2026年9月 6日 (日)

「愛子天皇待望論」って、何だったのか~地元の九条の会のニュースに書きました

 9月4日、地元の九条の会のニュースの印刷に行ってきました。佐倉市の中央公民館の印刷機は新しいし、折り機もあるので、よく利用してきました。転居により、前より近くなったので、手伝う機会も多くなるかもしれません。2006年、会の出発当初は、会員も多く、様々なイベントに取り組んできました。ニュースも3000部ほど刷り、戸別配布、駅頭配布、市内の高校前配布もしてきましたが、今は配り手も少なくなって半減しています。大事なときに残念ですが、それぞれの得意を活かして頑張りたいです。

 以下が、55号です。皇室典範改定については、メンバーの中でも意見が異なっています。さらに議論を進めることができればといいな、と思っています。私の文章は、相変わらずのことなのですが、どうぞ、他の記事もお読みいただければ幸いです。

さくら・志津憲法9条をまもりたい会ニュース55号

ダウンロード - e38195e3818fe38289e5bf97e6b4a5efbc99e69da1e381aee4bc9aefbc955e58fb7.pdf

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

男女を問わず、皇族たちの人権は?「愛子天皇待望論」って、何だったのか

 「皇室典範改正案」は6月30日に閣議決定された。大方のマス・メデイアは、旧宮家の男系男子を養子とする案への疑念を呈し始めた。たしかに、養子案は荒唐無稽な時代錯誤も著しく、非科学的な「万世一系」に根拠もなく、多くの国民は受け入れ難かったに違いない。同時に、新聞などは、自社の世論調査結果を踏まえて女系・女性天皇への期待を、強調するようになった。

 7月10日、衆院での質疑もそこそこに、即日、賛成多数で可決した。翌日の三大全国紙の社説は、一斉に、国会運営の強引さと野党国民民主と中道が従来の主張に反して改正案に賛成したことを糾弾した。与党の恣意的な国会運営、質疑における詭弁、答弁不能、テープレコーダーのような繰り返しにも近い政府答弁に、私は呆れもした。7月15日参院特別委員会で審議入りし、17日には本会議で賛成多数で成立した。国民そっちのけの国会軽視も甚だしく、見直しは30年をめどとする無責任さである。

 これまで、朝日新聞は、その社説で、7月10日「皇室典範改正の暴走」を非難、養子の男性子孫は皇位継承資格を持つという規定は、女性・女系天皇への道を塞ぐものだとし、毎日も、7月1日「養子の子に皇位継承権を付与する」という改正案は「女系・女性天皇を封じる意図」だと疑念を示した。読売は、4月16日「皇位継承の安定 女性・女系を排除せず論じよ」と明言して以来、世論調査を踏まえて、7月1日にも「女性・女系を排さず議論し直せ」と訴えている。女系・女性天皇を容認しないのは、憲法の男女平等に反するという論調とともにネット上も含め、実現に程遠い「愛子天皇待望論」が噴出、盛り上がりを見せた。まるで、改正案に不満を持つ人たちのガス抜きのように。

 現憲法下では、皇族たちは男女を問わず姓を持たず、さまざまな基本的人権を奪われている。改正案の「女性皇族は結婚後も皇族として残る」ということは、基本的人権を奪われたままで、法的な根拠を持たずに増やし続けた「公的行為」「公務」の人材要員となるにすぎない。配偶者や子どもの処遇、住所や生活費はどうなるのかも不明に近い。

 なお、かりに、女性天皇が実現したとしても、従来、天皇が背負ってきた義務や重圧を女性皇族までに拡大することになり、配偶者と子孫の処遇ものの昧である。

 本来、皇族といえども、憲法上は、男女を問わず、皇籍を離れる自由、結婚の自由、子供を持つか否かの自由があるはずである。また、憲法では、天皇は政治的権能を有しないはずだが、果たしてきた役割を省みれば、政権との密接な関係は否定できない。外国訪問、戦死者・被災者慰霊、種々のイベントへの参加によって、政権の施策の欠落部分の補完機能を強いられ、利用され続けている現状に目を向けるべきだ。

 朝日新聞の7月10日の社説に「象徴天皇制と、法の下の平等や個人の尊重など〈人類普遍の原理〉という異質なものが憲法に同居しており、完全に整合させることは難しい」とやや踏み込んだ一文あったことに私は注目した。さらに、改正案成立後の7月19日に、有田哲文記者による「日曜に想う 天皇制〈なぜ〉続けるのかを問う」という問題提起がなされた。憲法の基本理念と天皇制は相容れないはずである。〈なぜ〉この時期に至って、記者名による基本的な問いかけがなされたかをも記憶にとどめておきたい。

Img_20260825_162104-2
お隣の棟の庭先で出会う。先日の駐車場で見た猫とは違うが、逃げようともせず、かえって怪しまれたかも。        


| | コメント (1)

2026年8月12日 (水)

欠陥法案、続々、もうこの国を愛せない(4)~国会閉会後はというと

 高市首相の熊本地震の被災者避難所の視察が「3分」に過ぎなかったと報じられ(「田中龍作ジャーナル」2026年8月3日)、拡散されると、氷川中学校の滞在時間は五十何分だと、内閣広報官が反論する羽目になった。https://tanakaryusaku.jp/2026/08/00033801

 朝日新聞8月4日の「首相動静3日」によれば、避難所の氷川中学校到着3時13分、視察が午後3時21分から34分、35分から54分までが被災者との意見交換をしたことになっている。実際に、避難所になっている氷川中学校の教室に滞在したのはかなり短かったことは推測できる。その前には、校長室で地元住民との意見交換が行われていたらしい。また、首相官邸からは、BGM付きの首相の「熊本視察動画」が発信されたことも批判されている。たしかに、真新しい防災服を着て、走るように移動する動画は、子どもが燥いでいるのようにも見える。6日経っての視察先での「激甚災害指定」の宣言といい、予備費からの200億円で「国ができることはすべてやる、先手、先手で」との発言は、失笑をかった。電気、水、道路を断たれ、家を失い、瓦礫の中で暮らす被災者や車中泊を余儀なくされている人たちをさかなでしないか。災害の政治利用、パフォーマンスといわれても仕方がない。
 折も折、8月1日、2024年1月の能登地震の復興計画の一環での公営住宅整備3100戸のうち、2棟14戸が七尾市に完成し、入居した旨の報道がなされた。2年半以上がたってもこんな状況であることを知らなかった私は驚いた。この事態を、物々しく、いかにも復興が進展しているかのように報道する方もおかしい。遅れているのはなぜなのか、何がネックなのかことこそ深堀りするのが報道ではないのか。能登半島地震、今回の熊本地震の復旧・復興対策一つをとっても、後手、後手の結果ではないのか。

 6月末には「日本成長戦略概要~「強い経済」の構築による、強く豊かな日本列島の実現~」が明らかになった。https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/nipponseichosenryaku/pdf/jgs2026gaiyou.pdf(内閣官房)

 また、7月21日、政府は「骨太方針」を閣議決定した。その中の「安全保障の強化」という項目には「5年以内の防衛力の変革を明記。その一環として、有事に備えて弾薬などの生産ラインを維持するため、工場を国が保有し運営は民間に委託する「公設民営化」の検討を盛り込ん」でいる(東京新聞7月22日)。

 さらに、政府は8月4日の閣議で、2026年版「防衛白書」を了承したのである。無人機や人工知能(AI)を活用した「新しい戦い方」の出現を踏まえて1章を創設した。「新しい戦い方」って、いったいどこと戦うというのか。中国と太平洋進出や中国とロシアの動向を念頭に置いているという。すでに今年の3月、熊本市の健軍陸上自衛隊駐屯地に、住民の反対を押し切って、中国の沿岸部や北朝鮮が射程に入る長距離ミサイルが配備された。10年かけて、各地に配備、反撃能力(敵基地攻撃能力)を高めるというのだ。防衛費の総額は、9兆353億円(対前年度比+3.8%)で、長距離ミサイルを含むスタンド・オフ防衛能力分野では、総額の約1割の9733億円で、2023年度から5年計画で毎年1兆円近くが計上されて来た。重点分野の内訳は、以下の通りである。

Photo_20260811234401

【参考】

 Photo_20260811231301

jijicom 2025年12月26日より

 物価対策の一環としての食料品消費税減税のはずであったが、8%を1%に下げたところで、生鮮食品を含む食料品の物価上昇はすでに、7%をとっくに上回っていることは、多くの国民はスーパーや生協での支払いで実感済みである。来年4月からの2年後に8%に戻すという。8月5日、財源を示さないままの閣議決定であるが、8月6日の首相の記者会見では、2年後には「私が責任をもって、8%に戻す」覚悟?が確認されている。

   8月7日には、農林水産省は、食料自給率を公表した。図表に見るような長期推移を以下のように分析している。
「食料自給率は、長期的に見ると、米の消費が減少する一方で畜産物や油脂類の消費が増大する等の食生活の変化により、低下傾向が続いてきましたが、2000年代に入ってからは概ね横ばい傾向で推移しています」

 たしかに、横ばい状態が続いているが、カロリーベース37%というのは過去にもあったが最低である。カロリーベースの自給率の計算式は以下の通りとなる。

カロリーベース 食料自給率 = 国産供給熱量÷ 国内総供給熱量
= 1人・1日当たり国産供給熱量÷ 1人・1日当たり総供給熱量
= (830kcal/人・日)÷(2,237kcal/人・日≒37%

   この食料自給率は先進7カ国(G7)の中で最も低い水準で、食料供給のうち、国産で賄えない63%分は米国(26%)やカナダ(11%)、豪州(10%)などからの輸入に頼る。自給率が下がれば紛争や為替変動などの影響を受けやすく、食料安全保障上のリスクとなるわけである(jiji.com 2026年8月7日)。 品目別の自給率はでは、米が96%、野菜73%、魚介類46%、砂糖類33%と続くが、果実28%、大豆25%、小麦になると17%となる。相当危ういことになってはいないか。知っているようで、この数字を目にするとあらためて驚いてしまう。物価上昇に歯止めがかからないのは、ここにも原因の一つがあるようだ。

 Photo_20260812154401

jiji.com 2026年8月7日より

 【参照】 
農林水産省(2026年8月7日)
令和7年度食料自給率(カロリーベース・生産額ベース)
https://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/attach/pdf/012-20.pdf

 こんなことを調べたり書いたりしていると、心はますます萎えてくる。この辺でやめたいと思う。

 

 

| | コメント (2)

2026年5月 5日 (火)

憲法改正、急ぐに及ばず~憲法記念日の世論調査にみる

  5月3日の朝日新聞は「高市政権で改憲 賛否拮抗 本社世論調査 賛成47% 反対43%」、毎日は「改憲《賛成》37% 本社世論調査 首相人気 機運押し上げ」と一面で報じている。憲法記念日恒例の世論調査である。この日のための世論調査の結果報道、社説や特集が組まれ、市民団体による意見広告も散見できる。

  この頃、「世論調査」というのに疑問を持ち始めている。まず、思うのは設問・回答の在り方と回収率の低さと調査方法である。最近、ケータイや固定電話に、何か所からかのさまざま「世論調査」らしき電話を受けるようになったが、私自身、警戒心の方が強く切ってしまうので、回答者が世論を反映しているかな、と思ってしまう。かつて、新聞社の文書による世論調査を受けたことがあり、その時はもの珍しさもあって、じっくり考えて記入したものである。

朝日新聞の見出しになっている賛成47%というのは、
・「高市首相は憲法改正を目指すことを明言しています。高市政権のもとで憲法改正を実現することに、賛成ですか、反対ですか。」

  という設問の回答だったのである。正直、この質問には、私だったら回答できない。この設問の直前の二問の問い方とその回答も付してみた。

・「自民党は、憲法9条の1項と2項をそのままにして、新たに自衛隊の存在を明記する憲法改正案を提案しています。こうした9条の改正に賛成ですか、反対ですか。」賛成52%、反対40%
 賛成の理由:明記することで、海外活動がしやすくなる21%
   反対の理由:明記することで、自衛隊の海外活動拡大の恐れがある25%

・「いまの憲法を変える必要があると思いますか。変える必要はないと思いますか。」必要がある49%、必要はない44%

 これらの設問の幾つか前には、つぎのような設問もある。

・「以下は、憲法第9条の条文です。(条文略)憲法9条を変えるほうがよいと思いますか。変えないほうがよいと思いますか」 変えるほうがよい30%、変えないほうがよい63%

 9条に関しては、二つの設問があって、一つは、条文をあげて、1・2項の変更の有無を問うもの、一つは、その後に設けられていて、1・2項はそのままに、(3項として)自衛隊の明記の可否を問うものであった。回答から見えてくるのは、現行9条の「戦争の放棄」と「戦力及び交戦権の否認」はそのままに、自衛隊を明記するというのが大きな流れのように読み取ることができる。

以下の画像は、いずれも拡大て読めます。

20260503
朝日新聞2026年5月3日朝刊、「世論調査」結果の一部

 他の新聞、NHKを見てみよう。憲法改正という設問は共通しているが、毎日が高市首相在任中という条件を付けているが、憲法改正の賛成・反対はたしかに拮抗していると言える。読売とNHKは、改正賛成は、反対をかなり上回っている。もっとも、NHNの世論調査は、「どちらとも言えない」が賛成と同様38%を占めている。NHKの世論調査では、「どちらとも言えない」の選択肢を設けるのが「得意技?」と言ってもよい。ときには「どちらかと言えば賛成」「どちらかと言えば反対」の選択肢を設けることもある。今回は「どちらとも言えない」の選択肢によって、賛成、反対の差を広げたようにも思える。「どちらかと言えば・・・」の回答を用意していたら、賛成・反対の差は縮まるのではないか。

20260505_20260505113901

Nhk9

 朝日と読売は、今回、憲法改正問題だけでなく設問は多岐にわたっているのが、他と異なる所であり、憲法9条についても、両者は、同様である。「自衛隊明記」といういわば「加憲」に特化した設問もNHK以外は用意しているが、いずれも明記に賛成する方がかなり上回っていることがわかる。その理由を問うている朝日の結果によれば、明記賛成の理由で多いのが「海外での活動がしやすくなる」で、反対理由で多いのが「海外での活動が拡大する恐れがある」という真逆の理由であった。

 なお、読売は「今後、9条はどうあるべきか」の設問の回答の選択肢として、つぎの三つを用意していたが、その結果から、①+③を「改正しない」とカウントした。

①これまで通り解釈や運用で対応する43%
②解釈や運用で対応するのは限界なので改正する38%
③9条を厳密に守り、解釈や運用で対応しない12%

20260505
読売新聞2026年5月3日朝刊、「世論調査」結果の一部

 なお、今回調査の対象としなかったが、日本経済新聞の世論調査で「高市首相に優先的に処理してほしい課題」として、憲法改正は8つの選択肢の最下位で、11%に過ぎなかった。また、NHKの設問はいささか異なるが、今国会において、「憲法改正以外の課題を優先すべき」だとする回答が、52%も占めていた。

Photo_20260505110901
日本経済新聞デジタルニュース、2026年5月2日より

Photo_20260505110902
NHK2026年5月3日、
news7より

 世論調査自体は、その回収率からしても、どこか頼りないのだが、各社の結果を総体的にみると、要するに、国民の大半は、いま、憲法改正を望んではいないということではないか。なぜ、そんなに急ぐのか。「法の支配」と「自由と民主主義」を標榜する国のやることかと、不安は増すばかりである。

 

 

 

| | コメント (0)

2026年4月23日 (木)

「もう、時代は変わった」のか~殺傷能力のある武器の輸出が解禁された!

 落ちぶれて武器ありますの暖簾(のれん)出す
 (大阪府 小倉三歩 朝日川柳 朝日新聞 2026422日)

 これは、1976年5月の衆議院外務委員会で、永末英一委員(民社党)の「一体わが国として兵器貿易というものをどう見るのか」の質問に、宮澤喜一外務大臣の答弁「何がしかの外貨の黒字がかせげるといたしましても、わが国は兵器の輸出をして金をかせぐほど落ちぶれてはいないといいますか、もう少し高い理想を持った国として今後も続けていくべきなのであろう。」を踏まえての作ではないか。注1

注1)衆議院外務委員会8号1976年5月14日https://kokkai.ndl.go.jp/txt/107703968X00819760514
同上委員会における宮澤喜一外務大臣の答弁https://kokkai.ndl.go.jp/txt/107703968X00819760514/46

 4月22日の朝刊はいっせいに一面で、4月21日、午前中の閣議と持ち回りの9大臣による国家安全保障会議(NSC)で、「防衛装備移転三原則」「防衛装備移転三原則の運用方針」を改訂したことを報じている。今回の改訂により、これまで輸出できる装備品を「救難・輸送・警戒・監視・掃海」の5類型に限っていたものを殺傷能力のある武器の輸出が解禁されるのである。こんな大事なことを、閣議決定と、しかも持ち回りのNSCで決まって行くのだと思うと、やはり、おそろしい思いが先に立つ。「落ちぶれた」というより「壊れた」という衝撃であった。注2

注2)「防衛装備移転三原則」について(内閣官房)https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/bouei.html

 そんな状況の中で、1976年の宮澤外務大臣の答弁が、あらためて、各所で引用され始めた。たとえば、日本共産党は、今般の衆議院選挙における政策として「武器輸出」について、「1976年に当時の三木政権が表明した「武器輸出三原則」は、「国際紛争を助長しない」という「平和国家」としての理念にもとづき事実上武器輸出を全面禁止し、1981年には衆参両院本会議が同三原則の厳格な運用を求める決議を全会一致で可決しました。自民党政府のもとでも、これが日本の基本方針でした。」に続いて、宮澤の答弁を引用している。

 3月17日の参議院予算委員会で、西田実仁(公明党)委員は、宮澤の答弁を引用して「平和よりも一時的な経済利益を貪欲に追求する国であってよいのか」質問しているが「もう時代が変わった」と高市総理が答えている。

「東京新聞」も「かつて武器輸出を「全面禁止」した日本が、高市政権で「解禁」するまでの50年を振り返る」題し、「三木武夫内閣が1976年に事実上の全面禁輸に踏み切ってから半世紀。政府は段階的に緩和してきた武器輸出を解禁した」との方針転換を、1976年の宮澤答弁に対する高市総理は「もう時代が変わった」と正当化した、と報じた(2026年4月21日)。

 そもそも、武器輸出三原則は、1967年4月の佐藤栄作内閣による武器輸出禁止規定に由来する。共産圏諸国、国連決議により武器等の輸出が禁止されている国、国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けへの武器輸出を禁止することを内容とするもので、衆議院決算委員会において、華山親義(日本社会党)からの質問に対する答弁だったのである。注3

注3)衆議院決算委員会(1967年4月21日、佐藤栄作総理大臣の答弁)https://kokkai.ndl.go.jp/txt/105504103X00519670421/129

ともかく、自民党政権において、まがりなりにも受け継がれてきた「武器輸出三原則」は、「武器輸出」を「防衛装備移転」と言い替えて、2014年安倍晋三内閣によって大きく変質したのである。その後の経過は以下の表によくまとめられている。

Photo_20260423232101
殺傷能力ある武器の輸出可能に、政府が装備移転三原則の運用指針見直し(Reuters2026年4月21日)より

 今回改訂の「防衛装備移転三原則」について、高市首相は4月21日の記者会見で、武器輸出が全面的に解禁されることへの懸念を問われて、「安全保障環境の厳しさが増し、自国だけでは平和と安全を守ることができなくなった。防衛装備面でもお互いを支え合うパートナーが必要で、そのパートナーからの防衛装備品への期待も大きい」「ニーズに応えた防衛装備移転はパートナー国の防衛力向上、紛争発生を未然に防ぐ」ことにつながるという主旨の答弁がなされた。

 しかし、先に示した今回改訂の「三原則」の全文を読むと「防衛装備の海外への移転は、 特にインド太平洋地域における平和と安定のために、力による一方的な現状変更を抑止して、我が国にとって望ましい安全保障環境の創出」し、また「防衛装備の適切な海外移転は、いわば防衛力そのものと位置付けられる我が国の防衛生産・技術基盤の維持・強化、ひいては我が国の防衛力の向上に資する」ものであるとしている。さらに「継戦能力確保の重要性が増す中にあって、防衛装備移転の推進により、共通の装備品を運用する同志国等を増やし、強固な防衛産業を保持し、拡大することは、有事に必要な継戦能力を支える生産能力を国内で確保する上でも大きな意義」を強調している。

 会見での答弁では、「三原則」の内容の重大さは伝わらず、「東南アジアへの防衛装備品の輸出拡大、防衛産業の拡大」などには言及せず、スルーしている。近年の防衛費増額とともに、なりふり構わない「政府、(防衛装備品)売り込みに躍起」(毎日新聞 2026年4月22日)する姿には、「死の商人」という言葉がよぎる。私などは、「殺傷能力」「継戰能力」という言葉を聞くだけでも、自らの空襲体験、現在止むことのないロシアのウクライナ侵攻、アメリカのイラン爆撃、イスラエルとパレスチナ侵攻による死者と瓦礫の街を想起してしまう。

 さらに、軍備拡大による「抑止力」云々に至っては、日本におけるアメリカの基地の存在自体が、紛争のリスクや攻撃の標的になり得ることは、イランの周辺国のアメリカ基地爆撃を見ても明らかではないのか。3月13日のウオール・ストリート・ジャーナルの報道として、すでに中東には「米海軍第7艦隊に所属し、佐世保基地(長崎県)に配備されている強襲揚陸艦「トリポリ」と、キャンプ・ハンセン(沖縄県)の第31海兵遠征部隊」が派遣されているという(読売新聞 2026年3月14日)。

 「三原則」の閣議決定当日の4月21日の「NHKテレビニュース7」では、北海道・三陸沖地震、大分県陸上自衛隊基地での3人の死者を出した事故、アメリカ・イランの停戦協議とホルムス海峡封鎖の現況のつぎに、この「三原則」改訂の報道がなされた。そのねらいとして、①同盟国・同志国との防衛強化 ②防衛産業の育成と基盤強化 の二点をあげ、歯止め策を強調していた。これって政府広報では、の印象が強かった。

Photo_20260423234601

Photo_20260423235201

Img_3335

 

<参考>
●「武器輸出禁止三原則等」(外務省ホームページ)https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/arms/mine/sanngen.html

1.武器輸出三原則(1967.4.21) 
武器輸出三原則とは、次の三つの場合には武器輸出を認めないという政策をいう。
(1)共産圏諸国向けの場合
(2)国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向けの場合
(3)国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けの場合
[佐藤総理(当時)が衆院決算委(1967.4.21)における答弁で表明]
2. 武器輸出に関する政府統一見解(1976.2.27)
 「武器」の輸出については、平和国家としての我が国の立場から、それによって国際紛争等を助長することを回避するため、政府としては、従来から慎重に対処しており、今後とも、次の方針により処理するものとし、その輸出を促進することはしない。
(1)三原則対象地域については「武器」の輸出を認めない。
(2)三原則対象地域以外の地域については、憲法及び外国為替及び外国貿易管理法の精神にのっとり、「武器」の輸出を慎むものとする。
(3)武器製造関連設備の輸出については、「武器」に準じて取り扱うものとする。
[三木総理(当時)が衆院予算委(1976.2.27)における答弁において「武器輸出に関する政府統一見解」として表明]
(注)わが国の武器輸出政策として引用する場合、通常、「武器輸出三原則」(上記1.)と「武器輸出に関する政府統一見解」(上記2.)を総称して「武器輸出三原則等」と呼ぶことが多い。

●防衛装備移転三原則(201441日閣議決定)(内閣官房ホームページ)
https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/pdf/bouei1.pdf
 以下の項目に当てはまる場合には防衛装備の海外移転を認めない
①当該移転が我が国の締結した条約その他の国際約束に基づく義務に違反する場合
②当該移転が国連安保理の決議に基づく義務に違反する場合
③紛争当事国への移転となる場合

●武器輸出禁止三原則(1967421日衆議院決算委員会答弁)(国会会議録検索システム)https://kokkai.ndl.go.jp/txt/105504103X00519670421/129
佐藤内閣総理大臣 いま申しますように、防衛のために、また自国の自衛力整備のために使われるものならば差しつかえないのではないか、かように私は申しておるのであります。輸出貿易管理令で特に制限をして、こういう場合は送ってはならぬという場合があります。それはいま申し上げましたように、戦争をしている国、あるいはまた共産国向けの場合、あるいは国連決議により武器等の輸出の禁止がされている国向けの場合、それとただいま国際紛争中の当事国またはそのおそれのある国向け、こういうのは輸出してはならない。こういうことになっております。これは厳に慎んでそのとおりやるつもりであります。

 

| | コメント (0)

2026年1月21日 (水)

映画「戦雲」を見る。

 地元佐倉市内の二つの9条の会の共催で、「戦雲」(三上智恵監督 2024年)上映会が開かれた。佐倉市立美術館ホールは定員99人だが、チケットは売り切れで、断ることも多かったという。観客は圧倒的に高齢者が多いのが気がかりであった。もっとも、共催の9条の会自体の高齢化は止めようもない流れにあるので、仕方ないことなのかもしれない。

20260121

 映画は、日本の最西端の与那国島と石垣島、宮古島、沖縄本島において、自衛隊の基地が次々と建設され、戦闘を前提にしたミサイルや弾薬庫新設の過程で、それに抵抗する人々の姿を描くドキュメンタリーである。2016年から23年までの島の人々の生活と意思を丹念に追い続けた記録である。四島の動向が並行して語られるので、地名や人名がやや混乱することもあった。

 そんな中でも、とくに、与那国島の漁師「川田のおじい」川田一正さんと石垣島の「いのちと暮らしを守るオバーたちの会」の山里節子さんからのメッセージは強く心に残った。川田さんは、久部良(くぶら)のカジキ漁のベテランで島の競艇のような「ハーリー」という伝統行事の応援にも熱が入る、どちらかといえば保守的な人物として登場する。1937年生まれの山里さんは、石垣島出身で、戦争で家族4人を失い、戦後に習った英語を活かした職業などを経て、本土復帰後は、環境保護、平和運動を続けている。奄美大島、宮古島に続いて、石垣島にもミサイル基地計画が進み、住民と共に住民投票を求める署名運動が盛り上がったにもかかわらず、市議会は条例を変えてまでして無視をし、ミサイル基地の建設は始まり、2023年3月には、ミサイルの導入に至ってしまう。山里さんが、常に先頭に立って、張りのある声で訴える言葉と歌声は、説得力があるゆえ悲痛でもあり、映画全編を引き締めているようにも思われた。

 もちろん、四島で展開されている基地拡張反対運動には、より若い世代の、さまざまな職業の人々が諦めそうにもなりながら、悩みながらも声を上げ続けている活動も伝える。

 川田さんが自衛隊員に金網越しに、「戦争になったら、逃げるんだ」と呼びかけ、ミサイルを搬入する「道を開けてください」の警告に「平和の道を塞いでいるのはあなたたちじゃない」という山里さんの叫ぶ場面は忘れ難い。

 監督の三上さんは、アナウンサー出身で、1995年、琉球朝日放送移籍後は沖縄に移住、多くのテレビ番組の制作も手掛け、さらには映画監督として「標的の村」(2013年)「沖縄スパイ戦史」(2018年)などを監督、各種の賞を受賞している。

 この映画でもさまざまな手法を用い、与那国島の牧場の牛、宮古島のサトウキビ畑やヤギなどが画面に大写し、一瞬ほっと和ませる。また、与那国島の「ハーリー」に参加する自衛隊員とその子供のエピソードが添えられる。「川田のじいじ」が、カジキに襲われたときの怪我を乗り切り、巨大カジキを吊り上げ、大興奮で島に帰る映像で、映画は終わる。重いテーマを優しく突きつけられたような気がする。

 もうだいぶ前に見た、やはり沖縄をテーマにした、影山あさ子監督のニュースや映画の強烈さとは、少し違うのかなとも思った。

 

| | コメント (0)

2025年3月 9日 (日)

久しぶりに、地元の9条の会に参加しました~登戸研究所見学を思い起こす

 引っ越しの前後、数か月休んでいましたので、世話人の方たちとは久しぶりでした。会報の編集中で、2月にでかけた明治大学生田キャンパスにある登戸研究所資料館見学の感想集です。私は参加できませんでしたが、皆さんの関心の向けどころが違っていて、興味深かったです。「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」ニュース51号が楽しみです。

 以下は、2014年12月 明治大学平和教育登戸研究所資料館・NPO法人インテリジェンス研究所共催の「第9回防諜研究会」の講演会・ツアーに参加した折の感想です。当ブログの「明治大学生田キャンパス、「登戸研究所」跡を訪ねる(1)(2)(2014年12月23日)からの抜粋を再掲します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「陸軍の秘密戦における登戸研究所の役割―登戸研究所の軍事思想」山田朗(明治大学文学部教授、明治大学平和教育登戸研究所資料館館長)~とくに印象に残ったこと

登戸研究所の組織・沿革とその背景にある日本陸軍の軍事思想の特徴について話された。登戸研究所は、1937年11月、日中戦争の長期化に伴い、秘密戦(防諜・諜報・暴力・宣伝)の必要性が高まり、陸軍科学研究所登戸実験場として生田に設置された。その背景には、陸軍は銃砲弾重視の「火力主義」を物量不足から貫徹できず、歩兵による銃剣突撃重視の「白兵主義」が台頭、少数精鋭主義、攻勢主義、精神主義が強調されたが、これを補強する「補助手段」が必要となった。軍縮・経費節減から編み出される細菌兵器、敵国攪乱の毒ガス、謀略工作などを重視するようになった。1941年6月からは陸軍技術研究所の第九技術研究所と再編された。所長は、スタート当初よりかかわった篠田鐐中将があたる。その研究は、主なものだけでもつぎのように分かれていて、敷地11万坪、幹部所員約250人、民間人あわせて1000人以上が働いていた。

Gedc4368
予算・編成図、資料館の展示より


1)電波兵器(第一科)
2)風船爆弾(第一科)
3)特殊カメラやインク、毒物など諜報・謀略用品の開発(第二科)
4)対人、対動物、対植物の細菌兵器の開発(第二科
 5)経済謀略、戦費調達のための贋札づくり(第三科)


私にとっては、ほとんど初めて聞く内容だった。

2)の「風船爆弾」の風船作りについては、女学生などが勤労動員されていたことはよく聞くが、風船爆弾の機能や使われ方は、今回初めて知った。太平洋の偏西風を利用して生物兵器を搭載した風船をもってアメリカへの攻撃を計画していたが、毒ガスや生物兵器登載が国際的な使用禁止への流れの中で無理となり、爆弾を搭載して、1944年11月~1945年3月ごろまで約9300個の風船爆弾を放ったという。その内、着弾が確認できたのは361個だった。和紙とこんにゃく糊による風船は“牧歌的“にさえ思えてくるが、兵器の一部であったのである。詳しい記録や証言は少ないが、日本での放球時の爆発、アメリカでの不発弾の爆発で、それぞれ日米の犠牲者が出ている。


4)の「細菌兵器」について、思い起こすのは731(石井)部隊の医師たちの細菌などによる人体実験である。731部隊は、関東軍防疫給水部本部の研究機関の通称で、登戸研究所の研究との違いは、講師によれば、731は、野戦場における対人の兵器としての細菌研究で、登戸では、あくまでも敵国かく乱のための兵器としての生物兵器研究であったという。前者については、近年になって記録や証言、研究が多く、全貌が明らかになりつつあるが、登戸研究所については、その全貌が見えてこないという。両者とも関係者の責任、戦争犯罪に問われることがなかったのは、占領軍による研究成果の記録・情報取得を交換条件に関係者免罪が取引された結果であるとされている。


 もっとも驚いたのが、登戸研究所が「贋札づくり」の任務を担っていたことだった。国(軍隊)がニセ札を製造していたわけだから、登戸研究所の中でも「秘密の中の秘密」で、敗戦時にはほとんどの資料を焼却しているので、その実態が分からなかった。その後のわずかな証言から少しづつ明らかになってきたということだ。
  ニセ札製造とその流通の目的は何だったのか。1935年中華民国政府の蒋介石政権は米英の支援で統一通貨「法幣」を制定、浸透していたが、日本軍は物資不足・外貨不足のため長期戦を余儀なくされていた。そこで、日本軍は、ニセ札を大量に流通させてインフレを起こさせ、中国経済を混乱させること、ニセ札を使って現地の物資調達を容易にすることの二つを目的にニセ札製造に踏み切った。1939年から1945年までの間に、40億円相当(当時の日本の国家予算が200億)を発行したが、現実にはインフレは起こらなかった。このニセ札は、日本軍が発行していた「軍票」の信用がない中で、物資調達に重要な役割を果たした。製造には、巴川製紙や凸版印刷などの民間も協力させ、運搬は中野学校出身者らが担当したという。

  こうしてみると、戦争が、戦場での殺人行為を容認や競争をエスカレートさせるだけでなく、大量殺人やニセ札製造などという凶悪な犯罪行為を国家が推進していたことになる。「これが戦争というものなのだ」と納得する人間の愚かさを痛感させられる。これは、現代にも通じることで、情報収集やスパイ行為など一見頭脳的な行為にも思えることすら、CIAの情報収集や日本の公安警察に見るように、違法な国家犯罪を助長することにならないか。 


 登戸研究所資料館見学

 山田朗研究室の院生の方の案内で、資料館に向かう。キャンパスの北東の端で、登戸研究所第二科の実験棟の一つだった36号棟を改装して資料館にしたという。11万坪の敷地に40棟以上の建物が存在していたことになろう。明治大学は、敗戦後慶応大学などが借用中だったところ、1950年に、約5万坪を建物ごと購入している。1951年に明治大学農学部がこの地に移転し、80年代まではいろいろな建築物が残っていたらしい。資料館は、外観はきれいに塗装され、2010年4月から一般公開された。入口は小さく、廊下をはさんで両側に部屋が並ぶだけの構造である。36号棟は、第二科の「農作物を枯らす細菌兵器開発」実験を行っていた建物だった。どのへやにも大きな流し台が付いているのは、そのまま残されている。

  館内には5つの展示室が設けられ、第1室は沿革と組織、敷地、組織、予算などが戦局拡大と共に増大していく様子をパネルの図表で明らかにしていく。第2室は、研究所第一科が中心で開発した風船爆弾(ふ号兵器)関連の展示である。第二科は当初の電波兵器から風船爆弾開発に乗り換えたかのようで、1943年11月の風船爆弾試射実験で目途がつき、1944年11月からアメリカ本土攻撃が始まるのである。第3室は、第二科の生物兵器、毒物兵器、スパイ機材などの開発の分担組織や実態を少ない資料から浮き彫りしようというものだった。第4室では、ニセ札の製造・製版・印刷・古札仕上げ・梱包・運搬・流通の過程とニセ札以外に旅券やニセのインドルピーや米ドルなどの製造にまで及んだという。

Edc4374
2014年12月23日撮影、「偽札はどうつくられたのか」。拡大してみてください。

  第5室の敗戦と登戸研究所についての展示に、私は多くの示唆を得た。闇に葬られようとした登戸研究所を歴史研究の対象の俎上に載せたのは、研究者でもなくジャーナリストでもなく、地元川崎市の市民地域学習活動の一環だったし、法政二高と長野県赤穂高校の生徒たちによる地域の歴史調査活動から始まったのだった。それまで口を閉ざしていた関係者や地元市民らが語り始め、資料を持ち寄り始めたのである。中でも元幹部所員の伴繁雄氏は、高校生との交流の中で、初めて、その体験を語り始めたそうだ。そうした活動の成果としてつぎのような本が刊行されるに及んだのである。

・川崎市中原平和教育学級編『私の街から見えた 謀略秘密基地登戸研究所の謎を追う』(教育史料出版会 1989年)
・赤穂高校平和ゼミナール・法政二高平和研究会「高校生が追う陸軍登戸研究所」(教育史料出版会1991年)
・伴繁雄『陸軍登戸研究所の真実』(芙蓉書房 2001年)

 向かって左の五号棟はニセ札の印刷工場として使用。2011年2月に解体され、 右の二十六号棟は、ニセ札の保管倉庫として使用、2009年7月に解体されてしまった。  
 

 キャンパス正門の守衛室うらの動物慰霊碑。1943年3月建立、その存在は登戸研究所で働く人にも 知られていなかった。現在も、農学部での動物慰霊碑にもなっていて、毎年ここで慰霊祭が行われている。近くに、民家も迫っている

Photo_20250309222801
2024年12月23日撮影、動物慰霊碑

 資料館の見学の後は、上記のように登戸研究所の痕跡をたどった。遺された史跡、遺すよう努力された明治大学の研究者はじめ多くの方々には敬意を表したい。ここで、どうしても思い起こすのは、ドイツが国として取り組んでいる戦跡・記録保存の努力である。少し前のドイツ紀行の記事でも触れたように、たとえば、ベルリン郊外のザクセンハウゼン強制収容所は、一部を博物館にして、広大な敷地に残る建築物こそ少ないが、更地にした上で収容棟の配置を明確に残している。ベルリン市内の陸軍最高司令部跡にはドイツ抵抗運動博物館を置き、ライプチヒの国家保安省跡にルンデ・エッケ記念博物館を設置している。ホローコースト追悼記念碑やロマ・シンティ追悼記念碑をベルリンの国会議事堂・ブランデンブルグ門直近の一等地に設置している。日本との違いをどう見るべきか。

 

| | コメント (0)

2024年10月28日 (月)

ショウほど素敵なものはない?政府が決める文化勲章なのに

 投票日が27日に迫った、10月25日、政府は、文化功労者20人と文化勲章受章者7人を決定、発表した。受章者を誰が選ぶのかといえば、政府なのだ。「選ぶ」の主語は政府なのだが、主語なしで「今年の文化勲章は、・・・〇〇さんら7人、文化功労者には・・・〇〇さんらの20人が選ばれた」と報じたのは朝日新聞である(11月26日朝刊、35頁)。手元の「毎日」は「政府は・・・文化勲章を・・・の7氏に贈ることを決めた」(10月26日朝刊 23頁)と「東京」は、「政府は、・・・〇〇氏ら7人に贈ると決めた」(10月26日朝刊 4頁)とある。選挙報道でざわついていたメディアだが、すでに著名な受章者たちの幾人かのよろこびの声も併せて報道している。ことしは、文化功労者の草笛光子、文化勲章のちばてつやへの注目度が高かったようである。11月3日の文化の日、皇居での授章式後の記念撮影には、緊張した姿が報じられて来た。中には、日常の言動とうらはらに、ひたすらありがたがる受章者もいたりする。

Img088

 私は、これまで、このブログをはじめ、いろいろな場所で話したり書いたりしてきたことなのだが、文化勲章は文化功労者の中から、多くは数年後に受章することが多い。文化功労者や文化勲章のような国家的褒章制度において、受章者がどのように選定されたかを問題にしないで、その受章の結果ばかりが独り歩きすることに危惧を抱いている。というのも、文化功労者を選考にあたって、文科大臣は文化功労者選考分科会に諮問の上、文科大臣が決定することになっている。その選考分科会の委員は文科大臣が学識経験者から任命する。要するに、文科大臣から選考を投げられている選考分科会の委員は、文科大臣任命なのだから、いわば、文科大臣の意向が最重要視されていることになる。

  さらに、驚くことは、文化功労者選考分科会の委員は9月初めに任命され、会議はたった一日しか開かないそうだから、そこで文化功労者と文化勲章の授章者が決まるというのである。文化勲章については、文化功労者選考分科会委員の全員の意見を聞くという手続きが加わるが、その後は、文科大臣の推薦、内閣賞勲局の審査を経て閣議決定される。選考分科会委員に任命された人が、いくら優秀な学識経験者としても、選考はまずムリ筋の話ではないか。

  ということは、文科省サイドから提出された受章者候補者を承認するしかないのではないか。そして、元文科省次官であった前川喜平のつぎのような発言などと考え合わせると、文科大臣の選考分科会委員の任命にすら首相官邸の横やりが入っているというのだから、さもありなんという推測は、現実となって驚きもしたのである。
  つまり、朝日新聞デジタルの記事「前川喜平元次官が語る官邸人事・不当と違法の分かれ目は」(2020年10月28日)によれば、文科大臣が任命するはずの分科会メンバーなのだが、前川さんが文科省次官のとき、文化功労者選考分科会委員10人のリストを杉田和博官房副長官のところは持っていくと、「この2名を外せ、政権批判をメデイアでしていた、こんな人を選んじゃダメ、ちゃんと調べてくるように」と差し替えさせられたという。

  10人の文化功労者選考分科会委員は毎年9月上旬に任命されるが、どういう訳か、官報での氏名公表は10月末日のようである。受章者の決定・報道後にしか、選考分科会委員の氏名が公表されないことは、何を意味するのか。今年の選考分科会委員の氏名は、まだ官報には載っていない。

  そんなふうに、時の政府により、恣意的に、閉鎖的に決まっていく受章者を華々しく報じ、受章者のよろこびの声と晴れがましい姿を報じるメディアの変わらぬ姿勢には、疑問を抱かざるを得ない。

 ショウ(章・賞)ほど素敵なものはない、ということなのか。

 

 

| | コメント (0)

2024年9月22日 (日)

津田沼九条の会との交流会に参加しました~共通の課題とこれから

 今日9月22日、私が参加している「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」と「津田沼九条の会」の交流会に参加しました。津田沼の会が佐倉市内の個人的な施設「平和博物館」見学の折、交流会が持てないかの申し出を受け、実現しました。津田沼の会からは7人、私たちの会からは6人と、かなり賑やかな会となりました。こうした形での交流会は初めてでした。

 それぞれの会の代表から会の成り立ちや活動状況が報告された後、自己紹介により、会での役割分担、各自の思いや今後について語り合いました。ともに2006年発足ということも分かりました。

 各自の憲法9条をまもりたいという強い思いは共通していました。さらに、会員の高齢化という現実に直面していることも、共通の課題のようでした。津田沼の会も、かつては、習志野市内の4つの九条の会があり、合同で活動することもあったけれど、他は現在休眠状態であるとのこと。佐倉市においても「佐倉九条の会」はじめ複数の団体が活動していた時期もあったけれど、現在は私たちの会だけになってしまった状況は、拭いようもない現実であって、全国の九条の会共通の悩みではないかとも。

 津田沼の会では、毎月、A4一枚のニュースを発行し、会員100名に届けていること、毎月3日には、スタンディング活動を欠かさず実施し、毎年12月には「守ろう!平和!実行委員会」主催として、大きなイベントを実施しているのが頼もしい限りでした。

 佐倉の会からは、ニュースは次回で50号を迎え、その準備中であること。ニュースは、会員により、戸別配布しているが、最盛期とは違って1000部どまりになることも。また、佐倉市内四つの県立高校の登校時に、順次、毎年2校程度、チラシやニュースの配布を続けていることは、独自の取り組みかも知れないと話題になりました。

 行政との関係では、私たちの会のニュースは、近辺のコミセンなどの公的施設に配置してきましたが、近年は、配置しない施設もあり、難しくなっていることが話題になると、津田沼の会のイベント主催の折なども苦慮されているとのことでありました。

 ともかく近隣の九条の会と話し合えたことは収穫でもありました。

  なお、私製の、かなり恣意的ながらA4、9枚になった「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」の活動年表を持ち帰っていただいたので、読んでいただき、感想など伺える日があればと思った次第です。

 

| | コメント (1)

2022年7月17日 (日)

忘れてはいけない、覚えているうちに(2)「告知版」というミニコミ誌があった

 茶封筒から出てきたのは、『告知版』というミニコミ誌304~322号((1997年9月~1999年3月)だった。影書房の庄幸司郎(1931~2000)さんを発行人とする毎号20頁に及ぶミニコミ誌である。
 309号(1998年2月)の巻頭言に当たる「寸言」によれば、1972年1月、庄建設(株)の広報紙としてわずか150部でスタートして26年余りで27400部に達したとある。庄建設関連の建築関連情報、影書房の出版情報、映画・ビデオ事業情報に加えて、「平和憲法(前文・第九条)を世界に拡げる会」「第九条の会」などのさまざまな運動や集会などでの「人的交流の結晶であり、本誌は、それらを通して一つの市民運動の”広報誌”に発展した」と振り返っている。

 編集部やゲストによる「寸言」を巻頭に掲げ、「もの言う広場」というさまざまな市民活動のかっちりした報告だったり、呼びかけだったりする論文が数本掲載されている。さらに充実しているのが「『告知版』への便り」と「便り」で、読者からの感想だったり、投稿者の出版・活動報告だったりするが、ほぼ省略なしで掲載されているようだった。「告知版=ネットワーク版」では、寄せられた全国の集会や講演会・学習会などの催事の予告がなされている。

 この『告知版』との縁を、いま思い起してみるが、あまりはっきりしない。実は、314号の「便り」の欄に、1998年4月3日付で拙文が掲載されていた。それによると、影書房出版の山田昭次『金子文子』(1996年12月)出版記念の講演会に参加してから、送っていただくようになったらしい。ちょうどその頃、拙著『短歌に出会った女たち』(三一書房 1996年10月)を出したばかりで、金子文子についても一章を設けて書いていたものだから、講演会にも参加したのだろう。また、1998年1月、地域の主婦たち4人で創刊したばかりのミニコミ誌『すてきなあなたへ』の第1号を編集部に送っていたらしく、その画像も紹介されていたのである。

Img331

Img332

  日本で、「九条の会」が発足したのは、2004年6月だったが、1991年、オハイオ大学教授のチャールズ・オーバービー教授(1926~2017)は「第九条の会USA」を立ち上げ、「日本の憲法第九条は全人類の宝」「九条を守る創造性のある多様な取り組みを」と提唱していた。オーバービー教授は、朝鮮戦争時、B29のパイロットだったことから、湾岸戦争をきっかけに、この運動を展開するようになったという。1998年10月には来日し、各地で講演会を開いている。これを全面的に支援したのが『告知版』だった。日本の「第九条の会」のスタートは、「九条の会」の十数年前にまでさかのぼることになる。手元にある『告知版』の「寸言」には、「日米新安保ガイドラインと有事立法に反対する百万人運動」の呼びかけ人として本島等(315号)、家永三郎(316号)、江尻美穂子(321号)、針生一郎(322号)らの熱いメッセージが続く。そんな雰囲気のミニコミ誌だったのである。 

 

Img334_20220718001901
1998年5月2日『朝日新聞』より。「平和憲法(前文・第九条)を世界に拡げる会」 の紹介記事も封筒から出てきた。新聞はかなり劣化していて「会員から寄せられるメッセージを整理する庄幸司郎さん」の写真がうまくスキャンできなかった。

 『告知版』の発行人であった庄幸司郎は、惜しくも2000年に他界、その後、『告知版』はどうなったのだろう。影書房は、未来社の編集者だった松本昌次(1927~2019)が1983年に創業した出版社である。庄は、松本が都立夜間高校の教師であった時代の大工として働く生徒であったという(松本昌次「庄幸司郎」『戦後出版と編集者』 一葉社 2001年9月)。『告知版』は二人の友情の結晶でもあったミニコミ誌だったと言えよう。

 なお、松本昌次のお別れ会に参加した時の記事に以下がある。

2019年4月9日
「松本昌次さんを語る会」に参加、その前に「東京都戦没者霊苑」へ: 内野光子のブログ (cocolog-nifty.com) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/04/post-1208.html

 

| | コメント (0)

2020年2月10日 (月)

僕の前に道はないのか~アテにならない人たち、高村光太郎を手掛かりに

   地元の9条の会、「憲法9条をまもりたい会」のニュース40号(2020年2月)が出来ました。2006年7月、佐倉市の志津地区の有志14人で発足し、ほそぼそと活動を続けています。ニュースもようやく40号になりました。この間、講演会、映画会、駅頭宣伝、戦跡見学なども重ねてきましたが、もう一つ続けていることがあります。佐倉市内の4つの県立高校の校門前で、登校時のチラシ配布があります。すでに5巡目に入りました。チラシ配布にあたっては事前に高校側に挨拶に出かけ、主旨を説明し了解を得ています。しかし、年々、高校側からの確認や注文が多くなってきているのも事実です。40号の巻頭にはそんな会員の嘆きやつぶやきが語られています。現在の憲法のことを一番知ってもらいたい高校生たちへ、どうしたら私たちの思いが伝わるのか、毎回、チラシの内容は極力身近な問題を、レイアウト、おまけのしおりなどを挟んで工夫しているつもりなのですが、実際のところどうなのでしょうか。

 今回、私は、国語の教科書でもおなじみの高村光太郎のことを、改めて書いてみました。これまでも、昨年来、雑誌『季論21』やこのブログでも、くどいように書いてきました。その要旨たる部分を、寄稿したのが以下の文章です。

***********************************************

僕の前に道はない/僕の後ろに道はできる/ああ、自然よ/父よ・・・

 国語の教科書で、この詩と出会い、声に出して朗読しているときの心地良さがよみがえる人も多いのではないか。高村光太郎の「道程」と題する詩である。 

智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。・・・

   高度経済成長期の公害問題が深刻化する中で、しきりに引用されたこのフレーズは、『智恵子抄』の「あどけない話」であったことを私も後で知った。
 この詩人高村光太郎〈1883~1956〉は、1941年12月8日、太平洋戦争開戦の二日後には、「十二月八日」と題して詩を作り、翌一月号の『婦人朝日』に発表した。

記憶せよ、十二月八日。/この日世界の歴史あらたまる。/アングロ・サクソンの主権、/この日東亜の陸と海とに否定さる。・・・

 また、1945年4月、東京の自宅を空襲で失い、8月15日、疎開先の花巻市郊外で「玉音放送」を聴いた光太郎は「一億の號泣」と題して、8月17日の『朝日新聞』に寄稿している。

綸言一たび出でて一億號泣す。/昭和二十年八月十五日正午、/・・・/玉音(ぎょくいん)の低きとどろきに五體をうたる。/五體わななきとどめあへず。/玉音ひびき終りて又音なし。/この時無聲の號泣國土に起り、/普天の一億ひとしく/究極に向つてひれ伏せるを知る。・・・

 太平洋戦争下、光太郎は、「シンガポール陥落」(1942年2月)、「アッツ島玉砕」(1943年5月)、「米軍の沖縄本島上陸」(1945年4月)との「大本営発表」があれば、即座に、新聞社やNHKの要請に応えた。ラジオは「愛国詩」の朗読を流し、新聞や雑誌は競うように光太郎の詩を載せ、国民の士気をあおり、愛国心を駆り立てた。「婦人」や「少国民」向けの雑誌にもよく登場した。ラジオで最も多く繰り返し放送されたのは、「最低にして最高の道」(『家の光』1940年9月)であったという。

もう止そう。/ちいひさな利欲とちひさなと不平と、/ちひさなぐちとちひさあ怒りと、/さういふうるさいけちなものは、/ああ、きれいにもう止そう。・・・

 また、「今上陛下指したまふところ、/われらよろこびおもむくなり、/あきらけきかな、おおいなるかなけふの賀節(よきひ)」(「ことほぎの詞」1942年2月)、「一切を超えて高きもの、/一切を超えて聖なるもの、/金色の菊花御紋章。」(「海軍魂を詠ず」1943年5月)などのように、神州の国を、天皇を、うたい上げ続け、日本文学報国会における詩歌部会長という要職も務めた。

 ところが、光太郎は、敗戦後も、疎開地の山小屋に留まり、「暗愚小傳」と名付けた20篇の詩を『展望』(1947年7月)に一挙発表すると、これらの作品は、戦時下の自らの活動を反省し、戦争責任を引き受けたとして、その潔い深い「自省」を高く評価された。しかし、山小屋生活といえども、多くの地元の人々や知人や東京の編集者らに支えられての暮らしであった。1946年2月、預金封鎖と新円切り替えがなされ、財産税が光太郎にもふりかかる。東京の弟との手紙で、光太郎の預貯金は5万6000円、亡父高村光雲の家が10万円と査定されたことがわかる。それがどれほどのものか。ちなみに私の父が残していた「国債貯金通帳」によれば1945年4月の空襲直後疎開先の銀行で便宜代払いを受けたのが200円と136円で残高ゼロとなっていた。その一方で、新しい「国債貯金通帳」と「報国貯金通帳」にも10円、2円の単位で貯金していた。父は、空襲で借家の店を失うまで、池袋で薬屋を営み、一家5人を支えていた。光太郎の山小屋生活といっても、私たちの疎開先や焼け跡のバラックでの暮らしの困難さ、家族を失った者の悲しみを想像できただろうか。 
 光太郎は、やがて、東京に戻り、彫刻を再開、十和田湖畔に立つ「乙女の像」の作成にあたる。その晩年には、つぎのような詩を発表する。唯一の被爆国にあって、1954年「第五福竜丸」の被爆体験、日本学術会議の原子力研究の自主・民主・公開の三原則声明、水爆禁止署名運動などが続く中で、光太郎は、つぎのフレーズで終わる「新しい天の火」(『読売新聞』1955年元旦)を発表した。

新年初頭の雲間にひかる/この原始爆発大火団の万能を捕へよ。/その光いまこのドームに注ぐ。/新しい天の火の如きもの/この議事堂を打て。/清められた新しき力ここにとどろけ。

 また、光太郎最晩年の「生命の大河」(『読売新聞』1956年1月1日)には、つぎのような一連があった。この発表の直前12月16日には原子力基本法など関連三法が成立し、まさに新年一月一日に施行している。発足した原子力委員会の初代委員長が『読売新聞』社主正力松太郎であったのである。

放射能の克服と/放射能の善用とに/科学は万全をかける。/原子力の解放は
やがて人類の一切を変へ/想像しがたい生活図の世紀が来る。

 ときの政府を支え、メデイアへの要請に応え、いとも簡単に「原子力平和利用神話」へとなだれ込んで行く。あの敗戦後の「自省」は何であったのか。この詩人の在りようは、現代の文化人や有識者の作品や発言と決して無縁ではない。引退した保守政治家や退職後の高級官僚がにわかに饒舌になったり、役職や勲章がちらつき、メディアの出番が多くなったと思ったら、いつの間にか発言がトーンダウンしたりする人がなんと多いことか。イチローよ、国民栄誉賞は、もらってくれるな?!

Img399

| | コメント (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

24時間営業 CIA NHK TPP すてきなあなたへ アメリカ イギリス インターネット ウェブログ・ココログ関連 オランダ オリンピック オーストリア ジェンダー スイス ソ連邦・ロシア チェコ デンマーク ドイツ ニュース ノルウェー パソコン・インターネット フェルメール フランス ベルギー ボランティア ポーランド マイナンバー制度 マス・メディア マンション紛争 ミニコミ誌 ムハ ミュシャ ラジオ・テレビ放送 世論調査 住民自治会 佐倉市 医療 千葉市 千葉県 原子力 原発事故 古関裕而 台湾 台湾万葉集 吉野作造 喫茶店 図書館 国民投票法案 土地区画整理事業 地方自治 地震_ 大店法 天皇制 女性史 寄付・募金 年金制度 憲法 憲法9条 成田市 戦争 戦後短歌 教科書 教育 文化・芸術 旅行・地域 旅行・文化 日本の近現代史 日記・コラム・つぶやき 映画 映画・テレビ 書籍・雑誌 朗読 東京大空襲 東日本大震災 栄典制度 横浜 歌会始 池袋 沖縄 消費税 災害 災害_ 特定秘密保護法 環境問題_ 生協活動 短歌 社会福祉協議会 社会詠 福祉 租税 紙芝居 経済・政治・国際 美術 美術展 航空機騒音 薬品・薬局 表現の自由 裁判・司法制度 規制緩和 趣味 農業 近代文学 道路行政 選挙 都市計画 集団的自衛権 韓国・朝鮮 音楽 高村光太郎