2023年9月12日 (火)

図書館を支える人々~非正規と障がい害者の方々の待遇の実態(2)

2)障がい者の報酬はこんなことでよいのか

 国立国会図書館の資料のデジタル化は急速に進み、「図書館送信」と「個人送信」の範囲も拡大され、「個人送信」の場合は、自宅で、閲覧できるし、必要個所を印刷もできるようになった。その恩恵は計り知れない。

  国立国会図書館が進める蔵書のデジタル化に、障がい者の延べ約500人が本のスキャンやデータ入力などの作業をもって貢献しているという。図書館が自力でできる作業量でないことは理解できるし、しかも、その作業は決して単純ではなく、細かいノウハウも必要な作業だと思う。下記の毎日、日経の記事はともに、そうした作業に携わることが、障がい者の誇りとなり、やりがいにつながっている、という報道であった。

  ところが、共同配信の「時給222円を変えたい・・・」の記事を読んで愕然としたのである。障がい者雇用の実態がこれほどまでとは、知らなかったのである。近所で、障がい者のグループホームを運営している知人は、仕事探しの容易でないことを嘆いていた。商業施設でカートを集める仕事、近くのマンションの草刈りの仕事が見つかったの、と喜んでいたことがあった。また千葉市のハーモニプラザの売店では、作業所の人たちが作ったという紙すきの葉書や端切れで織り込んだコースターなどを買ったことがある。

 上述の222円というのは、作業所の全国平均の時給なのだが、国立国会図書館の上記デジタル化作業を請け負った日本財団が、全国8か所の作業所で実施し、月収がこれまでより3倍ほどの5万円にアップできたというのである。日本財団によれば、2022年度は、三億七千万円、約三万冊分を受注でき、これからも拡大の意向だという。

・「障害者、デジタル化一助に 根気必要な作業、黙々と 国立国会図書館」『毎日新聞』 (2022929日)https://mainichi.jp/articles/20220929/ddm/041/100/058000c

「「本を未来に」障害者誇り 国会図書館蔵書デジタル」『日本経済新聞』(2022103日)https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE260N90W2A920C2000000/

・(市川亨)「時給222円」を変えたい 障害者が国会図書館をデジタル化 品質に合格点「彼らの力なしでは成り立たない」『信濃毎日新聞』20221011日(共同配信)

・「障害者の実力」示す国会図書館のデジタル化作業(20221107日)日本財団ホームページhttps://blog.canpan.info/nfkouhou/archive/1431

・徳原直子「国立国会図書館のデジタルアーカイブ事業~資料デジタル化を中心に~」国立国会図書館 https://www.tamadepo.org/kouza/tokuhara20170203.pdf

  それにしても、月収5万円とは。何で、こんなにも安価な報酬なんだろう。何のための最低賃金制度なのか。調べてみると、最低賃金制度には、「減額の特例許可制度」というのがあって、最低賃金を一律で決めてしまうと、労働能力が著しく低い労働者の雇用機会が減ってしまうからという理由で、特例が設けられている。例えば、試用期間や職業訓練期間中の労働者と並んで「 精神又は身体の障害により著しく労働能力の低い者」との規定があって、障がい者雇用の場合は、これによって最低賃金制度から除外されてしまうのである。ずいぶんと雇用者にだけ都合の良い制度なのだろう。たとえ、特例を設けるにしても、「同一労働、同一賃金」の主旨を貫ける制度にしてほしい、思うのだった。

 ・「障害者雇用の賃金はなぜ安い? 最低賃金制度と減額特例」(2020年1月13日)『障がい者としごとマガジン』 https://shigoto4you.com/saitei-chingin/

 

 

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2023年6月30日 (金)

 梅雨空の下諏訪~今井邦子という歌人

  国家公務員共済の宿「諏訪湖荘」のビーナスラインの観光バスと北八ヶ岳ロープウェイを乗り継ぎ、坪庭一周という企画を楽しみにしていたが、あいにくの霧と雨に見舞われた。足に自信がなかったので、私は坪庭はあきらめ、ロープウェイ山頂駅のやたらと広い無料休憩所で、お弁当を一足先に失礼し、スケッチをしてると、40分ほどで一行は戻ってきた。足元がかなり悪かったらしい。観光バスの窓は拭ってもぬぐってもすぐ曇り、百人乗りも可というロープウェイの窓は、往復とも雨滴が流れるほどで、眺望どころではなかった。

 とはいうものの、前日は、夫とともに、下諏訪の今井邦子文学館とハーモ美術館を訪ねることができたし、翌日は雨もやみ、原田泰治美術館に寄り、館内のカフェでのゆったりとランチを楽しむこともできた。鈍色の湖面には水鳥が遊び、対岸の岡谷の町は遠く霞んでいた。諏訪湖一周は16キロあるとのこと、再訪が叶えば、内回り、外回りの路線バスを利用して美術館巡りをしてみたいとも。

 今井邦子文学館は、ところどころ、宿場町の面影を残す中山道沿いの茶屋「松屋」の二階であった。邦子(1890~1948)は、幼少時よりこの家の祖父母に育てられ、『女子文壇』の投稿などを経て、文学を志し、上京し、暮らしが苦しい中、ともかく『中央新聞』社の記者となったが、1911年、同僚の今井健彦(1883~1966。衆議院議員1924~1946年、後公職追放)と結婚、出産、16年に「アララギ」入会、同郷の島木赤彦に師事、短歌をはじめ創作に励むも、自らの病、育児、夫との関係にも苦しみ、一時「一灯園」に拠ったこともあった。困難な時代に女性の自立を目指し、1936年、「アララギ」を離れ、女性だけの短歌結社「明日香」社を創立、1943年には、『朝日新聞』短歌欄の選者を務める。戦時下は、萬葉集『主婦の友』と発行部数を競った『婦人倶楽部』の短歌欄選者をローテーションで務めいる。1944年、親交のあった神近市子の紹介による都下の鶴川村への疎開を経て、1945年4月には、下諏訪の家に疎開したが、1948年7月、心臓麻痺により急逝している。58歳だった。 

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  今井邦子への関心は、かつて『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史 1945ー1953』(阿木津英・小林とし子・内野光子著 砂小屋書房 2001年9月)をまとめる過程で、敗戦前後の女性歌人の雑誌執筆頻度を調べた頃に始まる。20年以上前のことだったので検索の手段はアナグロの時代であって、決して網羅的ではないが、今井邦子の登場頻度が高かったことを思い出す。最近では、邦子が、つぎのような歌を『婦選』創刊号(1927年1月)に山田邦子の名で寄せていることを知って、紹介したことがある(『女性展望』市川房枝記念会女性と政治センター編刊 2023年1・2月号)。

・をみな子の生命(いのち)の道にかゝはりある國の會(つど)ひにまいらんものを

 1924年5月の総選挙で、夫、今井健彦が千葉県二区から衆議院議員に当選している。18歳歳以上の男女に選挙権をという普選運動は、1925年3月が普通選挙法が成立、1928年3月の総選挙で初めて実施されたのだが、婦人参政権獲得運動の願いもむなしく、女性は取り残されたまま、そんな中で、久布白落実、市川房枝らによって創刊されたのが『婦選』であった。邦子が寄せた歌にもその口惜しさがにじみ出ているのだった。

  今井邦子文学館は1995年、松屋跡地に復元再建して開館、二階が展示室になっているだけだった。展示目録もなかったようだし、当方のわずかな写真とメモだけで語るのはもどかしい。それでも、斎藤茂吉や島木赤彦からの直筆の手紙、邦子から茂吉のへ手紙など、活字に起こされていて、生々しい一面も伺われて興味深かった。

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展示室の冒頭、詩などを投稿していた『女子文壇』と姉との写真が目を引いた。転任の多かった父の仕事の関係で、邦子は、姉はな子とともに、祖父母に預けられ、育てられ、両親との確執は続く。その姉との絆は強かったが、若くして死別する。

 1911年の結婚、翌年の長女出産を経てまとめた歌文集『姿見日記』(1912年)には相聞歌も見られるが、出産を機に、つぎのような歌が第一歌集『片々』(1915年)には溢れだすのである。

・月光を素肌にあびつ蒼く白く湯気あげつゝも我人を思ひぬ『姿見日記』
・暗き家淋しき母を持てる児がかぶりし青き夏帽子は」『片々』 
・物言はで十日すぎける此男女(ふたり)けものゝ如く荒みはてける
・入日入日まつ赤な入日何か言へ一言言ひて落ちもゆけかし

 1916年アララギ入会、島木赤彦に師事、1917年長男妊娠中にリューマチを患い、治療はかどらず、以降足が不自由な身となる。1924年夫の政界進出、1926年島木赤彦の死をへて1931年に出版した『紫草』では、赤彦の影響は色濃く、作風の変化がみてとれる。「あとがき」によれば「大正五年から昭和三年(1916~1928年)まで」の3000余首から781首を収めた歌集だった。私にとって、気になる歌は数えきれないほどであったが・・・。子供、夫との関係がより鮮明に表れ、思い煩い、嘆き、心が晴れることがなく、一種の諦観へとなだれていくようにも読める。身近に自分を支えてくれた人たち、その別れにも直面する時期に重なる。以下『紫草』より。

・眠りたる労働者の前をいく群の人汗を垂り行きにけるかも(砲兵工廠前)(「しぶき」大正五年)
・青草の土手の下なる四谷駅夜ふけの露に甃石(いし)は濡れ見ゆ(「夜更け」大正六年)
・病身のわれが為めとて蓬風呂焚き給ふ姉は烟にむせつ(「帰郷雑詠」大正六年)
・三年(みととせ)ぶり杖つかず来て程近き郵便箱に手紙入れけり(「荒土」大正八年)
・もの書かむ幾日のおもひつまりたる心は苦し居ねむりつつ(「さつき」大正九年)
・争ひとなりたる言葉思ひかへしくりかへし吾が嘆く夜ふけぬ(「なげき」大正十年)
・つくづくとたけのびし子等やうつし世におのれの事はあきらめてをり(「梅雨のころ」大正十二年)
・土の上にはじめてい寝てあやしかも人間性来の安らけさあり(「関東震災」大正十二年)
・夫に恋ひ慕ひかしづく古り妻の君が心の常あたらしき(「喜志子様に」大正十三年)
・真木ふかき谿よりいづる山水の常あたらしき命(いのち)あらしめ(「山水」大正十四年)
・うつし世に大き命をとげましてなほ成就(とげ)まさむ深きみこころ(「赤彦先生」大正十五年)
・みからだをとりかこみ居るもろ人に加はれる身のかしこさ(「赤彦先生」大正十五年)
・嘆きゐて月日はすぎぬかにかくに耐ふる心に吾はなりなむ(「梅雨くさ」昭和二年)  
・姉上の野辺のおくりにふみしだく山草にまじる空穂の花は(「片羽集二」)
・ありなれて優しき仕へせざりしをかへりみる頃と日はたちにけり(夫に)(「萩花」昭和三年)

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展示会で見た時は、気が付かなかったが、よく見ると謹呈先が「山田邦子様」となっているではないか。今井邦子が旧姓にちなむ、かつてのペンネームであった「山田邦子」あてなのである。かつての自分への「ごほうび」?「おつかれさま」?なのか、ユーモアなのか。

 1935年にはアララギを離れ、翌年には『明日香』(1936年5月~2016年12月)創刊し、みずからも萬葉集などの古典を学び、後進の指導にもあたる。女性歌人の第一人者として、歌壇ばかりでなく、一般メディアへの登場も著しい。その一例として、つぎの調査結果を見てみたい。戦時下の内閣情報局による『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)という部外秘の資料からは、当時の八つの婦人雑誌への女性歌人の執筆頻度がわかる。期間は1940年5月号から1941年4月号までの一年間の執筆件数ではあるが、今井邦子は、他を引きはなし、婦女界5、婦人公論2,婦人朝日2、婦人画報1、新女苑1で計11件、五島美代子4件、茅野雅子3件、柳原白蓮3件であった。さらに2件以下として四賀光子、杉浦翠子、中河幹子、築地藤子、北見志保子、若山喜志子が続いている。いわゆる、当時は「名流夫人」として、名をはせた歌人たちであった。今井健彦、五島茂、茅野蕭々、宮崎龍介夫人であったのである。

 また、短歌雑誌ではどうだろうか。かつて、敗戦前後の女性歌人たちの執筆頻度を調べたことがある(前掲『扉を開く女たち』)今回、若干手直ししてみると、次のようになった。もし、邦子が敗戦後も活動できていたら、どんな歌を残していたか、どんなメッセージを発信していたのか、興味深いところである。

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上記の表から、今井邦子と四賀光子は、敗戦を挟んで激減し、阿部静枝と杉浦翠子は、増加している。生方、水町、中河は変わりなく、一番若かった斎藤史は倍増していることがわかる。

 なお、1942年11月、日本文学報国会の選定、内閣情報局によって発表された「愛国百人一首」について、「一つ残念な事があります」として、声を上げていたのである(「婦人と愛国百人一首」『日本短歌』1944年1月)。選定された百首のうち女性歌人の作が「わづか四人であるといふ、驚くべき結果を示されて居ります。現在の短歌の流行を考へ合わせると、そこにもだし難き不思議ななりゆきを感ずる訳であります」と訴えている。小倉百人一首には女性歌人が二十人選定されている一方、昭和の時代の選定に四人だけということを「長い長い歴史に於て真面目に婦人として考へて見なければならぬ事ではありますまいか」と婦人の無気力を反省しながらも、それはそれとして「女の心は女こそ知る、女も一人でも二人でもその片はしなりと相談にあづかるべきではなかつたらうかと、今も口惜く思ふ次第であります」と、12人の選定委員に女性がひとりもいなかったことにも抗議していた。「愛国百人一首」が国民にどれほど浸透していたかは疑問ながら、こうした発言すら、当時としてはかなりの勇気を要したのではなかったかという点で、注目したのだった。

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戦時下、雑誌統合により休刊となった『明日香』は、1945年10月には、謄写版が出され、その熱意が伝わってくる。1946年2月、邦子の下諏訪の家を発行所として復刊号が出されている。扉の一首「雨やみし故郷の家に居て見れば街道が白くかはきて通る」。

 また、『明日香』は、邦子の没後、姉の娘岩波香代子、川合千鶴子らによって続けられたが、2016年終刊に至る。

 

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2023年4月30日 (日)

はじめての巣鴨地蔵、初めての染井霊園、そして六義園

 連休前の4月28日、東京へ出かけた。池袋に生まれ、池袋で育ったはずなのに、巣鴨のとげぬき地蔵も知らず、駒込の六義園に入ったこともなかった。染井霊園というのも聞いてはいたが、初めてなのだ。 関西出身の夫の方が、巣鴨も霊園もすでに訪ねていた。

 巣鴨の駅から白山通りを少し進めば、巣鴨地蔵通り商店街のアーケードが見える。なるほどここがと、しばらく進むと右手にとげぬき地蔵尊に着く。一通りお参りをして、最近快方に向かったという友人にと、お守りをいただき、まだまだ続く商店街だったが、そこで引き返した。パン屋の「タカセ」は、池袋東口の「タカセ」の支店らしいが、萬盛堂薬局は池袋西口の店とは関係がないらしい。「雷神堂」でせんべいとおいも屋さんではいも羊羹を買い、染井霊園に向かった。

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  霊園のHPからコピーした案内図と著名人の墓の番地一覧を片手に進むと、福田英子の墓地は一直線の道の端にあり、すぐ見つかった。高村光太郎の墓地は、案内の看板と⇒があったのですぐに分かった。その後、西そめいの通りに入り、夫とは別々の墓地に参ることになり、私は、五島美代子の墓地がなかなか見つからず、行ったり来たりした。警備の見回りらしい人とすれ違ったので尋ねると、すぐ後ろから「五つの島のゴトウだったらここにありますよ」との声、見落としていたのである。夫の姿は、どこへやら、シャツがちらちら見えたので、「見つかったの」と叫べば「まだ」という。そこへ、重装備のカメラを持ったグループの人たちがやって来て、「さがしているのは誰?」と声をかけられ、夫が目当ての「宮武外骨さん」といえば、すぐそこですよと、墓前まで案内してくださった。そこには「中村」という新しい墓標もあったので、気づかなかったと。さらに、隣接する慈眼寺の芥川と谷崎の墓参である。夫はすでに、数年前に訪ねている。

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左の碑には「尽誠待天命 
福田英」と刻まれているが、比較的最近に建てられたものではないか。この言葉と、婦人解放に身を捧げたと言ってもよい福田英子にはにつかわしくないと思えたのだが。隣の墓誌には、英子が筆頭で、没年が昭和二年五月二日(1927年)とあり、1865年11月生まれなので、61歳で亡くなっている。続いて子どもたちの名前がきざまれているようだ。5月2日という英子の命日も近いではないか。

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地図には、外人墓地の一画のように記されていたが、墓標は、一基だけが残されて、写真のような巨樹が二本生い茂っていた。

  ところで、私にとっての高村光太郎といえば、数年前に、いまから思えば終刊間近い『季論21』からの依頼で、高村光太郎について書いた縁もあるし(拙著「暗愚小傳」は「自省」となりうるのか―中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして」『季論21』 46号 2019年10月)、戦前の光太郎の翼賛ぶりへの批判は、何度かしてきた縁もあるので、一度は、ご挨拶?とも思っていた。また五島美代子に関していえば、夫の五島茂とともに、昭和初期のプロレタリア短歌の担い手だったが、茂の英国留学に伴い、戦後の『母の歌集』を経て、美智子皇太子妃の短歌の師への道をたどったことを知り、資料も若干集めている縁もあることから、ぜひと思っていた墓参であった。

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 案内の標識がなければ、高村光雲、光太郎、智恵子の墓とはわかりにくかった。墓前に供えられたレモンが一つ、短い影を落としていた。

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五島茂・美代子の長女ひとみは、母美代子とともに東大に通っていた時期もあったが、1950年、23歳での自死を遂げる。両親の慟哭はいかばかりであったか。美代子79歳、茂103歳、次女いづみが2017年80歳で亡くなっていることを物語る墓誌であった。

  

   次は、12時30分に予約をしている、女子栄養大学のキャンパス内にあるというレストランに向かうのだが、薄いセーターも脱いでも汗ばむほどだった。東京スイミングセンター、本郷高校、大きなマンションを目当てに、知らない街を夫の後をついてゆくのは、少々きつかった。ようやくたどり着いた女子栄養大学、守衛さんに名前を告げることになっていたらしい。4号館の五階という。夫がネット検索で偶然見つけたレストランで、学生食堂とは違うというので、興味津々であった。一階の大きな教室では、料理の実習中らしかった。五階では、矢印に沿って廊下を進むと、「松柏軒」の看板、さらに奥へ進む。「注文の多い料理店」を思い出すほどだったが、大きな部屋に通された。大きなテーブルが二つ、仕切りもなく半分は、畳の大広間になっている。お客は、どうも私たちだけで、シェフの男性が給仕もし、むずかしい料理の説明もしてくださり、ランチのフルコースを堪能することができた。どこか隠れや的な静かな空間であった。

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デザートのムースには、撮る前に、思わずフォークを入れてしまったのだが。

 次は、六義園なのだが、正門まで、駒込駅を通り越して商店街を歩くことになる。なかなかの人通りで、バラエティに富んだお店も多く、きっと住みやすい町に違いないと。

  六義園も都立公園なので、後楽園と同様、高齢者は150円の入園料であった。歩いて汗ばんだ身には、新緑の木陰の道は心地よく、ツツジの丘の花はまだ残っていた。ところどころの木陰のベンチで休みながら、徳川綱吉の時代、柳沢保吉が造営したという大きな池をめぐる回遊式の庭園を楽しむことができた。学校での日本史では、綱吉、柳沢のコンビはよからぬ印象の方が強かったのだが。

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帰宅後の歩数は、13000を超えていた。明日が、いや明後日が、どうなることやら、心配にもなる。 池袋に30年余住んでいながら、まだまだ知らない東京ではある。海外旅行はムリにしても、達者ではない足腰をなだめながら、今少し、小さな旅を続けたい。

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2023年3月31日 (金)

「横浜ウォーキング」参加してみようかと(2)

大佛次郎記念館とイギリス館と

   心配していた昨夜からの雨は止んでいる。窓からのベイブリッジも昨日よりはっきり見える。午後からのウォーキングまで、どうか降らないで、と祈るしかない。11時の集合、ランチの会食まで時間があるので、大佛次郎記念館へ向かう。水たまりの残る散策路、多くの人が花壇の手入れに出ていた。

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港の見える丘展望台より、大佛次郎記念館をのぞむ

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 記念館は大佛次郎(1897~1973)の没後、1978年に開館している。この春は「大佛次郎 美の楽しみ」展を開催中で、大佛コレクションの中の挿絵画家や交流のあった画家たちの作品の一部が展示されていた。旧蔵の尾形光琳「竹梅図屏風」は、重要文化財となって東京国立博物館に所蔵されているそうだ。長谷川路可、長谷川春子、佐藤敬らの作品が目を引く。「鞍馬天狗」から「パリ燃ゆ」「天皇の世紀」まで、古今東西にわたる時代を描く、その幅の広さは格別なのだが、いざ自分が読んだ作品となると、あまりにも少ないのに気付くのだった。和室もどうぞとの案内で、上がってみると、大きな窓からの眺めはさすがであった。階下では、大佛の猫好きにちなんだ、猫の写真展も開催されていた。

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 記念館併設の「霧笛」という喫茶室には、二人とも入ったことがない。夫はぜひとも、ここでコーヒーをというのだが、10時半のオープンの時間なっても「しばらくお待ちください」と“close”の札をさげたままなのである。それではと、近くのイギリス館に入ってみる。1937年にイギリス総領事公邸として建設されたそうで、外観・室内も格調高いたたずまいであった。正式には、横浜市イギリス館といって、横浜市指定文化財になっていて入館も無料である。なんとなく人の動きがあわただしいと思ったら、午後と夜、コンサートがあるという。ウォーキングの後、コンサートもいいね、とチラシをもらう。

 ふたたび「霧笛」に寄り、豆を挽く香りにつつまれながら、念願かなって、コーヒーとケーキを待つ。

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私はかぼちゃのケーキを、夫はチーズケーキを

いよいよ「横浜ウォーキング」

 総勢二十人余の参加者が 簡単なランチを食べながら、今日のウォーキングの説明を聞く。三班に分かれて、各班にKKRのスタッフとNPOのガイドさんが付き添う、という。ほとんどがシニアなので、安心といえば安心である。私たち夫婦は、参加者七人の三班であったが、その内三人は、こうした催しの常連らしくスタッフとも親しげである。他の人も、国内・国外を問わず、旅行三昧の暮らしで、私たちの比ではないらしい。お一人は87歳といい、皆さんの意気軒高な、定年まで勤めあげたらしい国家公務員のOBで、その元気さに圧倒されてのスタートであった。

「元町・中華街」まで、緩やかな方の谷戸坂をくだって、みなとみらい線には一駅だけ乗り、「日本大通り」下車。

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「日本大通り」の改札を出た通路には、こんなモザイクの壁画並んでいて、そのうちの一枚が、横浜のシンボルを一枚に収めたような作品。これからめぐる「三塔」と赤レンガ倉庫も描かれている。柳原良平の作と聞いたが、かの「トリス」のオジサンの横顔も船上に描かれているではないか

 日本大通りと本町通りの交差点に立つ。神奈川県庁の敷地の角には「運上所跡」の碑がある。県庁の屋上には、三塔の一つ「キングの塔」と呼ばれる塔が建つ。屋上を半回りすれば、街と港を一望できる。

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 地上に出て、次に向かったのが横浜開港資料館である。ここには二人とも、数年前に新聞博物館・放送ライブラリーに来たときに寄ったことがある。三つ目の塔は、横浜市開港記念会館の塔なのだが2021年12月から改修だそうで、見上げるだけだった。

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横浜開港資料館中庭「玉くすの木」、江戸時代より大火や空襲に遭いながら、再生した、たくましい木。夫の撮影による三班の女性一同。ガイドさんのとなりに従いているのが筆者か

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香淳皇后の歌碑

 山下臨港線プロムナードに突然現れたのが香淳皇后の歌碑だった。ガイドさんも、参加者も素通りだった。私たち二人が写真を撮っていて、少し遅れてしまったのだが。「<ララ>の功績を後世に残す会」(2001年4月5日)の銘板「第二次世界大戦後の多くの日本人を救った<ララ>物資」によれば、1949年10月19日、昭和天皇・皇后が横浜港のララ倉庫を訪問した折に詠んだ短歌とあり、つぎの二首が刻まれていた。

ララの品つまれたるを見てとつ国の熱き心に涙こほしつ
あたゝかきとつ国人の心つくしゆめなわすれそ時はへぬとも

 ララ物資の第一便は1946年11月30日、この横浜新港埠頭に入港したという。私も学校給食の脱脂粉乳世代だったし、教室ではくじ引きで、傘や靴が配られたこともある。焼け跡のバラック住まいのご近所で、砂糖やメリケン粉、ソーセージの缶詰などを分け合っていたのを思い出す。それがララ(LARA:Liensed Agencies for Relief in Asia=アジア救済公認団体)からのものであったのか、なかったのか。ララといって、私が思い出す短歌は、山田あきの次の一首である。

ゆたかなるララの給食煮たてつつ日本の母の思ひはなぎず(『紺』歌壇新報社 1951年5月)

 疎開地から戻って、池袋の小学校に転校したものの、校舎はなく、仮校舎のお寺の鐘楼跡で、給食の用意をしていた母たちの姿に重なる。

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変わった防潮柵、閉じるわけでもなく、その役目を果たすらしい

 港沿いに「大桟橋」を右に見て「象の鼻」の由来を聞きつつ、青い屋根の塔、クイーンの塔が立つ「横浜税関」の「資料展示室」にも立ち寄る。つぎに、赤レンガ倉庫の一号館が二号館より短いのは、関東大震災で倒壊したからとの説明を聞く。最近リニューアルした商業施設らしく、若い人たちでにぎわう中、私たちはここを通り抜けた。広場の先のかまぼこ型の白い建物には「海上保安資料館(北朝鮮工作船展示)」の大きな文字があり、突然の「北朝鮮工作船」に驚く。海上保安庁って、他にやることもあるだろうに、と中に入って、さらに驚く。2001年12月、奄美大島近くのEEZ内で不審船を自衛隊が確認した以降、海上保安庁巡視船との攻防の末、不審船は、自爆して沈没、後の引き上げ・調査の結果、北朝鮮の工作船と判明した。30mある船体と回収した武器などが展示されていたのである。入り口近くには、実に詳しく、説明する案内人がいた。夫は、思わず、胸に下げている名札を覗き込むと、「海上保安庁に45年間務めたOBです」と誇らしげに?答えていた。それにしても、展示がここ横浜の地で、工作船関係のみという違和感はぬぐえなかった。

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階段を上ると船内を俯瞰できるようになり、不審船に遭遇した巡視船の活動の様子が大きな画面で映写されていた

 さらに、私たちは、長い商業施設を経て、「横浜ハンマーヘッド」へと進むと、世界でも有数だったという、荷揚げ用の巨大なクレーンが聳えていた。サークルウォークという円形のデッキを経て、万国橋をわたり、あとは馬車道まで歩くことになるのだが、頭上に、これも突然、小さなケーブルが行き来をしているのにびっくりするのだった。

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桜木町駅前からみなとみらいの運河パークまでを結ぶ、都市型ロープウエイ。定員8人、合計36基のゴンドラが片道630mの道のりを約5分で運行、大人片道1000円、大観覧車と合わせて1500円というチケットもあるそうだ。5分で1000円?!

 馬車道駅からみなとみらい線に乗り、終点の元町・中華街に着くころは、私など、もうかなりのくたばりようで足が重い。宿について一休み、5時からは夕食が始まり、班別のテーブルはにぎやかなおしゃべりの場になった。そして、各班2・3名が指名され、感想を述べたりした。私たちは、7時からのコンサートがあるので、本降りになった雨の中をイギリス館へと急いだ。

 コンサートには、二十数人が来場、バロック時代の古楽器による演奏だった。素朴なチェンバロの音色、オーボエのやさしい高音、当時のヴィオラの弦は7本で、ヴィオラ・ダ・ガンバと呼ぶらしいが、奏者は、楽器を両足で支えての演奏、こんなにも身近で聞くコンサートは、はじめてだった。バッハを父とするC.P.E.バッハ作曲のヴィオラ・ダ・ガンバのための曲というのも初めて知った。ウォーキングの疲れをいやされ、至福のひとときを過ごすことができた。このようなコンサートは山手の西洋館を会場として、しばしば開催されているという。今回は、初めての平日開催とのこと、偶然な、うれしい出会いであった。
  この日の万歩計は、12917歩、近年にない記録であったが、明日の足腰がどんなことになっているか、心配はつきない。

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2023年3月29日 (水)

<横浜ウォーキング>に参加してみようかと(1)

 いきなり、きつい、雨の谷戸坂

 横浜のKKR(国家公務員共済組合)の宿、ポートヒルが企画する「横浜三塔をめぐるウォーキング」というものに参加してみようか、ついでに近代文学館にでも寄ってみようということになった。その企画には、ランチと夕食までついているので、日帰りは無理かと、前泊ともども二泊の予約もとれた。ただ、予報では三日間とも雨模様なのと私の脚が不安ではあった。

 3月23日、みなとみらい線も久しぶり、2019年の「松本清張展」以来か。終点の元町・中華街から地上に出るとかなりの本降りの冷たい雨。早めながらランチをと、夫はお目当ての店を探すが、イラストマップではわかりにくい。カラの台車を押す宅配の人ならと呼び止めてしまう。マップをヨコやタテにしながら親切に教えていただく。その店は、傘を差しながらも若い人たちは並んでいる。もうどこでもいいよ、と少し大きな構えの店に入った。仕切られた個室風のところには、すでに二組の家族が入っていた。ランチのコースに満足、ひとまずは宿に向かうのだが、夫は、アメリカ山の脇の坂道に入り、左手の高い石塀に沿って進む。途中、石段にかわったりするが、私には、とにかくきつい。つい最近、循環器科のいくつかの検査で、問題なしの診断を受けた身ながら、苦しかったのだ。宿のある港が見える丘公園への違う道があるはずなのにと、ようやく登りきった左手がKKRの宿であった。向かいが交番、そうそう、港の見える丘公園の展望台が目の前だった。
 チェックインには、まだ間があったが、お願いしての入室、熱いお茶で一休みできたのがありがたかった。

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 雨の谷戸坂、振り返る

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県立神奈川近代文学館のパンフから

県立神奈川近代文学館常設展をひとりじめ?

 宿を出て、イングリッシュガーデンを進めば霧笛橋、時間がたっぷりとれる今日のうちにと文学館に入る。神奈川にゆかりのある作家たち、神奈川を舞台にした作品が、作家別に展示され、最初は丁寧に見ていたが、後半は、関心のある作家のほかは素通りに近かった。それにしても、平日とはいえ、入館者は、私たちだけ? シニア料金の110円にも、感動さえ覚える。大佛次郎記念館とも連携しているので、半券を見せれば、やすくなりますよ、とも声をかけていただく。

 常設展では、中島敦が、横浜高等女学校で、八年間も教師を務めていたこと、大佛次郎が、住まいは鎌倉ながら、横浜のホテルニューグランドを仕事場にしていたことなどを知る。また、作家たちの書簡に見る達筆ぶりには驚きながら。
 企画のコーナーの「夏目漱石の絵はがきコレクション」には興味深いものがあった。漱石あての絵はがきの一部ながら、友人や教え子、読者たちからの作品評や旅の便りなどさまざまである。漱石は、書簡の類を引っ越しのたび、大方は処分していながら、絵はがきは残していたらしい。写真も電話も、まだ普及していない、一世紀ほど前の通信手段であった「絵はがき」、パソコンやスマホ世代にはほど遠い、ぬくもりのある世界に浸った。

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宿の窓から、港の見える丘公園をのぞむ

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雨が小降りになると、セレブ犬?の社交場にもなっていた

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夜景と
ウェルカムドリンクを楽しみながら

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2022年7月 2日 (土)

「スコットランド国立美術館展」へ

 こともあろうに、猛暑日の続く6月末日、連れ合いの誘いで、久しぶりの展覧会である。スコットランドは、私には、初めての海外旅行で出かけた地、家族三人の旅行でもあっただけに、思い入れも深い。何せ1996年のことだから、四半世紀以上も前のことである。エディンバラ城へ登っていく途中で、ナショナルギャラリーの前を通り過ぎた記憶がかすかにあるものの、入館することはなかった。
 なので、今回は是非と思ったが、前準備がないままで掛けた。私は、下調べもさることながら、音声ガイドというのもあまり好きではない。ふらっと、気の向くままに観賞する方が性に合っているのかもしれない。だから、帰って来てから、え?そんな著名な絵もあったんだと気づかないこともあったりして、もったいない気もしないではないが。
 入館時にチラシがもらえず、作品一覧を頼りにまわった。大きく、ルネサンス/バロック/グランド・ツアー/19世紀の開拓者たちといった時代区分であった。 
 宗教画が多いルネサンスの部屋で目を引いたエル・グレコの「祝福するキリスト」(1600年頃)は、端正な青年の趣をもつキリスト像で、宗教画らしくないとも思った。バロックの部屋では、かなりの大作のベラスケス「卵を料理する老婆」(1618年)のリアルな描写の迫力に引き寄せられた。キャプションによれば、ベラスケス十代の作であるという。ベラスケスといえば、ウィーン美術史美術館で見たスペイン王家のマルガリータ王女(後、ハプスブルク家のレオポルドⅠ世と結婚)の愛らしい肖像画を思い出す。宮廷画家の印象が深かっただけに、思いがけないことだった。そして、帰りがけに手にした本展覧会のチラシにも、この「卵を料理する老婆」が載っていたのである。

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どんな卵料理かも気になるところだが、卵を油で揚げているらしい。少年が持つのは南瓜と何のビン?二人の深刻にも見える表情は何を語っているのか。

 この部屋のオランダの画家ヤン・ステーン「村の結婚式」(1655~60年頃)は、相変わらず騒々しくも陽気な村人たちの暮らしが息づいているかのようだった。レンブラントの「ベッドの中の女性」(1647年)は、説明によれば、おそろしい物語が秘められているのを知るが、不安げな表情の女性のモデルは、レンブラントと長い間暮らした女性だという。
19世紀の部屋になると、コロー、モネ、ルノアール、ドガらが登場し、親しみ深いものがあった。シスレー、ターナー、スーラの絵にはいつも癒される。

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ランドシーアという画家の「荒野の地代集金日」(1855~68頃)、ノートを持つ集金人と交渉する人、待つ人、それに、絵の左右には、二頭の犬も描かれている。左手前の犬は待ちくたびれたと寝そべっているが、右側の犬は、小作人の飼い犬だろうか、不安そうな表情が絆を思わせる。他にも牛や馬が登場する絵は数点あったが、労働をともにするという思いがにじみ出ている作品だった。

 館内の精養軒でのランチは、久しぶりの外食、ほとんどが中高年の女性たちだった。コロナは収まってくれるのだろうかの不安がよぎる中、昼下がりの上野の暑熱は、記録的だったかも知れない。

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 古いアルバムを繰ってみても、当時の旅行写真は極端に数が少ない。エデインバラには二泊していた。お城の夕景のパノラマの絵葉書と、城内でのスナップ(1996年8月31日撮影)である。

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古いアルバムの案内パンフレットから、はらりと落ちてきた押し花である。エディンバラの前日はヨークに一泊、その散歩中に摘んだ野の花だろうか。いまとなっては、花の色も枯葉色で、その名の検索のしようがない。

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2022年6月 7日 (火)

『喜べ、幸いなる魂よ』(佐藤亜紀)~フランドル地方が舞台と知って

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  近年、めったに小説など読むことはないのだが、主人公がフランドル地方のゲント(現地の読み方がヘントらしい)のベギン会の修道院で暮らす女性と知って、読み始めた。というのも、すでに20年も前のことなのだが、2002年の秋、ブリュッセルに何泊かしたときに、日帰りで、ゲントに出かけて、その小さな街の雰囲気が印象深かったこと、ブルージュに出かけた日は、ふと立ち寄ったベギン会修道院のたたずまいが忘れがたいこともあって、ぜひ、読まねばとの思いに駆られた。 

  小説は、18世紀、亜麻糸を手堅く商う家に生まれた双子の姉ヤネケと養子として引き取られたヤンとの愛の物語である。読書が大好きで、数学や天文学などにも関心が深いヤネケはまるで実験かのようにヤンと愛し合い、二人の間に生まれた子は、二人と引き離され乳母に預けられる。ヤネケは、母方の叔母が暮らすベギン会修道院に入ってしまう。ヤンは、子への愛を断ち切れず引き取り、亜麻糸の商人として働きながら育てるのだった。当時の女性は子を産むことと家を守ることに専念すべきで、学問をするなど許される時代ではなく、双子の弟のテオやヤンの名前で本を出版して、認められるようにもなってゆく。テオは、野心家の市長の娘と結婚するが不慮の事故で急逝すると、市長の娘とヤンは結婚、亜麻糸商を任されることになる。ヤンは、店の帳簿を、数字に強いヤネケに点検してもらうために、修道院に通ったり、ヤネケは、二人ならば許されるという外出を利用して、しばしば生家を訪れたりして、ヤンや子供のレオとの交流もする。

  ベギン会の修道院は、一般社会と切断されているものではなく、統括する組織もなく、信仰に入った単身女性たちは、敷地内のテラスハウスのような住居を所有する。外出も可能で、居住区以外は、男性の出入りもできたという。それぞれ、資産を持ち、亜麻を梳いたり、レース編みをしたり、あるいは家庭教師になったり、さまざまな技能と労働をもって、自分で生計を立て、貯えもする。

  敷地内で、ヤネケが育てているリンゴの木、毎年少しづつ美味になってゆく果実をヤンと食す場面が象徴的でもある。市長の娘の妻との暮らしもつかの間、風邪をこじらせ急逝、今度は、ヤンが市長の座にふさわしい妻をということで、貴族の未亡人と結婚したが、出産時に死去、ふたたびひとり身になるのだ。

 ただ、成長した子供のレオは、ヤネケが母とは知らず、なつかないまま、商売の手伝いをするわけでもなく、やがて家を出てしまう。そして、ヤネケとヤンの老齢期に近づくころ、二人にとっても、フランドル地方にとっても思わぬ展開になるのだが、二人の愛は、揺らぐものではなかった・・・。

 登場人物の名をなかなか覚えられないので、外国文学は苦手なのだが、この小説でも登場人物一覧にときどき立ち戻るのだった。著者は、フランスへの留学経験があるものの、研究書などによる時代考証に苦労したに違いないが、女性の自立と愛の形を問いかける一冊となった。

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ブルージュの街を散策中、長い石塀をめぐらせている施設があったので、何の気なしに小さな戸口から入ってみると、そこには、林の中に白い建物が立ち並ぶ静寂な世界が広がっていた。旧ベギン会の修道院で、13世紀のフランドル伯夫人の手により設立されたが、現存の建物は、17世紀にさかのぼる。いまはベネデイクト会女子修道院として利用されている。ゲントには、二つのベギン会の修道院があるが、訪ねることができなかった。フランドル地方に14あったベギン会修道院は、ユネスコ世界遺産に登録されてるという。

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上が、ゲント市内全景。2002年当時の現地の観光案内書から。下は、正面が聖バーフ大聖堂。

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ゲントは、どこを切り取っても絵になるような街である。

ゲントについては、下記の当ブログ記事でもふれている。

エミール・クラウス展とゲントの思い出(2)(2013年7月9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/07/post-d279.html

 

 

 

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2021年11月10日 (水)

葉山から城ケ島へ~香月泰男と北原白秋(3)

10月28日、山口蓬春記念館を後にして、三ヶ丘でバスに乗車、葉山、長井をへて三崎口駅まで乗り継いだ。長井を出て、横須賀市民病院を過ぎると、さすがに軍港、横須賀自衛隊基地の関連施設が続き、停留所の三つ分くらいありそうだ。高等工科学校、海自横須賀教育隊、陸自武山自衛隊隊・・・。そして、道の反対側には、野菜畑が続き、小泉進次郎のポスターがやけに目に付く。調べてみると、横須賀市の面積の3.3%が米軍基地関係、3%が自衛隊関係施設で占められているそうだ。下の地図で赤色が米軍、青色が自衛隊施設という。

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横須賀市HPより

 三崎口駅舎は、京急の終点駅かと思うほど簡易なものに見えた。城ケ島大橋を渡って、昼食は、城ケ島商店街?の中ほど「かねあ」でシラス・マグロ丼を堪能、もったいないことに大盛だったご飯を残してしまう。

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 さらに、海の方に進むと、右側には城ケ島灯台への急な階段があり、草も絡まり、ハイヒールはご注意との看板もあった。なるほど足元はよくないが、階段を上がるごとに海が開けてゆく。1870年に点灯、関東大震災で全壊、1926年に再建されたものである。1991年に無人化されている。灯台から、元の道をさらに下って海岸に出ると長津呂の浜、絶好の釣り場らしい。この浜の右手には、かつて城ケ島京急ホテルがあったというが、今は廃業。その後の再開発には、ヒューリックが乗り出しているとか。今日の宿の観潮荘近くの油壷マリンパークも、ことし9月に閉館。コロナの影響もあったのか。

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城ケ島の燈明台にぶん廻す落日避雷針に貫かれけるかも 白秋
(
「城ケ島の落日」『雲母集』)

 いよいよ、城ケ島、県立公園めぐりと三浦市内めぐりなのだが、ここは、奮発して京急の貸切タクシーをお願いした。会社勤めの定年後、運転手を務めているとのこと、地元出身だけに、そのガイドも懇切だった。

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 城ケ島から城ケ島大橋をのぞむ。長さも600m近く、高さも20mを超えると。開通は1960年4月、小田原が地元の河野一郎の一声で建設が決まったとか。このふもとに、北原白秋の「城ケ島の雨」(1913年作)の詩碑が1949年7月に建立されている。近くに白秋記念館があるが、年配の女性一人が管理しているようで、入り口にある資料は、持って帰っていいですよ、とのことだったので、新しそうな『コスモス』を2冊頂戴した。

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白秋記念館から詩碑をのぞむ。三崎港の赤い船は、観光船だそうで、船底から海の魚が見えるようになっているけど、餌付けをしているんですよ、とはは運転手さんの話。

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 三崎港接岸の白い船はプロのマグロ船、出航すると一年は戻らないそうだ。脇の船は、県立海洋科学高校の実習船で、こちらは2~3カ月の遠洋航海で、高校のHPによれば、11月3日に出港、帰港は年末とのことだ。

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展望台から、ピクニック広場をのぞむ。湾に突き出ている白い塔のようなものが、古い安房埼灯台の跡ということだった。

 県立城ケ島公園は、散策路も、芝生も、樹木も手入れが行き届いていて、天気にも恵まれた。ただ、低空飛行のトンビが、人間の手にする食べ物を背後から狙うそうだ、というのはガイドさんの注意であった。途中に、平成の天皇の成婚記念の松があったりして、60年以上も前のことになるから、けっこう管理が大変なんだろうなと思う。黒松は、潮風で皆傾いている。途中、角川源義の句碑があったり、柊二の歌碑があったりする。目指すは、遠くに見えていた、あたらしい安房埼灯台である。昨年、デザインも公募、三浦半島名産の青首大根を逆さにしたような灯台となっている。

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野上飛雲『北原白秋 その三崎時代』(三崎白秋会 1994年)より。

 白秋が三崎にきて最初に住んだのが向ヶ崎の異人館だった。今は向ヶ崎公園になっているそうだが、今回は寄れなかった。その住まいの向かいが「通り矢」で、白秋が「城ケ島の雨」で「舟はゆくゆく通り矢のはなを」と詠んだところで、今は、関東大震災や埋め立てのため「通り矢のはな」はなくなって、バス停として残るのみという。城ケ島大橋は、この地図でいえば、鎌倉時代「椿の御所」と呼ばれた「大椿寺」の右手から、白秋の詩碑の右手を結んでいる。その後、「桃の御所」と呼ばれた「見桃寺」に寄宿することになるが、今回下車することができなかった。そもそも、白秋が三浦三崎に来たのは、最初の歌集『桐の花』(1913年)や第二歌集『雲母集』(1915年)の作品群からも明らかなように、1912年、医師の妻俊子との姦通罪で、夫から告訴され、未決囚として二週間ほど投獄され、後和解するも傷心のまま、1913年、「都落ち」するような形であった。同年5月には、あきらめきれず俊子との同居が始まり、翌年小笠原の父島に転地療養するまでの短期間ながら、多くの短歌を残している。以下、『雲母集』から、気になった短歌を拾ってみる。1914年7月、俊子は実家に帰り、白秋は離別状を書いて離別。1916年5月には詩人の江口章子と結婚、千葉県市川真間に住む。1920年には離別。1921年には佐藤菊子と結婚、翌年長男隆太郎誕生と目まぐるしい。軽いといえば軽いが、寂しさは人一倍なのだろう。ちなみに、高野公彦さんの『北原白秋の百首』(ふらんす堂 2018年)では、『雲母集』から14首が選ばれているが、重なるのは「煌々と」「大きなる足」「はるばると」「見桃寺の」の4首であった。

・煌々と光りて動く山ひとつ押し傾けて来る力はも(「力」)、
・寂しさに浜へ出て見れば波ばかりうねりくねれりあきらめられず(「二町谷」)
・夕されば涙こぼるる城ケ島人間ひとり居らざりにけり(「城ケ島」)
・舟とめてひそかにも出す闇の中深海底の響ききこゆる(「海光」)
・二方になりてわかるるあま小舟澪も二手にわかれけるかも(「澪の雨」)
・薔薇の木に薔薇の花咲くあなかしこなんの不思議もないけれどなも(「薔薇静観」)
・大きなる足が地面を踏みつけゆく力あふるる人間の足が(「地面と野菜」)

・さ緑のキャベツの玉葉いく層光る内より弾けたりけり(「地面と野菜」)
・遠丘の向うに光る秋の海そこにくつきり人鍬をうつ(「銀ながし」)
・油壷から諸磯見ればまんまろな赤い夕日がいま落つるとこ(「油壷晩景」)
・はるばると金柑の木にたどりつき巡礼草鞋をはきかへにけり(「金柑の木 その一 巡礼」)
・ここに来て梁塵秘抄を読むときは金色光のさす心地する(「金柑の木 その四 静坐抄」)
・燃えあがる落日の欅あちこちに天を焦がすこと苦しかりけれ(「田舎道」)
・馬頭観音立てるところに馬居りて下を見て居り冬の光に(「田舎道」)
・見桃寺の鶏長鳴けりはろばろそれにこたふるはいづこの鶏か(「雪後」)
・相模のや三浦三崎はありがたく一年あまりも吾が居しところ(「三崎遺抄」)

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北原白秋を継いで、戦後『コスモス』を創刊した宮柊二の歌碑「先生のうたひたまへる通り矢のはなのさざなみひかる雲母のごとく」が木漏れ日を浴びていた。

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福寺本堂前にて。

 城ケ島大橋をあとにして、県立公園に向かう折、三崎湾越しに「あの白い建物の奥に、大きな屋根が少し見えるでしょう、三浦洸一さんの実家のお寺さんなんです」のガイドの一言に、三浦ファン自認の夫が、ぜひ訪ねてみたい、とお願いしたのが最福寺だった。二基の風車が見えた宮川公園を素通りして、車一台が通れる細い道や坂を上がったり下ったりしてたどり着いた。今の住職さんは、洸一のお兄さんの息子、甥にあたるとのこと。93歳の三浦さんご自身は、東京で元気にされているとのことであった。

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 福寺から三崎湾を見下ろしたところにあるのが、三崎最大の商業施設「うらり」で、おみやげ品がそろうかもしれませんと、車を止めてくれた。やはり、朝から乗ったり歩いたりで、疲れてしまっていたので、その日の宿、油壷京急ホテル観潮荘の野天風呂にほっと一息ついたのだった。

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2021年11月 6日 (土)

葉山から城ケ島へ~香月泰男と北原白秋(2)

 葉山美術館で、ゆっくりできたが、道を挟んでの山口蓬春記念館は、3時半で閉館ということで、間に合いそうにもなく、明日の一番で出向くことにした。それではと、隣の葉山御用邸付属施設跡地のしおさい公園に回ることにした。

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葉山美術館の野外の彫刻などをめぐる散策路を進むと、車一台がようやく通れそうな、こんな小径に出た。このまま下ると海に出るのだろう。散策路の通用門の向かいは、土日限定開門のしおさい公園への小さな出入口となっていた。

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 御用邸の付属施設跡地だけを葉山町が譲り受けたものなのだろうか。公園入口までの石塀も長かったが、庭園も立派なもので、池あり、滝あり、黒松林あり、相模湾をのぞむ借景ありで、建物としては車寄せの部分が残され、中は海洋博物館になっていた。昭和天皇の”研究”の足跡まで展示されていた。今も使用されている葉山御用邸は、大正天皇が亡くなった場所なので、昭和天皇皇位継承の場でもあるということらしい。下の写真の「今上天皇」は昭和天皇である。池の緋鯉は、一幅の日本画のようでもあった。

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 10月27日、その日の宿は私学共済「相洋閣」であった。東京、名古屋、千葉と大学はかわったが、20年にわたる私大勤めではあった。部屋から夕焼けと翌日の富士山である。

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 10月28日、10時の開館を待っての入館だった。三ヶ岡緑地の斜面を利用した庭園と吉田八十八設計の蓬春旧居である。皇居宮殿の杉戸絵の完成に至るまでの取材や下絵、その過程がわかるような展示となっていた。写真は、別館のアトリエである。

 現在の葉山御用邸の内部は知る由もないが、1971年本邸は放火のため全焼、1981年に再建されている。下山川が敷地内を流れ、いま県立葉山公園になっているのかつては御用邸内の馬場であったというが、塀の長さは半端ではない。日本画の重鎮山口蓬春の記念館の世界といい、香月泰男の「シベリア・シリーズ」の世界との落差に思いをはせながら葉山を後にした。

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2021年11月 5日 (金)

葉山から城ケ島へ~香月泰男と北原白秋

 コロナに加えて腰痛と足の不調で、すっかり出不精になっていたのだが、10月27日、夫の言い出しっぺで、神奈川県立葉山美術館と城ケ島めぐりをすることになった。美術館のお目当ては「香月泰男展」であった。JR逗子駅を降りると思いがけず雨、バスを待たず、タクシーに乗車、しばらくすると、長いトンネルに入った。
 私は、二度ほど、美術館に来ているはずなのだが、たしか京急の新逗子駅からバスで、海岸線沿いに「日影茶屋」を通過して「三ヶ丘」へ向かった記憶がある。逗子駅でもらった観光地図には、その新逗子駅がない!逗子・葉山駅?ならある。後でわかったことだが、昨2020年、京急の開業120周年で、駅名変更になったとか。駅名はやたらに変えるものではないし、地名を二つ並べた駅名なんて紛らわしいし、センスもないではないか。

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 葉山美術館では、少し早めにレストランで昼食をとった。魚のコースのメインはクロダイのムニエルだったか。雨はすっかり上がっていた。まだ床が濡れているテラスから、眼下の波打ち際を撮ろうとするとシャッターが動かない。なんと充電が切れていたのだ。大失敗、私のカメラは使い物にならず、これからの画像は、すべて夫の撮影か、スキャンしたものとなる。

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まだ、レストランのテラスは濡れていたが

 美術館前では、イサム・ノグチの「こけし」が出迎えてくれる。これは、2016年、鎌倉館の閉館に伴い移設されたものであった。

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 香月泰男の「シベリア・シリーズ」は、『香月泰男』(別冊『太陽』2011年9月)で、おおよそは知っていたつもりだったが、実物を見るのは初めてだ。今回の展示は、生誕110年記念ということもあって「シベリア・シリーズ」全57点が見られるという。
 香月泰男(1911~74)の全画業をⅠ.1931~49、Ⅱ.1950~58、Ⅲ.1959~68、Ⅳ.1969~74に分けている。いわゆる「シベリア・シリーズ」は、シベリヤの収容所から復員後十年の沈黙破って描き続けた作品群である。 1943年1月入隊、満州国のハイラル市で野戦貨物廠営繕掛に配属①1945年6月吉林省鄭家屯に移動②、ソ連侵攻に伴い奉天へ③、朝鮮に南下中8月15日敗戦を知る。安東まで後退④、ふたたび奉天より⑤アムール川を渡りソ連に入ったが西に向かい、セーヤ収容所⑥、コムナール収容所⑦、チェルノゴスク第一収容所⑧を転々1947年4月帰国が決まり、ナホトカから⑨、引き揚げ船により舞鶴⑩に到着したのが1947年5月21日だった。

 

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 小さくてやや見づらいが、1943年1月入隊。後、ハイラル市に配属後、軍隊生活の様子を、下関の妻や子供たちに、600通余りの軍事郵便を送ったというが、到着したのは360通余りだった。家族を思い、ことのほか大切にしていたのがわかる。

 こうして、香月の入隊から復員までの動きを地図で追ってみると、極寒のシベリアの収容所で、森林伐採や収容所建設にという過酷な労働を強いられていたのは1945年11月から47年4月ごろまでと思うが、敗戦後のソ連兵監視のもとに長距離の移動がまた悲惨なものであったことが、彼の作品でわかってくる。
 シベリア・シリーズの特徴としては、黒一色で覆われたキャンバスから、人間一人一人の顔といっても、目鼻と口元だけを浮かび上がらせ、同時に、必死に何かをつかみ取ろうと掌の骨格だけが突き出されているといったイメージが強い。

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北へ西へ」(1959年)、敗戦後、ソ連兵によって行き先を知らされないまま、「北へ西へ」と列車で運ばれ、日本からは離れてゆくことだけはわかり、帰国の望みは絶たれたという。

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「1945」(1959年)、奉天から北上する列車内から、線路わきに放置されている幾多の屍体の光景を描いたという。1970

「朕」(1970年)、1945年2月11日紀元節の営庭は零下30度あまり、雪が結晶のまま落ちてくる中、兵隊たちは、凍傷をおそれて、足踏みをしながら天皇のことばが終わるのを待つ。朕のために、国家のために多くの人間の命が奪われてきた。中央の二つ四角形は、広げた詔書を意味しているのが、何枚かの下書きからわかる。

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「点呼」(1971年)、左右二枚からなる大作である(各73×117)。ソ連兵による最後の点呼であり、1947年5月17日、ダモイの文字が読め

 今回の展示で、「シベリア・シリーズ」以外では、藤島武治に師事した東京芸大の卒業制作の「二人座像」はじめ、好んで描いている水辺の少年たちの何点かにも着目した。

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「二人座像」(1936年)

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「水浴」(1949年)

 また、動物たちを描いたつぎのような作品にも惹かれるものがあった。

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「雨(牛)」(1947年)モンゴルの大草原、ホロンバイルの雨上がりのわずかな水たまりが見える。「シベリア・シリーズ」の第1作とも位置付けられている。

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絵葉書より。上「山羊」(1955年)、下「散歩」(1952年)

 なお、今回はわずかな展示ではあったが、1966年代後半から晩年にかけて、アメリカ、ヨーロッパなどへの旅行を重ね、いわば、黒から解放されたかのように、鮮やかな色彩の自在な作品を残していて、ほっとしたような思いに浸るのだった。

 

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