2017年3月15日 (水)

今年の「建国記念日」は、甲府へ、石橋湛山記念館、山梨県立文学館と美術館と(2)

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文学館でも時間が足りない

 しっかりと時間もとって、ゆっくり見学するつもりであった。最初に入った文学館ではボランティアの説明の申し出があった。常設展の深沢七郎コーナーで、夫が「笛吹川論争って何ですか」と質問をしたところ、別の人に交代した。彼女は、熱心なあまりついに大きな声になってしまったのか、係員が飛んでくることもあった。途中で、2代目紅野敏郎館長の功績を讃えていたので、いまの三枝館長はどうですか、と思わず尋ねると「天皇家にも出入りしていて、近寄りがたいのですが、でも気さくな方ですよ、著書にも気軽にサインしてくれました」とのこと。

深沢七郎の「風流夢譚」が引き起こした出来事をどのように、説明・展示がなされているかが知りたかった。常設展示のカタログはないということであった。2011年の企画展「深沢七郎の文学<楢山節考>ギターの調べとともに」というガイドブックでは、「笛吹川論争」も「風流夢譚」もつぎのような説明であった。戦前のギタリストとして活動、「楢山節考」以後の小説家としての活動、「風流夢譚」以降のいわば身を隠すような暮らし、日本には本当に表現の自由を支えるベースがなかったことを表す一連の出来事、その後の執筆の傍ら農場や市井での暮らしに、ほっとする一面もあった。

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  なお、このハンドブックから、ハンセン病の医師、『小島の春』の小川正子の生家が春日居(現笛吹市)にあり、生家の近くには資料室や歌碑が何基かあるということをも知った。彼女は、光田健輔弟子であったが、1943年にっは結核で没している。光田は戦後もハンセン病患者の強制隔離を主張して、ハンセン病史に大きな汚点を残している。皇室とハンセン病のことを調べ、沖縄愛楽園を訪ね、ハンセン病のことを少しばかり知っただけに、今度は、訪ねたいと思った。

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 常設展の中では、飯田蛇笏・龍太、山崎方代などもゆっくり見たかったのだが、美術館のロビーコンサートもあるということで、だいぶ端折ってしまったのが残念だった。「新収蔵品展―直筆に見る作家のリアル」も開催されていて、ゆかりのある文学者の手紙や短冊が多かったなかで、新宿ハモニカ横丁“伝説の”文壇バー「みちくさ」関係の出品が多く、戦後まもないの文士たちの一面が見えてきて、興味深いものがあった。また、甲州市出身という竹内勇太郎の「赤胴鈴之助」や「三匹の侍」などの台本もかつてを思い出させる品々であった。

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文學館の窓から美術館と甲斐駒ケ岳を望む

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美術館入り口、企画展大きな看板

美術館へ 

美術館のレストランで昼食をとり、見学し始めたのだが、思いのほか時間がかかり、甲府の乗車予定を大幅に繰り下げた。ミレー館のミレーはやはり心落ち着くコーナーである。私は、バルビゾン派と言われる画家たちが描く、さまざまな「空」に引き込まれてしまう。ミレーの「空を見上げる羊飼いの少女」、トロワイヨンの「近づく嵐」の暗雲が迫るもと牛と牛を追う親子ののどかさ、テオドール・ルソーのフォンテンブローの森の空、ドービニーのオワーズ河の朝焼けの河面と空・・・。クールベは、その生き方も含めて、興味をそそられる画家の一人だが、ここでの「嵐の海」の印象はむしろ“激しさ”は感じられなかった。何年前か、オルセー美術館の入り口に陣取っていたクールベの「世界の起源」に衝撃を受けたことを思い出す。

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ミレー「空を見上げる羊飼いの少女」。リーフレット下段左がコロー「大農園」
右がルソー「フォンテンブローの森のはずれ」

 企画展の「没後100年野口小蘋」、野口小蘋(18471917)の名前は初めて聞いた。明治の女性南画家として、著名とのことであった。幼少より、四条派の絵画などを学んでいたが、父亡きあと19歳のとき、すでに絵を描くことを生業としており、上京後は、官命により皇后陛下御寝殿に草花図を八枚を描き、皇室にかかわる仕事が増し、華族女学校の嘱託教師も務めている。1907年には、女性で初の帝室技芸員に任命され、宮廷では絵画や装飾、調度品なども手掛け、優雅で、こまやかな作品を残す。その技法も確かな写生力がベースにあり、展示の鉛筆書きのスケッチや草花、昆虫などの写生帖には、説得力があった。

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「写生帖」より

 一泊の旅で、見残しが悔やまれる旅でもあったが、元気でありさえすれば、また出かけられると思うことにした。帰途の車中、長い笹子トンネルを通過するとき、昨年の小学校のクラス会で、担任のO先生から聞いた話を思い出していた。小学5年の遠足は昇仙峡だったという話で盛り上がったとき、先生は「トンネルに差し掛かると、あなたがね、このトンネルの長さは何メートルか、しきりに尋ねて来るんだよ」と話された。そういえば、小学校の高学年になったころ、私は、毎日、厚い『少年朝日年鑑』を風呂敷に包んで通学していたことを思い出していた。あまり夢のない「愛読書」だったわけである。作文は大嫌いだったが、壁新聞や夏休みの課題で模造紙に図表や年表を書いたりするのが好きだったなあ。そんなことを思い出していると、いつの間にか眠ってしまったようだった。

 帰宅後、「笹子トンネル」を調べてみると、このトンネルは、新旧2本あり、旧トンネルは 1902年に開通し、全長 4656m、下り線に使用され、上り線の新トンネルは1966年開通、全長 4670m、であることが分かった。遠足時には、まだ旧トンネル一本の時代だった。

 

 

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2017年3月14日 (火)

今年の「建国記念日」は、甲府へ〰石橋湛山記念館、山梨県立文学館と美術館と(1)

 やや旧聞に属するが、211日午後、夫が甲府での集会で話をするというので、ついていくことにした。一泊して、久しぶりに山梨県立文学館と美術館を訪ねようという計画もまとまった。

 

石橋湛山記念館

家を出るときも寒かったが、八王子を過ぎたあたりから、沿線の斜面や林に少し雪が残り、笹子トンネルを抜けるとブドウ棚がびっしりと続いていた。甲府駅には、今日の集会「歴史に学び平和を考える・211山梨県民集会」実行委員会のお世話役の浅川保さんが迎えてくださった。浅川さんは、高校の先生の在職中から甲府一高出身の石橋湛山研究に打ち込むと同時に、地元の平和運動の活動に取り組み、2007年からは、山梨平和ミュージアム・石橋湛山記念館の理事長をされている。集会の前後にわたって、ミュージアムを案内していただく。丹念に収集した湛山関係の資料と県下の空襲関係の資料が充実していた。ご自身も、山梨ふるさと文庫、山梨日日新聞社などから歴史書や湛山の評伝を刊行されている。近著に『地域に根差し、平和の風を』(平原社2015年)がある。

私は、湛山の政治家としての活動もさることながら、ジャーナリストとして『東洋経済新報』で健筆をふるっていた活動に関心があった。なお、昨年、1960年湛山から岸首相あての書簡が見つかったという。その内容は衝撃的なものだった。同時に、さもありなん、といった内容でもあったのだ。すなわち、湛山は、首相時代のある出来事を振り返って、1960年、岸信介にあてた書簡は次のような内容であった。昨年10月の『サンダー毎日』スクープ記事でもあったのだが、湛山が「ある一人の人」に閣僚名簿を提示したところ、「かの人」は、名簿にある「岸信介は、先般の戦争の責任としては東条英機よりも重大である」と述べたあと、岸首相の「安保問題」の対応に対して「これ以上、あの人に心配を掛けぬよう」という趣旨の文面であった。「ある人」とは、ほかでもない昭和天皇であったという考証であった

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 石橋湛山の展示は、いくつものコーナーに分かれていた

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甲府空襲コーナーにて

 

昔の職場の友人との出会い

 集会での演題は「今、問われるメディアの姿勢と役割~理性を育むNHKを目指した」という長さで欲張っていたのだが、南スーダンの治安状況などを例に、テレビの報道番組、NHKと民放との比較などを交えながら、公共放送のあるべき姿と現況、制度を中心にした話となった。

 会場は立派な総合市民会館の一室で、参加者は約100人とのこと。なんと会場には、かつての職場のSさんらしい姿を発見、部局が違っていたので直接話をするようなことはなかったのだが、奥さんとは同期で、課も同じフロアであった。Sさんは、1982年に、甲府市内の大学に転出されて、すでに退職、地元では、専門分野での活躍とともに、九条の会の世話人もされているようだった。何しろ、40年ぶりにもなろうか。集会の途中からは、思いがけず奥さんも駆けつけてくれて、終了後のお茶の会では、席の隅で、私たち3人の話は弾んだ。夫も、かつて同じ審議会メンバーで、役人とやりあった仲だった元主婦連のKさんとの出会いも十数年ぶりだったということであった。

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2016年12月26日 (月)

紅葉のシーズンは終わったはずだが~久しぶりの京都(3)40年ぶりの法然院へ

翌朝は、晴れる予報だったのに、すっきりしない空模様だった。今日は、南禅寺から北へ向かい、法然院を訪ね、小泉苳三の墓参を予定。小泉苳三(18941956)は、私が同人になっている短歌結社誌『ポトナム』を1922年に創刊した歌人である。私が入会した1960年には、すでに故人になられていたので、お会いしたことはない。歌人であると同時に、短歌史、短歌関係書誌の研究者でもあった。その収集歌集・歌書は、立命館大学図書館の特別コレクション白楊荘文庫に収蔵されている。私も一度ならず利用させてもらっている。そして、墓地の在る法然院での11月の苳三忌の墓参・歌会には二度ほど参加、1975年の歌碑の除幕式にも参加したが、その後、墓参に来ることもなかったのである。今回はそんな不義理を詫びたい気持ちもあった。

南禅寺から永観堂へ

東西線の蹴上で下車、地上に出てすぐにトンネルがある。矢印に沿ってしばらく歩き、金地院の門を過ぎると、南禅寺の中門にぶつかる。

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蹴上のトンネル、上にはインクラインが通る。この入り口には、何やら文字があったのだが、読めないままくぐり抜けた。あとから調べると、「雄観奇想」とあったのである。

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「雄観奇想」とは「素晴らしい眺めと思いもよらない考え」ということで、疎水工事を計画した当時の北垣国道京都府知事の揮毫とのこと、反対側には「陽気發處」の言葉が掲げられているとのことだが、私は気づかず通り抜けた


 南禅寺の立派な三門への階段をのぼると見えてくるのが法堂である。さらに奥には、庭園で有名な方丈がある。その奥には、圧倒的な存在感を示すアーチ型で支えるレンガ造りの水路閣がある。琵琶湖疎水工事は5年の年月をかけて1890年に完成、工業、農業、防火用水などの確保を目的に、やがては、水力発電の強化と水道用水確保に利用され、現在も上水道として利用されている。当時の府知事と若きエンジニア田辺朔郎による日本の近代的建造物の典型でもあるのではないか。そのわきには、天竜寺、西芳寺の庭園と並んで京都の三名園とも記されている亀山天皇の離宮、南禅院なのだが、残念ながらパス。

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法堂の香炉から
三門を望む

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水路閣はどこから見ても、その偉容に圧倒され、築いた人々の心意気が感じられる

 

 先を急いで永観堂へと向かう鹿ケ谷通は、静かなお屋敷町のようだ。東山中学校・高校があり、バスケットの強豪校らしく、優勝などの垂れ幕が賑やかである。近くには、現在は休館中の野村美術館もある。

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左に見えるのが野村美術館、思わず迷い込みたくなるような道


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 永観堂へは、南門から入って中門まで進んだ。かつて京都のひとり旅にのめり込んでいた頃、「みかえり阿弥陀」の名に魅せられて訪ねたことのある永観堂である。拝観するには、境内も広いし、時間もかかりそうである。迷いながらもここまでとし、総門から出ることに。

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永観堂総門

真如堂へ

 ふたたび鹿ケ谷通を進むと、「泉屋博古館」という美術館、「せんおく」と読み、住友コレクションの収蔵館らしい。野村と言い、住友と言い、「メセナ」と言えば、格好いいけれど、なんだかな、の思い。この辺りからそろそろ白川通に出て、金戒光明寺に向かいたいと、左折した。宮前橋を渡ったところで、右か左かを迷い、通りがかりの女性に訪ねると、いともあっさりと「真如堂だったら通りを渡ったところを左に入って、道なりに」と言われた。たしかに、前方には大きな森が控えていた。やがて山沿いの細い道を進んでいくと、さらに、細く険しい上り坂になった。苦しい、息苦しくもなって、立ち往生、夫は心配になって振り返る。「あと20メートル頑張って」などの立て札があったりする。ようやく登り切ると、街が見下ろせる道に出た。両側には、家が立て込み、真如堂というわけではない、と思った矢先に、広い坂の入口があった。汗びっしょりのところ、雨もぽつぽつ落ちてきた。ともかく休憩所のベンチになだれ込む。目の前には立派な三重の塔があるではないか。いったいあの心臓破りの坂はなんだったのだろう。そういえば、あの坂の写真は一枚も写していなかった。地図を眺めると、おそらく、丸太町通の岡崎神社の方から金戒光明寺の境内を通ればこんなことはなかったのだろうと。

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法然院へ、ようやく墓参を果たして

ようやく人心地ついたので、白川通からは、バスで銀閣寺道まで出た。お目当ての「おめん」にて昼食をとった。いよいよ、哲学の道に入ろうと思った矢先、小雨ながら降り出したので、帽子を持たない夫は透明傘を購入、「法然院まで行くなら、哲学の道にはたくさん橋があって分かりにくいので、銀閣寺にぶつかったら右に曲がった方がよい」との、店員さんの勧めにしたがった。山沿いの裏道、途中道路工事にもぶつかりながら、ようやくたどり着いた法然院。まず、寺務所に小泉家の墓地の場所を尋ねなければならない。数回訪ねているはずなのに、記憶がない。たしかに40年ぶりなのである。墓地と歌碑の場所を教えていただいた。谷崎潤一郎、九鬼周造、河上肇らのお墓のある墓地とは違う「新墓地」の方だった。歌碑の前に立って、ようやくかつての除幕式のことがかすかによみがえるのだった。墓参を済ませたころには、雨も上がっていた。これで、ようやく念願果たして京都の旅も終わり、安堵したのだった。

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川沿いの哲学の道ではなくでなく、銀閣寺に向かう

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新墓地の入り口に、1975年11月建立。「あまつたふ月よみの光流れたりしらしらとして遠き草原 苳三」

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あたらしい塔婆は、今年11月20日の京都ポトナムの苳三忌墓参の折のものだろう

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歳晩の静かな法然院山門、新年を迎える準備だろうか、落ち葉を集める人影のみだった

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1975年11月24日、歌碑除幕式の集合写真、ポトナムの皆さんの若かりし頃、故人になられた方も多い

京都駅には、予定より早く着いたので、1時間ほど早い「のぞみ」に変更。新幹線改札の近くにあった「イノダコーヒ」店、寄ってみたかったのだが、つぎの機会に取っておくことに。

 

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2016年12月24日 (土)

紅葉のシーズンは終わったはずだが~久しぶりの京都(2)平等院から三月書房へ

宇治上神社から平等院へ

「山宣」墓参の後は、「花やしき」の山本氏と別れ、部屋の窓から見えていた朱塗りの喜撰橋を塔の島へと渡る。辺りは護岸工事たけなわで、観光シーズンを外して実施しているとのこと。対岸へは、朝霧橋を渡る。橋の下は、天ケ瀬ダムからの流れでかなりの早さである。橋を渡り切ると右正面に福寿園の店と工場があり、製茶の手順が分かる展示室もあった。

反対側に進むと宇治神社、境内ですれ違った女性に、新しい鈴が奉納されたばかりなので、お参りしてください、と声をかけられた。なるほど、新しく太い鈴緒であった。早速拝礼の後は綱を振ってみるが、鈴の音が鈍い。房が閉じられた木枠には奉納のスポンサー「山崎製パン」などの文字が見える。さらに、奥の宇治上神社へ向かうと、今度は、数人で、赤い鳥居に太いしめ縄をしつらえているさなかであった。先の鈴と言い、初詣の備えなのだろうか。広い境内を一回りした後、与謝野晶子の歌碑にむかう。この辺りも、まだ、紅葉が残る。斜面の上から、何やら元気な声がと思えば、朱色のスモックの園児たちが列をなして、手を振ってくれていた。保母さんとともに、「コンニチワー」の大合唱である。

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宇治神社、奉納されたばかりの鈴


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宇治上神社の鳥居を出た帰り道にも出会った別の園児たち、素晴らしい散歩コースですね、「コンイチワ」と先に声をかけられ、「イッテラッシャーイ」を繰り返す

ふたたび二つの橋を渡って、散策路から平等院に入った。ここはさすがに、観光客が多い。鳳凰堂の見学はスルーして、源頼政の墓所や鳳翔館を回り、池の前のベンチで一休み。昼食は、どこにするか迷いながら、表参道半ばのお茶の中村藤吉店の茶そばに決め、スイーツの誘惑にも負け、二人で一品、いただくことに。

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源頼政墓所から鳳凰堂を望む

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  茶そばとスイーツを。前の店では、「中村茶」を勧められた。〇に十の商標は、
中村藤吉の「藤」の音読みに由来するとか、店員さんは、「はっきりしないのですが、
と言われています」とのこと

夕食は、娘と京都で約束しているので、早めに戻り、立ち寄りたいところがあった。島津製作所の資料館と三月書房だった。

島津製作所創業記念資料館

今日の宿、八条口前の新都ホテルに荷を預け、地下鉄の市役所前下車、京都ホテルオークラ、日本銀行の角をぐるりと回る。老舗の京都はテル、夫は、いつ「オークラ」が付いたんだろうというので、後で調べてみたら、業務提携をしたのが2001年だったらしい。島津製作所創業記念資料館は、なかなか風情のある建物で、その展示内容も充実していた。1975年、創業百周年記念としてオープンしたという。ノーベル賞の田中耕一さんのコーナーもあるが、明治のものづくりの精神を脈々と受け継ぐ企業の面目躍如といったところか。学校の顕微鏡から家庭の電化製品、病院の医療機器、航空機器にいたるまで、どこかで島津製品にお世話になっていたような気がしてくるほどである。

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中京区木屋町二条南、創業時の社屋で、近代化産業遺産に認定されたそうだ

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資料館2階から望む

三月書房

 
そしてすぐ近くのはずの本屋さん、三月書房に向かった。詩歌関係の書籍が充実していることで知られる。そのホームページの短歌コーナーで、私のブログを歌人のブログの一つとしてリンクしてくださっていることを知って以来、一度訪ねたいと思っていた。店に入って、そのことを伝えると、「まもなく帰るはずですが、主人は、いま出かけていまして」とのことだったが、ほんとにすぐに戻られ、ご主人の宍戸氏にお会いすることができた。三月書房は新刊の本屋さんなのだが、つい、いただく歌集の始末を、皆さんどうされているのだろうという話になってしまった。「出版される歌集の90%以上は、古書店でも買い取りません」ときっぱりおっしゃる。たしかに、数年前、私も東京の古書店に発送した6箱目以降断られた経験がある。

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ようやくたどり着いた三月書房、中京区寺町通二条上ル西側

娘と待ち合わせたレストランでは、その夜からクリスマス・メニューをはじめたところとのこと、私たちは、まず、ワインや特製カクテルで、乾杯となった。

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中京区河原町通理に条下ル一之船入町、フォーチュンガーデンにて

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紅葉のシーズンは終わったはずだが~久しぶりの京都(1)宇治の「花やしき」へ

 結婚して間もないころ、宇治を訪ねた折、山宣のお墓にはお参りしたが、その生家の旅館「花やしき」は何となく敷居が高く、前を通り過ぎただけだった。今回の京都行きでは、ぜひ泊まってみたいというのが、目的の一つだった。ランチは、娘が予約しておいてくれた、京都タワーが眼前に迫るレストランで済ませた。休日とあって、伊勢丹のレストラン街は、その人通りと各店の行列とでごった返し、その賑わいには少々驚いた。京都駅も一人だったら迷うだろう。

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宇治に直接向かうつもりが、かつて夫が名古屋から単身赴任で住んでいた合同宿舎があった桃山で下車。「泰長老官有地」の宿舎は4階建ての14棟ほど立ち並ぶが、現在は廃止が決まり、各棟に数家族が住んでいるのが現状で、娘と訪ねた2年前とあまり変わらず、廃屋めいた棟もある、閑散とした団地であった。夫は、ベランダに住み着いた鳩の鳴き声で目がさめたといい、私が娘と訪ねた週末などは近くのテニスコートの球音で目が覚めたことなどを思い出す。30年以上前のことである。

御香宮神社

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御香宮表門

 今回は、明治天皇・昭憲皇太后の桃山御陵は失礼して、京阪の桃山御陵駅まで歩いてみると、御香宮神社の灯篭が歩道にはみ出しているような格好で建っていた。神功皇后をまつり、「御香宮」名は、香りの良い湧き水に由来するという、貞観年間9世紀にさかのぼる。安産・子育てにご利益があるとのこと。表門は伏見城の大手門を移築したといい、立派なものだったが、入るのは初めて。奥が深いようなのだが、門をくぐった左手の「伏見義民碑」が目をひいた。京都市の案内板「伏見義民事蹟」によれば、1785年(天明5年)、伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自らは獄死するなど悲惨な最期を遂げた文殊九助ら7人を伏見義民として、1887年(明治20年)に建てられた慰霊碑で、碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書という。義民の墓所は近くの大黒寺に、江戸で獄死した3人は門前仲町の陽岳寺にあるという。佐倉では、佐倉惣五郎が有名だが、どうも脚色やフィクションが多く、どこまでが史実か不明な「物語」なのに比べ、伏見の7人は確かなのである。

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御香宮「伏見義民の碑」

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「伏見義民事蹟」

桃山基督教会

その御香宮の隣に続く白い塀に沿えば、奥まったところに古い木造の建物が見えた。門柱には、「桃山幼稚園」「日本聖公会桃山基督教会」とあった。かつては余裕もなく、前を通り過ぎていたのだろう、この教会には覚えがないのだが、歴史は古く、2017年には100周年を迎えるという。機会があれば、教会内部も見学したい、と思う。

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日本聖公会桃山基督教会、来年100周年を迎える

 大手筋のアーケード商店街は、変わりがないようで、生活感あふれる露店も並ぶ。市内の錦小路はすっかり観光地化され、外国人目当ての店が多くなってしまった。同じようなことは、上野のアメ横でもあるらしく、アジア系の店がめっきり多くなってきたと、テレビで嘆いていた店のオーナーがいた。

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大手筋商店街(1)

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大手筋商店街(2)

 花やしき浮舟園~山宣の生家と墓所と

 冬至も近いことから、暮れるのが早い。京阪宇治駅に着き、宇治橋を渡る頃の夕映えは格別だった。平等院表参道は賑やかだったが、川沿いの散策路は、見事な紅葉も残っていて、人影もない。いよいよ宿の「花やしき」へ。

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宇治橋から

ひと風呂浴びての夕食が、和食のごちそうで、ビールも進む。2泊分の荷物を背負って歩いたので、肩や腰の張りが心配ながら、早々と就寝。

朝から湯豆腐のお鍋や茶がゆも選べる朝食をしっかりといただき、ロビーで、目の前の護岸工事のことをお尋ねしたところ、答えてくださったのが、オーナー4代目の山本哲治氏であった。山本宣治のお孫さんにあたる。「山宣」の墓参のことを話すと「車でお送りしましょう」との言葉、恐縮しながら、甘えることになる。

山本宣治(18891929)、ご存知の方も多いと思うが、非合法だった日本共産党からの要請で、当時の無産政党、労働農民党から立候補、1928年、第1回普選で当選した政治家で、治安維持法の改悪に反対していたが、その法案可決の日に右翼により刺殺され、1929年、39歳の波乱の人生を閉じた。彼の両親が創業したのが、この旅館「花やしき」で、熱心なクリスチャンでもあった。彼は10代でカナダに留学、帰国後、三高、東大と進み、動物学を専攻、同志社大学(予科)講師になり、性教育の啓発、産児制限運動にも貢献している。

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花やしき浮舟園

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墓石の文字「花屋敷山本家の墓」は、宣治の母、多年の短歌の師、阪正臣の揮毫による

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山本家の墓碑の裏面、上段に、父亀松、母多年、宣治の命日と享年が記されている。ちよは、宣治の妻。左には、大山郁夫の筆になる、全国農民組合大会での 宣治の演説の一節が刻まれている。「山宣ひとり孤塁を守る だが僕は淋しくはない 背後には多くの大衆が支持しているから」とある

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宇治川沿い散策路に残る紅葉

  

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2016年7月26日 (火)

那覇を離れる前日、「平和通り」に寄ってみる

那覇市の「国際通り」にあるホテルは2度目ながら、通りと交差する「平和通り」という名の商店街に入ることはなかった。立ち寄りたいと思いながら、いつもゆいレールの「牧志」から足早に通り過ぎるだけだった。

立ち寄ってみたかったのは、私が、戦後の池袋の「平和通り」という商店街に育ったという単純な理由もあった。全国どこにでもある「平和通り」の一つとして、那覇のそこにも寄ってみたかったのだ。しかし、何よりも、目取真俊の『平和通りと名付けられた街を歩いて』の「不敬文学」としての強烈な印象があったからである。

池袋の「平和通り」は、戦前は、西山町会と原町会の間にあったので「西原通り」と呼ばれていた。私の父は、1925年(大正14年)にこの通りに借地を求め、薬局を開業している。長兄が生まれる前年でもあった。1945414日未明、東京山の手空襲で焼け野原になったが、1946年の春には、その焼け跡に、同じ地主さんから借地をして、バラックでの薬局を再開している。私が母たちと疎開先から池袋に戻ったのは、その年の夏だった。西口の闇市も邦映座も、東口の人丗坐も巣鴨刑務所も知っているし、中学校は都電の17番で通っていた。私は1970年代の初めに生家を離れていて、いまでは時折、義姉と姪の家族が住む小さなビルを訪ねるだけだが、平和通りは、昔のにぎやかな面影はなく、不動産屋・コンビニ・飲食店と雑居ビルが立ち並ぶ街になってしまった。

那覇の「平和通り」の沿革は、目取真俊の『平和通りと名付けられた街を歩いて』にも詳しいが、目取真は1960年生まれなので、敗戦直後の様相は、聞き書きや記録によるものだろう。

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那覇市立歴史博物館資料より

小説の概略は、以下のように記憶している。夫は戦死し、幼いわが子を避難先のガマで亡くした主人公の女性は、この平和通りで露天商を営み、苦労して子供を育ててきた。そして、仲間の露天商たちの結束にも大きな力となってきた彼女は、今でいう認知症にかかって、平和通りを徘徊しては、少し悪さをしているとの噂もありながら、かつての仲間たちや家族には見守られながら暮らしていた。その家に毎日のようにやってくる男がいて、そのお年寄りを施設に入れるか家から出ないようにと言い含めていく。迷う息子夫婦やその理不尽さを、孫の少年の目を通して描かれる。そして、迎えた皇太子夫妻の沖縄訪問(19837月の第19回献血運動推進全国大会への出席を背景にしている)、その当日、息子は悩んだ末、母親を家の座敷に閉じ込めるため戸板に釘を打つ。しかし、母親は、皇太子夫妻の車列に飛び出してきて、夫妻が乗る車のフロントガラスに汚物にまみれた手の跡を残したのである。息絶え絶えになっている祖母を見つけた孫の少年が背負い、バスに乗り、山へと出かける。その背に、冷たくなっていく祖母を感じながら歩き続けるところで小説は終わっていた。このラストには、涙をこらえきれなかったことを思い出す。小説の中の「あの沖縄戦で、あれほどの血を流したのに、まだ、献血せよというのか」との主旨のセリフも記憶に残るものだった。初出は、198612月の『新沖縄文学』だが、私は『目取真俊初期短編集 平和通りと名付けられた街を歩いて』(影書房 2003年)で読んだ。

現在の「平和通り」は、やはり観光客で混んでいた。ほんとうは、奥まで進みたかったが、先が急がれ、途中で引き返した。入り口近くの醤油屋で、塩醤油の小瓶を買った。

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醤油屋さんは入って左側

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2016年5月14日 (土)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(7)女川町の選択

女川の戦死者に

PR館から戻る途中、魚雷回天の基地だったというのが気になり、停めていただいた。そこは、2010年まで、女川第六小学校と第四中学校の在った場所で、学校はかつての海軍の回天魚雷などの基地があったところに建てられた。Aさんも昔、お年寄りから聞いたことがあるとのことであった。帰宅後少し調べてみると、『女川町誌』(1960年、続編1991年)にも記述があるそうだ。

日本海軍は、連合軍の本土上陸に備え、小型舟艇の基地を太平洋沿岸に造ることを計画していた。小型舟艇とは、10人乗りの潜水艇咬龍、2人乗りの潜水艇海龍、1人乗りの人間魚雷の回天、1人乗りのモーターボートの震洋、そういえば、昨秋訪ねた霞ケ浦の予科練平和記念館でも聞いたことがある。牡鹿半島一帯には第七突撃戦隊に所属する第一四突撃隊(嵐部隊)が配され、本部が、ここに置かれていたというのである。当初、各種の小型舟艇が配備される予定であったそうだ。敗戦時は、「大浜」「天草」など5隻と海龍12隻と隊員600人規模であったが、海龍を隠すための壕が、車でも通過した飯子浜(いいごはま)などに、いまも残されているそうだ。そして、1945710日の仙台空襲に続いて、8月の9日・10日の女川空襲では、その軍用船や舟艇が、石巻の中瀬の村上造船所とともに狙われた。女川では、防衛隊だけでも157名(「女川湾戦没者慰霊塔」1966年、木村主税町長による撰文)と合わせると200名近い死者が出ていることも知った。

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女川防衛隊本部が小学校・中学校となり、町の人口減少に伴い、2010年、女川第六小学校と第四中学校が閉校となり、立派な二つの閉校記念碑が建てられていた。

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「ゆたかな心光る汗」の標語の看板が残る



女川の津波被害の犠牲者へ

女川駅に戻って、少し高台の地域医療センターまでのぼると、駅前のかさ上げ工事が一望できる。山を崩し、町全体を7mかさ上げし、高い防潮堤は、海の町としてはむしろ不要であくまで「海の見える町」にこだわった町民の選択だったという。女川町・都市再生機構・鹿島による一大復興プロジェクトである。三月一一日には、この小高い病院にも津波が押し寄せ、玄関には、ここまで達したという赤い線が表示されていた。1階部分のほぼ天井までと見ていいのだろう。だから、地震直後の対応で、1階で働いていた人や患者さんが間に合わず被害に遇われている。慰霊碑にお参りし、一回りすると、この復興計画の途方もなさが思われた。議会を前にながい時間をかけて、ご案内いただいたAさんが最後におっしゃる、原発に頼らない、町民の取り組みによる、ほんとうの復興、復興の先にある不安と期待、被災地はどこも、とくに女川は原発を抱え、さらに困難な再生の過程のほんの一部を実感するのだった。

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地域医療センターの玄関の柱に表示された津波の高さ

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町全体7mのかさ上げ工事

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病院での犠牲者慰霊碑から望む



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いのちの石碑プロジェクト、後世につなぐために。人口10014人、死亡・行方不明者827人総家屋数4411棟の内、全壊2924棟・・・。

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中央の白い翼のような屋根が新女川駅

石巻でも聞いていた、新しい商業施設「シーパルピア女川」が駅から海までの一直線で、そこだけが妙に浮き上がって明るい感じの一画になっている。周辺はすべて工事中なのである。祝日でもあったので、民族舞踊のフェステイバルのようなものが開かれ、あたりには大音響が響く。ランチが気軽に楽しめる店がないね、旅行者の気ままさで「ワカメうどん」を食するのであった。

三泊四日の陸奥の旅も終わりに近づいた。

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石巻線終点、海の見える駅、女川

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万石浦にしばらく沿って石巻に向かう

 

 

 

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連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(6)女川原発へ

朝の教会

石巻二日目の朝、朝食前に散歩と相成った。前日、食堂「まるか」で出会った人の言っていた、古い教会はすぐ近くだった。「ハリストス正教会」はあった。掲示板によれば、東京駿河台のニコライ堂と、その宗旨一にする教会で、この地には1880年聖使徒イオアン聖堂として建てられたが、1978年の宮城沖地震で被害を受け、新聖堂に建て替えられた。その際、旧聖堂は石巻市に寄贈され、現在石ノ森萬画館のある中州の中瀬公園内に移築し、日本最古の木造教会建築として保存されていた。ところが2011年の津波により、2階まで冠水し、流出こそしなかったが、崩壊したのを受けて、解体、再建することになったという。この教会の二度の津波被害、ロシア正教会の歴史に思いは至り、信者たちの気持ちは複雑だろう、と。

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1978年宮城沖地震後の1980年に新築された

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旧教会堂は、中瀬公園に移築再建されたが、2011年3月11日直後の惨状

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中瀬公園の旧ハリストス正教会解体の模様、復元へ

女川原子力発電所へ

  きょうは、女川、955分着。かねてより、知人にご紹介いただいていた地元のAさんと待ち合わせ、初対面である。Aさんは、父親とともに原発反対、脱原発、廃炉を掲げて活動してこられた方である。乗車するなり、「役場は、ヨウ素剤を配り始めました」と言うのがAさんの第一声だった。まずは原発の見えるところまでと、車を走らせる。女川駅からは直線距離で8キロ余だが、41号線は、海岸に沿ったり離れたりしながら、進んだ。途中、小乗(このり)浜などの仮設住宅、大がかりな高白浜と横浦とのトンネル工事の現場を過ぎ、まだ、ブイが木々の枝の先に引かかったままだったり、野々浜では、むかし回天魚雷の基地の宿舎が小中学校となり、いまは廃校のままになっているところだったりを通過する。また、Aさんのお父さんが建てたという「原発反対」の立て看板が2か所あった。だいぶ古くなっていて、運動の歴史を物語るものだろう。昨年の世界防災会議参加者の数人もこの立て看板に注目したという。原子力発電所の全景が見えるところと言えば、ここしかないと降ろしてくださったのが、小屋取の浜だった。向かいの原発の建つ浜「鳴浜」は「ならはま」と呼ばれ、女川では鳴り砂が一番美しい浜だったそうだ。いまは、29mの防潮堤を建設、再稼働に備えている。小屋取の海の正面には山王島という小さな親子島がある。そばの定点観測の鉄塔とともに津波に襲われたという。女川湾には、11の集落と浜があり、復興案の一つとして集約しようという計画もあったらしいが、まとまらなかったという。そこから少し戻った塚浜には、原発のPRセンターがある。東北電力の原発用地買収当時、塚浜の漁師たちは、2500万円で漁業権を放棄したという。それも、個別の交渉が秘密裏の裡に行われ、原発自体に最後まで反対していた地主が突如寝返ったりした経緯もあったそうだ。一号機運転開始1984年、三号機が2002年という、そんな悔しさをAさん親子は味わったらしい。

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終点、女川駅下車、瓦礫の中のホーム

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「なくせ!原発~事故で止めるか、みんなで止めるか」

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小屋取から女川原発全景

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山王島

女川原子力発電所PR館へ

 私はこの種の施設は初めてだった。想定内のPRぶりであったが、東京電力の福島原発と比較して、東北電力の女川原発は、いかに大震災に耐えたかの成功のストーリーが出来上がっているようだった。しかし、PR館配置資料 『そのとき女川は~東日本大震災に耐えた原子力発電所』(東北エネルギー懇談会編刊 20144月)をよくよく読んだり、展示を見たりすると、2号機建屋の海水浸水や1号機重油タンクの倒壊という危機にさらされていたのである。津波被害を免れたと言っても、海抜14.8mの敷地が、地震のため1m地盤沈下したところに13mの津波が襲ったので、あと0.8mの余裕しかなかったことになり、事故とならなかったのは偶然に近かったのではないか。にもかかわらず、311当日、津波警報を聞いた地元民が、PR館に幾人か避難してくると、地域への貢献とばかりに受け入れた上、電気や非常時の備えなどから原発内の方が適切との判断で、原発内の体育館で受け入れることになったという。通勤用バスやヘリコプターなども動員、近隣からの避難住民を積極的に受け入れたという。このことが、いかにも美談のように流布されたらしい。現実には、1号機では高圧電源盤で火災が発生、2台の非常用ディーゼル発電機のうち1台が使用不能に。2号機は、配管通路から海水が浸入し、建屋地下部分にある熱交換器室が一時、深さ約25mまで浸水した。発電機も故障した。体育館では、周辺集落から最大360人が避難生活を送った。Aさんは、必ずしも安全でない原発内に3カ月も避難住民を留めたことに疑問を持っていた。

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受付では、ゴーヤの種と「東北電力女川原子力発電所」の「潮位時刻付きカレンダー」とパンフレット類が渡される。干潮・満潮の時刻がわかるというカレンダー、よく考えると「怖い!」

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左から、1号機2号機3号機と並ぶ。PRセンターが左上に、2本の送電塔の右に体育館が見える。ここが避難所になっていた。『そのとき女川は~東日本大震災に耐えた原子力発電所』から作成

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こんなパネルも

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電気事業連合会のパンフも入ってました。どこかで見たことのある人たち、こんなところで一役?かっていたんですね

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2016年5月12日 (木)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(5)パン工房「パオ」と食堂「まるか」

石巻市復興まちづくり情報交流館

ガイドのTさんが最後に案内してくださったのが、「石巻市復興まちづくり情報交流館(中央館)」だった。被災の状況、復興の様子などがコンパクトにまとめられている展示室で、石巻に20数年住んでいるイギリス人のリチャードさんが館長さんを務めている。昨年3月仙台市で国連世界防災会議が開かれたが、その開催直前にオープンしたらしい。交流のためのスペースも用意されているが、どのくらい活用されているのだろうか。ちょっと中途半端な気がしないでもなく、どうも役所臭が抜け切れてないような、そんな印象ではあった。


食堂「まるか」

身体は冷えて、靴も靴下もビショビショ、一度ホテルに戻って、着替えてから、また雨の町へ。少し遅い昼食ながら、ガイドさんに紹介された、「まるか」食堂へ。どんぶりに好きな刺身をトッピングできて、価格もリーズナブルと言われて、入った店内は、何のことはない、大きな魚屋さんで、真ん中に長机と椅子が並んでいる。レジのおばさんに、教えてもらいながら、ともかく定食のご飯とみそ汁を頼み、あとは冷蔵ケースにびっしりと並んでいる、小振りにパックされた刺身類をレジに持って行って支払い、後はセルフサービスである。冷えた体には、駆けつけのお茶がおいしかったこと、上等なお茶に違いないと。定食の汁ものはカニのみそ汁だった。私たちは、ウニとマグロといかの天ぷら、酢の物・・・。他にもたくさんあったのだが食べられそうにもなく断念。ごちそうさまでした。一人前900円弱。食後は、店内をめぐると金華ブランドのサバやイワシ、牡蠣や海鞘、カニやホウボウ、アナゴ・・・所狭しと箱が重ねられている。ひときわ鮮やかな赤い魚、よく見ると「吉次」の札がのせてある。そこへ地元の主婦の方が、「キチジ、今日はおいしそう」と言うのを聞いて「キチジと読むんですね」と思わず尋ねてしまう。もちろん持ち帰りもできないのだが調理法なども伺い、話ははずむ。ご自身も被災者で、復興住宅に住んでいるとのこと。明日、女川を訪ねると言えば、父親の転勤で女川に数年住んだことがあるそうだ。ついでに、近くでお勧めの場所はありますかと尋ねると、ホテルの近くだったら、たしか古い教会があるはずですよ、とのことであった。

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目移りがして困った・・・

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いちばん奥の赤い魚が「吉次」

復興ふれあい商店街、パン工房「パオ」

あちこちと空き地が多い街ではあったが、食べ物屋さんとバーが多いのは港町だからか。地図を頼りに、復興ふれあい商店街に寄ってみることにした。プレハブの細長い3棟ほどが並んでいるが、相変わらず足もとが悪いし、雨のため戸を閉めている店も多く閑散としていた。「パン」の旗を掲げている店に入ってみた。「どこから来ましたか」に始まって、いろいろ話していくうちに、ともかく、このパン工房パオのお店長お勧めの生ゆばを練り込んだ食パンを買い、おやつのケーキを買ったところで、コーヒーをどうぞ、この甘食どうかしら、ラスクはどう、サービスですよ、の問わず語りに、店を開いた経緯、この仮店舗も一度の延期を経て、この10月には引き払わなければならないことなどもろもろの話になった。そもそも市内にあった店に津波が運んできた漁船が突っ込んだが、その直前に高台にある我が家に駆け上がって、とにかく命は助かった、という。店先の漁船は、いくつかの写真で報道されたといい、新聞記事や記録写真集を見せてもらった。パン工房は廃業かと思う日もあったが、全国の「生ゆばパン」のファンの励ましで、再開すると注文が途絶えず、今日にいたっているという。と言っても、店の再開には資金も必要なので、不安も多いというが、元気な、前向きの方だった。途中で、ビタミンCを補うべく、いちご「あきひめ」1パックを買って、ホテルに戻った。

夕食は、ホテル内のレストランだったが、このホテルも、1階は津波の被害に見舞われたが、他は無事だったので、近くの住民の避難場所になったといい、駅近くでも場所によってはボートで移動したという。ホテルも全面再開には半年くらいかかりましたよ、との話だった。海からの津波ではなく、北上川の堤防を乗り越えてきた津波だった。海側の防潮堤もさることながら河川堤防の重要なことを認識したという。そういえば、石巻の駅舎には、津波はここまでという表示がされていた。

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復興ふれあい商店街というが・・・

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パン工房「パオ」の店長さん

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石巻駅の津波表示

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石巻駅ホームから市役所と建設中の市立病院

 

 

 

 

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2016年5月11日 (水)

連休の前、5年後の被災地へ、はじめて~盛岡・石巻・女川へ(4)その津波の壮絶さ

     翌日は、予報通りの雨と風。私は薄手のコートは着ていたがかなり寒い。連れ合いは、セーター姿の軽装に、近くのコンビニで、ビニール合羽を購入、一日中脱ぐことはなかった。  駅近くの観光協会で、かねてよりお願いしていた語り部ガイドTさんとタクシーの運転手さんと待ち合わせ、9時半過ぎ出発。最初に下車したのが、日和山、大きな鳥居が目に入る。運転手さんから 足もとの水たまりに気をつけてくださいよ、言われつつ、まず、北上川河口の市街が見渡せる場所に立つ。背後には日和山神社、ガイドさんの第一声は、「ここへ避難され方は全部助かりました。でも、わが家が、眼下で大津波に流されていくのを見て呆然とした方も多かったです」と。Tさんは、3月11日当時は消防職員として、3日間、ご自身の家族の安否が分からないまま、救助活動を続けた。みぞれの吹き荒れる、あの夜の水温は、1・2度、首までつかっての救助に携わったという。

石ノ森萬画館

見おろした正面の川の中央には、中洲が広がり、その端にきのこ状の白い建物が目立つ。「石ノ森(章太郎)萬画館」だそうだ。「きのこ」でなくて「宇宙船」を模したそうだ。この中洲の他の建物は流出してしまったが、ここは残った。津波の当時、萬画館の最上階にいた人は、頭上を漁船が押し流され、船底を仰ぎ見たという。石ノ森(1938~1998)は、宮城県登米郡中田町石森の出身で、その郷里にも記念館があるはずだ(2000年7月オープン)。自慢ではないけれど、私は、石の森の父親の小野寺さんと会って?いる。というのも1973年、私の短歌の師、阿部静枝の歌碑が郷里石森の神社に建てられ、その修祓式のお祝いの宴席で、地元代表で挨拶されたのだ。石の森の漫画は読んだことはないのだけれど、そんな関係で、なんとなく親しみのある作家だった。それに、池袋のトキワ荘にも手塚治虫らと住んでいた時代もあったという。しかし、石巻と石ノ森との縁は何かと言えば、若いころ、石森から、この石巻の中州にある映画館に、なんと自転車で通っていたというのだ。その映画館の跡地に、石巻振興の一環として建てられたというのである。石巻には「まんがロード」が設けられ、街角にヒーローやヒロインの人形が立つ。「漫画」でなくなぜ「萬画」というのか、萬画館のホームページには「1989年に石ノ森先生が提唱した『萬画宣言』によるものです。『萬画宣言』の中で石ノ森先生は、漫画はあらゆるものを表現できる無限の可能性を秘めたメディアであることから、もはや『漫画』ではなく万物を表現できる『萬画』であると提唱しました」とあった。

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中州の先に見える白い石ノ森萬画館
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市役所前のフィギュア、この市役所は、3・11の一年前、駅前さくら野デパートをそのまま譲り受けたものという

復興祈念公園予定地

日和山から北上川河口の方に目を転ずると、日和大橋をはさんで右岸一帯には、いま、建物が見当たらない。Tさんによれば「これから案内すると所だけれど、あの辺り一帯は、にぎやかな港町だったが、あっという間に津波にのまれた」地区というのだ。河口の左手は「石巻漁港で、後ほど案内しますが、立派な魚市場が完成したばかり」との説明だった。 次に、下車したのは、その、何もない港町だったところだ。瓦礫こそないが、しばらく焼野原のような、道なき道を進んだ、荒れ野の真ん中であった。よく映像で見たことのある「がんばろう!石巻」の看板の立つところだった。5年後の、この4月に、新しく建て替えられたというニュースは見たことがあった。 ほんとうに何もない焼け跡、私の数少ない体験でいえば、東京の池袋の焼野原に建てたバラックの我が家に、疎開先から一家で引っ越してきたときの記憶につながる。それでも、町内の石造りの蔵が、2か所ほど焼け残っていたし、池袋駅前の闇市までの平和通りには、すでにバラックも数軒建てられていた。1946年7月のことである。 ここ、南浜地区の40ヘクタールには、まだ何も建てられてはいない。すでに「復興祈念公園」となることが昨年決定している。看板の立っている場所はもともと門脇町の水道配管工事店があったところで、オーナーが瓦礫の山の中からベニヤ板とパイプを探し出し、ともかく「元気を出さねば」の思いで、4月11日に完成させたといい、5年の間に、祈りの場ともなって、さまざまな追悼行事がなされるようになり、訪れる人も多くなった。祈念公園完成後も引き継がれるという。この地には約4700人の方が住んでいらしたが、死者572人、行方不明者が42名におよび、月命日にはその捜索も実施されてきたが、いまは数か月に一度になったとのことであった。 Tさんの説明には、私たちにはずいぶん配慮されているところがあることもわかるのだが、津波が引いた後も約3週間で200棟近くが焼け出されたという。私たちが接する報道では、津波に襲われた後、あちこちから火の手が上がった気仙沼の映像が記憶に残っているが、石巻も、その火災で犠牲になった方もいらした。日和幼稚園園児5人が、地震直後、バスで家へ送り届けられる途中、津波に呑み込まれたのち、延焼の末、亡くなったという悲劇があった。幼稚園から、避難所の小学校に、小学校から日和山に避難した園児たちは助かったという。なぜ、海に向かって、津波に向かって園児を乗せて走ったのか、遺族から園の責任が問われているという。 帰宅後、3月11日当日の日和山から市街の様子を撮影したいくつかの動画を見ることができた。みぞれがレンズを打ち、海鳥が群れをなして画面を横切っていく中、津波が、船やビル、家々を押し流していくさまをあらためて目の当たりにした衝撃を忘れてはならない。

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「石巻市南浜地区復興祈念公園基本構想」より

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手前の建設中のビルは、復興住宅だが、津波で壊滅的な被害を受けた跡地に建設したため入居者が3割ほどしか決まってないという。

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日和大橋を望む、津波は高さ18mの橋の下に押し寄せ、たまたま橋を通過していた車は助かったそうだ

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5年を経て、4月に少し移動して建てられたばかりであった

世界一長い石巻魚市場へ

つぎに下車したのが、南浜地区から日和大橋を渡って、昨年完成したばかりの魚市場だった。876m、世界一を誇る長さの魚市場だそうだ。約3年間で、200億、鹿島による工事だったという。市場内の衛生管理はハイテク管理で、鳥一匹の侵入も許さない!というシステムだそうだ。もうすでに水揚げ量からすれば9割は復旧したそうである。 地元の政治家が大きく動いたのでは…というのが、地元の見解のようであったが、復興の象徴になっているという。構内には、宿泊や商業施設のビルも建設中で、完成の暁の観光客も見込まれている。今年の3月に、天皇夫妻はここへ立ち寄り、これまたできたばかりの漁業関係者の慰霊碑にも参ったそうだ。

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石巻魚市場、鹿島のHPより

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駐車場から雨に濡れずに市場棟に移動できるはずが・・・

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すでにセリは終了していて、がらんどう・・・

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