2018年4月13日 (金)

1945年4月13日、池袋の生家は焼けた!

 ちょうど、73年前の413日の夜から14日の未明、東京池袋の私の生家は、城北空襲で焼け落ちた。母と小学生の次兄と3人は、すでに、千葉県佐原の母の実家に疎開していたのだが、薬局を営んでいた父と薬専に通っていた長兄が被災し、命からがらに川越街道を走りに走って、ひとまず、知り合いだった板橋の農家にお世話になったという。

 

 当時は、電話もない、大本営発表のラジオニュースだけが頼りの時代であった。安否は何で確かめたのだろう。その空襲から数日後だったのか、親類が営んでいた佐原駅前の食堂で、憔悴しきっていた父と長兄を迎えたことは覚えている。父が、池袋から佐原を訪ねてくることはそれまでも何回かあったようなのだが、その都度、かならず、森永のキャラメルとかサクマのドロップとかをお土産に持ってきてくれたことも覚えている。その日も、私は、そんなお土産をねだったのだろうか、父が、持ち帰った、たった一つの小さな肩掛け鞄の焼け焦げた角を指して、家から何一つ持ち出すことができなかったという意味のことを聞かされたかすかな記憶もよみがえる。 

 こんなことを思い出したのは、実は、昨日412日、ある法律関係の雑誌のインタビューを受けていたからだ。これまでのいくつかの市民活動でお世話になっていた弁護士のTさんの紹介での企画だったらしい。インタビューアーの弁護士Mさんは、これまでも雑誌でのインタビュー記事の百数十本をこなされているベテランである。もはや、私は、まな板の上のコイなのかもしれない。

 

 どういうわけか、東京の空襲時の話や私の進学時や就職・転職時、さては子育て時代に苦労した話や短歌との出会いという、かなりの昔話に花が咲いた。Mさんも女性が仕事を続けることへの関心が高かったのかもしれない。さて、どんな記事になるのかしら。

  そして、今朝、『東京新聞』28面の「きょう城北大空襲 桜 戦争と平和」という記事に出会った。家を焼かれた被災人口64万人、死者約2500人であったという。

  東京の空襲は、19441124日の中島飛行機武蔵製作所から始まり、連日、家屋を焼き、死者を出し、1945815日の敗戦の日の青梅空襲まで続く。1945310日の下町大空襲の死者は10万人ともいわれ、525日の山の手大空襲も7000人以上の死者を数える。

 本ブログにもかつて掲載したこともあるが、我が家の「罹災証明書」を再掲したい。また「国債貯金通帳」をスキャンしてみた。

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この「罹災証明書」によれば罹災日4月13日、証明書の発行日が4月14日になっているが、当時池袋警察署は無事だったのか、調べてみると、やはりや4月13日には焼け出されていて池袋本町2丁目の「重林寺」が仮庁舎となったとある。なんとその重林寺は、一家が、翌年疎開先から池袋の焼け野原のバラックの家に戻った時、私が転校した池袋第二小学校の臨時教室にもなっていたのである。

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「豊島信用組合」の通帳で、1943年8月から1・2か月に一度、15円から40円程度が「受入高」として記載されている。利子が64銭、2円4銭などの記載も見える。最後の2行の受入れ日付の記入がなく、昭和20年4月22日に200円、6月21日130円拂出している。表紙にも、頭注にも「便宜拂出」として「千葉銀行佐原支店」の押印があるのがわかる。疎開先の佐原で、空襲罹災後1週間ほどで200円が下ろされている。当時の「100円」って、どれほどだったのだろう。罹災後の一家の疎開先の佐原信用組合に開いた父名義の「報国貯金通帳」「国債貯金通帳」「貯金通帳」というのも残っているがわずかな出入りしかない。

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2018年3月28日 (水)

『国策紙芝居からみる日本の戦争』のページを繰って(2)

<登場する短歌作品>

私が、解題篇を読んで、やはり気になったのは、短歌や和歌が「国策紙芝居」にどう登場したかであった。 

➀「風流蜀山人」(鈴木景山脚本 石原徴絵 194181日) 

・色白く羽織は黒く裏赤く御紋はあをいきいの殿様 

・唐人もここまで来いよ天の原三国一の富士を見たくば 

 

短歌ではないが、狂歌師の太田蜀山人にまつわる小噺で、何首かの狂歌もが紹介されている中の2首を記した。1首目は、紀伊の殿さまにまつわる狂歌であり、2首目は、中国を意識した時局を反映したものだろう。


②「楠木正行」(平林博作 西正世志絵 1941925日)

・かへらじとかねて思へばあずさ弓なき数にいたる名をぞ止むらん 

南朝の天皇への「忠孝」を誓い、この「忠魂」は世の若人に「道を教え、励ましを与えて」いると結ばれている。ここに、登場する後醍醐天皇の声は聞こえるが、その姿は雲のなかであって、姿は描かれていない。

 ③「忠魂の歌」(大日本皇道歌会編国民画劇研究会脚色・絵 1942531日)

・海ゆかば水漬くかばね山ゆかば草むすかばね大君のへにこそ死なめかへりみはせじ 

萬葉集収録の大友家持作が読み上げられ、「尽忠報国。まことに、皇軍勇士の亀鑑たる鈴木庄蔵軍曹のお話であります」ではじまる。「海ゆかば」は、国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲として信時潔がNHKの嘱託を受けて1937年に作曲したものだが、下の句の「天皇のそばで死ぬのだから、決して後悔はしない」とのメッセージが重要なのだろう。主人公の鈴木庄蔵は、東京羽田で父と漁師をしていたが、出征、193810月、中国、徳安城攻撃で重傷を負う。臨時東京第一陸軍病院での入院生活で短歌を看護婦の勧めで始めるが、1940810日に没する。臨終の際に、次の一首を詠むに至るストーリーである。 

・半身は陛下のみために捧ぐれどいまだ半身われに残れる

 作中には、ほかに、次のような短歌が挿入される。

・大場鎮突破なしたるその時は隊長も兵も共に泣きたり

(靖国神社権宮司 高原正作揮毫) 

・わが體砲煙の中にくだくとも陛下の御為なに惜しからん

(明治神宮権宮司 中島正國揮毫)

 なお、鈴木の作品内危篤から臨終までの遺詠が70首あるといい、そのうちの21首が『白衣勇士誠忠歌集』(由利貞三編 日本皇道歌会 1942年3月)に収録されている。また、編者の由利の解説に拠れば、1941年5月26日皇太后(貞明皇后)訪問の折、「戦傷勇士」5名12首を献上したと記す。鈴木の4首が一番多く「半身は」の他以下3首も記されている。

 

・吾が身をばかへりみるたび思ふなり陛下のみためいかに盡せし
・傷おもきわが身にあれど大君の股肱にあれば元気かはらず
・陛下より恩賜の煙草いただきて我はすはずに父におくりぬ

 

④「物語愛国百人一首」(納富康之脚本 佐東太朗子絵 斉藤瀏題字 1943820日)  

「愛国百人一首」は、日本文学報国会が、佐佐木信綱、窪田空穂、尾上柴舟、太田水穂、斎藤茂吉、土屋文明ら12名の歌人を選定委員として、「尊王愛国」を喚起するカルタの普及を目指して作成し、内閣情報局が19421120日に発表した。協賛した東京日日新聞、大阪毎日新聞はじめ、短歌雑誌はもちろん、主婦や子供向け雑誌などでも鑑賞や評釈が盛んになされた。この紙芝居では、百首の中から20首近くを紹介、その中には、前掲、大伴家持の「海行かば・・・」、楠木正行の「かへらじと・・・」などを含む次のような短歌が次々と紹介されてゆく。

 

・しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花

(本居宣長) 

・皇(おほぎみ)は神にしませば天雲の雷(いかづち)の上に盧(いほり)せるかも(柿本人麻呂)  

・身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂 

(吉田松陰)  

・御民吾生ける験あり天地の榮ゆる時に遇へらく念へば

(海犬養岡麻呂)

  題字を揮ごうした斎藤瀏は、選定委員の一人でもあり、「心の花」同人で二・二六事件に連座、反乱幇助罪で入獄。出獄後は「短歌人」を創刊、太平洋戦争下では、戦意高揚短歌を数多く作り、「短歌報国」にまい進した。斎藤史の父でもある。 

<描かれなかった天皇、登場する天皇の短歌>

 

『国策紙芝居から見る日本の戦争』における論考篇の中で、もっとも関心を寄せたのは小山亮「国策紙芝居のなかの描かれない天皇―神奈川大学所蔵コレクションから」であった。紙芝居の絵の中で、「描かれることがなかった天皇」―脚本には言及がありながら、図像には決して描かれなかった天皇について、各作品の絵と脚本とを照合しながら丹念に検証した労作である。身体の一部が絵になりながら、顔や全体像は見せなかったり、雲の上に存在を思わせながら姿を見せなかったりする紙芝居の中の天皇の存在が「御真影」との関係、他のメディアとの差異など、何を意味するのか、興味深く思われた。私は、それを読みながら、それでは紙芝居に登場する天皇の短歌はどんな場面で登場し、どんな作品が選ばれているのかを、探ってみたいと思った。制作年月日順にみてみよう。 

➀「大政翼賛」(日本教育紙芝居協会(作成)19401230日) 

19401012日の大政翼賛会が成立の直後から制作にかかったのだろうか。当時の標語「なまけぜいたくは敵」「公益優先」などの羅列と解説に終始する作品で、が引用されるということで、最終場面<臣道実践>の文字と二重橋の絵の台本に、1904年の明治天皇の短歌が記されている。 

・ほどほどに心をつくす国民のちからぞやがてわが力なる

(明治天皇)

 

②「戦士の母」(日本教育紙芝居協会脚本 西正世志絵 1941618日) 

 千葉県のある村で、息子の出征を励ます母を描きながら、強い皇軍の支えは銃後の力であり、ことに「母こそわが力」が大きいことを力説する作品だが、1904年の短歌が登場する。 

・子らは皆戦の場に出ではてゝ翁や一人山田守らん

(明治天皇) 

*こらは皆軍のにはにいではてゝ翁やひとり山田守るらん(『明治天皇御集』明治神宮社務所編刊 195211月)

 

③「産業報国」(平林博脚本 油野誠一絵 1941105日) 

 大日本産業報国会提供作品で、冒頭場面では、1904年の短歌が使用され、最終場面は工場街を背景に「護れ!職場はわれらの陣地!」の大きな文字が描かれている。 

・よもの海みなはらからと思う世になど波風の立ち騒ぐらん

(明治天皇)

 ④「あまいぶだう」(日本教育紙芝居協会脚本 羽室邦彦絵 1941105日) 

 軍事援護強化運動の一環として制作された作品で、国民学校の児童たちと近所の傷痍軍人との交流を描いている。ここでは、昭和天皇の良子皇后の短歌が引かれている。1938103日(軍事援後強化時期1034日)に寄せた短歌であった。戦時下の女性皇族の役割として、傷病兵やハンセン病者たちへの慰問などが担わされていたことがわかる。 

・あめつちの神ももりませいたつきにいたでになやむますらをの身を
(香淳皇后)

 

⑤「英東洋艦隊全滅す」(日本教育紙芝居協会脚本 小谷野半二絵 1942121日) 

 19411210日、128日の日米開戦直後の、日英マレー半島沖戦の戦闘場面を誇る戦意高揚作品。次の1905年短歌で締めくくられる。 

・世の中にことあるときぞ知られける神のまもりのおろかならぬは(明治天皇) 

⑥「大建設」(選挙粛正中央聯盟(作成)1942317日) 

表題の上段に「大東亜戦争完遂」、下段には「翼賛選挙貫徹運動」が掲げられる。太平洋線追うが始まっての翌月19421月の歌会始のお題「連峰雲」の昭和天皇の短歌が絵や台本に刷り込まれている。 

・峰つゞきおほふむら雲吹く風の早くはらへとたゞいのるなり
(昭和天皇)

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⑦「学の泉」([斎藤史弦絵] 1943123日) 

 仁徳天皇、菅原道真、伊能忠敬など歴史的人物が一人一枚で登場する「教育勅語」の解説作品のなかで、1891年の歌会始「社頭祈世」の作品が引かれている。 

・とこしへに民やすかれと祈るなるわがよをまもれ伊勢の大神

(明治天皇) 

 

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「峠」(斎田喬脚本 伊藤文乙美術 1945年7月10日)東京から農村に疎開してきた少年の成長を描く物語。斎田(1895〰1976)は香川師範卒業後、成城小学校の教師に招かれ、学校劇・自由画教育に携わった。戦後は児童劇作家協会を設立している。

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「三ビキノコブタ」(川崎大治脚本 西正世志絵 1943年3月20日)昔ながらの童話もある。川崎(1902~1980)は巌谷小波に師事、一時、プロレタリア児童文学運動にも参加、戦後は児童文学者協会設立にかかわり、後、会長となる。

 

 

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『国策紙芝居からみる日本の戦争』のページを繰って(1)

<研究会に参加できなかったけれど>

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      チラシ: http://www.kanagawa-u.ac.jp/att/16525_29237_010.pdf 

 

 325日は神奈川大学横浜キャンパスに出かける予定にしていたが、所用で、見送ることになってしまった。以下のプログラムで神奈川大学非文字資料研究センターによる研究会「アジア太平洋戦争と国策紙芝居」が開催されていた。1週間ほど前に、そのセンターから『国策紙芝居からみる日本の戦争』と題する、厚さ3センチ以上、A4 の立派な図書(同センター「戦時下日本の大衆メディア」研究班編著 勉誠出版 20182月 463頁)を頂戴した。センター所蔵「戦意高揚紙芝居コレクション」239点(193612月~19457月制作)の解題篇、論考篇、データ篇からなり、解題篇は、各作品1頁のスペースに、表題紙・書誌事項・あらすじ・解題から構成され、34枚の絵がカラーで収められている。私の紙芝居体験は、敗戦後からなので、収録の紙芝居は見たことがない。ただ、201312月、同センターの紙芝居コレクションの整理が終了した時点で、展示・実演と共にシンポジウムが開催されたときには、参加したので、何点かの実演を見せてもらっている。そのレポートは、以下のブログ記事にとどめている。

 ■「国策紙芝居」というのがあった~見渡せば「国策メディア」ばかり・・・にならないために(2013126日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/12/post-1e1c.html

  この紙芝居コレクションの旧蔵者は、櫻本富雄さんで、近年、個人的に古書を譲っていただいたり、資料のご教示をいただいたりしている方だった。そんなご縁もあったので、今回は参加できなかったのは残念なことであった。 

そもそも「国策紙芝居」とは、「政府各省や軍関係団体、政府に協力する翼賛団体などが紙芝居制作会社につくらせたもの」(「まえがき」)で、上記コレクションの大半が日本教育画劇という会社の編集出版部門である日本教育紙芝居協会が制作したものである。

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表題紙の一部、上段の絵は、後掲の「忠魂の歌」の一枚、傷痍軍人鈴木庄蔵の歌が書かれている。「わが體 砲弾の中に くだくとも 陛下の御為 なに惜しからん」とある。

<多様なメッセージのなかで>

 

解題篇の一点一点を読み進めていくと、20枚前後の絵と口演台本ながら、実に様々なメッセージが込められているのが分かる。金次郎や桃太郎、さるかに合戦、花咲か爺などの昔話をはじめ、動物ものには「森の運動会」(伊馬鵜平(春部)原作 永井貞子脚本 宇田川種治絵 19421030日)川崎大治作・西正世志絵による「コグマノボウケン」(19421130日)「三ビキノコグマ」(1943320日)などがあり、これらは幼児向けと言ってもよい。細部に時局が反映されたりするが、ほのぼのとしたものが多い。また、家庭向けの実用的な作品としては、次のように、時局を直に反映したものが多い。

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「フクチャントチョキン」(横山隆一案 19401130日)は「支那事変国債」購入の勧めである。「家庭防空陣」(日本教育紙芝居協会脚本 浦田重雄絵 19411015日)は、空襲はおそろしくない、国民の魂・気力で征服できる、一つの隣組で一つの爆弾を引き受ける覚悟などを説き、「大建設・大東亜戦争完遂、翼賛選挙貫徹運動」(選挙粛清中央聯盟編 1942317日)「總意の進軍・翼賛選挙貫徹のために」(大政翼賛会宣伝部元作翼賛紙芝居研究会脚色 近藤日出造絵 1942330日)は、表題通り、翌月に迫った430日の投票に向けた作品で、前者は種々の威勢のいい標語やスローガン、後者は東條首相の演説が取り入れられていた。「戦時お臺所設計図」(金子しげり原作 日本教育紙芝居協会脚本 浦田重雄絵 1942820日)は、食材の切れ端を工夫・活用し、ゴミ減量を説くのである。「午前二時」(鈴木景山編輯 油野誠一絵 19441020日)は、空襲は必至として、普段の備えと心構えが語られるが、珍しく単色で描かれ、真夜中の雰囲気を出しているようでもあるが、印刷の紙は粗悪らしい。この作品から、私自身の空襲への恐怖がかすかに思い起こされるのだ。夜中に眠いのを起されて、防空壕に連れ出そうとする母に「死んでもいい」と駄々をこねたことは、後から聞いた。また、病気で寝込んでいた母を、家の中の縁の下の待避場所に残して、防空壕へと父に連れ出されたときに、暗闇で布団にくるまっている母の姿の記憶がうっすらとあるのだ。そんなことがあって、父と学生だった長兄を東京に残して、母と次兄と私の三人は、母の実家に疎開することになったのだろう。

 

歴史上の人物の伝記ものでも、時代も分野も異なり、さまざまなパターンがある。 「兵制の父大村益次郎」(大政翼賛会宣伝部作 中一彌絵 19421130日)、「山本五十六元帥」(鈴木景山作 小谷野半二絵 19431215日)などは、ストレートな軍国主義、徴兵強化を意図し、「キューリー夫人傳」(鈴木紀子作 西原比呂志絵 194175日)、野口英世(木實谷喬壽原作 池田北鳥脚本 藤原成憲絵 19411231日)は、それぞれ、非常時の国防に役立つことを考えた研究者、戦う科学の戦士という位置づけであった。「二宮金次郎」(成瀬正勝構成 西正与志作絵 1941130日)など、もっぱら質素・節約を説くものもある。 

 

一方、堀尾勉作・西正世志絵というコンビによる「芭蕉」(1941101日)は、作画や印刷にも工夫がこらされ、淡い色調で、文学性が高められ(松本和樹)、「一茶」(1943110日)は、朗読によって、一堂に会して視聴する者の感動を誘うような意図が感じさせるが、一茶の消えない悲しみや苦しみが打ち出すカタルシスと文学性の成否が問われるといった解題(鈴木一史)も付されていた。どんなふうに描かれたのか、知りたいと思った。

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2018年2月12日 (月)

『九州大学生体解剖事件』を読む~スガモ・プリズンの歌会にも触れて

126日の森友学園問題を考える会主催の「院内集会」の折、出会った森友学園の地元豊中市市議の熊野さんから著書『九州大学生体解剖事件 七〇年目の真実』(熊野以素著 岩波書店 20154月)をいただいた。 

そこで展開される事実は、不勉強で、知らなかったことも多く、胸の痛む思いで読み進めた。19455月、九州大学医学部が「実験手術」の名のもとに、米軍の捕虜8人が、生体解剖の犠牲になった事件で、それにかかわった医師、鳥巣太郎についてのドキュメントである。戦後に行われた「横浜法廷」で、その首謀者の一人として死刑判決を受けたのだが、4回行われた「実験」に2回かかわったことで、極刑を言い渡された鳥巣が、その「実験」に抵抗し、回避をしてきたことを知っている妻が、判決の理不尽と戦った記録である。膨大な裁判記録や再審査資料、関係者の証言を駆使しての労作であった。 

著者の伯父鳥巣太郎・蕗子夫妻、鳥巣の苦悩、蕗子夫人の奮闘の軌跡がたどられる。夫人が苦労して書いた嘆願書が検察側の資料となる経緯、西部軍、九大側の隠蔽工作、サイデル弁護士の証言工作などが明らかになる過程、時には裏切られながらも、協力者を得てゆく過程が克明に描かれる。再審査の結果、死刑は10年に減刑されたのだった。 

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    そして私が何よりも思いがけなかったのは、鳥巣太郎が短歌を詠んでいたことであり、それが、<戦犯歌集>と呼ばれた『巣鴨』(第二書房 19539月)に収録されていたことだった。
 この歌集の「序」を鹿児島寿蔵と並んで書いていたのが阿部静枝であった。静枝は、私の母と私が師事した『ポトナム』の歌人だった。1960年代、『ポトナム』の東京歌会に参加していた頃、歌集『巣鴨』については、聞くともなく聞いていた。阿部静枝は、『女人短歌』、『潮汐』、『ポトナム』の同人たちとともに、巣鴨拘置所内での巣鴨短歌会に出向いて短歌の指導に当たっていて、その成果の一つが、この歌集であった。時を経て、知人から譲り受けた『巣鴨』を通読はしていたが、鳥巣太郎が九州大学生体解剖事件に関係する医師だったとは知らなかった。静枝は、戦前から池袋の西口、二丁目に住み、我が家も大正時代から一丁目で店を営んでいて、巣鴨拘置所へは、東口ながら歩いて行ける距離であった。1970年まで拘置所だった、その跡地には、1978年にサンシャインビル60が竣工、当時は、その高さはアジアで一番を誇っていたのだった。巣鴨拘置所は、私の生活圏のなかにあった。  

 阿部静枝は、その「序」において、「有刺鉄線の境界、アメリカの旗がひらめくその上の空、敗戦国を見下している監視塔があるスガモ・プリズンは、戦争の抽象として、人間不幸の具象として、私の感情を締め上げる場所であった。・・・」と書き起こし、講和条約締結後は、面会の制限が幾分緩やかになり、集団面会の形で歌会が持たれたという。さらに、当初は、戦争への憎悪、悲運への忿怒、孤独の狂いが歌われていたが、次第に、透徹した祈りが底流となった、とも述べている。 

 

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鳥巣太郎の「孤心」と題する50首の中から10首を選んでみた。 

・郷愁のひたにせまれば少年の頃のわが村地圖に描きをり(愁翳)
・つぎつぎに売り細りゆくわが家のせまれる生活(くらし)今日は告げ来し
・何事も死が解決するといふことを我はうべなはず生きゆかむとす
・死に就きし友の監房に入りゆけば鉛筆書きの暦のこれり(訣別)
・口數の少きままにひたぶるの眸はわれに向けをりし子よ(面会)
・永らへし命思ひぬ秋づきて朝はすがしき窓に佇ちつつ(蟋蟀)
・咳をするも一人とよみし山頭火おもひ出でつつ臥床をのぶる
・秋の陽の寂かに照れる廣庭にわが出でしとき眼(まなこ)眩みぬ(命生きて)
・ある時はわれのみを人らが目守りゐる心地覚えて護送車にゐる
・講和調印終りし今朝も平凡に護送車の中にうづくまり居り

 

 鳥巣には、『ヒマラヤ杉』(1972年)という歌集もあるという。また後年、上坂冬子とのインタビューでは、事件当時の九大医学部の医局員は一体どうすればよかったのかを尋ねられて、「どんなことでも自分さえしっかりしとれば阻止できるのです。・・・ともかくどんな事情があろうと、仕方なかったなどというてはいかんのです」と答えたそうだ。著者の熊野さんは、「最終章」で書かれている(189190頁)。

 

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2017年9月23日 (土)

「ある少国民の告発~文化人と戦争」(1994年放送)を見て

 大先輩の知人、櫻本富雄さんから、ご自身が出演の、24年前に関西で放映された番組が、突然you tube に出現したので、とのお知らせをいただいた。早速拝見、やはり映像で、櫻本さんのインタビューに答える、横山隆一、山本和夫、丸木俊、住井すゑさんたち、ご本人の証言を聞いて衝撃を受けました。私が紹介するよりは、ぜひフィルムを見ていただきたいと思いました。you tubeでは、いくつかのカット場面があり、当時の放映のままではないとのことですが、ぜひ一度、ご覧ください。個人的に何人かの友人にBCCで、お知らせしたところ、24年前のTVはこんなこともできたのか、など、いくつかの感想が返ってきました。

 

「ある少国民の告発~文化人と戦争」(毎日放送 1994年制作) 

https://www.youtube.com/watch?v=8-dC55hmhbc

 

 戦時下の文化人の表現活動には、今では想像がつかない障害があったこと知ることも大事なのですが、そこで、意に添わない活動をしたことに、その後、本人がどう向き合ったかが、重要なのかと思います。さらに、その後、どのような活動をしていたのか、行動をしてきたのか、暮らしをしていたのか、その生涯をトータルで、見極めたいと思っています。そのためには、発言・著作・制作物などを、記録にとどめ、保存し、継承するという基礎作業が問われるのではないかと、思います。その上で、その後の時代、時代に、何を残し、どう行動したのかが問われるのだと思いました。 

 

 今回の番組では、愛国少年だった櫻本さん自身が、戦時下に「あったことをなかったことにしよう」とする敗戦後の時代の流れに抗して、個人で10万冊もの雑誌や図書を収集し、戦時下の文化人たちの言動を浮き彫りにした著作を発表し続けていること、家永三郎さんも、戦時下の反省から、敗戦後の教科書裁判に踏み切ったこと、などを語っています。

 

 翻って、現在の知識人、文化人と称される人々の発言や行動において、少なくとも、敗戦後の占領期が終わった段階では、「表現の自由」があったにもかかわらず、「陽のあたる場所」を求めてでしょうか、意外と、微妙な変転、変節をしていたり、繰り返したりする人たちも多くなっています。人間、心身の成長や加齢によって、考え方も、行動様式も、変ることはあるでしょう。その人をどこまで信用していいのか、その発言にどこまで責任を持つことが出来るのか、自身で説明責任が果たせるかが問われるのではないかと。これは自らにも返ってくる問いでもあります。さらに、目前の課題に翻弄されながらの発言や行動は、とかく、より根本的な課題を置き去りにする傾向が、とくに最近目立ってはいないか、とても不安です。

 

 

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2017年8月28日 (月)

わたしの八月十五日~薄れゆく記憶をとどめたくて(3)兵隊さんの解散式?

 前後の記憶がなくて、断片的に思い出す一シーンがある。これは八月一五日の数日後のことだと思うのだが、母親から「今晩は、ゼッタイ、家の外に出てはいけない」と。兵隊さんたちが、(この馬市場の)草っぱらに集まるから」と言われたことだけは覚えている。暗い家の中、息をひそめて、板戸の細い隙間から見えた光景の、何と頼りないことか。

 兵隊さんの列の後か先だったのか、暗闇の中を、たしかに馬に乗った人が、道路につながる家の脇を横切って、原っぱに向かったのだ。じっと一部始終を覗くこともできなかったのだろう。次の記憶は、真っ暗な、馬市場跡の広場に、兵隊さんたちが並んで、誰かの話を聞いている場面である。何を話していたのかは、もちろん私には分からなかった。わけも分からず、私は、ただ、母にしがみついていたのだろうと思う。そして、小一時間の後に、原っぱを去っていく隊列の足音を聞いたのだった。暗闇から聞く、暗闇の足音の、今から思えば、重くて、鈍い音だったに違いない。家の灯りをつけたときの、裸電球の眩しさは格別だったろう。

ほんとに不思議なことなのだが、そのことについても、家族と話した記憶が思い出せない。随分後になって、当時中学生で、7つ離れた次兄からは、あれは部隊の解散式だったはずだとの話を聞いたことがある。なんで、軍の施設や学校の校庭などもっとちゃんとした場所でやらなかったのだろうね、という話もしたことがある。佐原市史でまた調べなければならないことが増えた。

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今年のイチジクは、小ぶりながら、たくさん実をつけた。雨が続き、一時は、青い実のまま固まってしまうのではと、心配した。ヒヨもあきらめたのか、今はあまりつつきには来ない。ほのかな甘さが私は好きだ。8月27日写す

 

 

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2017年8月23日 (水)

わたしの八月十五日~薄れゆく記憶をとどめたくて(2)変電所への機銃掃射を見た

 疎開先の佐原での落ち着き先が、仁井宿の馬市場跡の管理さんの家だった。前回は、815日の薄れた思い出をたどった。

 そして、それよりどのくらい前だったのか。「変電所」への「キジュウソウシャ(機銃掃射)」の様子を、お手洗いの窓から、この目で見ている。まだ、私の背丈では、窓には届かないはずだから、母か兄かに抱っこされて覗いた窓の先、たしかに幾つもの「ショウイダン(焼夷弾)」が斜めに落ちて来るのを見たのである。大人たちが騒いでいたので、「ワタシも見たい」とせがんだのかもしれない。夜のような気もするし、昼間だったのか、棒状のバクダンが斜めに流れで落ちていくのを瞬間的に見たのだ。何日のことだったのか、佐原市の市史でも見れば出てくるだろうか。

 ネットの限りでは、確かな情報は出てこないので、あきらめかけたころ、「終戦のころの思い出」の寄稿を集めているサイトがあった。そこに、谷口敏夫さんという方が、仁井宿の変電所への爆撃で、家族を亡くされたことを書かれていたのである。http://www.s-s-m.jp/hiroba/zuisou/shusen_04.htm

 

 谷口さんご自身は、19439月、中学校3年の2学期に予科練を志願、土浦海軍航空隊に入隊し、19454月に鹿島海軍航空隊の飛行練習生課程を修了し実戦部隊の霞ヶ浦海軍航空隊に転属し、6月頃から筑波山麓の真壁の農家に民宿して、そば畑をつぶして飛行場を作る作業に従事していた。720日過ぎに上官から、佐原の実家が空襲に遭い、家族が怪我をされているからと知らされ724日に帰省すると、74日の爆撃で、弟さんが即死、母上は重傷のまま亡くなり、葬式も済んでいた。父上は、東京電灯(後の関東配電、現在の東京電力)勤務で当時は銚子営業所に通勤されていて、変電所前の社宅に家族で住まわれていたという。

 

 私が見たのは、この74日の爆撃ではなかったのか。正午前で、警戒警報の直後で、谷口さんのお宅では、小学校から帰ったばかりの弟さんと母上を亡くし、妹さんも大怪我で回復まで苦しんだという。すぐそばで、こんな悲劇があったことは知らずにいた。大人たちは知っていたのだろうか。そんな話は、後にも聞いたことがなかった。爆撃機は、P51 ムスタングだったという。

 降伏が伸びていたら、この疎開先の佐原の町も焼け野原になっていたかもしれない。77日、千葉市では、「七夕空襲」で多くの犠牲者を出している。610日の日立航空機工場の被害と合わせて、死傷者1595人、千葉市街の7割が焼失している。

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2017年8月15日 (火)

わたしの八月十五日~薄れゆく記憶をとどめたくて(1)

 地元の9条の会でも、高齢化は免れないが、戦前生まれは、どうやら私一人になったようなのだ。「語り継ぐ」というのは、難しい。なにせ、私の「戦争体験」は、小学校に上がる前のことなので、記録はないし、断片的なカスレカスレの記憶しかない。わずかな記憶を、家族の記憶とわずかな資料、そして多くは、公刊された資料や資料館、体験談などに頼るしかない。私自身の家族、父母、二人の兄も亡くなってしまって久しい。疎開先でお世話になった親類とも、叔母が亡くなってからは、お付き合いも間遠になってしまった。そんな中で、先日、数十年ぶりに、少し年上の従姉から電話があって、積もる話で長電話となり、近く会うことになったのである。

 これまでも、このブログで、折に触れ、思い出話として、当時のことを書いてきた。最近では、新聞記事に触発されて、「奉安殿」前の「拝礼」について書いたのだった。馬市場と佐原事件については数年前にも綴っていた。

71年前のきょう、1946629日、何があったのだろう(2017629日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/06/711946629-0991.html

* 祭りの後の佐原を行く~ふたたびの疎開地(2)(201010月15日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/10/post-3ba9.html

 

 すでに、どこかで書いていることと重なるかもしれないが、私の1945815日は、疎開先の千葉県佐原の仁井宿(現香取市)の借家で迎えた。簡易な馬小屋も並ぶ、馬市場が開かれていたという、広いくさ原の端っこに建つ、管理人さんが住んでいたという二階家だった。といっても、遠くから見ると、3~4本の「つっかい棒」に支えられている古家だった。それでも、1944年、池袋の店を続けていた父、学生だった長兄を残し、東京の空襲を怖れて、母と次兄と私が転がり込んだ母の実家の「ヒサシ」のひと部屋と比べたら別天地のような気がした。といっても、母の実家には、すでに母の長兄は病死したばかりで、叔母と三人の子供たちがいたのだ。そんな中で、私たち家族とやはり東京の蒲田から疎開してきた母の妹家族を受け入れてくれていたのだ。この時の恩は忘れることが出来ないのに、不義理を重ねてしまっていたのだが。

 その仁井宿の家で、裏にあった、近所の農家と共同の井戸端から戻って来た母は、815日の午後だったのだろう、「日本は戦争に負けたんだって」と、暗い土間に肩を落として立っていたのを覚えている。この日の記憶はたったこれだけなのだ。ただ、母の実家から、この家に引っ越してきてまもなく、叔母がサツマイモなどを持って、訪ねて来たとき、叔母から聞いた話は覚えていた。「負けた」と知らされ、とっさに、その話を思い浮かべたに違いないと思う。叔母は、どこから聞いてきた話だったのか、「日本が戦争に負けたらよォ・・・」と話し始め、「女はみんな、ボウズにされてヨッ」と続けたのは、みんな捕虜になって食べるものは、雑炊いっぱいで、アメリカ兵にこき使われる・・・というのだ。幼い私には、なんか怖ろしい話として、頭にこびりついていただろう、今でも鮮明に思い出す。叔母は、これに限らず、一家の大黒柱でもあったので、気丈で、情報通でもあって、話術にも長けた女性だったと、今から思う。

 この家での記憶の断片を、随時、たどっていきたい。

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2017年6月29日 (木)

71年前のきょう、1946年6月29日、何があったのだろう

 きのうの朝日新聞の夕刊「あのとき・それから」の記事で、629日は、GHQの意向を受けた文部省が全国の国公私立学校に対して、「奉安殿」撤去の通牒を出した日と知った。

 

 梅雨のさなかのことだったのだなァと、「奉安殿」については、いま思い起こすことがある。私たち家族は、母の実家のある千葉県の佐原(現香取市)に疎開していた。私は、敗戦の翌年4月、佐原小学校に入学している。明治36年(1903)生まれの母が結婚前、教師として勤めていた学校でもある。入学当初の想い出は、情けないことにほとんど消えてしまっているのだが、母の実家から、町の中心部から離れた馬市場の跡、管理人さんが住んでいたという、何本かのつっかえ棒のある古い家に転居した。そこは疎開者にとっては、ありがたい場所だった。一家で、市場の広い草原を畑にして、食料不足を補うことが出来たのである。母は、あの日、近くの農家と共同で使用していた井戸端で、敗戦のニュースを聞いてきたらしく、「日本は負けたんだって」と伝えられたことを覚えている。 

 その翌年、私は小学校に入学した。「ホウアンデン」の前では礼をしなさいと教えられたことは覚えていないのだが、ある日、先生が「あしたからは、ホウアンデンの前で、お辞儀をしなくてもいいことになったのよ」と言われたことは鮮明に覚えている。その日は、朝から雨で、階段の下から「さしていた傘を横にどけて、きちんとお辞儀をしてきたのに」の思いがあったのに、「どうして?」の気持ちであったのだろう。それが、何日のことかはもちろん不明だが、私たち、母と中学生だった次兄の三人は、父や長兄に遅れて、夏休みに池袋の焼け跡に建てたバラックに引っ越している。たった一学期だけでの転校であった。だから、先生の指示は、たぶん、7月の初めか中旬のころだったのだろうか。

 

 「奉安殿」とは、18901030日、明治天皇から内閣総理大臣山県有朋、文部大臣に下賜されたのが教育勅語と翌年、文部省から下付された明治天皇の御真影を保管するための場所である。全国の国公立学校は神社風の小さな建物や別置するための部屋を設けた。保管場所としての「奉安殿」の建設が盛んに奨励されるようになったのは、1910年代から1930年代で、天皇制教育の象徴的な存在となった。

 

 敗戦後の奉安殿の撤去について、手元にあった事典とネット検索でヒットした以下の資料でたどってみた。 

①多木浩二『天皇の肖像』岩波新書 19887 

②籠谷次郎執筆「御真影」「教育勅語」『天皇・皇室辞典』 岩波書店 20053 

③白柳弘幸「東京都と神奈川県の奉安殿遺構調査」『法政史学』68号 20079 

④小野雅章「戦後教育改革期の学校儀式と御真影再下付問題」日本大学教育学会紀要 46号(2011年)。著者は、冒頭の記事にも登場し、未見ながら同じ著者による近著に『御真影と学校 「奉護」の変容』(東京大学出版会 2014年)があるようだ。

 

 冒頭の記事にあった1946629日に至るまでには、曲折があったようである。19451215日、「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件」(以下カタカナをひらがなに書き換えた)というGHQから終戦連絡中央事務局経由の日本政府に対しての覚書である。「国家神道の物的象徴となる凡てのものを設置することを禁止する、而して之等のものを直に除去することを命令する」という、いわゆる「神道指令」であった。一週間後の同月22日には、文部次官より地方長官、学校長への通牒には、「學校内に於ける神社、神祠、神棚太麻、鳥居及注連縄等は撤去すること。尚御真影奉安殿英霊室又は郷土室等に付ても神道的象徴を除去すること」とある。その後も、教育現場と文部省とのやり取りの中で、「この際、撤去することを適当と認める」「形式の如何を問わず独立の建物として奉安殿を撤去すべき」「神社形式ではない奉安殿まで撤去する意向ではない」「撤去できないものは原形をとどめないように」とか様々な混乱があったようだ。そして、19466月の文部次官通牒に至るが、必ずしも撤去が徹底していたわけではないようで、各地に、その遺構が見出されることにもつながる。

 

 文献④によれば、宮内省の「御真影」を新たな制服による写真を再下付するという通達を受けて、19451220日文部次官通牒「御真影奉還に関する件」が出された。「御真影」の一斉回収は実施されたのだが、「御真影」自体を否定するのではなく、基本的な変更はなかったという。 

 194645日宮内次官による各省次官あての通牒に付された「御写真取扱要綱」は、「国民が日本国の元首、国民大家族の慈父として深き敬愛の念を以て仰ぎ奉るべきものとし」、写真は仰ぐに適当な場所に「奉掲」するものとするが、「拝礼」を強制してはいけないこと、奉安殿などに「奉護」しないこと、を内容とするもので、これについては、1946710日のCIEの「日本の学校における教育勅語と御真影の取扱い」という覚書で追認される形となった。

 

 「教育勅語」については、森友学園問題で、系列の幼稚園で「教育勅語」を暗唱させるような教育の実態が明らかになって、にわかに注目されるようになった。1946108日、文部次官通牒により「教育勅語を以て我が国教育の唯一の淵源となす従来の考えをなくすこと、式日などに奉読をしないこと、勅語及び詔書や謄本などは学校で保管するものの神格化するような扱いをしないこと」とした。113日日本国憲法の公布、19473月教育基本法の公布を受けて、1948619日衆議院・参議院において教育勅語の排除、執行確認が決議された。こうした経過は、今回の森友学園問題の審議で知られるところとなった。この両院の決議にもとづいて、625日には文部次官通牒により教育勅語の謄本の返還が命じられたという経緯であった。

 

 朝日の記事に戻れば、戦前、根津嘉一郎が理事長だった旧制武蔵高校が、「奉安所新築」を三度も見送って軍部に抵抗する気骨を示したことやキリスト教系の学校は「建物や設備が整わず御真影を受け取るのはかえっておそれ多い」という理由で先延ばししていた例が書かれていた。

 

 こともあろうに、2017331日、森友学園の「教育勅語」教育が問題になっているさなか、安倍内閣は、戦前・戦中の教育勅語を学校教育で使うことについて、「勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切である」とした上で、「憲法や教育基本法等に反しないよう な形で教材として用いることまでは否定されることではない」と、何とも不可解な閣議決定までしたことは、記憶に新しい。

 

私が「お辞儀」をしていた佐原小学校の奉安殿は、その後どうなったのだろうか。転校した池袋第二小学校の校舎は空襲で焼失、1年生の教室は近くの重林寺の本堂であった。二年になると、子供の足ではかなり遠方の要町小学校に間借りしていた教室に通った。二部授業ということで午後に登校することもあった。新校舎が完成したのは、1947年の夏のことだったろうか。御真影も奉安殿も、教育勅語の記憶は一切なく、学校も、先生もそれどころではなかったのではないか。

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小学校一年一学期、佐原の諏訪神社近くの諏訪公園に立っていた「伊能忠敬」の銅像の写生画。画用紙ではないわら半紙のような紙に描いた絵。母が新聞紙などで裏打ちをして残しておいてくれた、私の絵。右肩にくしゃくしゃになった銀色の紙、先生が銀賞をくださったのだろうか、下方には、壁に貼付したような張り紙も見える。母が必死で残してくれた佐原小学校の想い出の品である

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2017年6月23日 (金)

なぜ、いま、「斎藤史」なのか~6月12日の「大波小波」に寄せて

「大波小波」では

 もう、十日以上も過ぎてしまったので、旧聞に属するが、612日『東京新聞(夕刊)』の匿名のコラム「大波小波(魚)」は「<濁流>に立つ言葉」と題して、斎藤史の『魚歌』(1940年)と『朱天』(1943年)の各一首を取り上げていた。前者の「濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ」と後者の「御いくさを切に思ひて眠りたる夢ひとところ白き花あり」を引用して、史の「美しいイメージは権力に奉仕」する「一変ぶり」に「自立性」を失うことへの警告を発している。問われるのは、史ばかりではないとして「第二の<濁流>の中で立ち続ける言葉を持てるかどうかなのだ」と結んでいる。

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『東京新聞(夕刊)』2017年6月12日




  安倍政権が推し進めた特定秘密保護法(
201412月施行)成立、そして「テロ等準備罪」新設への疑問は、依然として根深い。しかも、テロ等準備罪に関しては、衆議院法務委員会で強行採決を経て、本会議で可決、参院では法務委員会の審議を打ち切り、委員長による「中間報告」をもって、即、本会議の採決とするなどの異例の手段で、可決、成立させた。法務大臣はじめ、曖昧な答弁が続き、解明されないままである。質疑は参議院に移っても、法務大臣がまともな答弁が出来ず、疑問は解明できず、「テロ等準備罪」の必要性がどんどんと崩れていった。組織的犯罪集団の解体、テロ防止、オリンピック開催に役立つどころか、監視社会の強化により市民の活動や言論は萎縮をもたらすだろう。短歌という小さな世界にかかわる表現者としても、このコラムでの指摘は、重く受け止めねばならない。

 

斎藤史研究の基礎的な作業は

斎藤史は、194112月の「開戦」を境に「一変」したというより、彼女が短歌や時代に向き合う姿勢に問題があったのではないかと思う。というのは、私自身、作歌とともに近現代短歌史に関心を持ったころから、著名歌人の戦争責任に触れないわけにはいかなくなって、斎藤史に着目した。彼女の短歌は、老若を問わず、その作品の魅力や生き方を賞賛してやまない歌人たちや読者が多い。そうした人々には、「一変」したのは時代の流れで、だれもが遭遇した、致し方のないことだったとする論調が多い。

 しかし、斎藤史に関しては、短歌にかかわる「事実」を、きちんと整理しておかなければならないことに気が付いた。もう20年以上も前のことになるが、私は『風景』という短歌同人誌に「斎藤史 戦時・占領下の作品を中心に」と題して連載していたことがある。「『斎藤史全歌集』への疑問」として、「大波小波」(東京新聞1998115日)に紹介された。基本的な作業として、史が、いつどのようなメディアに、どんな作品を発表していたかを明確にしておかなければと思った。当時に比べると、現在は、資料をめぐる環境も随分変わった。古本は、なかなか入手しにくくなる一方、国立国会図書館で、雑誌のデジタル化が進み、プランゲ文庫の新聞雑誌の検索可能になり、遠隔コピーの利用もたやすくなった。しかし、例えば、史が属していた『心の花』は復刻版もあるのでありがたいが、いわゆる短歌総合雑誌も欠号なく所蔵している図書館が少ない。父親の斎藤瀏と立ち上げた『短歌人』、さらに『原型』などを所蔵する図書館や文学館があっても欠号が多い。前川佐美雄らとの雑誌「日本歌人」「オレンジ」などになると、さらに難しい。最近思いがけず『灰皿』がデジタル化されているのを見つけたりした。
 
 史は、短歌総合雑誌だけでなく、さまざまな文芸誌、女性雑誌、業界雑誌や地方雑誌、児童雑誌、そして新聞と、その寄稿対象が広いので、網羅的な著作目録作成は不可能に近いかもしれない。これまで私は、作品を含めてほそぼそと著作目録の作成を続けて来たが、何ほどのものが集められたか心細い。史の場合は、同じ作品を、さまざまなメディアに、組み合わせを変えたり、あるいは、そっくり同じ作品を、再録との注記もなく、題を変えて、同時に発表したりすることもある。さらに、次に述べるように、歌集収録や『全歌集』収録の際の削除、改作にいたっては、夥しい数にのぼる。歌集収録に当たっての取捨や改作は、「歌集」自体を一冊の文学的な結実として評価するところから、普通によく行われていることであろう。その異同などが、作品鑑賞や研究、作家研究などの対象になることも多い。

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『朱天』1943年7月15日発行の初版の奥付けと「後記」の末尾。出版会承認3000部とある。スキャンすると、どうしても歪んでしまって・・・

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『朱天』1944年1月15日発行の再版の表紙とカバー。奥付けには出版会承認3000部とある。初版・再版ともに櫻本富雄氏から頂戴したものである

二つの『朱天』が意味することは

ところで、1977年刊行の『全歌集』に収録された『朱天』は、初版『朱天』より、つぎのような神がかり的な戦意高揚短歌を含む17首が削除されていたことが分かったのである。それは、『全歌集』刊行時、編集にあたった史が、どういう評価をし、どういう意図で、17首を削除したかは、定かではない。

多くの著名な歌人たちには、生前だったら自らの手で、没後は、遺族の手で、あるいは弟子や第三者の手で、さまざまな編集過程を経て、刊行される≪全歌集≫や≪全集≫を持つ。刊行の折には、明確な編集方針を示すとともに、その意図、理由をも示してほしい、というのが読者の願いでもある。そうすることが、≪全歌集≫や≪全集≫の資料的価値の決め手になるのではないかと思うからだ。歌集は、「てにをは」のミス訂正はともかく初版の原本が基本だろう。編集時の改作、作品の加除は、なすべきではないと、私は考えている。もし、どうしても、その必要があるならば、異同が生じた理由や経緯を明らかにしておくことが重要かと思われる。

 歌集『朱天』は、作歌時期によって、大きく「戦前歌」「開戦」に分かれるのだが、『全歌集』に『朱天』を収録する際に、斎藤史は、「戦前歌」という表題の下方に、「昭52記」と添え書きをして、次の1首を付記したのである。 

はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば 昭52 

 

 そして、初版1943年、再版1944年の「後記」は、「昭和十八年二月」付で、364首を集めた、と記している。『全歌集』の収録時には、この「後記」と同じ頁に、「昭52付記今回三百四十八首」と付記した。これだけを読むと、16首(364348首)を削除したことが推測されるが、その理由などは示されていない。その上、初版の『朱天』の収録歌数の実数は、365首だったので、実際の削除は17首であることが分かったので、照合してみると、たしかに、『全歌集』に収録されていない作品が17首あり、その中に、つぎのような作品があったのである。

國大いなる使命(よざし)を持てり草莽のわれらが夢もまた彩(あや)なるを(『朱天』6頁)


 初出は『日本短歌』19412月号、「秋より冬へ」15首の内の1

首であった。さらに、「使命」の部分は「理想」であった。




現(あき)つ神在(ゐ)ます皇国(みくに)を醜(しこ)の翼つらね来るとも何かはせむや(『朱天』95頁)



 初出は、『公論』19423月号「四方清明」5首の内の1首であり、『日本短歌』19424月号「春花また」6首の中にも見出すことができる。




神怒りあがる炎の先に居て醜の草なすがなんぞさやらふ
(『朱天』
147頁)

 

初出は『文芸春秋』194212月号、「北の防人を偲びて」10首の内の1首であった。『文芸春秋』の短歌のコラムは、現在も続いている、歌人も注目のコラムであるが、斎藤史の登場は、戦前戦後を通して、他の歌人に比べれば、例がないほど、その頻度は突出している。当時、1940年以降、平均すれば、年に1回は作品を寄稿していることになるのである。 

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『朱天』初版・再版とも頁割は同一で、最終の2頁5首の内、4首が『全歌集』から削除され、収録されたのは、最後の1首であった。綴じが崩れている個所もあって・・・


 『全歌集』刊行の
1977年以降、「昭和52付記」の「はづかしき・・・」の一首は、削除した作品を検証することもなく、独り歩きをした格好で、史が戦時下の歌集を隠すことなく、さらけ出した「勇気」や「覚悟」を称揚する論調が拡散した。

それは、戦時下においては、斎藤史が歌壇内外で“人気”の若手女性歌人であったからだろう。しかし、それは、歌人の父、斎藤瀏が226事件の反乱将校たちを幇助したとして服役し、1938年仮釈放された後、『心の花』を離れ、『短歌人』立ち上げたのが1939年であった。娘の史は、親しかった反乱将校たちを銃殺刑で失うという、“悲劇”を背負った歌人の父娘であったことと、瀏が、仮釈放後、歌壇に復帰したのが、軍国主義が強化され、軍による言論統制が露骨になった時期であり、歌壇のファッショ化の先陣を切る形での活動が始まったことと無関係ではなかった。その華々しい活動は、著作目録から見ると、他の女性歌人と比べて、そのメディア進出頻度は破格だったことが分かる。

さらに、戦後の斎藤史は、戦前の歴史的な検証というよりは昭和天皇との確執という「物語」を背負い、疎開地の長野にとどまって、父を看取り、長きにわたった母の介護に続き、夫の介護をも担うことになる。初版の『全歌集』が刊行されたのは、夫が亡くなった直後でもあった。

占領下、その後の斎藤史については、別稿としたい。


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