2020年10月19日 (月)

「エール」で「NHKはウソをつきません」というセリフがありましたが ~「NHK森下経営委員長の義務違反の究明を求める」請願書を国会に提出へ

 朝ドラ「エール」は急展開の上、先週、敗戦後になりました。10月16日放送で「鐘の鳴る丘」の作者、菊田一夫と思われる人物とNHK職員との会話で、職員が「NHKですからウソをつきません」とのセリフが飛び出した。これって、その演出も、まさしく自虐ネタと思われるフシがあった。スポニチもウェブで流していたが。というのも・・・。   

 放送法では、個別の番組には介入してはいけないはずのNHK経営委員会が、かんぽ生命保険の不正販売を報じた番組に対して、当時の上田NHK会長に「厳重注意」をしたこと、その経緯を示す経営委員会の議事録を公開しないことについて、多くの視聴者やメディアから批判されているにも関わらず、頬かむりのまま動かない。

 表題のような「請願書」を国会に提出するのを期して、以下のような集会が開かれます。この時期に、一見、地味に見える請願であり、集会でありますが、表現の自由を侵す重大な問題なので、国会でも十分究明して欲しいということで、衆参両院に請願書を提出することになったそうです。全国で40名近い世話人の努力で請願者は2200人を超えています。私も請願者の一人に加わりました。

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       請願書提出にあたっての院内集会 

日 時:  2020年10月26日(月) 16時~17時30分(予定)
会 場:  衆議院第二議員会館 多目的会議室(1階) 

世話人会からの出席者:
岩崎貞明(「放送レポート」編集長) 
小田桐 誠(ジャーナリスト/大学講師)
小玉美意子(武蔵大学名誉教授) 
杉浦ひとみ(弁護士)
楚山大和(「日本の政治を監視する上尾市民の会」代表)

醍醐 聰(「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」共同代表)
長井 暁(NHK・OB/大学教員)
日巻直映(「郵政産業労働者ユニオン」中央執行委員長)|

 ご出席の衆参両院の紹介議員へ請願書を提出します。なお集会参加者は、ご自身の体調管理とマスク着用などの対策をお願いいたします。 

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2020年6月26日 (金)

びっくり仰天、ここまでやるか、NHK「エール」の番宣!

 古関裕而がモデルという、朝ドラ「エール」の“喜劇的”な展開には、驚いている。自伝や評伝ともかなり異なるストーリーになっているのは確かである。私の漫画歴は、「サザエさん」どまり、近くでは、雁屋さんの「美味しんぼ」や天皇制をテーマにした劇画を少しばかりかじった程度なので、最近の状況はわからない。「漫画的」といっては叱られるかもしれないが、幽霊が出没したり、役者が気の毒なるような誇張した振付けだったりで、もううんざりしているさなかだった。理由の詳細は知らないが、最初の脚本家が降板したのもわかるような気がする。

 その上、さらに驚いたというのは、「エール」の短い番組宣伝のスポット番組に登場した丸山明宏篇(現在は美輪明宏と改名しているらしい)と、かのデヴィ夫人篇だった。他にもあるのかもしれないが、とりあえず、私が6月21日、22日に見た二つの番組を紹介しよう。

 一つは、「長崎の鐘」の紹介で、あのキンキラキンの衣装で、自らの被爆体験と永井隆体験を通じて、丸山は、鎮魂の歌、平和を願う歌として高く評価した。歌「長崎の鐘」の成り立ちと永井隆については、当ブログでも、すでに触れたように、永井隆のエッセイが世に出た経緯やアメリカ、GHQの原爆投下、被爆状況の実態の隠ぺい対策を語らずに、永井隆にまつわる「悲しい美談」の増幅、サトウハチローの情緒的な歌詞に支えられた古関メロディーであったことを忘れてはならない。丸山の胸には、十字架のペンダントが光っていたが、永井の言葉に苦しみ続けた信者たちは、どう思うだろう。

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一つは、「愛国の花」の紹介で、どういうわけか、部屋いっぱいの胡蝶蘭の鉢を背に、現れたのがデヴィ夫人だった。インドネシアの大統領スカルノの第三夫人だったというタレントであることは知っているが、スカルノが愛したという「愛国の花」のインドネシア語訳を歌って見せた。インドネシアと日本との親交の証だという。「日本の国の花、さくら、インドネシアにはジャスミンという国の花があり、同じように花を愛でる気持ちでアジアは一つになる」という解説もする。

愛国の花 (1938年 福田正夫)

真白き富士の けだかさを/こころの強い 楯(たて)として
御国(みくに)につくす 女(おみな)等(ら)は/輝く御代の やま桜
地に咲き匂う 国の花  

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   そもそも「愛国の花」は上記に見るように、国のため、天皇のために尽くす銃後の女性たちを「花」にたとえた歌である。そして、1942年3月、日本軍がオランダ植民地だったインドネシアに侵攻、日本軍政下においては、オランダ語使用の禁止、インドネシア語を公用語としながら、日本語教育の一環として国民学校から大学では教科として、社会人には職場での実用日本語教育に力を入れた。その教育の手段の一つが日本の歌―童謡や戦時歌謡、軍歌であったのである。インドネシアの独立運動やナショナリズムの気運を利用する形で、指導者のスカルノらを取り込んだが、連合軍と闘う中で、多くの強制労働者ロームシャや犠牲者を出すことになる。このような背景を無視して、「愛国の花」にまつわる、日本とインドネシアのエピソードとして語らせる歴史認識は、戦時下のNHKと変わっていないのではないか。なお、知人からの情報によると、敗戦直後にスタートしたNHKの「婦人の時間」のテーマ曲が「愛国の花」のメロディだったそうである。

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  なお、この「愛国の花」は、現在でも、自衛隊のイベントや音楽祭、地域でのさまざまなイベントにおいて、陸海空の中央音楽隊はじめ、各地域での音楽隊による演奏が行われ、三宅由佳莉三等海曹、中川麻梨子海士長らによる歌唱が通常に行われているのが、you tube などで聞くことができる。イベントの司会者などからは、往年のヒット曲で、「現在も東南アジアの各地で愛唱されています」との紹介があるのみで、上記のような背景は語られることはない。

   ということは、戦時下の軍国主義や天皇制について、なんのわだかまりもなく、現在も歌い継いでいる、歌い継がせようとするメディアや自衛隊、それに異議を申し立てることもない人々、日本は変わってないのだな、だから、こんな体たらくの政権が倒れることもなく続いているのだとつくづく思う。

 

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2020年6月15日 (月)

ふたたび、60年前の6月15日

 1960年6月15日から60年、このブログでも何度か触れているが、特段政治には関心がないまま、学生だった私は、安保反対の集会やデモには、参加していた。共産党系の大学自治会の列に入ることもあったが、ひとりで当時主流派といわれた全学連の集会を覗いたりもしていたが、6月15日の国会議事堂南通用門での樺美智子死亡事件には衝撃を受けた。さらに、その二日後の6月17日の新聞一面に掲げられた、在京新聞社「七社共同宣言」の衝撃はさらに大きかった。60年後の今日の朝刊は休刊日である。あす、どれほどの記事が載るのだろうか。いまはもう、目の前のことに目を奪われているような記事やそれどころではない?とでも言いたげな論調の紙面やテレビではある。
 今、アメリカに端を発し、世界中で大きなうねりとなっている市民運動の中で、警官の黒人差別による死亡事件を思うとき、日本は、なんと平穏に「新しい日常」とやらに活字や映像が消費されていることだろう。ついこの間まで、改元だ、令和だ、オリンピックだ、果てはタレントの不倫だ・・そして、非常事態宣言・自粛だと騒々しく、「政治案件」は、とうに霞んでしまった。メディアは「共同宣言」を思い出すまでもなく、とっくに死んでしまったのだろうか。

 5月21日、画家の菊畑茂久馬さんの訃報に接し、1935年生まれと知った。短歌と天皇制に気づかせてくれた一人であった。まだなさりたいこともあったろうにと残念に思う。菊畑さんの<前衛美術>には触れたことはないながら、その著書『天皇の美術―近代思想と戦争画』(フィルムアート社 1979年)によって、戦争画や藤田嗣治への関心がより深まっていったのである。近年、再評価された炭鉱画の山本作兵衛の早くからの紹介者としても知られている。絵については全くの独学、九州を拠点にしていらしたということにも、私は惹かれていた。また、宮本武蔵から青木繁、香月泰男ら31人の画家の列伝風のエッセ集『絶筆―いのちの炎』(葦書房 1989年)の熱量にも圧倒されたのである。ご冥福を祈りたい。

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2020年6月 9日 (火)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(5)「公募歌」という国策とメディアの一体化

   古関裕而の作曲歴から、天皇関連というか、天皇とのかかわりをみてみよう。古関裕而が福島商業学校を卒業後、地元の川俣銀行に勤める傍ら、「御大典奉祝行進曲」を作曲している。1928年(昭和3年)11月10日、京都御所で行われたが、それに先立った5月27日福島公会堂で、この曲は演奏され、さらに式典後の11月、福島商業学校の「御大典奉祝音楽会」でも演奏された(⑥12~13頁)。1930年、内山金子と文通が実って結婚、上京、コロムビアの専属作曲家となって、翌年6月、「福島行進曲」(野村俊夫作詞)「福島小夜曲」(竹久夢二作詞)によりレコードデビューを果たし、縁あって早稲田大学応援歌の「紺碧の空」を作曲、レコード化もされたが、いずれもヒットしたわけではなかった。

  当時、レコード会社はいわゆる「時局歌謡」とも呼ぶべき、社会的な事件、大きな軍事行動や兵士の活躍の報道に連動した歌謡曲を、競うようにレコード化を進めた。古関もコロムビア専属作曲家として、1931年9月18日、柳条湖での関東軍による鉄道爆破で始まる「満州事変」をテーマに12月には「満州征旅の歌」(桜井忠温作詞)、1932年1月には「我らの満州」(西岡水朗作詞)、同年4月には、朝日新聞が歌詞を公募した一つ「肉弾三勇士の歌」(清水恒雄作詞)のレコードが発売されている。古関にとっての時局歌謡のスタートであったが、ヒットはしなかった。

 その後、作詞家の高橋掬太郎と組んだ「利根の舟唄」(1934年、松平晃)「船頭可愛いや」〈1935年、音丸〉がようやくヒットにこぎつける。ここで古関の作曲には、大きな三つの流れが出来上がってきたのではないか。一つは、スポーツ関連の愛唱歌ないし楽曲であり、一つは、「船頭可愛いや」を源流とするいわゆる歌謡曲であり、一つは「時局歌謡」ではなかったか。スポーツ関連では、1936年に「阪神タイガースの歌」(六甲おろしが)が発表されたが、以降は、戦局が厳しい中、もはやスポーツの応援歌どころではなくなっていく。

 やがて、戦前の「時局歌謡」が、大本営発表による戦局報道に基づく作詞に添っての作曲で成り立つ「戦時」歌謡一色になってゆく様相は、すでに、このシリーズ記事の2回目に概観している。

 軍事行動は、旧憲法下では、建前としてすべて統帥権を持つ「天皇の命令」であり、兵士たちの活動は、すべて「天皇のため」であったから、「戦時」歌謡の底流には、天皇制が厳として存在していたことはあきらかである。だから、作詞・作曲が軍部や情報局からの要請でなされていたことは、他の文芸、文化活動に対してと同様であったし、それに反する表現活動や行動は、法律上きびしく監視されていたし、取締まり対象となっていた。が、とくに「戦時」歌謡については、新聞社やNHKなどのメディアが企画、歌詞の公募という形をとるものも多くなった。(④櫻本富雄『歌と戦争』34~38頁、55~58頁)の公募歌のリストと「主な軍国歌謡・愛国歌謡の公募イベント」(中野敏男『詩歌と戦争』NHK出版 2012年、230頁)の二つのリストと、これまで紹介の文献を参考に、散見できる古関裕而の曲をまとめた。今回は、1941年12月8日の太平洋戦争が始まるまでをたどってみたい。それ以降は、次回としたい。

 一般に、「公募歌」とは、主として新聞社や雑誌社などが、国策のいわば旗振り役となって、国民の戦意高揚、士気を鼓舞する作詞を公募し、プロの作曲家に作曲を依頼、ラジオ放送やレコードによって、国民への浸透をはかるものであった。そうした公募歌にも、歌われもしないで沈んでしまうものもあったり、思いがけなく流行したり、前線や銃後における国民の間で定着するものも数多くあった。そして当然のことながら、それらの歌詞には、否が応でも「天皇への忠誠」をうたう文言の存在があった。そうした歌詞に添った作曲を続けた一人、古関裕而の記録である。次表は、その一部ではあるが、主なもものを一覧として、若干の背景を記してみた。

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上記の表をクリックすると拡大されます。

 

 「肉弾三勇士」は、1932年2月、上海の戦闘において自爆した三兵士の美談が報じられて、すぐに、朝日新聞社は歌詞を公募、入選作の三歌詞を、同時にコロムビアからレコード化した。後の二曲は、中野力作詞・山田耕筰作曲、渡部栄伍作詞・古賀政男作曲となった。また、東京日日・大阪毎日新聞社公募の入選作は、ふたを開けたら与謝野寛(鉄幹)の作で、「爆弾三勇士の歌」(陸軍戸山学校軍楽隊作曲)としてポリドール盤が発売されている。この二つの新聞社の応募歌詞数は、「朝日」が12万4500通、「毎日」が8万4000通を超えている。
 「露営の歌」は、1937年、東京日日・大阪毎日新聞の入選第1席は「進軍の歌」(本多信寿作詞/辻順治作曲/陸軍戸山学校軍楽隊)としてレコード化されたが、人気はむしろ、第2席の古関の作曲のものの方が高く、長く愛唱歌として残ったことになる。「勝って来るぞと勇ましく 誓つて故郷を出たからは 手柄立てずに死なれよか・・・」で始まるが、4番の「笑って死んだ戦友が 天皇陛下万歳と のこした声が忘らりょか」で終わる。1938年には、赤坂小梅ほかの女性歌手だけによるレコードも出されている。「進軍の歌」(佐々木康監督)も「露営の歌」(溝口健二監督)もともに前後して映画された。
 「愛国の花」は、NHKラジオの「国民歌謡」として1937年10月18日~23日まで放送された。レコードは翌年に発売され、1942年11月に公開の映画「愛国の花」(佐佐木啓祐監督)の主題歌となった。「真白き富士のけだかさを 心の強い楯として 御国につくす女等は かがやく御代の山ざくら 地の咲き匂う国の花」では始まり、「銃後」の女性に訴える内容になっている。
 
「国民歌謡」とは、1936年6月1日、大阪中央放送局から、第1回が放送され、「日本よい国」今中楓渓作詞/服部良一作曲、)/奥田良三)であった。この年、すでに、4月29日から前身の番組で、大木敦夫、佐藤惣之助、深尾須磨子らの抒情的な歌謡が放送されていたが、二・二六事件が起こり、阿部定事件という猟奇的な事件も起きる中、「忘れちゃいやよ」(最上洋作詞/細田義勝作曲/渡辺はま子)、「ああそれなのに」(星野貞志(サトウ・ハチロー別名)作詞/古賀政男作曲/美ち奴)などの歌が流行っていたさなか、歌謡曲浄化、家庭でみんなが歌える歌をというのが主旨だったか。1941年2月12日には、「国民歌謡」は「われらのうた」へと改称され、同時に「特別講演の時間」は「政府の時間」へ、「戦況日報」は「軍事報道」へと改称され、放送の軍事色は一層強化されることになる。その後のこの番組については次回に譲る。

 「婦人愛国の歌」は、1938年4月1日「国家総動員法」の公布を受けて、『主婦之友』4月号で菊池寛、西條八十、瀬戸口藤吉、吉屋信子、松島慶三(海軍中佐)を選者として公募し、1万7828通の入選作の中から二等のものを古関が作曲した。内務省・文部省・陸軍省・海軍省・国防婦人会・愛国婦人会。国民精神総動員中央連盟が後援となっていた。歌詞の一番は次のようにはじまるが、四番は、「御稜威に勇む皇軍の 銃後を守るわたしたち その栄光に日本の 婦人は強く立ちました」であった。作者は22歳の主婦だった。

抱いた坊やのちさい手に 手を持ち添へて出征の 
あなたに振つた紙の旗  その旗かげで日本の
妻の覚悟は出来ました

 なお、一等の上條操作詞の一番は「皇御国の日の本に 女と生まれおひ立ちし 乙女は妻は母は みな一すじ丈夫の 銃後を守り花と咲く」というもので、28歳の保母であった。歌詞の硬軟?によって、作曲者を選んだものか、一等入選作の作曲は、選者でもあった「軍艦マーチ」(1900年)、「愛国行進曲」(1937年)で著名な、元海軍軍楽隊のベテラン瀬戸口であった。

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『主婦之友』1938年6月号の「婦人愛国の歌」当選発表の記事

 

 「銃後県民の歌」は、1939年、福島民報社が懸賞募集をした当選作で、同社は、併せて「郷土部隊進軍歌」(野村俊夫作詞/霧島昇)もレコード化した。古関の地元、福島への思いを込めた曲であったろうが、彼の場合は、依頼があれば、どこへでも、その「ご当地ソング」を作り続けたし、社歌、校歌、団体歌は数限りないことは前述の通りである。 
 「満州鉄道唱歌」(藤晃太郎作詞/霧島昇・松原操・松平晃)は、1939年3月、満鉄鉄道総局旅客課企画公募、満州新聞社後援。古関は、1939年7月に選者・作曲者として満州旅行に出かけているが、まさに満蒙国境では日ソ軍の激闘が続くノモンハン事件のさなかであった。
 
「暁に祈る」は、「露営の歌」と並ぶ戦前の古関のヒット曲で、テーマが「馬」でありながら、馬を伴う兵士の死と向かう歌詞が身近にも思われたのだろうか、愛唱歌となったという。 40年4月公開の映画「征戦愛馬譜 暁に祈る」(松竹 佐佐木康監督)の主題歌となった。 
 
「嗚呼北白川宮殿下」は、「国民歌謡」として、1940年12月9日~13日まで放送されたが、これに先だって、40年11月17日華族会館で発表会が行われている。ここで歌われている北白川永久は、40年9月4日、軍務で滞在していた上海の飛行場で事故死したが、戦死として大きく報道された。作詞の二荒は、永久の大叔父にあたるという。
 
「海の進軍」は、読売新聞社が海軍省、情報局、大政翼賛会の後援で「海国魂の歌」と題して公募している。「菊の御紋のかげ映す固い守りの太平洋・・・」「御稜威かがやく大空に・・・」の文言とともに「進む皇国の海軍の晴れの姿に栄あれ」で結ばれている。

 なお、公募歌ではないが、1937年、38年、39年の宮中歌会始の御題、それぞれ「田家雪(でんかのゆき)」「神苑朝(しんえんのあした)」「朝暘映島(ちょうようしまにうつる)」と題し、西條八十作詞の曲も作られていたことも記憶にとどめておきたい。ストレートな天皇制への傾斜とともに、歌会始における題詠による短歌とテーマを与えられて作詞・作曲をする歌謡曲とに共通する限界が見いだされるのではないか。

 今回の作業には、下記の国立国会図書館の「歴史的音源」のリストと辻田真佐憲による紹介も参考にした。

国立国会図書館歴史的音源<古関裕而>(386件)
https://rekion.dl.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E5%8F%A4%E9%96%A2%E8%A3%95%E8%80%8C&viewRestricted=1

辻田真佐憲「商品だった<時局歌謡>」https://rekion.dl.ndl.go.jp/ja/ongen_shoukai_15.html

(続く

 

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2020年6月 4日 (木)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝どれ「エール」は戦時歌謡をどう描くのっか(4)誰にでもエールを送る人は

   私の育った家は、スポーツとはほぼ無縁だったといっていい。観戦したり、ラジオやテレビを視聴したりする習慣はほとんどなかった。休業日もなく、両親や長兄は店で働いていたし、スポーツは別世界のことに思えた。1964年の東京五輪の際も、およそどの種目も勝敗はどうでもよかったし、日の丸が掲げられるのを見るのも好きではなかった。私たちの世代は、小中高校の行事で国旗掲揚や君が代斉唱はなかったし、「道徳」の時間もなかった時代の教育を受けている。日の丸も君が代も、好きではないというより、いまでは嫌悪感を覚える。もし、スポーツでの勝負や記録を競うなら、チームや選手個人が単位であって、なぜ国を挙げて戦わねばならないのか。大きい国もあるし小さい国もある。日の丸を背負うとか、いい色のメダルを目指すとかいう選手のコメントを聞いていると、二位ではダメなの?と問いたくなり、健全なスポーツ精神とがなかなか結びつかない。チームに外国人はいるし、海外で指導を受けたり練習したりする選手も多いし、選手の出自も多様となった現代、スポーツにとって<国>はどれほど意味があるのだろうか。
 だから、私は、今回の東京五輪招致には反対であったし、ほかにやることが先にあるだろう、という思いだった。原発事故被害が懸念される中、安倍首相は、IOCのプレゼンで<アンダーコントロール>されているとウソを述べたことに始まり、新国立競技場の設計コンペの予算オーバーでのやり直し、入選エンブレム盗作疑惑によるやり直し、幹部の招致汚職疑惑などJOCの不祥事が続き、いくつかのスポーツ団体での暴力事件やパワハラ疑惑なども問題となった。いずれも、中途半端な収束が続いた。そして、今回の新型コロナウイルス感染拡大による「2020年東京オリンピック」の一年延期である。首相がいう「新型コロナウイルスに打ち勝った証として」の開催も、もはや不可能なのではないか。 

 前置きが長くなったが、古関裕而は、いわば作曲家としてクローズアップされた、早稲田大学の応援歌「紺碧の空」(住治男作詞 1931年)に始まり、戦前・戦後を通して、スポーツ音楽、校歌、社歌など、選手、児童・生徒・学生、働く人たちを応援する作曲を数多く手掛けている。NHKの「エール」という題名も、ここに由来するのだろう。ここでは、スポーツ音楽に限ってたどってみよう。「日米野球行進曲」(久米正雄作詞 読売新聞社主催日米野球開催に際して米チーム歓迎の曲/コロンビア合唱団)に続き、主なものをあげてみる。この表の作成が、案外厄介で、⑤⑥の「作曲一覧」で、不明なものは、他の情報で補った個所もある。解説はあっても発表年やレコード発売年月の記述がないもの、歌い手、演奏者が不明なものもある。間違いがあればご教示いただきたい。
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 スポーツ関連の楽曲は数多いが、上記の表で見るように、早稲田大学のと慶應義塾大学の応援歌を共に引き受け、巨人ジャイアンツ、阪神タイガース、中日ドラゴンズの応援歌を共に引き受けている点で、依頼があれば拒まず、といった姿勢である。大学の応援歌は、他にも明治大学、中央大学、東京農業大学、名城大学などがある。校歌・社歌はじめ団体歌も自衛隊、日本赤十字社、仏教、新興宗教に至るまで、さまざまなのである。誰にでも、どこへでも、エールを送る人は、「いい人」なのだろうか。

今回の作業のさなかに注文をしておいた次の本が手に入った。

⑦辻田真佐憲『古関裕而の昭和史 国民を背負った作曲家』 文芸春秋 2020年3月

 この著者の本は、初めてなのだが、少し前に、ネット上で見つけたいくつかのエッセイなどは、時期を得た、鋭い指摘と知見には関心を寄せていた。かなりマニアックなほどの資料探索は、若い人には珍しいとも思っていた。とくに、1964年の東京オリンピックについては、改めていろいろ知ることが多かった。そんなこともあって、この本では、古関裕而とスポーツ音楽をどうとらえているかには深い関心を寄せていたのだが、一冊を通読しての感想は、ずいぶんとマイルドな書きぶりになっていると、まず感じた。

<参考>辻田真佐憲執筆
<ジセダイ総研>

20160823 更新

オリンピックの熱狂と「転向」する文学者たち 2020年われわれは冷静でいられるか

20160721 更新

多くの国民が無関心だった? 1964年のオリンピックはこんなにもダメだった

 なお、Wezzyというwebマガジンのインタビュー〈2020年5月9日〉では、「『エール』では「軍歌の覇王」としてのエピソードをどのように描くと思われますか」については、古関にとって重要な「軍歌だけでなく、彼はアジア太平洋戦争下には、その日の戦果をすぐ歌にして放送する「ニュース歌謡」というジャンルの作曲も手がけています。そういった歌はNHKラジオで放送されていました。つまり、古関の軍歌にはNHKも深く関わっているわけですよね。ドラマで戦争とNHKの関係を全スルーというのは、やはり難しいと思います」とも、語っている。また、「メディアや芸術家が国策に丸乗りした結果、社会になにがもたらされるかということについて歴史には学ぶべき例がたくさんあるわけですが、古関の過去もそのひとつだ」とし、「生活のために日々のお金は稼がなくてはならないわけですけどそのなかで政治とどう距離を保っていくか。そのバランス感覚の問題ですよね。身につまされる話です」とも。

 また、本書の末尾で、古関が「流行歌のヒットメーカーになり、軍歌の覇王になり、そして大衆音楽のよろず屋となった」要素として、二つのねじれをあげている。一つは若い時からのクラシック願望による「芸術志向と商業主義のねじれ」であり、一つは「ノンポリゆえにかえってどんな政治的音楽でも自由自在に作れるというねじれ」であったとする。前者が多様な楽曲を生んだ要素となり得たかもしれないが、後者の「自由自在」とは、何なのだろう。私が言い換えるとすれば、表現する者の「無節操」「無責任」の極みにも取れてしまう。

 ⑦の著者も、⑥刑部『古関裕而』と同様、古関の遺族、古関裕而記念館、日本コロムビアからの資料提供を受けている。とくに遺族への取材や遺族から資料提供を受けている場合は、のちの書きぶりに大きな影響を与えるのはたしかで、それだけでも、客観性において、一つの限界があるように思うからだ。さらに、レコード業界などにも切り込んだデータや記述がある一方で、事実を羅列するのではなく、「物語性」も加味したというのでは、歴史、評伝もののドラマや、ドキュメンタリーにさえ、物語性を入れ込むNHKの手法にも与することになりはしないか。歴史を語るのには、物語性より、事実と資料による明快さが優先されるべきだろう。

 次回は、古関裕而及び新著2冊の著者と天皇制にかかわる部分に言及してみたい。(続く)


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上段は『川田正子・孝子愛唱曲全集』(海沼実撰曲、白眉社 1948年8月)には、41曲が収録されているが、「とんがり帽子」はない。下段は『日本童謡唱歌百曲集改訂版』(加藤省吾編 新興楽譜出版社 1950年11月)には、童謡80曲、文部省唱歌20曲が収められているが、ここにも1947年7月に始まった「鐘の鳴る丘」主題曲の「とんがり帽子」はなかった。前回記事の、歌謡曲集に収められていたということは、「童謡」としては認められていなかったようだ。その辺に何かの事情があったのだろうか。

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2020年5月31日 (日)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(3)

 古関裕而と菊田一夫の出会いに移る前に、近くの書店を回って、入手できた本について書いておきたい。
⑥刑部芳則『古関裕而―流行作曲家と激動の昭和』中央公論新社 2019年11月(2020年3月 3版)

 この本の執筆は、少年時代から古関裕而の大ファンであったことに加えて、NHK朝ドラ「エール」の放送企画が契機となり、古関裕而の遺族、古関裕而記念館学芸員、日本コロムビアなどの協力のもとに始めたと、著者は「あとがき」に記している。そして、「エール」の時代考証を担当することにもなったという。本のオビには「昭和の光と影を歩んだ作曲家の軌跡」とうたわれ、これまで見られなかった史料や既刊の関係雑誌文献や図書を駆使した労作である。同時に、古関への敬慕とオマージュが色濃い書でもあった。私が、まず着目したのは、巻末の「作曲一覧」で、レコード発売作品、映画音楽作品、舞台音楽作品の三つの編年体のリストで、それぞれ、発売年月日、封切り年月日、公演期間と現在の聴取手段が記されている貴重なデータであった。古関を語るには、基本的な資料であり、私の前回、前々回の当ブログ記事を書いている折の疑問が解けたものもあり、データの大切さを知った。

 その一つが、古関裕而記念館の「作曲一覧」で「比島沖の決戦」(西條八十作詞/酒井弘・朝倉春子)の発売年月が敗戦後の1945年12月となっていたことで、記念館に電話で問い合わせたところ、電話口の館長は「論理的におかしいですね。学芸員に伝えます」とのことだった。今回、⑥の「作曲一覧」を見ると、1945年2月20日となっていた。本文の記述によると、1944年12月17日に「比島決戦の歌」がラジオで発表され、以降、いくつかの歌番組で放送されていたが、実際にレコードが発売されたかは不明ともいう(⑥129頁)。これは、④の著者の記憶や推測とも一致する。なお、この「作曲一覧」によれば、1945年2月20日には、「フィリッピン沖の決戦」(藤浦洸作詞/伊藤武雄)も発売されていることになっていて、ラジオでは、1945年1月5日まで放送されていたという(⑥128頁)。また、この本について、は後にも触れることにする。

 さて、古関の生涯、作曲家としての仕事に大きな影響を与えた菊田一夫との出会いは、菊田の脚本によるNHKラジオドラマ「当世五人男」の音楽を担当することになった1937年が最初であったが、戦時下に途絶え、再会するのは、1945年10月28日から7回シリーズのNHKラジオドラマ「山から来た男」であった。そして、「鐘の鳴る丘」(1947年7月5日~1950年12月29日)、「さくらんぼ大将」(1951年1月4日~1952年3月31日)、「君の名は」(1952年4月10日~1954年4月8日)と続くのである。
 私が聴いていた記憶があるのは、前二つで、「君の名は」は、兄たちが「すれ違いだらけのメロドラマだよ」みたいなことを口にしていたのは覚えているが、母も店が忙しい時間帯でもあり、聴いていた姿の記憶はない。銭湯の女湯ががら空きになった、とかの宣伝文句も後に聞いたことはあった。営む店が「平和湯」という銭湯のはす向かいだったので、石鹸やへちま、軽石、アカスリなどのお風呂用品が普通に売れていたが、「がら空き」の件は、もちろん話題にもなっていなかったと思う。当時は、大人の洗髪料金を申し出により?番台で余分に払っていた時代ではなかったか。そもそも料金はいくらだったのかな、など思い出も尽きないのだが。
 当時のラジオ番組で、私が欠かさず聴いていたのは、「鐘の鳴る丘」と「おらあ、三太だ」で始まる「三太物語」(青木茂作)であったと思い、調べてみると、後者の放送期間は1950年4月30日から51年10月28日とあり、「鐘の鳴る丘」「さくらんぼ大将」と一部重なっていることがわかった。

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『全音歌謡傑作集』(全音楽譜出版社 1948年10月 45円)は、私が、建て替え前の実家の物置から持って出た、敗戦直後の数冊の流行歌集のなかで一番古いもの。いわゆる仙花紙なので、どこを触っても崩れそうな、補修もままならない。やや扇情的にも思える表紙絵のこの歌集に「とんがり帽子」が、載っていた。「とんがり帽子」は、レコードでもラジオドラマでも、川田正子が歌っていて、海沼実が指揮する「音羽ゆりかご会」の合唱が入っているはずなのだが、敗戦直後の何冊かの川田孝子・正子の愛唱歌集や童謡集にも、収録されていないのが不思議だったのだが。


 また、当時の記憶に残る番組は、いくつかあるが、7時のニュースの後に始まる「向こう三軒両隣り」(1947年7月1日~53年4月10日)、「朝の訪問」(1948年4月4日~64年4月5日)、「日曜娯楽版」(1947年10月12日~52年6月8日)、日曜の8時からの「音楽の泉」(1949年9月11日~、進行役の初代:堀内敬三)とたどってゆくときりがない。「日曜娯楽版」が、政府の圧力か、いまでいう、NHKの政府への「忖度」で終了したらしいと、次兄などが悔しがっていたのを思い出す。この件は、当時国会でも議論されていて、末尾の「敗戦とラジオ」の記事をご覧いただけたらと思う。

 古関と菊田との仕事の流れを見てみよう。1947年7月にラジオドラマ「鐘の鳴る丘」が始まる前に、菊田一夫の新国劇「長崎」の劇中で歌った歌が、映画「地獄の顔」で渡辺はま子が歌ったのが「雨のオランダ坂」(1947年1月)であり、それに続いたのが「とんがり帽子」だった。二人が映画やらラジオドラマに関係ない歌を作り出そうとできたのが「フランチェスカの鐘」(1949年3月)だった。サトー・ハチロー作詞「長崎の鐘」(1949年6月)、菊田との「イヨマンテの夜」(1950年1月)とヒット曲が続いた古関・菊田は、その後も、1952年に始まった「君の名は」および関連曲のレコードなど、1956年ころまでは、年に4~8曲は発売されるというブームが維持される。同時に、西條八十、サトウ・ハチローらのベテランの作詞家とともに、古関と同郷の野村俊夫、丘灯至夫(十四夫)とのコンビも多くなるとともに、映画音楽の仕事も1950年代の半ばから後半にかけて、年に5本から多いときは13本までに及びピークをなす。そして、菊田との仕事は、1956年から、東京宝塚劇場、梅田コマ劇場、芸術座などを中心に舞台音楽が多くなり、演目は、歴史もの、文芸作品から母物、剣豪もの、喜劇、ミュージカル、外国の翻案ものなど菊田の多種多様な舞台での名コンビぶりを発揮していたようだ。帝国劇場の「風と共に去りぬ」芸術座の「がめつい奴」「がしんたれ」などの大阪もの、「放浪記」などのロングランは、演劇界をにぎわしていたが、私は残念ながら、これらの舞台とは無縁ではあった。1973年、菊田一夫の死去に伴い、古関の舞台音楽も終わり、同時に、1960年代後半になると、テレビの普及、テレビドラマの台頭により、映画自体の流れも大きく変わり、斜陽産業といわれる時代に至り、古関の映画音楽も終息に向かった。

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『歌のアルバム』(全音楽譜出版社 1948年1月)は、12.5×9㎝の横長の小さな歌集で、最終頁に載せられた「雨のオランダ坂」と「夜更けの街」ともに古関・菊田のコンビだが、楽譜はない。左頁の端が切れているが、こんな製本ミスの本も25円で買ったということだろう。裏表紙に父のサインがある。

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同じ『歌のアルバム』から「フランチェスカの鐘」、これには楽譜がついている。どこを開いても崩れそうな・・・。 

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古関とサトウ・ハチローの「長崎の鐘」の歌詞はもっぱら長崎原爆投下の犠牲者の鎮魂をうたっているが、元になった、永井隆の『長崎の鐘』(1941年1月)は、GHQの検閲下、半分近くの頁を日本軍のマニラにおけるキリスト教徒虐殺の記録「マニラの悲劇」付録とするものであった。この著書はじめ、永井は「浦上への原爆投下による死者は神の祭壇に供えられた犠牲で、生き残った被爆者は苦しみを与えてくださったことに感謝しなければならない」と繰り返していた。原爆投下の責任を一切問うことをしていない。「長崎の原爆投下の責任について<神の懲罰>か<神の摂理>を考える」(2013年5月30日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/05/post-15f2.html
も併せてご覧ください


 なお、古関は、ドラマ以外にも、多くのラジオ番組のテーマ曲や主題歌を提供した。最初の農事番組といわれる「早起き鳥」(1948年4月1日~終了日?)の「おはよう、おはよう」で始まる歌やにぎやかなオープニングの「今週の明星」(1950年1月8日~1964年4月2日)、ゆったりとした「ひるのいこい」(1952年11月17日~)「日曜名作座」(1957年7日~2008年3月30日)のテーマ曲が思い起こされる。「日曜名作座」の、後継番組「新日曜名作座」(2008年4月6日~)では、テーマ音楽のみが継承されているとのことである。1960年以降になると、ほとんどラジオを聞かなくなるので、これらのメロディーを耳にすることはなくなった。

次回は、古関裕而とスポーツ、応援歌を中心に、振り返ってみたい。(続く)

当ブログの過去記事もご参照ください。

◇2012年9月26日 
緑陰の読書とはいかないけれど②『詩歌と戦争~白秋と民衆、総力選への「道」』(中野敏男)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/09/post-9cea.html

◇2010年12月2日・3日 
『敗戦とラジオ』再放送(11月7日、夜10時)」を見て(1)(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/12/11710-50ed.html
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/12/11710nhk-960d.html

◇2006年2月17日
書評『歌と戦争』(櫻本富雄著)(『図書新聞』所収)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2006/02/post_d772.html

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2020年5月27日 (水)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(2)

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ドクダミに囲まれながらも、アジサイが色づき始めた

  

 前述⑤「作曲一覧」は、「古関裕而記念館」のホームページで見られるが、レコード発売年月も付されている。古関の活動期間の長さと量に驚かされる。ただ、編年体のリストはない。④『歌と戦争』の「古関裕而戦時下歌謡曲」には、1934年から1945年までに限られるが、年別のリストがある。あげた曲名は、冒頭に記されたもので、代表作の意味ではない。

1939年:義人村上(佐藤惣之助・詞/中野忠晴・歌)ほか計4曲
1935年:来たよ敵機が(霞二郎/伊藤久男)5曲
1936年:月の国境(佐藤惣之助/伊藤久男)7曲
1937年:別れのトロイカ(松村又一/松平晃)17曲
1938年:夜船の夢(高橋掬太郎/音丸)13曲
1939年:麦と兵隊(原嘉章/松平晃)8曲
1940年:荒鷲慕いて(西条八十/松平晃ほか)12曲
1941年:七生報国(野村俊夫/伊藤久男)16曲
1942年:東洋の舞姫(野村俊夫/渡辺はま子)12曲
1943年:みなみのつわもの(南方軍報道部選定/伊藤久男)9曲
1944年:ラバウル海軍航空隊(佐伯孝夫/灰田勝彦)10曲
1945年:台湾沖の凱歌(サトウ・ハチロー/近江俊郎・朝倉春子)3曲

 これら120曲弱が、古関の軍歌ないし「戦時歌謡」のすべてはないし、ほかにも、いわゆるご当地ソング、行進曲、応援歌などの形をとるものもある。この生産量たるや目を見張るものがある。一カ月に一曲以上は作曲している計算になる。この中には、私などでも、題名はおぼつかなかったが、後付けながら、「勝ってくるぞと勇ましく 誓って国を出たからは 手柄立てずに死なれよか 進軍ラッパきくたびに・・・」(「露営の歌」1937年、薮内喜一郎作詞/中野忠晴ほか歌)「真白き富士のけだかさを こころの強い楯として・・」(「愛国の花」1938年、福田正夫/渡辺はま子)、「ああ あの顔であの声で 手柄たのむと妻や子が・・・」(「暁に祈る」1940年、野村俊夫/伊藤久男)、予科練の歌「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ霞ケ浦にゃ・・・」(「若鷲の歌」1943年、西条八十/霧島昇・波平暁男)など、歌い出すことができる。これはひとえに、敗戦後も、父や母、兄たちが、裸電球の下で歌っていたからにちがいない。

 また、上記にも登場する作詞家を含めて、特定の作詞家とのコンビの在り様も興味深い。⑤の作詞家別のリストにより、戦前・戦後を通じて上位10人は次のようになった。若干の数え間違い?はご容赦を。

西条八十(1892~1970)130曲
野村俊夫(1904~1966)107曲
菊田一夫(1908~1973)76曲
久保田宵二(1899~1947)69曲
高橋掬太郎(1901~1970)69曲
丘灯至夫(1917~2009)43曲
藤浦洸(1898~1979)41曲
サトウ・ハチロー(1903~1973)37曲
佐藤惣之助(1890~1942)28曲
西岡水郎(1909~1955)15曲

 久保田宵二と西岡水郎は、今回、初めて知る名前だった。久保田は、岡山県の小学校教師から、野口雨情の勧めもあって、日本コロンビアに入社、1931年「昭和の子供」(佐佐木すぐる作曲)を作詞、以降は、主として歌謡曲の作詞に転じた。古関とは、伊藤久男、松平晃、霧島昇などを歌い手とする「戦友の唄」(1936年)「南京陥落」(1937年)「戦捷さくら」(1938年)「世紀の春」(1939年)「戦場想へば」(1941年)などを残すが、1940年には、コロンビアを退社、晩年は、作詞家の著作権確立のために尽力したということである。また、西岡は、古関とのコンビで、して1930年代前半を中心に「歌謡曲」を残しているが、ちなみに、そのうちの一曲「たんぽぽ日傘」(1931年)の歌い手は、前年に結婚した古関の妻、内山金子(1912~1980)であった。同時に彼女は「静かな日」(三木露風作詞/古関裕而作曲)も吹き込んでいる。
 佐藤惣之助は、白樺派の影響を受けた詩人としてスタートするが、「赤城の子守歌」(1934年、竹岡俊幸作曲/東海林太郎)、「湖畔の宿」(1940年、服部良一作曲/高峰三枝子)など多くのヒット曲の作詞家として知ることになるのだが、太平洋戦争開始直後の戦時下に亡くなる。最晩年にも、古関と組んだ「国民皆労の歌」(1941年11月、伊藤久男・二葉あき子)、「大東亜戦争陸軍の歌」(42年3月、伊藤久男・黒田進)が発売されるが、1942年5月に亡くなっている。久保田宵二と佐藤惣之助の晩年の在り方には、時代とのかかわり、国策とのかかわり方の違いがあるように思えて、興味深いものがあった。

 古関とのコンビで、ベスト1の西条八十は、戦中・戦後を通じて、活動期間も長い。私の「歌を忘れたカナリヤ」(原題「かなりあ」『赤い鳥』1918年11月。「かなりや」『赤い鳥』1919年5月、成田為三作曲の楽譜付き。文部省教科書「六年生の音楽」1947年収録時に改題)との出会いは小学校6年生の時であった。西條は、英文学、フランス文学にも通じた象徴詩人としてスタートし、童謡も多く残したが、1920年代後半からは、中山晋平作曲による「東京行進曲」(1929年)、「銀座の柳」(1933年)などを始め、少し下っては、古賀政男、服部良一、万城目正らの作曲による数々の歌謡曲をヒットさせている。古関とは、1930年代後半から、ミス・コロンビア、二葉あき子、淡谷のり子、音丸、豆千代、松平晃などを歌い手とする歌謡曲を手掛けるが、同時に、1937年「皇軍入城」「今宵出征」、1938年「憧れの荒鷲」「勝利の乾杯」、1939年「荒鷲慕ひて」「戦場花づくし」1940年「起てよ女性」「空の船長」、1941年「みんなそろって翼賛だ」「元気で行こうよ」、1942年「空の軍神」1943年「決戦の大空へ」「若鷲の歌」1944年「海の初陣」「亜細亜は晴れて」1945年2月「神風特別攻撃隊の歌」「翼の神々」などの戦時翼賛の歌を数多く世に出している。

 ちなみに「みんなそろって翼賛だ」〈1941年1月/霧島昇・松平晃・高橋裕子〉をネットで検索してみると、つぎのような歌詞と楽曲もでてきた。

みんなそろって翼賛だ
作詞 西條八十
作曲 古関祐而

進軍喇叭で一億が
揃って戦へ出た気持ち
戦死した気で大政翼賛
皆捧げろ国の為国の為ホイ
そうだその意気グンとやれ
グンとやれやれグンとやれ

角出せ槍出せ鋏出せ
日本人なら力出せ
今が出し時大政翼賛
先祖ゆずりの力瘤力瘤ホイ
そうだその意気グンとやれ
グンとやれやれグンとやれ

おやおや赤ちゃん手を出した
パッパと紅葉の手を出した
子供ながらも大政翼賛
赤い紅葉の手を出した手を出したホイ
そうだその意気グンとやれ
グンとやれやれグンとやれ
(以下略)

  どうだろう。作詞者も作曲者もすでに”著名な”ながら、読み上げるのもはずかしいような言葉の羅列だが、大人が本気で制作し、国民は歌ったのだろうか。同じ年に、西條八十による古賀政男作曲「さうだその意気」(霧島昇・松原操・李香蘭)も発売されている。太平洋戦争末期に、もう一つ、なかなかミステリアスな、古関・西條コンビの歌がある。前述の⑤「作曲一覧」によれば、「比島沖の決戦(酒井弘・朝倉春子)1945年12月発売とある。敗戦後の発売?!とあるが、ありえないだろう、と不思議だった。④『歌と戦争』の古関裕而の部分には、この歌の詳細があり、つぎのような歌詞を読むことができる。

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④『歌と戦争』192~193頁より

 ④『歌と戦争』には、この歌の制作経緯について、日本コロンビアの資料や証言によれば1945年3月の新譜リストにあり、レコードが発売されているが、レコードが一枚も発見されていない、という。しかし、著者の櫻本は、学校で習ったことがないのに、歌うことができるのは、繰り返し放送されていたと思われ、放送用のレコードは存在していたと推測する。掲載されている歌詞は、NHKに残っていた「演奏台本」からの採録である。なお、この歌の題についても「「比島決戦の歌」であったり、「比島血戦の歌」であったりする。発売の時期について、上記の古関裕而記念館の「作曲一覧」のデータや③『日本流行歌史』の巻末年表の1944年3月というのは、歌詞の内容からは、間違いとみてよい。その歌詞たるや、上記に見るように、比島沖のレイテ海決戦における米軍の指揮官は、陸軍はマッカーサーであり、海軍はニミッツであったのである。


比島血戦の歌
西條八十作詞
古関裕而作曲

血戦かがやく亜細亜の曙
命惜しまぬ若桜
いま咲き競うフィリッピン
いざ来いニミッツ、マッカーサー
出て来りゃ地獄へ逆落とし

 一番の歌詞である。「いざ来い・・・」以下が四番まで繰り返されているのがわかるだろう。このリフレイン部分が垂れ幕や看板となって、都心のビルにかかげられたという(③120頁)。さらに、歌詞のこの部分は、西條のものではなく、陸軍報道部の親泊中佐の作だという、西條の弟子でもあったとする丘灯至夫の言を引用している(③120頁、④1)。こうした言い訳が通用するのかどうか。当時は、軍部やメディアの指令や要請で、戦局に合わせての、速成の歌が氾濫していたと思われる。西條の場合、『西條八十全集』や『詩集』などにはどのように収録されているのも検証しなければならない。

 古関、西條のコンビは敗戦後にも、つぎのような歌が作られていった。その題名からもわかるように、その歌詞も、曲も変わる。変われば変わるものだと思う。軍部や政府、そしてメディアと一体となって、国民の士気をあおるだけあおった作詞者や作曲者に、良心や責任が問われなくていいのだろうか。まさに「流行り歌」に過ぎないのだから、思想や信条など問われる筋合いがないとでもいうのだろうか。

1946年年11月:1947年への序曲 /霧島昇・藤山一郎他
1948年1月:平和の花 /松田トシ
1950年9月:希望の街 /藤山一郎・安西愛子
1950年6月:美しきアルプスの乙女/並木路子
1953年7月:ひめゆりの塔/伊藤久男
1953年7月:哀唱/奈良光枝
1955年11月:花売馬車/美空ひばり

 意外だったのは、「ひめゆりの塔」なのだが、映画「ひめゆりの塔」(今井正監督、原作石野径一郎、脚本木洋子)の音楽は古関裕而だったのだろうが、伊藤久男の歌が画面上流れていたような印象はない。レコード発売が1953年7月、映画の封切りが、それに半年ほど先立ったお正月だったのだから、映画の主題歌ということではなかったのだろう。西條の歌詞は次のようであったから、映画の雰囲気とはかけ離れているようにも思える。私は、リアルタイムで見たのではなく、数十年前に名画座などでみた、薄れかけた記憶なのだが。

ひめゆりの塔
西條八十作詞
古関裕而作曲

首途(かどで)の朝は愛らしき
笑顔に母を振りかえり
ふりしハンケチ今いずこ
ああ 沖縄の夜あらしに
悲しく散りしひめゆりの花

生まれの町ももえさかる
炎の底につつまれて
飛ぶは宿なきはぐれ鳥
ああ 鳴けばとて鳴けばとて
花びら折れしひめゆりの花

黒潮むせぶ沖縄の
米須の浜の月かげに
ぬれて淋しき石の塚
母呼ぶ声の永久(とこしえ)に
流れて悲しひめゆりの花

 

 その後、西條は、古賀政男、服部良一らと組むことが多くなり、数々のヒット曲を送り出している。

 つぎに、「とんがり帽子」を生んだ古関の菊田一夫との仕事をたどってみたい。(続く)

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庭の草とりでもしようものなら、隣の「さくら」ちゃんが吠えまくる。お留守らしいので?少し叱ってみたら、神妙な顔になった。

 

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2020年5月24日 (日)

「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(1)

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「古関裕而生誕110周年記念・あなたが選ぶ古関メロディーベスト30」(福島民報社主催 2019年12月10日~2020年2月7日実施)は、古関裕而の長男正裕氏、日本コロムビアプロデューサー、古関裕而記念館館長が監修した110曲についての投票で、31位以下の曲目と投票数、および110曲の音源一覧は、以下のサイトに詳しい。https://koseki-melody.com/

   この3月30日から始まった、NHKの朝ドラ「エール」のモデルは、古関裕而と喧伝されて久しいが、私は見たことがない。番組の紹介のコーナーhttps://www.nhk.or.jp/yell/、 では、コロナ禍の影響により6月27日までの放送で、ひとまず中止するとのお知らせが出ている。放送分は、各週のあらすじが記されているので、それを読んでいる。今後の放送分の進行で、どこあたりで休止するのかわからないが、たぶん、1940年前後以降は再開時の放映になるのだろうか。古関が、いわゆる「戦時歌謡」を数多く作曲した時代を、ドラマでは、どう描くのかを注視したいところである。いや、敗戦後もアメリカ占領軍の要請で、NHKは、新しい放送番組を次々と放送し始めたのである。あの「鐘の鳴る丘」も、GHQの検閲下において、CIE(民間情報教育局)の”積極的な指導”により成立し得たものだった。(『日本放送史(上) 日本放送協会編刊 1965年 746頁)

 1947、8年ころ、私たち子どもの楽しみといえば、放課後、家の近くで、石けり、缶けり、チヨコレイト、スイライ・カンチョウ、ナワとび、ゴム段などの外遊びとお風呂屋さんの横丁にやってくる紙芝居だった。それでも、夕方になると、5時すぎから始まる「鐘の鳴る丘」のラジオを聞くために、大急ぎで家に戻ったものである。「緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台、鐘が鳴りますキンコンカン、メイメイ小山羊も鳴いてます、風がそよそよ丘の上、黄色いお窓はおいらの家よ・・」のテーマ曲は、歌詞を覚えられない私が、今でも歌えるのだ。 
 「鐘の鳴る丘」は戦争浮浪児の物語なのだが、当時、空襲の焼け跡に建てた、店と六畳一間と台所というバラックに親子五人で住んでいた私などには、「緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台」って、いったいどこにあるのだろう、まさに「あこがれ」にも思え、メルヘンの世界ではなかったか。この誰にも歌える「とんがり帽子」の作曲者が「古関裕而」だと知るのは、だいぶ後のことである。そもそも、このテーマ曲は「鐘の鳴る丘」だとばかり思っていたが、その曲名は「とんがり帽子」だったのである。そして、ハモンドオルガンのオープニングとともに、どこか重々しい語りで「そして、カガミシュウヘイ(加賀美修平)とリュウタ(隆太)は・・・」と物語が進んでゆくのに耳を傾けたが、詳細はすでに忘れている。あのナレーションの主が、巌金四郎であることも後で知る。1947年7月5日から放送は始まったが、そもそも、この番組の構想は、マッカーサーの招へいで日本にやってきたフラナガン神父の助言があったからという〈1950年12月29日まで790回)。こうした事柄を後で知るきっかけが何であったのか定かではないが、私が過去に口すさんだ歌、両親や7歳、14歳違いの兄二人がよく歌っていた歌のルーツ知りたくなったのではないか。私が、社会人になって間もない1965年~1970年ころで、いまもつぎのような本が手元に残っている。

①高橋磌一『流行歌でつづる日本現代史』音楽評論社 1966年10月(第4版)
②朝日新聞社編『東京のうた その心をもとめて』朝日新聞社 1968年8月
③古茂田信男ほか著『日本流行歌史』社会思想社 1970年9月

 さらにその後、私自身が、短歌と天皇制について、戦中・戦後の歌人たちと天皇制との関係について、調べたり書いたりしている中で、戦中・戦後の表現者の戦争責任について実証的に書き続けている櫻本富雄さんの仕事に出会い、その労作の一つがつぎの本だった。古関裕而に多くの頁が割かれていた〈180~197頁〉。

④『歌と戦争 みんな軍歌を歌っていた』アテネ書房 2005年3月(5月に第2版)

 「古関裕而記念館」のホームページによれば、古関は、生涯、5000曲以上もの曲を残している。このホームページの「作曲一覧」では、網羅的ではないらしいが、曲目・作詞家・歌手別に閲覧することができる。

⑤古関裕而作曲一覧
https://www.kosekiyuji-kinenkan.jp/person/composition/song-a.html

 

 

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2020年1月16日 (木)

『季論21』46号に寄稿しました高村光太郎についての拙稿が一部閲覧できるようになりました

 昨年10月12日の本ブログでお知らせしましたように、『季論21』(2019年秋号)には、以下を寄稿していました。その一部がネット上で閲覧できるようになりました。「ピックアップ記事」の一つとして、途中までご覧になれます。なお、昨年9月には、当ブログにも「あらためて、高村光太郎を読んでみた1~9」として、以下の拙稿に書ききれなかったことも連載していますので、あわせて、お読みいただければ幸いです。

「「暗愚小傳」は「自省」となり得るのかー中村稔『高村光太郎の戦後』を手掛かりとして

http://www.kiron21.org/pickup.php?112

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季論21


「暗愚小傳」は「自省」となり得るのか

――中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして

内野光子



はじめに

中村稔は、二〇一八年に『髙村光太郎論』(青土社)を出版し、二〇一九年にも同社から『髙村光太郎の戦後』を出版した。新著では髙村光太郎と斎藤茂吉の評価を変えたという。髙村光太郎と斎藤茂吉の愛読者は多く、それぞれに、自認する研究者も数多い中で、二冊の大著によって、一九二七年生まれの著者は、どんなメッセージを届けたかったのだろう。

私は、二〇一九年一月に、『斎藤史《朱天》から《うたのゆくへ》の時代――「歌集」未収録作品から何を読みとるのか』(一葉社)を出版した。そこでは、斎藤史が、一九四三年に出版した歌集『朱天』を生前に自ら編集した『斎藤史全歌集』(大和書房 1977年、1997年)に収録する際に、削除と改作をおこなった点に着目、その背景と実態を分析した。さらに、二・二六事件に連座した父の斎藤瀏、処刑された幼馴染の将校にかかわり、昭和天皇へ募らせていた怨念は、大政翼賛へ、さらに晩年の親天皇へと変貌していく様相を、作品や発言からの検証も試みている。

私としては、斎藤茂吉や斎藤史をはじめ多くの歌人たちが、そして、髙村光太郎も、戦時下に依頼されるままに、あれだけの作品を大量生産して、マス・メデイアに重用されていたにもかかわらず、敗戦後、自ら「歌集」や「詩集」を編集する際に、さまざまな「ことわり」をしつつ、戦時下の作品を積み残した経緯がある。

今回は、まず、新著『髙村光太郎の戦後』の光太郎の部分を中心に、中村の光太郎像を検証したい。なお、私自身の関心から、日本文学報国会における髙村光太郎と戦時下の朗読運動渦中の光太郎にも触れることになるだろう。さらに、拙著『斎藤史《朱天》から《うたのゆくへ》の時代』にかかわり、髙村光太郎に、戦中・戦後の作品の削除や隠蔽はなかったのか、についても言及できればと思う。

蟄居山小屋生活の実態

中村の新著、第一章の冒頭では、光太郎の敗戦後の七年にわたる山小屋での蟄居生活、それにいたる経過がたどられる。一九四五年から山小屋を去る一九五二年一〇月まで、光太郎の日記と書簡などを通じて、その暮らしぶり、人の出で入り、執筆・講演などの活動も記録にとどめ、作者、中村の見解も付せられる。

それにしても、光太郎の日記には、地元の人々や知人、出版関係者たちから届けられた食品などが、一品も漏らさないという勢いで、誰から何をどれほどと克明に記録されている。中村も書くように、光太郎は「礼状の名手であった」のである(本書43頁)。

礼状には、贈り主への感謝の気持ちとどれほど役に立っているかなど率直な心情を吐露する内容が多い。戦前からの著名な詩人から、このような手紙をもらったら、舞い上がる人も多かったのではないか。同時に、日記には、到来もののほかに、自分が食したもの、菜園の種まきや収穫、作付け、施肥などの農作業についてもこと細かく記録にとどめている。「食」へのこだわりは執念にも似て、正岡子規の病床日記を思い起こさせる。

書簡の中で興味深かったのは、東京の椛澤ふみ子との文通の多さと両者の間には屈託のない和やかな雰囲気が漂っている点であった。彼女から日常的に届く新聞のバックナンバーの束など、光太郎にとっては、大事な情報源ではなかったのか。たまに、山小屋を訪ねることもあり、「小生の誕生日を祝つて下さる方は今日あなた位のものです」(1947年3月13日、79頁)とも綴る。なお、余談ながら、中村は、一九四八年五月の訪問の記述を受けて、当時二十代の椛澤と光太郎との関係を、父と娘のような清潔な交際だったように見える、と述べている(124頁)。

敗戦後の光太郎を語る吉本隆明は、上記の「食」への執念は「自分と、自然の整序があれば、その両者がスパークするとき美が成り立つという思想」に基づき、「美意識と生理機構の複合物としての食欲であった」(「戦後期」『吉本隆明全著作集8』勁草書房 1973年、183頁)とも分析しているが、私は、より単純に、光太郎の戦前の暮らしにおける西欧趣向やブランド信仰にも起因する飢餓感と自らの健康・体調への不安からという現実的な背景を思うのだった。

『髙村光太郎の戦後』にみる光太郎の「自省」とは

そうした暮らしの中から、敗戦後初めて刊行された詩集『典型』の冒頭は「雪白く積めり」であった。その静寂な世界は、一見、戦前の饒舌さが後退したかに思えたが、詩の後半に「わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。」「敗れたるもの卻て心平らかにして……」などのフレーズをみると、大げさな身振りは変わっていないとも思った。

「雪白く積めり」

雪白く積めり。/雪林間の路をうづめて平らかなり。 /ふめば膝を沒して更にふかく/その雪うすら日をあび て燐光を發す。(後略)

(「雪白く積めり」1945年12月23日作『展望』1946年3月。『典型』収録)

  中村は、この「雪白く積めり」について、「さすがに高い格調の、精緻な叙景に高村光太郎の資質、非凡さを認めることができるとしても」いったい何を読者に伝えたいのかがわからない失敗作だとも断言している(46~47頁)。

  詩集『典型』に収録の「典型」と題する一篇の冒頭と末尾を記す。みずからの「愚直な」生を振り返るような作品である。中村は、前著の『髙村光太郎論』でも「光太郎の弁解の論理を肯定しないけれどもその思いの切実さを疑わない」としているが、新著ではさらに踏み込んで、最初に「典型」を読んだとき、作者が愚者を演じているようで反感を覚えたが、「弁解が多いにしても、『暗愚小傳』の諸作の結論として虚心にこの詩を読み返して、これが彼の本音だった、と考える。そう考えて読み直すと、深沈として痛切な声調と想念に心を揺すぶられる。この詩は決して貧しい作品ではない。詩人の晩年の代表作にふさわしい感動的な詩である」と絶賛する。さらに「これほど真摯に半生を回顧して、しみじみ私は愚昧の典型だと自省した文学者は他に私は知らない」との評価をする(160~161頁)。

「典型」

今日も愚直な雪がふり/小屋はつんぼのやうに黙りこむ。/小屋にゐるのは一つの典型、/一つの愚劣の典型だ。(中略)

典型を容れる山の小屋、/小屋を埋める愚直な雪、/雪は降らねばならぬやうに降り、/一切をかぶせて降りにふる。

(「典型」1950年2月27日作『改造』1950年4月。『典型』収録)

 しかし、敗戦後、疎開先の花巻から最初に発信された詩は、一九四五年八月一七日の『朝日新聞』に掲載された「一億の號泣」であった。「綸言一たび出でて一億號泣す。/昭和二十年八月十五日正午、/われ岩手花巻町の鎮守/……」で始まり、つぎのような段落がある。これは詩集『典型』に収録されることはなかった。その「序」で、光太郎は「戦時中の詩の延長に過ぎない」作品は省いたとある。こうした作品を指していたのだろう。
「一億の號泣」

(前略)天上はるかに流れ來る/玉音の低きとどろきに五体をうたる。/五体わななきとどめあへず。/玉音ひびき終りて又音なし。/この時無聲の號泣國土に起り、/普天の一億ひとしく/宸極に向つてひれ伏せるを知る。(後略)

(「一億の號泣」1945年8月16日作『朝日新聞』『岩手日報』1945年8月17日)

 

 また、中村が言及する「わが詩をよみて人死に就けり」も光太郎の敗戦後を語るには欠かせない作品であると、私も思う。

「わが詩をよみて人死に就けり」

爆弾は私の内の前後左右に落ちた。

電線に女の大腿がぶらさがつた。

死はいつでもそこにあつた。

死の恐怖から私自身を救ふために

「必死の時」を必死になつて私は書いた。

その詩を戦地の同胞がよんだ。

人はそれをよんで死に立ち向つた。

その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた

潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

 この九行の詩は、制作月日が不明だが、日記の一九四六年五月一一日には、「余の詩をよみて人死に赴けり」を書こうと思う、という記述があるが、この作品も詩集『典型』には収録されなかった。

(以下は本文をお読みください)

 

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2019年12月 1日 (日)

<歌壇>における「賞」の在り方~「ショウほど素敵な商売はない」?

  一九五〇年代に「ショウほど素敵な商売はない」という、マリリン・モンロー出演のアメリカのミュージカル映画があったらしい。見る機会もないままいまに至っているが~。

  これまで私は、国の褒賞制度や栄典制度が、本来の学術・文芸の振興にどれほど寄与しているのかについて書こうとすれば、どうしても批判的にならざるを得なかった。その褒賞や栄典にあずかる者をだれが選ぶのかの視点でたどっていくと、恣意性や政治性が色濃いものであることがわかってきたからである。国際的なノーベル賞やアカデミー賞、ミシュランにいたるまで、さらに、たとえば日本レコード大賞はどうなのかといえば、詳しいことはわからないが、その主催の民間団体や業界団体における選出方法にもかなり問題があることも伝わってくるではないか。自分に縁がないこともあって、「賞」なるものに懐疑的にならざるを得ない。苦々しくは思うものの「どうでもいいでショウ(賞)」くらいの気持ちであった。

  しかし、長年、短歌にかかわってきた者として、短歌の世界、いわゆる「歌壇」でのさまざまな「賞」についても、いろいろ考えさせられることが多くなった。これまでも、拙著やこのブログでも触れてきたことではあるが、現状を確認しておきたいと思う。歌壇の賞のデータとして、一つの賞を編年体で見るのには、光森裕樹による「短歌賞の記録」(tankafulnet)(http://tankaful.net/awards に詳しく、便利でありがたい。横断的に見るには『短歌研究年鑑』の「短歌関連各賞が受賞者一覧」である。もちろん網羅的ではないが、主として短歌雑誌が主催する賞は、応募型のいわば新人発掘のための賞a型、中堅・大家を対象とする賞b型とに分けることができる。
 これらの受賞者や受賞作品の紹介や評論は、各誌の歌壇時評などで、その栄誉と称賛を後追いするものが圧倒的に多く、発信・拡散が繰り返される。近年、私は、受賞者や受賞作品への関心もさることながら、選考委員の傾向や重複が気になっている。こうした短歌賞が、雑誌の営業政策の一環であることは当然なのだが、それにしても、選考委員の重複にはあらためて驚かされるのであった。 
 たとえば、直近の一年間をみても、四つ以上の賞の選考委員を兼ねているのは、以下の7人であり、三つの賞の委員を務める高野公彦、大島史洋、小島ゆかりがそれに続く。

馬場あき子(1928生。芸術院会員、朝日新聞選者)b短歌研究賞、迢空賞、現代短歌新人賞(さいたま市)小野市詩歌文学賞

佐佐木幸綱(1938。芸術院会員、東京新聞選者、朝日新聞選者)a現代短歌評論賞、b短歌研究賞、迢空賞、現代短歌大賞、若山牧水賞(宮崎県)前川佐美雄賞

三枝昻之(1944。歌会始選者、日本歌人クラブ会長、日本経済新聞選者)a現代短歌評論賞、歌壇賞、b日本歌人クラブ賞・大賞・新人賞・評論賞、斎藤茂吉短歌文学賞、前川佐美雄賞

伊藤一彦(1943。毎日新聞選者)a角川短歌賞、筑紫歌壇賞、b現代短歌大賞、若山牧水賞(宮崎県)

永田和宏(1947。歌会始選者、朝日新聞選者)a角川短歌賞、b短歌研究賞、斎藤茂吉短歌文学賞、小野市詩歌文学賞、佐藤佐太郎短歌賞

小池光(1947。読売新聞選者)a      角川短歌賞、b短歌研究賞、斎藤茂吉短歌文学賞、現代短歌新人賞(さいたま市)

栗木京子(1954。読売新聞選者)a短歌研究新人賞、b現代短歌大賞、現代歌人協会賞、若山牧水賞(宮崎県)現代短歌新人賞(さいたま市)

 ということは、各賞の性格や特色が薄れていることを示していよう。ダブル受賞やトリプル受賞も決して珍しくなくなってきた。選考委員が複数の賞を掛け持ちしていれば、そんなことも起こり得るだろうし、話題性のある、横並びの「無難なところでショウ」にもなりかねないのではないか。たとえば、2018年の佐藤モニカ『夏の領域』の現代歌人協会賞と日本歌人クラブ新人賞、三枝浩樹『時禱集』の迢空賞と若山牧水賞であり、2019年では、春日真木子『何の扉か』の現代短歌大賞と斎藤茂吉短歌賞、小島ゆかり『六六魚』の詩歌文学館賞と前川佐美雄賞などに見られる。受賞者にはかかわりないことなのだが。

 また、いわゆるa 型に属する、短歌研究新人賞の選考委員、栗木京子・米川千嘉子・加藤治郎・穂村弘の4人は2009年から務め、角川短歌賞の伊藤一彦・永田和宏・小池光・東直子は2017年から変わっておらず、歌壇賞の選考委員も若干の入れ替わりはあるものの2015年から東直子、水原紫苑、吉川宏志の3人が続けて務めている。歌壇賞は、一時女性の選考委員が多いこともあって、女性の応募者が男性の倍以上になった時代もあったが、現在はその差が縮まっりつつあるし、短歌研究新人賞は、1990年代後半から今世紀初頭にかけて、女性が50%台から上昇し始め、60%を超えたこともあったが、現在は、50%前後を推移しているという傾向も興味深い。たしかに、選考委員選びにおいても、受賞者選考にしても、その賞、雑誌の性格や特色を出そうとしていることはうかがわれないこともないのだが、結果的には、なかなか効を奏することがないのではないか。

 しかし、いずれにしても、こうした選考委員の重複、固定化は、a型の新人に対しては、委員受け狙いも生じようし、b型においては、どこか委員同士の互酬性のきらいも否定できない。さらに、選考委員になることにより、歌集が爆発的に売れるということはないにしても、講演会や短歌教室の講師のオファーは、確実に増えるのではないか。 
 また、上記に登場する斎藤茂吉短歌賞、若山牧水賞、前川佐美雄賞、佐藤佐太郎短歌賞など過去の著名歌人の名を冠した賞も数多いが、遺族や後継者との関係はどうなっているのだろうかとか、その歌人の業績にふさわしい選考がなされているのかなどという疑問もわいてくる。

 そんな中で、『短歌研究』が「塚本邦雄賞」(坂井修一、水原紫苑、穂村弘、北村薫)を、『現代短歌』は、雑誌自体のリニューアルとともに「ブックレビュー賞」(加藤英彦、内山晶太、江戸雪、染野太郎)を新設するという。後者の選考委員となる加藤英彦は「短歌月評・ふたつの賞の創設」(『毎日新聞』2019年11月25日)において、期待と意気込み語っている。前者の選考委員にも新鮮さがないし、後者の委員たちに若さはあるかもしれないが、その鑑賞眼と評者としての知見が問われるだろう。

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