2017年9月23日 (土)

「ある少国民の告発~文化人と戦争」(1994年放送)を見て

 大先輩の知人、櫻本富雄さんから、ご自身が出演の、24年前に関西で放映された番組が、突然you tube に出現したので、とのお知らせをいただいた。早速拝見、やはり映像で、櫻本さんのインタビューに答える、横山隆一、山本和夫、丸木俊、住井すゑさんたち、ご本人の証言を聞いて衝撃を受けました。私が紹介するよりは、ぜひフィルムを見ていただきたいと思いました。you tubeでは、いくつかのカット場面があり、当時の放映のままではないとのことですが、ぜひ一度、ご覧ください。個人的に何人かの友人にBCCで、お知らせしたところ、24年前のTVはこんなこともできたのか、など、いくつかの感想が返ってきました。

 

「ある少国民の告発~文化人と戦争」(毎日放送 1994年制作) 

https://www.youtube.com/watch?v=8-dC55hmhbc

 

 戦時下の文化人の表現活動には、今では想像がつかない障害があったこと知ることも大事なのですが、そこで、意に添わない活動をしたことに、その後、本人がどう向き合ったかが、重要なのかと思います。さらに、その後、どのような活動をしていたのか、行動をしてきたのか、暮らしをしていたのか、その生涯をトータルで、見極めたいと思っています。そのためには、発言・著作・制作物などを、記録にとどめ、保存し、継承するという基礎作業が問われるのではないかと、思います。その上で、その後の時代、時代に、何を残し、どう行動したのかが問われるのだと思いました。 

 

 今回の番組では、愛国少年だった櫻本さん自身が、戦時下に「あったことをなかったことにしよう」とする敗戦後の時代の流れに抗して、個人で10万冊もの雑誌や図書を収集し、戦時下の文化人たちの言動を浮き彫りにした著作を発表し続けていること、家永三郎さんも、戦時下の反省から、敗戦後の教科書裁判に踏み切ったこと、などを語っています。

 

 翻って、現在の知識人、文化人と称される人々の発言や行動において、少なくとも、敗戦後の占領期が終わった段階では、「表現の自由」があったにもかかわらず、「陽のあたる場所」を求めてでしょうか、意外と、微妙な変転、変節をしていたり、繰り返したりする人たちも多くなっています。人間、心身の成長や加齢によって、考え方も、行動様式も、変ることはあるでしょう。その人をどこまで信用していいのか、その発言にどこまで責任を持つことが出来るのか、自身で説明責任が果たせるかが問われるのではないかと。これは自らにも返ってくる問いでもあります。さらに、目前の課題に翻弄されながらの発言や行動は、とかく、より根本的な課題を置き去りにする傾向が、とくに最近目立ってはいないか、とても不安です。

 

 

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2017年8月28日 (月)

わたしの八月十五日~薄れゆく記憶をとどめたくて(3)兵隊さんの解散式?

 前後の記憶がなくて、断片的に思い出す一シーンがある。これは八月一五日の数日後のことだと思うのだが、母親から「今晩は、ゼッタイ、家の外に出てはいけない」と。兵隊さんたちが、(この馬市場の)草っぱらに集まるから」と言われたことだけは覚えている。暗い家の中、息をひそめて、板戸の細い隙間から見えた光景の、何と頼りないことか。

 兵隊さんの列の後か先だったのか、暗闇の中を、たしかに馬に乗った人が、道路につながる家の脇を横切って、原っぱに向かったのだ。じっと一部始終を覗くこともできなかったのだろう。次の記憶は、真っ暗な、馬市場跡の広場に、兵隊さんたちが並んで、誰かの話を聞いている場面である。何を話していたのかは、もちろん私には分からなかった。わけも分からず、私は、ただ、母にしがみついていたのだろうと思う。そして、小一時間の後に、原っぱを去っていく隊列の足音を聞いたのだった。暗闇から聞く、暗闇の足音の、今から思えば、重くて、鈍い音だったに違いない。家の灯りをつけたときの、裸電球の眩しさは格別だったろう。

ほんとに不思議なことなのだが、そのことについても、家族と話した記憶が思い出せない。随分後になって、当時中学生で、7つ離れた次兄からは、あれは部隊の解散式だったはずだとの話を聞いたことがある。なんで、軍の施設や学校の校庭などもっとちゃんとした場所でやらなかったのだろうね、という話もしたことがある。佐原市史でまた調べなければならないことが増えた。

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今年のイチジクは、小ぶりながら、たくさん実をつけた。雨が続き、一時は、青い実のまま固まってしまうのではと、心配した。ヒヨもあきらめたのか、今はあまりつつきには来ない。ほのかな甘さが私は好きだ。8月27日写す

 

 

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2017年8月23日 (水)

わたしの八月十五日~薄れゆく記憶をとどめたくて(2)変電所への機銃掃射を見た

 疎開先の佐原での落ち着き先が、仁井宿の馬市場跡の管理さんの家だった。前回は、815日の薄れた思い出をたどった。

 そして、それよりどのくらい前だったのか。「変電所」への「キジュウソウシャ(機銃掃射)」の様子を、お手洗いの窓から、この目で見ている。まだ、私の背丈では、窓には届かないはずだから、母か兄かに抱っこされて覗いた窓の先、たしかに幾つもの「ショウイダン(焼夷弾)」が斜めに落ちて来るのを見たのである。大人たちが騒いでいたので、「ワタシも見たい」とせがんだのかもしれない。夜のような気もするし、昼間だったのか、棒状のバクダンが斜めに流れで落ちていくのを瞬間的に見たのだ。何日のことだったのか、佐原市の市史でも見れば出てくるだろうか。

 ネットの限りでは、確かな情報は出てこないので、あきらめかけたころ、「終戦のころの思い出」の寄稿を集めているサイトがあった。そこに、谷口敏夫さんという方が、仁井宿の変電所への爆撃で、家族を亡くされたことを書かれていたのである。http://www.s-s-m.jp/hiroba/zuisou/shusen_04.htm

 

 谷口さんご自身は、19439月、中学校3年の2学期に予科練を志願、土浦海軍航空隊に入隊し、19454月に鹿島海軍航空隊の飛行練習生課程を修了し実戦部隊の霞ヶ浦海軍航空隊に転属し、6月頃から筑波山麓の真壁の農家に民宿して、そば畑をつぶして飛行場を作る作業に従事していた。720日過ぎに上官から、佐原の実家が空襲に遭い、家族が怪我をされているからと知らされ724日に帰省すると、74日の爆撃で、弟さんが即死、母上は重傷のまま亡くなり、葬式も済んでいた。父上は、東京電灯(後の関東配電、現在の東京電力)勤務で当時は銚子営業所に通勤されていて、変電所前の社宅に家族で住まわれていたという。

 

 私が見たのは、この74日の爆撃ではなかったのか。正午前で、警戒警報の直後で、谷口さんのお宅では、小学校から帰ったばかりの弟さんと母上を亡くし、妹さんも大怪我で回復まで苦しんだという。すぐそばで、こんな悲劇があったことは知らずにいた。大人たちは知っていたのだろうか。そんな話は、後にも聞いたことがなかった。爆撃機は、P51 ムスタングだったという。

 降伏が伸びていたら、この疎開先の佐原の町も焼け野原になっていたかもしれない。77日、千葉市では、「七夕空襲」で多くの犠牲者を出している。610日の日立航空機工場の被害と合わせて、死傷者1595人、千葉市街の7割が焼失している。

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2017年8月15日 (火)

わたしの八月十五日~薄れゆく記憶をとどめたくて(1)

 地元の9条の会でも、高齢化は免れないが、戦前生まれは、どうやら私一人になったようなのだ。「語り継ぐ」というのは、難しい。なにせ、私の「戦争体験」は、小学校に上がる前のことなので、記録はないし、断片的なカスレカスレの記憶しかない。わずかな記憶を、家族の記憶とわずかな資料、そして多くは、公刊された資料や資料館、体験談などに頼るしかない。私自身の家族、父母、二人の兄も亡くなってしまって久しい。疎開先でお世話になった親類とも、叔母が亡くなってからは、お付き合いも間遠になってしまった。そんな中で、先日、数十年ぶりに、少し年上の従姉から電話があって、積もる話で長電話となり、近く会うことになったのである。

 これまでも、このブログで、折に触れ、思い出話として、当時のことを書いてきた。最近では、新聞記事に触発されて、「奉安殿」前の「拝礼」について書いたのだった。馬市場と佐原事件については数年前にも綴っていた。

71年前のきょう、1946629日、何があったのだろう(2017629日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/06/711946629-0991.html

* 祭りの後の佐原を行く~ふたたびの疎開地(2)(201010月15日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/10/post-3ba9.html

 

 すでに、どこかで書いていることと重なるかもしれないが、私の1945815日は、疎開先の千葉県佐原の仁井宿(現香取市)の借家で迎えた。簡易な馬小屋も並ぶ、馬市場が開かれていたという、広いくさ原の端っこに建つ、管理人さんが住んでいたという二階家だった。といっても、遠くから見ると、3~4本の「つっかい棒」に支えられている古家だった。それでも、1944年、池袋の店を続けていた父、学生だった長兄を残し、東京の空襲を怖れて、母と次兄と私が転がり込んだ母の実家の「ヒサシ」のひと部屋と比べたら別天地のような気がした。といっても、母の実家には、すでに母の長兄は病死したばかりで、叔母と三人の子供たちがいたのだ。そんな中で、私たち家族とやはり東京の蒲田から疎開してきた母の妹家族を受け入れてくれていたのだ。この時の恩は忘れることが出来ないのに、不義理を重ねてしまっていたのだが。

 その仁井宿の家で、裏にあった、近所の農家と共同の井戸端から戻って来た母は、815日の午後だったのだろう、「日本は戦争に負けたんだって」と、暗い土間に肩を落として立っていたのを覚えている。この日の記憶はたったこれだけなのだ。ただ、母の実家から、この家に引っ越してきてまもなく、叔母がサツマイモなどを持って、訪ねて来たとき、叔母から聞いた話は覚えていた。「負けた」と知らされ、とっさに、その話を思い浮かべたに違いないと思う。叔母は、どこから聞いてきた話だったのか、「日本が戦争に負けたらよォ・・・」と話し始め、「女はみんな、ボウズにされてヨッ」と続けたのは、みんな捕虜になって食べるものは、雑炊いっぱいで、アメリカ兵にこき使われる・・・というのだ。幼い私には、なんか怖ろしい話として、頭にこびりついていただろう、今でも鮮明に思い出す。叔母は、これに限らず、一家の大黒柱でもあったので、気丈で、情報通でもあって、話術にも長けた女性だったと、今から思う。

 この家での記憶の断片を、随時、たどっていきたい。

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2017年6月29日 (木)

71年前のきょう、1946年6月29日、何があったのだろう

 きのうの朝日新聞の夕刊「あのとき・それから」の記事で、629日は、GHQの意向を受けた文部省が全国の国公私立学校に対して、「奉安殿」撤去の通牒を出した日と知った。

 

 梅雨のさなかのことだったのだなァと、「奉安殿」については、いま思い起こすことがある。私たち家族は、母の実家のある千葉県の佐原(現香取市)に疎開していた。私は、敗戦の翌年4月、佐原小学校に入学している。明治36年(1903)生まれの母が結婚前、教師として勤めていた学校でもある。入学当初の想い出は、情けないことにほとんど消えてしまっているのだが、母の実家から、町の中心部から離れた馬市場の跡、管理人さんが住んでいたという、何本かのつっかえ棒のある古い家に転居した。そこは疎開者にとっては、ありがたい場所だった。一家で、市場の広い草原を畑にして、食料不足を補うことが出来たのである。母は、あの日、近くの農家と共同で使用していた井戸端で、敗戦のニュースを聞いてきたらしく、「日本は負けたんだって」と伝えられたことを覚えている。 

 その翌年、私は小学校に入学した。「ホウアンデン」の前では礼をしなさいと教えられたことは覚えていないのだが、ある日、先生が「あしたからは、ホウアンデンの前で、お辞儀をしなくてもいいことになったのよ」と言われたことは鮮明に覚えている。その日は、朝から雨で、階段の下から「さしていた傘を横にどけて、きちんとお辞儀をしてきたのに」の思いがあったのに、「どうして?」の気持ちであったのだろう。それが、何日のことかはもちろん不明だが、私たち、母と中学生だった次兄の三人は、父や長兄に遅れて、夏休みに池袋の焼け跡に建てたバラックに引っ越している。たった一学期だけでの転校であった。だから、先生の指示は、たぶん、7月の初めか中旬のころだったのだろうか。

 

 「奉安殿」とは、18901030日、明治天皇から内閣総理大臣山県有朋、文部大臣に下賜されたのが教育勅語と翌年、文部省から下付された明治天皇の御真影を保管するための場所である。全国の国公立学校は神社風の小さな建物や別置するための部屋を設けた。保管場所としての「奉安殿」の建設が盛んに奨励されるようになったのは、1910年代から1930年代で、天皇制教育の象徴的な存在となった。

 

 敗戦後の奉安殿の撤去について、手元にあった事典とネット検索でヒットした以下の資料でたどってみた。 

①多木浩二『天皇の肖像』岩波新書 19887 

②籠谷次郎執筆「御真影」「教育勅語」『天皇・皇室辞典』 岩波書店 20053 

③白柳弘幸「東京都と神奈川県の奉安殿遺構調査」『法政史学』68号 20079 

④小野雅章「戦後教育改革期の学校儀式と御真影再下付問題」日本大学教育学会紀要 46号(2011年)。著者は、冒頭の記事にも登場し、未見ながら同じ著者による近著に『御真影と学校 「奉護」の変容』(東京大学出版会 2014年)があるようだ。

 

 冒頭の記事にあった1946629日に至るまでには、曲折があったようである。19451215日、「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件」(以下カタカナをひらがなに書き換えた)というGHQから終戦連絡中央事務局経由の日本政府に対しての覚書である。「国家神道の物的象徴となる凡てのものを設置することを禁止する、而して之等のものを直に除去することを命令する」という、いわゆる「神道指令」であった。一週間後の同月22日には、文部次官より地方長官、学校長への通牒には、「學校内に於ける神社、神祠、神棚太麻、鳥居及注連縄等は撤去すること。尚御真影奉安殿英霊室又は郷土室等に付ても神道的象徴を除去すること」とある。その後も、教育現場と文部省とのやり取りの中で、「この際、撤去することを適当と認める」「形式の如何を問わず独立の建物として奉安殿を撤去すべき」「神社形式ではない奉安殿まで撤去する意向ではない」「撤去できないものは原形をとどめないように」とか様々な混乱があったようだ。そして、19466月の文部次官通牒に至るが、必ずしも撤去が徹底していたわけではないようで、各地に、その遺構が見出されることにもつながる。

 

 文献④によれば、宮内省の「御真影」を新たな制服による写真を再下付するという通達を受けて、19451220日文部次官通牒「御真影奉還に関する件」が出された。「御真影」の一斉回収は実施されたのだが、「御真影」自体を否定するのではなく、基本的な変更はなかったという。 

 194645日宮内次官による各省次官あての通牒に付された「御写真取扱要綱」は、「国民が日本国の元首、国民大家族の慈父として深き敬愛の念を以て仰ぎ奉るべきものとし」、写真は仰ぐに適当な場所に「奉掲」するものとするが、「拝礼」を強制してはいけないこと、奉安殿などに「奉護」しないこと、を内容とするもので、これについては、1946710日のCIEの「日本の学校における教育勅語と御真影の取扱い」という覚書で追認される形となった。

 

 「教育勅語」については、森友学園問題で、系列の幼稚園で「教育勅語」を暗唱させるような教育の実態が明らかになって、にわかに注目されるようになった。1946108日、文部次官通牒により「教育勅語を以て我が国教育の唯一の淵源となす従来の考えをなくすこと、式日などに奉読をしないこと、勅語及び詔書や謄本などは学校で保管するものの神格化するような扱いをしないこと」とした。113日日本国憲法の公布、19473月教育基本法の公布を受けて、1948619日衆議院・参議院において教育勅語の排除、執行確認が決議された。こうした経過は、今回の森友学園問題の審議で知られるところとなった。この両院の決議にもとづいて、625日には文部次官通牒により教育勅語の謄本の返還が命じられたという経緯であった。

 

 朝日の記事に戻れば、戦前、根津嘉一郎が理事長だった旧制武蔵高校が、「奉安所新築」を三度も見送って軍部に抵抗する気骨を示したことやキリスト教系の学校は「建物や設備が整わず御真影を受け取るのはかえっておそれ多い」という理由で先延ばししていた例が書かれていた。

 

 こともあろうに、2017331日、森友学園の「教育勅語」教育が問題になっているさなか、安倍内閣は、戦前・戦中の教育勅語を学校教育で使うことについて、「勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切である」とした上で、「憲法や教育基本法等に反しないよう な形で教材として用いることまでは否定されることではない」と、何とも不可解な閣議決定までしたことは、記憶に新しい。

 

私が「お辞儀」をしていた佐原小学校の奉安殿は、その後どうなったのだろうか。転校した池袋第二小学校の校舎は空襲で焼失、1年生の教室は近くの重林寺の本堂であった。二年になると、子供の足ではかなり遠方の要町小学校に間借りしていた教室に通った。二部授業ということで午後に登校することもあった。新校舎が完成したのは、1947年の夏のことだったろうか。御真影も奉安殿も、教育勅語の記憶は一切なく、学校も、先生もそれどころではなかったのではないか。

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小学校一年一学期、佐原の諏訪神社近くの諏訪公園に立っていた「伊能忠敬」の銅像の写生画。画用紙ではないわら半紙のような紙に描いた絵。母が新聞紙などで裏打ちをして残しておいてくれた、私の絵。右肩にくしゃくしゃになった銀色の紙、先生が銀賞をくださったのだろうか、下方には、壁に貼付したような張り紙も見える。母が必死で残してくれた佐原小学校の想い出の品である

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2017年6月23日 (金)

なぜ、いま、「斎藤史」なのか~6月12日の「大波小波」に寄せて

「大波小波」では

 もう、十日以上も過ぎてしまったので、旧聞に属するが、612日『東京新聞(夕刊)』の匿名のコラム「大波小波(魚)」は「<濁流>に立つ言葉」と題して、斎藤史の『魚歌』(1940年)と『朱天』(1943年)の各一首を取り上げていた。前者の「濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ」と後者の「御いくさを切に思ひて眠りたる夢ひとところ白き花あり」を引用して、史の「美しいイメージは権力に奉仕」する「一変ぶり」に「自立性」を失うことへの警告を発している。問われるのは、史ばかりではないとして「第二の<濁流>の中で立ち続ける言葉を持てるかどうかなのだ」と結んでいる。

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『東京新聞(夕刊)』2017年6月12日




  安倍政権が推し進めた特定秘密保護法(
201412月施行)成立、そして「テロ等準備罪」新設への疑問は、依然として根深い。しかも、テロ等準備罪に関しては、衆議院法務委員会で強行採決を経て、本会議で可決、参院では法務委員会の審議を打ち切り、委員長による「中間報告」をもって、即、本会議の採決とするなどの異例の手段で、可決、成立させた。法務大臣はじめ、曖昧な答弁が続き、解明されないままである。質疑は参議院に移っても、法務大臣がまともな答弁が出来ず、疑問は解明できず、「テロ等準備罪」の必要性がどんどんと崩れていった。組織的犯罪集団の解体、テロ防止、オリンピック開催に役立つどころか、監視社会の強化により市民の活動や言論は萎縮をもたらすだろう。短歌という小さな世界にかかわる表現者としても、このコラムでの指摘は、重く受け止めねばならない。

 

斎藤史研究の基礎的な作業は

斎藤史は、194112月の「開戦」を境に「一変」したというより、彼女が短歌や時代に向き合う姿勢に問題があったのではないかと思う。というのは、私自身、作歌とともに近現代短歌史に関心を持ったころから、著名歌人の戦争責任に触れないわけにはいかなくなって、斎藤史に着目した。彼女の短歌は、老若を問わず、その作品の魅力や生き方を賞賛してやまない歌人たちや読者が多い。そうした人々には、「一変」したのは時代の流れで、だれもが遭遇した、致し方のないことだったとする論調が多い。

 しかし、斎藤史に関しては、短歌にかかわる「事実」を、きちんと整理しておかなければならないことに気が付いた。もう20年以上も前のことになるが、私は『風景』という短歌同人誌に「斎藤史 戦時・占領下の作品を中心に」と題して連載していたことがある。「『斎藤史全歌集』への疑問」として、「大波小波」(東京新聞1998115日)に紹介された。基本的な作業として、史が、いつどのようなメディアに、どんな作品を発表していたかを明確にしておかなければと思った。当時に比べると、現在は、資料をめぐる環境も随分変わった。古本は、なかなか入手しにくくなる一方、国立国会図書館で、雑誌のデジタル化が進み、プランゲ文庫の新聞雑誌の検索可能になり、遠隔コピーの利用もたやすくなった。しかし、例えば、史が属していた『心の花』は復刻版もあるのでありがたいが、いわゆる短歌総合雑誌も欠号なく所蔵している図書館が少ない。父親の斎藤瀏と立ち上げた『短歌人』、さらに『原型』などを所蔵する図書館や文学館があっても欠号が多い。前川佐美雄らとの雑誌「日本歌人」「オレンジ」などになると、さらに難しい。最近思いがけず『灰皿』がデジタル化されているのを見つけたりした。
 
 史は、短歌総合雑誌だけでなく、さまざまな文芸誌、女性雑誌、業界雑誌や地方雑誌、児童雑誌、そして新聞と、その寄稿対象が広いので、網羅的な著作目録作成は不可能に近いかもしれない。これまで私は、作品を含めてほそぼそと著作目録の作成を続けて来たが、何ほどのものが集められたか心細い。史の場合は、同じ作品を、さまざまなメディアに、組み合わせを変えたり、あるいは、そっくり同じ作品を、再録との注記もなく、題を変えて、同時に発表したりすることもある。さらに、次に述べるように、歌集収録や『全歌集』収録の際の削除、改作にいたっては、夥しい数にのぼる。歌集収録に当たっての取捨や改作は、「歌集」自体を一冊の文学的な結実として評価するところから、普通によく行われていることであろう。その異同などが、作品鑑賞や研究、作家研究などの対象になることも多い。

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『朱天』1943年7月15日発行の初版の奥付けと「後記」の末尾。出版会承認3000部とある。スキャンすると、どうしても歪んでしまって・・・

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『朱天』1944年1月15日発行の再版の表紙とカバー。奥付けには出版会承認3000部とある。初版・再版ともに櫻本富雄氏から頂戴したものである

二つの『朱天』が意味することは

ところで、1977年刊行の『全歌集』に収録された『朱天』は、初版『朱天』より、つぎのような神がかり的な戦意高揚短歌を含む17首が削除されていたことが分かったのである。それは、『全歌集』刊行時、編集にあたった史が、どういう評価をし、どういう意図で、17首を削除したかは、定かではない。

多くの著名な歌人たちには、生前だったら自らの手で、没後は、遺族の手で、あるいは弟子や第三者の手で、さまざまな編集過程を経て、刊行される≪全歌集≫や≪全集≫を持つ。刊行の折には、明確な編集方針を示すとともに、その意図、理由をも示してほしい、というのが読者の願いでもある。そうすることが、≪全歌集≫や≪全集≫の資料的価値の決め手になるのではないかと思うからだ。歌集は、「てにをは」のミス訂正はともかく初版の原本が基本だろう。編集時の改作、作品の加除は、なすべきではないと、私は考えている。もし、どうしても、その必要があるならば、異同が生じた理由や経緯を明らかにしておくことが重要かと思われる。

 歌集『朱天』は、作歌時期によって、大きく「戦前歌」「開戦」に分かれるのだが、『全歌集』に『朱天』を収録する際に、斎藤史は、「戦前歌」という表題の下方に、「昭52記」と添え書きをして、次の1首を付記したのである。 

はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば 昭52 

 

 そして、初版1943年、再版1944年の「後記」は、「昭和十八年二月」付で、364首を集めた、と記している。『全歌集』の収録時には、この「後記」と同じ頁に、「昭52付記今回三百四十八首」と付記した。これだけを読むと、16首(364348首)を削除したことが推測されるが、その理由などは示されていない。その上、初版の『朱天』の収録歌数の実数は、365首だったので、実際の削除は17首であることが分かったので、照合してみると、たしかに、『全歌集』に収録されていない作品が17首あり、その中に、つぎのような作品があったのである。

國大いなる使命(よざし)を持てり草莽のわれらが夢もまた彩(あや)なるを(『朱天』6頁)


 初出は『日本短歌』19412月号、「秋より冬へ」15首の内の1

首であった。さらに、「使命」の部分は「理想」であった。




現(あき)つ神在(ゐ)ます皇国(みくに)を醜(しこ)の翼つらね来るとも何かはせむや(『朱天』95頁)



 初出は、『公論』19423月号「四方清明」5首の内の1首であり、『日本短歌』19424月号「春花また」6首の中にも見出すことができる。




神怒りあがる炎の先に居て醜の草なすがなんぞさやらふ
(『朱天』
147頁)

 

初出は『文芸春秋』194212月号、「北の防人を偲びて」10首の内の1首であった。『文芸春秋』の短歌のコラムは、現在も続いている、歌人も注目のコラムであるが、斎藤史の登場は、戦前戦後を通して、他の歌人に比べれば、例がないほど、その頻度は突出している。当時、1940年以降、平均すれば、年に1回は作品を寄稿していることになるのである。 

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『朱天』初版・再版とも頁割は同一で、最終の2頁5首の内、4首が『全歌集』から削除され、収録されたのは、最後の1首であった。綴じが崩れている個所もあって・・・


 『全歌集』刊行の
1977年以降、「昭和52付記」の「はづかしき・・・」の一首は、削除した作品を検証することもなく、独り歩きをした格好で、史が戦時下の歌集を隠すことなく、さらけ出した「勇気」や「覚悟」を称揚する論調が拡散した。

それは、戦時下においては、斎藤史が歌壇内外で“人気”の若手女性歌人であったからだろう。しかし、それは、歌人の父、斎藤瀏が226事件の反乱将校たちを幇助したとして服役し、1938年仮釈放された後、『心の花』を離れ、『短歌人』立ち上げたのが1939年であった。娘の史は、親しかった反乱将校たちを銃殺刑で失うという、“悲劇”を背負った歌人の父娘であったことと、瀏が、仮釈放後、歌壇に復帰したのが、軍国主義が強化され、軍による言論統制が露骨になった時期であり、歌壇のファッショ化の先陣を切る形での活動が始まったことと無関係ではなかった。その華々しい活動は、著作目録から見ると、他の女性歌人と比べて、そのメディア進出頻度は破格だったことが分かる。

さらに、戦後の斎藤史は、戦前の歴史的な検証というよりは昭和天皇との確執という「物語」を背負い、疎開地の長野にとどまって、父を看取り、長きにわたった母の介護に続き、夫の介護をも担うことになる。初版の『全歌集』が刊行されたのは、夫が亡くなった直後でもあった。

占領下、その後の斎藤史については、別稿としたい。


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2017年6月19日 (月)

戦時下の女性雑誌における「短歌欄」と歌人たち―『新女苑』を中心に   

 加計問題について調べていくと、いろいろ出て来て、書きとどめておきたいことがある。諮問会議のもとでは、ワーキンググループ、区域会議などの組織が設けられている。さらに、安倍首相が、「<分科会>で専門の先生方にも議論いただいて・・・、<分科会>知ってますか、知らないでしょう!」と、質問の議員に応えていた分科会、その議論の中身とて、首相の言う内容のあるものではないが、分科会自体と諮問会議との関係、内閣府地方創生推進事務局の中での位置づけが明確ではない・・・。今問い合わせているのだが・・・。

 今回、加計問題は小休止をして、最近、活字になった論稿をアップしておきたい。

 歌人、ジャーナリストであり、国文学研究者であった窪田空穂は、今年生誕140年、没後50年ということで、角川『短歌』6月号で「いまこそ空穂」という特集を組んでいる。私は、ここ数年、阿部静枝と斎藤史研究の基礎作業として、著作目録を作成中だが、二人とも幅広いメディアで活躍したので、かつての「婦人雑誌」と呼ばれ、多くの読者数を誇っていた女性雑誌に多くの作品やエッセイを残していた。そこでの文献探索中に、「婦人雑誌」の短歌欄に着目した。その一端を、『ポトナム』95周年記念号(2017年4月)に寄稿したので、再録しておきたい。紙面に制限があったので、かなり端折ってしまったが、あらためて、本などにまとめる際には、追補したい。

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 空穂の戦時下の作品については、島田修三「窪田空穂、戦時詠」『昭和短歌の再検討』砂小屋書房 2001年)の論稿があり、空穂の「戦争観」をたどり、「本人の意に添っての錯誤ないしは禁忌として封殺しつづけるならば、この巨大な歌人は生の全貌を不自然に歪ませたまま短歌史の闇をさままいつづけることになりはしないか」と結んでいる。今回の特集の執筆者は、ほぼ、空穂系の歌人で固められているので、
この辺りに触れているのは、今野寿美「忘るる得たり」で、『明闇』から戦時下の作品を除いた『茜雲』編集に衝撃をうけ、戸惑い、「報道のままに歓喜する姿の浮かぶ様相は、むしろ痛ましい」ともいうが。

          ~~~~~~~~~~~~~~~~

 

戦時下の女性雑誌における「短歌欄」と歌人たち―『新女苑』を中心に 

 

はじめに

拙稿「女性歌人はマス・メディアにおいてどのように位置づけられたか―敗戦前の女性雑誌の短歌欄を中心に」(『扉を開く女たち』二〇〇一年)では、主に『主婦の友』『婦人之友』を対象とし、「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか~女性歌人起用の背景」(『天皇の短歌は何を語るのか』二〇一三年)では、阿部静枝の執筆が多かった女性雑誌の短歌欄に言及した。本稿では、太平洋戦争下における女性雑誌『新女苑』の短歌欄と選者、女性歌人の短歌に焦点をあてたい。

『新女苑』は、『少女の友』の主筆内山基(19031983)が主筆を兼ね、一九三七年一月、實業之日本社から創刊され、当時としては、若い女性向きの斬新な雑誌であり、敗戦をはさんで一九五九年まで刊行された。「創刊のことば」によれば「若き女性の静かにして内に燃える教養の伴侶」「少女雑誌と婦人雑誌の中間的存在」を目指した雑誌であった。当時の主婦向けの実用雑誌『主婦の友』『婦人倶楽部』などとは一線を画し、働く女性たちをもターゲットにした女性雑誌であった。吉屋信子ら著名作家による小説、グラビア、エッセイ、手記、座談会などに加え、翻訳文学、海外事情などにも及び、各分野の時評欄を充実させるなど編集に工夫が見える。平塚らいてう・宮本百合子・山川菊栄・金子しげり・奥むめお・高良富子ら女性の論客たちもしきりに登場していた。そうした編集方針を背景にしている「読者文芸」の一つ、「短歌」欄における選歌の動向や入賞作品の推移を見てみよう。

 『新女苑』の研究として、入江寿賀子「『新女苑』考」(『戦争と女性雑誌』二〇〇一年)と石田あゆう「<若い女性>雑誌に見る戦時と戦後―『新女苑』を中心に」(『マス・コミュニケ―ション研究』二〇一〇年)があるが、歌人や短歌についての言及はない。内山基については、ともに二〇〇四年刊の遠藤寛子『《少女の友》とその時代』(本の泉社)、佐藤卓己「実業之日本社の場合―内山基の恨み」『言論統制』(中央公論新社)がある。 

窪田空穂が選ぶ「短歌」欄

一九三七年三月号からスタートした「読者文芸」の「短歌」欄の選者は窪田空穂(18771967)であった。

・いねし子の口は静かにほころべり夢みつるらしほほゑみのうく

(一九三七年三月 大分 黄金眞弓)

・此の襖へだてヽ未だ寝ぬ人のありと思へばお落ちつかぬかも

(同上 奈良 松谷千鶴子)

入賞作品は、家庭の日常、相聞や働く女性の歌も多く、毎月三頁にわたる一〇〇首以上の作品が掲載された。いわゆる戦時詠、銃後詠などは、他誌の読者歌壇に比べてかなり少ない。つぎに、一九四〇年二月号をのぞいてみると、四首目のような作品は極めて稀であった。

・つきつめし思ひにふれてこほろぎは一直線の聲透すなり

(西宮 徳山くら)

・務終へ心つかれし吾が目には時雨にぬれし舗道は美し

(京城 丘志津)

・つつがなく今日も終りて安らかに我が事務机ふき清めたり

 (東京 浜田彰子)

・やうやくに召さされし兄は胸張りて秋の大空にこヽろよげなり

 (鹿児島 立山成子)

一般的に、新聞・雑誌が読者歌壇を設けるのは、まず、短歌愛好者の読者獲得という営業目的のためと同時に、「短歌」は、比較的気軽に嗜むことができる文芸の一つであり、作歌をしない読者にとっても、教養・実用記事が続くなかで、ほっとできるオアシス的な存在であったのではないか。さらに、短歌愛好者、投稿者にとっては、読者層やテーマも限定的で、より親しみやすく、入選頻度が高く、満足度も高かったにちがいない。投稿される短歌も表現技術や公式的な戦意高揚を競うものではなく、心情を吐露する素直な作品が多かったことが垣間見られるのである。

『新女苑』「短歌」欄の選者は、通して窪田空穂が務めていた。『主婦之友』『婦人之友』の二誌では若山喜志子が長く、『主婦之友』では太田水穂も長かった。『婦人朝日』は今井邦子、『婦人倶楽部』は、交代ながら選者はすべて女性歌人であった。『婦女界』の佐佐木信綱も長い。『婦人画報』『婦人公論』は読者歌壇を持たなかったが、『婦人公論』は、一九四二年、「愛国の歌」を募集、土屋文明、北原白秋、佐佐木信綱が交代で選者を務めたことがある。

一九三七年七月七日中戦争開始を受けて、出版統制はますます厳しい時代に入った。翌年四月国家総動員法が成立、五月内務省警保局から「婦人雑誌ニ対スル取締方針」が発表され、九月内務省図書課から雑誌社代表に貞操軽視の小説は不可の指示が、一一月内務省から婦人雑誌編集者へは健全な母親教育・用紙節約の要請が、一二月厚生省からは婦人雑誌編集者に戦没者出征遺家族精神援護の要請が出された。一九四〇年一二月大政翼賛会は婦人雑誌編集者に対して母たる自覚の鼓吹を要請した。「要請」という名の弾圧は、さらに具体的になっていった。一方、女性執筆者に向けても、一九三八年一二月企画院は婦人団体への時局対策協力要請、一九四〇年一一月女流文学者会議発足、一九四一年五月内閣情報局の女性指導者らの時局懇談会召集などによって、統制と自主規制の両面から強化されてゆく。それは、一九四一年七月の警視庁による家庭婦人雑誌の整理統合要請につながり、八〇誌発行されていたものが一七誌に絞られ、一九四四年三月には、中央公論社解散により『婦人公論』は終刊、一九四四年末には、「婦人雑誌」として『主婦の友』『婦人倶楽部』『新女苑』、「生活雑誌」として『婦人之友』が残るのみとなった。

一九四四年、『新女苑』の「短歌」欄も、たった一頁に圧縮されてしまい、三四~五首のうち、三〇首近くが戦局・銃後詠であって、かかわらない作品は五首にも満たないという、当初との逆転現象が起きていた。選後評はなくなり、末尾に選者詠が二首だけ記されるようになった。

・引く線の機となり銃となる日の日に近し吾等励まむ

(東京 中越愛子 一九四四年九月)

・待ちしもの今し皇土に来向ふと配置に在りて人等臆せず

(島根 森蔦子 同上)

・この大事決せむ前の静けさの相見て笑めど言に出ださず

(窪田空穂 同上)

・民族の命は長し吉き事のかぎりあらぬをのちに譲らむ

(同上)

さらに、雑誌自体の頁数も激減し、「短歌」欄が見当たらない月もあって、一九四五年三月をもって、その灯は消える。三五首の入賞作から二首と選者詠二首を記しておこう。その後は、二冊の合併号を刊行して敗戦を迎える。

・わが包むこの菓子はもよ神兵の糧となるものぞ思ひ清しも

(山形 結城ひとみ 一九四五年三月)

・子の寝顔あどけなくしてゆり起すことをためらふサイレン聞きつつ

(三重 室井きよか 同上) 

・言にして怒りをいはむ時は過ぎ憎み極まる憎みを遂げむ

(窪田空穂 同上)

・奇しき火の見えぬ炎の揺らぎつつ国内をおほふこの神力

(同上)

 

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『新女苑』1945年3月号の表紙、目次と1頁だけになった「短歌欄」

選者、窪田空穂にとっての敗戦

ところで、選者の空穂は、与謝野鉄幹の『文庫』をスタートとして、短歌を中心とする文学活動に入り、ジャーナリストを経て、早稲田大学を根拠地とする古典の研究者となり、『槻の木』を主宰、十数冊の歌集を出版している。一九四一年には、歌人として、斎藤茂吉、佐佐木信綱らに続いて、北原白秋と前後して帝国芸術院会員となっている。この間の作品は第一四歌集『冬日ざし』(収録一九三七~一九四〇年。一九四一年六月刊)、第一五歌集『明闇(あけぐれ)』(収録一九四一~一九四年。一九四五年二月刊)がある。これらは、いま手元にある『窪田空穂全歌集』(短歌新聞社 一九七六年一二月)には収録されているが、『明闇』の改装版としての「戦時下の詠を除いた」『茜雲』(西郊書房 一九四六年二月)だけを収録する「全歌集」や「選集」があることがわかった。『明闇』は、刊行直後の空襲により大部分が出版元で焼失したという。『茜雲』の「後記」に、つぎのように記す。「内容の点からも見ても、再版は不可能なものである。それは戦時下の著者の感慨は、新聞ラヂオの報ずるところをそのままに受け入れ、国民の一人として発しさせられたもので、その他の何物でもなかつたのである。その間の詠は終戦後の今日、戦役その物に対しての認識を改めさせられた心よりしては、再び見るに忍びないものである。」

なお、一九五三年七月刊行の選集『窪田空穂歌集』(新潮文庫)の『茜雲』末尾の自筆メモでは、「(茜雲は)長歌三首、短歌六二八首より成つてゐる。戦局の明らかに険悪となつて来た期間の作で、その方面のものが相應にあつたが、出版は占領下の検閲の厳しい際であつた」と記されている。

そして、第一七歌集『冬木原』(一九五一年七月)に到る

のだが、戦時末期一九四四年から、病弱の次男茂二郎がシベリアの捕虜収容所で病死していたことを知る一九四七年までを収め、その「後記」にも、つぎのように記す。「選をするに当たつては戦局そのものを対象としたものはすべて捨てることとした。その当時にあつては、それらが感傷の主体をなしてゐたのであるが、既に敗色の歴然たる段階であり、新聞ラヂオ刺激としての長太息に過ぎないもので、時の距離を置いて読みかへすと、きわめて空疎なもののみで、とるにたりないものばかりだつたからである。」

『冬木原』は、「慟哭の歌集」「反戦の歌集」として、評価の高い歌集である。敗戦直後に刊行された『茜雲』『冬木原』の「後記」、後年のメモなどにおける解説をどう読むべきなのか。「戦時詠」「戦局詠」を除いたのは、占領軍の検閲の故なのか、戦時報道を受け入れただけの作歌が取る足りない故だったのか、判然としない。たしかに空疎な作品が多いのは事実であろう。しかし、その時代に、多くのメディアに発表し、それを歌集となし、多くの読者を得て、さらには、結社や読者歌壇欄などで、翼賛的な作品を選んだ指導者としての責任はどうなるのだろうか。もちろん、窪田空穂だけではない多くの歌人たちが遭遇した問題であった。すなわち、敗戦後、戦時下の作品をいかに「処理」したのかは、現代にいたるまで戦争責任、戦後責任の課題を提示しているはずである。

 


『新女苑』に登場した女性歌人たち

女性歌人は、短歌作品に限らず、エッセイなどでも、柳原白蓮、今井邦子、若山喜志子、茅野雅子、四賀光子らのベテランが起用されるなかで、中堅や新進も登場した。一九三六年『暖流』を刊行、一九四〇年『新風十人』に参加した五島美代子(18981978)は、『暖流』の序文で川田順に「母性愛の歌人」と称揚され、胎動を詠んだ初めての歌人とも言われている。夫のイギリス留学に伴い、海外体験のある美代子は、空襲下のロンドンの惨状にも思いをはせるが、日米開戦前後は、二首目のような変化を見せる。

・ロンドン空襲の記事なまなましく胸にありていはけなき子のしぐさ見てゐる

(五島美代子 一九四一年三月)

・ますらをが建てやまぬ天の柱のもと踏みてかひある女の道見ゆ

(五島美代子 一九四二年一一月)

また、大正末期以降、働く女の母性、愛児の歌を詠み続けた中河幹子18951980)もつぎのような歌を寄せる。

・ますらをの北に南にいのち死に國ぬち安けきに涙ぐましき日々

 (中河幹子 一九四三年七月)

・警戒警報の笛なりわたるうす月夜子をかかへ強き女を感ず
(同上)

五島とともに、『新風十人』に参加、二・二六事件にかかわった父斎藤瀏、反乱軍として刑死した幼馴染を詠んで注目された斎藤史(19092002)も、短歌をたびたび寄稿する。

・街の果に冬雲垂りてにごりつつ我にとよもすたたかひの歌

(斎藤史 一九四一年三月)

・微少なるわれらが生を思へらくいのちはいよよしろじろと燃ゆ

(斎藤史 一九四二年九月)

 しかし、こうした女性歌人の作品すらも、一九四三年後半から登場することがなくなり、一九四四年に入ると、男性歌人のストレートな戦意高揚歌やエッセイが毎号登場するようになる。その実態と背景については別稿に譲りたい。

(『ポトナム』2017年4月所収)(画像は、ブログ再録に際して掲載した)


<参考>
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いずれも『新女苑』の短歌のコラムで、1942年頃から、女性歌人に代わって男性歌人が起用され、ほかに、浅野晃、会津八一、半田良平、影山正治、逗子八郎(=井上司朗、吉井勇らの作品が登場する。

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2017年5月 3日 (水)

憲法改正「2020年に施行したい」 首相がメッセージ~なんと、先ほど入ってきたニュースは

憲法記念日のきょうの午後、日本会議が主導する「美しい日本の憲法をつくる国民の会」などによる「第19回公開憲法フォーラム」の改憲集会で、安倍首相は、2020年には、「憲法9条に、自衛隊を明記する条文を書き込む」改正を行い、オリンピックの年を、日本が生まれ変わる年にしたい」とのビデオメッセージを寄せたという。当ブログの前の記事で、安倍政権は、最初は、憲法9条を持ち出さずに、憲法改正を目論んでいると思っていたが、それは、やや見込み違いであった。9条の1項・2項を残して、自衛隊を明記するという。「私たちの世代の内に、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、自衛隊が違憲かもしれないなどの議論が生まれる余地をなくすべきである」と述べている。メッセージで「今日、災害救助を含め、命懸けで、24時間、365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿」とも称揚する「自衛隊」は、「専守防衛」どころか、「駆けつけ警護」、できればひそかに実施したかった「米艦防護」など、「警護」「防護」の名のもとに自衛隊の軍事活動、装備は、拡大する一方である。日米安保条約、日米地位協定、安保関連法が、それらを正当化、拡充してきた。近隣諸国との緊張関係をいたずらにあおるような昨今の安倍政権の拙劣な外交政策や情報操作は目に余る。私たちは、日本が自ら軍事強化へと進もうとする現実をしっかりと見つめ、何とか歯止めを思っている時期に、なんということを。

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2017年3月30日 (木)

二つのドキュメンタリーを見た、アウシュビッツと沖縄と(1)

「ただ涙を流すのではなく“分断する世界”とアウシュビッツ」(NHK-BS1226日)

旧聞に属するが、226日、国会や報道では、森友学園問題で大揺れであったが、夜は、NHK-BS1スペシャル「ただ涙を流すのではなく“分断する世界”とアウシュビッツ」を見ていた。番組予告では、「100万人を超えるユダヤ人が虐殺されたアウシュビッツ強制収容所。その悲劇を伝え続けているのが、世界各国出身のガイドたちだ。今、ガイドたちは、大きな危機感を抱いている。移民や難民をめぐり広がる排斥の声。世界が分断を深める中で、自分たちは何を伝えるべきなのか。ただひとりの日本人ガイド・中谷剛さんも語るべき言葉に悩んでいる。揺れるアウシュビッツのひと冬を追った。」とあった。

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 NHK-BS1、2017年226日午後8時~

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 NHK番組紹介ホームページより

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構内の収容所バラックのすぐ近くに、収容所長の住宅があり、家族とともに住んでいた。そこには平安な日常生活が営まれていたのだろう。私たちが見学した折は気づかなかった。NHK番組紹介ホームページより

2010年5月、私たち夫婦は、ポーランドのクラクフに2泊した折、アウシュビッツビルケナウ強制収容所見学のバスツアーに参加した。雨の朝、ホテルを出て、あちこちで道路工事の真っ只中の街に迷いながら、バスの発つマテイコ広場までたどり着くのに苦労した。ともかく、「英語コース」のバスに乗り、現地でも英語のガイドによる案内で、心細い思いをした。ただ一人の日本人ガイド、中谷剛さんとの縁はなかったけれども、この番組は逃してはならないと思った。

中谷さんは、1966年生まれ、1991年からポーランドに住み、猛烈な勉強をして、1997年アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所博物館の公式ガイドの資格をとり、ポーランドの女性と結婚されて、今もガイドの仕事を続けている。

日本から来た若い見学者のグループを伴い収容所構内や幾つもの展示室を案内するとき、ドイツナチス時代に、なぜこうした民族差別による大虐殺がなされたのかを、言葉を選びながら説明し、見学者が自ら考えるように、という思いを伝える。中谷さんは、偉そうには解説はできないと、丁寧で慎重な姿勢を崩さず、見学者に接しているようだった。同時に、ポーランド人、ドイツ人のガイドたちの悩みも語られてゆく。決して声高ではないけれど、力強く訴えるものがあった。ただ、ドイツ国民が、なぜナチスに雪崩れ打って、ここまでの虐殺がなされ得たのか、と、そこでなされた残虐の限りの実態を、そのファクトを検証する場でもある、アウシュビッツで起きたことをもっとストレートに語ってもよかったかと思った。

 私のわずかな経験からも、目の前に示される歴史上のファクトには、筆舌を超えるものがあり、それを次代に継承すること自体が、過去への反省と責任を伴って初めて成り立つことだと思えたからである。加害国のドイツ国内においてもかつての強制収容所跡を残し、ベルリンの中心部、国会議事堂直近の場所に、ホロコーストの碑を建設、様々な歴史博物館において国家としての反省の意思を示したドイツを思う。それに比べて、「自虐史観」と称して歴史教科書において、日本の侵略戦争の事実を少しでも薄めたい政府、民間人の集団自決に軍の関与がなかったような、曖昧な展示しかできない国立博物館、原発事故の原因究明がなされないまま、被災者切り捨て、原発再稼働を進める政府、教育勅語礼賛の安倍首相夫妻・・・を思うと、その格差に愕然とする。話はどこまでも拡散してしまうのだが、以下の、かつての旅行の記事も参照していただければ幸いである。

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展示室より

<当ブログ参考記事>

◇ポーランド、ウィーンの旅(2)古都クラクフとアウシュビッツ

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/05/post-f56e.html

2010531 ()

◇ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20289)(ザクセンハウゼン強制収容所ほか)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141020289-91f.html

20141117 ()

 

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2017年3月14日 (火)

今年の「建国記念日」は、甲府へ〰石橋湛山記念館、山梨県立文学館と美術館と(1)

 やや旧聞に属するが、211日午後、夫が甲府での集会で話をするというので、ついていくことにした。一泊して、久しぶりに山梨県立文学館と美術館を訪ねようという計画もまとまった。

 

石橋湛山記念館

家を出るときも寒かったが、八王子を過ぎたあたりから、沿線の斜面や林に少し雪が残り、笹子トンネルを抜けるとブドウ棚がびっしりと続いていた。甲府駅には、今日の集会「歴史に学び平和を考える・211山梨県民集会」実行委員会のお世話役の浅川保さんが迎えてくださった。浅川さんは、高校の先生の在職中から甲府一高出身の石橋湛山研究に打ち込むと同時に、地元の平和運動の活動に取り組み、2007年からは、山梨平和ミュージアム・石橋湛山記念館の理事長をされている。集会の前後にわたって、ミュージアムを案内していただく。丹念に収集した湛山関係の資料と県下の空襲関係の資料が充実していた。ご自身も、山梨ふるさと文庫、山梨日日新聞社などから歴史書や湛山の評伝を刊行されている。近著に『地域に根差し、平和の風を』(平原社2015年)がある。

私は、湛山の政治家としての活動もさることながら、ジャーナリストとして『東洋経済新報』で健筆をふるっていた活動に関心があった。なお、昨年、1960年湛山から岸首相あての書簡が見つかったという。その内容は衝撃的なものだった。同時に、さもありなん、といった内容でもあったのだ。すなわち、湛山は、首相時代のある出来事を振り返って、1960年、岸信介にあてた書簡は次のような内容であった。昨年10月の『サンダー毎日』スクープ記事でもあったのだが、湛山が「ある一人の人」に閣僚名簿を提示したところ、「かの人」は、名簿にある「岸信介は、先般の戦争の責任としては東条英機よりも重大である」と述べたあと、岸首相の「安保問題」の対応に対して「これ以上、あの人に心配を掛けぬよう」という趣旨の文面であった。「ある人」とは、ほかでもない昭和天皇であったという考証であった

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 石橋湛山の展示は、いくつものコーナーに分かれていた

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甲府空襲コーナーにて

 

昔の職場の友人との出会い

 集会での演題は「今、問われるメディアの姿勢と役割~理性を育むNHKを目指した」という長さで欲張っていたのだが、南スーダンの治安状況などを例に、テレビの報道番組、NHKと民放との比較などを交えながら、公共放送のあるべき姿と現況、制度を中心にした話となった。

 会場は立派な総合市民会館の一室で、参加者は約100人とのこと。なんと会場には、かつての職場のSさんらしい姿を発見、部局が違っていたので直接話をするようなことはなかったのだが、奥さんとは同期で、課も同じフロアであった。Sさんは、1982年に、甲府市内の大学に転出されて、すでに退職、地元では、専門分野での活躍とともに、九条の会の世話人もされているようだった。何しろ、40年ぶりにもなろうか。集会の途中からは、思いがけず奥さんも駆けつけてくれて、終了後のお茶の会では、席の隅で、私たち3人の話は弾んだ。夫も、かつて同じ審議会メンバーで、役人とやりあった仲だった元主婦連のKさんとの出会いも十数年ぶりだったということであった。

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