2020年7月13日 (月)

岡井隆死去報道に接して~亡くなると<旗手>になったり、<巨人>や<巨星>になったり・・・

 7月10日、岡井隆が92歳で亡くなった。7月12日の朝刊で知った。いくつかの新聞記事を読んで、やっぱりな、と思う。岡井が1993年、歌会始の選者になったことをどう伝えるかに、私の関心はあった。
 『朝日新聞』は社会面で「岡井隆さん死去 歌人 現代歌壇を牽引」との見出しで伝えた。同日の「天声人語」にも登場した。そこでは、「破格、破調の堂々たる生き方であった」と締めくくっていた。社会面の記事では「92~2014年に宮中歌会始の選者。かつてマルクス主義者を自称した歌人だっただけに選者を引き受けた時は一部から批判が上がり、話題となった(赤字の92は93が正しい)。07年から18年には当時の天皇、皇后両陛下や皇族の和歌御用掛も務めた」と記す。前日7月11日のデジタル版(14時14分)の見出しは若干ニュアンスが異なり「文化功労者の歌人 岡井隆さん死去 皇族の和歌の相談役」となっていた。

 『東京新聞』は「岡井隆さん死去 前衛短歌運動の旗手」と一面で伝えた。その末尾に「九三年から宮中歌会始の選者、二〇〇七年には皇族に和歌を指導する宮内庁御用掛になった。社会派として活動してきた歌人が宮中行事に参加することは大きな議論を呼んだ」とある。また社会面では、「戦後短歌の歴史体現 時代捉え作風変遷」との記事とともに、東京新聞歌壇選者の東直子と現代歌人協会理事長の栗木京子のコメントがつく。コメントの二人は、それぞれ自身との交流に触れつつ「常に新しいものを取り入れようとしていた」、「新しい潮流にいち早く身を投じて自分の栄養にする」と語っていた。

 『毎日新聞』は、「岡井さん死去 前衛短歌、戦後歌壇けん引」とあり、その冒頭には「前衛短歌運動の旗手として戦後歌壇をリードし、皇室の和歌の指導役も務めた歌人で文化功労者の岡井隆さん・・・」とあり、その末尾でも「宮中歌会始選者を歴任。07年から18年まで宮内庁御用掛を務めた」とあった。日本現代詩歌文学館前館長篠弘と馬場あき子のコメントを付していた。

 『産経新聞』電子版(2020.7.11 13:29)でも「歌人の岡井隆さん死去 前衛短歌運動の旗手」で、「昭和期の前衛短歌運動を牽引(けんいん)し、宮中歌会始選者も務めた歌人で文化功労者の岡井隆さん・・・」で始まり、末尾に「(平成)19年から天皇陛下や皇族方の和歌の相談役として宮内庁御用掛を務めた」とある。

 『日本経済新聞』電子版(2020/7/11 15:15)では「岡井隆さん死去 92歳、戦後短歌界けん引した歌人 」とあり、同紙「カバーストーリー」では「安住と闘った戦後短歌の巨人」とあった。

 『産経スポーツ』(7月11日19時20分)では、東直子と伊藤一彦が、それぞれに「若い人にフラットで穏やかに接してくれた」、「戦後歌壇において塚本邦雄と並ぶ巨星で、包容力があり、話していると本当に心地よい」などとコメントしていた。

 総じて「前衛短歌(運動)の旗手」であり、「歌壇を牽引」したというのが、岡井へのほぼ定まった評価なのだろうか。「前衛短歌の旗手」であった歌人と皇室との濃厚な接触関係については、「話題となった」「議論を呼んだ」と素通りするか、むしろ、それを功績として評価するような書きぶりに思えた。また、「歌壇を牽引」「短歌界を牽引」というのは、ある意味、実情に近いのかもしれない。牽引したのは「短歌」ではなく「歌壇」であったと思われるからである。さまざまな形で、とくに後進の歌人たちへの指導力や政治力を発揮しながら、歌壇での地位を不動のものとしてきたのではないか。また、亡くなった人が、その世界、業界の<巨星>や<巨人>になったりするのはよく見聞きする。著名人の訃報や追悼記事に贈られる定番の賛辞でもある。そして、多くの人たちが、競うように、岡井と自分との出会いや交流を語り、オマージュが氾濫するにちがいない。 
 今後しばらくは、<歌壇>では岡井隆追悼記事が目白押しになるだろう。これまで、岡井隆の皇室への接近とそれをめぐる歌壇の状況について、幾度か言及してきた私としては、当分、目が離せない。

 岡井さん、お疲れさまでした。追悼特集では、だれが、どんな発言をするのか、ゆっくりと楽しまれることでしょう。

 ご参考までに、以下が関連する主な拙稿です。
「歌会始選者の系譜」『短歌と天皇制』(風媒社 1988年10月)
「歌壇に”最高実力者“はいらない」『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年2月)
「<歌会始>をめぐる安心、安全な歌人たち」『天皇の短歌はなにを語るのか』(御茶の水書房 2013年8月)
「タブーのない短歌の世界を <歌会始>を通して考える」(『ユリイカ』2016年8月)

以下は、本ブログ記事です。  

「見回せば<岡井隆>はどこにでもいる~2015年8月に」
(2015年8月2日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/08/20158-df41.html
「勲章が欲しい歌人たち、その後~岡井隆が文化功労者に」(2016年11月4日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/11/post-0cbe.html

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2020年2月13日 (木)

何度でも、くどいようですが、歌壇と天皇制

 私が会員になっている『ポトナム』の歌壇時評に、1月号に引き続き、寄稿しました。くどいようですが、また、短歌と天皇制の問題です。改元を機会に、歌壇での事実を確認、整理し、手立てを考えなければと思っています。記事の末尾に、関連の最近の当ブログ記事をまとめておきました。重なる部分も多いかと思いますが、ご覧いただければ幸いです。

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 昨年のマス・メディアは、改元で新しい時代が来るかのような政府広報に加担した。そして、「象徴」を全うしたとして平成の天皇を称揚した。歌壇では、『短歌研究』一月号は、特集〈平成の大御歌と御歌〉を、角川『短歌年鑑』は、特別企画「歌会始の三十年」を組んだ。

 これらの動向に最も早い反応を示したのは、若い世代の瀬戸夏子(一九八五生)で、『短歌研究』特集について「戦後短歌は終わったのかもしれない、と思った。」という発言だった。「ここでは短歌は天皇制ときれいに順接であった。」と批判した(「白手紙紀行⑽」『現代短歌』二〇一九年二月)。続いて、大辻隆弘(一九六〇生)は、『朝日新聞』の「歌壇時評」(「短歌と天皇制」二〇一九年二月一七日)において、「以前なら厳しい批判に曝されたであろうこの特集に対して歌壇は無反応だった」ことを挙げ、「天皇制アレルギー」はもはや薄らいだとし、批判をけん制するかのような発言をした。二〇代の廣野翔一(一九九一生)は、その特集に触れて、拙著の「どんな言い訳をしようと、国家権力に最も近い短歌の場所が歌会始ではないか。短歌の文学としての自立は、国家からの自立にほかならない」(「戦後六十四年、歌会始の現実」『天皇の短歌は何を語るのか』二〇一三年)を引用し、「これは正論である。正論ではあるけれど・・・」としながら、「とりあえず今は歌会始があるという現実」を、「短歌が権力に近すぎる場所にある現実」を、自分の中で受け止めて「歌会始というものに対して私たちは寛容に接すべきだ」と結論づけた(「歌壇時評・平成の終わりに」『短歌』二〇一九年六月)。彼は、自身のツイッターで「読み返すとこの人歯切れ悪くて苦しそう、という感想しかない」(二〇一九年六月二一日)と自虐的に綴っている。斎藤寛(一九五二生)は、「老舗の短歌総合誌は皇室の広報誌に転じてしまったのかと思うような誌面であった。」とし、天皇制自体に関しては「天皇の人権不在という問題」が厳しく問われないまま、「天皇制アレルギー」が薄れ、あるいは終息したという捉え方には「天皇制に対する赤子のような信仰が復活した」という意を含むとも指摘し、厳しく追及した(「『大御歌』『御歌』の位相―短歌と天皇制再考」『短歌人』二〇一九年七月)。いずれにしても、大辻のいう「無反応」という見立ては崩れたのである。

 敗戦前の「歌会始」は、一般歌人の立ち入れない世界であった。新憲法下の「象徴天皇制」は、占領軍と日本政府による「政治利用」をするための「遺制」であり、“新生”「歌会始」も“民間”歌人を引き入れて、利用価値を高めるためであったろう。「歌会始」の選者永田和宏による新聞連載の平成の天皇夫妻、皇族たちの短歌の<鑑賞>が『象徴のうた』(文芸春秋 二〇一九年六月)として出版された。まさに、現代の“御製御歌謹解書”ともいえよう。一方、『短歌研究年鑑』(二〇二〇年版)恒例の座談会では、古典・万葉集ブームは語られるが、件の特集や企画、書物には、だれもが言及しなかった。今や歌壇の主流は、天皇の短歌や歌会始について、その意義を称揚するか、触れずに沈黙を通すかのいずれかになってしまった。異論を唱えて突出することを控えてしまうのは「同調圧力」の所為でもある。それはやがて、天皇(制)への傾斜を助長し、異論を無視し、「聖域」を形成してしまうことにつながる。現に、リベラル政党も、リベラル派と称される論者も、かつての主張を微妙にシフトしながら、即位礼や大嘗祭などへの祝意を示し、メディアに重用される昨今である。「天皇陛下万歳」の誘導に声を上げ、配られた日の丸の小旗や提灯を揺らしている人々は、私の隣人たちでもある。(『ポトナム』2020年2月)

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歌壇、この一年を振り返る季節〈1〉短歌と天皇制 (2019年12月18日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/12/post-ac9040.html

「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(4)「無反応」だったのか (2019年3月 5日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/03/217-0117.html

「短歌と天皇制」(2月17 日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(1)「その反省から出発した戦後短歌」って、ホント?(2019年2月25日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/02/210-9ef9.html

「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(2)「戦後短歌は皇室との関係を結ぶことに慎重だった」のか (2019年3月 1日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/03/210-80d0.html

「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(3)「天皇制アレルギー」って?(2019年3月 5日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/03/post-d222.html

 

 

 

 

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2019年10月 4日 (金)

『象徴のうた』(永田和宏著)の書評を書きました

 先月号の『現代短歌新聞』に掲載されたものです。『象徴のうた』は、昨年1月から今年3月まで、週一で63回にわたって『東京新聞』に連載された記事をまとめたものです。平成の天皇夫妻の短歌を中心に、鑑賞・解説をしていますが、共同通信配信のシリーズでしたから、各地の新聞での読者も多かったと思います。著者は、2004年から歌会始ん選者を務めています。それだけに、時代背景や天皇家の内情などを交えながら、天皇夫妻はじめ皇族方の短歌の意を丁寧に読み解き、鑑賞がなされています。そのスタンスは、おのずから明確で、国民に寄り添おうとする「お気持ちの最も大切な部分」が「お二人のお歌、短歌にこそ籠められている」というものです。しかし、短歌や「おことば」などとして発信されるメッセージは、そんなに単純なものとは思われないというのが私の感想でした。あまりにも過剰な思い入れは、かえって、読者の鑑賞を損なってしまうのではないかとさえ思えたのです。まだ、お読みでない方は、一度、近くの図書館で、ご覧になるとよいと思います。

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『現代短歌新聞』2019年9月1日号より。

ダウンロード - gyosei.pdf

 

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2019年10月 1日 (火)

消費増税と歌会始~2019年9月30日

 9月30日は、消費増税実施の前日である。テレビなどでは、秒読みよろしく、巷の駆け込みや買いだめに走る様子やイートイン・テイクアウト、レジ対応の混乱などを伝えている。垣間見たNHKのニュースでは、女性アナウンサーがにこやかに消費税の値上がりが迫りました!と声を弾ませていた。まるで何かの世界大会で、日本のチームが優勝したかのような。NHKに限らず、消費税値上げ分増収、軽減税率ほか様々な還元対応、経過措置の期限、残る増税分が何に使われるか、現在の法人税や累進課税、分離課税の在り方など税体系自体などに切り込むことはなく、肝心な部分は、ほとんどスルーするのが、マス・メディアの流儀でもあった。野党にしても、凍結、中止、廃止、引き下げなど、その対応はバラバラである。増税ストップはかなわず、高齢者も若年層も、もはや将来へのかすかな希望も断ち切られるニュースばかりが続く。政府は、もっぱら未来志向の“やってる”パフォーマンスに終始し、10月1日発表の日銀の短観(9月調査)も四半期ごとの調査で三期連続景気悪化ということで消費増税駆け込み需要も低迷、2013年6月以来の低水準で、米中貿易摩擦などによる海外経済の減速が影響したという。私たちができることといったら「消費」しないことぐらいしかない。

 9月30日は、来年の歌会始の応募締め切り日でもあった。改元後、初めての歌会始で、題は「望」というのも皮肉なことではある。選者は、篠弘、永田和宏、三枝昂之、今野寿美、内藤明としばらく変わらないメンバーであるが、世の中や歌壇での改元フィーバーが応募状況にどんな変化を与えるのか、注視したい。

 ところで、9月のはじめ、『赤旗』の「ひと」欄(2019年9月4日)に、つぎのような記事があった。「9条守れと戦う青森の歌人」として登場したのは、小作人の長男として生まれ「劣等感と屈辱の少年時代」を過ごしたが、新憲法とともに、自分の地を耕し、基地反対運動に携わり、農協の組合長も務め、地元選出の共産党の衆議院議員の後援会会長も務めたという91歳の方だった。地道に、粘り強く活動を続けてこられた方なのだろうな、と思う。20代には、歌も小説も書いていたとのこと、文学青年だったことも書かれていた。読み進めると、記事の末尾近くに、つぎのような一文があった。

―好奇心も旺盛です。80歳の時、初めて「宮中歌会始」に応募しました。「現代の秘境を見てみたかった」と挑戦し、見事入選しました。―

 インタビューにあたった記者は、エピソードの一つとして、書き添えているという印象である。これが一般の新聞だったら、読み過ごしていたかもしれないが、革新政党の「政党紙」だったから、目に留まったのかもしれない。登場の歌人の選択には、いろいろな思いがあったことだろう。しかし、「宮中歌会始」を「現代の秘境」とのたとえを、全肯定することは、一記者の一存ということではなく、この記事が「宮中歌会始」に対して、『赤旗』は「お墨付き」を与えたと理解されても仕方がない。近年の共産党は、「天皇制」という言葉を避けて「天皇の制度」という言い方をし、現憲法下の象徴天皇制は、守るべきものとしての位置づけをするようになった。

 1947年以来、共産党は,天皇が出席する国会開会式には、「憲法の天皇の『国事行為』から逸脱する」として、出席してこなかったが、2016年1月4日開会の通常国会から、出席するようになった。その理由が、天皇の開会の言葉が「儀礼的、形式的な発言が慣例となって、定着した」からというものであったが、私などは、天皇が、議長席より高い、あの玉座で開会の言葉を読み上げること自体が、主権在民や平等主義を基本とする日本国憲法とは抵触しているので、開会式に出席しないことには、一つの抵抗の意味があると思っていた。
 さらに、『赤旗』紙上には、一般の全国紙のように文化欄の中に「歌壇」があって、週交代で、二人の選者による入選歌が掲載されている。上記、開会式出席とほぼ時を同じくして、2016年1月から、その「歌壇」選者に、今野寿美を起用した。彼女は、2015年から「歌会始」の選者を務め、現在に至っている。これら二件を、「2015年のクリスマス・サプライズ」として、当ブログ記事にもしているので、参照していただければ幸いである。結果的に、今野は、2年間「赤旗歌壇」の選者を務め、辞めている。

*ことしのクリスマス・イブは(4)~歌会始選者の今野寿美が赤旗「歌壇」選者に(2015年12月29日)https://www.jcp.or.jp/web_policy/2019/06/post-807.html

 また、今年の改元5月1日、新天皇即位の折、共産党の志位委員長は祝意を示す談話を発表し、その後、衆参院本会議での、即位に祝意を示す「賀詞」に、共産党は賛成している。2004年には「君主制廃止」の党綱領を改定し、「憲法にある制度として、天皇制と共存」することにしたのだが、一方で、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだ」との立場に立つ。

*天皇の制度と日本共産党の立場(2019年6月4日)
https://www.jcp.or.jp/web_policy/2019/06/post-807.html

 こうした一連の動きを見ていると、共産党の天皇制への接近は今世紀に入って顕著になったのは明らかである。ウィングを広げ、支持の拡大に努めたかったのだろうが、結果は逆だった。「国民の声」に引きずられたのか、「国民の声」に近づいたのか。政府やマス・メディアにコントールされがちな「国民の声」から、本当の声や叫びを聞き分ける力がなくなってしまったのかもしれない。不都合な事実や異なる意見を無視することによる「排除」は、多くの人の目には触れないだけに、陰湿である。「いじめ」や「モラルハラスメント」にも通じ、現在の政府や官僚がやってきたことにも似てはいないか。大同小異だからと、目の前の発言にまどわされ、ときには天皇にまで縋りつく姿に、愕然とする。

 

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2019年6月21日 (金)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人たちを振り返る(4)1960年

 

 1960年、多くの国民の支持を得た、いわば反政府運動の高揚と挫折を情緒的に振り返ろうというわけではない。あの当時から、私自身が関心を持ち始めた「短歌」を通して、歌壇の状況、歌人たちの作品や発言の断片から、1960年とやがて60年になろうとしている今日を探ってみたいという試みにすぎない。たまたま、手元にある『短歌研究』のバックナンバーやコピー資料からたどってみようというわけなのだが、あくまでも気の向くままの、独断と偏見によるスケッチ、ノートとでもいうのかもしれない。

 1960年は、『短歌研究』にとっては、ひとつの大きな曲がり角となった。1月号の奥付から「編集者 杉山正樹」が消え、「発行者 木村捨録」と印刷者の名前が並ぶだけとなった。「読者への手紙」という編集後記では、その末尾に「一月から編集陣に移動がありましたのを機会に、今年は、幅広い柔軟な目を養いながら、短歌を愛好される方々に、緊密な問題をとりあげてゆきたいと考えます。・・・」と記す。 後任の編集者の名も、この編集者交代の背景を知るすべを、今の私は知らないのだが、前々記事に登場の中井英夫(1922~1993)の『増補・黒衣の短歌史』(潮出版社 1975年)を中心に、時系列でたどってみたい(「二人のいた時代年表」『短歌研究』<中城ふみ子と中井英夫のいた時代>特集 2014年8月、「短歌年表Ⅰ~Ⅲ」『短歌研究』2017年7月~8月、『現代短歌大辞典』普及版 三省堂  2004年、参照)。 

1960年前後の短歌雑誌の編集者の推移(内野光子作成)

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 こうしてみると、1950年代から60年代前半にかけての短歌ジャーナリズムは、編集者に恵まれた、特異な貴重な時代ではなかったか、とも思われる。現代の短歌通史は、いくつかあるが、短歌ジャーナリズムの歴史といえば、参考にもした中井英夫の『黒衣の短歌史』や及川隆彦の『編集者の短歌史』(はる書房 2018年)を思いつくくらいで、雑誌の変遷や作品・記事と編集者・読者にも言及する客観的な通史が出ていないような気がする。ジャーナルとかかわりの深い歌人や編集者であった当事者の回顧も、もちろん大事なのだが、客観的な記録や分析も欲しいと切実に思う。資料の散逸や関係者が亡くなられていくことを目の当たりにして、いっそうその思いが募るのだった。

 1960年1月12日開催の歌会始、「光」への詠進歌が2万3363首に及び、戦後最多を記録した。皇太子婚約・結婚による皇室ブームが最大の理由だったと思うが、選者が吉井勇、土屋文明、四賀光子、松村英一に加えて、前年から五島美代子(1898~1978)と木俣修(1906~1983)が加わり、女性が四賀・五島の二人体制になったこと、木俣の参加で若返ったことなどが重なったからとも考えられる。当日は、入選者、選者、宮内庁からは入江相政詠進歌委員らが参加した祝賀会も催され(『短歌研究』1960年2月)、定着するかに見えた。

 戦後、国民に開かれ歌会始、“民間”歌人の選者起用をめぐって、選者らのレポートや歓迎の反応も多くみられたが、1950年代後半から、前々の当ブログ記事に紹介したように、批判的な論評が活発になった。『短歌研究』での「歌会始は誰のものか」というアンケートをまとめた記事(1959年3月)や水野昌雄、秋村功、吉田漱らによる論考だった。1960年に入ると、石井勉次郎「張りぼてのヒューマニズム―「形成」をめぐる独白」(『短歌研究』1960年2月)の「ヒューマニズムの終着駅が宮中歌会始か」という木俣修批判であった。翌月、吉野昌夫(1922~2012)「もっとまじめに考えたい―石井勉次郎の井戸端公開状に答う」(『短歌研究』3月)という木俣門下からの反論があったが、同門からという限界をぬぐい切れなかった。

また、前述のアンケートでも、歌会始と現代歌人協会の対応について糾弾していた岡井隆は、現代歌人協会の機関誌において、さらに鋭く批判を展開している(「非情の魅力について」『現代短歌』創刊号 1960年5月)。ところが、皮肉にも、岡井は、1993年以来、長い間、歌会始選者や御用掛を務めることになるのであるが、天皇制が変った、天皇が代わった、歌会始が変ったからというが、一番変わったのは岡井本人ではなかったのか。

「宮中歌会始とか召人とか参列者とかいうものが一種権威化(オオソライズ)され得るのは、実はマスメデイアの権威によるので、皇威によるものではない。この狼と狐の二重構造に一切腐敗の原因がある。この行事がマスコミのとりあげる所とならず、草深い皇居に破れ蚊帳がかかっているとしたら、現代歌人の誰が選者になりたがるか」

「それとも――それとも、この歌会始の儀につながる一切事は、旧支配者に対する民衆の残忍な戯れなのであろうか。尊王の至誠か、皇室民主化の至情か、とにかくそうした熱情の類をすっかり凍結したところに生れる非情な遊びなのだろうか。しかし、そこには美がない。この非情な穢醜を、わたしは肯定することが出来ない」

 言葉だけが激しい、品格がある文章にも思えず、引用するのもはばかられるが、その糾弾の矛先は、現代歌人協会の面々、「身近な」として土屋文明、柴生田稔、近藤芳美にも及び、『人民短歌』系の渡辺順三、坪野哲久、山田あき、という名も登場する。表現はともかく、歌会始入選者の祝賀会が、現代歌人協会、日本歌人クラブ、女人短歌会共催、歌壇挙げて、10年来続いていることへの素朴な疑問や違和感は、少なからずあったことは、前述の歌会始への異議にも伺われる。しかし、選者たちへの反発はあっても、歌人団体の対応自体への批判は、その後も聞こえてはこないまま、現在に至っている。この辺りにも、団体のメンバーの多くは、わが身に引き寄せ、考えての躊躇いというか、事は荒立てないという保身があったのかもしれない。

 編集陣が後退したのは前述の通りだが、例えば特集と思われるものを拾ってみると、以下のようになる。
1月自然詠、3月生活短歌、4月女流特集、5月新人作品・評論特集、6月沖縄特集、7月宗教と短歌、8月日本の苦悩に目をそらすな/今こそ短歌の良心を敲く(レポート・6・15を経て>の島田修二、大西民子、上月昭雄、生野俊子、小野茂樹、武川忠一によるエッセイ)、9月新人賞発表。
 また、「名作50首と解説」というシリーズが始まり、茂吉・八一、良平・左千夫、牧水・白秋、啄木・迢空、夕暮・賢治、純・節、赤彦・明星派五人、千樫・利玄、鉄幹・広子といった組み合わせで連載された。書き手を歌人に限定しない工夫も見られたが、短歌初心者向けの案内ともいえよう。
 ちなみ、実質的な編集者に富士田元彦を迎えた角川書店の『短歌』の特集を見てみるとつぎのようになり、『短歌研究』と比べると、その方向性が際立ってくるだろう。
 1月短歌作風変遷史、2月茂吉/評論(芸術性・政治性、フィクション・ノンフィクション、リアリズム・アンチリアリズム、文語定型・口語自由律)、執筆:菱川善夫・秋村功・深作光貞・上田三四二 3月夭折歌人、4月“現代の青春”と短歌、5月安保改訂を歌う作品集、6月安保改訂の歌をめぐって、8月(戦後短歌)あの頃こと/明日の短歌を展く新鋭作品集、9月再論・社会詠の方向について/作品特集安保改訂をうたう/沖縄と沖縄の短歌、10月戦後作家論集、11月祖国(朝鮮)をうたう。

つぎに、当時の作品に即して考えてみたい。(つづく)

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2019年6月12日 (水)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人たちを振り返る(3)1959年(続)

短歌研究1959年6月号/7月号/8月号/9月号                  

社会問題、天皇制からの切り口へ
 1959年の後半も「主題制作」と「長期連作」の企画は続き、「連載短歌」は吉井勇、生方たつゑ、塚本邦雄に代わって、5月号からは、佐藤佐太郎「北の海」「佛桑華」「雨季」、斎藤史「密閉部落Ⅰ~Ⅲ」が始まっていた。また、6月号からは、<未発表歌集シリーズ>という新企画が始まる。第一弾が木俣修青春歌集「市路の果」152首(1928年3月~1931年6月)は、北原白秋系の『香蘭』時代の作品が中心で、木俣は、1935年6月には白秋創刊『多磨』に参加している。8月号は、前川佐美雄青春歌集「”春の日”以前」150首(1920~1925年)であった。

・教室をおはれし友はつひにまた會ふはなからむと重々といふ
・とめどなく思ひまよふ十行に足らぬ履歴を紙にしるして
(木俣修「市路の果」『短歌研究』1959年6月)

・野の駅に汽車待ちをれば少女子が和えに雨に濡れ来て川をたためり
・俄雨に合歓の花散る草山をから傘すぼめてわれら行くなる
(前川佐美雄「”春の日”以前」『短歌研究』1959年8月

・落人は笛の音のごとく痩せながら空よるべなくさまよひにけり
・とほき歴史のかたより落つ聲かともはるかにたかし 天上の雁
(斎藤史「密閉部落Ⅱ」『短歌研究』1959年6月)

 また、6月号で目についたのは、竹山広(1920~2010)の作品だった。
・ものかげに潜みて燠を吹くごときくるしき愛をわれら遂げきつ
・朝来てなほ生ける脈しるしゆく残るくるしみをはかり見むため
(竹山広「ルルドの水」『短歌研究』1959年6月)  

 竹山の『心の花』に復帰直後の発表作で、長崎で結核療養中に被爆、兄を失い、長い空白の後、被爆体験の作品を出版したのは、1981年、第一歌集『とこしへの川』であったのである。 

 7月号・8月号には、「短歌による社会時評」があり、7月号の吉田漱「皇室ブーム」、井伊文子「今日の沖縄」、君島夜詩「北鮮帰還」は、歌人による時評であった。8月号のそれは、勤評闘争のさなかの教師の短歌、少年院や女子刑務所の入所者の短歌、ハンセン病者の短歌、労働者の短歌を現場に近い歌人が紹介する形をとる。私が注目したのは、吉田による、皇太子結婚への慶祝短歌の背景を分析したもので、大きく皇室への関心層と無関心層に分け、前者には、もっとも時流に敏感で、警職法反対と奉祝歌が同居できる「率先型」から懐疑型、傍観型、憧れ型、天皇制自体には決定的な意見を持たない良心型、天皇制廃止の抵抗型などに分けているのが辛辣であった。つぎのような結語部分は重大な指摘であったと、いまさら思う。
「天皇制、皇室、国家、これらの、ふりかえりが、本当にまだ各々のうちで、不十分なところに、実は問題があるので、その大きな大衆層は、いつたいどういうものかの分析、「保守的ムード」の検討、マスメデアに対する考察、ひいては世界の機構、国家の位置に目がとどかぬかぎり、今回のようなブームはきわめて容易におこる」

 前後するが、前記事の5月号の秋村功「道化師を操るもの」の反響として、6月号の「読者の批評」欄には、2件の投稿があった。秋村・吉田のいう「皇室ブーム」について共感し、皇室ブームへの疑問や違和感を持つ人たちが、声を上げていたことの証ではないか。その一つは、秋村の「皇室のプライベートな慶事がそのまま庶民のめでたさに通じるかのごとく錯覚させるむなしい報道」や「日本文学の源泉である短歌」と、歌会始にのぞむ選者たちは「誰かが作りあげた筋書きの上で踊つている悲しい道化であるかもしれない」とする主旨に対して、重要な問題を投げかけているとして、「文学の将来を左右するような切実な問題に、目を蔽って見すごすことは、とりも直さず“戦前“の愚を再びおかそうとする危険なしとしないからだ」「伝統があるから尊いのではなく、その発展を求めてこそ伝統は生き継がれるので、未来に通(じ)る詩でなくては伝統も死に絶えて終う」と訴えていたことも目に留まった。寄稿は、「大阪市 片山碩」となっていた。『覇王樹』の1960年代の同人だったらしい。
 皇太子の結婚をきっかけとしたミッチーブーム、皇室ブームへの歌壇の反応は、天皇制自体への疑問と危機感を率直に吐露している編集者、執筆者も、読者も、実に健全であったことを示しているのではないか。現在の天皇の代替わりをきっかけに、当然論議されるべきであった課題を、野党もメディアも歌人も、スルーして、奉祝ムードになだれ込んでいる実態を目の当たりにして、いっそうその感を強くした。
 また、歌人であり、琉球王家、尚家出身の井伊文子(1917~2004)の「今日の沖縄」は、当時、沖縄の情報が少ないなか、貴重なレポートであったと思う。中野菊夫や吉田漱らとともに、短歌を通じて沖縄と本土と数少ないパイプの役割を果たしたことは見逃せない。
 さらに、8月号の斉木創(香川県青松歌人会、1914~1995)による「H氏病者の現状」は、ハンセン病者の短歌が盛んになった昭和初期、「療園と皇室との紐帯は周知のように、極めて厳密な格別の庇護のもとにあり」、数知れないご慈悲に守られ、“聖恩感謝”の思想」は、病者にとっては血肉化された金科玉条であった、と書き起こされる。斉木は、自作「厳かしき世代におはし来て天皇は癩の上にすらやさしかりける」を引いて、昭和天皇の1950年、四国視察の際の「あな悲し病忘れて旗をふる人の心のいかにと思へば」に応えた過去のさまざまな呪縛から放たれ、意識変革をもたらしたのは民主憲法であったと述べながらも、現実の厳しさ、レプラ・コンプレックスを取り払う道を探ろうとする。斉木は、らい予防法が撤廃される1996年を目前に亡くなっている。
 なお、9月号の五十首詠では、特選は、山口雅子「春の風車」、石井利明「座棺土葬」であったが推薦作3人の内の一人に新井節子「流離の島」があったことにも着目したい。新井は、沖縄県屋我地島の国立療養所沖縄愛楽園に暮らすハンセン病者であり、その作品は、つぎのようなものだった。
・離れ島の中また隔つ境界の並木に日暮れの風こもり鳴る
・爆撃に皹破れし窓揺さぶりて北風酷薄の日を育ち来ぬ

(新井節子「流離の島」『短歌研究』1959年9月)

 なお、この年の5月号にさかのぼるのだが、中野菊夫「署名簿」(20首)は、私が近年知ることになる、ハンセン病者とされて、殺人事件の容疑者(熊本県の菊池恵楓園入所者)が最高裁まで争った「菊池事件」を詠んだ連作である。死刑が確定したのが1957年9月、直後に「救う会」が発足し、再審、助命嘆願、特赦など様々な運動を展開したが、1962年9月には、死刑が執行されたのである。中野は、事件自体にも冤罪ではないかという疑問、裁判制度への怒りをあらわにして、死刑確定後の被告にも面会し、恩赦申請の署名活動を進めていた。中野は、前述のように、早くより、ハンセン病者の短歌指導も積極的に行っていた。作品にある「隔離裁判」とは、感染などを理由に、ハンセン病者が裁判所以外の「特別法廷」でなされた裁判のことで、最高裁は、2016年になって、その特別法廷は法の下の平等な裁判を受ける権利を侵して違法であることを認め、謝罪している。1996年「らい予防法」の廃止後も、ハンセン病者や家族への差別は依然と根強く、「菊池事件」の再びの再審請求もいまだ続いている。現代においても、皇族のハンセン病者に「寄り添う」姿が、ことさら強調されるということは、何を意味しているのだろうか。
・隔離裁判なしたる狭き法廷に椅子ありうすく埃かぶりて
・ライを忌み親しきすら詳言をなさざりき偏見は今も變らず
・無力にして皇太子結婚をいまは待つ君の恩赦をたのめるがため
(中野菊夫「署名簿」『短歌研究』1959年5月)

 なお、8月号には、1956年の五十首詠特選となった小崎碇之介(『ポトナム』同人、1918~1995)が、「焱と死者の街」(53首)を発表している。小崎は、船員で、公務のため門司に赴く途中、広島駅近くの壕で仮眠中に被爆するが、助かった直後に綴った作品で、14年間、筐底に秘めていたという。GHQの占領下では、原爆に言及する出版物には極めて厳しい検閲がなされていたので、その後も、多くの歌人たちは出版には慎重だった時期でもある。
・まなぶたを刺す閃光にまどろみの覚めき砂零る壕におびえて
・雨昏く火の街にふり死者へふり生者をうちて心狂はしむ
(小崎碇之介「焱と死者の街」『短歌研究』1959年8月)

短歌研究1959年10月号/11月号

<未刊歌集>という方法

 10月号の未刊歌集は、斎藤史の「杳かなる湖」(87首、1943~45年、1946年)であった。1946年分は、歌文集『やまぐに』(臼井書房 1947年7月)に収めたと、「あとがき」には記している。また「総数百首」とも書く(うーん、簡単な足し算のはずだが)。この「杳かなる湖」の成り立ちと『斎藤史全歌集』への収録状況などは、拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』でも触れている(表5「『全歌集』に収録された敗戦前後の「歌集」と初版『歌集』の歌数などの比較」)。史は、この未刊歌集をもって、「昭和三年から頃から今日までのものを、どこかに一応整理したことになるのだろうが、年月の風化の中に、どれほどとどまるものやら・・・」とも述べている。
・からからと子の乳母車押しながら風に逆らひゆく夕昏れを
・我は今かく渇(かは)けるをいづ方に夕凪美(は)しき湖(うみ)はありなむ
・東京に居らざる我をおとしむることば伝へて来し秋だより
(斎藤史「杳かなる湖」『短歌研究』1959年10月

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拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』から

 新しい企画が重層的に展開するのはめまぐるしくもあるが、書き手の意欲もそそり、雑誌全体から躍動感が伝わり、読者の期待感も大きかったことだろう。しかし、主題制作や連作については、加藤克己、高尾亮一や当時の若い論者、菱川善夫、秋村功らによる厳しい批判も現れていた。たとえば、小崎の五十首詠特選(8月号)について、「私の五選」10月号で、高尾は「異常な体験の作品としては叙述的にすぎている」、加藤は「一首一首の終着の常識性、報道性のため主題を貫く思想が寸断される」、秋村は「被爆当時の死や実体として捉えず、その後の観念化された視点からしか捉えられていないのが惜しい」と。斎藤の「密閉部落」についても、秋村は「あらかじめ予定された視点から、悲劇の観念が事実との遭遇により、形を持つたまでであ」り、「”部落“を支える深部を抉り出すようにつとめてこそ、通俗ロマン主義的傾向から脱しうる道なのだ」とする。
 また、10月号で岡井隆「暦表(カレンダア)組曲」が3回で完結するのだが、加藤は、9月号の「私の五選」で、岡井の生活批評として注目するが、「持前の生への傲慢と不逞の変形として、もつときびしい深傷の感覚をふまえた上での、現実へのもうひとつ痛烈な風刺のコトバがほしい」と評している。同号では、9月号の五十首詠について、前身の編集部選から1958年選考委員方式になって2年目、初めて特選となった山口雅子「春の風車」、石井利明「座棺土葬」の批評もあり、なかなか手厳しいものであった。
 11月号の<未刊歌集>は近藤芳美の未発表歌集「大地の河」(120首、1940年9月~1941年末)であった。『早春歌』前の召集兵として戦地から妻への軍事郵便で送付した短歌がノートにまとめられていたのを忘れかけていたが、今回、若干手直しをしてをまとめたと「あとがき」に記している。
・前線に夜半発ち行くトラックか塀の銃眼をてらしつづけり
(敵前上陸の訓練をうく。暁舞台と呼ばれる)
・死せる兵運ばれて去り夜具一つたたまれており朝明くる窓
(軍医に胸を病んでいることを告げられ、そのまま内科病棟に移された)
・白衣着て佇つ身にまぶし夏となる大地の河の黄なるみなぎり
(朝鮮人娼婦らの一団に見送られて病院船に乗る)

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『短歌研究』1959年10月号、11月号より

 また、11月号では、三大連載と銘打った、山本健吉「人麻呂私抄」が11回、木俣修「昭和短歌史」が24回、柴生田稔「斎藤茂吉・その歌と生涯」11回と佳境に入っていた。そして、現在から振り返ってみれば、毎号、一冊、一冊に意欲的な作品や論文が多く、歌人研究や短歌史における資料的な価値が高い。現在の短歌総合誌の大方の「軽さ」からは想像もつかない。

 

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2019年6月 7日 (金)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人を振り返る(2)1959年

 当ブログは、2006年1月に開きましたが、今回の記事がちょうど1000件目にあたります。雑多で、つたない発信ですが、楽しいときもあり、苦しいときもありました。お訪ねくださる皆さまに支えられ、続けることができました。予想外の反響に励まされ、思いがけない出会いや情報交換のチャンスにも恵まれました。ありがとうございます。そして、リンクをしてくださっている方々には重ねてお礼を申し上げます。更新は、遅々たるものですが、ときどきの思いを綴っていきたいと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。

 

~主題制作と長期連作の試み~

『短歌研究』1959年1月号/2月号

 現在の短歌総合雑誌の新年号といえば、若干の違いはあるものの、老若男女の著名歌人総出のアンソロジーだったり、老大家を前面に押し出したり、中堅層を集めたりと、やはり「おめでたい」感がぬぐえない。今年の『短歌研究』1月号は、なんと総力特集「平成の大御歌と御歌」であった。
 1959年、杉山正樹は、1月号の編集後記に「<新春作品特集>は、旧来の総花式なアンソロジイを排して短歌の可能性を探る試みを開始しました」として、「主題制作・生きている”戦後“日本人の心の記録」のもとに、近藤芳美・宮柊二・木俣修にはじまり、岡井隆・田谷鋭・葛原妙子・寺山修司と続き、福田栄一・坪野哲久・斎藤史の『新風十人』メンバーの作品が奈良原一高の写真とともに30・14首の交互で並ぶ。ベテランの佐藤佐太郎・吉野秀雄、新人の山崎芳江・小崎碇之介・山下富美の30首も配するが、この新年号のもう一つの試みというのが50首に近い大作の「連載短歌」で、吉井勇「人の一生」、生方たつゑ「火の系譜」、塚本邦雄「水銀傳説」である。座談会「日本の詩と若い世代」(大江健三郎・江藤淳・岡井隆・寺山修司・嶋岡晨・堂本正樹)がもっとも新年号らしいといえば言えるかもしれない。

・靴音の近付き聞こえ闇に消ゆ心よぎりし何の恐怖か
(近藤「五八年冬」)

・たたかひの後を生きつつ身に疼くくらき痛みを語りあへなく
(柊二「おもい光」)

・壓を加へんとするものはことば柔らかにわが書きものを閲(けみ)しゆきたり(修「黄の鎮み」)

・尾行(つけ)られていると信じ初めしより昂然と雷雨の街を歩めり(隆「少年行」)

・揉みあひて階のぼる群を狭(せば)めつつコンクリートの壁(へき)ありと見つ(鋭「野の靄」)

・窓に碍子(がいし)黒き夜 星黒き夜 われはなにゆゑに群(むれ)、を怖れし(妙子「風 衝」)

・一本の樫の木やさしそのなかに血は立つたまま眠れるものを
(修司「洪水以前」)

・せばめられてゆく自由われも守りたしわれの守られゆく背後なく
(栄一「一枚の罪」)

・拳銃を斜に帯びて移動する道化の一群 制服の青
(哲久「水甕交響」)

・云ひ立てて無實叫ばぬ白鳥を撃つ たはむれに基地の兵の銃丸
(史「流木」)

 

 この作者たちの思想・信条は異なりながら、共通するのは、直接的には、教員の勤務評定反対闘争、警職法改正反対闘争などで国民的な盛り上がりは見せたものの、教員の管理強化、小中学校における「道徳」の導入など国家権力による統制強化、1960年に向けて、日米間安保条約改定交渉が開始されることなどによるじわじわと締め付けられるような危機感であり、閉塞感ではなかったか。
 さらに、編集後記で、杉山は「短歌が日本人の心の記録という意味を持つとすれば憲法改定への暗い動きが底に流れる今日、戦後の心象を刻みつけたこの企劃も、ひとつの意味をもつかと思われます」とも記している、その時代背景へのスタンスも留意すべきだろう。

 翌2月号では、この企画の反響を、批評特集「現代短歌の突破口」としてまとめている。魚返善雄・大岡信・楠本憲吉と歌人6人の反応は各様だが、企画自体を評価する大方の中で、やはり、その中身、短歌作品や写真とのコラボに疑義、言及する評者も多い。「連載短歌」の吉井勇、生方たつゑ、塚本邦雄の連作は続く一方で、<新・戦後派作品特集(30首+作者のノート>(我妻泰・石川不二子・杜沢光一郎・小野茂樹ら7人)、<新鋭作品集(15首)>(石牟礼道子・水落博・中井正義ら7人)が組まれている。

・墓碑銘のなき死つぎつぎよみがえる海へきざはしふかき月かげ
(石牟礼道子「母たちの海」)

 この記事を書いているさなか、6月5日の毎日新聞(『石牟礼文学の原点発見 本紙熊本版に短歌21首投稿』)を目にする。記事によると、石牟礼の短歌のスタートは毎日新聞熊本版「熊本歌壇」(蒲池正紀選)の1952年11月11日~53年5月31日までの21首の入選作だという。その記事には、当時の「熊本歌壇」欄の2首が載っていた。

・舞ひ下りてふはりと羽をとざしたる秋の揚羽はしずかなるもの
(毎日新聞「熊本歌壇」1952年12月28日)

 かつて、私は、石牟礼道子(1927~2018)が短歌にかかわっていた時期は決して短くはなかったことを知って、「短歌に出会った女たち」の一人として、彼女の短歌との出会いと別れをたどったことがある(「石牟礼道子『苦海浄土』にたどりつくまで」『短歌に出会った女たち』三一書房 1996年)。彼女が短歌を作り始めたのは、10代の戦前までさかのぼることがわかっている。そして、『短歌研究』でのデビューはと遡ってみると、手元の資料から2件見出すことができた。バックナンバーの現物が以下の画像である。

・傷つきしけものも花も距りぬ変身の刻近づく暗さ
(「変身の刻」『短歌研究』1956年9月)

・岩礁のさけめよりしばし浮揚する藻と生々しわれの変身
(『海女の笛』『短歌研究』1956年11月)

 1首目は、五十首詠特選1人と推薦4人に続く入選者15人の一人として14首掲載されたのだが、そのうちの1首であり、2首目は、9月号で五十首詠<特選>であった小崎碇之介とともに入選8人の入選後第一作20首詠のなかにある。当時、すでに、水俣病は工業廃水が原因であるとする漁民や患者たちと認めようとしない日本チッソと闘争は激化していた。石牟礼が水俣病にかかる文章を発表しはじめるのは、少し後の1963年以降で、1970年『苦海浄土 わが水俣病』(講談社)の第1回大宅壮一ノンフィクション賞を辞退した石牟礼だったが、その後の歩みや曲折は別稿に譲りたい。

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石牟礼道子「変身の刻」1959年9月号

 

~「歌会始」が問われ始めたが~

『短歌研究』1959年3月号/4月号/5月号                  

 前年、1958年11月27日の明仁皇太子の婚約報道以降、いわゆるミッチーブームのさなか、1959年の「歌会始」は、1月12日に開催されている。「窓」の題のもと選者は、吉井勇・土屋文明・四賀光子・松村英一・五島美代子・木俣修、陪聴者には、久保田万太郎・芹沢光治良・高見順らがいたと伝え、続けて、現代歌人協会・日本歌人クラブ・女人短歌会の共催で、預選者を祝って、選者、入江相政侍従ら宮内庁詠進歌委員など90名が参加して、預選者を祝ったと報じている(『短歌研究』1959年2月号)。そして、選者に新しく、若い木俣と女性二人目として五島が加わったことが影響したことになるのか、戦後最高の応募歌数2万2400首を越えたことが注目された。

 そして、4月10日の皇太子結婚を控えた、このタイミングで、『短歌研究』3月号では、「編集部S」の名で、「歌会始はだれのものか?歌壇から選者を送って十二年 もはや遠い儀式ではない」<特別記事>が掲載された。「歌会始」が選者に民間歌人を加えて10年余を経、「現代短歌の飾窓」として、その短歌は誰の目にも止まる存在になったことで、歌会始が現代短歌と無縁な別世界の出来事ではなくなった。それを受けて、編集部は、各世代の歌人30人、短歌に関心のある文学者10余人にアンケートをとったという。質問も、回答の全容も不明ながら、当時の儀式「歌会始」の実態とその様式が定まったのは明治期に入ってからの第二期であると歴史をたどった上で、「あれはあくまで尊重すべき儀式である」とした回答が最も多かったと報告している。新しい選者の木俣のように、新聞や雑誌の短歌コンクールと同様に選歌し、よりよいものにしていけばよい、とする考え方と現代短歌と歌会始が近づいたということは、現代短歌の文学的な堕落を意味する(杉浦明平)、「(短歌)が文学であるならば、天皇制と結びついて国家権力に守られたくない。現代短歌のためにはこのままでおくべきでない」(岡井隆)という意見、選者も召人も断り続けていた土岐善麿の「われわれが歌を作るのとはモチーフが違うもので、自由自在な表現が可能かも疑問だ」との意見も紹介されている。ではどうすればいいのか、おそらく執筆者であろう杉山はつぎのような文章で締めくくっている。
 「あの第二芸術論や短歌滅亡論が、宣戦の詔勅にも終戦の詔勅にもひとしなみに感動した歌人の姿勢にはっしたことをおもいあわせれば、近く迫つた皇太子の御成婚式も短歌にとつては危険な瞬間かもしれないといえる。その意味からも、今こそ、広い眼で現代短歌の置かれている状況を見つめるべきではないだろうか」(『短歌研究』1959年3月)

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「歌会始は誰のものか」『短歌研究』1959年3月号

 また、翌月4月号で、水野昌雄は「敗北の記録を超えるために」において、歌会始の根本的矛盾は選者たちがすぐれた歌を選ぼうとするほど、天皇制のために役立つことによつて非文学化せざるを得ないとの指摘をしている。さらに、5月号では、秋村功が「道化師を操るもの」を寄せ、1月1日の新聞に(昭和)天皇の「御製」が掲げられているの目の当たりにして、暗い回想、悲観的な行方、現状への激しい憤懣という複雑な気分に包まれたという。「皇室のプライベートな慶事がそのまま庶民のめでたさに通じるかのごとく錯覚させるむなしい報道」によって、「現在の天皇には親近感に似た尊敬の念さえもつ」という庶民像が形成されてゆく。そんな中で「年に一度、天皇が主催する文学の祭典に、日本の文学の源泉である短歌をもつて」のぞむとする選者の木俣に限らず、選者たちは「誰かが作りあげた筋書きの上で踊つている悲しい道化であるかもしれない」とする。では、どうすればいいのかについて、歌会始に応募する2万人以上含む日本人の精神構造を、より合理的でより自主的な判断力をもつものへと変容させる重要性を指摘する。

 さらに、5月号の編集後記「読者への手紙」では、つぎのように記す。
「祝婚歌が巷にみちみちたあとにくる季節こそ、本当は注目すべきなのかもしれません。(中略)祭式の合唱隊と化したマス・メディアが合言葉をくりかえし告げているうちに、たれもが同じ受身の姿勢で無邪気に合言葉をかわしはじめる危険なムードが、戦後これくらいありありと感じられることはなかつた」(『短歌研究』1959年5月)

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「読者への手紙」と奥付『短歌研究』1959年5月号

 1959年、あれから、まさに60年後の今、私たちが経験している「天皇代替わり」における時代の空気を予想しているかのように思われた。私たちは、マス・メディアは、そして歌人たちは、過去に学ぶということを忘れたしまったのではないか。
 また、5月号の「歌人の日記」において、我妻泰はつぎのようにも書いていた。現在、こんな趣旨の発言ができる歌人は存在するだろうか。
「一九五九年冬 *月*日 俺の中で天皇及び皇太子は絞殺しなければならぬ制度として俺の一部分とともにのたうつているのに、日本中は皇太子妃で他愛なくにやついている。まるでシンバッドに出てくるビニールフィルムに隔てられた一眼人のように、見えていながら俺たちは手も足も出ないのか・・・・」(「九年間の状況」『短歌研究』1959年5月)

 

 

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2019年5月 3日 (金)

「天皇の短歌」と代替わり~憲法記念日に考えたい

 近頃は「来たァ~」なんて言うのは、すでに古い?!代替わりの前日4月30日の新聞、わが家の購読紙のうちの二紙に、やはり天皇・皇后の歌が出たのである。
 『朝日新聞』は、一頁全面の上半分に「天皇陛下の歌」、下半分に「皇后美智子さまの歌」として、数枚の写真とともに各二十首が配されている。「世のうつろい見つめ筆とり」と題して、リードには「戦争の記憶、平和への願い、国民と家族への深い思い。天皇皇后陛下は日々、移り変わる社会を見つめ、率直な気持ちを歌に込めてきた」とある。そして5月1日には同じ一頁全面に「世を思い詠む 令和へ続く歌」と題して「新天皇陛下の歌」「新皇后、雅子さまの歌」と各二十首が載っていた。そのリードには「外国訪問先での交流、震災被災地への思い、長女愛子様の成長。新天皇、皇后両陛下は折々の出来事を歌にしたためてきた」とある。誰の選択の結果なのかはわからないが、解説がないのがせめてもの救いだった。最近、宮内庁では、マス・メディア向けなのか、歌会始の歌に、天皇夫妻はじめ一部の皇族の歌に解説をつけているのだ。

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朝日新聞、2019年4月30日

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朝日新聞、2019年5月1日

 『東京新聞』は、1頁の3分の2を使って、「心映す歌」と題して右側に「被災地へ」として天皇と皇后の歌を2首づつ、左側に「戦没者へ」として、天皇・皇后の歌を2首づつならべている。歌の背景には、「阪神大震災からの復興の象徴として皇居で育てられた『はるかのひまわり』」の写真と「大戦中、追い詰められた民間人が次々と身を投げたサイパン島北部のバンザイクリフ」の写真があしらわれている。そして各歌の下には、80字前後の解説が付せられている。そのリードには、「天皇、皇后両陛下は、折に触れて数多くの歌を詠まれてきた。陛下が模索されてきた象徴天皇像とはどのようなものであったのか。象徴天皇のとしての活動の核心部分ともいえる被災地お見舞いや戦没者慰霊を詠んだ歌の中から平成という時代を表す八首を二〇〇四年から歌会始の選者を務める永田和宏さん(七一)に選んでもらった」とある。永田は、この『東京新聞』に一年以上前から「象徴のうた 平成という時代」と題して天皇夫妻、皇太子夫妻の歌を中心に、毎週1首、その背景とともに解釈と鑑賞を続けてきた歌人でもある。4月23日、第63回をもって連載は終了した。いわば永田和宏による「謹解集」といってもよく、その集大成が、この日の「八首謹解」ともいえるのではないか。

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東京新聞、2019年4月30日

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東京新聞、2019年4月16日、第62回は、皇后の今年の歌会始の「今しばし生きなむと思ふ寂光
に園の薔薇のみな美しく」が取り上げられ、このシリーズの最終回の4月23日、第63回は天皇の「贈られしひまわりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」であった。記事本体はカラーである。後掲の写真「短歌研究」4月号のグラビアもこの2首が見える。
 

  日本国憲法上の象徴天皇制において、とくに国民統合の象徴としての天皇の地位は世襲であり、多くの基本的人権を奪われた存在は、国民主権、基本的人権とくに平等という基本条項との齟齬は明白で、今回の代替わりで、少しは注目され始めた。しかし、政府・政党、メディア・企業と一部の国民が、憲法自体が持つ矛盾について、多くは自覚的に目をつむり、触れようとはしない。1945年敗戦後の占領軍アメリカと日本政府による政治的妥協の産物として残された制度であったことを、いま、思い返すチャンスでありながら、古来の伝統や文化にことよせ、新・旧天皇の足跡や人柄への最上級の礼賛を重ね、代替わりの慶祝ムードを盛り上げているのである。 新しい元号になったからといって、「新しい時代」が来るわけもなく、そんな幻想を率先して振りまいているのが、大方のメディアである。

 そうしたムードづくりに大きな役割を果たしているのが、憲法に規定のない宮中祭祀と行幸啓であったのではないか。国事行為ではありえないから、いずれも、公的行為として、執り行われてきた。「宮中祭祀」といえば基本的には宗教的儀式で、国民にとっては、いかにも異様で、ときにはグロテスクにも思える姿をさらすことになる。そこは、控えめにと、秋篠宮による「大嘗祭は身の丈で」発言につながったのではないか。行幸啓については、国民に「寄り添う」、戦争や災害の犠牲者へ「祈る」という見える形で、年々「拡充」してきたのが、平成天皇夫妻だったといえないか。その「務め」が身体的にも果たせなくなったからと「生前退位」表明になった。

 私が冒頭にあげた「天皇の短歌」は、先のムードづくり、しかも文化的な香りのする手段の一つとして、これまでもしばしば登場した。毎年一月の「歌会始」を舞台として、国民を巻き込んだイベントに、現代歌人や「文化人」たちも「ひそかに」呼応し続けている。

 今の制度の中で、短歌を詠むのが好きな皇族たちが、歌を詠むのもいいだろう、歌会を開いたり、指導者を招いたりするのもよいとしよう。しかし、国民を巻き込まないでほしい。「歌会始」を皇室と国民を結ぶ文化の懸け橋のような言い方をする歌人たちもいる。開かれた皇室の典型のようにありがたがる人々がいる。短歌コンクールの一つ考えればいいという歌人もいた。しかし、国民が応募する歌は、天皇に捧げる「詠進歌」なのである。天皇が国民統合の象徴であることを貫徹するならば、上下の関係はあり得ないのではないか。

 今回の退位・即位の儀式での「おことば」の受け渡しの光景を見ても、その内容を見ても、多くの国民から見れば、異様な言葉遣いでありながら、あまりにも当たり前のことを述べているにすぎない。退位の儀式では、天皇の「おことば」に先立って、安倍首相は、国民の代表として感謝と敬愛の意を述べ、即位の儀式での首相の言葉は、新天皇のあとに、毎日新聞では「安倍首相発言」、朝日では「首相国民代表の辞」を述べたとして、その要旨が記事に見られ、東京新聞は「首相発言全文」が掲載されていた。その扱いがバラけているのにも注目する。

 『毎日新聞』では今のところ、平成天皇夫妻の歌をまとめたという記事は見られないのだが、4月23日には、毎日歌壇の選者で、2006年から歌会始の選者である篠弘が、今年の歌会始の天皇夫妻の歌を引用して、「歌のご相談で御所にうかがいました」とも述べる「両陛下とわたし」という連載コラムに登場している。4月8日の「余禄」では、天皇の昨年の歌会始の歌「語りつつあしたの苑を歩みゆけば林の中のきんらんの咲く」を引用、天皇夫妻の絆をたたえている。

 そういえば、けさの『東京新聞』で、長谷部恭男が日本国憲法において封建制秩序が残っている天皇制は、国民一般の保障が及ばない「身分制の飛び地」だとしていた(「天皇・皇族に基本的人権は」)。また、沢藤統一郎弁護士の「憲法日記」(2019年4月29日)によれば、「天皇制は、憲法体系の番外地」だと講演で述べたという。「飛び地」や「番外地」であるならば、私たち国民は、まず日本国憲法の基本的条項から大きく外れる、その「番外地」や「飛び地」をなくすよう、みずから努力しなければならないのではないか。

 また、短歌雑誌なども、この代替わりを商機と見たのか、万葉集特集、御製・御歌特集だとか、ざわついているのだが、短歌の愛好者や愛読者の心をとらえるのだろうか。

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短歌研究、2019年4月。グラビアから

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短歌研究、2019年5月、表紙及び広告より

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短歌、2019年5月。広告より

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2019年3月 1日 (金)

「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(2)

 戦後短歌は皇室との関係を結ぶことに慎重だった」のか
  大辻の冒頭の一文を繰り返せば、「太平洋戦争中、短歌は戦意高揚の具であった。天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された。その反省から出発した戦後短歌は、皇室と関係を結ぶことに慎重だった。」とある。この時評の前提になっているので、やはり、こだわらざるを得ない。私は、すでに、「歌人は敗戦をどう受けとめたか」(『現代短歌と天皇制』風媒社 2001年)において、第二芸術論出現以前の論調を中心に分析を試みている。また、それと重なる部分もあるが、昨年の10月に当ブログで以下のテーマで連載をしている。下記の3件だけでも、見ていただきたい。ここでは、重複する部分もあるが、当時の短歌作品や歌人の執筆した文章をたどりたい。  

 

 元号が変わるというけれど、―73年の意味()敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(2)(201810 8)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/7352-e1cf.html

 

  元号が変わるというけれど、―73年の意味()―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制> (3) 2018/(20181011)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/736-7809.html

 

  元号が変わるというけれど、―73年の意味(8)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(4)20181029日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/73-4720.html

  たとえば、1945815日直後の『朝日新聞』には「大君の宜りたまふべき御詔かは 然る 御詔を われ聴かむとす(釈迢空)」(816日)「聖断はくだりたまひてかしこくも畏くもあるか涙しながる(斎藤茂吉)」(820日)などが大家たちの作品が発表されている。のちの「第二芸術論」において、1941128日の開戦を受けての作品とどこが違うのかと、批判の対象にもなる種類の作品であった。ちなみに、髙村光太郎の「一億の号泣」が同じようなコラムで発表されたのが817日であった。 


また、つぎの短歌は、いずれも、194510月号の『短歌研究』に発表されたものだが、まだ、GHQの検閲も軌道には乗っていなかった時期でもあったのだろう。続く、11月号では、翌年の歌会始の「勅題」は「松上雪」と発表されたことを報じている。 
 

・天皇ぞわれにまします天つ日ぞわれを照らさすこの和ぎを(吉植庄亮)
・大君のみためぞ吾ら生ける身もはてなむ身も捧げまつるらむ(高田浪吉)
・ひたふるに胸肝あつき詔やうつつの御声ききたてまつる(佐藤佐太郎)

 翌年、1946年になると、GHQの検閲が始まったことを、つぎのように伝える。 

「聯合軍最高司令部の事前検閲に就いて」と題して、歌集歌書短歌雑誌等一切の出版物は印刷前にゲラ刷りを日本放送協会内の聯合軍最高司令部検閲部宛に提出し検閲を受けることになった、旨の記事がある(「歌界記事」『短歌研究』194612月)。その後の天皇制にかかる作品の検閲状況は、上記の記事③を見ていただければわかるだろう。
 
1947123日開催の「歌会始」に際して、御歌所の千葉胤明、鳥野幸次に加えて、民間歌人として、斎藤茂吉と窪田空穂とともに選者となった佐佐木信綱は、『日本短歌』194611月号に「詠進歌に就いて」、19474月には「詠進歌を選して」を寄せ、後者では、「十五名の豫選歌が、御前に於いて、崇厳なる御式のもとに披講せられるのを承ってまことに感激に堪へなかつた次第である」として、時代を反映した、新憲法、祖国の再建、戦災地の復興について、生活を歌った作品の多かったことを特色としてあげている。

 

民間歌人が、歌会始の選者になったことに対しては、つぎのように評価も分かれていること自体、「短歌が皇室と関係を結ぶことに慎重であった」とはいえない例証ではないか。むしろ、皇室との積極的な関与を歓迎する考え方がかなり蔓延していたことにもなるだろう。

岡野直七郎(18961986)は、「ひとたび聖断が下った以上、押しなべての国民は、今までの緊張がにわかに弛んで涙を流しつつ大詔を奉承したのである。(中略)国民詩である短歌の作者が、この日の感動を詠嘆したことは、極めて自然の勢であつた」と冒頭部分で述べた後、末尾では、川田順の皇太子殿下の作歌指導役に就いたこと、翌年1947年の歌会始の選者に、御歌所の歌人に佐佐木信綱、斎藤茂吉、窪田空穂が加えられたことを「特筆すべきとして、歌界の範囲が如何に広いかを示唆するものである」と結んでいる(「(昭和二十一年における短歌)終戦一年間の展開」『短歌研究』194612月)。

新短歌運動の推進者であったが、当時は、短歌ジャーナリストとして活動していた柳田新太郎(19031948) は、「御題『あけぼの』歌会始(一月二十三日)の詠進歌一三八二六首、選歌『天地にひかりみなぎりあけてゆくこのあけぼのの大きしづけさ(塩沢定)』一五首。今年から民間歌人三名(信綱、茂吉、空穂)が選者に加つたその結果に一応の期待がつながれたが、蓋を開けてみれば相も変らぬ御歌所短歌。在米羅府の高柳勝平(橄欖同人高柳沙水)の『あけぼのの大地しつかと踏みしめて遠くわれは呼ぶ祖国よ起てと』だけが異色、述べている(「短歌紀要」『短歌往来』19474月創刊号)。 

 窪田空穂(18771967)は、後に、つぎのような三一首の連作を寄稿している(「吹上御苑を拝観して」『短歌研究』194878月合併)。皇室と距離を置くどころではない。

御研究室に通はせたまふ路と聞き心ただならず踏みゆく朽葉 

見るはただ薄原なり焼け残る小き御文庫ぞ御住まひどころ 

吹上の御苑拝せしこの方や偲ぶに畏くわがこころ重し

 川田順は、1946年年頭より皇太子の作歌指導にあたり(「歌界記事」『短歌研究』19464月)、吉井勇は「すめろぎ」と題して5首を寄せている(『短歌往来』19477月)。 

おのづから胸ぬち熱し親しげに若き侍従の仕ふる見れば 

浪速津の市井のことも逡巡はずもうしてかしこすめろぎのまへ 

神にあらぬすめろぎたればわれ等また一布衣として御前にゐむ

 吉井、川田は、谷崎潤一郎と新村出とともに、天皇に招かれ文芸について語っているし(「座談会・天皇陛下の御前に文芸を語る」『小説新潮』19479(創刊号)、二人はともども1948年に「歌会始」選者になっている。吉井は1960年までつとめ、木俣修に譲ったかたちである。川田は「老いらくの恋」事件で、一年で降板するのだが。

 1951年の「歌会始」の豫選者 の中には、春日井瀇、五島茂、高尾亮一、中西悟堂という、すでに歌人としてメディアで活躍している著名人たちもいた。これも、中堅の歌人たちを含めて、皇室との関係を持ちたいとする願望の強いことの証ということができよう。 

 その後の、歌人と皇室との関係については、これまでの拙著で繰り返し述べていることなのだが、ざっくり言えば、「短歌が皇室と関係を結ぶことに慎重であった」というより、歌人たちは、むしろ、積極的な皇室へのアプローチを躊躇しなかったともいえる。

 なぜ、「天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された。その反省」もないままに、皇室との関係を深めようとした歌人たち、彼らにも寛容であり、抵抗なく受容した歌人たち、そして、今、現在の歌人たちにも、そのまま引き継がれ、さらにその関係は強化されようとしている、真っ只中にいる。

 その要因は、直接的には、各歌人たちが天皇とつながりたいという名誉欲や自己顕示欲につながるのだが、大局的にとらえると、GHQが日本の占領政策のために編み出された「象徴天皇制」というかたちで天皇制を残したこと、日本政府はつねに天皇、皇室を政治的に利用しようと目論んでいること、天皇及び周辺も象徴天皇制のもとで天皇家の繁栄持続を願い続けていたことを、マス・メディアが全面的に支えることによって、天皇制は「天皇家の物語」として深く、国民の間に浸透していた、考えられる。

   そうした流れの中で、たしかに、1960年前後、岡井隆による「歌会始」批判などが歌壇をにぎわしたこともあったが、それも一過性で、その岡井も1993年から2014年まで選者、その後は御用掛を務めるに至った。その間には、1979年には、いわゆる「戦中派」と称される世代の岡野弘彦(1924~)と上田三四二(19231989)がそろって選者入りしたときも、その意外性を指摘する声もあったが、岡野は、2008年まで務め、その後は御用掛を務めていたが、今は、篠弘に譲ったようである。 

本記事の前半のような作業の中では、戦後短歌のスタートにおいて「短歌が皇室と関係を結ぶことに慎重であった」という事実は見出しがたかった。

昭和天皇の時代が終わり、平成に入ってからの「短歌と天皇制」、いかなる変貌遂げたのか、遂げなかったのか、について報告できればと思う。 

私は、ツイッターというのは苦手で、参加?はしていないのだけれど、大辻の、この「時評」には、子安宣邦が直後に反応して、それをめぐってにぎわっているのを知った。その件とあわせて、つぎは、「天皇制アレルギー」について触れたい。(つづく) 



 

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2019年1月18日 (金)

昨年は、二つのインタビューを受けて~

 

 

 昨年末、短歌誌『合歓』の発行人である久々湊盈子さんのインタビューを受けた。『合歓』では、毎号、歌人などのインタビュー記事があって、その人選びも中身も、聞き手のリードもあって、楽しく読ませていただいていた。今回、思いがけず、そのオファーを受けたのだ。久々湊さんとお話するようになったのは比較的最近で、20161月「短歌サロン九条」でレポートをと、声をかけてくださったのも彼女だった。『心の花』、『個性』を経て、1992年から『合歓』を発行されている。歯切れのいい、骨太の作品や評論を発信し続けていて、大変、行動的な歌人でもあり、「酒豪」とも漏れ聞いている。

 

 天皇の代替わりが迫る「今でしょ!」とばかりに、短歌と天皇制についても話し合えたらとの趣旨は、ありがたいことだった。私も慣れないことなのでかなり緊張していたかもしれない。当方の住まいの近くのホテルのロビーでお会いした。

 

 気っ風のよさと細かい心遣いを併せ持つ話術にリードされて、終戦はどこでどんな風に迎えたかに始まり、いわば生い立ちから、短歌を始めた動機なども尋ねられた。表題にもあるように「短歌と天皇制と憲法と」に及び、沖縄の旅から帰ってきたばかりという久々湊さんからは、沖縄の現状についても貴重な話を伺えたのが、有意義であった。終了後は駅前の居酒屋で、インタビューにも同席された歌人のKさんと3人で、私もいささか盛り上がったのだった。

 数日前に届いた、そのインタビュー記事が載った『合歓』83号(20191月)は、大きな図書館や千葉県内の大きな図書館では読めると思う。そこでお会いできたらうれしいのだが。

 

◆ 「インタビュー・内野光子さんに聞くー短歌と天皇制と憲法と」(聞き手:久々湊盈子)『合歓』83号 20191

 


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なお、昨年の初めの『法と民主主義』編集の弁護士の佐藤むつみさんとのお話も楽しかったが、その時の様子は、下の当ブログ記事を参照ください。

 

 ゴールデンウィークのさなかですが~(201854日)

「私の歌に連なる他者へ」(聞き手:佐藤むつみ、「あなたとランチを」NO.35)  『法と民主主義』(日本民主法律家協会) 20184 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/05/post-d6fe.html

 

 

 

 

 

 

 

 

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