2022年8月12日 (金)

忘れてはいけない、覚えているうちに(4)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<2>

   そして、冒頭の件にもどって、苳三は、なぜ、公職追放に至ったのか。

 その経緯は、『ポトナム』の一般会員には、なかなか伝わってこなかった。未見ながら、平成の初め、1989年、『立命館文学』(511号1989年6月)に、苳三の立命館での教え子である白川静が、その「真相」を明かしているとのことであった。以降1990年代になると、苳三について書かれた文献は、その経緯に言及するようになった。後掲の和田周三、大西公哉によるものだった。2000年代になると、白川静により詳細な経緯が知らされるようになった。

参考文献⑨⑩によると、
苳三は、「中川(*小十郎、立命館創立者)総長の意を承けて北京師範大学の日本語教授として赴任され、相互の親善に努力されたことがあり、東亜の問題にも深い関心を持たれていた。それで支那事変が勃発すると、その前線の視察を希望され、軍の特別の配慮(*陸軍省嘱託)で、河北、河南から南京に及ぶまで、すべての前線を巡られた」 *は筆者注
 とあり、『山西前線』から、つぎの二首をあげて、

 〇〇の敵沈みたる沼の水青くよどみて枯草うかぶ
 〇〇の死骸埋まれる泥沼の枯草を吹く風ひびきつつ
  *1939年3月6日作。○は伏字。(下関馬太路附近)「揚子江遡行(中支篇)」

 「この歌集において、あくまでも歌人としての立場を貫かれた。この一巻を掩うものは、あくまでも悲涼にして寂寥なる戦争の実相にせまり、これを哀しむ歌人の立場である。」として、「このような歌集が、どうして戦争を謳歌するものと解釈され、不適格の理由とされ、不適格の理由とされたのだろうか。その理由は、先生の歌や歌人としての行動にあるのではない。それはおそらく、学内の事情が根底にあったのであろうと思われる。」

 参考文献⑩の白川静「苳三先生遺事」では、さらに詳しく、つぎのような状況が記されている。

 「大学に禁衛隊を組織して京都御所の禁衛に任じ、そのことを教学の方針としていたので、もっとも右傾的な大学とみなされ、その存続が懸念されていた。それで、相当数の非適格者を出すことが、いわば免責の条件であるように考えられていた。」(253頁) 

 学内では、民主化が急がれ、進歩派とされる人たちと保身をはかるかつての陣営とが入り乱れるなか、学内の教職員適格審査委員会についてつぎのように述べる。

「故中川総長の信望がもっとも篤かった小泉先生が、その標的とされた。審査委員会は、先生の『山西前線』の巻末の一首<東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦(いくさ)なからしめ>をあげて、『本書最終歌集は、所謂支那事変は、東亜に再び戦なからしむる聖戦であるとの意味をもつ一首である』

 としたが、この一首が、戦争の悲惨を哀しみ、ひたすらに戦争を否定する願望を歌ったものであることは、余りにも明白であり、この程度の理解力で先生の歌業の適否を判断し得るものではない」(254頁)と訴える。その後、白川ら教え子たち17名により再審要求書が中央審査会に提出されたが、覆されることはなかった。


 では、『山西前線』とはどんな歌集だったのだろうか。
 1938年12月12日に陸軍省嘱託に任ぜられ、22日に日本の○を出港し、28日北支の○港から上陸している。北支篇・山西前線篇一・山西前線篇二・中支篇からなり、天津・北京から前線に入り、兵士たちの戦闘の過酷さ哀歓をともにした記録的要素の高い歌を詠む。当時の立命館総長中川小十郎と支那派遣軍総参謀長板垣征四郎の序文が付されている。そして、この歌集の序歌と巻頭の一首をあげてみる。

戈(ほこ)とりて兵つぎつぎに出(い)で征(ゆ)けりおほけなきかなやペン取りて吾は(序歌) 
心ふかく願ひゐたりし従軍を許されて我の出征(いでゆ)かんとす(従軍行)

 従軍中の1月中旬からは半月以上の野戦病院での闘病生活を経験するが、南京、上海を経て、1939年4月1日に帰国する。巻末には「聖戦」と題する五首があり、最後の一首が「東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦(いくさ)なからしめ」であったのである。
 そこで、ほんとうに、先の一首だけが教職不適格の理由であったのだろうか。不適格判定がなされた年月日、判定の法的根拠は、『ポトナム』の記念号の年表や小泉苳三を論じた文献・年譜には記載がなく、あるのは、1947年6月に「昭和22年政令62号第3条第1項」(*1947年5月21日)によって職を免ぜられた、という記述である。その後の⑦の『立命館百年史』及び⑨⑩の白川静の文献により、判定月日が1946年10月26日であることがわかった。46年10月26日に判定され、翌47年6月に「教職不適格者」として「指定を受けた者が教職に在るときは、これを教職から去らしめるものとする」というのが上記政令の第3条第1項であった。
 上記の判定内容についてとなると、前述の白川文献と『立命館百年史』にあるつぎのような記述で知ることしかできなかった。しかも、『百年史』の方は『京都新聞』(1946年10月29日)の引用であった。

「小泉藤造(苳三)教授(国文学) 従軍歌集を出版し侵略主義宣伝に寄与」

  そして、⑪の来嶋による資料の提供で、全貌が明らかになってきた。苳三から窪田空穂にあてた「再審査請求」するに際して「御見解を御示し下され度御願ひ申上候」という手紙とともに学内の教職員適格審査委員会委員長名による「判定書」と苳三自身による再審査請求のための「解釈草稿」を読むことができたのである。「判定書」の理由部分は、画像では読みにくいので核心部分を引用する。『山西前線』の刊行経緯を述べた後、つぎのように述べる。

 「本書(*『山西前線』)によれば氏の従軍は他からの強制といふが如き事に由るのではなく、自らの希望に出たものである事は明らかであり且本書最終歌(東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦なからしむ)は、所謂支那事変は東亜に再び戦なからしむる聖戦であるとの意味をもつ一首となつてゐる」

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来嶋靖生「ある手紙からー小泉苳三〈教職追放の闇〉」『ポトナム』90周年記念 2012年4月

 これに続き、「更に氏の主宰するポトナム誌には」として、誌上に発表された、「撃ちてしやまむ」「八紘一宇の理念ぞ輝け」などと歌う六首を無記名であげ、「もとより以上は和歌によるとはいへ、その和歌を通して、また上記の行動によつて侵略主義の宣伝に積極的に協力したもの、もしくはこの種の傾向に迎合したもので」明らかに法令に該当する者と認められるので「教職不適格と判定する」としていた。「判定書」の後半には、苳三が主宰する『ポトナム』に発表された六首が具体的に引用されていたことを知った。この部分への言及がなかったのは、六首の作者へ同人たちへの配慮であったのだろうか。
 一方、苳三は、判定理由について、当時発表していた著述論文などには一切触れず、「私が歌人として中国に旅行し、その歌集山西前線を刊行したこと、及び戦争中の多数の作品の中から僅か六首の歌をとりあげて、私への不適格の理由としてゐる。私が中国に旅行したのは、戦争といふ現実を、国民として身を以て体験し、真実を歌はうとする文学的な要求からであった。戦場を通るには、軍の取り計らひがなくては不可能であつたことは、常識的にも分る筈である。旅行の目的は、私の実際の作品によつて実証されてゐる。(後略)」と「判定」へ反論をしている。
 来嶋は、苳三の依頼に空穂がどう対応したかは不明としていたが、白川文献によれば、前述の17名による再審査請求書とは別に、窪田空穂・頴田島一二郎の両名が個人として「意見書」を中央審査会に提出していたことが明らかになっている。
 なお、上記大学の教職員適格審査委員会による苳三に対する「判定」根拠法令は、「教職員の除去・就職禁止及び復職の件(昭和21年勅令263号)」(*1946年5月7日)と同時に、この勅令を受けた「教職員の除去・就職禁止及び復職の件の施行に関する件(閣令・文部省令1号)」の範囲を定めた「別表第一」の「一の1」によるのではないかと思う。来嶋文献では、「別表第1の11号」と読めるが、別表第一には11号がない。「別表第一」の「一の1号」は、以下の通りであった。

「一 講義・講演・著述・論文等言論その他の行動によつて、左の各号に当たる者。」
 侵略主義あるひは好戦的国家主義を鼓吹し、又はその宣伝に積極的に協力した者及び学説を以て大亜細亜政策、東亜新秩序

 1.その他これに類似した政策や、満州事変、支那事変又は今次の戦争に理念的基礎を与えた者。」

 ここで、GHQによる公職追放の流れと立命館大学の対応と小泉苳三の動向以下のような年表にまとめてみた。

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  苳三は、1951年報道などにより、追放解除が近いことを知ると、夏には、つぎのように歌う。その後に歌われた、わずかな追放関係短歌から選んでみた。いずれも『くさふぢ以後』からである。

歌作による被追放者は一人のみその一人ぞと吾はつぶやく
追放解除の訴願を説く友に吾は答へず成り行くままに
省みて四年過ぎしと思ひをりあわただしくてありし月日を
天皇制を倒せ学長を守れといふビラ貼りてあり門の入口に
(*以上1951年作)
図書館の暗きに歌書を調べをり久しく見ざりしこの棚の書を
(*1952年作)
正面の図書館楼上の大時計過ぎゆく時を正しく指し居り
(*1953年作)
病み臥してかなしきおもひ極ればそのまま眠に入れよとねがふ
(*1954年作)
追放解除の後の生活がやや落ちつくに病み弱くなれり
(*1955年作)

 最初の3首は、口惜しさとあきらめがないまぜになった心境だろうか。4首目は、1951年9月に追放の指定解除がなされた後の年末、かつての職場の立命館大学を訪れた折の作で、「R大学 十二月八日」の小題を持つ一連の冒頭歌である。敗戦直後から立命館大学学長に就任し、大学の民主化を目指した末川博を詠んだものである。末川は、1933年いわゆる「滝川事件」で京大を辞職し、大阪商科大学教授となっていたが、前述のように乞われて立命館大学学長となって、数々の大学民主化を図ったとして有名である。しかし、苳三にとっては「教書不適格者」と「判定」した最高責任者であった。前述の『立命館百年史 通史2』によれば、「巣鴨入りで石原を失った末川が強力なリーダーシップを発揮したことはほぼ間違いであろう。」とも。さらに続けて「適格審査に末川の意向がどれだけ影響を及ぼしたかを語る資料は残されていないが」としながら「末川の勇み足ともいわれたような事件も起こっている」として、1946年10月の教職不適格者判定と同時に、休職処分としてしまったことをあげている(113頁)。本来ならば、「判定」後、指定が決定するまでは、身分保留にしなければならい制度であったのである
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 小泉苳三は、2回ほど登場した、大岡信「折々のうた」。上段の歌は、上記の1首目、学内の教職員適格審査委員会は「烏合の衆」とまで評されている(2007年2月23日)。

 5首目は、すでに1940年苳三が自ら収集した近代短歌史の膨大な資料の大半を寄贈していた立命館大学図書館を訪ねた折の作である。埃をかぶっていたり、見当たらない図書もあったりしているのを嘆く一連の一首である。この資料群は、没後にも遺族から立命館大学図書館に追加寄贈され、「白楊荘文庫」と名付けられ、現在も、近代短歌資料の貴重な文庫として利用されている。この文庫については、参考文献⑬に詳しい。6首目は、指定解除後、関西学院大学教授となり、あたらしい職場となるキャンパスの図書館の時計塔を歌っているが、学究としての意欲をも伺わせる一首ではないだろうか。晩年の作となる最後の二首は、自らの病や出版社経営上の苦境などが重なって、さびしい死を遂げる前兆のような気がしてならない。
 戦中・戦後を変わり身早く、強引に生き抜いてきた歌人たちもいる。戦犯と称される政治家たちが再登場するのをやすやす受け入れてしまった国民の在り様、戦前回帰や保守一強を願う人たちがいることを目の当たりにする昨今ではある。ほんとうに責任をとるべきだった人たちがいたことを忘れてはならないだろう。 
 これまで、私自身、曖昧にやり過ごしてきたことが、『ポトナム』創刊100周年記念を機に、少しはっきりしてきたのでなかったか。

<参考文献>

①岡部文夫「ポトナム回顧」『ポトナム』1954年11月/中野嘉一『新短歌の歴史』昭森社 1967年5月(再版)
②新津亨「回想のプロ短歌」/内野光子「小泉苳三著作年表・編著書解題」、ともに『ポトナム』600号記念特集 1976年4月
③和田周三「小泉苳三の軌跡」/大西公哉「創刊より復刊まで」、ともに『ポトナム』800号記念特集 1992年12月
④和田周三「小泉苳三・人と学芸」/内野光子・相楽俊暁「小泉苳三資料年表」、ともに『ポトナム』小泉苳三生誕百年記念   1994年4月
⑤和田繁二郎(周三)「小泉苳三先生の人と学問」『立命館文学論究日本文学』61号 1995年3月
⑥大西公哉「山川を越えては越えて―ポトナム七十五年小史/ 和田周三「小泉苳三歌集『山西前線』」、ともに『ポトナム』創刊75周年記念特集 1997年4月、所収
⑦『立命館百年史 通史』1・2 同編纂委員会編刊 1999年3月、2006年3月
⑧拙著「ポトナム時代の坪野哲久」『月光』2002年2月(『天皇の短歌は何を語るのか』所収)
⑨白川静「小泉先生の不適格審査について」/片山貞美ほか「小泉苳三の歌」(小議会)」、 ともに『短歌現代』2002年11月、所収
⑩白川静「苳三先生遺事」/白川静「小泉先生の不適格審査について」(栞文、⑨の再録)/上田博「生命ありてこの草山の草をしき」、ともに「『小泉苳三全歌集』2004年4月
⑪来嶋靖生「ある手紙から 小泉苳三<教職追放>の謎」『ポトナム』90周年記念特集 2012年4月
⑫安森敏隆「小泉苳三論―『山西前線』を読む」『同志社女子大学日本語日本文学』2012年6月
⑬中西健治「白楊荘文庫のいま」『ポトナム』創刊100周年記念特集 2022年4月

ほか『ポトナム』記念号・追悼号など。

           <再掲>

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ポトナム短歌会と立命館大学図書館・白川静東洋文字文化研究所との共催で『ポトナム』創刊百周年記念の展覧会が開催されている。立命館大学図書館の特殊コレクション「白楊荘文庫(旧小泉苳三所蔵資料)を中心とした展示となっている。衣笠キャンパスでの開催は終わったが、現在は大阪いばらきキャンパスで開催中、10月7日からは、びわこ・くさつキャンパスでで開催される。私も、コロナ感染が収まったら、ぜひ出かけたいと思っている。お近くの方は、ぜひ立ち寄ってみてください。

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2022年8月10日 (水)

忘れてはいけない、覚えているうちに(3) 小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<1>

 今年の4月、私が会員となっているポトナム短歌会の『ポトナム』が創刊百周年を迎え、その記念号が出た。そのついでに、さまざまな思い出をつづったのが、当ブログのつぎの2件であった。

1922~2022年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(1)(2)
(2022年4月6日、9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-559b22.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-a2076e.html

 また、今月は、『ポトナム』百周年について書く機会があった。あらためて、手元にある、これまでの何冊かの記念号や『昭和萬葉集』選歌の折、使用した戦前の『ポトナム』のコピーを持ち出し、頁を繰っていると、立ち止まることばかりである。今回の依頼稿でも詳しくは触れることができなかったのは、1922年『ポトナム』を創刊した小泉苳三(1894~1956)の敗戦後の公職追放についてであった。これまで、気にはなっていたので、若干の資料も集めていた。その一部でも記録にとどめておきたいと思ったのである。実は、2年前にも、故小川太郎さんからの電話の思い出にかかわり、この件に触れてはいる。

小泉苳三、そして小川太郎のこと(2020年12月13日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/12/post-691047.html

 私は、1960年ポトナム短歌会に入会しているので、苳三の生前を知らないが、『ポトナム』600号記念(1976年4月)に、図書館勤めをしていたこともあってか、編集部からの依頼で「小泉苳三著作年表」と「著作解題」を発表している。もちろん公職追放の件は知ってはいた。ただ、『(従軍歌集)山西戦線』(1940年5月)の一冊をもって、なぜ、立命館大学教授の職を追われなければならなかったのか。戦意高揚の短歌を発表し、歌集も出版していた歌人はたくさんいたのに、なぜ苳三だけがという漠然とした疑問はもっていたが、その歌集も真面目には読んでいなかった。

 苳三の職歴や教職歴をみると、平たんではなかったようだ。東洋大学の夜間部を出て中学校教員の資格を得た後も、養魚、金魚養殖をやったり、朝鮮に渡ったりしている。福井県、埼玉県での中学校教諭を経て、1922年28歳で、京城の高等女学校教諭に赴任、現地で、百瀬千尋、頴田島一二郎、君島夜詩らと「ポトナム短歌会」を立ち上げ、4月に『ポトナム』を創刊している。東京に戻った後も、東京、新潟、長野県での国語科教諭の傍ら、作歌と大伴家持研究など国文学研究、『ポトナム』の運営を続け、1932年、38歳で、立命館大学専門学部の教授に就任する。1931年9月「満州事変」に端を発した日中戦争が拡大する。恐慌は深刻化し、農村不況の中、労働争議が頻発し、弾圧もきびしくなるが、プロレタリア短歌運動は活発であった。『ポトナム』の作品にも、口語・自由律短歌も多くなると、苳三は、プロレタリア短歌もシュールリアリズム短歌も、もはや「短歌の範疇を越える」ものとして排除し(『ポトナム』1931年5月)、坪野哲久と岡部文夫が去っている。1933年1月号において、「現実的新抒情主義」を提唱し、「ポトナム短歌会」という結社の指針を示した。現在でも、結社として、その理念を引き継いできているが、その内容はわかりにくい。要は、短歌は目の前の現実を歌うのではなく、「現実感」を詠んで、「抒情」を深めよということではないかと、私なりに理解している。
 戦争が激化し、短歌も歌人も「挙国一致」「聖戦」へと雪崩れてゆくのだが、苳三は、創刊した『ポトナム』、自ら創刊・編集した『立命館文学』や種々の雑誌、NHK大阪放送局などで近代・現代短歌研究の成果などを矢継ぎ早に発表している。1940~42年には、『明治大正短歌資料大成』全三巻を完成させ、近代短歌史研究の基本的資料となり、1955年6月に刊行された『近代短歌史(明治篇)』は、その後の短歌史研究には欠かせない文献となった。短歌史研究上の評価については、『ポトナム』同人の研究者、国崎望久太郎、和田周三、白川静、上田博、安森敏隆らにより、社外からは、木俣修、篠弘、佐佐木幸綱らによっても高く評価されている。
 生前の歌集には、①『夕潮』(1922年8月)②『くさふぢ』(1933年4月)③『(従軍歌集)山西戦線』((1940年4月)があり、没後には④『くさふぢ以後』(1960年11月)⑤『小泉苳三歌集』(1975年11月)⑥『小泉苳三全歌集』(2004年4月)が編まれた。④は、墓所のある法然院に歌碑建立した際の記念歌集で、①は全作品収録されたが、②③④については抄録であり、⑥は、①~④をすべて収録した上、略年譜、短歌初句索引、著書解題、資料として追悼号や記念号で発表された、和田周三、阿部静枝、小島清、君島夜詩、国崎望久太郎による苳三研究論文が収録されている。さらに、白川静と上田博による書下ろしの評伝も収録された。
 いまここで、私の気になる何首かを上げたいところだが、各歌集から一首だけにして、先を急ごう。

①『夕潮』「大正十年」
白楊(ポトナム)の直ぐ立つ枝はひそかなりひととき明き夕べの丘に(朝鮮へ)

②『くさふぢ』「桔梗集 自昭和五年至昭和七年」
わがちからかたむけて為(な)し来(きた)りつること再(ふたた)び継(つ)ぐ人あらむや(書庫)

③『山西前線』「山西前線篇二」
 最後まで壕に拠りしは河南学生義勇軍の一隊なりき(黄河々畔)

④『くさふぢ以後』「Ⅲ自昭和二十一年 至三十一年」
ある時は辛(から)きおもひに購ひし歌書の幾冊いづち散りけむ(一月八日)

(続く)

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ポトナム短歌会と立命館大学図書館・白川静と用文字文化研究所との共催で『ポトナム』創刊百周年記念の展覧会が開催されている。立命館大学図書館の特殊コレクション「白楊荘文庫(旧小泉苳三所蔵資料)を中心とした展示となっている。衣笠キャンパスでの開催は終わったが、現在は大阪いばらきキャンパスで開催中、10月7日からは、びわこ・くさつキャンパスでで開催される。私も、コロナ感染が収まったら、ぜひ出かけたいと思っている。お近くの方は、ぜひ立ち寄ってみてください。

 

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2022年7月 2日 (土)

目取真俊ロングインタビュー「死者は沈黙の彼方に」を聴いた

 初回放送は2021年8月29日だったそうだが、7月2日、NHK沖縄復帰50年シリーズの一環としての再放送だったらしい。マスク越しの目取真の話はやや聞き取りにくいこともあったが、彼の怒りは切々と伝わってきた。NHKの質問者に詰問する場面もあるにはあったが、だいぶ編集されているのではないかとも思われた。
 1960年生まれの彼は、身近な人々が語る戦争体験から想像もつかない凄惨さを知り、多くの人びとが戦争体験を語ることなく、この世を去っていくのを目の当たりにしたという。彼にとって小説とは、彼らの「代弁」というよりは、少しでも「近づく」ことであると力説していたように思う。
 番組での「水滴」などの朗読は、沖縄出身の津嘉山正種によるものだったが、あの思い入れたっぷりの、重々しい演技と声は、私には、むしろ聞き苦しかった。というより、もっと淡々と朗読した方が、聞き手には、届きやすかったのではないか。 
 いや、それ以上に、目取真のインタビューというならば、「こころの時代 宗教・人生」という番組ではなく、行動する小説家に至った過程をもっと丹念に追跡する番組にしてほしかった。辺野古での基地反対活動のさなかに逮捕(2016年)されたことや天皇制と真正面に取り組んだ数少ない小説「平和通りと名付けられた街を歩いて」(1986年)などに触れるべきではなかったのか。「こころ」の問題、宗教?に集約してしまうのが、NHKの限界?だったと済ましてしまってよいのか。
 番組では、去年の6月23日、慰霊の日に「国頭支隊本部壕・野戦病院跡」を訪ね、供え物をしていた場面で、傷ついた兵士たちには手りゅう弾が手渡され、放置されたことが語られていた。彼は、今年も、平和祈念公園の追悼式典には参加せず、本部町の八重岳にある「三中学徒之碑」と「国頭支隊本部壕・野戦病院跡」を訪ねたとブログ「海鳴りの島から」に記されていた。(以下参照)
沖縄戦慰霊の日/本部町八重岳の「三中学徒之碑」と「本部壕・病院壕跡」

https://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/aada4eefbafc810d153c75d719f8b102?fm=entry_awp 2022-06-23 23:43:23 

 また、私は一度だけ、数年前に、目取真俊の講演会に出かけたことがある。(以下参照)

目取真俊講演会に出かけました(2018年7月16日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/07/post-a28a-1.html

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2022年6月29日 (水)

自衛隊の「黎明の塔」参拝中止は何を語るのか

 沖縄には、まだ行かねばならない場所がたくさんあり、コロナ禍や当方の体調もあって、諦めるほかないないと、気持ちはあせる。今年の慰霊の日も、家で黙祷するほかなかった。

 翌日の『琉球新報』デジタルによれば、陸上自衛隊第15旅団の幹部らが、慰霊の日の明け方に「黎明の塔」に参拝するのが、2004年来の恒例行事だったが、今年は中止、「確認」できなかったというもの。従来から、自衛隊サイドは、あくまでも私的な参拝であって、組織的なものではないと言い続けてきたが、6月9日、『琉球新報』は、ある活動家の情報公開によって 「私的に(制服着用)黎明之塔を含む各施設に慰霊を実施」という報告文書が防衛省陸上自衛隊幕僚監部の陸幕長、陸幕副長、人事教育部長に共有されていたことが判明し、決裁欄には「報告」「部長報告後呈覧」などの記載があったことを報じていた。

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公開された文書、『琉球新報』(2022年6月9日)より。

 「黎明の塔」とは何か。沖縄県と南西諸島の守備に任じられた第32軍司令官の牛島満(大将)と参謀長の長勇(中将)の慰霊のための塔で、糸満市摩文仁の丘の平和祈念公園の85高地と呼ばれる崖の上に、1952年、元部下や関係者によって建てられている。

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 地図で見るように、「平和の礎」以外にもさまざまな慰霊碑が建てられている。この塔の参拝が、なぜ問題なのかといえば、一つは、1945年4月1日米軍の本島上陸以降、住民を巻き込んだ凄惨な地上戦は、天皇・軍部の意向を受けて、犠牲者は拡大した。さらに、第32軍司令部は、1945年5月下旬、首里城の地下壕から轟壕を経て、この地まで追い詰められた末、高台の壕から、6月19日、牛島は最後の軍命令「最後まで戦闘し、悠久の大義に生くべし」とゲリラ戦を指示した。6月22日には、大本営は組織的戦闘終結を発表、23日には、この壕内で牛島と長が自決したという経緯がある。本土の軍部、32軍司令部の状況判断に大きな誤りが、島民の四分の一が犠牲になったという悲劇をもたらしたという怨念がある。
 さらに、戦後の自衛隊がかつての軍隊の組織や体質の改革がなされていないという実態と不信感が島民、ひろく国民の間に根付いているからではないか。

 個人的には三回ほどのわずかな沖縄訪問、短い年月ながら『琉球新報』の購読を経て、理解できることもあったが、まだ知らないことが圧倒的に多い。

 今回は、一個人の情報公開によってはじめて確認された事実、なぜ、地元や全国紙・誌などのマス・メディアや研究者が見逃してきたのだろうか。
 国会論議にしても、『週刊文春』のスキャンダル報道によって、敵失に追い込んだつもりの情けなさ、政党への助成金、議員の調査研究費は、どんな使われ方をしてきたのか、国民は監視しなければならない。
 昨夜、この記事をアップしようとしたが、睡魔に勝てず、きょうになった。今朝の『東京新聞』の「こちら特報部・ニュースの追跡」で「陸自、未明の参拝確認されず/「沖縄慰霊の日」18年間続いていたが・・・」の記事が目についた。

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6月24日『琉球新報』より。6月23日未明、これだけの報道陣が待機する中、中止に追い込まれたのは、9月に控えた知事選に配慮してか、の報道もある。

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「黎明の塔」と向き合った、壕の脇には軍人・軍属をまつった「勇魂の碑」がある。2014年11月撮影。当時、修学旅行生は、平和の礎、資料館あたりまでで、険しい階段を上ってくる人はいなかった。眼下に見下ろす海と崖、崖の茂みの中にはまだ収集されない遺骨もあるという。

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2014年11月、黎明の塔を訪ねた折のレポートに以下があります。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141111146-f07.html

 

 

 

 

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2022年5月 3日 (火)

<国策メディア>を見究めるには―『国策紙芝居ー地域への視点・植民地の経験』を読んで

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下段は裏表紙

 最近、神奈川大学の非文字資料研究センターからブックレット『国策紙芝居―地域への視点・植民地の経験』(大串潤児編 神奈川大学評論ブックレットシリーズ41、御茶の水書房 2022年3月)をお送りいただいた。数年前に、神奈川大学での「国策紙芝居」の研究会に参加し、その後のシンポジウムには参加はできなかったが、非文字資料研究センター編著の『国策紙芝居からみる日本の戦争』(勉成出版 2018年2月)をいただき、当ブログにも何回か紹介しているので、ご覧いただければ幸いである。今回の、上記『国策紙芝居―地域への視点・植民地の経験』は、ブックレットながら、地域や植民地の現場を訪ね、資料を発掘し、戦時下の体験者の証言も収め、大変興味深く、充実した内容に思えた。

「国策紙芝居」というのがあった~見渡せば「国策メディア」ばかり・・・にならないために(2013年12月6日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/12/post-1e1c.html

『国策紙芝居からみる日本の戦争』のページを繰って(1)(2)(2018年3月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/03/post-16d3.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/03/post-1aed.html

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 私の紙芝居体験は、敗戦直後の街頭紙芝居であった。もう記憶もあいまいになっているのだが、銭湯の横の路地に、毎日自転車でやって来るおじさんは、太鼓をたたいて、辺りの子どもたちに知らせてまわる。空き地で遊んでいた子も、家から出てくる子も駆けつけて、いつも10人以上は集まっていたように思う。たしか10円で紙芝居の台の下の箱のイモ飴を割りばしのような棒に絡めて売ってから、紙芝居が始まるのだった。冒険もの、母もの、時代ものが定番ではなかったか、みな続きものだから、毎回通う羽目になる。おじさんのセリフと演技、太鼓に、思わず息をのみ、また涙することもあった。当時は、小遣いなどはもちろん持たせてもらわないから、私は、その都度、店に立つ、父や兄から5円?10円硬貨?をもらって駆け付けたように思う。たしかにアメを買わない子も一緒だったから、おじさんも黙認?していたようだった。

 上記の書によれば、この時代の街頭紙芝居は、第二次の戦後復興期の紙芝居ブームのさなかだったらしい。そして、第一次のブームというのが、一九三五年前後から始まる、戦意高揚、戦争協力を主旨とする「国策紙芝居」の時代だった。「国策紙芝居」は対極として、便乗絶叫型と家族愛型があり、前者の典型として近藤日出造の「敵だ!倒すぞ米英を」(大政翼賛会宣伝部 1942年12月)であり、後者の典型が国分一太郎脚本の「チョコレートと兵隊」(日本教育画劇 1941年7月)であったという(13頁)。近藤も新聞紙上の漫画で、国分も作文教育で、戦後に目覚ましい活躍をしていた人物として、私も記憶している。 
 本書は、サブタイトルにもあるように、国内では、北海道札幌市京極町、水上町、須坂市、但馬市出石町、豊岡市、亀岡市、大津市、福岡県朝倉市などでの現地調査により、資料館や収集家を訪ね、紙芝居の発掘や体験者からの聞き取りを行い、台湾での調査も実施した成果、韓国の研究者とも連携して、植民地での紙芝居研究が収められている。

 私は、かつて「台湾萬葉集」や「日本占領下の台湾における天皇制とメデイア」についての論稿を執筆したことがあるが、「紙芝居」まで、その視野になかったので、多くを教えられた次第である。

 いまの日本では、多くは、幼稚園、保育園などで、紙芝居を演じられることが多い。大人たちは、紙芝居ならぬテレビやスマホをはじめ、インターネットを筆頭にさまざまなメデイアを通じて、大量の情報を得る便利さの中で暮らしている。しかし、その反面、情報操作も多様化、国際化が進行し、知らない間に、操作された、限られた情報を与えられ続けている状況にあるともいえる。ふたたび「国策メディア」に組み込まれないように、「不断の努力」が必要だと思い知らされるのだった。

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憲法記念日に開いた垣根のテッセン、レッドロビンの茂みの中で

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2022年3月10日 (木)

あの遠い赤い空~東京大空襲とウクライナと

 池袋の生家が空襲で焼け出されたのは、1945年3月10日の「東京大空襲」ではなく、4月13日から14日未明にかけての「城北大空襲」であった。私は、母の実家があった千葉県の佐原に母と次兄の三人で疎開をしていた。池袋では、父が薬屋を続けていたし、長兄は、薬専を1945年9月の繰り上げ卒業と召集を前に「軍事教練」のために通学していたはずである。 
 私には、母に抱かれながら「東京の空が赤い」と指さされた夜のかすかな記憶がある。それが、3月10日であったのか、4月の城北大空襲の遠い炎であったのか、尋ねた記憶もない。

 そして、4月の大空襲の数日後だったのだろう、父と長兄を、佐原駅頭で迎えたときの記憶がかすかによぎる。後で聞かされた話と重ねてのことなのだが、私は父に、東京からの土産をねだったそうだ。それまで、父がたまに疎開先を訪ねてきたときの森永キャラメルだったり、ビスケットだったり、なにがしかの土産を楽しみにしていたらしい。父は、隅に焼け焦げの残った、小さな肩掛けかばんを指して、逃げるのが精一杯で、何もないんだよ、諭したそうだ。
 家は燃え、防空壕の周りも火の海で、父と長兄は、手拭いで手をつなぎ、焼夷弾が燃え盛る中を、川越街道をひたすら走り、板橋の知り合いの農家に駆け込んだという。

 かすかながら、私にはもう一つの記憶がある。まだ、疎開前だったから、1944年のことだと思う。やはり空襲警報が鳴り、家族で防空壕に逃げようとしたとき、ちょうど風邪でもひいていていたのだろうか、母は、家の中の床下の暗い物入の中で、布団にくるまっていた。私たちに早く防空壕へ「逃げて」という声と顔がよみがえるのである。そして、これは母から何度か聞いた話なのだが、やはり、真夜中に空襲警報が鳴り、寝ている私をたたき起こすものの、くずっている私に、母は、防空壕に逃げないと死んじゃうよ、と必死だったらしい。そのとき、「シンデモイイ」と泣き叫んだそうだ。

 いずれもどこかで、すでに書いたりしているかもしれないが、やはり今日という日に、書きとどめておきたい。いま、ロシアのウクライナ侵攻の爆撃や避難する市民たちの映像と重なる。
いま、いったい私に何ができるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

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2022年3月 8日 (火)

責任のとり方~ドイツと日本と

                                                                                                                                                                                                                                                                         

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 やや旧聞に属するが、1月27日、ドイツ連邦議会主催の「ナチ犠牲者のための追悼式典」が行われたという。なぜ1月27日かというと、ポーランドのクラクフ郊外にある、ナチが作った最大の絶滅収容所、アウシュヴィッツ強制収容所が、1945年1月27日に旧ソ連軍に解放された日だったからである。ナチによるユダヤ人大量虐殺がなされた象徴的な場所にもなっているからだという。
 追悼式典のことは、「ベルリン通信」の池田記代美さんの「連邦議会で行われたナチ犠牲者のための追悼式典」というレポートによって知った。
(『みどりの1kWh』https://midori1kwh.de/2022/02/13/13180 2022年2月13日)
 
1996年、「想起に終わりがあってはならない」と当時のロマン•ヘルツォーク大統領(在任期間1994-1999) が、犠牲者を追悼する記念日の制定を提案してから始まったというから、そんなに古いことではない。以来、ドイツでは官庁が半旗を掲げ、各地のナチの加害の歴史を継承する記念館、記念碑を中心にさまざまな行事が行われる。

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 2021年1月27日、アウシュヴィッツ強制収容所跡地で開催された追悼式典は、コロナ禍のためオンラインで開催された。

 一方、国連は、ホロコーストには、国や民族、宗教をこえて全人類に普遍的な教訓があると宣言し、教育の場でとりあげていこうと加盟国によびかけ(第60回国連総会決議 2005 年11月1日)、アウシュヴィッツが解放された1月27日を「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」に定めている。そして各国、各地で、追悼行事が行われるようになった。
 UNIC国際連合広報センター
https://www.unic.or.jp/news_press/info/11945/

 日本ではというと、この日に何かなされているのか、その報道というのにもあまり接したことがなかった。この日の追悼行事というのではなく、以下のような関連施設で、ナチによる差別や大量虐殺の暴挙を後世に伝えるべく、さまざまな展示や行事がなされていることがわかった。

ホロコースト記念館(広島県福山市聖イエス会御倖教会内、1995年6月~)
=HOME= of HEC (hecjpn.org)

アンネ・フランク資料館(兵庫県西宮市アンネのバラの教会内、1980年~)
http://www.annesrose.com/

NPO法人ホロコースト教育資料センター(東京都品川区、1998年~、2003資料館閉館移設)
https://www.npokokoro.com/https://www.npokokoro.com/

杉原千畝記念館・人道の丘(岐阜県八百津町、2001年3月~)
http://www.sugihara-museum.jp/

人道の港敦賀ムゼウム(福井県敦賀市、2008年3月~、2020年移設リニューアル)
https://tsuruga-museum.jp/

 しかし、私は、ドイツでは、連邦議会において追悼式典が続いていることに驚いた。冒頭の池永さんのレポートによれば、今年の式典では二人の来賓がスピーチをしている。
 一人は、幼少時からナチによるさまざまな迫害を体験し、チェコのテレージエンシュタット強制収容所から生還し、アメリカに渡った女性アウアーバッハーさん(87歳)で、ナチに殺害された150万人の子どもたちのことを忘れないで欲しいと訴えている。もう一人は、イスラエル議会の議長ミッキー・レヴィさんで、ナチ時代の帝国議会が1934年3月「全権委任法」を採択し、自ら立法権を内閣に手渡し、ナチの独裁政治を可能にした歴史を振り返って、600万人というホロコーストの犠牲者を数字で理解するのではなく600万の命と物語があったことを思い起して欲しいと訴えた。このように、生き延びた体験者の話を聞くことを議会自らがしているところに、ドイツと日本の大きな違いをまざまざと見せられる思いであった。

 日本の国内外における戦争犯罪に対する責任追及は、自らの手でなされることがなかったことが、アメリカ従属の、今に至る日本の戦後史を決定的なものにしてしまったのではないか。昭和天皇の責任論や退位論が活発になされていた敗戦後を思い起すべきではないか。事件や不正が発生して、閣僚や官僚がようやくその職を辞任しても、罪に問われることはなく、どこかで生き延びている。会社の幹部がそろって頭を下げて、一件落着といったケースがあまりにも多すぎる無責任体制が怖い。

 今のプーチンとその指令に従う人々の責任はどうなるのだろう。考えることをやめてしまう恐ろしさ、いわゆる「凡庸なる悪」という「言葉」に逃げ込んではならないと思う。

*************

 私たちがワルシャワとクラクフを訪ねたのは、2010年5月であった。その年、ワルシャワは、ショパン生誕200年ということで盛り上がっていた一方、「カチンの森」事件から70年ということで、さまざまな行事が企画され、街角にもあちこちに追悼の写真とメッセージが展示がなされていて、いささか驚いたことを思い出す。

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ワルシャワ空港の歓迎パネル

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上記は、一日中雨のアウシュヴィッツ強制収容所跡、昼食をとることも忘れて。

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クラクフ城の入り口にも「カチンの森」のパネルが。

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ワルシャワからウイーンに移動し、近郊のホイリゲを訪ねると、こんなパネルも。

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2022年3月 3日 (木)

ロシアのウクライナ侵攻への抗議、何ができるのか

 毎日、ロシア国防省の侵攻映像や各国メディアによるその被害状況やウクライナ市民の声に接するたびに、心が痛み、いったい私は何をすればいいのだろう、と<重い腰>を上げられないでいる。実際、私はいま、整形外科のリハビリで通院している身でもある。

  かつて、映画館に行くたびに見たい映画の前の「ニュース映画」での朝鮮戦争、写真や映画で知るベトナム戦争の戦闘や悲惨な場面を思い出してしまう。いまは、茶の間にいても、痛ましい情報が目に飛び込んでくる。

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キエフ市ネイのテレビ塔爆破される(ウクライナ内務省フェイスブックより、3月1日)

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キエフに次ぐ第二の都市、ハリコフ市庁舎前(AFPbbbewsより、3月1日)

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キエフ北部、壊された橋を渡る市民たち(AFPbbnewsより、3月1日)

  友人からは、change.orgによるウクライナ侵攻反対署名の呼びかけがもある。しかし、change.orgの署名画面を見ていて、いま誰が署名したか、署名総数が刻々と報じられる仕組み、そして、この署名は、いつ、どこで、だれに、どうやって届けられるのかが分からない。開設者にもその全貌が把握できないばかりか、一人が何度でも署名が可能であり、その個人情報の行方も不安である。その署名の数に焦って、署名し、そこでの達成感はあるかもしれないが、そこで終わってしまうのではないか・・・。  紙の署名もネット署名も、明確な主題と主催者、期限、あて名が肝心である。そして次の行動につなげてゆくことも重要な目的にならなければならない。いつか、どこかで、すでに署名したかもしれない署名を迫られることもしばしばであった。コロナ禍にあって、集会やデモもままならないなか、ズームでは、なかなか盛り上がらない昨今ではある。

  しかし、しかし、今回の各国の抗議デモの報道写真を見る限り、場所を埋め尽くす、その数の多さに驚くのである。そのメッセージの多様さにも。とくに、その場所が、かつて訪ねた街の、あの通あったり、広場だったりすると、私はといえば、単純ながらも そこに参加しているような気分になるのだった。プラハだったり、パリやニースだったり・・・。日本政府はもちろん、自戒込めて言うならば、私たち日本人の行動は、どれほど有効なのだろうか。自己満足と言われるかもしれないが、今の私は、一人ででも、家からでも、ロシア侵攻反対とウクライナ復興支援の意思表示を発信していきたい。

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ロンドン、ロシア大使館前(2月24日)

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ベルリン、ブランデンブルグ門前(2月24日)

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ウイーン(2月26日)
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渋谷駅前(2月26日)
フォト特集】「戦争反対」世界に広がる ウクライナ侵攻に抗議 ...
ワシントン、ホワイトハウス前(3月2日)、ワシントンには出かけたことはないのですが。

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モスクワ、プーシキン広場をブロックする装甲車(2月24日)、こんな光景は、日本でも、国会議事堂付近ではよく見かけます。

(上記いずれもAFPbbnewsより)

 それにしても、私は、ウクライナの歴史についてあまりにも知らなすぎた。教科書に登場するクリミア戦争とナイチンゲール、穀倉地帯のイメージ、映画史には必ず登場するオデッサの階段シーン、ソ連邦下のウクライナ。映画やニュースで知るナチス占領下のウクライナ、オレンジ革命と女性闘士、そして、近年のユシチェンコ大統領の暗殺未遂事件、ロシアのクリミア併合、コメディアンの大統領誕生など、実に断片的な情報でしかなかった。その現代史はつねにソ連やロシアの脅威と隣り合わせだったことは知りながらも、点と点、そのつながりや間の出来事には無関心に近かった。

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2022年2月12日 (土)

「建国記念の日」だった2月11日、祝日を振り返る

 窓を開けると、前夜からの雪は止み、朝の陽ざしがまぶしかった。2月11日は何の日だっけ、三連休の初日というが。

「建国記念の日」だったのだが、近頃の祝日は、その由来も、だんだん訳がわからなくなって来た。天皇の代替わりの2019年には、天皇誕生日というものがなかったのは、私としてはすっきりしたものの、代替わり報道のものものしさに、辟易としたし、元号と西暦の換算の混乱はいまでも続く。昨年の東京オリンピックの年は、カレンダーの山の日、海の日、スポーツの日は、オリンピック日程に合わせ、移動した。

 そもそも、敗戦後の祝日法は、1948年7月に制定され、その当時は、元日(1月1日)、成人の日(1月15日)、春分の日(春分日)、天皇誕生日(4月29日)、憲法記念日(5月3日)、こどもの日(5月5日)、秋分の日(秋分日)、文化の日(11月3日)、勤労感謝の日(11月23日)だった。この九つの日であった。私の小学校からの学生時代のすべては、この祝日しかなかった。大学生になって、文化の日はかつての明治節、明治天皇の誕生日、勤労感謝の日は新嘗祭、春分の日は春季皇霊祭、秋分の日は秋季皇霊祭であったことを知った。社会人になって、退職するまで、土曜日は出勤日だった。

 いわゆる紀元節復活の動きは、占領軍か去って始動し、9回も国会に提出されながら、成立することはなかった。1965年、佐藤栄作首相は、政府は、2月11日を建国記念日とする法案を提出すると表明、神話にもとづく神武天皇の即位由来の「紀元節」「建国記念日」と名付けることを避け、「建国記念日」を設けるという祝日法改正法案が、1966年6月25日成立してしまった。同法改正では、敬老の日の9月15日、体育の日の10月10日を新設するが「建国記念日」だけは、何月何日にするのかは、政令で定めるとしたあいまいな形であった。総理府に設置した「建国記念日審議会」は9回の会議、5回の公聴会、世論調査を経て、9人の審議委員中7人の賛成多数で「2月11日」を答申、ただちに1966年12月9日の政令で、2月11日が「建国記念の日」となったという経緯がある。 敬老の日や体育の日をセットにして祝日、休日を増やすという世論操作が功を奏したのではなかったか。ちなみに、その審議会メンバーをみると、いかにも政府のシナリオ通り、出来レースの感が強いのは、現在も変わっていないのではないか。
 ちなみに、審議会の会長:菅原通濟、会長代理:吉村正、桶谷繁雄、榊原仟、田邊繁子、舟橋聖一、松下正壽各委員が2月11日に賛成。反対の阿部源一(東洋大学教授、経済学専攻)は、祝日とするのは望ましくない、強いて挙げるなら1月1日とする意見、奥田東(京都大学総長、農学専攻)は、人間社会でなく国土に重きをおくべきで、立春の日がよいとする意見であった。

 1973年からは、祝日と日曜が重なると、振替休日制度が導入され、休日は増えた。また、労働時間の短縮の流れの中で、まず、1992年4月から国家公務員の週休2日制が導入され、国公立学校においては、1992年から月一の土曜休みが始まり、完全に週休2日になったには2002年4月からであった。

 2000年代に入ると、これまで月日が固定していた祝日を移動することで、日曜日・月曜日の連休が増える仕組みが始まった。

成人の日:1948年から1月15日  ⇒ 2000年から1月第2月曜

体育の日:1966年から10月10日  ⇒  2000年から10月第2月曜

            (2020年からスポーツの日)

海の日: 1996年から7月20日  ⇒ 2001年から7月第3日曜

敬老の日:1966年から9月15日  ⇒ 2003年から9月第3日曜

 さらに、2007年から5月4日の「みどりの日」、2016年から8月11日の「山の日」を新設して、5月ゴールデンウイークの3連休の確保、8月のお盆休みのスタートを早めた。もちろん、祝日、休日が増えることは悪いことではないが、まずその恩恵に浴することできるのは、公務員や学校、大手企業の社員たちではないか。その一方、出勤日の残業、待ち帰り残業が増えたりすることもある。そもそも暦通りに休めない職種や中小・零細企業の労働者がいる。正規労働者の休日を確保するために非正規労働者で補完、夜間労働や長時間労働を非正規のシフト制でカバーする事業も増え、サービスを受ける利用者や経営者の利便性や効率性と裏腹に、労働環境の格差はますます広がっていくのが現実ではないのか。
 定年延長や再雇用が進む一方で、非正規の若者が増加し、結婚や出産が遠のいてゆく中で、ほんとうに休日を楽しめる人たちが増えているのだろうか。「新しい働き方」?弱者切り捨て、放置につながりかねない。

 祝日・休日とは、縁遠くなった身ではあるが、そんなことを考えた「祝日」ではあった。

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2月12日、今朝の雪。つばきが蕾をつけはじめたが、水仙はまだのようで、いつもより遅いかな。

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このところ、ヒヨドリに陣取られ、近づけなったメジロ、夕方になって、ようやくエサ台に現れた

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2021年3月 6日 (土)

『非国民文学論』(田中綾著)の書評を書きました

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     イチジクの根方のスイセンが咲き出しました

 『社会文学』編集部からの依頼で、田中綾さんの新著『非国民文学論』の書評を書きました。金子光晴は、これまで、アンソロジーで読むくらいでしたが、今回、まとめて読む機会となりました。また、丸山才一の『笹まくら』も初めて読むことになりました。知ることのなかったことを知り、少しばかり学んだ気がしています。お気づきの点など、ご教示いただければうれしいです。

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田中綾『非国民文学論』(青弓社 2020年2月)書評     

本書の構成は以下の通りである。

第1部 非国民文学論 序章いのちの回復/第1章〈国民〉を照射する生―ハンセン病療養者/第2章〈幻視〉という生―明石海人/第3章〈漂流〉という生―『詩集三人』と『笹まくら』/終章パラドシカルな〈国民〉
第2部〈歌聖〉と〈女こども〉 第1章明治天皇御製をめぐる一九四〇年前後(昭和十年代)/第2章仕遂げて死なむ―金子文子と石川啄木

  いずれも二〇〇〇年以降十年間における論稿だが、第1部は、出版に際して、加筆・修正をしているという。序章では、北條民雄の小説「いのちの初夜」(一九三六年)を取り上げ、国家からも〈国民〉からも疎外された「ハンセン病療養者が『書く』ことを通して新しいいのちを獲得しえたこと」を評価する。第1章では、ハンセン病療養者の戦時下の短歌作品から「〈国民〉から疎外された環境にありながら、むしろ戦時のもっとも〈国民〉的なまなざし」を読み取る。第2章では、明石海人の歌集『白猫』(一九三九年)の後半「翳」に着目し、身体こそ拘束されながらも、何ものにも強制されない想像力で独自に構築していた作品世界を「〈幻視〉による生」と捉えている。これらの章では、短歌の一首一首を丁寧に読み込み、制約された環境の中で、「生き続ける」ことの意味を探り続けている作者たちに敬意を払うとともにその作品を高く評価する。著者のこれらの論述の根底には、ハンセン病に対する従来の「救癩の歴史」と「糾弾の歴史」という二項対立の構図から脱したいという思いがあり、多様な『生存』の営みの過程を具体的に明らかにした上で、近代日本のハンセン病問題を捉え直すという「新たな枠組み」(広川和花『近代日本のハンセン病問題と地域社会』 大阪大学出版会 二〇一一年)を目指しているからだろう。多様な生存の営みへの照射は重要である。しかし、たとえば、藤野豊による『「いのち」の近代史―「民族浄化」の名のもとに迫害されたハンセン病患者』(かもがわ出版 二〇〇一年)や戦前から国策としての絶対隔離政策、無癩県運動を批判してきた小笠原登医師による「強制隔離」の実態究明をも「糾弾」と捉えかねないところに、私は若干の危惧を覚えた。葬られてきたさまざまな具体的な事実を広く知らしめた役割も忘れてはならない。また、「救癩」の歴史には皇室との深いかかわりがあること、療養所内での文芸活動が「精神的慰安」になるとして政策的に奨励されていたことへのさらなる言及、検証も欲しかった。一九九六年「らい予防法」廃止以降、「らい予防法違憲判決」を経ても続くハンセン病療養者、家族、遺族たちへの差別を目の当たりにすると、一層その思いが募る。
 つぎに、著者は、金子光晴が疎開中の一九四四年一二月から四六年三月に、妻と息子の三人で綴っていた私家版の詩集「三人」(二〇〇六年古書店で発見、二〇〇八年出版、光晴の作品の一部は公表済み)に焦点をあてる。光晴は、妻森三千代、息子乾と家族三人が結束して、息子の二度の召集を病人に仕立てて逃れていた。著者は、徴兵忌避という行動のさなかの詩作に「家族以外どこにもよりどころがない漂流者としての視線」を捉える。一九三七年、光晴が出版した詩集『鮫』は抵抗詩集としての評価が高く、時には自虐的に、あるいは執拗なまでに嗜虐的に歌いあげた作品が多いと私も読んだ。光晴は、太平洋戦争下に雑誌等に発表した作品と発表のあてもなく綴っていた作品を、敗戦後の一九四八年に『落下傘』『蛾』として、一九四九年に『鬼の子の唄』として、一気に出版している。加えて、上記のような経緯で出現した詩集『三人』には、徴兵忌避をした息子を両親が守り抜き、励まし合うという詩作による「交換日記」の趣がある。その中の光晴自身の作「冨士」「戦争」「三点」「床」「おもひでの唄」が詩集『蛾』に収められた。「三人」では、呼び合っていたあだ名を、『蛾』への収録にあたって「子供」「父」「母」と普遍化し、加筆や修正も頻繁になされている。上記五篇の作品も、他の未発表作品と同様、完成させたのは敗戦後とみなすべきだろう。 
   
光晴の作品には、日付があるものとないものが混在し、雑誌への既発表作品を、詩集所収の時点で、日付を操作し(「瞰望」「真珠湾」「洪水」など、『落下傘』所収)、詩句を書き換えたりする。たとえば、『蛾』所収の「冨士」での書き換えや『落下傘』所収の「湾」は初出(『文芸』一九三七年一〇月)の「(略)地平は/音のないいかつち、/砲口は唸りで埋まる。戦はねばならない/必然のために、/勝たねばならない/信念のために」の傍線部が削除されたりする。『定本金子光晴全詩集』(筑摩書房 一九七七年六月)の光晴による「跋」には、若い時の詩に手を入れるなどするのも「しかたのないこととお宥し下さい。それから、詩集に入ってゐたもので意に充たないものは削除して」とあり、彼の作品鑑賞には、相当の考証が必要になろう。
   つぎに取り上げられた丸谷才一の小説「笹まくら」は、戦時下に徴兵拒否を選択した青年の中年に至るまでの〈漂流〉の物語である。本書では、敗戦後における、一市民の暮らしを脅かす「非国民」のレッテルの「連続性」に着目している点に、私も共感した。その「連続性」の由来については、作家も、著者も明確にはしていない。
 第2部の一九四〇年代に「明治天皇御製」の「謹解書」の類が噴出した背景についても、著者とともに考えたかったが、誌面が尽きた。(『社会文学』53号 2021年3月)

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