2024年3月18日 (月)

断捨離の手が止まる (2) 戦前期『ポトナム』の気になる歌人たち

   物置同然となってしまった和室のリフォームを思い立ち、生協のワーカーコレクティブの方に依頼、仕訳をしながら、不用品を運び出してもらった。 見違えるほど広くなった!六畳間、思わずごろんと横になりたいくらいだった。が、それからが大変だった。

近代文学館に寄贈する前に

  かねて、日本近代文学館が寄贈を快諾してくださっていた、私が1960年に入会している歌誌『ポトナム』の戦前のバックナンバー(ただし、コピー)をの発送することになった。一昨年創刊百年を迎えた歌誌で、欠号は若干あるものの、1927 ~1944年(昭和2~19年)分である。講談社が昭和50年を期して企画した『昭和萬葉集』の選歌の依頼があったとき、譲り受けたものである。揃って所蔵する機関がないなかで、講談社が国立国会図書館、九州大学、立命館大学、東洋大学の図書館などでコピーして、仮製本した資料で、近代文学館でも未所蔵期間だったので寄贈することにしたのだった。発送前に、点検のためにと久しぶりに、あらためて頁を繰っていると、一結社の歌誌ながら、「昭和戦前萬葉集」さながらにも思える、激動の昭和史を読む思いがした。いざ、手離すとなると、頁を繰る手がにぶり、ついにメモを取り始めるのだった。以下敬称は略し、ややわずらわしいが、人名の後のカッコ内は『ポトナム』入会年を示す。

 つぎのような先達の名前と作品に触れると、『ポトナム』の長くも、決して順風とは言えない歴史を思わないではいられない。1960年から亡くなるまで師事していた阿部静枝(1923)、私の入会時には亡くなっていた創刊者の小泉苳三(1922)、私どもの仲人をお願いした小島清(1926)、戦後の歴代編集発行人を務めた頴田島一二郎(1922)、君島夜詩(1922)、和田周三(1933)の若かりし頃の作品にあらためて接することになった。

『ポトナム』から飛び出した歌人たち

 また、当時の同人、平野宣紀(1926)は『ポトナム』より独立して、系列誌とでもいうのか、1940年『花實』を創刊、同じく尾関栄一郎(1923)は1946年『遠天』、福田栄一(1925)は1946年『古今』、尾崎孝子(1924)は1947年『新日光』、森岡貞香(1934)は1968年『石畳』を創刊していることにも気づかされる。薩摩光三(1932)は1948年『岡谷市民新聞』というユニークな地域新聞を創刊したことで知られるが、『ポトナム』にも作品を発表しながら、1939年来『短歌山脈』も発行し続けていた。

 さらに、尾崎孝子(1924)は1931年から『歌壇新報』、石黒桐葉(本名清作、後の清介。1934)は1953年『短歌新聞』と1977年『短歌現代』、只野幸雄(1932)は1968年『短歌公論』という短歌情報誌を編集発行している。今回、数枚の古い『短歌新聞』と『短歌公論』も出てきた。『短歌新聞』の方がすっかり茶色に変色しているのに、『短歌公論』の方はあまり変色していない、など感心していると、1970~80年代の拙稿の掲載誌であった。石黒さんと只野さんには、気にかけていただいていたのだと、あらためて思い出すのだった。

 『ポトナム』には、歌壇への思いというか短歌愛が募ってジャーナリスト、出版者となっている人たちがほかにもいる。福田栄一と松下英麿は『中央公論』の編集長になっているが、小泉苳三は白楊社を、小島清は初音書房を経営している時期があり、新津亨は時事新報社に勤務しているし、片山貞美は角川の『短歌』の編集にかかわっていた。まだ私の知らない人たちもいるかもしれない。

阿部静枝の第一歌集『秋草』のあとに

・おのづからたらはぬ情(こころ)ただになやむひとをまもりつつわれもさびしき

・疲れつつつとめゆかへる夕みちに朝ゐし人夫なほ働けり

・霧さむき小屋の焚火にひととより手足の傷をいたはりあへり

・あやふきに勝ちしありがたさ祝はれてひとまへになみだかくしかねつ

・馴れぬ子の泣かん怖れをひそかにもちからだ洗ひてやりつつさびし
(『秋草』 ポトナム社  1926年10月)

   今回の『ポトナム』のコピーで一番古いものが1927年1月号で、阿部静枝の第一歌集『秋草』批評特集号であった。いわば静枝の青春歌集であったはずの『秋草』は、山田(今井)邦子が指摘したように「自意識の強い愛憎の念の深い陰影をきっかりと持った複雑な心理が鋭く起伏してゐる」(「秋草の歌」『ポトナム』1927年1月、『時事新報』からの転載)歌集となった。後に静枝自身が「普通のめでたい結婚へあっさり入りがたい事情が両方にあった」(「阿部静枝歌集」短歌新聞社1974年3月)と語り、その詳細は不明ながら、上記5首にみられる背景は、静枝のその後の生き方や作品を形成しているかのようだ。未婚の母として、同郷の無産政党の活動家の弁護士阿部温知と結婚し、夫の選挙を通じて自身も無産婦人運動の活動家となってゆく。離れた地の人に預けた子への愛と葛藤は、1938年夫の死後、引き取るまで長きにわたって詠み続けられるのである。

・さつさつと噴水の秀のくづれをりふかく入り来て街の音せず
(青山御苑 1927年1月)

・さわやかにひとり死に遂げし君にあれやねたみかそけく持ちて香焚く
(芥川龍之介氏 1927年9月)

・柵により見送れる汝を見凝めをり暗き夜汽車に涙ぬぐはず
(秋 1927年12月)

・嵐来とおぼゆる曇りメーデーの吹きなびく旗の赤さ暗しも
(いま泣いた烏がもう笑つた 1928年6月)

・するが湾こえて相向ふ富士みつつその形積む児と砂浜に
(秋 1928年11月)

・乞食等にビラを渡さは嘲られん怖れひそみにわが見ぬふりす
 (無産党闘士の妻1928年12月)

・ケーブルを降りてゆく山きりりとした秋の空気の冷たき圧力
(秋の伊香保 2029年12月)

・金!金!それを持つてゐる者は自然と私の敵となつてゆく
(選挙第一次1930年2月)

・一日の海の遊びに夕焼空のやうに日焼けた児の頬
(1930年9月)

・不幸になれた無産者がまだ頼つてゐる首相よ、神経がないのか
 (1930年10月)

・日曜の朝はなほはやく起きて呼びながしものうる児達
 (岐阜 1931年3月)

・旅立つ夫に一枚のあたらしいハンケチもてわたさなかつた
 (忽忙1931年3月)

 1929年後半あたりから、文語定型から口語破調の作品が多くなっていき、一時は、次に述べるプロレタリア短歌の詠草欄に一緒に掲載されることにもなった。それにしても、彼女の見聞・行動範囲の広さは、当時の男性歌人たちと比べても格段の差があったろうし、一般女性には想像もつかない世界であったかもしれない。夫の遊説、自身の活動、旅行などによって日本各地を訪れ、さまざまな施設にも訪れ、短歌にも詠んでいた。なお、夫との死別後から太平洋戦争期の静枝については、「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか」(『天皇の短歌は何を語のか』 お茶の水書房 2013年8月)を参照していただければと思う。

プロレタリア短歌と出口王仁三郎にどう対処したのか

 なお、すでに「『ポトナム』時代の坪野哲久」(『天皇の短歌は何を語るのか』 御茶の水書房 2013年、所収)にも書いたことだが、坪野哲久(1926年3月~28年10月)、岡部文夫(1927~28年10月)は、短いながら『ポトナム』の同人として活躍していたが、プロレタリア短歌をめざし「短歌戦線」に加盟し、退会している。ちょうど同じ頃、中野嘉一が1927年2月に入会、翌年には、復刊『詩歌』に参加、口語自由律の新短歌運動の中心となっていく。同じ1927年には、大坪晶一が入会して、『曇天と樹木』(1929年9月)『Cokaineとマダム』(1934年1月)をポトナム社から出版する勢いであった。
 また、いわゆる『ポトナム』内のプロレタリア歌人たち、当時「ポト・プロ」と呼ばれていたそうだが、松下英麿(1926)は、「我が陣営として」大津徹三、牧村浩、沼三郎、南文枝、宝井青波らの名前を挙げている(ポトナム 1931年1月)。31年4月には、創刊10周年を迎えるが、彼らの作品「景気好転の経済面の裏は、大量解雇、工場閉鎖の社会面だ、みろ、デタラメのブル新聞を」(大津徹三)などはまだましの方で、シュプレヒコールにもならない、怒号のような「短歌」がまとめられて並ぶ。同じ号には結社外部から、誌面に統一がないことや「雑誌には自ら節操というものがあつて、何でもござれ主義となつては、最早其の雑誌の存在価値はなきにい等しい」とまで批判されている(矢島歓一「対ポトナムの意見と希望」)。
 翌月31年5月号の「後記」で小泉苳三は、「プロレ短歌もシュウル短歌もすでに今日では短歌の範疇を逸脱してゐる。ポトナムとしてはその各に対しての歴史的役割を果して来たと思ふ。今後とも研究はつづけてゆくつもりであるが、現在の作品を短歌として認めることは否定したい。従つて誌上への発表も中止する」に続けて「ポト・プロの人達はいづれも年久しい同人達である。作品の上の主義は主義としてできるなら今後もポトナム内にあつてその方面の研究をつづけてほしく思ふ」とも記している。なお、大坪晶一『自叙伝青春挽歌』(短歌時代社1965年5月)には、この頃のポトナムや歌壇の様子は、『ポトナム』記念号の年史や回顧録には見られない人間関係やエピソードが綴られているのが興味深い。

 また、この時期、出口王仁三郎(1930)の出現も見逃しがたい。出口は、大本教の教祖で、第一次大本事件で、不敬罪、新聞紙法違反に問われ、27年懲役5年の刑を受けている。1930年に『ポトナム』の維持社友となったとの報告がされていて、少なくとも1931年の『ポトナム』3月から11月まで、5首前後掲載されている。前川佐美雄の『日本歌人』、前田夕暮の『詩歌』をはじめ、一時は、100を超える結社に参加、短歌を寄稿していたというが、同年の『ポトナム』9月号の「消息欄」には、『アララギ』からは除名された、との記事もある。10月号の「編輯レポート」には、名前は特定していないが「他誌に席をおく人は去就を決せられたい」との警告もなされている。この年の5月には第一歌集『花明山』(明光社)を出版し、モダズニム短歌と評価されてもいるが、『ポトナム』の掲載歌を見る限り、変哲もない自然詠、旅行詠、家族詠のように見受けられた。歌壇に旋風を起こし、「結社」という存在が問いかけられたことだけは確かである。近年では、石井辰彦や笹公人による再評価もなされている。

 発送直前の閲覧とメモを頼りのレポートとなった。もっと読み込んでおけばよかったと思う日もあるかもしれない。

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雨のあと、一気に咲き出したスイセン。3月16日写す。

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処分の直前、慌てて撮った、かつての拙作「からたちの花」。1974年、職場の文化祭に出品か。職場の宮本沙海先生の先生、内山雨海先生から1974年1月に、いただいた「光雨」だったが、沙海先生の手本をまねるばかりで・・・。何十年前にしまい込んだ書道具だけはいまだ手離せないでいる。

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2023年12月28日 (木)

『クロール』は突如、消えてしまったが~児玉暁の遺したもの

 細々と資料の整理はつづけているものの、処分するもの、古書店に引き取ってもらえそうなもの、やっぱり手離せないものと仕分けるのだが、なかなか踏ん切りがつかずに困っている。12月には、少し大掛かりに、短歌関係雑誌を捨てた。そんな作業の中で、佐藤通雅の個人誌『路上』が途切れ、途切れに出てきた。 

 その中の一冊97号(2003年12月)の表紙に「児玉暁ノート」とあるのが目に留まった。加藤英彦さんが、ともに属していた『氷原』時代から、文学を語り、短歌を語り、飲み明かしながらも、妻子、家庭を大事にしていた児玉暁さんの様子と突然の訃報に接した顛末が書かれていた。私にも、児玉暁さんとの少しばかりの接点があったのを思い起すのだった。(以下敬称略)

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創刊号の表紙と最終刊と思われる18号の奥付

 児玉の個人誌『クロール』の創刊は1995年12月1日、B5版16頁のワープロによる手作りの冊子であった。非売品となっていて、たぶん、送ってくださったのだと思う。私の手元には、18号(2000年6月1日)まではそろっていて、創刊号だけは水色の用紙を使用している。挟まれていた「送り状」には、時候の挨拶に続いて「さて、このたび不肖、長年所属しておりました「氷原」を離れ、個人誌「クロール」を創刊することに意を決しました」の一文がある。この個人誌の圧巻は、毎号の30首と「第二芸術論異聞―戦中から戦後、その活断層地帯」の連載であった。「第二芸術論異聞」の第1回で、戦中から戦後の短歌史を深く険しく切断しているのは「活断層地帯」があるからとの見立てにより、次のように述べる。

「歴史的事実を改竄することなく、隠蔽することなく、有耶無耶に放置することなく正当に埋め込む作業を施すこと、言葉を換えて言えば、戦中と戦後の流れを合流させて一本の太い近代短歌史を築き直すことが急務だと思われてならない」(1号 1995年12月)

 このスタンスは全編に貫かれている。例えば、佐佐木信綱『黎明』(1945年11月)について、小田切秀雄「文学における戦争責任の追(ママ」)」(『新日本文学』1946年6月)、木俣修『昭和短歌史』(明治書院 1964年10月)、篠弘『現代短歌史Ⅰ戦後短歌の運動』(短歌研究社 1983年7月)、佐佐木幸綱編『鑑賞日本現代文学 32巻 現代短歌』(角川書店1983年8月)においても言及がないことを指摘した上、戦時下の作品が『佐佐木信綱全集9佐佐木信綱歌集』(竹柏会 1956年1月)にも収録されてないこと、に疑問を呈している(2号 1996年2月)。さらに、佐佐木信綱、窪田空穂、太田水穂、前田夕暮、川田順らの名をあげ、次のように、明快に断じるくだりもある。

「歌人には生前であれば、全歌集や全集を自選できる権利がある。今ではそうともいえないが、文学者の全集といえば、彼の死後、遺族の許諾を得て編集委員の尽力で組まれるのが通例のようだ。それはともかく、自らの総作品を自選できる権利とそのすべてを明らかに示す義務と比べてみるとどちらを上位に置くべきだろうか。私は後者を支持する」(9号 1997年11月) 

 これらの論考は、その後、私が「斎藤史―戦時・占領下の作品を中心に1~10」(『風景』1998年7月~2001年3月)を書き始めようとしていた動機とまさにつながるものであった。この拙稿を、のち大幅に補充し、まとめたのが『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代―「歌集」未収録作品から何を読みとるのか』(一葉社 2019年1月)であった。

 児玉のプロフィル的なものはいっさい知らなかったのだが、『クロール』の毎号の「編集後記」によって、その一部を知ることになる。休日を利用して、目黒の近代文学館や都立中央図書館で資料検索やコピーをとっていたが、卒業生なら書庫に入れる早稲田大学図書館を知り、近代文学館では一枚100円のコピーが、早稲田では千円のカードで105枚とれることになってワクワクする様子、1996年12月の5号では、パソコンを購入、利用し始めるが覚束ない様子、やがて、藤原龍一郎たちと「サイバー歌仙」をまき、住まい近くの江戸川河川敷のウォーキングや週2回の1500メートルの水泳によって健康管理をしていることなど、いきいきと綴っている。1999年5月の15号では、ホームページを立ち上げたことも報じている。なお、祖父は、沖縄で財を成し、父親が沖縄生まれであり、児玉自身の生まれは鹿児島県で、小学校高学年から大学進学で東京に出るまでは佐賀県唐津で暮らしていたことも書かれていた。 

 1998年8月の12号に、斎藤史の『朱天』が登場し、『現代短歌全集第9巻』(筑摩書房 1981年1月)に、『朱天』の収録を許諾した斎藤史を、隠蔽することなく、潔いと評価している部分があった。『風景』で連載中の上記、斎藤史に関する拙稿では、1977年12月、最初の『斎藤史全歌集』(大和書房)に『朱天』を収録した折、「はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば」の一首を添えて、戦時下の歌集も隠蔽しないことを強調していた。そのことをもって、歌壇では、潔い態度と称賛しきりだったのである。ところが、初版の『朱天』(甲鳥書林1943年7月)から17首の削除と数首の改作を、その拙稿で指摘していたこともあって、コピーを送ったのだと思う。児玉からは「平成10年12月25日」付で丁寧な礼状をいただいていた。その手紙は今でも手元にあるのだが、端正な楷書で、便箋4枚に認められている。拙稿の指摘について、『朱天』については初版に当たらなかったことを反省するとの一文があり、「あの当時の短歌史の空白には是非とも書き込みが必要です」とし、「本来ならば近藤芳美氏など「新歌人集団」の人々がきちんと整理しておくべき問題だったと思います」とも書かれていた。 その手紙の後だったのだろう、今では、その用向きを思い出せないのだが、江戸川区の自宅に電話をしたことがあった。すると、夫人らしい方の声で「児玉はここにはいません」と電話を切られたのである。ちょうど手紙から一年後、1999年11月の16号の「第二芸術論異聞(第15回)」と「編集後記」で、単身で唐津に暮らし始めたことを告げている。一年弱の間に、何が彼を変えたのか。転居後の巻頭の30首の中には、つぎのような短歌が掲載されるものの「編集後記」では、『クロール』発行への意欲を語り、「第二芸術論異聞」の連載も、マラソンに例えれば30キロ地点に達した、とも記している。

・荒亡の幾日か過ぎ碧緑海ほどよき平を泳ぐクロール(16号(1999年11月)

・棄京とは人生謀反 文学の言葉をわれの生の帆と張れ(同上)

・高層のビルの上なる寒月光われを導く縄文の世へ(17号 2000年2月)

・三途の川の渡し守なる父が居て紅涙ながしつつ舟漕ぎはじむ(同上)

・みどり豊かな欅の大樹さながらに心の木の葉言の葉かがやけ(同上)

・人の生は一冊の本さなりされど付箋幾枚あっても足らぬ(18号 2000年6月)

・歴史には世紀末ありわが身には最期が待ち居り自ら決むべし(同上)

・残る月三日月消えて太陽が昇りくる此処も原郷ならず(同上)

 寂しい歌や悲壮感漂う歌が多い中、「生の帆と張れ」「言の葉かがやけ」のような歌を見出し、ほっとしたものだったが、その後、人づてに、児玉の自死を知るのだった。なお、冒頭の加藤英彦の一文には、その死は「1999年12月」だったとするが、これは明らかな間違いである。『クロール』18号は2000年6月に発行されている。親しかった友に、数年も経たないうちに、間違われてしまうとは、寂しいことではあった。

 篠弘の戦時下における土岐善麿、北原白秋への擁護論、木俣修、三枝昂之の昭和短歌史論などについても、大いに語り合いたかった。斎藤史の件に限らず、高村光太郎の「暗愚小伝」、山小屋生活、芸術院会員固辞などによる「自己糾弾」、金子光晴の戦争詩を書かなかったが傍観者だったという「自戒」を高く評価していた児玉、近年になって、両者への反証にたどり着いた私だが、意見を聞きたかったし、議論をしてみたかったと切に思うのだった。

 

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2023年11月20日 (月)

<座談会>、かなり緊張したのですが。

 11月18日、土曜の午後、G—W—G (minus) 同人の方からのご依頼で座談会に参加しました。同人の三方、位田将司さん、立尾真士さん、宮沢隆義さん、どなたも近代文学の若い研究者で、G—W—G (minus) のバックナンバーを一部拝読、これは手ごわいぞ、の第一印象でした。座談会に至るまでは、進行や資料など丁寧に対応していただき、1週間前にはzoomの打ち合わせもしていただきました。

 会場は、私の住まいの近くの古民家カフェ「入母屋珈琲」の2階の広々とした会議室、入るなり、中央のテーブルにはなんと、写真のように、私のこれまでの著作、収録された論文集、雑誌のコピーまでが、積まれているのを目にして驚き、もはや感動に近いものがありました。私も、拙著の一部や1960年代の雑誌などを持参しましたが、机上のこれらの資料から突っ込まれると、かなりの覚悟が・・・、などと思ったのですが、話が始まると、三人は各様に、私の4冊の歌集や拙著を読まれていて、おぼつかない私の話をうまく掬い取ってくださりで、あっという間の4時間!でした。多くの刺激をいただきました。

 当日の夕方には、以下のツイートにも。 

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本日、歌人の内野光子さんと座談会をおこないました。短歌と天皇制の関係を中心に、「60年安保」及び「68年」と短歌、阿部静枝と『女人短歌』、齋藤史と『万葉集』、前衛短歌、そして「歌会始」の問題を大いに議論しました。2024年5月刊行予定の『G-W-G(minus)』08号に掲載予定です。乞うご期待! pic.twitter.com/7y1qnDWvmx

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2023年10月 4日 (水)

<関東大震災100年>特集に思う~5首を発表しました。

 関東大震災100年ということで、多くのメディアが特集やシリーズものを組んでいた。短歌雑誌の『歌壇』9月号では、≪その時歌人たちはどう詠んだか―関東大震災から百年≫が組まれ、私も「『ポトナム』揺籃期の震災詠」を寄稿した。9月2日の当ブログにも収録している。今回は、『現代短歌新聞』10月号の特集≪関東大震災100年≫に拙作五首を発表している。ご笑覧のほどを。3頁にわたり43人が出詠していた。★

観音寺の鐘楼   内野光子(ポトナム)

縛られて〈払い下げ〉られし六人を殺せと命じられし村びと
息つめて向うは高津観音寺晩夏の雨に鐘楼濡れおり
朝鮮の技にて成りし鐘楼に犠牲者慰霊の礼のひたすら
命じられ殺めし人らを供養せる碑には銘なく落葉とどまる
二九六の往来激しき道の辺に潜まり建つは〈無縁仏の墓〉
(『現代短歌新聞』2023年10月)

 関東大震災について、私は、書物や映像でしか知らない。両親は結婚する前で、父は海外にいたし、母は千葉県の佐原で小学校教師をしていたはずだが、震災の話を聞いた記憶がない。書物や映像からの作歌は、むずかしいし、私は、なるべく戒めることにしている。数年前、佐倉市の隣町、八千代市内に大震災時に犠牲となった朝鮮人の慰霊碑がいくつかあり、毎年、追悼式が行われていることを知った。高津団地に近い「高津山観音寺」では追悼式と同時に開かれる学習会にフィールドワークが開催されているが、一度参加したことがある。「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の主催である。ことしは9月9日に百周年慰霊祭が行われたが、猛暑の中、体調に自信がなく、残念ながら参加できなかった。

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『いしぶみ』は「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の機関誌で、1978年創刊という。さまざまな関連行事の案内や報告、研究論文も掲載される。最新号の「関東大震災朝鮮人虐殺をめぐる質問主意書の意義」は2015年から資料を巡る質問書は八回も出され経過、今年は、5月23日の参院内閣委における杉尾議員も関係資料について質問までを追跡している。8月30日の記者会見で松野官房長官の「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」との発言は記憶に新しい。ちなみに質問主意書については、以下に詳しい。


関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会HP<質問主意書一覧>
https://www.shinsai-toukai.com/top-japanese-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/%E8%B3%87%E6%96%99%E5%AE%A4-japanese/%E8%B3%AA%E5%95%8F%E4%B8%BB%E6%84%8F%E6%9B%B8-%E7%AD%94%E5%BC%81%E6%9B%B8/

「<100年ぶり>の国会質問に政府の答えは? まもなく発生100年の関東大震災「朝鮮人・中国人虐殺」問題」『東京新聞』2023年5月24日https://www.tokyo-np.co.jp/article/251995

★『現代短歌新聞』の特集の作品の中で、気になったのが、柳宣宏さんの「一会員」と題する五首だった。
・「まひる野」の会員たりしえみこさんは大杉栄と伊藤野枝の子
 第一首目と『天衣』という歌集を残したという第五首目を手掛かりに調べてみると、伊藤には、辻潤との間に二人、大杉との間に五人の子供がいる。「えみこさん」は、三女の「エマ」さんで、後に笑子と改名している。『天衣』は、1988年に出版されていたが、著者は野沢恵美子となっていた。

 

 

 

 

 

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2023年9月21日 (木)

歌壇におけるパワハラ、セクハラ問題について、いま一度

 2019年末から翌年に下記の当ブログ記事において、短歌結社雑誌『未来』の選者の一人のパワハラ、セクハラ問題について触れていた。そんなこともあって、短歌史や資料の件で何かとご教示いただいている中西亮太さんとのご縁で、上記パワハラ、セクハラ問題ついて、当事者の加藤治郎氏とのツイートやnoteで追及されている中島裕介さんに中西さんと二人でお話を伺う機会があった。

・歌壇、この一年を振り返る季節(2)歌人によるパワハラ?セクハラ?~見え隠れする性差(2019年12月22日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/12/post-b5862e.html

・歌壇における女性歌人の過去と現在(2020年3月 3日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/03/post-d8f3d9.html

  インターネット上で、加藤・中島間のやり取りを見ていると、論理的な中島さんに感情的に答える場面も多いのだが、やはり、それだけでは、何が真実か、どの情報を信頼すべきか、正直、迷うこともあった。今回、私たち二人の疑問にもていねいに応える中島さんの話のなかで、わずかに伝えられた被害者の方々からの情報を間接的ながら知ることによっても、その全容が少し見えてきたように思う。

 『未来』のホームページによれば、2019年11月30日、理事会報告で 理事1人から提出されたハラスメントの事実確認をすることとハラスメントに関する委員会、相談会設置することなどを表明して以来、2020年1月19日に、ハラスメント相談窓口設置発表、2022年7月21日、「ハラスメント防止ガイドライン」「ハラスメント相談窓口フロー」を発表するにとどまり、表だった動きが見えない。『未来』の会員にも、公式には、これ以上の報告はないようである。『未来』会員の中島さんからに限らず、名指しされている選者の一人のセクハラ問題なのである。ハラスメント委員会はこれまでの間、どのような活動をしてきたのだろうか。理事(=選者)会には、女性も多いのに、何とか解決の糸口はなかったのだろうか。できれば表ざたになるようなことはしたくないという結社自体の保身、そして、理事たちの保身がこうした結果をもたらしているようにしか思えない。男女各1名のハラスメント相談窓口を開設以来、相談件数はゼロであったという、大辻隆弘理事長からの報告もある。結社内の人間が担当したのでは、非常にハードルが高く、機能は果たし得ないのではないか。

 また、短歌関係メディアは、「噂」としては知っていた、あるいは、少なくともネット上の情報で知り得ていた情報の真偽を確かめようとなかったのだろう。なぜ、そのまま放置して、当事者の起用を続けているのだろう。現に、起用を控えているメディアもあることは、誌面によりうかがい知ることもできる。決して、一結社の問題ではないはずである。

 ハラスメントを、セクハラを受けた側から考えれば、加害者の名前を見るのも、画像を見るのもいたたまれないのではないか、メディアはそうした想像力を働かせてほしい。ジャニーズ問題は、どんな組織にも起こり得た問題だったのである。

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2023年9月 2日 (土)

関東大震災100年、日付が変わってしまいましたが。

 雑誌『歌壇』9月号の特集「その時歌人たちはどう詠んだかー関東大震災から百年」に寄稿しました。一頁の短文ですが、ご覧ください。私が会員の『ポトナム』は、1922年創刊ですから101年目、私の入会が1960年、会員歴だけは長くなっていますので、依頼があったのだと思います。ところが、肝心の1923~24年の『ポトナム』の所蔵館が少なく、難儀しました。

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 『ポトナム』揺籃期の震災詠   

一九二二年四月、小泉苳三は赴任先の朝鮮、京城で百瀬千尋と『ポトナム』を創刊した。大震災で、東京の発行所で発送直前の九月号を焼失している。一二月号の編集後記で、苳三は、所用で東京市内を移動中、大森の吉植庄亮宅で地震に遭遇し、翌日、ようやく片瀬の住まいにたどり着いたと記し、「雑然とした歌を並べたり、有名無名の大家の作を頂いて以て光栄としてゐる醜態」を嫌い、「ポトナム」の拓くべき境地は「量よりも質こそ芸術に於ては尊まるべき」と結ぶ(「片瀬より」『ポトナム』一九二三年一二月)。苳三自身の震災詠は見当たらない。以下、出典が『ポトナム』の場合は省略した。

『水甕』の尾上柴舟に師事していた阿部静枝は『ポトナム』にも『水甕』にも同時に震災詠を残している。

・地の震れにおびえあかしし今朝さむし倒れたる垣に朝顔咲けり(「災後(八首)」一九二四年一月)

・黒き煙来るとみえしやたちまちに割れて火焔のうづまきあがる(「地変(六首)」『水甕』一九二四年一月)

市川信一郎は、東京の冬の厳しさを次のように詠む。

・やけあとにひとつのこれる井戸の水をくまむとて霜のみち遠く来し(「入日(八首)」一九二四年二月)

平塚の農業高校に勤める小泉穂村は、パンを握ったまま逃げ果せたが、校長の「御真影を」との声に、再び駆け込み持ち出した後、次は牛舎から牛を助け出し、「生きてあることのうれしさたらちねの手をとりてただなみだこぼせり」と詠む(「震災雑感」一九二四年一月)。

 お互いに無事を喜び合う家族がいる一方、社会では残虐な悲劇が起きていた。『ポトナム』にも「地震」と題した歌の中に「姿(なり)わろき人のちまたを行く見れば心は躍るもしも鮮人(よぼ)かと」といった一首を見出してドキリとしたのである。「よぼ」は朝鮮語本来の意味を離れて、当時の日本人が蔑称として使用する「差別語」であった。

大震災直後、『ポトナム』は京城で発行、編輯者である苳三は、創刊翌年の六月まで『水甕』に在籍、一九二四年六月には、吉植庄亮の『橄欖』と合併し、半年後には復刊という不安定な時期であったためか、所蔵館は少ない。一部、中西健治ポトナム代表の提供に拠った。(『歌壇』2023年9月)

「『ポトナム』揺籃期の震災詠」(「歌壇」2023年9月)
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2023年6月30日 (金)

 梅雨空の下諏訪~今井邦子という歌人

  国家公務員共済の宿「諏訪湖荘」のビーナスラインの観光バスと北八ヶ岳ロープウェイを乗り継ぎ、坪庭一周という企画を楽しみにしていたが、あいにくの霧と雨に見舞われた。足に自信がなかったので、私は坪庭はあきらめ、ロープウェイ山頂駅のやたらと広い無料休憩所で、お弁当を一足先に失礼し、スケッチをしてると、40分ほどで一行は戻ってきた。足元がかなり悪かったらしい。観光バスの窓は拭ってもぬぐってもすぐ曇り、百人乗りも可というロープウェイの窓は、往復とも雨滴が流れるほどで、眺望どころではなかった。

 とはいうものの、前日は、夫とともに、下諏訪の今井邦子文学館とハーモ美術館を訪ねることができたし、翌日は雨もやみ、原田泰治美術館に寄り、館内のカフェでのゆったりとランチを楽しむこともできた。鈍色の湖面には水鳥が遊び、対岸の岡谷の町は遠く霞んでいた。諏訪湖一周は16キロあるとのこと、再訪が叶えば、内回り、外回りの路線バスを利用して美術館巡りをしてみたいとも。

 今井邦子文学館は、ところどころ、宿場町の面影を残す中山道沿いの茶屋「松屋」の二階であった。邦子(1890~1948)は、幼少時よりこの家の祖父母に育てられ、『女子文壇』の投稿などを経て、文学を志し、上京し、暮らしが苦しい中、ともかく『中央新聞』社の記者となったが、1911年、同僚の今井健彦(1883~1966。衆議院議員1924~1946年、後公職追放)と結婚、出産、16年に「アララギ」入会、同郷の島木赤彦に師事、短歌をはじめ創作に励むも、自らの病、育児、夫との関係にも苦しみ、一時「一灯園」に拠ったこともあった。困難な時代に女性の自立を目指し、1936年、「アララギ」を離れ、女性だけの短歌結社「明日香」社を創立、1943年には、『朝日新聞』短歌欄の選者を務める。戦時下は、萬葉集『主婦の友』と発行部数を競った『婦人倶楽部』の短歌欄選者をローテーションで務めいる。1944年、親交のあった神近市子の紹介による都下の鶴川村への疎開を経て、1945年4月には、下諏訪の家に疎開したが、1948年7月、心臓麻痺により急逝している。58歳だった。 

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  今井邦子への関心は、かつて『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史 1945ー1953』(阿木津英・小林とし子・内野光子著 砂小屋書房 2001年9月)をまとめる過程で、敗戦前後の女性歌人の雑誌執筆頻度を調べた頃に始まる。20年以上前のことだったので検索の手段はアナグロの時代であって、決して網羅的ではないが、今井邦子の登場頻度が高かったことを思い出す。最近では、邦子が、つぎのような歌を『婦選』創刊号(1927年1月)に山田邦子の名で寄せていることを知って、紹介したことがある(『女性展望』市川房枝記念会女性と政治センター編刊 2023年1・2月号)。

・をみな子の生命(いのち)の道にかゝはりある國の會(つど)ひにまいらんものを

 1924年5月の総選挙で、夫、今井健彦が千葉県二区から衆議院議員に当選している。18歳歳以上の男女に選挙権をという普選運動は、1925年3月が普通選挙法が成立、1928年3月の総選挙で初めて実施されたのだが、婦人参政権獲得運動の願いもむなしく、女性は取り残されたまま、そんな中で、久布白落実、市川房枝らによって創刊されたのが『婦選』であった。邦子が寄せた歌にもその口惜しさがにじみ出ているのだった。

  今井邦子文学館は1995年、松屋跡地に復元再建して開館、二階が展示室になっているだけだった。展示目録もなかったようだし、当方のわずかな写真とメモだけで語るのはもどかしい。それでも、斎藤茂吉や島木赤彦からの直筆の手紙、邦子から茂吉のへ手紙など、活字に起こされていて、生々しい一面も伺われて興味深かった。

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展示室の冒頭、詩などを投稿していた『女子文壇』と姉との写真が目を引いた。転任の多かった父の仕事の関係で、邦子は、姉はな子とともに、祖父母に預けられ、育てられ、両親との確執は続く。その姉との絆は強かったが、若くして死別する。

 1911年の結婚、翌年の長女出産を経てまとめた歌文集『姿見日記』(1912年)には相聞歌も見られるが、出産を機に、つぎのような歌が第一歌集『片々』(1915年)には溢れだすのである。

・月光を素肌にあびつ蒼く白く湯気あげつゝも我人を思ひぬ『姿見日記』
・暗き家淋しき母を持てる児がかぶりし青き夏帽子は」『片々』 
・物言はで十日すぎける此男女(ふたり)けものゝ如く荒みはてける
・入日入日まつ赤な入日何か言へ一言言ひて落ちもゆけかし

 1916年アララギ入会、島木赤彦に師事、1917年長男妊娠中にリューマチを患い、治療はかどらず、以降足が不自由な身となる。1924年夫の政界進出、1926年島木赤彦の死をへて1931年に出版した『紫草』では、赤彦の影響は色濃く、作風の変化がみてとれる。「あとがき」によれば「大正五年から昭和三年(1916~1928年)まで」の3000余首から781首を収めた歌集だった。私にとって、気になる歌は数えきれないほどであったが・・・。子供、夫との関係がより鮮明に表れ、思い煩い、嘆き、心が晴れることがなく、一種の諦観へとなだれていくようにも読める。身近に自分を支えてくれた人たち、その別れにも直面する時期に重なる。以下『紫草』より。

・眠りたる労働者の前をいく群の人汗を垂り行きにけるかも(砲兵工廠前)(「しぶき」大正五年)
・青草の土手の下なる四谷駅夜ふけの露に甃石(いし)は濡れ見ゆ(「夜更け」大正六年)
・病身のわれが為めとて蓬風呂焚き給ふ姉は烟にむせつ(「帰郷雑詠」大正六年)
・三年(みととせ)ぶり杖つかず来て程近き郵便箱に手紙入れけり(「荒土」大正八年)
・もの書かむ幾日のおもひつまりたる心は苦し居ねむりつつ(「さつき」大正九年)
・争ひとなりたる言葉思ひかへしくりかへし吾が嘆く夜ふけぬ(「なげき」大正十年)
・つくづくとたけのびし子等やうつし世におのれの事はあきらめてをり(「梅雨のころ」大正十二年)
・土の上にはじめてい寝てあやしかも人間性来の安らけさあり(「関東震災」大正十二年)
・夫に恋ひ慕ひかしづく古り妻の君が心の常あたらしき(「喜志子様に」大正十三年)
・真木ふかき谿よりいづる山水の常あたらしき命(いのち)あらしめ(「山水」大正十四年)
・うつし世に大き命をとげましてなほ成就(とげ)まさむ深きみこころ(「赤彦先生」大正十五年)
・みからだをとりかこみ居るもろ人に加はれる身のかしこさ(「赤彦先生」大正十五年)
・嘆きゐて月日はすぎぬかにかくに耐ふる心に吾はなりなむ(「梅雨くさ」昭和二年)  
・姉上の野辺のおくりにふみしだく山草にまじる空穂の花は(「片羽集二」)
・ありなれて優しき仕へせざりしをかへりみる頃と日はたちにけり(夫に)(「萩花」昭和三年)

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展示会で見た時は、気が付かなかったが、よく見ると謹呈先が「山田邦子様」となっているではないか。今井邦子が旧姓にちなむ、かつてのペンネームであった「山田邦子」あてなのである。かつての自分への「ごほうび」?「おつかれさま」?なのか、ユーモアなのか。

 1935年にはアララギを離れ、翌年には『明日香』(1936年5月~2016年12月)創刊し、みずからも萬葉集などの古典を学び、後進の指導にもあたる。女性歌人の第一人者として、歌壇ばかりでなく、一般メディアへの登場も著しい。その一例として、つぎの調査結果を見てみたい。戦時下の内閣情報局による『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)という部外秘の資料からは、当時の八つの婦人雑誌への女性歌人の執筆頻度がわかる。期間は1940年5月号から1941年4月号までの一年間の執筆件数ではあるが、今井邦子は、他を引きはなし、婦女界5、婦人公論2,婦人朝日2、婦人画報1、新女苑1で計11件、五島美代子4件、茅野雅子3件、柳原白蓮3件であった。さらに2件以下として四賀光子、杉浦翠子、中河幹子、築地藤子、北見志保子、若山喜志子が続いている。いわゆる、当時は「名流夫人」として、名をはせた歌人たちであった。今井健彦、五島茂、茅野蕭々、宮崎龍介夫人であったのである。

 また、短歌雑誌ではどうだろうか。かつて、敗戦前後の女性歌人たちの執筆頻度を調べたことがある(前掲『扉を開く女たち』)今回、若干手直ししてみると、次のようになった。もし、邦子が敗戦後も活動できていたら、どんな歌を残していたか、どんなメッセージを発信していたのか、興味深いところである。

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上記の表から、今井邦子と四賀光子は、敗戦を挟んで激減し、阿部静枝と杉浦翠子は、増加している。生方、水町、中河は変わりなく、一番若かった斎藤史は倍増していることがわかる。

 なお、1942年11月、日本文学報国会の選定、内閣情報局によって発表された「愛国百人一首」について、「一つ残念な事があります」として、声を上げていたのである(「婦人と愛国百人一首」『日本短歌』1944年1月)。選定された百首のうち女性歌人の作が「わづか四人であるといふ、驚くべき結果を示されて居ります。現在の短歌の流行を考へ合わせると、そこにもだし難き不思議ななりゆきを感ずる訳であります」と訴えている。小倉百人一首には女性歌人が二十人選定されている一方、昭和の時代の選定に四人だけということを「長い長い歴史に於て真面目に婦人として考へて見なければならぬ事ではありますまいか」と婦人の無気力を反省しながらも、それはそれとして「女の心は女こそ知る、女も一人でも二人でもその片はしなりと相談にあづかるべきではなかつたらうかと、今も口惜く思ふ次第であります」と、12人の選定委員に女性がひとりもいなかったことにも抗議していた。「愛国百人一首」が国民にどれほど浸透していたかは疑問ながら、こうした発言すら、当時としてはかなりの勇気を要したのではなかったかという点で、注目したのだった。

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戦時下、雑誌統合により休刊となった『明日香』は、1945年10月には、謄写版が出され、その熱意が伝わってくる。1946年2月、邦子の下諏訪の家を発行所として復刊号が出されている。扉の一首「雨やみし故郷の家に居て見れば街道が白くかはきて通る」。

 また、『明日香』は、邦子の没後、姉の娘岩波香代子、川合千鶴子らによって続けられたが、2016年終刊に至る。

 

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2023年3月31日 (金)

「横浜ウォーキング」参加してみようかと(2)

大佛次郎記念館とイギリス館と

   心配していた昨夜からの雨は止んでいる。窓からのベイブリッジも昨日よりはっきり見える。午後からのウォーキングまで、どうか降らないで、と祈るしかない。11時の集合、ランチの会食まで時間があるので、大佛次郎記念館へ向かう。水たまりの残る散策路、多くの人が花壇の手入れに出ていた。

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港の見える丘展望台より、大佛次郎記念館をのぞむ

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 記念館は大佛次郎(1897~1973)の没後、1978年に開館している。この春は「大佛次郎 美の楽しみ」展を開催中で、大佛コレクションの中の挿絵画家や交流のあった画家たちの作品の一部が展示されていた。旧蔵の尾形光琳「竹梅図屏風」は、重要文化財となって東京国立博物館に所蔵されているそうだ。長谷川路可、長谷川春子、佐藤敬らの作品が目を引く。「鞍馬天狗」から「パリ燃ゆ」「天皇の世紀」まで、古今東西にわたる時代を描く、その幅の広さは格別なのだが、いざ自分が読んだ作品となると、あまりにも少ないのに気付くのだった。和室もどうぞとの案内で、上がってみると、大きな窓からの眺めはさすがであった。階下では、大佛の猫好きにちなんだ、猫の写真展も開催されていた。

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 記念館併設の「霧笛」という喫茶室には、二人とも入ったことがない。夫はぜひとも、ここでコーヒーをというのだが、10時半のオープンの時間なっても「しばらくお待ちください」と“close”の札をさげたままなのである。それではと、近くのイギリス館に入ってみる。1937年にイギリス総領事公邸として建設されたそうで、外観・室内も格調高いたたずまいであった。正式には、横浜市イギリス館といって、横浜市指定文化財になっていて入館も無料である。なんとなく人の動きがあわただしいと思ったら、午後と夜、コンサートがあるという。ウォーキングの後、コンサートもいいね、とチラシをもらう。

 ふたたび「霧笛」に寄り、豆を挽く香りにつつまれながら、念願かなって、コーヒーとケーキを待つ。

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私はかぼちゃのケーキを、夫はチーズケーキを

いよいよ「横浜ウォーキング」

 総勢二十人余の参加者が 簡単なランチを食べながら、今日のウォーキングの説明を聞く。三班に分かれて、各班にKKRのスタッフとNPOのガイドさんが付き添う、という。ほとんどがシニアなので、安心といえば安心である。私たち夫婦は、参加者七人の三班であったが、その内三人は、こうした催しの常連らしくスタッフとも親しげである。他の人も、国内・国外を問わず、旅行三昧の暮らしで、私たちの比ではないらしい。お一人は87歳といい、皆さんの意気軒高な、定年まで勤めあげたらしい国家公務員のOBで、その元気さに圧倒されてのスタートであった。

「元町・中華街」まで、緩やかな方の谷戸坂をくだって、みなとみらい線には一駅だけ乗り、「日本大通り」下車。

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「日本大通り」の改札を出た通路には、こんなモザイクの壁画並んでいて、そのうちの一枚が、横浜のシンボルを一枚に収めたような作品。これからめぐる「三塔」と赤レンガ倉庫も描かれている。柳原良平の作と聞いたが、かの「トリス」のオジサンの横顔も船上に描かれているではないか

 日本大通りと本町通りの交差点に立つ。神奈川県庁の敷地の角には「運上所跡」の碑がある。県庁の屋上には、三塔の一つ「キングの塔」と呼ばれる塔が建つ。屋上を半回りすれば、街と港を一望できる。

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 地上に出て、次に向かったのが横浜開港資料館である。ここには二人とも、数年前に新聞博物館・放送ライブラリーに来たときに寄ったことがある。三つ目の塔は、横浜市開港記念会館の塔なのだが2021年12月から改修だそうで、見上げるだけだった。

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横浜開港資料館中庭「玉くすの木」、江戸時代より大火や空襲に遭いながら、再生した、たくましい木。夫の撮影による三班の女性一同。ガイドさんのとなりに従いているのが筆者か

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香淳皇后の歌碑

 山下臨港線プロムナードに突然現れたのが香淳皇后の歌碑だった。ガイドさんも、参加者も素通りだった。私たち二人が写真を撮っていて、少し遅れてしまったのだが。「<ララ>の功績を後世に残す会」(2001年4月5日)の銘板「第二次世界大戦後の多くの日本人を救った<ララ>物資」によれば、1949年10月19日、昭和天皇・皇后が横浜港のララ倉庫を訪問した折に詠んだ短歌とあり、つぎの二首が刻まれていた。

ララの品つまれたるを見てとつ国の熱き心に涙こほしつ
あたゝかきとつ国人の心つくしゆめなわすれそ時はへぬとも

 ララ物資の第一便は1946年11月30日、この横浜新港埠頭に入港したという。私も学校給食の脱脂粉乳世代だったし、教室ではくじ引きで、傘や靴が配られたこともある。焼け跡のバラック住まいのご近所で、砂糖やメリケン粉、ソーセージの缶詰などを分け合っていたのを思い出す。それがララ(LARA:Liensed Agencies for Relief in Asia=アジア救済公認団体)からのものであったのか、なかったのか。ララといって、私が思い出す短歌は、山田あきの次の一首である。

ゆたかなるララの給食煮たてつつ日本の母の思ひはなぎず(『紺』歌壇新報社 1951年5月)

 疎開地から戻って、池袋の小学校に転校したものの、校舎はなく、仮校舎のお寺の鐘楼跡で、給食の用意をしていた母たちの姿に重なる。

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変わった防潮柵、閉じるわけでもなく、その役目を果たすらしい

 港沿いに「大桟橋」を右に見て「象の鼻」の由来を聞きつつ、青い屋根の塔、クイーンの塔が立つ「横浜税関」の「資料展示室」にも立ち寄る。つぎに、赤レンガ倉庫の一号館が二号館より短いのは、関東大震災で倒壊したからとの説明を聞く。最近リニューアルした商業施設らしく、若い人たちでにぎわう中、私たちはここを通り抜けた。広場の先のかまぼこ型の白い建物には「海上保安資料館(北朝鮮工作船展示)」の大きな文字があり、突然の「北朝鮮工作船」に驚く。海上保安庁って、他にやることもあるだろうに、と中に入って、さらに驚く。2001年12月、奄美大島近くのEEZ内で不審船を自衛隊が確認した以降、海上保安庁巡視船との攻防の末、不審船は、自爆して沈没、後の引き上げ・調査の結果、北朝鮮の工作船と判明した。30mある船体と回収した武器などが展示されていたのである。入り口近くには、実に詳しく、説明する案内人がいた。夫は、思わず、胸に下げている名札を覗き込むと、「海上保安庁に45年間務めたOBです」と誇らしげに?答えていた。それにしても、展示がここ横浜の地で、工作船関係のみという違和感はぬぐえなかった。

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階段を上ると船内を俯瞰できるようになり、不審船に遭遇した巡視船の活動の様子が大きな画面で映写されていた

 さらに、私たちは、長い商業施設を経て、「横浜ハンマーヘッド」へと進むと、世界でも有数だったという、荷揚げ用の巨大なクレーンが聳えていた。サークルウォークという円形のデッキを経て、万国橋をわたり、あとは馬車道まで歩くことになるのだが、頭上に、これも突然、小さなケーブルが行き来をしているのにびっくりするのだった。

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桜木町駅前からみなとみらいの運河パークまでを結ぶ、都市型ロープウエイ。定員8人、合計36基のゴンドラが片道630mの道のりを約5分で運行、大人片道1000円、大観覧車と合わせて1500円というチケットもあるそうだ。5分で1000円?!

 馬車道駅からみなとみらい線に乗り、終点の元町・中華街に着くころは、私など、もうかなりのくたばりようで足が重い。宿について一休み、5時からは夕食が始まり、班別のテーブルはにぎやかなおしゃべりの場になった。そして、各班2・3名が指名され、感想を述べたりした。私たちは、7時からのコンサートがあるので、本降りになった雨の中をイギリス館へと急いだ。

 コンサートには、二十数人が来場、バロック時代の古楽器による演奏だった。素朴なチェンバロの音色、オーボエのやさしい高音、当時のヴィオラの弦は7本で、ヴィオラ・ダ・ガンバと呼ぶらしいが、奏者は、楽器を両足で支えての演奏、こんなにも身近で聞くコンサートは、はじめてだった。バッハを父とするC.P.E.バッハ作曲のヴィオラ・ダ・ガンバのための曲というのも初めて知った。ウォーキングの疲れをいやされ、至福のひとときを過ごすことができた。このようなコンサートは山手の西洋館を会場として、しばしば開催されているという。今回は、初めての平日開催とのこと、偶然な、うれしい出会いであった。
  この日の万歩計は、12917歩、近年にない記録であったが、明日の足腰がどんなことになっているか、心配はつきない。

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2023年3月 9日 (木)

来年の「歌会始」はどうなるのだろう

 『ポトナム』三月号に歌壇時評を書きました。

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 一月一八日の午前中、NHKテレビによる皇居での「歌会始」、忘れずに、いま、見終わった。コロナ禍のもとでの開催は三年目で参加者全員のマスク着用、距離を置いての着席、陪聴者をかなり少なめとするのが定着したようだ。皇族は、天皇・皇后のほか、秋篠宮家からは夫妻と次女、三笠宮、高円宮両家の母娘、合わせて九人であったか。天皇家の長女は学業優先で不参加ということが前日から報道されていた。入選者一〇人と選者の内藤明、召人の小島ゆかり、皇族代表の何首かが朗詠された後、天皇の短歌が三回朗詠されて終了する。いつも、この中継を見ていて思うのは、短歌の朗詠中の画面と短歌の解説なのある。朗詠される短歌の作者の居住地の風景や短歌にふさわしいと思われる風物を背景に、行書による分かち書きをした短歌のテロップが流れる。独特の朗詠では、短歌を聞き取れないことが多いので、こうした措置が取られるのであろう。行書である必要はない。その上、作者への入念な事前取材によって一首の背景や職歴などが詳しく、皇族の場合は、宮内庁の解説に沿って、アナウンスされ、「~という気持ちを表現しました」と作者に成り代わっての解説なのである。NHKは、すでに、入選者の発表があった昨年一二月二六日の時点で、「おはよう日本」は、入選者の何人かに取材し、入選作の背景などを語らせている。入選の短歌自体の発表は当日までお預けというのは、一種の権威づけで、宮内庁とNHKの情報操作の結果にほかならない。もともと、短歌には、鑑賞はあっても、読み手にゆだねられる部分も多い。詳しい解説が必要なのかどうかの思いから、私には、NHKの解説がむしろ煩わしく思えるのである。

 「歌会始」の選者は、岡井隆が退任後、二〇一五年来、篠弘、永田和宏、三枝昻之、今野寿美、内藤明の五人が務めていた。昨年一二月に亡くなった篠弘の後任は誰かと気にはなるが、女性なら栗木京子かなと思う。すでに召人になり、NHKの短歌番組への出演も長く、「観覧車」の歌がすべての中学校の国語教科書に載ったことで若年層にもなじみがあり、現在、現代歌人協会の理事長でもある。ただ、すでに選者である永田と同じ「塔」の同人である。現在、選者の三枝・今野夫妻も同じ「りとむ」なのだから、あり得るかもしれない。また、知名度抜群の俵万智は師匠筋の佐佐木幸綱が、かつて「俺は行かない」と宣言している関係もあって、その壁を乗り越える必要がある。今年、召人になった小島ゆかりが、本命かもしれない。男性では、経歴、歌歴からも「かりん」の坂井修一辺りが打診されている可能性もある。いずれにしろ、七月初旬には、来年の選者が発表される。私の拙い予想がせめて外れてくれればと思う。

 いま宮内庁サイドが腐心しているのは、平成期に比べて、詠進歌数が一万五千首前後で低迷していることではないか。また、令和期になって、元旦の新聞に天皇夫妻の短歌が載らなくなったことである。平成期には、必ず天皇家の集合写真と天皇五首、皇后三首が掲載されていた。二〇〇一年からは、宮内庁のホームページでも、解説付きの八首が発表されていた。(平成の天皇・皇后 元旦発表短歌平成二~三〇年 https://www.kunaicho.go.jp/joko/outa.htmlもともと天皇制には平等の観念はないが、天皇五首・皇后三首はいかにも具合が悪く、発表を控えたのか、あるいは、現在の天皇夫妻の短歌への思い入れはそれほどでもなかったのか。宮内庁は、四月に広報室を新設し、情報発信の強化をはかるという。「短歌」が「情報」となり、強化され、利用されることのないようにと願う。(『ポトナム』2023年3月)

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スイセンの最初の一輪、3月9日。1988年、当地に転居した際、親類よりいただいたイチジクの苗、大きく成長したが、枯れ始めたので、昨年の夏、切ってもらった、その切り株である。

 

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2023年2月 5日 (日)

若い女性歌人の「仕事」の困難さと楽しさと

 読売新聞で「女が叫ぶみそひともじ」というシリーズが昨秋から始まっているのをネット上で知りました。「男が叫ぶみそひともじ」というシリーズが成り立つのか、と思うと複雑なものがあります。短歌雑誌でも「仕事の歌」といった<特集>は見かけ、さまざまな職種の人たちの短歌を知ることができて、興味深く読んできました。今回の読売のシリーズは、まず、比較的若い女性歌人を対象に、仕事の歌と仕事にまつわるエッセイを同時に載せているところが特色と言えるかもしれません。10人ほどの記事しか読んでいない段階での執筆でしたが、以下が『ポトナム』2月号の歌壇時評です。

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   昨年一〇月から読売新聞が「女が叫ぶみそひともじ」を連載しているのをネット上で知った。「若手女性歌人三五人が、働くことにまつわる短歌とエッセーをリレー形式で連載します。三一文字に詰めこまれた、さまざまな喜怒哀楽を感じてください。」と銘打って、すでに一〇人を数える。一九八〇~九〇年代生まれが対象だろうか。歌壇では知られているベテラン、結社で、あるいはツイッターなどで活躍している人などさまざまである。一〇人の作品は、私にとっては「今風」であっても共感できる作品が多く、各人のエッセーには、女性の働き方が変わってきたようで、決して変わってはいない労働環境のなかで、働き続ける困難と楽しさが見えてくる。

・風に逆らって面接 わたしがわたしでいるために必要なものはなんだろう
(初谷むい 一九九六年生 事務アルバイト)

働くことをやめていた日々もあった作者は「楽しいことが少しずつ増えて、今になった。働く、とはなんなんだろう、とよく思う。お金がもらえる、だけではたぶん、ないのだろう」の思いに至る。

・事務職をやっていますと言うときの事務は広場のようなあかるさ
(佐伯紺 一九九二年生 人材派遣会社員)

人材派遣会社で働きながら、転職活動中という複雑な環境にいる作者は「会社に仕事をしているとめちゃくちゃたくさん人間がいるなと思うから絶望しないでいられるのかもしれない」と語る。

・上司のLINE無視をする朝 その午後も許可もらったり判子もらったり
(竹中優子 大学職員)

職歴も長い作者は「私はよく働く辛さを短歌にする。いつも他人が羨ましく、自分は損をしている気がする。(中略)こんな私が最後にたどり着く場所はどこだろう。本当はただ単純に、誰かに必要とされたり必要としたりして生きていたい」と究極に分け入る。

・資料室に深くに潜ってゆく午後の非常灯から緑の光
(戸田響子 一九八一年生 事務員『未来』)

作者は働き続ける秘訣のように「働くのがしんどいなぁと思ったら、心が逃げていった方向を注意深く見る。おもちゃの指輪のような他愛ない、でもちょっとステキなものがそこに光っている」と。

・パソコンを抱えて帰るバッテリーの熱もいつしか温もりになる
(奥村知世 会社員『心の花』)

結婚し、子育てをしながら働いている作者は「先人が変えていってくれたからこそ、今、私は楽しく働くことができていると思うことも多々ある。そのような良い連鎖の一部になれるようにと願いながら、時々とても疲れてしまう日があっても、前を向いて仕事を続けていると思う」と先人を称える。

 その「先人」たちとは、私などの世代でいえば、働いて生計を立てていた女性歌人たちのつぎのような作品であった。

・俸給を小出しに父へ渡すことみづから憎むわが狭さなり
(富小路禎子『吹雪の舞』一九九三年刊、一九二六~二〇〇二)

・屈託なき若さはややに煩わしく共に働く地下の倉庫に
(三国玲子『蓮歩』一九七八年刊、一九二四~一九八七)

・クレー画集編むよろこびに往来せし妻恋坂も雪降りてゐむ
(三国玲子『鏡壁』一九八六年刊)

・明日の夜になさむ仕事を残しおく眠りゐる間に死ならざむため
(大西民子『野分の章』 一九七八年刊、一九二四~一九九四)

・牧草に種子まじりゐし矢車の咲きいでて六月となる
(石川不二子『牧歌』一九七六年、一九三三~二〇二〇)

(『ポトナム』20232月)

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