2019年5月31日 (金)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人たちを振り返る、1958年

 ネット上で知り合い、メールでのやり取りはありながら、遠隔なので、お目にかかってはいない知人から思いがけず、1959年から60年にかけての『短歌研究』の数冊をいただいた。近年、私は、斎藤史、阿部静枝の著作年表を作成し、一部を論稿の資料として活字にしてきた。資料環境が進展し、検索やコピーが容易になったとはいえ、歌人研究には基本的な資料である『短歌研究』の原本はありがたい。デジタル資料、とくに遠隔で、目次を頼りに検索・複写をしている限り、多くの見落としもあるし、目的以外の資料はスルーしがちである。原本を閲覧することにすぐるものはなく、思いがけない作品や文章に出会い、一冊、一冊が、その時代の雰囲気を伝えてくれる。

 この1960年前後は、敗戦直後は別にして、私の体験した日本の戦後史では、まれに見る激動の時代であった。そして、自身にとっては、母を亡くした、学生時代の前期にあたる。 

 いま、手元にあるのは、晩年の母が購入していた『短歌』や『短歌研究』の端本、私が後に図書館で複写した目次や記事と今回いただいた『短歌研究』である。何から書き出すべきか、迷うところでもある。

『短歌研究』1958年1月号(編集者杉山正樹/日本短歌社):

 <新年作品特集>佐藤佐太郎・五島美代子・宮柊二・生方たつゑ・木俣修らと塚本邦雄、田谷鋭・寺山修司の30首前後の作品が並ぶ。<新鋭女流作品集>も組み、石川不二子・大西民子…北沢郁子・清原令子・冨小路禎子ら10人の作品が並び、菱川善夫の「新世代の旗手」が始まり、第1回は中城ふみ子である。前年からの近藤芳美「或る青春と歌12」、木俣修「昭和短歌史10」、高安國世「イタリー紀行7」の連載では、近藤のひたすら甘く抒情的な文章にはいささか戸惑い、高安のヨーロッパ旅行に憧れたことなど、かすかな記憶がよみがえる。

・明治六年若き天皇皇后と一夏駐輦と記録に残れり(四賀光子「箱根遊草」)
・戦後うやむやに終りて水無月の道黒く市電の内部につづく(塚本邦雄「出日本記」)

 

『短歌研究』1958年3月号(編集者杉山正樹/日本短歌社)

 <現代女流歌集>の冒頭は読売文学賞第一作として生方たつゑ(「苛斂の土」40首)、五島美代子(「原野の犂」30首)野二人の作品が並ぶ。「女歌の行方」として男性の論者5人が生方・五島を語り、女歌を論じている。そして、阿部静枝らのベテラン7人と、斎藤史、葛原妙子、森岡貞香の3人が別枠で並ぶ。そしてもう一つの特集が<沖縄の歌と現実>であった。吉田漱「“二つの日本”を訴える」、霜多正次「沖縄島の哀歓」と、吉田の編集による「沖縄作品集」からなる。吉田は、沖縄の歴史と当時置かれている政治、経済、社会の実情を丁寧に具体的に報告し、沖縄の歌壇にも言及する。沖縄の戦後の短歌は、ハンセン病療養所の「愛楽園短歌会」に始まり、本土のアララギ同人の呉我春男の尽力で「九年母」が1953年3月に結成、翌年会誌が創刊されたが、沖縄では発表できない作品が本土の『アララギ』『未来』『樹木』などに掲載されるという時代であった。

・墓石の片がはにいま陽が匂ひ子の名一つがくきやかに見ゆ
(五島美代子)
・遺りゐる礎石配置に日のうすき斑があり人間の悲話よみがへる
(生方たつゑ)
・絶望に通ずる道を歩むに似たり一日一日の悲しきいとなみ
(比屋根照夫)
・憚らず土地を接収せしされつ米琉親善をいふ双方の高官
(天久佐信)

 杉山正樹によると思われる編集後記「読者への手紙」では、<現代女流特集>について「雛祭りや才女時代に因んだわけではありませんが」の前書きがあって、文学賞受賞の五島・生方と各世代の俊秀の力作を自負していた。三月号の女性歌人特集が定例化するのは、1969年31人でスタート、1974年に123人、さらに人数はふくれ上がり現在に至っている。一方、ちなみに、5月号の男性歌人特集は、1972年、70人でスタートしている。

3img20658

3img20558

『短歌研究』1958年1月号目次

 

 なお、沖縄特集の文中で出会った比屋根作品にはいささか驚いた。後に、大学のOB会で知ることになる比屋根さん、政治思想史の研究者なのだが、若いときには『琉球新報』の「歌壇」に投稿されていたという。OB会で上京された折や電話で、現在の沖縄を深く憂い、ときには、短歌論や拙著への感想などを聞かせてもらうこともある。

『短歌研究』1958年10月号(編集者杉山正樹/日本短歌社):

福田栄一「夜の谺(44首)」
ししが谷法然院の河骨の黄の花硬しこころやむわれ
争ひしあとさき先生と飲まざりしふたたび叱りてくるる人なし
死にて亡き先生に逢ひポトナムの友には逢はず争はなく
金閣寺裏山ときき先生の死にしところより寂しき金閣

 この号の第一特集は「アララギの五十年」であり、この結社の「内側の声」五味保儀ほか「外側の声」前田透ほか各数人が語り、アララギの中堅・若手、宮地伸一・我妻泰らの作品を掲載する。もう一つが「異郷に歌う(海外日本人の短歌)」で、ハワイ、ブラジル、北米の移民歌人たちの現状と作品を紹介する。木村捨録「歌壇交流記4」は大日本歌人協会の出発と解散の経過が語られている。もう、リアルタイムで当時を知る歌壇人はいないだけに興味深い。
 冒頭の福田(1909~1975)の4首は一連の中ほどにある作だが、『ポトナム』を創刊し、主宰であった小泉苳三(1894~1956)の追悼歌である。福田は、『ポトナム』の若手メンバーとともに「思索的抒情」を掲げ、1946年10月『古今』を創刊・主宰している。小泉との確執があったと思われるが、その自死の後の墓参の折の複雑な心境を歌っている。法然院には、小泉の墓と歌碑がある。私は、この『ポトナム』に1960年に入会することになる。

 

『短歌』1958年12月号(編集発行人角川源義/角川書店):

 <アンケート特集>と銘打って、一つは、「警職法改正案と中河発言をめぐって」であり、一つは「現代短歌の問題点―推進すべき方向と作品(87氏回答)」である。前者は、58年10月、岸信介内閣は、警察官の職務権限の拡大を主眼とする警察官職務執行法改正案を国会に提出し、日本社会党はじめ総評、文化団体など幅広い反対運動が展開していた時期、衆議院地方行政委員会公聴会で中河幹子が歌人の肩書で改正案賛成の意見を述べたことに由来する。しかも、その意見があまりにも俗っぽく、雑駁だったことから、多くの批判を浴びることになった。注*『短歌』編集部は、中河公述人の意見と山田あきの反対意見を載せ、20人の歌人にアンケートをとった結果をまとめている。回答があった17人は、結論的には全員反対との回答を寄せている。回答がなかったのは、土岐善麿、岡山巌、大野誠夫とわかる。問題の公聴会は、11月3日に開催、11月5日アンケート発信、12月号に掲載というスピード感と緊張感がある編集になっている。当時の実質的な編集者であった中井英夫の名で、特集末尾の「特集に添えて」において、
「歌人代表の意でないことは当然だが、これを歌人一般とはつゆさら関係ないとして楽観できるほど、『歌人という存在』に信用があるかどうかが、これが意見の岐れ目であろう。」
 さらに続けて、「このことはしかし、もう我々がタンスの奥深くに樟脳を―『戦争になれば国民として協力するのが当然』という、あの樟脳をつけて手軽にしまい込んだ戦争責任の問題を引張り出さなければ解決はつかない―」と特集の意図を記している。

 国民的な反対運動により、1958年11月22日、岸首相は、警職法改正案の提案を断念した。戦後政治史にあって、国民的な反対運動が実った稀有な出来事となった。                                            

注*以下の議事録によれば、この11月3日の公聴会公述人には、「歌人 中河幹子」「作家 高見順」が並び、東京大学教授鵜飼信成、総評事務局長岩井章らがいた。
第30国会衆議院地方行政委員会公聴会議事録(1958年11月3日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/030/0342/03011030342001.pdf

195812img207

 195812img209-1
『短歌』1958年12月号<警職法改正案と中河発言をめぐって>アンケート回答。

 もう一つの特集のアンケートは、「現代短歌の問題点」についてのアンケート回答を、編集部がテーマごとに仕分けをしてまとめたという。その回答は、実に多岐にわたるが、みな真面目であった。その一端をのぞいてみると・・・。

三国玲子「単なる当込」:「最近、台頭してきた一部の新人達の実験的な作品には興味を持っているが、その多くは生活実体から遊離した官製の遊戯であったり西欧詩他のジャンルに於て試みられている方法論を、短歌という土壌に機械的に移植したに過ぎないように思える。言葉やポーズのきらびやかさ、華々しさに反して内容空疎主体性を欠いているから単なる当込という印象を免れないのだ。実験と当込とは自ら峻別すべきであろう・・・」。(「非写実を排す」)

玉城徹「<彫り>の深さ」:「(前略)私は古典的な方法も前衛的な方法も、または口語歌も、いずれもあつてよいと思う。しかし、そのいずれにしても、もっと<彫り>ふかく、スケッチ歌体を脱却すべきだ。これが、昭和の、特に戦後歌風の一ばんの病弊なのだ。・・・」(「深みへ降りる」)

春日井建「美の呪縛」:「皮相な日常詠やスローガンの素描から抜けだして美の深さを測ることはもつと怖れないで試みられていいことのひとつであろう。美だけに賭けることは退嬰であり徒労であるかも知れない。しかし本来抒情詩である短歌を純化するための逞しい勇気であるには違いない。・・・」(「若い世代の声」)

2019531dsc00213

5月31日のアジサイ、ドクダミの繁殖力に脱帽、さてどうしたものか。勝手口近くのフキは、湯がいて煮て、お昼にいただきました。

| | コメント (0)

2019年5月22日 (水)

「斎藤史について」の報告が終わりました

 5月18日、「短歌サロン九条」の例会、第61回になるそうですが、報告をする機会をいただき、「斎藤史」について話をしました。当ブログでも既報の通り、今年の1月9日日付で、暮れに拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』)を出版しました。そんなこともあっての依頼だったと思います。30部ほど用意した配布資料が足りず、近くでコピーをしてくださったそうです。会始まって以来の参加者が多かった?とのことでした。報告は、2時から1時間20分くらいで終了しましたが、あとは5時近くまで、参加者全員が感想を述べてくださいましたので、報告者としては、とてもうれしく、有意義な会となりました。思いがけず、国立国会図書館時代からの友人や知人、出版元の一葉社の二方の参加もありました。また、今回は、前記拙著の冒頭で、その論文を引用しました、若い研究者の中西亮太さんも参加してくれました。書誌、文献の考証には厳しい中西さんが、拙著の半分近くを占める著作年表や歌集未収録作品・全歌集編集時の削除作品などの資料検索・収集作業の困難さと努力に言及してくださったことは、ありがたいことでした。

 以下は、当日の配布の「報告要旨」を中心に若干手を加え、まとめたものです。

*****************************

1.なぜ今、斎藤史か

1)斎藤史とは

斎藤史は1909年生まれで、2002年に亡くなり、元号で言えば、明治・大正・昭和・平成を生きた歌人でした。戦前の作品は、モダニズムの影響を受けた象徴的な手法が高く評価され、戦後は、疎開先の長野に定住、その風土になじめない都会人として葛藤、口語を駆使し自在な歌いぶりで、介護や自らの闘病や老境を歌い、現在も老若からの熱い支持を受けている歌人です。短歌雑誌では幾度も特集が組まれ、多くの鑑賞書や評伝も出される、現代の人気歌人の一人でもあります。

・暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた

(『魚歌』1940年)

  • 白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼を開き居り

(『うたのゆくへ』1953年)

・つゆしぐれ信濃は秋の姥捨のわれを置きさり過ぎしものたち

(『ひたくれなゐ』1976年)

・疲労つもりて引出ししヘルペスなりといふ八十年生きれば そりゃあなた

(『秋天瑠璃』1993年)

・人はみなおだやかにして病人を見下さぬやうにふるまひくるる

(『風翩翻以後』2003年)

 斎藤史は、生前に、『斎藤史全歌集』を、1977年、1997年の2回、いずれも大和書房から出版しました。この全歌集への『朱天』(1943年)を収録する際に、その『朱天』の冒頭に「はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば」の一首と収録歌数が末尾には「昭52」と記され、付記として掲載されました。斎藤史の鑑賞や解説、評伝などが書かれるたびに、多くの執筆者は、付記された前掲の一首を引用して、戦時下の作品を隠さずに、全歌集に収めたことを、高く評価し、その潔さを称えました。

 しかし、少し調べていくうちに、初版『朱天』の歌数と全歌集に付記された歌数の違いに気づきました。要するに初版から削除された歌があることがわかり、改作された歌もあることを知りました。

2)報告の焦点

今回の報告は、以下の3点に焦点を絞ります。

①拙著の資料の一部を使いながら、削除と改作の経過と実態はどうであったのか

②実態を知ると、戦時下の作品を、後世――戦後になって、どのように対応・処理するのかという、多くの歌人の共通する課題と重なりました。彼らの選択のパターンを何人かの歌人で検証します。

③その選択を自覚的にせよ、無自覚的にせよ、戦後歌壇、現代歌人たちは自然体で受容してきたと思うのです。その現象が何を意味するのか、何をもたらしてきたのかを考えたいと思います。

 3)私の斎藤史への関心の高まりと資料環境の変化

私の斎藤史への関心は、史の父親の斎藤瀏に始まります。斎藤瀏は、軍人で、「心の花」の有力同人でありましたが、1936年2・26事件で、「反乱軍」の支援者として連座し、軍法会議で禁固5年の刑を受け、38年9月に仮出所します。翌年39年には『短歌人』を創刊し、以降、異常なほどの勢いで、歌壇に復帰、大政翼賛にのめりこみ、1940年には、太田水穂、吉植庄亮と共に大日本歌人協会を解散に追い込みました。篠弘は昭和短歌史の最大の汚点とも総括しています。また、斎藤史が『新風十人』という合同歌集、第一歌集『魚歌』、『心の花』時代の歌も収録した歌集『歴年』と立て続けに出版したのが1940年でした。

4)斎藤史への評価の類型化

私の1970年代の斎藤瀏の動向への関心と全歌集出版による歌壇や文壇での斎藤史への関心の高まりが重なる中で、史への評価が以下のような類型化が見られるようになります。

①2・26事件に絡んで、父の失脚、幼馴染の処刑に対する昭和天皇や軍部への怨念がありながら、ストレートに表明できない「悲劇のヒロイン」としての物語性を強調する

②戦時下にあっての『新風十人』『魚歌』では、象徴的な手法によって、当時の短歌や文芸への統制が厳しい中、ぎりぎりの抵抗を示したとする

③戦時下の作品を隠さずに『全歌集』に収めたというあとがきや付記の一首に着目し、その潔いメッセージを高く評価する

しかし、その一方で、私の関心は、史の発信した「潔さ」と削除・改作の実態との整合性、多くの歌人たちが、全歌集を語り、作品を鑑賞する場合、また評伝を書く場合、『朱天』の時代が省かれ、アンソロジ―などへの収録が極端に少ないという『朱天』をスルーする現象に疑問を持つようになりました。

5)資料環境の進化

近年、古い図書や新聞・雑誌のデータベース化が急速に進み、検索手段やコピー入手が容易になりました。

①古書や雑誌の復刻版・マイクロ版の出版に加えて、国立国会図書館では、主要雑誌の2000年までのデジタル化が進んだ。

②敗戦直後の混乱期、GHQの検閲時代の検閲資料がプランゲ文庫として、アメリカのメリーランド大学に保管されていることがわかり、データベース化が進んだ。

③新聞についても、期間などは限定的ではあるが、朝日「聞蔵」・毎日「毎索」・読売「ヨミダス歴史館」・「日経テレコン」など、斎藤史が多く登場する信濃毎日や中日新聞のデータベース化も進んだ。

 

2.『全歌集』収録の「朱天」と初版『朱天』の異同を調べてみて、わかったこと
1)
全歌集』収録の時に『朱天』から削除作品~17首

資料:『朱天』の『斎藤史全歌集』(1977年・1997年)収録時に削除された17首

ダウンロード - siryoefbc91.pdf

(1)「戦前歌」より

①國大いなる使命(よざし)を持てり草莽のわれらが夢もまた彩(あや)なるを 初版六頁

「とどろき」の最後一〇首目

『日本短歌』一九四一年二月「秋から冬へ15」*初出「理想」を改め

②たのめざるものも頼みきしどうなる野草の霜を今は云ひそね  二二頁

「ぼたん雪」六首目

『短歌研究』一九四一年二月「ぼたん雪9」 

③煌めける祖国の歴史継(つ)ぎゆかむ吾子も御臣(みたみ)の一人と思へば 七二頁 

「使命」四首目

初出不明

④神(かむ)使命(よざし)負へる我らと思ほへりひかりとどろき近づけるもの 七四頁

「使命」九首目

『女流十人歌集』一九四二年五月「飛沫45」 「思ほへば日日に」を改め

⑤ますら夫はむしろ羨しもひとすじに行きてためらはぬ戦場(ところ)を賜びき 七八頁 

「訓練」九首目

初出不明

「開戦」より

かすかなるみ民の末の女ながらあかき心におとりあらめやも  八五頁

「四方清明」最後一二首目

『婦人朝日』一九四二年三月「国民の誓ひ5」

『新日本頌』一九四二年一一月「開戦15」*「かそかなる御民の末の女(をんな)ながら丹きこころに劣(おとり)」を改め 

⑦現(あき)つ神在(ゐ)ます皇国(みくに)を醜(しこ)の翼つらね来るとも何かはせむや 九五頁

「わが山河」六首目

『公論』一九四二年三月「四方清明5」

『日本短歌』一九四二年四月「春花また6」

⑧襲ふものまだ遂(つひ)に無き神国の春さかりや咲き充ちにけり 一〇九頁 

「たたかふ春」最後一六首目

初出不明

⑨國をめぐる海の隅隅ゆき足らひ戦ひ勝たぬ事いまだ無し 一一四頁  

「珊瑚海海戦」六首目

初出不明

⓾みづからのいのち浄らに保(も)ちも得で説く事多き人を見るかも  一二二頁

「微小」二〇首目

『短歌人』一九四二年九月「くろき炎5」

⑪たばかられ生きし憤(いか)りは今にして炎と燃えむインド起たむとす 一二六頁 

「荒御魂」二首目

初出不明

⑫まつらふは育くみゆきて常(とこ)若(わか)の國悠(はろ)かなり行手こしかた 一二九頁

「荒御魂」最後一〇首目

『文芸世紀』一九四二年一二月「十二月八日7」

⑬動物を焼く匂ひに乾く着馴れ服火をかき立てて君も干さすや 一三七頁

「防人を偲びて」七首目

『文芸春秋』一九四二年一二月「北の防人を偲びて10」

『短歌人』一九四三年二月「北なる人に4」

⑭重傷のわがつはものをローラーにかけし鬼畜よ許し得べしや 一四六頁 

「ニューギニヤ進撃」三首目

初出不明

⑮半島、高砂、インドネシヤの友打つづき撃ちて止まむと進む神いくさ 一四六頁

「ニューギニヤ進撃」四首目 

『短歌人』一九四三年四月「進撃4」 「やむと」を改め             

⑯背戸畑の土の少しを守り袋に入れてゆきたる人如何に在る 一四六頁

「ニューギニヤ進撃」五首目 

『短歌研究』一九四三年四月「冬樹7」*「すこし」を改め

『短歌人』一九四三年四月「進撃4」

⑰神怒りあがる炎の先に居て醜(しこ)の草なすがなんぞさやらふ 一四七頁

「ニューギニヤ進撃」六首目 

『文芸春秋』一九四二年一二月「北の防人を偲びて10」

  「削除」したという文言や理由は、全歌集のどこにも明記されることはなかったのですが、歌数だけは、記述がありますので、引き算をすれば、削除された歌数がわかります。しかし、歌数の誤記などあり、戸惑いましたが、結論的には、17首が削除されています。1941年12月8日太平洋戦争開始前の「戦前歌」192首から5首、「開戦」173首から12首が削除されていました。どんな作品だったのか、上記の通りです。PDFでもご覧になれます。

  これらの歌に共通するものは何なのか、それが削除の理由につながると思います。

①歌の根底に、軍国主義的なもの、天皇崇拝、神がかり的なものがある

②表現上では、気持ちの高ぶりを示したり、強調したりする表現が頻出している

③使用されている言葉には、天皇を神聖化した、たとえば、使命(よざし)、現つ神、皇国(みくに)、神使命(かむよざし)、御民、御臣などの多用や官製標語などが見られる

④さらに、二重寄稿作品やアンソロジー収録作品があるということは、当時、自分でも秀作、自信作、体制から期待された、時代の要請にこたえた大切な作品であったことが推測される

 しかし、こうした条件を満たしながら、削除されない作品はたくさんあります。ほかにもあるということは、たしかで、配布資料にある中西亮太さんの朝日の歌壇時評や吉川宏志さんの図書新聞の拙著書評でも指摘しています。となると、削除の理由は何だったのだろか。私も明確な結論は出しにくいです。けれども、ともかく史自身としては、後世の人には読まれたくないないと判断した作品であったと考えられます。

 ただ、こうした作品が削除されていたという事実と、例の短歌やあとがきでの隠したってすぐわかるとか、全部さらけ出すしかない・・・という発言との齟齬、整合性は問われなければならないと思いました。

2)作品改作例

「四方清明」一二首の中)

・言ひ得ざりし歌ひえざりし言葉いま高く叫ばむ撃ちてしやまむ  八二頁

『文芸』一九四三年三月

⇒言ひ得ざりし歌ひえざりし言葉いま高く叫ばむ清(さや)明(け)く呼ばむ『全歌集』

この「撃ちてしやまむ」は、1943年3月10日が陸軍記念日で、それに合わせて陸軍省から発表された標語でした。当時、多くの雑誌の表紙に刷り込まれ、さまざまな特集が組まれました。その標語を外して、書き換えることにより、かなり、ソフトなものになっています。
(「天つ御業」八首の中)

・國こぞり戦ひとほす意気かたし今撃たずして何日(いつ)の日にまた 八九頁

『新日本頌』一九四二年一一月 『大東亜戦争歌集・愛国篇』一九四三年二月

⇒國こぞり戦ひとほす意気かたし今起たずして何日の日にまた 『全歌集』「天雲」

「撃たずして」という攻撃的な言葉から、「起たずして」にあらため、抑制した表現になっています。

・亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が死も又今日の日のため 八九頁

(すぐる二・二六事件の友に)

『新日本頌』一九四二年一一月 『大東亜戦争歌集・愛国篇』一九四三年二月

→亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が憂ひしとき至りたり 『全歌集』

2・26事件で、反乱軍と烙印を押され、銃殺刑に処せられた友に捧げる歌ですが、この太平洋戦争を勝ち抜こうという今日のためになしたことだった・・・ということになり、改作後の「憂ひしとき至りたり」では、この現状を憂慮することに立ち至ったということになり、反対の意味にも解されるのではないかと思われます。

(「シンガポール陥ちぬ」一一首の中)

・百二十餘年の悪をきよむると燃えし炎か夜も日も止まず

『文芸春秋』 一九四二年五月

→百二十餘年の無道をきよむると燃えし炎か夜も日も止まず 九八頁

→百二十餘年東洋を蔑(なみ)したる道きよむると燃えし炎か 『全歌集』

 初出の「悪」⇒ 初版の「無道」⇒ 全歌集の「東洋を蔑したる道」の改作はいずれも、「百二十余年」にわたるイギリスの植民地から、日本軍が解放するという大義名分を強調したものです。全歌集収録時に「東洋を蔑したる道」と改めたことによって、改作前の断定から、やや説明調にして、抑制したように思えます。

 

3)小題変更

「天つ御業」→「天雲」

「真珠湾特殊潜航艇の軍神」→「真珠湾特殊潜航艇」

4)有力雑誌への多重寄稿

削除作品⑥、⑦、⑬、⑯に見られるのはごく一部の一例で、収録作品の中にも多数見られます。通常は、「転載」など付記して、同じ作品を掲載することはあるけれども、題を変えてそっくり二重寄稿したり、作品を組み替えたり、同じ作品を散在させて寄稿するような操作もしています。

忙しくて原稿が間に合わなくて、多重寄稿になったのか、あるいは読者が違うから、あるいは、自分としては大事な作品だったから・・・という理由だったのか。出版社との関係でも、読者に対しても、誠実とは言えない態度だと思っています。

 5)「未刊歌集」という方法

なお、『朱天』以降、戦時末期から戦後にかけての作品(1943年5月~1947年10月)は基本的には歌集としてまとめられておらず、空白の時期でした。敗戦後、占領下の『やまぐに』((初版150首から145首、1947年7月)という歌文集が刊行されましたが、依然として『朱天』以降敗戦までの作品が読めるようになるのは、未刊歌集「杳かなる湖」(『短歌研究』1959年10月発表100首から88首)という形で公表されたときでした。敗戦後14年後のことです。『全歌集』収録の際、2冊にも若干の削除・入換えがありました。しかし、とくに、太平洋戦争末期の公表作品が歌集や『全歌集』に収録されることはありませんでした。 

3.これらの事実は、何を意味するのか

 改作の例は、削除の意図を探る意味でも有効なのではないか。すなわち、大げさな表現の抑制、露骨な敵愾心の後退、ソフトな印象に換えるなどしていることから、削除にもそうした指向があったのではないか、推測できるのではないか、と思うわけです。では、ほかの歌人たちにも、削除や改作はあったのだろうか。戦時下の作品を、自らどう評価するか、どう処理するか。占領期のGHQ検閲時期の出版における対応とも関連して、各歌人の対応は実に様々でありました。ほんの一部ながら、実例を挙げてみたいと思います。

a)窪田空穂(18771967『明闇(あけぐれ)』(1941~43年作品、1945年2月)の場合:当時の歌集には収めた作品が、今から思えば、大本営発表に踊らされた、つまらない作品だからなど、一応の理由を「あとがき」などに記述して、『全歌集』(1981年)からは削除しています。

b)阿部静枝(18991974『霜の道』(女人短歌会 1950年9月、第一歌集『秋草』(ポトナム社)以降 1926年10月以降1950年)の場合:戦時下の作品は焼失、手元にない・・・、未婚の母の時代の作品などをふくめて、歌集全体をフィクションと称して、歌集を構成・編集しています。

・ひそかに生み落し他人にまかす子の貧しき眉目あげて笑へる(『霜の道』)

・里親よりさいそくきびしき金が欲し雨にいそぐ男をはりてとらふる(同上)

c)斎藤茂吉(18821953『霜』(1941・42年作品863首、岩波書店 1951年12月)の場合:「後記」で「大きな戦争中にあっても、幾首づつか歌を作った。その一部は今回捨てたが、それでも残りはこれくらゐである」

『小園』(1943・44年作品、782首 岩波書店 1949年4月)の場合:「後記」で「昭和十八年、昭和十九年の作から平和なものを選び・・・」

 出版年の1951年、1949年に着目しますと、GHQの検閲下(1945年9月19日プレスコード~1948年7月15日~事前検閲、~1949年10月事後検閲終了)あった時代で軍国主義の歌は検閲対象であったので、その配慮が十分あったかと思います。『斎藤茂吉全集』(新版全36巻、岩波書店 1973~75。1~4巻歌集収録、4巻「歌集拾遺」として収録されている

『萬軍』(1945年7月221首を茂吉自身が選定、八雲書店<決戦歌集>として刊行予定)の場合:秋葉四郎『幻の歌集『萬軍』』(2012年8月岩波書店刊)において編者は、謄写刷りの私家版があるが発行年・出版元不明の『萬軍』と1988年12月紅書房刊の二冊の『萬軍』は、いわば信頼関係を崩す出版と断定、本来の原稿は八雲から取り戻して、佐藤佐太郎に預けた原稿こそが原本で、それを出版するに及んだと記す。
・肇国(はつくに)しらす天皇(すめらみこと)のみ言(こと)はや「撃ちてしやまむ」のみ言はや

d)宮柊二(1912~1986)『山西省』(1940年1月~1943年8月?作、古径社 1949年4月)の場合:1946年7月中央出版社版がGHQの検閲を受けていて公刊されなかった。検閲末期に公刊した。
・ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す
(『日本文芸』1942年7月)

 これに収録されていない時局詠31首は、未刊歌集「芻(すう)駅の歌」として、1956年12月東京創元社『定本宮柊二全歌集』に収録。岩波版(1989年11月~『宮柊二集(全10巻)』別巻(1991年2月)には「著作年表」を付して時系列で収録。

・旺んなる士気を振ひて大君の工場護らむ時ちかづきぬ(『多磨』1945年1月)

結び
 歌人たちの、個別の歌集の出版、編集の際に行われる取捨・改作については、いつの時代でも、だれもが行っている作業ではあります。しかし、次のような場合、歌人自身や編纂者は、どのように対応すべきなのだろうか。

・一度公表した作品で、歌集に収めた作品を、全歌集や全集編集の際に改作したり、削除したりする

・一度公表した作品で、ある時期の作品を全く歌集に収めなかったり、全歌集に収めなかったりする

いずれの場合も、「ことわり」を入れるか、入れないかは、歌人や編纂者の資質にかかわると思います。

⇒①削除や改作の事実と理由を明記する

⇒②その事実を公表しない、言及しない

⇒③その事実に反して隠さないと公言する

 作者自身や編纂者として、どのスタンスであるのかを明確にしておくことが望ましく、他者の作品を読むときは、作者が上記のどの立場なのかを見極め、自分としてはどこまで受容するのかも明確にしておくことが必要かと思います。いずれにしても、自分に不都合な事実には触れずに、都合の良い事実だけを強調・喧伝することによる情報操作にも留意することが必要と考えました。

*******************************

 なお、中西さんからは、多重投稿の例は、葛原妙子など他の歌人にもみられることであること、いくつかの図書館の雑誌所蔵情報なども教示いただきました。また、斎藤史の基本的なスタンスとして、「時代に迎合した」というより、思想的には変わってないとみるか、確たる思想がなかったとみるかであって、前者に近いのではという意見も伺いました。私も、史の思想形成から見ると、前者と考えるべき一端は、史の天皇観にも表れていることに、拙著でも言及していましたので、共感したのでした。

なお当日の配布資料は、次の通りです。

1 .拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』チラシ(目次付き)

2.新聞切り抜き

・大波小波「『斎藤史全歌集』への疑問」(『東京新聞』1998115日)

・中西亮太:歌をよむ「斎藤史の真意はどこに」(『朝日新聞』2010816日)
・大波小波「「濁流」に建つ言葉」(『東京新聞』 2017612日)

・吉川宏志:『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』書評「言葉によって自己の人生を染め替えようとする意識」(『図書新聞』201946日)

・寺島博子:『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』書評「揺るぎない視座」(『現代短歌新聞』201955日)

3 .拙著の資料「斎藤史著作年表」の一部(19431946年)

4.報告要旨  

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

2019年5月 3日 (金)

「天皇の短歌」と代替わり~憲法記念日に考えたい

 近頃は「来たァ~」なんて言うのは、すでに古い?!代替わりの前日4月30日の新聞、わが家の購読紙のうちの二紙に、やはり天皇・皇后の歌が出たのである。
 『朝日新聞』は、一頁全面の上半分に「天皇陛下の歌」、下半分に「皇后美智子さまの歌」として、数枚の写真とともに各二十首が配されている。「世のうつろい見つめ筆とり」と題して、リードには「戦争の記憶、平和への願い、国民と家族への深い思い。天皇皇后陛下は日々、移り変わる社会を見つめ、率直な気持ちを歌に込めてきた」とある。そして5月1日には同じ一頁全面に「世を思い詠む 令和へ続く歌」と題して「新天皇陛下の歌」「新皇后、雅子さまの歌」と各二十首が載っていた。そのリードには「外国訪問先での交流、震災被災地への思い、長女愛子様の成長。新天皇、皇后両陛下は折々の出来事を歌にしたためてきた」とある。誰の選択の結果なのかはわからないが、解説がないのがせめてもの救いだった。最近、宮内庁では、マス・メディア向けなのか、歌会始の歌に、天皇夫妻はじめ一部の皇族の歌に解説をつけているのだ。

Img173-2

朝日新聞、2019年4月30日

Img177

Img176
朝日新聞、2019年5月1日

 『東京新聞』は、1頁の3分の2を使って、「心映す歌」と題して右側に「被災地へ」として天皇と皇后の歌を2首づつ、左側に「戦没者へ」として、天皇・皇后の歌を2首づつならべている。歌の背景には、「阪神大震災からの復興の象徴として皇居で育てられた『はるかのひまわり』」の写真と「大戦中、追い詰められた民間人が次々と身を投げたサイパン島北部のバンザイクリフ」の写真があしらわれている。そして各歌の下には、80字前後の解説が付せられている。そのリードには、「天皇、皇后両陛下は、折に触れて数多くの歌を詠まれてきた。陛下が模索されてきた象徴天皇像とはどのようなものであったのか。象徴天皇のとしての活動の核心部分ともいえる被災地お見舞いや戦没者慰霊を詠んだ歌の中から平成という時代を表す八首を二〇〇四年から歌会始の選者を務める永田和宏さん(七一)に選んでもらった」とある。永田は、この『東京新聞』に一年以上前から「象徴のうた 平成という時代」と題して天皇夫妻、皇太子夫妻の歌を中心に、毎週1首、その背景とともに解釈と鑑賞を続けてきた歌人でもある。4月23日、第63回をもって連載は終了した。いわば永田和宏による「謹解集」といってもよく、その集大成が、この日の「八首謹解」ともいえるのではないか。

Img173-1
東京新聞、2019年4月30日

 Img179 
東京新聞、2019年4月16日、第62回は、皇后の今年の歌会始の「今しばし生きなむと思ふ寂光
に園の薔薇のみな美しく」が取り上げられ、このシリーズの最終回の4月23日、第63回は天皇の「贈られしひまわりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」であった。記事本体はカラーである。後掲の写真「短歌研究」4月号のグラビアもこの2首が見える。
 

  日本国憲法上の象徴天皇制において、とくに国民統合の象徴としての天皇の地位は世襲であり、多くの基本的人権を奪われた存在は、国民主権、基本的人権とくに平等という基本条項との齟齬は明白で、今回の代替わりで、少しは注目され始めた。しかし、政府・政党、メディア・企業と一部の国民が、憲法自体が持つ矛盾について、多くは自覚的に目をつむり、触れようとはしない。1945年敗戦後の占領軍アメリカと日本政府による政治的妥協の産物として残された制度であったことを、いま、思い返すチャンスでありながら、古来の伝統や文化にことよせ、新・旧天皇の足跡や人柄への最上級の礼賛を重ね、代替わりの慶祝ムードを盛り上げているのである。 新しい元号になったからといって、「新しい時代」が来るわけもなく、そんな幻想を率先して振りまいているのが、大方のメディアである。

 そうしたムードづくりに大きな役割を果たしているのが、憲法に規定のない宮中祭祀と行幸啓であったのではないか。国事行為ではありえないから、いずれも、公的行為として、執り行われてきた。「宮中祭祀」といえば基本的には宗教的儀式で、国民にとっては、いかにも異様で、ときにはグロテスクにも思える姿をさらすことになる。そこは、控えめにと、秋篠宮による「大嘗祭は身の丈で」発言につながったのではないか。行幸啓については、国民に「寄り添う」、戦争や災害の犠牲者へ「祈る」という見える形で、年々「拡充」してきたのが、平成天皇夫妻だったといえないか。その「務め」が身体的にも果たせなくなったからと「生前退位」表明になった。

 私が冒頭にあげた「天皇の短歌」は、先のムードづくり、しかも文化的な香りのする手段の一つとして、これまでもしばしば登場した。毎年一月の「歌会始」を舞台として、国民を巻き込んだイベントに、現代歌人や「文化人」たちも「ひそかに」呼応し続けている。

 今の制度の中で、短歌を詠むのが好きな皇族たちが、歌を詠むのもいいだろう、歌会を開いたり、指導者を招いたりするのもよいとしよう。しかし、国民を巻き込まないでほしい。「歌会始」を皇室と国民を結ぶ文化の懸け橋のような言い方をする歌人たちもいる。開かれた皇室の典型のようにありがたがる人々がいる。短歌コンクールの一つ考えればいいという歌人もいた。しかし、国民が応募する歌は、天皇に捧げる「詠進歌」なのである。天皇が国民統合の象徴であることを貫徹するならば、上下の関係はあり得ないのではないか。

 今回の退位・即位の儀式での「おことば」の受け渡しの光景を見ても、その内容を見ても、多くの国民から見れば、異様な言葉遣いでありながら、あまりにも当たり前のことを述べているにすぎない。退位の儀式では、天皇の「おことば」に先立って、安倍首相は、国民の代表として感謝と敬愛の意を述べ、即位の儀式での首相の言葉は、新天皇のあとに、毎日新聞では「安倍首相発言」、朝日では「首相国民代表の辞」を述べたとして、その要旨が記事に見られ、東京新聞は「首相発言全文」が掲載されていた。その扱いがバラけているのにも注目する。

 『毎日新聞』では今のところ、平成天皇夫妻の歌をまとめたという記事は見られないのだが、4月23日には、毎日歌壇の選者で、2006年から歌会始の選者である篠弘が、今年の歌会始の天皇夫妻の歌を引用して、「歌のご相談で御所にうかがいました」とも述べる「両陛下とわたし」という連載コラムに登場している。4月8日の「余禄」では、天皇の昨年の歌会始の歌「語りつつあしたの苑を歩みゆけば林の中のきんらんの咲く」を引用、天皇夫妻の絆をたたえている。

 そういえば、けさの『東京新聞』で、長谷部恭男が日本国憲法において封建制秩序が残っている天皇制は、国民一般の保障が及ばない「身分制の飛び地」だとしていた(「天皇・皇族に基本的人権は」)。また、沢藤統一郎弁護士の「憲法日記」(2019年4月29日)によれば、「天皇制は、憲法体系の番外地」だと講演で述べたという。「飛び地」や「番外地」であるならば、私たち国民は、まず日本国憲法の基本的条項から大きく外れる、その「番外地」や「飛び地」をなくすよう、みずから努力しなければならないのではないか。

 また、短歌雑誌なども、この代替わりを商機と見たのか、万葉集特集、御製・御歌特集だとか、ざわついているのだが、短歌の愛好者や愛読者の心をとらえるのだろうか。

20194img151-1
短歌研究、2019年4月。グラビアから

Img181

20194img149
短歌研究、2019年5月、表紙及び広告より

20194img149-1
短歌、2019年5月。広告より

| | コメント (0)

2019年4月 8日 (月)

「文京区春日・小石川=坂と文学をめぐって」に参加しました(2)伝通院から安藤坂・牛坂・金剛寺坂・今井坂・吹上坂・播磨坂を経て石川啄木終焉の地へ

 善光寺坂から伝通院へは新しい道ではなく旧道をのぼる。徳川家康の生母、於大のために建立、千姫の墓所もある。大河ドラマの世界にはあまり関心はないのだが、ここには、古泉千樫、佐藤春夫、柴田錬三郎らの墓地もある。かつては、一帯でもっとも見晴らしのよい高台であったというが、いまでは、林立するビルしか見えない。ようやくここで休憩をとることになって、ホッとする。お休み所に入ると、熱いお茶もセルフサービスで飲める。

Dscn2472
山門の左手には、淑徳学園がある
Dscn2475
著名人墓所案内、高畠達四郎。橋本明治の名もあった
Dscn2482
Dscn2484
墓石の文字は釈迢空の筆になるという

 お休み所の裏側の広い窓からは正面に「簡野道明」(18651938)の墓石が見えた。「えッ、誰だっけ、見たことのある名前!」と思っていると、参加者の一人が「漢和辞典の人よ」で、思い出す。そう『字源』(1923年)の編者ではなかったか。差し入れの和菓子をごちそうになり、15分間の休憩もあっという間に過ぎた。清河八郎のお墓参りができてよかったと、参加者のお二人が感想を述べていたのが少し意外ではあった。

 伝通院前の広い道を進み、春日通りの交差点を渡った左手に、一葉の妹、樋口邦子(18741926)が夫妻で営んでいた礫川堂文具店があったところ、書籍も扱っていたという。関東大震災で家を失った幸田露伴に、先の善光寺坂の家を紹介したのが邦子だったらしい。青木玉の作品、ムクノキの前の「小石川の家」である。春日通りを渡った先が安藤坂で、その中ほどに、中島歌子(18411903)の「萩の舎跡」の立て札のみが立つ。ここに樋口一葉、田辺龍子(三宅花圃)も伊藤夏子も通ったはずだ。

 私たちは、安藤坂をくだって、牛天神(北野神社)に向かった。神社までの階段は急で、私にはかなりきつかったが、ここを牛坂と呼ぶらしい。のぼりきって本殿の右手には、中島歌子の歌碑がある。一息ついてくだった先には、かつて神田上水が流れていたところで、いまは暗渠となって、巻石通りとよばれている。

Dscn2500
牛天神参道の牛坂
Dscn2507
中島歌子歌碑「雪中竹」と題して
「ゆきのしたにねさしかためて若たけの生ひいてむとしの光ぞおもふ」
Dscn2509_1
 かつては、牛坂下のあたりまでが入江であったとも

ふたたび安藤坂に戻り、のぼって左折したところには、川口アパートメントが現れる。案内の大和田さんからは、川口松太郎・三益愛子と川口浩・野添ひとみなどという懐かしい名前が飛び出した。川口家の住居を兼ねたマンションであった。1964年、いわゆる高級マンションのはしりとして話題を呼び、多くの芸能人が住んでいたことでも有名だったのではないか。こんなところにあったのだ。外観はだいぶ、年季が入っているようにも見えた。反対側は永井荷風の生家跡で、荷風の父親がこのあたりに大きな屋敷を構えたというが、いまはマンションが立ち並ぶ。そして突き当たるのが、金剛寺坂で、漱石「それから」の代助が三千代のもとに通う坂だったとの説明を受けると、なんだか義務感で読んだ小説の一つではなかったかと思い出すのだった。

Dscn2513
川口・三益夫婦の子息たちは、何かと話題の多い人たちだったと記憶しているが、早世だったのでは。今はどんな芸能人が住んでいるのかな

 金剛寺坂を巻石通りへとくだって西に進むと右手に、金富小学校、本法寺がある。本法寺は夏目家の菩提寺という。漱石自身の墓は、雑司が谷墓地に立派なものが建てられていて、私も、一度お参りしたことがある。少し戻って、金富小学校の横の坂、今井坂をのぼると、「徳川慶喜公終焉屋敷跡」という表示に出会う。植栽が整えられた庭園に見えた。塀に沿って行くと、「国際仏教学大学院大学」の門があるのだが、初めて聞く名前だな、と思って帰宅後調べてみると、霊友会の研究所が基礎となって1996年設立された大学院のみの大学で、5学年20名の定員だそうで、2010年にこの地に移転したという、日本で一番小さい大学か?キャンパス内になるのか、慶喜の時代の大イチョウだけは健在のようだった。

Dscn2519
文京区が大幅な町名変更を開始したのは、1964年からだったので、私はすでに、大学を卒業、生活圏は、このエリアからは離れている。この案内板の最後にはつぎの短歌が記されていた。
「この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶふかくなりたり」(釈迢空)
Dscn2523
本法寺の桜が見事であった。この本堂に向かって左に、夏目漱石が1888年1月、墓参の折に母を偲んで詠んだとされる句の碑がある。
「梅の花 不肖なれども 梅の花」
Dscn2530
金富小学校脇の今井坂を上ると左手に「国際仏教学大学院大学」の門があり、そこから見えるイチョウ、「徳川慶喜公屋敷大銀杏」と記された石柱が
右端に見える

 さらに、小日向台の住宅街を抜けて春日通りに出ると、同心町、竹早町の旧町名表示版に出会う。私には、新しい中学校の印象があるのだが、なんと開設は1960年だった茗台中学校、その角を左に曲がると、突然、長い石段の坂を見下ろすことになる。これが庚申坂である。この谷を下った先が切支丹坂ということになるらしい。私たちは引き返し、信号を渡って、吹上坂をくだることになる。

Dscn2532
この庚申坂をくだって、地下鉄のガードを越えた先に切支丹屋敷跡がある。
Dscn2533_1
急な庚申坂と緩いのぼりの切支丹坂なのだが、庚申坂が切支丹坂と間違われることがあるといい、つぎの短歌も、この庚申坂を詠んだとされる。
「とぼとぼと老宣教師ののぼりくる春の暮れがたの切支丹坂」(金子薫園)

  途中、マンションの横の細い道を入って行く一行の後に続くと、石垣とマンションの間に細い枯山水のような庭の奥まったところに「極楽水跡」があった。極楽水とは、伝通院開祖の上人が、引き出した名水の泉であったということで、田山花袋(18721930)の「蒲団」にも登場しているというが、そんな記憶はもちろんない。いまは、小石川タワーマンションの敷地の一部の細い緑地帯となって残っている。

Dscn2540
奥に井戸が見えるが、現在は、水が湧き出ているのだろうか。こうした形で残されていることに、ほっとした気持ちになった。

 

 緩い坂をさらにくだれば、正面の街並みの背後に広がる緑は、小石川植物園で、交差するのは千川通り。右の角には、共同印刷があるはずである。現在は、白い工事シートで全面覆われ、改修中で、社屋の姿はみえない。千川通りは、もともと千川、小石川とも呼ばれるどぶ川であって、洪水も起こっていたらしいが、1934年、暗渠となり千川通りになった。千川の上流は、池袋の立教大学の北側に流れる谷端川で、私の子供のころは、そのあたりのことを長崎とか千川と呼んでいたことを思い出す。こちらの千川が暗渠となる前の小さな工場街を舞台にしたのが「太陽のない街」(1929)で、作者の徳永直(18991958)は、共同印刷の植字工であった。

Dscn2543
改修中の共同印刷社屋、正面の茶色い看板には、大きく「吹上坂」とある。 
Dscn2537_2
 かつて、小石川には河童が出るなどといわれた寂しいところで、この坂下には「播磨たんぼ」が広がっていた。大正時代はその面影を残していて、つぎのような短歌も読まれていた。
「雑然と鷺は群れつつおのがじしあなやるせなきすがたなりけり」
(古泉千樫)

 時代は下って、1960年代の大学のころ、友人からは、よく氷川下セツルメントへの誘いを受けていたのだが、当時の私の関心の向くところではなかった。今から思えば、少しでも参加しておくべきだったかなとも。今回の散歩コースからは外れるが、植物園の西側に、簸川(ひかわ)神社とその脇の氷川坂の下には、氷川下セツルメント発祥の地の記念碑が建っているそうだ。また茗荷谷駅前の春日通りを渡った直ぐ先に、「大橋」の表札のある大きな門構えのお屋敷があった。まったく人の出入りのない、開かずの門だったような記憶があるが、博文館創業の大橋佐平家一族の住まいだったのだろうか。今回ちょっと足を延ばして、確かめておけばよかったとも思った。

Dscn2547_1
播磨坂、桜並木の遊歩道、週末なだけに、かなりの賑わいであった。

 文学散歩は、いよいよ最終盤に入り、つぎは、週末の花見客でにぎわう播磨坂の桜並木の遊歩道を、ふたたび春日通りに向かってのぼる、その中ほどを右に折れると、マンションとマンションの間に、石川啄木の歌碑があり、その横にはガラス張りの顕彰室があった。ここが、石川啄木終焉の地であったのだ。歩き始めてすでに3時間余、私の足はすでに疲労の極度に達していた。折も折、大和田さんから、写真撮りましょうかと声をかけていただいたので、啄木の歌碑の前で撮った一枚は、なんとも情けない疲れ切った姿であった。さらに進むと左手に小石川図書館があり、その前には「団平坂」の表示板があり、道の向かいは竹早公園であった。

Dscn2557_1
石川啄木終焉の地
啄木は、1911年8月、本郷の喜の床から、この地の借家に移り住んだが、翌年1912年(明治45年)4月13日26歳の生涯を閉じる。碑面には晩年の二首が、原稿用紙一枚の草稿そのままに写し取られている。
「呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。 凩よりもさびしきその音!」
「眼閉づれど 心にうかぶ何もなし。さびしくもまた眼開けるかを」
(啄木)

                 、Dscn2554_1

          ガラス張りの、広くはない顕彰室は、歌碑と共に、数年前に市民有志により建てられたという、新しいものである。

Dscn2558

  小石川図書館の前に建てられた、この案内板にも、啄木の最晩年の直筆ノートから一首が記されていた。
「椽先にまくら出させて、ひさしぶりに、ゆふべの空に親しめるかな」(啄木)

迷っていた二次会だったが、どこか座りたい、休みたい一心で、参加することにして、茗荷谷駅前の路地を入った、たしか「和来路」という店ではなかったか、十人ほどで、にぎやかにおしゃべりをしているうちに、何とか帰途につく気力をとりもどすことができた。早めに失礼して、7時半過ぎ、家の近くのバス停で、初めて傘を開いた。降られずによかった、この日の万歩計は16100歩であった。

  ふたたび、小石川の坂の名前のおさらい・・・。

Img127

 

 

 

 

| | コメント (0)

2019年4月 3日 (水)

「文京区春日・小石川=坂と文学をめぐって」に参加しました(1)富坂から堀坂・六角坂、善光寺坂へ  

 新元号発表、代替わりの迫る中ながら、3月30日、日本社会文学会が開催する「文学散歩」に初めて参加した。今回は、「春日・小石川」ということで、何とか参加したいと思っていた。というのは、池袋で育った私は、地元の池袋第五小学校(今は廃校・統合され池袋小学校)の卒業後、中学校から大学は、文京区竹早町、大塚町、大塚窪町(旧町名)にある学校に通っていたこともあって、10年間もウロウロしていたエリアだったのである。池袋東口始発の都電17番線には、伝通院行、春日町行、数寄屋橋行があって、中学校は、停留所の同心町で下車していた。高校・大学は丸ノ内線の茗荷谷下車で、余裕をもって登校することができなかった、当時の私は、茗荷谷駅から教室まで、いつも駆け足のギリギリセーフのような日々だった。それにしても、いま思えば、あまりにも周辺のことを知らな過ぎたし、無関心でもあったのだ。その後、何かのついでがあれば、すっかり変貌してしまった学校近辺を歩く程度のことしかしていなかった。

 週末の午後、後楽園駅の礫川公園前に集合、総勢15人、案内は大和田茂さん。参加者がそろうまでの間、近くで「天皇制を終わりにさせましょう」とビラを配っている人がいた。その日は、近くの文京区民センターで、「終わりにしよう天皇制」ネットワーク、「おわてんねっと」の集会が開かれる。実は、そちらの集会も参加してみたかったのだが、時間がまるでかぶっているのであきらめたのだった。

Img126
後楽園駅頭で配布していたチラシ

Img125
大和田さんが苦労しての散歩コース地図

 

 礫川(れきせん)公園は、文京区シビックホールや区民センターでの催しの際、横を通り過ぎるだけだった。サトーハチローの「小さい秋みつけた」の碑とハゼノキ、幸田文家庭から移植されたハンカチの木、はじめて見て回った。サトーハチローは向ヶ丘弥生町に住んでいて、そこに記念館があったそうだが、閉館の折、庭から移植したのが、童謡にも登場する、このハゼノキだったらしい。公園には、立体的な段状の噴水があり、壁泉というそうだが、水は流れていなかった。振り返れば、左手の空には、ジェットコースターが轟音と共にめぐってくる。ここからが西富坂というところには、春日局の像があったが、いかにも新しい。といっても、1989年の大河ドラマ「春日局」放映後に建てられたらしい。彼女の辞世「西に入る月を誘い法を得て今日ぞ火宅をのがれるかな」の歌碑もある。この辺一帯は、水戸藩の屋敷だったのを、庭園の後楽園のみを残し、1875年陸軍の東京砲兵工廠となったが、1933年小倉へ移転、跡地を後楽園スタジアムに売却している。後で知ったのだがすぐ近くに、東京都戦没者霊苑があったのだが、知らずに、お参りはできなかったのが残念だった。

Dscn2422
手前がハゼノキ、奥がハンカチの木、ビルの上には、後楽園遊園地のジェットコースターが見える

富坂には進まず、春日通りを渡って、源覚寺=こんにゃく閻魔さんで有名な浄土宗の寺に向かう。眼病の老女が好物のこんにゃくを断って供え、祈願し続けたところ、夢に現れた閻魔王みずからが片目を差し出して治してくれた、というのがいわれらしい。閻魔王の片目がないのが、お堂の中が暗すぎてよくわからなかったが・・・。一葉の「にごりえ」にも登場するという閻魔様の縁日は今でも続いているらしい。山門の正面の通りを300mほど行くと一葉の終焉の地丸山福山町だという。「にごりえ」はもう一度読みなさねばならないが、いまの私によみがえるのは、今井正監督のオムニバス映画『にごりえ』(1953年)の「にごりえ」である。「酌婦」のお力の淡島千景と山村聡、お力へ入れあげ、身を持ち崩してしまったが、思いを断ちきれない源七の宮口精二と妻の杉村春子。高校生の頃、どこかの名画座で見た記憶がある。暗い画面の中の宮口・杉村のセリフを聞きとるのに精一杯だったような。

Dscn2429
閻魔王に供えられたこんにゃくの山

Dscn2435
ここが急な堀坂、 若い人にもややきつそうな、まして・・・

 源覚寺を裏道から少し歩いたところに現れたのは、急な堀坂だった。通りの片側は、大きなマンションが建築中であった。上りつめた丁字路の左手には、島木赤彦(18761926)が下宿し、『アララギ』の編集所にもなっていた「いろは館」跡の碑があった。右手に少し進むと、「三浦梧楼将軍終焉の地」という碑があった。三浦梧楼(18471926)といえば、山形有朋の宿敵、陸軍中将から政界入りをして、枢密院顧問になっている。朝鮮の公使時代、1895108日閔妃暗殺を企てたとされる、あの人で、1962年、富坂二丁目町内会名の解説によれば「政界軍部の御意見番として隠然たる勢力」を持ち、町内会設立にも尽力、「将軍の偉徳を偲んで」建てたと記している。こうした評価だけが定着してしまうことには、危惧を感じるのだった。

Dscn2436 
堀坂の戸建ての家の壁にはこんなポスターが張られていた

Dscn2441
いろは館跡の、小倉遊亀の筆になる小さな碑。右手にはいろは館という小さなマンションが建つ 

Photo 
「三浦梧楼卿終焉の地」とある


小石川2丁目となった、その緩い坂、六角坂をさらに下ると、左手には、「前川」の表札のある大邸宅の塀が続き、下った先の右の角には、立花隆の仕事部屋兼書庫という円筒のような猫ビルがあった。

Dscn2451
六角坂を下りきった角に立つ猫ビル 

くねった道沿いに進めば、そこは善光寺坂と呼ばれる坂で、右手、中ほどには伝通院の塔頭の一つである善光寺があり、さらに進むと、慈眼寺、沢蔵司稲荷が続き、上り切ったところには、道の中央に大樹がそびえている。その手前には幸田露伴の旧邸があり、次女の幸田文が住み、現在はその娘の青木玉が住んでいるとのことだが、背の高い木戸の脇には「幸田・青木」の表札が見えた。

Dscn2466
慈眼寺の芭蕉の句碑「一しぐれ 礫や降って 小石川」

Dscn2462
沢蔵司稲荷の狐のねぐらだった「お穴」をのぞく

Dscn2471
善光寺坂を上りきったところの道の真ん中に立つのは、ムクノキ、沢蔵司(たくそうず)の魂が宿ているといわれている。角の石塀に囲まれた家が幸田露伴の旧邸、戦後建て直しているが、次女の幸田文とその娘の青木玉が住む。

 

| | コメント (0)

2019年2月25日 (月)

在位30年記念式典にやはり登場した、天皇・皇后の短歌

 

  

きょう224日の政府主催の在位30年記念式典は、NHKだけが、14時から1時間の予定でフルの中継をしていた。もう一度録画で見るつもりだが、とりあえずの感想を述べておきたい。どこで少し狂ったのか、式典は、10分近く延びて、NHK15時から5分間のニュースが1510分から始まった。
 入場と同じく、安倍首相が先導して退場する天皇夫妻は、舞台に整列している祝辞を述べた人たちや演奏をした人たち、ひとり一人に言葉をかけ、挨拶をしているようだった。途中で、招待客1100人ともいう会場の人々に対しても、天皇は、ながらく手を振る場面もあって、首相と菅官房長官は、夫妻の前後で、少し戸惑っているようにも見えた。想定外だったのかもしれない。

 最初に画面で示された式次第のなかに、「御製、御歌の朗読」というのがあった。沖縄出身の歌手が、天皇の「琉歌」に皇后が作曲した「歌声の響」を歌うということは、かなり前からマス・メディアで喧伝されていた。「御製・御歌」を波乃久里子が朗読することを私は知らなかったが、 朗読されたのは、二首とも、2003年歌会始の「御題」の「町」として発表された短歌だった。選歌は天皇夫妻の希望であったのだろうか。

・我が国の旅重ねきて思ふかな年経るごとに町はととのふ
(天皇)

・ひと時の幸分かつがに人びとの佇むゆふべ町に花降る
(皇后)

 つぎに、登場した、上記の「歌声の響」は、天皇夫妻が皇太子時代1975年、初めての沖縄訪問時に、屋我地島(名護市)の国立療養所沖縄愛楽園を訪れ、その別れ際に、ハンセン病の入園者たちから、「だんじょかれよし」という地元の船出歌で見送られたことに、心打たれた夫妻、のちに天皇が琉歌を作り、皇后が曲を付けたものを愛楽園に送ったという、経緯を持つ楽曲だった。歌い手が三浦大知、ピアノ千住明、バイオリン千住真理子であった。その琉歌というのは、沖縄に伝わる八・八・八・六という三十音の歌謡であり、式典では、繰り返しなどを取り入れて歌われていた。

だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔 目にど残る

だんじよかれよしの歌や湧上がたん ゆうな咲きゆる島 肝に残て

 この琉歌の舞台となっている沖縄愛楽園は、その前身は、1938年に国策であったハンセン病者の強制隔離のために開設された国立国頭療養所であり、1972年沖縄の本土復帰とともに厚生省に移管となり国立療養所沖縄愛楽園となった。1996年、らい予防法が廃止された後、今日に至るまで、元患者の方々のさまざまな差別や苦痛が続いている現実もある中で、昨年、沖縄愛楽園は開設80年を迎え、『沖縄タイムス』は、社説で、次のように述べている。

  「愛楽園は1938年11月10日開園した。80年の間に延べ3904人が入所し、2100人が退園、1372人が園で亡くなった。現在も142人の入所者が暮らす。
 入所者の平均年齢は84歳。(中略) 元患者たちの、家族や親族、社会から受けた激烈な差別の記憶は鮮明だ。実名を明かせないまま生涯を終えた人は数知れず、長い年月を経て今ようやく語り始めた人たちもいることを思えば、国の誤った政策の影響の甚大さ、根深さを知る。」

「社説」の全文は、以下を参照ください。

◇沖縄タイムス社説
[沖縄愛楽園80年]謝罪・反省に終わりなし(2018122日)
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/353190

 Img118


  いわば、政府主催の天皇の「お祝いごと」としての式典で、こうした入園者たちとの交流というエピソードがことさら、一つの物語、美談のように流布されることには、どうしても違和感というか、やりきれなさがともなってしまう。そして、上記社説は、「隔離政策の根拠となった「らい予防法」が施行(96年に廃止)されて1世紀以上たつが、元患者や家族の人権回復は道半ばだ。国策にならい、ハンセン病への差別と偏見を助長してきたメディアの責任も重い。過ちへの謝罪と反省に終わりはない。」と結んでいる。
 メディアの責任とともに、国策に積極的にかかわって協力していた貞明皇后はじめ皇室の責任も決して軽くはないはずである。この件については、以下の私のブログを参照いただければと思う。

◇冬の沖縄、二つの目的をもって~難しいと逃げてはいけないこと
(1)屋我地島、愛楽園を訪ねる(2017214日)
 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-eeb9.html

◇皇室とハンセン病と―名護市屋我地島の「御歌碑」(201822日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/02/post-abe5.html

 さらに、式典最後の天皇の「お言葉」では、その結びの部分で、皇后の次の歌を紹介していた。

  「平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇(りょうあん)の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。
しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。」

 ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ(皇后)

*皇后の歌集『瀬音』(大東出版社 1997年)の「平成二年」の最後の 一首として収録されている。

 しかし、この結びの部分は、「お言葉」の中ほどの段落で、次のように述べている個所と共通する一面を持っていると思えたのである。全国各地からの寄せられた言葉を「皇室と共に平和な日本を・・・」ととらえ、下記のように「務めをはたしてこられたのは、この国の持つ民度のお陰」と述べている点であった。こんなとき、「民度」なんていう言葉を使うのかなあ、というのが正直な気持ちだった。「国民に寄り添う」という言葉も実体がとらえにくいなか、それにしても「寄り添いながら」「民度」を見極められているのかなとも。

  「これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。」
 当日にと思って、書き始めたのだが、日付が変わってしまった。きのうは、沖縄県民投票の日であったのだ。

 

| | コメント (0)

2019年2月23日 (土)

青葉の森公園は梅の見ごろでした

 2月21日、千葉市ハーモニープラザでのハーモニー歌会は、体調を崩して欠席の方々がいらして、少し寂しかったのですが、終了後、皆で近くの青葉の森公園に繰り出しました。まさに梅の見ごろで、30種類以上約1000本の梅は、久しぶりのことでした。ちょうど、この季節、吟行と称して、公園のあずまやで歌会を開いたことを思い出しました。

 

 北口の駐車場から入ると、梅園があり、さらに進めば原っぱに梅林がひろがります。「白加賀」「おもいのまま」「鶯宿」などなど優雅な品種名の札をたよりに楽しみました。

 

 青葉の森は、もともと農林水産省の畜産試験場の跡地で、1917年設立され、畜産技術研究発祥の地と言われているそうです。かつては牛馬が放牧されていたとのこと、近くに住むHさんの話でした。試験場が筑波学園都市に移って、1980年代の後半から、グランドや庭園、さまざまな施設が徐々に整備されてきたといいます。
 2002年、公園に近い男女共同参画センターの短歌講座の参加者らによって発足した、この歌会は、私にとっても、毎月楽しみな歌会になっています。ガラケーでの撮影だったのですが・・・。

20190221162523_2 「大盃」のトンネルが続く

2019022116263 「玉牡丹」、名の通り、こんもりとした花がかわいらしい

20190221161657_2

 河津の桜はすでに満開に近いとのテレビ映像も流れていたが、千葉では、まだ
 ・・・

| | コメント (0)

2019年2月 6日 (水)

1月16日「歌会始」の天皇の短歌

また、「歌会始」の話となってしまう。思いがけず、旧著『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001)が「週刊金曜日」に紹介された記事を当ブログでお知らせしたばかり。①  その時の執筆者の太田昌国さんが、以下のような論考を執筆されているのを、ネット上で知った。② そこでは、岡井隆の歌会始選者就任時の衝撃や今年の歌会始の天皇の「贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」にも言及している。「歌会始」のテレビ中継や新聞記事を読んでの感想はさまざまだと思うが、少しでも批判的な要素のある内容のものは、なかなか目に触れにくい。関心のある方はぜひお読みください。後半では、短歌と天皇制をテーマにした旧拙著3冊にも触れている。

 

 2019年、歌会始は終わったが~召人は二人?

(2019 1 17日)

 

②太田昌国のみたび夢は夜ひらく[104] 歌会始と天皇が詠む歌

(201924)

『反天皇制運動 Alert 』第32号(通巻414号、201925日発行)掲載

http://www.jca.apc.org/gendai_blog/wordpress/?p=836

 

 今年の天皇の歌は、阪神淡路大震災の10年後の追悼式典で渡された、亡くなった少女の自宅跡で花を開いたひまわりの種を詠んだものである、というエピソードが、復興の象徴として、テレビ中継はじめ、当日116日、翌日の117日のテレビや新聞で繰り返し報じられた。大震災は、まさに24年前の117日の早朝のことだったのである。これは、たんに偶然のこととは思えず、限りなく意図的なものに、私には思えたのである。天皇、選者、宮内庁の意向などもろもろが勘案、忖度が働いていたのではないか、と。

| | コメント (1)

2019年2月 5日 (火)

なぜ元号にこだわるのか~使わないワケとは

 私が会員になっている『ポトナム』の2月号に発表した「短歌時評」です。もともと表題はついていませんが、上記のように付けました。何度でも同じことを言っているような気がしますが、新しいファクトにもとづいて、言い続けるしかないかとも思っています。

****************************

 私の周辺で、「いまの天皇っていいひとだよね」との言について、異を唱える人は少ない。短歌に関心のある人たちの間では「皇后のうたはさすがだね」と盛り上がったりする。昨年末、誕生日会見での「大嘗祭は身の丈で」という発言が報じられると「秋篠宮を見直した」との声も聞かれた。

 歌壇の現況を知る手立てとも思い、最新のカドカワムック『短歌年鑑』①と『短歌研究』一二月号の『短歌年鑑』②の二冊を通覧した。やはりというか、「平成」の文字が目立った。①には「巻頭言・『平成』に持続する前衛意識」(篠弘)、「回顧と展望・平成三十年を振り返る」(坂井修一)と、「平成」の文字こそないが「特別企画・歌会始の三十年」(岡野弘彦・篠弘・今野寿美)の記事がある。「編集後記」には、「平成最後の『短歌年鑑』ですが、五月に改元が予定されているため〈二〇一九年版〉という西暦表記になっています」とのことわりの一文が入っていた。②には、「座談会・二〇一八年歌壇展望 平成の『終わりの前』になにが起こったか。」(佐佐木幸綱・三枝昂之・栗木京子・小島ゆかり・穂村弘)、「歌人アンケート『平成の名歌』」などが目を引く。「編集後記」には「一年を通じて、特集のタイトルに平成という言葉を何度も使いましたが、その都度、“タイムカプセルの機能”を意識しておりました」とある。さらに『短歌研究』一月号の予告には、総力特集「平成の大御歌と御歌」のもと、鑑賞座談会(芳賀徹・園池公毅・寺井龍哉・今野寿美)と特別寄稿(岡野弘彦・春日真木子・加賀乙彦・篠弘)があった。三月には、現代歌人協会主催「現代短歌フェステイバル イン京都(平成時代の短歌を振り返る)」が開催されるという広告も目に入った。『短歌年鑑』①も、西暦・元号併記の時代も長く、西暦だけの時代もあったが、平成二年以降は、たしかに元号表示のみとなっていた。②では、西暦と元号の併記が続く。

 元号法は一九七九年六月に成立・施行されたが、元号は皇位が継承された場合に限り、政府が決める、という主旨の短い条文でしかない。国際化やグローバル化が進む、このインターネト社会において、各省庁のデータは西暦に統一、郵便切手や金融機関の一部でも西暦表示が進み、運転免許証も西暦表示に切り替わるなど、さまざまな場面で、その利便性から西暦表示に移行し始めている。

 昨年末の『朝日新聞』(一二月七日)に、代表的な文芸誌『すばる』(集英社)、『新潮』(新潮社)、『文學界』(文藝春秋)、『群像』(講談社)の一月号の広告が並んでいた。すべて「20191月(号)」の表示であった。なぜ、私が、これほどまでに元号にこだわるのかと言えば、そもそも、天皇という一個人の死や健康状態による改元が時代区分の指標になることへの疑念であった。

 現代にあって、短歌と天皇との深い関係を標榜し、短歌史を元号で括る意味がどれほどあるのか。かつては「明治短歌史」「大正短歌史」「昭和短歌史」という書物、『昭和萬葉集』という大部なアンソロジーも編まれた。しかし、この時代に、短歌と天皇との関係をより深めたいと望む歌人たちに「ワケ」があるとすれば、イデオロギーというより、短歌メディアと歌人たちによる、いわば一種のもたれあいのもと、「平成最後」を利用しているのではないかという思いにも駆られる。五月以降は、歌壇でも改元特集が組まれるかもしれない。天皇や皇室への親密性が、その歌人の評価にもつながるという時代が続くかもしれない。「平成を振り返る」というならば、象徴、文化、伝統、お人柄などという意匠やオブラートに包まれて存在し続ける天皇という制度を考えるよいチャンスにできればと思う。

(『ポトナム』2019年2月)

| | コメント (0)

2019年1月28日 (月)

本の始末、資料の不始末~なぜ過去を捨てきれないのか?!

 

好きな言葉ではないが、これは「終活」の一つということになるのだろう。私が利用している生協の生活クラブで、古書の回収を年に2回ほど行っている。NPO法人を通して障がい者施設の支援に充てるという。アマゾンなどを利用して換金するそうだ。あまり傷んだものは出せない。前にも回収に出したことはあるが、今回、思い切って少しまとめて、出そうと準備をしている。どちらかといえば、ポピュラーな読み物、文庫・新書ものが多くなる。

いうほどの、蔵書ではないけれど、短歌などにかかわって半世紀も過ぎると、古本屋さんには嫌われる歌集は増えてゆく。歌集や歌人評伝・短歌史関係書も扱い、販売目録も定期的にメールで届く古書店には、買い取ってもらえそうで、仕訳している。これから、もしかしたら、もう一度読まなければならない、あるいは読んでおきたいもの、個人的に、まだ、どうしても手元に置いておきたいものは取り置いて、他は、欲しいと思う人に届くかもしれないという、かすかな願いを込めて、手離す方の段ボールに入れてゆく。

天皇制に関する本は、資料的な価値のあるものは、まだ手離せない。女性史、沖縄史、メディア史、憲法関係も同様である。図書館勤めが長かったこともあり、また大きな図書館が近くにないこともあって、必要に迫られて求めた各種の辞典・事典類や年表類、資料集などのレファレンスブックが捨てられない。厚くて重い図書館の雑誌目録などはインターネットの普及で、もはや不要になったのはありがたい。

 古い旅行書は捨てるにしても、若いとき、結構買っていた文学散歩や史跡や西洋館巡り、路地裏散歩のような案内書は、もう利用しないだろう。それに、かつては、気軽に買っていた美術展のカタログ、博物館・文学館展示のカタログも、思い出はあるが、手離す方が多い。画集となると、数は少ないが、まだ持ち続けたい。「過去を引きずる?過去を捨てきれないオンナ!」であることは否定できない。

資料収集にかけては、第一人者であり、私も戦時下の歌集など譲っていただいたこともある櫻本富雄さんや名古屋の短大図書館時代、歌人であり、教授でいらした熊谷武至さんのお二人が、期せずして、本当に読んでくれる人、使ってくれる人に届けるには、やはり古書店に返すのが本筋だという趣旨のことをおっしゃっていたことを思い出す。

それにつけても、私の大学図書館勤めの時代、退職される教授、大学と縁のあるという「蔵書家」やその遺族から、千単位の蔵書寄贈の話が持ち込まれることが何度かあった。そんなときは、書架不足や人員不足を理由に丁寧にお断りするか、それができない場合は、いわゆる「〇〇文庫」として別置するのではなく、一般の図書と同様の保管・利用に供すること、すでに所蔵している資料、副本や史料価値の判断、処分を任せてもらい、整理も少し遅れるという条件で受け入れていた。いささか不遜な姿勢だったかもしれないが、小規模図書館では、致し方ない対応だと思っている。

一昨年だったか、京都市が寄贈を受けた桑原武夫蔵書を廃棄したというニュースが報じられたとき、さもありなんとも思ったが、寄贈を受ける側の毅然とした態度も必要で、あいまいにしていたのだろう。「〇〇文庫」、特殊コレクションとして、個人名を付したい願望のある向きは、個人の記念館や資料館などを設立した方がよい。これも維持管理が難しいので、遺族や後継者はよほどの覚悟が必要となる。

比較的財政的な基盤がしっかりしている国公立の図書館や文学館・資料館などは、予算と人材を確保し、将来を見据えた収集・保管・利用の計画が必要なはずだ。なのに、全国の自治体において、指定管理者制度導入に伴い、図書館までがツタヤなどによる民営化が広まりつつある傾向には疑問が多い。

一口に資料といっても、その形態はさまざまで、漫画、絵本・紙芝居、文書や書簡、和装本、巻物、レコード・楽譜、CD、演劇や映画の台本などというのもある。基本的には、国立図書館が網羅的に収集・保管・利用のセンターとなるべきで、資料によっては、専門的な知識や技術が欠かせないので、役割分担をする必要もあるのかもしれない。ユニークな雑誌コレクションとその索引づくりを誇る「大宅壮一文庫」だが、財政的危機にさらされているという。公的な支援があってしかるべきだろ。

 私の場合、短歌雑誌類も利用しようと思って、気になる特集や関心のある歌人の特集の号だけが並ぶ。わずかながら、自分の短歌やエッセイの掲載号もコピーは取ってあるものの捨てがたい。どれかの雑誌に毎号のように登場する人気の歌人たちはどうしているのだろう、などと余計な心配もする。

 それに私には、長らくかかわってきたもう一つのテーマでもある、地域の問題がある。自治会、地域の開発・街づくり、県政・市政に関する情報公開文書や関係資料、これはほとんど、切り抜きや文書なので、冊子のファイルで保管しているが、かさばるので、このごろは店でもらう紙の手提げ袋や大きな茶封筒を仕訳に再利用している。「自治会の法人化」「自治会と寄付・社協・日赤・消防団」「順天堂大学誘致問題」「航空機騒音」・・・。それに、参加してきた市民集会や活動の資料やチラシなども結構な量になる。それらが、押し入れや物置にひしめいている。そんなわけで、近頃は、必要なときに、必要な資料が出て来ないこともたびたびで、きのう置き換えた資料を、ない、ないと探すこともある。

 それにしても、学生時代使ったはずの法律の本は、引っ越しの折に始末?あまり勉強しなかっただけに未練がなかったのかもしれない。憲法のコンメンタールと判例百選、我妻民法、法律学全集の幾冊かだけが申し訳のように残されている。

 「終活」といい、「生前整理」といい、本の始末だけでも楽ではない。昔を思い出しては、作業の手が止まる。棚から降ろして、埃をぬぐう。今日は、のども、腰も痛めたらしく、早寝を決めた。

ああ、もう生前整理、遺品整理業者に任せるしかないか。

2001317img075
前回の記事で、昨年受けたインタビューのことを書いたが、今回の作業中に古いファイルの中から、赤茶けた新聞が出てきた。ああ、そういえば、『現代短歌と天皇制』を出版した当時、『図書新聞』でこんなインタビューを受けていたのだったと、あらためて読み始めたのだった。なんと3頁にもわたっての収録で、立派な見出しと、各頁には、発言の一部分が大きく見出しのようになっていた。聞き手の米路さんと佐藤さんにリードされて、何とかおしゃべりができた記憶がよみがえった。斎藤茂吉と市川房枝の写真には、「え?」と思ったが、確かに言及している。しかし宇野浩二と広津和郎の写真はなぜ?記事の発言には登場してこないが、どこかで二人に話が及んだのだろうか。

Img077



Img078

今、読み直してみても、その後の拙著での「はしがき」や「あとがき」で書いていることの繰り返しのようにも思えた。ほとんど同じことしか言ってないではないか。新著の斎藤史の本に関しての感想を発信されたツイートの一つに、「著者の天皇制批判は、念仏のようだ」とも評された。「うーん」、肝に銘じたい。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧