2025年10月27日 (月)

「黒川の女たち」、20席の小劇場で見る

 田端のシネマ・チュプキという、小さな劇場、予約しないと観られないという。駅からJR東日本の長いビルに沿って坂を下り、仲通り商店街を目指す。途中、通りがかりの方が、業務用スーパーの隣にありますよとの案内の通り、たしかにそれはあった。

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 たしかテレビ朝日の番組や新聞記事で、おおよそのことを知っていたつもりでいたが、映画は、太平洋戦争敗戦直前、関東軍敗走の地に取り残された満蒙開拓団の若き女性たちが背負った過酷な運命を、高齢になった当事者たちの証言や活動、それを支える人たちを丹念に追ったドキュメンタリーだった。

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 1939年11月、決して豊かとはいえなかった岐阜県加茂郡黒川村の人たちが、開拓団への分村を目指し、まず視察に赴き、以降1941年から44年にわたって、ハルピンの南、吉林省陶頼昭に入植、650人を超えた。開拓自体も青壮年層の男子は徴兵され、女性や高齢者による重労働を伴うものだった。ところが、敗戦直前、ソ連の参戦によって、ソ連軍は満州国に侵攻、黒川開拓村にも迫ると関東軍は、村民を置き去りに敗走した。中国人からの襲撃、近隣開拓民の集団自決がなされる中で、村民の安全と暮らし=食料確保のためということで、1945年9月、村民幹部は、ソ連軍への「性接待」を始めたのである。その犠牲になったのが、未婚の十代、18歳以上の女性たち15人であった。1946年5月ソ連軍撤退まで続き、15人の内4人は、現地で性病などにより命を落としたのであった。この事実は、敗戦後生還した451人の村民の間では隠蔽され、その上、犠牲となった女性たちには、こころない仕打ちがなされ、村を追われるように散り散りなっていった。

 1961年になって、現地で亡くなった開拓団員を偲んで、黒川村に「招魂碑」が建てられ、1981年、開拓団の体験記『ああ陶頼昭』が遺族会により刊行され、翌1982年には「乙女の碑」が黒川村に建てられたが、「性接待」の事実は公にされることはなかった。

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『告白 岐阜・黒川満蒙開拓団73年の記録』の年表より。

 女性たちの長い苦難の歴史が動きだしたのは、2013年、長野県下伊那郡阿智村に満蒙開拓平和記念館がオープンし、館主催の語り部の会で、佐藤ハルエさんと安江善子さんの二人が、犠牲の当事者として初めて、事実を語り始めたことだった。家族にも語ることをしなかった他の女性たちを含めて、連絡を取り合っていた絆は強く、二人の勇気ある告知に、語り始める人、そして彼女らを支える開拓団の女性たち、遺族会会長、さらには、彼女らの子どもや孫たちにも支えられ、語り継ぎ、書き継ぐことによってメディアにも注目され始めたのであった。そして、それらの活動の成果として、「乙女の碑」の傍らに長文の記録と証言によって構成された「碑文」が設置、除幕されたのが2018年11月18日だったのである。


 関東軍によって傀儡国家満州国が建設され、軍事拠点化を図るための食糧増産の目的で大量の開拓民を必要とされ、疲弊した農村救済のためと相俟って、500万人の開拓民が送られたていた。黒川開拓団もその一つであったのだが、敗戦間際、ソ連軍の侵攻が迫ると、関東軍は開拓民を守るどころか、従軍慰安婦とともに逃げ去ったという。それまで虐げられてきた中国人の報復と侵攻してきたソ連軍の間に孤立した開拓団幹部の生き残り策が、未婚女性による「性接待」であったという事実にも、いたたまれない思いがするのだが、日本に帰還後の彼女らのたどる長い苦しい過酷な道のりがあった。戦争の悪と女性蔑視という二重の犠牲を背負いながら、史実に立ち向かった勇気ある活動に敬意を表さずにはいられなかった。

 この映画が、テレビ朝日製作、プロデューサー江口英明・松原文枝、監督松原文枝ほか、50代から、より若いスタッフによって製作されていることを心強く思った次第である。

参考映像
NHKETV特集「満蒙開拓団の女たち」(2017年8月5日)【未見】
テレビ朝日報道ステーション特集「語り継ぐ戦争と性暴力『黒川開拓団の』女性たちの告白」(2019年8月16日)
テレビ朝日「史実を刻む―語り継ぐ戦争と性暴力」(2019年8月24日)

参考資料
川 恵美、NHKETV特集取材班『告白 岐阜・黒川 満蒙開拓団73年の記録』(かもがわ出版 (2020年3月31日)
『黒川の女たち』公式パンフレット(太秦KK 2025年7月12日)
松原文枝『刻印 黒川開拓団の女性たち』(KADOKAWA 2025年8月26日)【未見】

 

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2025年10月26日 (日)

「戦場のピアニスト」ふたたび

   初めて見るような「戦場のピアニスト」だった。2003年、封切り時に、地元の映画館で見たはずだった。今回NHKBSで見ることができた。

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 ドイツナチスのポーランド侵攻で廃墟となったワルシャワの街、崩れた建物に潜んでいたユダヤ人ピアニストの主人公がドイツ将校に見つかり、奇跡的に残されたピアノを弾く場面だけは、覚えていた。でも、イギリス軍やフランス軍の反撃が近いというニュースを聞くも、身に迫るナチスの脅威、残虐な仕打ちに対する両親、弟、妹たちの微妙に異なる恐怖心や心理状態が描かれていたことなどは、あらためて感じ入ったところだった。また、収容所送りとなった家族たちと引き裂かれた後、ピアニストは、ゲットーにピストルなどの秘密裏に持ち込むユダヤ人蜂起の準備にも加担、ゲットー脱出に成功、反ナチスの地下活動をする同志たちのさまざまな支援を受けながら、転々とした逃亡生活に入る。ゲットー蜂起も完全に鎮圧され、ナチスの殺戮を目の当たりにする。同志の支援も断たれ、飢餓に陥り、残骸の中をさまよう場面で、前述のドイツ将校に出遭う場面になるのだった。自らもピアノをたしなむ将校は、ピアニストの演奏に感服、その場を立ち去るが、その後、幾たびか、廃墟の隠れ家に食料を差し入れ、ワルシャワ解放のソ連軍もまじかと別れを告げに来る。

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 数年ぶりに、瓦礫の中のピアノに向かうシュピルマン。ピアノの左に置かれている缶詰は、瓦礫の中をさまよい、ある台所の戸棚に残っていた缶詰、缶切りがなく、開けられないまま抱え歩いてきたものだった。

  ソ連による解放後のポーランドで、ピアニストは音楽活動を続けるのだが、エンドロールで、ピアニストのシュピルマンが2000年に88歳で死去したこと、ドイツ人将校のホーゼンフェルトが1952年にソ連の強制収容所で死去したことが示されるのであった。
 監督のポランスキーは、「水の中のナイフ」で知られる奇才とされていたが、みずからもユダヤ系であり、ナチス占領下でゲットーでの過酷な暮らし、収容所行きを逃れたものの転々とし、母は収容所で殺された体験をしている。ピアニストを演じたアメリカの俳優エイドリアン・ブロディの父は、ポーランド系ユダヤ人で、ホロコーストで家族を失った身。母は少女時代、ハンガリー動乱によって、アメリカに逃れてきた難民だったという。フランス、イギリス、アメリカとドイツ、ポーランドの合作で、スタッフ・キャストらの熱量が感じられる作品に思えた。各場面で奏せられるショパンの曲は、音楽に疎い私には、どこかで聞いたような曲といったレベルで曲名も知らなかったのだが、作品を盛り上げていたと思う。

  ただ、ポランスキー監督は1977年の、アメリカでの少女強姦事件により、アメリカより逃亡中であって、アカデミー賞の授賞式には立つことができなかった、という。「戦場のピアニスト」の評価と彼の倫理観を考えると複雑なものがある。
 さらに、多くの犠牲者を出したユダヤ人によって建国されたイスラエルのガザへの容赦ない爆撃によって瓦礫の街となったリアルな映像とナチスによって廃墟と化したワルシャワの街のシーンは重なる。戦争による破壊と殺戮の絶えない世界で、日本が、自分たちがなすべきことの重要性が問われるのだった。

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2025年8月20日 (水)

「火垂るの墓」と「禁じられた遊び」ふたたび

 今年の8月は、立て続けに二本の映画を見た。

「火垂るの墓」(1988年、高畑勲監督)2025年8月15日

 夜9時から、日本テレビで放映。ずいぶんと前にも、テレビで見ているので二度目になるのだが、細かいところはかなり忘れている! 今回はカットなしでの放映ということだが、これまで、どんな個所がカットされていたのか。冒頭、サクマ式ドロップス(文字は左から書かれていたはず)の四角い赤い缶が転がる場面があっという間に過ぎてしまって、定かに確認できなかった。録画をとっておくべきだった。

 というのは、かつて、池袋の生家近くにあった「サクマ式ドロップス」の工場のことを書いたとき、缶が転がるのをラストシートとばかり思いこんでいたからである。その製造元の佐久間製菓は、コロナ禍のさなかに廃業したが、跡地はどうなっているのだろうか。今は、従妹夫婦が住んでいる生家だが、いまだに跡地界隈に立ち寄ってはいない。

サクマ式ドロップス工場の思い出~池袋第5小学校のクラス会へ(2009年10月 8日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/10/post-e8b5.html

 

 敗戦が真近い神戸で、父が出征し、母と暮らしていた中学生の兄と4歳の妹の物語である。母を空襲で失い、西宮の親戚の家に引き取られるが、だんだんと邪険に扱われるようになって、崖下のトンネルのようなところに隠れるように暮らし始める。さまざまな思いつきや精一杯の工夫をしての暮らし、けなげにも幼い妹を喜ばせ、いたわる兄だったが、食料にも事欠き、衰弱してゆく妹を助けられず、一人で亡骸に火を放つ場面はつらかった。元気な頃に二人して蛍と戯れた場所だった。

 私が、このアニメで、注目したのは、兄妹に係る大人たちの描き方だった。親戚のおばさん、鍋や七輪を融通してくれた金物屋さん?、親切な農家のおじいさん、畑を荒らされたことに怒り狂うオジサン、突き出された交番で、無罪放免にしてくれたお巡りさん、栄養失調だと見放すお医者さん・・・、どこにでも、どの時代にでもいそうな人たち。責めるでもなく、称えるわけでもなく淡々と描いているからこそ、兄妹の交情と哀切が際立っているように思えた。

 

「禁じられた遊び」(1952年、ルネ・クレマン監督)2025年8月17日

 施設の映画サークルによる上映会で見た。この映画は、かつて公開時でなく、名画座のようなところで見たように思う。二度目とは言え、かなりの部分は忘れていることに気づく。

 1940年、両親をドイツ軍の空爆で失い、孤児になった5歳の少女、牛を追って来た少年と出会い、その家族に引き取られる。両親の死、子犬の死、少年から弔うということを教えられた少女は、小さな生き物たちの死を十字架を立てては悼むことを覚える。それがやがて、さまざまな十字架、美しい十字架を欲しがるようになって、少年は懸命に応えようと十字架を盗み始め、二人の秘密の遊びのようになっていく。私は、今回も、二人をめぐる少年の家族たち、戦争による生死が身近に迫って来る農村の大人たちの描き方の巧みさにも着目した。

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少女を演じたブリジット・フォッセーは、20歳になって映画界に復帰、様々な映画に出演、私の覚えにあるのは、「さらば友よ」(1968年)くらいである。

 空襲で御者を失った馬の暴走で重傷を負った少年の長兄の死、戦線から耐えきれず逃げ帰って来た隣家の息子、その息子と恋仲の少年の姉、少年の父と隣家の主とのさまざまな確執、村の教会の牧師、少女の孤児院措置のためにやってくる警官・・・。時には、ユーモラスにも描かれるなかで、少年のやさしさと少女の愛らしさ、その別れに涙しそうになるのだった。

 ルネ・クレマンといえば、私にとっては、やはり「禁じられた遊び」と「太陽がいっぱい」(1960年)だろう。大学の学園祭で、私たちの専攻クラスにより同監督の「鉄路の斗い」(1945年)を上映したのも懐かしい思い出である。

 

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2025年8月18日 (月)

8月15日、天皇と首相の「言葉」の過大評価を考える

天皇の「語り継ぐ」とは

 8月15日、「全国戦没者追悼式」に臨んだ天皇の「おことば」の「戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。」の一文をとりあげて、翌8月16日の各新聞は社説や記事で一様につぎのように評価していた。 

読売新聞社説:「戦中・戦後の苦難を、語り継ぐ必要性にも初めて触れられた。」

日本経済新聞社説:「『語り継ぐ』という新たな要素を加えられた。上皇さまの平和への願いを受け継ぎ、次世代に継承することへの強い思いがうかがえた。」

毎日新聞:「天皇陛下、記憶の継承に言及」の見出しで「『戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ』の一節を新たに加えられた。記憶の継承に明確に言及。」

朝日新聞:「天皇陛下 次世代に託す思い」の見出しで「『戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ』という新たな表現で、継承への思いを示すものとなった」

 またNHKの15日の夜7時のニュースでは、「戦後生まれの天皇陛下は、戦争の記憶と平和への思いを、戦争を知らない世代に継承していくことの大切さについて、記者会見などで繰り返し語られていて、今回の追悼式のおことばにも『語り継ぐ』という表現が、初めて盛り込まれました。」また、「深い反省とともに」という表現を「深い反省の上に立って」と変えたことを報じている。 

 そして、ノンフィクション作家保阪正康のコメントとして、
「『語り継ぐ』というのは、かなり主体的な意味の強い言葉で、主体的に戦争のことを語る、苦しかった人たちの思いをつないでいくという強い意思を感じる。」さらに「戦中・戦後の苦難」という言葉については「戦争は昭和20年8月では終わっていない、原爆で傷ついている人が今もいるように、戦争の傷はずっと残っている。苦難と闘っている人がいるということを、私たちは忘れてはいけないと、おっしゃっている。天皇陛下の人生観や歴史観が凝縮されていて、戦争の傷あとに対する思いが深いと感じた」と語らせている。
 さらに、天皇の「おことば」が基本的な内容は変わらないことについては、「変わらないということは、祖父・昭和天皇、父・平成の天皇の気持ちを継いでいくと、戦争に対する反省や心の痛みを継いでいくということをおっしゃっていると思う。それが天皇家の強い意思」と感じたとする。

  以下は私の素朴な感想であるが、「語り継ぐ」を盛り込んだとする一点を、これほどことごとしく揃いも揃って、高く評価する点が不思議であった。すでに多くの戦争体験者や遺族は、必死の思いで語り継いできたことは、多様なドキュメント、映像や図書などでも残されてきた。それを、いまさら「おことば」にその言葉が登場したからと言って、大げさに報道するメディアもメディアだという思いである。これまでのメディアの営為に自負はないのかとも思ったのだが。

 

石破首相の「反省」とは

 NHKは8月15日当日のニュースで「全国戦没者追悼式での総理大臣の式辞で「反省」ということばが使われたのは2012年以来となります。」と伝えた。他のテレビニュースも13年ぶりの「反省」を強調するものが多かった。

 新聞にあっては、
東京新聞社説(8月16日):「首相の「反省」 個人でなく政府が示せ」の見出しで「近年の首相は、所属政党にかかわらず戦没者追悼式の式辞で、アジア諸国に対する加害への反省を表明してきたが、安倍晋三氏は2013年以降、反省の表現を使わず、菅義偉、岸田文雄両氏も踏襲した。石破氏が反省の文言を復活させたことをまずは評価する。ただ、石破氏も何を反省するのか、具体的には示していない。」

読売新聞社説(8月16日):「終戦の日 80年続いた平和を次の世代に」の見出しで「石破首相は式辞で、2012年の野田首相以来となる、先の大戦の「反省」に言及した。」

毎日新聞社説(8月16日):「首相は反省と教訓明示を」の見出しで、戦後80年の首相談話を見送った経緯に触れた後「大戦の『反省と教訓』に言及した。『反省』は村山氏の時から式辞に盛り込まれたが、2013年の安倍氏以降は消えていた。13年ぶりに復活させた形だ。しかし、何を反省し、教訓とするのかについては、『進む道を二度と間違えない』などと曖昧に述べただけだ」

朝日新聞社説(8月16日)「終戦の日と首相 平和国家未来像語る時」の見出しで「首相式辞は、93年に細川首相がアジア近隣諸国に『哀悼の意』を表し、翌年の村山首相が『深い反省』を加えた。その後、自民党政権時代を含め、長らく踏襲されてきたが、第2次政権下の安倍首相が13年に言及をやめ、その後は使われなくなった。『反省』が13年ぶりに復活したが、アジア諸国への加害責任には触れておらず、何を反省し、教訓とするのかは明確でない。短い式辞で意は尽くせない。戦後50年の村山談話、戦後60年の小泉談話、戦後70年の安倍談話と同様、首相談話を出すべきだった」

  ここでは、13年ぶりに復活した「反省」に着目している点が共通している。「評価」すると明言するのは、上掲のなかでは東京新聞だけである。戦争を知らない、戦争体験者でもない、当事者でありえない第三者が「反省」するって、どうなの?という突込みもある。今年の天皇の「おことば」にあって、「深い反省とともに」という表現を「深い反省の上に立って」に変えたことは、その辺のことを配慮してのことだろう。
 石破首相の式辞に寄せられた「反省」の中身がないことを、いずれの新聞も指摘しているが、これは、天皇の「おことば」にも当然言えることではないか。首相には、指摘して、注文するが、天皇の「おことば」を称揚することはあっても注文をつけないのが、いまも変わらぬメディアなのである。

 首相の式辞について、朝日新聞の社説で「アジア諸国への加害責任」に触れていないことに言及するが、そもそも首相の式辞には「300万余の同胞の命」の「御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます」であって、「植民地やアジア各地での加害責任」、そこで犠牲になった「同胞」以外への追悼は読み取れなかったのである。                     

 参考 10年前に『女性展望』(2015年11・12月号)に寄稿した文章です。
戦後70年、二つの言説は何を語るのか(2016111日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/01/70-6a1c.html

資料1.天皇の「おことば」全文
 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
 終戦以来80年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。戦中・戦後の苦難を今後とも語り継ぎ、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
 ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

資料2.首相の式辞
 天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。
 先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。 祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場に斃(たお)れた方々。広島と長崎での原爆投下、各都市への空襲並びに艦砲射撃、沖縄での地上戦などにより犠牲となられた方々。戦後、遠い異郷の地で亡くなられた方々。今、すべての御霊(みたま)の御前(おんまえ)にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。
 今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊(とうと)い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧(ささ)げます。
 未(いま)だ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。一日も早くふるさとにお迎えできるよう、全力を尽くします。
 先の大戦から、80年が経(た)ちました。今では戦争を知らない世代が大多数となりました。戦争の惨禍を決して繰り返さない。進む道を二度と間違えない。あの戦争の反省と教訓を、今改めて深く胸に刻まねばなりません。
 同時にこの80年間、我が国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。 歳月がいかに流れても、悲痛な戦争の記憶と不戦に対する決然たる誓いを世代を超えて継承し、恒久平和への行動を貫いてまいります。未だ争いが絶えない世界にあって、分断を排して寛容を鼓(こ)し、今を生きる世代とこれからの世代のために、より良い未来を切り拓(ひら)きます。
 結びに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。    
  令和7年8月15日      内閣総理大臣 石破茂                                                                                                        

                                                                                                                        

 

 

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2025年8月15日 (金)

戦後80年、私の8月15日 八首

『現代短歌新聞』に5首、『うた新聞』に3首寄稿いたしました。わずかな記憶も忘れないうちにという思いです。

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「オキナワ」という名のさつまいも(5首)              

疎開地の馬市場跡に居を得れば馬柵(ませ)というもの焚き木となりて

容赦なく変電所にも突き刺さる焼夷弾を見たり父にすがりて

共同の井戸より母は戻り来て「負けたんだって」とバケツを放つ

ふとんには青大将の落ち来たる敗戦の夜は兄たち黙しぬ

「やっとこさ」手に入れたると「オキナワ」を父は掲げて土を払いぬ 

五歳の夏 (3首)                 

兵士らは馬上の一人に従いて馬市場跡に列をなしゆく

行進の靴音止みて号令のあとの晩夏の闇は深まる

農婦らに哀れまれたか収穫後の畝に残れるニンジン拾う

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2025年4月12日 (土)

沖縄の渡嘉敷島の「戦没者」慰霊祭に思う~住民を守らなかった日本軍

  先月3月29日、『東京新聞』に「2025戦後80年」シリーズとして、「『二度と戦争やめて』沖縄・渡嘉敷島 戦没者の鎮魂祈る」という小さな記事があった。「集団自決」で亡くなったとされる330人の慰霊碑「白玉之塔」の前での慰霊祭に約100人が参加、戦没者の鎮魂を祈ったとし、それに続いて「集団自決」の模様を以下のように伝えていた。

「米軍は1945年3月27日、渡嘉敷島に上陸。島北端の山中に逃げた住民は28日、集団自決に追い込まれた。鎌で切りつけたり、縄で首を絞めたりして、肉親同士が殺し合った」

 簡潔で、間違ってはいないと思われる記事なのだが、私たちが、渡嘉敷島の現地での見聞や書物の記述とは、ずいぶんと違っているように思えた。
 私たちが、渡嘉敷島を訪ねたのは2017年2月6日、那覇港から、欠航の合間を縫って、ようやく渡ったのだった。高波にも見舞われながらの70分の船旅、日帰りの強行軍だったが、タクシーの運転手兼ガイドさんの女性の案内でかなり精力的にまわったのではなかったか。

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   記事に「島北端の山中」とあるが、現在は、起伏こそあるが、広がる草原の先には、「国立沖縄市青少年交流の家」があり、野球場も見渡せ、海に向かえば、座間味島、阿嘉島も見える。のどかな光景なのだが、1960年、米軍がミサイル配備の基地建設のため、辺りの山は削られ、谷を埋め、地形は一変したという。69年に基地は閉鎖され、本土復帰の数年後に返還されたというのだ。もともとニシヤマと呼ばれたこの山間の地で、「集団自決」という凄惨な殺戮が繰り広げられたのである。現在は、1993年3月28日に建てられた「集団自決跡地」の碑がある。敗戦直後の1951年3月28日には「白玉之塔」は建てられていたのだが、米軍の基地建設のため接収され、現在の位置に移設されていた。

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   現在では、体験者の多くの証言により、渡嘉敷での「集団自決」は、軍の命令や関与があったことは明らかになっている。以下の証言でも、日本軍は住民を守るどころか、殺人や自決に至らしめたのである。

例えば、『沖縄タイムス』の社説にもあるように、軍は「敵に捕まった場合の投降も事実上禁止されたほか、「米軍に捕らえられれば女は辱められ、男は股割きにされる」という恐怖を住民に植え付けたのである」とし、一人の男性の証言をつぎのように続けている。

「あの日。金城さんの家族5人がいた壕では村長の「天皇陛下万歳」三唱が合図となりあちこちで手りゅう弾が爆発した。金城さんは、死にきれなかった妻子を小木でめった打ちにする男性の姿を見て「やるべきことが分かった」という。兄と2人で泣き叫びながら母と弟妹の頭に石を打ち下ろした。」(「[沖縄戦80年]慶良間「集団自決」悲劇の背景に軍の存在」2025年3月26日)

  同じく地元紙の『琉球新報』は、慰霊祭の記事ではつぎのように伝えている。

「1945年3月27日、渡嘉敷島に米軍が上陸し、住民は日本軍の命令で北山(にしやま)に集められた。翌28日に「集団自決」が起き、当時の村民の4割に当たる330人が犠牲となった。」(「渡嘉敷島「集団自決」80年の慰霊祭 刻まれた肉親の名を呼ぶ 沖縄戦」『琉球新報』 2025年03月28日)

『読売新聞オンライン』では、死んだふりをして難を逃れた女性の証言としてつぎのように伝えている。

「隣の座間味島(座間味村)に米軍が侵攻した翌日の3月27日、集落に「米軍が攻めてくる」といううわさが広がり、家族や知人らと山へ逃げ込んだ。夜通し歩き続け、日本軍の拠点にたどり着いたが、兵士に立ち入りを拒まれた。」(「沖縄戦で恐慌状態になり「親族同士で殺し合い」2025年3月27日」

 ところが、総務省がまとめた「渡嘉敷村における戦災の状況」では、「集団自決」について、以下のように記されている。

「日本軍の特攻部隊と、住民は山の中に逃げこんだ。パニック状態におちいった人々は避難の場所を失い、北端の北山(にしやま)に追込まれ、3月28日、かねて指示されていたとおりに、集団を組んで自決した。手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で首を絞めたり、山火事の中に飛込んだり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていったのである」(総務省「(沖縄県)渡嘉敷村における戦災の状況」『一般戦災死没者追悼』所収)

 なお、渡嘉敷村のホームページ「慶良間諸島の沖縄戦」にも、上記と全く同文の段落があるので、総務省は、このページから一部を引用したものと思われるが、どうしたわけか、段落の冒頭部分「物量に劣る日本軍の特攻部隊と・・・」の「物量に劣る」が省かれている。総務省は、こんな姑息な「忖度」までを“日本軍”にするのかと。

 しかし、渡嘉敷村HPでも、「かねて指示されていたとおりに」というが、「いつ」「誰」が不明である上、「母と弟妹」は殺されたのであって、「自ら生命を断っていったのである」は、多く証言から、事実に反する記述ではないかと思う。さらに、同じHP上には、「大東亜戦争及び沖縄戦における本村関係者全戦没者数」の一覧表の欄外に*を付した「注意書」?では以下のような記述があるのである。

「狭小なる沖縄周辺の離島において、米軍が上陸直前又は上陸直後に警備隊長は日頃の計画に基づいて島民を一箇所に集合を命じ「住民は男、女老若を問わず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以て対抗できる処までは対抗し癒々と言う時にはいさぎよく死に花を咲かせ」と自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである。」

 渡嘉敷村HPにおけるこれらの齟齬を担当だという村の教育委員会に尋ねたところ、古いことなのでわからない、とのことだった。
「慶良間諸島の沖縄戦」
https://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/material/files/group/1/jiketsu01.pdf

 渡嘉敷島では驚かされた一件があった。曽野綾子撰文による「戦跡碑」である。かねてより保守の論客としても知られる作家の曽野綾子(1931~2025年2月)の撰文の一部を見てみたい。

「(前略)3 月 27 日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所 に集結したが、翌 28 日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、 車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。この日の前後に 394 人の島民の命が失われた。 その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。(中略)  315 名の将兵のうち 18 名は栄養失調のために死亡し、 52 名は、 米軍の攻撃により戦死した。 昭和 20 年 8 月 23 日、軍は命令により降伏した」(全文参照「戦争の悲劇的結末への宣誓」観光庁「地域観光資源の多言語解説文データベース」https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/H30-01471.html

「力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。」という唐突な「愛」への疑問はぬぐいようもなく、家族による「殺人」に至らしめた要因をも「家族愛」「家族制度」に包み込んでしまっている。

 さらに、撰文末尾近くの将兵の死因にも言及する。住民の「集団自決」と将兵たちのその徹底抗戦を賛美するかのような書きぶりだが、栄養失調や戦死した犠牲者は浮かばれず、その遺族の口惜しさは格別だろう。ともかく、生き残った割合は、住民より将兵の方がはるかに高いのである。日本軍は住民を守るどころか「集団自決」という「殺戮」後に、抗戦していたことになる。

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 総務省や観光庁の公式見解がまかり通っている現実と、いまここでは触れないが、教科書検定問題の決着は、「歴史を正しく次代に継承すること」とは真逆の道をたどっていると言っていいだろう。

 戦争や戦場の悲惨さを伝えることは重要だし、平和を祈る気持ちも大切にしなければならないが、メディアも「識者」も、なぜそのような戦争が始まったのか、戦場や銃後での理不尽な死者たちにも、しかと目を向けるべきだろう。安易に「戦没者」とひとくくりに出来ない死者たちがいることも私たちは知る必要があるのではないかと思う。

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 ガイドさんと話に夢中になっていて、「白玉之塔」に参るのを失念してしまった。

 

以下の過去記事もご覧いただければと、ご参考までに。

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(3)2017年2月19日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/3-e774.html

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(4)渡嘉敷村の戦没者、集団自決者の数字が錯綜する、その背景2017年2月22日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-0e0c.html

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2025年4月 8日 (火)

沖縄の「チビチリガマ慰霊祭」に思う

  4月6日の全国紙の朝刊は、沖縄県読谷村のチビチリガマで5日に行われた慰霊祭について報じていた。『朝日新聞』は「戦後80年」のシリーズとして「<集団自決>の地 語り継ぐ」、『東京新聞』は「2025年戦後80年」のシリーズとして「集団自決の過ち 繰り返さない」という記事だった。慰霊祭は、遺族会により行われ、生存者の参列はなく、遺族30人を含む約100人が参列している。1945年4月1日、米軍の沖縄本島への上陸が始まり、追い詰められてガマに避難した住民140人は、4月2日、住民同士や家族同士で殺し合った末、83人が犠牲となり、その6割が18歳以下だった。いわゆる「集団自決」による犠牲者だった。そうした中で生き残った者は「戦後長く口を閉ざし、証言するようになったのは80年代以降」(『朝日新聞』)だった。

   私たち夫婦が、このチビチリガマを訪ねたのは、2014年11月だった。ガイドも務める運転手さんによれば、米兵に突撃して射殺された2人を含み、狭い壕内で毛布に火が放たれもして、毒薬の注射や自決などにより85人が命を落とした。赤ちゃんの泣き声は、敵に居所を知らせるから、早くここを出るなり、殺せと兵士たちに迫られた母親もいたという。

  体験者の証言や聞き取り、研究者による調査研究などによって、こうした真相がわかってきたのは1980年代で、1985年には遺族たちと地域住民により追悼の平和の像が完成した。が、間もなく何者かに破壊されたので、石の壁で囲われるようになったとのことだった。

  私たちがガマに着いたときは、修学旅行の高校生が来ていて、ガイドの女性が説明をしているところだった。少し壕に近づき手を合わせたい気もしたが、運転手さんは、高校生たちの邪魔にならないようにしましょう、とその場を離れたのだった。

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  では、なぜ集団自決がなされたのか、その背景を『朝日』は「皇民化教育や〈軍官民共生共死〉という軍の方針があった」と言い、『東京』は「日本軍の強制や誘導があり〈強制集団死〉とも呼ばれる」と伝えている。
  NHK沖縄放送局の4月5日のニュースでは、この集団自決の背景を「捕虜になることを許さないとした当時の教育や軍の方針などがあったと考えられています」と伝えた。

  では、その「軍の方針」「軍の強制」とは何だったのか。上記の記事では。その辺が不明確なのである。これまで、私は「軍官民共生共死」という「軍の方針」とはどんなものだったのか、をあまり深く調べもしなかったのだが、とくに、沖縄の日本軍において、実践されたようなのだ。

  石原昌家教授のインタビューによると、1944年8月に赴任した第32軍の牛島満司令官が、同月31日、全兵団長を集めて行った訓示は「最後の一兵に至るまで敢闘精神を堅持」「一木一草といえどもこれを戦力化すべし」と言うものだった。さらに、第32軍が44年11月18日に作成した「報道宣伝防諜(ぼうちょう)等に関する県民指導要綱」によって「軍官民共生共死の一体化」と称して、「住民は戦場に動員されたり、飛行場や陣地の構築にかり出されたりし、軍民が一体化する中で米英軍の激しい攻撃にさらされ、多くの命が失われた」という結果を招いたというのである(「『県民の総決起』強いた沖縄戦の実相 数千の証言集めた研究者に聞く」『朝日新聞』2023年7月13日)。

 よく言われる「軍人勅諭」「戦陣訓」だけでなく、沖縄には、さらに密接な形での軍の方針が住民を苦しめた。その上、兵士たちは恐怖を煽るばかりでなく、住民たちに手をかけ、住民たちも家族同士、住民同士の殺傷に及び、失われた命だったのである。「自決」というのは、自らの意思による、潔い自裁さえ思わせるが、現実は、それとは程遠い殺戮が展開されたのではなかったか。「集団自決」は「強制集団死」と言い替えられることも多いが、「誰に」強制されたかがやはり不明である。「軍の誘導や強制により」と書き添えられることも多いのだが、体験者の証言などからは、より切迫した恐怖感があったからとしか思えない。

 

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2025年3月 9日 (日)

久しぶりに、地元の9条の会に参加しました~登戸研究所見学を思い起こす

 引っ越しの前後、数か月休んでいましたので、世話人の方たちとは久しぶりでした。会報の編集中で、2月にでかけた明治大学生田キャンパスにある登戸研究所資料館見学の感想集です。私は参加できませんでしたが、皆さんの関心の向けどころが違っていて、興味深かったです。「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」ニュース51号が楽しみです。

 以下は、2014年12月 明治大学平和教育登戸研究所資料館・NPO法人インテリジェンス研究所共催の「第9回防諜研究会」の講演会・ツアーに参加した折の感想です。当ブログの「明治大学生田キャンパス、「登戸研究所」跡を訪ねる(1)(2)(2014年12月23日)からの抜粋を再掲します。

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「陸軍の秘密戦における登戸研究所の役割―登戸研究所の軍事思想」山田朗(明治大学文学部教授、明治大学平和教育登戸研究所資料館館長)~とくに印象に残ったこと

登戸研究所の組織・沿革とその背景にある日本陸軍の軍事思想の特徴について話された。登戸研究所は、1937年11月、日中戦争の長期化に伴い、秘密戦(防諜・諜報・暴力・宣伝)の必要性が高まり、陸軍科学研究所登戸実験場として生田に設置された。その背景には、陸軍は銃砲弾重視の「火力主義」を物量不足から貫徹できず、歩兵による銃剣突撃重視の「白兵主義」が台頭、少数精鋭主義、攻勢主義、精神主義が強調されたが、これを補強する「補助手段」が必要となった。軍縮・経費節減から編み出される細菌兵器、敵国攪乱の毒ガス、謀略工作などを重視するようになった。1941年6月からは陸軍技術研究所の第九技術研究所と再編された。所長は、スタート当初よりかかわった篠田鐐中将があたる。その研究は、主なものだけでもつぎのように分かれていて、敷地11万坪、幹部所員約250人、民間人あわせて1000人以上が働いていた。

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予算・編成図、資料館の展示より


1)電波兵器(第一科)
2)風船爆弾(第一科)
3)特殊カメラやインク、毒物など諜報・謀略用品の開発(第二科)
4)対人、対動物、対植物の細菌兵器の開発(第二科
 5)経済謀略、戦費調達のための贋札づくり(第三科)


私にとっては、ほとんど初めて聞く内容だった。

2)の「風船爆弾」の風船作りについては、女学生などが勤労動員されていたことはよく聞くが、風船爆弾の機能や使われ方は、今回初めて知った。太平洋の偏西風を利用して生物兵器を搭載した風船をもってアメリカへの攻撃を計画していたが、毒ガスや生物兵器登載が国際的な使用禁止への流れの中で無理となり、爆弾を搭載して、1944年11月~1945年3月ごろまで約9300個の風船爆弾を放ったという。その内、着弾が確認できたのは361個だった。和紙とこんにゃく糊による風船は“牧歌的“にさえ思えてくるが、兵器の一部であったのである。詳しい記録や証言は少ないが、日本での放球時の爆発、アメリカでの不発弾の爆発で、それぞれ日米の犠牲者が出ている。


4)の「細菌兵器」について、思い起こすのは731(石井)部隊の医師たちの細菌などによる人体実験である。731部隊は、関東軍防疫給水部本部の研究機関の通称で、登戸研究所の研究との違いは、講師によれば、731は、野戦場における対人の兵器としての細菌研究で、登戸では、あくまでも敵国かく乱のための兵器としての生物兵器研究であったという。前者については、近年になって記録や証言、研究が多く、全貌が明らかになりつつあるが、登戸研究所については、その全貌が見えてこないという。両者とも関係者の責任、戦争犯罪に問われることがなかったのは、占領軍による研究成果の記録・情報取得を交換条件に関係者免罪が取引された結果であるとされている。


 もっとも驚いたのが、登戸研究所が「贋札づくり」の任務を担っていたことだった。国(軍隊)がニセ札を製造していたわけだから、登戸研究所の中でも「秘密の中の秘密」で、敗戦時にはほとんどの資料を焼却しているので、その実態が分からなかった。その後のわずかな証言から少しづつ明らかになってきたということだ。
  ニセ札製造とその流通の目的は何だったのか。1935年中華民国政府の蒋介石政権は米英の支援で統一通貨「法幣」を制定、浸透していたが、日本軍は物資不足・外貨不足のため長期戦を余儀なくされていた。そこで、日本軍は、ニセ札を大量に流通させてインフレを起こさせ、中国経済を混乱させること、ニセ札を使って現地の物資調達を容易にすることの二つを目的にニセ札製造に踏み切った。1939年から1945年までの間に、40億円相当(当時の日本の国家予算が200億)を発行したが、現実にはインフレは起こらなかった。このニセ札は、日本軍が発行していた「軍票」の信用がない中で、物資調達に重要な役割を果たした。製造には、巴川製紙や凸版印刷などの民間も協力させ、運搬は中野学校出身者らが担当したという。

  こうしてみると、戦争が、戦場での殺人行為を容認や競争をエスカレートさせるだけでなく、大量殺人やニセ札製造などという凶悪な犯罪行為を国家が推進していたことになる。「これが戦争というものなのだ」と納得する人間の愚かさを痛感させられる。これは、現代にも通じることで、情報収集やスパイ行為など一見頭脳的な行為にも思えることすら、CIAの情報収集や日本の公安警察に見るように、違法な国家犯罪を助長することにならないか。 


 登戸研究所資料館見学

 山田朗研究室の院生の方の案内で、資料館に向かう。キャンパスの北東の端で、登戸研究所第二科の実験棟の一つだった36号棟を改装して資料館にしたという。11万坪の敷地に40棟以上の建物が存在していたことになろう。明治大学は、敗戦後慶応大学などが借用中だったところ、1950年に、約5万坪を建物ごと購入している。1951年に明治大学農学部がこの地に移転し、80年代まではいろいろな建築物が残っていたらしい。資料館は、外観はきれいに塗装され、2010年4月から一般公開された。入口は小さく、廊下をはさんで両側に部屋が並ぶだけの構造である。36号棟は、第二科の「農作物を枯らす細菌兵器開発」実験を行っていた建物だった。どのへやにも大きな流し台が付いているのは、そのまま残されている。

  館内には5つの展示室が設けられ、第1室は沿革と組織、敷地、組織、予算などが戦局拡大と共に増大していく様子をパネルの図表で明らかにしていく。第2室は、研究所第一科が中心で開発した風船爆弾(ふ号兵器)関連の展示である。第二科は当初の電波兵器から風船爆弾開発に乗り換えたかのようで、1943年11月の風船爆弾試射実験で目途がつき、1944年11月からアメリカ本土攻撃が始まるのである。第3室は、第二科の生物兵器、毒物兵器、スパイ機材などの開発の分担組織や実態を少ない資料から浮き彫りしようというものだった。第4室では、ニセ札の製造・製版・印刷・古札仕上げ・梱包・運搬・流通の過程とニセ札以外に旅券やニセのインドルピーや米ドルなどの製造にまで及んだという。

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2014年12月23日撮影、「偽札はどうつくられたのか」。拡大してみてください。

  第5室の敗戦と登戸研究所についての展示に、私は多くの示唆を得た。闇に葬られようとした登戸研究所を歴史研究の対象の俎上に載せたのは、研究者でもなくジャーナリストでもなく、地元川崎市の市民地域学習活動の一環だったし、法政二高と長野県赤穂高校の生徒たちによる地域の歴史調査活動から始まったのだった。それまで口を閉ざしていた関係者や地元市民らが語り始め、資料を持ち寄り始めたのである。中でも元幹部所員の伴繁雄氏は、高校生との交流の中で、初めて、その体験を語り始めたそうだ。そうした活動の成果としてつぎのような本が刊行されるに及んだのである。

・川崎市中原平和教育学級編『私の街から見えた 謀略秘密基地登戸研究所の謎を追う』(教育史料出版会 1989年)
・赤穂高校平和ゼミナール・法政二高平和研究会「高校生が追う陸軍登戸研究所」(教育史料出版会1991年)
・伴繁雄『陸軍登戸研究所の真実』(芙蓉書房 2001年)

 向かって左の五号棟はニセ札の印刷工場として使用。2011年2月に解体され、 右の二十六号棟は、ニセ札の保管倉庫として使用、2009年7月に解体されてしまった。  
 

 キャンパス正門の守衛室うらの動物慰霊碑。1943年3月建立、その存在は登戸研究所で働く人にも 知られていなかった。現在も、農学部での動物慰霊碑にもなっていて、毎年ここで慰霊祭が行われている。近くに、民家も迫っている

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2024年12月23日撮影、動物慰霊碑

 資料館の見学の後は、上記のように登戸研究所の痕跡をたどった。遺された史跡、遺すよう努力された明治大学の研究者はじめ多くの方々には敬意を表したい。ここで、どうしても思い起こすのは、ドイツが国として取り組んでいる戦跡・記録保存の努力である。少し前のドイツ紀行の記事でも触れたように、たとえば、ベルリン郊外のザクセンハウゼン強制収容所は、一部を博物館にして、広大な敷地に残る建築物こそ少ないが、更地にした上で収容棟の配置を明確に残している。ベルリン市内の陸軍最高司令部跡にはドイツ抵抗運動博物館を置き、ライプチヒの国家保安省跡にルンデ・エッケ記念博物館を設置している。ホローコースト追悼記念碑やロマ・シンティ追悼記念碑をベルリンの国会議事堂・ブランデンブルグ門直近の一等地に設置している。日本との違いをどう見るべきか。

 

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2024年8月23日 (金)

対馬丸沈没から80年、私たちは何をしなければならなかったのか

1944年8月22日、那覇から九州に疎開する学童たちを乗せた「対馬丸」は、奄美大島沖を過ぎた悪石島付近で、アメリカの潜水艦により撃沈された。判明した乗船者数は1788人、氏名が判明している方々1484人、その内、学童が783人とされている。

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東京新聞【20024年8月23日】より

 

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対馬丸記念館、展示より。今年は記念館開館20年節目の年。

その内、漁船などに助けられた人、奄美大島に漂着したなどして救助された人たちは、280人に過ぎない。

私は、1944年末ころか、東京の池袋から千葉県佐原にあった母の生家に母と疎開した身である。年月も両親から聞いておかなかったのではっきりしないが、両国駅での列車の混雑ぶりだけが記憶に残っている。疎開船の学童たちとの体験とは、大きく異なるけれど、他人事には思えなかった。

2016年、遅ればせながら、6月23日の慰霊の日の式典に参列した折、対馬丸記念館を訪ねることができた。壁いっぱいの亡くなった方々の遺影、多くの幼いあどけない遺影に、胸が痛む思いだった。生き残った方々の悲痛な声や映像や文字に苛まれるのだった。

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遺影と遺品の展示室にて。

今年も「小桜の塔」の前での追悼式が開かれたとの報道である。それに合わせたものなのか、内閣府は来年度、沈んだままの対馬丸の船体の再調査を来年度予算に計上したという。船体は、すでに1997年水深約870メートル海底で発見されていて、当時、生存者や遺族が引き上げを要請したが政府は、船体の強度などを理由になされなかった。が、今回、内閣府は、平和学習や戦争の記憶の継承にも役立つとして、遺品の収集などを目指すというが、何を今さら、80年も経ってぬけぬけと・・・。

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対馬丸記念館に隣接した旭丘公園内にある小桜の塔、向かって右側が対馬丸の犠牲者、左側にその他に船の犠牲者名が刻まれていた。今年の8月22日いは約400名の方々が参列したという。塔建立70年になる。

 

以下の過去記事もご覧ください。

2016年7月16日
ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(2)「対馬丸記念館」~なぜ助けられなかったのか: 内野光子のブログ (cocolog-nifty.com)

 

 

 

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2024年7月29日 (月)

きのうのNHK「日曜美術館」は「香月泰男」だった

 日曜の朝、「日曜日美術館」をリアルタイムで見るのは久しぶり。「鎮魂 香月泰男の「シベリア・シリーズ」だった。2021年10月、葉山の神奈川県立近代美術館で見たはずの「シベリア・シリーズ」57点。番組では、その内の数点を香月自身の作品に付した言葉の朗読や「シベリア・シリーズ」を所蔵する山口県立美術館の学芸員などの解説を聴きながら、ゆったりと鑑賞することができた。葉山の展示は「生誕110年」だったが、今年は、没後50年記念の展覧会が山口県立美術館で開催している。もうかなうこともないだろう、香月の生家近くの「香月泰男美術館」にも出かけてみたいなとしきりに思う。

 香月泰男(1911~1974)は、1943年召集されるが、シベリアの抑留生活から1947年に復員、生涯描き続けたのが、シベリアでの過酷な体験であった。番組でも紹介された、私にとっての圧巻は、「朕」と「北へ西へ」だった。

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「朕」(1970年)は、1945211日紀元節の営庭は零下30度あまり、雪が結晶のまま落ちてくる中、兵隊たちは、凍傷をおそれて、足踏みをしながら天皇のことばが終わるのを待ち、朕のために、国家のために多くの人間の命が奪われてきたことを描いたという。絵の中の白い点点はよく見ると雪の結晶である。また、中央の緑がかった二つ四角形は、広げた詔書を意味しているのが、何枚かの下書きからわかったという。

 

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 「北へ西へ」(1959年)、敗戦後、ソ連兵によって行き先を知らされないまま、「北へ西へ」と列車で運ばれ、日本からは離れてゆくことだけはわかり、帰国の望みは絶たれたという。

 

<当ブログの関連過去記事>

葉山から城ケ島へ~北原白秋と香月泰男(2021年11月5日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/11/post-e73a2a.html

 

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