2024年10月29日 (火)

ポトナム短歌会の公式ホームページが立ち上げられました。

2024年10月より、新しい編集部により、あらたに「ポトナム短歌会」のホームページが立ち上げられました。ぜひお立ち寄りください。

ポトナム公式ホームページ」で検索してみてください。

https://www.potonam.com/

ロゴマークポトナム.JPG

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2024年8月27日 (火)

「大塚金之助の短歌と天皇制」を書きました―『大塚会会報』最終号!

・人間が 神になったり その神が 人間になる 国なのである

・君のしずかな 態度の底に 暴力を ひそませているのを 見のがしはしない
(『日本評論』25巻1号 1950年1月)

 1977年に亡くなられた、経済学者大塚金之助の短歌です。このたび『大塚会会報』最終号(53号 2024年8月)に「大塚金之助の短歌と天皇制」を書きました。

 大塚金之助の一橋大学、明治学院大学、慶應義塾大学の教え子の方々が相寄って「大塚会」を発足、1981年に『大塚会会報』を創刊しています。私は、どの大学ともご縁があったわけではないのですが、「短歌に出会った男たち―大塚金之助」(『風景』57号 1995年7月)を目にとめられた水野昌雄さんのお誘いで、会友として入会いたしました。その後、「大塚金之助の留学詠」(『大塚会会報』40号 2013年8月)などを寄稿しています。武田弘之さんの『群青』に連載中の「歌人・大塚金之助ノート」を読んではいましたが、あまり熱心な読者ではなかったように思います。ただ、「獄窓の歌」に感銘を受け、大塚金之助に関心を持つようになりました。
 会報には、歌人では、武田さん、水野さんのほか、三井修さん、田中綾さんたちが寄稿されていたように思います。今回、大塚会の解散を機に最終号への原稿依頼がありました。締め切りが6月末日ということもあり、短いものを送りましたところ、なんと、8月25日に出来上がって届いたのです。その手際の速さに驚いてしまいました。創刊号より編集をされていた戸塚隆哉さん、長い間、ほんとうにありがとうございました。

 拙稿は、以下で読むことができます。

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2024年7月16日 (火)

何年ぶりかな、御茶ノ水、聖橋あたり~短歌会の全国大会に参加して

  私の所属する「ポトナム短歌会」の全国大会が、7月14日、湯島の東京ガーデンパレスで開かれた。前回、私が参加したのは2019年の京王プラザホテル一泊での開催だった。この間、大会はコロナ禍で中止になったり、日帰りとなったりした。今回も、11時受付開始、夕方の6時半には懇親会も終えるという忙しない日程であった。講演、分科会、写真撮影、表彰式もほとんど休憩もなく続けられた。東京の会員を中心とする準備も苦労が多かったのではと思う。

  今年の「白楊賞」は、大学生の小野愛加さんの「先生になる」だった。懇親会の途中、立話ながら、若い編集委員と小野さんも交えて、中断している「ポトナム短歌会」のブログ再開やオンライン歌会の話にもなった。何とか実現してほしいものと願うばかりだ。

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  お料理を堪能しながら、同じテーブルの方との話が進む。当日欠席となった方の分のお料理も、何かと運ばれてきて、テーブルの上は賑やかになる。

  分科会終了後、配布された作品集にある、選者賞も、互選賞も、私には縁がなかったが、提出歌は「卓上のミモザの花の散り初めて触れたる棘に寛容なる朝」。ご近所で枝打ちさなかの一枝を分けていただいたミモザ、黄色い小さな花が散り始めて、灰色の棘に、思わず触れたけれど、しばらくの間、黄色い花を十分楽しんだのだから・・・といった気分の歌だった。分科会で、ある評者が、ミモザは、国際女性デーのシンボルの花だと触れてくださったのは、うれしかった。あの棘は、いつまでたっても、日本では、いや世界各地でも女性の権利が十分守られていないことへ抵抗のような気もして、寛容どころか、ストレートに怒りを表現すべきだったかとも。

 当日、佐倉の自宅に帰れる時間ではあったが、一泊することにした。翌日は、雨も上がったので、ホテルの近辺をまわることにした。

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 何十年ぶりかの「神田明神」だったが、境内は広く、整備されていて、外国人も多く、ミストが流れる休息所まであった。本殿の右手奥には、江戸時代の木材商、店舗兼家屋だった建物を移築された「神田の家・井政」があり、さらに進むと、木立に囲まれた「宮本公園」があった。その入り口に何やら消防車と数人の消防署員たち立っている。「何かあったのですか」と尋ねてみるが、「いや、何も、どうぞ、お気をつけて」と。ところが、消防署員の視線の先は、ベンチに、微動だにしない、老紳士風な人が座っていた。病人でもなさそうだし・・・。道にでも迷った人だったのか。

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 本郷通り(17)を渡ると小さな公園があって、湯島聖堂・昌平坂学問所跡との案内板があり、塀を隔てて、聖橋方面の本郷通りに面して、大成殿へと通じる入口がある。

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 湯島聖堂は、江戸時代、綱吉将軍が1690年、儒学振興のために設置されたもので、後、昌平坂学問所にもなった。明治維新後、文部省所管となり、日本最初の博物館が置かれた。1872年、日本最初の図書館と言われる書籍館、東京師範学校が設置されたので、近代教育発祥の地と言われるようになった。たしか、高校の校歌に「昌平 の跡とえば・・・」とあったような。関東大震災で焼失して、今はコンクリート造りの「大成殿」を背に階段をくだると「入徳門」に至る。上記写真の階段の先に見えるのが「大成殿」となる。

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 湯島聖堂を出て道路の反対側、聖橋の傍らにも、「近代教育発祥の地」の銘板があった。そして、聖橋の真ん中あたりからの眺めは、格別である。「松住町架道橋」というらしい緑のアーチ状の橋、神田川の水面すれすれに走るのが地下鉄丸ノ内線だそうだ。かつては毎日池袋始発で通学・通勤に利用していたというのに。

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2024年5月19日 (日)

GWG(ミーヌス)8号、先程発売開始しました。。

 今日、5月19日東京流通センターで、文学フリマ開催中です。

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 昨年の11月、GWGミーヌス同人の方々との座談会に参加しましたが、下記のような表題でGWGミーヌス8号に収録、刊行されました。同時に、本日19日の「文学フリマ東京38」ブースH-22で発売中です。

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 座談会の紹介は、つぎのようになっています。かなり過激な?表題や見出しになっていますが、私の発言は、私の素が露わになることもしばしば。若い日本文学研究者に囲まれての気ままな発言を根気よく聞いてくださり、まとめてくださいました。古い合同歌集や歌集『冬の手紙』(1971年)にまでさかのぼり読んでいてくださり、身の引き締まる思いがしました。

 座談会:「臣下」の文学――「勲章」としての短歌】短歌によって天皇/制を「撃つ」ことは可能か。内野光子氏を迎え、短歌と天皇/制、「60/70年安保」と革命、結社と資本主義、第二芸術論・前衛短歌と「私性」、阿部静枝の「フィクション」、齋藤史・瀏と2・26事件をめぐり、大いに議論を展開した。

 8号の諸論文も力作で、広くて深い分析と考察には、いまさら私には手が届きそうにもないのですが、教えていただくことも多く、楽しんで読み進めています。一つでも関心のあるテーマがありましたら、お手に取ってみてください。

 

 

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2024年3月18日 (月)

断捨離の手が止まる (2) 戦前期『ポトナム』の気になる歌人たち

   物置同然となってしまった和室のリフォームを思い立ち、生協のワーカーコレクティブの方に依頼、仕訳をしながら、不用品を運び出してもらった。 見違えるほど広くなった!六畳間、思わずごろんと横になりたいくらいだった。が、それからが大変だった。

近代文学館に寄贈する前に

  かねて、日本近代文学館が寄贈を快諾してくださっていた、私が1960年に入会している歌誌『ポトナム』の戦前のバックナンバー(ただし、コピー)をの発送することになった。一昨年創刊百年を迎えた歌誌で、欠号は若干あるものの、1927 ~1944年(昭和2~19年)分である。講談社が昭和50年を期して企画した『昭和萬葉集』の選歌の依頼があったとき、譲り受けたものである。揃って所蔵する機関がないなかで、講談社が国立国会図書館、九州大学、立命館大学、東洋大学の図書館などでコピーして、仮製本した資料で、近代文学館でも未所蔵期間だったので寄贈することにしたのだった。発送前に、点検のためにと久しぶりに、あらためて頁を繰っていると、一結社の歌誌ながら、「昭和戦前萬葉集」さながらにも思える、激動の昭和史を読む思いがした。いざ、手離すとなると、頁を繰る手がにぶり、ついにメモを取り始めるのだった。以下敬称は略し、ややわずらわしいが、人名の後のカッコ内は『ポトナム』入会年を示す。

 つぎのような先達の名前と作品に触れると、『ポトナム』の長くも、決して順風とは言えない歴史を思わないではいられない。1960年から亡くなるまで師事していた阿部静枝(1923)、私の入会時には亡くなっていた創刊者の小泉苳三(1922)、私どもの仲人をお願いした小島清(1926)、戦後の歴代編集発行人を務めた頴田島一二郎(1922)、君島夜詩(1922)、和田周三(1933)の若かりし頃の作品にあらためて接することになった。

『ポトナム』から飛び出した歌人たち

 また、当時の同人、平野宣紀(1926)は『ポトナム』より独立して、系列誌とでもいうのか、1940年『花實』を創刊、同じく尾関栄一郎(1923)は1946年『遠天』、福田栄一(1925)は1946年『古今』、尾崎孝子(1924)は1947年『新日光』、森岡貞香(1934)は1968年『石畳』を創刊していることにも気づかされる。薩摩光三(1932)は1948年『岡谷市民新聞』というユニークな地域新聞を創刊したことで知られるが、『ポトナム』にも作品を発表しながら、1939年来『短歌山脈』も発行し続けていた。

 さらに、尾崎孝子(1924)は1931年から『歌壇新報』、石黒桐葉(本名清作、後の清介。1934)は1953年『短歌新聞』と1977年『短歌現代』、只野幸雄(1932)は1968年『短歌公論』という短歌情報誌を編集発行している。今回、数枚の古い『短歌新聞』と『短歌公論』も出てきた。『短歌新聞』の方がすっかり茶色に変色しているのに、『短歌公論』の方はあまり変色していない、など感心していると、1970~80年代の拙稿の掲載誌であった。石黒さんと只野さんには、気にかけていただいていたのだと、あらためて思い出すのだった。

 『ポトナム』には、歌壇への思いというか短歌愛が募ってジャーナリスト、出版者となっている人たちがほかにもいる。福田栄一と松下英麿は『中央公論』の編集長になっているが、小泉苳三は白楊社を、小島清は初音書房を経営している時期があり、新津亨は時事新報社に勤務しているし、片山貞美は角川の『短歌』の編集にかかわっていた。まだ私の知らない人たちもいるかもしれない。

阿部静枝の第一歌集『秋草』のあとに

・おのづからたらはぬ情(こころ)ただになやむひとをまもりつつわれもさびしき

・疲れつつつとめゆかへる夕みちに朝ゐし人夫なほ働けり

・霧さむき小屋の焚火にひととより手足の傷をいたはりあへり

・あやふきに勝ちしありがたさ祝はれてひとまへになみだかくしかねつ

・馴れぬ子の泣かん怖れをひそかにもちからだ洗ひてやりつつさびし
(『秋草』 ポトナム社  1926年10月)

   今回の『ポトナム』のコピーで一番古いものが1927年1月号で、阿部静枝の第一歌集『秋草』批評特集号であった。いわば静枝の青春歌集であったはずの『秋草』は、山田(今井)邦子が指摘したように「自意識の強い愛憎の念の深い陰影をきっかりと持った複雑な心理が鋭く起伏してゐる」(「秋草の歌」『ポトナム』1927年1月、『時事新報』からの転載)歌集となった。後に静枝自身が「普通のめでたい結婚へあっさり入りがたい事情が両方にあった」(「阿部静枝歌集」短歌新聞社1974年3月)と語り、その詳細は不明ながら、上記5首にみられる背景は、静枝のその後の生き方や作品を形成しているかのようだ。未婚の母として、同郷の無産政党の活動家の弁護士阿部温知と結婚し、夫の選挙を通じて自身も無産婦人運動の活動家となってゆく。離れた地の人に預けた子への愛と葛藤は、1938年夫の死後、引き取るまで長きにわたって詠み続けられるのである。

・さつさつと噴水の秀のくづれをりふかく入り来て街の音せず
(青山御苑 1927年1月)

・さわやかにひとり死に遂げし君にあれやねたみかそけく持ちて香焚く
(芥川龍之介氏 1927年9月)

・柵により見送れる汝を見凝めをり暗き夜汽車に涙ぬぐはず
(秋 1927年12月)

・嵐来とおぼゆる曇りメーデーの吹きなびく旗の赤さ暗しも
(いま泣いた烏がもう笑つた 1928年6月)

・するが湾こえて相向ふ富士みつつその形積む児と砂浜に
(秋 1928年11月)

・乞食等にビラを渡さは嘲られん怖れひそみにわが見ぬふりす
 (無産党闘士の妻1928年12月)

・ケーブルを降りてゆく山きりりとした秋の空気の冷たき圧力
(秋の伊香保 2029年12月)

・金!金!それを持つてゐる者は自然と私の敵となつてゆく
(選挙第一次1930年2月)

・一日の海の遊びに夕焼空のやうに日焼けた児の頬
(1930年9月)

・不幸になれた無産者がまだ頼つてゐる首相よ、神経がないのか
 (1930年10月)

・日曜の朝はなほはやく起きて呼びながしものうる児達
 (岐阜 1931年3月)

・旅立つ夫に一枚のあたらしいハンケチもてわたさなかつた
 (忽忙1931年3月)

 1929年後半あたりから、文語定型から口語破調の作品が多くなっていき、一時は、次に述べるプロレタリア短歌の詠草欄に一緒に掲載されることにもなった。それにしても、彼女の見聞・行動範囲の広さは、当時の男性歌人たちと比べても格段の差があったろうし、一般女性には想像もつかない世界であったかもしれない。夫の遊説、自身の活動、旅行などによって日本各地を訪れ、さまざまな施設にも訪れ、短歌にも詠んでいた。なお、夫との死別後から太平洋戦争期の静枝については、「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか」(『天皇の短歌は何を語のか』 お茶の水書房 2013年8月)を参照していただければと思う。

プロレタリア短歌と出口王仁三郎にどう対処したのか

 なお、すでに「『ポトナム』時代の坪野哲久」(『天皇の短歌は何を語るのか』 御茶の水書房 2013年、所収)にも書いたことだが、坪野哲久(1926年3月~28年10月)、岡部文夫(1927~28年10月)は、短いながら『ポトナム』の同人として活躍していたが、プロレタリア短歌をめざし「短歌戦線」に加盟し、退会している。ちょうど同じ頃、中野嘉一が1927年2月に入会、翌年には、復刊『詩歌』に参加、口語自由律の新短歌運動の中心となっていく。同じ1927年には、大坪晶一が入会して、『曇天と樹木』(1929年9月)『Cokaineとマダム』(1934年1月)をポトナム社から出版する勢いであった。
 また、いわゆる『ポトナム』内のプロレタリア歌人たち、当時「ポト・プロ」と呼ばれていたそうだが、松下英麿(1926)は、「我が陣営として」大津徹三、牧村浩、沼三郎、南文枝、宝井青波らの名前を挙げている(ポトナム 1931年1月)。31年4月には、創刊10周年を迎えるが、彼らの作品「景気好転の経済面の裏は、大量解雇、工場閉鎖の社会面だ、みろ、デタラメのブル新聞を」(大津徹三)などはまだましの方で、シュプレヒコールにもならない、怒号のような「短歌」がまとめられて並ぶ。同じ号には結社外部から、誌面に統一がないことや「雑誌には自ら節操というものがあつて、何でもござれ主義となつては、最早其の雑誌の存在価値はなきにい等しい」とまで批判されている(矢島歓一「対ポトナムの意見と希望」)。
 翌月31年5月号の「後記」で小泉苳三は、「プロレ短歌もシュウル短歌もすでに今日では短歌の範疇を逸脱してゐる。ポトナムとしてはその各に対しての歴史的役割を果して来たと思ふ。今後とも研究はつづけてゆくつもりであるが、現在の作品を短歌として認めることは否定したい。従つて誌上への発表も中止する」に続けて「ポト・プロの人達はいづれも年久しい同人達である。作品の上の主義は主義としてできるなら今後もポトナム内にあつてその方面の研究をつづけてほしく思ふ」とも記している。なお、大坪晶一『自叙伝青春挽歌』(短歌時代社1965年5月)には、この頃のポトナムや歌壇の様子は、『ポトナム』記念号の年史や回顧録には見られない人間関係やエピソードが綴られているのが興味深い。

 また、この時期、出口王仁三郎(1930)の出現も見逃しがたい。出口は、大本教の教祖で、第一次大本事件で、不敬罪、新聞紙法違反に問われ、27年懲役5年の刑を受けている。1930年に『ポトナム』の維持社友となったとの報告がされていて、少なくとも1931年の『ポトナム』3月から11月まで、5首前後掲載されている。前川佐美雄の『日本歌人』、前田夕暮の『詩歌』をはじめ、一時は、100を超える結社に参加、短歌を寄稿していたというが、同年の『ポトナム』9月号の「消息欄」には、『アララギ』からは除名された、との記事もある。10月号の「編輯レポート」には、名前は特定していないが「他誌に席をおく人は去就を決せられたい」との警告もなされている。この年の5月には第一歌集『花明山』(明光社)を出版し、モダズニム短歌と評価されてもいるが、『ポトナム』の掲載歌を見る限り、変哲もない自然詠、旅行詠、家族詠のように見受けられた。歌壇に旋風を起こし、「結社」という存在が問いかけられたことだけは確かである。近年では、石井辰彦や笹公人による再評価もなされている。

 発送直前の閲覧とメモを頼りのレポートとなった。もっと読み込んでおけばよかったと思う日もあるかもしれない。

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雨のあと、一気に咲き出したスイセン。3月16日写す。

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処分の直前、慌てて撮った、かつての拙作「からたちの花」。1974年、職場の文化祭に出品か。職場の宮本沙海先生の先生、内山雨海先生から1974年1月に、いただいた「光雨」だったが、沙海先生の手本をまねるばかりで・・・。何十年前にしまい込んだ書道具だけはいまだ手離せないでいる。

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2023年12月28日 (木)

『クロール』は突如、消えてしまったが~児玉暁の遺したもの

 細々と資料の整理はつづけているものの、処分するもの、古書店に引き取ってもらえそうなもの、やっぱり手離せないものと仕分けるのだが、なかなか踏ん切りがつかずに困っている。12月には、少し大掛かりに、短歌関係雑誌を捨てた。そんな作業の中で、佐藤通雅の個人誌『路上』が途切れ、途切れに出てきた。 

 その中の一冊97号(2003年12月)の表紙に「児玉暁ノート」とあるのが目に留まった。加藤英彦さんが、ともに属していた『氷原』時代から、文学を語り、短歌を語り、飲み明かしながらも、妻子、家庭を大事にしていた児玉暁さんの様子と突然の訃報に接した顛末が書かれていた。私にも、児玉暁さんとの少しばかりの接点があったのを思い起すのだった。(以下敬称略)

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創刊号の表紙と最終刊と思われる18号の奥付

 児玉の個人誌『クロール』の創刊は1995年12月1日、B5版16頁のワープロによる手作りの冊子であった。非売品となっていて、たぶん、送ってくださったのだと思う。私の手元には、18号(2000年6月1日)まではそろっていて、創刊号だけは水色の用紙を使用している。挟まれていた「送り状」には、時候の挨拶に続いて「さて、このたび不肖、長年所属しておりました「氷原」を離れ、個人誌「クロール」を創刊することに意を決しました」の一文がある。この個人誌の圧巻は、毎号の30首と「第二芸術論異聞―戦中から戦後、その活断層地帯」の連載であった。「第二芸術論異聞」の第1回で、戦中から戦後の短歌史を深く険しく切断しているのは「活断層地帯」があるからとの見立てにより、次のように述べる。

「歴史的事実を改竄することなく、隠蔽することなく、有耶無耶に放置することなく正当に埋め込む作業を施すこと、言葉を換えて言えば、戦中と戦後の流れを合流させて一本の太い近代短歌史を築き直すことが急務だと思われてならない」(1号 1995年12月)

 このスタンスは全編に貫かれている。例えば、佐佐木信綱『黎明』(1945年11月)について、小田切秀雄「文学における戦争責任の追(ママ」)」(『新日本文学』1946年6月)、木俣修『昭和短歌史』(明治書院 1964年10月)、篠弘『現代短歌史Ⅰ戦後短歌の運動』(短歌研究社 1983年7月)、佐佐木幸綱編『鑑賞日本現代文学 32巻 現代短歌』(角川書店1983年8月)においても言及がないことを指摘した上、戦時下の作品が『佐佐木信綱全集9佐佐木信綱歌集』(竹柏会 1956年1月)にも収録されてないこと、に疑問を呈している(2号 1996年2月)。さらに、佐佐木信綱、窪田空穂、太田水穂、前田夕暮、川田順らの名をあげ、次のように、明快に断じるくだりもある。

「歌人には生前であれば、全歌集や全集を自選できる権利がある。今ではそうともいえないが、文学者の全集といえば、彼の死後、遺族の許諾を得て編集委員の尽力で組まれるのが通例のようだ。それはともかく、自らの総作品を自選できる権利とそのすべてを明らかに示す義務と比べてみるとどちらを上位に置くべきだろうか。私は後者を支持する」(9号 1997年11月) 

 これらの論考は、その後、私が「斎藤史―戦時・占領下の作品を中心に1~10」(『風景』1998年7月~2001年3月)を書き始めようとしていた動機とまさにつながるものであった。この拙稿を、のち大幅に補充し、まとめたのが『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代―「歌集」未収録作品から何を読みとるのか』(一葉社 2019年1月)であった。

 児玉のプロフィル的なものはいっさい知らなかったのだが、『クロール』の毎号の「編集後記」によって、その一部を知ることになる。休日を利用して、目黒の近代文学館や都立中央図書館で資料検索やコピーをとっていたが、卒業生なら書庫に入れる早稲田大学図書館を知り、近代文学館では一枚100円のコピーが、早稲田では千円のカードで105枚とれることになってワクワクする様子、1996年12月の5号では、パソコンを購入、利用し始めるが覚束ない様子、やがて、藤原龍一郎たちと「サイバー歌仙」をまき、住まい近くの江戸川河川敷のウォーキングや週2回の1500メートルの水泳によって健康管理をしていることなど、いきいきと綴っている。1999年5月の15号では、ホームページを立ち上げたことも報じている。なお、祖父は、沖縄で財を成し、父親が沖縄生まれであり、児玉自身の生まれは鹿児島県で、小学校高学年から大学進学で東京に出るまでは佐賀県唐津で暮らしていたことも書かれていた。 

 1998年8月の12号に、斎藤史の『朱天』が登場し、『現代短歌全集第9巻』(筑摩書房 1981年1月)に、『朱天』の収録を許諾した斎藤史を、隠蔽することなく、潔いと評価している部分があった。『風景』で連載中の上記、斎藤史に関する拙稿では、1977年12月、最初の『斎藤史全歌集』(大和書房)に『朱天』を収録した折、「はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば」の一首を添えて、戦時下の歌集も隠蔽しないことを強調していた。そのことをもって、歌壇では、潔い態度と称賛しきりだったのである。ところが、初版の『朱天』(甲鳥書林1943年7月)から17首の削除と数首の改作を、その拙稿で指摘していたこともあって、コピーを送ったのだと思う。児玉からは「平成10年12月25日」付で丁寧な礼状をいただいていた。その手紙は今でも手元にあるのだが、端正な楷書で、便箋4枚に認められている。拙稿の指摘について、『朱天』については初版に当たらなかったことを反省するとの一文があり、「あの当時の短歌史の空白には是非とも書き込みが必要です」とし、「本来ならば近藤芳美氏など「新歌人集団」の人々がきちんと整理しておくべき問題だったと思います」とも書かれていた。 その手紙の後だったのだろう、今では、その用向きを思い出せないのだが、江戸川区の自宅に電話をしたことがあった。すると、夫人らしい方の声で「児玉はここにはいません」と電話を切られたのである。ちょうど手紙から一年後、1999年11月の16号の「第二芸術論異聞(第15回)」と「編集後記」で、単身で唐津に暮らし始めたことを告げている。一年弱の間に、何が彼を変えたのか。転居後の巻頭の30首の中には、つぎのような短歌が掲載されるものの「編集後記」では、『クロール』発行への意欲を語り、「第二芸術論異聞」の連載も、マラソンに例えれば30キロ地点に達した、とも記している。

・荒亡の幾日か過ぎ碧緑海ほどよき平を泳ぐクロール(16号(1999年11月)

・棄京とは人生謀反 文学の言葉をわれの生の帆と張れ(同上)

・高層のビルの上なる寒月光われを導く縄文の世へ(17号 2000年2月)

・三途の川の渡し守なる父が居て紅涙ながしつつ舟漕ぎはじむ(同上)

・みどり豊かな欅の大樹さながらに心の木の葉言の葉かがやけ(同上)

・人の生は一冊の本さなりされど付箋幾枚あっても足らぬ(18号 2000年6月)

・歴史には世紀末ありわが身には最期が待ち居り自ら決むべし(同上)

・残る月三日月消えて太陽が昇りくる此処も原郷ならず(同上)

 寂しい歌や悲壮感漂う歌が多い中、「生の帆と張れ」「言の葉かがやけ」のような歌を見出し、ほっとしたものだったが、その後、人づてに、児玉の自死を知るのだった。なお、冒頭の加藤英彦の一文には、その死は「1999年12月」だったとするが、これは明らかな間違いである。『クロール』18号は2000年6月に発行されている。親しかった友に、数年も経たないうちに、間違われてしまうとは、寂しいことではあった。

 篠弘の戦時下における土岐善麿、北原白秋への擁護論、木俣修、三枝昂之の昭和短歌史論などについても、大いに語り合いたかった。斎藤史の件に限らず、高村光太郎の「暗愚小伝」、山小屋生活、芸術院会員固辞などによる「自己糾弾」、金子光晴の戦争詩を書かなかったが傍観者だったという「自戒」を高く評価していた児玉、近年になって、両者への反証にたどり着いた私だが、意見を聞きたかったし、議論をしてみたかったと切に思うのだった。

 

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2023年11月20日 (月)

<座談会>、かなり緊張したのですが。

 11月18日、土曜の午後、G—W—G (minus) 同人の方からのご依頼で座談会に参加しました。同人の三方、位田将司さん、立尾真士さん、宮沢隆義さん、どなたも近代文学の若い研究者で、G—W—G (minus) のバックナンバーを一部拝読、これは手ごわいぞ、の第一印象でした。座談会に至るまでは、進行や資料など丁寧に対応していただき、1週間前にはzoomの打ち合わせもしていただきました。

 会場は、私の住まいの近くの古民家カフェ「入母屋珈琲」の2階の広々とした会議室、入るなり、中央のテーブルにはなんと、写真のように、私のこれまでの著作、収録された論文集、雑誌のコピーまでが、積まれているのを目にして驚き、もはや感動に近いものがありました。私も、拙著の一部や1960年代の雑誌などを持参しましたが、机上のこれらの資料から突っ込まれると、かなりの覚悟が・・・、などと思ったのですが、話が始まると、三人は各様に、私の4冊の歌集や拙著を読まれていて、おぼつかない私の話をうまく掬い取ってくださりで、あっという間の4時間!でした。多くの刺激をいただきました。

 当日の夕方には、以下のツイートにも。 

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本日、歌人の内野光子さんと座談会をおこないました。短歌と天皇制の関係を中心に、「60年安保」及び「68年」と短歌、阿部静枝と『女人短歌』、齋藤史と『万葉集』、前衛短歌、そして「歌会始」の問題を大いに議論しました。2024年5月刊行予定の『G-W-G(minus)』08号に掲載予定です。乞うご期待! pic.twitter.com/7y1qnDWvmx

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2023年10月 4日 (水)

<関東大震災100年>特集に思う~5首を発表しました。

 関東大震災100年ということで、多くのメディアが特集やシリーズものを組んでいた。短歌雑誌の『歌壇』9月号では、≪その時歌人たちはどう詠んだか―関東大震災から百年≫が組まれ、私も「『ポトナム』揺籃期の震災詠」を寄稿した。9月2日の当ブログにも収録している。今回は、『現代短歌新聞』10月号の特集≪関東大震災100年≫に拙作五首を発表している。ご笑覧のほどを。3頁にわたり43人が出詠していた。★

観音寺の鐘楼   内野光子(ポトナム)

縛られて〈払い下げ〉られし六人を殺せと命じられし村びと
息つめて向うは高津観音寺晩夏の雨に鐘楼濡れおり
朝鮮の技にて成りし鐘楼に犠牲者慰霊の礼のひたすら
命じられ殺めし人らを供養せる碑には銘なく落葉とどまる
二九六の往来激しき道の辺に潜まり建つは〈無縁仏の墓〉
(『現代短歌新聞』2023年10月)

 関東大震災について、私は、書物や映像でしか知らない。両親は結婚する前で、父は海外にいたし、母は千葉県の佐原で小学校教師をしていたはずだが、震災の話を聞いた記憶がない。書物や映像からの作歌は、むずかしいし、私は、なるべく戒めることにしている。数年前、佐倉市の隣町、八千代市内に大震災時に犠牲となった朝鮮人の慰霊碑がいくつかあり、毎年、追悼式が行われていることを知った。高津団地に近い「高津山観音寺」では追悼式と同時に開かれる学習会にフィールドワークが開催されているが、一度参加したことがある。「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の主催である。ことしは9月9日に百周年慰霊祭が行われたが、猛暑の中、体調に自信がなく、残念ながら参加できなかった。

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『いしぶみ』は「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の機関誌で、1978年創刊という。さまざまな関連行事の案内や報告、研究論文も掲載される。最新号の「関東大震災朝鮮人虐殺をめぐる質問主意書の意義」は2015年から資料を巡る質問書は八回も出され経過、今年は、5月23日の参院内閣委における杉尾議員も関係資料について質問までを追跡している。8月30日の記者会見で松野官房長官の「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」との発言は記憶に新しい。ちなみに質問主意書については、以下に詳しい。


関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会HP<質問主意書一覧>
https://www.shinsai-toukai.com/top-japanese-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/%E8%B3%87%E6%96%99%E5%AE%A4-japanese/%E8%B3%AA%E5%95%8F%E4%B8%BB%E6%84%8F%E6%9B%B8-%E7%AD%94%E5%BC%81%E6%9B%B8/

「<100年ぶり>の国会質問に政府の答えは? まもなく発生100年の関東大震災「朝鮮人・中国人虐殺」問題」『東京新聞』2023年5月24日https://www.tokyo-np.co.jp/article/251995

★『現代短歌新聞』の特集の作品の中で、気になったのが、柳宣宏さんの「一会員」と題する五首だった。
・「まひる野」の会員たりしえみこさんは大杉栄と伊藤野枝の子
 第一首目と『天衣』という歌集を残したという第五首目を手掛かりに調べてみると、伊藤には、辻潤との間に二人、大杉との間に五人の子供がいる。「えみこさん」は、三女の「エマ」さんで、後に笑子と改名している。『天衣』は、1988年に出版されていたが、著者は野沢恵美子となっていた。

 

 

 

 

 

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2023年9月21日 (木)

歌壇におけるパワハラ、セクハラ問題について、いま一度

 2019年末から翌年に下記の当ブログ記事において、短歌結社雑誌『未来』の選者の一人のパワハラ、セクハラ問題について触れていた。そんなこともあって、短歌史や資料の件で何かとご教示いただいている中西亮太さんとのご縁で、上記パワハラ、セクハラ問題ついて、当事者の加藤治郎氏とのツイートやnoteで追及されている中島裕介さんに中西さんと二人でお話を伺う機会があった。

・歌壇、この一年を振り返る季節(2)歌人によるパワハラ?セクハラ?~見え隠れする性差(2019年12月22日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/12/post-b5862e.html

・歌壇における女性歌人の過去と現在(2020年3月 3日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/03/post-d8f3d9.html

  インターネット上で、加藤・中島間のやり取りを見ていると、論理的な中島さんに感情的に答える場面も多いのだが、やはり、それだけでは、何が真実か、どの情報を信頼すべきか、正直、迷うこともあった。今回、私たち二人の疑問にもていねいに応える中島さんの話のなかで、わずかに伝えられた被害者の方々からの情報を間接的ながら知ることによっても、その全容が少し見えてきたように思う。

 『未来』のホームページによれば、2019年11月30日、理事会報告で 理事1人から提出されたハラスメントの事実確認をすることとハラスメントに関する委員会、相談会設置することなどを表明して以来、2020年1月19日に、ハラスメント相談窓口設置発表、2022年7月21日、「ハラスメント防止ガイドライン」「ハラスメント相談窓口フロー」を発表するにとどまり、表だった動きが見えない。『未来』の会員にも、公式には、これ以上の報告はないようである。『未来』会員の中島さんからに限らず、名指しされている選者の一人のセクハラ問題なのである。ハラスメント委員会はこれまでの間、どのような活動をしてきたのだろうか。理事(=選者)会には、女性も多いのに、何とか解決の糸口はなかったのだろうか。できれば表ざたになるようなことはしたくないという結社自体の保身、そして、理事たちの保身がこうした結果をもたらしているようにしか思えない。男女各1名のハラスメント相談窓口を開設以来、相談件数はゼロであったという、大辻隆弘理事長からの報告もある。結社内の人間が担当したのでは、非常にハードルが高く、機能は果たし得ないのではないか。

 また、短歌関係メディアは、「噂」としては知っていた、あるいは、少なくともネット上の情報で知り得ていた情報の真偽を確かめようとなかったのだろう。なぜ、そのまま放置して、当事者の起用を続けているのだろう。現に、起用を控えているメディアもあることは、誌面によりうかがい知ることもできる。決して、一結社の問題ではないはずである。

 ハラスメントを、セクハラを受けた側から考えれば、加害者の名前を見るのも、画像を見るのもいたたまれないのではないか、メディアはそうした想像力を働かせてほしい。ジャニーズ問題は、どんな組織にも起こり得た問題だったのである。

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2023年9月 2日 (土)

関東大震災100年、日付が変わってしまいましたが。

 雑誌『歌壇』9月号の特集「その時歌人たちはどう詠んだかー関東大震災から百年」に寄稿しました。一頁の短文ですが、ご覧ください。私が会員の『ポトナム』は、1922年創刊ですから101年目、私の入会が1960年、会員歴だけは長くなっていますので、依頼があったのだと思います。ところが、肝心の1923~24年の『ポトナム』の所蔵館が少なく、難儀しました。

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 『ポトナム』揺籃期の震災詠   

一九二二年四月、小泉苳三は赴任先の朝鮮、京城で百瀬千尋と『ポトナム』を創刊した。大震災で、東京の発行所で発送直前の九月号を焼失している。一二月号の編集後記で、苳三は、所用で東京市内を移動中、大森の吉植庄亮宅で地震に遭遇し、翌日、ようやく片瀬の住まいにたどり着いたと記し、「雑然とした歌を並べたり、有名無名の大家の作を頂いて以て光栄としてゐる醜態」を嫌い、「ポトナム」の拓くべき境地は「量よりも質こそ芸術に於ては尊まるべき」と結ぶ(「片瀬より」『ポトナム』一九二三年一二月)。苳三自身の震災詠は見当たらない。以下、出典が『ポトナム』の場合は省略した。

『水甕』の尾上柴舟に師事していた阿部静枝は『ポトナム』にも『水甕』にも同時に震災詠を残している。

・地の震れにおびえあかしし今朝さむし倒れたる垣に朝顔咲けり(「災後(八首)」一九二四年一月)

・黒き煙来るとみえしやたちまちに割れて火焔のうづまきあがる(「地変(六首)」『水甕』一九二四年一月)

市川信一郎は、東京の冬の厳しさを次のように詠む。

・やけあとにひとつのこれる井戸の水をくまむとて霜のみち遠く来し(「入日(八首)」一九二四年二月)

平塚の農業高校に勤める小泉穂村は、パンを握ったまま逃げ果せたが、校長の「御真影を」との声に、再び駆け込み持ち出した後、次は牛舎から牛を助け出し、「生きてあることのうれしさたらちねの手をとりてただなみだこぼせり」と詠む(「震災雑感」一九二四年一月)。

 お互いに無事を喜び合う家族がいる一方、社会では残虐な悲劇が起きていた。『ポトナム』にも「地震」と題した歌の中に「姿(なり)わろき人のちまたを行く見れば心は躍るもしも鮮人(よぼ)かと」といった一首を見出してドキリとしたのである。「よぼ」は朝鮮語本来の意味を離れて、当時の日本人が蔑称として使用する「差別語」であった。

大震災直後、『ポトナム』は京城で発行、編輯者である苳三は、創刊翌年の六月まで『水甕』に在籍、一九二四年六月には、吉植庄亮の『橄欖』と合併し、半年後には復刊という不安定な時期であったためか、所蔵館は少ない。一部、中西健治ポトナム代表の提供に拠った。(『歌壇』2023年9月)

「『ポトナム』揺籃期の震災詠」(「歌壇」2023年9月)
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