2023年8月31日 (木)

「雨の神宮外苑~学徒出陣56年目の証言」(2000年)における「加害」の行方

江橋慎四郎

 前の記事をアップしたあと、どうしても気になっていたのが、神宮外苑の学徒出陣壮行会で、学徒を代表して答辞を読んだ江橋慎四郎(1920~2018)であった。その答辞は漢文調で、番組で聞いただけではすぐには理解できないところも多かった。後で資料を見ると「生等今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて、悉くこの光栄ある重任に獻げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず。」の「生等もとより生還を期せず」がいろいろと問題になっていることを知った。「生等(せいら)」というのも聞き慣れない言葉だったが、「生還を期せず」と誓った本人が、戦後、生還したことについて、いろいろ取りざたされたらしい。

 江橋は、出陣後の12月に陸軍に入隊、航空審査部に属し、整備兵として内地を転々、滋賀で敗戦を迎えている。戦後は、文部省を経て、東大に戻り、研究者の道を選び、「社会体育学」を専攻している。東大教授などを務めた後、国立の鹿屋体育大学創設にかかわり、1981年初代学長となっている。この間、「生還」したことについてのさまざまな中傷もあったりしたが、反論もせず、学徒出陣や兵役について語ることはなかったという。

 ところが90歳を過ぎた晩年になって、マス・メディアの取材にも応じるようになった。その一つに「終戦まで1年9カ月。戦地に向かうことはなかった。代表を戦死させまいとする軍部の配慮はあったかもしれない。ただ、当時はそう考える余裕もなかった」、 「僕だって生き残ろうとしたわけじゃない。でも、『生還を期せず』なんて言いながら死ななかった人間は、黙り込む以外、ないじゃないか」と語り、記事の最後では、「自分より優秀な学生もいたが、大勢が亡くなった。自分が話すことが、何も言えずに亡くなった人の供養になる。最近そう思っている」と結ぶ(「学徒出陣70年:「生還期せず」重い戦後 答辞の江橋さん」『毎日新聞』 2013年10月20日)。
 亡くなる前年の2019年になって、『内閣調査室秘録―戦後思想を動かした男』 の刊行に至った志垣民郎の心境と共通するものが伺える。

田中梓さん

壮行会に参加し、「雨の神宮外苑」に出演の田中梓さんが、今年の1月に99歳で亡くなっていたことを、数日前に届いた「国立国会図書館OB会会報」73号(2023年9月1日)で知った。田中さんは、私が11年間在職していた図書館の上司だった。 といっても部署が違うので、口をきいたこともなく、管理職の一人として、遠望するだけのことだった。ここでは「さん」づけ呼ばせてもらったのだが、温厚な、国際派のライブラリアンという印象であった。

「戦争体験」の継承、「受難」と「加害者性」

 この記事を書いているさなか、朝日新聞に「8月ジャーナリズム考」(2023年8月26日)という記事が目についた(NHKのディレクターから大学教員になった米倉律へのインタビューを石川智也記者がまとめている)。前後して、ネット上で「わだつみ会における加害者性の主題化の過程― 1988 年の規約改正に着目して」(那波泰輔『大原社会問題研究所雑誌』764号2022年6月
http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/764_05.pdf)を読んだ。後者は、一橋大学での博士論文のようである。

(1)「8月ジャーナリズム考」(『朝日新聞』2023826日)
「8月ジャーナリズム」を3つに類型化して、①過酷な「被害」体験と「犠牲」体験を語り継ぐ「受難の語り」 ②戦後民主主義の歩みを自己査定する「戦後史の語り」 ③唯一の被爆国として戦争放棄を誓った「平和主義の語り」とした。「ここでは、侵略、残虐行為、植民地制覇などの『加害』の要素は完全に後景化しています。描かれているのは、軍国主義の被害者となった民衆という自画像です」と語り、「受難の語り」に偏重、「加害の後景化」への警鐘だと読んだ。「後景化」というのも聞き慣れない言葉だが、「後退」の方が十分伝わる。「加害」の語りが活発になったのは、戦後50年の1995年前後、歴史教科書問題、従軍慰安婦訴訟などを通じて戦争責任や歴史認識を問い直す記事や番組が多くなったが、それが逆に、右派からの激しい抗議や政府の圧力や新保守主義の論者の批判によって記事や番組は萎縮して、現代に至っていると分析する。

 しかし、私からすれば、外圧によって萎縮したというよりは、たとえば、NHKは、自ら政府の広報番組と紛うばかりのニュースを流し続けている。加えて、「受難」の語りに回帰したというよりは、むしろ積極的に昭和天皇や軍部、政治のリーダーたちの苦悩や苦渋の選択に、ことさらライトをあてることによって、加害の実態を回避しているようにしか見えないのである。「忖度」の結果というならば、番組制作の現場の連帯と抵抗によって跳ね返す力を見せて欲しい。そのあたりの指摘も見えない。現場から離れたNHKのOBとしての限界なのか。 NHKの8月の番組を見ての違和感やモヤモヤの要因はこの辺にあるのだろう。

 ここで、余分ながら、NHKのアナウンサーや記者、ディレクターだった人たちが定年を前に、民放のアナウンサーや報道番組のコメンテイター、大学教員となって辞めていく人々があまりにも多い。NHKは、アナウンサーや大学教員の養成機関になってはいないか。私たちの受信料で高給を支払い、年金をもつけて、養成していることになりはしまいか。受信料はせめてスクランブル制にしてほしい所以でもある。

2)那波泰輔「わだつみ会における加害者性の主題化の過程― 1988 年の規約改正に着目して」(『大原社会問題研究所雑誌』76420226月)
 那波論文は、「わだつみの会」の変遷を ①1950~58年『きけわだつみのこえ』の出版を軸に記念事業団体の平和運動体 ②1959~戦中派の知識人中心の思想団体 ③1970~天皇の戦争責任を鮮明にした運動体 ④1994~『きけわだつみのこえ』の改ざん問題で、遺族のらが新版の出版社岩波書店を訴えたことを契機に戦後派の理事長が就任した運動体 と捉えた。とくに、第3次わだつみ会の1988年になされた規約改正の経緯を詳述し、人物中心ではない、組織や制度からの分析がなされている。

 規約改正とは、以下の通りで、「戦争責任を問い続け」が挿入されたことにある。
・1959 年 11 月(改正前) 第二条 本会はわだつみの悲劇を繰り返さないために戦没学生を記念し,戦争を体験した世代と戦争体験を持たない世代の協力,交流をとおして平和に寄与することを目的とする
・1988 年 4 月(改正後) 第二条 本会は再び戦争の悲劇を繰り返さないため,戦没学生を記念することを契機とし,戦争を体験した世代とその体験をもたない世代の交流,協力をとおして戦争責任を問い続け,平和に寄与することを目的とする

 1988年以前から、天皇の戦争責任のみならず戦争体験者の加害者意識の欠如や戦争責任に対しての不感性を指摘する会員もいたが、この時期になって、会の担い手は戦後派が多くなり、会員の対象を拡大、思想団体を越えて行動団体への移行を意味していた、とする。さらに、「現在のわだつみ会は、さまざまな会の規約改正が政治問題にコミットし、戦争責任や加害者性にも積極的に言及しており、こうした現在の方向性は1980年代の会の規約改正が影響を与えている」とも述べる。
 しかし、現在のわだつみ会の活動は、私たち市民にはあまり聞こえてこないし、時代の流れとして、先の(1)米倉律の発言にあるように、戦争責任の追及や加害者性は、今や後退しているのではないだろうか。 

 余分ながら、那覇論文にも、学徒兵と他の戦死者を同列に扱うことによって「学徒兵がわだつみ会の中で後景化した」という記述に出会った。若い研究者が、好んで使う「視座」「通底」「切り結ぶ」などに、この「後景化」も続くのだろうか。

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8月の半ばに、2週間ほど続けてゴーヤをいただいた。ご近所にもおすそ分けして、冷凍庫で保存できると教えていただいた。ワタを除いて刻み、ジッパーつきのポリ袋に平らに詰めて置けばよいということだった。なるほど。

 

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2023年8月19日 (土)

NHKの8月<終戦特集>散見(2)「アナウンサーたちの戦争」と「雨の神宮外苑―学徒出陣6年目の証言」

「雨の神宮外苑~学徒出陣56年目の証言」(2000年)

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   サブタイトルに「56年目の証言」とあるように、2000年8月の放映であった。雨の神宮外苑の学徒出陣のシーンは断片的には見ていたが、番組は、今回初めてである。新しく見つけたフィルムは15分で、それまでのニュース映像の約3倍ほどもあったという。行進中の学生のクローズアップや観客席に動員されていた学生、女子学生に、陸軍戸山学校の軍楽隊の様子まで撮影されていた。学生の表情からは、悲壮な覚悟が伺われ、ぎっしり埋まった観客席の俯瞰は、北朝鮮のイベント映像を見るようであった。

 1943年10月21日、文部省主催の「出陣学徒壮行会」に参加した。学生は、77校から2万5000人といわれ、5万人の観衆が動員され、多くの制服の女子学生たちも観客席から声援を送った。番組に登場する証言者の十人近くみなが70代後半で、見送った側の3人の女性は、70代前半だった。

 証言するほとんどの人が、あたらしいフィルムを見て、あらためてマイクの前で、当時の自分の気持ちと現在の思いをどう表現したらいいのかを戸惑いながら、語る言葉の一つ一つが、重苦しく思えるのだった。生きては帰れないという怖れ、時代の流れには抗することができない諦め、地獄のような戦場の惨状・・・複雑な思いが交錯しているかのようだった。

 また、同盟通信社の記者だった人は、東条英機首相が、学徒出陣に踏み切った理由として、二つの理由を挙げていた。一つは、学生への兵役猶予の見直しの必要性であったし、一つは、当時は大学生といえばエリートで、富裕層の子弟にも兵役についてもらうことによって、下層家庭からの不満を解消し「上下一体」となることであったという。

 ただ、多くの証言の中で、この番組でもっとも言いたかったことは何だったのだろう。私には疑問だった。証言者の中で、語る頻度が一番多く、番組の大きな底流をなすように編集されていた、志垣民郎という人の証言だった。彼はよどみなく、戦争は始まってしまったのだから、国民の一人として国に協力するのは当然なことで、大学でも、自分たちだけ勉強していていいのかの思いは強く、戦争に反対したり、逃げたりする者はいなかった・・・と語るのだった。この人、戦後は、どこかの経営者にでもなった人かな、の雰囲気を持つ人であった。どこかで聞いたことのあるような名前・・・。番組終了後、調べてみてびっくりする。復員後、文部省に入り、吉田茂内閣時の1952年、なんと総理大臣官房内閣調査室(現内閣情報調査室)を立ち上げたメンバーの一人だったのである。1978年退官まで、内調一筋で、警備会社アルソックの会長を務めた人でもある。2020年5月97歳で亡くなるが、その前年『内閣調査室秘録―戦後思想を動かした男』(志垣民郎著 岸俊光編 文春新書 )を出版、敗戦後は左翼知識人批判に始まり、学者・研究者を委託研究の名のもとに左翼化を阻止したという始終を描く生々しい記録である。番組での発言にも合点がいったのである。

もうひとり、作家の杉本苑子も出演していて、動員されて参加したのだったが、学生が入場するゲイト附近で、なだれを打って声援をした思い出を語っていた。当時は許される振る舞いではなかったものの、気持ちが高ぶっての行動だったが、学徒へのはなむけにはなったと思いますよ、といささか興奮気味で話していた。が、彼女を登場させたことの意図が不明なままであった。

 そして、エンドロールを見て、また驚くのだが、制作には永田浩三、長井暁の両氏がかかわっていた。二人は、2001年1月29日から4回放映されたETV特集「戦争をどう裁くか」の「問われる戦時性暴力」への露骨な政治介入の矢面に立つことになる。さらに、その後の二人の歩み、そして現在を思うと複雑な思いがよぎるのだった。

  8月も半ばを過ぎた。その他『玉砕』(2010年)、『届かなかった手紙』(2018 年)などの旧作も見た。今年も<昭和天皇もの>が一本あったが、まだ見ていない。平和への願いを、次代に引き継ぐことは大切だ。でも、過去を振り返り、そこにさまざまな悲劇や苦悩を掘り起こし、悔恨、反省があったとしても、現在の状況の中で、いまの自分たちがなすべき方向性が示されなければ、8月15日の天皇や首相の言葉のように、むなしいではないか。表現の自由がともかく保障されている中で、NHKは、ほんとうに伝えるべき事実を伝えているのか。他のメディアにも言えることなのだが。近々では、統一教会然り、ジャニーズ然り・・・。

 

 

 

 

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2023年8月17日 (木)

NHK8月の<終戦特集>散見(1)「アナウンサーたちの戦争」と「雨の神宮外苑 学徒出陣56年目の証言」

「アナウンサーたちの戦争」(2023年)

「アナウンサーたちの戦争」は、前評判の高いドラマであった。アジア太平洋戦争下のNHKアナウンサーたちの「葛藤と苦悩」を描くというもので、実在のアナウンサーが実名で登場する。
 私も、これまで、若干、NHKの歴史について調べたことがあったので、関心も高かったが、とくに目新しい展開はなかった。ただ、神宮外苑の学徒出陣の中継は、和田信賢の担当だったが、マイクの前で絶句、隣の志村正順に手渡して、その場を去り、学生たちの行進に悶絶するという場面だった。というのも、事前に、多くの学徒たちに取材し、「死にたくない」と涙ながらの本音を引き出していたからであり、それを原稿には反映できないまま、徹夜で仕上げた原稿を前に、語り出せなかったという設定であった。また、一つは、国策の「宣伝者」、プロパガンダこそが任務として「雄叫び派」の先頭に立っていた館野守男が、インパールで<死の行進>を目の当たりにして、帰還後は一転する。館野の変容は事実ではあったことは、どこかで読んだことがある。
 ただ、和田の一件は、はじめてだった。いまのNHKは、ドキュメンタリーでもドラマでも、平気で史実を曲げることが多いし、編集で都合の悪いところは切ってしまうのが日常だから、この辺は調べてみたい。
 なお、学徒出陣の中継を担当したアナウンサーについては、思い出すことがある。敗戦直後、我が家にはミシンがなく、洋裁が苦手だった母は、自分の着物をほどいたものや安い生地が、闇市で手に入ったりすると、近所のKさんという洋裁の得意なおばさんに、寸法を測ってもらって、ジャンバースカート、ワンピース、トッパ―?などをしつらえていたことがあった。駄菓子屋の裏手に間借りをしていた。これは母からのまた聞きなのであるが、Kさんは苦労人で、先のアナウンサーとは離婚して、子どもを自分の手では育てられなかったと。当時はまだラジオだけだったが、それでも、はなやかな職業の人にも、いろんなことがあるのだと、子ども心に知った。現在でも、NHKの職場はどうなっているんだと思うような、過労死あり、不倫あり、ストーカーあり、ひき逃げあり、・・・。

 戦時下のNHKの報道のニュースソースはすべて、国策に沿った同盟通信社であったから、大本営発表の嘘を平気で放送した。それに、現在のように「記者」はいなくて「放送員」というアナウンサーが原稿を書いていた時代である。だから、アナウンサーに問われるのは、いわゆる「淡々調」か「雄叫び調」にとどまらない、放送内容に深くかかわっていたのである。館野は、敗戦後は解説委員になっている。

 それにしても、登場のアナウンサーたちは、みんなどこか”かっこよく“、美談を背負ってソフトランディングをしているではないか。占領下のNHKはGHQとどう対峙してきたのか。独立後は、そして現在は、表現の自由が憲法に定められているのにもかかわらず。ETV特集「国際女性法廷」、クローズアップ現代「郵政簡保」、統一教会報道などに見る、政府からの圧力、政府への忖度は後を絶たない。
 現在のNHKのアナウンサーは民放に移ったり、フリーになったり、定年後はコメンテイターや大学教員になったりと華やかながら、報道やエンターテイメント番組にしても、その劣化は著しく、国営放送と見まがう国策報道に徹し、ジャニーズのタレントを登用し続け、民放で人気になったタレントを引き入れるのは日常茶飯である。

 なお、和田、館野の上司である米良忠麿がマニラ放送局を死守して亡くなるのだが、赴任中、家族にあてた手紙や絵はがきが残っており、放送文化研究所に寄贈されている。その一部が、「アナウンサーたちの戦争」のWEB特集で紹介されている。日本映画社の友人がフィルムの航空便で日本に送り、家族に届けられた、検閲なしのたよりだった。日本の占領下にあるマニラの町の人々や戦局悪化の中での暮らしの様子などが、うかがい知ることができる貴重な資料にもなっている。

☆☆☆☆☆2023年8月14日 午後10:00~11:30☆☆☆☆☆

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【作】倉光泰子 【音楽】堤裕介 【語り】橋本愛 (和田実枝子役)【取材】網秀一郎 大久保圭祐【演出】一木正恵【制作統括】新延明
【出演者】森田剛(和田信賢アナ) 橋本愛(和田実枝子アナ) 高良健吾(館野守男アナ)浜野謙太(今福祝アナ) 大東駿介(志村正順ア ナ) 藤原さくら(赤沼ツヤアナ) 中島歩(川添照夫アナ)渋川清彦(長笠原栄風アナ) 遠山俊也(中村茂アナ)古舘寛治(松内則三アナ) 安田顕(米良忠麿アナ) ほか

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2023年6月30日 (金)

 梅雨空の下諏訪~今井邦子という歌人

  国家公務員共済の宿「諏訪湖荘」のビーナスラインの観光バスと北八ヶ岳ロープウェイを乗り継ぎ、坪庭一周という企画を楽しみにしていたが、あいにくの霧と雨に見舞われた。足に自信がなかったので、私は坪庭はあきらめ、ロープウェイ山頂駅のやたらと広い無料休憩所で、お弁当を一足先に失礼し、スケッチをしてると、40分ほどで一行は戻ってきた。足元がかなり悪かったらしい。観光バスの窓は拭ってもぬぐってもすぐ曇り、百人乗りも可というロープウェイの窓は、往復とも雨滴が流れるほどで、眺望どころではなかった。

 とはいうものの、前日は、夫とともに、下諏訪の今井邦子文学館とハーモ美術館を訪ねることができたし、翌日は雨もやみ、原田泰治美術館に寄り、館内のカフェでのゆったりとランチを楽しむこともできた。鈍色の湖面には水鳥が遊び、対岸の岡谷の町は遠く霞んでいた。諏訪湖一周は16キロあるとのこと、再訪が叶えば、内回り、外回りの路線バスを利用して美術館巡りをしてみたいとも。

 今井邦子文学館は、ところどころ、宿場町の面影を残す中山道沿いの茶屋「松屋」の二階であった。邦子(1890~1948)は、幼少時よりこの家の祖父母に育てられ、『女子文壇』の投稿などを経て、文学を志し、上京し、暮らしが苦しい中、ともかく『中央新聞』社の記者となったが、1911年、同僚の今井健彦(1883~1966。衆議院議員1924~1946年、後公職追放)と結婚、出産、16年に「アララギ」入会、同郷の島木赤彦に師事、短歌をはじめ創作に励むも、自らの病、育児、夫との関係にも苦しみ、一時「一灯園」に拠ったこともあった。困難な時代に女性の自立を目指し、1936年、「アララギ」を離れ、女性だけの短歌結社「明日香」社を創立、1943年には、『朝日新聞』短歌欄の選者を務める。戦時下は、萬葉集『主婦の友』と発行部数を競った『婦人倶楽部』の短歌欄選者をローテーションで務めいる。1944年、親交のあった神近市子の紹介による都下の鶴川村への疎開を経て、1945年4月には、下諏訪の家に疎開したが、1948年7月、心臓麻痺により急逝している。58歳だった。 

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  今井邦子への関心は、かつて『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史 1945ー1953』(阿木津英・小林とし子・内野光子著 砂小屋書房 2001年9月)をまとめる過程で、敗戦前後の女性歌人の雑誌執筆頻度を調べた頃に始まる。20年以上前のことだったので検索の手段はアナグロの時代であって、決して網羅的ではないが、今井邦子の登場頻度が高かったことを思い出す。最近では、邦子が、つぎのような歌を『婦選』創刊号(1927年1月)に山田邦子の名で寄せていることを知って、紹介したことがある(『女性展望』市川房枝記念会女性と政治センター編刊 2023年1・2月号)。

・をみな子の生命(いのち)の道にかゝはりある國の會(つど)ひにまいらんものを

 1924年5月の総選挙で、夫、今井健彦が千葉県二区から衆議院議員に当選している。18歳歳以上の男女に選挙権をという普選運動は、1925年3月が普通選挙法が成立、1928年3月の総選挙で初めて実施されたのだが、婦人参政権獲得運動の願いもむなしく、女性は取り残されたまま、そんな中で、久布白落実、市川房枝らによって創刊されたのが『婦選』であった。邦子が寄せた歌にもその口惜しさがにじみ出ているのだった。

  今井邦子文学館は1995年、松屋跡地に復元再建して開館、二階が展示室になっているだけだった。展示目録もなかったようだし、当方のわずかな写真とメモだけで語るのはもどかしい。それでも、斎藤茂吉や島木赤彦からの直筆の手紙、邦子から茂吉のへ手紙など、活字に起こされていて、生々しい一面も伺われて興味深かった。

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展示室の冒頭、詩などを投稿していた『女子文壇』と姉との写真が目を引いた。転任の多かった父の仕事の関係で、邦子は、姉はな子とともに、祖父母に預けられ、育てられ、両親との確執は続く。その姉との絆は強かったが、若くして死別する。

 1911年の結婚、翌年の長女出産を経てまとめた歌文集『姿見日記』(1912年)には相聞歌も見られるが、出産を機に、つぎのような歌が第一歌集『片々』(1915年)には溢れだすのである。

・月光を素肌にあびつ蒼く白く湯気あげつゝも我人を思ひぬ『姿見日記』
・暗き家淋しき母を持てる児がかぶりし青き夏帽子は」『片々』 
・物言はで十日すぎける此男女(ふたり)けものゝ如く荒みはてける
・入日入日まつ赤な入日何か言へ一言言ひて落ちもゆけかし

 1916年アララギ入会、島木赤彦に師事、1917年長男妊娠中にリューマチを患い、治療はかどらず、以降足が不自由な身となる。1924年夫の政界進出、1926年島木赤彦の死をへて1931年に出版した『紫草』では、赤彦の影響は色濃く、作風の変化がみてとれる。「あとがき」によれば「大正五年から昭和三年(1916~1928年)まで」の3000余首から781首を収めた歌集だった。私にとって、気になる歌は数えきれないほどであったが・・・。子供、夫との関係がより鮮明に表れ、思い煩い、嘆き、心が晴れることがなく、一種の諦観へとなだれていくようにも読める。身近に自分を支えてくれた人たち、その別れにも直面する時期に重なる。以下『紫草』より。

・眠りたる労働者の前をいく群の人汗を垂り行きにけるかも(砲兵工廠前)(「しぶき」大正五年)
・青草の土手の下なる四谷駅夜ふけの露に甃石(いし)は濡れ見ゆ(「夜更け」大正六年)
・病身のわれが為めとて蓬風呂焚き給ふ姉は烟にむせつ(「帰郷雑詠」大正六年)
・三年(みととせ)ぶり杖つかず来て程近き郵便箱に手紙入れけり(「荒土」大正八年)
・もの書かむ幾日のおもひつまりたる心は苦し居ねむりつつ(「さつき」大正九年)
・争ひとなりたる言葉思ひかへしくりかへし吾が嘆く夜ふけぬ(「なげき」大正十年)
・つくづくとたけのびし子等やうつし世におのれの事はあきらめてをり(「梅雨のころ」大正十二年)
・土の上にはじめてい寝てあやしかも人間性来の安らけさあり(「関東震災」大正十二年)
・夫に恋ひ慕ひかしづく古り妻の君が心の常あたらしき(「喜志子様に」大正十三年)
・真木ふかき谿よりいづる山水の常あたらしき命(いのち)あらしめ(「山水」大正十四年)
・うつし世に大き命をとげましてなほ成就(とげ)まさむ深きみこころ(「赤彦先生」大正十五年)
・みからだをとりかこみ居るもろ人に加はれる身のかしこさ(「赤彦先生」大正十五年)
・嘆きゐて月日はすぎぬかにかくに耐ふる心に吾はなりなむ(「梅雨くさ」昭和二年)  
・姉上の野辺のおくりにふみしだく山草にまじる空穂の花は(「片羽集二」)
・ありなれて優しき仕へせざりしをかへりみる頃と日はたちにけり(夫に)(「萩花」昭和三年)

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展示会で見た時は、気が付かなかったが、よく見ると謹呈先が「山田邦子様」となっているではないか。今井邦子が旧姓にちなむ、かつてのペンネームであった「山田邦子」あてなのである。かつての自分への「ごほうび」?「おつかれさま」?なのか、ユーモアなのか。

 1935年にはアララギを離れ、翌年には『明日香』(1936年5月~2016年12月)創刊し、みずからも萬葉集などの古典を学び、後進の指導にもあたる。女性歌人の第一人者として、歌壇ばかりでなく、一般メディアへの登場も著しい。その一例として、つぎの調査結果を見てみたい。戦時下の内閣情報局による『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)という部外秘の資料からは、当時の八つの婦人雑誌への女性歌人の執筆頻度がわかる。期間は1940年5月号から1941年4月号までの一年間の執筆件数ではあるが、今井邦子は、他を引きはなし、婦女界5、婦人公論2,婦人朝日2、婦人画報1、新女苑1で計11件、五島美代子4件、茅野雅子3件、柳原白蓮3件であった。さらに2件以下として四賀光子、杉浦翠子、中河幹子、築地藤子、北見志保子、若山喜志子が続いている。いわゆる、当時は「名流夫人」として、名をはせた歌人たちであった。今井健彦、五島茂、茅野蕭々、宮崎龍介夫人であったのである。

 また、短歌雑誌ではどうだろうか。かつて、敗戦前後の女性歌人たちの執筆頻度を調べたことがある(前掲『扉を開く女たち』)今回、若干手直ししてみると、次のようになった。もし、邦子が敗戦後も活動できていたら、どんな歌を残していたか、どんなメッセージを発信していたのか、興味深いところである。

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上記の表から、今井邦子と四賀光子は、敗戦を挟んで激減し、阿部静枝と杉浦翠子は、増加している。生方、水町、中河は変わりなく、一番若かった斎藤史は倍増していることがわかる。

 なお、1942年11月、日本文学報国会の選定、内閣情報局によって発表された「愛国百人一首」について、「一つ残念な事があります」として、声を上げていたのである(「婦人と愛国百人一首」『日本短歌』1944年1月)。選定された百首のうち女性歌人の作が「わづか四人であるといふ、驚くべき結果を示されて居ります。現在の短歌の流行を考へ合わせると、そこにもだし難き不思議ななりゆきを感ずる訳であります」と訴えている。小倉百人一首には女性歌人が二十人選定されている一方、昭和の時代の選定に四人だけということを「長い長い歴史に於て真面目に婦人として考へて見なければならぬ事ではありますまいか」と婦人の無気力を反省しながらも、それはそれとして「女の心は女こそ知る、女も一人でも二人でもその片はしなりと相談にあづかるべきではなかつたらうかと、今も口惜く思ふ次第であります」と、12人の選定委員に女性がひとりもいなかったことにも抗議していた。「愛国百人一首」が国民にどれほど浸透していたかは疑問ながら、こうした発言すら、当時としてはかなりの勇気を要したのではなかったかという点で、注目したのだった。

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戦時下、雑誌統合により休刊となった『明日香』は、1945年10月には、謄写版が出され、その熱意が伝わってくる。1946年2月、邦子の下諏訪の家を発行所として復刊号が出されている。扉の一首「雨やみし故郷の家に居て見れば街道が白くかはきて通る」。

 また、『明日香』は、邦子の没後、姉の娘岩波香代子、川合千鶴子らによって続けられたが、2016年終刊に至る。

 

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2023年1月30日 (月)

1月27日は「ホロコーストの日」だった(2)反省と責任のとり方

  2008年8月、初めてドイツを訪ねた折、観光客でにぎわうブランデンブルグ門のすぐ近くに、灰色のさまざまな大きさの四角いコンクリートブロックが幾千と続き、中は迷路のようになっている記念碑に出会った。これが、「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」であったのである。その広さと言い、モニュメントとしての着想と言い、それらに圧倒された。東西ドイツが統一する前の1988年からこの記念碑建設計画が始まったというが、追悼するのはユダヤ人だけなのか、そのモニュメントのデザインなど、いろいろな問題が噴出したが1999年、ユダヤ人に限定しての追悼碑に決まり、2005年5月に完成、公開の運びとなったという。さらに、驚いたのが、この追悼碑に隣接したところに国会議事堂があったのである。日本でいえば国会議事堂前と皇居のお堀の間の公園や尾崎記念公園辺りにあたるところだろう。また、ベルリンの繁華街、デパートKaDeWe近くのカイザー・ウィルヘルム教会の尖塔が焼け残りまま、戦跡として残されていた。その後の旅行では、ベルリンのドイツ歴史博物館、ドイツ抵抗博物館、焚書記念碑、グリューネヴァルト17番線ホーム、ライプチヒの歴史博物館、ルンデ・エッケ記念博物館、ミュンヘンのユダヤ歴史博物館、ドレスデンのフラウエン教会、ハンブルグの歴史博物館、ニコライ教会戦跡・追悼碑などの見学によって、近現代の歴史に重点を置いた戦跡、資料、展示物や映像に目を見張った。とくにナチスのユダヤ人迫害の歴史と検証・反省・継承に努力していることを肌で感じることができた。

 また、私たちが訪ねたドイツ以外のワルシャワ、ウィーン、オスロ、ベルゲンなどの都市に限っても、歴史博物館やユダヤ人犠牲者追悼碑などによる戦争の惨禍と反省を継承し、戦跡を守ろうとする意識が定着していることがわかるのであった。

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ベルリン「ホロコーストの碑」前方のドームの屋根が国会議事堂(2008年9月25日)

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国会議事堂の敷地に接した場所にある「国家社会主義の下で殺害されたシンチ・ロマの記念碑」前の池の周りの敷石には犠牲者の名前が彫られている。2012年10月に建てられたばかりだった(2014年10月25日)

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ベルリン郊外グリューネヴァルト駅17番線ホーム。貨物専用のホームであったが、ナチスにより連行されたユダヤ人がこのホームから各地の収容所に送られた。上は、ホームの端に並ぶ鉄の銘板の一枚、1942年1月25日、1014人のユダヤ人がベルリンからリガに送られたことを示している。これらの銘板がどこまでも続く。私たちが訪ねた日は、数日前に行われた記念式典の名残の献花があちこちに見られた。(2014年10月25日)

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ワルシャワゲットー記念碑から歴史博物館をのぞむ(2018年5月13日)

 昨年末には、「元ナチス女性秘書に有罪判決 97歳、執行猶予」のニュースに驚かされた。ニュース(jijicom 2022年12月22日)によれば、
 判決は20日、ドイツ北部のイツェホーの法廷で、ナチス・ドイツの収容所で秘書だった97歳の女性に執行猶予付き禁錮2年の判決を言い渡した。女性は、ナチス占領下のポーランドにあったシュツットホーフ強制収容所で1943~45年、勤務していた。「ユダヤ人、ポーランド人、そしてソ連人」(検察)ら6万5000人が犠牲になったと推定され、うち1万人以上の死について共犯と見なされた。 法廷で被告は「起きたことすべてに謝罪する」と述べた。ただ、昨年9月の開廷時には老人ホームから逃亡し、近くのハンブルクで逮捕されという経緯もあったらしい。

 ナチスへの断罪は今も続いている。日本における、朝鮮、中国はじめアジア諸国で犯した日本の戦争責任はどうなってしまったのか。昭和天皇は延命し、平成の天皇は、激戦地で追悼するが、誰を追悼しているのか。日本の戦後政治は、さまざまな分野の「戦犯」をやすやすと復帰させた。慰安婦、徴用工問題で、いまだに責任を取ろうとしない。慰安婦の少女像ですら、まともに展示できないというありさまである。細々と守り続けてきた戦跡を残す手立てを考えない国、自国民に対しては、被爆者への補償は極力抑制し、空襲被害者へ補償はいまだ皆無なのである。国内外の遺骨収集は進まず、遺骨の混じる土が沖縄の新基地造成に使われようとしている。挙句の果ての防衛力増強なのである。
 日本人は、忘却、過去を水に流すことが得意なのか、抵抗や抗議する人々を支えることもしない人々のなんと多いことか、情けない・・・。

 

 

 

 

 

 

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2023年1月29日 (日)

1月27日は、「ホロコーストの日」だった(1)三か所の強制収容所をめぐって

 127日は、「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」だった。ポーランド、クラクフ郊外にあるナチス・ドイツによるアウシュビッツ強制収容所が旧ソ連軍によって解放された日だったのである。
 昨年224日からのロシアのウクライナ侵攻は、ウクライナをナチスから解放するという名目だったのであるが、それは、まぎれもないウクライナへの侵略だったのである。

 私は、2000年以降、夫とともに何回かヨーロッパに出かけている。その折、アウシュビッツ、ザクセンハウゼン、ダッハウ、三か所の強制収容所を訪ねることができた。そのたびに、戦争の残虐、ナチスの狂気を目の当たりしたと同時に、その戦争責任の取り方、とくにドイツと日本の違いは何なのか、なぜなのかを考えさせられたのである。
 三か所の強制収容所の訪問については、すでに以下のブログに記しているが、「ホロコーストの日」にあたって、わずかな体験ながら、それぞれの収容所の成り立ちの違いや戦跡保存の仕方の違いなどあらためて思い起し、考えてみたい。

2010年5月31日「ポーランドとウイーンの旅(2)古都クラクフとアウシュビッツ」
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/05/post-f56e.html

2014年11月17日「ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチヒ・ベルリン~2014.10.20~28(9)」http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141020289-91f.html

2018年5月20日「 ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(2)」
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/05/post-22eb.html

アウシュビッツ強制収容所

 アウシュビッツ強制収容所は、ソ連邦の一つだったポーランドが、1940年政治犯収容のために建てたが、ドイツ軍に占領された国々のユダヤ人がここに集められるようになった。近くのビルケナウ、モノビッツェにも増設、収容された130万人の内ユダヤ人110万人、ポーランド人14、15万人とされ、犠牲者はユダヤ人100万、ポーランド人7万人以上に及んだという。1942年からナチス・ドイツがユダヤ人の絶滅計画が立てられ、実施に移された。175ヘクタール(53万坪)に300棟以上のバラックが建設されたが、今残るのは45棟のレンガ造りと22棟の木造の囚人棟だけで、19448月には約10万人が収容されていたという。ソ連軍による解放・侵攻を目前に、証拠隠滅のためドイツ軍が破壊・解体しきれなかった施設や遺品が、いまの博物館の核になっている。
 見学に訪れる日本人も多く、日本人の公式ガイド中谷剛さんもいるが、予約が大変らしい。2010517日、見学ツアーに参加し、語学別に分けられ、私たち夫婦は英語によるガイドに従った。
 最初に入館した4号館・5号館では、関係書類や資料、写真の間を通り抜けて、目にしたのは、ガラス越しのいくつもの展示室に積まれた、毛髪、それによって編まれた絨毯、眼鏡、靴、トランク、鍋・釜・スプーン、義足・義肢・松葉づえ、歯ブラシ・・・。その量とそれらを身に着けていた一人一人を思うと、いたたまれず、展示に目を背けることもあった。解放当時の残された衣服だけでも、男・女・子供用衣服は併せて120万着に及んだという。
 6号館では、収容所生活の実態が分かるような展示が続き、廊下には収容者の登録時の写真がびっしりと並ぶ。正面・横顔・着帽の三枚で、残されたものは初期のポーランド人のもので、ユダヤ人は写真も撮られなかったという。収容者の多くが、シャワー室ならぬガス室に送られたのである。

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収用列車は、ここで行きどまりになった。

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雨の中、いよいよ見学コースに入る。遠くに、”ARBEIT MACHT FREI”のアーチの一部が見える。

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棟と棟の間にも有刺鉄線が。

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雨は止まず、泥濘は続く。翌日は大雨に見舞われたそうだ。

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「死の壁」と呼ばれる処刑場だった。

 

ザクセンハウゼン強制収容所

 2014年1026日、ベルリン中央駅から、RB(Regional Bahn)5で約30分という、強制収容所の最寄駅Oranienburgオラニエンブルクに向かった。さらに、歩けば20分ほどだというが、1時間に1本のバスに乗る。バス停からも長い道路の石塀沿いには、大きな写真のパネルが並び、この収容所は、ドイツ・ナチスからの解放後は、ソ連・東独の特設収容所として使われていたという沿革がわかるようになっている。
 19333月、ナチ突撃隊によって開設された収容所は、一時3000人以上の人が収容されていたが、19347月に親衛隊に引き継がれ、1936年現在の地に、収容所建築のモデルとなるべく、設計されたのが、このザクセンハウゼン強制収容所だった。1938年にはドイツ支配下のすべての強制収容所の管理本部の役割を果たしていた。
 194542223日、ソ連とポーランドの軍隊により解放されるまで20万人以上の人が収容され、飢え、病気、強制労働、虐待、さらには「死の行進」などにより多数の犠牲を出した。19458月からは、ソ連の特設収容所として、ナチス政権下の役人や政治犯らで、その数6万人、少なくとも12000人が病気や栄養失調で犠牲になっている。1961年以降は、国立警告・記念施設としてスタートした。1993年以降東西ドイツの統一により、国と州に拠る財団で管理され、「悲しみと追憶の場所としての博物館」となり、残存物の重要性が見直され、構想・修復されて現在に至っている。

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 収容所は、見取り図でもわかるように、正三角形からなり、その一辺の真ん中が入り口となっており、その鉄格子の扉の「ARBEIT MCHT FREI」(労働すれば自由になる)の文字が、ここにも掲げられている。入り口近くに扇型の点呼広場を中心として、バラックと呼ばれる収容棟が放射線状に68棟建てられていたことがわかる。各棟敷地跡には区切られ、砂利が敷き詰められていて、いまは広場から一望できる。最も管理がしやすい形だったのだろうか。
 博物館では、収容所の変遷が分かるように、展示・映像・音声装置などにも様々な工夫がなされていたが、見学者は極単に少ない。ここでは、やはり、フイルムと写真という映像の記録の迫力をまざまざと見せつけられた。さらに、現存の収容棟の一つには、ユダヤ人収容者の歴史が個人的なデータを含めて展示され、べつの収容棟には収容者の日常生活が分かるような展示がなされていた。結局、2時間余りでは、全部は回りきれずに、見残している。

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バス停を下りるとこんなモニュメントが。

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収容所通りは、長い黄葉の道だった。

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ここの門扉にも、”ARBEIT  MACHT FREI”の文字が。

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手前が収容棟Barackeの跡地、後ろが博物館。

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こうしたバラック跡地に小石が敷き詰められ、68棟が続く、この広さである。

 

ダッハウ強制収容所

 ミュンヘン中央駅からSバーン2でダッハウに向かう。ミュンヘン在住48年というガイドさんと一緒である。ダッハウ収容所の公式ガイドの資格を持つ。収容所行きバスの乗り場は、若い人たちでごった返していた。学校単位なのか、グループなのか、みんなリゾート地のようなラフな服装で、行き先が収容所とはとても思えない賑やかさである。バスは満員で、次を待つ。学校では強制収容所学習が義務付けられているという。
 1933年、ヒトラーは首相になって開設したダッハウ強制収容所は政治犯のための強制収容所であり、他の強制収容所の先駆けとなりモデルにもなり、親衛隊SSの養成所にもなった。ミュンヘン近辺の140カ所の支所たる収容所のセンターでもあった。ドイツのユダヤ人のみならず、ポーランド、ソ連などの人々も収容した。ユダヤ人だけで死者32000人以上を数え、1945429日のアメリカ軍による解放まで、のべ約20万人の人々が収容され、ここからアウシュビッツなどの絶滅強制収容所に送られた人々も多い。また特徴としては、聖職者も多く専用棟があり、医学実験(超高温、超低温実験)と称して、人体実験が数多く実施されたことでも知られている。(つづく)

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ここの門扉にも

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ガス室を出た、若い見学者たち。

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何基もの焼却炉が続く。

 

 

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2023年1月 6日 (金)

きのうから、旋回の自衛隊機、なぜ?!

 5日、10時すぎ、ベランダで洗濯ものを乾していると、数機の自衛隊機が旋回している。下総海上自衛隊基地の離着陸調整のため旋回しているのかな、と思ってしまった。訓練機は館山沖での訓練のための離着陸は、ほぼ定時であるのをかつて調べたことがあるのを思い出していた。

 ところが、きょう6日の午前中の航空機騒音はいつもと違う。窓を開けて見上げると、かなりの低空で機体を斜めにして東へと向かう。我が家の真上、ユーカリが丘方面へ、一機、二機と・・・。それが、何回も、何回もめぐってくるのである。下総基地の広報、かつて控えていた内線に電話して、いま飛んでいるのは、そちらの基地の飛行機か、いつもの飛行と違うがどういうわけか、いずれにしても、住宅地をあれほどの低空で飛ぶのは危険ではないかなど、問うのだが、「担当者がきょういないのでわからない」と、ぼそぼそと繰り返すばかり。佐倉の上空を飛んでいる航空機がそちらのものかどうかだけでもと尋ねれば、どんな機種か、どんな形かわからないかとの質問、軍事オタクならともかく、素人が見上げただけでわかるわけがないのに。とにかく今日の午前中の飛行についてわからないはずはないしょうから調べておいて欲しい、また電話すると切る。

 二時間ほどあとに、電話すると、今回はバカに明るい声で「あの自衛隊機は習志野空挺団の<コウカクンレンハジメ>の予行演習です」という。聞き直して「降下訓練始め」とわかる。

 さっそく、習志野空てい団の「地域振興課」に電話すると、1月8日が本番で、「<降下訓練始め>と言って、パラシュートで降下するのをみなさんに見ていただくんです」という。宣伝広報の訓練のために、住宅街をあんなに低空で長時間飛んでいいのですか、といえば「申し訳ありません、ご迷惑おかけします」の一点張り。イベントのためだけの不要な訓練はやめにしてほしい、見直してほしい旨、検討してください、と伝えておいたが、まだ、本番は1月8日、あしたも続くというわけだ。

 自衛隊にパフォー-マンスは不要である。オリンピックのときの飛行演技、航空祭や今回のようなイベント自体が不要ではないか。

 習志野空てい団のHPを開いてみると・・・。訓練日程表も出て来た。

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<1月8日付記>

以下のニュースによれば、3年ぶりの大規模なイベントで、多国籍軍による訓練が実施されています。恐ろしいことがすでに進んでいるようです。

陸自第1空挺団の年頭行事「降下訓練始め」日米英豪の4か国で実施

https://news.nifty.com/topics/traffic/230108621431/

 

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2022年12月23日 (金)

櫻本富雄著、二冊のミステリーが刊行されました。

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左:幻冬舎 2022年6月15日刊。右:鳥影社 2022年12月18日刊。                                                                                                                                          

 大先輩の知人、櫻本富雄さんが、今年6月、12月に小説二冊を立て続けに出版されました。櫻本さんとは、2006年、著書『歌と戦争―みんなが軍歌をうたっていた』の書評を「図書新聞」に執筆したご縁で、以後、多くを教示いただくことになったのです。著書は、ご覧の通りで、戦時下の、文化人、文学者の戦争責任、戦後責任を資料にもとづいて詳細に検証し、その責任を問うものがほとんどです。自身が軍国少年であったことを起点としながら、戦後は精力的に戦時下の出版物―図書や雑誌、パンフレットや紙芝居などの収集をしています。その数10万点にも及んだそうですが、それらを駆使して著書の中でも、『空白と責任』(未来社1988)『文化人たちの大東亜戦争』(青木書店 1993)『日本文学報国会』青木書店1995)『本が弾丸だったころ』(青木書店 1996)などは、戦時下の文学や評論を対象とする研究者や関心を寄せる人たちには避けては通れない文献です。

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 その櫻本さんは、もともと詩人で、小説も何篇か書かれているのですが、新刊の二冊は、数年前、蔵書の全てを処分した後に書かれています。構想はかなり前からできていたそうです。ミステリーですので、あらすじは書けませんが、二冊の舞台は、アジア・太平洋戦争末期の日本の占領地、国内の各地に展開します。事件を追う捜査関係者は別として、読み終わってみれば主な登場人物すべてが非業の死を遂げていたことが分かってきます。読むにあたっては、あたらしい地図帳がそばにあった方がいいかもしれません。

 興味を持たれた方は、近くの図書館にぜひリクエストしてみては。

 なお、櫻本さんが出演した下記の番組がユーチューブでご覧になれます。櫻本さんが資料を携え、横山隆一、山本和夫、丸木俊、住井すゑさんたちにインタビューをし、戦時下の言動を質そうとしますが、誰もが反省や後悔の弁どころか自らを正当化する様子が記録されているドキュメンタリーです。次作も執筆中とのことです。1933年生まれの櫻本さんのエネルギとゆるぎない信念に脱帽です。

・「ある少国民の告発~文化人と戦争」(毎日放送製作 1994年8月14日放映)
 https://www.youtube.com/watch?v=8-dC55hmhbc

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上記、映像から。上:戦時下の雑誌の数々。下:住井すゑにインタビュー。

 なお、当ブログの関係記事は以下の通りです。

・書評『歌と戦争―みんなが軍歌をうたっていた』― 歌と権力との親密な関係―容認してしまう人々への警鐘(『図書新聞』2005年6月11日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/02/post_d772.html(2006年2月17日)

 ・「ある少国民の告発~文化人と戦争」(1994年放送)を見て
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/09/1994-2d3e.html(2017年9月23日)


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2022年8月12日 (金)

忘れてはいけない、覚えているうちに(4)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<2>

   そして、冒頭の件にもどって、苳三は、なぜ、公職追放に至ったのか。

 その経緯は、『ポトナム』の一般会員には、なかなか伝わってこなかった。未見ながら、平成の初め、1989年、『立命館文学』(511号1989年6月)に、苳三の立命館での教え子である白川静が、その「真相」を明かしているとのことであった。以降1990年代になると、苳三について書かれた文献は、その経緯に言及するようになった。後掲の和田周三、大西公哉によるものだった。2000年代になると、白川静により詳細な経緯が知らされるようになった。

参考文献⑨⑩によると、
苳三は、「中川(*小十郎、立命館創立者)総長の意を承けて北京師範大学の日本語教授として赴任され、相互の親善に努力されたことがあり、東亜の問題にも深い関心を持たれていた。それで支那事変が勃発すると、その前線の視察を希望され、軍の特別の配慮(*陸軍省嘱託)で、河北、河南から南京に及ぶまで、すべての前線を巡られた」 *は筆者注
 とあり、『山西前線』から、つぎの二首をあげて、

 〇〇の敵沈みたる沼の水青くよどみて枯草うかぶ
 〇〇の死骸埋まれる泥沼の枯草を吹く風ひびきつつ
  *1939年3月6日作。○は伏字。(下関馬太路附近)「揚子江遡行(中支篇)」

 「この歌集において、あくまでも歌人としての立場を貫かれた。この一巻を掩うものは、あくまでも悲涼にして寂寥なる戦争の実相にせまり、これを哀しむ歌人の立場である。」として、「このような歌集が、どうして戦争を謳歌するものと解釈され、不適格の理由とされ、不適格の理由とされたのだろうか。その理由は、先生の歌や歌人としての行動にあるのではない。それはおそらく、学内の事情が根底にあったのであろうと思われる。」

 参考文献⑩の白川静「苳三先生遺事」では、さらに詳しく、つぎのような状況が記されている。

 「大学に禁衛隊を組織して京都御所の禁衛に任じ、そのことを教学の方針としていたので、もっとも右傾的な大学とみなされ、その存続が懸念されていた。それで、相当数の非適格者を出すことが、いわば免責の条件であるように考えられていた。」(253頁) 

 学内では、民主化が急がれ、進歩派とされる人たちと保身をはかるかつての陣営とが入り乱れるなか、学内の教職員適格審査委員会についてつぎのように述べる。

「故中川総長の信望がもっとも篤かった小泉先生が、その標的とされた。審査委員会は、先生の『山西前線』の巻末の一首<東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦(いくさ)なからしめ>をあげて、『本書最終歌集は、所謂支那事変は、東亜に再び戦なからしむる聖戦であるとの意味をもつ一首である』

 としたが、この一首が、戦争の悲惨を哀しみ、ひたすらに戦争を否定する願望を歌ったものであることは、余りにも明白であり、この程度の理解力で先生の歌業の適否を判断し得るものではない」(254頁)と訴える。その後、白川ら教え子たち17名により再審要求書が中央審査会に提出されたが、覆されることはなかった。


 では、『山西前線』とはどんな歌集だったのだろうか。
 1938年12月12日に陸軍省嘱託に任ぜられ、22日に日本の○を出港し、28日北支の○港から上陸している。北支篇・山西前線篇一・山西前線篇二・中支篇からなり、天津・北京から前線に入り、兵士たちの戦闘の過酷さ哀歓をともにした記録的要素の高い歌を詠む。当時の立命館総長中川小十郎と支那派遣軍総参謀長板垣征四郎の序文が付されている。そして、この歌集の序歌と巻頭の一首をあげてみる。

戈(ほこ)とりて兵つぎつぎに出(い)で征(ゆ)けりおほけなきかなやペン取りて吾は(序歌) 
心ふかく願ひゐたりし従軍を許されて我の出征(いでゆ)かんとす(従軍行)

 従軍中の1月中旬からは半月以上の野戦病院での闘病生活を経験するが、南京、上海を経て、1939年4月1日に帰国する。巻末には「聖戦」と題する五首があり、最後の一首が「東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦(いくさ)なからしめ」であったのである。
 そこで、ほんとうに、先の一首だけが教職不適格の理由であったのだろうか。不適格判定がなされた年月日、判定の法的根拠は、『ポトナム』の記念号の年表や小泉苳三を論じた文献・年譜には記載がなく、あるのは、1947年6月に「昭和22年政令62号第3条第1項」(*1947年5月21日)によって職を免ぜられた、という記述である。その後の⑦の『立命館百年史』及び⑨⑩の白川静の文献により、判定月日が1946年10月26日であることがわかった。46年10月26日に判定され、翌47年6月に「教職不適格者」として「指定を受けた者が教職に在るときは、これを教職から去らしめるものとする」というのが上記政令の第3条第1項であった。
 上記の判定内容についてとなると、前述の白川文献と『立命館百年史』にあるつぎのような記述で知ることしかできなかった。しかも、『百年史』の方は『京都新聞』(1946年10月29日)の引用であった。

「小泉藤造(苳三)教授(国文学) 従軍歌集を出版し侵略主義宣伝に寄与」

  そして、⑪の来嶋による資料の提供で、全貌が明らかになってきた。苳三から窪田空穂にあてた「再審査請求」するに際して「御見解を御示し下され度御願ひ申上候」という手紙とともに学内の教職員適格審査委員会委員長名による「判定書」と苳三自身による再審査請求のための「解釈草稿」を読むことができたのである。「判定書」の理由部分は、画像では読みにくいので核心部分を引用する。『山西前線』の刊行経緯を述べた後、つぎのように述べる。

 「本書(*『山西前線』)によれば氏の従軍は他からの強制といふが如き事に由るのではなく、自らの希望に出たものである事は明らかであり且本書最終歌(東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦なからしむ)は、所謂支那事変は東亜に再び戦なからしむる聖戦であるとの意味をもつ一首となつてゐる」

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来嶋靖生「ある手紙からー小泉苳三〈教職追放の闇〉」『ポトナム』90周年記念 2012年4月

 これに続き、「更に氏の主宰するポトナム誌には」として、誌上に発表された、「撃ちてしやまむ」「八紘一宇の理念ぞ輝け」などと歌う六首を無記名であげ、「もとより以上は和歌によるとはいへ、その和歌を通して、また上記の行動によつて侵略主義の宣伝に積極的に協力したもの、もしくはこの種の傾向に迎合したもので」明らかに法令に該当する者と認められるので「教職不適格と判定する」としていた。「判定書」の後半には、苳三が主宰する『ポトナム』に発表された六首が具体的に引用されていたことを知った。この部分への言及がなかったのは、六首の作者へ同人たちへの配慮であったのだろうか。
 一方、苳三は、判定理由について、当時発表していた著述論文などには一切触れず、「私が歌人として中国に旅行し、その歌集山西前線を刊行したこと、及び戦争中の多数の作品の中から僅か六首の歌をとりあげて、私への不適格の理由としてゐる。私が中国に旅行したのは、戦争といふ現実を、国民として身を以て体験し、真実を歌はうとする文学的な要求からであった。戦場を通るには、軍の取り計らひがなくては不可能であつたことは、常識的にも分る筈である。旅行の目的は、私の実際の作品によつて実証されてゐる。(後略)」と「判定」へ反論をしている。
 来嶋は、苳三の依頼に空穂がどう対応したかは不明としていたが、白川文献によれば、前述の17名による再審査請求書とは別に、窪田空穂・頴田島一二郎の両名が個人として「意見書」を中央審査会に提出していたことが明らかになっている。
 なお、上記大学の教職員適格審査委員会による苳三に対する「判定」根拠法令は、「教職員の除去・就職禁止及び復職の件(昭和21年勅令263号)」(*1946年5月7日)と同時に、この勅令を受けた「教職員の除去・就職禁止及び復職の件の施行に関する件(閣令・文部省令1号)」の範囲を定めた「別表第一」の「一の1」によるのではないかと思う。来嶋文献では、「別表第1の11号」と読めるが、別表第一には11号がない。「別表第一」の「一の1号」は、以下の通りであった。

「一 講義・講演・著述・論文等言論その他の行動によつて、左の各号に当たる者。」
 侵略主義あるひは好戦的国家主義を鼓吹し、又はその宣伝に積極的に協力した者及び学説を以て大亜細亜政策、東亜新秩序

 1.その他これに類似した政策や、満州事変、支那事変又は今次の戦争に理念的基礎を与えた者。」

 ここで、GHQによる公職追放の流れと立命館大学の対応と小泉苳三の動向以下のような年表にまとめてみた。

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  苳三は、1951年報道などにより、追放解除が近いことを知ると、夏には、つぎのように歌う。その後に歌われた、わずかな追放関係短歌から選んでみた。いずれも『くさふぢ以後』からである。

歌作による被追放者は一人のみその一人ぞと吾はつぶやく
追放解除の訴願を説く友に吾は答へず成り行くままに
省みて四年過ぎしと思ひをりあわただしくてありし月日を
天皇制を倒せ学長を守れといふビラ貼りてあり門の入口に
(*以上1951年作)
図書館の暗きに歌書を調べをり久しく見ざりしこの棚の書を
(*1952年作)
正面の図書館楼上の大時計過ぎゆく時を正しく指し居り
(*1953年作)
病み臥してかなしきおもひ極ればそのまま眠に入れよとねがふ
(*1954年作)
追放解除の後の生活がやや落ちつくに病み弱くなれり
(*1955年作)

 最初の3首は、口惜しさとあきらめがないまぜになった心境だろうか。4首目は、1951年9月に追放の指定解除がなされた後の年末、かつての職場の立命館大学を訪れた折の作で、「R大学 十二月八日」の小題を持つ一連の冒頭歌である。敗戦直後から立命館大学学長に就任し、大学の民主化を目指した末川博を詠んだものである。末川は、1933年いわゆる「滝川事件」で京大を辞職し、大阪商科大学教授となっていたが、前述のように乞われて立命館大学学長となって、数々の大学民主化を図ったとして有名である。しかし、苳三にとっては「教書不適格者」と「判定」した最高責任者であった。前述の『立命館百年史 通史2』によれば、「巣鴨入りで石原を失った末川が強力なリーダーシップを発揮したことはほぼ間違いであろう。」とも。さらに続けて「適格審査に末川の意向がどれだけ影響を及ぼしたかを語る資料は残されていないが」としながら「末川の勇み足ともいわれたような事件も起こっている」として、1946年10月の教職不適格者判定と同時に、休職処分としてしまったことをあげている(113頁)。本来ならば、「判定」後、指定が決定するまでは、身分保留にしなければならい制度であったのである
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 小泉苳三は、2回ほど登場した、大岡信「折々のうた」。上段の歌は、上記の1首目、学内の教職員適格審査委員会は「烏合の衆」とまで評されている(2007年2月23日)。

 5首目は、すでに1940年苳三が自ら収集した近代短歌史の膨大な資料の大半を寄贈していた立命館大学図書館を訪ねた折の作である。埃をかぶっていたり、見当たらない図書もあったりしているのを嘆く一連の一首である。この資料群は、没後にも遺族から立命館大学図書館に追加寄贈され、「白楊荘文庫」と名付けられ、現在も、近代短歌資料の貴重な文庫として利用されている。この文庫については、参考文献⑬に詳しい。6首目は、指定解除後、関西学院大学教授となり、あたらしい職場となるキャンパスの図書館の時計塔を歌っているが、学究としての意欲をも伺わせる一首ではないだろうか。晩年の作となる最後の二首は、自らの病や出版社経営上の苦境などが重なって、さびしい死を遂げる前兆のような気がしてならない。
 戦中・戦後を変わり身早く、強引に生き抜いてきた歌人たちもいる。戦犯と称される政治家たちが再登場するのをやすやす受け入れてしまった国民の在り様、戦前回帰や保守一強を願う人たちがいることを目の当たりにする昨今ではある。ほんとうに責任をとるべきだった人たちがいたことを忘れてはならないだろう。 
 これまで、私自身、曖昧にやり過ごしてきたことが、『ポトナム』創刊100周年記念を機に、少しはっきりしてきたのでなかったか。

<参考文献>

①岡部文夫「ポトナム回顧」『ポトナム』1954年11月/中野嘉一『新短歌の歴史』昭森社 1967年5月(再版)
②新津亨「回想のプロ短歌」/内野光子「小泉苳三著作年表・編著書解題」、ともに『ポトナム』600号記念特集 1976年4月
③和田周三「小泉苳三の軌跡」/大西公哉「創刊より復刊まで」、ともに『ポトナム』800号記念特集 1992年12月
④和田周三「小泉苳三・人と学芸」/内野光子・相楽俊暁「小泉苳三資料年表」、ともに『ポトナム』小泉苳三生誕百年記念   1994年4月
⑤和田繁二郎(周三)「小泉苳三先生の人と学問」『立命館文学論究日本文学』61号 1995年3月
⑥大西公哉「山川を越えては越えて―ポトナム七十五年小史/ 和田周三「小泉苳三歌集『山西前線』」、ともに『ポトナム』創刊75周年記念特集 1997年4月、所収
⑦『立命館百年史 通史』1・2 同編纂委員会編刊 1999年3月、2006年3月
⑧拙著「ポトナム時代の坪野哲久」『月光』2002年2月(『天皇の短歌は何を語るのか』所収)
⑨白川静「小泉先生の不適格審査について」/片山貞美ほか「小泉苳三の歌」(小議会)」、 ともに『短歌現代』2002年11月、所収
⑩白川静「苳三先生遺事」/白川静「小泉先生の不適格審査について」(栞文、⑨の再録)/上田博「生命ありてこの草山の草をしき」、ともに「『小泉苳三全歌集』2004年4月
⑪来嶋靖生「ある手紙から 小泉苳三<教職追放>の謎」『ポトナム』90周年記念特集 2012年4月
⑫安森敏隆「小泉苳三論―『山西前線』を読む」『同志社女子大学日本語日本文学』2012年6月
⑬中西健治「白楊荘文庫のいま」『ポトナム』創刊100周年記念特集 2022年4月

ほか『ポトナム』記念号・追悼号など。

           <再掲>

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ポトナム短歌会と立命館大学図書館・白川静東洋文字文化研究所との共催で『ポトナム』創刊百周年記念の展覧会が開催されている。立命館大学図書館の特殊コレクション「白楊荘文庫(旧小泉苳三所蔵資料)を中心とした展示となっている。衣笠キャンパスでの開催は終わったが、現在は大阪いばらきキャンパスで開催中、10月7日からは、びわこ・くさつキャンパスでで開催される。私も、コロナ感染が収まったら、ぜひ出かけたいと思っている。お近くの方は、ぜひ立ち寄ってみてください。

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2022年8月10日 (水)

忘れてはいけない、覚えているうちに(3) 小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<1>

 今年の4月、私が会員となっているポトナム短歌会の『ポトナム』が創刊百周年を迎え、その記念号が出た。そのついでに、さまざまな思い出をつづったのが、当ブログのつぎの2件であった。

1922~2022年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(1)(2)
(2022年4月6日、9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-559b22.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-a2076e.html

 また、今月は、『ポトナム』百周年について書く機会があった。あらためて、手元にある、これまでの何冊かの記念号や『昭和萬葉集』選歌の折、使用した戦前の『ポトナム』のコピーを持ち出し、頁を繰っていると、立ち止まることばかりである。今回の依頼稿でも詳しくは触れることができなかったのは、1922年『ポトナム』を創刊した小泉苳三(1894~1956)の敗戦後の公職追放についてであった。これまで、気にはなっていたので、若干の資料も集めていた。その一部でも記録にとどめておきたいと思ったのである。実は、2年前にも、故小川太郎さんからの電話の思い出にかかわり、この件に触れてはいる。

小泉苳三、そして小川太郎のこと(2020年12月13日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/12/post-691047.html

 私は、1960年ポトナム短歌会に入会しているので、苳三の生前を知らないが、『ポトナム』600号記念(1976年4月)に、図書館勤めをしていたこともあってか、編集部からの依頼で「小泉苳三著作年表」と「著作解題」を発表している。もちろん公職追放の件は知ってはいた。ただ、『(従軍歌集)山西戦線』(1940年5月)の一冊をもって、なぜ、立命館大学教授の職を追われなければならなかったのか。戦意高揚の短歌を発表し、歌集も出版していた歌人はたくさんいたのに、なぜ苳三だけがという漠然とした疑問はもっていたが、その歌集も真面目には読んでいなかった。

 苳三の職歴や教職歴をみると、平たんではなかったようだ。東洋大学の夜間部を出て中学校教員の資格を得た後も、養魚、金魚養殖をやったり、朝鮮に渡ったりしている。福井県、埼玉県での中学校教諭を経て、1922年28歳で、京城の高等女学校教諭に赴任、現地で、百瀬千尋、頴田島一二郎、君島夜詩らと「ポトナム短歌会」を立ち上げ、4月に『ポトナム』を創刊している。東京に戻った後も、東京、新潟、長野県での国語科教諭の傍ら、作歌と大伴家持研究など国文学研究、『ポトナム』の運営を続け、1932年、38歳で、立命館大学専門学部の教授に就任する。1931年9月「満州事変」に端を発した日中戦争が拡大する。恐慌は深刻化し、農村不況の中、労働争議が頻発し、弾圧もきびしくなるが、プロレタリア短歌運動は活発であった。『ポトナム』の作品にも、口語・自由律短歌も多くなると、苳三は、プロレタリア短歌もシュールリアリズム短歌も、もはや「短歌の範疇を越える」ものとして排除し(『ポトナム』1931年5月)、坪野哲久と岡部文夫が去っている。1933年1月号において、「現実的新抒情主義」を提唱し、「ポトナム短歌会」という結社の指針を示した。現在でも、結社として、その理念を引き継いできているが、その内容はわかりにくい。要は、短歌は目の前の現実を歌うのではなく、「現実感」を詠んで、「抒情」を深めよということではないかと、私なりに理解している。
 戦争が激化し、短歌も歌人も「挙国一致」「聖戦」へと雪崩れてゆくのだが、苳三は、創刊した『ポトナム』、自ら創刊・編集した『立命館文学』や種々の雑誌、NHK大阪放送局などで近代・現代短歌研究の成果などを矢継ぎ早に発表している。1940~42年には、『明治大正短歌資料大成』全三巻を完成させ、近代短歌史研究の基本的資料となり、1955年6月に刊行された『近代短歌史(明治篇)』は、その後の短歌史研究には欠かせない文献となった。短歌史研究上の評価については、『ポトナム』同人の研究者、国崎望久太郎、和田周三、白川静、上田博、安森敏隆らにより、社外からは、木俣修、篠弘、佐佐木幸綱らによっても高く評価されている。
 生前の歌集には、①『夕潮』(1922年8月)②『くさふぢ』(1933年4月)③『(従軍歌集)山西戦線』((1940年4月)があり、没後には④『くさふぢ以後』(1960年11月)⑤『小泉苳三歌集』(1975年11月)⑥『小泉苳三全歌集』(2004年4月)が編まれた。④は、墓所のある法然院に歌碑建立した際の記念歌集で、①は全作品収録されたが、②③④については抄録であり、⑥は、①~④をすべて収録した上、略年譜、短歌初句索引、著書解題、資料として追悼号や記念号で発表された、和田周三、阿部静枝、小島清、君島夜詩、国崎望久太郎による苳三研究論文が収録されている。さらに、白川静と上田博による書下ろしの評伝も収録された。
 いまここで、私の気になる何首かを上げたいところだが、各歌集から一首だけにして、先を急ごう。

①『夕潮』「大正十年」
白楊(ポトナム)の直ぐ立つ枝はひそかなりひととき明き夕べの丘に(朝鮮へ)

②『くさふぢ』「桔梗集 自昭和五年至昭和七年」
わがちからかたむけて為(な)し来(きた)りつること再(ふたた)び継(つ)ぐ人あらむや(書庫)

③『山西前線』「山西前線篇二」
 最後まで壕に拠りしは河南学生義勇軍の一隊なりき(黄河々畔)

④『くさふぢ以後』「Ⅲ自昭和二十一年 至三十一年」
ある時は辛(から)きおもひに購ひし歌書の幾冊いづち散りけむ(一月八日)

(続く)

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ポトナム短歌会と立命館大学図書館・白川静と用文字文化研究所との共催で『ポトナム』創刊百周年記念の展覧会が開催されている。立命館大学図書館の特殊コレクション「白楊荘文庫(旧小泉苳三所蔵資料)を中心とした展示となっている。衣笠キャンパスでの開催は終わったが、現在は大阪いばらきキャンパスで開催中、10月7日からは、びわこ・くさつキャンパスでで開催される。私も、コロナ感染が収まったら、ぜひ出かけたいと思っている。お近くの方は、ぜひ立ち寄ってみてください。

 

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