2019年11月 4日 (月)

首里城焼失、「心を一つに再建を」への不安

 私が初めて沖縄を訪ねたのは2014年11月11日だった。ホテルに荷を預け、最初に向かったのが首里城だった。長くて高い城壁を見上げながら進んで、歓会門から入り、いくつかの門をくぐり、奉神門からは有料ということであった。中庭から南殿、正殿、北殿と順路に沿って回ったのだが、建物といい、調度品といい、日本とは違う、その絢爛豪華さには、目を見張るものがあった

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正殿と南殿の間から中庭と北殿をのぞむ

 米軍による空襲で、跡形もなく灰塵に帰したあと、1992年大方が完成し、まだ、復元は続いているときいた。外形は、中国風もあり、日本風もあり、正殿には双方折衷の跡がたどれるという。屋内は撮影禁止なので、うまく伝えられない。しかし、私には、その内装は琉球王国の、ただ、ただ絢爛たる印象が強烈だった。当時の思いは、当ブログにも記したが、その印象はいまでも変わりはない。

2014年11月19日 (水)沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行>2014年11月11日~14日(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141111142-57f.html

  今回の火災では、主な建築物7棟が全焼し、調度品・収蔵品・資料なども焼失してしまったという。復元への道のりは、もちろんカラー写真はなく、設計図などの資料が残されていなかったので困難を極め、人々の叡知と労力の賜物だったことを知ると、多くの県民の喪失感には、私たちには計り知れないものがあるのかもしれない。

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『琉球新報』(11月2日)「首里城焼失 国が防火設備撤去 安全管理のに通しの甘さ浮き彫り」の記事より。今回の火災時に水が吹き出る装置ドレンチャーは作動したが、「放水銃」は熱気のため作動できなかったという。

  一方、この首里城の地下には、1945年3月の空襲激化に伴い、移転してきた第32軍司令部があった。 この地下壕は、地下30m以上、坑道は1000mにも及ぶという。1945年4月1日、米軍の本島上陸後の攻撃により、司令部は、5月22日には、南部の摩文仁への再度の移転が決定した。以降、軍民混在のままの悲惨な敗退で、多くの犠牲者を出している。司令官であった牛島満陸軍中将は、降伏を拒み、戦災と死者をさらに拡大していった。これらの経過は、2012年2月に設置された司令部跡の説明板にも、以下のように記されている。 

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  なお、つぎの「壕内のようす」の説明文については、歴史研究者の委員たちが執筆した原稿が、県によって一方的に了解なく、削除された部分があり、県議会などでも問題になったというが、現在も、そのままで、修正されていないそうだ。3行目、「女性軍属、慰安婦などが」との案文から「慰安婦」が削除され、この案文の最後に続いていた「司令部壕周辺では、日本軍に〈スパイ視〉された沖縄住民の虐殺などもおこりました」が削除されたのである。(『沖縄の戦跡ブック・ガマ』改訂版 沖縄県高教組教育資料センタ―『ガマ』編集委員会編 2013年) 

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 そんなことを考えていると、復元された首里城は、沖縄を、沖縄文化を象徴する存在ではあるかもしれないが、マス・メディアが口にする「沖縄の平和の象徴」ではありえないのではないか。たとえば、河野防衛大臣は、嘉手納基地での夜間のパラシュート降下訓練は日米協議事項、違反だと抗議したが、無視されたままなのである。こんな時こそ、呼びつけて「無礼者?!」とも言うべきではなかったか。いや、それ以前に、日米安保体制下の地位協定の名のもとにアメリカに従属するばかりで、沖縄の米軍基地は、いわば使い放題の上、沖縄県民の権利と生活を脅かし続けているにもかかわらず、日本政府は、アメリカに「寄り添い」続けているではないか。そんな政府と「心を一つに首里城の再建を」「再建に心を寄せ合って」と言われても、不安を感じてしまうのは、私だけだろうか。「再建」に政府は、なにほどのことをするのだろう。選挙や県民投票にあらわれた民意に耳を傾けようともしない政府が、この「首里城再建」を基地問題の対立にからめて利用するのではないかという不安に駆られてしまう。玉城知事は、本土復帰50年にあたる2022年をめどに具体化したいと表明している。

Photo_20191104021101 『毎日新聞』(11月2日)11月1日首相官邸にて。会談は冒頭のみ公開され、玉城知事は「県民の心のよりどころである首里城は必ず再建しなければいけない」と強調。菅氏も「政府として財政措置も含めてやれることは全てやる。一日も早く再建に向けて全力で取り組む」と約束した。 玉城知事は、復帰50年にあたる2022年には具体的な計画を表明したいとしている。焼失前の復元については33年間で総計240億円がかかったとしている。

 

 

 

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2019年10月12日 (土)

<「暗愚小傳」は「自省」となり得るのか―中村稔『高村光太郎の戦後』を手掛かりとして> を書きました

 当記事でもお知らせしましたように、表記の拙稿収録の雑誌『季論21』46号(本の泉社)が発売となりました。新聞広告による「目次」と拙稿の章立てを紹介いたします

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『季論21』46号(2019年10月)新聞広告より

************

「暗愚小傳」は「自省」となり得るか――中村稔『高村光太郎の戦後』を手掛かりとして

はじめに

蟄居山小屋生活の実態

『高村光太郎の戦後』に見る「自省」とは

日本文学報国会の高村光太郎

戦時下の朗読運動の中の高村光太郎

高村光太郎における詩作品の隠ぺいや削除はあったのか

付表:主な高村光太郎詩集・選集の出版概要一覧(1914~1966)

*************

 「日本文学報国会の高村光太郎」では、櫻本富雄『日本文学報国会』、坪井秀人『声の祝祭』やNHK編『日本放送史』などを踏まえて、光太郎が詩部会の会長を務めていた日本文学報国会が力を入れていた「戦争詩の朗読・放送」について、少し調べてみました。お手元の詩のアンソロジーやいくつかの文庫の高村光太郎詩集や『智恵子抄』などと一緒に拙稿を読んでいただければ幸いです。

 なお、この拙稿には、書ききれなかったいくつかを、当ブログの「あらためて、高村光太郎を読んでみた1~9」に綴っていますので、お読みいただけれと思います。

 また、絵葉書や展覧会のカタログ・チラシなどを整理していた折に出てきた二葉のはがきです。

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「平塚らいてうをしのぶ展記念はがき」という袋に残っていた二枚です。右が『青鞜』創刊号(1911年9月)の表紙、長沼智恵子(1886~1938)の作品です。その後、高村光太郎と結婚する智恵子ですが、挿画はミュシャを思わせるものがあります。この才能を伸ばしきれなかったのは「光太郎の理想主義的な愛とモラルに圧迫」されたこととの関係が問われることもあります(『近現代日本女性人名事典』)。左が『青鞜』2巻4号の表紙、尾竹紅吉(富本一枝、1893~1966)の作品です。

 

<追記2019年11月11日>

下記のブログにて、拙稿を書影入りで紹介いただきました。

ありがとうございます。

高村光太郎連翹忌運営委員会のblog

(2019年1029 10:45)

http://koyama287.livedoor.blog/archives/3953722.html

 

 

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2019年10月 5日 (土)

日曜美術館「異色の戦争画~知られざる従軍画家・小早川秋聲~」(NHKEテレ2019年9月1日)を見て


 やや旧聞に属するのだが、ある地元の会で、表記の番組がよかったよ、と話に聞いて、録画で見ることになった。放送の概要は、下の番組案内を参照してほしいのだが、いま残されている小早川秋聲の「国の盾」という作品はインパクトのあるものだった。ちょうど、私は、高村光太郎のことを書き終えて、そこで書ききれなかったことを、ブログ記事にもしていたさなかだった。Photo_20191005181801
NHKの番組案内より。『国の盾』(151×208cm,
1944年制作、1968年改作)

  この絵には確かに見覚えがあると思って、昔、買って置いた『芸術新潮』か「トンボの本」ではないかと、探し始めると、あった!ありました。『芸術新潮』は<戦後50年記念大特集>の「カンヴァスが証す 画家たちの『戦争』」(1995年8月)であり、とんぼの本の方は「画家たちの『戦争』」(2010年7月)と題されるものだが、同じ新潮社から出ているので、内容的にはだいぶ重なるところが多いのがわかった。

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上段:『芸術新潮』1995年8月。下段:『画家たちの戦争』(2010年7月

 

  NHKの番組案内にはつぎのようにあった。
「陸軍の依頼を受けて描かれたものの、軍から受け取りを拒まれたという異色の戦争画、『国之楯』。作者は日本画家の小早川秋聲。満州事変から太平洋戦争まで、最前線で取材し、数多くの戦争画を描いた。番組では、知られざる従軍画家、小早川秋聲が残した数々の戦争画を、近年新たに発掘された絵や文章を交えて辿(たど)りながら、戦争末期の1944年に戦争画の集大成として描かれた『国之楯』を読み解いていく。」

 小早川秋聲(1885~1974)は鳥取県の寺の家に生まれたが、跡を継ぐのを拒み、京都での日本画の修業の傍ら、国内や中国をはじめ欧米への海外への旅行を繰り返し、文展や帝展への入選を重ねていた。1931年の満州事変以来、関東軍や陸軍の従軍画家として活動した。秋聲の戦争画は戦闘場面というよりは兵士の生活に密着したテーマが多いという。戦場の前線にあっても、この画家の優しいまなざしを垣間見る思いではあった。

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『画家たちの戦争』より 。右『出陣前』(1944年)。

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『画家たちの戦争』より。左上段:『無言の戦友』、左下段:『護国』(1934年)。

 
 ところで、番組の核となった「国の盾」は、兵士の亡骸の暗黒の背景と国旗の赤の部分で覆われたその面貌が、強烈であったが、陸軍に拒否された作品は、この絵ではない。その後、2回にわたって修正されていることも番組で知った。日南町美術館の学芸員の説明によれば、陸軍から戻された作品は、その後1944年と1968年の2回にわたって描きなおされているが、どの部分かはっきりしないという。ただ、当初の作品の背景には、桜の花びらが舞い散っていたことらしいことが絵の具の重ね具合の分析でわかったらしい。その後、資料を読み返してみると、1968年に刊行された『太平洋戦争名画集 続』(ノーベル書房)に収録されたものが、いま残っている「国の盾」であった。番組には、「国の盾」が<戦争画>という類型ではひとくくりできない、画家の戦争への対峙、厭戦・反戦思想までも示唆するような作品であったというメッセージが根底にあったように思う。
 しかし、私たちが、いま、目にする「国の盾」は、カンバスの裏の付記により、1968年に書きなおされことははっきりしているので、敗戦後23年後の書き直しの可能性が高いと思われる。

 陸軍に拒否された作品は、「軍神」との題だったというが、現物を見たという関係者は、見当たらず、写真も残ってはいない。にもかかわらず、ネット検索をしていると、その原作らしい、桜の花びらが散っている絵がヒットしてくるのである。これはどうしたことか、腑に落ちなかったので、日南町美術館に問い合わせてみたところ、あの桜が散る「絵」は、現実のものではなく、NHKBSがかつて放映した「極上 美の饗宴 『闇に横たわる兵士は語る 小早川秋聲 “國之楯”』(2011年8月1日)において、作成された<イメージ映像>だというのである。そして、あの「絵」が独り歩きをして、困惑されているようなことも話されていた。
  ああ、ここにもあった<イメージ映像>の罪づくりな話であった。NHKには限らないが、ドキュメンタリー番組の中の<イメージ映像>については、安直な先入観を醸成する手法なので、やめてほしい。最近、NHKスペシャルのドキュメンタリーなどでの<イメージ映像>の氾濫には、へきへきとしていることは、先の当ブログ記事でも書いている。

*8月20日の朝刊一面は「昭和天皇の“反省”“肉声”報道」が氾濫した~「NHKスッペシャル・昭和天皇は何を語ったのか」の拡散、これでいいのか (2019年8月20日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/08/post-ee7fb1.html

*NHKの良心的な番組って、何ですか~”NHKが独自に入手した資料が明かす・・・”ドキュメンタリーの虚実(2019年8月18日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/08/post-a2ae43.html

 さらに、この番組は、従軍画家が「戦意高揚」の絵ばかりでなく、「国の盾」のような絵を描いた、ということに重点が置かれていて、その画家の「心のうち」を辿ろうという趣旨であった。しかし、私は、陸軍に突き返されたという作品は、それだけでも、十分に意義があることだと思い、そのまま保存しておいてほしかったのである。画家としては意に添わなかった作品だったかもしれないが、1944年の作品として、依頼者の陸軍に拒否された作品として、残しておくべきだったのではないか。敗戦後の「戦争画集」収録にあたって、なぜ書き直したのか、その心の内が知りたいと思った。書き直された絵は、敗戦後初めて描き下ろされた絵としても、その強烈なメッセージは伝え得たと思う。 これまで、私は、歌人たちの戦時下の短歌を敗戦後、歌集にまとめるにあたって削除したり、「全歌集」に「歌集」を収録するにあたって、削除や改作が行われたたりしたことについて、表現者としての責任の観点から分析してきた。近くは、高村光太郎の戦争詩についても考えてきた。画家についても、同じことが言えるのではないか。

<参考>

日曜美術館「異色の戦争画~知られざる従軍画家・小早川秋聲~」
(NHKEテレ201991日) 

https://www4.nhk.or.jp/nichibi/x/2019-09-01/31/15730/1902813/

出かけよう日美旅~「日曜美術館」その舞台をめぐる 第98

鳥取県/日南町へ、小早川秋聲の故郷を行く旅

(NHKEテレ201991日)
http://www.nhk.or.jp/nichibi-blog/400/411643.html

ブログ 日南町美術館の日々

http://blog.zige.jp/museum/

極上 美の饗宴 『闇に横たわる兵士は語る 小早川秋聲 “國之楯”』

201181放送NHK BSプレミアム

2次世界大戦における日本の従軍画家に関する一考察~日本画家小早川秋聲を通して

file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/MN0SN31S/ZD30402007.pdf

<参考>

日曜美術館「異色の戦争画~知られざる従軍画家・小早川秋聲~」
(NHKEテレ201991日) 

https://www4.nhk.or.jp/nichibi/x/2019-09-01/31/15730/1902813/

出かけよう日美旅~「日曜美術館」その舞台をめぐる 第98

鳥取県/日南町へ、小早川秋聲の故郷を行く旅

(NHKEテレ201991日)
http://www.nhk.or.jp/nichibi-blog/400/411643.html

ブログ 日南町美術館の日々

http://blog.zige.jp/museum/

極上 美の饗宴 『闇に横たわる兵士は語る 小早川秋聲 “國之楯”』

201181放送NHK BSプレミアム

白石敬一:第2次世界大戦における日本の従軍画家に関する一考察~日本画家小早川秋聲を通して

file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/MN0SN31S/ZD30402007.pdf

 

 

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2019年9月25日 (水)

あらためて、高村光太郎を読んでみた(9)芸術院会員辞退のこと

 光太郎の詩集の解説や評伝のようなものでは、彼の「反骨精神」の証として、あるいは、戦時下の活動やたくさんの戦争詩を書いたことへの「自省」の現れとして、芸術院会員への推薦を辞退したこと、しかも二度も辞退していたことを高く評価している。
 194710月と195311月の辞退の顛末については、晩年連載を始めたエッセイの第1回目に書いている(「日本芸術院のことについて―アトリエにて1」『新潮』19542月)。この件では、世間にいろいろなうわさが流れているが、自分としての記録を残しておきたいということであった。人選については若干の変化はあるようだが、日本芸術院の前身の「帝国芸術院」に抱いている不潔感、その成立自体に「政治的かけ引き」を見てしまい、その内容や機構に大した違いがない以上、「あのやうなどさくさで出来上つた芸術院の内側に自分が入ることはとても出来ない」としている。まさに、正論というほかない。後世の人間が「反骨精神」や「自省」で跡付けるのには疑問が多い。

 私も、各分野ごとの定員制をとる日本芸術院、その会員推薦や芸術院賞選考過程について、何度か書いているので、ここでは詳しく述べない。その閉鎖性と政治性は現在でも変わりはない。にもかかわらず、文化勲章や文化功労者、芸術選奨など国家による褒章制度と並んだ、日本芸術院の存在は、学術や文芸の振興に役立つところか悪影響が大きいことを指摘してきた。そういう意味でも、光太郎の対応は、現代の政府にかかる褒章制度とその恩恵にあずかる人々とそれをもてはやすメディアへの警告となるだろう。

 光太郎はつぎのような詩を残している。1回目の推薦を踏まえて作ったことになる。詩集『典型』には収録しなかった。

「赤トンボ」

禿あたまに赤トンボがとまつて

秋の山はうるさいです

うるさいといへばわれわれにとつて

芸術院というものもうるさいです

美術や文學にとつて

いつたいそれは何でせう

行政上の権利もないそんな役目を

何を基準に仰せつけるのでせう

名誉のためとかいふことですが

作品以外に何がわれわれにあるでせう

さういふことは前代の遺物でせう

芸術院会員などといふものよりも

宝くじ五六本あてたやうな現ナマの方が

作家にとつて実益になるでせう

文化勲章といふものとても

授ける以上はらくに食へる年金を

死ぬまで贈らねば無意味でせう

実益のないことは子供だましでせう

レジヨン ドヌウル ルウヴル入の時代は

もう通り越してもいいでせう

作家は作ればいいでせう

政府は作家のやれるやうにすればいいでせう

無意味なことはうるさくて

禿あたまの赤トンボのやうです

19491024日作。『展望』19501月)

   ひとまず、髙村光太郎については今回で終了、別稿では書けなかったもろもろを記録にとどめた。拙稿が活字になった折は、お知らせしたい。

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あらためて、髙村光太郎を読んでみた(8)晩年の「新しい天の火」

 光太郎は、1956年4月2日、74歳の生涯を終えるが、その最晩年における、あるテーマの詩作品をさかのぼってみた。みごとに、雑誌の新年号、新聞の元旦号を飾る詩人であったことがわかる。これは、戦争詩を書いていた頃と変わりはない。

「おれの詩」
(1948年11月25日作。『心』1949年1月、『典型』収録)

「山荒れる」
(1949年11月8日作。『心』1950年1月『典型』収録)

「明瞭に身よ」
(1950年12月14日作。『出版ニュース』1951年1月)

「新しい天の火」
(1954年12月25日作。『読売新聞』1955年1月1日)

「開びゃく以来の新年」

(1955年12月5日作。『中部日本新聞』1956年1月1日)

「お正月の不思議」                              

(1955年12月19日作。NHK放送1956年1月1日)

「生命の大河」
(1955年12月19日作。『読売新聞』1956年1月1日)

 生涯最後の詩作品とされるのがつぎの「生命の大河」であった。末尾の8行は省略したが、『読売新聞』の元旦号に掲載された。題は、壮大で、何事かと思わせるが、「原子力」の未来をうたいあげたものだった。1956年とはどういう年だったのか。前年12月16日に成立した原子力基本法など三法が56年1月1日に施行、発足した原子力委員会の初代委員長に読売新聞の正力松太郎が就任した日でもあった。前年12月26日には日米原子力協定調印、年が明けると、日本原子力産業会議、原子燃料公社発足、東海村には原子力研究所の建設が始まる。すでに、1950年前後から米ソの原爆・水爆実験が盛んに行われるが、その一方で、唯一の被爆国、日本の原子力政策は進む。1953年からは『読売新聞』傘下の日本テレビが発足し、新聞・テレビを通じて、「原子力の平和利用」のキャンペーンが展開されている。

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「生命の大河」『髙村光太郎全詩集』より。読みにくいので、念のため下記にも再録する。

「生命の大河」
生命の大河ながれてやまず、
一切の矛盾と逆と無駄と悪とを容れて
がうがうと遠い時間の果つる処へいそぐ。
時間の果つるところ即ちねはん
ねはんは無窮の奥にあり、
またここに在り、
生命の大河この世に二なく美しく、
一切の「物」ことごとく光る。

人類の文化いまだ幼く
源始の事態をいくらも出ない。
人は人に勝たうとし、
すぐれようとし、
すぐれるために白己否定も辞せず、
自己保存の本能のつつましさは
この亡霊に魅入られてすさまじく
億千万の知能とたたかひ、
原子にいどんで
人類破滅の寸前にまで到着した。

科学ほ後退をゆるさない。
科学は危険に突入する。
科学は危険をのりこえる。
放射能の故にうしろを向かない。
放射能の克服と
放射能の善用とに
科学は万全をかける。
原子力の解放は
やがて人類の一切を変へ
想像しがたい生活図の世紀が来る。

(後略)

 1954年3月焼津の「第五福竜丸」が操業中ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験により多くの被爆者が出て、後、そのうちの一人久保山愛吉さんが原爆症で亡くなった。日本学術会議では原子力研究の自主・民主・公開の三原則を声明、市民による水爆禁止署名運動なども見られた。そんな中で、光太郎は、『読売新聞』1955年元旦号にも、下記の作品を寄稿している。

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「新しい天の火」『髙村光太郎全詩集』より。1955年元旦は『読売新聞』にとっては、上述のように特別の日であった。『髙村光太郎全詩稿』の北川太一によれば、「その光いまこのドームに注ぐ。/‥‥/清められた新しき力ここにとどろけ。」の末尾4行は、編集部の要請で追加されたという。元旦号第1頁の”陽を受ける国会議事堂”の写真に呼応するような主旨の要請での追加であった。最後の1行は、「真に新しきもの起れ」「すさまじく新しき光ここにとどけ」のメモが草稿の欄外に残されているが、光太郎みずからの修正要請で、「清められた新しき力ここにとどろけ」に落着した経過があるという。

 光太郎が、「原子力」を詩作品に取り込んだのは、以下の1948年の「おれの詩」が最初だろうか。1949年「山荒れる」が続く。湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞したのが1949年11月だった。それにしても、光太郎は、「原子爆発大火団の万能を捕へよ」と言いながら、いとも簡単に、「原子力平和利用政策」に取り込まれてしまったのか。戦争詩へとのめり込んでいったことへの「自省」とは何だったのだろうか。みずからの体験から「学習」することができなかったことへの一つの証でもあろうか。

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「おれの詩」『典型』より。

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山荒れる」『典型』より。末尾の9行は省略した。

 光太郎は、科学の力、原子力への期待は大きく、歌い上げるのだが、政府の原子力政策には何の疑いももなかったのだろうか。私など、子ども心に、広島や長崎の原爆の「怖さ」を見聞きするたびに、「原子力」への拒否反応のようなものがあったように思う。部分的な批判をしながらも、詩人としての髙村光太郎にもっとも影響を受けたという吉本隆明の『「反核」異論』(1983年)、前衛歌人から宮廷歌人へと「転向」した(1993年)という岡井隆のたどった道、原発事故への対応を思い起こすのだった。

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2019年9月24日 (火)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(7)敗戦後、天皇をどうよんだか

 光太郎は、前述のように1950年に『典型』という詩集を出版し、敗戦後の詩作品をまとめた。そこには、「暗愚小伝」という題でまとめられた20篇からなる詩があり、これは、雑誌『展望』の1947年7月号に一挙に掲載されたものである。これらの詩を念頭においてだろうか、光太郎は『典型』の「序」において「昭和二十年十月私がこの小屋に移り住んでから以降の作にかかるものであり、それ以前の作は含まない。終戰直後に花巻町で書いたものや、ここに來てから書いたものでも、その頃の感情の餘燼の殘つてゐるものははぶいた。それらのものは、いはば戰時中の詩の延長に過ぎないものであるからである。」とも書き、「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、ひとつの愚劣の典型を見るに至つて魂の戦慄をおぼえずにゐられなかつた。」と。さらに、敗戦後五年間の「これらの詩は多くの人々に悪罵せられ、軽侮せられ、所罰せられ、たはけといわれづづけて来たもののみである。私はその一切の鞭を自己の背にうけることによつて自己を明らかにしたい念慮に燃えた。その一切の憎しみの言葉に感謝した。」とも記す。当初は、この潔さに着目したのだが、実際に収録された作品やその後の戦争詩への扱い方について知るに及び、大きな疑問が残ったのである。
 「暗愚小伝」については、多くの詩人たちが、いわゆる戦争詩について、光太郎ほど「自省」をした文学者がいただろうか、との高い評価をしていることや私自身の読み方については、別稿に譲るが、ここでは、他の作品にも触れてみたい。 

「東洋的新次元」
東洋は押石(おもし)のやうに重く、
東洋は鉄鍋のやうに暗い。
君主と英雄と先輩と親分とは
六千年の昔から頭上にあつて人を圧し、
人は虫けらとなつて営営なほ且つ痩せた。
この伝統が何に由るかを知らず、
しかもこの伝統は争ひ難い習性となつて、
千百の変貌をとげながら
綿々として今も尽きない

東洋の民の吐息は詩となるほかない。
詩は弁論の矛を持たない。
詩はただ訴へる。
東洋の詩人は民の吐息を総身にあびる。
(後略)
東洋はのろいが大きい。
東洋的新次元の発見は必ず來る。
未見の世界が世界に加はる。
東洋の美はやがて人類の上に雨と注ぎ、

東洋の詩は世界の人の精神の眼にきらめくだらう。
(後略)

(1948年8月21日作。『知識人』1948年11月、『典型』収録)        

 「詩集」の中で11頁にも及び100行に近い長詩ながら、「東洋の美」は絶対で、熱が入れば入るほど揺らぎを見せない。疲弊している敗戦後の、占領下の日本国民を励まそうとでもいうのだろうか。「東洋の美」も「東洋的新次元」の実態や具現の方向性もない。「民の吐息を総身にあびる」という詩人としての自負というか、エリート意識が顕著にも見える。戦時下の、この詩人の意識と変わらない。もっとも、光太郎自身も、この詩集の中で、つぎのように明言している。

「月にぬれた手」
わたくしの手は重たいから
さうたやすくはひるがへらない。
手をくつがへせば雨となるとも
雨をおそれる手でもない。
(後略)
(1949年10月10日作。『大法輪』1950年1月、『典型』収録)

「鈍牛の言葉」
(前略)
おれはのろのろのろいから
手をかへすやうにてきぱきと、
眼に立つやうな華やかな飛び上がつた
さういふ切りかへは出来ないが、
おれの思案の向ふところ
東西南北あけつぱなしだ。
(後略)
(1949年11月2日作。『群像』1950年1月、『典型』収録)

 後者の「鈍牛の言葉」の中には「今こそ自己の責任に於いて考へるのみだ。/随分高い代償だつたが、/いまは一切を失なつて一切を得た。」という個所もある。また詩集の題名にもなった「典型」(1950年2月27日作。『改造』1950年4月、『典型』収録)は、「今日も愚直な雪がふり/小屋はつんぼのやうに黙りこむ。小屋にいるのは一つの典型、一つの愚劣の典型だ」で始まり、「典型を容れる山の小屋、小屋を埋める愚直な雪、雪は降らねばならぬやうに降り、一切をかぶせて降りにふる。」でおわる。これらのフレーズの中の「一切」がキーワードではないのか。「典型」の結句「一切をかぶせて降りにふる」と「たやすくはひるがえさない手」とに通底するものは何なのか、を考えてみる必要がある。戦争詩でも数多く登場する「一切」などという言葉は、断定を伴い、論理性を排除する言葉だけに「たやすく」使用すべき言葉ではないはずなのだが。
 どうしても「暗愚小伝」の作品にも触れなければならない。20篇の詩の最初は、「土下座(憲法発布)」なのだが、これは、1883年生まれの光太郎が、1889年2月11日大日本帝国憲法発布の翌日、上野行幸啓の祝賀行列のときの天皇体験を綴ったものである。誰かに背負われて行列に近づいたが、人波をこじあけて、一番前に出て「土下座」をさせられた、というわけである。

「土下座(憲法発布)」
(前略)
錦の御旗を立てた騎兵が見え、
そのあとの馬車に
人の姿が二人見えた。
私のあたまはその時、
誰かの手に強く押へつけられた。
雪にぬれた砂利のにほひがした。
―眼がつぶれるぞ―

 その後の日本の戦争体験と父親らの天皇体験を重なり合わせ、自らの海外体験、デカタンスな生活、智恵子との出会いと別れも綴られ、日中戦争における厳しい戦局のさなか、太平洋戦争に入ると、詩人としての大政翼賛にのめりこんでいく過程が描かれる。詩によって、いわば敗戦に至るまでの「精神史」を形成したとされる。
 「真珠湾の日」と題する作品には「天皇あやふし。ただこの一語が私の一切を決定した。」とある。また、「終戦」では、つぎのように綴られているが、「六十年の重荷」と認識されていた「天皇」から解放されたのだろうか。Img295
「終戦」の前半、3頁目は省略している。『記録』より。

 ここで、吉本隆明の「高村光太郎」を開いてみると、彼は、髙村光太郎の戦争責任のつきつめ方をつぎのように分析する。「戦争責任というものに軽重があるとすれば、髙村光太郎のそれはもっとも重いかもしれなかった。髙村が、内的な世界にどのような過剰な要素をかくしていたとしても、公的な文学活動によって、いいかえれば大衆にたいする影響によって裁断するとき、戦争への没入は、たれよりも強く、かくれがなく、大きな影響を与えた」ことを前提に、「天皇(制)にたいするもの、大衆への影響、自身の思想にたいするものに分けてかんがえることができる」(「髙村光太郎論」『吉本隆明全著作集8』勁草書房 1973年166頁)とする。「天皇(制)」の問題は、光太郎にとって、天皇崇拝の父髙村光雲を持つ出自もあり、あくまでも「骨がらみの内的な問題」であって、思想の問題とはなり得ず、「意識のなかで、ひきずり落としたのではなく、ただ、追いはらったにすぎない」という(前掲書172頁)。
 吉本は、別の論稿で、光太郎の戦争詩は「自我意識に固執しながらも、もっとも典型的に日本的な近代性と庶民性との綜合された性格」をもつとした。日本人の自然観が伝統的な感性を掘り起こすことによって「必然的に絶対主義的な天皇制によって推進された戦争の肯定、讃美、プロパガンダに入った」とし、「近代意識の庶民的な意識への接着から庶民意識を超越的な論理をもちいて積極的に意味づける過程」として捉えている(「詩人の戦争責任論」『吉本隆明著作集13』 勁草書房1969年。468~469頁)。
 しかし、私は、吉本のいう光太郎の「庶民的な意識への接着」にしても、このシリーズの記事でも触れた中村稔が『髙村光太郎の戦後』でも強調していた暮らしや詩作の「庶民性」には、違和感を覚えざるを得ない。光太郎は、その出自や生育環境、海外体験、恋愛・結婚生活、詩人・彫刻家としての活動、敗戦後の花巻での山小屋蟄居生活をたどってみても、その作品をたどってみても、「庶民」というよりは、「庶民」とは隔絶した高みから、庶民を啓蒙、リードしようという意識が垣間見えてしまうのである。吉本のいう「超越的な論理」、すなわち「東方の倫理」「天然の叡智」「宇宙理法」「東洋の美」などという実体のない言葉で「煙に巻いて」いるようにも読めてしまうのである。

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2019年9月23日 (月)

あらためて、高村光太郎を読んでみた(6)戦争詩において天皇はどうよまれたか

 「戦後、髙村をほんとうに苦しめたのは、天皇(制)の問題と、自分の詩をよんで人は死んでいったという問題だけであった」 (「髙村光太郎論」『吉本隆明全著作集8』勁草書房 1973年 171頁)とは吉本隆明のいうところであるが、光太郎はほんとうに苦しんだのだろうか。

 光太郎の詩に、天皇が「天皇」として登場するのは、「紀元2600年」のころだろうか。「紀元二千六百年のむかしは昨日のやうだ。」で始まる以下の詩には、つぎのような個所がある。

「紀元二千六百年にあたりて」
(前略)
二千六百年の後、
今またわたしくしは此処に居る。
今はどういふ時だ。
天皇(てんのう)はわれらの親(みおや)、
その指さしたまふところ、
天然の機おのづから迫り、
むかしに変らぬ久米の子等は海超えて
今アジヤの広漠の地に戰ふ。
(後略)
(1939年11月26日作。『婦人公論』1940年1月、『大いなる日に』収録)

 それまでは「天皇」をよんだ作品はなかなか見あたらないのだが、光太郎が、長沼智恵子を知るのは1911年、そして翌年、明治天皇は7月30日死去、「諒闇」の時期の作品につぎの「涙」があるのだが、光太郎と智恵子は、「いみじき歎き」のさなかであって、天皇の死に涙しているわけではなかったことを作品にしていた。

「涙」
世は今、いみじき事に悩み
人は日比谷に近く夜ごとに集ひ泣けり
(中略)
君の小さき扇をわれ奪へり
君は暗き路傍に立ちてすすり泣き
われは物言はむとして物言はず
路ゆく人はわれらを見て
かのいみじき事に祈りするものとなせり
あはれ、あはれ
これもまた或るいみじき歎きの為めなれば
よしや姿は艶に過ぎたりとも
人よ、われらが涙をゆるしたまへ
(1912年8月作。『スバル』1912年9月、『智恵子抄』収録)

 ちなみに、1940年の1月には、上記の作品のほかに、「先生山を見る」(1939年11月20日作。『明日香』、『をぢさんの詩』収録)、「重大なる新年」(1939年12月19日作。『新聞聯盟』)、「源始にあり」(1939年12月30日作。『東京朝日新聞』1月2日、『大いなる日に』収録)があり、『新女苑』、『文芸』にも寄稿しているが、その後も、いわゆる、新聞での<元旦>、雑誌での<新年号>および<記念日>に登場する詩人たる地位を保つことになる。

「彼等を撃つ」
(前略)
理不尽のいひがかりに
東亜の国々ほとんど壊滅され、
宗教と思想との摩訶不思議に
東亜の民概ね骨を抜かる。
わづかにわれら明津(あきつ)御神(みかみ)の御稜威により、
東亜の先端に位して
代々(よよ)幾千年の錬磨を経たり。
(後略)
(1941年12月15日作。『文芸』1942年1月、『記録』収録)

「ことほぎの詞」
久しいかな、二千六百二年。
(中略)
世界の倫理あらたまり、
人類の秩序また再建せられんとす。
これ遠つみおやの息吹して
義(ことわり)必ず時に随ふものならざらんや。
こころすがし。
今上陛下指したるたまふところ、
われらよろこびおもむくなり。
あきらけきかな、大いなるかなけふの賀(よき)節(ひ)。
(1942年2月9日作。『読売新聞』2月11日、『大いなる日に』収録)

「海軍魂を詠ず」
(前略)
人は仰ぎ見る、
波を切る艦首に光かがやくもの、
一切を超えて高きもの、
一切を超えて聖なるもの、
金色の菊花御紋章。
(1943年5月5日作。 『中部日本新聞』5月27日『記録』収録)

「大決戦の日に入る」
(前略)
所謂文明を誇称する敵はわれらを知らず、
ひとへにただもみつぶさうとする。
われら大御神よりうけたみをしへのまま、
神州の権威と品格とを堅持して
一億の民空前の戦に集中する。
一億の民一切を神のみ前に捧げてすがしく、
今こそ奮然として大決戦に突入する日だ。
(1943年11月14日作。『婦人之友』12月、『記録』収録)

 「大決戦の日に入る」は、1943年11月に始まるブーゲンビル島で戦いをよみ、長い戦いになる局面となるが、すでにこの時期になると、「倫理」や「日本の美」をうたいあげる作品は後退し、天皇への忠誠をひたすら捧げることが叫ばれ、やがて、下記の諸作品に見るように、皇国、皇軍、皇民、神州などという言葉のみが強調され、頻用されるにいたる。
「われら海陸皇軍の機略」(「敵ゆるすべからず」『毎日新聞』1944年2月26日)「神裔国民の正気」(「必勝の品性」『西日本』1944年4月)、「われら美しき皇国の天地」(「美をすてず」『週刊朝日』1944年4月30日)「神州の臣民、神州の尊貴」(「神州護持」『主婦の友』1944年12月)「皇国必勝の枢機」(「新春に面す」『日本農業新聞』1945年1月)などの例を挙げることができる。
 
そして、敗戦直後の「一億の号泣」(『朝日新聞』1945年8月17日)、「犯すべからず」(『週刊少国民』1945年8月)においても、光太郎の天皇観は変わってはいない。まさに、戦時下の作品の延長のよう作品は省いたとする、敗戦後の詩集『典型』に収めることもしなかったのである。

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2019年9月19日 (木)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(5)民族の「倫理」と「美」と

 光太郎は、地政学をはじめ、天文学などに自然の必然があるかのような、そして数学・物理という論理と「倫理」「美」という言葉を頻用する。しかし、頻繁に登場するそれらのことばは、よくよく考えてみると無内容であるにもかかわらず、繰り返される。当時のほとんどの作品は、具体的な方策もありようがなく、民族の倫理や美という言葉を通じ、国民の士気を鼓舞するだけのものであった。

「必死の時」
必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋洋として豊かなのは
われら民族のならひである。
(後略)
(1941年11月19日作。『婦人公論』1942年1月号、『大いなる日に』収録)

 「必死の時」は、太平洋戦争開始前夜ともいえる頃の40行を超える詩であるが、冒頭のこの4行が末尾でも繰り返されて終わる作品である。つぎの「新しき日に」は開戦直後の作品ということになる。

「新しき日に」
新しき年真に新たなり。
東方の光世界に東方の意味を宣す。
幾千年の力鬱積していま爆発するのみ
東方は倫理なり。
東方は美なり。                                                                                                               (後略)

(1941年12月19日作。『家庭週報』1942年1月号、『大いなる日に』収録)

さらに、敗戦がもはや避けようもなくなった時期の、光太郎にとっては、敗戦直前の作品が、つぎの「勝このうちにあり」であった。

「勝このうちにあり」
(前略)
勝このうちにあり。
われらの勝や清浄(せいじょう)にして
他の無辜をいためず、自ら驕らず、

ただ民族至純の倫理動いて
おのづから人類に深き省みをあたへ
静に稀有の変革を八紘に現成(げんじやう)せんとするなり。
(1945年7月18日作。未発表か、草稿の欄外のメモに『満州良男』とある。北川『全詩稿』)

 敗戦に至るまで、光太郎の作品を読んでいて、前述の「倫理」もそうだが、光太郎にとって「美」とは何だったのか。次のような作品を立て続けに読んでしまうと、やりきれなさと空しさがよぎる。「決戦の年に志を述ぶ」では、前半に、「今年六十一の老骨でも・・・むしろ数字を逆さにして 一十六から始めたい」などという個所もある。当時、これらの詩を読んだり、朗読を聴いたりした人々は、どのような受け取り方をしたのであろうか。

「決戦の年に志を述ぶ」
(前略)
この生活の一切をかけて彼等を撃ちながら

厳として美の世界を守り抜かう
老兵必ずしも老を語らない。
(1942年12月30日作。『東京新聞』1943年1月2日、『記録』収録)

「軍人精神」
今にしておもふ、
われらが軍人精神の美
古今東西にその比なし。
美ならざるはわれらが武人にあらず、
その精神人倫の極致にいたる。
(後略)
(1943年5月9日。『読売報知新聞』6月24日、『記録』収録)

「戦に徹す」
(前略)
世界を奪はんとしてのぼせ上るは米英にして
世界を清めんとするはわれらである。
この戦のいづれに神のみこころありや。
明々白々、われら断じて信ずる。
米英破る。
世界健康の美かならず成る。
われらの手によつてかならず成る。
(1943年10月26日作。10月28日放送、『記録』収録)

  光太郎の戦前の単独詩集には、『道程』(1914年)『智恵子抄』(1941年)に続き、いわゆる「戦争詩」を収録したものに、先に紹介した『大いなる日に』(1942年)、青少年向きに編集した『をぢさんの詩』があり、『記録』(1944年)には、上記二詩集と重なる作品もある。いずれも、光太郎自身が「序」を記しており、その収録の選択は自身によるものである。そして、当然のことながら、どの「詩集」にも収録しなかった作品も数多く、戦時下の「詩集」に収録しながら、敗戦後出版の文庫本の詩集などには、戦時下の作品がすっぽり抜け落ちていることもある。

 なお、戦時下の日本放送協会における「愛国詩」の朗読の時間で、光太郎の詩は数多く放送されたが、中でも放送回数が多かったのは、つぎの作品であった。詳しくは、坪井秀人『声の祝祭―日本近代史と戦争』(名古屋大学出版会 1997年)、近刊の別稿「『暗愚小傳』は「自省」となり得るのか―中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりにして」を参照いただきたい。

  1940年において、すでに、「欲しがりません勝つまでは」(1942年大政翼賛会などが公募した標語の当選作)などと同旨の詩が書かれていたことを知った。私は、東日本大震災後のNHKから流されて続けている歌謡「花は咲く」は、形を変えた「愛国詩」なのではないかの思いがするのだった。そして、この詩人の作品に登場する「倫理」や「美」は、現代の政治家たちがよく口にする「国民に寄り添った」「被災者に寄り添って」とか、「真摯に受け止め、再発防止に努める」「できることはすべてやる」などという発言と同様、無内容で、無策でしかなく、一過性のパフォーマンス、慰撫に過ぎない、と思われてならない。 

「最低にして最高の道」
もう止そう。
ちひさな利慾とちひさな不平と、
ちひさなぐちとちひさな怒りと、
さういふうるさいけちなものは、
ああ、きれいにもう止そう。
(後略)
(「大きく生きよう」を改題、1940年7月10日作『家の光』1940年9月。『大いなる日に』収録)

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2019年9月18日 (水)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(4)光太郎の世界地図帳

 若いころ、国際関係論を専攻した同僚が「地政学」という言葉をよく口にしていた。なんとも古めかしく、怪しげな・・・などと思っていた。ナチスの国土拡張、侵略の理論的な支柱になっていたことなどのうろ覚えでもあったのだろう。しかし、最近になって、ときどき、「地政学」の言葉を聞くようにもなった。先日も、トランプ大統領がノルウェーの自治領であるグリーンランドを買収したいと言い出したとき、ある番組の解説者は「地政学的問題だけでなく・・・」といった形で発言していた。グリーンランドは日本の約6倍近くの広さに、6万人弱の人々が暮らしているといい、地下資源などを持つという。中国の一帯一路をけん制する意味もあると書く新聞記事もあった。サウジアラビアの石油施設攻撃のニュースでは、『石油地政学』という著書を持つ「専門家」が登場していた。現代の「地政学」とは何なのだろう。

 前の記事の「地理の書」が「日本列島の地理第一課だ」を題名にも考えていたような草稿を前の記事にも収めた。このフレーズで締めくくっている詩は、まさに、当時のナチス流の「地政学」が日本にも横行していたからだろう。光太郎は、他にも、この「地政学」を踏まえたかのような詩をたくさん書いている。以下の作品など典型的なものであろう。光太郎は、どんな地図帳と百科事典をもっていたのだろう。

 余談ながら、私の小学校時代は、『少年朝日年鑑』(1949年創刊、1988年終刊)を毎年買ってもらっていた。いまでも、地図帳と年表が嫌いではない。「紳士録」的な関心はないのだけれど、近代の歴史や文学関係の人名辞典が気になって仕方がない時代があり、古いものは若干手元にあるのだが、いまは、とりあえず、ウィキペディアのお世話になることが多い。

「ビルマの独立」

印度と支那と仏印と泰との山嶽を押しわけ、
サルウィン、イラワヂ、シッタンの大河を縦に並べ、
東南アジヤの大陸に巨大な楔をうちこむもの、
西蔵、雲南の高みからベンガル湾の波打ち際まで
チークと稲と木綿とに地表を被はれ、
天のきざはしの如く壮大に位置するもの、
北回帰線を頭上にいただき、
雨季と乾燥季と一年を恵まれ、
黄金のパゴダに國をあげて信篤きもの
ビルマはいま独立を宣する。
(後略)
(1943年7月30日作、8月1日放送。『記録』収録)

「マキン、タラワの武人達」

Img291-1

 (1943年12月27日作。『少国民文化』(少国民文化協会)1944年2月号、『全詩集』のみに収録)                        

 引用が長くなるので、その冒頭部分を画像とした。1943年11月21日マキン、タラワ両島は、米軍5万人による攻撃を受け、日本軍3000人は玉砕した戦いだった。 

 

 

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2019年9月14日 (土)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(3)「地理の書」の改作と削除

 

「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川。」のリフレインのある「樹下の二人」(1923年3月11日作『明星』同年4月)も、そうなのだが、「葱」(1925年12月28日作、『詩人俱楽部』1926年4月)という短い詩の前半にも見るように、光太郎の詩には地名がよみ込まれている作品が多い。

「葱」
立川の友達から届いた葱は、
長さ二尺の白根を横(よこた)へて
ぐっすりとアトリエに寝こんでゐる。
三多摩平野をかけめぐる
風の申し子、冬の精鋭。
(後略)

 光太郎は、地図帳に親しみ、地理好きの人間なんだな、くらいの思いだった。智恵子は1938年10月に亡くなるのだが、1937年辺りからの作品になると、たんなる地理好きとは違う様相を呈してくる。1937年7月7日盧溝橋事件を機に、全面的な日中戦争に入り、1938年4月国家総動員法公布とともに言論思想統制はますます強化され、作家の従軍、戦争文学隆盛の時代に入った。ちょうど、その頃、光太郎は「地理の書」(1938年5月9日作、『改造』同年6月)を発表している。私は、かつて入手した大政翼賛会文化部編のアンソロジー『朗読詩集地理の書他八篇』(翼賛図書刊行会 1941年7月)で「地理の書」を読んだ。また、最近、光太郎の単独詩集『大いなる日に』(道統社 1942年4月)を入手した。いわゆる「戦争詩」と言われる「秋風辞」(1937年9月29日作)で始まり、「昭南島に題す」(1942年2月20日)というシンガポール陥落をよんだ作品で終わる37篇を収録した詩集である。

「地理の書」
深い日本海溝に沈む赤粘土を壓して
九千米突の絶壁にのしかかる日本島こそ
あやふくアジヤの最後を支へる。
崑崙は一度海に没して又筑紫に上る。
両手をひろげて大陸の没落を救ふもの
日本南北の両彎は百本の杭となり
そのまん中の大地溝(フォッサマグナ)に富士は秀でる。
(中略)
稲の穂いちめんになびき
人満ちてあふれやまず
おのづからどつと堰を切る。
大陸の横壓力で隆起した日本彎が
今大陸を支へるのだ
崑崙と樺太とにつながる地脈はここに尽き
うしろは懸崖の海溝だ。
退き難い得意の地形を天然は
氷河のむかしからもう築いた。
これがアジヤの最後を支へるもの
日本列島の地理第一課だ。
(「大いなる日に」道統社1942年4月。『朗読詩集・地理の書他八篇』大政翼賛会文化部編 翼賛図書刊行会 初版1941年7月27日、1942年10月10日修正再版)

Img293
『大いなる日に』の「地理の書」の冒頭部分。

Img291-2
『髙村光太郎全詩稿』より。「地理の書」の冒頭部分。
  Img292

 

『髙村光太郎全詩集』の「地理の書」冒頭部分。

 「地理の書」は、65行に及ぶ長い詩だが、「日本列島の地理第一課だ。」という最後の一行でも明らかなように、日本列島の成り立ちや地形・位置を事細かに、執拗に語り続ける。私なども中学校の社会科や理科で習ったが、大方忘れかけている用語がふんだんに使用されている。当時の中学生や青年たちが学んだばかりの知識がちりばめられていて、刺激にもなったろうし、大人たちにとっては、妙な説得力を持つ内容であったのではないか。先の朗読詩集の「地理の書」には、編者の大政翼賛会文化部によると思われる、つぎのような解説文が付されていることからも、作者光太郎の意図も大政翼賛会がこの詩の普及に努めたのも、大陸進出の必然と正当化をもくろんでいたことは確かであろう。

「これは日本列島の地理地形の説明にことよせて、われわれ民族の性格と運命と決意をうたつた詩であります。地質地形の術後は中学校程度のものに限つて使用してあります。国土の位置や気候風土の特色によつて、われわれ民族の特質美点も形づくられ、又それがおのづから世界に対するわが国の使命となつてあらはれて来ます。日本が太平洋にアジヤの最東端に在ることの意味を思ひめぐらしてみませう」

 今回、北川太一による『髙村光太郎全詩集』(新潮社 1966年)を繰っていて、この詩に目を止めたところ、「えッ?」と驚いたのである。その1行目が「深いタスカロラ海溝に沈む赤粘土を圧して」となっていたのである。「日本海溝」が「タスカロラ海溝」になっているのだ。
 北川太一『髙村光太郎全詩稿』(タブロイド判の2分冊、厚さ8センチの箱入り豪華本、重い!)の解説も慌てて読んでみると、どうも、『改造』の初出は、「タスカロラ」で、『大いなる日に』に収録する際に、「日本」と変えたが、北川は『髙村光太郎全詩集』収録の際に初出に戻した、ということらしい。「タスカロラ」はどこかで聞いたことがあるが、今回、調べてみると、宮沢賢治の『風の又三郎』には「タスカロラ海床」として登場していたのだ。光太郎は賢治を敬愛してやまなかったから「タスカロラ」を使ってみたかったのかもしれない。そもそも「タスカロラ」は海溝ではなく、カムチャッカ・千島海溝の南端部に9000m近い「海淵」があるのを、アメリカ人が1873年発見し、その船の名の「タスカロラ」号から名づけられたという。だから、カムチャッカ・千島海溝の南端近くにあるのが「タスカロラ海淵」で、「日本海溝」はそれに続いて日本列島に沿う位置にあり、まるで別物なのである。2行目にある「九千突米」の「突米」はメートルのことで、フリガナがふられている詩集もある。日本海溝は、最深部でも8000mであって、9000mの絶壁も存在しない。

 1942年4月発行の『大いなる日に』への収録にあたって、なぜこんな改変をしなければなかったのだろう。日本列島の成り立ちから言って、どちらが学術的に正確なのか、私にはわからないのだが、「タスカロラ海溝」という用語自体は、あまり正確でないことに気づいてなのか、それとも他の理由によるものかを考えてみた。   
 前年の12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争は始まり、日本放送協会が開局翌年1926年から続けてきたラジオ英語講座は12月8日の朝を最後に中止され、年末にはアメリカ映画の上映が禁止された。「敵性語」であるということから、1942年4月1日から、ラジオアナウンサーが「放送員」と改められた(ちなみに、1943年4月1日からはニュースが「報道」と改称している)。さらに、1942年7月8日文部省通達により高等女学校での「英語」は、随意科目となり、時間は減らされている。43年2月からは、カタカナ雑誌名の改題が続いた。『キング』が『富士』(1942年2月~)に、『エコノミスト』が『経済毎日』(1943年2月~)に変更されたことなどがよく知られている。学校名や会社名なども続々とカタカナ名を日本語に改められた。

 光太郎が『大いなる日に』の「序」を書いたのが1942年3月、「支那事変勃発以来皇軍昭南島入城に至るまでの間に書いた詩の中から三十七篇を選んでここに集めた。ただ此の大いなる日に生くる身の衷情と感激を伝へたいと思ふばかりである。」とある。その前月の2月15日にはシンガポールが陥落し、光太郎も、これを主題とした三篇の詩を作り、すべて収めた。

「シンガポール陥落」
シンガポールが落ちた。
イギリスが砕かれた。
シンガポールが落ちた。
(中略)
大英帝国がばらばらになつた。
シンガポールが落ちた。
つひに日本が大東亜を取りかへした。
(後略)

 この詩の末尾には、1942年2月12日に「A・K〈東京放送局〉に渡す」と記されている。ということは、「陥落報道」の前に、見込原稿というのだろうか、予定原稿というのだろうか、事前に用意されていて、陥落報道の翌日2月16日は、陥落祝勝放送や新聞報道が満載の中、この詩が朗読放送(山村聰)されている。また、「夜を寝ねざりし暁に書く」も陥落をテーマにした詩である。

「夜を寝ねざりし暁に書く」
あのざッ、ざッといふ音は何だ。
あの轆轆たるとどろきは何だ。
あの堂堂として整然たるひびきは何だ。
(中略)
シンガポールだ。
皇軍シンガポール入城の耳がきくのだ。
堂堂として整然たるあのひびきの中に
一切の決意と栄光がある。
(後略)
(1942年2月18日作、『朝日新聞』同年2月21日掲載の際には、「戦捷の祝詩―夜を寝ねざりし暁に書く」となっている)       

 同年2月27日には「戦捷の祝詩」としてラジオで朗読放送(北沢彪)されている。陥落直後、シンガポールは「昭南島」と名付けたことを受けたのだろうか、光太郎は、2月20日には「昭南島に題す」として制作、『週刊朝日』3月8日号に発表したのがつぎの誌面である。

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『週刊朝日』1942年3月8日号から。

 また、「地理の書」に戻るのだが、カタカナの言葉が、和語に改変している個所がもう一つあった。六段落目の最初の一・二行に「水蒸気この島にヴエイルをかけ/天然の強もてを中和する」とあるのが、『大いなる日に』では「ヴエイル」が「ぼかし」に直され、「強(こは)もて」が「恐(こは)もて」と漢字が直されていた。後者のような修正は、詩集収録の際にはよく見られるケースで、カナふりを加筆したり、漢字をカナに変えたり、その逆などもよく見られるのだが、前者の直しは、いささか気になるのは、「日本海溝」に直したのと同様、前述したように、「敵性語」排除の大きな流れの中での配慮ではなかったのか、と考えられるのである。

   なお、敗戦後1951年から、『髙村光太郎選集』全6巻(中央公論社)が出版されたが、第1巻・2巻に詩が集められた。そこの収録された「地理の書」からは、 最後の段落の前半の5行が削除されている。この選集の編者は、明確ではないのだが、草野心平があたったとされ、光太郎自身も校閲に携わっている、という。繰り返しになるが、削除されたのは以下の5行だった。

稲の穂いちめんになびき
人満ちみちてあふれやまず
おのづからどつと堰を切る
大陸の横圧力で隆起した日本彎が
いま大陸を支へるのだ。
                                                                                         

   この稿では、「地理の書」を中心に、戦時下での書き換えや敗戦後の削除の一例を見てきた。こうした一件は、髙村光太郎においてどのような意味を持つのか。敗戦後、出版した詩集『典型』(中央公論社 1950年)の自序において、戦時下を振り返ってのことなのだろう「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、ひとつの愚劣の典型を見るに至つて魂の戦慄をおぼえずにゐられなかつた。」と述べ、そこに収録された20篇の「暗愚小傳」をもって「自省」したとした髙村を高く評価する流れも検証してみたい。

 

 

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