2019年8月31日 (土)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(17)ハンブルグ歴史博物館を最後に、旅も終わる

午後にハンブルグを発って、ドゴール空港乗り換えで、帰国する日がとうとうやって来た。午前中に、きのう休館で見学しそこなった歴史博物館は見ておこう、と今日ばかりは、少し遠回りだが、市庁舎広場を通り越して、jungfernstiegからU2でシュランプ乗り換えでサンクト・パウリへと行く。博物館の中は、私たちにはやはりわかりにくいが、貿易により大発展を遂げた海運都市時代の展示も、ゆっくり見たら面白いのだろうけれど、ともかく現代を中心にということで、大急ぎの見学になった。

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ガイドブック。

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博物館中庭。

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館内から ドームを見上げる

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ナチスの時代。

 見学もそこそこに、はやめにハンブルグ空港に向かい、念のため、荷物がどうなっているか、訪ねてみることにした。そして、係員と一緒に案内されたのが、バッゲジ・トレース・センター、到着時にロスト・バゲッジを申し出たところだ。すると、一緒に探しにということで、ターンベルトの横に置き去りになっている、いくつかの塊の中に、ないかという。え?こんなところにまだほっとかれているの?そしてさらに、そうした荷物が、床いっぱいに置かれている部屋3つくらいまわっても、もちろん見つからない。そして、4つ目ほどの部屋だったろうか、夫が探し出したのである。ナンバーを照合して、落着。何のことはない、ずっとこんな具合に、ほっと置かれたのである。腹立たしいKLMの対応に、怒りが収まらない。ともかく見つかったのだから、良しとしようか。いろいろあったけれど、無事に帰れそうではあった。(了)

 

 

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はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(16)ハンブルグ市立美術館へ

 7月2日(火)風が強く、外へ出ると、寒い。まずは歩きで歴史博物館へと思う。まるで冬支度のコートとマフラーの出勤途上の女性もいれば、半そでの男性もいる。何度も往復したルーディング・エアハルト通りのビジネス街をミヒャエリス教会方面に向かって歩く。

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何度か渡った橋、ホテルゾフィテル方面を見る。

  途中、ミヒャエリス教会の右手の向い辺りにブラームス記念館があると入り込むのだが、旧市街の趣で、何度聞いてもたどり着かずに、ひとまず、歴史博物館に急ぐ。ところが、なんとこの週だけ月・火の連休とのことで、残念ながら、ハンブルグ最終日の明日に来ることにした。それでは、とうことで、辺りを見渡せば、広い植物園であって、博物館はその一画にあったのだ。道路を渡ってビスマルク公園に入ってしばらく歩くとなんと、巨大なモニュメント、カメラに納まりきれない石像が立つ。その土台には、街ではあまり見かけなかった「落書き」がすさまじかった。というわけで、午前中の収穫は少なかったのだけれど、交通のターミナルでもあるサンクト・パウリ駅U3→シュランプU2→中央駅北口から市立美術館へと歩く。

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広い植物園、ジョギングの人たちもちらほら、羨ましい。

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ビスマルク石像、大きさもさることながら、この落書きにも圧倒される。

 

ハンブルグ市立美術館に入館(14€)し、フロアガイドに沿いつつ歩き始めるが、広くて複雑そうなので、現代の部は省いて、まず3階の18世紀以降をと見始めた。小さい部屋続き、その横には大きな部屋が、全館であわせて60室以上あることになる。

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上が、市立美術館の全景、下が向かいの市民ホール。朝の涼しさはどこへやら。

 

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中央の絵葉書が、マックス・レーバーマン(1847~1935)で、ドイツ印象派の主要画家であった。チケットがマネの「ナナ」、下の横向きの絵葉書は、美術館の宣伝用らしく、カスパー・ダーヴィル・フリードリヒの「雲海の上の旅人」と題されている

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右がハンブルグ市立美術館の三か月の予定がびっしり書かれているリーフレットで、広げると新聞大のレンブラントの自画像(1630年)のポスターになる。左は、すでに終了した「ハンブルグ派」特別展のガイドであり、中央が開催中の北欧の特別展だったのだが、素通りしてしまったのか、気づかなかった。リーフレトによれば、デンマークのハンマースホイの作品もあったのである。私はいつから、この画家の、モノクロの静かな室内画の、淡い光と陰に魅せられたのだろう。来年1月から都美術館で、ハンマースホイ展が開催されるそうで、楽しみにしている。

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ドームと本館との渡り廊下を、行ったり来たりも・・・。

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いずれもフィリップ・オットー・ルンゲ(1777~1810)の作品、早世したが、ドイツロマン主義の代表的な画家。上段、左が自画像、右が両親を描いたものらしい。(17室)

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紛れ込んだ図書館だったが・・・。

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上段は、アドルフ・メンツェル(1815~1905)の「「ベルリン三月革命における棺の安置」?と題される作品(20室)、ほかに労働者を描いた作品が何点か見られた。下は、現物は見ていないが、夫のチケットで、アルブレヒト・デューラー「恋人」(1492-4)であった。

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階段室も豪華な。

 やはり、疲れ切って、途中で、CUBEといカフェで一服。レンブラントは6室と言われて、駆けつけると、たしかに2点あり、見落としていた。そんな名画はたくさんあったと思う。それでも、クールベやコロー、パウル・クレー、ムンク、ゴッホ、セザンヌ、シャガール、モネ・・・・、たしかに見た記憶がある。どんな絵だったか、思い出せないほうが多い。もう少し時間をかけて回りたかった。というより、体力の問題なのかもしれない、と思う今回の旅の美術館巡りだった。

 この日の夕食は、中央駅のフードコートで、焼きそば・春巻など軽いもので済ませ、ホテルで、たっぷり果物でも食べようということになった。明日の出発にそなえて、荷物の整理をしなければならないし、といっても、夫の荷物はとうとう戻らなかった。着替えや洗面道具は何とか調達したが、充電器や電子辞書、若干の土産・・・、いったいどうなるのだろう。10日も経って、自宅に荷物が届いていた、なんていう話も聞くが・・・。

 

 

 

 

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2019年8月29日 (木)

オランダとハンブルグへの旅は始まった(15)ハンブルグの交通路線図にようやく慣れて

 7月1日、やや涼しい朝となった。この日も朝食前の散策にと7時前にホテルを出る。夫にとっては、家にいる時はまるっきり違う生活のサイクルではある。空襲の当時のまま残されているという、茶色い黒焦げた尖塔、ニコライ教会跡に向かう。

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ホテルの玄関前のラベンダーが真っ盛り、よく手入れをしているのを見かけた。

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ホテル最寄りのU3の駅Rodingsmarktの線路の下をくぐって交差路の左手ウィリー・ブラント通りを進むとすぐ左に、あの尖塔が大きく見えてくる。

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車の往来は激しいが、人影のない教会の廃墟の前庭に立つ。147mの尖塔は、ハンブルグ空襲の標準点になり、いまは残骸をさらす。昼間は、75mまでの展望台へのリフトが動き、地下の展示室も見学できるという。1842年の大火後はネオ・ゴシック様式の美しい教会だったろう。見えにくいが、向かって左に「地上の天使」像が立つ。

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「試練」と題されるモニュメントは、比較的新しく2004年に建てられたらしい。銘板には、ハンブルグ郊外の北ドイツ最大のNeuengammeノイエンガメ強制収容所から送られてきた収容者1万人が、Sandbostelで死に至ったことが書かれていたが、この像の下には「真実を変えることは世界中の誰もできない。真実を求め、それを発見し、それを受け止めることはできる・・・」とでも訳すのだろうか。

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 朝の散策のおかげで朝食も進む。TVのニュースでは、米朝会談の映像が流れ、いつのこと?とびっくりする。日本KLMと電話が通じ、荷物の行方を尋ねれば、ハンブルグ空港には着いているはずだから、今日中に届くだろうとの情報にホッとして、ホテルを出る。いわば山手線のような環状線のU3で、中央駅を通り越して、いくつ目かのmundsburgという駅に向かう。駅前のロータリーに、この地の空襲の犠牲者の慰霊碑があるというのだ。往来の激しい交差点の分離帯の中にひっそりとあった。

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インパクトのあるモニュメントであった。「1943年7月30日夜、空襲で370人が亡くなった。彼らの死を忘れるな。二度とファシズムを台頭させるな。二度と戦争を起こしてはならない」と記されていた。カールシュタットデパートの地下防空壕で、亡くなった人々である。

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駅の反対側の公園の奥には教会があったが、そこまでは足が延ばせなかった。 

ムンズブルグ駅から、ふたたびU3で中央駅とは反対方向にぐるっとまわって、schulumpシュランプで、U2に乗り換え、北上すると、Hagenbecks Tierpark動物園駅というのがある。

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動物園駅を降りて道を渡ると、一見、え!と驚くのだが、キリンもその背中の少年もモニュメントとわかる。

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中国風の動物園入り口。

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「案内図」とチケット(20€)、かなりの迷路で、回り切れないところも・・・。園内には、突然、中国やタイ風の建物、そして日本の鳥居、トーテムポールなどが現れて、創立者のハーゲンベックさんの意図がわかりかねることもあったが、とにかく、動物とはなるべく触れ合える工夫が様々になされていたので、見ているだけでも楽しかった。

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アルパカの親子かな

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にぎやかな一団、先生も一苦労か・・・。

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大人も、子どもも楽しそうな。
 

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何を考えているのか。

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動物園駅から、U2で、市庁舎にも近い、アルスター湖が目の前のjungfernstieg駅に降りてみる。いくつもの路線が交差するターミナルで、辺りは若者たちが多く活気に満ちていた。下は、アルスターアーケードだが、今日はその先にテントが見える。

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念願かなって、オールド・コマーシャル・ルームでの夕食。なかなか雰囲気のある店で、個室ではないが、三方が壁で囲まれる。壁いっぱいに、来店の著名人の写真が並ぶ、だいぶ古い人もいるが、大方は分からずじまい。注文は隣席に座りこんで、いろいろ相談に?のってくれる。夫は、シュニツエル、私は白身の魚のソテー。今日だけは私もビールを。


 今日も1万7512歩。そして、夜、バゲッジが届けられたのである。どうしたことか、私のだけで、夫のは今夜も届かずじまい、いったい?!

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2019年8月27日 (火)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(14)ハンブルグ、フィッシュマルクト、市庁舎見学

 日曜日、この日も暑そうだったが、7時前、フィッシュマルクトに出かけることにした。ホテル最寄りの地下鉄駅からは一つ先のバウムヴァルで、その先は工事中で、一駅歩くことになる。人の流れについて歩いてゆくが結構な距離、川沿いのコンクリートの道は、かなり暑い。ようやく、市場の賑わいが見えてきた。大変な人出。野菜のスライサーのデモには、かなりの人だかりができるのは日本でもおなじみの光景か。何でもそろいそうで、いろいろな店が次々と現れる。連れ合いは、戻らぬバゲッジの着替えの代りにと、所狭しとぶら下がるTシャツの値札を覗くと、46€!少し高すぎない?と見送る。私たちは、ホテルで夜にでもとイチゴを2€ほどで買うが、なんと果物かごいっぱい、スイカ、リンゴ、バナナ、プラム、ブドウ、見たこともない果物・・・もちろんイチゴも山ほど盛り合わせたものが15€で、威勢のいい掛け声とともに売られてゆく。別の店では、大きな紙袋に、大盛りの果物が、10€、バナナの一房はおまけと、さらに積み上げる。ああ、買って帰りたいが。大型車の日陰で、若い女性のグループ56人、観光客なのか、その大盛りの果物を、楽しそうに分け合って食べているではないか。ああなるほど。もちろん、魚の大きな切り身、丸ごとだったり、フィッシュバーガーだったり、買って帰ることもならず。少し歩き疲れ、帰ろうとした矢先、一台のタクシーのドライバーが何やら口に頬ばりながら、叫んでいる。ホテルまでと頼むと、シェアのお客がいるということで、地元の男性のお年寄りと同乗し、無事7€でホテルに到着した。やや遅い朝食となった。

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 朝食後、一休みしてから、市庁舎のガイドツアーに参加しようと出かける。11時からの英語コース、156人で、ガイドさんにどこからかと問われて、国を名乗らされる。アメリカ、カナダ、フランス・・・。市役所として、州議会議場として現役ながら、豪華な部屋が幾室も続く。ガイドさんの英語が半分でも聞き取れたならの思いしきりだったが、ちょうど一時間で終了、それでもなかなか楽しいコースだった。

 

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中庭の噴水には、ギリシャ神話の健康と衛生の女神、1897年コレラの大流行で市内で8000人も亡くなった由、市民の衛生意識を高めるためにもと設置されたらしい。

 

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州議会の議場に繋がる階段は赤じゅうたんである。下は州議会議場。

 

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豪華なシャンデリア、絵画にも囲まれる部屋、部屋、部屋・・・。

 

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掲げられているのは、"Concordia res parvae crescunt Discncordia maxiae dilabuntur"と読めるのだが?後で調べてみると、「小さなものでも調和によって成長する、最も大きなもので不調和によってバラバラになってしまう」とか。

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市長室だそうだ。

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途中通路には、ビスマルク(1815~1898)の胸像も。後日、見上げる、ビスマルク公園の巨大なビスマルク石像の汚れ様はすさまじかった。

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 市庁舎内のレストランも日曜で閉まっているし、近くの商業施設ヨーロッパ・パサージュへ出かけてみるがここもほとんどが閉店、「働き方改革」が徹底しているのは、日本と大違い。開いていたスタバで、ベ-グルのサンドイッチを買い込んで、ホテルで済ます。朝からのフィッシュマルクト、市庁舎ツアーは、やはり私たちにはきつかったのか、横になると、結構な昼寝をしてしまった。荷物は届かないが、思い直して、ミヒャエリス教会近くの、きのうのガイドさんもお勧めだったオールド・コマーシャル・ルームというレストランに行ってみることにした。残念ながら、予約制ということで、明日ということになった。ホテルまでの、休日のビジネス街を往復したことになる。夕食は、ホテルのレストランでとることにした。値段も手ごろのようで、宿泊客というよりは、女性一人だったり、家族連れだったり、男性同士の飲み会?だったりのお客さんが多いようだった。お料理もおいしくいただき、よく歩いた一日が終わった。この日、1万7418歩。

 

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展望台からの眺めは満喫したが、教会内の見学は、6時ですでに閉館。周りは閑散としていた。

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上段が昨日のミヒャエリス教会見学チケット、下段がこの日の市庁舎見学のチケット。

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明日の夕食を楽しみに。ラプスカウスという料理が有名だそうだ。 

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きのうもガイドさんに案内してもらっていた、レモン売りのおばさんの像で、左手の人差し指に触れると運が訪れる?とかで、やけに光っていた。彼女(1841~1916)は晩年の20年間は街でレモンを売っていたそうだが、なぜ像になるほど?聞きそびれてしまった。

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スープもおいしかったです。どちらが私のか。

 

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2019年8月26日 (月)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(13)ハンブルグへ、旅のつまづき

 旅も後半、アムステルダムからハンブルグへ飛ぶので、その日の朝、娘にメールをすると、大阪のG20の報道が、やかましい、ホテルがどうの、夕食のメニューがどうのと、中身のないことばかり・・・、との返信。私たちもホテルで現地のテレビのニュースを見ていたが、G20関係は数十秒の世界で、安倍首相の姿が映ったと思ったらすぐ消えた、程度のことだった。

 早めにスキポール空港に着いて、少しばかりの買い物を済ませた。10時45分には離陸、地上は、しばらく、細長い白いビニールハウスが目立っていたが、やがて細長い畑のモザイクに変わっていった。うとうとしているうちに、ハンブルグ空港に着いた。ところで、ここで、思わぬトラブルにふたたび遭遇することになった。

 ふたたび?というのは、思い出すのもイヤで書かなかったのだが、実は前日、ユダヤ歴史博物館に向かう途中で、私が、自転車道と歩道の境目に躓いて、派手に転倒してしまったのだ。ズボンの膝は破れ、手にしていたカメラが遠くに飛んで行ってしまったのである。前後に歩いていた人が寄ってきて気遣いの言葉をかけてくれるし、日本語とは違うアクセントで「マッサージ、いいよ、マッサージ!」といって通り過ぎる女性もいた。ともかく幸いにも、膝は、冷房用に着けていたズボン下と、ひざ痛の貼り薬のおかげで、傷はなかった。ただ飛んで行ったカメラの調子が悪くなって、望遠のまま動かなくなってしまったのである。これからは、妙な望遠での写真か、夫のカメラから頂戴した写真となる。

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これは転んだ日の写真ではないけれど、自転車道と歩道との境はこんな風で、微妙な段差がある。自転車道の往来は一方通行で、かなりのスピードを出しているので、気をつけてはいるのだが、少しはみ出して、後ろから大声で叱られることもあった。

 ハンブルグ空港では、予定通り12時前には手続きが終わったのだが、指定のベルトで荷物を待っていても、いっこうに、私たちの荷物が回って来ない。同じ便の客たちはとっくにいなくなっていた。こんなことは初めてのことで、近くの係員に訊くと、次の便になった、ともいう。途方に暮れて、バゲッジのトレースセンターに並び、事情を話せば、こともなげに、運がよかったら、今晩か明日にはホテルに届くはずだと、日常茶飯のような対応だった。そんなことにも手間取って、一度ホテルに入ってから出かけるつもりだった、午後2時から、市内ガイドの方との待ち合わせに遅れてしまった。かなり重い手荷物を持ったまま、約束の市庁舎前まで、たどり着く。幸いホテルは、近くのゾフィテルだったので、まず手荷物のザックはホテルに置いていきましょう、というガイドのYさんの勧めで、チェックインをした。やはりここも、シャワーだけでバスタブがないのはいささかがっかりしたものだが、荷物は最小限度にして部屋を出た。Yさんは、フロントで、今晩にも届くかもしれないバゲッジのことをしっかりと確認してくれていた。

 だいぶ遅れたが、市内のウオークツアーでは、予定通りのコースとはいかなかったけれど、市庁舎→ミヒャエル教会→旧商工組合福祉住宅→エルベトンネル入り口→船でフィルハーモニー→市庁舎、ということにだった。ちょうどこの日は、オートバイの日とかで、ドイツの各地から、自慢の愛車で走りまわっているので、道路を渡るときは気を付けてくださいと、Yさんおことばだった。荷物の心配もあり、なんと昼食抜きのどこか落ち着かない一日だったが、聖ミヒャエリス教会展望台からの眺めは素晴らしかった。この日、1万2009歩。

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1897年に完成した市庁舎は今でも使用している。647室もあってバッキンガム宮殿を凌ぐというが、地盤は決し堅固な土地ではないので、土台には4000本の樫の杭が打たれているそうだ。外壁の窓の上の飾りには、貿易で繁栄した自由都市らしく、市民の職業にまつわるものや相手の国の象徴のようなものが彫られていて、豚の頭だったり、ケーキだったり、ちなみに日本は、菊の紋章が彫られている由。高くてよく見えなかったが。また、正面のバルコニーには、ラテン語で「先人たちの勝ちとった自由を後世の人々が厳粛に守らんことを」が掲げられているという。

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ホールまでは誰でも入れる。正面に市長の部屋に通じる階段で、さまざまな客を迎えるが「私は誰にも膝まづかない」といういうのが引き継がれているとも。翌日の市庁舎ガイドツアーに参加することにした。

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市庁舎の近くの路上にあった「stolper stein つまづきの石」と呼ばれるもので、この場所近くに住んでいたユダヤ人がナチスに連れ去られ、亡くなった人の名前と日付などが彫られた銅板が敷石の間にはめ込まれ、それを後の人も記憶に留め、追悼しようとすものである。そういえば、、ベルリンン国会議事堂の横の広場にも少数民族のシンチ・ロマのナチス時代の犠牲者追悼記念碑に囲まれた丸い池の周辺の敷石には、犠牲者の名前が記されたこと、ホロコーストの追悼施設が議事堂ブランデンブルグ門の間に置かれていたことなどを思い出していた。日本人の歴史認識と、これほどまで違うのはなぜなのか。

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上の三葉は、ミヒャエル教会の展望台からエルベ川を望む。

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展望台から市街地の方を望む。中央の高い尖塔がニコライ教会跡。その右手がカタリーナ教会、左手の市庁舎の先の聖ペトリ教会と聖ヤコビ教会と思われる。ニコライ教会跡は、ホテルからも近いので、後日、朝食前の散歩で出かけた。

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木組みの旧商工組合福祉住宅に挟まれた路地、17世紀、1676年に当時の商工組合員の未亡人のために建てられた住宅だった。日本はまさに江戸時代の初期、「福祉」などという発想があっただろうか。1863年から100年ほどは市の老人ホームだったのを、1970年代には改修の上、博物館と店が入ったそうで、レストランも来られるといいですよ、とYさんもお勧めだったし、いろいろな楽しそうなお店もあったので、ぜひと思っていたが、再訪は果たせなかった。

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トンネルまでは、大型のエレベーターで降りる。1911年完成当時、車も乗れる巨大なエレベーターが何基も備えられ、驚異の的だったらしい。現在は車のほとんどが1975年完成の新エルベトンネルを走る。

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派手な黄色い船がHVV運営のれっきとした公共交通機関の定期船で、上の白いのが遊覧船であった。定期船は、地下鉄などと共通の一日乗車券で乗れる。

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甲板はまるで遊覧船の気分である。

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右の奇妙な建物が、2016年完成した、エルプフィルハーモニーの建物で、完成までには、工費の拡大で、すったもんだがあったらしい。

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私たちは、たった10分にも満たない船の旅だったが、川風に汗も一時引っ込んだようだった。

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ホテルにも近い、運河沿いのアルスターアーケードのレストランでの夕食となりました。

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2019年4月 8日 (月)

「文京区春日・小石川=坂と文学をめぐって」に参加しました(2)伝通院から安藤坂・牛坂・金剛寺坂・今井坂・吹上坂・播磨坂を経て石川啄木終焉の地へ

 善光寺坂から伝通院へは新しい道ではなく旧道をのぼる。徳川家康の生母、於大のために建立、千姫の墓所もある。大河ドラマの世界にはあまり関心はないのだが、ここには、古泉千樫、佐藤春夫、柴田錬三郎らの墓地もある。かつては、一帯でもっとも見晴らしのよい高台であったというが、いまでは、林立するビルしか見えない。ようやくここで休憩をとることになって、ホッとする。お休み所に入ると、熱いお茶もセルフサービスで飲める。

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山門の左手には、淑徳学園がある
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著名人墓所案内、高畠達四郎。橋本明治の名もあった
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墓石の文字は釈迢空の筆になるという

 お休み所の裏側の広い窓からは正面に「簡野道明」(18651938)の墓石が見えた。「えッ、誰だっけ、見たことのある名前!」と思っていると、参加者の一人が「漢和辞典の人よ」で、思い出す。そう『字源』(1923年)の編者ではなかったか。差し入れの和菓子をごちそうになり、15分間の休憩もあっという間に過ぎた。清河八郎のお墓参りができてよかったと、参加者のお二人が感想を述べていたのが少し意外ではあった。

 伝通院前の広い道を進み、春日通りの交差点を渡った左手に、一葉の妹、樋口邦子(18741926)が夫妻で営んでいた礫川堂文具店があったところ、書籍も扱っていたという。関東大震災で家を失った幸田露伴に、先の善光寺坂の家を紹介したのが邦子だったらしい。青木玉の作品、ムクノキの前の「小石川の家」である。春日通りを渡った先が安藤坂で、その中ほどに、中島歌子(18411903)の「萩の舎跡」の立て札のみが立つ。ここに樋口一葉、田辺龍子(三宅花圃)も伊藤夏子も通ったはずだ。

 私たちは、安藤坂をくだって、牛天神(北野神社)に向かった。神社までの階段は急で、私にはかなりきつかったが、ここを牛坂と呼ぶらしい。のぼりきって本殿の右手には、中島歌子の歌碑がある。一息ついてくだった先には、かつて神田上水が流れていたところで、いまは暗渠となって、巻石通りとよばれている。

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牛天神参道の牛坂
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中島歌子歌碑「雪中竹」と題して
「ゆきのしたにねさしかためて若たけの生ひいてむとしの光ぞおもふ」
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 かつては、牛坂下のあたりまでが入江であったとも

ふたたび安藤坂に戻り、のぼって左折したところには、川口アパートメントが現れる。案内の大和田さんからは、川口松太郎・三益愛子と川口浩・野添ひとみなどという懐かしい名前が飛び出した。川口家の住居を兼ねたマンションであった。1964年、いわゆる高級マンションのはしりとして話題を呼び、多くの芸能人が住んでいたことでも有名だったのではないか。こんなところにあったのだ。外観はだいぶ、年季が入っているようにも見えた。反対側は永井荷風の生家跡で、荷風の父親がこのあたりに大きな屋敷を構えたというが、いまはマンションが立ち並ぶ。そして突き当たるのが、金剛寺坂で、漱石「それから」の代助が三千代のもとに通う坂だったとの説明を受けると、なんだか義務感で読んだ小説の一つではなかったかと思い出すのだった。

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川口・三益夫婦の子息たちは、何かと話題の多い人たちだったと記憶しているが、早世だったのでは。今はどんな芸能人が住んでいるのかな

 金剛寺坂を巻石通りへとくだって西に進むと右手に、金富小学校、本法寺がある。本法寺は夏目家の菩提寺という。漱石自身の墓は、雑司が谷墓地に立派なものが建てられていて、私も、一度お参りしたことがある。少し戻って、金富小学校の横の坂、今井坂をのぼると、「徳川慶喜公終焉屋敷跡」という表示に出会う。植栽が整えられた庭園に見えた。塀に沿って行くと、「国際仏教学大学院大学」の門があるのだが、初めて聞く名前だな、と思って帰宅後調べてみると、霊友会の研究所が基礎となって1996年設立された大学院のみの大学で、5学年20名の定員だそうで、2010年にこの地に移転したという、日本で一番小さい大学か?キャンパス内になるのか、慶喜の時代の大イチョウだけは健在のようだった。

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文京区が大幅な町名変更を開始したのは、1964年からだったので、私はすでに、大学を卒業、生活圏は、このエリアからは離れている。この案内板の最後にはつぎの短歌が記されていた。
「この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶふかくなりたり」(釈迢空)
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本法寺の桜が見事であった。この本堂に向かって左に、夏目漱石が1888年1月、墓参の折に母を偲んで詠んだとされる句の碑がある。
「梅の花 不肖なれども 梅の花」
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金富小学校脇の今井坂を上ると左手に「国際仏教学大学院大学」の門があり、そこから見えるイチョウ、「徳川慶喜公屋敷大銀杏」と記された石柱が
右端に見える

 さらに、小日向台の住宅街を抜けて春日通りに出ると、同心町、竹早町の旧町名表示版に出会う。私には、新しい中学校の印象があるのだが、なんと開設は1960年だった茗台中学校、その角を左に曲がると、突然、長い石段の坂を見下ろすことになる。これが庚申坂である。この谷を下った先が切支丹坂ということになるらしい。私たちは引き返し、信号を渡って、吹上坂をくだることになる。

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この庚申坂をくだって、地下鉄のガードを越えた先に切支丹屋敷跡がある。
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急な庚申坂と緩いのぼりの切支丹坂なのだが、庚申坂が切支丹坂と間違われることがあるといい、つぎの短歌も、この庚申坂を詠んだとされる。
「とぼとぼと老宣教師ののぼりくる春の暮れがたの切支丹坂」(金子薫園)

  途中、マンションの横の細い道を入って行く一行の後に続くと、石垣とマンションの間に細い枯山水のような庭の奥まったところに「極楽水跡」があった。極楽水とは、伝通院開祖の上人が、引き出した名水の泉であったということで、田山花袋(18721930)の「蒲団」にも登場しているというが、そんな記憶はもちろんない。いまは、小石川タワーマンションの敷地の一部の細い緑地帯となって残っている。

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奥に井戸が見えるが、現在は、水が湧き出ているのだろうか。こうした形で残されていることに、ほっとした気持ちになった。

 

 緩い坂をさらにくだれば、正面の街並みの背後に広がる緑は、小石川植物園で、交差するのは千川通り。右の角には、共同印刷があるはずである。現在は、白い工事シートで全面覆われ、改修中で、社屋の姿はみえない。千川通りは、もともと千川、小石川とも呼ばれるどぶ川であって、洪水も起こっていたらしいが、1934年、暗渠となり千川通りになった。千川の上流は、池袋の立教大学の北側に流れる谷端川で、私の子供のころは、そのあたりのことを長崎とか千川と呼んでいたことを思い出す。こちらの千川が暗渠となる前の小さな工場街を舞台にしたのが「太陽のない街」(1929)で、作者の徳永直(18991958)は、共同印刷の植字工であった。

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改修中の共同印刷社屋、正面の茶色い看板には、大きく「吹上坂」とある。 
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 かつて、小石川には河童が出るなどといわれた寂しいところで、この坂下には「播磨たんぼ」が広がっていた。大正時代はその面影を残していて、つぎのような短歌も読まれていた。
「雑然と鷺は群れつつおのがじしあなやるせなきすがたなりけり」
(古泉千樫)

 時代は下って、1960年代の大学のころ、友人からは、よく氷川下セツルメントへの誘いを受けていたのだが、当時の私の関心の向くところではなかった。今から思えば、少しでも参加しておくべきだったかなとも。今回の散歩コースからは外れるが、植物園の西側に、簸川(ひかわ)神社とその脇の氷川坂の下には、氷川下セツルメント発祥の地の記念碑が建っているそうだ。また茗荷谷駅前の春日通りを渡った直ぐ先に、「大橋」の表札のある大きな門構えのお屋敷があった。まったく人の出入りのない、開かずの門だったような記憶があるが、博文館創業の大橋佐平家一族の住まいだったのだろうか。今回ちょっと足を延ばして、確かめておけばよかったとも思った。

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播磨坂、桜並木の遊歩道、週末なだけに、かなりの賑わいであった。

 文学散歩は、いよいよ最終盤に入り、つぎは、週末の花見客でにぎわう播磨坂の桜並木の遊歩道を、ふたたび春日通りに向かってのぼる、その中ほどを右に折れると、マンションとマンションの間に、石川啄木の歌碑があり、その横にはガラス張りの顕彰室があった。ここが、石川啄木終焉の地であったのだ。歩き始めてすでに3時間余、私の足はすでに疲労の極度に達していた。折も折、大和田さんから、写真撮りましょうかと声をかけていただいたので、啄木の歌碑の前で撮った一枚は、なんとも情けない疲れ切った姿であった。さらに進むと左手に小石川図書館があり、その前には「団平坂」の表示板があり、道の向かいは竹早公園であった。

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石川啄木終焉の地
啄木は、1911年8月、本郷の喜の床から、この地の借家に移り住んだが、翌年1912年(明治45年)4月13日26歳の生涯を閉じる。碑面には晩年の二首が、原稿用紙一枚の草稿そのままに写し取られている。
「呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。 凩よりもさびしきその音!」
「眼閉づれど 心にうかぶ何もなし。さびしくもまた眼開けるかを」
(啄木)

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          ガラス張りの、広くはない顕彰室は、歌碑と共に、数年前に市民有志により建てられたという、新しいものである。

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  小石川図書館の前に建てられた、この案内板にも、啄木の最晩年の直筆ノートから一首が記されていた。
「椽先にまくら出させて、ひさしぶりに、ゆふべの空に親しめるかな」(啄木)

迷っていた二次会だったが、どこか座りたい、休みたい一心で、参加することにして、茗荷谷駅前の路地を入った、たしか「和来路」という店ではなかったか、十人ほどで、にぎやかにおしゃべりをしているうちに、何とか帰途につく気力をとりもどすことができた。早めに失礼して、7時半過ぎ、家の近くのバス停で、初めて傘を開いた。降られずによかった、この日の万歩計は16100歩であった。

  ふたたび、小石川の坂の名前のおさらい・・・。

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2019年4月 3日 (水)

「文京区春日・小石川=坂と文学をめぐって」に参加しました(1)富坂から堀坂・六角坂、善光寺坂へ  

 新元号発表、代替わりの迫る中ながら、3月30日、日本社会文学会が開催する「文学散歩」に初めて参加した。今回は、「春日・小石川」ということで、何とか参加したいと思っていた。というのは、池袋で育った私は、地元の池袋第五小学校(今は廃校・統合され池袋小学校)の卒業後、中学校から大学は、文京区竹早町、大塚町、大塚窪町(旧町名)にある学校に通っていたこともあって、10年間もウロウロしていたエリアだったのである。池袋東口始発の都電17番線には、伝通院行、春日町行、数寄屋橋行があって、中学校は、停留所の同心町で下車していた。高校・大学は丸ノ内線の茗荷谷下車で、余裕をもって登校することができなかった、当時の私は、茗荷谷駅から教室まで、いつも駆け足のギリギリセーフのような日々だった。それにしても、いま思えば、あまりにも周辺のことを知らな過ぎたし、無関心でもあったのだ。その後、何かのついでがあれば、すっかり変貌してしまった学校近辺を歩く程度のことしかしていなかった。

 週末の午後、後楽園駅の礫川公園前に集合、総勢15人、案内は大和田茂さん。参加者がそろうまでの間、近くで「天皇制を終わりにさせましょう」とビラを配っている人がいた。その日は、近くの文京区民センターで、「終わりにしよう天皇制」ネットワーク、「おわてんねっと」の集会が開かれる。実は、そちらの集会も参加してみたかったのだが、時間がまるでかぶっているのであきらめたのだった。

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後楽園駅頭で配布していたチラシ

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大和田さんが苦労しての散歩コース地図

 

 礫川(れきせん)公園は、文京区シビックホールや区民センターでの催しの際、横を通り過ぎるだけだった。サトーハチローの「小さい秋みつけた」の碑とハゼノキ、幸田文家庭から移植されたハンカチの木、はじめて見て回った。サトーハチローは向ヶ丘弥生町に住んでいて、そこに記念館があったそうだが、閉館の折、庭から移植したのが、童謡にも登場する、このハゼノキだったらしい。公園には、立体的な段状の噴水があり、壁泉というそうだが、水は流れていなかった。振り返れば、左手の空には、ジェットコースターが轟音と共にめぐってくる。ここからが西富坂というところには、春日局の像があったが、いかにも新しい。といっても、1989年の大河ドラマ「春日局」放映後に建てられたらしい。彼女の辞世「西に入る月を誘い法を得て今日ぞ火宅をのがれるかな」の歌碑もある。この辺一帯は、水戸藩の屋敷だったのを、庭園の後楽園のみを残し、1875年陸軍の東京砲兵工廠となったが、1933年小倉へ移転、跡地を後楽園スタジアムに売却している。後で知ったのだがすぐ近くに、東京都戦没者霊苑があったのだが、知らずに、お参りはできなかったのが残念だった。

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手前がハゼノキ、奥がハンカチの木、ビルの上には、後楽園遊園地のジェットコースターが見える

富坂には進まず、春日通りを渡って、源覚寺=こんにゃく閻魔さんで有名な浄土宗の寺に向かう。眼病の老女が好物のこんにゃくを断って供え、祈願し続けたところ、夢に現れた閻魔王みずからが片目を差し出して治してくれた、というのがいわれらしい。閻魔王の片目がないのが、お堂の中が暗すぎてよくわからなかったが・・・。一葉の「にごりえ」にも登場するという閻魔様の縁日は今でも続いているらしい。山門の正面の通りを300mほど行くと一葉の終焉の地丸山福山町だという。「にごりえ」はもう一度読みなさねばならないが、いまの私によみがえるのは、今井正監督のオムニバス映画『にごりえ』(1953年)の「にごりえ」である。「酌婦」のお力の淡島千景と山村聡、お力へ入れあげ、身を持ち崩してしまったが、思いを断ちきれない源七の宮口精二と妻の杉村春子。高校生の頃、どこかの名画座で見た記憶がある。暗い画面の中の宮口・杉村のセリフを聞きとるのに精一杯だったような。

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閻魔王に供えられたこんにゃくの山

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ここが急な堀坂、 若い人にもややきつそうな、まして・・・

 源覚寺を裏道から少し歩いたところに現れたのは、急な堀坂だった。通りの片側は、大きなマンションが建築中であった。上りつめた丁字路の左手には、島木赤彦(18761926)が下宿し、『アララギ』の編集所にもなっていた「いろは館」跡の碑があった。右手に少し進むと、「三浦梧楼将軍終焉の地」という碑があった。三浦梧楼(18471926)といえば、山形有朋の宿敵、陸軍中将から政界入りをして、枢密院顧問になっている。朝鮮の公使時代、1895108日閔妃暗殺を企てたとされる、あの人で、1962年、富坂二丁目町内会名の解説によれば「政界軍部の御意見番として隠然たる勢力」を持ち、町内会設立にも尽力、「将軍の偉徳を偲んで」建てたと記している。こうした評価だけが定着してしまうことには、危惧を感じるのだった。

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堀坂の戸建ての家の壁にはこんなポスターが張られていた

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いろは館跡の、小倉遊亀の筆になる小さな碑。右手にはいろは館という小さなマンションが建つ 

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「三浦梧楼卿終焉の地」とある


小石川2丁目となった、その緩い坂、六角坂をさらに下ると、左手には、「前川」の表札のある大邸宅の塀が続き、下った先の右の角には、立花隆の仕事部屋兼書庫という円筒のような猫ビルがあった。

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六角坂を下りきった角に立つ猫ビル 

くねった道沿いに進めば、そこは善光寺坂と呼ばれる坂で、右手、中ほどには伝通院の塔頭の一つである善光寺があり、さらに進むと、慈眼寺、沢蔵司稲荷が続き、上り切ったところには、道の中央に大樹がそびえている。その手前には幸田露伴の旧邸があり、次女の幸田文が住み、現在はその娘の青木玉が住んでいるとのことだが、背の高い木戸の脇には「幸田・青木」の表札が見えた。

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慈眼寺の芭蕉の句碑「一しぐれ 礫や降って 小石川」

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沢蔵司稲荷の狐のねぐらだった「お穴」をのぞく

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善光寺坂を上りきったところの道の真ん中に立つのは、ムクノキ、沢蔵司(たくそうず)の魂が宿ているといわれている。角の石塀に囲まれた家が幸田露伴の旧邸、戦後建て直しているが、次女の幸田文とその娘の青木玉が住む。

 

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2018年12月 7日 (金)

そうだ、京都、行こう!?紅葉の大河内山荘庭園へ

11 月下旬の連休中の京都は、混雑が予想されたが、連休最後の日曜日の所用ついでに、たまには京都の紅葉でもということになった。夫は、嵐山のトロッコ列車をと希望していたが、満席で予約を取ることができなかったそうだ。それではということで、かねてより、かつての時代劇俳優大河内伝次郎(18981962)の広大な別荘が、公開され、その庭園、紅葉も見事だと聞いていたので、出かけることになった。そして、さらに、この折しかないのではと、いうことで、夫の生家では家族ぐるみでお世話になったK先生、私もポトナム短歌会で指導いただいた先生の墓参を予定していた。日曜日の夕食は、京都へ転勤して4年目の娘の案内で、四条烏丸のイタリアンレストランとなった。静かな隠れ家的な雰囲気で、上品なコース料理をいただいた。娘とは、翌日の昼食も約して別れた。少し歩いて、池坊短大近くの宿、まずは熱い緑茶でくつろいだのだった。

 

京都霊園へ

寒い、冷え込むと言われた翌11月26日は、晴天に恵まれ、少し歩くと汗ばむほどだった。K先生の墓地は阪急桂駅からバスで、沓掛インターの近くという京都霊園である。成章高校行きバスで、駅を出てしばらくは、京都の町屋造りの立派な家がかなり見受けられた。新しく建て直した家も、こじんまりしたマンションも続く。国道9号線を進み、京都市立芸大辺りを過ぎると、沿道の様子がかわり、下車の停留所「沓掛西口」までには「沓掛」が付く停留所がやたら多く、紛らわしい。高架の高速、京都縦貫自動車道が見えてくると、その直下が「沓掛西口」だった。下車するなり「京都霊園」の立派な碑が眼に入る。墓地の番地はわかっていても、探すのは大変なので管理事務所に寄ってくださいと言われていた。斜面にひろがる霊園は、幾つもの区画に分かれている。地図で説明を聞いているうちに、探すのに時間がかかるでしょうからと、ありがたいことに車で案内してくださることになった。中腹の休憩所で下車、自動販売機でお花を買って、また車で上ったあたり、表示があまりはっきりしていないので、案内の人も、角々の墓地の名前を確かめながら進んで、ようやくたどり着く。先生が亡くなられたのは、1979年、73歳であった。先生とその両親のお墓をここに建てられたのは、長男のMさん。平成に入って、奥様に続き、Mさんも62歳の若さで亡くなっている。夫の実家の義姉たちは、お参りしているが、私たちは果たせないでいた。墓参を済ませて、ほっとした思いで、参道の紅葉や見下ろす京都の街並みを眺めながら、ひたすら石段を下りたのだった。

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大河内山荘庭園へ

Dscn2324_2 亀山公園から大河内山荘へ向かう途中の右手から竹林の道が続く。行きも帰りも、御覧のような盛況ぶりである 

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京都が観光客でごった返しているようすが、土曜日の番組でも放映されていて、渡月橋の混雑ぶりは半端ではなさそうだった。バスも積み残しがあるとも報じていた。その嵐山に向かう、桂駅から乗った阪急嵐山線はさすがに混んでいた。終点の嵐山駅から中の島へ、そして渡月橋への道は、なかなか進みずらく、ときどき車道に出ながら、先を急いだ。目的地の大河内山荘へは、案内書によれば徒歩15分ということであったが、桂川沿いの遊歩道の人込みをかき分けるように進み、天龍寺への入り口を過ぎ、亀山公園、大河内山荘への道しるべに沿って上り始める。観光客はやや減ってはきたが、のぼり坂は、私には結構きつかった。すでに、30分近く歩いているのにと心配になるが、ようやく入り口が見えてきた。入園料は1000円ながら、お抹茶とお菓子つきということで、必死に歩いてきただけに、お休み処の一服はありがたかった。

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回遊式の起伏も多い日本庭園の手入れは行き届き、紅葉も見事なものだった。昭和の初めから30年ほどかけて、約6000坪の庭園を造り上げていったそうだ。その主、大河内伝次郎と言えば、私は、戦後の東映時代劇での多くはわき役としての活躍していた頃のことしか知らないのだが、今どきのタレントの別荘とは違い、昭和前期のスターは格が違うな、文化が違うなと、感心するのだった。

Dscn2328        大乗閣、どこも手入れが行き届いていた

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Dscn2337             右手に小倉山をのぞむ


 年休を取っていた娘とのランチの約束が、京都駅のホテル内のレストランで、1時だったので、遅れてしまうとばかりに、急ぎに急いだ。そのさなか、早めに店に着いた娘からは、勤め先の会長が「店に来ているよォー」とのメールが入ったりした。この頃は、忙しいとかで、めったに帰省しない。10月には、東京出張の折、私たちが東京に出向いて夕食を共にしたのだが、そんなパターンができてしまいそうではある。京都の紅葉も堪能できたし、まあ、いいかぁ・・・。

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        201811dscn2342遊歩道から、渡月橋をのぞむ。廃船がただよう大堰川、上流は保津川と呼ばれ、 渡月橋から先は桂川と呼ばれているそうだ

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2018年7月10日 (火)

8年ぶりの佐原、なつかしい、そして思いがけない出会いも

 疎開地佐原については、たびたび、このブログでも触れているが、78日、訪ねる機会があった。連れ合いが、佐原でのある集会で話す予定があると聞いて、ついてゆくことにした。


新しい佐原駅


 前回、家族
3人で出かけたのは、201010月、神幸祭の翌日だった。8年ぶりということになる。駅と駅前の様子はがらりと変貌を遂げていた。駅前広場には、伊能忠敬らしい銅像が立っていた。

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正面の右手、今は瀟洒な平屋だが、私の記憶では、2階建ての、1階は駅前食堂「八代商店」があった・・・

 私の脳裏にある佐原駅は、疎開中の敗戦前後の「停車場(テイシャバ)」で、当時の駅舎は、ネットで見つけた、まさに、下の写真の通りである。駅の南側になる。私たち家族が疎開して、まず身を寄せたのは、岩ケ崎の母の生家であり、そこから転居した仁井宿の馬市場の旧管理人さんの家であった。駅前には、食堂をやっていた親戚の家があって、場所柄もあり、親戚中の人たちがよく立ち寄っていた。私たち家族も2階の部屋に泊まらせた貰った記憶がある。列車が駅に着くたびに、2階はびっくりするほどよく揺れて、そのたびに目を覚ましていたらしい。1階の食堂の調理場の真ん中に井戸があって、土間だったのか、タタキだったのか、立ち働いていた人たちの姿も覚えている。「停車場」の駅員さんや交番の駐在さんも食堂のお得意さんだったらしかった。当時を知る人たちはもういない。

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正面は旧佐原駅舎、右は駐在所

新しい駅舎は、20113月開業とのこと、私たちが前回訪ねた翌年、東日本大震災直後だったことになる。南口広場の整備は2015年というから、まだ間もないことがわかった。その日の集会の会場は、駅の北口、佐原中央公民館だった。この建物も、跨線橋もあたらしい。

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数十年ぶりに従姉と会って

昨年から、ヒヨンなことから電話でのやり取りが始まったのであるが、数十年ぶりに従姉のMさんと会うことになっていた。見つけることができるだろうかとの不安もあったが、すぐにわかった。彼女は、住まいの東京から今は誰も住んでいない佐原の生家にときどき通っているとのことであった。その間に、亡くなったお連れ合いの仕事場でもあったアメリカにもよく出かけるという。数日前に帰国、成田から佐原に直行したという。そのエネルギーに脱帽しつつ、短い時間だったが、話すことができた。私の母の妹である、彼女の母親も、1950年代後半、母と一緒に作歌に励んでいたのは知っていた。そしてなんと、その叔母の歌が、毎日新聞に載っていたのを、Mさんは、今回の佐原滞在の折に、生家の引き出しから見つけたというのである。そのコピーには、

・いつになき夕焼のして厨映え菜刻むわれの指先あかし


とあった。

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 昨年、やはり偶然見つけた、母の短歌については、以下のブログにも書いたところだが、叔母の短歌も見つかったとは・・・。

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晩年の母の一首、見つけました

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/11/post-3edd.html

 母は、女流短歌連盟主催第1回「女人短歌大会」のに入選、第2回に叔母が入選していたことがわかったのである。子育てから手が離れた、母と叔母の姉妹が、切磋琢磨していたことが、よくわかるエピソードであった。ともに『ポトナム』の阿部静枝先生の指導を受けていたのである。私がまだ短歌を詠み始める前のことでもあった。


そして佐倉からも

今回の集会には、なんと、佐倉からもお一人駆けつけてくださった。当日78日の午前中は、地元の9条の会の世話人会だった。私は欠席して、連れ合いに同行したのだが、その会の代表のTさんは、午前中の世話人会を終えて、高速を走ってこられたという。事前に伺っていなかったので驚いてしまった。ご実家が牛堀なので、帰りにはそちらに立ち寄られるとのことであったが、思いがけず、うれしいことだった。佐原は、東京の大学に行くまでは、水郷大橋を越えて、本や画材を求めにやってきた町だったという。

集会での話の内容は・・・

なお集会のオープニングは、南条忠夫さんの演歌「利根の佐太郎」「祝い船」「夫婦春秋」であったのは、なかなかの趣向で、年期の入った見事な唄いぶりであった。その日の集会は「市民連合ちば10区1周年記念」とのことで、連れ合いの話は「安倍政権を退陣させる攻めどころ」と題して、森友・加計問題で追いつめる二つのルートと安倍政権への経済政策への代案―消費税に代わる財源構想、についてであった。とくに、後者については、普段聞かされる話しながら、聞くほどに、腹立たしさが募るのだった。

発行された国債の大部分は銀行が買い取り、それを日銀がまとめて預かっている367兆円、私たちの銀行預金の十倍もの利子をつけているのだから、お金が出回るわけがない、というのだ。さらに、法人税の減税分で労働者の給料を上げ、工場の海外進出を抑えるなどの目的が果たせるどころか、逆行し、非正規は増えるし、社会保障負担分をも抑え、内部留保が増えるばかりだという。この無益な法人税減税を中止し、内部留保課税に踏み込むべきだ、と強調する。内部留保税を二重課税とする論は、法人税減税の無益さと消費税こそ二重課税ではないかの論を破ることができないはず、と。

途中、雲行きも怪しかったが、夕方には、車窓から、遠くの筑波山を眺めながらの帰途となった。乗り換えの成田駅界隈は、新勝寺の祇園祭の最終日の由、大変な人出であった。


8年前の佐原紀行については、以下をご覧いただければと~。 

2010年10月14日~15日
祭のあとの佐原をゆく(1)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/10/post-7fec.html

祭のあとの佐原をゆく(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/10/post-3ba9.html

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2018年6月 3日 (日)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(14) まだあれこれと

 私たちの拙い旅、私の気ままなつぶやきにお付き合いいただきありがとうございます。まだまだ、書き足りないことばかりのような気がしています。

 ワルシャワでは、帰る日の午前中、ホテルの周辺、大学の周辺を、もう一度まわってみました。その一部と短い旅を振り返って、気になるスナップの一部をお伝えして終わりたいと思います。

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ザヘンダ国立美術館、入館のチャンスがなかった

Dscn1841無名戦士の墓の真向いのピウツスキ―元帥像、この人への評価が変わって、現在は多くの人から顕彰され、ベルベデーレ宮殿前にも立派な立像があった

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聖十字架教会、再訪、ショパンの心臓が収められているという。教会近くのショパンのベンチ、ゆかりの場所でゆかりの曲が、playのボタンを押すと聴ける。ワジェンキ公園のショパン像の近くにもあった

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Dscn2078ワルシャワ大学正門、正面が旧大学図書館、下は、図書館の入り口

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Dscn2101昨日の賑わいとうってかわって静かな大統領官邸

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少し早めに、ワルシャワ空港に向かったが、ルフトハンザ1349便(フランクフルト行き)の14時40分の離陸時刻が近づいてもなかなかゲイトが開かない。1時間ほどの遅れでようやく離陸、午前中の疲れが出たのか二人ともうとうと。フランクフルト発の羽田行きの搭乗時刻が過ぎている。走りに走って、出国手続きをしようとすると、ここは、フランクフルトではない!デュッセルドルフだというのだ。エッ?キツネにつままれたみたいで、何で?と思う。調べてもらうと、フランクフルトが悪天候のため、デュッセルドルフ着陸に変更されたのだという。ANAが代わりの便を手配しているから、少し待てということだった。それにしてもなんということだろう。機内で、そんなアナウンスがされていたのだろうか。たしかに、たびたびアナウンスは聞こえていたようなのだが、気にも留めていなかったし、他の乗客も特別な反応がなかったような気がした。出国の窓口近くで待機すること30分ほどがなんと長く感じただろうか。荷物はここで受け取って、ANAの窓口へと出国窓口の警官は、丁寧に案内してくれた。ピストルを持った警官に、従って歩く二人だったが、どんなふうに映ったかは別として心強かった。 夜の8時発の成田行きの便に搭乗、ようやく落ち着き、どっと疲れが出た感じであった。

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