2026年5月30日 (土)

木原実歌集『笑う海』再読、天皇制を考える

 「皇族数確保」の二案について、当ブログ記事でも何度か触れているように、多数決で行けば、今国会で可決成立、「立法府の総意」として、皇室典範は改正される運びである。しかし、議員たちは、皇室典範改正の運用の先を本気で考えたことがあるのだろうか。そして、リベラルと称する人たちが、「愛子天皇」への期待や容認にざわついているが、天皇制という身分制度を持続するかぎり、皇族たちの人権、とくに女性皇族の基本的人権、結婚の自由を侵害し続けることをどう考えているのだろうか。また、全国紙などのメディアは、この皇室典範改正には熟議が必要、改正後の課題などを示し始めながら、一方で、『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて』(伏見博明著 中央公論新社 2022年1月)、『女性皇族の四季(アエラ・ムック)』(朝日新聞出版 2026年3月)『神国日本』(毎日ワンズ 2026年1月、1976年平凡社版復刻、第一書房版は1927年以降幾度も版を改めている)など、時流に乗った自社系列?の出版の宣伝が目立つ。今週の週刊誌は、二案の矛盾をついているかのようであるが、「愛子天皇待望論」の変形だろうか。

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  木原実さん(1916~2010)の歌集には、存分に天皇を詠んだ短歌があったはずである。ひさしぶりに木原実歌集『笑う海』(潮汐社 1994年12月)を読みだしたら、止まらなくなってしまった。

 木原実(以下敬称略)は、今の木原某官房長官とは同姓ながら(実と稔ちがい)、1967年から1980年まで、社会党の衆議院議員を五期務め、詩人でもあり、歌人でもあった政治家である。戦前には労働運動にかかわり、1935年に治安維持法違反で逮捕、1942年に応召、ソ満国境で敗戦を迎えている。

 上記の歌集には、ベルリンの壁崩壊、ソ連邦解体前後のドイツやソ連を主題にした臨場感あふれる作品が多く、昭和天皇死去前後の日本の思想状況をも活写している。そして何より、戦前からの組合、農民運動の再興を目指して社会党議員として活動してきた実績と天皇制反対の意思は固い。

天皇制

襟もとふかく天皇をみた二十歳の未決監房赤い煉瓦みち

地獄が天皇を待つと書いたザ・サンの記事読みつづける雨のなか

象徴不信の声もなく早鐘を打つように戦後が終わる

高速道路に車の影はなく 堵列する亡霊二百十八万八千二百五名の雨しぶく

 『笑う海』に収録の「短歌のある風景」において、一首目について「私は十九歳から二十歳にかけての一年を未決の独房ですごした。当局は二十歳の私の『思想が悪い』と言いたてたが、その思想を「納得するまで勉強してやろうと、二十歳のプライドが考えたりした。それまで思うてもみなかった天皇について、あれこれ考えたのもその獄だった」と記している。

ベルリンの壁崩壊前後のドイツ

ヒットラー消えて五十年 幻影のなかの塔つぎつぎにたつ

石畳に沿って花を植えるヒットラーの支持者にこやかに老いている

 ・ソ連邦解体

すりへった赤の広場の石畳ふみかためふみかためロシア人の血の色

モスクワは五月ライラックの花陰に割れ鐘と青銅の大砲と

マルクス・E・レーニン主義研究所木漏れ日の堅い窓を閉ざす

薄明をきてロシア知識階級ユートピアの旅は終わったようだ

 著者は向坂逸郎を師と仰いでいたのだが、自身の活動基盤からして、知識階級への不信感は強く、「大きく細く民主という文字にじんで歩いてくる 学園都市の雨」といった作品もある。

 ・社会党の変遷

行ったりきたり 境涯のなか 組織の暗闘 声もたてず 

政治はむなしいなあといって死んだ人の忘れていた命日がくる

なんどか終わりをみてきた汽車の旅 東京に連立政権が生まれる冷夏

野合ではないよといって転がった線香花火の火の玉を拾いにゆく

鮮明な旗をあげよ 暗緑色の闇にゆれている夏コスモス

 1980年6月の衆参同日選挙で、自民党大勝、著者は、千葉県1区次点で落選している。全体では、衆院で自民284、社会104、公明33、民社32、共産29議席。参院で自民69、社会22、公明12、共産7、民社5議席という時代であった。1981年脳溢血に倒れ、一時言葉を失い「行ったりきたり 境涯のなか 組織の暗闘 声もたてず」と自らの身体の組織の働きを詠み、「言葉を惜しめこの饒舌の世に石は一つずつ空にむいてたつ」と詠む。
  議員引退後の社会党は、1986年土井たか子委員長就任、1989年の参院大勝、1994年自民党、さきがけとの連立内閣により村山富市首相が誕生しているが、「自衛隊合憲、安保条約堅持、原発容認」と社会党の政策を大転換させた。こうした社会党の動向をも反映し、その変貌を慷慨している作品も多い。戦前の社会大衆党から戦後、今日の社民党に至るまでの社会党の歴史については、正直、私などには複雑すぎてわかりにくかったが、著者が今の社民党の凋落ぶりを知ったら、何と言って嘆くだろうか。

・コンピューター・ロボット

コンピューターウイルス井戸を覗き手もとの闇を駆けぬけてゆく

ロボットをつくりだすロボット工場二十四時間操業休みなし

人脳よりすぐれた状況判断をするロボットができたと業務報告

 現在は、AIやロボットは、すでに市民生活にとってもなじみ深いものになっている。いずれも、1990年代初めの作品だが、現代でも十分訴える力を宿し、一首目など一種の不気味さを感じさせるものがある。

・短歌

傘を忘れた 軽薄短小の歌のおかげで 電車はずっとすいていたんだ

どれいの韻律ぜいぜいと漂うあたり 葱華輦かつぐ衛士らのよろめき

敗残の歌を詠みついで八月の雨に会う おう! 敗残兵塚本

 一首目は「Ⅰ部1988年―1990年」に収められている作品。1987年は、俵万智『サラダ記念日』がベストセラーになり、「ニューウェーブ」短歌が台頭してきた年でもある。二首目は、1989年2月24日、昭和天皇大喪の礼の異様な光景と敗戦直後、小野十三郎が短歌を「奴隷の韻律」と称した「短歌的抒情」が喘いでいる様をリンクすることで、天皇制への批判を強めたかったのではなかったか。三首目については、歌集に収録した前掲のエッセイで「悔いの思いが深い。生きのこったものの負い目は年とともに鮮烈でさえある。」と語っている。その文末に「われを撃て麦秋のその麦の間を兵士のわれが泳げるを撃て」の塚本の一首をあげている。生き残った負い目を詠んでも、木原、塚本とは、最近亡くなった岡野弘彦とは、詠み方も歩んだ道もずいぶんと異なるものとなったことがわかる。

 以下の作品において詠まれた状況は、現代においても変わってはいない。むしろ状況は劣化しているのではないか。

世界一周の鼠をつくづくとみた 円ははげしく買われ 戦火はやまず

国際貢献という政治造語に血を流す 現代風な夕焼け雲

活性化とはイヤな言葉だ 夏の正午のそうめんすする音とか

新書版「過労死」おくられてきて労働組合は無役という時代

 最近の高市首相が頻発する言葉、「安全保障政策の司令塔」、「包括的戦略的パートナー」など、よく考えると、基本的人権、国民の安全・安心より優先するものがあるかのような勢いである。目前の不都合は「目詰まり」だったり、「歯止め」が効かなかったりという、無責任な言葉が行き交うのである。

 最後に

きりきざんだ夢と知りながら野を走るものに惹かれる

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以下は、かつての『笑う海』の書評、重なる部分も多いが合わせてお読みくだされば幸いです。

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『芸術と自由』(1995年7月)初出。『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年)所収。

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2026年4月23日 (木)

「もう、時代は変わった」のか~殺傷能力のある武器の輸出が解禁された!

 落ちぶれて武器ありますの暖簾(のれん)出す
 (大阪府 小倉三歩 朝日川柳 朝日新聞 2026422日)

 これは、1976年5月の衆議院外務委員会で、永末英一委員(民社党)の「一体わが国として兵器貿易というものをどう見るのか」の質問に、宮澤喜一外務大臣の答弁「何がしかの外貨の黒字がかせげるといたしましても、わが国は兵器の輸出をして金をかせぐほど落ちぶれてはいないといいますか、もう少し高い理想を持った国として今後も続けていくべきなのであろう。」を踏まえての作ではないか。注1

注1)衆議院外務委員会8号1976年5月14日https://kokkai.ndl.go.jp/txt/107703968X00819760514
同上委員会における宮澤喜一外務大臣の答弁https://kokkai.ndl.go.jp/txt/107703968X00819760514/46

 4月22日の朝刊はいっせいに一面で、4月21日、午前中の閣議と持ち回りの9大臣による国家安全保障会議(NSC)で、「防衛装備移転三原則」「防衛装備移転三原則の運用方針」を改訂したことを報じている。今回の改訂により、これまで輸出できる装備品を「救難・輸送・警戒・監視・掃海」の5類型に限っていたものを殺傷能力のある武器の輸出が解禁されるのである。こんな大事なことを、閣議決定と、しかも持ち回りのNSCで決まって行くのだと思うと、やはり、おそろしい思いが先に立つ。「落ちぶれた」というより「壊れた」という衝撃であった。注2

注2)「防衛装備移転三原則」について(内閣官房)https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/bouei.html

 そんな状況の中で、1976年の宮澤外務大臣の答弁が、あらためて、各所で引用され始めた。たとえば、日本共産党は、今般の衆議院選挙における政策として「武器輸出」について、「1976年に当時の三木政権が表明した「武器輸出三原則」は、「国際紛争を助長しない」という「平和国家」としての理念にもとづき事実上武器輸出を全面禁止し、1981年には衆参両院本会議が同三原則の厳格な運用を求める決議を全会一致で可決しました。自民党政府のもとでも、これが日本の基本方針でした。」に続いて、宮澤の答弁を引用している。

 3月17日の参議院予算委員会で、西田実仁(公明党)委員は、宮澤の答弁を引用して「平和よりも一時的な経済利益を貪欲に追求する国であってよいのか」質問しているが「もう時代が変わった」と高市総理が答えている。

「東京新聞」も「かつて武器輸出を「全面禁止」した日本が、高市政権で「解禁」するまでの50年を振り返る」題し、「三木武夫内閣が1976年に事実上の全面禁輸に踏み切ってから半世紀。政府は段階的に緩和してきた武器輸出を解禁した」との方針転換を、1976年の宮澤答弁に対する高市総理は「もう時代が変わった」と正当化した、と報じた(2026年4月21日)。

 そもそも、武器輸出三原則は、1967年4月の佐藤栄作内閣による武器輸出禁止規定に由来する。共産圏諸国、国連決議により武器等の輸出が禁止されている国、国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けへの武器輸出を禁止することを内容とするもので、衆議院決算委員会において、華山親義(日本社会党)からの質問に対する答弁だったのである。注3

注3)衆議院決算委員会(1967年4月21日、佐藤栄作総理大臣の答弁)https://kokkai.ndl.go.jp/txt/105504103X00519670421/129

ともかく、自民党政権において、まがりなりにも受け継がれてきた「武器輸出三原則」は、「武器輸出」を「防衛装備移転」と言い替えて、2014年安倍晋三内閣によって大きく変質したのである。その後の経過は以下の表によくまとめられている。

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殺傷能力ある武器の輸出可能に、政府が装備移転三原則の運用指針見直し(Reuters2026年4月21日)より

 今回改訂の「防衛装備移転三原則」について、高市首相は4月21日の記者会見で、武器輸出が全面的に解禁されることへの懸念を問われて、「安全保障環境の厳しさが増し、自国だけでは平和と安全を守ることができなくなった。防衛装備面でもお互いを支え合うパートナーが必要で、そのパートナーからの防衛装備品への期待も大きい」「ニーズに応えた防衛装備移転はパートナー国の防衛力向上、紛争発生を未然に防ぐ」ことにつながるという主旨の答弁がなされた。

 しかし、先に示した今回改訂の「三原則」の全文を読むと「防衛装備の海外への移転は、 特にインド太平洋地域における平和と安定のために、力による一方的な現状変更を抑止して、我が国にとって望ましい安全保障環境の創出」し、また「防衛装備の適切な海外移転は、いわば防衛力そのものと位置付けられる我が国の防衛生産・技術基盤の維持・強化、ひいては我が国の防衛力の向上に資する」ものであるとしている。さらに「継戦能力確保の重要性が増す中にあって、防衛装備移転の推進により、共通の装備品を運用する同志国等を増やし、強固な防衛産業を保持し、拡大することは、有事に必要な継戦能力を支える生産能力を国内で確保する上でも大きな意義」を強調している。

 会見での答弁では、「三原則」の内容の重大さは伝わらず、「東南アジアへの防衛装備品の輸出拡大、防衛産業の拡大」などには言及せず、スルーしている。近年の防衛費増額とともに、なりふり構わない「政府、(防衛装備品)売り込みに躍起」(毎日新聞 2026年4月22日)する姿には、「死の商人」という言葉がよぎる。私などは、「殺傷能力」「継戰能力」という言葉を聞くだけでも、自らの空襲体験、現在止むことのないロシアのウクライナ侵攻、アメリカのイラン爆撃、イスラエルとパレスチナ侵攻による死者と瓦礫の街を想起してしまう。

 さらに、軍備拡大による「抑止力」云々に至っては、日本におけるアメリカの基地の存在自体が、紛争のリスクや攻撃の標的になり得ることは、イランの周辺国のアメリカ基地爆撃を見ても明らかではないのか。3月13日のウオール・ストリート・ジャーナルの報道として、すでに中東には「米海軍第7艦隊に所属し、佐世保基地(長崎県)に配備されている強襲揚陸艦「トリポリ」と、キャンプ・ハンセン(沖縄県)の第31海兵遠征部隊」が派遣されているという(読売新聞 2026年3月14日)。

 「三原則」の閣議決定当日の4月21日の「NHKテレビニュース7」では、北海道・三陸沖地震、大分県陸上自衛隊基地での3人の死者を出した事故、アメリカ・イランの停戦協議とホルムス海峡封鎖の現況のつぎに、この「三原則」改訂の報道がなされた。そのねらいとして、①同盟国・同志国との防衛強化 ②防衛産業の育成と基盤強化 の二点をあげ、歯止め策を強調していた。これって政府広報では、の印象が強かった。

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<参考>
●「武器輸出禁止三原則等」(外務省ホームページ)https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/arms/mine/sanngen.html

1.武器輸出三原則(1967.4.21) 
武器輸出三原則とは、次の三つの場合には武器輸出を認めないという政策をいう。
(1)共産圏諸国向けの場合
(2)国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向けの場合
(3)国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けの場合
[佐藤総理(当時)が衆院決算委(1967.4.21)における答弁で表明]
2. 武器輸出に関する政府統一見解(1976.2.27)
 「武器」の輸出については、平和国家としての我が国の立場から、それによって国際紛争等を助長することを回避するため、政府としては、従来から慎重に対処しており、今後とも、次の方針により処理するものとし、その輸出を促進することはしない。
(1)三原則対象地域については「武器」の輸出を認めない。
(2)三原則対象地域以外の地域については、憲法及び外国為替及び外国貿易管理法の精神にのっとり、「武器」の輸出を慎むものとする。
(3)武器製造関連設備の輸出については、「武器」に準じて取り扱うものとする。
[三木総理(当時)が衆院予算委(1976.2.27)における答弁において「武器輸出に関する政府統一見解」として表明]
(注)わが国の武器輸出政策として引用する場合、通常、「武器輸出三原則」(上記1.)と「武器輸出に関する政府統一見解」(上記2.)を総称して「武器輸出三原則等」と呼ぶことが多い。

●防衛装備移転三原則(201441日閣議決定)(内閣官房ホームページ)
https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/pdf/bouei1.pdf
 以下の項目に当てはまる場合には防衛装備の海外移転を認めない
①当該移転が我が国の締結した条約その他の国際約束に基づく義務に違反する場合
②当該移転が国連安保理の決議に基づく義務に違反する場合
③紛争当事国への移転となる場合

●武器輸出禁止三原則(1967421日衆議院決算委員会答弁)(国会会議録検索システム)https://kokkai.ndl.go.jp/txt/105504103X00519670421/129
佐藤内閣総理大臣 いま申しますように、防衛のために、また自国の自衛力整備のために使われるものならば差しつかえないのではないか、かように私は申しておるのであります。輸出貿易管理令で特に制限をして、こういう場合は送ってはならぬという場合があります。それはいま申し上げましたように、戦争をしている国、あるいはまた共産国向けの場合、あるいは国連決議により武器等の輸出の禁止がされている国向けの場合、それとただいま国際紛争中の当事国またはそのおそれのある国向け、こういうのは輸出してはならない。こういうことになっております。これは厳に慎んでそのとおりやるつもりであります。

 

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2026年4月14日 (火)

刻々状況が変わる中で、高市自民党は、何をしているのか

 テレビで、トランプ大統領とネタニヤフ首相の映像が流れ、高市首相の無内容な国会答弁が聞こえてくると、いたたまれず席を立つが、気持ちが乱れてくる。これまで犠牲になった兵士、市民、子どもたちの命を思い、街への爆撃で舞い上がる黒煙と炎と逃げ惑う人たちの映像が再現されると、それが、どこの国の、どこの町であっても、なぜ、止められないのかと落ち込んでしまう。
 メデイアは、現地の民間人の犠牲者数と日本人の在住者数や無事の有無などを報じるのが常である。人間の命は平等なはずなのにといつも違和感を覚えつつ聴いている。
  犠牲となった兵士たちの数はどうして報じられないのだろう。軍事上の秘密だからか。日本人さえ無事であれば良いとするかのような報じ方である。今回の戦争で、米兵の戦死者は、星条旗につつまれ、大統領の敬礼をもって帰還している。英雄的処遇をすることによって、遺族は慰撫されているのだろうか。アメリカ国民はどう見ているのだろうか。かつて、日本の戦死した兵士たちは「英霊」として称えられていたことを想起する。父を、夫を、息子を失った家族にとっては、残酷なことであったことには違いないのではないか。私には幼児の戦争体験しかないので、すべてが疑問形になってしまう。

 

 4月8日、アメリカとイランの2週間の「一時停戦合意」後のイスラエルのレバノン爆撃、イランのイスラエルへの反撃・ホルムズ海峡封鎖、トランプ大統領のイランへの大規模攻撃という恫喝発言などが続く。4月12日のパキスタンの仲介によるイラン・アメリカとの協議は、合意に至らず、決裂、さらに、トランプ大統領は、軍事力によるホルムズ海峡封鎖を予告している。

 ペルシャ湾内に閉じ込められた船舶は、乗組員たちの暮らしは、どうなっているのかと不安になる。全体像が見えにくい中、やや古い資料だが、ウォール・ストリート・ジャーナル報道によれば、ペルシャ湾内には、3000隻以上の船舶が停留しているという。さらに、内閣官房発表によればで、「日本関係船舶」は45隻で、そのうち、日本籍船は5隻、日本人乗船船舶は5隻、日本人乗組員数は24人だという。日本籍船以外はいわゆる「便宜置籍船」である。とはいえ、便宜置籍船の多さと日本人乗組員の少なさとを今回はじめて知った。(内閣官房「ペルシャ湾内における日本関係船舶の状況(3月23日時点)」https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/chyutoujyousei/dai1/pdf/siryou3.pdf

 その後、ペルシャ湾の船舶から下船した日本人乗組員4人が帰国したと木原官房長官は記者会見で述べている(読売新聞 2026年3月30日)一時停戦後、3隻がホルムズ海峡を通過、日本人乗組員4人が下船しているのでペルシャ湾に足止めとなっている政府定義の日本関係船舶は、4月6日午後2時時点で42隻となっている(日本海事新聞2026年4月7日)。

 木原官房長官は、4月6日「船舶の運航については運航会社の判断であり、政府としての回答は差し控える」、4月13日午前の会見では、米イランの協議を念頭に「関連の動向を注視しているところだ」とし、「最も重要なことは今後ホルムズ海峡の航行の安全確保を含む事態の沈静化」「外交的な最終的合意への期待」を語るのみ。トランプのホルムズ海峡逆封鎖の受け止めを問われて「トランプ大統領の発言を含めまして、米国の政府関係者の発言、この逐一にコメントすることは差し控える」と答えている。
 高市首相も4月13日政府与党連絡会議で、「ペルシャ湾内にとどめ置かれている船舶、日本関係の船舶を含むあらゆる船舶の安全確保に向けて、引き続きあらゆるレベルで主体的に取り組みを進める」と発言。日本政府は、動向を注視船舶の安全を繰り返すばかり。茂木外相が電話でイランの外相に航行の安全確保の要請をしたというが、トランプ大統領からは日本は協力的でないと言われ、「できないことは、できない」ときっぱり要請したのだろうか。

 まして、日本国民の暮らしと安全を守ると言いながら、ガソリン価格対策として補助金を出したと言っても、財源は直ぐに切れるし、物価高に苦しむより多くの国民、石油関連資材不足に追い詰められている事業者への対策が見えてこない。


 そんな中で、高市首相は、イギリスのロックバンド「ディープ・パープル」と会って、ファンぶりをアピールしたとか、また、自民党大会では、世良公則に「「燃えろいい女」を歌わせ、最後のサビでは「燃えろサナエ~」との絶叫に、立ちあがって手拍手を送ったとか(時事ドットコム2026年14月12日)聞くと、政党の大会でやることかとあきれた。さらに、自衛隊の女子隊員に制服で「君が代」を歌わせもした。これは自衛隊法における自衛隊の中立性に違反して完全にアウトではないか(自衛隊法第61条第1項)。高市首相は、自衛隊員が歌うとは知らなかったといい、小泉防衛大臣は、記者会見で報告を受けてなかったいう。責任転嫁、無責任も甚だしい。こんな自民党が圧勝していたのだ。とんでもない舞い上がりの、まさに“言うだけ番長”を総裁とする自民党、「憲法改正の時が来た」と叫ぶ首相なのである。
 そういえば、高市首相が訪米の折、トランプ大統領主催の晩餐会で、ファンを自称しているXジャパンの曲が流れたからと言って、”絶叫“する首相でもあった。

【参考】自衛隊法第六十一条 隊員は、政党又は政令で定める政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法をもつてするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除くほか、政令で定める政治的行為をしてはならない。

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のどかな池の鯉、子どもの鯉が急に増えて驚いたが、この左手に続く池には、こまかいネットが張られていた。サギに狙われないように元気に育ってほしい。

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新緑が映える中庭の先に見えるポスト

 

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2026年3月30日 (月)

しょうけい館、昭和館を訪ねて(2)昭和館

 前日、北の丸公園を突切って田安門を出た折、右手に、九段会館と並んで銀色の瀟洒なビルが並んでいたのが、昭和館だった。今日は、昭和館の前も卒業式の晴れ着の女子学生たちが目立つ。

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田安門から昭和館を望む。

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昭和館前にも、卒業生たちが。

 昭和館にはシルバー料金の360円で入場、しょうけい館もそうだったが、出会う入館者がほとんどいなかったことは、やはり寂しい。
 ここでは、紙の資料ばかりでなく、実物の道具や機器、衣服などの展示、体験コーナーなど、博物館的な要素が大きい点が特徴なのだろう。
 壁面一杯の「学びの庭の壮行式」(1937年11月)は、土門拳により泰明小学校で撮影されたものだが、まず目に飛び込んでくる。朝礼台にはタスキをかけた六人の若者が緊張した面持ちで直立している。「学びの庭の・・・」の題は、土門が命名したものか。また、石川光陽「空襲下の東京」(1945年1月)、菊池俊吉「銀座四丁目付近」(1945年11月)の壁から迫る画像は、現在も、世界の各所から報じられている空爆による瓦礫の街を想起させる。
 この間、1937年7月、日中戦争が始まり、1941年12月太平洋戦争が始まり、1945年8月敗戦を迎える。これらの写真を背景にしての展示のなかで、目を引くのは、たとえば、1933年尋常小学校1年生が初めて手にする読本は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」であり、1941年国民学校1年生が手にするのは「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」に変っている。1939年の7月には、グリコのおまけに「軍歌集」が付くのである。1940年6月、NHKラジオから「隣組(岡本一平作詞、飯田信夫作詞、国民歌謡65集収録)の歌が流れ始める。1940年2月、愛国婦人会・大日本国防婦人会・大日本連合婦人会は解散、統合して大日本婦人会が発足している。1942年10月号の『文藝』に発表した太宰治の「花火」が全面削除処分を受けている・・・。ケース内に展示された、そんな資料を一点、一点、気ままに見ていくだけでも、かなりの時間がかかりそうである。

 併設の図書室もゆっくり見たいところだが、カウンターにあったブックリストはテーマ別に9枚のリーフレットになっていて、表紙画像入りで、15冊ほどが紹介されていた。私がすでに読んだことがある本、家に持っている本、手離した本などが散見できるが、読んでみたい本も多く、帰りの電車では、退屈せずに眺めていた。

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リーフレット表紙の写真がいずれも「米国国立公文書館」提供のものであった。日本では戦時下、占領期の写真や資料を残すという営為に欠けていたのだろうか。敗戦直後、官庁街では、資料を焼却する光景が見られたという。2015年10月、茨城県阿見町の「予科練平和記念館」を訪ねた折、練習生と起居を共にして撮影した土門拳のほとんどの作品が、不明で、自ら焼却したのではないかという記述に衝撃を受けたことがある。

今回の昭和館行きには、もう一つの目的があった。特別展示「昭和映画録~二度の黄金時代」であった。こちらは、無料で見られるだけあって、入場者はちらほら見かけた。しかし、その内容は、ポスター展のようでもあって、少し期待外れであった。1930年代、無声映画からトーキー映画となった時代と戦時下とGHQ占領期の統制時代を経て迎えた、1950年代の全盛時代を「黄金時代」と捉えている。戦意高揚の国策映画、占領政策の一環としての映画はトピックスとしての扱いであって、その時代を通して、時代に即して活躍した映画人たちへの評価が見えてこなかった。

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 総じて、厚生労働省社会・援護局所管の国立の施設で、1999年開館以来日本遺族会が受託、運営しているという性格上の限界なのか、残念なことではあった。

【参考】 
昭和館常設展示室紹介動画①②
https://www.youtube.com/watch?v=AU0jjju3hTc

https://www.youtube.com/watch?v=t8T8P-ta60M

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旧堀田邸・さくら庭園に向かう桜並木、昨日から今日にかけて一気に咲きそろった。3月30日撮影。

 

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2026年3月29日 (日)

しょうけい館、昭和館を訪ねて(1)しょうけい館

  3月24日、かねてより訪ねたいと思っていた「しょうけい館(戦傷病者史料館)」に出かけた。できれば近くの「昭和館」にも寄りたいと思った。竹橋の宿を早めに出て、九段下で下車、駅構内は、かなりの混雑で、ロボットが回って交通整理をしていた。「法政大学」の腕章をつけた人たちが要所要所に並ぶ。武道館での卒業式か。私たちは目白通りに面したしょうけい館に向かったが、10時に開館とのこと、少々の時間、近くを回ることにした。地図にある築土神社は十字路の広い坂を上ったところにあった。参道の上に高層ビルがかぶさっているような具合、靖国通りから階段を上って鳥居をくぐってゆく通勤の人たちにも出会う、近道なのだろう。

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築土神社ホームページより、一部加工。

 道路を渡ったところの標識には「中坂」とあった。その一帯は和洋学園で、「硯友社文庫」との看板もあるので、守衛さんに聞いてみると、土曜のみの開館とか。坂を上り切ると暁星学園である。今度は、目白通りに戻る坂を下ると「冬青木坂(もちのきざか)」の標識があって、正面には、しょうけい館があるビル、1階がローソン、2・3階の窓には「しょうけい館」の文字が見える。左手は、フィリピン大使館の高い石塀が続く。

 しょうけい館は、厚生労働省が戦傷病者の援護施策として戦傷病者らの戦中・戦後の労苦を伝える施設として、2006年3月に開設された。日本傷痍軍人会が運営にあたっていたが、201311月傷痍軍人会解散に伴い、民間委託に移行、イベント・展示などをプロデュースている「株式会社ムラヤマ」が運営している。常設展には、おおよそつぎのようなコーナーが設けられていた。知らなかったことも多く、忸怩たる思いもする。生家に近い池袋駅界隈には多くの白衣の傷痍軍人の人たちが募金箱を前に立っていた。ニセの人たちが多いと、大人たちの声を聞いて育ったことにも拠るのかもしれない。

①戦地に向けて ②戦地での受難、治療 ③搬送、戦時下での療養  ④家族とともに ⑤心の傷による労苦 

私がとくに印象深かった展示の一部を挙げるならば、

②では、暗いフロアに等身大の人形により野戦病院が再現され、そのリアルさに驚いた。ガイドブックの解説にあるように、「戦争末期の病院は、名ばかりのものだった」ことをうかがい知ることができる。

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ガイドブック7頁より戦地や野戦病院で包帯がなく、日章旗や褌などが代わりにまかれたという。

③では、横浜の山下公園に係留されている、かつて日本郵船の北米航路の客船だった「氷川丸」が、1941年11月、海軍に徴用されて病院船となったことを知った。南洋諸島、太平洋諸島の戦地から戦傷病兵を内地へと送る役目だったが、幾たびもの爆撃を受け、薬品や医療用品の不足から船上で亡くなる兵士も多かったことがわかる。また、戦地でハンセン病と診断された兵士の手記によれば、診断後は、医師・看護婦・兵士たちの態度が一変し、治療も生活も劣悪なものになったと綴られていた。オーストラリアの収容所から岡山邑久光明園を経て多摩全生園に転じた戦後もさまざまな差別に苦しんでいたことがわかる。昨年の夏、しょうけい館の企画展「戦後80年・戦争とハンセン病」は残念ながら見逃してしまっていた。

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ガイドブック9頁の一部。3枚のスケッチの右端、負傷兵は通常トラックで病院で運ばれるが、象で運ばれた戦地もあったことがわかる。

⑤は、新しく加わった常設展示ということで、簡単な4枚ほどのパネルで構成されていた。私は、タッチパネルにあった「国府台陸軍病院における精神・神経疾患一覧(1937年12月1日~1945年11月30日)」の資料で、1万449人の患者のうち、頭部外傷・癩癇1086人10.4%、精神分裂症4384人41.9%、ヒステリー1199人11.5%・・・という数字に出会った。これはほんの氷山の一角に過ぎないのだろう。

 というのも、近頃でこそ、戦後80年前後に至って、メディアは、いわゆる戦場体験者のPTSD(心的外傷後ストレス障害)について報道することも多くなったが、日本政府は、その実態を把握しようとせず、対策も手つかずであった。戦傷病者の遺族、家族から戦後の夫や父親たちのさまざまな症状や行動に苦しんだ体験や報告がなされるようになった。なかでも、2018年発足した黒井秋夫さんを代表とする「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」の活動については、今回、調べていて初めて知ることも多かった。会の活動とともにメデイアによる報道、研究者からの発信と相俟って、厚労省への要請も重ねた結果、今回のしょうけい館の常設展示にもつながったという。さらなる詳細な展示を期待したい。

 ベトナム戦争やイラク戦争からのアメリカの帰還兵たちのPTSDについて、いささか知ることになっても、日本の復員兵たちのそれにまで及ばなかったことにいまさらながら反省するのだった。

[参照]
・「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」ホームページ
https://www.ptsd-nihonhei.com/
・戦後タブーで研究進まず 戦病者67万人が精神・神経病との陸軍報告 これでも氷山の一角 トラウマ 埋もれた傷痕
産経新聞2025年8月8日
https://www.sankei.com/article/20250808-QYKXK2XETBKGHNEU6ZQA6TW2H4/
・未来に残す戦争の記憶心を壊した「熱血軍曹」の父 死後に知った戦争トラウマ、遺族の悔い
 

 企画展「戦傷病者と結核」にも、私には知らないことが多かった。父と長兄の二代続く薬屋に育った私は、ツベルクリン・BCG世代でもあり、結核の治療薬「ニッパス」や「ストレプトマイシン」の名を聞くと、当時の頃を思い出したりする。展示もさることながら、シアターでの証言映像には説得力があった。一時間に3本ほどのドキュメンタリーを上映していた。シベリヤ抑留後結核を発症した方、戦後も入退院を繰り返した方など仕事にもつけず、経済的にも精神的にも支え続けた妻たちの証言、農村の男社会での農作業に頑張った妻 、洋裁によって家計を支え切った妻たちの証言は重かった。

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【参考】

・「しょうけい館」紹介動画
https://www.youtube.com/watch?v=AU0jjju3hTc

・木龍克己「しょうけい館について」(国立公文書館)
https://www.archives.go.jp/publication/archives/no65/6210

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2026年2月 5日 (木)

選挙戦は始まったが~嘆いて、嘆いて、嘆いて・・・(4)選挙公報が届いたが、選ぶ基準はどこに?

 なぜ、いま、選挙だったのか

  記録的な大雪に見舞われている人たちを思うと胸が痛い。屋根の雪で崩れる家、背丈ほどの雪にすっぽり埋まってしまった街、交通手段が断たれ方々の食料や電気・ガス・水道が不安である。これ以上、雪による犠牲者を出さないために、私たちのような高齢者を取り残さないためには、地域の力だけだはどうしようもない状況なのだから、せめて、「自衛隊」の大量動員がなされるべきだと思う。能登の地震や水害のときもそうだったが、災害救助には、政府の早い決断と実行が問われるのではないか。
 ところがどうだろう。真冬の、積雪地帯への配慮もなく、短期による行政への負担を承知の上で、解散・選挙につき進んだ高市首相の思惑は、まさに“自分勝手解散”にあったとする見方は、否定しがたいのではないか。維新の「衆院定員削減」の早期実現を受け入れた形で、首相指名の票を取り込んだが、いまや「定員削減」なんてどこへやら。維新の方も、さまざまなスキャンダルが重なり、単独では党の存在が危ういとの判断での連立入りは、渡りに船だったかも。

 「日本列島を、強く豊かに。」とは、ミサイル基地と原発をふやすこと?!

 2月3日に投票所入場券が届き、4日には選挙公報が届いた。きょう5日は、施設での期日前投票の日である。各党の公約は、自民、中道については新聞全面広告で見ていたものの、「公報」において、自民党に「日本列島を、強く豊かに。」と高市首相に笑顔でよびかけられても、むなしさが先に立つ。「強く豊かに」とは、真逆のことをさらに強化しようとしているように思うからだ。その一つが、日本列島のいわば過疎地に原発を設置、原子炉は60基近くにも及び、30年はかかるという廃炉・廃炉措置中の原子炉を26基も抱えているのである(当ブログ、前二つの記事参照)。安定的な電力確保を口実に再稼働や新設を進めようとしている。

また、さらに、日本列島の北は北海道旭川市の近文台分屯地から沖縄本島まで、長射程ミサイル及び弾薬庫配備が決定している自衛隊基地は、以下の地図の通りである。
  この地図には出ていないが、自衛隊基地が2019年3月に開設された宮古島保良地区には弾薬庫が、2023年3月に開設した石垣島にはミサイルが導入され、2016年3月に開設した与那国島でもミサイル導入の計画が進んでいる。

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「長射程ミサイル 弾薬庫 全国62棟予算化」(赤端電子版2025年10月15日)より

   原発にしても、ミサイルにしても、地元に大きな負担を課した上、攻撃対象を列島各所に増設しているようなものである。そうした島民の不安や怒りをさらに高めるのは、攻撃を受けたときの不可能にも近い「避難計画」である。これでは、島民や牧場の牛たちに死ね、と言っているようなものだと怒る島民もいる。先の当ブログで紹介した、映画『戦雲』を見るまでもなく、日本の国土も国民も守れないではないか。

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 「公報」と街頭演説との落差

「選挙公報」にある「自民党5つの約束」はなんら具体的な政策は提示されないまま、「高市早苗の挑戦に、あなたの力を託してください」はないだろう。国民が選挙で託すというならば、議員であり、議会のはずである。さらに「選挙公報」を見ると、具体的な政策に乏しく、「あとはお任せください」という白紙委任の恐ろしさを感じる。

   他党に追随して、にわかに浮上させた「二年間食料品限定消費税減税」策などはどこにも表記されていない。高市首相の秋葉原の第一声の街頭演説でも触れることはなかった。だがその一方で、「スパイ防止法」の制定と刑法改正による「国旗損壊罪」創設を強調する。街頭演説の主な聞き手は自民党支持者であり、厚い警備に囲まれての演説である。

「公報」は、「言語明確、意味不明」に近い曖昧を旨とし、演説はなるべく過激に盛り上げようという意図があらわにも思える。
  高市自民党総裁がNHKの党首による日曜討論を指の治療で欠席した件については、いろいろ取り沙汰されているが、指の治療が必要であったとしても数時間後には地方への応援演説をしている事実から察するに、党首討論に欠席する理由にはなりにくい。週刊誌などによる高市首相の不都合な報道についての質疑が予想されるので、逃げたかったのではないかという推測を無下に否定できないだろう。 
 旧統一教会と高市氏との「不適切な」関係が、次々に明るみになる中で、旧統一教会の内部文書を「怪文書」と一蹴しただけで、説明がない。 

新党「中道改革連合」という失策

 公明党が自民党との連立から離れたのは、むしろ遅かった感もあるが、この党も党員の高齢化が進み、党存続の危機感から、斉藤代表は着地点を模索していたのだろう。一方、立憲民主党も、比較第一野党の存在感が示せず、このままだと議席を減らすかもしれないとの不安があった。トップ同士の協議で新党結成に進んでいったのだろうと思う。そして、こともあろうに、多くの政策が公明党にすり寄った上、小選挙区から公明が降り、比例の上位を譲るという決着をみた。多くの議員は、協議や説明もなく寝耳に水だったらしい。公明党は「いいところ取り」と言ってもいいかもしれない。

 立憲は、2024年10月の衆院選挙では、148議席をとっていた。立憲の支持者というわけではないが、野党第一党である矜持はなかったのか、情けないことになったの思いが強い。
 国民と参政は、自民との連立を伺うような政策も多いし、れいわ・共産・社民も私にとっては、一長一短があり、他の新しい少数政党には、疑問も多い。ということで、いったいだれを、何党を選ぶのか、白紙かの迷いは続く。

 <参考>

防衛省(2025年8月29日)
国産スタンド・オフ・ミサイルの早期整備等について
https://www.mod.go.jp/j/press/news/2025/08/29c.html

赤旗電子版(2025年10月15日)
長射程ミサイル 弾薬庫 全国62棟予算化  完成ゼロ 進ちょく不透明
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik25/2025-10-15/2025101501_04_0.html

関 耕平「「南西シフト」による軍事基地配備と与那国島のいま」『住民と自治』 2024年11月
https://www.jichiken.jp/article/0384/

 

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2026年1月21日 (水)

映画「戦雲」を見る。

 地元佐倉市内の二つの9条の会の共催で、「戦雲」(三上智恵監督 2024年)上映会が開かれた。佐倉市立美術館ホールは定員99人だが、チケットは売り切れで、断ることも多かったという。観客は圧倒的に高齢者が多いのが気がかりであった。もっとも、共催の9条の会自体の高齢化は止めようもない流れにあるので、仕方ないことなのかもしれない。

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 映画は、日本の最西端の与那国島と石垣島、宮古島、沖縄本島において、自衛隊の基地が次々と建設され、戦闘を前提にしたミサイルや弾薬庫新設の過程で、それに抵抗する人々の姿を描くドキュメンタリーである。2016年から23年までの島の人々の生活と意思を丹念に追い続けた記録である。四島の動向が並行して語られるので、地名や人名がやや混乱することもあった。

 そんな中でも、とくに、与那国島の漁師「川田のおじい」川田一正さんと石垣島の「いのちと暮らしを守るオバーたちの会」の山里節子さんからのメッセージは強く心に残った。川田さんは、久部良(くぶら)のカジキ漁のベテランで島の競艇のような「ハーリー」という伝統行事の応援にも熱が入る、どちらかといえば保守的な人物として登場する。1937年生まれの山里さんは、石垣島出身で、戦争で家族4人を失い、戦後に習った英語を活かした職業などを経て、本土復帰後は、環境保護、平和運動を続けている。奄美大島、宮古島に続いて、石垣島にもミサイル基地計画が進み、住民と共に住民投票を求める署名運動が盛り上がったにもかかわらず、市議会は条例を変えてまでして無視をし、ミサイル基地の建設は始まり、2023年3月には、ミサイルの導入に至ってしまう。山里さんが、常に先頭に立って、張りのある声で訴える言葉と歌声は、説得力があるゆえ悲痛でもあり、映画全編を引き締めているようにも思われた。

 もちろん、四島で展開されている基地拡張反対運動には、より若い世代の、さまざまな職業の人々が諦めそうにもなりながら、悩みながらも声を上げ続けている活動も伝える。

 川田さんが自衛隊員に金網越しに、「戦争になったら、逃げるんだ」と呼びかけ、ミサイルを搬入する「道を開けてください」の警告に「平和の道を塞いでいるのはあなたたちじゃない」という山里さんの叫ぶ場面は忘れ難い。

 監督の三上さんは、アナウンサー出身で、1995年、琉球朝日放送移籍後は沖縄に移住、多くのテレビ番組の制作も手掛け、さらには映画監督として「標的の村」(2013年)「沖縄スパイ戦史」(2018年)などを監督、各種の賞を受賞している。

 この映画でもさまざまな手法を用い、与那国島の牧場の牛、宮古島のサトウキビ畑やヤギなどが画面に大写し、一瞬ほっと和ませる。また、与那国島の「ハーリー」に参加する自衛隊員とその子供のエピソードが添えられる。「川田のじいじ」が、カジキに襲われたときの怪我を乗り切り、巨大カジキを吊り上げ、大興奮で島に帰る映像で、映画は終わる。重いテーマを優しく突きつけられたような気がする。

 もうだいぶ前に見た、やはり沖縄をテーマにした、影山あさ子監督のニュースや映画の強烈さとは、少し違うのかなとも思った。

 

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2025年10月27日 (月)

「黒川の女たち」、20席の小劇場で見る

 田端のシネマ・チュプキという、小さな劇場、予約しないと観られないという。駅からJR東日本の長いビルに沿って坂を下り、仲通り商店街を目指す。途中、通りがかりの方が、業務用スーパーの隣にありますよとの案内の通り、たしかにそれはあった。

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 たしかテレビ朝日の番組や新聞記事で、おおよそのことを知っていたつもりでいたが、映画は、太平洋戦争敗戦直前、関東軍敗走の地に取り残された満蒙開拓団の若き女性たちが背負った過酷な運命を、高齢になった当事者たちの証言や活動、それを支える人たちを丹念に追ったドキュメンタリーだった。

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 1939年11月、決して豊かとはいえなかった岐阜県加茂郡黒川村の人たちが、開拓団への分村を目指し、まず視察に赴き、以降1941年から44年にわたって、ハルピンの南、吉林省陶頼昭に入植、650人を超えた。開拓自体も青壮年層の男子は徴兵され、女性や高齢者による重労働を伴うものだった。ところが、敗戦直前、ソ連の参戦によって、ソ連軍は満州国に侵攻、黒川開拓村にも迫ると関東軍は、村民を置き去りに敗走した。中国人からの襲撃、近隣開拓民の集団自決がなされる中で、村民の安全と暮らし=食料確保のためということで、1945年9月、村民幹部は、ソ連軍への「性接待」を始めたのである。その犠牲になったのが、未婚の十代、18歳以上の女性たち15人であった。1946年5月ソ連軍撤退まで続き、15人の内4人は、現地で性病などにより命を落としたのであった。この事実は、敗戦後生還した451人の村民の間では隠蔽され、その上、犠牲となった女性たちには、こころない仕打ちがなされ、村を追われるように散り散りなっていった。

 1961年になって、現地で亡くなった開拓団員を偲んで、黒川村に「招魂碑」が建てられ、1981年、開拓団の体験記『ああ陶頼昭』が遺族会により刊行され、翌1982年には「乙女の碑」が黒川村に建てられたが、「性接待」の事実は公にされることはなかった。

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『告白 岐阜・黒川満蒙開拓団73年の記録』の年表より。

 女性たちの長い苦難の歴史が動きだしたのは、2013年、長野県下伊那郡阿智村に満蒙開拓平和記念館がオープンし、館主催の語り部の会で、佐藤ハルエさんと安江善子さんの二人が、犠牲の当事者として初めて、事実を語り始めたことだった。家族にも語ることをしなかった他の女性たちを含めて、連絡を取り合っていた絆は強く、二人の勇気ある告知に、語り始める人、そして彼女らを支える開拓団の女性たち、遺族会会長、さらには、彼女らの子どもや孫たちにも支えられ、語り継ぎ、書き継ぐことによってメディアにも注目され始めたのであった。そして、それらの活動の成果として、「乙女の碑」の傍らに長文の記録と証言によって構成された「碑文」が設置、除幕されたのが2018年11月18日だったのである。


 関東軍によって傀儡国家満州国が建設され、軍事拠点化を図るための食糧増産の目的で大量の開拓民を必要とされ、疲弊した農村救済のためと相俟って、500万人の開拓民が送られたていた。黒川開拓団もその一つであったのだが、敗戦間際、ソ連軍の侵攻が迫ると、関東軍は開拓民を守るどころか、従軍慰安婦とともに逃げ去ったという。それまで虐げられてきた中国人の報復と侵攻してきたソ連軍の間に孤立した開拓団幹部の生き残り策が、未婚女性による「性接待」であったという事実にも、いたたまれない思いがするのだが、日本に帰還後の彼女らのたどる長い苦しい過酷な道のりがあった。戦争の悪と女性蔑視という二重の犠牲を背負いながら、史実に立ち向かった勇気ある活動に敬意を表さずにはいられなかった。

 この映画が、テレビ朝日製作、プロデューサー江口英明・松原文枝、監督松原文枝ほか、50代から、より若いスタッフによって製作されていることを心強く思った次第である。

参考映像
NHKETV特集「満蒙開拓団の女たち」(2017年8月5日)【未見】
テレビ朝日報道ステーション特集「語り継ぐ戦争と性暴力『黒川開拓団の』女性たちの告白」(2019年8月16日)
テレビ朝日「史実を刻む―語り継ぐ戦争と性暴力」(2019年8月24日)

参考資料
川 恵美、NHKETV特集取材班『告白 岐阜・黒川 満蒙開拓団73年の記録』(かもがわ出版 (2020年3月31日)
『黒川の女たち』公式パンフレット(太秦KK 2025年7月12日)
松原文枝『刻印 黒川開拓団の女性たち』(KADOKAWA 2025年8月26日)【未見】

 

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2025年10月26日 (日)

「戦場のピアニスト」ふたたび

   初めて見るような「戦場のピアニスト」だった。2003年、封切り時に、地元の映画館で見たはずだった。今回NHKBSで見ることができた。

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 ドイツナチスのポーランド侵攻で廃墟となったワルシャワの街、崩れた建物に潜んでいたユダヤ人ピアニストの主人公がドイツ将校に見つかり、奇跡的に残されたピアノを弾く場面だけは、覚えていた。でも、イギリス軍やフランス軍の反撃が近いというニュースを聞くも、身に迫るナチスの脅威、残虐な仕打ちに対する両親、弟、妹たちの微妙に異なる恐怖心や心理状態が描かれていたことなどは、あらためて感じ入ったところだった。また、収容所送りとなった家族たちと引き裂かれた後、ピアニストは、ゲットーにピストルなどの秘密裏に持ち込むユダヤ人蜂起の準備にも加担、ゲットー脱出に成功、反ナチスの地下活動をする同志たちのさまざまな支援を受けながら、転々とした逃亡生活に入る。ゲットー蜂起も完全に鎮圧され、ナチスの殺戮を目の当たりにする。同志の支援も断たれ、飢餓に陥り、残骸の中をさまよう場面で、前述のドイツ将校に出遭う場面になるのだった。自らもピアノをたしなむ将校は、ピアニストの演奏に感服、その場を立ち去るが、その後、幾たびか、廃墟の隠れ家に食料を差し入れ、ワルシャワ解放のソ連軍もまじかと別れを告げに来る。

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 数年ぶりに、瓦礫の中のピアノに向かうシュピルマン。ピアノの左に置かれている缶詰は、瓦礫の中をさまよい、ある台所の戸棚に残っていた缶詰、缶切りがなく、開けられないまま抱え歩いてきたものだった。

  ソ連による解放後のポーランドで、ピアニストは音楽活動を続けるのだが、エンドロールで、ピアニストのシュピルマンが2000年に88歳で死去したこと、ドイツ人将校のホーゼンフェルトが1952年にソ連の強制収容所で死去したことが示されるのであった。
 監督のポランスキーは、「水の中のナイフ」で知られる奇才とされていたが、みずからもユダヤ系であり、ナチス占領下でゲットーでの過酷な暮らし、収容所行きを逃れたものの転々とし、母は収容所で殺された体験をしている。ピアニストを演じたアメリカの俳優エイドリアン・ブロディの父は、ポーランド系ユダヤ人で、ホロコーストで家族を失った身。母は少女時代、ハンガリー動乱によって、アメリカに逃れてきた難民だったという。フランス、イギリス、アメリカとドイツ、ポーランドの合作で、スタッフ・キャストらの熱量が感じられる作品に思えた。各場面で奏せられるショパンの曲は、音楽に疎い私には、どこかで聞いたような曲といったレベルで曲名も知らなかったのだが、作品を盛り上げていたと思う。

  ただ、ポランスキー監督は1977年の、アメリカでの少女強姦事件により、アメリカより逃亡中であって、アカデミー賞の授賞式には立つことができなかった、という。「戦場のピアニスト」の評価と彼の倫理観を考えると複雑なものがある。
 さらに、多くの犠牲者を出したユダヤ人によって建国されたイスラエルのガザへの容赦ない爆撃によって瓦礫の街となったリアルな映像とナチスによって廃墟と化したワルシャワの街のシーンは重なる。戦争による破壊と殺戮の絶えない世界で、日本が、自分たちがなすべきことの重要性が問われるのだった。

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2025年8月20日 (水)

「火垂るの墓」と「禁じられた遊び」ふたたび

 今年の8月は、立て続けに二本の映画を見た。

「火垂るの墓」(1988年、高畑勲監督)2025年8月15日

 夜9時から、日本テレビで放映。ずいぶんと前にも、テレビで見ているので二度目になるのだが、細かいところはかなり忘れている! 今回はカットなしでの放映ということだが、これまで、どんな個所がカットされていたのか。冒頭、サクマ式ドロップス(文字は左から書かれていたはず)の四角い赤い缶が転がる場面があっという間に過ぎてしまって、定かに確認できなかった。録画をとっておくべきだった。

 というのは、かつて、池袋の生家近くにあった「サクマ式ドロップス」の工場のことを書いたとき、缶が転がるのをラストシートとばかり思いこんでいたからである。その製造元の佐久間製菓は、コロナ禍のさなかに廃業したが、跡地はどうなっているのだろうか。今は、従妹夫婦が住んでいる生家だが、いまだに跡地界隈に立ち寄ってはいない。

サクマ式ドロップス工場の思い出~池袋第5小学校のクラス会へ(2009年10月 8日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/10/post-e8b5.html

 

 敗戦が真近い神戸で、父が出征し、母と暮らしていた中学生の兄と4歳の妹の物語である。母を空襲で失い、西宮の親戚の家に引き取られるが、だんだんと邪険に扱われるようになって、崖下のトンネルのようなところに隠れるように暮らし始める。さまざまな思いつきや精一杯の工夫をしての暮らし、けなげにも幼い妹を喜ばせ、いたわる兄だったが、食料にも事欠き、衰弱してゆく妹を助けられず、一人で亡骸に火を放つ場面はつらかった。元気な頃に二人して蛍と戯れた場所だった。

 私が、このアニメで、注目したのは、兄妹に係る大人たちの描き方だった。親戚のおばさん、鍋や七輪を融通してくれた金物屋さん?、親切な農家のおじいさん、畑を荒らされたことに怒り狂うオジサン、突き出された交番で、無罪放免にしてくれたお巡りさん、栄養失調だと見放すお医者さん・・・、どこにでも、どの時代にでもいそうな人たち。責めるでもなく、称えるわけでもなく淡々と描いているからこそ、兄妹の交情と哀切が際立っているように思えた。

 

「禁じられた遊び」(1952年、ルネ・クレマン監督)2025年8月17日

 施設の映画サークルによる上映会で見た。この映画は、かつて公開時でなく、名画座のようなところで見たように思う。二度目とは言え、かなりの部分は忘れていることに気づく。

 1940年、両親をドイツ軍の空爆で失い、孤児になった5歳の少女、牛を追って来た少年と出会い、その家族に引き取られる。両親の死、子犬の死、少年から弔うということを教えられた少女は、小さな生き物たちの死を十字架を立てては悼むことを覚える。それがやがて、さまざまな十字架、美しい十字架を欲しがるようになって、少年は懸命に応えようと十字架を盗み始め、二人の秘密の遊びのようになっていく。私は、今回も、二人をめぐる少年の家族たち、戦争による生死が身近に迫って来る農村の大人たちの描き方の巧みさにも着目した。

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少女を演じたブリジット・フォッセーは、20歳になって映画界に復帰、様々な映画に出演、私の覚えにあるのは、「さらば友よ」(1968年)くらいである。

 空襲で御者を失った馬の暴走で重傷を負った少年の長兄の死、戦線から耐えきれず逃げ帰って来た隣家の息子、その息子と恋仲の少年の姉、少年の父と隣家の主とのさまざまな確執、村の教会の牧師、少女の孤児院措置のためにやってくる警官・・・。時には、ユーモラスにも描かれるなかで、少年のやさしさと少女の愛らしさ、その別れに涙しそうになるのだった。

 ルネ・クレマンといえば、私にとっては、やはり「禁じられた遊び」と「太陽がいっぱい」(1960年)だろう。大学の学園祭で、私たちの専攻クラスにより同監督の「鉄路の斗い」(1945年)を上映したのも懐かしい思い出である。

 

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