2019年4月 8日 (月)

「文京区春日・小石川=坂と文学をめぐって」に参加しました(2)伝通院から安藤坂・牛坂・金剛寺坂・今井坂・吹上坂・播磨坂を経て石川啄木終焉の地へ

 善光寺坂から伝通院へは新しい道ではなく旧道をのぼる。徳川家康の生母、於大のために建立、千姫の墓所もある。大河ドラマの世界にはあまり関心はないのだが、ここには、古泉千樫、佐藤春夫、柴田錬三郎らの墓地もある。かつては、一帯でもっとも見晴らしのよい高台であったというが、いまでは、林立するビルしか見えない。ようやくここで休憩をとることになって、ホッとする。お休み所に入ると、熱いお茶もセルフサービスで飲める。

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山門の左手には、淑徳学園がある
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著名人墓所案内、高畠達四郎。橋本明治の名もあった
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墓石の文字は釈迢空の筆になるという

 お休み所の裏側の広い窓からは正面に「簡野道明」(18651938)の墓石が見えた。「えッ、誰だっけ、見たことのある名前!」と思っていると、参加者の一人が「漢和辞典の人よ」で、思い出す。そう『字源』(1923年)の編者ではなかったか。差し入れの和菓子をごちそうになり、15分間の休憩もあっという間に過ぎた。清河八郎のお墓参りができてよかったと、参加者のお二人が感想を述べていたのが少し意外ではあった。

 伝通院前の広い道を進み、春日通りの交差点を渡った左手に、一葉の妹、樋口邦子(18741926)が夫妻で営んでいた礫川堂文具店があったところ、書籍も扱っていたという。関東大震災で家を失った幸田露伴に、先の善光寺坂の家を紹介したのが邦子だったらしい。青木玉の作品、ムクノキの前の「小石川の家」である。春日通りを渡った先が安藤坂で、その中ほどに、中島歌子(18411903)の「萩の舎跡」の立て札のみが立つ。ここに樋口一葉、田辺龍子(三宅花圃)も伊藤夏子も通ったはずだ。

 私たちは、安藤坂をくだって、牛天神(北野神社)に向かった。神社までの階段は急で、私にはかなりきつかったが、ここを牛坂と呼ぶらしい。のぼりきって本殿の右手には、中島歌子の歌碑がある。一息ついてくだった先には、かつて神田上水が流れていたところで、いまは暗渠となって、巻石通りとよばれている。

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牛天神参道の牛坂
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中島歌子歌碑「雪中竹」と題して
「ゆきのしたにねさしかためて若たけの生ひいてむとしの光ぞおもふ」
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 かつては、牛坂下のあたりまでが入江であったとも

ふたたび安藤坂に戻り、のぼって左折したところには、川口アパートメントが現れる。案内の大和田さんからは、川口松太郎・三益愛子と川口浩・野添ひとみなどという懐かしい名前が飛び出した。川口家の住居を兼ねたマンションであった。1964年、いわゆる高級マンションのはしりとして話題を呼び、多くの芸能人が住んでいたことでも有名だったのではないか。こんなところにあったのだ。外観はだいぶ、年季が入っているようにも見えた。反対側は永井荷風の生家跡で、荷風の父親がこのあたりに大きな屋敷を構えたというが、いまはマンションが立ち並ぶ。そして突き当たるのが、金剛寺坂で、漱石「それから」の代助が三千代のもとに通う坂だったとの説明を受けると、なんだか義務感で読んだ小説の一つではなかったかと思い出すのだった。

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川口・三益夫婦の子息たちは、何かと話題の多い人たちだったと記憶しているが、早世だったのでは。今はどんな芸能人が住んでいるのかな

 金剛寺坂を巻石通りへとくだって西に進むと右手に、金富小学校、本法寺がある。本法寺は夏目家の菩提寺という。漱石自身の墓は、雑司が谷墓地に立派なものが建てられていて、私も、一度お参りしたことがある。少し戻って、金富小学校の横の坂、今井坂をのぼると、「徳川慶喜公終焉屋敷跡」という表示に出会う。植栽が整えられた庭園に見えた。塀に沿って行くと、「国際仏教学大学院大学」の門があるのだが、初めて聞く名前だな、と思って帰宅後調べてみると、霊友会の研究所が基礎となって1996年設立された大学院のみの大学で、5学年20名の定員だそうで、2010年にこの地に移転したという、日本で一番小さい大学か?キャンパス内になるのか、慶喜の時代の大イチョウだけは健在のようだった。

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文京区が大幅な町名変更を開始したのは、1964年からだったので、私はすでに、大学を卒業、生活圏は、このエリアからは離れている。この案内板の最後にはつぎの短歌が記されていた。
「この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶふかくなりたり」(釈迢空)
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本法寺の桜が見事であった。この本堂に向かって左に、夏目漱石が1888年1月、墓参の折に母を偲んで詠んだとされる句の碑がある。
「梅の花 不肖なれども 梅の花」
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金富小学校脇の今井坂を上ると左手に「国際仏教学大学院大学」の門があり、そこから見えるイチョウ、「徳川慶喜公屋敷大銀杏」と記された石柱が
右端に見える

 さらに、小日向台の住宅街を抜けて春日通りに出ると、同心町、竹早町の旧町名表示版に出会う。私には、新しい中学校の印象があるのだが、なんと開設は1960年だった茗台中学校、その角を左に曲がると、突然、長い石段の坂を見下ろすことになる。これが庚申坂である。この谷を下った先が切支丹坂ということになるらしい。私たちは引き返し、信号を渡って、吹上坂をくだることになる。

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この庚申坂をくだって、地下鉄のガードを越えた先に切支丹屋敷跡がある。
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急な庚申坂と緩いのぼりの切支丹坂なのだが、庚申坂が切支丹坂と間違われることがあるといい、つぎの短歌も、この庚申坂を詠んだとされる。
「とぼとぼと老宣教師ののぼりくる春の暮れがたの切支丹坂」(金子薫園)

  途中、マンションの横の細い道を入って行く一行の後に続くと、石垣とマンションの間に細い枯山水のような庭の奥まったところに「極楽水跡」があった。極楽水とは、伝通院開祖の上人が、引き出した名水の泉であったということで、田山花袋(18721930)の「蒲団」にも登場しているというが、そんな記憶はもちろんない。いまは、小石川タワーマンションの敷地の一部の細い緑地帯となって残っている。

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奥に井戸が見えるが、現在は、水が湧き出ているのだろうか。こうした形で残されていることに、ほっとした気持ちになった。

 

 緩い坂をさらにくだれば、正面の街並みの背後に広がる緑は、小石川植物園で、交差するのは千川通り。右の角には、共同印刷があるはずである。現在は、白い工事シートで全面覆われ、改修中で、社屋の姿はみえない。千川通りは、もともと千川、小石川とも呼ばれるどぶ川であって、洪水も起こっていたらしいが、1934年、暗渠となり千川通りになった。千川の上流は、池袋の立教大学の北側に流れる谷端川で、私の子供のころは、そのあたりのことを長崎とか千川と呼んでいたことを思い出す。こちらの千川が暗渠となる前の小さな工場街を舞台にしたのが「太陽のない街」(1929)で、作者の徳永直(18991958)は、共同印刷の植字工であった。

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改修中の共同印刷社屋、正面の茶色い看板には、大きく「吹上坂」とある。 
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 かつて、小石川には河童が出るなどといわれた寂しいところで、この坂下には「播磨たんぼ」が広がっていた。大正時代はその面影を残していて、つぎのような短歌も読まれていた。
「雑然と鷺は群れつつおのがじしあなやるせなきすがたなりけり」
(古泉千樫)

 時代は下って、1960年代の大学のころ、友人からは、よく氷川下セツルメントへの誘いを受けていたのだが、当時の私の関心の向くところではなかった。今から思えば、少しでも参加しておくべきだったかなとも。今回の散歩コースからは外れるが、植物園の西側に、簸川(ひかわ)神社とその脇の氷川坂の下には、氷川下セツルメント発祥の地の記念碑が建っているそうだ。また茗荷谷駅前の春日通りを渡った直ぐ先に、「大橋」の表札のある大きな門構えのお屋敷があった。まったく人の出入りのない、開かずの門だったような記憶があるが、博文館創業の大橋佐平家一族の住まいだったのだろうか。今回ちょっと足を延ばして、確かめておけばよかったとも思った。

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播磨坂、桜並木の遊歩道、週末なだけに、かなりの賑わいであった。

 文学散歩は、いよいよ最終盤に入り、つぎは、週末の花見客でにぎわう播磨坂の桜並木の遊歩道を、ふたたび春日通りに向かってのぼる、その中ほどを右に折れると、マンションとマンションの間に、石川啄木の歌碑があり、その横にはガラス張りの顕彰室があった。ここが、石川啄木終焉の地であったのだ。歩き始めてすでに3時間余、私の足はすでに疲労の極度に達していた。折も折、大和田さんから、写真撮りましょうかと声をかけていただいたので、啄木の歌碑の前で撮った一枚は、なんとも情けない疲れ切った姿であった。さらに進むと左手に小石川図書館があり、その前には「団平坂」の表示板があり、道の向かいは竹早公園であった。

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石川啄木終焉の地
啄木は、1911年8月、本郷の喜の床から、この地の借家に移り住んだが、翌年1912年(明治45年)4月13日26歳の生涯を閉じる。碑面には晩年の二首が、原稿用紙一枚の草稿そのままに写し取られている。
「呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。 凩よりもさびしきその音!」
「眼閉づれど 心にうかぶ何もなし。さびしくもまた眼開けるかを」
(啄木)

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          ガラス張りの、広くはない顕彰室は、歌碑と共に、数年前に市民有志により建てられたという、新しいものである。

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  小石川図書館の前に建てられた、この案内板にも、啄木の最晩年の直筆ノートから一首が記されていた。
「椽先にまくら出させて、ひさしぶりに、ゆふべの空に親しめるかな」(啄木)

迷っていた二次会だったが、どこか座りたい、休みたい一心で、参加することにして、茗荷谷駅前の路地を入った、たしか「和来路」という店ではなかったか、十人ほどで、にぎやかにおしゃべりをしているうちに、何とか帰途につく気力をとりもどすことができた。早めに失礼して、7時半過ぎ、家の近くのバス停で、初めて傘を開いた。降られずによかった、この日の万歩計は16100歩であった。

  ふたたび、小石川の坂の名前のおさらい・・・。

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2019年4月 3日 (水)

「文京区春日・小石川=坂と文学をめぐって」に参加しました(1)富坂から堀坂・六角坂、善光寺坂へ  

 新元号発表、代替わりの迫る中ながら、3月30日、日本社会文学会が開催する「文学散歩」に初めて参加した。今回は、「春日・小石川」ということで、何とか参加したいと思っていた。というのは、池袋で育った私は、地元の池袋第五小学校(今は廃校・統合され池袋小学校)の卒業後、中学校から大学は、文京区竹早町、大塚町、大塚窪町(旧町名)にある学校に通っていたこともあって、10年間もウロウロしていたエリアだったのである。池袋東口始発の都電17番線には、伝通院行、春日町行、数寄屋橋行があって、中学校は、停留所の同心町で下車していた。高校・大学は丸ノ内線の茗荷谷下車で、余裕をもって登校することができなかった、当時の私は、茗荷谷駅から教室まで、いつも駆け足のギリギリセーフのような日々だった。それにしても、いま思えば、あまりにも周辺のことを知らな過ぎたし、無関心でもあったのだ。その後、何かのついでがあれば、すっかり変貌してしまった学校近辺を歩く程度のことしかしていなかった。

 週末の午後、後楽園駅の礫川公園前に集合、総勢15人、案内は大和田茂さん。参加者がそろうまでの間、近くで「天皇制を終わりにさせましょう」とビラを配っている人がいた。その日は、近くの文京区民センターで、「終わりにしよう天皇制」ネットワーク、「おわてんねっと」の集会が開かれる。実は、そちらの集会も参加してみたかったのだが、時間がまるでかぶっているのであきらめたのだった。

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後楽園駅頭で配布していたチラシ

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大和田さんが苦労しての散歩コース地図

 

 礫川(れきせん)公園は、文京区シビックホールや区民センターでの催しの際、横を通り過ぎるだけだった。サトーハチローの「小さい秋みつけた」の碑とハゼノキ、幸田文家庭から移植されたハンカチの木、はじめて見て回った。サトーハチローは向ヶ丘弥生町に住んでいて、そこに記念館があったそうだが、閉館の折、庭から移植したのが、童謡にも登場する、このハゼノキだったらしい。公園には、立体的な段状の噴水があり、壁泉というそうだが、水は流れていなかった。振り返れば、左手の空には、ジェットコースターが轟音と共にめぐってくる。ここからが西富坂というところには、春日局の像があったが、いかにも新しい。といっても、1989年の大河ドラマ「春日局」放映後に建てられたらしい。彼女の辞世「西に入る月を誘い法を得て今日ぞ火宅をのがれるかな」の歌碑もある。この辺一帯は、水戸藩の屋敷だったのを、庭園の後楽園のみを残し、1875年陸軍の東京砲兵工廠となったが、1933年小倉へ移転、跡地を後楽園スタジアムに売却している。後で知ったのだがすぐ近くに、東京都戦没者霊苑があったのだが、知らずに、お参りはできなかったのが残念だった。

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手前がハゼノキ、奥がハンカチの木、ビルの上には、後楽園遊園地のジェットコースターが見える

富坂には進まず、春日通りを渡って、源覚寺=こんにゃく閻魔さんで有名な浄土宗の寺に向かう。眼病の老女が好物のこんにゃくを断って供え、祈願し続けたところ、夢に現れた閻魔王みずからが片目を差し出して治してくれた、というのがいわれらしい。閻魔王の片目がないのが、お堂の中が暗すぎてよくわからなかったが・・・。一葉の「にごりえ」にも登場するという閻魔様の縁日は今でも続いているらしい。山門の正面の通りを300mほど行くと一葉の終焉の地丸山福山町だという。「にごりえ」はもう一度読みなさねばならないが、いまの私によみがえるのは、今井正監督のオムニバス映画『にごりえ』(1953年)の「にごりえ」である。「酌婦」のお力の淡島千景と山村聡、お力へ入れあげ、身を持ち崩してしまったが、思いを断ちきれない源七の宮口精二と妻の杉村春子。高校生の頃、どこかの名画座で見た記憶がある。暗い画面の中の宮口・杉村のセリフを聞きとるのに精一杯だったような。

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閻魔王に供えられたこんにゃくの山

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ここが急な堀坂、 若い人にもややきつそうな、まして・・・

 源覚寺を裏道から少し歩いたところに現れたのは、急な堀坂だった。通りの片側は、大きなマンションが建築中であった。上りつめた丁字路の左手には、島木赤彦(18761926)が下宿し、『アララギ』の編集所にもなっていた「いろは館」跡の碑があった。右手に少し進むと、「三浦梧楼将軍終焉の地」という碑があった。三浦梧楼(18471926)といえば、山形有朋の宿敵、陸軍中将から政界入りをして、枢密院顧問になっている。朝鮮の公使時代、1895108日閔妃暗殺を企てたとされる、あの人で、1962年、富坂二丁目町内会名の解説によれば「政界軍部の御意見番として隠然たる勢力」を持ち、町内会設立にも尽力、「将軍の偉徳を偲んで」建てたと記している。こうした評価だけが定着してしまうことには、危惧を感じるのだった。

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堀坂の戸建ての家の壁にはこんなポスターが張られていた

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いろは館跡の、小倉遊亀の筆になる小さな碑。右手にはいろは館という小さなマンションが建つ 

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「三浦梧楼卿終焉の地」とある


小石川2丁目となった、その緩い坂、六角坂をさらに下ると、左手には、「前川」の表札のある大邸宅の塀が続き、下った先の右の角には、立花隆の仕事部屋兼書庫という円筒のような猫ビルがあった。

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六角坂を下りきった角に立つ猫ビル 

くねった道沿いに進めば、そこは善光寺坂と呼ばれる坂で、右手、中ほどには伝通院の塔頭の一つである善光寺があり、さらに進むと、慈眼寺、沢蔵司稲荷が続き、上り切ったところには、道の中央に大樹がそびえている。その手前には幸田露伴の旧邸があり、次女の幸田文が住み、現在はその娘の青木玉が住んでいるとのことだが、背の高い木戸の脇には「幸田・青木」の表札が見えた。

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慈眼寺の芭蕉の句碑「一しぐれ 礫や降って 小石川」

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沢蔵司稲荷の狐のねぐらだった「お穴」をのぞく

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善光寺坂を上りきったところの道の真ん中に立つのは、ムクノキ、沢蔵司(たくそうず)の魂が宿ているといわれている。角の石塀に囲まれた家が幸田露伴の旧邸、戦後建て直しているが、次女の幸田文とその娘の青木玉が住む。

 

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2019年2月25日 (月)

在位30年記念式典にやはり登場した、天皇・皇后の短歌

 

  

きょう224日の政府主催の在位30年記念式典は、NHKだけが、14時から1時間の予定でフルの中継をしていた。もう一度録画で見るつもりだが、とりあえずの感想を述べておきたい。どこで少し狂ったのか、式典は、10分近く延びて、NHK15時から5分間のニュースが1510分から始まった。
 入場と同じく、安倍首相が先導して退場する天皇夫妻は、舞台に整列している祝辞を述べた人たちや演奏をした人たち、ひとり一人に言葉をかけ、挨拶をしているようだった。途中で、招待客1100人ともいう会場の人々に対しても、天皇は、ながらく手を振る場面もあって、首相と菅官房長官は、夫妻の前後で、少し戸惑っているようにも見えた。想定外だったのかもしれない。

 最初に画面で示された式次第のなかに、「御製、御歌の朗読」というのがあった。沖縄出身の歌手が、天皇の「琉歌」に皇后が作曲した「歌声の響」を歌うということは、かなり前からマス・メディアで喧伝されていた。「御製・御歌」を波乃久里子が朗読することを私は知らなかったが、 朗読されたのは、二首とも、2003年歌会始の「御題」の「町」として発表された短歌だった。選歌は天皇夫妻の希望であったのだろうか。

・我が国の旅重ねきて思ふかな年経るごとに町はととのふ
(天皇)

・ひと時の幸分かつがに人びとの佇むゆふべ町に花降る
(皇后)

 つぎに、登場した、上記の「歌声の響」は、天皇夫妻が皇太子時代1975年、初めての沖縄訪問時に、屋我地島(名護市)の国立療養所沖縄愛楽園を訪れ、その別れ際に、ハンセン病の入園者たちから、「だんじょかれよし」という地元の船出歌で見送られたことに、心打たれた夫妻、のちに天皇が琉歌を作り、皇后が曲を付けたものを愛楽園に送ったという、経緯を持つ楽曲だった。歌い手が三浦大知、ピアノ千住明、バイオリン千住真理子であった。その琉歌というのは、沖縄に伝わる八・八・八・六という三十音の歌謡であり、式典では、繰り返しなどを取り入れて歌われていた。

だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔 目にど残る

だんじよかれよしの歌や湧上がたん ゆうな咲きゆる島 肝に残て

 この琉歌の舞台となっている沖縄愛楽園は、その前身は、1938年に国策であったハンセン病者の強制隔離のために開設された国立国頭療養所であり、1972年沖縄の本土復帰とともに厚生省に移管となり国立療養所沖縄愛楽園となった。1996年、らい予防法が廃止された後、今日に至るまで、元患者の方々のさまざまな差別や苦痛が続いている現実もある中で、昨年、沖縄愛楽園は開設80年を迎え、『沖縄タイムス』は、社説で、次のように述べている。

  「愛楽園は1938年11月10日開園した。80年の間に延べ3904人が入所し、2100人が退園、1372人が園で亡くなった。現在も142人の入所者が暮らす。
 入所者の平均年齢は84歳。(中略) 元患者たちの、家族や親族、社会から受けた激烈な差別の記憶は鮮明だ。実名を明かせないまま生涯を終えた人は数知れず、長い年月を経て今ようやく語り始めた人たちもいることを思えば、国の誤った政策の影響の甚大さ、根深さを知る。」

「社説」の全文は、以下を参照ください。

◇沖縄タイムス社説
[沖縄愛楽園80年]謝罪・反省に終わりなし(2018122日)
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/353190

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  いわば、政府主催の天皇の「お祝いごと」としての式典で、こうした入園者たちとの交流というエピソードがことさら、一つの物語、美談のように流布されることには、どうしても違和感というか、やりきれなさがともなってしまう。そして、上記社説は、「隔離政策の根拠となった「らい予防法」が施行(96年に廃止)されて1世紀以上たつが、元患者や家族の人権回復は道半ばだ。国策にならい、ハンセン病への差別と偏見を助長してきたメディアの責任も重い。過ちへの謝罪と反省に終わりはない。」と結んでいる。
 メディアの責任とともに、国策に積極的にかかわって協力していた貞明皇后はじめ皇室の責任も決して軽くはないはずである。この件については、以下の私のブログを参照いただければと思う。

◇冬の沖縄、二つの目的をもって~難しいと逃げてはいけないこと
(1)屋我地島、愛楽園を訪ねる(2017214日)
 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-eeb9.html

◇皇室とハンセン病と―名護市屋我地島の「御歌碑」(201822日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/02/post-abe5.html

 さらに、式典最後の天皇の「お言葉」では、その結びの部分で、皇后の次の歌を紹介していた。

  「平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇(りょうあん)の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。
しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。」

 ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ(皇后)

*皇后の歌集『瀬音』(大東出版社 1997年)の「平成二年」の最後の 一首として収録されている。

 しかし、この結びの部分は、「お言葉」の中ほどの段落で、次のように述べている個所と共通する一面を持っていると思えたのである。全国各地からの寄せられた言葉を「皇室と共に平和な日本を・・・」ととらえ、下記のように「務めをはたしてこられたのは、この国の持つ民度のお陰」と述べている点であった。こんなとき、「民度」なんていう言葉を使うのかなあ、というのが正直な気持ちだった。「国民に寄り添う」という言葉も実体がとらえにくいなか、それにしても「寄り添いながら」「民度」を見極められているのかなとも。

  「これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。」
 当日にと思って、書き始めたのだが、日付が変わってしまった。きのうは、沖縄県民投票の日であったのだ。

 

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2019年2月23日 (土)

青葉の森公園は梅の見ごろでした

 2月21日、千葉市ハーモニープラザでのハーモニー歌会は、体調を崩して欠席の方々がいらして、少し寂しかったのですが、終了後、皆で近くの青葉の森公園に繰り出しました。まさに梅の見ごろで、30種類以上約1000本の梅は、久しぶりのことでした。ちょうど、この季節、吟行と称して、公園のあずまやで歌会を開いたことを思い出しました。

 

 北口の駐車場から入ると、梅園があり、さらに進めば原っぱに梅林がひろがります。「白加賀」「おもいのまま」「鶯宿」などなど優雅な品種名の札をたよりに楽しみました。

 

 青葉の森は、もともと農林水産省の畜産試験場の跡地で、1917年設立され、畜産技術研究発祥の地と言われているそうです。かつては牛馬が放牧されていたとのこと、近くに住むHさんの話でした。試験場が筑波学園都市に移って、1980年代の後半から、グランドや庭園、さまざまな施設が徐々に整備されてきたといいます。
 2002年、公園に近い男女共同参画センターの短歌講座の参加者らによって発足した、この歌会は、私にとっても、毎月楽しみな歌会になっています。ガラケーでの撮影だったのですが・・・。

20190221162523_2 「大盃」のトンネルが続く

2019022116263 「玉牡丹」、名の通り、こんもりとした花がかわいらしい

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 河津の桜はすでに満開に近いとのテレビ映像も流れていたが、千葉では、まだ
 ・・・

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2019年2月 6日 (水)

1月16日「歌会始」の天皇の短歌

また、「歌会始」の話となってしまう。思いがけず、旧著『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001)が「週刊金曜日」に紹介された記事を当ブログでお知らせしたばかり。①  その時の執筆者の太田昌国さんが、以下のような論考を執筆されているのを、ネット上で知った。② そこでは、岡井隆の歌会始選者就任時の衝撃や今年の歌会始の天皇の「贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」にも言及している。「歌会始」のテレビ中継や新聞記事を読んでの感想はさまざまだと思うが、少しでも批判的な要素のある内容のものは、なかなか目に触れにくい。関心のある方はぜひお読みください。後半では、短歌と天皇制をテーマにした旧拙著3冊にも触れている。

 

 2019年、歌会始は終わったが~召人は二人?

(2019 1 17日)

 

②太田昌国のみたび夢は夜ひらく[104] 歌会始と天皇が詠む歌

(201924)

『反天皇制運動 Alert 』第32号(通巻414号、201925日発行)掲載

http://www.jca.apc.org/gendai_blog/wordpress/?p=836

 

 今年の天皇の歌は、阪神淡路大震災の10年後の追悼式典で渡された、亡くなった少女の自宅跡で花を開いたひまわりの種を詠んだものである、というエピソードが、復興の象徴として、テレビ中継はじめ、当日116日、翌日の117日のテレビや新聞で繰り返し報じられた。大震災は、まさに24年前の117日の早朝のことだったのである。これは、たんに偶然のこととは思えず、限りなく意図的なものに、私には思えたのである。天皇、選者、宮内庁の意向などもろもろが勘案、忖度が働いていたのではないか、と。

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2019年2月 5日 (火)

なぜ元号にこだわるのか~使わないワケとは

 私が会員になっている『ポトナム』の2月号に発表した「短歌時評」です。もともと表題はついていませんが、上記のように付けました。何度でも同じことを言っているような気がしますが、新しいファクトにもとづいて、言い続けるしかないかとも思っています。

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 私の周辺で、「いまの天皇っていいひとだよね」との言について、異を唱える人は少ない。短歌に関心のある人たちの間では「皇后のうたはさすがだね」と盛り上がったりする。昨年末、誕生日会見での「大嘗祭は身の丈で」という発言が報じられると「秋篠宮を見直した」との声も聞かれた。

 歌壇の現況を知る手立てとも思い、最新のカドカワムック『短歌年鑑』①と『短歌研究』一二月号の『短歌年鑑』②の二冊を通覧した。やはりというか、「平成」の文字が目立った。①には「巻頭言・『平成』に持続する前衛意識」(篠弘)、「回顧と展望・平成三十年を振り返る」(坂井修一)と、「平成」の文字こそないが「特別企画・歌会始の三十年」(岡野弘彦・篠弘・今野寿美)の記事がある。「編集後記」には、「平成最後の『短歌年鑑』ですが、五月に改元が予定されているため〈二〇一九年版〉という西暦表記になっています」とのことわりの一文が入っていた。②には、「座談会・二〇一八年歌壇展望 平成の『終わりの前』になにが起こったか。」(佐佐木幸綱・三枝昂之・栗木京子・小島ゆかり・穂村弘)、「歌人アンケート『平成の名歌』」などが目を引く。「編集後記」には「一年を通じて、特集のタイトルに平成という言葉を何度も使いましたが、その都度、“タイムカプセルの機能”を意識しておりました」とある。さらに『短歌研究』一月号の予告には、総力特集「平成の大御歌と御歌」のもと、鑑賞座談会(芳賀徹・園池公毅・寺井龍哉・今野寿美)と特別寄稿(岡野弘彦・春日真木子・加賀乙彦・篠弘)があった。三月には、現代歌人協会主催「現代短歌フェステイバル イン京都(平成時代の短歌を振り返る)」が開催されるという広告も目に入った。『短歌年鑑』①も、西暦・元号併記の時代も長く、西暦だけの時代もあったが、平成二年以降は、たしかに元号表示のみとなっていた。②では、西暦と元号の併記が続く。

 元号法は一九七九年六月に成立・施行されたが、元号は皇位が継承された場合に限り、政府が決める、という主旨の短い条文でしかない。国際化やグローバル化が進む、このインターネト社会において、各省庁のデータは西暦に統一、郵便切手や金融機関の一部でも西暦表示が進み、運転免許証も西暦表示に切り替わるなど、さまざまな場面で、その利便性から西暦表示に移行し始めている。

 昨年末の『朝日新聞』(一二月七日)に、代表的な文芸誌『すばる』(集英社)、『新潮』(新潮社)、『文學界』(文藝春秋)、『群像』(講談社)の一月号の広告が並んでいた。すべて「20191月(号)」の表示であった。なぜ、私が、これほどまでに元号にこだわるのかと言えば、そもそも、天皇という一個人の死や健康状態による改元が時代区分の指標になることへの疑念であった。

 現代にあって、短歌と天皇との深い関係を標榜し、短歌史を元号で括る意味がどれほどあるのか。かつては「明治短歌史」「大正短歌史」「昭和短歌史」という書物、『昭和萬葉集』という大部なアンソロジーも編まれた。しかし、この時代に、短歌と天皇との関係をより深めたいと望む歌人たちに「ワケ」があるとすれば、イデオロギーというより、短歌メディアと歌人たちによる、いわば一種のもたれあいのもと、「平成最後」を利用しているのではないかという思いにも駆られる。五月以降は、歌壇でも改元特集が組まれるかもしれない。天皇や皇室への親密性が、その歌人の評価にもつながるという時代が続くかもしれない。「平成を振り返る」というならば、象徴、文化、伝統、お人柄などという意匠やオブラートに包まれて存在し続ける天皇という制度を考えるよいチャンスにできればと思う。

(『ポトナム』2019年2月)

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2019年1月28日 (月)

本の始末、資料の不始末~なぜ過去を捨てきれないのか?!

 

好きな言葉ではないが、これは「終活」の一つということになるのだろう。私が利用している生協の生活クラブで、古書の回収を年に2回ほど行っている。NPO法人を通して障がい者施設の支援に充てるという。アマゾンなどを利用して換金するそうだ。あまり傷んだものは出せない。前にも回収に出したことはあるが、今回、思い切って少しまとめて、出そうと準備をしている。どちらかといえば、ポピュラーな読み物、文庫・新書ものが多くなる。

いうほどの、蔵書ではないけれど、短歌などにかかわって半世紀も過ぎると、古本屋さんには嫌われる歌集は増えてゆく。歌集や歌人評伝・短歌史関係書も扱い、販売目録も定期的にメールで届く古書店には、買い取ってもらえそうで、仕訳している。これから、もしかしたら、もう一度読まなければならない、あるいは読んでおきたいもの、個人的に、まだ、どうしても手元に置いておきたいものは取り置いて、他は、欲しいと思う人に届くかもしれないという、かすかな願いを込めて、手離す方の段ボールに入れてゆく。

天皇制に関する本は、資料的な価値のあるものは、まだ手離せない。女性史、沖縄史、メディア史、憲法関係も同様である。図書館勤めが長かったこともあり、また大きな図書館が近くにないこともあって、必要に迫られて求めた各種の辞典・事典類や年表類、資料集などのレファレンスブックが捨てられない。厚くて重い図書館の雑誌目録などはインターネットの普及で、もはや不要になったのはありがたい。

 古い旅行書は捨てるにしても、若いとき、結構買っていた文学散歩や史跡や西洋館巡り、路地裏散歩のような案内書は、もう利用しないだろう。それに、かつては、気軽に買っていた美術展のカタログ、博物館・文学館展示のカタログも、思い出はあるが、手離す方が多い。画集となると、数は少ないが、まだ持ち続けたい。「過去を引きずる?過去を捨てきれないオンナ!」であることは否定できない。

資料収集にかけては、第一人者であり、私も戦時下の歌集など譲っていただいたこともある櫻本富雄さんや名古屋の短大図書館時代、歌人であり、教授でいらした熊谷武至さんのお二人が、期せずして、本当に読んでくれる人、使ってくれる人に届けるには、やはり古書店に返すのが本筋だという趣旨のことをおっしゃっていたことを思い出す。

それにつけても、私の大学図書館勤めの時代、退職される教授、大学と縁のあるという「蔵書家」やその遺族から、千単位の蔵書寄贈の話が持ち込まれることが何度かあった。そんなときは、書架不足や人員不足を理由に丁寧にお断りするか、それができない場合は、いわゆる「〇〇文庫」として別置するのではなく、一般の図書と同様の保管・利用に供すること、すでに所蔵している資料、副本や史料価値の判断、処分を任せてもらい、整理も少し遅れるという条件で受け入れていた。いささか不遜な姿勢だったかもしれないが、小規模図書館では、致し方ない対応だと思っている。

一昨年だったか、京都市が寄贈を受けた桑原武夫蔵書を廃棄したというニュースが報じられたとき、さもありなんとも思ったが、寄贈を受ける側の毅然とした態度も必要で、あいまいにしていたのだろう。「〇〇文庫」、特殊コレクションとして、個人名を付したい願望のある向きは、個人の記念館や資料館などを設立した方がよい。これも維持管理が難しいので、遺族や後継者はよほどの覚悟が必要となる。

比較的財政的な基盤がしっかりしている国公立の図書館や文学館・資料館などは、予算と人材を確保し、将来を見据えた収集・保管・利用の計画が必要なはずだ。なのに、全国の自治体において、指定管理者制度導入に伴い、図書館までがツタヤなどによる民営化が広まりつつある傾向には疑問が多い。

一口に資料といっても、その形態はさまざまで、漫画、絵本・紙芝居、文書や書簡、和装本、巻物、レコード・楽譜、CD、演劇や映画の台本などというのもある。基本的には、国立図書館が網羅的に収集・保管・利用のセンターとなるべきで、資料によっては、専門的な知識や技術が欠かせないので、役割分担をする必要もあるのかもしれない。ユニークな雑誌コレクションとその索引づくりを誇る「大宅壮一文庫」だが、財政的危機にさらされているという。公的な支援があってしかるべきだろ。

 私の場合、短歌雑誌類も利用しようと思って、気になる特集や関心のある歌人の特集の号だけが並ぶ。わずかながら、自分の短歌やエッセイの掲載号もコピーは取ってあるものの捨てがたい。どれかの雑誌に毎号のように登場する人気の歌人たちはどうしているのだろう、などと余計な心配もする。

 それに私には、長らくかかわってきたもう一つのテーマでもある、地域の問題がある。自治会、地域の開発・街づくり、県政・市政に関する情報公開文書や関係資料、これはほとんど、切り抜きや文書なので、冊子のファイルで保管しているが、かさばるので、このごろは店でもらう紙の手提げ袋や大きな茶封筒を仕訳に再利用している。「自治会の法人化」「自治会と寄付・社協・日赤・消防団」「順天堂大学誘致問題」「航空機騒音」・・・。それに、参加してきた市民集会や活動の資料やチラシなども結構な量になる。それらが、押し入れや物置にひしめいている。そんなわけで、近頃は、必要なときに、必要な資料が出て来ないこともたびたびで、きのう置き換えた資料を、ない、ないと探すこともある。

 それにしても、学生時代使ったはずの法律の本は、引っ越しの折に始末?あまり勉強しなかっただけに未練がなかったのかもしれない。憲法のコンメンタールと判例百選、我妻民法、法律学全集の幾冊かだけが申し訳のように残されている。

 「終活」といい、「生前整理」といい、本の始末だけでも楽ではない。昔を思い出しては、作業の手が止まる。棚から降ろして、埃をぬぐう。今日は、のども、腰も痛めたらしく、早寝を決めた。

ああ、もう生前整理、遺品整理業者に任せるしかないか。

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前回の記事で、昨年受けたインタビューのことを書いたが、今回の作業中に古いファイルの中から、赤茶けた新聞が出てきた。ああ、そういえば、『現代短歌と天皇制』を出版した当時、『図書新聞』でこんなインタビューを受けていたのだったと、あらためて読み始めたのだった。なんと3頁にもわたっての収録で、立派な見出しと、各頁には、発言の一部分が大きく見出しのようになっていた。聞き手の米路さんと佐藤さんにリードされて、何とかおしゃべりができた記憶がよみがえった。斎藤茂吉と市川房枝の写真には、「え?」と思ったが、確かに言及している。しかし宇野浩二と広津和郎の写真はなぜ?記事の発言には登場してこないが、どこかで二人に話が及んだのだろうか。

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今、読み直してみても、その後の拙著での「はしがき」や「あとがき」で書いていることの繰り返しのようにも思えた。ほとんど同じことしか言ってないではないか。新著の斎藤史の本に関しての感想を発信されたツイートの一つに、「著者の天皇制批判は、念仏のようだ」とも評された。「うーん」、肝に銘じたい。

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2019年1月18日 (金)

昨年は、二つのインタビューを受けて~

 昨年末、短歌誌『合歓』の発行人である久々湊盈子さんのインタビューを受けた。『合歓』では、毎号、歌人などのインタビュー記事があって、その人選びも中身も、聞き手のリードもあって、楽しく読ませていただいていた。今回、思いがけず、そのオファーを受けたのだ。久々湊さんとお話するようになったのは比較的最近で、20161月「短歌サロン九条」でレポートをと、声をかけてくださったのも彼女だった。『心の花』、『個性』を経て、1992年から『合歓』を発行されている。歯切れのいい、骨太の作品や評論を発信し続けていて、大変、行動的な歌人でもあり、「酒豪」とも漏れ聞いている。

 天皇の代替わりが迫る「今でしょ!」とばかりに、短歌と天皇制についても話し合えたらとの趣旨は、ありがたいことだった。私も慣れないことなのでかなり緊張していたかもしれない。当方の住まいの近くのホテルのロビーでお会いした。

 気っ風のよさと細かい心遣いを併せ持つ話術にリードされて、終戦はどこでどんな風に迎えたかに始まり、いわば生い立ちから、短歌を始めた動機なども尋ねられた。表題にもあるように「短歌と天皇制と憲法と」に及び、沖縄の旅から帰ってきたばかりという久々湊さんからは、沖縄の現状についても貴重な話を伺えたのが、有意義であった。終了後は駅前の居酒屋で、インタビューにも同席された歌人のKさんと3人で、私もいささか盛り上がったのだった。

 数日前に届いた、そのインタビュー記事が載った『合歓』83号(20191月)は、大きな図書館や千葉県内の大きな図書館では読めると思う。そこでお会いできたらうれしいのだが。

◆ 「インタビュー・内野光子さんに聞くー短歌と天皇制と憲法と」(聞き手:久々湊盈子)『合歓』83号 20191


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なお、昨年の初めの『法と民主主義』編集の弁護士の佐藤むつみさんとのお話も楽しかったが、その時の様子は、下の当ブログ記事を参照ください。

 ゴールデンウィークのさなかですが~(201854日)

「私の歌に連なる他者へ」(聞き手:佐藤むつみ、「あなたとランチを」NO.35)  『法と民主主義』(日本民主法律家協会) 20184 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/05/post-d6fe.html

 

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2019年1月17日 (木)

2019年、歌会始は終わったが~召人は二人?

 

 今年の歌会始の中継は、忘れずに見た。今の天皇夫妻にとっては最後の歌会始ということらしい。天皇の短歌ばかりが、メデイアでは繰り返されていた。

 

 私が、とくに印象に残ったことといえば以下の通りだ。

 

平成最後の歌会始といっても、格別応募歌数が多くなく、二万首を少し超えた程度だった。入選者の一番の若手は16歳の女子高校生で、最年長者は、30代から応募を続けていたという89歳の男性だった。203040代が一人もおらず16歳から 58歳にとぶ。世代別の歌会始、短歌への関心の在りようを示していよう。中・高校生については、歌会始応募に熱心な学校、教師の指導が左右しているのかもしれない。

 

 また、今年は、選者の最年長者篠弘の作品が披講されたが、その間、杖をついて立っていたのがつらそうでもあった。今年の召人は俳人鷹羽狩行と栗木京子の二人であったらしいのだが、鷹羽の作品が披講されたが、栗木や他の選者の名前の紹介もなかった。そして不思議だったのは、手元の三紙、翌日17日の朝刊、朝日、毎日、東京新聞にも召人の栗木の名前も作品も掲載されていない。たしかに、栗木は、入選者と選者の間の席に着いていて、その姿は、なんども映されていた。テレビでは、陪聴者の席でもないし、どういう立場なのかわからなかったのだが、ネットで検索してみると、jijicom(時事通信)の記事には、つぎのように掲載されていた。

 

 【召人】
 鷹羽狩行さん
 ひと雨の降りたるのちに風出でて一色(いつしよく)に光る並木通りは
 栗木京子さん
 言葉には羽あり羽の根元には光のありと思ひつつ語る

 

 ということは、来年の選者は、篠弘に替わって、栗木京子が就く前触れかな、などとも。女性選者が今野寿美と二人時代が再来するかもしれないなど、予想屋みたいなことは、はしたないと思いつつも・・・。

 それにしても、これから代替わりまでの半年は、歌壇も何かとざわつくかもしれない。

 

 そんなことを考えていたとき、旧著の出版元、名古屋の風媒社からのメールで、『週刊金曜日』天皇制特集(2019111日)で『現代短歌と天皇制』(2001年)が紹介されているのを知った。旧著がこうした形で読まれ、推薦されていることを知って、正直、ありがたかった。

20191img010_1_2           ↑ 最下段⑥に数行の言及がある。                     
                      

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2019年1月11日 (金)

天皇の短歌の登場は何を意味するのか

「ヘイセイ」「平成」とメディアは大騒ぎするけれど、天皇の代替わりで何が変わるのだろう。元号が変わったからと言って、日本国憲法下の世の中、変わるものがあるとしたら、逆におそろしい気がする。 

たった二年間ながら、私は、新卒で、学習院大学の職員として勤務したことがある。そんなこともあって、学習院同窓会「桜友会報」がいまだに送られてくる。最新号113号の(2018年12月)の特集は「[平成]両陛下30年の旅」であった。年表を含む6頁にわたるもので、一覧できる資料としては、便利に使わせていただいている。学習院同窓会の会報がこうした特集を組むことは、その沿革からうなずけないこともない。誌面から、すでに他界された先生方も多いけれど、ゼミのOB会などのレポートで、見知った先生のお元気な様子を知ったりもする。

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 だが、一般の全国紙やテレビ局が「平成最後の」「代替わりを前に」などという機をとらえて、天皇夫妻あるいは天皇家の内情や動向を事細かに報道する必要があるのだろうか。たしかに、天皇は、日本国憲法の下では「国民統合の象徴」であり、皇族方の生活は国費によって賄われている、といった視点からの報道は、なされなくてはならないだろう。 

しかし、メデイアから発信される記事や番組の内容はといえば、趣向や視点が若干異なるものの、皇室は、「国民に寄り添い、平和を願い、家族や自然をいつくしむ」人々として語られ、結果的に「天皇陛下万歳」の世界に終始する。

 天皇(家)から直接国民に発信できる場は、たしかに限られている。国事行為や公的行為における「おことば」や「記者会見」などでの質疑が思い浮かぶが、しばしば登場するのが、「短歌」なのである。わかりやすく、なにしろ短い文言なので、「お気持ち」や「心情」が端的に表現されて、人々の心にも届きやすいとして、メディアにも好まれるのだろう。昭和天皇死去報道の際にも、天皇の短歌がクローズアップされ、それをめぐって、歌人たちの論評や発言も相次いだ。 

前回の記事でもふれたが、今回の代替わりを前にしても、東京新聞には「象徴のうた 平成という時代」(永田和宏)が連載中であるし、今年の元旦の朝日新聞では、昭和天皇晩年の短歌とメモが新たに発見されたと、大々的に報じた。そしてさらに昭和天皇の命日となる1月7日には、その“新発見”の短歌の解釈や解説をし、歴史家などのコメントも添えて、天皇の日常や折に触れての苦悩を「短歌」から読み取ろう、という趣向である。代替わりを前に、昭和天皇の短歌にもさかのぼって「昭和史」をたどろうということらしい。

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          2019年1月7日「朝日新聞」朝刊より

  しかし、天皇に限らず、短歌で歴史を読み解くリスクは、心得ておかねばならない。まして、天皇の「表現の不自由」な状況で作られる「短歌」であること、その短歌も、今回の記事の「和歌づくりの流れ」でもわかるように、いわば、公文書作成の流れにも似ていること、がわかる。短歌のためのメモから公表までの過程に、何人かの手が入っていることも伝えられた。かつて、私も、入江相政(元侍従長)日記から同様の感触を得ていたことも思い出す。 

 代替わりをはさんで、天皇(家)の短歌が、何かと話題になることも多くなるだろう。心情や真情を吐露しやすいからと言って、短歌一首を、断片的に過大評価してはならないし、不自由な環境の中ではあるが、そこでの発言や活動をトータルに検証していかねばならないのではないか、と思う。

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