2019年8月31日 (土)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(16)ハンブルグ市立美術館へ

 7月2日(火)風が強く、外へ出ると、寒い。まずは歩きで歴史博物館へと思う。まるで冬支度のコートとマフラーの出勤途上の女性もいれば、半そでの男性もいる。何度も往復したルーディング・エアハルト通りのビジネス街をミヒャエリス教会方面に向かって歩く。

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何度か渡った橋、ホテルゾフィテル方面を見る。

  途中、ミヒャエリス教会の右手の向い辺りにブラームス記念館があると入り込むのだが、旧市街の趣で、何度聞いてもたどり着かずに、ひとまず、歴史博物館に急ぐ。ところが、なんとこの週だけ月・火の連休とのことで、残念ながら、ハンブルグ最終日の明日に来ることにした。それでは、とうことで、辺りを見渡せば、広い植物園であって、博物館はその一画にあったのだ。道路を渡ってビスマルク公園に入ってしばらく歩くとなんと、巨大なモニュメント、カメラに納まりきれない石像が立つ。その土台には、街ではあまり見かけなかった「落書き」がすさまじかった。というわけで、午前中の収穫は少なかったのだけれど、交通のターミナルでもあるサンクト・パウリ駅U3→シュランプU2→中央駅北口から市立美術館へと歩く。

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広い植物園、ジョギングの人たちもちらほら、羨ましい。

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ビスマルク石像、大きさもさることながら、この落書きにも圧倒される。

 

ハンブルグ市立美術館に入館(14€)し、フロアガイドに沿いつつ歩き始めるが、広くて複雑そうなので、現代の部は省いて、まず3階の18世紀以降をと見始めた。小さい部屋続き、その横には大きな部屋が、全館であわせて60室以上あることになる。

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上が、市立美術館の全景、下が向かいの市民ホール。朝の涼しさはどこへやら。

 

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中央の絵葉書が、マックス・レーバーマン(1847~1935)で、ドイツ印象派の主要画家であった。チケットがマネの「ナナ」、下の横向きの絵葉書は、美術館の宣伝用らしく、カスパー・ダーヴィル・フリードリヒの「雲海の上の旅人」と題されている

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右がハンブルグ市立美術館の三か月の予定がびっしり書かれているリーフレットで、広げると新聞大のレンブラントの自画像(1630年)のポスターになる。左は、すでに終了した「ハンブルグ派」特別展のガイドであり、中央が開催中の北欧の特別展だったのだが、素通りしてしまったのか、気づかなかった。リーフレトによれば、デンマークのハンマースホイの作品もあったのである。私はいつから、この画家の、モノクロの静かな室内画の、淡い光と陰に魅せられたのだろう。来年1月から都美術館で、ハンマースホイ展が開催されるそうで、楽しみにしている。

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ドームと本館との渡り廊下を、行ったり来たりも・・・。

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いずれもフィリップ・オットー・ルンゲ(1777~1810)の作品、早世したが、ドイツロマン主義の代表的な画家。上段、左が自画像、右が両親を描いたものらしい。(17室)

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紛れ込んだ図書館だったが・・・。

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上段は、アドルフ・メンツェル(1815~1905)の「「ベルリン三月革命における棺の安置」?と題される作品(20室)、ほかに労働者を描いた作品が何点か見られた。下は、現物は見ていないが、夫のチケットで、アルブレヒト・デューラー「恋人」(1492-4)であった。

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階段室も豪華な。

 やはり、疲れ切って、途中で、CUBEといカフェで一服。レンブラントは6室と言われて、駆けつけると、たしかに2点あり、見落としていた。そんな名画はたくさんあったと思う。それでも、クールベやコロー、パウル・クレー、ムンク、ゴッホ、セザンヌ、シャガール、モネ・・・・、たしかに見た記憶がある。どんな絵だったか、思い出せないほうが多い。もう少し時間をかけて回りたかった。というより、体力の問題なのかもしれない、と思う今回の旅の美術館巡りだった。

 この日の夕食は、中央駅のフードコートで、焼きそば・春巻など軽いもので済ませ、ホテルで、たっぷり果物でも食べようということになった。明日の出発にそなえて、荷物の整理をしなければならないし、といっても、夫の荷物はとうとう戻らなかった。着替えや洗面道具は何とか調達したが、充電器や電子辞書、若干の土産・・・、いったいどうなるのだろう。10日も経って、自宅に荷物が届いていた、なんていう話も聞くが・・・。

 

 

 

 

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2019年8月29日 (木)

オランダとハンブルグへの旅は始まった(15)ハンブルグの交通路線図にようやく慣れて

 7月1日、やや涼しい朝となった。この日も朝食前の散策にと7時前にホテルを出る。夫にとっては、家にいる時はまるっきり違う生活のサイクルではある。空襲の当時のまま残されているという、茶色い黒焦げた尖塔、ニコライ教会跡に向かう。

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ホテルの玄関前のラベンダーが真っ盛り、よく手入れをしているのを見かけた。

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ホテル最寄りのU3の駅Rodingsmarktの線路の下をくぐって交差路の左手ウィリー・ブラント通りを進むとすぐ左に、あの尖塔が大きく見えてくる。

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車の往来は激しいが、人影のない教会の廃墟の前庭に立つ。147mの尖塔は、ハンブルグ空襲の標準点になり、いまは残骸をさらす。昼間は、75mまでの展望台へのリフトが動き、地下の展示室も見学できるという。1842年の大火後はネオ・ゴシック様式の美しい教会だったろう。見えにくいが、向かって左に「地上の天使」像が立つ。

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「試練」と題されるモニュメントは、比較的新しく2004年に建てられたらしい。銘板には、ハンブルグ郊外の北ドイツ最大のNeuengammeノイエンガメ強制収容所から送られてきた収容者1万人が、Sandbostelで死に至ったことが書かれていたが、この像の下には「真実を変えることは世界中の誰もできない。真実を求め、それを発見し、それを受け止めることはできる・・・」とでも訳すのだろうか。

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 朝の散策のおかげで朝食も進む。TVのニュースでは、米朝会談の映像が流れ、いつのこと?とびっくりする。日本KLMと電話が通じ、荷物の行方を尋ねれば、ハンブルグ空港には着いているはずだから、今日中に届くだろうとの情報にホッとして、ホテルを出る。いわば山手線のような環状線のU3で、中央駅を通り越して、いくつ目かのmundsburgという駅に向かう。駅前のロータリーに、この地の空襲の犠牲者の慰霊碑があるというのだ。往来の激しい交差点の分離帯の中にひっそりとあった。

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インパクトのあるモニュメントであった。「1943年7月30日夜、空襲で370人が亡くなった。彼らの死を忘れるな。二度とファシズムを台頭させるな。二度と戦争を起こしてはならない」と記されていた。カールシュタットデパートの地下防空壕で、亡くなった人々である。

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駅の反対側の公園の奥には教会があったが、そこまでは足が延ばせなかった。 

ムンズブルグ駅から、ふたたびU3で中央駅とは反対方向にぐるっとまわって、schulumpシュランプで、U2に乗り換え、北上すると、Hagenbecks Tierpark動物園駅というのがある。

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動物園駅を降りて道を渡ると、一見、え!と驚くのだが、キリンもその背中の少年もモニュメントとわかる。

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中国風の動物園入り口。

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「案内図」とチケット(20€)、かなりの迷路で、回り切れないところも・・・。園内には、突然、中国やタイ風の建物、そして日本の鳥居、トーテムポールなどが現れて、創立者のハーゲンベックさんの意図がわかりかねることもあったが、とにかく、動物とはなるべく触れ合える工夫が様々になされていたので、見ているだけでも楽しかった。

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アルパカの親子かな

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にぎやかな一団、先生も一苦労か・・・。

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大人も、子どもも楽しそうな。
 

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何を考えているのか。

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動物園駅から、U2で、市庁舎にも近い、アルスター湖が目の前のjungfernstieg駅に降りてみる。いくつもの路線が交差するターミナルで、辺りは若者たちが多く活気に満ちていた。下は、アルスターアーケードだが、今日はその先にテントが見える。

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念願かなって、オールド・コマーシャル・ルームでの夕食。なかなか雰囲気のある店で、個室ではないが、三方が壁で囲まれる。壁いっぱいに、来店の著名人の写真が並ぶ、だいぶ古い人もいるが、大方は分からずじまい。注文は隣席に座りこんで、いろいろ相談に?のってくれる。夫は、シュニツエル、私は白身の魚のソテー。今日だけは私もビールを。


 今日も1万7512歩。そして、夜、バゲッジが届けられたのである。どうしたことか、私のだけで、夫のは今夜も届かずじまい、いったい?!

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2019年8月26日 (月)

はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(13)ハンブルグへ、旅のつまづき

 旅も後半、アムステルダムからハンブルグへ飛ぶので、その日の朝、娘にメールをすると、大阪のG20の報道が、やかましい、ホテルがどうの、夕食のメニューがどうのと、中身のないことばかり・・・、との返信。私たちもホテルで現地のテレビのニュースを見ていたが、G20関係は数十秒の世界で、安倍首相の姿が映ったと思ったらすぐ消えた、程度のことだった。

 早めにスキポール空港に着いて、少しばかりの買い物を済ませた。10時45分には離陸、地上は、しばらく、細長い白いビニールハウスが目立っていたが、やがて細長い畑のモザイクに変わっていった。うとうとしているうちに、ハンブルグ空港に着いた。ところで、ここで、思わぬトラブルにふたたび遭遇することになった。

 ふたたび?というのは、思い出すのもイヤで書かなかったのだが、実は前日、ユダヤ歴史博物館に向かう途中で、私が、自転車道と歩道の境目に躓いて、派手に転倒してしまったのだ。ズボンの膝は破れ、手にしていたカメラが遠くに飛んで行ってしまったのである。前後に歩いていた人が寄ってきて気遣いの言葉をかけてくれるし、日本語とは違うアクセントで「マッサージ、いいよ、マッサージ!」といって通り過ぎる女性もいた。ともかく幸いにも、膝は、冷房用に着けていたズボン下と、ひざ痛の貼り薬のおかげで、傷はなかった。ただ飛んで行ったカメラの調子が悪くなって、望遠のまま動かなくなってしまったのである。これからは、妙な望遠での写真か、夫のカメラから頂戴した写真となる。

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これは転んだ日の写真ではないけれど、自転車道と歩道との境はこんな風で、微妙な段差がある。自転車道の往来は一方通行で、かなりのスピードを出しているので、気をつけてはいるのだが、少しはみ出して、後ろから大声で叱られることもあった。

 ハンブルグ空港では、予定通り12時前には手続きが終わったのだが、指定のベルトで荷物を待っていても、いっこうに、私たちの荷物が回って来ない。同じ便の客たちはとっくにいなくなっていた。こんなことは初めてのことで、近くの係員に訊くと、次の便になった、ともいう。途方に暮れて、バゲッジのトレースセンターに並び、事情を話せば、こともなげに、運がよかったら、今晩か明日にはホテルに届くはずだと、日常茶飯のような対応だった。そんなことにも手間取って、一度ホテルに入ってから出かけるつもりだった、午後2時から、市内ガイドの方との待ち合わせに遅れてしまった。かなり重い手荷物を持ったまま、約束の市庁舎前まで、たどり着く。幸いホテルは、近くのゾフィテルだったので、まず手荷物のザックはホテルに置いていきましょう、というガイドのYさんの勧めで、チェックインをした。やはりここも、シャワーだけでバスタブがないのはいささかがっかりしたものだが、荷物は最小限度にして部屋を出た。Yさんは、フロントで、今晩にも届くかもしれないバゲッジのことをしっかりと確認してくれていた。

 だいぶ遅れたが、市内のウオークツアーでは、予定通りのコースとはいかなかったけれど、市庁舎→ミヒャエル教会→旧商工組合福祉住宅→エルベトンネル入り口→船でフィルハーモニー→市庁舎、ということにだった。ちょうどこの日は、オートバイの日とかで、ドイツの各地から、自慢の愛車で走りまわっているので、道路を渡るときは気を付けてくださいと、Yさんおことばだった。荷物の心配もあり、なんと昼食抜きのどこか落ち着かない一日だったが、聖ミヒャエリス教会展望台からの眺めは素晴らしかった。この日、1万2009歩。

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1897年に完成した市庁舎は今でも使用している。647室もあってバッキンガム宮殿を凌ぐというが、地盤は決し堅固な土地ではないので、土台には4000本の樫の杭が打たれているそうだ。外壁の窓の上の飾りには、貿易で繁栄した自由都市らしく、市民の職業にまつわるものや相手の国の象徴のようなものが彫られていて、豚の頭だったり、ケーキだったり、ちなみに日本は、菊の紋章が彫られている由。高くてよく見えなかったが。また、正面のバルコニーには、ラテン語で「先人たちの勝ちとった自由を後世の人々が厳粛に守らんことを」が掲げられているという。

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ホールまでは誰でも入れる。正面に市長の部屋に通じる階段で、さまざまな客を迎えるが「私は誰にも膝まづかない」といういうのが引き継がれているとも。翌日の市庁舎ガイドツアーに参加することにした。

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市庁舎の近くの路上にあった「stolper stein つまづきの石」と呼ばれるもので、この場所近くに住んでいたユダヤ人がナチスに連れ去られ、亡くなった人の名前と日付などが彫られた銅板が敷石の間にはめ込まれ、それを後の人も記憶に留め、追悼しようとすものである。そういえば、、ベルリンン国会議事堂の横の広場にも少数民族のシンチ・ロマのナチス時代の犠牲者追悼記念碑に囲まれた丸い池の周辺の敷石には、犠牲者の名前が記されたこと、ホロコーストの追悼施設が議事堂ブランデンブルグ門の間に置かれていたことなどを思い出していた。日本人の歴史認識と、これほどまで違うのはなぜなのか。

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上の三葉は、ミヒャエル教会の展望台からエルベ川を望む。

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展望台から市街地の方を望む。中央の高い尖塔がニコライ教会跡。その右手がカタリーナ教会、左手の市庁舎の先の聖ペトリ教会と聖ヤコビ教会と思われる。ニコライ教会跡は、ホテルからも近いので、後日、朝食前の散歩で出かけた。

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木組みの旧商工組合福祉住宅に挟まれた路地、17世紀、1676年に当時の商工組合員の未亡人のために建てられた住宅だった。日本はまさに江戸時代の初期、「福祉」などという発想があっただろうか。1863年から100年ほどは市の老人ホームだったのを、1970年代には改修の上、博物館と店が入ったそうで、レストランも来られるといいですよ、とYさんもお勧めだったし、いろいろな楽しそうなお店もあったので、ぜひと思っていたが、再訪は果たせなかった。

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トンネルまでは、大型のエレベーターで降りる。1911年完成当時、車も乗れる巨大なエレベーターが何基も備えられ、驚異の的だったらしい。現在は車のほとんどが1975年完成の新エルベトンネルを走る。

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派手な黄色い船がHVV運営のれっきとした公共交通機関の定期船で、上の白いのが遊覧船であった。定期船は、地下鉄などと共通の一日乗車券で乗れる。

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甲板はまるで遊覧船の気分である。

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右の奇妙な建物が、2016年完成した、エルプフィルハーモニーの建物で、完成までには、工費の拡大で、すったもんだがあったらしい。

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私たちは、たった10分にも満たない船の旅だったが、川風に汗も一時引っ込んだようだった。

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ホテルにも近い、運河沿いのアルスターアーケードのレストランでの夕食となりました。

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2019年5月22日 (水)

「斎藤史について」の報告が終わりました

 5月18日、「短歌サロン九条」の例会、第61回になるそうですが、報告をする機会をいただき、「斎藤史」について話をしました。当ブログでも既報の通り、今年の1月9日日付で、暮れに拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』)を出版しました。そんなこともあっての依頼だったと思います。30部ほど用意した配布資料が足りず、近くでコピーをしてくださったそうです。会始まって以来の参加者が多かった?とのことでした。報告は、2時から1時間20分くらいで終了しましたが、あとは5時近くまで、参加者全員が感想を述べてくださいましたので、報告者としては、とてもうれしく、有意義な会となりました。思いがけず、国立国会図書館時代からの友人や知人、出版元の一葉社の二方の参加もありました。また、今回は、前記拙著の冒頭で、その論文を引用しました、若い研究者の中西亮太さんも参加してくれました。書誌、文献の考証には厳しい中西さんが、拙著の半分近くを占める著作年表や歌集未収録作品・全歌集編集時の削除作品などの資料検索・収集作業の困難さと努力に言及してくださったことは、ありがたいことでした。

 以下は、当日の配布の「報告要旨」を中心に若干手を加え、まとめたものです。

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1.なぜ今、斎藤史か

1)斎藤史とは

斎藤史は1909年生まれで、2002年に亡くなり、元号で言えば、明治・大正・昭和・平成を生きた歌人でした。戦前の作品は、モダニズムの影響を受けた象徴的な手法が高く評価され、戦後は、疎開先の長野に定住、その風土になじめない都会人として葛藤、口語を駆使し自在な歌いぶりで、介護や自らの闘病や老境を歌い、現在も老若からの熱い支持を受けている歌人です。短歌雑誌では幾度も特集が組まれ、多くの鑑賞書や評伝も出される、現代の人気歌人の一人でもあります。

・暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた

(『魚歌』1940年)

  • 白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼を開き居り

(『うたのゆくへ』1953年)

・つゆしぐれ信濃は秋の姥捨のわれを置きさり過ぎしものたち

(『ひたくれなゐ』1976年)

・疲労つもりて引出ししヘルペスなりといふ八十年生きれば そりゃあなた

(『秋天瑠璃』1993年)

・人はみなおだやかにして病人を見下さぬやうにふるまひくるる

(『風翩翻以後』2003年)

 斎藤史は、生前に、『斎藤史全歌集』を、1977年、1997年の2回、いずれも大和書房から出版しました。この全歌集への『朱天』(1943年)を収録する際に、その『朱天』の冒頭に「はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば」の一首と収録歌数が末尾には「昭52」と記され、付記として掲載されました。斎藤史の鑑賞や解説、評伝などが書かれるたびに、多くの執筆者は、付記された前掲の一首を引用して、戦時下の作品を隠さずに、全歌集に収めたことを、高く評価し、その潔さを称えました。

 しかし、少し調べていくうちに、初版『朱天』の歌数と全歌集に付記された歌数の違いに気づきました。要するに初版から削除された歌があることがわかり、改作された歌もあることを知りました。

2)報告の焦点

今回の報告は、以下の3点に焦点を絞ります。

①拙著の資料の一部を使いながら、削除と改作の経過と実態はどうであったのか

②実態を知ると、戦時下の作品を、後世――戦後になって、どのように対応・処理するのかという、多くの歌人の共通する課題と重なりました。彼らの選択のパターンを何人かの歌人で検証します。

③その選択を自覚的にせよ、無自覚的にせよ、戦後歌壇、現代歌人たちは自然体で受容してきたと思うのです。その現象が何を意味するのか、何をもたらしてきたのかを考えたいと思います。

 3)私の斎藤史への関心の高まりと資料環境の変化

私の斎藤史への関心は、史の父親の斎藤瀏に始まります。斎藤瀏は、軍人で、「心の花」の有力同人でありましたが、1936年2・26事件で、「反乱軍」の支援者として連座し、軍法会議で禁固5年の刑を受け、38年9月に仮出所します。翌年39年には『短歌人』を創刊し、以降、異常なほどの勢いで、歌壇に復帰、大政翼賛にのめりこみ、1940年には、太田水穂、吉植庄亮と共に大日本歌人協会を解散に追い込みました。篠弘は昭和短歌史の最大の汚点とも総括しています。また、斎藤史が『新風十人』という合同歌集、第一歌集『魚歌』、『心の花』時代の歌も収録した歌集『歴年』と立て続けに出版したのが1940年でした。

4)斎藤史への評価の類型化

私の1970年代の斎藤瀏の動向への関心と全歌集出版による歌壇や文壇での斎藤史への関心の高まりが重なる中で、史への評価が以下のような類型化が見られるようになります。

①2・26事件に絡んで、父の失脚、幼馴染の処刑に対する昭和天皇や軍部への怨念がありながら、ストレートに表明できない「悲劇のヒロイン」としての物語性を強調する

②戦時下にあっての『新風十人』『魚歌』では、象徴的な手法によって、当時の短歌や文芸への統制が厳しい中、ぎりぎりの抵抗を示したとする

③戦時下の作品を隠さずに『全歌集』に収めたというあとがきや付記の一首に着目し、その潔いメッセージを高く評価する

しかし、その一方で、私の関心は、史の発信した「潔さ」と削除・改作の実態との整合性、多くの歌人たちが、全歌集を語り、作品を鑑賞する場合、また評伝を書く場合、『朱天』の時代が省かれ、アンソロジ―などへの収録が極端に少ないという『朱天』をスルーする現象に疑問を持つようになりました。

5)資料環境の進化

近年、古い図書や新聞・雑誌のデータベース化が急速に進み、検索手段やコピー入手が容易になりました。

①古書や雑誌の復刻版・マイクロ版の出版に加えて、国立国会図書館では、主要雑誌の2000年までのデジタル化が進んだ。

②敗戦直後の混乱期、GHQの検閲時代の検閲資料がプランゲ文庫として、アメリカのメリーランド大学に保管されていることがわかり、データベース化が進んだ。

③新聞についても、期間などは限定的ではあるが、朝日「聞蔵」・毎日「毎索」・読売「ヨミダス歴史館」・「日経テレコン」など、斎藤史が多く登場する信濃毎日や中日新聞のデータベース化も進んだ。

 

2.『全歌集』収録の「朱天」と初版『朱天』の異同を調べてみて、わかったこと
1)
全歌集』収録の時に『朱天』から削除作品~17首

資料:『朱天』の『斎藤史全歌集』(1977年・1997年)収録時に削除された17首

ダウンロード - siryoefbc91.pdf

(1)「戦前歌」より

①國大いなる使命(よざし)を持てり草莽のわれらが夢もまた彩(あや)なるを 初版六頁

「とどろき」の最後一〇首目

『日本短歌』一九四一年二月「秋から冬へ15」*初出「理想」を改め

②たのめざるものも頼みきしどうなる野草の霜を今は云ひそね  二二頁

「ぼたん雪」六首目

『短歌研究』一九四一年二月「ぼたん雪9」 

③煌めける祖国の歴史継(つ)ぎゆかむ吾子も御臣(みたみ)の一人と思へば 七二頁 

「使命」四首目

初出不明

④神(かむ)使命(よざし)負へる我らと思ほへりひかりとどろき近づけるもの 七四頁

「使命」九首目

『女流十人歌集』一九四二年五月「飛沫45」 「思ほへば日日に」を改め

⑤ますら夫はむしろ羨しもひとすじに行きてためらはぬ戦場(ところ)を賜びき 七八頁 

「訓練」九首目

初出不明

「開戦」より

かすかなるみ民の末の女ながらあかき心におとりあらめやも  八五頁

「四方清明」最後一二首目

『婦人朝日』一九四二年三月「国民の誓ひ5」

『新日本頌』一九四二年一一月「開戦15」*「かそかなる御民の末の女(をんな)ながら丹きこころに劣(おとり)」を改め 

⑦現(あき)つ神在(ゐ)ます皇国(みくに)を醜(しこ)の翼つらね来るとも何かはせむや 九五頁

「わが山河」六首目

『公論』一九四二年三月「四方清明5」

『日本短歌』一九四二年四月「春花また6」

⑧襲ふものまだ遂(つひ)に無き神国の春さかりや咲き充ちにけり 一〇九頁 

「たたかふ春」最後一六首目

初出不明

⑨國をめぐる海の隅隅ゆき足らひ戦ひ勝たぬ事いまだ無し 一一四頁  

「珊瑚海海戦」六首目

初出不明

⓾みづからのいのち浄らに保(も)ちも得で説く事多き人を見るかも  一二二頁

「微小」二〇首目

『短歌人』一九四二年九月「くろき炎5」

⑪たばかられ生きし憤(いか)りは今にして炎と燃えむインド起たむとす 一二六頁 

「荒御魂」二首目

初出不明

⑫まつらふは育くみゆきて常(とこ)若(わか)の國悠(はろ)かなり行手こしかた 一二九頁

「荒御魂」最後一〇首目

『文芸世紀』一九四二年一二月「十二月八日7」

⑬動物を焼く匂ひに乾く着馴れ服火をかき立てて君も干さすや 一三七頁

「防人を偲びて」七首目

『文芸春秋』一九四二年一二月「北の防人を偲びて10」

『短歌人』一九四三年二月「北なる人に4」

⑭重傷のわがつはものをローラーにかけし鬼畜よ許し得べしや 一四六頁 

「ニューギニヤ進撃」三首目

初出不明

⑮半島、高砂、インドネシヤの友打つづき撃ちて止まむと進む神いくさ 一四六頁

「ニューギニヤ進撃」四首目 

『短歌人』一九四三年四月「進撃4」 「やむと」を改め             

⑯背戸畑の土の少しを守り袋に入れてゆきたる人如何に在る 一四六頁

「ニューギニヤ進撃」五首目 

『短歌研究』一九四三年四月「冬樹7」*「すこし」を改め

『短歌人』一九四三年四月「進撃4」

⑰神怒りあがる炎の先に居て醜(しこ)の草なすがなんぞさやらふ 一四七頁

「ニューギニヤ進撃」六首目 

『文芸春秋』一九四二年一二月「北の防人を偲びて10」

  「削除」したという文言や理由は、全歌集のどこにも明記されることはなかったのですが、歌数だけは、記述がありますので、引き算をすれば、削除された歌数がわかります。しかし、歌数の誤記などあり、戸惑いましたが、結論的には、17首が削除されています。1941年12月8日太平洋戦争開始前の「戦前歌」192首から5首、「開戦」173首から12首が削除されていました。どんな作品だったのか、上記の通りです。PDFでもご覧になれます。

  これらの歌に共通するものは何なのか、それが削除の理由につながると思います。

①歌の根底に、軍国主義的なもの、天皇崇拝、神がかり的なものがある

②表現上では、気持ちの高ぶりを示したり、強調したりする表現が頻出している

③使用されている言葉には、天皇を神聖化した、たとえば、使命(よざし)、現つ神、皇国(みくに)、神使命(かむよざし)、御民、御臣などの多用や官製標語などが見られる

④さらに、二重寄稿作品やアンソロジー収録作品があるということは、当時、自分でも秀作、自信作、体制から期待された、時代の要請にこたえた大切な作品であったことが推測される

 しかし、こうした条件を満たしながら、削除されない作品はたくさんあります。ほかにもあるということは、たしかで、配布資料にある中西亮太さんの朝日の歌壇時評や吉川宏志さんの図書新聞の拙著書評でも指摘しています。となると、削除の理由は何だったのだろか。私も明確な結論は出しにくいです。けれども、ともかく史自身としては、後世の人には読まれたくないないと判断した作品であったと考えられます。

 ただ、こうした作品が削除されていたという事実と、例の短歌やあとがきでの隠したってすぐわかるとか、全部さらけ出すしかない・・・という発言との齟齬、整合性は問われなければならないと思いました。

2)作品改作例

「四方清明」一二首の中)

・言ひ得ざりし歌ひえざりし言葉いま高く叫ばむ撃ちてしやまむ  八二頁

『文芸』一九四三年三月

⇒言ひ得ざりし歌ひえざりし言葉いま高く叫ばむ清(さや)明(け)く呼ばむ『全歌集』

この「撃ちてしやまむ」は、1943年3月10日が陸軍記念日で、それに合わせて陸軍省から発表された標語でした。当時、多くの雑誌の表紙に刷り込まれ、さまざまな特集が組まれました。その標語を外して、書き換えることにより、かなり、ソフトなものになっています。
(「天つ御業」八首の中)

・國こぞり戦ひとほす意気かたし今撃たずして何日(いつ)の日にまた 八九頁

『新日本頌』一九四二年一一月 『大東亜戦争歌集・愛国篇』一九四三年二月

⇒國こぞり戦ひとほす意気かたし今起たずして何日の日にまた 『全歌集』「天雲」

「撃たずして」という攻撃的な言葉から、「起たずして」にあらため、抑制した表現になっています。

・亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が死も又今日の日のため 八九頁

(すぐる二・二六事件の友に)

『新日本頌』一九四二年一一月 『大東亜戦争歌集・愛国篇』一九四三年二月

→亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が憂ひしとき至りたり 『全歌集』

2・26事件で、反乱軍と烙印を押され、銃殺刑に処せられた友に捧げる歌ですが、この太平洋戦争を勝ち抜こうという今日のためになしたことだった・・・ということになり、改作後の「憂ひしとき至りたり」では、この現状を憂慮することに立ち至ったということになり、反対の意味にも解されるのではないかと思われます。

(「シンガポール陥ちぬ」一一首の中)

・百二十餘年の悪をきよむると燃えし炎か夜も日も止まず

『文芸春秋』 一九四二年五月

→百二十餘年の無道をきよむると燃えし炎か夜も日も止まず 九八頁

→百二十餘年東洋を蔑(なみ)したる道きよむると燃えし炎か 『全歌集』

 初出の「悪」⇒ 初版の「無道」⇒ 全歌集の「東洋を蔑したる道」の改作はいずれも、「百二十余年」にわたるイギリスの植民地から、日本軍が解放するという大義名分を強調したものです。全歌集収録時に「東洋を蔑したる道」と改めたことによって、改作前の断定から、やや説明調にして、抑制したように思えます。

 

3)小題変更

「天つ御業」→「天雲」

「真珠湾特殊潜航艇の軍神」→「真珠湾特殊潜航艇」

4)有力雑誌への多重寄稿

削除作品⑥、⑦、⑬、⑯に見られるのはごく一部の一例で、収録作品の中にも多数見られます。通常は、「転載」など付記して、同じ作品を掲載することはあるけれども、題を変えてそっくり二重寄稿したり、作品を組み替えたり、同じ作品を散在させて寄稿するような操作もしています。

忙しくて原稿が間に合わなくて、多重寄稿になったのか、あるいは読者が違うから、あるいは、自分としては大事な作品だったから・・・という理由だったのか。出版社との関係でも、読者に対しても、誠実とは言えない態度だと思っています。

 5)「未刊歌集」という方法

なお、『朱天』以降、戦時末期から戦後にかけての作品(1943年5月~1947年10月)は基本的には歌集としてまとめられておらず、空白の時期でした。敗戦後、占領下の『やまぐに』((初版150首から145首、1947年7月)という歌文集が刊行されましたが、依然として『朱天』以降敗戦までの作品が読めるようになるのは、未刊歌集「杳かなる湖」(『短歌研究』1959年10月発表100首から88首)という形で公表されたときでした。敗戦後14年後のことです。『全歌集』収録の際、2冊にも若干の削除・入換えがありました。しかし、とくに、太平洋戦争末期の公表作品が歌集や『全歌集』に収録されることはありませんでした。 

3.これらの事実は、何を意味するのか

 改作の例は、削除の意図を探る意味でも有効なのではないか。すなわち、大げさな表現の抑制、露骨な敵愾心の後退、ソフトな印象に換えるなどしていることから、削除にもそうした指向があったのではないか、推測できるのではないか、と思うわけです。では、ほかの歌人たちにも、削除や改作はあったのだろうか。戦時下の作品を、自らどう評価するか、どう処理するか。占領期のGHQ検閲時期の出版における対応とも関連して、各歌人の対応は実に様々でありました。ほんの一部ながら、実例を挙げてみたいと思います。

a)窪田空穂(18771967『明闇(あけぐれ)』(1941~43年作品、1945年2月)の場合:当時の歌集には収めた作品が、今から思えば、大本営発表に踊らされた、つまらない作品だからなど、一応の理由を「あとがき」などに記述して、『全歌集』(1981年)からは削除しています。

b)阿部静枝(18991974『霜の道』(女人短歌会 1950年9月、第一歌集『秋草』(ポトナム社)以降 1926年10月以降1950年)の場合:戦時下の作品は焼失、手元にない・・・、未婚の母の時代の作品などをふくめて、歌集全体をフィクションと称して、歌集を構成・編集しています。

・ひそかに生み落し他人にまかす子の貧しき眉目あげて笑へる(『霜の道』)

・里親よりさいそくきびしき金が欲し雨にいそぐ男をはりてとらふる(同上)

c)斎藤茂吉(18821953『霜』(1941・42年作品863首、岩波書店 1951年12月)の場合:「後記」で「大きな戦争中にあっても、幾首づつか歌を作った。その一部は今回捨てたが、それでも残りはこれくらゐである」

『小園』(1943・44年作品、782首 岩波書店 1949年4月)の場合:「後記」で「昭和十八年、昭和十九年の作から平和なものを選び・・・」

 出版年の1951年、1949年に着目しますと、GHQの検閲下(1945年9月19日プレスコード~1948年7月15日~事前検閲、~1949年10月事後検閲終了)あった時代で軍国主義の歌は検閲対象であったので、その配慮が十分あったかと思います。『斎藤茂吉全集』(新版全36巻、岩波書店 1973~75。1~4巻歌集収録、4巻「歌集拾遺」として収録されている

『萬軍』(1945年7月221首を茂吉自身が選定、八雲書店<決戦歌集>として刊行予定)の場合:秋葉四郎『幻の歌集『萬軍』』(2012年8月岩波書店刊)において編者は、謄写刷りの私家版があるが発行年・出版元不明の『萬軍』と1988年12月紅書房刊の二冊の『萬軍』は、いわば信頼関係を崩す出版と断定、本来の原稿は八雲から取り戻して、佐藤佐太郎に預けた原稿こそが原本で、それを出版するに及んだと記す。
・肇国(はつくに)しらす天皇(すめらみこと)のみ言(こと)はや「撃ちてしやまむ」のみ言はや

d)宮柊二(1912~1986)『山西省』(1940年1月~1943年8月?作、古径社 1949年4月)の場合:1946年7月中央出版社版がGHQの検閲を受けていて公刊されなかった。検閲末期に公刊した。
・ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す
(『日本文芸』1942年7月)

 これに収録されていない時局詠31首は、未刊歌集「芻(すう)駅の歌」として、1956年12月東京創元社『定本宮柊二全歌集』に収録。岩波版(1989年11月~『宮柊二集(全10巻)』別巻(1991年2月)には「著作年表」を付して時系列で収録。

・旺んなる士気を振ひて大君の工場護らむ時ちかづきぬ(『多磨』1945年1月)

結び
 歌人たちの、個別の歌集の出版、編集の際に行われる取捨・改作については、いつの時代でも、だれもが行っている作業ではあります。しかし、次のような場合、歌人自身や編纂者は、どのように対応すべきなのだろうか。

・一度公表した作品で、歌集に収めた作品を、全歌集や全集編集の際に改作したり、削除したりする

・一度公表した作品で、ある時期の作品を全く歌集に収めなかったり、全歌集に収めなかったりする

いずれの場合も、「ことわり」を入れるか、入れないかは、歌人や編纂者の資質にかかわると思います。

⇒①削除や改作の事実と理由を明記する

⇒②その事実を公表しない、言及しない

⇒③その事実に反して隠さないと公言する

 作者自身や編纂者として、どのスタンスであるのかを明確にしておくことが望ましく、他者の作品を読むときは、作者が上記のどの立場なのかを見極め、自分としてはどこまで受容するのかも明確にしておくことが必要かと思います。いずれにしても、自分に不都合な事実には触れずに、都合の良い事実だけを強調・喧伝することによる情報操作にも留意することが必要と考えました。

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 なお、中西さんからは、多重投稿の例は、葛原妙子など他の歌人にもみられることであること、いくつかの図書館の雑誌所蔵情報なども教示いただきました。また、斎藤史の基本的なスタンスとして、「時代に迎合した」というより、思想的には変わってないとみるか、確たる思想がなかったとみるかであって、前者に近いのではという意見も伺いました。私も、史の思想形成から見ると、前者と考えるべき一端は、史の天皇観にも表れていることに、拙著でも言及していましたので、共感したのでした。

なお当日の配布資料は、次の通りです。

1 .拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』チラシ(目次付き)

2.新聞切り抜き

・大波小波「『斎藤史全歌集』への疑問」(『東京新聞』1998115日)

・中西亮太:歌をよむ「斎藤史の真意はどこに」(『朝日新聞』2010816日)
・大波小波「「濁流」に建つ言葉」(『東京新聞』 2017612日)

・吉川宏志:『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』書評「言葉によって自己の人生を染め替えようとする意識」(『図書新聞』201946日)

・寺島博子:『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』書評「揺るぎない視座」(『現代短歌新聞』201955日)

3 .拙著の資料「斎藤史著作年表」の一部(19431946年)

4.報告要旨  

 

 

 

 

 

 

 

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2019年5月 4日 (土)

憲法記念日にふたたび~『あたらしい憲法のはなし』

 わが家にある『あたらしい憲法のはなし』は「昭和22年8月2日翻刻発行」である。仙花紙というのか、用紙はすでに茶色、表紙もご覧のように、すすけて、その綴じも今にも崩れそうである。これは、1933年生まれの次兄が、疎開先の中学校から、家の近くの立教中学校に編入して間もないころ、使用した教科書だったのか、裏表紙には、ローマ字のサインがあり、校名や三学年という表示もある。池袋の実家が建て直されるというとき、物置きから拾って!きた記憶がある。兄のところでなく、私の手元にあるのも不思議な気がしているが、すでに亡くなって久しいので、尋ねるすべもない。あらためて、読んでみた。この本は、中学校一学年用の教科書として作られたが、兄たちは、明らかに三学年で使用していたことになる。1950年には副読本となり、朝鮮戦争が始まって以降、使用されなくなった。教育現場では、ほんとに短い期間しか使用されないテキストだったわけである。

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   頁をそっと開いていくと、ところどころに、兄の几帳面なこまかい字の書き込みがある。第一章「憲法」という概説部分2~3頁をスキャンしてみた。鉛筆HBかHでの書き込みか、非常に読みにくいのだが、

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・2頁の右肩には「世界各国共通ニ「最高法規」トハ憲法ヲ云フ」(旧かな!)と読める書き込みがあり、

・3頁の右肩には「個人の人間としての基本的権利」とあるのは、文中の「基本的人権」の説明なのだろうか。

・頁下には「第二次世界大戦死者5000万人」と書かれているのは、すぐ上の文中に「こんどの憲法にも、あとでおはなしするように、これからは戦争をけっしてしないという、たいせつなことがきめられています。」とあるので、先生が話したことなのか、自分が何かで知ってメモしたものなのか。

・左肩には「憲法の歴史 (欽定)→(國民)」とあるが、下では、明治憲法とはちがい、「こんどのあたらしい憲法は、國民がじぶんでつくったもので、・・・」との一文があった。

 「あたらしい憲法」を学ぶ教師と生徒の熱意と期待が伝わって来るようであった。ちなみに、第五章「天皇陛下」を開いてみると、実に、興味深いことが書かかれているではないか。

 こんどの戦争で、天皇陛下は、たいへんごくろうをなさいました。なぜならば、古い憲法では、天皇をお助けして國の仕事をした人々は、國民ぜんたいがえらんだものでなかったので、國民の考えとはなれて、とうとう戦争になったからです。そこで、これからさき國を治めてゆくについて、二度とこのようなことのないように、あたらしい憲法をこしらえるとき、たいへん苦心をいたしました。ですから、天皇は、憲法で定めたお仕事だけをされ、政治には関係されないことになりました。(15頁)

 そして、16頁には、次のような挿絵を添えて、「日本國民統合の象徴」を説明している。17頁の末尾では、つぎのように締めくくっている。執筆者の「苦心」が伺われような文章ではあるが、敗戦までの天皇の位置づけが、こんなにも不正確だったとは知らなかった。政治的権能を持たないようにしたのは、「ごくろう」がないようにとの理由付けだったのには、いささか驚きもしたが、GHQ占領下においても、天皇の戦争責任への言及がここでは皆無であったことを知るのだった。

  天皇陛下は、けっして神様ではありません。國民と同じような人間です。ラジオのほうそうもなさいました。小さな町のすみにもおいでになりました。ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、國をおさめてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません。これで憲法が天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。(17頁)

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2019年2月25日 (月)

「短歌と天皇制」(2月17 日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(1)

 

「その反省から出発した戦後短歌」って、ホント?

 

すでに、1週間以上も経ってしまったのだが、217日『朝日新聞』の「歌壇時評」の見出しは「短歌と天皇制」であった。皇室情報がメディアにあふれ出ているこの時期に、埋もれそうな見出しであった。しかし、見出しと同じ書名の著書(『短歌と天皇制』 風媒社 1988)を持ち、そのテーマで書き続けている私としては、ほっとくわけにもいかず、読んでみた。執筆者の大辻隆弘(1960~)は、未来短歌会の選者でもあり、評論もこなす歌人である。しかし、その内容は、やはりというか、自身の「結論」に導く強引な論法には、かなりの問題があることがわかった。その文章は次のように始まる。 

「太平洋戦争中、短歌は戦意高揚の具であった。天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された。その反省から出発した戦後短歌は、皇室と関係を結ぶことに慎重だった。戦後短歌には天皇制に対するアレルギーがあったのだ。が、今、そのアレルギーは薄らいでいるように見える。・・・」

 まず、「その反省から出発した戦後短歌」という認識は、かなり「美化した」というより、当時の短歌状況を歪めていることにならないか、と思ったのである。もちろん私にしても、当時の歌壇や歌人の状況をリアルタイムでは知りようがない。戦後生まれの大辻は、何を根拠にしているのだろうか。いくつかの戦後短歌史は、敗戦直後の短歌状況をつぎのように述べている。 

「短歌は、戦意昂揚に踊らされていたために、衰弱がひどくて真の文学的立ち直りを見ることができなかった。戦後の虚脱状態がしばらくつづくのである」(木俣修『昭和短歌史』明治書院 1966年再版 571頁)

「終戦直後の内部的な混乱、また第二芸術論による外部からの追討ちにもかかわらず、このころ歌壇はもうこういう「年齢的、歌歴順の秩序」をすっかり回復している。割切っていえば――ということは、一時期における左翼『人民短歌』運動の強勢と、若手「新歌人集団」グループの急激な進出を別にすれば、歌壇は、敗戦によって格別の変化を蒙ることがなかったといっていい。とは言え、戦後はすべての歌人にとって再出発だった」として、歌人によっては、解放であり、試練であり、喪失であり、それが創作活動の刺激となり「戦後短歌の多彩な収穫を約束した」とする(上田三四二『戦後短歌史』 三一書房 1974年 89頁)

「この人たち(茂吉、文明、空穂、善麿、夕暮など近代短歌の大家)にとって国家からの桎梏から解放されるということは、悲しみに富んだ悔しみにほかならなかったのである」とし、この「悲傷の極限」から始まる戦後は、戦時中の弾圧から解放された歌人たち「渡辺順三らが『人民短歌』誌上で、いくぶん戦争責任の問題を取り上げたが、みずからの禍根を払っての公式的な攻撃であったきらいもあって、ついに歌壇の一般問題にならなかったのである」(篠弘『現代短歌史Ⅰ』短歌研究社 1983年、22頁)

 これらの「短歌史」に「反省」という言葉が出てこない。だが、その一事をもって、断ずることはできないし、これらの執筆者の言は当然検証されなければならない。私も、必要に迫られて、限られた範囲ながら、敗戦直後の主な短歌総合雑誌や復刊間もない結社雑誌に目を通し、当時の短歌や歌人たちの文章をたどるだけでも、「戦後短歌の出発」にあたって「短歌は戦意高揚の具であった」こと、「天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された」ことへの反省があったとは受け取りがたかった。逆に、GHQの検閲文書を収録したプランゲ文庫により短歌雑誌の検閲記録には、天皇制賛美を理由として削除された短歌や文章も決して少なくないことも知るようになった。


 
 上記の上田三四二の文中にある、歌壇における「年齢的、歌歴順の秩序」とは、1949年から50年代にかけて、10年余を短歌ジャーナリズムに身を置いた中井英夫が、敗戦後も変わることのない歌壇の状況を端的に表した言葉だが、「昭和二十年~二十三年」の歌壇の状況についても言及している。俳句に向けられた第二芸術論の余波で歌壇も大揺れに揺れたことに触れて、「大部分の歌人の胸中に深く巣食っていたのは、戦争中に戦争協力の歌を作るのはまったく当たり前のことではないかという、当時の日本人は考えて怪しまず、そのまま今日まで持ち越されてしまった手前勝手な論理であった」(中井英夫『増補黒衣の短歌史』潮出版社 19751920頁)と述べ、その典型として、佐藤佐太郎の一文(『アララギ』19461月)をあげるのである。

 

 戦後短歌の出発を語るからには、せめて、これらの短歌史をひも解く謙虚さが必要ではなかったか。

 

 

 

 

 

 

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在位30年記念式典にやはり登場した、天皇・皇后の短歌

 

  

きょう224日の政府主催の在位30年記念式典は、NHKだけが、14時から1時間の予定でフルの中継をしていた。もう一度録画で見るつもりだが、とりあえずの感想を述べておきたい。どこで少し狂ったのか、式典は、10分近く延びて、NHK15時から5分間のニュースが1510分から始まった。
 入場と同じく、安倍首相が先導して退場する天皇夫妻は、舞台に整列している祝辞を述べた人たちや演奏をした人たち、ひとり一人に言葉をかけ、挨拶をしているようだった。途中で、招待客1100人ともいう会場の人々に対しても、天皇は、ながらく手を振る場面もあって、首相と菅官房長官は、夫妻の前後で、少し戸惑っているようにも見えた。想定外だったのかもしれない。

 最初に画面で示された式次第のなかに、「御製、御歌の朗読」というのがあった。沖縄出身の歌手が、天皇の「琉歌」に皇后が作曲した「歌声の響」を歌うということは、かなり前からマス・メディアで喧伝されていた。「御製・御歌」を波乃久里子が朗読することを私は知らなかったが、 朗読されたのは、二首とも、2003年歌会始の「御題」の「町」として発表された短歌だった。選歌は天皇夫妻の希望であったのだろうか。

・我が国の旅重ねきて思ふかな年経るごとに町はととのふ
(天皇)

・ひと時の幸分かつがに人びとの佇むゆふべ町に花降る
(皇后)

 つぎに、登場した、上記の「歌声の響」は、天皇夫妻が皇太子時代1975年、初めての沖縄訪問時に、屋我地島(名護市)の国立療養所沖縄愛楽園を訪れ、その別れ際に、ハンセン病の入園者たちから、「だんじょかれよし」という地元の船出歌で見送られたことに、心打たれた夫妻、のちに天皇が琉歌を作り、皇后が曲を付けたものを愛楽園に送ったという、経緯を持つ楽曲だった。歌い手が三浦大知、ピアノ千住明、バイオリン千住真理子であった。その琉歌というのは、沖縄に伝わる八・八・八・六という三十音の歌謡であり、式典では、繰り返しなどを取り入れて歌われていた。

だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔 目にど残る

だんじよかれよしの歌や湧上がたん ゆうな咲きゆる島 肝に残て

 この琉歌の舞台となっている沖縄愛楽園は、その前身は、1938年に国策であったハンセン病者の強制隔離のために開設された国立国頭療養所であり、1972年沖縄の本土復帰とともに厚生省に移管となり国立療養所沖縄愛楽園となった。1996年、らい予防法が廃止された後、今日に至るまで、元患者の方々のさまざまな差別や苦痛が続いている現実もある中で、昨年、沖縄愛楽園は開設80年を迎え、『沖縄タイムス』は、社説で、次のように述べている。

  「愛楽園は1938年11月10日開園した。80年の間に延べ3904人が入所し、2100人が退園、1372人が園で亡くなった。現在も142人の入所者が暮らす。
 入所者の平均年齢は84歳。(中略) 元患者たちの、家族や親族、社会から受けた激烈な差別の記憶は鮮明だ。実名を明かせないまま生涯を終えた人は数知れず、長い年月を経て今ようやく語り始めた人たちもいることを思えば、国の誤った政策の影響の甚大さ、根深さを知る。」

「社説」の全文は、以下を参照ください。

◇沖縄タイムス社説
[沖縄愛楽園80年]謝罪・反省に終わりなし(2018122日)
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/353190

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  いわば、政府主催の天皇の「お祝いごと」としての式典で、こうした入園者たちとの交流というエピソードがことさら、一つの物語、美談のように流布されることには、どうしても違和感というか、やりきれなさがともなってしまう。そして、上記社説は、「隔離政策の根拠となった「らい予防法」が施行(96年に廃止)されて1世紀以上たつが、元患者や家族の人権回復は道半ばだ。国策にならい、ハンセン病への差別と偏見を助長してきたメディアの責任も重い。過ちへの謝罪と反省に終わりはない。」と結んでいる。
 メディアの責任とともに、国策に積極的にかかわって協力していた貞明皇后はじめ皇室の責任も決して軽くはないはずである。この件については、以下の私のブログを参照いただければと思う。

◇冬の沖縄、二つの目的をもって~難しいと逃げてはいけないこと
(1)屋我地島、愛楽園を訪ねる(2017214日)
 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-eeb9.html

◇皇室とハンセン病と―名護市屋我地島の「御歌碑」(201822日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/02/post-abe5.html

 さらに、式典最後の天皇の「お言葉」では、その結びの部分で、皇后の次の歌を紹介していた。

  「平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇(りょうあん)の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。
しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。」

 ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ(皇后)

*皇后の歌集『瀬音』(大東出版社 1997年)の「平成二年」の最後の 一首として収録されている。

 しかし、この結びの部分は、「お言葉」の中ほどの段落で、次のように述べている個所と共通する一面を持っていると思えたのである。全国各地からの寄せられた言葉を「皇室と共に平和な日本を・・・」ととらえ、下記のように「務めをはたしてこられたのは、この国の持つ民度のお陰」と述べている点であった。こんなとき、「民度」なんていう言葉を使うのかなあ、というのが正直な気持ちだった。「国民に寄り添う」という言葉も実体がとらえにくいなか、それにしても「寄り添いながら」「民度」を見極められているのかなとも。

  「これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。」
 当日にと思って、書き始めたのだが、日付が変わってしまった。きのうは、沖縄県民投票の日であったのだ。

 

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2018年12月30日 (日)

『齋藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代 「歌集」未収録作品から何を読み取るのか』(一葉社)という本が出来上がりました

 このブログ記事でも、何度か触れたことのある、歌人・斎藤史について、これまで調べてきたことや考えてきたことを書いたものです。発行日は201919日となっていますが、1228日発売となりました。すでに、「版元ドットコム」はじめインターネット上でも紹介されているのを知って、驚きました。279頁の内、後半の121頁が、資料1「齋藤史著作年表 付/斎藤史・斎藤瀏関係文献」、資料2「齋藤史「歌集」未収録作品『魚歌』から『うたのゆくへ』」などが占める本となりました。もし、関心を持たれましたら、ぜひ、お近くの図書館などにリクエストしていただければ幸いです。大きな書店でしたら、手に取っていただけるかもしれません(池袋のジュンク堂にはあったそうです)。

 

 前世紀?からのテーマでもありましたので、私個人としては、長いトンネルから少し明かりが見えてきた思いです。でも、まだまだ、資料の不備や考えが及ばない点が多々ありますので、心細いばかりですが、齋藤史に関心のある方や若い歌人の方々に、ぜひ読んでいただきたいと思っています。

 

 天皇の代替わりが迫った、この時期に、齋藤史の天皇(制)へのスタンスの変遷を通して、一度立ち止まってみることができればと思っています。

 

 

<版元ドットコム>

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784871960755

<一葉社のチラシです>

Img561_2

Img562<最近の当ブログより>

・短歌における「改ざん」問題 ~斎藤史を通して考える(20186 9日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/06/post-53c4.html

・なぜ、いま、「斎藤史」なのか~612日の「大波小波」に寄せて(2017612日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/06/612-88cf.html

 

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2018年11月 5日 (月)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(9)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(5)

東京裁判はどう歌われたか

 

七名の日本人の死にゆかむ日は年内に迫り来なむか  

(宮柊二「猫じゃらしの穂」12 短歌研究 19491月)

裁かれし二十五名の断罪に耳かたむけてゐたるときの間
おごそかに歴史の上にしるされて永遠に消えざる今日の重大
(吉野鉦二「断罪」12 短歌研究19492月)

断罪の一人の友の夫がラジオにて知るその絞首刑(板垣喜久子夫人に)
洋裁店場末の町にひらきしも戦犯家族の生きてゆく道
(尾崎孝子 「十二首」12 短歌研究492

判決のラジオの聲を耳にして自由が丘の街なかに立つ
(片山廣子「秋日」7 日本短歌 19492月)

七人の處刑をはりし夜の闇のまぼろしに来て迫る何ゆゑ
薤の上の露ひとときのはかなごと同罪の吾をせめつつゐたり
断罪を軽しとしつつ傳へ来る福音はなほ吾に遠くして
(山本友一「冬蟄吟」12 短歌研究 19494月) 

断罪の一人の如く醒めし吾ま夜の井に来て水のみにけり
(青木政雄 短歌人 19491011月)

これらは、極東軍事裁判、いわゆる東京裁判のA級戦犯として東条英機ら七人が処刑された19481223日(皇太子誕生日)の前後に詠まれた短歌である。1946429日、(昭和天皇誕生日)に東条英機らを起訴し、53日にスタートした東京裁判だったが、19481112日には死刑の判決が宣告されていたものだ。『昭和萬葉集』巻八にも、この死刑執行について詠んだ短歌がかなり収録されているが、私は、あえて、初出の雑誌で発表した作品に限って、あげてみた。手元で確認できるものだけなのだが、ほぼリアルタイムで詠まれた短歌と言ってよいだろう。後、歌集に収録されたものには、改作されることもあり得るから、引用には、やや慎重にならざるを得ない。尾崎孝子の短歌は、七人のうちの一人、板垣征四郎の喜久子夫人を歌ったものである。夫人は、阿部静枝とお茶の水女高師の同期生で、古くからの『ポトナム』同人であった。『ポトナム』に復帰された1960年代からの東京ポトナムの歌会で何度かお目にかかったことがある。作品は、私など及びもつかない、骨格のしっかりしたものであり、苦労はされたとは思うが、やさしく、穏やかな面差しが印象に残っている。 

 A級戦犯処刑の日から2カ月もたたない1949215日に発売された、巣鴨拘置所で死刑囚の教誨師を務めた花山信勝『平和の発見―巣鴨の生と死の記録』は、たちまちに15万部以上のベストセラーとなったという。それを受けて、杉浦明平は、死刑囚の辞世と花山の<説教>、著名・無名にかかわらず歌人の受け止め方を、雑誌に発表された作品を例に挙げながら、辛口というか、かなり挑戦的な口調で、批判を続け、つぎのような結論へと導く(杉浦明平「新七刑囚物語―極東裁判の短歌について」『短歌研究』19497月)。

歌人たちは<世紀の裁判>とか何とか新聞の見出しだけを覚えて復唱するだけ で、この戦犯裁判と処刑との意味するものを深くとらえていない。従つてそれを文学化せずにおられぬまでに強い抒情をなし得ず、まれになしても非文学的な三十一文字しかつくれない。それはちようど聖戦をあのように姦しくさえずり回りわめき立てたことと表裏の関係に立つ。すなわち、歌人が、従つてそのいとなむ短歌もまた、近代化の方向に向いていないし、近代化への切実な要求ももつていないことの一つのあらわれにほかならない。」

 そんな中でも、杉浦は、井上健太郎(『国民文学』)のつぎのような、いまだ生硬ながら、「自覚的」な短歌として期待を寄せていた。 

・死によりて償はるるとなす彼の思想を何が何がかへるのか 

・千数百すでに縊られたるありて七囚をのみなげく何もなし 

・縊られし者ら以上に生きながら永き苦悩をつづけてゆくべし

  極東軍事裁判の開廷中をふくめ、天皇の戦争責任論にかかわり、天皇退位論議は、マス・メディアを舞台にかなり活発になされていた。今からは想像がつかないほどで、例えば、大手全国紙は、世論調査を実施するとともに、194510月から翌年にかけては、社説でも、天皇の退位時の対応策などが論じられ、19464月、南原繁東大総長は道義的退位論を表明している。新憲法施行後も、司法の場からは、19484月、三淵忠彦最高裁長官により、8月には、横田喜三郎東大教授による退位論が表明されている。裁判の終盤、19471231日、東条英機が天皇に開戦責任ありと証言した一週間後の年明けには、天皇に開戦責任なしと証言を覆した場面もあった。開廷中のキーナン首席検事が天皇訴追せずのメッセージは幾度か出してはいたが、そもそも、アメリカ本国では、1941年日米開戦直後から、日本占領後の「象徴天皇制利用構想」が打ち出されていたという(加藤哲郎『象徴天皇制の起源』平凡社 2005年)。日本の情報機関は知るすべもなかったのだろう。 

 杉浦明平も指摘するように、東条英機が戦争責任を一人背負ったような、いわば<浪花節的>な展開に、多くの国民の「男らしさ」や「可哀想だ」という情緒的な反応が、「事物の本質を見失わせ」、「戦争責任の問題およびこれと関連するこの荒廃せる祖国復興の問題をば傍き道に逸らせるのにもつぱら寄与していると言つていい」の言には、耳を傾けてもいいかもしれない。(つづく)

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2018年10月29日 (月)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(8)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(4)

 プランゲ文庫の検閲文書から見えてくる<短歌と天皇制>

 なお、同じころのGHQの検閲過程で『アララギ』1947年新年号において、興味深い一件を垣間見ることができる。

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プランゲ文庫に残る『アララギ』1947年1年号の表紙。47年2月4日の日付とY.Sakaiのサインがある。「20000」というのは、発行部数のようである。当時、『人民短歌』12000部の記録もあった。

  雑誌などの検閲は、まずExaminerによって、目次がすべて英訳された上で、全頁、点検の上、「注視すべき」作品や文章と作者名が英訳され、その理由が<note>として記される。タイプの場合もあるし、手書きの場合もある。『アララギ』新年号においては、ExaminerM.Ohta のサインのもと8カ所が対象となっていた。さらに、おそらく、別人によるチェックが入り、結論がタイプ打ちされ、結果的には、二首が削除され発行されていた。一つは、13頁の五味保義の八首中の一首で、乱暴に墨塗りで消されているので、「棒立ちて日本人を入◇◇◇◇疎林◇ホテルボーイ下り◇◇」しか読み取れない。穴埋めのクイズのようでもあるが、つぎのように英訳されている。削除の理由は、<causes resentment>となっていた。

 There stand a notice-board of “No admittance to Japanese “ in a grove , and page is seen coming down out the hotel.) causes resentment

  もう一カ所は、37頁の丸田良次の一首が削除されて発行されている。実は、37頁には、つぎのもう一首、天皇に触れている作品が対象となっていたのだが、最終的には削除を免れている。<note>をみると、その削除理由が、一首目が、「国家主義的」で、二首目が「超国家主義的」と記されているが、もはや検閲者のサジ加減一つということにも思える。その検閲者の日本人が、英語が堪能なだけだったのか、文学や短歌の基礎知識を持ち合わせていたのか、などにもよるのだろう。
・天皇のために死なむと汝(なれ)がいまは打倒をとなふるかなし(大分 菅沢弘子)

How pitiful is it to hear that you, who once revealed to gladly die for the Emperor, are now advancing up knocking down.)<nationalistic>

 ・戦死せざりし事が悔しく熱の如時たまにして吾を襲ふなり(佐賀 丸田良次)
The chagrin for my not having died in the battle often assail me like  a fever.ultra-nationalistic

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『アララギ』1947年1月号、「一月集 其二」は、結城哀草果、高田浪吉、鹿児島寿蔵、廣野三郎、五味保義、吉田正俊・・・と続く。ちなみに「一月集 其一」は、岡麓、斎藤茂吉、土屋文明であった。五味作品の削除は、見せしめ的な要素もあったのかもしれない。

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『アララギ』1947年1月号、土屋文明選「一月集 其三」、一人一首の選歌欄なので、作者にしては、その大事な1首が削除されてしまっている。

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上は、最終の報告文書のようであり、下は、<note>の一部で、まるで、殴り書きのようだ。

プランゲ文庫に残された検閲文書を見ていくと、戦勝国による検閲と日本の近代における、とくに、戦時下の国家による検閲とには、一見、明らかな違いがあるようにも見えた。GHQには、被占領下の国民には検閲の事実が知られないように、検閲の痕跡を残さないようにというのが原則であった。日本では、天皇や政府、軍部に対する批判は、見せしめのような、発禁や伏字という形で許さず、その上、出版社や執筆者は、治安維持法による編集者・執筆者の拘束、用紙配給の停止などにより、国策に加担すべく「懇談」「指導」を繰り返した。

GHQも、原爆への言及や報道、作品と占領軍・米兵の犯罪報道への検閲は、とくに厳しかったが、永井隆『長崎の鐘』(1949年)の出版などは、アメリカの占領軍の露骨な戦略の一つでもあった。長崎への原爆投下は「神の摂理」であったとするその内容とともに、7割近くの頁を連合軍総司令部諜報課提供の日本軍のマニラにおけるキリスト教徒虐殺の記録「マニラの悲劇」を付録とすることを条件に30000部の用紙が調達されたのである。日本軍のマニラのキリスト教徒殺害行為を公にすることによって浦上カトリック教徒への原爆投下を正当化しようとする意図は明白だった。「用紙」を管理することによって、プロパガンダに加担させ、公職追放によって言動を封じる手段は共通であったと思う。

 占領軍は、内務省下の発禁図書も、収集させた戦争記録画、占領下の検閲関係文書もアメリカに接収、運ばれた。そして、それらは、保管され、時間は要したが、結果的に、返却・無償貸与・公開という形で、日本でも知り得る情報となった。日本国内では、敗戦直後、軍部や官庁、企業などでは、戦時下の書類など焼却され続けたという。そして、多くの事実の隠滅、隠ぺいが図られた。

 そして、この体質こそが、今日の自衛隊や省庁、企業での隠蔽や改ざんが後を絶たず、政治が自国民の命と財産すら、守り切れていない現況を作り出しているのではないかと思う。そして、個人レベルでも、多くの表現者たちが、この占領期の検閲について語ろうとしないで現在に至っている。歌人も決して例外ではなかったことも知らねばならない。

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