2019年5月22日 (水)

「斎藤史について」の報告が終わりました

 5月18日、「短歌サロン九条」の例会、第61回になるそうですが、報告をする機会をいただき、「斎藤史」について話をしました。当ブログでも既報の通り、今年の1月9日日付で、暮れに拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』)を出版しました。そんなこともあっての依頼だったと思います。30部ほど用意した配布資料が足りず、近くでコピーをしてくださったそうです。会始まって以来の参加者が多かった?とのことでした。報告は、2時から1時間20分くらいで終了しましたが、あとは5時近くまで、参加者全員が感想を述べてくださいましたので、報告者としては、とてもうれしく、有意義な会となりました。思いがけず、国立国会図書館時代からの友人や知人、出版元の一葉社の二方の参加もありました。また、今回は、前記拙著の冒頭で、その論文を引用しました、若い研究者の中西亮太さんも参加してくれました。書誌、文献の考証には厳しい中西さんが、拙著の半分近くを占める著作年表や歌集未収録作品・全歌集編集時の削除作品などの資料検索・収集作業の困難さと努力に言及してくださったことは、ありがたいことでした。

 以下は、当日の配布の「報告要旨」を中心に若干手を加え、まとめたものです。

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1.なぜ今、斎藤史か

1)斎藤史とは

斎藤史は1909年生まれで、2002年に亡くなり、元号で言えば、明治・大正・昭和・平成を生きた歌人でした。戦前の作品は、モダニズムの影響を受けた象徴的な手法が高く評価され、戦後は、疎開先の長野に定住、その風土になじめない都会人として葛藤、口語を駆使し自在な歌いぶりで、介護や自らの闘病や老境を歌い、現在も老若からの熱い支持を受けている歌人です。短歌雑誌では幾度も特集が組まれ、多くの鑑賞書や評伝も出される、現代の人気歌人の一人でもあります。

・暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた

(『魚歌』1940年)

  • 白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼を開き居り

(『うたのゆくへ』1953年)

・つゆしぐれ信濃は秋の姥捨のわれを置きさり過ぎしものたち

(『ひたくれなゐ』1976年)

・疲労つもりて引出ししヘルペスなりといふ八十年生きれば そりゃあなた

(『秋天瑠璃』1993年)

・人はみなおだやかにして病人を見下さぬやうにふるまひくるる

(『風翩翻以後』2003年)

 斎藤史は、生前に、『斎藤史全歌集』を、1977年、1997年の2回、いずれも大和書房から出版しました。この全歌集への『朱天』(1943年)を収録する際に、その『朱天』の冒頭に「はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば」の一首と収録歌数が末尾には「昭52」と記され、付記として掲載されました。斎藤史の鑑賞や解説、評伝などが書かれるたびに、多くの執筆者は、付記された前掲の一首を引用して、戦時下の作品を隠さずに、全歌集に収めたことを、高く評価し、その潔さを称えました。

 しかし、少し調べていくうちに、初版『朱天』の歌数と全歌集に付記された歌数の違いに気づきました。要するに初版から削除された歌があることがわかり、改作された歌もあることを知りました。

2)報告の焦点

今回の報告は、以下の3点に焦点を絞ります。

①拙著の資料の一部を使いながら、削除と改作の経過と実態はどうであったのか

②実態を知ると、戦時下の作品を、後世――戦後になって、どのように対応・処理するのかという、多くの歌人の共通する課題と重なりました。彼らの選択のパターンを何人かの歌人で検証します。

③その選択を自覚的にせよ、無自覚的にせよ、戦後歌壇、現代歌人たちは自然体で受容してきたと思うのです。その現象が何を意味するのか、何をもたらしてきたのかを考えたいと思います。

 3)私の斎藤史への関心の高まりと資料環境の変化

私の斎藤史への関心は、史の父親の斎藤瀏に始まります。斎藤瀏は、軍人で、「心の花」の有力同人でありましたが、1936年2・26事件で、「反乱軍」の支援者として連座し、軍法会議で禁固5年の刑を受け、38年9月に仮出所します。翌年39年には『短歌人』を創刊し、以降、異常なほどの勢いで、歌壇に復帰、大政翼賛にのめりこみ、1940年には、太田水穂、吉植庄亮と共に大日本歌人協会を解散に追い込みました。篠弘は昭和短歌史の最大の汚点とも総括しています。また、斎藤史が『新風十人』という合同歌集、第一歌集『魚歌』、『心の花』時代の歌も収録した歌集『歴年』と立て続けに出版したのが1940年でした。

4)斎藤史への評価の類型化

私の1970年代の斎藤瀏の動向への関心と全歌集出版による歌壇や文壇での斎藤史への関心の高まりが重なる中で、史への評価が以下のような類型化が見られるようになります。

①2・26事件に絡んで、父の失脚、幼馴染の処刑に対する昭和天皇や軍部への怨念がありながら、ストレートに表明できない「悲劇のヒロイン」としての物語性を強調する

②戦時下にあっての『新風十人』『魚歌』では、象徴的な手法によって、当時の短歌や文芸への統制が厳しい中、ぎりぎりの抵抗を示したとする

③戦時下の作品を隠さずに『全歌集』に収めたというあとがきや付記の一首に着目し、その潔いメッセージを高く評価する

しかし、その一方で、私の関心は、史の発信した「潔さ」と削除・改作の実態との整合性、多くの歌人たちが、全歌集を語り、作品を鑑賞する場合、また評伝を書く場合、『朱天』の時代が省かれ、アンソロジ―などへの収録が極端に少ないという『朱天』をスルーする現象に疑問を持つようになりました。

5)資料環境の進化

近年、古い図書や新聞・雑誌のデータベース化が急速に進み、検索手段やコピー入手が容易になりました。

①古書や雑誌の復刻版・マイクロ版の出版に加えて、国立国会図書館では、主要雑誌の2000年までのデジタル化が進んだ。

②敗戦直後の混乱期、GHQの検閲時代の検閲資料がプランゲ文庫として、アメリカのメリーランド大学に保管されていることがわかり、データベース化が進んだ。

③新聞についても、期間などは限定的ではあるが、朝日「聞蔵」・毎日「毎索」・読売「ヨミダス歴史館」・「日経テレコン」など、斎藤史が多く登場する信濃毎日や中日新聞のデータベース化も進んだ。

 

2.『全歌集』収録の「朱天」と初版『朱天』の異同を調べてみて、わかったこと
1)
全歌集』収録の時に『朱天』から削除作品~17首

資料:『朱天』の『斎藤史全歌集』(1977年・1997年)収録時に削除された17首

ダウンロード - siryoefbc91.pdf

(1)「戦前歌」より

①國大いなる使命(よざし)を持てり草莽のわれらが夢もまた彩(あや)なるを 初版六頁

「とどろき」の最後一〇首目

『日本短歌』一九四一年二月「秋から冬へ15」*初出「理想」を改め

②たのめざるものも頼みきしどうなる野草の霜を今は云ひそね  二二頁

「ぼたん雪」六首目

『短歌研究』一九四一年二月「ぼたん雪9」 

③煌めける祖国の歴史継(つ)ぎゆかむ吾子も御臣(みたみ)の一人と思へば 七二頁 

「使命」四首目

初出不明

④神(かむ)使命(よざし)負へる我らと思ほへりひかりとどろき近づけるもの 七四頁

「使命」九首目

『女流十人歌集』一九四二年五月「飛沫45」 「思ほへば日日に」を改め

⑤ますら夫はむしろ羨しもひとすじに行きてためらはぬ戦場(ところ)を賜びき 七八頁 

「訓練」九首目

初出不明

「開戦」より

かすかなるみ民の末の女ながらあかき心におとりあらめやも  八五頁

「四方清明」最後一二首目

『婦人朝日』一九四二年三月「国民の誓ひ5」

『新日本頌』一九四二年一一月「開戦15」*「かそかなる御民の末の女(をんな)ながら丹きこころに劣(おとり)」を改め 

⑦現(あき)つ神在(ゐ)ます皇国(みくに)を醜(しこ)の翼つらね来るとも何かはせむや 九五頁

「わが山河」六首目

『公論』一九四二年三月「四方清明5」

『日本短歌』一九四二年四月「春花また6」

⑧襲ふものまだ遂(つひ)に無き神国の春さかりや咲き充ちにけり 一〇九頁 

「たたかふ春」最後一六首目

初出不明

⑨國をめぐる海の隅隅ゆき足らひ戦ひ勝たぬ事いまだ無し 一一四頁  

「珊瑚海海戦」六首目

初出不明

⓾みづからのいのち浄らに保(も)ちも得で説く事多き人を見るかも  一二二頁

「微小」二〇首目

『短歌人』一九四二年九月「くろき炎5」

⑪たばかられ生きし憤(いか)りは今にして炎と燃えむインド起たむとす 一二六頁 

「荒御魂」二首目

初出不明

⑫まつらふは育くみゆきて常(とこ)若(わか)の國悠(はろ)かなり行手こしかた 一二九頁

「荒御魂」最後一〇首目

『文芸世紀』一九四二年一二月「十二月八日7」

⑬動物を焼く匂ひに乾く着馴れ服火をかき立てて君も干さすや 一三七頁

「防人を偲びて」七首目

『文芸春秋』一九四二年一二月「北の防人を偲びて10」

『短歌人』一九四三年二月「北なる人に4」

⑭重傷のわがつはものをローラーにかけし鬼畜よ許し得べしや 一四六頁 

「ニューギニヤ進撃」三首目

初出不明

⑮半島、高砂、インドネシヤの友打つづき撃ちて止まむと進む神いくさ 一四六頁

「ニューギニヤ進撃」四首目 

『短歌人』一九四三年四月「進撃4」 「やむと」を改め             

⑯背戸畑の土の少しを守り袋に入れてゆきたる人如何に在る 一四六頁

「ニューギニヤ進撃」五首目 

『短歌研究』一九四三年四月「冬樹7」*「すこし」を改め

『短歌人』一九四三年四月「進撃4」

⑰神怒りあがる炎の先に居て醜(しこ)の草なすがなんぞさやらふ 一四七頁

「ニューギニヤ進撃」六首目 

『文芸春秋』一九四二年一二月「北の防人を偲びて10」

  「削除」したという文言や理由は、全歌集のどこにも明記されることはなかったのですが、歌数だけは、記述がありますので、引き算をすれば、削除された歌数がわかります。しかし、歌数の誤記などあり、戸惑いましたが、結論的には、17首が削除されています。1941年12月8日太平洋戦争開始前の「戦前歌」192首から5首、「開戦」173首から12首が削除されていました。どんな作品だったのか、上記の通りです。PDFでもご覧になれます。

  これらの歌に共通するものは何なのか、それが削除の理由につながると思います。

①歌の根底に、軍国主義的なもの、天皇崇拝、神がかり的なものがある

②表現上では、気持ちの高ぶりを示したり、強調したりする表現が頻出している

③使用されている言葉には、天皇を神聖化した、たとえば、使命(よざし)、現つ神、皇国(みくに)、神使命(かむよざし)、御民、御臣などの多用や官製標語などが見られる

④さらに、二重寄稿作品やアンソロジー収録作品があるということは、当時、自分でも秀作、自信作、体制から期待された、時代の要請にこたえた大切な作品であったことが推測される

 しかし、こうした条件を満たしながら、削除されない作品はたくさんあります。ほかにもあるということは、たしかで、配布資料にある中西亮太さんの朝日の歌壇時評や吉川宏志さんの図書新聞の拙著書評でも指摘しています。となると、削除の理由は何だったのだろか。私も明確な結論は出しにくいです。けれども、ともかく史自身としては、後世の人には読まれたくないないと判断した作品であったと考えられます。

 ただ、こうした作品が削除されていたという事実と、例の短歌やあとがきでの隠したってすぐわかるとか、全部さらけ出すしかない・・・という発言との齟齬、整合性は問われなければならないと思いました。

2)作品改作例

「四方清明」一二首の中)

・言ひ得ざりし歌ひえざりし言葉いま高く叫ばむ撃ちてしやまむ  八二頁

『文芸』一九四三年三月

⇒言ひ得ざりし歌ひえざりし言葉いま高く叫ばむ清(さや)明(け)く呼ばむ『全歌集』

この「撃ちてしやまむ」は、1943年3月10日が陸軍記念日で、それに合わせて陸軍省から発表された標語でした。当時、多くの雑誌の表紙に刷り込まれ、さまざまな特集が組まれました。その標語を外して、書き換えることにより、かなり、ソフトなものになっています。
(「天つ御業」八首の中)

・國こぞり戦ひとほす意気かたし今撃たずして何日(いつ)の日にまた 八九頁

『新日本頌』一九四二年一一月 『大東亜戦争歌集・愛国篇』一九四三年二月

⇒國こぞり戦ひとほす意気かたし今起たずして何日の日にまた 『全歌集』「天雲」

「撃たずして」という攻撃的な言葉から、「起たずして」にあらため、抑制した表現になっています。

・亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が死も又今日の日のため 八九頁

(すぐる二・二六事件の友に)

『新日本頌』一九四二年一一月 『大東亜戦争歌集・愛国篇』一九四三年二月

→亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が憂ひしとき至りたり 『全歌集』

2・26事件で、反乱軍と烙印を押され、銃殺刑に処せられた友に捧げる歌ですが、この太平洋戦争を勝ち抜こうという今日のためになしたことだった・・・ということになり、改作後の「憂ひしとき至りたり」では、この現状を憂慮することに立ち至ったということになり、反対の意味にも解されるのではないかと思われます。

(「シンガポール陥ちぬ」一一首の中)

・百二十餘年の悪をきよむると燃えし炎か夜も日も止まず

『文芸春秋』 一九四二年五月

→百二十餘年の無道をきよむると燃えし炎か夜も日も止まず 九八頁

→百二十餘年東洋を蔑(なみ)したる道きよむると燃えし炎か 『全歌集』

 初出の「悪」⇒ 初版の「無道」⇒ 全歌集の「東洋を蔑したる道」の改作はいずれも、「百二十余年」にわたるイギリスの植民地から、日本軍が解放するという大義名分を強調したものです。全歌集収録時に「東洋を蔑したる道」と改めたことによって、改作前の断定から、やや説明調にして、抑制したように思えます。

 

3)小題変更

「天つ御業」→「天雲」

「真珠湾特殊潜航艇の軍神」→「真珠湾特殊潜航艇」

4)有力雑誌への多重寄稿

削除作品⑥、⑦、⑬、⑯に見られるのはごく一部の一例で、収録作品の中にも多数見られます。通常は、「転載」など付記して、同じ作品を掲載することはあるけれども、題を変えてそっくり二重寄稿したり、作品を組み替えたり、同じ作品を散在させて寄稿するような操作もしています。

忙しくて原稿が間に合わなくて、多重寄稿になったのか、あるいは読者が違うから、あるいは、自分としては大事な作品だったから・・・という理由だったのか。出版社との関係でも、読者に対しても、誠実とは言えない態度だと思っています。

 5)「未刊歌集」という方法

なお、『朱天』以降、戦時末期から戦後にかけての作品(1943年5月~1947年10月)は基本的には歌集としてまとめられておらず、空白の時期でした。敗戦後、占領下の『やまぐに』((初版150首から145首、1947年7月)という歌文集が刊行されましたが、依然として『朱天』以降敗戦までの作品が読めるようになるのは、未刊歌集「杳かなる湖」(『短歌研究』1959年10月発表100首から88首)という形で公表されたときでした。敗戦後14年後のことです。『全歌集』収録の際、2冊にも若干の削除・入換えがありました。しかし、とくに、太平洋戦争末期の公表作品が歌集や『全歌集』に収録されることはありませんでした。 

3.これらの事実は、何を意味するのか

 改作の例は、削除の意図を探る意味でも有効なのではないか。すなわち、大げさな表現の抑制、露骨な敵愾心の後退、ソフトな印象に換えるなどしていることから、削除にもそうした指向があったのではないか、推測できるのではないか、と思うわけです。では、ほかの歌人たちにも、削除や改作はあったのだろうか。戦時下の作品を、自らどう評価するか、どう処理するか。占領期のGHQ検閲時期の出版における対応とも関連して、各歌人の対応は実に様々でありました。ほんの一部ながら、実例を挙げてみたいと思います。

a)窪田空穂(18771967『明闇(あけぐれ)』(1941~43年作品、1945年2月)の場合:当時の歌集には収めた作品が、今から思えば、大本営発表に踊らされた、つまらない作品だからなど、一応の理由を「あとがき」などに記述して、『全歌集』(1981年)からは削除しています。

b)阿部静枝(18991974『霜の道』(女人短歌会 1950年9月、第一歌集『秋草』(ポトナム社)以降 1926年10月以降1950年)の場合:戦時下の作品は焼失、手元にない・・・、未婚の母の時代の作品などをふくめて、歌集全体をフィクションと称して、歌集を構成・編集しています。

・ひそかに生み落し他人にまかす子の貧しき眉目あげて笑へる(『霜の道』)

・里親よりさいそくきびしき金が欲し雨にいそぐ男をはりてとらふる(同上)

c)斎藤茂吉(18821953『霜』(1941・42年作品863首、岩波書店 1951年12月)の場合:「後記」で「大きな戦争中にあっても、幾首づつか歌を作った。その一部は今回捨てたが、それでも残りはこれくらゐである」

『小園』(1943・44年作品、782首 岩波書店 1949年4月)の場合:「後記」で「昭和十八年、昭和十九年の作から平和なものを選び・・・」

 出版年の1951年、1949年に着目しますと、GHQの検閲下(1945年9月19日プレスコード~1948年7月15日~事前検閲、~1949年10月事後検閲終了)あった時代で軍国主義の歌は検閲対象であったので、その配慮が十分あったかと思います。『斎藤茂吉全集』(新版全36巻、岩波書店 1973~75。1~4巻歌集収録、4巻「歌集拾遺」として収録されている

『萬軍』(1945年7月221首を茂吉自身が選定、八雲書店<決戦歌集>として刊行予定)の場合:秋葉四郎『幻の歌集『萬軍』』(2012年8月岩波書店刊)において編者は、謄写刷りの私家版があるが発行年・出版元不明の『萬軍』と1988年12月紅書房刊の二冊の『萬軍』は、いわば信頼関係を崩す出版と断定、本来の原稿は八雲から取り戻して、佐藤佐太郎に預けた原稿こそが原本で、それを出版するに及んだと記す。
・肇国(はつくに)しらす天皇(すめらみこと)のみ言(こと)はや「撃ちてしやまむ」のみ言はや

d)宮柊二(1912~1986)『山西省』(1940年1月~1943年8月?作、古径社 1949年4月)の場合:1946年7月中央出版社版がGHQの検閲を受けていて公刊されなかった。検閲末期に公刊した。
・ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す
(『日本文芸』1942年7月)

 これに収録されていない時局詠31首は、未刊歌集「芻(すう)駅の歌」として、1956年12月東京創元社『定本宮柊二全歌集』に収録。岩波版(1989年11月~『宮柊二集(全10巻)』別巻(1991年2月)には「著作年表」を付して時系列で収録。

・旺んなる士気を振ひて大君の工場護らむ時ちかづきぬ(『多磨』1945年1月)

結び
 歌人たちの、個別の歌集の出版、編集の際に行われる取捨・改作については、いつの時代でも、だれもが行っている作業ではあります。しかし、次のような場合、歌人自身や編纂者は、どのように対応すべきなのだろうか。

・一度公表した作品で、歌集に収めた作品を、全歌集や全集編集の際に改作したり、削除したりする

・一度公表した作品で、ある時期の作品を全く歌集に収めなかったり、全歌集に収めなかったりする

いずれの場合も、「ことわり」を入れるか、入れないかは、歌人や編纂者の資質にかかわると思います。

⇒①削除や改作の事実と理由を明記する

⇒②その事実を公表しない、言及しない

⇒③その事実に反して隠さないと公言する

 作者自身や編纂者として、どのスタンスであるのかを明確にしておくことが望ましく、他者の作品を読むときは、作者が上記のどの立場なのかを見極め、自分としてはどこまで受容するのかも明確にしておくことが必要かと思います。いずれにしても、自分に不都合な事実には触れずに、都合の良い事実だけを強調・喧伝することによる情報操作にも留意することが必要と考えました。

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 なお、中西さんからは、多重投稿の例は、葛原妙子など他の歌人にもみられることであること、いくつかの図書館の雑誌所蔵情報なども教示いただきました。また、斎藤史の基本的なスタンスとして、「時代に迎合した」というより、思想的には変わってないとみるか、確たる思想がなかったとみるかであって、前者に近いのではという意見も伺いました。私も、史の思想形成から見ると、前者と考えるべき一端は、史の天皇観にも表れていることに、拙著でも言及していましたので、共感したのでした。

なお当日の配布資料は、次の通りです。

1 .拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』チラシ(目次付き)

2.新聞切り抜き

・大波小波「『斎藤史全歌集』への疑問」(『東京新聞』1998115日)

・中西亮太:歌をよむ「斎藤史の真意はどこに」(『朝日新聞』2010816日)
・大波小波「「濁流」に建つ言葉」(『東京新聞』 2017612日)

・吉川宏志:『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』書評「言葉によって自己の人生を染め替えようとする意識」(『図書新聞』201946日)

・寺島博子:『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』書評「揺るぎない視座」(『現代短歌新聞』201955日)

3 .拙著の資料「斎藤史著作年表」の一部(19431946年)

4.報告要旨  

 

 

 

 

 

 

 

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2019年5月 4日 (土)

憲法記念日にふたたび~『あたらしい憲法のはなし』

 わが家にある『あたらしい憲法のはなし』は「昭和22年8月2日翻刻発行」である。仙花紙というのか、用紙はすでに茶色、表紙もご覧のように、すすけて、その綴じも今にも崩れそうである。これは、1933年生まれの次兄が、疎開先の中学校から、家の近くの立教中学校に編入して間もないころ、使用した教科書だったのか、裏表紙には、ローマ字のサインがあり、校名や三学年という表示もある。池袋の実家が建て直されるというとき、物置きから拾って!きた記憶がある。兄のところでなく、私の手元にあるのも不思議な気がしているが、すでに亡くなって久しいので、尋ねるすべもない。あらためて、読んでみた。この本は、中学校一学年用の教科書として作られたが、兄たちは、明らかに三学年で使用していたことになる。1950年には副読本となり、朝鮮戦争が始まって以降、使用されなくなった。教育現場では、ほんとに短い期間しか使用されないテキストだったわけである。

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   頁をそっと開いていくと、ところどころに、兄の几帳面なこまかい字の書き込みがある。第一章「憲法」という概説部分2~3頁をスキャンしてみた。鉛筆HBかHでの書き込みか、非常に読みにくいのだが、

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・2頁の右肩には「世界各国共通ニ「最高法規」トハ憲法ヲ云フ」(旧かな!)と読める書き込みがあり、

・3頁の右肩には「個人の人間としての基本的権利」とあるのは、文中の「基本的人権」の説明なのだろうか。

・頁下には「第二次世界大戦死者5000万人」と書かれているのは、すぐ上の文中に「こんどの憲法にも、あとでおはなしするように、これからは戦争をけっしてしないという、たいせつなことがきめられています。」とあるので、先生が話したことなのか、自分が何かで知ってメモしたものなのか。

・左肩には「憲法の歴史 (欽定)→(國民)」とあるが、下では、明治憲法とはちがい、「こんどのあたらしい憲法は、國民がじぶんでつくったもので、・・・」との一文があった。

 「あたらしい憲法」を学ぶ教師と生徒の熱意と期待が伝わって来るようであった。ちなみに、第五章「天皇陛下」を開いてみると、実に、興味深いことが書かかれているではないか。

 こんどの戦争で、天皇陛下は、たいへんごくろうをなさいました。なぜならば、古い憲法では、天皇をお助けして國の仕事をした人々は、國民ぜんたいがえらんだものでなかったので、國民の考えとはなれて、とうとう戦争になったからです。そこで、これからさき國を治めてゆくについて、二度とこのようなことのないように、あたらしい憲法をこしらえるとき、たいへん苦心をいたしました。ですから、天皇は、憲法で定めたお仕事だけをされ、政治には関係されないことになりました。(15頁)

 そして、16頁には、次のような挿絵を添えて、「日本國民統合の象徴」を説明している。17頁の末尾では、つぎのように締めくくっている。執筆者の「苦心」が伺われような文章ではあるが、敗戦までの天皇の位置づけが、こんなにも不正確だったとは知らなかった。政治的権能を持たないようにしたのは、「ごくろう」がないようにとの理由付けだったのには、いささか驚きもしたが、GHQ占領下においても、天皇の戦争責任への言及がここでは皆無であったことを知るのだった。

  天皇陛下は、けっして神様ではありません。國民と同じような人間です。ラジオのほうそうもなさいました。小さな町のすみにもおいでになりました。ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、國をおさめてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません。これで憲法が天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。(17頁)

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2019年2月25日 (月)

「短歌と天皇制」(2月17 日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(1)

 

「その反省から出発した戦後短歌」って、ホント?

 

すでに、1週間以上も経ってしまったのだが、217日『朝日新聞』の「歌壇時評」の見出しは「短歌と天皇制」であった。皇室情報がメディアにあふれ出ているこの時期に、埋もれそうな見出しであった。しかし、見出しと同じ書名の著書(『短歌と天皇制』 風媒社 1988)を持ち、そのテーマで書き続けている私としては、ほっとくわけにもいかず、読んでみた。執筆者の大辻隆弘(1960~)は、未来短歌会の選者でもあり、評論もこなす歌人である。しかし、その内容は、やはりというか、自身の「結論」に導く強引な論法には、かなりの問題があることがわかった。その文章は次のように始まる。 

「太平洋戦争中、短歌は戦意高揚の具であった。天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された。その反省から出発した戦後短歌は、皇室と関係を結ぶことに慎重だった。戦後短歌には天皇制に対するアレルギーがあったのだ。が、今、そのアレルギーは薄らいでいるように見える。・・・」

 まず、「その反省から出発した戦後短歌」という認識は、かなり「美化した」というより、当時の短歌状況を歪めていることにならないか、と思ったのである。もちろん私にしても、当時の歌壇や歌人の状況をリアルタイムでは知りようがない。戦後生まれの大辻は、何を根拠にしているのだろうか。いくつかの戦後短歌史は、敗戦直後の短歌状況をつぎのように述べている。 

「短歌は、戦意昂揚に踊らされていたために、衰弱がひどくて真の文学的立ち直りを見ることができなかった。戦後の虚脱状態がしばらくつづくのである」(木俣修『昭和短歌史』明治書院 1966年再版 571頁)

「終戦直後の内部的な混乱、また第二芸術論による外部からの追討ちにもかかわらず、このころ歌壇はもうこういう「年齢的、歌歴順の秩序」をすっかり回復している。割切っていえば――ということは、一時期における左翼『人民短歌』運動の強勢と、若手「新歌人集団」グループの急激な進出を別にすれば、歌壇は、敗戦によって格別の変化を蒙ることがなかったといっていい。とは言え、戦後はすべての歌人にとって再出発だった」として、歌人によっては、解放であり、試練であり、喪失であり、それが創作活動の刺激となり「戦後短歌の多彩な収穫を約束した」とする(上田三四二『戦後短歌史』 三一書房 1974年 89頁)

「この人たち(茂吉、文明、空穂、善麿、夕暮など近代短歌の大家)にとって国家からの桎梏から解放されるということは、悲しみに富んだ悔しみにほかならなかったのである」とし、この「悲傷の極限」から始まる戦後は、戦時中の弾圧から解放された歌人たち「渡辺順三らが『人民短歌』誌上で、いくぶん戦争責任の問題を取り上げたが、みずからの禍根を払っての公式的な攻撃であったきらいもあって、ついに歌壇の一般問題にならなかったのである」(篠弘『現代短歌史Ⅰ』短歌研究社 1983年、22頁)

 これらの「短歌史」に「反省」という言葉が出てこない。だが、その一事をもって、断ずることはできないし、これらの執筆者の言は当然検証されなければならない。私も、必要に迫られて、限られた範囲ながら、敗戦直後の主な短歌総合雑誌や復刊間もない結社雑誌に目を通し、当時の短歌や歌人たちの文章をたどるだけでも、「戦後短歌の出発」にあたって「短歌は戦意高揚の具であった」こと、「天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された」ことへの反省があったとは受け取りがたかった。逆に、GHQの検閲文書を収録したプランゲ文庫により短歌雑誌の検閲記録には、天皇制賛美を理由として削除された短歌や文章も決して少なくないことも知るようになった。


 
 上記の上田三四二の文中にある、歌壇における「年齢的、歌歴順の秩序」とは、1949年から50年代にかけて、10年余を短歌ジャーナリズムに身を置いた中井英夫が、敗戦後も変わることのない歌壇の状況を端的に表した言葉だが、「昭和二十年~二十三年」の歌壇の状況についても言及している。俳句に向けられた第二芸術論の余波で歌壇も大揺れに揺れたことに触れて、「大部分の歌人の胸中に深く巣食っていたのは、戦争中に戦争協力の歌を作るのはまったく当たり前のことではないかという、当時の日本人は考えて怪しまず、そのまま今日まで持ち越されてしまった手前勝手な論理であった」(中井英夫『増補黒衣の短歌史』潮出版社 19751920頁)と述べ、その典型として、佐藤佐太郎の一文(『アララギ』19461月)をあげるのである。

 

 戦後短歌の出発を語るからには、せめて、これらの短歌史をひも解く謙虚さが必要ではなかったか。

 

 

 

 

 

 

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在位30年記念式典にやはり登場した、天皇・皇后の短歌

 

  

きょう224日の政府主催の在位30年記念式典は、NHKだけが、14時から1時間の予定でフルの中継をしていた。もう一度録画で見るつもりだが、とりあえずの感想を述べておきたい。どこで少し狂ったのか、式典は、10分近く延びて、NHK15時から5分間のニュースが1510分から始まった。
 入場と同じく、安倍首相が先導して退場する天皇夫妻は、舞台に整列している祝辞を述べた人たちや演奏をした人たち、ひとり一人に言葉をかけ、挨拶をしているようだった。途中で、招待客1100人ともいう会場の人々に対しても、天皇は、ながらく手を振る場面もあって、首相と菅官房長官は、夫妻の前後で、少し戸惑っているようにも見えた。想定外だったのかもしれない。

 最初に画面で示された式次第のなかに、「御製、御歌の朗読」というのがあった。沖縄出身の歌手が、天皇の「琉歌」に皇后が作曲した「歌声の響」を歌うということは、かなり前からマス・メディアで喧伝されていた。「御製・御歌」を波乃久里子が朗読することを私は知らなかったが、 朗読されたのは、二首とも、2003年歌会始の「御題」の「町」として発表された短歌だった。選歌は天皇夫妻の希望であったのだろうか。

・我が国の旅重ねきて思ふかな年経るごとに町はととのふ
(天皇)

・ひと時の幸分かつがに人びとの佇むゆふべ町に花降る
(皇后)

 つぎに、登場した、上記の「歌声の響」は、天皇夫妻が皇太子時代1975年、初めての沖縄訪問時に、屋我地島(名護市)の国立療養所沖縄愛楽園を訪れ、その別れ際に、ハンセン病の入園者たちから、「だんじょかれよし」という地元の船出歌で見送られたことに、心打たれた夫妻、のちに天皇が琉歌を作り、皇后が曲を付けたものを愛楽園に送ったという、経緯を持つ楽曲だった。歌い手が三浦大知、ピアノ千住明、バイオリン千住真理子であった。その琉歌というのは、沖縄に伝わる八・八・八・六という三十音の歌謡であり、式典では、繰り返しなどを取り入れて歌われていた。

だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔 目にど残る

だんじよかれよしの歌や湧上がたん ゆうな咲きゆる島 肝に残て

 この琉歌の舞台となっている沖縄愛楽園は、その前身は、1938年に国策であったハンセン病者の強制隔離のために開設された国立国頭療養所であり、1972年沖縄の本土復帰とともに厚生省に移管となり国立療養所沖縄愛楽園となった。1996年、らい予防法が廃止された後、今日に至るまで、元患者の方々のさまざまな差別や苦痛が続いている現実もある中で、昨年、沖縄愛楽園は開設80年を迎え、『沖縄タイムス』は、社説で、次のように述べている。

  「愛楽園は1938年11月10日開園した。80年の間に延べ3904人が入所し、2100人が退園、1372人が園で亡くなった。現在も142人の入所者が暮らす。
 入所者の平均年齢は84歳。(中略) 元患者たちの、家族や親族、社会から受けた激烈な差別の記憶は鮮明だ。実名を明かせないまま生涯を終えた人は数知れず、長い年月を経て今ようやく語り始めた人たちもいることを思えば、国の誤った政策の影響の甚大さ、根深さを知る。」

「社説」の全文は、以下を参照ください。

◇沖縄タイムス社説
[沖縄愛楽園80年]謝罪・反省に終わりなし(2018122日)
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/353190

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  いわば、政府主催の天皇の「お祝いごと」としての式典で、こうした入園者たちとの交流というエピソードがことさら、一つの物語、美談のように流布されることには、どうしても違和感というか、やりきれなさがともなってしまう。そして、上記社説は、「隔離政策の根拠となった「らい予防法」が施行(96年に廃止)されて1世紀以上たつが、元患者や家族の人権回復は道半ばだ。国策にならい、ハンセン病への差別と偏見を助長してきたメディアの責任も重い。過ちへの謝罪と反省に終わりはない。」と結んでいる。
 メディアの責任とともに、国策に積極的にかかわって協力していた貞明皇后はじめ皇室の責任も決して軽くはないはずである。この件については、以下の私のブログを参照いただければと思う。

◇冬の沖縄、二つの目的をもって~難しいと逃げてはいけないこと
(1)屋我地島、愛楽園を訪ねる(2017214日)
 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-eeb9.html

◇皇室とハンセン病と―名護市屋我地島の「御歌碑」(201822日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/02/post-abe5.html

 さらに、式典最後の天皇の「お言葉」では、その結びの部分で、皇后の次の歌を紹介していた。

  「平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇(りょうあん)の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。
しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。」

 ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ(皇后)

*皇后の歌集『瀬音』(大東出版社 1997年)の「平成二年」の最後の 一首として収録されている。

 しかし、この結びの部分は、「お言葉」の中ほどの段落で、次のように述べている個所と共通する一面を持っていると思えたのである。全国各地からの寄せられた言葉を「皇室と共に平和な日本を・・・」ととらえ、下記のように「務めをはたしてこられたのは、この国の持つ民度のお陰」と述べている点であった。こんなとき、「民度」なんていう言葉を使うのかなあ、というのが正直な気持ちだった。「国民に寄り添う」という言葉も実体がとらえにくいなか、それにしても「寄り添いながら」「民度」を見極められているのかなとも。

  「これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。」
 当日にと思って、書き始めたのだが、日付が変わってしまった。きのうは、沖縄県民投票の日であったのだ。

 

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2018年12月30日 (日)

『齋藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代 「歌集」未収録作品から何を読み取るのか』(一葉社)という本が出来上がりました

 このブログ記事でも、何度か触れたことのある、歌人・斎藤史について、これまで調べてきたことや考えてきたことを書いたものです。発行日は201919日となっていますが、1228日発売となりました。すでに、「版元ドットコム」はじめインターネット上でも紹介されているのを知って、驚きました。279頁の内、後半の121頁が、資料1「齋藤史著作年表 付/斎藤史・斎藤瀏関係文献」、資料2「齋藤史「歌集」未収録作品『魚歌』から『うたのゆくへ』」などが占める本となりました。もし、関心を持たれましたら、ぜひ、お近くの図書館などにリクエストしていただければ幸いです。大きな書店でしたら、手に取っていただけるかもしれません(池袋のジュンク堂にはあったそうです)。

 

 前世紀?からのテーマでもありましたので、私個人としては、長いトンネルから少し明かりが見えてきた思いです。でも、まだまだ、資料の不備や考えが及ばない点が多々ありますので、心細いばかりですが、齋藤史に関心のある方や若い歌人の方々に、ぜひ読んでいただきたいと思っています。

 

 天皇の代替わりが迫った、この時期に、齋藤史の天皇(制)へのスタンスの変遷を通して、一度立ち止まってみることができればと思っています。

 

 

<版元ドットコム>

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784871960755

<一葉社のチラシです>

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Img562<最近の当ブログより>

・短歌における「改ざん」問題 ~斎藤史を通して考える(20186 9日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/06/post-53c4.html

・なぜ、いま、「斎藤史」なのか~612日の「大波小波」に寄せて(2017612日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/06/612-88cf.html

 

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2018年11月 5日 (月)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(9)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(5)

東京裁判はどう歌われたか

 

七名の日本人の死にゆかむ日は年内に迫り来なむか  

(宮柊二「猫じゃらしの穂」12 短歌研究 19491月)

裁かれし二十五名の断罪に耳かたむけてゐたるときの間
おごそかに歴史の上にしるされて永遠に消えざる今日の重大
(吉野鉦二「断罪」12 短歌研究19492月)

断罪の一人の友の夫がラジオにて知るその絞首刑(板垣喜久子夫人に)
洋裁店場末の町にひらきしも戦犯家族の生きてゆく道
(尾崎孝子 「十二首」12 短歌研究492

判決のラジオの聲を耳にして自由が丘の街なかに立つ
(片山廣子「秋日」7 日本短歌 19492月)

七人の處刑をはりし夜の闇のまぼろしに来て迫る何ゆゑ
薤の上の露ひとときのはかなごと同罪の吾をせめつつゐたり
断罪を軽しとしつつ傳へ来る福音はなほ吾に遠くして
(山本友一「冬蟄吟」12 短歌研究 19494月) 

断罪の一人の如く醒めし吾ま夜の井に来て水のみにけり
(青木政雄 短歌人 19491011月)

これらは、極東軍事裁判、いわゆる東京裁判のA級戦犯として東条英機ら七人が処刑された19481223日(皇太子誕生日)の前後に詠まれた短歌である。1946429日、(昭和天皇誕生日)に東条英機らを起訴し、53日にスタートした東京裁判だったが、19481112日には死刑の判決が宣告されていたものだ。『昭和萬葉集』巻八にも、この死刑執行について詠んだ短歌がかなり収録されているが、私は、あえて、初出の雑誌で発表した作品に限って、あげてみた。手元で確認できるものだけなのだが、ほぼリアルタイムで詠まれた短歌と言ってよいだろう。後、歌集に収録されたものには、改作されることもあり得るから、引用には、やや慎重にならざるを得ない。尾崎孝子の短歌は、七人のうちの一人、板垣征四郎の喜久子夫人を歌ったものである。夫人は、阿部静枝とお茶の水女高師の同期生で、古くからの『ポトナム』同人であった。『ポトナム』に復帰された1960年代からの東京ポトナムの歌会で何度かお目にかかったことがある。作品は、私など及びもつかない、骨格のしっかりしたものであり、苦労はされたとは思うが、やさしく、穏やかな面差しが印象に残っている。 

 A級戦犯処刑の日から2カ月もたたない1949215日に発売された、巣鴨拘置所で死刑囚の教誨師を務めた花山信勝『平和の発見―巣鴨の生と死の記録』は、たちまちに15万部以上のベストセラーとなったという。それを受けて、杉浦明平は、死刑囚の辞世と花山の<説教>、著名・無名にかかわらず歌人の受け止め方を、雑誌に発表された作品を例に挙げながら、辛口というか、かなり挑戦的な口調で、批判を続け、つぎのような結論へと導く(杉浦明平「新七刑囚物語―極東裁判の短歌について」『短歌研究』19497月)。

歌人たちは<世紀の裁判>とか何とか新聞の見出しだけを覚えて復唱するだけ で、この戦犯裁判と処刑との意味するものを深くとらえていない。従つてそれを文学化せずにおられぬまでに強い抒情をなし得ず、まれになしても非文学的な三十一文字しかつくれない。それはちようど聖戦をあのように姦しくさえずり回りわめき立てたことと表裏の関係に立つ。すなわち、歌人が、従つてそのいとなむ短歌もまた、近代化の方向に向いていないし、近代化への切実な要求ももつていないことの一つのあらわれにほかならない。」

 そんな中でも、杉浦は、井上健太郎(『国民文学』)のつぎのような、いまだ生硬ながら、「自覚的」な短歌として期待を寄せていた。 

・死によりて償はるるとなす彼の思想を何が何がかへるのか 

・千数百すでに縊られたるありて七囚をのみなげく何もなし 

・縊られし者ら以上に生きながら永き苦悩をつづけてゆくべし

  極東軍事裁判の開廷中をふくめ、天皇の戦争責任論にかかわり、天皇退位論議は、マス・メディアを舞台にかなり活発になされていた。今からは想像がつかないほどで、例えば、大手全国紙は、世論調査を実施するとともに、194510月から翌年にかけては、社説でも、天皇の退位時の対応策などが論じられ、19464月、南原繁東大総長は道義的退位論を表明している。新憲法施行後も、司法の場からは、19484月、三淵忠彦最高裁長官により、8月には、横田喜三郎東大教授による退位論が表明されている。裁判の終盤、19471231日、東条英機が天皇に開戦責任ありと証言した一週間後の年明けには、天皇に開戦責任なしと証言を覆した場面もあった。開廷中のキーナン首席検事が天皇訴追せずのメッセージは幾度か出してはいたが、そもそも、アメリカ本国では、1941年日米開戦直後から、日本占領後の「象徴天皇制利用構想」が打ち出されていたという(加藤哲郎『象徴天皇制の起源』平凡社 2005年)。日本の情報機関は知るすべもなかったのだろう。 

 杉浦明平も指摘するように、東条英機が戦争責任を一人背負ったような、いわば<浪花節的>な展開に、多くの国民の「男らしさ」や「可哀想だ」という情緒的な反応が、「事物の本質を見失わせ」、「戦争責任の問題およびこれと関連するこの荒廃せる祖国復興の問題をば傍き道に逸らせるのにもつぱら寄与していると言つていい」の言には、耳を傾けてもいいかもしれない。(つづく)

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2018年10月29日 (月)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(8)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(4)

 プランゲ文庫の検閲文書から見えてくる<短歌と天皇制>

 なお、同じころのGHQの検閲過程で『アララギ』1947年新年号において、興味深い一件を垣間見ることができる。

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プランゲ文庫に残る『アララギ』1947年1年号の表紙。47年2月4日の日付とY.Sakaiのサインがある。「20000」というのは、発行部数のようである。当時、『人民短歌』12000部の記録もあった。

  雑誌などの検閲は、まずExaminerによって、目次がすべて英訳された上で、全頁、点検の上、「注視すべき」作品や文章と作者名が英訳され、その理由が<note>として記される。タイプの場合もあるし、手書きの場合もある。『アララギ』新年号においては、ExaminerM.Ohta のサインのもと8カ所が対象となっていた。さらに、おそらく、別人によるチェックが入り、結論がタイプ打ちされ、結果的には、二首が削除され発行されていた。一つは、13頁の五味保義の八首中の一首で、乱暴に墨塗りで消されているので、「棒立ちて日本人を入◇◇◇◇疎林◇ホテルボーイ下り◇◇」しか読み取れない。穴埋めのクイズのようでもあるが、つぎのように英訳されている。削除の理由は、<causes resentment>となっていた。

 There stand a notice-board of “No admittance to Japanese “ in a grove , and page is seen coming down out the hotel.) causes resentment

  もう一カ所は、37頁の丸田良次の一首が削除されて発行されている。実は、37頁には、つぎのもう一首、天皇に触れている作品が対象となっていたのだが、最終的には削除を免れている。<note>をみると、その削除理由が、一首目が、「国家主義的」で、二首目が「超国家主義的」と記されているが、もはや検閲者のサジ加減一つということにも思える。その検閲者の日本人が、英語が堪能なだけだったのか、文学や短歌の基礎知識を持ち合わせていたのか、などにもよるのだろう。
・天皇のために死なむと汝(なれ)がいまは打倒をとなふるかなし(大分 菅沢弘子)

How pitiful is it to hear that you, who once revealed to gladly die for the Emperor, are now advancing up knocking down.)<nationalistic>

 ・戦死せざりし事が悔しく熱の如時たまにして吾を襲ふなり(佐賀 丸田良次)
The chagrin for my not having died in the battle often assail me like  a fever.ultra-nationalistic

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『アララギ』1947年1月号、「一月集 其二」は、結城哀草果、高田浪吉、鹿児島寿蔵、廣野三郎、五味保義、吉田正俊・・・と続く。ちなみに「一月集 其一」は、岡麓、斎藤茂吉、土屋文明であった。五味作品の削除は、見せしめ的な要素もあったのかもしれない。

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『アララギ』1947年1月号、土屋文明選「一月集 其三」、一人一首の選歌欄なので、作者にしては、その大事な1首が削除されてしまっている。

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上は、最終の報告文書のようであり、下は、<note>の一部で、まるで、殴り書きのようだ。

プランゲ文庫に残された検閲文書を見ていくと、戦勝国による検閲と日本の近代における、とくに、戦時下の国家による検閲とには、一見、明らかな違いがあるようにも見えた。GHQには、被占領下の国民には検閲の事実が知られないように、検閲の痕跡を残さないようにというのが原則であった。日本では、天皇や政府、軍部に対する批判は、見せしめのような、発禁や伏字という形で許さず、その上、出版社や執筆者は、治安維持法による編集者・執筆者の拘束、用紙配給の停止などにより、国策に加担すべく「懇談」「指導」を繰り返した。

GHQも、原爆への言及や報道、作品と占領軍・米兵の犯罪報道への検閲は、とくに厳しかったが、永井隆『長崎の鐘』(1949年)の出版などは、アメリカの占領軍の露骨な戦略の一つでもあった。長崎への原爆投下は「神の摂理」であったとするその内容とともに、7割近くの頁を連合軍総司令部諜報課提供の日本軍のマニラにおけるキリスト教徒虐殺の記録「マニラの悲劇」を付録とすることを条件に30000部の用紙が調達されたのである。日本軍のマニラのキリスト教徒殺害行為を公にすることによって浦上カトリック教徒への原爆投下を正当化しようとする意図は明白だった。「用紙」を管理することによって、プロパガンダに加担させ、公職追放によって言動を封じる手段は共通であったと思う。

 占領軍は、内務省下の発禁図書も、収集させた戦争記録画、占領下の検閲関係文書もアメリカに接収、運ばれた。そして、それらは、保管され、時間は要したが、結果的に、返却・無償貸与・公開という形で、日本でも知り得る情報となった。日本国内では、敗戦直後、軍部や官庁、企業などでは、戦時下の書類など焼却され続けたという。そして、多くの事実の隠滅、隠ぺいが図られた。

 そして、この体質こそが、今日の自衛隊や省庁、企業での隠蔽や改ざんが後を絶たず、政治が自国民の命と財産すら、守り切れていない現況を作り出しているのではないかと思う。そして、個人レベルでも、多くの表現者たちが、この占領期の検閲について語ろうとしないで現在に至っている。歌人も決して例外ではなかったことも知らねばならない。

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2018年10月11日 (木)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(7)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(3)

『八雲』創刊号には、短歌の創作欄には、五島茂、佐藤佐太郎、鈴木英夫、香川進、坪野哲久、岩間正男、堀内通孝、岡野直七郎、長谷川銀作、橋本徳寿、山下陸奥、筏井嘉一、と12人の第一線の歌人の名が並ぶ。この辺が、編集陣の久保田、木俣修らの微妙なバランス感覚が働いているところだろう。それにしても女性が一人もいないと思ったのだが、この作品欄とは別に、「短歌ルポルタージュ」と冠した、挿絵入りで阿部静枝「進駐軍のゐる風景」10首が載っていた。その中に次のような3首があった。私自身が、その晩年に指導を受けた歌人でもある阿部静枝((18991974)は、戦前の無産運動で活動、弾圧で挫折、太平洋戦争下では翼賛に傾いた歌人だったので、3首目の決意は、おそらく本気であったのだろう。前の2首は、やや、明確さに欠けるきらいがある。「侘しむ民」の一人としての作者自身なのか、その心変わりをどう受け止めているのかなど、やや整理しかねているようにも思えた。しかし、「大内山」、「宮城」、「雲の上」という表現ではあるが、「天皇」を詠んだ作品として記憶されてもいいのではないか。

米軍ゐてともしかがよふ丸の内大内山のみ暗く侘しき
宮城の小暗く深きをたふとまず侘しむ民の心変わりや
雲の上に主権をおきてひれ伏せる暗愚の歴史閉ぢて起つべし
(阿部静枝)(八雲 創刊号 194612月)

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『八雲』 創刊号(1946年12月)より

 その後の『八雲』には、「天皇制」に言及する評論がしばしば登場する。たとえば、以下の3点をみてみよう。

①西郷信綱「日本文学における叙事詩の問題」
(八雲 19476月)
②岩上順一「歌誌批判・不二・民草について」
(八雲 19479月)
③渡辺順三「歌誌批判・納得できぬこと―短歌人・潮 音・橄欖について」
(八雲194711月)

 ①では、「和歌が一千年以上の時間の流れをくぐりぬけて存續し、今なおわれわれの意識を多少とも制約しているその契機が、天皇制を存續せしめたと構造的に同じ契機であることを私はひそかに信じている。すなわちその連續性は、日本の社會の停滞性の表現以外の何ものでもない」とした上で、「封建的幽暗さから解放されて近代的に組織化され、新しい秩序の到来を呼ぼうとして逃走している民衆の力」というものを素朴に是認しながら、「現代日本に新しい叙事詩の可能性を信じたい」としている。

 ②では、右翼の活動家として何回か投獄もされ、歌人でもあった影山正治(19101979)が、復員後『ひむがし』(194111月創刊)の後継誌として『不二』を創刊(19465月)、万葉浪漫主義を唱えていた影山銀四郎(19081978)が栃木県で『民草』を創刊した(194612月)。その熱烈な天皇制護持は、開戦も敗戦もすべての責任を「聖慮」「神慮」に帰することになり、天皇を苦しめ、人民の人権と相渉るのか、と憂慮している。

 ③は、太田水穂の『潮音』は、敗戦をはさみ、辛うじて休刊を免れ、斎藤瀏の『短歌人』は、19464月に、吉植庄亮の『橄欖』は194612月に復刊しているが、「戦争中は神がかりの祝詞のような文書を書き散らし、戦争に協力せぬものを国賊扱いにしながら、終戦後はまたケロリとして元の雑誌を復刊し、反省も自己批判もなく、歌壇に座を占めているなどは一體人間的な神経があるのかどうかさえ疑いたくなる」と糾弾する。

 西郷(1916-2008)は、斎藤茂吉に傾倒する、当時気鋭の古代文学専攻の研究者であり、岩上(1907-1958)は、戦前から活動する文芸評論家で、治安維持本で投獄されたこともあり、敗戦後は新日本文学会の創立にかかわり初代書記長となっている。渡辺(18941972)は、窪田空穂に師事、口語短歌『芸術と自由』の編集にもたずさわったが、無産者歌人連盟、プロレタリア歌人連盟を経て、一度ならず検挙されている。敗戦後19462月には新日本歌人協会を結成『人民短歌』を創刊している。

こうした論調に先立って、中野重治は、別のメディアにあって、もっと端的に、短歌の政治的利用について言及している。「政治的手段に藝術を用ゐるといふのは、日本の天皇政府がやってきたことで」、その最たるものが歌会始だといい、「天皇の宮中歌會からミラミッド形にさたつて来るあれほど短歌を政治的手段として悪用したものはほかにない」とも語っていた(「文学者の国民としての立場」『新生』19462月)。

また、作品面で、天皇制・天皇への批判がいささかでも垣間見られるものをあげてみよう。参考のため執筆者の生没年を記しておく。

敗戦の責めの所在を見きはめつつ君をうやまはずまた否定せず

神にあらず人にも似ざる旅を行き新しき代の感覚のずれ

(坪野哲久、19061988)(人民短歌194612月)

切羽つまりしわれらが今日のまなこもて天皇をみる遮ることなかれ

(坪野哲久)(短歌往来19482月)

天皇がただすなほに詫び宜らすことすらなしに何革まるべき  

(香川進、19101998)(人民短歌194612月)

奉安殿壊つ清しさや古きもの崩えゆく兆しまのあたり見つ

新憲法かにかく成れど「象徴」の模糊たる二字にわが怡しまず

(安藤佐貴子、 19101999)(短歌研究19473月)

とどろきに陛下応ふと傍観しこの日のさまを書きし記事あり

(宮柊二、19121986)(短歌往来194711月)

 しかし、その一方で、『日本短歌』194712合併号には、「歌会始―選ばれた十五首」と題した記事が載り、4月号には、5人(佐佐木ほか千葉胤明、斎藤茂吉、窪田空穂、鳥野幸次)の選者詠とともに、佐佐木信綱の「詠進歌を選して」を寄稿されている。斎藤・窪田・佐佐木という民間歌人が選者として初めて参加した「歌会始」であった。そこで、信綱は、19471223日、「御前に於いて」披講される感激を記した後、内容上の特色として、新憲法、祖国再建、復興など時代を反映した歌が多かったことと、仕事や職業についてなど生活を歌った歌が多かったことをあげている。

『八雲』の土岐善麿の五十首詠「初夏身辺抄」(19478月)には次のような歌が並ぶ。

たたかひをいかに苦しくおぼしけむ平和の民とともにいますべし

銀のナイフ銀のフオクのかがやくをもろ手にとりてつつましくをり

問はすことみな重要なる課題にしていみじきかな文化国家の元首

(土岐善麿、18851980)(八雲19478月)

 その後の『八雲』の「土岐善麿・木俣修対談・短歌の青春時代」において、「歌会始」ではないが、学士院賞受賞、御進講、御陪食のことを問われて、土岐はご馳走になった鯛の蒸焼き、大きなビフテキ、スープ、灘の生一本などの美味にまで及び、昭和天皇、高橋誠一郎文部大臣らと親しく話しあったこと、進講に対しては、天皇の質問も学者的で「科学者としての陛下のおきもちに皆動かされた」と、感激のほどを語っている(八雲 19481月)。

おほきみもたみくさともにたたかひのわざはいたへてすぐさせたまふ

ばくだんがこのくにつちをこなにすともきみとたみとをひきさくべしや

(金田一京助、18821971)(沃野19472月)

神にあらぬすめろぎなればわれ等また一布衣(ふい)としておんまえにゐむ
(吉井勇、18861960)(短歌往来19477月)

 

 

 こうしてみると、天皇制・天皇に批判的なグループの歌人は1910年前後の生まれで、人間宣言後も天皇、天皇制により一層傾斜してゆくグループは、19世紀生まれといってよく、世代的にも、阿部静枝、坪野哲久世代が中間にあたりで、その作品には、ややあいまいな姿勢、表現が見えるのも興味深い。

 これまでは、著名な歌人を中心に読んできたが、結社などに拠る、一般の歌人たちはどうであったのだろうか。当時、いまの私と同じような視点で作業を進めていた歌人がいる。柳田新太郎(19031948)は、著名歌人に限らないで、広く、結社誌の作品欄を渉猟し、天皇・天皇制について詠んだ歌を収集し、若干の解説を試みていた。以下の仕事も、『短歌往来』創刊時より「短歌紀要」という、いわば、歌誌展望のような仕事の一環であった。もともと、若くして、既成の短歌の革新を目指してプロレタリ短歌運動、新興短歌運動にかかわった。その後は『短歌月刊』を創刊、歌壇ジャーナリストとして活動していた。戦後は、この「短歌紀要」などを執筆していたが194811月、急逝している。柳田は、この記事の中で、資料探索の成果をそのまま提示することを自認していたが、無名有名を問わず、歌人たちが、素朴で迷妄な、「頑固な無条件的な天皇制支持者」となっていることについて「現役の、しかも代表的な歌人たちがああまで無批判的なうごき、今なほ時を得次第再び同じ動きを繰返さうとする気配が見える(これはどういふうことだらうか。歌人たちが終戦以来今日までおよそ三年、ほとんど作品の上に思想的甦へりの苦悶を示さないばかりか、苦悶らしい影さへも見せずにゐることが、外部にこのやうな形で反映しているのではないか。以下略)」とか、「歌人たちは数人をのぞいて知名の歌人の殆どが天皇制及び天皇についての作品を示してをらぬことだが、このことも一つの問題であらう」とか、かなり辛らつな批判もしていた(『短歌往来』19482月、44頁、46頁)。しかし、その一方で、さまざまな立場、さまざまな環境の中で、天皇制、天皇について詠まれた、一般歌人の多数の作品の中には、「歌の世界、歌によつて自己表白を遂げる人びとの意識も、無血革命の進行の度にともなつてそれはそれなりに、またそれが緩慢な速度であらうとも、徐々に移り変りを遂げてゆくのではなからうか」と、願望というか期待を持つて結んでいる(『短歌往来』19483月、47頁)。

柳田新太郎「天皇制および天皇と短歌」短歌往来19482
柳田新太郎「宮廷の歌と市民の歌」短歌往来19483

 柳田が、没後70年の現在の歌人たちの天皇制・天皇への姿勢を見たら、何を語るだろうか。(つづく)

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2018年10月 8日 (月)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(6)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(2)

吾が大君大御民おぼし火の群が焼きし焦土を歩ませ給ふ

(佐佐木信綱)(19459月号)

大君の御楯と征きし兵士らが世界に憎まるる行ひをせり

(杉浦翠子)(194510月号)

かすかなる臣の一人とつつしみて御聲のまへに涙しながる

(佐藤佐太郎)(194510月号)

失ひしもののすべてにいやまさる玉のみ聲を聞きまつるかも

(五島美代子)(194510月号)

現つ神吾が大君の畏しや大御聲もて宣らせたまふ

(窪田空穂)(194511月号)

 

いずれも、『短歌研究』からの抜粋であり、以下は、815日直後の新聞に発表された作品である。

大君の宜りたまふべき御詔かは 然る 御詔を われ聴かむとす

(釈迢空)(朝日新聞1945816日)

聖断はくだりたまひてかしこくも畏くもあるか涙しながる

(斉藤茂吉)(朝日新聞1945820日)

 これらの抜粋の仕方に異議を唱える者もいるかもしれないが、私は、有力歌人たちのこうした作品が、ともかく敗戦後の短歌の出発点であったことには間違いない、と思っている。

1946年の歌会始、「御題」は「松上雪」で従来通りの形式で執り行われ、著名歌人たちが、この「御題」で詠んでいるのが、あちこちの雑誌で見受けられた。19461月より川田順は、皇太子(明仁)の作歌の指導にあったっているという記事が消息欄に記されている(短歌研究19464月)。

耐へ難きをたへて御旨にそふべしとなきの涙をかみてひれふす

(斎藤瀏)(短歌研究194612月)

天皇のとどまりたまふ東京をのがれて遠しつつましく住む

(村野次郎)(短歌研究19463月)

旗たてて天皇否定を叫びゐし口角の色蒼白かりき

(吉野鉦二)(短歌研究19463月)

萬世を貫きたまふすめろぎの宮居すらだに焼けたまひつる

(原田春乃)(短歌研究194678月)

 こんな歌も散見できるのだが、その一方で、歌壇への厳しい声も起こっていたのである。『人民短歌』のこと挙げの一つでもある、小田切秀雄「歌の条件」(『人民短歌』19463)であり、臼井吉見「展望(短歌決別論)」(『展望』19465月)などであり、とどめは、桑原武夫「第二芸術―現代俳句について」(『世界』194611月)であった。小田切は「戦時中、侵略権力の掲げた合言葉を三十一文字に翻訳したり、時局向けに自身の感情を綾づけて事足れりとした状態はもう存続する余地はない」「仲間ぼめと結社外での縄張り争いが支配的だった」歌壇や「趣味的な<作者>兼読者なぞといふものは、歌の世界から一掃した方」がよいとする。

臼井は、815日の玉音放送を詠んだ「 御聲のまへに涙しながる」、「玉のみ聲を聞きまつるかも」、「大御聲もて宣らせたまふ」などをあげ、「上句も作者も記すに及ばぬほどその発想の同一に一驚せざるを得ない」とした(本記事、冒頭の歌の下線部分を参照、佐太郎、美代子、空穂の作とわかる)。そして、1940128日を詠んだ歌、次のような歌を、作者名なしで引用し、「宣戦と降伏と、この二つの場合の詠出が、そつくり同一なのに一驚するにちがひない」として、「歌づくりにとつては表現的無力の問題でなく、実際に於て、上述の作に表れてゐる限りのものしか感じ得なかつたのではなからうか。恐らく短歌形式の貧困と狭隘を感ずるほどの複雑豊富な感動内容など持ち得なかつたにちがひない」として、「今こそ我々は短歌への去り難い愛着を決然として断ち切る時ではなからうか。これは単に短歌や文学の問題に止るものではない。民族の知性変革の問題である」と結ぶ。

一億の民ラジオの前にひれ伏して畏さきはまりただ聲を呑む 

*(金子薫園)(短歌研究19421月)

大詔いま下りぬみたみわれ感極まりて泣くべくおもほゆ

*(吉井勇)(短歌研究19421月)

 

  桑原は、現代を代表する俳人の十句と無名の人の五句を、作者名を消して並べたとき、その区別がつくか否かの問題提起をし、一句の芸術的価値判断は、困難であり、その作者の地位は芸術以外のところ―俗世界における地位すなわち「世間的勢力といったものに標準をおかざるを得なくなる」

として、俳句を「菊作り」にもたとえ、「芸術」というより「芸」というがよい、とする。「しいて芸術の名を要求するのならば<第二芸術>と呼んで、他と区別するがよいと思う」と「第二芸術」の由来を述べる。文章の末尾に、引用の十五句のうち十句とその作者、青畝、草田男、草城、風生、井泉水、蛇笏、たかし、亜浪、虚子、秋櫻子の名を明かしている。これは、俳壇のみならず、歌壇、歌人たちにもかなりの衝撃となった。

 ちょうど、「第二芸術」掲載の『世界』発売の直後、194612月、上記の小田切、臼井の短歌へ疑問を受けた形で、久保田正文は「歌人自身が、その使命と時代を自覚することのみが要求されてゐる」として短歌総合誌『八雲』を創刊するに至るのである(「歌壇展望」『八雲』194612月)。さらに、久保田は、その創刊号の「編集後記」では、つぎのように述べ、執筆者も歌人に限らず、有名・無名を問わない「五十首詠」を続け、いわば「読者吸収策」としての短歌投稿欄は設けない、と言った意欲的な編集を進めることになる。

「『八雲』は芸術的に失業した歌人の、救済機関として創刊されたものではない。それ故舊歌壇のギルド的な枠の中で、メッセンヂャアボウイの役をつとめることはしない代りに、短歌の運命を探求する公の機関たらしむことを念願する。短歌が眞に文学の一環としての生命を自覚し、芸術のきびしい途に繋がり得るか否かを實践的にこたへる試練の場を提供する使命を果たさむと志向する」(つづく)

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『世界』1946年11月号の桑原武夫「第二芸術」のGHQの検閲を受けた頁。導入部分で、国民学校の教科書に掲載されている三句の引用のうち、「元日や一系の天子不二の山 鳴雪」の一句が削除されている。残るのは「雪残る頂一の國さかひ 子規」「赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐」。ほか、後半部にも、「勝者より漲る春に在るを許せ 草田男」が削除され、関連の4行が削除されている。プランゲ文庫文書に残る削除部分が読みにくいので、『桑原武夫集2」(岩波書店 1980年5月)に収録のこの論文を確認すると、冒頭の鳴雪の俳句も、草田男の俳句及び関連の文章も削除されたままで、復元されてはいなかった。後者にあっては、削除部分に加えて、さらに数行が削除されていた。もちろん、GHQによる削除も、著作集に収録の際の削除についても一切注記はなかった。引用俳句の誤植の注記は、されていた。これはいったいどういうことなのだろうか。GHQによる削除を、容認したことになるのではないか、の疑問が残る。ちなみに、削除の理由として、二つの俳句の意味が不明確の上、後者草田男の句は、「Critical of US」であり、前者鳴雪の句は「Propaganda」となっていた。なお、この号の『世界』は、向坂逸郎「政治と経済」、恒藤恭「天皇の象徴的地位について(二)」、小林勇「三木清を憶ふ・孤独のひと」にも削除部分が記録されている

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2018年10月 7日 (日)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(5)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(1)

 

大地のブロック縦横にかさなり

断層數知れず 絶えずうごき 絶えず震ひ

都會はたちまち灰燼となり

湖はふくれ津波(よだ)となる。

決してゆるさぬ天然の気魄は

ここに住むものをたたきあげ

危険は日常の糧となり 死はむしろ隣人である。
(高村光太郎「地理の書」より) 

 高村光太郎「地理の書」の一節である。1938年の作であるという。敗戦直後の19459月号の『短歌研究』の巻頭論文、中村武羅夫「我が國體と國土」に全編引用されていた。

懲りない面々の「どうしようもナイカク」第4次安倍内閣はスタートしたが、天皇の代替わりは来年に迫った。日本国憲法のもとでは、元号が変わっても、この区切りは、政治的には何の意味もない。しかし、政府は、国民の反応をみながら、その「代替わり」の利用価値を探っているように見える。国民にとっては、憲法上の<象徴>が代わるわけだが、実質的に暮らしには影響がない。ただ、日常的には、年号表示がややこしくなるのが予想できる。なんとしても西暦に統一しないと、すべての事務的処理も、少なくとも日本の近現代史は西暦でないと何年前の出来事かわからくなる。研究・教育に携わる人は、役所の人は、声を上げて欲しい。個人としては、元号が実働しないように身近なところから実践したい。

平成の天皇自身(サイド)は、平成最後の名のもとに、いわば駆け込み的に、いま、さまざまな行事をこなしている。被災地見舞いもその一つだが、私などは、夫妻の姿を見るにつけ、健康第一で、静養されるよう願うばかりなのだ。マス・メディアでは、「平成最後の~」「平成~」などの特集や記事を展開中であり、今後は、ますます拡散するだろう。短歌総合雑誌でもそんな記事をみかけるようになった。それで読者が増えるようには思わないのだが。

 最近、必要があって、敗戦直後の1945年~50年あたりまでの短歌総合雑誌のコピー類やプランゲ文庫のコピーを引っ張り出しては、読み直している。現在進めている作業とは直接関係のない記事や短歌作品にも、ついのめり込んで、立ち往生ということが何回もあった。占領期とも重なるこの時代、「新憲法」が少しづつ定着して行く過程で、「歌壇」や歌人たちは、「短歌と天皇制」をどのように考えていたのかが、気になりだした。これまで、短歌と天皇制をテーマにした旧拙著でも、「歌会始」に関連して触れていることはあったのだが、文献を中心にもう一度、少し立ち止まって、考えるチャンスではないかと思ったのである。

 

冒頭の詩を引用した「我が國體と國土」は、「日本の國體が比類なく神聖にして、尊嚴極まりないことは、わが國の歴史がこれを證明してゐるし、古来幾多の詩歌に依つて歌はれ、文章に綴られ、國民等しく知悉してゐるところである」で始まり、後半は「聯合軍司令部の命に依り以下一部削除」と記された後に、上記、高村光太郎「地理の書」を引用し、この詩こそ「わが本土に對する絶対的の愛敬と國體欽讃の聖なる所以を喝破してゐると言つてよからう」と結ぶ。GHQは検閲の痕跡を残さないのが原則だから、それを明記した文言を入れたまま発売に到っているのは、めずらしい例といえる。

ちなみに、9月号は、だいぶ遅れての発行であったらしい(国立国会図書館の受入印では「昭和201119日購入」となっている。10月号に、編集発行人木村捨録による記事によれば、30日遅れとある。また、その記事には、『日本短歌』9月号は発禁とあるが、16頁立てのものが国立国会図書館に納本されている)。

高村の「地理の書」の上記のような一節は、三陸の大津波や関東大震災を踏まえてのことで、80年前の地学には素人の詩人でも「日本列島」の成り立ちを知っていたのだから、東日本大震災の時に、「想定外の」とか「千年に一度の」などという言い訳は成り立たないはずであった。にもかかわらず、この日本列島は、50基以上の原発を擁していたのである。「ここに住むものをたたきあげ/危険は日常の糧となり 死はむしろ隣人である」というフレーズは、無策に近い、後追いのいまの政府の災害への姿勢であり、防災政策、対策の担当者や一部のマス・メデイアの謂いを代弁しているかのようでもある。

19459月以降、復刊、創刊されたさまざまな短歌雑誌には、疎開生活や空襲による自宅焼失、食糧難などを嘆く短歌とともに、占領軍(進駐軍)への批判や敗戦後の解放感などが歌われた短歌であふれる。GHQによる検閲は、とくに、占領軍の横暴に触れた作品・文章には神経をとがらせ、米兵の性風俗や「植民地化」という文言には、強く反応を示している。一字、あるいは上句、下句がそっくり削除され、空白にしたままの検閲の痕跡を残した短歌が、いろんな雑誌で、散見できる。検閲の対象は、地方のミニコミ誌にまで及ぶが、「痕跡を残さない」検閲がどれほど徹底していたか、は今後の課題かもしれない。

そんな中で、天皇を詠んだ短歌、天皇制に触れる論評は、決して多くはないが、見受けられるようになる。(つづく) 

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『短歌研究』1945年9月号の、中村武羅夫「わが國體と國土」から。上は、GHQの検閲で削除が命じられた箇所は黒塗りになっている。下が、実際に印刷・発売された雑誌の該当部分だが「聯合軍司令部の命に依り以下一部削除」と明記されている。
ちなみに削除された文章は以下の通り。「既に今度の戦争に至って、われわれは二十歳になるやならずの多くの若き武人たちが、天皇の御為に、皇国護持のために□□きながら神となつてゆく姿を、眼の当たり見てゐるのである。日本ならずして何處にこのやうな尊い事実を□□すべき國柄の國家があるであらうか。」とまで読める。

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