

 

短歌ではないが、狂歌師の太田蜀山人にまつわる小噺で、何首かの狂歌もが紹介されている中の2首を記した。1首目は、紀伊の殿さまにまつわる狂歌であり、2首目は、中国を意識した時局を反映したものだろう。


②「楠木正行」(平林博作 西正世志絵 1941925日)

・かへらじとかねて思へばあずさ弓なき数にいたる名をぞ止むらん 

南朝の天皇への「忠孝」を誓い、この「忠魂」は世の若人に「道を教え、励ましを与えて」いると結ばれている。ここに、登場する後醍醐天皇の声は聞こえるが、その姿は雲のなかであって、姿は描かれていない。

 ③「忠魂の歌」(大日本皇道歌会編国民画劇研究会脚色・絵 1942531日)

・海ゆかば水漬くかばね山ゆかば草むすかばね大君のへにこそ死なめかへりみはせじ 

萬葉集収録の大友家持作が読み上げられ、「尽忠報国。まことに、皇軍勇士の亀鑑たる鈴木庄蔵軍曹のお話であります」ではじまる。「海ゆかば」は、国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲として信時潔がNHKの嘱託を受けて1937年に作曲したものだが、下の句の「天皇のそばで死ぬのだから、決して後悔はしない」とのメッセージが重要なのだろう。主人公の鈴木庄蔵は、東京羽田で父と漁師をしていたが、出征、193810月、中国、徳安城攻撃で重傷を負う。臨時東京第一陸軍病院での入院生活で短歌を看護婦の勧めで始めるが、1940810日に没する。臨終の際に、次の一首を詠むに至るストーリーである。 

・半身は陛下のみために捧ぐれどいまだ半身われに残れる

 作中には、ほかに、次のような短歌が挿入される。

・大場鎮突破なしたるその時は隊長も兵も共に泣きたり

(靖国神社権宮司 高原正作揮毫) 

・わが體砲煙の中にくだくとも陛下の御為なに惜しからん

(明治神宮権宮司 中島正國揮毫)

 なお、鈴木の作品内危篤から臨終までの遺詠が70首あるといい、そのうちの21首が『白衣勇士誠忠歌集』(由利貞三編 日本皇道歌会 1942年3月)に収録されている。また、編者の由利の解説に拠れば、1941年5月26日皇太后(貞明皇后)訪問の折、「戦傷勇士」5名12首を献上したと記す。鈴木の4首が一番多く「半身は」の他以下3首も記されている。

 

・吾が身をばかへりみるたび思ふなり陛下のみためいかに盡せし
・傷おもきわが身にあれど大君の股肱にあれば元気かはらず
・陛下より恩賜の煙草いただきて我はすはずに父におくりぬ

 

④「物語愛国百人一首」(納富康之脚本 佐東太朗子絵 斉藤瀏題字 1943820日)  

「愛国百人一首」は、日本文学報国会が、佐佐木信綱、窪田空穂、尾上柴舟、太田水穂、斎藤茂吉、土屋文明ら12名の歌人を選定委員として、「尊王愛国」を喚起するカルタの普及を目指して作成し、内閣情報局が19421120日に発表した。協賛した東京日日新聞、大阪毎日新聞はじめ、短歌雑誌はもちろん、主婦や子供向け雑誌などでも鑑賞や評釈が盛んになされた。この紙芝居では、百首の中から20首近くを紹介、その中には、前掲、大伴家持の「海行かば・・・」、楠木正行の「かへらじと・・・」などを含む次のような短歌が次々と紹介されてゆく。

 

・しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花

(本居宣長) 

・皇(おほぎみ)は神にしませば天雲の雷(いかづち)の上に盧(いほり)せるかも(柿本人麻呂)  

・身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂 

(吉田松陰)  

・御民吾生ける験あり天地の榮ゆる時に遇へらく念へば

(海犬養岡麻呂)

  題字を揮ごうした斎藤瀏は、選定委員の一人でもあり、「心の花」同人で二・二六事件に連座、反乱幇助罪で入獄。出獄後は「短歌人」を創刊、太平洋戦争下では、戦意高揚短歌を数多く作り、「短歌報国」にまい進した。斎藤史の父でもある。 

<描かれなかった天皇、登場する天皇の短歌>

 

『国策紙芝居から見る日本の戦争』における論考篇の中で、もっとも関心を寄せたのは小山亮「国策紙芝居のなかの描かれない天皇―神奈川大学所蔵コレクションから」であった。紙芝居の絵の中で、「描かれることがなかった天皇」―脚本には言及がありながら、図像には決して描かれなかった天皇について、各作品の絵と脚本とを照合しながら丹念に検証した労作である。身体の一部が絵になりながら、顔や全体像は見せなかったり、雲の上に存在を思わせながら姿を見せなかったりする紙芝居の中の天皇の存在が「御真影」との関係、他のメディアとの差異など、何を意味するのか、興味深く思われた。私は、それを読みながら、それでは紙芝居に登場する天皇の短歌はどんな場面で登場し、どんな作品が選ばれているのかを、探ってみたいと思った。制作年月日順にみてみよう。 

➀「大政翼賛」(日本教育紙芝居協会(作成)19401230日) 

19401012日の大政翼賛会が成立の直後から制作にかかったのだろうか。当時の標語「なまけぜいたくは敵」「公益優先」などの羅列と解説に終始する作品で、が引用されるということで、最終場面<臣道実践>の文字と二重橋の絵の台本に、1904年の明治天皇の短歌が記されている。 

・ほどほどに心をつくす国民のちからぞやがてわが力なる

(明治天皇)

 

②「戦士の母」(日本教育紙芝居協会脚本 西正世志絵 1941618日) 

 千葉県のある村で、息子の出征を励ます母を描きながら、強い皇軍の支えは銃後の力であり、ことに「母こそわが力」が大きいことを力説する作品だが、1904年の短歌が登場する。 

・子らは皆戦の場に出ではてゝ翁や一人山田守らん

(明治天皇) 

*こらは皆軍のにはにいではてゝ翁やひとり山田守るらん(『明治天皇御集』明治神宮社務所編刊 195211月)

 

③「産業報国」(平林博脚本 油野誠一絵 1941105日) 

 大日本産業報国会提供作品で、冒頭場面では、1904年の短歌が使用され、最終場面は工場街を背景に「護れ!職場はわれらの陣地!」の大きな文字が描かれている。 

・よもの海みなはらからと思う世になど波風の立ち騒ぐらん

(明治天皇)

 ④「あまいぶだう」(日本教育紙芝居協会脚本 羽室邦彦絵 1941105日) 

 軍事援護強化運動の一環として制作された作品で、国民学校の児童たちと近所の傷痍軍人との交流を描いている。ここでは、昭和天皇の良子皇后の短歌が引かれている。1938103日(軍事援後強化時期1034日)に寄せた短歌であった。戦時下の女性皇族の役割として、傷病兵やハンセン病者たちへの慰問などが担わされていたことがわかる。 

・あめつちの神ももりませいたつきにいたでになやむますらをの身を
(香淳皇后)

 

⑤「英東洋艦隊全滅す」(日本教育紙芝居協会脚本 小谷野半二絵 1942121日) 

 19411210日、128日の日米開戦直後の、日英マレー半島沖戦の戦闘場面を誇る戦意高揚作品。次の1905年短歌で締めくくられる。 

・世の中にことあるときぞ知られける神のまもりのおろかならぬは(明治天皇) 

⑥「大建設」(選挙粛正中央聯盟(作成)1942317日) 

表題の上段に「大東亜戦争完遂」、下段には「翼賛選挙貫徹運動」が掲げられる。太平洋線追うが始まっての翌月19421月の歌会始のお題「連峰雲」の昭和天皇の短歌が絵や台本に刷り込まれている。 

・峰つゞきおほふむら雲吹く風の早くはらへとたゞいのるなり
(昭和天皇)

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⑦「学の泉」([斎藤史弦絵] 1943123日) 

 仁徳天皇、菅原道真、伊能忠敬など歴史的人物が一人一枚で登場する「教育勅語」の解説作品のなかで、1891年の歌会始「社頭祈世」の作品が引かれている。 

・とこしへに民やすかれと祈るなるわがよをまもれ伊勢の大神

(明治天皇) 

 

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「峠」(斎田喬脚本 伊藤文乙美術 1945年7月10日)東京から農村に疎開してきた少年の成長を描く物語。斎田(1895〰1976)は香川師範卒業後、成城小学校の教師に招かれ、学校劇・自由画教育に携わった。戦後は児童劇作家協会を設立している。

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「三ビキノコブタ」(川崎大治脚本 西正世志絵 1943年3月20日)昔ながらの童話もある。川崎(1902~1980)は巌谷小波に師事、一時、プロレタリア児童文学運動にも参加、戦後は児童文学者協会設立にかかわり、後、会長となる。

 

 

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『国策紙芝居からみる日本の戦争』のページを繰って(1)

<研究会に参加できなかったけれど>

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      チラシ: http://www.kanagawa-u.ac.jp/att/16525_29237_010.pdf 

 

 325日は神奈川大学横浜キャンパスに出かける予定にしていたが、所用で、見送ることになってしまった。以下のプログラムで神奈川大学非文字資料研究センターによる研究会「アジア太平洋戦争と国策紙芝居」が開催されていた。1週間ほど前に、そのセンターから『国策紙芝居からみる日本の戦争』と題する、厚さ3センチ以上、A4 の立派な図書(同センター「戦時下日本の大衆メディア」研究班編著 勉誠出版 20182月 463頁)を頂戴した。センター所蔵「戦意高揚紙芝居コレクション」239点(193612月~19457月制作)の解題篇、論考篇、データ篇からなり、解題篇は、各作品1頁のスペースに、表題紙・書誌事項・あらすじ・解題から構成され、34枚の絵がカラーで収められている。私の紙芝居体験は、敗戦後からなので、収録の紙芝居は見たことがない。ただ、201312月、同センターの紙芝居コレクションの整理が終了した時点で、展示・実演と共にシンポジウムが開催されたときには、参加したので、何点かの実演を見せてもらっている。そのレポートは、以下のブログ記事にとどめている。

 ■「国策紙芝居」というのがあった~見渡せば「国策メディア」ばかり・・・にならないために(2013126日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/12/post-1e1c.html

  この紙芝居コレクションの旧蔵者は、櫻本富雄さんで、近年、個人的に古書を譲っていただいたり、資料のご教示をいただいたりしている方だった。そんなご縁もあったので、今回は参加できなかったのは残念なことであった。 

そもそも「国策紙芝居」とは、「政府各省や軍関係団体、政府に協力する翼賛団体などが紙芝居制作会社につくらせたもの」(「まえがき」)で、上記コレクションの大半が日本教育画劇という会社の編集出版部門である日本教育紙芝居協会が制作したものである。

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表題紙の一部、上段の絵は、後掲の「忠魂の歌」の一枚、傷痍軍人鈴木庄蔵の歌が書かれている。「わが體 砲弾の中に くだくとも 陛下の御為 なに惜しからん」とある。

<多様なメッセージのなかで>

 

解題篇の一点一点を読み進めていくと、20枚前後の絵と口演台本ながら、実に様々なメッセージが込められているのが分かる。金次郎や桃太郎、さるかに合戦、花咲か爺などの昔話をはじめ、動物ものには「森の運動会」(伊馬鵜平(春部)原作 永井貞子脚本 宇田川種治絵 19421030日)川崎大治作・西正世志絵による「コグマノボウケン」(19421130日)「三ビキノコグマ」(1943320日)などがあり、これらは幼児向けと言ってもよい。細部に時局が反映されたりするが、ほのぼのとしたものが多い。また、家庭向けの実用的な作品としては、次のように、時局を直に反映したものが多い。

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「フクチャントチョキン」(横山隆一案 19401130日)は「支那事変国債」購入の勧めである。「家庭防空陣」(日本教育紙芝居協会脚本 浦田重雄絵 19411015日)は、空襲はおそろしくない、国民の魂・気力で征服できる、一つの隣組で一つの爆弾を引き受ける覚悟などを説き、「大建設・大東亜戦争完遂、翼賛選挙貫徹運動」(選挙粛清中央聯盟編 1942317日)「總意の進軍・翼賛選挙貫徹のために」(大政翼賛会宣伝部元作翼賛紙芝居研究会脚色 近藤日出造絵 1942330日)は、表題通り、翌月に迫った430日の投票に向けた作品で、前者は種々の威勢のいい標語やスローガン、後者は東條首相の演説が取り入れられていた。「戦時お臺所設計図」(金子しげり原作 日本教育紙芝居協会脚本 浦田重雄絵 1942820日)は、食材の切れ端を工夫・活用し、ゴミ減量を説くのである。「午前二時」(鈴木景山編輯 油野誠一絵 19441020日)は、空襲は必至として、普段の備えと心構えが語られるが、珍しく単色で描かれ、真夜中の雰囲気を出しているようでもあるが、印刷の紙は粗悪らしい。この作品から、私自身の空襲への恐怖がかすかに思い起こされるのだ。夜中に眠いのを起されて、防空壕に連れ出そうとする母に「死んでもいい」と駄々をこねたことは、後から聞いた。また、病気で寝込んでいた母を、家の中の縁の下の待避場所に残して、防空壕へと父に連れ出されたときに、暗闇で布団にくるまっている母の姿の記憶がうっすらとあるのだ。そんなことがあって、父と学生だった長兄を東京に残して、母と次兄と私の三人は、母の実家に疎開することになったのだろう。

 

歴史上の人物の伝記ものでも、時代も分野も異なり、さまざまなパターンがある。 「兵制の父大村益次郎」(大政翼賛会宣伝部作 中一彌絵 19421130日)、「山本五十六元帥」(鈴木景山作 小谷野半二絵 19431215日)などは、ストレートな軍国主義、徴兵強化を意図し、「キューリー夫人傳」(鈴木紀子作 西原比呂志絵 194175日)、野口英世(木實谷喬壽原作 池田北鳥脚本 藤原成憲絵 19411231日)は、それぞれ、非常時の国防に役立つことを考えた研究者、戦う科学の戦士という位置づけであった。「二宮金次郎」(成瀬正勝構成 西正与志作絵 1941130日)など、もっぱら質素・節約を説くものもある。 

 

一方、堀尾勉作・西正世志絵というコンビによる「芭蕉」(1941101日)は、作画や印刷にも工夫がこらされ、淡い色調で、文学性が高められ(松本和樹)、「一茶」(1943110日)は、朗読によって、一堂に会して視聴する者の感動を誘うような意図が感じさせるが、一茶の消えない悲しみや苦しみが打ち出すカタルシスと文学性の成否が問われるといった解題(鈴木一史)も付されていた。どんなふうに描かれたのか、知りたいと思った。

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2018年3月 9日 (金)

自浄能力を失った歌壇か~「腰が引ける」とは

最近の歌壇の事情には疎いが、歌人たちの書く文章を読んでいて、なんとも言い難い焦燥感に駆られてしまうことが多い。あまりにも周囲をおもんぱかった、近頃の言葉でいえば「忖度」に充ち溢れた言葉の応酬を目の当たりするからかもしれない。

 

そういえば、拙い時評や拙著について、いただく私信のなかで、自分などは「腰が引けて」しまうところを踏ん張っていますね、といった感想を寄せてくださる方が幾人かいらした。また、めったに参加することのない短歌関係の会だが、そんなとき、久しぶりに会った方や初対面の方から、脅迫されるようなことはないんですか、とささやかれることもあった。私は、思わず笑い飛ばしてしまうのだが、皆さん、何を恐れているのだろう。 

以下は、『ポトナム』に寄せた時評だが、同じテーマで、3月27日発売

(筑摩書房)の『早稲田文学』春号<金井美恵子>特集にやや長いものを執筆したので、くわしくはぜひそちらも合わせてお読みいただければありがたい。 

なお、きのうの報道で、金井美恵子が『カストロの尻』で2017年度芸術選奨大臣賞受賞を知った。私はいささか動揺したが、受賞にめげずに?従来通りの活動を続けて欲しい。

     ◇

 もう数年前のことになり、歌壇では、忘れかけている人も多いかもしれない。作家の金井美恵子の「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」(『KAWADE道の手帖 深沢七郎』二〇一二年五月)という長い題を持ったエッセイが、痛烈な短歌批判をしているとして、歌壇を騒がしていた。エッセイのタイトルは、歌壇にいささかの関心のある人ならば、「たとへば(君)」が、河野裕子・永田和宏歌人夫妻が、妻の没後刊行された永田の『たとへば君 四十年の恋歌』(文芸春秋 二〇一一年七月)と河野の一首「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」に由来し、「告白」は、岡井隆の自伝『わが告白 コンフェシオン』(新潮社 二〇一二年一二月)を念頭に置いていることがわかる。 

「『風流夢譚』は短歌について書かれた小説である。では、短歌とは・・・」で始まる、金井のエッセイは天皇賛美を繰り返し、歌会始選者から御用掛となった岡井とともに、夫妻で歌会始選者を務め、在任中に病死した河野への挽歌が新聞歌壇に溢れた現象を斬ったのである。彼らを「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」、「短歌という巨大な共同体的言語空間」をなす歌壇のなかに位置づけ、短歌批判を展開している。歌人による反響がかなり見られたのだが、その大方は、真っ向からの反論というわけではなかった。

 

私としては、かねてより、現代短歌が天皇や皇室から自立しないかぎり、文芸の一ジャンルとしては成り立たないと考えているので、金井からの問題提起は、刺激的でもあり、説得力があると思えた。

 

松村正直は、「短歌を作るものは、短歌の世界だけにとどまってはいけない。短歌の魅力や仕組みを多くの人に広めていく必要がある」(「短歌への嫌悪感」『短歌』二〇一二年九月)として、「金井の論考は、何よりもそのことに気づかせてくれた」という。島田修三は、「昨今の現代歌壇に対する洞察としては、かなり正確に中心を射ぬいている」としながら、「金井には短歌を同時代に文学として理解しようとする意思はほとんどなく、とりつく島のない高飛車な狭量に腹立たしさを覚えたりもしたのだった」と書く(「もの哀しさについて」 角川『短歌年鑑』平成25年版 二〇一二年一二月)。沢口芙美は「いつの間にか歌壇内だけの視野狭窄に私たちは陥っているのではないか」として、金井の論考に触発されて「うた全体に亘るきびしい自己批評の目をもたなければならないのではないか」と述べた(「今年の提言―きびしい自己批判の目を」『歌壇』二〇一三年一月)。 

そんな中で、激しい口調で反論したのは、大辻隆弘だった。「金井の文章に底流するのは、文壇のなかに今も根強く残る短歌への蔑視である。それは、現代短歌を<和歌>とみなし、それを天皇制と直結させる偏狭で硬直した戦後左翼的な短歌観に他ならない」とするものだった(「短歌月評:短歌否定論」『毎日新聞』二〇一二年一一月)。現代短歌と天皇制とを直結させる「偏狭で硬直した戦後左翼的な短歌観」など、いまどこを探しても見出せないほど、歌人たちは、ものわかりがよくなって、ウィングを広げに広げてエールを送り合っている。 

金井の他のエッセイや小説を少しでも読めば、発想の自由さと表現の自在さに圧倒されることはあっても、「偏狭」「硬直」などとの批判は、むしろ的外れの感がある。

  真っ向から反論しなかった論者たちも、金井の指摘する具体的な歌壇の現象についてのコメントは避けて、配慮に満ちた、未来志向の模範解答に逃げ込んではいなかったか。(『ポトナム』2018年3月)

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「自浄作用が働かない歌壇―金井美恵子の短歌批判に歌人はどう応えたか」(付関係文献目録)を書いています。

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2018年2月12日 (月)

『九州大学生体解剖事件』を読む~スガモ・プリズンの歌会にも触れて

126日の森友学園問題を考える会主催の「院内集会」の折、出会った森友学園の地元豊中市市議の熊野さんから著書『九州大学生体解剖事件 七〇年目の真実』(熊野以素著 岩波書店 20154月)をいただいた。 

そこで展開される事実は、不勉強で、知らなかったことも多く、胸の痛む思いで読み進めた。19455月、九州大学医学部が「実験手術」の名のもとに、米軍の捕虜8人が、生体解剖の犠牲になった事件で、それにかかわった医師、鳥巣太郎についてのドキュメントである。戦後に行われた「横浜法廷」で、その首謀者の一人として死刑判決を受けたのだが、4回行われた「実験」に2回かかわったことで、極刑を言い渡された鳥巣が、その「実験」に抵抗し、回避をしてきたことを知っている妻が、判決の理不尽と戦った記録である。膨大な裁判記録や再審査資料、関係者の証言を駆使しての労作であった。 

著者の伯父鳥巣太郎・蕗子夫妻、鳥巣の苦悩、蕗子夫人の奮闘の軌跡がたどられる。夫人が苦労して書いた嘆願書が検察側の資料となる経緯、西部軍、九大側の隠蔽工作、サイデル弁護士の証言工作などが明らかになる過程、時には裏切られながらも、協力者を得てゆく過程が克明に描かれる。再審査の結果、死刑は10年に減刑されたのだった。 

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    そして私が何よりも思いがけなかったのは、鳥巣太郎が短歌を詠んでいたことであり、それが、<戦犯歌集>と呼ばれた『巣鴨』(第二書房 19539月)に収録されていたことだった。
 この歌集の「序」を鹿児島寿蔵と並んで書いていたのが阿部静枝であった。静枝は、私の母と私が師事した『ポトナム』の歌人だった。1960年代、『ポトナム』の東京歌会に参加していた頃、歌集『巣鴨』については、聞くともなく聞いていた。阿部静枝は、『女人短歌』、『潮汐』、『ポトナム』の同人たちとともに、巣鴨拘置所内での巣鴨短歌会に出向いて短歌の指導に当たっていて、その成果の一つが、この歌集であった。時を経て、知人から譲り受けた『巣鴨』を通読はしていたが、鳥巣太郎が九州大学生体解剖事件に関係する医師だったとは知らなかった。静枝は、戦前から池袋の西口、二丁目に住み、我が家も大正時代から一丁目で店を営んでいて、巣鴨拘置所へは、東口ながら歩いて行ける距離であった。1970年まで拘置所だった、その跡地には、1978年にサンシャインビル60が竣工、当時は、その高さはアジアで一番を誇っていたのだった。巣鴨拘置所は、私の生活圏のなかにあった。  

 阿部静枝は、その「序」において、「有刺鉄線の境界、アメリカの旗がひらめくその上の空、敗戦国を見下している監視塔があるスガモ・プリズンは、戦争の抽象として、人間不幸の具象として、私の感情を締め上げる場所であった。・・・」と書き起こし、講和条約締結後は、面会の制限が幾分緩やかになり、集団面会の形で歌会が持たれたという。さらに、当初は、戦争への憎悪、悲運への忿怒、孤独の狂いが歌われていたが、次第に、透徹した祈りが底流となった、とも述べている。 

 

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鳥巣太郎の「孤心」と題する50首の中から10首を選んでみた。 

・郷愁のひたにせまれば少年の頃のわが村地圖に描きをり(愁翳)
・つぎつぎに売り細りゆくわが家のせまれる生活(くらし)今日は告げ来し
・何事も死が解決するといふことを我はうべなはず生きゆかむとす
・死に就きし友の監房に入りゆけば鉛筆書きの暦のこれり(訣別)
・口數の少きままにひたぶるの眸はわれに向けをりし子よ(面会)
・永らへし命思ひぬ秋づきて朝はすがしき窓に佇ちつつ(蟋蟀)
・咳をするも一人とよみし山頭火おもひ出でつつ臥床をのぶる
・秋の陽の寂かに照れる廣庭にわが出でしとき眼(まなこ)眩みぬ(命生きて)
・ある時はわれのみを人らが目守りゐる心地覚えて護送車にゐる
・講和調印終りし今朝も平凡に護送車の中にうづくまり居り

 

 鳥巣には、『ヒマラヤ杉』(1972年)という歌集もあるという。また後年、上坂冬子とのインタビューでは、事件当時の九大医学部の医局員は一体どうすればよかったのかを尋ねられて、「どんなことでも自分さえしっかりしとれば阻止できるのです。・・・ともかくどんな事情があろうと、仕方なかったなどというてはいかんのです」と答えたそうだ。著者の熊野さんは、「最終章」で書かれている(189190頁)。

 

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2018年2月 5日 (月)

皇室とハンセン病と―名護市屋我地島の「御歌碑」

   

昨年2月の沖縄行のレポートとも一部重なりますが、『ポトナム』2月号には「歌壇時評」として、書きました。 

 

◇冬の沖縄、二つの目的をもって~難しいと逃げてはいけないこと(1)屋我地島、愛楽園を訪ねる(2017214日)

 http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-eeb9.html

   文中にある、沖縄愛楽園は、名護市の屋我地島の済井出(すむいで)にあります。沖縄本島とは屋我地大橋で結ばれ、さらに古宇利大橋で今帰仁村に属する古宇利島と結ばれ、また今帰仁村運天側の本島との間はワルミ大橋で結ばれていて、屋我地島と古宇利島は、いまや美しいビーチが自慢のリゾート地として人気があるそうです。 

 

 さきほど、昨夜11時前には、きのうの名護市市長選の結果が分かり、稲嶺進前市長の落選が報じられています。どうしてこうなってしまうのでしょうか。新人支援の小泉進次郎が「みなさん、なかよくやりましょうよ」みたいな応援演説をしている映像が流れていたのは知っていますが、こんな言葉に惑わされてしまうのでしょうか。残念です。日本の空でありながら米軍機が危険な飛行を繰り返すのに物が言えない政府、新基地建設に反対しながら、遠く離れた私に何ができるのかを考えると、とても情けない気持ちになってしまうのですが、なんとか、気を取り直して・・・。 

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同じ名護市の屋我地島と辺野古

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・つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて 

    短歌と皇室・沖縄・ハンセン病―これらのキーワードが一直線で結びついているのではと考え始めたのはここ数年のことである。これまでも、現代短歌と天皇制との接点で、何が起こっているかに着目してきた。平成の天皇夫妻の短歌は、歌われる内容と発表の時期、タイミングを検証することによって、その政治的メッセージ性が高いことを指摘してきた。天皇は、皇太子時代を含め、沖縄には一〇回訪問し、多くの短歌と「おことば」を残した。同行の美智子皇后とともに、沖縄の伝統や文化、戦没者慰霊に深く触れ、平和への祈りとしての短歌を詠んでいる。日本政府の沖縄への姿勢や米軍とのかかわりにほとんど触れることもないのは当然のことだった。沖縄の人々の心に響くことはあっても、沖縄が抱える切実な問題の解決にはつながらず、その結果、政府の沖縄政策の補完の役割を果たしていることにも言及した(「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」(『社会文学』44号二〇一六年八月)。  

   冒頭の短歌は、大正天皇の節子皇太后(以下、貞明皇太后)が、一九三二年一一月大宮御所での歌会で「癩患者を慰めて」と題して詠んだ一首である。その前年の「癩予防法」の成立を受けて、内務省は、光田健輔医師らを中心に癩予防協会を設立、貞明皇太后の下賜金を受けた。以降、全国の国立療養所を中心に「無癩県運動」をスローガンに「絶対隔離政策」が展開される。上記短歌は、その療養所に下賜され、施設内には「御歌碑(みうたひ)」が建立され、貞明皇太后=皇室の「恩」としての役割を果たした。一方では、患者の強制収容、家族との離別、断種や堕胎など過酷な悲劇が繰り返され、家族への差別・偏見も助長された。一般国民に対しても「絶対隔離政策」の徹底は、差別、優生思想、民族浄化を増幅させることになった。敗戦後、新薬の普及、治療法も確立し、感染力も低く、不治の病ではないことが明らかになった後も、この政策は続いた。

「癩予防法」が廃止されたのは一九九六年であり、ハンセン病患者への差別が違憲とされたのは、二〇〇一年、熊本地裁判決であった。二〇〇五年、小泉政権下の報告書では、ハンセン病対策に皇室がかかわったことによって差別が助長されたという記述がなされている(『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』)。

 

 平成の天皇夫妻は、全国の一三の国立ハンセン病療養所すべての入所者を見舞っている。一九七五年、海洋博のため初めて沖縄を訪問した時に沖縄愛楽園(屋我地島)を訪ねている。明仁皇太子は、歓談後、見送ってくれた入所者たちを「だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔目にど残る」と「琉歌」に詠んだ。二〇〇四年、沖縄のもう一つの療養所、南静園(宮古島)を訪問した折に、美智子皇后は「時じくのゆうなの蕾活けられて南静園の昼の穏(おだ)しさ」と詠んだ。その後も短歌や琉歌を通じて、療養所入所者と天皇夫妻との交流もいくつかの「物語」として語り継がれている。 

 しかし、私は、二〇一七年二月、愛楽園を訪れたときの光景を忘れることができない。敗戦時、一度は海底に投げ込まれ、一九七〇年代に再建されたという貞明皇太后の「御歌碑」が、敷地内の広場の片隅に、青いシートに覆われ、横倒しになっていた。その現実に戸惑いながら、資料館で知った療養所の人々の苦難の歴史を思った。 

 天皇の退位が迫った現在、天皇夫妻の短歌もメディアへの露出度が増すだろう。その短歌自体とその短歌を読み解いて見せる歌人や史家たちの政治的メッセージ性にも注視しなければ、と思う。(『ポトナム』20182月、所収)

 

 

 

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2017年12月 5日 (火)

「赤い羽根」への善意のゆくえ

赤い羽根 胸にともせる人に会う 小さな愛のあふれる季節

 

 ことしも、わが町の自治会でも、赤い羽根募金袋が回ってきたと思ったら、今月は、歳末助け合い募金も回ってきた。もうだいぶ古い話になるのだが、冒頭の「赤い羽根 胸にともせる人に会う 小さな愛のあふれる季節」は俵万智の短歌である。彼女が、一九九八年から三年間、中央共同募金会のポスターモデルになっていたときの一九九九年のポスターに掲載された短歌である。 

その前年、赤い羽根募金のポスターに「「寒いね」と話しかければ「寒いね」と 答える人のいるあたたかさ」という短歌が掲載されたのを見て、人気歌人の人気作品が、こうして利用されるんだ、の思いをあらたにしたのだが、翌年の、冒頭作品を見たときには、少し驚きもし、団体の要請により作歌に応じたんだと、少し怖いものを見た気がした。

 

そのころ、私たちの自治会でも、班長さんが、自治会費のほかに、社会福祉協議会の会費500円、日本赤十字会の社資500円、赤い羽根募金の500円ほかいくつかの寄付を集める仕事について、疑問の声があがっていた。とくに毎年転居してくる新住民から、「寄付は自由なはずなのに」「前の自治会では、こんなことはなかった」などの意見もあったし、私自身の班長の経験からも、留守の家も多く、集金は負担であったし、定額の領収書を持っての集金には抵抗があった。我が家では、ある時から、「寄付は自由だと思うし、別のかたちでボランテイアをしているので」と、班長さんにはことわっていた。

 

そして、その後、自治会の役員を数年やる羽目になって、これまでの本ブログでも繰返している「自治会と寄付」の問題に取り組むようになった。今、自治会には、直接かかわらないものの、会員として、市民として、ささやかながら発信を続けている。全国的にも、この問題への関心は高く、私のブログでの関連記事は、常時、アクセスが多い。「自治会と寄付」については、すでに最高裁判決が出ているというのに、なかなか改まらない実態があり、問題の根は深いからだと思っている。新聞やテレビでも、ときどき、特集が組まれるようにもなり、私自身も取材を受けたり、出演?したりしたこともあった。あるとき、昼のワイド番組から、「怒れる女たち」(?)というコーナーへの出演依頼?があったときには、即座に断ったのだった。

 

五百円の寄付の代りに貰ひたる置きどころ探すこの赤い羽根 

  

  これは、今週、月曜日12月4日のある新聞歌壇の入選作である。そしてなんと、作者は、Tさん。彼は、大学時代の同期で、短歌研究会のメンバーであった。斎藤茂吉、佐藤佐太郎流の作品を、週一度、昼休みに開いていた研究会で発表していた。当時は、コピーなどはなかったから、お互いに、自分の作品を黒板に書いての歌会であった。年に一度だけ、『ポロニア』という謄写版の冊子に短歌や歌論を掲載するといった活動をしていた。「大学歌人会」も衰退の一途をたどっていた頃だが、それでも、数回の合同歌会で会ったことがあった岸上大作が、一九六〇年一二月、自殺したことを知って衝撃を受けた仲間のTさんだった。長い間、国語の先生をされ、海外で日本語教育にも携わった方でもある。

 

Tさんの短歌は、この新聞歌壇欄でも、ときどき読むことがあるのだが、今回の入選作は、俵万智の短歌にも通じる「市民の善意」を詠んだものだろう。ただ、Tさんには「置きどころ探す」で、あの針のついた赤い羽根の置き所に苦慮している様子が伺われた。「上手だな」と思う一方、「五百円」の集められ方と「五百円」の行方にもう少し踏み込んでもらうと、「赤い羽根」の問題点が浮上するはずなのにと、この短歌を選んだ選者にも、もの申したい気持ちであったが。

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2017年11月24日 (金)

本郷界隈、ほんのひとめぐり

 初めての「文京ふるさと歴史館」~窪田空穂展へ

「文京ふるさと歴史館」というところで、「窪田空穂展」を開催していることを知って、本郷に長らくお住いの友人と訪ねた。展示会は、正確には「季節のうた 歌人窪田空穂 生誕140年・沒50年」というものだった。受付では、65歳以上は無料ですと言われ、私たちは、なんとなく複雑な気持ちで地下の特別展を回りはじめた。

空穂は、若いときは、この文京区内を転々としていたので、ゆかりの地も多いという。1921年から、雑司ヶ谷、現在の目白台に居を構え、亡くなる1967年まで50年近く暮らしていたことになる。展示は、こじんまりとはしていたが、わかりやすいものだった。年譜や生い立ちに始まり、中央には「春夏秋冬のうた」が歌集や短冊などでまとめられていた。また、文京の季節を詠んだ百首、地名を詠み込んだり、地名を小題や詞書に付した作品が壁いっぱいに展示されていた。

私も、個人的なことをいえば、文京区竹早町にあった中学校に池袋から都電の17番で通学している。高校・大学は地下鉄丸ノ内線茗荷谷下車で7年間通ったことになる。さらに、浪人中の一年間は、山手線大塚駅前の予備校に通い、初めての職場が、目白の学習院大学で、2年間通勤している。文京区と、豊島区との境あたりをうろうろしていたことになる。そんなわけで、文京区には縁があり、親しみ深い。さらに、音羽通りの講談社裏にあった、閉鎖直前の東大病院分院に入院していたこともあった。その折、なんと、分院近くの町内会掲示板で窪田章一郎の訃報を知ったのだった。空穂・章一郎終焉の家近くに居合わせたことになる。そんな思い出の数々とともに、地名を詠んだ作品を興味深く読み進めるのだった。 

・咲き照れる桜仰ぎてわが童その手さし伸べ花に触りにけり(植物園)

『土を眺めて』

・目白台わか葉にけぶる空揺すり大きとどろき東より来る

(敵機の襲来を見る)『明闇』

・護国寺の松の木下ゆ秋日照る音羽通りの真直ぐにみゆる(護国寺境内)

『朴の葉』

・豊坂の上より見るや北屋根に残りて白く打ち続く雪(薄雪)

『さざれ水』

 「豊坂」は、空穂が自宅から早稲田大学に通う道であったそうだ。文京区内には名のついた坂が100以上あるとのこと、縁のある私とていくつの坂を越えただろうか。

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本郷三丁目の交差点から春日通りをわずかに進んだ、真砂坂上バス停を右に入る。向かいが真砂中央図書館になる

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展示会場の中央のガラスケースの「四季のうた」、カタログより

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囲ったところが歴史館、一本北の本妙寺坂の男女共同参画センター前の「案内板」より

         私は今年、空穂没後50年という認識もないまま、戦前の『新女苑』という女性雑誌の歌壇選者をしていたころの空穂について調べていた。その過程で、戦後に出版された歌集に戦時下に発表した短歌がそっくり削除されていたことを知った。その辺の事情も知りたいのだが、今回の特別展では、もちろん触れてはいなかった。生家のあった松本市には窪田空穂記念館があって、様々なイベントが開催されているが、私はまだ出かけてはいない。

 

*空穂について、*以下のブログに記事に書いていますので、ご参考までに。

 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/06/post-8c97.html
戦時下の女性雑誌における「短歌欄」と歌人たち―『新女苑』を中心に
2017年6月19日 (月)

黄葉の東大キャンパス

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赤門を入ってすぐ

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工学部前の大イチョウ

 東大の銀杏の黄葉が素晴らしいという友人の勧めで、足を伸ばした。友人には、格好の散歩コースのようで、丁寧に案内していただく。キャンパスは、外来者も多く、散歩のご夫婦や家族連れ、カメラ撮影に余念のない人、日曜画家かカルチャーの絵画教室の人たちか、だれもが輝く銀杏の黄葉に圧倒されているようだった。久しぶりの三四郎池も、都心とは思えない静かな佇まいで、私にとっても、秋を満喫した半日となった。

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2017年11月 5日 (日)

「忖度」が「まんじゅう」になって~正岡子規の「忖度」ふたたび

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 出先の夫から、大阪の知り合いから「忖度まんじゅう」をいただいたとのメールが入っていた。帰宅後、さっそく、熱いお茶を入れていただいたが、石川県の会社が製造した、大阪土産という、かわいらしいお饅頭であった。「商標登録申請中」と、その包み紙には刷り込まれているので、今年の「森友・加計問題」が浮上してからの急ごしらえなのだろう。

「まんじゅう」にもなった「忖度」だが、今回、永田町や霞が関で飛び交うのは「忖度」なんていう上品な言葉では言いあらわせない、もっと下世話な、犯罪のにおいすらもする実態を浮かび上がらせた。日本には、「おもねる」「媚びる」「へつらう」という言葉もあるし、日常的には「オベッカをつかう」「ゴマをする」とか「お追従」「ご機嫌をとる」という言い方もある。「迎合」「配慮」「意向をくむ」という少し上品そうな言葉もあるが、忖度する側・される側、双方の心中に共通してあるのは「贔屓」「縁故」「情実」「私情」であり、必ず「見返り」が期待され、「互酬性」を伴う。政府や役人による優遇、不正見逃しなどが横行し、「献金」「天下り」などという「金銭」「地位」「栄誉」が行き交う。その行き着く先を考えると、環境破壊、テロや戦争の土壌にもなり、人間の命を人間が奪うことにもなり得る。

「忖度」が泣き出しそうでもある。たかが「まんじゅう」されど「まんじゅう」ながら、包み紙の地の模様は、模様ではなく、いくつかの文章が連ねてあった。すなわち、石川啄木「硝子窓」、福沢諭吉「「学問の独立」、太宰治「ダス・ゲマイネ」などの一節で、いずれも「忖度」の語が使われている個所が印刷されていたのである。そして最後は、今年、生誕150年を迎えた正岡子規の「歌よみに与ふる書」から、つぎの一節が刷られていた。

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「・・・今は古人の心を忖度するの必要無之、ただ此処にては、古今東西に通ずる文学の標準(自らかく信じをる標準なり)を以て文学を論評する者に有之候。」 

 

「歌よみに与ふる書」は18892月「日本」から10回にわたって連載されたいたものだが、この節は、第6回目(224日)に掲載されたものの一部である。念のため、前後を引用しておこう。現代の短歌の世界でも、先人や同時代人の作品鑑賞や評伝などにおいて、この「忖度」が充満しているとは言えないか。自らの「文学の標準」がいつの間にか、ブレてゆく歌人も少なくはない。

 

同じ用語同じ花月にても其れに対する吾人の観念と古人のと相異する事珍しからざる事にて」云々、それは勿論の事なれどそんな事は生の論ずることと毫も関係無之候。今は古人の心を忖度する必要無之、只此処にては古今東西に通ずる文学の標準(自ら斯く信じ居る標準なり)を以て文学を論評する者に有之候。昔は風帆船が早かつた時代もありしかど蒸汽船を知りて居る眼より風帆船は遲しと申すが至当の理に有之、貫之は貫之時代の歌の上手とするも前後の歌よみを比較して貫之より上手の者外に沢山有之と思はば貫之を下手と評すること亦至当に候。歴史的に貫之を褒めるならば生も強ち反対にては無之候へども、只今の論は歴史的に其人物を評するにあらず、文学的に其歌を評するが目的に有之候。

(講談社『子規全集』に拠る青空文庫)

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