2025年4月12日 (土)

沖縄の渡嘉敷島の「戦没者」慰霊祭に思う~住民を守らなかった日本軍

  先月3月29日、『東京新聞』に「2025戦後80年」シリーズとして、「『二度と戦争やめて』沖縄・渡嘉敷島 戦没者の鎮魂祈る」という小さな記事があった。「集団自決」で亡くなったとされる330人の慰霊碑「白玉之塔」の前での慰霊祭に約100人が参加、戦没者の鎮魂を祈ったとし、それに続いて「集団自決」の模様を以下のように伝えていた。

「米軍は1945年3月27日、渡嘉敷島に上陸。島北端の山中に逃げた住民は28日、集団自決に追い込まれた。鎌で切りつけたり、縄で首を絞めたりして、肉親同士が殺し合った」

 簡潔で、間違ってはいないと思われる記事なのだが、私たちが、渡嘉敷島の現地での見聞や書物の記述とは、ずいぶんと違っているように思えた。
 私たちが、渡嘉敷島を訪ねたのは2017年2月6日、那覇港から、欠航の合間を縫って、ようやく渡ったのだった。高波にも見舞われながらの70分の船旅、日帰りの強行軍だったが、タクシーの運転手兼ガイドさんの女性の案内でかなり精力的にまわったのではなかったか。

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   記事に「島北端の山中」とあるが、現在は、起伏こそあるが、広がる草原の先には、「国立沖縄市青少年交流の家」があり、野球場も見渡せ、海に向かえば、座間味島、阿嘉島も見える。のどかな光景なのだが、1960年、米軍がミサイル配備の基地建設のため、辺りの山は削られ、谷を埋め、地形は一変したという。69年に基地は閉鎖され、本土復帰の数年後に返還されたというのだ。もともとニシヤマと呼ばれたこの山間の地で、「集団自決」という凄惨な殺戮が繰り広げられたのである。現在は、1993年3月28日に建てられた「集団自決跡地」の碑がある。敗戦直後の1951年3月28日には「白玉之塔」は建てられていたのだが、米軍の基地建設のため接収され、現在の位置に移設されていた。

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   現在では、体験者の多くの証言により、渡嘉敷での「集団自決」は、軍の命令や関与があったことは明らかになっている。以下の証言でも、日本軍は住民を守るどころか、殺人や自決に至らしめたのである。

例えば、『沖縄タイムス』の社説にもあるように、軍は「敵に捕まった場合の投降も事実上禁止されたほか、「米軍に捕らえられれば女は辱められ、男は股割きにされる」という恐怖を住民に植え付けたのである」とし、一人の男性の証言をつぎのように続けている。

「あの日。金城さんの家族5人がいた壕では村長の「天皇陛下万歳」三唱が合図となりあちこちで手りゅう弾が爆発した。金城さんは、死にきれなかった妻子を小木でめった打ちにする男性の姿を見て「やるべきことが分かった」という。兄と2人で泣き叫びながら母と弟妹の頭に石を打ち下ろした。」(「[沖縄戦80年]慶良間「集団自決」悲劇の背景に軍の存在」2025年3月26日)

  同じく地元紙の『琉球新報』は、慰霊祭の記事ではつぎのように伝えている。

「1945年3月27日、渡嘉敷島に米軍が上陸し、住民は日本軍の命令で北山(にしやま)に集められた。翌28日に「集団自決」が起き、当時の村民の4割に当たる330人が犠牲となった。」(「渡嘉敷島「集団自決」80年の慰霊祭 刻まれた肉親の名を呼ぶ 沖縄戦」『琉球新報』 2025年03月28日)

『読売新聞オンライン』では、死んだふりをして難を逃れた女性の証言としてつぎのように伝えている。

「隣の座間味島(座間味村)に米軍が侵攻した翌日の3月27日、集落に「米軍が攻めてくる」といううわさが広がり、家族や知人らと山へ逃げ込んだ。夜通し歩き続け、日本軍の拠点にたどり着いたが、兵士に立ち入りを拒まれた。」(「沖縄戦で恐慌状態になり「親族同士で殺し合い」2025年3月27日」

 ところが、総務省がまとめた「渡嘉敷村における戦災の状況」では、「集団自決」について、以下のように記されている。

「日本軍の特攻部隊と、住民は山の中に逃げこんだ。パニック状態におちいった人々は避難の場所を失い、北端の北山(にしやま)に追込まれ、3月28日、かねて指示されていたとおりに、集団を組んで自決した。手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で首を絞めたり、山火事の中に飛込んだり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていったのである」(総務省「(沖縄県)渡嘉敷村における戦災の状況」『一般戦災死没者追悼』所収)

 なお、渡嘉敷村のホームページ「慶良間諸島の沖縄戦」にも、上記と全く同文の段落があるので、総務省は、このページから一部を引用したものと思われるが、どうしたわけか、段落の冒頭部分「物量に劣る日本軍の特攻部隊と・・・」の「物量に劣る」が省かれている。総務省は、こんな姑息な「忖度」までを“日本軍”にするのかと。

 しかし、渡嘉敷村HPでも、「かねて指示されていたとおりに」というが、「いつ」「誰」が不明である上、「母と弟妹」は殺されたのであって、「自ら生命を断っていったのである」は、多く証言から、事実に反する記述ではないかと思う。さらに、同じHP上には、「大東亜戦争及び沖縄戦における本村関係者全戦没者数」の一覧表の欄外に*を付した「注意書」?では以下のような記述があるのである。

「狭小なる沖縄周辺の離島において、米軍が上陸直前又は上陸直後に警備隊長は日頃の計画に基づいて島民を一箇所に集合を命じ「住民は男、女老若を問わず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以て対抗できる処までは対抗し癒々と言う時にはいさぎよく死に花を咲かせ」と自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである。」

 渡嘉敷村HPにおけるこれらの齟齬を担当だという村の教育委員会に尋ねたところ、古いことなのでわからない、とのことだった。
「慶良間諸島の沖縄戦」
https://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/material/files/group/1/jiketsu01.pdf

 渡嘉敷島では驚かされた一件があった。曽野綾子撰文による「戦跡碑」である。かねてより保守の論客としても知られる作家の曽野綾子(1931~2025年2月)の撰文の一部を見てみたい。

「(前略)3 月 27 日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所 に集結したが、翌 28 日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、 車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。この日の前後に 394 人の島民の命が失われた。 その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。(中略)  315 名の将兵のうち 18 名は栄養失調のために死亡し、 52 名は、 米軍の攻撃により戦死した。 昭和 20 年 8 月 23 日、軍は命令により降伏した」(全文参照「戦争の悲劇的結末への宣誓」観光庁「地域観光資源の多言語解説文データベース」https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/H30-01471.html

「力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。」という唐突な「愛」への疑問はぬぐいようもなく、家族による「殺人」に至らしめた要因をも「家族愛」「家族制度」に包み込んでしまっている。

 さらに、撰文末尾近くの将兵の死因にも言及する。住民の「集団自決」と将兵たちのその徹底抗戦を賛美するかのような書きぶりだが、栄養失調や戦死した犠牲者は浮かばれず、その遺族の口惜しさは格別だろう。ともかく、生き残った割合は、住民より将兵の方がはるかに高いのである。日本軍は住民を守るどころか「集団自決」という「殺戮」後に、抗戦していたことになる。

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 総務省や観光庁の公式見解がまかり通っている現実と、いまここでは触れないが、教科書検定問題の決着は、「歴史を正しく次代に継承すること」とは真逆の道をたどっていると言っていいだろう。

 戦争や戦場の悲惨さを伝えることは重要だし、平和を祈る気持ちも大切にしなければならないが、メディアも「識者」も、なぜそのような戦争が始まったのか、戦場や銃後での理不尽な死者たちにも、しかと目を向けるべきだろう。安易に「戦没者」とひとくくりに出来ない死者たちがいることも私たちは知る必要があるのではないかと思う。

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 ガイドさんと話に夢中になっていて、「白玉之塔」に参るのを失念してしまった。

 

以下の過去記事もご覧いただければと、ご参考までに。

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(3)2017年2月19日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/3-e774.html

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(4)渡嘉敷村の戦没者、集団自決者の数字が錯綜する、その背景2017年2月22日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-0e0c.html

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2025年4月 8日 (火)

沖縄の「チビチリガマ慰霊祭」に思う

  4月6日の全国紙の朝刊は、沖縄県読谷村のチビチリガマで5日に行われた慰霊祭について報じていた。『朝日新聞』は「戦後80年」のシリーズとして「<集団自決>の地 語り継ぐ」、『東京新聞』は「2025年戦後80年」のシリーズとして「集団自決の過ち 繰り返さない」という記事だった。慰霊祭は、遺族会により行われ、生存者の参列はなく、遺族30人を含む約100人が参列している。1945年4月1日、米軍の沖縄本島への上陸が始まり、追い詰められてガマに避難した住民140人は、4月2日、住民同士や家族同士で殺し合った末、83人が犠牲となり、その6割が18歳以下だった。いわゆる「集団自決」による犠牲者だった。そうした中で生き残った者は「戦後長く口を閉ざし、証言するようになったのは80年代以降」(『朝日新聞』)だった。

   私たち夫婦が、このチビチリガマを訪ねたのは、2014年11月だった。ガイドも務める運転手さんによれば、米兵に突撃して射殺された2人を含み、狭い壕内で毛布に火が放たれもして、毒薬の注射や自決などにより85人が命を落とした。赤ちゃんの泣き声は、敵に居所を知らせるから、早くここを出るなり、殺せと兵士たちに迫られた母親もいたという。

  体験者の証言や聞き取り、研究者による調査研究などによって、こうした真相がわかってきたのは1980年代で、1985年には遺族たちと地域住民により追悼の平和の像が完成した。が、間もなく何者かに破壊されたので、石の壁で囲われるようになったとのことだった。

  私たちがガマに着いたときは、修学旅行の高校生が来ていて、ガイドの女性が説明をしているところだった。少し壕に近づき手を合わせたい気もしたが、運転手さんは、高校生たちの邪魔にならないようにしましょう、とその場を離れたのだった。

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  では、なぜ集団自決がなされたのか、その背景を『朝日』は「皇民化教育や〈軍官民共生共死〉という軍の方針があった」と言い、『東京』は「日本軍の強制や誘導があり〈強制集団死〉とも呼ばれる」と伝えている。
  NHK沖縄放送局の4月5日のニュースでは、この集団自決の背景を「捕虜になることを許さないとした当時の教育や軍の方針などがあったと考えられています」と伝えた。

  では、その「軍の方針」「軍の強制」とは何だったのか。上記の記事では。その辺が不明確なのである。これまで、私は「軍官民共生共死」という「軍の方針」とはどんなものだったのか、をあまり深く調べもしなかったのだが、とくに、沖縄の日本軍において、実践されたようなのだ。

  石原昌家教授のインタビューによると、1944年8月に赴任した第32軍の牛島満司令官が、同月31日、全兵団長を集めて行った訓示は「最後の一兵に至るまで敢闘精神を堅持」「一木一草といえどもこれを戦力化すべし」と言うものだった。さらに、第32軍が44年11月18日に作成した「報道宣伝防諜(ぼうちょう)等に関する県民指導要綱」によって「軍官民共生共死の一体化」と称して、「住民は戦場に動員されたり、飛行場や陣地の構築にかり出されたりし、軍民が一体化する中で米英軍の激しい攻撃にさらされ、多くの命が失われた」という結果を招いたというのである(「『県民の総決起』強いた沖縄戦の実相 数千の証言集めた研究者に聞く」『朝日新聞』2023年7月13日)。

 よく言われる「軍人勅諭」「戦陣訓」だけでなく、沖縄には、さらに密接な形での軍の方針が住民を苦しめた。その上、兵士たちは恐怖を煽るばかりでなく、住民たちに手をかけ、住民たちも家族同士、住民同士の殺傷に及び、失われた命だったのである。「自決」というのは、自らの意思による、潔い自裁さえ思わせるが、現実は、それとは程遠い殺戮が展開されたのではなかったか。「集団自決」は「強制集団死」と言い替えられることも多いが、「誰に」強制されたかがやはり不明である。「軍の誘導や強制により」と書き添えられることも多いのだが、体験者の証言などからは、より切迫した恐怖感があったからとしか思えない。

 

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2025年3月 9日 (日)

久しぶりに、地元の9条の会に参加しました~登戸研究所見学を思い起こす

 引っ越しの前後、数か月休んでいましたので、世話人の方たちとは久しぶりでした。会報の編集中で、2月にでかけた明治大学生田キャンパスにある登戸研究所資料館見学の感想集です。私は参加できませんでしたが、皆さんの関心の向けどころが違っていて、興味深かったです。「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」ニュース51号が楽しみです。

 以下は、2014年12月 明治大学平和教育登戸研究所資料館・NPO法人インテリジェンス研究所共催の「第9回防諜研究会」の講演会・ツアーに参加した折の感想です。当ブログの「明治大学生田キャンパス、「登戸研究所」跡を訪ねる(1)(2)(2014年12月23日)からの抜粋を再掲します。

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「陸軍の秘密戦における登戸研究所の役割―登戸研究所の軍事思想」山田朗(明治大学文学部教授、明治大学平和教育登戸研究所資料館館長)~とくに印象に残ったこと

登戸研究所の組織・沿革とその背景にある日本陸軍の軍事思想の特徴について話された。登戸研究所は、1937年11月、日中戦争の長期化に伴い、秘密戦(防諜・諜報・暴力・宣伝)の必要性が高まり、陸軍科学研究所登戸実験場として生田に設置された。その背景には、陸軍は銃砲弾重視の「火力主義」を物量不足から貫徹できず、歩兵による銃剣突撃重視の「白兵主義」が台頭、少数精鋭主義、攻勢主義、精神主義が強調されたが、これを補強する「補助手段」が必要となった。軍縮・経費節減から編み出される細菌兵器、敵国攪乱の毒ガス、謀略工作などを重視するようになった。1941年6月からは陸軍技術研究所の第九技術研究所と再編された。所長は、スタート当初よりかかわった篠田鐐中将があたる。その研究は、主なものだけでもつぎのように分かれていて、敷地11万坪、幹部所員約250人、民間人あわせて1000人以上が働いていた。

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予算・編成図、資料館の展示より


1)電波兵器(第一科)
2)風船爆弾(第一科)
3)特殊カメラやインク、毒物など諜報・謀略用品の開発(第二科)
4)対人、対動物、対植物の細菌兵器の開発(第二科
 5)経済謀略、戦費調達のための贋札づくり(第三科)


私にとっては、ほとんど初めて聞く内容だった。

2)の「風船爆弾」の風船作りについては、女学生などが勤労動員されていたことはよく聞くが、風船爆弾の機能や使われ方は、今回初めて知った。太平洋の偏西風を利用して生物兵器を搭載した風船をもってアメリカへの攻撃を計画していたが、毒ガスや生物兵器登載が国際的な使用禁止への流れの中で無理となり、爆弾を搭載して、1944年11月~1945年3月ごろまで約9300個の風船爆弾を放ったという。その内、着弾が確認できたのは361個だった。和紙とこんにゃく糊による風船は“牧歌的“にさえ思えてくるが、兵器の一部であったのである。詳しい記録や証言は少ないが、日本での放球時の爆発、アメリカでの不発弾の爆発で、それぞれ日米の犠牲者が出ている。


4)の「細菌兵器」について、思い起こすのは731(石井)部隊の医師たちの細菌などによる人体実験である。731部隊は、関東軍防疫給水部本部の研究機関の通称で、登戸研究所の研究との違いは、講師によれば、731は、野戦場における対人の兵器としての細菌研究で、登戸では、あくまでも敵国かく乱のための兵器としての生物兵器研究であったという。前者については、近年になって記録や証言、研究が多く、全貌が明らかになりつつあるが、登戸研究所については、その全貌が見えてこないという。両者とも関係者の責任、戦争犯罪に問われることがなかったのは、占領軍による研究成果の記録・情報取得を交換条件に関係者免罪が取引された結果であるとされている。


 もっとも驚いたのが、登戸研究所が「贋札づくり」の任務を担っていたことだった。国(軍隊)がニセ札を製造していたわけだから、登戸研究所の中でも「秘密の中の秘密」で、敗戦時にはほとんどの資料を焼却しているので、その実態が分からなかった。その後のわずかな証言から少しづつ明らかになってきたということだ。
  ニセ札製造とその流通の目的は何だったのか。1935年中華民国政府の蒋介石政権は米英の支援で統一通貨「法幣」を制定、浸透していたが、日本軍は物資不足・外貨不足のため長期戦を余儀なくされていた。そこで、日本軍は、ニセ札を大量に流通させてインフレを起こさせ、中国経済を混乱させること、ニセ札を使って現地の物資調達を容易にすることの二つを目的にニセ札製造に踏み切った。1939年から1945年までの間に、40億円相当(当時の日本の国家予算が200億)を発行したが、現実にはインフレは起こらなかった。このニセ札は、日本軍が発行していた「軍票」の信用がない中で、物資調達に重要な役割を果たした。製造には、巴川製紙や凸版印刷などの民間も協力させ、運搬は中野学校出身者らが担当したという。

  こうしてみると、戦争が、戦場での殺人行為を容認や競争をエスカレートさせるだけでなく、大量殺人やニセ札製造などという凶悪な犯罪行為を国家が推進していたことになる。「これが戦争というものなのだ」と納得する人間の愚かさを痛感させられる。これは、現代にも通じることで、情報収集やスパイ行為など一見頭脳的な行為にも思えることすら、CIAの情報収集や日本の公安警察に見るように、違法な国家犯罪を助長することにならないか。 


 登戸研究所資料館見学

 山田朗研究室の院生の方の案内で、資料館に向かう。キャンパスの北東の端で、登戸研究所第二科の実験棟の一つだった36号棟を改装して資料館にしたという。11万坪の敷地に40棟以上の建物が存在していたことになろう。明治大学は、敗戦後慶応大学などが借用中だったところ、1950年に、約5万坪を建物ごと購入している。1951年に明治大学農学部がこの地に移転し、80年代まではいろいろな建築物が残っていたらしい。資料館は、外観はきれいに塗装され、2010年4月から一般公開された。入口は小さく、廊下をはさんで両側に部屋が並ぶだけの構造である。36号棟は、第二科の「農作物を枯らす細菌兵器開発」実験を行っていた建物だった。どのへやにも大きな流し台が付いているのは、そのまま残されている。

  館内には5つの展示室が設けられ、第1室は沿革と組織、敷地、組織、予算などが戦局拡大と共に増大していく様子をパネルの図表で明らかにしていく。第2室は、研究所第一科が中心で開発した風船爆弾(ふ号兵器)関連の展示である。第二科は当初の電波兵器から風船爆弾開発に乗り換えたかのようで、1943年11月の風船爆弾試射実験で目途がつき、1944年11月からアメリカ本土攻撃が始まるのである。第3室は、第二科の生物兵器、毒物兵器、スパイ機材などの開発の分担組織や実態を少ない資料から浮き彫りしようというものだった。第4室では、ニセ札の製造・製版・印刷・古札仕上げ・梱包・運搬・流通の過程とニセ札以外に旅券やニセのインドルピーや米ドルなどの製造にまで及んだという。

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2014年12月23日撮影、「偽札はどうつくられたのか」。拡大してみてください。

  第5室の敗戦と登戸研究所についての展示に、私は多くの示唆を得た。闇に葬られようとした登戸研究所を歴史研究の対象の俎上に載せたのは、研究者でもなくジャーナリストでもなく、地元川崎市の市民地域学習活動の一環だったし、法政二高と長野県赤穂高校の生徒たちによる地域の歴史調査活動から始まったのだった。それまで口を閉ざしていた関係者や地元市民らが語り始め、資料を持ち寄り始めたのである。中でも元幹部所員の伴繁雄氏は、高校生との交流の中で、初めて、その体験を語り始めたそうだ。そうした活動の成果としてつぎのような本が刊行されるに及んだのである。

・川崎市中原平和教育学級編『私の街から見えた 謀略秘密基地登戸研究所の謎を追う』(教育史料出版会 1989年)
・赤穂高校平和ゼミナール・法政二高平和研究会「高校生が追う陸軍登戸研究所」(教育史料出版会1991年)
・伴繁雄『陸軍登戸研究所の真実』(芙蓉書房 2001年)

 向かって左の五号棟はニセ札の印刷工場として使用。2011年2月に解体され、 右の二十六号棟は、ニセ札の保管倉庫として使用、2009年7月に解体されてしまった。  
 

 キャンパス正門の守衛室うらの動物慰霊碑。1943年3月建立、その存在は登戸研究所で働く人にも 知られていなかった。現在も、農学部での動物慰霊碑にもなっていて、毎年ここで慰霊祭が行われている。近くに、民家も迫っている

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2024年12月23日撮影、動物慰霊碑

 資料館の見学の後は、上記のように登戸研究所の痕跡をたどった。遺された史跡、遺すよう努力された明治大学の研究者はじめ多くの方々には敬意を表したい。ここで、どうしても思い起こすのは、ドイツが国として取り組んでいる戦跡・記録保存の努力である。少し前のドイツ紀行の記事でも触れたように、たとえば、ベルリン郊外のザクセンハウゼン強制収容所は、一部を博物館にして、広大な敷地に残る建築物こそ少ないが、更地にした上で収容棟の配置を明確に残している。ベルリン市内の陸軍最高司令部跡にはドイツ抵抗運動博物館を置き、ライプチヒの国家保安省跡にルンデ・エッケ記念博物館を設置している。ホローコースト追悼記念碑やロマ・シンティ追悼記念碑をベルリンの国会議事堂・ブランデンブルグ門直近の一等地に設置している。日本との違いをどう見るべきか。

 

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2024年8月23日 (金)

対馬丸沈没から80年、私たちは何をしなければならなかったのか

1944年8月22日、那覇から九州に疎開する学童たちを乗せた「対馬丸」は、奄美大島沖を過ぎた悪石島付近で、アメリカの潜水艦により撃沈された。判明した乗船者数は1788人、氏名が判明している方々1484人、その内、学童が783人とされている。

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東京新聞【20024年8月23日】より

 

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対馬丸記念館、展示より。今年は記念館開館20年節目の年。

その内、漁船などに助けられた人、奄美大島に漂着したなどして救助された人たちは、280人に過ぎない。

私は、1944年末ころか、東京の池袋から千葉県佐原にあった母の生家に母と疎開した身である。年月も両親から聞いておかなかったのではっきりしないが、両国駅での列車の混雑ぶりだけが記憶に残っている。疎開船の学童たちとの体験とは、大きく異なるけれど、他人事には思えなかった。

2016年、遅ればせながら、6月23日の慰霊の日の式典に参列した折、対馬丸記念館を訪ねることができた。壁いっぱいの亡くなった方々の遺影、多くの幼いあどけない遺影に、胸が痛む思いだった。生き残った方々の悲痛な声や映像や文字に苛まれるのだった。

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遺影と遺品の展示室にて。

今年も「小桜の塔」の前での追悼式が開かれたとの報道である。それに合わせたものなのか、内閣府は来年度、沈んだままの対馬丸の船体の再調査を来年度予算に計上したという。船体は、すでに1997年水深約870メートル海底で発見されていて、当時、生存者や遺族が引き上げを要請したが政府は、船体の強度などを理由になされなかった。が、今回、内閣府は、平和学習や戦争の記憶の継承にも役立つとして、遺品の収集などを目指すというが、何を今さら、80年も経ってぬけぬけと・・・。

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対馬丸記念館に隣接した旭丘公園内にある小桜の塔、向かって右側が対馬丸の犠牲者、左側にその他に船の犠牲者名が刻まれていた。今年の8月22日いは約400名の方々が参列したという。塔建立70年になる。

 

以下の過去記事もご覧ください。

2016年7月16日
ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(2)「対馬丸記念館」~なぜ助けられなかったのか: 内野光子のブログ (cocolog-nifty.com)

 

 

 

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2024年7月29日 (月)

きのうのNHK「日曜美術館」は「香月泰男」だった

 日曜の朝、「日曜日美術館」をリアルタイムで見るのは久しぶり。「鎮魂 香月泰男の「シベリア・シリーズ」だった。2021年10月、葉山の神奈川県立近代美術館で見たはずの「シベリア・シリーズ」57点。番組では、その内の数点を香月自身の作品に付した言葉の朗読や「シベリア・シリーズ」を所蔵する山口県立美術館の学芸員などの解説を聴きながら、ゆったりと鑑賞することができた。葉山の展示は「生誕110年」だったが、今年は、没後50年記念の展覧会が山口県立美術館で開催している。もうかなうこともないだろう、香月の生家近くの「香月泰男美術館」にも出かけてみたいなとしきりに思う。

 香月泰男(1911~1974)は、1943年召集されるが、シベリアの抑留生活から1947年に復員、生涯描き続けたのが、シベリアでの過酷な体験であった。番組でも紹介された、私にとっての圧巻は、「朕」と「北へ西へ」だった。

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「朕」(1970年)は、1945211日紀元節の営庭は零下30度あまり、雪が結晶のまま落ちてくる中、兵隊たちは、凍傷をおそれて、足踏みをしながら天皇のことばが終わるのを待ち、朕のために、国家のために多くの人間の命が奪われてきたことを描いたという。絵の中の白い点点はよく見ると雪の結晶である。また、中央の緑がかった二つ四角形は、広げた詔書を意味しているのが、何枚かの下書きからわかったという。

 

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 「北へ西へ」(1959年)、敗戦後、ソ連兵によって行き先を知らされないまま、「北へ西へ」と列車で運ばれ、日本からは離れてゆくことだけはわかり、帰国の望みは絶たれたという。

 

<当ブログの関連過去記事>

葉山から城ケ島へ~北原白秋と香月泰男(2021年11月5日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/11/post-e73a2a.html

 

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2024年6月29日 (土)

沖縄の離島の悲劇を忘れてはいけない―「慰霊の日」に(2)

ハンセン病者の人体実験が続けられていた!

 この稿を終わろうとしたとき、「ハンセン病開発中の薬、療養所で 副作用確認後も投与試験」の報道に接した(『朝日新聞』2024年6月25日)。熊本県「菊池恵楓園」の調査報告書の公表を受けての報道であった。園長室で薬剤「虹波」を服用させたり、半ば強制的に注射をさせたりする人体事件のようなことが戦中・戦後も繰り返されていたというのである。

 「菊池恵楓園」といえば、1952年、あるハンセン病患者が証拠不十分なまま逮捕され、不当な裁判を受け、その結果、死刑となった「菊池事件」を思い起す。この療養所の医師にハンセン病と診断され、療養所への入所を執拗に迫られた被告が村の衛生担当者を殺害したと疑われた事件である。逮捕後は、構内の仮拘置所に隔離され、療養所内の特別法廷においては、本人が否認する中、一度も出廷したことがないままに、第3次再審中の1962年9月、福岡拘置所への移送直後2時間後に死刑が執行されるという異例の事件であった。この事件の背景には、戦時下の「無らい県運動」を引き継いだような病者の強制隔離政策と差別助長の社会的風潮があったのである。

<詳しくは、以下を参照>
・熊本県HP 3-1.菊池事件
https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/49316.pdf

・菊池事件略年表(菊池事件再審を求める会作成)
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 今回の報告書では「薬剤投与試験」1942年から開始されたとする。戦後も続けられたがいつまでかは不明で、調査中という。1943年アメリカでは新薬プロミンが開発され、1947年国内でも使用開始したにもかかわらず、1948年「優生保護法」で、ハンセン病者や障害者の断種や中絶が続き、1953年「らい予防法」では隔離政策は維持されていたのである。1996年「らい予防法」の廃止、2001年熊本地裁が「らい予防法」の違憲性、国家賠償請求を認め、国は控訴せず謝罪、「ハンセン病補償法」成立、2009年「ハンセン問題基本法」成立後も、さまざまな偏見と差別が続いているのが実態である。長島愛生園初代園長で、「無らい県運動」を率先して進めた、戦後も「らい予防法」での隔離政策を維持した医師光田健輔に1951年、文化勲章が授与されている。

なぜ、沖縄に、二つの国立ハンセン病療養所があるのか

 こうした日本のハンセン病小史を省みて、私の沖縄旅行で忘れられない一件がある。2017年2月、今は本島と橋でつながっている屋我地島の国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」を訪ねたときのことである。米軍機が兵舎と間違えて空爆がなされた愛楽園であったが、ここにも、病者への過酷な隔離と差別の歴史があった。

 私の「愛楽園」訪問の目的は、「癩」と皇室との関係への関心から、貞明皇后の「御歌(みうた)碑」を確認することだった。1932年11月、大正天皇の皇后、貞明皇后が「つれづれの友となりても慰めよ行くことかたきわれにかはりて」と詠み、この歌を全国のハンセン病療養所に下賜金とともに贈ったことから、歌碑が建てられたのである。「愛楽園」の10万坪近い敷地は出入り自由らしいので、地図と案内板を頼りにまわったものの、その歌碑を見つけることができなかった。海岸に出れば、水子の供養塔があり、思わずドキリとした。広い砂浜の先には小島や岩が点々とし、左には古宇利島への長い橋も見えた。その日は、交流会館の閉館時間も過ぎていたので、翌日、出直すことにした。通常の病院と変わらないたたずまいで、夕方とあって建物の間を白衣の人たちや配膳の人たちが行き来していた。

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 翌日、交流会館の展示で、「沖縄愛楽園」の沿革と国策によるハンセン病者の強制隔離と差別の実態をあらためて目の当たりにするのだった。

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米軍の空爆後、瓦礫と化した屋外で解剖がなされている。1945年7月10日米軍の撮影による

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1944年3月に着任した2代目愛楽園園長の早田晧は、7月から空襲時の避難壕の掘削を開始、手足の不自由な患者たちにも、掘ることを課し、病状を悪化する者が続出した。それが原因で、米軍の上陸後一年で死者が274人に上っている。下の銘板は自治会の名で1997年に建てられている。上の写真は、「早田壕」と呼ばれた壕の入り口の一つである。

 翌日、交流会館の展示を見て、「御歌碑」のたどった経緯も分かってきた。

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 上記の写真は、1932年11月に貞明皇后が詠んだ歌が全国のハンセン病療養所に下賜され、愛楽園では1943年2月に建立された「御歌碑」である。この写真説明には「絶対強制隔離政策の正当化と強化の役割を果たした」と明記されていた。皇室の威をかりての国策推進の典型といえよう。

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 上記の写真は、空爆による焼跡の中に立つ「御歌碑」だが、米軍の指示により、台座からはずされ、沖合の海に沈められたと説明されている。続いて、米軍は「国家神道」につながるものとして撤去を命じた、とも説明する。「国家神道」というより、GHQは、天皇、皇族崇拝につながるものとして撤去を命じたのではないか。

 案内の地図にある現在の「御歌碑」はどんなふうになっているのか、ふたたび構内を歩き回るのだが、見つからない。半分諦めかけていたところ、草ぼうぼうの広場の片隅に、思いもよらない姿をさらしていた。はじめは信じられなかったのだが、ボロボロになったブルーシートの間から、「貞明皇后」と読める文字、「つれづれの・・・」の文字も見える。

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 帰り際に、交流会館に寄って、係の人に尋ねてみた。見つけたのは古いもので、新しい歌碑があるのではないかとも。どこかあいまいな返答で、釈然としないまま、愛楽園を後にしたのだった。

 平成期の天皇夫妻が、1975年7月、皇太子時代に沖縄国際海洋博の開会式のために、沖縄に初めて訪問した際、沖縄愛楽園を訪問している。その時、「御歌碑」は再建されていたのか。横倒しの歌碑は、沈められた歌碑と石の形も台座も異なるところから、再建されたには違いないが、あのような姿になったのはいつだったのか。交流会館の前には、「高松宮妃殿下」「三笠宮妃寛仁殿下妃殿下」の記念植樹があった。

  あの「御歌碑」はどうなっているのか、気になっていた。2018年、沖縄愛楽園開所80周年の記事を見たので、園に電話してみた。「元の位置に戻しました、あの時はまだ工事中でして」とのことであった。工事中にしては、相当長い間放置されていた姿ではあった。正直なところ、自治会は、あのまま海に沈めてもよかったのではと思う一方、日本のハンセン病の歴史的遺構として、残されるべきものであったかもしれない。残す以上は、しっかりとその果たした役割を伝えてゆかねばならないと。

 なお、沖縄県には、もう一つ、宮古島に、国立ハンセン病療養所南静園がある。全国に13ある国立ハンセン病療養所のうち、二つが沖縄にあることになる。大正期の1916年8月、前述の光田健輔が多摩全生園の園長時代、西表島に3万人の患者を隔離できる候補地として、視察に来ている。収容人数の拡大と逃亡防止のためだったとするが、地元の猛反対行動に、逃げるように島を離れたとの、当時の報道もある。現在の沖縄の基地問題に共通するものがあるのではないか。
 

<以下もご参照ください>
冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(1)
沖縄、屋我地島、愛楽園を訪ねる(2017年2月14日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-eeb9.html

 

なぜ、貞明皇后だったのか

  また、なぜ、貞明皇后の「御歌碑」だったのかについては、以下の拙著も併せてお読みいただければと。

「貞明皇后の短歌が担った国家的役割 — ハンセン病者への<御歌>を手掛かりに」
『<パンデミック>とフェミニズム(新フェミニズム批評の会創立30周年記念論集)』翰林書房 2022年10月

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2024年6月26日 (水)

沖縄の離島の悲劇を忘れてはいけない―「慰霊の日」にふたたび(1)

 沖縄は、6月20日に梅雨が明けて、6月23日の慰霊の日前後の新聞は、『沖縄タイムス』と『琉球新報』はもちろん各新聞は、温度差があるものの、さまざまな形の特集や記事を掲載している。手元の四紙に目を通して思ったのは、式典の様子や平和の礎に祈る人々への取材がほとんどであった。

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左「沖縄タイムズ」【2024年6月23日」臨時号
右「東京新聞」(2014年6月24日)より

 中に一つ、東京新聞の「集団自決 息絶えた母」は、渡嘉敷島へ米軍が上陸した際、日本軍が住民を集め、手りゅう弾を渡し、集団自決を迫ったという事件を報じている。母と弟を目の前で殺された遺族の姉妹に取材した記事だった(2024年6月24日)。死にきれなかった者は、日本兵や身内が手をかけ殺すといった凄惨な場面を目撃した姉妹は死んだふりをして難を逃れたという。渡嘉敷島の住民にとって「慰霊の日」は、集団自決がなされた3月28日であった。90歳と86歳の姉妹は、6月23日に「平和の礎」を訪れ、日本軍への怒りと悲しみを新たにしたとある。

渡嘉敷島へ~欠航の合間に

 2017年2月初旬、私たちは、夫の強い要望で渡嘉敷島へ渡ったのは、村の人口よりやや多い、700人以上のマラソンランナーたちが去った直後だった。高速船は欠航だったが、波に強いというフェリーで出港、内海を出ると、甲板にいた私たちは波しぶきを浴びた。島では、タクシーの女性運転手のガイドによって、「観光案内書」にはないコースを巡ることになった。

  大江健三郎の『沖縄ノート』(岩波書店 1970年)を巡る裁判や教科書裁判で争われた「集団自決」について少しでも知りたいと思ってのことだった。渡嘉敷村のHPには、以下のように記されている。「パニック状態に陥り」「かねて指示されたとおりに」「集団を組んで」と、曖昧な表現となっている。

「3月27日には渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸作戦の補給基地として確保しました。日本軍の特攻部隊と、住民は山の中に逃げこみました。パニック状態におちいった人々は避難の場所を失い、北端の北山に追込まれ、3月28日、かねて指示されていたとおり、集団を組んで自決しました。手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で首を絞めたり、山火事の中に飛込んだり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていったのです。」

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 一方、1979年、曽野綾子らによって建立されたのが「戦跡碑」であった。その碑文には、一家が集団自決をする凄惨な場面が記述されたあとに「そこにあるのは愛である」という文言が唐突であり、いささか驚いた。

 27 日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所 に集結したが、 28 日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、 車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。この日の前後に 394 人の島民の命が失われた。 その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。(中略)  315 名の将兵のうち 18 名は栄養失調のために死亡し、 52 名は、 米軍の攻撃により戦死した。 昭和 20  8  23 日、軍は命令により降伏した」

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赤丸が訪ねたところ、黒丸が訪ねたかったところです。

以下の当ブログの過去記事もご覧いただければと。
 冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(5)「アリラン慰霊のモニュメント」をめぐる 2017.02.24

 冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(4)渡嘉敷村の戦没者、集団自決者の数字が錯綜する、その背景 2017.02.22

 冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(3) 2017.02.19

 

伊江島で何が起きていたのか

  2016年6月、本部(もとぶ)港から伊江島に渡っている。島の中央に突起したグスク山を目指し、フェリーで30分の船旅であった。島内は地元出身の運転手さんに案内してもらったが、今やリゾート地としての島、百合の花の島、伊江牛の島が自慢らしかった。

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 伊江島に米軍が上陸したのは1945年4月16日、六日間の激戦の末、4月21日には占領された。本島に疎開できず残っていた島民の半数近くの1500人、兵士2000人が犠牲となった。米軍は、伊江島の滑走路が何としても欲しかったという。その後、米軍は、「銃剣とブルドーザー」により島民の土地を収用、島民は追い出され、米軍基地がおかれた。一時は全面返還の話もあったが、現在も島の3分の1以上が米軍基地である。その四分の三600ヘクタールの私有地には、防衛省が地代を払い続け、1800人ほどの地主に、毎年16億の予算が付けられている。基地内には「黙認耕作地」というものがあって、耕作地、住宅地にも利用されている。
 なお、案内の運転手は、「地代が年に1000万以上の農家もざらにいるさ」とも話していたが、実際は、6割以上の地主は、100万以下ともいう。また、基地内の私有地が、不動産屋により売買され、「絶対返却されることはない」からと投資の対象にもされている。

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 1961年、「伊江島の土地を守る会」が発足、米軍に対する非暴力による抗議運動の根拠地となった団結小屋である。もちろん今は無人で、外壁には、大きな文字で、伊江島の土地を守る会、そしてその運動の中心だった阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう/1901~2002年)からのメッセージが書かれている。

ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(4)伊江島1(2016年 月17日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-2b26.html

ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(5)伊江島2
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-4891.html

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 1948年8月6日、米軍の上陸用舟艇に積まれていた未使用砲弾が爆発、島民107名の犠牲者を出した。地上戦で生き残った島民の命が奪われた大惨事であった。

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苛烈な激戦で、
唯一残骸をさらしている「公益質屋」。1929年の世界恐慌は、島民の暮らしを直撃し、高利貸しに苦しむ村民に、村が設けた質屋であった。

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ガマの一つ、手前の平らな部分が広く、多くの人々が潜んでいた。

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『毎日新聞』(2024年6月20日)の記事では、1943年日本軍は伊江島に飛行場建設を決定、戦況が悪化する中、要塞化を進め、1945年4月16日米軍上陸後は、軍は住民を巻き込み、多くの犠牲者を出した。毎日新聞は、このシリーズで、6月21日は、与那国島出身の大舛松市大尉の戦死を軍神とあがめ、戦意を高揚した同調圧力を、22日には、波照間島の島民が強制避難した先でマラリアに感染、島民の3割に当たる477人が犠牲になったことを報じていた。

 

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 私が6月23日の追悼式に参加したのは2016年だったから、すでに8年も経つ。会場に入るのは二重のチェック、式典後の帰りのバスから見た会場周辺の光景、青い制服の警備スタッフがが延々と続く。安倍首相の時代である。ことしはどうだったのだだろう。

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 私のわずかな沖縄体験ながら、沖縄本島はもちろんだが、伊江島、屋我地島、渡嘉敷島を訪ねただけでも、多くを知り、考えさせられることも多々あった。次回は、国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」のある屋我地島について書いておきたい。

 

 

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2023年11月12日 (日)

知覧、唐突ながら、知覧へ行ってきました

 鹿児島中央駅東口からの東16番の路線バスで、終点特攻観音入口まで、1時間30分ほどかかった。市街地を抜けると、南九州市、知覧へは上り坂が続く。この小旅行で、いちばんつらかったといえば、特攻隊員が出撃の前の数日間を過ごすことになっていた「三角兵舎跡」へとのぼる松林の中の山道であった。今でこそ、階段が整えられ、決して長くはない、この道をのぼる隊員たちの気持ちを思うと胸が痛い。のぼりきった平地は、陽が射さず、コケに覆われ、モグラの仕業か、地面のあちこちがひっくりかえされ、「三角兵舎跡」の碑がひっそり立っているのだった。

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角兵舎跡への階段、三角兵舎の跡の石碑。

  少し離れた、軍用施設となっていた二軒の旅館から、出撃が間近くなった隊員が、この地の兵舎に移動してくるのだった。さらに、出撃当日は、ふもとにトラックがやってきて、飛行場へと赴いたという。二本の滑走路近くには「戦闘指揮所」があって、「俺も後から行くからな」という上官や女学生たちに見送られて、機上の人となり、二度と帰ることはなかったのである。

 知覧の旧基地の一画には、知覧特攻平和会館(特別攻撃隊戦没者慰霊顕彰会、1987年2月開館)がある。九州、台湾、琉球諸島にあった特攻基地から、1945年4月1日、沖縄本島への上陸米軍への総攻撃が始まり、4月6日の第一次総攻撃から6月21日の第11次総攻撃まで、さらにその前後、とくに、1945年6月23日、牛島満軍司令官の自決をもって、沖縄戦終結後の7月、8月にも、出撃が続いている。その戦没者合わせて1036人の遺影が壁いっぱいに展示され、ケースには遺書や遺品などが並べられている。20歳前後の若者たちが、“志願”の名のもとに、殺されていたかと思うと、遺影とはいえ、彼らの視線には耐えられず、会館を後にするのだった。

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大破した、海軍ゼロ式艦上戦闘機。

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松永篤雄さん(19歳)の辞世「悠久の大義に生きん若櫻唯勇み征く沖縄の空」。

 掩体壕まで案内してくれたタクシーの運転手さんは、「特攻機も、特攻隊員も出撃までは大事にされてたわけですな」の一言には、複雑な思いがよぎるのだった。

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知覧町が、敗戦50年、1995年に建てている。

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掩体壕のめぐらされた土手の高さは4メートルほど。後方には、茶畑が広がる。

 この知覧行には、忘れ難い一件もあった。鹿児島中央駅のバス停で、台湾から来日した若い女性に出会った。上手な日本語で、二カ月の休暇で、北海道から日本を縦断する形で、旅をしてきたという。知覧を最後に、帰国するというのだ。
「日本語はどこで学んだの」には、「塾に通い、あとは独学です」と。「日本に興味を持ったきっかけは」には、「日本のアニメが好きだったのと、池上彰の話を聞いたりして・・・」という。
 知覧特攻平和会館では、ちょうど「鹿児島県の戦争遺跡」という企画展も開かれていることも知っていて、私たちもできれば聞きたいと思っていた、その日の企画展に伴う講座のことを話すと、すでに知っていて、参加するという。かなり調べていて、準備不足だった私など教えられることもあって、その学ぶ意欲に脱帽。日本の台湾旅行者で、ここまで調べている若者がいるかな、と。彼女は、終点の一つ手前の武家屋敷群前で「今日、またどこかで会えるかもしれませんね」とバスを降りていった。

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知覧飛行場跡概略図、『旅の雑誌』(南九州市)より

 

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2023年10月17日 (火)

「雨の神宮外苑」(NHKTV2000年制作)について書いた後、知って驚くことばかり(2)~「内閣調査室」のこと

  1952年、内閣官房に「内閣調査室」を立ち上げた時からのメンバー、志垣民郎については、以下の当ブログ過去記事でも紹介した。志垣が、最晩年に出版した『内閣調査室秘録―戦後思想を動かした男』(志垣民郎著 岸俊光編 文春新書 2019年7月)を読むことができた。

「雨の神宮外苑」(NHKTV2000年制作)について書いた後、知って驚くことばかり~「わだつみ会」のこと  (831日)

 同書には、どういう人物とどこで、情報交換していたのか、<研究費>と称して、手渡した金額などが日誌風に記録されている。彼らが接触するのは、たいていは高級レストランらしい。<接待費>も<研究費>も、もちろん国費で、もとはといえば税金だったわけである。私が、初めて知ったのは、鶴見俊輔とも接触があって、『共同研究 転向』上中下(平凡社 1959年1月、1960年2月、1962年4月)へ資料提供をしていたことであった。「金は手渡さなかった」との記述にほっとしたのであったが。また、さまざまな研究者の名前と手渡した金額が明記されていた。その中で、私が新卒で2年ほど勤務していた学習院大学の先生たちの名も登場する。アメリカ帰りの行動科学専攻の先生の研究室には、巨大な「電気計算機」なるものが設置されていたのだが、その後の1960年台の後半、その先生から、150万円を要求された志垣は、そんな大金には応じられないとの記述もあった。

 断捨離のさなか、紙が悪いのだろう、茶色くなった冊子が2冊出てきた。表紙にはなんと「内閣官房内閣調査室」のゴム印が押されていた。かつて勤務していた図書館には、納本される新刊書からレファレンスブックを選書する日があって、棚の片隅に、処分されそうな何冊もの副本の中から、レファレンスの事務用にと部屋に持ち帰ったのだろう。退職の時の私物に紛れ込んでしまったのかもしれない。

  • 「文学者の政治的発言」(社会風潮調査資料10)昭和三十七年(1962年)
  • 「社会風潮としてみた流行歌―歌謡曲を中心とした思潮の変遷」(1966年)(社会風潮調査資料37)昭和四十一年三月

  今回、あらためて読んでみた。①には、さまざまな文学者の名前や団体名が登場し、思想的な色分けをした上で、若干の解説が付されている。B5版の80頁ほどで、タイプ印刷のようにも見える。 巻末に参考文献も示されているが、当時としても、おそらく、あたらしい事実もないし、分析もそっけなく、内調のオファーに応じたかのような、かなり、偏向した内容でもあり、大学生の卒論くらいにしか思えなかった。②も同様に70頁ほどの冊子だが、この内容も、既刊の関係文献をなぞった程度で、巻末の「昭和の主な歌謡年表」も粗末なものである。この冊子が出されていた頃、私も、流行歌、歌謡曲には、けっこう興味を持っていて、関連の書物は何冊か今も持っている。②と対極にあるのは、「赤旗日曜版」の連載をまとめた高橋磌一『流行歌でつづる日本の現代史』(音楽評論社 1966年8月)だろうか。少し後に出された、作詞家4人による『日本流行歌史』(古茂田信男・島田芳文・矢澤保・横沢千秋著 社会思想社 1970年9月)は、歴史編・歌詞編・年表篇とに分かれ、巻末には、歌い出し・曲名・主要人名事項の索引がついている557頁もの労作である。さらに下って、『歌謡曲大全集1-5』(全音楽譜出版社 1981年)まで購入している。歌は歌でも、短歌ではなくて歌謡曲にも興味津々であった。さらに下って、戦時下の歌謡曲については、櫻本富雄『歌と戦争』(アテネ書房 2005年3月)と先の『日本流行歌史』は、調べる本として、いまでも利用している。後者は、発行が1970年だが、1964年創業のジャニーズ事務所は登場せず、言及は渡辺プロダクション止まりであった。

 話はいろいろに飛んでいったが、借りた福間良明『「戦争体験」の戦後史』(中公新書 2009年3月)が、まだ読み切れていない。

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北側のキンモクセイがいい香り漂わせていた。物置に邪魔されたキンモクセイはまだらしい。

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2023年9月30日 (土)

「雨の神宮外苑」(NHKTV2000年制作)について書いた後、知って驚くことばかり~「わだつみ会」のこと

 戦没学生の遺稿集「きけわだつみのこえ」という書名の由来は、みずからも学徒出陣した、京都の歌人藤谷多喜男の次の一首であったという。 

・なげけるか いかれるか はたもだせるか きけはてしなきわだつみのこえ

 「学徒出陣」で戦没した学生たちの一部の遺族たちが相寄って、遺稿集『きけわだつみのこえ』(東大協同組合出版部 1949年10月)が生まれ、1950年4月、遺族たちを中心に追悼と反戦平和を目指し「日本戦没学生記念会」(わだつみ会)が発足した。「雨の神宮外苑」を見て、いくつかの記事を書いたが、その後、図書館にリクエストしていた保阪正康『『きけわだつみのこえ』の戦後史』(文芸春秋 1999年11月)が届き、「わだつみ会」の変遷を知って、驚くことがいくつもあった。この書は、保阪渾身の取材による、人物を中心とした「わだつみ会」の変遷だった。とくに、保阪は遺族から提出された遺稿の原本と出版された遺稿集との照合や証言によって、戦没学生の心情に迫ろうとしていた。前述の記事で紹介した那波泰輔論文からは計り知れない、過酷な「わだつみ会」の戦後史を知ることになった。

 以下、保阪の書により振り返ってみよう。

 遺稿集『きけわだつみのこえ』の出版を契機に、戦没学生の遺族や友人、東大生らは、兄徳郎の遺族で、東大医学生の中村克郎を中心に「わだつみ会」が結成された。『きけわだつみのこえ』は、ベストセラーにもなり、映画化もされた。そして、追悼記念碑として、本郷新による「わだつみ像」も完成したが、東大構内での設置を拒否され、1953年12月には立命館大学に引きとられた。1958年には学生運動の分裂・急進化、財政難のため解散するのだが、小田切秀雄、中村克郎、安田武らにより再建が図られ、政党(共産党)に利用されない、本来の戦没学生記念事業を軸に戦争体験の継承と戦争責任を明らかにすることを主旨とし、阿部知二理事長、山下肇事務局長による第二次わだつみ会が発足した。1960年代という政治的な季節に、戦中派、高校生をふくむ戦後世代を巻き込んだ「平和団体」であった。

  1963年に、「きけわだつみのこえ」の第二集『戦没学生の遺書にみる15年戦争―開戦・日中戦争・太平洋戦争・敗戦)』 (光文社 カッパ・ブックス) を出版、1969年、立命館大学の「わだつみ像」が全共闘系の学生に破壊されるという事件もあった。1970年、戦没学生世代が中心となり、政治運動から距離を置きつつ、平和団体、思想団体を目指そうと、中村克郎理事長、渡辺清事務局長により再編された。『戦艦武蔵の最期』『砕かれた神』などを残した渡辺事務局長のもと、「わだつみ会は遺族とともにあることを忘れてはいけない」としつつ、もっと大衆的な広がりを求めた。機関誌「わだつみのこえ」では、それまでタブー化されていた天皇制についての特集を続けた。すると、機関誌の購読者も、わだつみ会の会員も増え、サラリーマンや主婦、市民活動家などが参加したという。「昭和天皇の戦争責任を問う」ことを目指した会員が増加したという、今からは想像しがたい状況ではあったが、裏返せば、「天皇制」を語る受け皿が少なかったことを意味しているかもしれない。1981年、精力的に活動していた渡辺事務局長の急逝、その後、追悼、思想中心から政治団体化していくなかで、安田武、平井啓之らの死去により調整役を失い、それまで、献身的に、財政的にも会の活動を支えてきた中村克郎は理事長の座を追われる。

 1994年2月、関西の大学から東京に戻った山下肇の中村克郎理事長への公開質問状、後に理事長となる高橋武智による声明文、1994年4月の総会にいたるさまざまなか画策による、中村克郎への糾弾、追い出しの露骨な動きは余りにも感情的で、見苦しくも見えた。よくある組織内の乗っ取りや居場所確保の結果のように思われた。                                       

 さらに、以下の文献の著者岡田裕之は、わだつみ会の理事長も務め、2006年12月「きけわだつみのこえ記念館」新設に向けて尽力し、岩波の新版の遺稿集の修正すべき個所を詳細に明示し、岩波とわだつみ会事務局に要望する。が、事務局には容れられず、2004年には排除される経緯は以下に詳しい。会に深くかかわった者からの貴重な証言である。

岡田裕之「日本戦没学生の思想~『新版・きけわだつみのこえ』の致命的な欠陥について」(上)(下)(『法政大学大原社会問題研究所雑誌』578・579号 2007年1月・2月)
file:///C:/Users/Owner/Downloads/578okada%20(1).pdf
http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/579-03.pdf

 また、つぎの今西一によるインタビュー文献の最後尾第Ⅵ章「わだつみ会:運動史の断絶と継続」でも、その経緯が語られている。

占領下東大の学生運動と「わだつみ会」~岡田裕之氏に聞く⑴⑵
『商学討究』60巻2・3号~4号 2009年12月~2010年3月 
https://core.ac.uk/download/pdf/59174355.pdf
file:///C:/Users/Owner/Downloads/ER60(4)_1-45.pdf   
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

 1994年4月、副理事長の高橋武智が理事長に就任して、山下肇事務局長のもとスタートし、1995年に『新版・きけわだつみのこえ」(岩波書店)を出版したが、中村らの「わだつみ遺族の会」は、その新版には、誤りが多く、改ざんがあるとして、わだつみ会・岩波書店を訴えたが、1999年の第8刷によって修正されとして、訴えは取り下げられている。
 その後の動きは、「きけわだつみのこえ記念館」のホームページや『記念館たより』で知ることができる。
 2005年8月、わだつみ会は特定非営利法人わだつみ記念館基金となり、永野仁理事長、山下肇が初代館長でスタートした。毎年、12月の不戦の集い、各種の展示会や講演会、朗読会、関連映画の上映などのイベント、記念館見学者のガイド、資料集出版と地道な活動を続けているように見受けられる。2008年山下が急逝すると、永野仁理事長、高橋武智館長の時代が続く。2014年以降は、岡安茂祏理事長、渡辺総子館長を経て、 2019年には渡辺総子理事長が理事長になると、上記の岡田裕之が副理事長になり、2022年からは、岡田裕之が館長に就任している。

 前述のインタビューで、岡田は、有田芳生が資料の閲覧に出かけたときの記念館執行部、渡辺総子事務局長、永野仁理事長、岡安茂祏副理事長時代の対応を紹介、批判しているが、従来からの執行部への批判、対立は解消したのだろうか。実務は学芸員や司書たちが進めているとは思うが、理事長が87歳、館長が1928年生まれなので90代半ばである。政党の介入のない、少しでも若い人によって担われ、大事な資料の保存と利用が進められることを期待したい。 

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読売新聞(2023年8月13日「家族への悲痛な思い永遠に…戦没学生の手紙や日記「わだつみのこえ」1800点をデジタル化」渡辺総子理事長(右)と岡田裕之館長(左)

 

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