2017年3月24日 (金)

「歌会始」を通して考える「天皇制」

「歌会始」を通して考える「天皇制」

 

以下の文章は、昨年の7月下旬に発売された雑誌『ユリイカ』(20168月号)に寄稿したものである。以降、天皇をめぐってのさまざまな環境も変化した。私自身の周辺でも、以下の文章をめぐって、いくつかの批判も公にされたし、論争の的にもなった。その一方で、いささかの励ましもいただいた。『ユリイカ』を読む機会が少ない当ブログの読者や歌人の方にも是非お読みいただければと、掲載することにした。「歌会始」は、憲法上規定のある天皇の「国事行為」でもなければ、「私的行為」でもない「公的行為」とされているが、憲法上にも皇室典範上にも規定があるわけではない。

 

◇◇◇◇◇

 

タブーのない短歌の世界を―「歌会始」を通して考える

今回の特集の企画書によれば、筆者は、まさにアウェイの感を免れない。あえて飛びこんだのは、現代短歌は、歌会始・天皇・天皇制を看過できないはずとの思いからである。

 

「歌会始」、無関心を標榜する歌人たち

岡野弘彦や岡井隆の世代はもちろんのこと、穂村弘、さらに山田航の世代に至るまで、無関心であろうはずがなく、必ずや少なくとも、歌会始の現況を見極めているはずである。和歌御用掛り、選者、召人となった歌人自身が、そのことを世間にあらわにして、その地位を誇らしげに語るのは、岡野・岡井どまりで、以降、多くの歌人は、選者、召人になったり、陪聴者になったりしたことすらも、身内や仲間内ではともかく、自ら世間には公けにせず、語らないのが流儀のようなのである。「歌壇」を構成する歌人たちといえば、まったく無関心のふりをしながらも、横目で一瞥していることは確かであろう。天皇や天皇制について考えるのは面倒な上、いつか自分が招ばれる日が来るかもしれないと、静かに控えている歌人は多いにちがいない。

 

①ゴージャスな背もたれから背を数センチ浮かせ続ける天皇陛下(穂村弘)

(『短歌往来』20102月)

②天皇は死んでゆきたりさいごまで贔屓の力士をあかすことなく(穂村弘)

(『短歌研究』200610月)

 

穂村弘は、①について「これは、歌会始での天皇陛下の様子なんです。歌会始に招待されるシステムみたいなのがあって、毎年いろんな人が呼ばれていますが、それに行ったことがあって、わりと近くで天皇がいらして・・・これはわりと、リアルな歌で、現在の天皇のことです」と自作を語り、平成に入って、歌会始の陪聴者になったことをさりげなく明かしている(『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』新潮社 二〇一二年、178 )。また、同書の山田航の解説によれば、①は、岡井隆、石井辰彦らと朝日カルチャーセンターの朗読会(二〇〇九年九月六日)の「皇居を詠む」のテーマで朗読した作品だったという。続けて、山田は、①について、穂村は、ある時期「天皇であるということは尋常ではないほど厳しい自己規律が必要なのだと気づき、そこに激しい他者性を見て」「時代と自己との関係性を見つめなおすようになった」として、②では、平成の天皇には「昭和天皇に見出している人間くささとはまったく異なっている」ものを見て取る(177p)。

穂村の「歌会始に招待されるシステムみたいなのがあって、毎年いろんな人が呼ばれていますが」の書きぶりからは、あえて深く考えないポーズをとる。山田は、「他者性」「関係性」といった用語を使用するが、近頃のテレビタレントのキャスターでさえ好んで口にする、一種の流行語にも思え、内容的には何も踏み込んで語っていないことになる。

世代的には確かにバランスをとっている現在の歌会始選者、篠弘から三枝昂之、永田和宏、内藤明、今野寿美の五人に至るまでの曲折や現状について触れる時評や論評は極端に少ない。選者の出自や師系をたどると、篠(まひる野)、三枝(かりん⇒りとむ)、永田(塔)、 今野(まひる野⇒かりん⇒りとむ、三枝の妻)、内藤(まひる野⇒音)ということになり、アララギ系の高安国世創刊の「塔」の永田を除いて他の四人は、すべて窪田空穂・窪田章一郎系にたどり着く。かつては、いいも悪いも偏らない配慮がなされていた。現在にあっては、多くの歌人が、所属結社の主張、師の系統による特色を厳密に受け継いでいるとはいいがたく、薄らいでいるとは言うものの、いかにも偏向のそしりは免れないだろう。

かつて、岡野・上田三四二の戦中派が選者入りした一九七九年、そして、天皇の代替わり後の岡井隆が選者になった一九九三年のときには、歌壇の反応は熱く、持続していた。さらには、敗戦直後の論争にもさかのぼることができる。

 

戦後短歌史における「歌会始」

戦後短歌史における短歌と天皇制の問題は、具体的には「歌会始」の問題に集約されるだろう。詳細は、拙著『短歌と天皇制』(一九八八年)『現代短歌と天皇制』(二〇〇一年、ともに風媒社)『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 二〇一三年)にゆずるが、ここで、要点をさらっておけば、つぎのようになる。

一九四七年からの“新生”歌会始は、宮内省の御歌所の旧寄人二人と佐佐木信綱、斉藤茂吉、窪田空穂のいわゆる民間歌人三人を選者としてスタートした。御歌所主事を経て、当時は歌詠課課長、その後長い間侍従長を務める入江相政が実務を取り仕切っていたことは『入江相政日記』に詳しい。天皇制自体、天皇の戦争責任論、退位論などが取りざたされる存亡の危機に瀕した激動の時期であり、昭和天皇の歌会始以外の短歌を一般の雑誌や新聞にリークするなど、現在では考えられないほど、その政治的利用も活発であった。

一九五〇年六月に始まった朝鮮戦争による日本は特需景気を経て、一九五二年四月のサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約発効により独立することになるが、同時に、沖縄はアメリカの軍政が固定化し、日本の各地での米軍基地は強化されていった。さらに、日本遺族会設立、軍人恩給復活、自衛隊法成立、小学校に「道徳」復活など「逆コース」をたどる。一九五八年皇太子の婚約が決まると、皇室ブームを週刊誌ブームが支えることになる。歌会始の選者も、木俣修や五島美代子の起用によって、四賀光子と女性二人の時代がしばらく続くことになる。一九六〇年新安保条約成立後は、安保反対の国民運動も後退し、経済高度成長期を迎える、そのころの岡井といえば、現代歌人協会が歌会始入選者の祝賀会を開催したことについて、かなりのハイテンションで、つぎのように述べていた。

 

「(宮中の)の一行事に文学の仮面をかぶせた歌人たちは、その仮面性を知っている以上、腹であれらの歌の形をしたものどもをわらっているか、否定している筈である。あるいは仮面でも詐称でもないという人がいるかもしれない。その人には、あの皇室関係者の御歌を一つ一つ自己の文学観に照らして価値づけてもらわねばならない」

「この歌会始の儀につながる一切事は、旧支配者に対する民衆の残忍な戯れなのであろうか。尊王の至誠が、皇室の民主化の至情が、とにかくそうした熱情のたぐいをすっかり凍結しつくしたところに生まれる非情な遊びなのだろうか。しかし、そこには美がない。この非情な穢醜を、私を肯定することができない」

(「非情の魅力について」『現代歌人』創刊号一九六〇年五月 4748頁)。

 

一九七九年いわゆる「戦中派」の中核でもあった上田三四二(一九二三年生)と岡野弘彦(一九二四年生)が佐藤佐太郎と宮柊二に代わって、歌会始の選者になったとき、一九六〇年代には角川『短歌』の編集にも携わった同世代の片山貞美は、つぎのように批判した。

 

「事は天皇・皇族の参加する宮廷行事である。当然のことに参加する者の意識は改って、天皇を頂点とする制度の秩序のなかに整然と組み入れられることをあらわにする。(中略)つまり詠進歌の行事は今日では短歌の文学的問題をほとんど含まず、政治的問題が主だと見なければならないのだ。だから選者は選歌を通して天皇制支持という姿勢をあらわにすると見なければなるまい」

(「二人の戦中派」(角川)『短歌年鑑一九七九年版』)

 

さらに、天皇制は家父長制とともにわたしたちの生活の根にかかわる問題で、「戦中派はそうした問題に一九四〇年代の戦争体験によって最も鋭く迫った人びとのはずである」から、選者になることは許せないと言い切った。しかし、一九七九年六月元号法が施行され、『短歌』は、一九八四年から、翌年の「宮中歌会始詠進要領」の掲載を開始する。短歌総合雑誌が「要領」を掲載、選者の一人岡野弘彦の詠進の勧めともいうべきエッセイや宮内庁での歌会始のプロモーターである入江相政のエッセイなどが続く時代の始まりとなった。戦後の短歌史上、短歌総合誌が、国の皇室行事に加担するというエポックをなした。さらに菱川善夫の『短歌』論文削除事件などが明らかになるのもこの時期であり(菱川善夫「変化と病―昭和五十年代の時代状況」『短歌現代』一九八五年二月)。歌壇全体が自粛ムードのなかで推移することになったことは、ある年代以上の歌人には覚えがあるのではないか。

一九九年の歌会始選者に岡井隆が就任することが公になった一九九二年秋、歌壇の様相は少し違っていた。「前衛歌人」の岡井が選者になったことの衝撃は少なからずあった。詳しくは筆者作成の「岡井隆歌会始選者就任関係書誌(一九九二~二〇〇〇)」(前掲『現代短歌と天皇制』所収)を見ていただけばわかるように、全国紙から同人誌に至るまで、必ずしも網羅的ではないにしても、その反響は数年にも及び、八〇点近く、アンケートなどを含めればその発言者は一〇〇人に達するだろう。岡井自身の発言も7点ほど含んでいる。岡井が、繰り返し主張し続けたのは、「歌会始は、だれもが参加できる奔放最大の、知名度の高い短歌コンクールで、国家や皇室との関係はいまや薄くなってきた。これからの歌会始は、参加する多くの応募歌人により、反権力を歌ってきた歌人らが選者になることによって、イメージは変わる」ということだったのだろうか。座談会やインタビュー記事からだけでは不明確な点が多い。さりとて、岡井自身の執筆になる、たとえば、「あるニヒリストの演舌―歌会始の件につき」(『未来』一九九三年一月)、「歌会始の選者として」(『短歌往来』一九九三年二月)などを読んでも、独特の言い回しではぐらかされた感じがしないでもない。代表的な反響として、上記『短歌往来』の一五名による「アンケート・岡井隆氏が歌会始の選者を引き受けられました。そのことにつき率直な意見を述べてください」の回答が、温度差はあるものの、裏切り、嫌悪、遺憾、不可解、失望、好ましくない、納得できない、天皇との距離を保つ、などが一〇名、一方、騒ぐこともない、興味がない、ぴんと来ない、驚くこともない、今後に注目したいという五名だったというのも興味深い。当時、『未来』で岡井隆の選歌から離れた会員、『未来』から離れた会員もいたという。

 近年の岡井隆は、歌会始の選者はやめたが、和歌御用掛として、皇居に通っているし、メディアへの露出度は高く、その発信力は衰えてはないようで、むしろ焦りさえもかんじさせる。昨年から今年にかけて、短歌誌ばかりでなく、つぎのような一般メディアにも登場する。

『朝日新聞』(夕刊)「人生の贈りもの」(二〇一五年二月)という一〇回のインタビュー記事では、

「かつてのマルキストが、歌会始の選者を引き受けたのはなぜか」の質問に、一九七〇年に蒸発して九州へ行った後で考え方を変え、五〇歳前後で思想転向したとして、つぎのように続ける。

 

「ぼくみたいに若いころ天皇制を否定していた左翼の人間が転向したわけです。日本の文化人って、転向しても理由を述べない人が多いねえ。あれはやっぱり書くべきだと思います。説明責任があります。僕はその理由をいろんな機会に『自分が若いころには分かっていなかった』とちゃんと書きましたよ。それを経たあとは、ずーっと揺るがない。その一つの表れとしての歌会始です」(『朝日新聞』二〇一五年二月二六日付夕刊)

 

ここでは、明確に「転向」に言及し、何度も「説明責任」を果たしてきたというが「若気の至り」

では、説明したことにはならない。現に、二〇〇八年の段階では、これも、小高賢との対談で「岡井さんの選者就任で一番足りないのは、ご自身の論理的説明ではなかったか」の質問につぎのように答えていた。

 

「振り返って客観的に眺めてみると、やっぱり僕は転向したのだと思う(中略)。自分自身のためだけでもいいから、きちっとあきらかにしておく必要があったかなあと思う。ただなにか書こうとすると、みんな、大島史洋君もそうだったけれど、『岡井さん、もうやめなさい。何を言ったって、全部、言い訳に取られるから、何も言わない方がいいですよ』というから、そう思っちゃった」

(『私の戦後史』角川書店 二〇〇九年 二九六頁)

 

私の検索の限りでは、以後も論理的に説明している発言が見当たらない。岡井は、さらに「宮内庁和歌御用掛が明かす 佳子さまの和歌の素養」(『文藝春秋』二〇一五年六月)においても、歌会始を「国民参加型の文化行事」と位置づけ、最近体調を崩した折に(和歌御用掛の)後継者を探したが「適任者が見つかりませんでした」と記す。しかも、天皇・皇后は平和への特別な想いを持っているので「お歌に助言をさせていただく人間として戦争体験者の私がお役にたてるのではないかと、考えるようになり」、「両陛下がご公務に頑張っておられるわけですから、私も頑張らねばいけません。体力が続く限り、御用掛を続けさせていただこうかと思っております。」と結ぶ。

二〇一六年に入って、『朝日新聞』の「はじめての歌会始~皇室と国民 同じお題で心詠む」(「文化の扉」一月一〇日)にも登場、「2万人以上の人が一つのお題で定型の詩を作りあうのは、他国にはない」「歌会始は、日本の伝統が脈々と続いていることを世界に知らせる良い機会なのです」と述べている。はたして「日本の伝統が脈々と続いている」歌会始なのかは、明治以降の歌会始のありようを見ても、そんな素朴なことではなく、戦略的な結果が今に至っていることを承知の上、見て見ぬふりをしていることではないか。

現在五〇代以下の歌人たちは、先にも述べたような歌人への言論統制・圧力について、今の世の中においては、なおさらそれはありえない、自分はそんな目には合ってはいないと、楽観している向きも多いかもしれない。しかし、現在にあっても、天皇・歌会始のことに言及するとき、選者と師弟関係・友好関係があったり、自分に目をかけてくれる選者であったりすると、たとえ異議があっても、急に言葉を改め、敬語が増えたり、慎重な言い回しになるか、無関心・無言をつらぬくことが多いと、私は見ている。自覚的、無自覚的を問わず、すでに自粛や萎縮にもつながっていることを指摘しておきたい。

 

聖域やタブーをつくらない議論の場を

こうした歌壇の大きな流れのなかで、私は、最近、一つの事件に遭遇した。それに連なるもろもろのことに共通して見えてくるものは、やはり国家権力の文芸への介入を受忍する、民主主義の衰退であった。

二〇一五年一二月、現在の歌会始選者の一人今野寿美が二〇一六年から『赤旗』の歌壇選者になるという記事であった(『赤旗』1228日)。今野寿美の思想の自由、『赤旗』の編集の自由だといって、片づけられる問題なのだろうか。今野の選者としての歌会始の自身の作品と『赤旗』歌壇の選歌の結果を比べてみてほしい。明らかにダブルスタンダード的な要素が伺える。『赤旗』歌壇の選者を務めたことのある歌人の「なんかおかしい、今野さんの選歌は、明らかに『赤旗』におもねすぎている」との感想は聞いていたが、この件についての論評は、今のところ見当たらない。だが、これには、前触れがあった。一九四七年以来、七〇年近きにわたって、「玉座」から天皇の「おことば」が述べられている国会開会式には参加していなかった日本共産党が、二〇一五年のクリスマス・イブに、二〇一六年の通常国会から出席すると発表したのだった。そのために開かれた記者会見の模様を、『赤旗』より詳しく報道したのが『産経新聞』であった(一二月二五日)。「共産党、国会開会式に出席へ 天皇陛下御臨席に反対方針を転換「アレルギー」払拭へ」の見出しで、共産党は安全保障関連法の廃止を求める野党連立政権「国民連合政府」構想を提案しており、従来の対応を変えることで他党に根強い「共産党アレルギー」を払拭する狙いがあるとみられる、と報じた。ちなみに、「朝日新聞デジタル(12241249分)」では、「共産党が通常国会開会式へ 党として初、野党と同調」の見出しで、これまで天皇陛下の出席を理由に欠席してきたが、方針を転換した。開会式に出ている他の野党と足並みをそろえることで、来夏の参院選での共闘へ環境を整える狙いがある、とした。

さらにさかのぼれば、二〇〇四年の新綱領、昨二〇一五年一〇月の「日米安保条約廃案一時凍結」の発表で、野党共闘、アレルギー払拭をめざし、一枚一枚、たけのこのように、皮をはいで行って、残るものは何なのだろう。そういう流れのなかで、一見、寛容で、ウイングを広げたかのような『赤旗』紙面への著名歌人の登場、歌会始選者の『赤旗』歌壇への起用であったのである。だが、一方、歌人に限らず、いささかでも異を唱える者の排除や無視という非民主的な要素、開かれた議論の場を想定しがたい状況が、蔓延しているのではないかが懸念される。思想の自由、表現の自由を守ることの難しさを痛感するのである。

歌壇に限って言えば、そんな風潮を早くよりキャッチし、警鐘を鳴らし続けている歌人もいる。そして、二〇一六年の年末になって、佐藤通雅は、拙著3冊をあげて「果敢にタブーに踏み込んだこれだけの作業を、見て見ぬふりをいいのかと義憤の念にかられて、私はいくつかの文章を書いてきた」との論考が発表された。拙著で述べた「天皇・皇后の被災地訪問は、政府や企業あるいは自治体の被災地・被災者対策の不備を補完する役割」とすることについて、佐藤は、「補完の域を脱した、内部からの抵抗を感じることが何度もある」「為政者への無言の異議申し立て」であると、私の考えとの違いをも踏まえ、「いずれにしても、選者になったとたん黙して語らないのも、周りが見て見ぬふりをするのも不健全にはかわりはない。タブーはもう脱ぎ捨てて、さまざまな角度から意見を出し合い、問題を共有していくことを私は望んでいる」と結論付けた(「歌の遠近術12短歌と天皇制への視点」『短歌往来』二〇一五年一二月)。

しがらみのない、インターネットの世界から巣立つ歌人たちにも、ぜひ、歴史から学び、聖域やタブーをつくらない議論の場を構築し、こまやかな感性とゆたかな感情を大切にしてほしい、と願う。

 

 

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2017年1月22日 (日)

「短歌サロン九条」で「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」について報告しました。

「短歌サロン九条」は、「憲法九条を守る歌人の会」の有志の方が、隔月に開く勉強会だという。今回121日に、表記の題での報告の機会をいただいた。20人ほどの参加者であった。

テーマは、昨年6月「思想史の会」での報告と同じなのだが、その報告後、私自身は、2度目ながら34日で沖縄に出かけ、8月末日には、『社会文学』への寄稿「沖縄における天皇の歌は何を語るのか」が活字になったこともある。

「思想史の会」の会での報告の模様は、以下の本ブログ記事を参照

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/06/post-167c.html(2016年6月27日)

昨2016年88日には、現天皇の「生前退位」表明があり、近く「有識者会議」の論点整理が発表され、国会でも各党協議が始まるというが、政府は、特例法による対応など、ほぼ着地を決めている。辺野古新基地建設承認取消訴訟では、最高裁の上告棄却を経て、工事が再開された。北部訓練場の一部返還はされたが高江のヘリパッド建設によって、基地機能は強化された。さらに、1213日には、名護市沿岸にオスプレイMV22が墜落、19日には飛行再開、年明けには空中給油再開、その後も米軍機の事故が相次いでいる。このような状況の変化によって、沖縄、天皇にかかわる問題は、重大な局面を迎えたと言える。本来ならば、日本国憲法下における日米安保条約・地位協定、そして象徴天皇制が照射され、論議されるべき機会であったはずなのに、政治やマス・メディアの世界では、そういう流れにはなっていない。

そんな時期に、新しい情報を踏まえて報告することは、いささかの緊張を伴った。準備を進めている間に、現天皇が、皇太子時代、夫妻で初めての沖縄訪問の折、1975年に、訪ねた国立ハンセン病療養所「愛楽園」(屋我地島)、2004年に訪ねた「南静園」(宮古島)に触れて、皇室と日本のハンセン病対策との密接な関係に着目せざるを得なかった。(注)1931年らい予防法の成立を機に「らい撲滅」「患者の強制隔離」の徹底を推進するため、節子皇太后による「御歌」(「つれづれの友となりても慰めよ ゆくことかたきわれにかはりて」)と「下賜金」に象徴される救らいとして「慈悲の心」が強調された。不治の病ではないとして治療を進める医師、特効薬プロミンの開発を無視する形で、敗戦後も隔離政策は引き継がれ、貞明皇后没後は、高松宮・喜久子夫妻が継承した。らい予防法が廃止されたのは1996年であり、ハンセン病患者への差別が違憲とされたのは、2001511日、国家賠償法訴訟の熊本地裁判決で、当時の小泉純一郎首相は控訴を断念、患者への謝罪がなされた。その後の報告書でも、ハンセン病対策に皇室がかかわったことによって差別が助長されたと、つぎのような報告がなされている。

「このように、藤楓協会は、その誕生から厚生省と一体の関係にあったのである。皇室の「仁慈」を強調することにより、全患協の運動を抑制し、「純然たる民間団体」を装って、「文化国家」に反するハンセン病患者の絶滅を目指し、隔離強化という国策を支持する世論を喚起したのである。」

(「第四章(4)藤楓協会及び皇室の役割)『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』20053月 150頁   https://www.jlf.or.jp/work/pdf/houkoku/saisyu/4.pdf

なお、藤楓協会は、2001年の本地裁判決を踏まえ、2003年3月解後「、その事業の一部は、社会福祉法人「ふれあい福祉協会」が引き継いでいる。

 というのも、現天皇夫妻の沖縄訪問は、皇太子時代の5回を含め10回を数え、訪問の折の夫妻の短歌や天皇の「おことば」、天皇誕生日記者会見での発言で、繰り返される沖縄戦犠牲者への慰霊や鎮魂、沖縄の現状への言及は、現天皇夫妻の個人的な沖縄への思い入れや意図とは異なり、別の役割を果たしていたのではないかと考えられたからである。

天皇の短歌や発言によって、沖縄の戦争犠牲者の慰霊を続け、沖縄の人々の心に寄り添い続けるということは、昭和天皇の沖縄にかかる「負の遺産」、敗戦末期の本土防衛のための沖縄捨て石作戦、敗戦直後の国体維持のための「天皇メッセージ」を払拭しようとする意図があるように思われたからである。さらに、敗戦後から現在に至るまで「国益」と称して、沖縄を差別し続けている政府の沖縄対策の欠陥を、情緒的に慰撫し、補完していないかとの危惧をいだいたからであった。

私の報告は、ほぼレジュメのような流れで進めて、約1時間半で終了、最後に、近年、いわゆるリベラル派と称される論者や表現者が、現天皇の発信や振る舞いから、その人間性に、親しさや信頼を寄せる発言が相次いることが、現憲法下での「象徴天皇制」の本質を見極めることへのバリアになっていないかとの不安を語ったのだった。

また、質疑の中で、参加者のお一人は、とくに歌会始の「選者」につながる人脈について、「短歌結社」に深く由来すること、選者の継承や陪聴者選びに至るまで、大きく影を落としていることを指摘された。私も、結社の主宰や選者たちが「右といえば右、左といえば左」的に、逆らわない歌人たちが多いことも実感していたので、これからも見据えていきたいと思った。また、お一人は、橋本喜典と岡井隆の短歌作品を比較して、岡井の無邪気なまでの宮廷入りに酔いしれている様子が紹介された。一方、美智子皇后の短歌の魅力を語る参加者もいらした。

会場の喫茶店「パンドラ」のオーナーでもある梓志乃さん、司会の久々湊盈子さんと田村広志さん、城間百合子さんらのお世話になった。当日配布の「報告概要」と「資料」を若干補充し、添付した。

なお、近く、私は、屋我地島の「愛楽園」、渡嘉敷島の戦跡などを訪ねたいと計画を進めている。

「報告概要」と「資料」:

http://dmituko.cocolog-nifty.com/okinawanotennonotanka.pdf

(注)

皇室とハンセン病との関係については、以下の文献などを参考にした。

片野真佐子『皇后の近代』 講談社 2003年11月

大塚郁「戦中期の<皇恩>とハンセン病者の文芸―序説」『千葉大学社会文化科学研 究プロジェクト成果報告書』156号 2008年3月

原武史『皇后考』 講談社 2015年2月

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2017年1月14日 (土)

「歌会始」のテレビ中継を見て

きのうは、私のブログへアクセスがいつになくにぎわった。検索のキーワードは「歌会始」だった。私も、113日「歌会始」のNHKのテレビ中継を見た。そして、今朝の新聞記事も読んだ。

昨年は、88日の天皇の「生前退位」表明をめぐって、「天皇制」は重大な局面を迎えたはずだった。「そもそも日本国憲法のもとの<象徴天皇制>ってなんだ?」ということを考えるチャンスであったはずが、現在はそういう流れにはなっていない。

今年の「歌会始」の「野」への応募歌数が20205首だったそうだ。近年では、2万首超えることが少なくなっていて、昨年の18962首を少し上回ったが、今年の入選作品や皇族、選者たちの作品にも、新聞で“話題になる”になるような歌が少ないらしく、目立つ記事も見当たらなかった。また、出席の皇族方も、三笠宮家の喪中でもあったためか、男性は皇太子と秋篠宮の2名、女性は、秋篠宮妃紀子さんと眞子さん、常陸宮妃華子さんの3名という寂しさである。平成30年で終わった時、「歌会始」に今の天皇・皇后はどのあたりに座るのかな、それとも出席しないのかな、など余計な心配もする。NHKの中継を見ていると、入選者の事前取材も入選作を予知しているかのようだし、昨年713日のNHK「生前退位」スクープ報道も宮内庁とNHKの蜜月を思わせ、キナ臭さを感じた。いずれにしても、代替わりを前に、ジャーナリズムの報道姿勢と動向は、注視しなければならないだろう。

近く「生前退位」の有識者会議の論点整理も発表されるが、これとて、政府への忖度は必至だろうし、政府は先のめりに「特例法だ」、「元号だ」と盛んに地ならしを進めている。

 

先ほど気付いたのだが、中島一夫さんのブログ(KAZUO Nakajima 間奏)で、昨年8月号の『ユリイカ』の拙稿「タブーのない短歌の世界を―『歌会始』を通して考える」を紹介してくださっていた。思いがけない読者からの声に、力をいただいた。

KAZUO Nakajima 間奏

http://d.hatena.ne.jp/knakajii/20170108/p1201718日)

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2016年12月14日 (水)

吉川氏との<論争>その後

 はや12月、今年は、私にとってめったにない経験をさせてもらった。というのも、すでにこのブログでもお知らせしたように、私が会員となっている『ポトナム』(2016年7月号)での歌壇時評に、『うた新聞』紙上で、吉川氏は反論を書き(8月号)、それに私が答えたところ(9月号)、また吉川氏の反論が掲載された(10月号)。以下は、『うた新聞』11月号の私の答えである。同新聞の12月号には、その応答がない。

 そもそも、発端は、私が『ポトナム』の歌壇時評で、2015年、安保関連法案が強行採決された後、開催された二つのシンポジウム「時代の危機に抵抗する短歌」(京都)「時代の危機と向き合う短歌」について、主催者側の吉川宏志氏と三枝昂之氏が「時代の危機」というより、歌人は「言葉の危機」にどう向き合うか、という視点で総括されていたことに疑問を呈した、ことに始まる。吉川氏は、私の時評の、シンポジウム参加者の感想の引用部分を私の言葉として、それを前提に非難してきたので、そこを明確にしてほしいことと、私がこれまで、他の著作でも主張したことのない言説をもって難じていることに、いささか困惑したのである。私の第1回目の反論は、以下をご覧ください。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/10/89-e189.html

 

 さらに、吉川氏の反論は、私が時評や反論で言及していないことや他の雑誌の小文にまで及び、その主旨をねじまげ、自らの稿を進めたのである。私の2回目の反論は、末尾に再録した。

 二人のやり取りについては、あまり反響がないようなのだ。多くは当たらず触らず、ということなのだろう。今のところ、友人にご教示いただいた「歌壇時評・今問われているもの」(今井正和『くれない』2016年11月号)と「2016年評論展望」(屋良健一郎『(短歌研究)短歌年鑑』2016年12月)の中で言及されている。貴重な発言として受け止めたい。

 なお、直接ではないが、吉川・内野の双方に登場する『ユリイカ』の拙稿について、「歌壇時評・ぼくも行くかも」(斉藤斎藤『短歌人』2016年11月号)では、「歌会始の選者を引き受ける歌人を筆者は批判する気にはなれない」として、佐佐木幸綱のかつての言「俺は行かない」を模しての表題であった。「活躍」する歌人の「配慮」に充ちた発言としての典型なのかしらと思いつつ、やはり寂しかった。

 また、私が最初の時評で引用し、吉川氏が曲解したた岩田亨氏のブログでの発言であるが、その岩田氏が、『うた新聞』へ寄稿されると、自身のブログで公表された。さらに、上記『短歌年鑑』の屋良氏の「評論展望」への反論も『短歌研究』に書かれるそうである。その展開に期待したい。

 

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吉川氏「<いま>を読む」に再び、応える  

      

 前号の「<いま>を読む」は、私の九月号の反論であった。そこでは、私の『ポトナム』時評を八月号同様に「印象」をもって読み通すことに終始していた。「歌会始選者に安保法制について論じる資格がないというような言い方には無理があろう」、三枝氏の著書の「どこを読んだら、<戦中の歌人の戦争責任を不問に伏す>という言葉が出てくるのだろう」という二つの疑問が返ってきた。しかし、その疑問の設定自体が、私の二つの文章や表現(『ポトナム』七月号、『うた新聞』九月号)に即したものではなく、捻じ曲げられてしまっているのが残念だった。関連の質問もあるので、念のため答えておきたい。

「歌会始選者」と「集団的自衛権を強引に進める政権」への批判は矛盾しないのではないか、という。私は、シンポジウム登壇者に「歌会始選者」がいると気づいたという参加者の文章を引用はしたが、その評価にも、矛盾にも言及はしていない。

吉川氏は、『ユリイカ』八月号の小文を引用して、「歌会始選者」と「赤旗歌壇選者」の兼任についての私の疑問に触れ、氏は、両者の兼任は「交流する」ことによって「タブーでなくなったという意味」で評価をする。「タブー」であったという意味が不明だが、私は、特定の歌人による兼任だけを問題視したわけではない。『ユリイカ』で、私が言いたかったのは、ジャーナリズムや論壇において、基本的な核となる争点での対立を避け、「寛容」や「共存」へとなだれ込んでゆく現象を背景に、言論の自由・自立を脅かす異論の排除・無視という重苦しい潮流がある、ということであった。それを見据えずに政権批判や権力に抵抗することが、ますます困難になることへの不安であった。

三枝氏の『昭和短歌の精神史』について、私は、氏が「既存のフィルター」を排し、戦争期と占領期の作品に向かうことを提唱しながら、みずからも「<時局便乗批判>から歌人たちの戦中をもう少し自由にしたい」というフィルターに固執してしまっている、と評したことがある(『天皇の短歌は何を語るのか』八九~九〇頁)。今回、吉川氏が、私の引用した「戦争責任を不問に付す」という岩田亨氏の発言を私の発言にすり替えてしまうことに困惑している。岩田氏の言と私の上記の言に、重なる部分があるとしても、すり替えることは、読者に誤解を与え、岩田氏にとっても迷惑であったろう。

 なお、シンポの表題が、京都での「時代の危機に抵抗する短歌」が、東京では「時代の危機と向き合う短歌」に変わり、『記録集』の書名も後者になっていた。「時代の危機」「言葉の危機」と称される状況は、他ならない私たち自身が作り上げてしまった結果でもある。登壇者もパネリストたちも口にする「自主規制」や「自粛」、表現者一人一人の「自主規制」との内なる格闘こそが先決で、「向き合う」という着地では、どちらの「危機」も越えることはできないだろう。

(『うた新聞』201611月)

 

 

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2016年10月19日 (水)

吉川宏志氏「<いま>を読む(4)~批評が一番やってはいけない行為」(『うた新聞』8月号)への反論、9月号に書きました

 

 以下は、上記8月号の吉川宏志氏の文章への私の反論です。その経過は、つぎの当ブログ記事をご参照ください。なお、吉川氏の私へ反論、再反論の文章は転載できませんので、あわせて『うた新聞』の吉川氏の文章をお読みくださればと思います。

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『うた新聞』』(いりの舎)10月号、吉川宏志氏の「<いま>を読む」(6)内野光子氏に答える」は、私への再反論でした

 私が会員である『ポトナム』7月号の「歌壇時評」(当ホームページに「時代の<せい>にするな」として登載)に対する吉川氏の反論が、『うた新聞』8月号「<いま>を読む(4)~批評が一番やってはいけない行為」として発表されました。発端となった「歌壇時評」は730日の記事を、また経過は、89日の記事をご覧ください。

 なお、私の再反論も、『うた新聞』11月号に掲載予定です。

2016730 ()

「時代」の所為(せい)にはするな~私の歌壇時評

20168 9 ()

「うた新聞」吉川宏志「<いま>を読む~批評が一番やってはいけない行為」という私への反論

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吉川宏志氏「<いま>を読む(4)~批評が一番やってはいけない行為」に応える

(『うた新聞』20169月号所収)

 

本紙八月号の上記記事は、『ポトナム』七月号掲載の私の歌壇時評への反論だった。八月八日、その記事の名前表記にミスがあったということで、編集部と執筆者からお詫びの連絡が入り、その際、反論の機会をいただくことになった。

私の『ポトナム』の歌壇時評は、私のブログにも再録している(「内野光子のブログ」「《時代》の所為(せい)にするな~私の歌壇時評」(二〇一六年七月三〇日)は、京都「時代の危機に抵抗する短歌」と東京「時代の危機と向き合う短歌」という二つのシンポジウムについて書いている。

たしかに、私は、二つのシンポに参加してはいないが、時評の前半を使って、京都での呼びかけ人吉川氏による『現代短歌新聞』(二〇一五年一一月)、東京での呼びかけ人三枝昂之氏による『現代短歌』(二〇一六年三月)の報告から引用して、その内容を伝えている。私は、これらの報告を読んで、「時代の危機」が「言葉の危機」に置き換えられていくことに危惧を覚えたことを率直に述べたのである。この二つのイベントについて、多くのメディアに掲載された記事や感想の大方は、好意的なものであったことも承知している。

私の時評の後半の三分の一では、シンポに参加した二人の歌人が書いている感想をブログ記事と雑誌記事から引用紹介した。最後に、内野のシンポへの感想として「私には、壇上の歌人たちが『時代に異議を申し立てた』という『証拠』を残すためにこうした発言の場を設けたように思われた」と記し、その文章に続けて「一過性に終わることのないように本気度を見せてほしいと思った。近く記録集が出るというので、若い人たちの討論の内容も確かめたいと思う」と結んでいる。

ところが、吉川氏の文章は、私が、参加したI氏の感想として引用した部分と私の地の文とをないまぜにし、引用の際のカギかっこ「 」の使い方が不明確であった。その上、内野の時評で、二つのシンポについて指摘した「危惧」には、何ら応えてはいない。

さらに、吉川氏は後段で、(内野が)「天皇制を絶対的な悪と考えている」といい、「天皇制への賛否によって、善悪を割り切るような思想を、私は最も憎む」と結ぶが、私は、今回の時評で、「天皇制」にも言及しておらず、これまでの著作で「絶対的な悪」という言葉も使ってはいない。私が言い続けてきたのは、「天皇」というシステムと日本国憲法が基本理念とする主権在民・平等主義との矛盾であり、天皇・皇室をめぐる権威や国民との「親しさ」を利用しようとする権力に対する「現代短歌」の無防備と「現代歌人」の節操の無さであった。事実を積み重ね、実証に努めてきたつもりである。

また、「主張のために真意をねじ曲げて解釈する行為は、批評が一番やってはいけない」とも書いて、内野が何をどうねじ曲げて解釈しているのかも判然とせず、これこそ、印象批評の憶測の域を出ない一文ではないかと思った。

なお、吉川氏は、「NHKや新聞の方が、『政治的中立』を名目にして、政府に批判的な論者を排除しようとしている時代なのだ」とし、「内野はそこが分かっていない」とも断じている。彼のメディアへの現状認識は、私も同感である。だから、私もこれまで、退職後は、メディア論を少しく学び、ここ10年は、たとえばNHKの改革を目指す市民活動に参加し、個人的にも、具体的な報道番組や記事に際して、その都度、文書や電話などで抗議や申し入れを続けてきた。その一部は、ブログや著作などでも報告している。上記のように断ずる前に、多忙とはいえ、多少なりとも確認するのが、評者としてのルールではなかったか。「伝聞情報で憶測を書く」という禁じ手に自ら走ってしまったのである。

私は、歌壇には、もっと論争が起こればいいと願っている。異なる意見を持つ者との議論が民主主義の根幹であり、「反論に値しない」と無視することの恐ろしさにも思いが至る。ただし、論争するのであれば、①論難されている当事者がまず受けて立つこと ②反論は、相手の論の核心部分を突くこと ③相手の文章の引用や先行研究の引用は、明確に表示すること、などが基本的なルールかと思う。①については、歌壇における論争が、いわば「保護者」同士や「弟子筋」同士の<代理>論争的な側面を持つことも多々あるからである。もちろん多くの人が参入することは大いに望まれるところである。②については、論点をずらしたり、末節を切り取ってきたり、過去に遡ったりすると焦点が拡散し、「愚痴」にもなりかねないからでる。③も基本的なマナーだが、今回の吉川氏の本紙記事における引用の表示が曖昧だったことは前述のとおりである。

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2016年8月 9日 (火)

「うた新聞」吉川宏志「<いま>を読む~批評が一番やってはいけない行為」という私への反論

88日、午後3時前、天皇の「お気持ち表明」なる「玉音放送」を待っているとき、「うた新聞」(いりの舎)の編集部から8月号の吉川宏志「<いま>を読む第4回―批評が一番やってはいけない行為」の記事に印刷の不手際があったとの連絡を受けた。間をおかずに、吉川さんからも電話をいただいたので、誤植ではなかったらしい。その折、「うた新聞」紙上に、その反論を書かせてもらえることになった。

それはともかく、上記の記事は、私の『ポトナム』七月号の歌壇時評への反論であった。当ブログ記事「『時代」の所為(せい)にはするな=私の歌壇時評」(7月30日)として再録している。私への異論があったこと自体、貴重な体験となった。

歌壇には、もっと論争が起こればいいと思っている。異なる意見を持つものとの議論が民主主義の根幹でもあり、「反論に値しない」と無視することの恐ろしさを思う。ただし、あえて、注文するならば、①論争をするのであったら、論難されている当事者が受けて立つこと ②反論は、相手の論の核心部分を突くこと ③相手の文章の引用や先行研究の引用に関しては、明確な表記をすること、などなど・・・。①については、いわば「保護者」同士や「弟子筋」同士の<代理>論争的な側面を持つことも多いからであり、②については、論点をずらしたり、末節を切り取ってきたり、過去に遡ったりすると焦点は拡散し愚痴になりやすいからである。③は、今回の吉川さんの私の文の引用がとてもわかりづらかったからでもあった。

 いま、吉川さんの言いたいことは何だったのか、読み込んでいる。

 

 

 

 

 

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2016年7月30日 (土)

「時代」の所為(せい)にはするな~私の歌壇時評

以下もやや旧聞に属することになってしまったが、5月中旬締め切りで、歌誌『ポトナム』に寄せた時評である。

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2015927日、緊急シンポジウム「時代の危機に抵抗する短歌」(同実行委員会主催)が京都で、同年126日、緊急シンポ「時代の危機と向き合う短歌」(強権に確執を醸す歌人の会主催、現代歌人協会・日本歌人クラブ後援)が東京で開催された。「時代の危機」という言葉もあいまいながら、どちらにも参加できず、隔靴掻痒の感はぬぐえないが、その感想を記録にとどめておきたい。

 

京都での呼びかけ人、吉川宏志は「安保法制など、憲法を揺るがす事態が起こっている現在、私たちは何をどのように歌っていくのか。近現代の短歌史を踏まえつつ、言葉の危機に抵抗する表現について考えます」と訴え、表題の「時代の危機」は「言葉の危機」に置き換えられていた。京都での三枝昻之は、戦中戦後の短歌雑誌に対する検閲にかかわり、歌人みずからの自己規制の危うさを語り、永田和宏は、最近の政治家の失言を例に、脅迫的な暴言を繰り返す危険な言葉遣いを指摘、歌人は危機感をもっと率直に表明することの大切さを語った、と総括する(吉川宏志「時代の危機に抵抗する短歌~緊急シンポジウムを終えて」『現代短歌新聞』201511月)。

 

東京では、永田が「危うい時代の危うい言葉」と題して、民衆の表現の自由が民主主義の根幹ながら、その言葉が様々な手段で奪われようとしている危機を語り、レジメには、「権力にはきつと容易く屈するだらう弱きわれゆゑいま発言す」などの短歌が記された。今野寿美は「時代の中の反語」と題して与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」を例に時代状況の中で曲解・悪用されてきた事実を指摘、表現者のとして自覚の重要性を説いた。予告にあった佐佐木幸綱の「提言」は、本人が風邪のため中止になったらしい。

 

東京での呼び掛け人であった三枝は、シンポの表題を京都のそれと比べ、「時代の危機と向き合う・・・」として、「ソフト」にしたのだといい、シンポの主題は、「安保法案の是非ではなく、政治の言葉の是非」であると、繰り返し述べている(「2015126日シンポジウムを振りかえる」(『現代短歌』20163月)。

 

二つの集会のキーマンである吉川、永田、三枝の三者は共通して、「時代の危機」というよりは「言葉の危機」を強調したかったのではなかったか。「時代の危機」を前提にしながらも、あえて「言葉の危機」「政治の言葉」に置き換えたことは、見逃してはならないと思う。「安保の是非」は横に置いておいて、歌人は「言葉の危機」にどう対応するかの念押しに、参加者の多くは、やや肩透かしを食らった気がしたのではないか。

 

東京の集会に参加した石川幸雄は、永田の「投獄されて死んでゆくのは犬死だ」と怯える姿を目の当たりにした後、「ここで 登壇者の内三名(三枝、永田、今野)が宮中歌会始めの選者であることに気づいた」と記す(「カナリアはいま卒倒するか」『蓮』20163月)。岩田亨は、永田は「怖い」を連発していたが、何がそんなに「怖い」のか、「<NHK短歌>や新聞歌壇の選者から降ろされるのがこわいのか。考えて見ると歌人の地位を失うのがこわいらしい」と、三枝については「『昭和短歌の精神史』は戦中の歌人の戦争責任を不問に付し」た「歴史観が今日の状況を作ったのではないか」と報告している(ブログ「岩田亨の短歌工房」2015128日)。私には、壇上の歌人たちが時代に「異議を申し立てた」という「証拠」を残すために、こうした発言の場を設けたように思われた。一過性で終わることのない本気度を見せてほしいと思った。近く記録集(*注)が出るというので、若い人たちの討論の内容も確かめたいと思う。(『ポトナム』20167月号所収)

*注 『(シンポジウム記録集) 時代の危機と向き合う短歌~原発問題・特定秘密保護法・安保法制までの流れ』(三枝昻之・吉川宏志共編 青磁社 2016年5月8日)の書名で刊行された。

 

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2016年7月28日 (木)

『ユリイカ』8月号、<特集・新しい短歌、ここにあります>に寄稿しました。

 私は、つぎの題で書いています。

◇三十一文字のポエティック

タブーのない短歌の世界を―「歌会始」を通して考える

以下の目次を見ると、拙稿は、場違い?アウェー?の感を免れませんが、いろいろ頁を繰っていると、思いがけない”歌人”にも出会えますし、これから短歌を始めたい人も、短歌を詠み始めて久しい人も、たかが短歌と思っている人も、新しい発見があるかもしれません。

目次は以下をご覧ください。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=2962

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2016年5月17日 (火)

「平和の俳句・老陛下平和を願い幾旅路」(『東京新聞』2016年4月29日)

  やや旧聞に属するが、連休中の新聞は、旅行中だったり、帰宅後高熱に見舞われたりして、しばらく読めなかった。まとめて読んでいて驚いたのである。  冒頭の俳句は、東京新聞が昨年から戦後70年を記念して広く募集している「平和の俳句」企画の一環で、昭和の日に発表されたものだった。作者は74歳とある。いとうせいこうと金子兜太が選句、毎日、一面に一句づつ連載されている。ときどき、編集部員の選句などの特集をやっていて、興味深く読んでいた。ところが、この日の金子兜太の選評に驚いた。「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。」とあったのだ。

    しかしである。この句を選び、上記のような選評を寄せた金子兜太(1919~)といえば、直近では「アベ政治を許さない」とのプラカードを揮毫した俳人である。この違和感は何だろうか。 もっとも、少し、さかのぼれば、日本銀行を定年まで勤め、句作に励み、俳句関係の賞を総なめにし、1988年紫綬褒章、1996年勲四等旭日章、2003年日本芸術院賞、2008年文化功労者を受章、残すは文化勲章くらいと思われる”順調な“コースを歩んできた俳人と言えよう。さらにさかのぼれば、1941年から『寒雷』に投句、加藤楸邨に師事、敗戦後、文芸上の「社会性」が問われると「社会性は態度の問題である。―社会性があるという場合、自分を社会的関連のなかで考え、解決しようという『社会的な姿勢』が意識的にとられている態度を指している」(「俳句と社会性」『風』1954年11月)と表明、方法を模索、前衛俳句の旗手として活躍」(松井利彦編『俳句辞典近代』桜楓社1977年11月126頁)した俳人だった。「俳句造型論」を掲げ、社会性俳句を経て、更に難解性を増し、主体の尊重から季語を持たない一行詩の性格を強めたが、その後は伝統への回帰を志向していると、その辞典にはあった。1962年『海程』を創刊、後代表となり、1987年からは「朝日俳壇」の選者を務め、今日に至っている。俳人だった父を持つ出自といい、歌壇でいえば岡井隆のコースにも似ているな、と思った。さらにさかのぼれば、1943年、東京帝大経済学部を繰り上げ卒業して、日本銀行に入り、海軍経理学校を経て海軍主計中尉として、トラック島に着任、飢えのため多くの部下を失って、捕虜となり復員・復職している。戦地を去る日を「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置いて去る」と詠んでいる。過酷な戦地体験が、後の句作に大きな影響をえていると、本人もいろいろなところで述べている。

    金子兜太に限らず、近年の天皇夫妻の被災地訪問や戦没や慰霊の旅や「おことば」についてメディアで発言するとき、突然、最高級の敬語を使ったり、その「平和を願う」内容を称揚したり、その労をねぎらう「識者」や「文化人」が増えてきている。「歌会始」の傘のもとにある歌壇人はじめ、保守政治家・論者・政治団体ならいざ知らず、リベラルや民主主義を標榜している人々の中にも、目立つようになった(文・矢部宏治、写真・須田慎太郎『戦争をしない国―明仁天皇メッセージ』 小学館2015年7月など)。また、これまでの「党是」により出席を拒んできた日本共産党が天皇の出席する国会開会式に出席し、歌会始の選者を赤旗歌壇の選者に据えるなど、天皇への傾斜や親密性をあらわに表明してはばからない。その理由が実に粗雑極まりないのである(「ことしのクリスマス・イブは(2)(3)~なんといっても、サプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった!(その1・2)」2015年12月28日。「ことしのクリスマス・イブは(4)~歌会始選者の今野寿美が赤旗「歌壇」選者に」2015年12月29日参照。http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/index.html   )。

  憲法上の「象徴天皇制」のもとですら、その法的根拠が曖昧な天皇や皇族の行為をこのまま見過ごしてしまってよいのかとも思う。いまの政治が余りにも反動的だからと言って、「天皇」にすがるような、寄りかかるような言動は、慎まなければならない(「戦後70年 二つの言説は何を語るのか」 2016年1月11日http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/01/70-6a1c.html)。 天皇夫妻は、今月の19日にも日帰りで熊本の被災地を訪問する予定という。被災住民の住居確保、瓦礫処理がすすまないところも多く、天皇夫妻を迎える準備や警備についても十分想像ができるなか、いつも思うのは、マス・メディアは好んで、訪問先の人々の感謝の言葉や前向きな声を拾おうとするけれど、具体的にはどんな成果が期待できるのだろうか。  結論から言えば、現政府の対応のまずさや遅れを、精神的に少しでも補完し、緩和する役目しか果たしていないような気がしてならない。天皇夫妻の、その個人的な誠意とは別に、結果的に現政府を利するという政治目的のために利用されてはいないのか。そうした懸念を拭い去れないでいる。皇室、天皇への傾斜や親密性の拠って来るところは何なのか、日本にとっても、私にとっても大きな課題である。  

    「日の丸・君が代」裁判の教師たちの弁護人の一人である澤藤統一郎弁護士のブログで、いち早く、くだんの「平和の俳句」に触れている記事を後から知った。あわせて、お読みいただければと思う (「昭和の日」の紙面に、「いま読む日本国憲法」と「天皇ご夫妻に頭が下がる」の記事「澤藤統一郎の憲法日記」2016年4月29日http://article9.jp/wordpress/?p=6807 )。

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2016年 4月29日『東京新聞』一面

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2016年3月20日 (日)

「短歌サロン九条」(憲法九条を守る歌人の会)“柳原白蓮を語る”に参加しました ~「評伝」におけるオマージュについて

 会員ではないけれど、いつも会報『歌のひびき』を頂いていて、319日の例会で、中西洋子さんの柳原白蓮についてのレポートがあることを知った。今回ばかりは、ぜひお聞きしたい報告であった。私は、2年ほど前に、白蓮が編集した『塹壕の砂文字』(1938年)という短歌のアンソロジーを入手していた。その表題紙に近い遊び紙に、白蓮の手になるサインと献呈先が書かれていて、その献呈先の名前が気になっていた。その名前の検索に端を発して、白蓮のことを調べ始め、その顛末をある雑誌に寄稿したばかりだったのだ。まだ、調査の途上だったからである。 

 会場は、八丁堀の喫茶店貸切りで、24名の参加者であった。中西さんの報告は「柳原白蓮と戦後の活動」と題されていたが、やはり、1945年以前の話が中心となった。白蓮や宮崎龍介の出自にもわたり、歌集の作品に添った鑑賞もあり、とても分かりやすかった。私も時代、時代の初出作品はなるべく読むようにしてきたが、「歌集」として読み通すことはなかったので、その変化などに言及された点が興味深く思われた。さらに、これまでの中西さんの論考では、触れていなかった上記『塹壕の砂文字』の編集については、前線や銃後の人々という弱者への配慮が行き届いている点を強調された。また、これまで触れることのなかった『皇道世界』(19442月)に発表された「吾子は召されて」の作品もレジュメに記載されていたことだった。  

レポート終了後、私は、初めての参加ながら、少し図々しかったかもしれないが、つぎの2点を確かめておきたいと質問した。私自身は、関心のある歌人に向き合うとき、日中戦争下、表現者としてどんな作品を発表し、どんな行動をしたか、それを戦後どのように考え、歌人としての活動をどのように続けたか、に着目することにしている。したがって、一つは、白蓮についても、『塹壕の砂文字』に寄稿している十首、長男が学徒出陣で出征したときに繰り返し寄稿していた作品群と戦後の作品とのギャップというか整合性についてどう考えるか、であり、一つは、上記の『塹壕の砂文字』の献呈先から、行き着いた生長の家、当時の大陸侵攻、天皇崇拝、聖戦完遂を積極的に推進していた生長の家との関係についてであった。中西さんは、白蓮は、時代と素直に向き合っていたことはたしかで、何が本心だったのか、分かりません、とも答えられ、また、白蓮の宗教観は、仏教はじめ大本教や天理教などの宗教に対しては、広く関心を示し、招ばれれば、どこへでも出かけて行って、講演などいとわなかった、との話をされた。 

その後、この会の恒例ということで、参加者全員の感想が述べられた。多くの方は、白蓮の華やかな、あるいはスキャンダラスな面しか知らなかったので、今回全体像を知ることができた、勉強できたというものだった。戦時下の作品や言動については、当時は、誰もが権力者に逆らうことができなかった、あるいはマインドコントロール下にあったが、長男の戦死によって、目が覚めて戦後の活動に繋がったことがわかった・・・との発言、「あの白蓮さえも、戦後は平和運動に命をかけたのだ」という思想の変遷、弱い者へのまなざしは自分の出自や社会運動家となった宮崎龍介の影響もある、などといった感想や応答を聞いていて、思うことは多々あった。 

一人の人間の生涯を見つめるとき、その足跡の意外性や物語性に目を奪われて、たとえばその思想の変容の軌跡を、他愛なく許容してしまってはいないか。実は、その底に流れているものを見過ごしてはいないかが、私には重要な課題である。ちょうど、『短歌研究』4月号の特集「評伝を考える」が興味深かった。評伝のスタートは、「一次資料」であって、家族や遺族に依拠する資料や証言は、執筆者にとっては、補充資料だろう。関係者への配慮があると、ほんとうの評伝は書けず、たんなるオマージュになる可能性が高くなるのではないか、と思っていた矢先であった。評伝にかぎらず、近頃のマス・メディアの識者のコメントや登場人物の傾向を見ていると、その人の過去の言動には、目もくれず、現在の、そのメディアの都合の良いことばだけがピックアップされ、中身というより、現在の肩書にものを言わせるような流れが出来上がってしまっていないか。肩書信仰、学歴信仰が蔓延している、そんなところに、今、話題にもなっている「学歴詐称」問題も浮上したのだと思う。 

 私は、二次会に参加できなかったのだが、会終了後、参加者との立ち話ができたのが収穫でもあった。何人かの方に、声をかけていただいたが、拙ブログの「ことしのクリスマス・イブは(4)~歌会始選者の今野寿美が赤旗<歌壇>選者に」(20151229)を読んだ方もいらっしゃって、「今野さんという選者選びがおかしい」「編集部から、これまでの赤旗の選者たちには全く相談がなかったらしいです」と、党機関紙の姿勢に疑問を投げる人もいた。そう、きょうの参加者の中には、現役、過去も含めて赤旗歌壇選者が数名いらっしゃったのである。「今野さんの歌会始の短歌、ひどいですよね」「赤旗歌壇の今野さんの選が、あまりにもおもねているので、驚いちゃった」といった声もあったのだ。

 雨が上がった週末の広尾界隈、初めて通る道もあった。

 

追記:なお、冒頭の白蓮についての拙文は、『日本古書通信』4月号(415日発売)に掲載予定です。

 

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