2019年5月 3日 (金)

「天皇の短歌」と代替わり~憲法記念日に考えたい

 近頃は「来たァ~」なんて言うのは、すでに古い?!代替わりの前日4月30日の新聞、わが家の購読紙のうちの二紙に、やはり天皇・皇后の歌が出たのである。
 『朝日新聞』は、一頁全面の上半分に「天皇陛下の歌」、下半分に「皇后美智子さまの歌」として、数枚の写真とともに各二十首が配されている。「世のうつろい見つめ筆とり」と題して、リードには「戦争の記憶、平和への願い、国民と家族への深い思い。天皇皇后陛下は日々、移り変わる社会を見つめ、率直な気持ちを歌に込めてきた」とある。そして5月1日には同じ一頁全面に「世を思い詠む 令和へ続く歌」と題して「新天皇陛下の歌」「新皇后、雅子さまの歌」と各二十首が載っていた。そのリードには「外国訪問先での交流、震災被災地への思い、長女愛子様の成長。新天皇、皇后両陛下は折々の出来事を歌にしたためてきた」とある。誰の選択の結果なのかはわからないが、解説がないのがせめてもの救いだった。最近、宮内庁では、マス・メディア向けなのか、歌会始の歌に、天皇夫妻はじめ一部の皇族の歌に解説をつけているのだ。

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朝日新聞、2019年4月30日

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朝日新聞、2019年5月1日

 『東京新聞』は、1頁の3分の2を使って、「心映す歌」と題して右側に「被災地へ」として天皇と皇后の歌を2首づつ、左側に「戦没者へ」として、天皇・皇后の歌を2首づつならべている。歌の背景には、「阪神大震災からの復興の象徴として皇居で育てられた『はるかのひまわり』」の写真と「大戦中、追い詰められた民間人が次々と身を投げたサイパン島北部のバンザイクリフ」の写真があしらわれている。そして各歌の下には、80字前後の解説が付せられている。そのリードには、「天皇、皇后両陛下は、折に触れて数多くの歌を詠まれてきた。陛下が模索されてきた象徴天皇像とはどのようなものであったのか。象徴天皇のとしての活動の核心部分ともいえる被災地お見舞いや戦没者慰霊を詠んだ歌の中から平成という時代を表す八首を二〇〇四年から歌会始の選者を務める永田和宏さん(七一)に選んでもらった」とある。永田は、この『東京新聞』に一年以上前から「象徴のうた 平成という時代」と題して天皇夫妻、皇太子夫妻の歌を中心に、毎週1首、その背景とともに解釈と鑑賞を続けてきた歌人でもある。4月23日、第63回をもって連載は終了した。いわば永田和宏による「謹解集」といってもよく、その集大成が、この日の「八首謹解」ともいえるのではないか。

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東京新聞、2019年4月30日

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東京新聞、2019年4月16日、第62回は、皇后の今年の歌会始の「今しばし生きなむと思ふ寂光
に園の薔薇のみな美しく」が取り上げられ、このシリーズの最終回の4月23日、第63回は天皇の「贈られしひまわりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」であった。記事本体はカラーである。後掲の写真「短歌研究」4月号のグラビアもこの2首が見える。
 

  日本国憲法上の象徴天皇制において、とくに国民統合の象徴としての天皇の地位は世襲であり、多くの基本的人権を奪われた存在は、国民主権、基本的人権とくに平等という基本条項との齟齬は明白で、今回の代替わりで、少しは注目され始めた。しかし、政府・政党、メディア・企業と一部の国民が、憲法自体が持つ矛盾について、多くは自覚的に目をつむり、触れようとはしない。1945年敗戦後の占領軍アメリカと日本政府による政治的妥協の産物として残された制度であったことを、いま、思い返すチャンスでありながら、古来の伝統や文化にことよせ、新・旧天皇の足跡や人柄への最上級の礼賛を重ね、代替わりの慶祝ムードを盛り上げているのである。 新しい元号になったからといって、「新しい時代」が来るわけもなく、そんな幻想を率先して振りまいているのが、大方のメディアである。

 そうしたムードづくりに大きな役割を果たしているのが、憲法に規定のない宮中祭祀と行幸啓であったのではないか。国事行為ではありえないから、いずれも、公的行為として、執り行われてきた。「宮中祭祀」といえば基本的には宗教的儀式で、国民にとっては、いかにも異様で、ときにはグロテスクにも思える姿をさらすことになる。そこは、控えめにと、秋篠宮による「大嘗祭は身の丈で」発言につながったのではないか。行幸啓については、国民に「寄り添う」、戦争や災害の犠牲者へ「祈る」という見える形で、年々「拡充」してきたのが、平成天皇夫妻だったといえないか。その「務め」が身体的にも果たせなくなったからと「生前退位」表明になった。

 私が冒頭にあげた「天皇の短歌」は、先のムードづくり、しかも文化的な香りのする手段の一つとして、これまでもしばしば登場した。毎年一月の「歌会始」を舞台として、国民を巻き込んだイベントに、現代歌人や「文化人」たちも「ひそかに」呼応し続けている。

 今の制度の中で、短歌を詠むのが好きな皇族たちが、歌を詠むのもいいだろう、歌会を開いたり、指導者を招いたりするのもよいとしよう。しかし、国民を巻き込まないでほしい。「歌会始」を皇室と国民を結ぶ文化の懸け橋のような言い方をする歌人たちもいる。開かれた皇室の典型のようにありがたがる人々がいる。短歌コンクールの一つ考えればいいという歌人もいた。しかし、国民が応募する歌は、天皇に捧げる「詠進歌」なのである。天皇が国民統合の象徴であることを貫徹するならば、上下の関係はあり得ないのではないか。

 今回の退位・即位の儀式での「おことば」の受け渡しの光景を見ても、その内容を見ても、多くの国民から見れば、異様な言葉遣いでありながら、あまりにも当たり前のことを述べているにすぎない。退位の儀式では、天皇の「おことば」に先立って、安倍首相は、国民の代表として感謝と敬愛の意を述べ、即位の儀式での首相の言葉は、新天皇のあとに、毎日新聞では「安倍首相発言」、朝日では「首相国民代表の辞」を述べたとして、その要旨が記事に見られ、東京新聞は「首相発言全文」が掲載されていた。その扱いがバラけているのにも注目する。

 『毎日新聞』では今のところ、平成天皇夫妻の歌をまとめたという記事は見られないのだが、4月23日には、毎日歌壇の選者で、2006年から歌会始の選者である篠弘が、今年の歌会始の天皇夫妻の歌を引用して、「歌のご相談で御所にうかがいました」とも述べる「両陛下とわたし」という連載コラムに登場している。4月8日の「余禄」では、天皇の昨年の歌会始の歌「語りつつあしたの苑を歩みゆけば林の中のきんらんの咲く」を引用、天皇夫妻の絆をたたえている。

 そういえば、けさの『東京新聞』で、長谷部恭男が日本国憲法において封建制秩序が残っている天皇制は、国民一般の保障が及ばない「身分制の飛び地」だとしていた(「天皇・皇族に基本的人権は」)。また、沢藤統一郎弁護士の「憲法日記」(2019年4月29日)によれば、「天皇制は、憲法体系の番外地」だと講演で述べたという。「飛び地」や「番外地」であるならば、私たち国民は、まず日本国憲法の基本的条項から大きく外れる、その「番外地」や「飛び地」をなくすよう、みずから努力しなければならないのではないか。

 また、短歌雑誌なども、この代替わりを商機と見たのか、万葉集特集、御製・御歌特集だとか、ざわついているのだが、短歌の愛好者や愛読者の心をとらえるのだろうか。

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短歌研究、2019年4月。グラビアから

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短歌研究、2019年5月、表紙及び広告より

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短歌、2019年5月。広告より

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2019年3月 1日 (金)

「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(2)

 

 戦後短歌は皇室との関係を結ぶことに慎重だった」のか
 

大辻の冒頭の一文を繰り返せば、「太平洋戦争中、短歌は戦意高揚の具であった。天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された。その反省から出発した戦後短歌は、皇室と関係を結ぶことに慎重だった。」とある。この時評の前提になっているので、やはり、こだわらざるを得ない。私は、すでに、「歌人は敗戦をどう受けとめたか」(『現代短歌と天皇制』風媒社 2001年)において、第二芸術論出現以前の論調を中心に分析を試みている。また、それと重なる部分もあるが、昨年の10月に当ブログで以下のテーマで連載をしている。下記の3件だけでも、見ていただきたい。ここでは、重複する部分もあるが、当時の短歌作品や歌人の執筆した文章をたどりたい。  

 元号が変わるというけれど、―73年の意味()敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(2)(201810 8)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/7352-e1cf.html

  元号が変わるというけれど、―73年の意味()―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制> (3) 2018/(20181011)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/736-7809.html

  元号が変わるというけれど、―73年の意味(8)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(4)20181029日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/73-4720.html

 

  たとえば、1945815日直後の『朝日新聞』には「大君の宜りたまふべき御詔かは 然る 御詔を われ聴かむとす(釈迢空)」(816日)「聖断はくだりたまひてかしこくも畏くもあるか涙しながる(斎藤茂吉)」(820日)などが大家たちの作品が発表されている。のちの「第二芸術論」において、1941128日の開戦を受けての作品とどこが違うのかと、批判の対象にもなる種類の作品であった。ちなみに、髙村光太郎の「一億の号泣」が同じようなコラムで発表されたのが817日であった。 

また、つぎの短歌は、いずれも、194510月号の『短歌研究』に発表されたものだが、まだ、GHQの検閲も軌道には乗っていなかった時期でもあったのだろう。続く、11月号では、翌年の歌会始の「勅題」は「松上雪」と発表されたことを報じている。  

・天皇ぞわれにまします天つ日ぞわれを照らさすこの和ぎを(吉植庄亮)
・大君のみためぞ吾ら生ける身もはてなむ身も捧げまつるらむ(高田浪吉)
・ひたふるに胸肝あつき詔やうつつの御声ききたてまつる(佐藤佐太郎)

 翌年、1946年になると、GHQの検閲が始まったことを、つぎのように伝える。 

「聯合軍最高司令部の事前検閲に就いて」と題して、歌集歌書短歌雑誌等一切の出版物は印刷前にゲラ刷りを日本放送協会内の聯合軍最高司令部検閲部宛に提出し検閲を受けることになった、旨の記事がある(「歌界記事」『短歌研究』194612月)。その後の天皇制にかかる作品の検閲状況は、上記の記事③を見ていただければわかるだろう。
 
1947123日開催の「歌会始」に際して、御歌所の千葉胤明、鳥野幸次に加えて、民間歌人として、斎藤茂吉と窪田空穂とともに選者となった佐佐木信綱は、『日本短歌』194611月号に「詠進歌に就いて」、19474月には「詠進歌を選して」を寄せ、後者では、「十五名の豫選歌が、御前に於いて、崇厳なる御式のもとに披講せられるのを承ってまことに感激に堪へなかつた次第である」として、時代を反映した、新憲法、祖国の再建、戦災地の復興について、生活を歌った作品の多かったことを特色としてあげている。

 

民間歌人が、歌会始の選者になったことに対しては、つぎのように評価も分かれていること自体、「短歌が皇室と関係を結ぶことに慎重であった」とはいえない例証ではないか。むしろ、皇室との積極的な関与を歓迎する考え方がかなり蔓延していたことにもなるだろう。 

岡野直七郎(18961986)は、「ひとたび聖断が下った以上、押しなべての国民は、今までの緊張がにわかに弛んで涙を流しつつ大詔を奉承したのである。(中略)国民詩である短歌の作者が、この日の感動を詠嘆したことは、極めて自然の勢であつた」と冒頭部分で述べた後、末尾では、川田順の皇太子殿下の作歌指導役に就いたこと、翌年1947年の歌会始の選者に、御歌所の歌人に佐佐木信綱、斎藤茂吉、窪田空穂が加えられたことを「特筆すべきとして、歌界の範囲が如何に広いかを示唆するものである」と結んでいる(「(昭和二十一年における短歌)終戦一年間の展開」『短歌研究』194612月)。

  

新短歌運動の推進者であったが、当時は、短歌ジャーナリストとして活動していた柳田新太郎(19031948) は、「御題『あけぼの』歌会始(一月二十三日)の詠進歌一三八二六首、選歌『天地にひかりみなぎりあけてゆくこのあけぼのの大きしづけさ(塩沢定)』一五首。今年から民間歌人三名(信綱、茂吉、空穂)が選者に加つたその結果に一応の期待がつながれたが、蓋を開けてみれば相も変らぬ御歌所短歌。在米羅府の高柳勝平(橄欖同人高柳沙水)の『あけぼのの大地しつかと踏みしめて遠くわれは呼ぶ祖国よ起てと』だけが異色、述べている(「短歌紀要」『短歌往来』19474月創刊号)。 

 窪田空穂(18771967)は、後に、つぎのような三一首の連作を寄稿している(「吹上御苑を拝観して」『短歌研究』194878月合併)。皇室と距離を置くどころではない。

 

御研究室に通はせたまふ路と聞き心ただならず踏みゆく朽葉 

見るはただ薄原なり焼け残る小き御文庫ぞ御住まひどころ 

吹上の御苑拝せしこの方や偲ぶに畏くわがこころ重し

 川田順は、1946年年頭より皇太子の作歌指導にあたり(「歌界記事」『短歌研究』19464月)、吉井勇は「すめろぎ」と題して5首を寄せている(『短歌往来』19477月)。 

おのづから胸ぬち熱し親しげに若き侍従の仕ふる見れば 

浪速津の市井のことも逡巡はずもうしてかしこすめろぎのまへ 

神にあらぬすめろぎたればわれ等また一布衣として御前にゐむ

 吉井、川田は、谷崎潤一郎と新村出とともに、天皇に招かれ文芸について語っているし(「座談会・天皇陛下の御前に文芸を語る」『小説新潮』19479(創刊号)、二人はともども1948年に「歌会始」選者になっている。吉井は1960年までつとめ、木俣修に譲ったかたちである。川田は「老いらくの恋」事件で、一年で降板するのだが。

 1951年の「歌会始」の豫選者 の中には、春日井瀇、五島茂、高尾亮一、中西悟堂という、すでに歌人としてメディアで活躍している著名人たちもいた。これも、中堅の歌人たちを含めて、皇室との関係を持ちたいとする願望の強いことの証ということができよう。 

 その後の、歌人と皇室との関係については、これまでの拙著で繰り返し述べていることなのだが、ざっくり言えば、「短歌が皇室と関係を結ぶことに慎重であった」というより、歌人たちは、むしろ、積極的な皇室へのアプローチを躊躇しなかったともいえる。

 なぜ、「天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された。その反省」もないままに、皇室との関係を深めようとした歌人たち、彼らにも寛容であり、抵抗なく受容した歌人たち、そして、今、現在の歌人たちにも、そのまま引き継がれ、さらにその関係は強化されようとしている、真っ只中にいる。

 その要因は、直接的には、各歌人たちが天皇とつながりたいという名誉欲や自己顕示欲につながるのだが、大局的にとらえると、GHQが日本の占領政策のために編み出された「象徴天皇制」というかたちで天皇制を残したこと、日本政府はつねに天皇、皇室を政治的に利用しようと目論んでいること、天皇及び周辺も象徴天皇制のもとで天皇家の繁栄持続を願い続けていたことを、マス・メディアが全面的に支えることによって、天皇制は「天皇家の物語」として深く、国民の間に浸透していた、考えられる。

うした流れの中で、たしかに、1960年前後、岡井隆による「歌会始」批判などが歌壇をにぎわしたこともあったが、それも一過性で、その岡井も1993年から2014年まで選者、その後は御用掛を務めるに至った。その間には、1979年には、いわゆる「戦中派」と称される世代の岡野弘彦(1924~)と上田三四二(19231989)がそろって選者入りしたときも、その意外性を指摘する声もあったが、岡野は、2008年まで務め、その後は御用掛を務めていたが、今は、篠弘に譲ったようである。 

本記事の前半のような作業の中では、戦後短歌のスタートにおいて「短歌が皇室と関係を結ぶことに慎重であった」という事実は見出しがたかった。

昭和天皇の時代が終わり、平成に入ってからの「短歌と天皇制」、いかなる変貌遂げたのか、遂げなかったのか、について報告できればと思う。

 

私は、ツイッターというのは苦手で、参加?はしていないのだけれど、大辻の、この「時評」には、子安宣邦が直後に反応して、それをめぐってにぎわっているのを知った。その件とあわせて、つぎは、「天皇制アレルギー」について触れたい。(つづく)

 

 
 

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2019年1月18日 (金)

昨年は、二つのインタビューを受けて~

 昨年末、短歌誌『合歓』の発行人である久々湊盈子さんのインタビューを受けた。『合歓』では、毎号、歌人などのインタビュー記事があって、その人選びも中身も、聞き手のリードもあって、楽しく読ませていただいていた。今回、思いがけず、そのオファーを受けたのだ。久々湊さんとお話するようになったのは比較的最近で、20161月「短歌サロン九条」でレポートをと、声をかけてくださったのも彼女だった。『心の花』、『個性』を経て、1992年から『合歓』を発行されている。歯切れのいい、骨太の作品や評論を発信し続けていて、大変、行動的な歌人でもあり、「酒豪」とも漏れ聞いている。

 天皇の代替わりが迫る「今でしょ!」とばかりに、短歌と天皇制についても話し合えたらとの趣旨は、ありがたいことだった。私も慣れないことなのでかなり緊張していたかもしれない。当方の住まいの近くのホテルのロビーでお会いした。

 気っ風のよさと細かい心遣いを併せ持つ話術にリードされて、終戦はどこでどんな風に迎えたかに始まり、いわば生い立ちから、短歌を始めた動機なども尋ねられた。表題にもあるように「短歌と天皇制と憲法と」に及び、沖縄の旅から帰ってきたばかりという久々湊さんからは、沖縄の現状についても貴重な話を伺えたのが、有意義であった。終了後は駅前の居酒屋で、インタビューにも同席された歌人のKさんと3人で、私もいささか盛り上がったのだった。

 数日前に届いた、そのインタビュー記事が載った『合歓』83号(20191月)は、大きな図書館や千葉県内の大きな図書館では読めると思う。そこでお会いできたらうれしいのだが。

◆ 「インタビュー・内野光子さんに聞くー短歌と天皇制と憲法と」(聞き手:久々湊盈子)『合歓』83号 20191


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なお、昨年の初めの『法と民主主義』編集の弁護士の佐藤むつみさんとのお話も楽しかったが、その時の様子は、下の当ブログ記事を参照ください。

 ゴールデンウィークのさなかですが~(201854日)

「私の歌に連なる他者へ」(聞き手:佐藤むつみ、「あなたとランチを」NO.35)  『法と民主主義』(日本民主法律家協会) 20184 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/05/post-d6fe.html

 

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2019年1月17日 (木)

2019年、歌会始は終わったが~召人は二人?

 

 今年の歌会始の中継は、忘れずに見た。今の天皇夫妻にとっては最後の歌会始ということらしい。天皇の短歌ばかりが、メデイアでは繰り返されていた。

 

 私が、とくに印象に残ったことといえば以下の通りだ。

 

平成最後の歌会始といっても、格別応募歌数が多くなく、二万首を少し超えた程度だった。入選者の一番の若手は16歳の女子高校生で、最年長者は、30代から応募を続けていたという89歳の男性だった。203040代が一人もおらず16歳から 58歳にとぶ。世代別の歌会始、短歌への関心の在りようを示していよう。中・高校生については、歌会始応募に熱心な学校、教師の指導が左右しているのかもしれない。

 

 また、今年は、選者の最年長者篠弘の作品が披講されたが、その間、杖をついて立っていたのがつらそうでもあった。今年の召人は俳人鷹羽狩行と栗木京子の二人であったらしいのだが、鷹羽の作品が披講されたが、栗木や他の選者の名前の紹介もなかった。そして不思議だったのは、手元の三紙、翌日17日の朝刊、朝日、毎日、東京新聞にも召人の栗木の名前も作品も掲載されていない。たしかに、栗木は、入選者と選者の間の席に着いていて、その姿は、なんども映されていた。テレビでは、陪聴者の席でもないし、どういう立場なのかわからなかったのだが、ネットで検索してみると、jijicom(時事通信)の記事には、つぎのように掲載されていた。

 

 【召人】
 鷹羽狩行さん
 ひと雨の降りたるのちに風出でて一色(いつしよく)に光る並木通りは
 栗木京子さん
 言葉には羽あり羽の根元には光のありと思ひつつ語る

 

 ということは、来年の選者は、篠弘に替わって、栗木京子が就く前触れかな、などとも。女性選者が今野寿美と二人時代が再来するかもしれないなど、予想屋みたいなことは、はしたないと思いつつも・・・。

 それにしても、これから代替わりまでの半年は、歌壇も何かとざわつくかもしれない。

 

 そんなことを考えていたとき、旧著の出版元、名古屋の風媒社からのメールで、『週刊金曜日』天皇制特集(2019111日)で『現代短歌と天皇制』(2001年)が紹介されているのを知った。旧著がこうした形で読まれ、推薦されていることを知って、正直、ありがたかった。

20191img010_1_2           ↑ 最下段⑥に数行の言及がある。                     
                      

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2019年1月 3日 (木)

<平成最後>の歌壇

会員である短歌誌『ポトナム』の一月号に書いた「歌壇時評」を転載します。もともと、題はついていないのですが、表題は上記のようにしました。今年の<平成最後の歌会始>は1月16日だそうです。

********* 

天皇の代替わりが迫っている。世間では、昨年後半あたりから、「平成最後の・・・」を冠した行事や企画が盛んになった。歌壇も決して例外ではない。今年も、一月中旬には「平成最後の歌会始」(1月16日)が開かれる。「歌会始」というのは、天皇への詠進歌のなかから、選者によって選ばれた短歌の作者を皇居に招待して、皇族・選者・入選者・読師らによって演じられている儀式である。それを陪聴する者も、「だれか」に選ばれて招待されている。それに参加することが、またとない「栄誉」とされてもいる。短歌が「天皇に詠進されて」、はじめて成り立つ「歌会」、そこには、「詠進される者」と「する者」とのおのずからの上下関係が、自明のごとく前提になっている。このような「歌会」が短歌を詠む者あるいは短歌を愛好する者たちが楽しみ、学ぶ場なのだろうか。
 

天皇の死去や高齢という個人的な理由による退位に従い、元号をもって時代が区切られるという社会と上記のような「歌会」の在りようは、日本国憲法が目指す民主主義社会とは相容れないものであろう。元号が代わることによる影響は、さまざまな分野で予想される。事務的な処理の対応だけでも莫大な費用がかかると言われている。すでに、年号表示の基本は西暦にすべきではないかとの流れもあるなか、今こそ、変えることができるチャンスのはずであった。日本の近代国家が形成される明治から、すでに四つの元号を持ち、さらに新元号が加われば日本の近代史は、五つの年号で語られることになる。その混乱から逃れるためにも、歴史を学ぶも者も研究する者、正確な記憶や思い出を大事にしたい人びとのためにも、そろそろ西暦を基本にすべきではないのか。  

ちなみに、『短歌研究』『短歌』『現代短歌』『短歌往来』『歌壇』の背表紙の年月表示は、すべて西暦であり、奥付はすべて、元号表示となっている。あたらしい元号になっても、踏襲されるのか。 

 

 昨秋、雨の中の「平成最後の園遊会」の様子が報じられていた。中央省庁の役人が推薦する「功績」のあった人々を招き、予め設置されたカメラによる、限られた五人の招かれた者と天皇夫妻との間で交わされる会話の場面が放映される。天皇は、十人ほどに絞られた招待者の中から五人を選ぶというのが慣例らしい。どこか噛み合わない天皇夫妻との対話にただよう「ギャップ」を期待したり、楽しんだりしている視聴者がいるのは確かかもしれない。しかし、これが象徴天皇の、国民に「寄り添う」仕事なのだろうか。また、招待されたタレントやスポーツ選手たちに、ぎごちない敬語を使って、その緊張ぶりを語らせるのも、メディアの常套手段になっている。 

この園遊会よりはいささか「文化的な香り」を漂わせる「歌会始」に招待されたり、さらに、文化勲章・文化功労者・紫綬褒章などを授かったりして、ひとたび二重橋を渡ると、かつて革新的な、あるいは、現在「リベラル」を標榜している「文化人」たちでさえも、しっかりと絡めとられ、「天皇」の紋章をフルに活用するようになる例は珍しくもないない。歌人でいえば、あたかも天皇(皇室)と国民とをつなぐ架け橋として、いや、皇室のスポークスマンのように振る舞ってきた歌会始の選者たち、キーマンとされた木俣修、岡野弘彦、岡井隆などに続くのは誰なのだろうか。

 

 最近、未知の人から届いた手紙に、ある革新団体の会報のトップにある永田和宏氏のインタビュー記事「劣化し無化する言葉―民主主義の危機に立ち向かう」と『東京新聞』などに一年近く連載中の「象徴のうた 平成という時代」のコピーが同封されていた。二つの記事の整合性に疑問を持つのだが、歌人たちはどう受け止めているのか、と。

(『ポトナム』2019年1月号所載)

Img564_2          『短歌研究』2019年1月号

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『朝日新聞』2019年1月1日、1面と39面、遅ればせながら今日3日に元旦の新聞を読んでびっくり仰天した。「天皇はイイひと」は、平成ばかりでなく昭和にも及ぶ。その証に「短歌」がまた登場し、大きな役割を果たしていることは、30年前と一つも変わってない。

 

 

 

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2018年12月30日 (日)

『齋藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代 「歌集」未収録作品から何を読み取るのか』(一葉社)という本が出来上がりました

 このブログ記事でも、何度か触れたことのある、歌人・斎藤史について、これまで調べてきたことや考えてきたことを書いたものです。発行日は201919日となっていますが、1228日発売となりました。すでに、「版元ドットコム」はじめインターネット上でも紹介されているのを知って、驚きました。279頁の内、後半の121頁が、資料1「齋藤史著作年表 付/斎藤史・斎藤瀏関係文献」、資料2「齋藤史「歌集」未収録作品『魚歌』から『うたのゆくへ』」などが占める本となりました。もし、関心を持たれましたら、ぜひ、お近くの図書館などにリクエストしていただければ幸いです。大きな書店でしたら、手に取っていただけるかもしれません(池袋のジュンク堂にはあったそうです)。

 

 前世紀?からのテーマでもありましたので、私個人としては、長いトンネルから少し明かりが見えてきた思いです。でも、まだまだ、資料の不備や考えが及ばない点が多々ありますので、心細いばかりですが、齋藤史に関心のある方や若い歌人の方々に、ぜひ読んでいただきたいと思っています。

 

 天皇の代替わりが迫った、この時期に、齋藤史の天皇(制)へのスタンスの変遷を通して、一度立ち止まってみることができればと思っています。

 

 

<版元ドットコム>

https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784871960755

<一葉社のチラシです>

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Img562<最近の当ブログより>

・短歌における「改ざん」問題 ~斎藤史を通して考える(20186 9日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/06/post-53c4.html

・なぜ、いま、「斎藤史」なのか~612日の「大波小波」に寄せて(2017612日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/06/612-88cf.html

 

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2018年5月 3日 (木)

「和歌御用掛」は岡井隆から篠弘へ~憲法記念日に

 憲法記念日に、またも何を些細な「歌会始」とは、と思うかもしれない。 天皇の代替わりを一年後に控えた430日、2007年から御用掛を務めてきた岡井隆(90)が辞職し、51日付で、2006年から歌会始選者を務めている篠弘になった、との報道があった。岡井は、1993年から2014年まで歌会始選者を務めているので、御用掛と兼務の時代もあった。2015年からは和歌の御用掛として、「お歌に助言をさせていただく人間として戦争体験者の私がお役にたてるのではないかと、考えるようになり」、「両陛下がご公務に頑張っておられるわけですから、私も頑張らねばいけません。体力が続く限り、御用掛を続けさせていただこうかと思っております。」とも語っていた(岡井隆「宮内庁和歌御用掛が明かす 佳子さまの和歌の素養」『文藝春秋』20156月)。20168月の天皇の生前退位表明の一年以上前のことだった。当時、岡井は、体調を崩して、後継者を探したが「適任者が見つかりませんでした」とも、上記記事で述べていた。その後、天皇の状況は大きく変わったが、岡井も心境や体調の変化があったのだろうか。

  いずれにしても、「歌会始」の状況は、大きく変わることはないだろう。ただ、それ以上に危惧するのは、代替わりを控え、歌会始の選者たちを中心に、「幅広い」歌人たちによって、天皇・皇后の短歌について光が当てられ、その鑑賞や「深い読み」が展開されるだろう。「国民に寄り添った」心情や家族愛、政情や歴史認識に分け入った解釈もして見せるに違いない。しかし、そうしたことが、結果的に「象徴」の地位を脱して政治利用につながることは必至で、避けるべきではないかと思うのだ。天皇・皇后(及び皇族)がたしなむ短歌が発信されたならば、いまの私たちができることは、自ら選択することのできない、憲法上矛盾に満ちた特異な存在である人々の短歌作品として、各々が一読者として鑑賞するほかないのではないか、と思っている。 

 すでに、マス・メディアでは様々な形で、「平成回顧」がなされている。政治的権限を持たない天皇の在位期間、元号をひとくくりにする意味は何処にあるのだろう。 

 すでに、このブログ記事でも触れたが、公文書類や出版物、メディア上での年号表記は、西暦で統一すべきである。少なくとも併記が必要である。そうでないと、元号表示だけでは、何年前のことであったのかが、即座に定まらず、まるで、頭の体操を強いられることになる。明治、大正、昭和、平成・・・で示される年号では、「地球規模」の課題や動向、グローバルな国際情勢とはリンクできないし、その換算は容易なことではないからだ。その混乱はどうしてくれるのだろう。

 

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2018年4月27日 (金)

「桜を見る会」・「春の園遊会」と「歌会始」~そこに共通するのは

421日の安倍首相主催の「桜を見る会」、425日天皇・皇后が主催する「春の園遊会」の報道を目にして、また「歌会始」についてのあれこれを思い起こすことになる。

「桜を見る会」ながら、今年の新宿御苑の桜は散ってしまっていた。皇族や各国の大使の他、各省庁から推挙された人たち、政府与党、国会議員が選ぶ芸能人やスポーツ選手たちが招かれ、今年で63回目になるそうだ。「ご功績やご功労のあった人たちとのご懇談」を目指して、ここ数年は156000人が招待され、報道によれば、今年は17000人を超えたらしい。

首相官邸のホームページを見ると、丁寧にも、首相のスピーチ(全文?)と動画・11枚の集合写真が掲載されている。写真に映っているのは、いわゆるタレントやスポーツ選手たちなのだが、テレビのワイド番組、ドラマ、CMなどで見かける顔である。ワイド番組のひな壇に並ぶ人たちを、ともかくも、さらって集めたかのような騒々しさであった。記念撮影にはしゃいでいる人たちも人たちであるが、そんな彼らに囲まれている首相には、文化の香りや政治のきびしさの欠片すらない。桜にも葉桜にも縁のない人たちに思えた。おまけに昭恵夫人まで笑顔を振りまいている。頼むから、もう公の場所には出ないで欲しい。「私人」を貫くはずではなかったのか。この夫婦のお遊びならば、税金は使わないでほしい。招待者の中には、子役のタレントまでがずらりと並ぶ。児童まで政治的利用するとは、その魂胆がいじましい。

おまけに、首相は、挨拶の最後で、「葉桜の 賑わいありて 盃(はい)重ね」の俳句に続けて「葉桜になっているけれども、たくさんの賑(にぎ)わいで今日はお酒がおいしいな、という気持ちを表現させていただきました。あまり酔っぱらうわけにはいかないでしょうが、どうか今日一日、というか半日、楽しんでいただきたいと思います。」などと、普段は飲酒禁止の新宿御苑で、未成年にお酒を勧めるという、二重の「不祥事」はどうしてくれるのだろう。

さらに、426日には、首相は、冬季オリンピックの選手たち95人を官邸に招いて、感謝状を渡している。国会では、麻生財務大臣の辞任、柳瀬元首相秘書官の証人喚問を求める野党の不参加のまま集中審議が行われているさなか、この時期に、こんなことをしていてよいのかとも。

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 きのう425日の赤坂御苑では「春の園遊会」が開催され、2000人近い招待者が参集した。園遊会は春秋の2回開催される。宮内庁の資料をみると、立法・行政・司法関係者、在日外交官等のグループと各省庁が推薦する各界功績者グループのそれぞれ1000人前後が招待され、春は、前者の方が多いというのが恒例のようである。国会議員などは毎年ではなく輪番制らしい。その名簿は2週間ほど前に発表されるのが慣例でもある。また、園遊会当日、天皇・皇后から声をかけられる招待者は、あらかじめ最前列に並んでいるようで、今回、テレビなどで多く放映されたのは、平昌オリンピック出場の羽生結弦、小平奈緒、高木菜那選手ら、国民栄誉賞の羽生善治夫妻と井山裕太らであった。何となく、かみ合ったような、かみ合わないような、わきまえた対話が流されていた。後で調べてみると、これらの人選は、まず、招待者の中から、宮内庁記者会がニュースになりそうな10人くらいを選び、そのうち5人ほどを天皇が選ぶらしい。かなり限られた人数なのが分かる。

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「園遊会」は、もちろん憲法で定められている「国事行為」ではなく「公的行為」とされ、宮内庁によれば、「宮中のご公務など」の一つとして位置づけられている。先のように、公職者として、あるいは功績者として招待されることによって、そこに生じる政府と天皇・皇后をはじめとする皇族たちとの関係、親密性は、一挙に深まることになり、そこがいわば、目的でもあるのだろう。

同様のことは、「宮中に伝わる文化」の一つ、新春恒例の「歌会始」にも言える。皇族と歌人の選者と入選作品の作者が一堂に会しての「歌会」が開かれ、そこには、毎年各界から選ばれた陪聴者が招待される。その数やリストを明らかにしている資料は見当たらないのだが、中継の映像によれば数十人の単位であろうか。かなり限定された数であることも分かる。いわゆる著名な「文化人」が多く、そこに少数の歌人もローテーションで招待されているようである。その人選となると不明であるが、選者となった歌人たちの推薦と考えるのが順当ではないか。「歌会始」の選者についてはここでは詳しく述べないが、推測ながら、陪聴者選びも、宮内庁や選者の意向が強く働くのではないかと考えられる。

規模の差こそあり、性格の差こそ若干あるが、こうした仕組み、構造の中で選ばれてゆく人々の文化的思考や政治的思考がおのずから現代の政治的体制維持に限定されて行くのではないか、それを助長しているのではないか。自由な、批判的な言動を、少しづつ萎縮させたり、自粛したりする自己規制が働くことになるのではの思いが募るのだった。

 

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2018年4月16日 (月)

<金井美恵子の短歌批判をめぐる歌壇の反応>関係書誌を作成してみました

 3月9日の下記の当ブログ記事でも予告させてもらったのだが、「自浄作用が働かない歌壇―金井美枝子の短歌批判に歌人はどう応えたか」を寄稿している『早稲田文学』春号<金井美恵子特集>が、3月下旬に発売となった。機会があればぜひお読みいただければと思う。執筆の際に作成した、金井美恵子による「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」(『KAWADE道の手帖 深沢七郎』二〇一二年五月)に対する歌人の反応を「歌人などによる『解毒する』関係文献リスト」としてまとめてみたので、ここに再録しておきたい。

 

 お気づきの点があればぜひご教示くださいますよう、お願いします。

〇自浄能力を失った歌壇か―「腰が引ける」とは(2018年3月9日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/

<<<<歌人などによる「解毒する」関係文献リスト>>>>

①松村正直「角川『短歌』9月号」『やさしい鮫日記 松村正直の短歌と生活』2012824日*

②松村正直「歌壇時評:短歌への嫌悪感」『短歌』20129 

③松村正直「金井美恵子と短歌」『やさしい鮫日記 松村正直の短歌と生活』201293日*

④松村正直「続・金井美恵子と短歌」『やさしい鮫日記 松村正直の短歌と生活』20120916日*

⑤大辻隆弘「短歌月評:歌否定論」『毎日新聞』 20121119

⑥佐佐木幸綱・島田修三・栗木京子・小島ゆかり・穂村弘「座談会・東日本大震災を振り返って」『2013短歌研究年鑑』2012121日(「金井美恵子の現代短歌批判」が議題になっている)

⑦三枝昂之「業界内の必然、外から見える不自然」 角川『短歌年鑑』平成25年版 2012127

⑧川野里子「世界への断念、突出するトリビア」(同上)

⑨島田修三「もの哀しさについて」(同上)

⑩風間祥「1、大辻隆弘さんの毎日新聞「短歌月評:「短歌否定論」を読んで 」『銀河最終便』2012128日*

⑪風間祥「2.再び、金井美恵子さんの文章と歌人の反応の不思議さ」『銀河最終便』2012129日*

⑫松村正直「続・金井美恵子論に対する反応」『やさしい鮫日記 松村正直の短歌と生活』20121215日*

⑬沢口芙美「厳しい自己批評の目を」『歌壇』2013年1月

⑭風間祥「今さらもう何を言っても詮ないとすべてを諦めてゆくよ折節」『銀河最終便』 2013111日*

⑮山田消児「短歌時評第85回・「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」を解毒する」『詩客』2013118日*

⑯梶原さい子「短歌時評・私性と共同体と批評について」『塔』20133

⑰阿木津英 「超大衆的短歌の和歌的権威空間化──金井美恵子が『風流夢譚』で短歌を解毒したもの 」『図書新聞』 20130316

⑱島田修三「短歌の学校①和歌と短歌―やっぱり短歌は」『うた新聞』 20134

⑲江田浩司「金井美恵子の現代短歌批判から思ったことなど」『万来舎 短歌の庫・江田浩司評論』2013321日*

㉑松村由利子「短歌時評」『かりん』201312

㉒嵯峨直樹「コミュニティから見る短歌史の生まれる場所」『美志(復刊5号)2014.3月 * 

 

*印は 201712月末日、インターネット上での閲覧を示す。

 

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2018年3月 9日 (金)

自浄能力を失った歌壇か~「腰が引ける」とは

最近の歌壇の事情には疎いが、歌人たちの書く文章を読んでいて、なんとも言い難い焦燥感に駆られてしまうことが多い。あまりにも周囲をおもんぱかった、近頃の言葉でいえば「忖度」に充ち溢れた言葉の応酬を目の当たりするからかもしれない。

 

そういえば、拙い時評や拙著について、いただく私信のなかで、自分などは「腰が引けて」しまうところを踏ん張っていますね、といった感想を寄せてくださる方が幾人かいらした。また、めったに参加することのない短歌関係の会だが、そんなとき、久しぶりに会った方や初対面の方から、脅迫されるようなことはないんですか、とささやかれることもあった。私は、思わず笑い飛ばしてしまうのだが、皆さん、何を恐れているのだろう。 

以下は、『ポトナム』に寄せた時評だが、同じテーマで、3月27日発売

(筑摩書房)の『早稲田文学』春号<金井美恵子>特集にやや長いものを執筆したので、くわしくはぜひそちらも合わせてお読みいただければありがたい。 

なお、きのうの報道で、金井美恵子が『カストロの尻』で2017年度芸術選奨大臣賞受賞を知った。私はいささか動揺したが、受賞にめげずに?従来通りの活動を続けて欲しい。

     ◇

 もう数年前のことになり、歌壇では、忘れかけている人も多いかもしれない。作家の金井美恵子の「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」(『KAWADE道の手帖 深沢七郎』二〇一二年五月)という長い題を持ったエッセイが、痛烈な短歌批判をしているとして、歌壇を騒がしていた。エッセイのタイトルは、歌壇にいささかの関心のある人ならば、「たとへば(君)」が、河野裕子・永田和宏歌人夫妻が、妻の没後刊行された永田の『たとへば君 四十年の恋歌』(文芸春秋 二〇一一年七月)と河野の一首「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」に由来し、「告白」は、岡井隆の自伝『わが告白 コンフェシオン』(新潮社 二〇一二年一二月)を念頭に置いていることがわかる。 

「『風流夢譚』は短歌について書かれた小説である。では、短歌とは・・・」で始まる、金井のエッセイは天皇賛美を繰り返し、歌会始選者から御用掛となった岡井とともに、夫妻で歌会始選者を務め、在任中に病死した河野への挽歌が新聞歌壇に溢れた現象を斬ったのである。彼らを「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」、「短歌という巨大な共同体的言語空間」をなす歌壇のなかに位置づけ、短歌批判を展開している。歌人による反響がかなり見られたのだが、その大方は、真っ向からの反論というわけではなかった。

 

私としては、かねてより、現代短歌が天皇や皇室から自立しないかぎり、文芸の一ジャンルとしては成り立たないと考えているので、金井からの問題提起は、刺激的でもあり、説得力があると思えた。

 

松村正直は、「短歌を作るものは、短歌の世界だけにとどまってはいけない。短歌の魅力や仕組みを多くの人に広めていく必要がある」(「短歌への嫌悪感」『短歌』二〇一二年九月)として、「金井の論考は、何よりもそのことに気づかせてくれた」という。島田修三は、「昨今の現代歌壇に対する洞察としては、かなり正確に中心を射ぬいている」としながら、「金井には短歌を同時代に文学として理解しようとする意思はほとんどなく、とりつく島のない高飛車な狭量に腹立たしさを覚えたりもしたのだった」と書く(「もの哀しさについて」 角川『短歌年鑑』平成25年版 二〇一二年一二月)。沢口芙美は「いつの間にか歌壇内だけの視野狭窄に私たちは陥っているのではないか」として、金井の論考に触発されて「うた全体に亘るきびしい自己批評の目をもたなければならないのではないか」と述べた(「今年の提言―きびしい自己批判の目を」『歌壇』二〇一三年一月)。 

そんな中で、激しい口調で反論したのは、大辻隆弘だった。「金井の文章に底流するのは、文壇のなかに今も根強く残る短歌への蔑視である。それは、現代短歌を<和歌>とみなし、それを天皇制と直結させる偏狭で硬直した戦後左翼的な短歌観に他ならない」とするものだった(「短歌月評:短歌否定論」『毎日新聞』二〇一二年一一月)。現代短歌と天皇制とを直結させる「偏狭で硬直した戦後左翼的な短歌観」など、いまどこを探しても見出せないほど、歌人たちは、ものわかりがよくなって、ウィングを広げに広げてエールを送り合っている。 

金井の他のエッセイや小説を少しでも読めば、発想の自由さと表現の自在さに圧倒されることはあっても、「偏狭」「硬直」などとの批判は、むしろ的外れの感がある。

  真っ向から反論しなかった論者たちも、金井の指摘する具体的な歌壇の現象についてのコメントは避けて、配慮に満ちた、未来志向の模範解答に逃げ込んではいなかったか。(『ポトナム』2018年3月)

Wasedabunngaku

「自浄作用が働かない歌壇―金井美恵子の短歌批判に歌人はどう応えたか」(付関係文献目録)を書いています。

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