数年前にも、当ブログに以下の記事を書いた。状況としては、何も変わってはいない。内閣支持率が10%台になっても(6月の時事通信世論調査16.4%)、国の行方に対して、危機感というものがなく、議員たちは自分の選挙での当落だけを考え、お金の算段に血眼なのである。政党資金規正法改正にしても、パーティー券購入先の氏名・職業公表がなぜ5万円以上なのか、政策活動費の公開がなぜ10年後なのか、委員をいつ誰が選ぶのかわからない第三者機関設置なのか、施行が2年以上先の2027年1月1日なのか、目くらましにもならない法案で決着を図りたい自民・公明・維新なのである。議会の多数決だけで「政治」が動く。
6月15日、思い起すこと(2019年6月16日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/06/post-fd0e28.html
64年前の6月、あの時の社会の、時代の雰囲気は、どうしたら伝わるのか、私自身、どう受け止めていたのか、いつも考えてしまう。「安保反対」「岸を倒せ」闘争のきわめて個人的な体験と感想をくり返すにとどまっている。これまでの記事と重なる部分もあるのだが。
1960年5月19日、夜10時過ぎ、衆院安保特別委員会の質疑打ち切り、新安保条約、日米地位協定などを単独可決、警官隊を導入、午前0時直前に衆院本会議で会期延長を自民党の単独採決、日付が変わった0時06分からの衆院本会議で日米相互協力・安保条約、駐留・地位協定、関連法案が討論なしで、自民単独、全員起立で可決している。直ちに参議院に送られているが、いずれにしても1か月後には自然承認されてしまうのだ。
6月以前にも、学内でのクラス討論、学内集会、全学連反主流派集会へ出向き、安保阻止国民会議の請願デモ。私は少なくとも「請願」するという「自覚」もなく参加していたと思う。参加者の流れに添って、議員面会所にタスキをかけて立って迎える議員の前で、気勢をあげた。誰かが請願書なるものを渡していたのだろうか。背後の車道では、全学連主流派と呼ばれる学生たちの列の先頭の数人は一本の棒を握り、隊列をびっしり整え、ジグザグ行進を始める。その息の荒さと熱気に圧倒されていた。5月19日の深夜まで議事堂を囲んでいたデモには参加した記憶がない。
私が何度も参加していた請願デモは、聞き知ってはいたが、後に知る、清水幾太郎の「いまこそ国会へ―請願のすすめ」で、われわれの手に何が残されているのか、「今こそ国会は行こう。請願は今日にも出来ることである。誰にでも出来ることである。・・・国会議事堂を幾重にも取り巻いたら・・・、そこに、何物も抗し得ない政治的実力が生まれて来る」(『世界』5月号特集<沈黙はゆるされるか>1960年4月)という呼びかけに影響を受けていたらしい。そして、規制のゆるい車道では、手をつないで車道いっぱいに広がって行進する「フランスデモ」になることが多かった。たいていは右も左も学友だったのだが、見ず知らずの人と手をつなぐこともあった。なんで<フランス>デモだったのか、近年のフランスでのデモは、いっそう過激になっているのに。
私の記憶が鮮明なのは、「ハガチー事件」と称されるものだ。6月10日、羽田空港出口の弁天橋近くに、アイゼンハワー米大統領の来日を控えて、大統領秘書広報担当ハガチーの到着を待つべく、自治会の支持のもと、道路わきに座り込みをしていた。ハガチーが乗っている車は道をふさがれ、車の上にかけ上がる者もいて混乱、立ち往生していたが、意外と早く、米軍のヘリコプターがやって来て、マッカーサー駐日大使らとの一行は脱出した。ヘリコプターの着地や発着のときに巻き起こす風は強烈で、多くの参加者は、仰向けに吹き倒され、私は恐怖すら感じた。それくらい近くに座り込んでいたのだろう。帰宅して肘に擦り傷を負っているのに気づいた。私が目の当たりにした現場の光景は、いったい何だったのか。計画的な行動だったのか、偶発的なものだったのか。いまでもわからないが、翌日の新聞は、こうした暴力的行為は、国の恥、国際的にも非礼極まりないという論調であった。国論を二分する日米安保条約であったし、議会が機能していないこの時期に、アメリカの大統領を招くために、警備を強化するという政府こそ、暴挙に近いのではと素直に思ったものだ。
6月13日夜、川崎市の日本鋼管川崎製鉄所労組事務所と東京教育大学自治会室に家宅捜索が入ったのを新聞で知った。在学の自治会室に「安保阻止東京都学生自治会連絡会」の事務局があったのも、初めて知ったのだった。
そして、6月15日の樺美智子さんの惨事が起きる。その夜、私は別件で出かけていて遅い夕食のお蕎麦屋さんのテレビで事件を知って、そのショックは大きかった。それに加えて6月17日の朝刊一面の、在京新聞社七社の「共同声明」にも衝撃を受けた。「暴力を排し、議会主義を守れ」と題され「六月十五日夜の国会内外における流血事件は・・・」で始まり、「民主主義は言論をもって争わるべきものである。その理由のいかんを問わず、またいかなる政治的難局に立とうと、暴力を用いて事を運ばんとすることは断じて許されるべきではない」とし、政府の責任とともに、「社会、民社両党」の責任も問うていた。警官隊を導入しての単独採決は暴力ではなかったのか、国会周辺のデモ隊への機動隊の行動は暴力とは言えないのか。何とも納得しがたく、マスコミへの信頼が失墜した。
その後、みずず書房の広報誌『みすず』で始まった小和田次郎の「デスク日記」を読んでいくと、ほぼ同時進行するマスコミ内部の様相、政治権力からの圧力にひれ伏しているのかも知るようになった。
そして、私の最初の就職先、学習院大学政経学部研究室勤務により、清水幾太郎の実像の一端に接することになる。以下の当ブログの記事もご覧いただければと思うが、戦前からの足跡をたどれば、みずからも「マスコミ芸人」と称するだけあって、その変わり身のはやさに驚いたのであった。
メデイアの中の「知識人」たち~清水幾太郎を通して考える(1)(2020年8月18日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/08/post-c87232.html
メデイアの中の「知識人」たちー清水幾太郎を通して考える(2)2020年8月18日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/08/post-6bcb67.html
『図書新聞』【2010年7月31日】所載の江刺昭子『樺美智子 聖少女伝説』。この書評を通じて、私の中で、少し整理されたかなと思う、50年前のできごとであった。
『樺美智子 聖少女伝説』
等身大の活動家から何を引き継ぐべきか
偶像化への異議申立て、なるか
副題の「聖少女伝説」、帯の「60年安保 悲劇の英雄(ヒロイン)の素顔」の文言にも見られるように、没後五〇年、六〇年安保世代を当て込んだような出版元の宣伝が目についた。が、本書の著者は、資料や関係者の証言に添う形で、樺美智子の実像に迫り、「60年安保闘争の唯一の死者として、伝説の人物として、聖化され、美化され」(14頁)半世紀を越えることへの異議申立てを試みたと言えよう。
本書は6章からなり、1・2章では、一九三七年生れの美智子の恵まれた生い立ちと一九五七年東京大学に入学、二〇歳で日本共産党に入党し、活動家としての出発までが描かれる。3章・4章では、共産党内の分派活動家たちによる「共産主義者同盟」(ブント)へ参加、一九六〇年六月一五日の死の直前までが検証される。教養学部時代は、地域の労働者の勤務評定反対運動などを支え、国史学科へ進む。警職法反対闘争に加えて、日米安保改定反対運動が国民的にも盛り上りを見せるなか、美智子は、一九六〇年一月岸首相の訪米阻止のため空港食堂に籠城、検挙を体験、政治的な使命感をさらに強めることになる。5章「六月一五日と、その後」6章「父母の安保闘争」では、美智子の死の前後と周辺の動向が検証される。その死をめぐっては、国会構内での学生・警官隊の動き、解剖結果の死因―圧死か扼死―を巡る対立、実在しない至近学生の証言報道などの問題が提起される。「国民葬」の経緯や活動家のその後などと遺された両親の苦悩と各々の死まで担った政治的な役割についてたどる。
美智子自身の思想形成、当時の学生運動における革新政党や分派による主導権争いなどに触れている部分はあえて割愛した。まじめで勉強好きな女子学生が自覚的に傾倒してゆく社会主義的思想、正義感や使命感が格別強かった青年の行動を、私は否定することができない。同時に、二年ほど年下にあたる評者には、六〇年の日米安保改定反対闘争の結末が樺美智子の死だけに集約され、当時の多くの市民たちの多様な行動や声が掻き消されてしまうことに危惧を覚えたのも事実である。
「聖少女伝説」化がなされた過程への考察が、本書ではやや不明確なのが気になった。伝説形成の基底には二つの要素が絡み合っているのではないか。まず、一九六〇年六月一七日の朝刊に掲げられた「暴力を排し 議会主義を守れ」という在京新聞七社共同宣言について、本書では「新聞論調は全学連に批判的であった」(241頁)とあっさりとしか触れられていない。この「共同宣言」に象徴されるマス・メデイアの大きな転換、マス・メディアの責任が問われるべきだろう。宣言の「その事の依ってきたる所以を別として」「この際、これまでの争点をしばらく投げ捨て」の文言に見られるように、「事件の原因を探求し、責任の所在を突きとめ、解決の道を明らかにすべきジャーナリズムの基本姿勢を放棄」し、時の政府を免罪し、暴力批判という形で大衆運動を抑圧する側にまわった、という重大な転機(小和田次郎ほか『戦後史の流れの中で 総括安保報道』 現代ジャーナリズム出版会 一九七〇年 二六九頁)への自覚や反省が薄れていることを指摘したい。五月一九日の暴力的な日米安保改定強行採決を目の当たりにした国民の危機感が高まるなか、政府、財界からのマス・メディア工作・統制、さらには自主規制さえ露骨になった事実と皇太子の婚約に始まる皇室慶事祝賀モードへの流れの結果でもあった。以降、マス・メディアは、六月一九日に条約が自然承認された後の「挫折感」がことさら強調され、さらに今日まで「新日米安保条約」の内容自体についての論議が遠ざけられ、樺美智子の追悼と偶像化を一種の逃避として利用してきた欺瞞性はなかったか。
また、当時「新日米安保条約」に反対した人々のなかには、高度経済成長の担い手となり、その恩恵を享受する過程で、贖罪をするかのように樺美智子を美化する人も少なくない。美智子への称賛を惜しまなかった活動家や知識人たちが、保守派の論客になったり、会社経営や大学行政に携わったりしながら、その一方で「伝説化」に加担している場面に出会うことにもなる。また、当時、まったくの傍観者であったか、無関心であった人たちまでが、たんなる感傷やノスタルジィに駆られて、その偶像化に酔うこともある。こうした風潮が、今日まで「日米軍事同盟」の本質的な論議を回避し、沖縄の基地を放置し、「抑止力」なる幻想をいまだに引きずる要因になってはいないだろうか。
筆者は、現代の若者たちに、一九六〇年前後、日本の未来を真剣に考えていた青年たちや市民たちの等身大の姿を伝えたいと思った。本書が、自身を含め、多くの読者が自らの足跡を真摯に省み、今後なにをすべきなのかを考える一冊になればと願う。
(『図書新聞』2010年7月31日号所収)
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