2025年3月 3日 (月)

「新聞歌壇」の選者ということ~馬場あき子の退任をめぐって

 2月25日の朝日新聞は、馬場あき子が47年間務めた「朝日歌壇」の選者を退任すると報じた。半世紀近くも選者であったことに改めて驚いた。97歳、「元気なうちに幕を」と3月をもって引退を決めたとも記事にはあった。そして後任は4月から川野里子が務めることになったとも。

 さまざまな組織で、同じ場所に長期間留まることは、デメリットの方が大きいというのは、もはや自明のことと言ってもいいだろう。今回の選者退任は、記事によれば、本人の意志だったようである。昨今の歌壇の様相では、若手の活躍もめざましいので、朝日新聞側の意向も影響したかもしれない。本人が言い出さない限り、首に鈴をつけるのは難しいのが常である。「朝日歌壇」は共選制をとるとはいえ、一人の選者が半世紀近くも留まることは、「歌壇」にも少なからず影響を及ぼしたのではないか。

 そして、いま一つ、私が注目したのは、後任の川野里子は、馬場あき子が立ち上げた「かりん」という結社の有力歌人であったことである。残念ながら、「やっぱり」という思いが強かった。

 馬場さん、もう少し度量のある人かな、と思ったが、やはり自らの結社からの後任を条件にしたのではないか。川野さんの作品も評論も歌壇での評価は揺るがないものである。私も、その評論については、格別の敬意をもって読み、多くの示唆を受けている。 

 もはや、「結社」などどうでもいいじゃないかの声も聴くが、現在の「歌壇」で持つ意味は小さいとは言えない。地方版の歌壇選者にも、後任は同じ結社の人だったりするのを目の当たりにする。

 もう一つ、気になるのは、新聞歌壇選者は、一つのステイタスになっていて、なかなかやめようとしない。そうすると、とくに投稿の常連さんと選者の間に、家族を見守るような関係ができて、私情が入り、歌壇欄の私物化につながってしまうことがあるからである。

 最近、私は妙な電話をもらった。当ブログ上で、某新聞歌壇の某選者のある件で批判を書いたことがある。だいぶ前の記事だった。その当人からの電話で、ブログの記事によって、私の名誉は傷つけられたが、それをいまさら訴えたりする気はない。ただ、私の話も聴いてから書いて欲しかったという趣旨だった。この選者の件の事案について、新聞社も歌壇も動いてはいない。歌壇に文春砲はない。

 もう十年以上も前になるだろうか、やはり、ある歌人、新聞歌壇の選者も務めている人から、似たような電話をもらった。私の著書での批判によって、私の弟子が何人も去っていった? 名誉棄損で訴えたいが準備はできているか、というものだった。戸惑った私は、私の著書のどの部分が名誉棄損に当たるのかを尋ねると、いま、ネット上で、あなたの著書を読んで、私の批判をしている人がいる。私は生きている人間なのだから、あなたは、なぜ私の話を聞きに来なかったのかとも。件の拙著はこれから入手するつもりだとも言っていたが、その後なんの音沙汰もない。

 二人に共通するのは、名誉棄損、裁判、そして、批判するなら、直接本人の話を聴け、というものであった。私は、常々客観的な資料の裏付けを求めながら執筆しているつもりである。存命の人の批判をするには、本人に話を聞かねばならないのか。もし反論があるのならば、メディアや自著で明らかにすべきであろう。歌壇が無風なのは、こんなところに要因があるのかもしれない。

 私のわずかな体験ながら「インタビュー記事や自叙伝ほどあてにならないものはない?!」という場合があるということも学習した次第である。

 話はそれた?かもしれないが、ご容赦を。

20253
春はもうそこまで。3月2日、4月並みの気温だったが、ベランダ前の枝垂れ桜の支柱工事が朝早くから始まった。半日以上かけての工事であった。

 

 

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2025年2月18日 (火)

「岩波の本は、返品できないんですよ、いいですね」~歌集『ゆふすげ』をめぐって

 転居先に出入りの本屋さんからの確認の電話だった。やはり、読んでおかねばと、注文した『ゆふすげ』(美智子著 岩波書店 2025年1月)の件である。著者「美智子」は、平成期の美智子皇后、美智子前皇后のこと。苗字のない著者というのも不思議な気もするが、苗字を持たない人たち、皇族たちがいることをあらためて思い知るのだった。

 「重版を待つので、少し遅れます」と本屋さんは言っていたが、意外と早く届いた。「昭和、平成の未発表歌四六六首」を収録、「昭和四十三年」(1968年)から「平成三十一年」(2019年)までの歌を暦年順に、年ごとに一首から十数首を収めている。一首もない年もある。

 これまで、美智子前皇后の歌集の代表的なものに以下がある。しかし、いずれの歌集の奥付にも、著者の名はなかった。

『ともしび 皇太子同妃両殿下御歌集』 宮内庁東宮職編 婦人画報社 1981年12月

『瀬音 皇后陛下御歌集』 企画・編集・刊行大東出版社 1987年4月(1959年~1996年作 367首 未公開191首)

  『ともしび』と『瀬音』とは重なる作があり『瀬音」と今回の『ゆふすげ』とは年代的には一部重なるが、これまでの未発表作が収録されている。また、平成期の歌は、『道』という十年ごとに刊行された明仁天皇の記録集(宮内庁編 NHK出版)の各最終章「陛下のお側にあって」のなかの「御歌(みうた)」に収められている。そこには、毎年一月一日のメディア向けに発表される三首と歌会始に発表された一首を加えて四首が、宮内庁の解説?つきで収められていた。ちなみに、元旦の新聞に載るのは皇后三首、天皇が五首と決まっていたし、『道』においては上記のように皇后は年に四首、天皇は年に十首前後と、その差は著しい。その差を埋めるべく、皇后本人の意もあって、単独の歌集が刊行される運びとなったのではと推測される。

これまで発表されてきた歌は、とくに『道』には、あくまでも「公的行事」――法的根拠がない――としてなされていた植樹祭、国民体育大会、豊かな海づくり大会のほか被災地、戦跡、訪問、福祉施設訪問などで詠んだ歌が主であったが、『瀬音』と『ゆふすげ』には、たしかにプライベートな歌が多い。明仁天皇を詠み、明治天皇、昭和天皇、香淳皇后など皇族たちへの追悼歌が散見するのは当然として、自らの父母への哀惜、自らの師や友人たちの追悼歌も多い。中でも、私が注目したのは、短歌に係る者として、美智子前皇后の歌がどのようにして形成されていったかの関心から、その指導者であった歌人五島美代子、佐藤佐太郎、佐藤志満への追悼歌であった。

 たとえば、『瀬音』の「昭和六十二年」には「佐藤佐太郎先生をいたみて」と題した三首の中につぎの歌がある。

・もの視(み)つつものを写せよと宜(の)りまししかの日のみ目を偲びてやまず

 また、『ゆふすげ』の「昭和六十二年」に「忍ぶ草 佐藤佐太郎先生をいたみて」と題した三首に中の一首である。

・みよはひを重ねましつつ弥増(いやま)せる慈(いつく)しみもて教へ給ひぬ

「平成二十一年」には「佐藤志満先生追悼三首」と題した中につぎの一首がある。

・「わが親族(うから)ゆめ誹(そし)らず」とかの大人(うし)の讃へし妻にありませし君

 佐藤夫妻への敬意と信頼をうかがわせる歌である。

  また、「お妃教育」における、五島美代子が担当した「和歌」は、週1回の2時間10回の日程であったという(『入江相政日記三』261頁)。五島美代子のエッセイによれば、開講に先立って、三つの目標、本当の気持ちをありのままに詠む、毎日古今の名歌を一首暗唱する、一日一首を百日間作り続ける、という約束を交わし、美智子前皇后はそのすべてをクリアしたという(『花時計』321~325頁)。彼女の歌には、文学的な才能や知性ばかりでなく、その努力も伺わせるエピソードである。 

   つぎに着目したのが、夫である明仁天皇を詠んだ歌であった。歌詠みにとって、濃淡はあるものの、「相聞」は、基本的なテーマでもある。憲法上特別な地位にある夫婦ではあるが、美智子前皇后は、最上級の敬語を使ってつぎのような歌を詠み続けるのだが、違和感を覚えざるを得なかった。夫婦の実態は知り得ないが、私などの世代でもそう思うのだから、若い人たちは、どう思うのか、聞いてみたい。

・高原に初めて君にまみえしは夏にて赤きささげ咲きゐし(「高原」と題して「平成四年」)

・初(うひ)にして君にまみえし高原(たかはら)にハナササゲは赤く咲きてゐたりし(「平成二十九年」)

 繰り返される最初の出会いの緊張感と胸ふたがれる思いが「赤いささげ」の花に託されているように、私には読める。

・大君に捧ぐと君は北風の中に楓の枝を手折(たお)らす(北風」と題して「昭和六十三年」)

 これは、昭和晩年の大君、昭和天皇と「君」との関係をうかがわせる。

・御列は夕映えの中ありなむか光おだやかに身に添ふ覚ゆ(「平成二年」「光」と題して。「御即位に伴ふ祝賀御列の儀」の註)

 即位後の安堵感が見て取れるが、彼女は、代替わりの諸々の儀式を乗り越えるにあたって何を思ったのだろうか。

・日輪は今日よみがへり大君のみ生まれの朝再びめぐる(「平成六年」「天皇陛下御還暦奉祝歌」と題して)
・君の揺らす灯(ともし)の動きさながらに人びとの持つ提灯揺るる(「平成十三年」「灯」と題して)

 「日輪」の歌には、いささかその大仰さに驚いたが、彼女は承知の上でのパフォーマンスにも思えるのだった。「灯」の歌も、行幸啓の先々での提灯による歓迎の模様を詠んでいる。提灯や日の丸の小旗は、地元の奉迎・奉祝の実行委員会のような組織や「日本会議」、神社庁などが配布する場合が多い。提灯を揺らしていたのは、いわば物見高い人たちや動員に近い形で集まった人たちだったのではないか。天皇と国民との交歓風景の演出だったり、創出であったりのようにも思える。。

・清(すが)やかに一筋の道歩み給ふ君のみ陰にありし四十年(よそとせ)(「平成十二年」「道」と題して)

 「君のみ陰に」「陛下のお側にあって」という表現が、天皇と皇后の関係を端的に示しているとしたら、これを認めてしまったら、憲法上象徴たる天皇、天皇家には男女平等がないことになりはしまいか。野暮なことをと言われそうだが、天皇、天皇家を、日本国憲法の「番外地」にしてはならない。

 なお、2月5日のNHK「歌人 美智子さま こころの旅路」の影響もあったのだろう、『ゆふすげ』は、共同通信によれば、10万部を超えるベストセラーになっているそうだ(「美智子さま歌集が10万部超 1月の刊行から大反響」2024年2月14日)。NHKの番組は、美智子前皇后の歌の紹介などを歌人永田和宏が行い、ゆかりのある人たちのインタビューなどにより構成されていた。もちろん、誰もが敬語を使って、その人柄や歌について語っていた。朝ドラに出演していた若い女優の語りとイメージ映像は、あまりにも情緒的であって、むしろわずらわしく思えたのだが。そういえば、2月16日の「朝日歌壇」の永田和宏選に、つぎのような一首があった。永田さんは『ゆふすげ』の解説者でもあったのである。これって、少しやり過ぎじゃないかしら?

・行きつけの小さな本屋に注文し重版待ちいる歌集『ゆふすげ』(埼玉県) 中里史子(2月16日)

また、一週間後に永田選でつぎの歌が掲載されていた。やっぱりこれって、投稿歌壇の私物化と言ってもいいのでは?

・カバーより透けて見えにしゆうすげは清らに咲きて歌集の扉(水戸市)佐藤ひろみ(2月23日)

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2025年2月 3日 (月)

「歌壇時評」を書きました。

 『ポトナム』2月号に「歌壇時評」を書きました。近年、短歌の総合誌に掲載される若い人の作品を拾い読みしたりすると、難解というか、意味不明の歌が多くなった。たまたまかも知れないが、とくに若い女性の性愛の歌が続いたりして、辟易とすることがあった。同じ短歌の世界に居ながら、どこかがちうのだろう。私などは、わかったふりをすることもないので、無理なく読み、詠んでいきたいと思う。

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2025年2月『ポトナム』より

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2025年1月23日 (木)

岩波、お前もか~美智子前皇后の新刊歌集出版をめぐって

 転居先での数日間、新聞もテレビもほとんど接することがなかったが、どの新聞だったか、昨日1月22日「歌会始」の前の一面下の八ワリ広告の右端に「ゆうすげ 美智子」の文字、よく見ると岩波書店とある。とうとう、というのか、岩波書店が平成期の美智子皇后の歌集を出版したのだ。美智子皇后にはすでに単独の歌集『瀬音』がある(大東出版社 1997年)。美智子皇后の短歌には多くのファンがいるし、多くの著名歌人たちの間でも好評価を得ているのも確かである。技術的にも、その感性にも優れた面があると思う反面、私には、一首、一首の発するメッセージがあまりにも「政策的」であることに危惧を覚えてしまうのである。さっそく注文をせざるを得ないことになった。

 なお、昨年12月に出版された『現代女性文学論』(新・フェミニズム批評の会編 翰林書房 1924年12月)には、私は以下を寄稿している。

「美智子皇后の短歌ー「平和祈念」「慰霊」の短歌を中心に」
はじめに
1.天皇・皇后の短歌はどのように発信されいたのか
    1 天皇・皇后の短歌と国民との接点
  2皇后の短歌の出発点
2.皇后の短歌はどのように鑑賞され、広められていったのか  
3.天皇制維持への皇后としての意欲ー「リベラル」な論者の支持を追い風として
おわりに

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2024年12月16日 (月)

1903年(明治36年)生まれの母は何がしたかったのだろう~わずかに残されていた敗戦直後から晩年の婦人雑誌(1)

敗戦直後の雑誌2冊

 長兄の代になって実家が小さなビルに建て替えるとき、屋根裏の物置から母の遺品を持ち出したのだろう。12月の母の命日は過ぎてしまったのだけれど、手元に何冊か半端に遺された「婦人雑誌」を記録にとどめておきたい。当時の婦人雑誌は、A5判で60頁ほどで、ざら紙で劣化も著しく、スキャンするにも綴じが今にも崩れそう。いや崩れてしまっているものもある。

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 この『婦人倶楽部』(大日本雄弁会講談社、64頁)1948年7月号の「夏の新型スタイル集」、何と懐かしいファッションだろう、杉野芳子(右端中央に見える)のデザインらしい。こんなワンピースやブラウスを着ている人を、身近に見ることはまずなかった。グラビアと言っても白黒だが、水泳の兵頭(前畑)秀子とスケートの茨木(稲田)悦子の子育てさなかの写真であった。裏表紙の広告がおもしろい。家業は薬屋だったし、私は店番が好きだったので、薬や化粧品の名前や製薬会社にも覚えがある。仁丹、山ノ内、三共、武田などは今も健在であるが、クラブ乳液のクラブ化粧品は今のクラブコスメティックになり、バニシングクリームのマスターがいまのマスターコスメティックかは不明。当時母はまだ短歌を作り始めてはいないようなので、私の関心から、短歌講座「歌のこころ」というコラムは、名歌というよりは、子や妻との微妙な関係を歌った作品の鑑賞が興味深い。ちなみに、このコラムの右側は、芹沢光治良の「新婚」という連載物の最終頁である。

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 『婦人界』(婦人界社、64頁)の表紙絵は志村立美。当時は、おゃれをしようと思えば、洋裁や和裁のできる人に仕立ててもらうか、自分で縫うしかなく、必ず型紙が付つけられていた。ここでもデザイン杉野芳子、田中千代が活躍する。つぎの斎藤茂吉の巻頭言のカットが中川一政である。

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左頁下段が目次、上段が茂吉の「白玉の憂ひ」と題して伊藤左千夫の

・白玉のうれひをつつむ戀人がただうやうやし物を云はなく

を引き、豊麗な肉体にこもる日本女性の情調を詠んだものとし、健康な女体の美を称えている。読みものでは、美濃部達吉の妻、美濃部多美子の「夫とともに歩んできた道」では、達吉が詠んだ短歌も紹介されていたのである。息子の美濃部亮吉の孫を大層可愛いがっていたそうで、つぎのような歌を孫への手紙に書き添えていたという。

・夏木立しげれる宿にかはらねど幼き子等の聲は聞こえず

 また、自宅に上げた客が暴漢と化して達吉は銃に撃たれ、入院するが、そのさなか、1936年2月26日2・26事件が起き、つぎのように詠んでいたという。

・我はただ我行く道を歩むなりいかに嵐はあれくるふとも

 なお、中河幹子選の短歌欄と中村汀女選の俳句欄は、最終頁に掲載されている。一等賞金100円、この雑誌が40円だから3か月分にもならないが。

 

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2024年12月 7日 (土)

「美智子皇后の短歌」について書きました。

 私が会員になっている「新・フェミニズム批評の会」編集の『現代女性文学論』(翰林書房)が刊行されました。私は「美智子皇后の短歌-<平和祈念><慰霊>の短歌を中心に」(2023年8月締め切り)を寄稿しました。美智子皇后の短歌を、文学的に高く評価する評者がいる一方、皇后は女性作家ではないとする評者もいます。皇族が短歌を公表する場は、今では新年の「歌会始」くらいになりましたが、平成期には、他にも元旦の新聞紙上に発表されたり、美智子皇后の短歌は単独歌集『瀬音』として出版されたりしました。明仁天皇の短歌と共に、政治的なメッセージが伴う短歌も少なくはありませんでした。そこに焦点をあてたつもりです。「はじめに」も「おわりに」も、たかだか十頁ちょっとの文章には不要と思われましたが、結果的に、つぎのような章立てとなりました。

はじめに
1.天皇・皇后の短歌はどのように発信されいたのか
2.皇后の短歌はどのように鑑賞され、広められていったのか
3.天皇制維持への皇后としての意欲ー「リベラル」な論者の支持を追い風として
おわりに

 笙野頼子、川上未映子・・・多和田葉子とさまざまな作家が対象となっています。ご関心がありましたら、ぜひ最寄りの図書館にリクエストをお願いします。

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2024年11月25日 (月)

あの頃の大学歌人会~風前の灯だった中に岸上大作も

 いま、各地で大学歌人会が立ち上げられ、隆盛を極めているようだ。老舗の京大短歌会、早稲田短歌会など、現在は、学生であれば、在学大学にこだわらないかなり自由な短歌会のように見受けられる。その大学歌人会同士の交流はどうなっているのだろうか。

 私の学生時代には、たしかに、在京の大学の歌人会の合同歌会などが開かれていた。断捨離のさなか、その片鱗をただよわせる資料がいくつか出てきた。

 私が入学した1959年、今はすでに消えた東京教育大の短歌会の上級生に、前川博さん、林安一さんがいらした。同期には、野地安伯さん、津田正義さんがいた。すでに卒業していた岩田(森山)晴美さんいらしたことも知ったのだった。

 私の短歌研究会のノートは、59年5月19日に始まっている。週火・木とE館212教室で開かれ、多いときは十人、少ないときは四・五人のときもある。黒板に各人が発表する短歌を眺めての合評会だった。

 ・いくすじか野火のけぶりのたゆたひて桧木林にうすれ行くな
  り(野地、5月19日)
 ・ビルの壁に囲まれて地の小暗きにあそべる鳥のかげ光りをり
  (林、5月19日)
 ・中古車の並ぶ広場を投げやりに小さきあくびする男の去りぬ
  (内野、5月19日)
 ・てらてらと照れる椿につながれて茶色の牛が動きつつ居る
  (津田、5月21日)
 ・ああ五月車輪の下にあお向けの少年の頬に地の熱かよう
  (前川、5月26日)

 野地さんは、現在『白路』の代表である。林さんは、私も入会した『ポトナム』の先輩でもあり、後、『うた』に移っているが、亡くなられている。津田さんの上記の歌は、「毎日歌壇」の佐藤佐太郎の選に入ったと知らされ、驚いたのだった。津田さんは、現在でも、ペンネームで「毎日歌壇」や東京新聞の「東京歌壇」にたびたび登場する常連でもある。前川さんは、寺山修司張りの作品が多く、異彩を放っていた。津田さんも前川さんも俳句との二刀流で頑張っているようである。いま手元には、ガリ版刷りになった「作品集NO1(1960年4月)」「NO2(作成年月不明)」があり、さらに『ポロニア』という小冊子は、私の在学中に、1号(1960年2月)から7号(1962年12月)までが確認できる。

 なお、大学歌人会といっても、ささやかな歌会ではあったが、1959年には、國學院大學、二松学舎大学と三校の合同歌会を開いたり、ときには、國學院との二校で、新宿の「トキヤ」や市ヶ谷の「カスミ」の隅で、小さなテーブルを囲んでの歌会だったりした。それが私にとっての大学歌人会だった。その記録が数枚残っていた。わら半紙というのか、仙花紙というのか、今ではまっ茶色になって、折り目や端からボロボロと崩れるように劣化してしまった紙、その上、謄写刷りなので、かなり読みにくい。さらに、私のメモが混じっているので、コピー機で調整をしても限界がある。

 1959年6月13日(土)に東京教育大学で開催された「歌会詠草」には15人が出詠、二人が欠席で、プリントの余白には、着席順までメモしてある。それによれば、参加者は、以下の通りである。
 国学院:藤井常世・山口礼子・平田浩二・高瀬隆和・岸上大作・鈴木・西垣
 教育大:前川・林・野地・山西・鴨志田・津田・内野
 中央大:島有道、不明:尾島

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 詠草の上に作者名が、下には互選の点が書き込まれている。高点歌を見ると、以下の通りだった。藤井常世さんも参加されていたことがわかるが、私の記憶はすっかり飛んでしまっている。

・かなしみに溺れてはならぬ危ふさに坂道尽きし海が美し
(山口礼子)8点
・おそいくる錯乱はげし冬の地図いづこにも黒き墓標を認む
(高瀬隆和)6点
・告げむと思ふこと多けれど告げず来ぬその眸の翳り気にかかりつつ(藤井常世)5点

 ちなみに、拙作「軍談に花を咲かせる先輩は短き煙草を厳しく吸いぬ(内野)」は4点、「愛葬る日の華麗にてわが裡にも豊子が蒔きし種子は育てり(岸上大作)」は2点であった。この歌会と時を置かずに開催されたのが、阿部正路さんと清水二三恵さんの出版記念会を兼ねた「明日を展く会」(1959年6月27日、高田馬場「大都会」)で、大学歌人会の主催であった。

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上記写真については、つぎの過去記事を参照ください。
60年前の1960年、50年前の1970年、いま何が変わったのか(1)私の1960年(2020年1月25日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/01/post-8ad825.html

  また、59年10月24日(土)に国学院大学で開催された「教育大・国学院・二松学舎三大学合同作品合評会」のプリントによれば、出詠は29首というから、にぎやかだったに違いない。参加者は以下の通りだが、今となってはフルネームが分からない作者が多い。

 国学院:女川務・岸・榎本・篠田・志村・山口礼子・鈴木・近藤・山本・岸上大作・鈴木・平田浩二・三浦(篠田・山本作品なしか)
 二松学舎:林・丸山・上園・斎藤・伊藤・巣山・那珂・出浦・岩崎・山田・鶴田
 教育大:林安一・前川博・津田正義・鈴木通代・山西明・野地安伯・内野光子

 高点歌は以下の通りで、二松學舍勢が強かった。

・雪にわが喀きたる血の緋まざまざと熾烈なるかなわれをはなれて
(二松学舎、鶴田)6点
・窓の外に蜘蛛さかさまにぶらさがり四肢動かざるままの夕やけ
(二松学舎、林)5点

 ただ、プリントの中央の一首が7点入ったらしいのだが、歌も作者も判読できない。もしかしたら、「真夜中の浅瀬に佇てばわが翳も清き流れの中にまぎるる(山口)」と読めないこともない。とすると山口礼子さんの作品か。私の一首と言えば、恥ずかしいのだが、何とも荒っぽい、稚拙な・・・。言葉もない。「デモ終えて広場の隅に十円の硬き氷菓をせわしく食いおり」なのだが、それでも3人が入れてくださっていたのである。

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 1960年以降の資料がない。どの大学も安保闘争で、騒然としていたのだろう。大学の短歌会の交流どころではなかったのかもしれない。6月15日、学生のデモ隊が国会内に突入、警官隊と衝突、樺美智子さんが死亡した事件、安保条約の自然承認を経て、安保闘争は次第に停滞していったのだが、夏休み明けに、林安一、岸上大作、高瀬隆和、田島邦彦さんたちにより『具象』が7月に創刊されたのを知った。私などはどこか置いてけぼりを食ったような感じがしないでもなかった。そして、岸上さんが、その年の12月に自死したのを、年明けに知ったのだった。

 また、残っているプリントによれば、1961年6月17日、國學院大學において「三大学合同歌会」が開催されている。28人が出詠しているが、この三大学はどうも、國學院大、教育大、中央大らしい。というのも、「昏れなずむ机の上に灯を点ける懐疑も愛へひとつに武器か(田島)」とあるので、田島邦彦さんではなかったのか。もうひとり、「加藤」の名の下に「中」とあるからである。国学院のメンバーもかなり入れ替わり、変わらないのは教育大の野地、津田さんと内野の3人であった。メモの不備で、私の歌がどれだかわからない?!。

 野地さんや津田さんは、この頃のことを覚えているだろうか。かくして、私の大学歌人会交流は、終わったようなのである。

     

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2024年10月29日 (火)

ポトナム短歌会の公式ホームページが立ち上げられました。

2024年10月より、新しい編集部により、あらたに「ポトナム短歌会」のホームページが立ち上げられました。ぜひお立ち寄りください。

ポトナム公式ホームページ」で検索してみてください。

https://www.potonam.com/

ロゴマークポトナム.JPG

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2024年8月27日 (火)

「大塚金之助の短歌と天皇制」を書きました―『大塚会会報』最終号!

・人間が 神になったり その神が 人間になる 国なのである

・君のしずかな 態度の底に 暴力を ひそませているのを 見のがしはしない
(『日本評論』25巻1号 1950年1月)

 1977年に亡くなられた、経済学者大塚金之助の短歌です。このたび『大塚会会報』最終号(53号 2024年8月)に「大塚金之助の短歌と天皇制」を書きました。

 大塚金之助の一橋大学、明治学院大学、慶應義塾大学の教え子の方々が相寄って「大塚会」を発足、1981年に『大塚会会報』を創刊しています。私は、どの大学ともご縁があったわけではないのですが、「短歌に出会った男たち―大塚金之助」(『風景』57号 1995年7月)を目にとめられた水野昌雄さんのお誘いで、会友として入会いたしました。その後、「大塚金之助の留学詠」(『大塚会会報』40号 2013年8月)などを寄稿しています。武田弘之さんの『群青』に連載中の「歌人・大塚金之助ノート」を読んではいましたが、あまり熱心な読者ではなかったように思います。ただ、「獄窓の歌」に感銘を受け、大塚金之助に関心を持つようになりました。
 会報には、歌人では、武田さん、水野さんのほか、三井修さん、田中綾さんたちが寄稿されていたように思います。今回、大塚会の解散を機に最終号への原稿依頼がありました。締め切りが6月末日ということもあり、短いものを送りましたところ、なんと、8月25日に出来上がって届いたのです。その手際の速さに驚いてしまいました。創刊号より編集をされていた戸塚隆哉さん、長い間、ほんとうにありがとうございました。

 拙稿は、以下で読むことができます。

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2024年7月16日 (火)

何年ぶりかな、御茶ノ水、聖橋あたり~短歌会の全国大会に参加して

  私の所属する「ポトナム短歌会」の全国大会が、7月14日、湯島の東京ガーデンパレスで開かれた。前回、私が参加したのは2019年の京王プラザホテル一泊での開催だった。この間、大会はコロナ禍で中止になったり、日帰りとなったりした。今回も、11時受付開始、夕方の6時半には懇親会も終えるという忙しない日程であった。講演、分科会、写真撮影、表彰式もほとんど休憩もなく続けられた。東京の会員を中心とする準備も苦労が多かったのではと思う。

  今年の「白楊賞」は、大学生の小野愛加さんの「先生になる」だった。懇親会の途中、立話ながら、若い編集委員と小野さんも交えて、中断している「ポトナム短歌会」のブログ再開やオンライン歌会の話にもなった。何とか実現してほしいものと願うばかりだ。

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  お料理を堪能しながら、同じテーブルの方との話が進む。当日欠席となった方の分のお料理も、何かと運ばれてきて、テーブルの上は賑やかになる。

  分科会終了後、配布された作品集にある、選者賞も、互選賞も、私には縁がなかったが、提出歌は「卓上のミモザの花の散り初めて触れたる棘に寛容なる朝」。ご近所で枝打ちさなかの一枝を分けていただいたミモザ、黄色い小さな花が散り始めて、灰色の棘に、思わず触れたけれど、しばらくの間、黄色い花を十分楽しんだのだから・・・といった気分の歌だった。分科会で、ある評者が、ミモザは、国際女性デーのシンボルの花だと触れてくださったのは、うれしかった。あの棘は、いつまでたっても、日本では、いや世界各地でも女性の権利が十分守られていないことへ抵抗のような気もして、寛容どころか、ストレートに怒りを表現すべきだったかとも。

 当日、佐倉の自宅に帰れる時間ではあったが、一泊することにした。翌日は、雨も上がったので、ホテルの近辺をまわることにした。

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 何十年ぶりかの「神田明神」だったが、境内は広く、整備されていて、外国人も多く、ミストが流れる休息所まであった。本殿の右手奥には、江戸時代の木材商、店舗兼家屋だった建物を移築された「神田の家・井政」があり、さらに進むと、木立に囲まれた「宮本公園」があった。その入り口に何やら消防車と数人の消防署員たち立っている。「何かあったのですか」と尋ねてみるが、「いや、何も、どうぞ、お気をつけて」と。ところが、消防署員の視線の先は、ベンチに、微動だにしない、老紳士風な人が座っていた。病人でもなさそうだし・・・。道にでも迷った人だったのか。

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 本郷通り(17)を渡ると小さな公園があって、湯島聖堂・昌平坂学問所跡との案内板があり、塀を隔てて、聖橋方面の本郷通りに面して、大成殿へと通じる入口がある。

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 湯島聖堂は、江戸時代、綱吉将軍が1690年、儒学振興のために設置されたもので、後、昌平坂学問所にもなった。明治維新後、文部省所管となり、日本最初の博物館が置かれた。1872年、日本最初の図書館と言われる書籍館、東京師範学校が設置されたので、近代教育発祥の地と言われるようになった。たしか、高校の校歌に「昌平 の跡とえば・・・」とあったような。関東大震災で焼失して、今はコンクリート造りの「大成殿」を背に階段をくだると「入徳門」に至る。上記写真の階段の先に見えるのが「大成殿」となる。

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 湯島聖堂を出て道路の反対側、聖橋の傍らにも、「近代教育発祥の地」の銘板があった。そして、聖橋の真ん中あたりからの眺めは、格別である。「松住町架道橋」というらしい緑のアーチ状の橋、神田川の水面すれすれに走るのが地下鉄丸ノ内線だそうだ。かつては毎日池袋始発で通学・通勤に利用していたというのに。

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