2017年5月17日 (水)

正岡子規について書きました

 今年は子規生誕150年という。『現代短歌』の特集<子規考>に書いたものです。誌上では子規作品の発表年に誤植がありましたので、送稿の原稿を掲載します。先日発売の6月号には、訂正記事が掲載されています。

 

              ◇ ◇ ◇

子規との気ままな出会いから      

 

子規について、私は、中学校の国語教科書においても、作歌を始めてからの文学史・短歌史においても、素通りに近かった。私の関心は、もっぱら現代短歌にあった。ただ、一九六〇年、学生時代に入会した『ポトナム』は、小泉苳三の書誌学的研究の伝統がまだ残っていたし、私の職場が図書館だったこともあって、書誌への関心は深まった。例えば、戦時期の発禁歌集・歌書、占領期のプランゲ文庫内歌集・歌書の目録や『ポトナム』の小泉苳三、阿部静枝らの著作目録の作成を始めたのが1970年代であった。苳三の『近代短歌史(明治篇)』(白楊社、一九五五年。一九六九年再版)では、近代短歌史の時代区分や子規の役割をめぐる考え方に違いがあることを知った(拙著「小泉苳三と『近代短歌史・明治篇』」『ポトナム』一九八四年八月)。

 

退職後、マス・メディア史を少し学ぶ時期があって、明治期の新聞史において、藩閥政府を批判する陸羯南の『日本』を根拠地とする、ジャーナリスト・俳人・歌人としての正岡子規に出会う。そこで、私が何よりも興味深く思ったのは、病身ながら従軍を思い立ち、種々の曲折を経て、実行したことであった。同僚や『国民新聞』の徳富蘇峰、国木田独歩の従軍記事に刺激されたからだろう。一九八五年三月三日広島に向かい、四月一〇日宇品港を発つが、日清戦争はすでに休戦、船上で下関条約批准を知る。日記には「五月十日 講和成り万事休す」とまで記し、五月一七日帰国船上で喀血するという顛末であった。子規の従軍日記は、愛国的というよりは、軍隊内の差別に激しく抗議する一方、戦後の大陸の山河や小動物、村人の営み、日本兵や記者たちの日常を克明に綴るものであった(拙著「子規の従軍」『運河』199712月)。

 1894年: 
生きて帰れ露の命と言ひながら(従軍の人を送る)
日の旗や淋しき村の菊の垣(天長節)

1895年: 

戦ひのあとに少き燕かな(金洲 燕) 

君が代は足も腕も接木かな(予備病院 接木) 

行かばわれ筆の花散る処まで(従軍の時) 

なき人のむくろを隠せ春の草(金洲城外 春草)

  当時の私の子規認識はここまでで、その後、『正岡子規、従軍す』(末延芳晴 平凡社 2011年)を読み、子規の従軍の目的や背景について新たな示唆を得た。子規は「なぜ、従軍したのか」について、戦争を国と国との喧嘩とみなし、正義による制裁をすべく主体的に参加する意欲と、天皇を国家の中心的頂点に位置づけ、戦争翼賛・植民地容認への過程をたどることによって解明し(304308頁)、「国家と国民は、共同の敵を打ち倒し、祖国の危機を救うという意識と使命感の共同性」を希求した結果だとする(318頁)。 

子規は、八〇句ほどの従軍俳句を詠んだが、同時に、一七もの漢詩を残した。従軍という過酷な世界の印象やイメージ、感慨や情念を、俳句ではストレートに表現できない限界を感じたのではないかとする(218219頁)。さらに、従軍俳句のベースには漢詩があったとし、俳句との相関関係を具体的に示す。「なき人のむくろを隠せ春の草」「戦のあとにすくなき燕かな」の原イメージは、漢詩「三崎山」の「枯骨に春草生じ」、「金州城外」の「乱後の亡民 求むべからず/杏花の空屋に 燕児愁ふ/遼陽の四月 草猶短く/行人の為に 髑髏を掩はず」にあったとする(229263頁)。子規の漢詩や新体詩には、「敵を斬って斬り払え」といった過激で物騒な文言が並び、アジア民族への蔑視をあらわにする。こうした傾向は子規に限らず、子規の時代に限らず、本来ならば、国家の方向を質してゆくべき多くの知識人、文学者、ジャーナリストという市民社会のリーダーたちの陥穽であったのかもしれない。 

 また、品田悦一『万葉集の発明』(新曜社 2001年)に接したときは、日本の近代化の過程で萬葉集は<発明>されたとするなか、萬葉集が時代を超えて「国民歌集」となってゆく経緯を教えられた。品田の書誌的な分析の起点は、小泉の『近代短歌史(明治篇)』の萬葉集再評価の系譜であり、さらには子規による萬葉集評価にあったのではないか。  

その後、ふたたび子規に出会ったのは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』であり、それを原作とするNHKのテレビドラマであった。その子規像は、原作とも異なり、史実とも異なるフィクションに戸惑ったのであった。

  そして今、年を経て、病床記たる『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病牀六尺』などを読んで思うのは、子規の「終活」の見事さであり、介護を担った母と妹、律の存在であった。(『現代短歌』2017年5月)  

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2017年3月24日 (金)

「歌会始」を通して考える「天皇制」

「歌会始」を通して考える「天皇制」

以下の文章は、昨年の7月下旬に発売された雑誌『ユリイカ』(20168月号)に寄稿したものである。以降、天皇をめぐってのさまざまな環境も変化した。私自身の周辺でも、以下の文章をめぐって、いくつかの批判も公にされたし、論争の的にもなった。その一方で、いささかの励ましもいただいた。『ユリイカ』を読む機会が少ない当ブログの読者や歌人の方にも是非お読みいただければと、掲載することにした。「歌会始」は、憲法上規定のある天皇の「国事行為」でもなければ、「私的行為」でもない「公的行為」とされているが、憲法上にも皇室典範上にも規定があるわけではない。 


( 3月27日補記)

下記のエッセイと直接関係はないのですが、昨日、下記のブログ「短歌のピーナツ」に、牛尾今日子さんという方が、拙著『現代短歌と天皇』(2001年)の書評を書いてくださっているのを知りました。ありがとうございます。1994年生まれの京都にお住いの歌人です。ていねいに読んでくださって、疑問を呈されている個所もありますが、ともかく、拙稿に記された「事実」と文献をたどって、役に立つことがありましたら幸いです。

「短歌のピーナツ」の書評シリーズの51冊目に当たります。私も、時々寄らせてもらっています。読んでない本は、読んだ気になってしまいそうになるほど長いです。最近では、「万葉集の発明」、「短歌のジェンダー」「窪田空穂の身の上相談」などが面白かったです。

「短歌のピーナツ」

2017年3月25日

http://karonyomu.hatenablog.com/

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タブーのない短歌の世界を―「歌会始」を通して考える

今回の特集の企画書によれば、筆者は、まさにアウェイの感を免れない。あえて飛びこんだのは、現代短歌は、歌会始・天皇・天皇制を看過できないはずとの思いからである。

「歌会始」、無関心を標榜する歌人たち

岡野弘彦や岡井隆の世代はもちろんのこと、穂村弘、さらに山田航の世代に至るまで、無関心であろうはずがなく、必ずや少なくとも、歌会始の現況を見極めているはずである。和歌御用掛り、選者、召人となった歌人自身が、そのことを世間にあらわにして、その地位を誇らしげに語るのは、岡野・岡井どまりで、以降、多くの歌人は、選者、召人になったり、陪聴者になったりしたことすらも、身内や仲間内ではともかく、自ら世間には公けにせず、語らないのが流儀のようなのである。「歌壇」を構成する歌人たちといえば、まったく無関心のふりをしながらも、横目で一瞥していることは確かであろう。天皇や天皇制について考えるのは面倒な上、いつか自分が招ばれる日が来るかもしれないと、静かに控えている歌人は多いにちがいない。

 

①ゴージャスな背もたれから背を数センチ浮かせ続ける天皇陛下(穂村弘)

(『短歌往来』20102月)

②天皇は死んでゆきたりさいごまで贔屓の力士をあかすことなく(穂村弘)

(『短歌研究』200610月) 

穂村弘は、①について「これは、歌会始での天皇陛下の様子なんです。歌会始に招待されるシステムみたいなのがあって、毎年いろんな人が呼ばれていますが、それに行ったことがあって、わりと近くで天皇がいらして・・・これはわりと、リアルな歌で、現在の天皇のことです」と自作を語り、平成に入って、歌会始の陪聴者になったことをさりげなく明かしている(『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』新潮社 二〇一二年、178 )。また、同書の山田航の解説によれば、①は、岡井隆、石井辰彦らと朝日カルチャーセンターの朗読会(二〇〇九年九月六日)の「皇居を詠む」のテーマで朗読した作品だったという。続けて、山田は、①について、穂村は、ある時期「天皇であるということは尋常ではないほど厳しい自己規律が必要なのだと気づき、そこに激しい他者性を見て」「時代と自己との関係性を見つめなおすようになった」として、②では、平成の天皇には「昭和天皇に見出している人間くささとはまったく異なっている」ものを見て取る(177p)。

穂村の「歌会始に招待されるシステムみたいなのがあって、毎年いろんな人が呼ばれていますが」の書きぶりからは、あえて深く考えないポーズをとる。山田は、「他者性」「関係性」といった用語を使用するが、近頃のテレビタレントのキャスターでさえ好んで口にする、一種の流行語にも思え、内容的には何も踏み込んで語っていないことになる。

世代的には確かにバランスをとっている現在の歌会始選者、篠弘から三枝昂之、永田和宏、内藤明、今野寿美の五人に至るまでの曲折や現状について触れる時評や論評は極端に少ない。選者の出自や師系をたどると、篠(まひる野)、三枝(かりん⇒りとむ)、永田(塔)、 今野(まひる野⇒かりん⇒りとむ、三枝の妻)、内藤(まひる野⇒音)ということになり、アララギ系の高安国世創刊の「塔」の永田を除いて他の四人は、すべて窪田空穂・窪田章一郎系にたどり着く。かつては、いいも悪いも偏らない配慮がなされていた。現在にあっては、多くの歌人が、所属結社の主張、師の系統による特色を厳密に受け継いでいるとはいいがたく、薄らいでいるとは言うものの、いかにも偏向のそしりは免れないだろう。

かつて、岡野・上田三四二の戦中派が選者入りした一九七九年、そして、天皇の代替わり後の岡井隆が選者になった一九九三年のときには、歌壇の反応は熱く、持続していた。さらには、敗戦直後の論争にもさかのぼることができる。 

戦後短歌史における「歌会始」

戦後短歌史における短歌と天皇制の問題は、具体的には「歌会始」の問題に集約されるだろう。詳細は、拙著『短歌と天皇制』(一九八八年)『現代短歌と天皇制』(二〇〇一年、ともに風媒社)『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 二〇一三年)にゆずるが、ここで、要点をさらっておけば、つぎのようになる。

一九四七年からの“新生”歌会始は、宮内省の御歌所の旧寄人二人と佐佐木信綱、斉藤茂吉、窪田空穂のいわゆる民間歌人三人を選者としてスタートした。御歌所主事を経て、当時は歌詠課課長、その後長い間侍従長を務める入江相政が実務を取り仕切っていたことは『入江相政日記』に詳しい。天皇制自体、天皇の戦争責任論、退位論などが取りざたされる存亡の危機に瀕した激動の時期であり、昭和天皇の歌会始以外の短歌を一般の雑誌や新聞にリークするなど、現在では考えられないほど、その政治的利用も活発であった。

一九五〇年六月に始まった朝鮮戦争による日本は特需景気を経て、一九五二年四月のサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約発効により独立することになるが、同時に、沖縄はアメリカの軍政が固定化し、日本の各地での米軍基地は強化されていった。さらに、日本遺族会設立、軍人恩給復活、自衛隊法成立、小学校に「道徳」復活など「逆コース」をたどる。一九五八年皇太子の婚約が決まると、皇室ブームを週刊誌ブームが支えることになる。歌会始の選者も、木俣修や五島美代子の起用によって、四賀光子と女性二人の時代がしばらく続くことになる。一九六〇年新安保条約成立後は、安保反対の国民運動も後退し、経済高度成長期を迎える、そのころの岡井といえば、現代歌人協会が歌会始入選者の祝賀会を開催したことについて、かなりのハイテンションで、つぎのように述べていた。

 「(宮中の)の一行事に文学の仮面をかぶせた歌人たちは、その仮面性を知っている以上、腹であれらの歌の形をしたものどもをわらっているか、否定している筈である。あるいは仮面でも詐称でもないという人がいるかもしれない。その人には、あの皇室関係者の御歌を一つ一つ自己の文学観に照らして価値づけてもらわねばならない」

「この歌会始の儀につながる一切事は、旧支配者に対する民衆の残忍な戯れなのであろうか。尊王の至誠が、皇室の民主化の至情が、とにかくそうした熱情のたぐいをすっかり凍結しつくしたところに生まれる非情な遊びなのだろうか。しかし、そこには美がない。この非情な穢醜を、私を肯定することができない」

(「非情の魅力について」『現代歌人』創刊号一九六〇年五月 4748頁)。 

一九七九年いわゆる「戦中派」の中核でもあった上田三四二(一九二三年生)と岡野弘彦(一九二四年生)が佐藤佐太郎と宮柊二に代わって、歌会始の選者になったとき、一九六〇年代には角川『短歌』の編集にも携わった同世代の片山貞美は、つぎのように批判した。

 

「事は天皇・皇族の参加する宮廷行事である。当然のことに参加する者の意識は改って、天皇を頂点とする制度の秩序のなかに整然と組み入れられることをあらわにする。(中略)つまり詠進歌の行事は今日では短歌の文学的問題をほとんど含まず、政治的問題が主だと見なければならないのだ。だから選者は選歌を通して天皇制支持という姿勢をあらわにすると見なければなるまい」

(「二人の戦中派」(角川)『短歌年鑑一九七九年版』) 

さらに、天皇制は家父長制とともにわたしたちの生活の根にかかわる問題で、「戦中派はそうした問題に一九四〇年代の戦争体験によって最も鋭く迫った人びとのはずである」から、選者になることは許せないと言い切った。しかし、一九七九年六月元号法が施行され、『短歌』は、一九八四年から、翌年の「宮中歌会始詠進要領」の掲載を開始する。短歌総合雑誌が「要領」を掲載、選者の一人岡野弘彦の詠進の勧めともいうべきエッセイや宮内庁での歌会始のプロモーターである入江相政のエッセイなどが続く時代の始まりとなった。戦後の短歌史上、短歌総合誌が、国の皇室行事に加担するというエポックをなした。さらに菱川善夫の『短歌』論文削除事件などが明らかになるのもこの時期であり(菱川善夫「変化と病―昭和五十年代の時代状況」『短歌現代』一九八五年二月)。歌壇全体が自粛ムードのなかで推移することになったことは、ある年代以上の歌人には覚えがあるのではないか。

一九九年の歌会始選者に岡井隆が就任することが公になった一九九二年秋、歌壇の様相は少し違っていた。「前衛歌人」の岡井が選者になったことの衝撃は少なからずあった。詳しくは筆者作成の「岡井隆歌会始選者就任関係書誌(一九九二~二〇〇〇)」(前掲『現代短歌と天皇制』所収)を見ていただけばわかるように、全国紙から同人誌に至るまで、必ずしも網羅的ではないにしても、その反響は数年にも及び、八〇点近く、アンケートなどを含めればその発言者は一〇〇人に達するだろう。岡井自身の発言も7点ほど含んでいる。岡井が、繰り返し主張し続けたのは、「歌会始は、だれもが参加できる奔放最大の、知名度の高い短歌コンクールで、国家や皇室との関係はいまや薄くなってきた。これからの歌会始は、参加する多くの応募歌人により、反権力を歌ってきた歌人らが選者になることによって、イメージは変わる」ということだったのだろうか。座談会やインタビュー記事からだけでは不明確な点が多い。さりとて、岡井自身の執筆になる、たとえば、「あるニヒリストの演舌―歌会始の件につき」(『未来』一九九三年一月)、「歌会始の選者として」(『短歌往来』一九九三年二月)などを読んでも、独特の言い回しではぐらかされた感じがしないでもない。代表的な反響として、上記『短歌往来』の一五名による「アンケート・岡井隆氏が歌会始の選者を引き受けられました。そのことにつき率直な意見を述べてください」の回答が、温度差はあるものの、裏切り、嫌悪、遺憾、不可解、失望、好ましくない、納得できない、天皇との距離を保つ、などが一〇名、一方、騒ぐこともない、興味がない、ぴんと来ない、驚くこともない、今後に注目したいという五名だったというのも興味深い。当時、『未来』で岡井隆の選歌から離れた会員、『未来』から離れた会員もいたという。

 近年の岡井隆は、歌会始の選者はやめたが、和歌御用掛として、皇居に通っているし、メディアへの露出度は高く、その発信力は衰えてはないようで、むしろ焦りさえもかんじさせる。昨年から今年にかけて、短歌誌ばかりでなく、つぎのような一般メディアにも登場する。

『朝日新聞』(夕刊)「人生の贈りもの」(二〇一五年二月)という一〇回のインタビュー記事では、

「かつてのマルキストが、歌会始の選者を引き受けたのはなぜか」の質問に、一九七〇年に蒸発して九州へ行った後で考え方を変え、五〇歳前後で思想転向したとして、つぎのように続ける。 

「ぼくみたいに若いころ天皇制を否定していた左翼の人間が転向したわけです。日本の文化人って、転向しても理由を述べない人が多いねえ。あれはやっぱり書くべきだと思います。説明責任があります。僕はその理由をいろんな機会に『自分が若いころには分かっていなかった』とちゃんと書きましたよ。それを経たあとは、ずーっと揺るがない。その一つの表れとしての歌会始です」(『朝日新聞』二〇一五年二月二六日付夕刊) 

ここでは、明確に「転向」に言及し、何度も「説明責任」を果たしてきたというが「若気の至り」

では、説明したことにはならない。現に、二〇〇八年の段階では、これも、小高賢との対談で「岡井さんの選者就任で一番足りないのは、ご自身の論理的説明ではなかったか」の質問につぎのように答えていた。

 「振り返って客観的に眺めてみると、やっぱり僕は転向したのだと思う(中略)。自分自身のためだけでもいいから、きちっとあきらかにしておく必要があったかなあと思う。ただなにか書こうとすると、みんな、大島史洋君もそうだったけれど、『岡井さん、もうやめなさい。何を言ったって、全部、言い訳に取られるから、何も言わない方がいいですよ』というから、そう思っちゃった」

(『私の戦後史』角川書店 二〇〇九年 二九六頁)

 

私の検索の限りでは、以後も論理的に説明している発言が見当たらない。岡井は、さらに「宮内庁和歌御用掛が明かす 佳子さまの和歌の素養」(『文藝春秋』二〇一五年六月)においても、歌会始を「国民参加型の文化行事」と位置づけ、最近体調を崩した折に(和歌御用掛の)後継者を探したが「適任者が見つかりませんでした」と記す。しかも、天皇・皇后は平和への特別な想いを持っているので「お歌に助言をさせていただく人間として戦争体験者の私がお役にたてるのではないかと、考えるようになり」、「両陛下がご公務に頑張っておられるわけですから、私も頑張らねばいけません。体力が続く限り、御用掛を続けさせていただこうかと思っております。」と結ぶ。

二〇一六年に入って、『朝日新聞』の「はじめての歌会始~皇室と国民 同じお題で心詠む」(「文化の扉」一月一〇日)にも登場、「2万人以上の人が一つのお題で定型の詩を作りあうのは、他国にはない」「歌会始は、日本の伝統が脈々と続いていることを世界に知らせる良い機会なのです」と述べている。はたして「日本の伝統が脈々と続いている」歌会始なのかは、明治以降の歌会始のありようを見ても、そんな素朴なことではなく、戦略的な結果が今に至っていることを承知の上、見て見ぬふりをしていることではないか。

現在五〇代以下の歌人たちは、先にも述べたような歌人への言論統制・圧力について、今の世の中においては、なおさらそれはありえない、自分はそんな目には合ってはいないと、楽観している向きも多いかもしれない。しかし、現在にあっても、天皇・歌会始のことに言及するとき、選者と師弟関係・友好関係があったり、自分に目をかけてくれる選者であったりすると、たとえ異議があっても、急に言葉を改め、敬語が増えたり、慎重な言い回しになるか、無関心・無言をつらぬくことが多いと、私は見ている。自覚的、無自覚的を問わず、すでに自粛や萎縮にもつながっていることを指摘しておきたい。

 

聖域やタブーをつくらない議論の場を

こうした歌壇の大きな流れのなかで、私は、最近、一つの事件に遭遇した。それに連なるもろもろのことに共通して見えてくるものは、やはり国家権力の文芸への介入を受忍する、民主主義の衰退であった。

二〇一五年一二月、現在の歌会始選者の一人今野寿美が二〇一六年から『赤旗』の歌壇選者になるという記事であった(『赤旗』1228日)。今野寿美の思想の自由、『赤旗』の編集の自由だといって、片づけられる問題なのだろうか。今野の選者としての歌会始の自身の作品と『赤旗』歌壇の選歌の結果を比べてみてほしい。明らかにダブルスタンダード的な要素が伺える。『赤旗』歌壇の選者を務めたことのある歌人の「なんかおかしい、今野さんの選歌は、明らかに『赤旗』におもねすぎている」との感想は聞いていたが、この件についての論評は、今のところ見当たらない。だが、これには、前触れがあった。一九四七年以来、七〇年近きにわたって、「玉座」から天皇の「おことば」が述べられている国会開会式には参加していなかった日本共産党が、二〇一五年のクリスマス・イブに、二〇一六年の通常国会から出席すると発表したのだった。そのために開かれた記者会見の模様を、『赤旗』より詳しく報道したのが『産経新聞』であった(一二月二五日)。「共産党、国会開会式に出席へ 天皇陛下御臨席に反対方針を転換「アレルギー」払拭へ」の見出しで、共産党は安全保障関連法の廃止を求める野党連立政権「国民連合政府」構想を提案しており、従来の対応を変えることで他党に根強い「共産党アレルギー」を払拭する狙いがあるとみられる、と報じた。ちなみに、「朝日新聞デジタル(12241249分)」では、「共産党が通常国会開会式へ 党として初、野党と同調」の見出しで、これまで天皇陛下の出席を理由に欠席してきたが、方針を転換した。開会式に出ている他の野党と足並みをそろえることで、来夏の参院選での共闘へ環境を整える狙いがある、とした。

さらにさかのぼれば、二〇〇四年の新綱領、昨二〇一五年一〇月の「日米安保条約廃案一時凍結」の発表で、野党共闘、アレルギー払拭をめざし、一枚一枚、たけのこのように、皮をはいで行って、残るものは何なのだろう。そういう流れのなかで、一見、寛容で、ウイングを広げたかのような『赤旗』紙面への著名歌人の登場、歌会始選者の『赤旗』歌壇への起用であったのである。だが、一方、歌人に限らず、いささかでも異を唱える者の排除や無視という非民主的な要素、開かれた議論の場を想定しがたい状況が、蔓延しているのではないかが懸念される。思想の自由、表現の自由を守ることの難しさを痛感するのである。

歌壇に限って言えば、そんな風潮を早くよりキャッチし、警鐘を鳴らし続けている歌人もいる。そして、二〇一六年の年末になって、佐藤通雅は、拙著3冊をあげて「果敢にタブーに踏み込んだこれだけの作業を、見て見ぬふりをいいのかと義憤の念にかられて、私はいくつかの文章を書いてきた」との論考が発表された。拙著で述べた「天皇・皇后の被災地訪問は、政府や企業あるいは自治体の被災地・被災者対策の不備を補完する役割」とすることについて、佐藤は、「補完の域を脱した、内部からの抵抗を感じることが何度もある」「為政者への無言の異議申し立て」であると、私の考えとの違いをも踏まえ、「いずれにしても、選者になったとたん黙して語らないのも、周りが見て見ぬふりをするのも不健全にはかわりはない。タブーはもう脱ぎ捨てて、さまざまな角度から意見を出し合い、問題を共有していくことを私は望んでいる」と結論付けた(「歌の遠近術12短歌と天皇制への視点」『短歌往来』二〇一五年一二月)。

しがらみのない、インターネットの世界から巣立つ歌人たちにも、ぜひ、歴史から学び、聖域やタブーをつくらない議論の場を構築し、こまやかな感性とゆたかな感情を大切にしてほしい、と願う。

 

 

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2017年3月 2日 (木)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(8)シンポジウム「時代の危機に立ち上がる沖縄の短歌」に参加

なぜ、参加したのか

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当日資料の表紙

 

これまでの沖縄紀行記事と時系列的には前後するが、25日(日)に那覇市で開催されるシンポジウム「時代の危機に立ち上がる沖縄の短歌」に参加するのが、今回の沖縄行きの目的の一つであった。これまでの沖縄行きに引き続き、戦跡を訪ね、基地反対の現場を訪ねることがもう一つの目的で、計画を立てた夫は、最後まで調整にあわただしかった。シンポの時間帯はもちろん別行動としたが、辺野古・高江行きは、今回断念せざるを得ず、(1)~(7)の記事の通りの成り行きとなった。

 沖縄愛楽園から那覇市のシンポ会場まで車をお願いすることにした。計画では、名護からは高速バスと思っていたところ、愛楽園から乗った車の運転手は、「ご提案なんですが」と、高速バスの二人分の料金に1000円上乗せすれば那覇に直行できますよ、とのこと。上記シンポの会場となっている青年会館までお願いすることになった。高速を乗ったり降りたり、路線バス状況だったりの行きとは違って、いくつかのトンネルをぬけて、渋滞もなく、運転手さんの話を聞きながらのドライブで、予定より早く会場に着き、正解だった。

 

  今回のシンポに出かけることになったのは、本ブログでも紹介した『うた新聞』紙上の吉川宏志さんと私の論争?なるもので、吉川さんが「京都と東京で開かれたシンポに参加もしないで、不確かな伝聞で批評するのは、けしからん」というところから端を発し、私の他の文章の批判にも及んだ件があったからである。この件について、吉川さんの文章自体は、ブログへの再掲はできないが、私の反論は、再掲しているので参考にしてほしい。


吉川氏との<論争>、その後(2016年12月14日) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/12/post-0945.html


 ここで、あらためて、言っておきたいのは「不確かな伝聞云々」は、明らかに間違いで、私は、シンポ開催当事者のレポートと、参加者の氏名明記のブログ記事、同人誌の文章を、出典明示の上で、引用していたのである。それを「不確かな伝聞」とすることが、理解できないでいる。直接体験がなければ批評できない、ということになれば、歴史研究など成立しないことになりはしまいか。資料や史料の読解・分析がカギであろう。そんな経緯があって、京都、東京に続く、沖縄でのシンポであったのである。会場は、たしかに遠いが、沖縄の歌人の何人からか、お誘いも受けていたので、参加した次第。



何が語られたのか

 始まる前に、沖縄側のコーディネーターの屋良健一郎さん、事前に私信や資料のやり取りもあったので、まず挨拶を。本土側の吉川さんにも挨拶、少しびっくりした様子で「おっ、ほッほッほ、どうも」ということだった。(以下敬称略)

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鼎談「沖縄返還から現在まで」、左から名嘉真、永田、三枝の各氏

 

 

 比嘉美智子の開会のあいさつに始まり、鼎談は、三枝昂之、永田和宏と沖縄在住の名嘉真恵美子の3人によるものであった。進行は三枝で、永田の最初の発言は「今日の会は政治集会ではないので、短歌の表現を問題にしたい」というもので、「沖縄に基地が集中していることへの思いや考えはある。しかし、そのまま短歌にすると空々しくなるので、自己相対化が必要」とする。三枝は、遠く離れた沖縄は日本なのか、本土ともいえない戸惑いを感じる、とする。また、名嘉真からは、沖縄の短歌を本土のモノサシで批判する傾向にある、とする。

 このあたりのことを、『琉球新報』は、翌日の記事で、鼎談では「<沖縄>を詠む際の後ろめたさ戸惑いのようなものを含めて話し合われた」(「沖縄の表現模索 県内外の歌人集い討論」『琉球新報』201726日)と報じ、後の223日の記事では、3人の作品を通して「沖縄を詠うときの逡巡。<沖縄は日本か><日本はこれでいいのか>。他者そして自身に問いながら、答えの出ないもどかしさが見える」と報じた(「時代の危機に立ち上がる短歌 沖縄で問う<歌の力>歌人ら向き合い方議論」『琉球新報』)。

 しかし、私が聞いていた限りでは、やや印象が異なっていた。永田は、自作の「どうしても沖縄は私に詠へない詠へない私を詠ふほかなく」(『現代短歌』20172月)などを引いて、時代の危機に際して、短歌は政治の言葉ではないので、安易に意見を言ってはならない歯止めが必要であることを強調していた。三枝も、自作「自決命令はなかったであろうさりながら母の耳には届いたであろう」(『それぞれの桜』2016年)とこの作品と対になっている、資料には出ていない「自決命令はあったであろう母たちは慶良間の谷で聞いたであろう」などを前提に、自決命令の有無については、簡単には結論が出ないとしての両論を踏まえるもどかしさを語っていた。

 鼎談後の沖縄県内外の10人の歌人たちのスピーチで、一番バッターの玉城洋子は、上記の鼎談を受けて「沖縄の短歌はどこへ行く、辺野古の海は、沖縄人のアイデンティティ」の思いを語った。私も、永田と三枝の逡巡と用心深さは、何に由来するのかを考えていた。自らの未知や無知について、謙虚で、慎重になることは大切なことだが、ためらい、戸惑い、自らの思いをストレートに語ることをしないうちに、現実は待ったなしで、進んでしまうのではないか、の疑問がもたげた。この「逡巡」は、現実逃避にも連なる気がした。同じような趣旨の質問が会場からも提出されたような報告があったが、質問の詳細も回答もなかった。

後半の「沖縄の現在・未来の社会詠」には、中堅の大口玲子、光森裕樹、屋良、吉川の4人が登壇した。とくに、気になったのは、屋良が「言挙げしない/できない人々」の声として、米軍基地で働く人や高校生らの短歌への目配りの必要を説いたことだった。声をあげない人々といえば、いまだに真実を語れない、地上戦や集団自決で肉親を失った人々、土地を強制収用で家も失った人々、投降した兵士や強制隔離を余儀なくされたハンセン病の人々が、いまだにその体験を口にできない苦しさや事情を持ち、語り継ごうとすると様々な圧力・妨害と直面しなければならない実態、声なき声をも忘れてはならないはずである。

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 「沖縄の現在・未来の社会詠」左より大口、光森、屋良、吉川の各氏




 
私のわずかな沖縄体験ながら、伊江島、屋我地島、渡嘉敷島の人々の記録や証言に接し、また、中南部の戦跡をめぐるだけでも、その地の声、風の声の衝撃は、身を突き刺すほどであった。

午後1時から5時過ぎまで、鼎談やスピーチ、ディスカッションと盛りだくさんな集会ではあった。せっかくの機会なので、登壇者の発言を材料に会場との質疑や討論の時間を取ってほしかった。登壇者を絞っても、多くの沖縄の人たちの声を聞きたかった。それが心残りであった。

なお、今回のシンポに先立って、その前日に、辺野古へのツアーが企画され、現地の公民館で、条件付き基地建設容認の住民の話を聞いたとのこと、本土からの登壇者の言及もあった。企画者からは、本土の歌人たちの基地建設へのバイアスを解きたい、という趣旨だったとの発言もあった。それこそ「参加しなかった」私の感想ながら、その意図がわかりにくかった。

ただ、私は、今回配られた資料から、沖縄の若い歌人たちの短歌の一端を知ることができた。最近、総合短歌誌も、沖縄の歌人への注目度が高くなったことは、評価したい。ただ、沖縄歌人の一部に、中央歌壇、中央著名歌人たちへの傾斜志向が見られることには、やや違和感を覚えるのだ。 

会の終了後、これまで、直前に手紙のやり取りがあった平山良明さんはじめ何人かにお目にかかれたのがうれしかった。 

関係文献
 
このシンポのレポートはいずれ、短歌雑誌をにぎわすことになるだろう。現在まで、私が読むことができたのは、以下の通り。

・シンポ<時代の危機に立ち上がる短歌>に寄せて 基地への抵抗 言葉で
(『沖縄タイムス』吉川宏志 2017130日)
・沖縄の表現模索 県内外の歌人集い討論(『琉球新報』201726日)

・短歌時評 沖縄をどう詠むか(松村由利子『朝日新聞』2017220日)
スピーチ原稿載録(玉城洋子『くれない』
20172月)
・沖縄で問う<歌の力>歌人の向き合い方論議(『琉球新報』2017年2月23日) 



文献補記:(2017年3月3日~)

・短歌月評・線引きするならば(光森裕樹『東京新聞』夕刊2017年2月19日
・戦争と平和 沖縄から考える 社会詠をめぐる歌人の葛藤
 
(屋良健一郎『東京新聞』夕刊2017年2月21日)
・沖縄シンポジウム開催(屋良健一郎『現代短歌新聞』2017年3月5日)
・<相対化>と<類型化>について(田村元『うた新聞』2017年3月10日)
・シンポ「時代の危機に立ち上がる短歌」(『うた新聞』2017年3月10日)
・あきらめず、めげず、息切れせず―沖縄シンポジウムを終えて(三枝昂之『現代短歌』2017年4月)
・「時代の危機に立ち上がる短歌」報告(小石雅夫『新日本歌人』2017年5月)


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屋我地島の海岸で拾う

 

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2017年2月14日 (火)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(1)

沖縄、屋我地島、愛楽園を訪ねる

出発の前、数日間は、那覇の気象情報が気になっていたが、この季節の気温は、千葉より10度は高い。朝、着ていくものに迷ったが、セーターに薄いコートにマフラーで家を出る。羽田1030分発ANA469便、修学旅行の高校生も乗っていて、ほぼ満席ながら静かな機内であった。あの重量の航空機が空を飛ぶこと自体信じがたい私は、いつも無事の着陸を祈るしかないのだ。夫は5回目、私は3回目の沖縄行きである。

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屋我地島は、1953年に屋我地大橋が架けられ本島と結ばれ、1960年にはチリ津波で損壊し、1963年に再建、現在は1993年建設の三代目。2005年古宇利大橋、2010年に今帰仁の天底からワルミ大橋が架けられた

 

今回の最初の目的地は、沖縄本島中部の名護市澄井出、屋我地島の沖縄愛楽園なので、空港前からの高速バスで、名護バスセンターに直行、タクシーに乗り継いでの長距離移動である。高速バスとはいえ、各所の高速道路を乗ったり降りたり、停留所の多い路線バスなのである。最後の高速道路を降りて、終点までのあとわずかのところで、道路工事のため対面交通の個所があり、世富慶(よふけ)辺りの海岸道路の渋滞には参った。本土より日没が遅いとはいえ、不案内な愛楽園構内は明るいうちに回りたいと思っていた。

 

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愛楽園航空写真。右手上の岬の手前の赤い屋根の建物が交流会館、資料室が2015年新設された。左手上の橋が古宇利大橋

 

この日、朝720分に家を出て、愛楽園に着いたのが5時近くだったから、10時間近い移動時間を要したことになる。すでに閉館時刻をすぎていたが、交流会館の受付で案内図をいただく。会館の前には、「高松宮・同妃殿下」(1985年)、「三笠宮寛仁親王・同妃殿下」(1992年)来園記念植樹の掲示があった。地図を頼りに歩き始めると、建物の番号は付されているものの案内板らしきものがない。出会う人は親切に教えてくれるのだが、似たような建物が多く、道路も微妙に曲がりくねっていて、迷ってしまうのだ。そんなとき、広場の隅に何かモニュメントのようなものがみえたので、近づくと、そのモニュメントの脇には、大きな碑と台座が横倒しになっていた。覆うブルーシートが、ところどころ破れていて、「貞明皇后」(大正天皇の皇后、18841951)と読めたので、訳が分からないながら、いささかの衝撃が走った。

なお、「愛楽園」は、現在「国立療養所沖縄愛楽園」となったが、そこには苦難の歴史があった。沖縄ではハンセン病者の療養所設置が各地での反対でなかなか進まない中、自らも16歳の時に発病した、クリスチャンの青木恵哉(18931969)がこの屋我地島北東の小さな岬に土地を求め、1935年末に病者とともに上陸、開園したのが、愛楽園の前身であった。愛楽園発行の案内によれば、1938年沖縄県告示により「国頭愛楽園」と命名、1941年国立に移管、19441010日米軍空襲以降、赤十字の標識が掲げられていなかったため兵舎と間違われ、幾度かの爆撃や機銃掃射により施設は壊滅状態となる。米軍、琉球政府の所管を経て、1972年日本復帰とともに厚生省に移管された。敷地約10万坪、201612月末現在、入所者数164人、園内物故者1348人という。私が関心を寄せたのは、「沖縄における天皇の短歌」について調べていて、現天皇の皇太子時代、沖縄海洋博開会式に出席するために訪れた1975年に、ここ愛楽園を訪ね、琉歌「だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔目にど残る」と詠んでいたことを知ったときだった。

 

*青木恵哉『選ばれた島~沖縄愛楽園創設者の生涯』(聖公会沖縄教区祈りの家教会 195810月)

 

 

さらに、案内図を見ながら、この辺りに「早田壕(はやたごう)」があるはずと、渡り廊下を給食の配膳台を押してきた女性に尋ねると、しばらく間をおいて「ソウダ壕かしら」と、屋根付きの渡り廊下の奥に走って行って、手招きをしてくれる。「ここですよ」と廊下の右側のガラス戸のカギを開けて「向かいにもありますから、済んだら両方ともカギをかけておいてくださいね」と足早に仕事に戻られた。壕の入り口には格子が嵌められていて、中には入れないが、傍らには「早田壕」の説明パネルがあった。

 

「早田壕」とは、19443月に愛楽園に着任した早田晧(19031985)園長は、入所者避難のために横穴式の壕を掘らせた。貝殻の多い硬い地層のため、約一年で、怪我をした人も多く、病状の悪化、栄養失調、マラリアなどで288人が亡くなっている、とあった。

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結局、この日は、日も暮れてきたので、名護市内のホテルに向かい、明日また訪ねることにした。すでに沖縄各地でのプロ野球キャンプ入りが始まり、このホテルにも、間もなく、日ハムの一同がやって来るそうだ。近くの名護球場は、もっぱら夜間練習などで使用するとのことだった。

 

翌日の愛楽園再訪で、交流会館内の資料室をゆっくり見学することができた。資料室は一昨年オープンしたばかりであるが、時系列での展示とテーマごとの展示もあって、多くを教えられた。

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とたん屋根が暑い、かまぼこ型の居室

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澄井出小中学校の年表、1951年開校、1981年閉校の歴史

  また、皇室とハンセン病については、片野真佐子『皇后の近代』(2003年)原武史『皇后考』(2015年、いずれも講談社)に詳しいが、その皇室とハンセン病との関係は、戦前の救ライ事業における、貞明皇后の短歌「つれづれの友となりても慰めよ ゆくことかたきわれにかはりて」と療養所への下賜金が、象徴的に表しているような皇室による「慈悲の心」が、強制隔離や差別を助長したとされる。らい予防法は、1996年に廃止されたが、小泉純一郎内閣時、国家賠償裁判で、2001年の熊本地裁の病者差別違憲判決を受けて政府は謝罪した。2005年には「検証会議最終報告書」が出され、そこにおいても、皇室とのかかわりによって「隔離強化という国策を支持する世論を喚起したのである」と結論づけている。資料室の展示パネルにも、そうした事実が明確にされていた。

 

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復帰1972年を経て1974年再建されたという

ところで、昨夕、探すことができなかった「青木恵哉頌徳碑」、強制断種や堕胎によって葬られた子どもたちの「声なき子供たちの碑」、愛楽園で亡くなった人々の慰霊碑に手を合わせることができた。今でこそ、屋我地島と本島には橋が架かり、これらの慰霊碑は、リゾート地として名高い古宇利島との長い橋も望める地となった。私は、波打ち際に出て、思わず白い砂を掬い、小さな貝殻を拾って小さな箱に収めたのであった。

 

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小島の間に見えるのが古宇利島

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青木恵哉頌徳碑

 

 

 

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2017年2月 3日 (金)

私の好きな木~ポプラ

『ポトナム』の今年のリレーエッセイ「私の好きな木」2月号に寄稿しました

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「あなたが会員になっている『ポトナム』って、何のこと?」と尋ねられることも少なくない。「朝鮮語で、ポプラのことらしいです。朝鮮で創刊された雑誌なので」と答えている。小泉苳三『夕潮』最後尾の二首のルビに拠る。日本では、ポプラとドロノキ(白楊)と違うらしいのだが、いずれもポプラの仲間らしい。

・うつつなく吹きゆく風の見ゆるかも庭につづける白楊(ポプラ)の垣に

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・白楊(ポトナム)の直ぐ立つ枝はひそかなりひととき明き夕べの丘に

 一九四四年の秋、私は、東京の池袋の家から千葉県の佐原(現香取市)に疎開した。店を続ける父と薬専に通う長兄は残り、母は私を連れて、自分の生家に身を寄せた。そこには、すでに、小学生の次兄が「縁故疎開」で世話になっていた。私たちは廂を借りての暮らしとなった。立派な長屋門を出ると、目の前には水田がどこまでも続き、その彼方には、細くて高い木の幾本かが等間隔で並んでいた。ポプラだと教えられたその木の枝は、やや片側になびいているようにも見えた。その脇には鉄橋の姿もあった。子供心にも、戦局の不安と暮らしの不自由さが日に日に迫ってくるのを感じていたのだろう。そして、あのポプラの先に何があるのかも知らないまま、毎日眺めていた。あの先には、今は知らない何かがあるに違いないとでも思ったのだろうか。いまでも、ポプラの木を見ると、懐かしさと憧憬の念がよみがえる。のちに、ポプラが旧佐原市の「市の木」であったとも知った。明治生まれの母が通った高等女学校が「佐原白楊高校」と改称、共学になったのは今世紀に入ってからという。

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2017年1月22日 (日)

「短歌サロン九条」で「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」について報告しました。

「短歌サロン九条」は、「憲法九条を守る歌人の会」の有志の方が、隔月に開く勉強会だという。今回121日に、表記の題での報告の機会をいただいた。20人ほどの参加者であった。

テーマは、昨年6月「思想史の会」での報告と同じなのだが、その報告後、私自身は、2度目ながら34日で沖縄に出かけ、8月末日には、『社会文学』への寄稿「沖縄における天皇の歌は何を語るのか」が活字になったこともある。

「思想史の会」の会での報告の模様は、以下の本ブログ記事を参照

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/06/post-167c.html(2016年6月27日)

昨2016年88日には、現天皇の「生前退位」表明があり、近く「有識者会議」の論点整理が発表され、国会でも各党協議が始まるというが、政府は、特例法による対応など、ほぼ着地を決めている。辺野古新基地建設承認取消訴訟では、最高裁の上告棄却を経て、工事が再開された。北部訓練場の一部返還はされたが高江のヘリパッド建設によって、基地機能は強化された。さらに、1213日には、名護市沿岸にオスプレイMV22が墜落、19日には飛行再開、年明けには空中給油再開、その後も米軍機の事故が相次いでいる。このような状況の変化によって、沖縄、天皇にかかわる問題は、重大な局面を迎えたと言える。本来ならば、日本国憲法下における日米安保条約・地位協定、そして象徴天皇制が照射され、論議されるべき機会であったはずなのに、政治やマス・メディアの世界では、そういう流れにはなっていない。

そんな時期に、新しい情報を踏まえて報告することは、いささかの緊張を伴った。準備を進めている間に、現天皇が、皇太子時代、夫妻で初めての沖縄訪問の折、1975年に、訪ねた国立ハンセン病療養所「愛楽園」(屋我地島)、2004年に訪ねた「南静園」(宮古島)に触れて、皇室と日本のハンセン病対策との密接な関係に着目せざるを得なかった。(注)1931年らい予防法の成立を機に「らい撲滅」「患者の強制隔離」の徹底を推進するため、節子皇太后による「御歌」(「つれづれの友となりても慰めよ ゆくことかたきわれにかはりて」)と「下賜金」に象徴される救らいとして「慈悲の心」が強調された。不治の病ではないとして治療を進める医師、特効薬プロミンの開発を無視する形で、敗戦後も隔離政策は引き継がれ、貞明皇后没後は、高松宮・喜久子夫妻が継承した。らい予防法が廃止されたのは1996年であり、ハンセン病患者への差別が違憲とされたのは、2001511日、国家賠償法訴訟の熊本地裁判決で、当時の小泉純一郎首相は控訴を断念、患者への謝罪がなされた。その後の報告書でも、ハンセン病対策に皇室がかかわったことによって差別が助長されたと、つぎのような報告がなされている。

「このように、藤楓協会は、その誕生から厚生省と一体の関係にあったのである。皇室の「仁慈」を強調することにより、全患協の運動を抑制し、「純然たる民間団体」を装って、「文化国家」に反するハンセン病患者の絶滅を目指し、隔離強化という国策を支持する世論を喚起したのである。」

(「第四章(4)藤楓協会及び皇室の役割)『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』20053月 150頁   https://www.jlf.or.jp/work/pdf/houkoku/saisyu/4.pdf

なお、藤楓協会は、2001年の本地裁判決を踏まえ、2003年3月解後「、その事業の一部は、社会福祉法人「ふれあい福祉協会」が引き継いでいる。

 というのも、現天皇夫妻の沖縄訪問は、皇太子時代の5回を含め10回を数え、訪問の折の夫妻の短歌や天皇の「おことば」、天皇誕生日記者会見での発言で、繰り返される沖縄戦犠牲者への慰霊や鎮魂、沖縄の現状への言及は、現天皇夫妻の個人的な沖縄への思い入れや意図とは異なり、別の役割を果たしていたのではないかと考えられたからである。

天皇の短歌や発言によって、沖縄の戦争犠牲者の慰霊を続け、沖縄の人々の心に寄り添い続けるということは、昭和天皇の沖縄にかかる「負の遺産」、敗戦末期の本土防衛のための沖縄捨て石作戦、敗戦直後の国体維持のための「天皇メッセージ」を払拭しようとする意図があるように思われたからである。さらに、敗戦後から現在に至るまで「国益」と称して、沖縄を差別し続けている政府の沖縄対策の欠陥を、情緒的に慰撫し、補完していないかとの危惧をいだいたからであった。

私の報告は、ほぼレジュメのような流れで進めて、約1時間半で終了、最後に、近年、いわゆるリベラル派と称される論者や表現者が、現天皇の発信や振る舞いから、その人間性に、親しさや信頼を寄せる発言が相次いることが、現憲法下での「象徴天皇制」の本質を見極めることへのバリアになっていないかとの不安を語ったのだった。

また、質疑の中で、参加者のお一人は、とくに歌会始の「選者」につながる人脈について、「短歌結社」に深く由来すること、選者の継承や陪聴者選びに至るまで、大きく影を落としていることを指摘された。私も、結社の主宰や選者たちが「右といえば右、左といえば左」的に、逆らわない歌人たちが多いことも実感していたので、これからも見据えていきたいと思った。また、お一人は、橋本喜典と岡井隆の短歌作品を比較して、岡井の無邪気なまでの宮廷入りに酔いしれている様子が紹介された。一方、美智子皇后の短歌の魅力を語る参加者もいらした。

会場の喫茶店「パンドラ」のオーナーでもある梓志乃さん、司会の久々湊盈子さんと田村広志さん、城間百合子さんらのお世話になった。当日配布の「報告概要」と「資料」を若干補充し、添付した。

なお、近く、私は、屋我地島の「愛楽園」、渡嘉敷島の戦跡などを訪ねたいと計画を進めている。

「報告概要」と「資料」:

http://dmituko.cocolog-nifty.com/okinawanotennonotanka.pdf

(注)

皇室とハンセン病との関係については、以下の文献などを参考にした。

片野真佐子『皇后の近代』 講談社 2003年11月

大塚郁「戦中期の<皇恩>とハンセン病者の文芸―序説」『千葉大学社会文化科学研 究プロジェクト成果報告書』156号 2008年3月

原武史『皇后考』 講談社 2015年2月

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2016年12月26日 (月)

紅葉のシーズンは終わったはずだが~久しぶりの京都(3)40年ぶりの法然院へ

翌朝は、晴れる予報だったのに、すっきりしない空模様だった。今日は、南禅寺から北へ向かい、法然院を訪ね、小泉苳三の墓参を予定。小泉苳三(18941956)は、私が同人になっている短歌結社誌『ポトナム』を1922年に創刊した歌人である。私が入会した1960年には、すでに故人になられていたので、お会いしたことはない。歌人であると同時に、短歌史、短歌関係書誌の研究者でもあった。その収集歌集・歌書は、立命館大学図書館の特別コレクション白楊荘文庫に収蔵されている。私も一度ならず利用させてもらっている。そして、墓地の在る法然院での11月の苳三忌の墓参・歌会には二度ほど参加、1975年の歌碑の除幕式にも参加したが、その後、墓参に来ることもなかったのである。今回はそんな不義理を詫びたい気持ちもあった。

南禅寺から永観堂へ

東西線の蹴上で下車、地上に出てすぐにトンネルがある。矢印に沿ってしばらく歩き、金地院の門を過ぎると、南禅寺の中門にぶつかる。

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蹴上のトンネル、上にはインクラインが通る。この入り口には、何やら文字があったのだが、読めないままくぐり抜けた。あとから調べると、「雄観奇想」とあったのである。

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「雄観奇想」とは「素晴らしい眺めと思いもよらない考え」ということで、疎水工事を計画した当時の北垣国道京都府知事の揮毫とのこと、反対側には「陽気發處」の言葉が掲げられているとのことだが、私は気づかず通り抜けた


 南禅寺の立派な三門への階段をのぼると見えてくるのが法堂である。さらに奥には、庭園で有名な方丈がある。その奥には、圧倒的な存在感を示すアーチ型で支えるレンガ造りの水路閣がある。琵琶湖疎水工事は5年の年月をかけて1890年に完成、工業、農業、防火用水などの確保を目的に、やがては、水力発電の強化と水道用水確保に利用され、現在も上水道として利用されている。当時の府知事と若きエンジニア田辺朔郎による日本の近代的建造物の典型でもあるのではないか。そのわきには、天竜寺、西芳寺の庭園と並んで京都の三名園とも記されている亀山天皇の離宮、南禅院なのだが、残念ながらパス。

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法堂の香炉から
三門を望む

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水路閣はどこから見ても、その偉容に圧倒され、築いた人々の心意気が感じられる

 

 先を急いで永観堂へと向かう鹿ケ谷通は、静かなお屋敷町のようだ。東山中学校・高校があり、バスケットの強豪校らしく、優勝などの垂れ幕が賑やかである。近くには、現在は休館中の野村美術館もある。

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左に見えるのが野村美術館、思わず迷い込みたくなるような道


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 永観堂へは、南門から入って中門まで進んだ。かつて京都のひとり旅にのめり込んでいた頃、「みかえり阿弥陀」の名に魅せられて訪ねたことのある永観堂である。拝観するには、境内も広いし、時間もかかりそうである。迷いながらもここまでとし、総門から出ることに。

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永観堂総門

真如堂へ

 ふたたび鹿ケ谷通を進むと、「泉屋博古館」という美術館、「せんおく」と読み、住友コレクションの収蔵館らしい。野村と言い、住友と言い、「メセナ」と言えば、格好いいけれど、なんだかな、の思い。この辺りからそろそろ白川通に出て、金戒光明寺に向かいたいと、左折した。宮前橋を渡ったところで、右か左かを迷い、通りがかりの女性に訪ねると、いともあっさりと「真如堂だったら通りを渡ったところを左に入って、道なりに」と言われた。たしかに、前方には大きな森が控えていた。やがて山沿いの細い道を進んでいくと、さらに、細く険しい上り坂になった。苦しい、息苦しくもなって、立ち往生、夫は心配になって振り返る。「あと20メートル頑張って」などの立て札があったりする。ようやく登り切ると、街が見下ろせる道に出た。両側には、家が立て込み、真如堂というわけではない、と思った矢先に、広い坂の入口があった。汗びっしょりのところ、雨もぽつぽつ落ちてきた。ともかく休憩所のベンチになだれ込む。目の前には立派な三重の塔があるではないか。いったいあの心臓破りの坂はなんだったのだろう。そういえば、あの坂の写真は一枚も写していなかった。地図を眺めると、おそらく、丸太町通の岡崎神社の方から金戒光明寺の境内を通ればこんなことはなかったのだろうと。

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法然院へ、ようやく墓参を果たして

ようやく人心地ついたので、白川通からは、バスで銀閣寺道まで出た。お目当ての「おめん」にて昼食をとった。いよいよ、哲学の道に入ろうと思った矢先、小雨ながら降り出したので、帽子を持たない夫は透明傘を購入、「法然院まで行くなら、哲学の道にはたくさん橋があって分かりにくいので、銀閣寺にぶつかったら右に曲がった方がよい」との、店員さんの勧めにしたがった。山沿いの裏道、途中道路工事にもぶつかりながら、ようやくたどり着いた法然院。まず、寺務所に小泉家の墓地の場所を尋ねなければならない。数回訪ねているはずなのに、記憶がない。たしかに40年ぶりなのである。墓地と歌碑の場所を教えていただいた。谷崎潤一郎、九鬼周造、河上肇らのお墓のある墓地とは違う「新墓地」の方だった。歌碑の前に立って、ようやくかつての除幕式のことがかすかによみがえるのだった。墓参を済ませたころには、雨も上がっていた。これで、ようやく念願果たして京都の旅も終わり、安堵したのだった。

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川沿いの哲学の道ではなくでなく、銀閣寺に向かう

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新墓地の入り口に、1975年11月建立。「あまつたふ月よみの光流れたりしらしらとして遠き草原 苳三」

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あたらしい塔婆は、今年11月20日の京都ポトナムの苳三忌墓参の折のものだろう

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歳晩の静かな法然院山門、新年を迎える準備だろうか、落ち葉を集める人影のみだった

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1975年11月24日、歌碑除幕式の集合写真、ポトナムの皆さんの若かりし頃、故人になられた方も多い

京都駅には、予定より早く着いたので、1時間ほど早い「のぞみ」に変更。新幹線改札の近くにあった「イノダコーヒ」店、寄ってみたかったのだが、つぎの機会に取っておくことに。

 

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2016年12月24日 (土)

紅葉のシーズンは終わったはずだが~久しぶりの京都(2)平等院から三月書房へ

宇治上神社から平等院へ

「山宣」墓参の後は、「花やしき」の山本氏と別れ、部屋の窓から見えていた朱塗りの喜撰橋を塔の島へと渡る。辺りは護岸工事たけなわで、観光シーズンを外して実施しているとのこと。対岸へは、朝霧橋を渡る。橋の下は、天ケ瀬ダムからの流れでかなりの早さである。橋を渡り切ると右正面に福寿園の店と工場があり、製茶の手順が分かる展示室もあった。

反対側に進むと宇治神社、境内ですれ違った女性に、新しい鈴が奉納されたばかりなので、お参りしてください、と声をかけられた。なるほど、新しく太い鈴緒であった。早速拝礼の後は綱を振ってみるが、鈴の音が鈍い。房が閉じられた木枠には奉納のスポンサー「山崎製パン」などの文字が見える。さらに、奥の宇治上神社へ向かうと、今度は、数人で、赤い鳥居に太いしめ縄をしつらえているさなかであった。先の鈴と言い、初詣の備えなのだろうか。広い境内を一回りした後、与謝野晶子の歌碑にむかう。この辺りも、まだ、紅葉が残る。斜面の上から、何やら元気な声がと思えば、朱色のスモックの園児たちが列をなして、手を振ってくれていた。保母さんとともに、「コンニチワー」の大合唱である。

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宇治神社、奉納されたばかりの鈴


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宇治上神社の鳥居を出た帰り道にも出会った別の園児たち、素晴らしい散歩コースですね、「コンイチワ」と先に声をかけられ、「イッテラッシャーイ」を繰り返す

ふたたび二つの橋を渡って、散策路から平等院に入った。ここはさすがに、観光客が多い。鳳凰堂の見学はスルーして、源頼政の墓所や鳳翔館を回り、池の前のベンチで一休み。昼食は、どこにするか迷いながら、表参道半ばのお茶の中村藤吉店の茶そばに決め、スイーツの誘惑にも負け、二人で一品、いただくことに。

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源頼政墓所から鳳凰堂を望む

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  茶そばとスイーツを。前の店では、「中村茶」を勧められた。〇に十の商標は、
中村藤吉の「藤」の音読みに由来するとか、店員さんは、「はっきりしないのですが、
と言われています」とのこと

夕食は、娘と京都で約束しているので、早めに戻り、立ち寄りたいところがあった。島津製作所の資料館と三月書房だった。

島津製作所創業記念資料館

今日の宿、八条口前の新都ホテルに荷を預け、地下鉄の市役所前下車、京都ホテルオークラ、日本銀行の角をぐるりと回る。老舗の京都はテル、夫は、いつ「オークラ」が付いたんだろうというので、後で調べてみたら、業務提携をしたのが2001年だったらしい。島津製作所創業記念資料館は、なかなか風情のある建物で、その展示内容も充実していた。1975年、創業百周年記念としてオープンしたという。ノーベル賞の田中耕一さんのコーナーもあるが、明治のものづくりの精神を脈々と受け継ぐ企業の面目躍如といったところか。学校の顕微鏡から家庭の電化製品、病院の医療機器、航空機器にいたるまで、どこかで島津製品にお世話になっていたような気がしてくるほどである。

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中京区木屋町二条南、創業時の社屋で、近代化産業遺産に認定されたそうだ

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資料館2階から望む

三月書房

 
そしてすぐ近くのはずの本屋さん、三月書房に向かった。詩歌関係の書籍が充実していることで知られる。そのホームページの短歌コーナーで、私のブログを歌人のブログの一つとしてリンクしてくださっていることを知って以来、一度訪ねたいと思っていた。店に入って、そのことを伝えると、「まもなく帰るはずですが、主人は、いま出かけていまして」とのことだったが、ほんとにすぐに戻られ、ご主人の宍戸氏にお会いすることができた。三月書房は新刊の本屋さんなのだが、つい、いただく歌集の始末を、皆さんどうされているのだろうという話になってしまった。「出版される歌集の90%以上は、古書店でも買い取りません」ときっぱりおっしゃる。たしかに、数年前、私も東京の古書店に発送した6箱目以降断られた経験がある。

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ようやくたどり着いた三月書房、中京区寺町通二条上ル西側

娘と待ち合わせたレストランでは、その夜からクリスマス・メニューをはじめたところとのこと、私たちは、まず、ワインや特製カクテルで、乾杯となった。

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中京区河原町通理に条下ル一之船入町、フォーチュンガーデンにて

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2016年12月14日 (水)

吉川氏との<論争>その後

 はや12月、今年は、私にとってめったにない経験をさせてもらった。というのも、すでにこのブログでもお知らせしたように、私が会員となっている『ポトナム』(2016年7月号)での歌壇時評に、『うた新聞』紙上で、吉川氏は反論を書き(8月号)、それに私が答えたところ(9月号)、また吉川氏の反論が掲載された(10月号)。以下は、『うた新聞』11月号の私の答えである。同新聞の12月号には、その応答がない。

 そもそも、発端は、私が『ポトナム』の歌壇時評で、2015年、安保関連法案が強行採決された後、開催された二つのシンポジウム「時代の危機に抵抗する短歌」(京都)「時代の危機と向き合う短歌」について、主催者側の吉川宏志氏と三枝昂之氏が「時代の危機」というより、歌人は「言葉の危機」にどう向き合うか、という視点で総括されていたことに疑問を呈した、ことに始まる。吉川氏は、私の時評の、シンポジウム参加者の感想の引用部分を私の言葉として、それを前提に非難してきたので、そこを明確にしてほしいことと、私がこれまで、他の著作でも主張したことのない言説をもって難じていることに、いささか困惑したのである。私の第1回目の反論は、以下をご覧ください。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/10/89-e189.html

 

 さらに、吉川氏の反論は、私が時評や反論で言及していないことや他の雑誌の小文にまで及び、その主旨をねじまげ、自らの稿を進めたのである。私の2回目の反論は、末尾に再録した。

 二人のやり取りについては、あまり反響がないようなのだ。多くは当たらず触らず、ということなのだろう。今のところ、友人にご教示いただいた「歌壇時評・今問われているもの」(今井正和『くれない』2016年11月号)と「2016年評論展望」(屋良健一郎『(短歌研究)短歌年鑑』2016年12月)の中で言及されている。貴重な発言として受け止めたい。

 なお、直接ではないが、吉川・内野の双方に登場する『ユリイカ』の拙稿について、「歌壇時評・ぼくも行くかも」(斉藤斎藤『短歌人』2016年11月号)では、「歌会始の選者を引き受ける歌人を筆者は批判する気にはなれない」として、佐佐木幸綱のかつての言「俺は行かない」を模しての表題であった。「活躍」する歌人の「配慮」に充ちた発言としての典型なのかしらと思いつつ、やはり寂しかった。

 また、私が最初の時評で引用し、吉川氏が曲解したた岩田亨氏のブログでの発言であるが、その岩田氏が、『うた新聞』へ寄稿されると、自身のブログで公表された。さらに、上記『短歌年鑑』の屋良氏の「評論展望」への反論も『短歌研究』に書かれるそうである。その展開に期待したい。

 

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吉川氏「<いま>を読む」に再び、応える  

      

 前号の「<いま>を読む」は、私の九月号の反論であった。そこでは、私の『ポトナム』時評を八月号同様に「印象」をもって読み通すことに終始していた。「歌会始選者に安保法制について論じる資格がないというような言い方には無理があろう」、三枝氏の著書の「どこを読んだら、<戦中の歌人の戦争責任を不問に伏す>という言葉が出てくるのだろう」という二つの疑問が返ってきた。しかし、その疑問の設定自体が、私の二つの文章や表現(『ポトナム』七月号、『うた新聞』九月号)に即したものではなく、捻じ曲げられてしまっているのが残念だった。関連の質問もあるので、念のため答えておきたい。

「歌会始選者」と「集団的自衛権を強引に進める政権」への批判は矛盾しないのではないか、という。私は、シンポジウム登壇者に「歌会始選者」がいると気づいたという参加者の文章を引用はしたが、その評価にも、矛盾にも言及はしていない。

吉川氏は、『ユリイカ』八月号の小文を引用して、「歌会始選者」と「赤旗歌壇選者」の兼任についての私の疑問に触れ、氏は、両者の兼任は「交流する」ことによって「タブーでなくなったという意味」で評価をする。「タブー」であったという意味が不明だが、私は、特定の歌人による兼任だけを問題視したわけではない。『ユリイカ』で、私が言いたかったのは、ジャーナリズムや論壇において、基本的な核となる争点での対立を避け、「寛容」や「共存」へとなだれ込んでゆく現象を背景に、言論の自由・自立を脅かす異論の排除・無視という重苦しい潮流がある、ということであった。それを見据えずに政権批判や権力に抵抗することが、ますます困難になることへの不安であった。

三枝氏の『昭和短歌の精神史』について、私は、氏が「既存のフィルター」を排し、戦争期と占領期の作品に向かうことを提唱しながら、みずからも「<時局便乗批判>から歌人たちの戦中をもう少し自由にしたい」というフィルターに固執してしまっている、と評したことがある(『天皇の短歌は何を語るのか』八九~九〇頁)。今回、吉川氏が、私の引用した「戦争責任を不問に付す」という岩田亨氏の発言を私の発言にすり替えてしまうことに困惑している。岩田氏の言と私の上記の言に、重なる部分があるとしても、すり替えることは、読者に誤解を与え、岩田氏にとっても迷惑であったろう。

 なお、シンポの表題が、京都での「時代の危機に抵抗する短歌」が、東京では「時代の危機と向き合う短歌」に変わり、『記録集』の書名も後者になっていた。「時代の危機」「言葉の危機」と称される状況は、他ならない私たち自身が作り上げてしまった結果でもある。登壇者もパネリストたちも口にする「自主規制」や「自粛」、表現者一人一人の「自主規制」との内なる格闘こそが先決で、「向き合う」という着地では、どちらの「危機」も越えることはできないだろう。

(『うた新聞』201611月)

 

 

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2016年12月 4日 (日)

「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」(『社会文学』)をご紹介いただきました

 今頃になって気づいたのですが、 山梨モリエールさんが、ブログ「猫の後ろ姿」に、2回に分けてご紹介くださっていました。ありがとうございました。

鮮明な書影も添付されています。つぎの2本をご覧ください。

猫の後ろ姿 1739 内野光子「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」 

2016-09-01

http://ameblo.jp/e-no4765/entry-12195659447.html

②猫の後ろ姿 1745 金子兜太『あの夏、兵士だった私』
20160909
http://ameblo.jp/e-no4765/entry-12198439598.html

 

Photo


Photo_2

「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」付<年表・沖縄の戦後短歌―本土短歌ジャーナリズムと天皇の沖縄訪問19442016)> 『社会文学』4420168pp6580

 

(参考:当ブログ記事)

残暑お見舞い申し上げます~沖縄に関するテーマで書きました

2016829

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/08/index.html 

「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」を報告しました
2016627
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/06/post-167c.html

「平和の俳句・老陛下平和を願い幾旅路」(『東京新聞』2016429日)

2016517

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/2016429-463d.html

 

 

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