2019年4月 8日 (月)

「文京区春日・小石川=坂と文学をめぐって」に参加しました(2)伝通院から安藤坂・牛坂・金剛寺坂・今井坂・吹上坂・播磨坂を経て石川啄木終焉の地へ

 善光寺坂から伝通院へは新しい道ではなく旧道をのぼる。徳川家康の生母、於大のために建立、千姫の墓所もある。大河ドラマの世界にはあまり関心はないのだが、ここには、古泉千樫、佐藤春夫、柴田錬三郎らの墓地もある。かつては、一帯でもっとも見晴らしのよい高台であったというが、いまでは、林立するビルしか見えない。ようやくここで休憩をとることになって、ホッとする。お休み所に入ると、熱いお茶もセルフサービスで飲める。

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山門の左手には、淑徳学園がある
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著名人墓所案内、高畠達四郎。橋本明治の名もあった
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墓石の文字は釈迢空の筆になるという

 お休み所の裏側の広い窓からは正面に「簡野道明」(18651938)の墓石が見えた。「えッ、誰だっけ、見たことのある名前!」と思っていると、参加者の一人が「漢和辞典の人よ」で、思い出す。そう『字源』(1923年)の編者ではなかったか。差し入れの和菓子をごちそうになり、15分間の休憩もあっという間に過ぎた。清河八郎のお墓参りができてよかったと、参加者のお二人が感想を述べていたのが少し意外ではあった。

 伝通院前の広い道を進み、春日通りの交差点を渡った左手に、一葉の妹、樋口邦子(18741926)が夫妻で営んでいた礫川堂文具店があったところ、書籍も扱っていたという。関東大震災で家を失った幸田露伴に、先の善光寺坂の家を紹介したのが邦子だったらしい。青木玉の作品、ムクノキの前の「小石川の家」である。春日通りを渡った先が安藤坂で、その中ほどに、中島歌子(18411903)の「萩の舎跡」の立て札のみが立つ。ここに樋口一葉、田辺龍子(三宅花圃)も伊藤夏子も通ったはずだ。

 私たちは、安藤坂をくだって、牛天神(北野神社)に向かった。神社までの階段は急で、私にはかなりきつかったが、ここを牛坂と呼ぶらしい。のぼりきって本殿の右手には、中島歌子の歌碑がある。一息ついてくだった先には、かつて神田上水が流れていたところで、いまは暗渠となって、巻石通りとよばれている。

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牛天神参道の牛坂
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中島歌子歌碑「雪中竹」と題して
「ゆきのしたにねさしかためて若たけの生ひいてむとしの光ぞおもふ」
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 かつては、牛坂下のあたりまでが入江であったとも

ふたたび安藤坂に戻り、のぼって左折したところには、川口アパートメントが現れる。案内の大和田さんからは、川口松太郎・三益愛子と川口浩・野添ひとみなどという懐かしい名前が飛び出した。川口家の住居を兼ねたマンションであった。1964年、いわゆる高級マンションのはしりとして話題を呼び、多くの芸能人が住んでいたことでも有名だったのではないか。こんなところにあったのだ。外観はだいぶ、年季が入っているようにも見えた。反対側は永井荷風の生家跡で、荷風の父親がこのあたりに大きな屋敷を構えたというが、いまはマンションが立ち並ぶ。そして突き当たるのが、金剛寺坂で、漱石「それから」の代助が三千代のもとに通う坂だったとの説明を受けると、なんだか義務感で読んだ小説の一つではなかったかと思い出すのだった。

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川口・三益夫婦の子息たちは、何かと話題の多い人たちだったと記憶しているが、早世だったのでは。今はどんな芸能人が住んでいるのかな

 金剛寺坂を巻石通りへとくだって西に進むと右手に、金富小学校、本法寺がある。本法寺は夏目家の菩提寺という。漱石自身の墓は、雑司が谷墓地に立派なものが建てられていて、私も、一度お参りしたことがある。少し戻って、金富小学校の横の坂、今井坂をのぼると、「徳川慶喜公終焉屋敷跡」という表示に出会う。植栽が整えられた庭園に見えた。塀に沿って行くと、「国際仏教学大学院大学」の門があるのだが、初めて聞く名前だな、と思って帰宅後調べてみると、霊友会の研究所が基礎となって1996年設立された大学院のみの大学で、5学年20名の定員だそうで、2010年にこの地に移転したという、日本で一番小さい大学か?キャンパス内になるのか、慶喜の時代の大イチョウだけは健在のようだった。

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文京区が大幅な町名変更を開始したのは、1964年からだったので、私はすでに、大学を卒業、生活圏は、このエリアからは離れている。この案内板の最後にはつぎの短歌が記されていた。
「この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶふかくなりたり」(釈迢空)
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本法寺の桜が見事であった。この本堂に向かって左に、夏目漱石が1888年1月、墓参の折に母を偲んで詠んだとされる句の碑がある。
「梅の花 不肖なれども 梅の花」
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金富小学校脇の今井坂を上ると左手に「国際仏教学大学院大学」の門があり、そこから見えるイチョウ、「徳川慶喜公屋敷大銀杏」と記された石柱が
右端に見える

 さらに、小日向台の住宅街を抜けて春日通りに出ると、同心町、竹早町の旧町名表示版に出会う。私には、新しい中学校の印象があるのだが、なんと開設は1960年だった茗台中学校、その角を左に曲がると、突然、長い石段の坂を見下ろすことになる。これが庚申坂である。この谷を下った先が切支丹坂ということになるらしい。私たちは引き返し、信号を渡って、吹上坂をくだることになる。

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この庚申坂をくだって、地下鉄のガードを越えた先に切支丹屋敷跡がある。
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急な庚申坂と緩いのぼりの切支丹坂なのだが、庚申坂が切支丹坂と間違われることがあるといい、つぎの短歌も、この庚申坂を詠んだとされる。
「とぼとぼと老宣教師ののぼりくる春の暮れがたの切支丹坂」(金子薫園)

  途中、マンションの横の細い道を入って行く一行の後に続くと、石垣とマンションの間に細い枯山水のような庭の奥まったところに「極楽水跡」があった。極楽水とは、伝通院開祖の上人が、引き出した名水の泉であったということで、田山花袋(18721930)の「蒲団」にも登場しているというが、そんな記憶はもちろんない。いまは、小石川タワーマンションの敷地の一部の細い緑地帯となって残っている。

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奥に井戸が見えるが、現在は、水が湧き出ているのだろうか。こうした形で残されていることに、ほっとした気持ちになった。

 

 緩い坂をさらにくだれば、正面の街並みの背後に広がる緑は、小石川植物園で、交差するのは千川通り。右の角には、共同印刷があるはずである。現在は、白い工事シートで全面覆われ、改修中で、社屋の姿はみえない。千川通りは、もともと千川、小石川とも呼ばれるどぶ川であって、洪水も起こっていたらしいが、1934年、暗渠となり千川通りになった。千川の上流は、池袋の立教大学の北側に流れる谷端川で、私の子供のころは、そのあたりのことを長崎とか千川と呼んでいたことを思い出す。こちらの千川が暗渠となる前の小さな工場街を舞台にしたのが「太陽のない街」(1929)で、作者の徳永直(18991958)は、共同印刷の植字工であった。

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改修中の共同印刷社屋、正面の茶色い看板には、大きく「吹上坂」とある。 
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 かつて、小石川には河童が出るなどといわれた寂しいところで、この坂下には「播磨たんぼ」が広がっていた。大正時代はその面影を残していて、つぎのような短歌も読まれていた。
「雑然と鷺は群れつつおのがじしあなやるせなきすがたなりけり」
(古泉千樫)

 時代は下って、1960年代の大学のころ、友人からは、よく氷川下セツルメントへの誘いを受けていたのだが、当時の私の関心の向くところではなかった。今から思えば、少しでも参加しておくべきだったかなとも。今回の散歩コースからは外れるが、植物園の西側に、簸川(ひかわ)神社とその脇の氷川坂の下には、氷川下セツルメント発祥の地の記念碑が建っているそうだ。また茗荷谷駅前の春日通りを渡った直ぐ先に、「大橋」の表札のある大きな門構えのお屋敷があった。まったく人の出入りのない、開かずの門だったような記憶があるが、博文館創業の大橋佐平家一族の住まいだったのだろうか。今回ちょっと足を延ばして、確かめておけばよかったとも思った。

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播磨坂、桜並木の遊歩道、週末なだけに、かなりの賑わいであった。

 文学散歩は、いよいよ最終盤に入り、つぎは、週末の花見客でにぎわう播磨坂の桜並木の遊歩道を、ふたたび春日通りに向かってのぼる、その中ほどを右に折れると、マンションとマンションの間に、石川啄木の歌碑があり、その横にはガラス張りの顕彰室があった。ここが、石川啄木終焉の地であったのだ。歩き始めてすでに3時間余、私の足はすでに疲労の極度に達していた。折も折、大和田さんから、写真撮りましょうかと声をかけていただいたので、啄木の歌碑の前で撮った一枚は、なんとも情けない疲れ切った姿であった。さらに進むと左手に小石川図書館があり、その前には「団平坂」の表示板があり、道の向かいは竹早公園であった。

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石川啄木終焉の地
啄木は、1911年8月、本郷の喜の床から、この地の借家に移り住んだが、翌年1912年(明治45年)4月13日26歳の生涯を閉じる。碑面には晩年の二首が、原稿用紙一枚の草稿そのままに写し取られている。
「呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。 凩よりもさびしきその音!」
「眼閉づれど 心にうかぶ何もなし。さびしくもまた眼開けるかを」
(啄木)

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          ガラス張りの、広くはない顕彰室は、歌碑と共に、数年前に市民有志により建てられたという、新しいものである。

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  小石川図書館の前に建てられた、この案内板にも、啄木の最晩年の直筆ノートから一首が記されていた。
「椽先にまくら出させて、ひさしぶりに、ゆふべの空に親しめるかな」(啄木)

迷っていた二次会だったが、どこか座りたい、休みたい一心で、参加することにして、茗荷谷駅前の路地を入った、たしか「和来路」という店ではなかったか、十人ほどで、にぎやかにおしゃべりをしているうちに、何とか帰途につく気力をとりもどすことができた。早めに失礼して、7時半過ぎ、家の近くのバス停で、初めて傘を開いた。降られずによかった、この日の万歩計は16100歩であった。

  ふたたび、小石川の坂の名前のおさらい・・・。

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2019年4月 3日 (水)

「文京区春日・小石川=坂と文学をめぐって」に参加しました(1)富坂から堀坂・六角坂、善光寺坂へ  

 新元号発表、代替わりの迫る中ながら、3月30日、日本社会文学会が開催する「文学散歩」に初めて参加した。今回は、「春日・小石川」ということで、何とか参加したいと思っていた。というのは、池袋で育った私は、地元の池袋第五小学校(今は廃校・統合され池袋小学校)の卒業後、中学校から大学は、文京区竹早町、大塚町、大塚窪町(旧町名)にある学校に通っていたこともあって、10年間もウロウロしていたエリアだったのである。池袋東口始発の都電17番線には、伝通院行、春日町行、数寄屋橋行があって、中学校は、停留所の同心町で下車していた。高校・大学は丸ノ内線の茗荷谷下車で、余裕をもって登校することができなかった、当時の私は、茗荷谷駅から教室まで、いつも駆け足のギリギリセーフのような日々だった。それにしても、いま思えば、あまりにも周辺のことを知らな過ぎたし、無関心でもあったのだ。その後、何かのついでがあれば、すっかり変貌してしまった学校近辺を歩く程度のことしかしていなかった。

 週末の午後、後楽園駅の礫川公園前に集合、総勢15人、案内は大和田茂さん。参加者がそろうまでの間、近くで「天皇制を終わりにさせましょう」とビラを配っている人がいた。その日は、近くの文京区民センターで、「終わりにしよう天皇制」ネットワーク、「おわてんねっと」の集会が開かれる。実は、そちらの集会も参加してみたかったのだが、時間がまるでかぶっているのであきらめたのだった。

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後楽園駅頭で配布していたチラシ

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大和田さんが苦労しての散歩コース地図

 

 礫川(れきせん)公園は、文京区シビックホールや区民センターでの催しの際、横を通り過ぎるだけだった。サトーハチローの「小さい秋みつけた」の碑とハゼノキ、幸田文家庭から移植されたハンカチの木、はじめて見て回った。サトーハチローは向ヶ丘弥生町に住んでいて、そこに記念館があったそうだが、閉館の折、庭から移植したのが、童謡にも登場する、このハゼノキだったらしい。公園には、立体的な段状の噴水があり、壁泉というそうだが、水は流れていなかった。振り返れば、左手の空には、ジェットコースターが轟音と共にめぐってくる。ここからが西富坂というところには、春日局の像があったが、いかにも新しい。といっても、1989年の大河ドラマ「春日局」放映後に建てられたらしい。彼女の辞世「西に入る月を誘い法を得て今日ぞ火宅をのがれるかな」の歌碑もある。この辺一帯は、水戸藩の屋敷だったのを、庭園の後楽園のみを残し、1875年陸軍の東京砲兵工廠となったが、1933年小倉へ移転、跡地を後楽園スタジアムに売却している。後で知ったのだがすぐ近くに、東京都戦没者霊苑があったのだが、知らずに、お参りはできなかったのが残念だった。

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手前がハゼノキ、奥がハンカチの木、ビルの上には、後楽園遊園地のジェットコースターが見える

富坂には進まず、春日通りを渡って、源覚寺=こんにゃく閻魔さんで有名な浄土宗の寺に向かう。眼病の老女が好物のこんにゃくを断って供え、祈願し続けたところ、夢に現れた閻魔王みずからが片目を差し出して治してくれた、というのがいわれらしい。閻魔王の片目がないのが、お堂の中が暗すぎてよくわからなかったが・・・。一葉の「にごりえ」にも登場するという閻魔様の縁日は今でも続いているらしい。山門の正面の通りを300mほど行くと一葉の終焉の地丸山福山町だという。「にごりえ」はもう一度読みなさねばならないが、いまの私によみがえるのは、今井正監督のオムニバス映画『にごりえ』(1953年)の「にごりえ」である。「酌婦」のお力の淡島千景と山村聡、お力へ入れあげ、身を持ち崩してしまったが、思いを断ちきれない源七の宮口精二と妻の杉村春子。高校生の頃、どこかの名画座で見た記憶がある。暗い画面の中の宮口・杉村のセリフを聞きとるのに精一杯だったような。

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閻魔王に供えられたこんにゃくの山

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ここが急な堀坂、 若い人にもややきつそうな、まして・・・

 源覚寺を裏道から少し歩いたところに現れたのは、急な堀坂だった。通りの片側は、大きなマンションが建築中であった。上りつめた丁字路の左手には、島木赤彦(18761926)が下宿し、『アララギ』の編集所にもなっていた「いろは館」跡の碑があった。右手に少し進むと、「三浦梧楼将軍終焉の地」という碑があった。三浦梧楼(18471926)といえば、山形有朋の宿敵、陸軍中将から政界入りをして、枢密院顧問になっている。朝鮮の公使時代、1895108日閔妃暗殺を企てたとされる、あの人で、1962年、富坂二丁目町内会名の解説によれば「政界軍部の御意見番として隠然たる勢力」を持ち、町内会設立にも尽力、「将軍の偉徳を偲んで」建てたと記している。こうした評価だけが定着してしまうことには、危惧を感じるのだった。

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堀坂の戸建ての家の壁にはこんなポスターが張られていた

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いろは館跡の、小倉遊亀の筆になる小さな碑。右手にはいろは館という小さなマンションが建つ 

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「三浦梧楼卿終焉の地」とある


小石川2丁目となった、その緩い坂、六角坂をさらに下ると、左手には、「前川」の表札のある大邸宅の塀が続き、下った先の右の角には、立花隆の仕事部屋兼書庫という円筒のような猫ビルがあった。

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六角坂を下りきった角に立つ猫ビル 

くねった道沿いに進めば、そこは善光寺坂と呼ばれる坂で、右手、中ほどには伝通院の塔頭の一つである善光寺があり、さらに進むと、慈眼寺、沢蔵司稲荷が続き、上り切ったところには、道の中央に大樹がそびえている。その手前には幸田露伴の旧邸があり、次女の幸田文が住み、現在はその娘の青木玉が住んでいるとのことだが、背の高い木戸の脇には「幸田・青木」の表札が見えた。

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慈眼寺の芭蕉の句碑「一しぐれ 礫や降って 小石川」

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沢蔵司稲荷の狐のねぐらだった「お穴」をのぞく

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善光寺坂を上りきったところの道の真ん中に立つのは、ムクノキ、沢蔵司(たくそうず)の魂が宿ているといわれている。角の石塀に囲まれた家が幸田露伴の旧邸、戦後建て直しているが、次女の幸田文とその娘の青木玉が住む。

 

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2018年12月 7日 (金)

そうだ、京都、行こう!?紅葉の大河内山荘庭園へ

11 月下旬の連休中の京都は、混雑が予想されたが、連休最後の日曜日の所用ついでに、たまには京都の紅葉でもということになった。夫は、嵐山のトロッコ列車をと希望していたが、満席で予約を取ることができなかったそうだ。それではということで、かねてより、かつての時代劇俳優大河内伝次郎(18981962)の広大な別荘が、公開され、その庭園、紅葉も見事だと聞いていたので、出かけることになった。そして、さらに、この折しかないのではと、いうことで、夫の生家では家族ぐるみでお世話になったK先生、私もポトナム短歌会で指導いただいた先生の墓参を予定していた。日曜日の夕食は、京都へ転勤して4年目の娘の案内で、四条烏丸のイタリアンレストランとなった。静かな隠れ家的な雰囲気で、上品なコース料理をいただいた。娘とは、翌日の昼食も約して別れた。少し歩いて、池坊短大近くの宿、まずは熱い緑茶でくつろいだのだった。

 

京都霊園へ

寒い、冷え込むと言われた翌11月26日は、晴天に恵まれ、少し歩くと汗ばむほどだった。K先生の墓地は阪急桂駅からバスで、沓掛インターの近くという京都霊園である。成章高校行きバスで、駅を出てしばらくは、京都の町屋造りの立派な家がかなり見受けられた。新しく建て直した家も、こじんまりしたマンションも続く。国道9号線を進み、京都市立芸大辺りを過ぎると、沿道の様子がかわり、下車の停留所「沓掛西口」までには「沓掛」が付く停留所がやたら多く、紛らわしい。高架の高速、京都縦貫自動車道が見えてくると、その直下が「沓掛西口」だった。下車するなり「京都霊園」の立派な碑が眼に入る。墓地の番地はわかっていても、探すのは大変なので管理事務所に寄ってくださいと言われていた。斜面にひろがる霊園は、幾つもの区画に分かれている。地図で説明を聞いているうちに、探すのに時間がかかるでしょうからと、ありがたいことに車で案内してくださることになった。中腹の休憩所で下車、自動販売機でお花を買って、また車で上ったあたり、表示があまりはっきりしていないので、案内の人も、角々の墓地の名前を確かめながら進んで、ようやくたどり着く。先生が亡くなられたのは、1979年、73歳であった。先生とその両親のお墓をここに建てられたのは、長男のMさん。平成に入って、奥様に続き、Mさんも62歳の若さで亡くなっている。夫の実家の義姉たちは、お参りしているが、私たちは果たせないでいた。墓参を済ませて、ほっとした思いで、参道の紅葉や見下ろす京都の街並みを眺めながら、ひたすら石段を下りたのだった。

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大河内山荘庭園へ

Dscn2324_2 亀山公園から大河内山荘へ向かう途中の右手から竹林の道が続く。行きも帰りも、御覧のような盛況ぶりである 

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京都が観光客でごった返しているようすが、土曜日の番組でも放映されていて、渡月橋の混雑ぶりは半端ではなさそうだった。バスも積み残しがあるとも報じていた。その嵐山に向かう、桂駅から乗った阪急嵐山線はさすがに混んでいた。終点の嵐山駅から中の島へ、そして渡月橋への道は、なかなか進みずらく、ときどき車道に出ながら、先を急いだ。目的地の大河内山荘へは、案内書によれば徒歩15分ということであったが、桂川沿いの遊歩道の人込みをかき分けるように進み、天龍寺への入り口を過ぎ、亀山公園、大河内山荘への道しるべに沿って上り始める。観光客はやや減ってはきたが、のぼり坂は、私には結構きつかった。すでに、30分近く歩いているのにと心配になるが、ようやく入り口が見えてきた。入園料は1000円ながら、お抹茶とお菓子つきということで、必死に歩いてきただけに、お休み処の一服はありがたかった。

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回遊式の起伏も多い日本庭園の手入れは行き届き、紅葉も見事なものだった。昭和の初めから30年ほどかけて、約6000坪の庭園を造り上げていったそうだ。その主、大河内伝次郎と言えば、私は、戦後の東映時代劇での多くはわき役としての活躍していた頃のことしか知らないのだが、今どきのタレントの別荘とは違い、昭和前期のスターは格が違うな、文化が違うなと、感心するのだった。

Dscn2328        大乗閣、どこも手入れが行き届いていた

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Dscn2337             右手に小倉山をのぞむ


 年休を取っていた娘とのランチの約束が、京都駅のホテル内のレストランで、1時だったので、遅れてしまうとばかりに、急ぎに急いだ。そのさなか、早めに店に着いた娘からは、勤め先の会長が「店に来ているよォー」とのメールが入ったりした。この頃は、忙しいとかで、めったに帰省しない。10月には、東京出張の折、私たちが東京に出向いて夕食を共にしたのだが、そんなパターンができてしまいそうではある。京都の紅葉も堪能できたし、まあ、いいかぁ・・・。

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        201811dscn2342遊歩道から、渡月橋をのぞむ。廃船がただよう大堰川、上流は保津川と呼ばれ、 渡月橋から先は桂川と呼ばれているそうだ

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2018年7月10日 (火)

8年ぶりの佐原、なつかしい、そして思いがけない出会いも

 疎開地佐原については、たびたび、このブログでも触れているが、78日、訪ねる機会があった。連れ合いが、佐原でのある集会で話す予定があると聞いて、ついてゆくことにした。


新しい佐原駅


 前回、家族
3人で出かけたのは、201010月、神幸祭の翌日だった。8年ぶりということになる。駅と駅前の様子はがらりと変貌を遂げていた。駅前広場には、伊能忠敬らしい銅像が立っていた。

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正面の右手、今は瀟洒な平屋だが、私の記憶では、2階建ての、1階は駅前食堂「八代商店」があった・・・

 私の脳裏にある佐原駅は、疎開中の敗戦前後の「停車場(テイシャバ)」で、当時の駅舎は、ネットで見つけた、まさに、下の写真の通りである。駅の南側になる。私たち家族が疎開して、まず身を寄せたのは、岩ケ崎の母の生家であり、そこから転居した仁井宿の馬市場の旧管理人さんの家であった。駅前には、食堂をやっていた親戚の家があって、場所柄もあり、親戚中の人たちがよく立ち寄っていた。私たち家族も2階の部屋に泊まらせた貰った記憶がある。列車が駅に着くたびに、2階はびっくりするほどよく揺れて、そのたびに目を覚ましていたらしい。1階の食堂の調理場の真ん中に井戸があって、土間だったのか、タタキだったのか、立ち働いていた人たちの姿も覚えている。「停車場」の駅員さんや交番の駐在さんも食堂のお得意さんだったらしかった。当時を知る人たちはもういない。

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正面は旧佐原駅舎、右は駐在所

新しい駅舎は、20113月開業とのこと、私たちが前回訪ねた翌年、東日本大震災直後だったことになる。南口広場の整備は2015年というから、まだ間もないことがわかった。その日の集会の会場は、駅の北口、佐原中央公民館だった。この建物も、跨線橋もあたらしい。

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数十年ぶりに従姉と会って

昨年から、ヒヨンなことから電話でのやり取りが始まったのであるが、数十年ぶりに従姉のMさんと会うことになっていた。見つけることができるだろうかとの不安もあったが、すぐにわかった。彼女は、住まいの東京から今は誰も住んでいない佐原の生家にときどき通っているとのことであった。その間に、亡くなったお連れ合いの仕事場でもあったアメリカにもよく出かけるという。数日前に帰国、成田から佐原に直行したという。そのエネルギーに脱帽しつつ、短い時間だったが、話すことができた。私の母の妹である、彼女の母親も、1950年代後半、母と一緒に作歌に励んでいたのは知っていた。そしてなんと、その叔母の歌が、毎日新聞に載っていたのを、Mさんは、今回の佐原滞在の折に、生家の引き出しから見つけたというのである。そのコピーには、

・いつになき夕焼のして厨映え菜刻むわれの指先あかし


とあった。

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 昨年、やはり偶然見つけた、母の短歌については、以下のブログにも書いたところだが、叔母の短歌も見つかったとは・・・。

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晩年の母の一首、見つけました

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/11/post-3edd.html

 母は、女流短歌連盟主催第1回「女人短歌大会」のに入選、第2回に叔母が入選していたことがわかったのである。子育てから手が離れた、母と叔母の姉妹が、切磋琢磨していたことが、よくわかるエピソードであった。ともに『ポトナム』の阿部静枝先生の指導を受けていたのである。私がまだ短歌を詠み始める前のことでもあった。


そして佐倉からも

今回の集会には、なんと、佐倉からもお一人駆けつけてくださった。当日78日の午前中は、地元の9条の会の世話人会だった。私は欠席して、連れ合いに同行したのだが、その会の代表のTさんは、午前中の世話人会を終えて、高速を走ってこられたという。事前に伺っていなかったので驚いてしまった。ご実家が牛堀なので、帰りにはそちらに立ち寄られるとのことであったが、思いがけず、うれしいことだった。佐原は、東京の大学に行くまでは、水郷大橋を越えて、本や画材を求めにやってきた町だったという。

集会での話の内容は・・・

なお集会のオープニングは、南条忠夫さんの演歌「利根の佐太郎」「祝い船」「夫婦春秋」であったのは、なかなかの趣向で、年期の入った見事な唄いぶりであった。その日の集会は「市民連合ちば10区1周年記念」とのことで、連れ合いの話は「安倍政権を退陣させる攻めどころ」と題して、森友・加計問題で追いつめる二つのルートと安倍政権への経済政策への代案―消費税に代わる財源構想、についてであった。とくに、後者については、普段聞かされる話しながら、聞くほどに、腹立たしさが募るのだった。

発行された国債の大部分は銀行が買い取り、それを日銀がまとめて預かっている367兆円、私たちの銀行預金の十倍もの利子をつけているのだから、お金が出回るわけがない、というのだ。さらに、法人税の減税分で労働者の給料を上げ、工場の海外進出を抑えるなどの目的が果たせるどころか、逆行し、非正規は増えるし、社会保障負担分をも抑え、内部留保が増えるばかりだという。この無益な法人税減税を中止し、内部留保課税に踏み込むべきだ、と強調する。内部留保税を二重課税とする論は、法人税減税の無益さと消費税こそ二重課税ではないかの論を破ることができないはず、と。

途中、雲行きも怪しかったが、夕方には、車窓から、遠くの筑波山を眺めながらの帰途となった。乗り換えの成田駅界隈は、新勝寺の祇園祭の最終日の由、大変な人出であった。


8年前の佐原紀行については、以下をご覧いただければと~。 

2010年10月14日~15日
祭のあとの佐原をゆく(1)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/10/post-7fec.html

祭のあとの佐原をゆく(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/10/post-3ba9.html

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2018年6月 3日 (日)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(14) まだあれこれと

 私たちの拙い旅、私の気ままなつぶやきにお付き合いいただきありがとうございます。まだまだ、書き足りないことばかりのような気がしています。

 ワルシャワでは、帰る日の午前中、ホテルの周辺、大学の周辺を、もう一度まわってみました。その一部と短い旅を振り返って、気になるスナップの一部をお伝えして終わりたいと思います。

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ザヘンダ国立美術館、入館のチャンスがなかった

Dscn1841無名戦士の墓の真向いのピウツスキ―元帥像、この人への評価が変わって、現在は多くの人から顕彰され、ベルベデーレ宮殿前にも立派な立像があった

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聖十字架教会、再訪、ショパンの心臓が収められているという。教会近くのショパンのベンチ、ゆかりの場所でゆかりの曲が、playのボタンを押すと聴ける。ワジェンキ公園のショパン像の近くにもあった

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Dscn2078ワルシャワ大学正門、正面が旧大学図書館、下は、図書館の入り口

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Dscn2101昨日の賑わいとうってかわって静かな大統領官邸

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少し早めに、ワルシャワ空港に向かったが、ルフトハンザ1349便(フランクフルト行き)の14時40分の離陸時刻が近づいてもなかなかゲイトが開かない。1時間ほどの遅れでようやく離陸、午前中の疲れが出たのか二人ともうとうと。フランクフルト発の羽田行きの搭乗時刻が過ぎている。走りに走って、出国手続きをしようとすると、ここは、フランクフルトではない!デュッセルドルフだというのだ。エッ?キツネにつままれたみたいで、何で?と思う。調べてもらうと、フランクフルトが悪天候のため、デュッセルドルフ着陸に変更されたのだという。ANAが代わりの便を手配しているから、少し待てということだった。それにしてもなんということだろう。機内で、そんなアナウンスがされていたのだろうか。たしかに、たびたびアナウンスは聞こえていたようなのだが、気にも留めていなかったし、他の乗客も特別な反応がなかったような気がした。出国の窓口近くで待機すること30分ほどがなんと長く感じただろうか。荷物はここで受け取って、ANAの窓口へと出国窓口の警官は、丁寧に案内してくれた。ピストルを持った警官に、従って歩く二人だったが、どんなふうに映ったかは別として心強かった。 夜の8時発の成田行きの便に搭乗、ようやく落ち着き、どっと疲れが出た感じであった。

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ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(13)

 はや、翌日は、もうワルシャワを発たねばならない。ワルシャワの最後の一日、自由に使える日なのだが、どうしても行っておきたいところがあった。ガイドのAさんからお聞きしたワジェンキ公園のショパンコンサートである。5月中旬から9月いっぱい、毎年、日曜日に公園のショパン像の前で、ショパンピアノコンサートが開催されていて、その初日が今日だというのだ。「ぜひ、出かけてみてください、野外だし、何しろ無料ですから」という。前回は、たしかにショパン像までは来ているはずだが、時間もなく直ぐ引き返していた。今日は、少しゆっくりしたい。12時と4時からの2回の演奏というから、12時には間に合わせたい。 

公園には、116番か180番系のバスですよと、ガイドさんから念を押されていた。公園の塀に沿っては、いろいろな看板が立てられていた。少し早めに着いた公園、ショパン像の横のテントの下では、すでにピアノの調律が行われていた。演奏が始まる前に、水上宮殿に向かった。雲一つない、すでに真夏の日差しだったが、木陰の風は心地よかった。

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自転車専用道路が整備されていて、歩道をはみ出し、このコースにうっかり入ってしまったとき、自転車の人に大声で叱られてしまった

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ワジェンキ公園の柵にはさまざまな立看板、この国でも人気のスポーツなのか、サッカーチームの選手一人一人の紹介のパネルが続く

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少々ドキッとした看板だったが、数日後から公園内で開催予定の浮世展のポスターだった

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水上宮殿への道

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マロニエの花筏のよう


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野外劇場から水上宮殿を望む、真夏の日差しがきつい

演奏会場に戻ってみると、かなりの聴衆が集まり始めていた。と言っても野外なので、池をはさんでのピアノに近い芝生、ベンチが並ぶスペース、それを取り囲む木陰のベンチには、すでに着席している人も多い。夫は、最前列のベンチに、私は、ピアノからはだいぶ離れるが、リストの胸像の後ろのベンチで待つことにした。目の前の散策路には様々な人が行き来するし、すでに立ち見の人も重なるように列をなす。隣に座っていた、地元の年配の人からは、英語で話しかけられるのだが、情けないながら、聞き取れない。ここは恥をかいてもと、きのうガイドさんにこの演奏会のことを聞いてやってきた、大変な人出なのですね、ワルシャワの最初の夜は、フィルハーモニーにも出かけたこと、前回ワルシャワに来た8年前は、ショパン生誕200年だったけれども、コンサートには縁がなかった・・・などと話すと、にこやかに返事を返してくれるのだが、それ以上の質問もできない・・・。いよいよ演奏が始まった。聞き覚えのある楽曲も中にはあったのだが、野外コンサート自体の聴衆の自在な雰囲気がすばらしく思えた。ピアニストのインゴルフ・ヴンダー(Ingolf Wunder1985 )は、ウィーン国立音楽大学出身で、数々のコンクールに入賞、2010年のショパン国際ピアノコンクール2位入賞者とのことであった。

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ショパンコンサートの9月までのプログラムを知らせる看板

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ショパン像の脇のテントではピアノの調律中。その前の丸い池は、前回のときは水が抜かれていて、孔雀が見事な羽根を広げていたっけ・・・

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聴衆はどんどん増えて・・・

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私は、この立ち見の人たちの後ろの木陰のベンチで聴いた。リストの胸像の陰におさまっている少年は何をしているのかな

 つぎに向かったのは、バスを乗り継いで、111番の終点、エストニアで下車。運転手さんにユダヤ人墓地を教えてもらうが、レンガの塀が続くばかりで、どこから入るのか迷っていると、ひょっこり小さな戸が開いて、ようやく判明したのだった。ここも中は広く、私たちはほんの入り口付近をめぐっただけだった。

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このユダヤ人墓地の森は、広大なものだった

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延々と続くレンガの塀だったが、ここからひょいと人が出てきて、出入り口と知った

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コルチャック先生がうつむく子供たちを連れて向かった先は強制収容所だった

 

 つぎは、ワルシャワ・ゲットー記念広場に向かうのだが、すぐ近くのつもりが、なかなかたどり着かない。通りすがりの人に尋ねるとあと500m、あと5分と言われつつ、歩き続けた。前回来たときは、記念碑の前面は博物館の建設中であったが、その博物館が、2014年、ポーランドのユダヤ人歴史博物館としてオープンしたという。この博物館も、その展示や構造そのものが、緊迫感に溢れ、圧倒されるばかりであった。ここも時間が足りず、途中で閉館が告げられた。

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2010年には工事中だったが2014年にオープン

 

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工夫が凝らされた様々な展示

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さまざまなメッセージが壁から聞こえるようだ

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外はまだ明るいのに、閉館時間だった

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ワルシャワ・ゲットー記念碑裏からみた博物館

 外は、まだ夕方とは言えない日差しであったが、夜には、イベントでもあるのだろうか「かがり火」に点火しているところだった。もう、足は棒のようで、早くホテルに帰りたい、休みたいの思いで、ホテルに急ぐ。一休みして、ワルシャワ最後の夕食をと、お目当ての店を探すが、なかなか見つからず、どこでもいいよ、ということで、賑わう店に入ってみる。

  料理の注文も少し慣れてきた感じだったが、ビールが届いてからが長かった。隣のテーブルの中年カップルのピエロギとパスタはかなり早いね、などとちらちら眺めたりしていた。ようやく届いた料理をいただき始めたころ、お隣の二人が席を立ったと思ったら、男性の方に「ワルシャワはいかがですか、存分に楽しんでください」と、日本語で声をかけられたのだ。とっさに「日本語が上手ですね」と返せば「大阪から久しぶりに帰国したんです。また1週間ほどで大阪です。大阪には仕事で10年になります」とのことで、「こちらの方もですか」と女性に問えば、違いますとのこと。このハプニングにはいささか驚かされた。私たちの話が男性にはぜんぶ聞かれていたかもしれないのだ。なんか不都合なことは話してはいないかったかと心配にもなったが・・・。

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「カイザー」というお店のできごとだった

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2018年6月 2日 (土)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(12)

5月12日(土)、ワルシャワは、何の日?<自由の行進>と歩む

 ポーランド料理のランチを終えて、次に向かうのはワルシャワ博物館だったが、旧市街への道はロイヤルロードとも呼ばれ,、王宮広場に続く。

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静かな週末のコペルニクス像周辺の光景に思えたが・・・

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上の2枚は、いずれも、ヴェネチア出身の画家カナレット(ベルナルド・ベロット、1721~80年、G.A.カナレットの甥で、ワルシャワではカナレットと呼ばれている由)が、ワルシャワでの宮廷画家として、都市景観を描き続けた作品と当時を再現した現在を同時に見ることがとができるように、こんな光景があちこちに見られる。現在残されている作品(26枚?)は、一時ナチス軍に渡ったが、今は王宮に戻され、壊滅状態だったワルシャワ再興の資料になったそうだ

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三輪車のタクシーらしい。車の横にtaxiの文字が見える。後から分かったのだが、よく見ると奥には<自由の行進>の立て看板があった

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静かな街に、赤い街宣車と、旗などを掲げた人々の列が現れた

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これは何のデモ?パレード?

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EUの旗や風船も、家族れや若い人も・・・

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警官もリラックスして・・・。案内のAさんの話では、れっきとした反政府運動の一環だそうで、街宣車の文字のMARSZはマーチ、「自由の行進」ということであった

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王宮広場がデモの解散会場なのか、大きな舞台が設置されていた

  現在のポーランドは、10年前、カチンの森の追悼式典参加のためロシアに向かう飛行機が墜落、大統領を含む96人の政府関係者が死亡したときの大統領の双子の弟が、大統領を務めている。保守与党の「法と正義」が最高裁判事の総入れ替えという暴挙に司法の独立性が侵害されたとして、欧州委員会から制裁を受けている。野党の「市民プラットフォーム」が中心になって「自由と尊厳、民主主義を、欧州の中のポーランドをのために」と訴える<自由の行進>であった。EUの旗が多くみられるのは欧州委員会を支持、大統領のEU離脱をめざす政策への抗議を意味するのだろう。Aさんよれば、政府によるメディア統制も目立つそうだ。現大統領寄りの番組が増えていて、前大統領の追悼番組などは繰り返し流されているとのこと。そういえば、ワルシャワ最初の日のホテルで、夜、テレビをつけると、まさに、その追悼番組の再放送を流していたのだ。

  どこかの国でも同じようなことが起きている。しかし、こうした、さまざまな世代による、幅広い人々が、思い思いのプラカードや旗を掲げて、いわば、一見無秩序に、一つの同じ思いをもって行進できるなんて、うらやましいな、と思う。印刷された画一的なプラスターをかかげるわけでもない、歩いてシュプレヒコールを繰り返すわけでもない、車道も広い歩道も、自在に歩けるデモなんて・・・。おまけに、コースのロイヤルロードの沿道の各所にはスローガンを掲げた、幾つもの柱状の大きな櫓風の立て看板が設置されていた。旅先で、思いがけず、<自由の行進>と共に街歩きができたことは貴重な体験だった。

ワルシャワ博物館とワルシャワ蜂起博物館へ

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旧市街市場広場と人魚像

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旧市街市場広場の一角にあるワルシャワ博物館、もともとは「ワルシャワ歴史的博物館」という名前だったが、長い改修工事を経て 2017年5月末に「ワルシャワ博物館」として再開した

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展示はさまざまな図表などが用いられ、工夫されていた。上記は、ワルシャワの宗教別人口が年代別にしめされていた。拡大してみるとわかるのだが、1810年、1897年、1931
年、2011年、左端のカソリックが73-58-67-75%との推移にくらべて、ユダヤ教は、18-35-30ー1%以下という推移が見て取れる

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描かれたワルシャワ・・・

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ワルシャワのシンボルでもある人魚像、人魚のバストの大小、その描き方が政治論議にもなったそうだ

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  去年リニューアルしたばかりで上のワルシャワ博物館のガイドリーフレット通り見学するには一日かかりそうにも思えた。また、次のワルシャワ蜂起博物館は、全館照明がかなり落としてあり、細い路地や迷路のような順路の壁には溢れるような情報、展示、頭上から覆いかぶさるような壁の展示には臨場感や緊張感が高まるのだった。多くの記録や手記の抜粋が壁から語り掛けてくるようだった。閉館時刻も迫り、先を急ぎ、撮った写真は、ボケたり、手振れがあったりで、使用できないものばかりになってしまって。Dscn1917
この石畳が、疲れた足には、結構きつかった

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ワルシャワ蜂起とは、1944年夏、ナチスドイツ軍の占領下のワルシャワで、複雑な国際情勢の中、ポ―ランド独立のために戦った市民たちの運動をいう。短期間で敗退するが、戦後は、ソ連の支配下の共産主義政権下においても、ポーランドへの抑圧は続く


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館内には、市民の抵抗組織の居場所にもなった地下水道が、きれいに再現されていた

ここから、館作成の映像が見られます
⇒Learn more about Warsaw Rising 1944
(館のウェブサイトから)

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2018年5月30日 (水)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(11)

 5月12日(土)、ショパン博物館へ

   この日は、現地のガイドさんと共に市内めぐりを予定していた。私たちにとって二度目のワルシャワではあったが、前回、閉館などで訪ね損ねた、ショパン記念館、ワルシャワ歴史博物館、ワルシャワ蜂起博物館の案内をお願いしていた。Aさんはホテルまで迎えに来てくださり、自己紹介もそこそこに、歩き始めた。Aさんは、黒いTシャツに淡い空色のロングスカートをなびかせ、さっそくツバ広帽子を取り出すほどの日差しであった。 

 まず、旧市街に出て、聖十字架教会、ワルシャワ大学へと立ち寄った。Aさんが出身の東洋学部日本語学科の様子をお聞きしながら、図書館、ショパンが幼少期一家で住んでいた建物などの説明を受けた。大学の日本語学科の入学者は少なくはないが、修了するのは3割程度とのことで、かなり難しいとも語っていた。さらに、今は、日本語ができるということだけでは、就職が難しく、語学のほかに専門を持つ必要があるとも話された。聖十字架教会と大学へは、翌日、もう一度訪ねることになるのだが。

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ワルシャワは、朝からかなりの暑さだったのだろう。聖十字架教会前には、給水車が出ていて、誰でも水が飲めた。犬のための器まで用意され、黒い犬も音を立て飲んでいた

 そしてまず訪ねたのが、ショパン記念館、週末で混むといけないということで、予約をしておいてくれた由、館内の展示には、実にさまざまな工夫が凝らされているのに驚いた。各室のコーナーやブースで、ショパンの曲を選んで聴けるようになっていた。ショパン好きには、一日いても飽きないことだろう。Aさんの説明に聞き入っているとき、若い女性スタッフから、日本語で声をかけられた。ワルシャワ大学日本語科のAさんの後輩だそうで、日本人の見学者には日本語で案内しているという貴重なスタッフだったのである。

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ショパン記念館全景

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短い生涯ながら、ヨーロッパ各地での足跡をたどることができる

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記念館の窓から、遠くに見えるショパンを描いた壁画が、いま人気なんだそうだ

  すでに遅めの昼食だったが、Aさんの案内でやってきたのはポーランド料理ザピェツェクというお店だった。チェーン店らしく、市内に何軒かあるらしいがどこの店だったのか。料理の写真をと思っていたが、はしたない?とも思って、メニューだけとなった。注文はお任せしたのだが、甘い具の入った餃子風のピエロギだけは、以前失敗しているの遠慮した。不思議な味のスープ、三種盛り合わせのピエロギ、ジャガイモのパンケーキなどであったが、どれもおいしくいただいた。「甘い」とえいば、ポーランドでは、ご飯に砂糖をかけたりして食すとも。 新世界通り(ノヴィ・シフィア通り)に近い店だったかもしれない。

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民族衣装の店員さんとメニューだけをそっと撮りました

 

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2018年5月29日 (火)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(10)

ワルシャワ動物園とフィルハーモニー

 今日は、ワルシャワへの移動日で、ルフトハンザ1612便でミュンヘン発1240に搭乗、約一時間半、途中で、サンドイッチ(チーズかチキン)の軽食が出る。空港のシャトルバスで30分ほどで、(ワルシャワ)大学前下車、Sofitel Victoriaは、どこの都市にでもありそうな、細長い大きなビルのホテルで、なんと無名戦士の墓の広場に面していた。ピウツキー元帥の立像も右手にあるはずだ。前回、20105月の宿は、中央駅近くだったが、この広場も8年ぶりである。

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無名戦士の墓からホテル全景

 

  予定通り、車で、あの動物園へむかう。初めてながら、「あの」というも、今年の初めにこのブログでも紹介した「ユダヤ人を救った動物園」の動物園だったからである。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/01/post-5a36.html201811日)

 

 ヴィスワ川にかかる美しいつり橋様の橋、右手に赤い外壁とポール状のものを巡らしたスタジアムを見て渡り、しばらく川に沿って走ったところが入り口となっていた。

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これは、動物園からの帰り、車で橋を渡った時のスナップです

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行きの橋の右手に見えたのがサッカー専用のスタジアム(2012年オープン)なのだが、写真がとれず、うまく表現できないので、ネットから拝借した

 まずは、動物園の広いメインストリートの奥が深いのに驚く。地図を見ながら、夫は、とりあえずの目標を、一番奥になるライオン、トラと決める。広い道を挟んで左右には緑地や林が続き、一見、どこに動物がいるのかわからない。檻というもの見当たらず、草地や砂地、池などの遠くに姿を見せる生き物がいる。見物の私たちとの境は、鉄柵だったり生け垣だったり、あるいは掘割だったりする。そうかと思えば、鉄柵を隔てながら、まじかに顔を合わせられる動物もいる。また、数々の樹木や植物にも、手入れは行き届いていて、あちこちで自動の散水機が動いていて、思わず飛沫を浴びることもあった。ライオンは、最初どこにいるかわからなかったが、岩山の蔭から悠然と現れたときは、思わず声を上げた。その後は、メスの方が、数人の見物客のためを思ってか、コンクリートの塀の上を行ったり来たりのパフォーマンスを見せてくれた。 

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あちこちで自動散水機が動いていた

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遠くに寝そべっているのはなに?

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普通の馬ではないような・・・

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点にしか見えないが・・・、現れたライオン

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このブロックの上を行ったり来たり、まるでモデルのように・・・

 
 週日のためかお客さんは少ないのだろうが、家族連れの人もちらほら、子どもたちは、動物を見るというよりは、広い公園を走り回ったり、お父さんに肩車をしてもらったり、自分が乗っていた乳母車を押したり、ソフトクリームを食べたりして楽しんでいるようだった。私たちも、別のわき道に入って戻りかけたが、こちらも奥が深い。そんなとき、白い瀟洒な建物が見えてきた。その近くに、何やら、地面にガラスに覆われたものが見えた。説明によれば、トンネル、あの映画でも見た、園長夫妻がユダヤ人たちをかくまう時に使った地下室に連なるトンネルの出入り口だという。白い建物には、当時をしのぶ資料が保管されているというが、見学には予約が必要であって、開館日も限られているらしい。3時間に満たない入園だったが、街中にあったベルリンの動物園とも違った外国の動物園体験をすることができた。

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ユダヤ人をかくまうのに使用したトンネルという

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動物園歴史とユダヤ人をかくまった経緯を記した資料を公開しているというが、予約制とのことだった


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動物園園長夫妻の功績を顕彰するパネル


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きょうばかりは乳母車をひいて・・・



 今晩は、7時半からのフィルハーモニーでのコンサートを予約していたのである。一度、ホテルに戻って、ホテルから10分ほどだという会場に向かった。が、これまた、迷いかけたところで、通りがけの年配の男性に尋ねてみると、自分も向かうところだといい、「コンバンワ」とも。仕事で日本に一度だけ行ったことがあるそうだ。ロビーまで、一緒だったが、友人と待ち合わせのようだった。座席は自由ということであったが、どんどんと聴衆は増えていき、はなやかな女性たちの姿も目立っていた。ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団、ヤツェク・カスプシク指揮による以下の曲目だった。指揮者は2013年からワルシャワフィルの音楽総監督の由、今年の1月には来日、ファンを喜ばせた由、現地で聴けるのは幸運かもしれない。クラシックに詳しくないながら、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲はなじみもあり、真っ赤なドレスのリザ・フェルシュトマンさんの情熱的な演奏はすてきだった。ブラームスのセレナーデも、躍動的な若々しさに惹かれつつ聴き入った。

Koncert symfoniczny

   

Wykonawcy
Program

Felix   Mendelssohn

- Uwertura koncertowa Hebrydy op. 26 [10’]

Felix   Mendelssohn

- Koncert skrzypcowy e-moll op. 64 [26']
Przerwa [20']

Johannes Brahms

- Serenada nr 1 D-dur op. 11 [49’]

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開演前の会場ホールと終了直後のフィルハーモニー

  9時半を過ぎ、帰り道は、さすがに人通りは少なくなっていた。さて、とり損なっていた夕食だったが、ホテルのレストランでのポーランド語のメニューを思うと気が重くなりそうということで、クラブサンドイッチとドリンクのルームサービスを頼むことにした。少し、無駄遣いかなとも思いながらの夜食だったが、「おいしゅうございました」。

 

 

 

 

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2018年5月26日 (土)

街と絵に見たミュンヘンの犬たち

 今回のミュンヘンレポートが、これほど長くなるとは予想をしていませんでした。ワルシャワに入る前に、番外のミュンヘンの犬のレポートとします。2014年の夏、二匹目の飼い犬を亡くして、10月にドイツに来ています。その数年前までは二匹がいましたので、旅行に出る時は、その留守の世話をご近所の友人にお願いしたり、犬の散歩などを仕事にされている方にお願いしたりで、苦労もしました。しかし、いざ、犬のいない生活になると、ご近所の犬や映像の中の犬を見るたびに、元気なころの二匹の姿や晩年の弱り切ってしまった犬のことなどが思い出されてなりませんでした。

 空港では、集めて置かれたバゲッジを探索する麻薬犬を見ましたし、電車やレストランでおとなしくしている犬も何度か見かけました。 ミュンヘンの街なかで出会った犬、思い通りにカメラをむけられませんでしたが、以下、そのうちの何枚かを紹介します。

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マリエン広場で

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モーツァールトの住居近くのアーチの下では、バイオリンを弾く青年がいる。散歩の二匹の犬がアーチをくぐると・・・

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マリエン広場から少し離れた路地、噴水の水を飲もうとするところ。暑い一日だった

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勝利の門の前にて

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ミュンヘン大学への道、何を言い聞かされているのか

 以下は、アルテ・ピナコテークの作品の中に見かけた犬です。何匹もの犬が、絵の真ん中に、あるいは人の足元に、暮らしの中に溶け込んでいるのが分かりました。絵の題名と画家の名を確かめることができないのが残念です。

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馬と馬の間に

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