2017年6月29日 (木)

71年前のきょう、1946年6月29日、何があったのだろう

 きのうの朝日新聞の夕刊「あのとき・それから」の記事で、629日は、GHQの意向を受けた文部省が全国の国公私立学校に対して、「奉安殿」撤去の通牒を出した日と知った。

 

 梅雨のさなかのことだったのだなァと、「奉安殿」については、いま思い起こすことがある。私たち家族は、母の実家のある千葉県の佐原(現香取市)に疎開していた。私は、敗戦の翌年4月、佐原小学校に入学している。明治36年(1903)生まれの母が結婚前、教師として勤めていた学校でもある。入学当初の想い出は、情けないことにほとんど消えてしまっているのだが、母の実家から、町の中心部から離れた馬市場の跡、管理人さんが住んでいたという、何本かのつっかえ棒のある古い家に転居した。そこは疎開者にとっては、ありがたい場所だった。一家で、市場の広い草原を畑にして、食料不足を補うことが出来たのである。母は、あの日、近くの農家と共同で使用していた井戸端で、敗戦のニュースを聞いてきたらしく、「日本は負けたんだって」と伝えられたことを覚えている。 

 その翌年、私は小学校に入学した。「ホウアンデン」の前では礼をしなさいと教えられたことは覚えていないのだが、ある日、先生が「あしたからは、ホウアンデンの前で、お辞儀をしなくてもいいことになったのよ」と言われたことは鮮明に覚えている。その日は、朝から雨で、階段の下から「さしていた傘を横にどけて、きちんとお辞儀をしてきたのに」の思いがあったのに、「どうして?」の気持ちであったのだろう。それが、何日のことかはもちろん不明だが、私たち、母と中学生だった次兄の三人は、父や長兄に遅れて、夏休みに池袋の焼け跡に建てたバラックに引っ越している。たった一学期だけでの転校であった。だから、先生の指示は、たぶん、7月の初めか中旬のころだったのだろうか。

 

 「奉安殿」とは、18901030日、明治天皇から内閣総理大臣山県有朋、文部大臣に下賜されたのが教育勅語と翌年、文部省から下付された明治天皇の御真影を保管するための場所である。全国の国公立学校は神社風の小さな建物や別置するための部屋を設けた。保管場所としての「奉安殿」の建設が盛んに奨励されるようになったのは、1910年代から1930年代で、天皇制教育の象徴的な存在となった。

 

 敗戦後の奉安殿の撤去について、手元にあった事典とネット検索でヒットした以下の資料でたどってみた。 

①多木浩二『天皇の肖像』岩波新書 19887 

②籠谷次郎執筆「御真影」「教育勅語」『天皇・皇室辞典』 岩波書店 20053 

③白柳弘幸「東京都と神奈川県の奉安殿遺構調査」『法政史学』68号 20079 

④小野雅章「戦後教育改革期の学校儀式と御真影再下付問題」日本大学教育学会紀要 46号(2011年)。著者は、冒頭の記事にも登場し、未見ながら同じ著者による近著に『御真影と学校 「奉護」の変容』(東京大学出版会 2014年)があるようだ。

 

 冒頭の記事にあった1946629日に至るまでには、曲折があったようである。19451215日、「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件」(以下カタカナをひらがなに書き換えた)というGHQから終戦連絡中央事務局経由の日本政府に対しての覚書である。「国家神道の物的象徴となる凡てのものを設置することを禁止する、而して之等のものを直に除去することを命令する」という、いわゆる「神道指令」であった。一週間後の同月22日には、文部次官より地方長官、学校長への通牒には、「學校内に於ける神社、神祠、神棚太麻、鳥居及注連縄等は撤去すること。尚御真影奉安殿英霊室又は郷土室等に付ても神道的象徴を除去すること」とある。その後も、教育現場と文部省とのやり取りの中で、「この際、撤去することを適当と認める」「形式の如何を問わず独立の建物として奉安殿を撤去すべき」「神社形式ではない奉安殿まで撤去する意向ではない」「撤去できないものは原形をとどめないように」とか様々な混乱があったようだ。そして、19466月の文部次官通牒に至るが、必ずしも撤去が徹底していたわけではないようで、各地に、その遺構が見出されることにもつながる。

 

 文献④によれば、宮内省の「御真影」を新たな制服による写真を再下付するという通達を受けて、19451220日文部次官通牒「御真影奉還に関する件」が出された。「御真影」の一斉回収は実施されたのだが、「御真影」自体を否定するのではなく、基本的な変更はなかったという。 

 194645日宮内次官による各省次官あての通牒に付された「御写真取扱要綱」は、「国民が日本国の元首、国民大家族の慈父として深き敬愛の念を以て仰ぎ奉るべきものとし」、写真は仰ぐに適当な場所に「奉掲」するものとするが、「拝礼」を強制してはいけないこと、奉安殿などに「奉護」しないこと、を内容とするもので、これについては、1946710日のCIEの「日本の学校における教育勅語と御真影の取扱い」という覚書で追認される形となった。

 

 「教育勅語」については、森友学園問題で、系列の幼稚園で「教育勅語」を暗唱させるような教育の実態が明らかになって、にわかに注目されるようになった。1946108日、文部次官通牒により「教育勅語を以て我が国教育の唯一の淵源となす従来の考えをなくすこと、式日などに奉読をしないこと、勅語及び詔書や謄本などは学校で保管するものの神格化するような扱いをしないこと」とした。113日日本国憲法の公布、19473月教育基本法の公布を受けて、1948619日衆議院・参議院において教育勅語の排除、執行確認が決議された。こうした経過は、今回の森友学園問題の審議で知られるところとなった。この両院の決議にもとづいて、625日には文部次官通牒により教育勅語の謄本の返還が命じられたという経緯であった。

 

 朝日の記事に戻れば、戦前、根津嘉一郎が理事長だった旧制武蔵高校が、「奉安所新築」を三度も見送って軍部に抵抗する気骨を示したことやキリスト教系の学校は「建物や設備が整わず御真影を受け取るのはかえっておそれ多い」という理由で先延ばししていた例が書かれていた。

 

 こともあろうに、2017331日、森友学園の「教育勅語」教育が問題になっているさなか、安倍内閣は、戦前・戦中の教育勅語を学校教育で使うことについて、「勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切である」とした上で、「憲法や教育基本法等に反しないよう な形で教材として用いることまでは否定されることではない」と、何とも不可解な閣議決定までしたことは、記憶に新しい。

 

私が「お辞儀」をしていた佐原小学校の奉安殿は、その後どうなったのだろうか。転校した池袋第二小学校の校舎は空襲で焼失、1年生の教室は近くの重林寺の本堂であった。二年になると、子供の足ではかなり遠方の要町小学校に間借りしていた教室に通った。二部授業ということで午後に登校することもあった。新校舎が完成したのは、1947年の夏のことだったろうか。御真影も奉安殿も、教育勅語の記憶は一切なく、学校も、先生もそれどころではなかったのではないか。

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小学校一年一学期、佐原の諏訪神社近くの諏訪公園に立っていた「伊能忠敬」の銅像の写生画。画用紙ではないわら半紙のような紙に描いた絵。母が新聞紙などで裏打ちをして残しておいてくれた、私の絵。右肩にくしゃくしゃになった銀色の紙、先生が銀賞をくださったのだろうか、下方には、壁に貼付したような張り紙も見える。母が必死で残してくれた佐原小学校の想い出の品である

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2017年3月24日 (金)

「歌会始」を通して考える「天皇制」

「歌会始」を通して考える「天皇制」

以下の文章は、昨年の7月下旬に発売された雑誌『ユリイカ』(20168月号)に寄稿したものである。以降、天皇をめぐってのさまざまな環境も変化した。私自身の周辺でも、以下の文章をめぐって、いくつかの批判も公にされたし、論争の的にもなった。その一方で、いささかの励ましもいただいた。『ユリイカ』を読む機会が少ない当ブログの読者や歌人の方にも是非お読みいただければと、掲載することにした。「歌会始」は、憲法上規定のある天皇の「国事行為」でもなければ、「私的行為」でもない「公的行為」とされているが、憲法上にも皇室典範上にも規定があるわけではない。 


( 3月27日補記)

下記のエッセイと直接関係はないのですが、昨日、下記のブログ「短歌のピーナツ」に、牛尾今日子さんという方が、拙著『現代短歌と天皇』(2001年)の書評を書いてくださっているのを知りました。ありがとうございます。1994年生まれの京都にお住いの歌人です。ていねいに読んでくださって、疑問を呈されている個所もありますが、ともかく、拙稿に記された「事実」と文献をたどって、役に立つことがありましたら幸いです。

「短歌のピーナツ」の書評シリーズの51冊目に当たります。私も、時々寄らせてもらっています。読んでない本は、読んだ気になってしまいそうになるほど長いです。最近では、「万葉集の発明」、「短歌のジェンダー」「窪田空穂の身の上相談」などが面白かったです。

「短歌のピーナツ」

2017年3月25日

http://karonyomu.hatenablog.com/

◇◇◇◇◇

タブーのない短歌の世界を―「歌会始」を通して考える

今回の特集の企画書によれば、筆者は、まさにアウェイの感を免れない。あえて飛びこんだのは、現代短歌は、歌会始・天皇・天皇制を看過できないはずとの思いからである。

「歌会始」、無関心を標榜する歌人たち

岡野弘彦や岡井隆の世代はもちろんのこと、穂村弘、さらに山田航の世代に至るまで、無関心であろうはずがなく、必ずや少なくとも、歌会始の現況を見極めているはずである。和歌御用掛り、選者、召人となった歌人自身が、そのことを世間にあらわにして、その地位を誇らしげに語るのは、岡野・岡井どまりで、以降、多くの歌人は、選者、召人になったり、陪聴者になったりしたことすらも、身内や仲間内ではともかく、自ら世間には公けにせず、語らないのが流儀のようなのである。「歌壇」を構成する歌人たちといえば、まったく無関心のふりをしながらも、横目で一瞥していることは確かであろう。天皇や天皇制について考えるのは面倒な上、いつか自分が招ばれる日が来るかもしれないと、静かに控えている歌人は多いにちがいない。

 

①ゴージャスな背もたれから背を数センチ浮かせ続ける天皇陛下(穂村弘)

(『短歌往来』20102月)

②天皇は死んでゆきたりさいごまで贔屓の力士をあかすことなく(穂村弘)

(『短歌研究』200610月) 

穂村弘は、①について「これは、歌会始での天皇陛下の様子なんです。歌会始に招待されるシステムみたいなのがあって、毎年いろんな人が呼ばれていますが、それに行ったことがあって、わりと近くで天皇がいらして・・・これはわりと、リアルな歌で、現在の天皇のことです」と自作を語り、平成に入って、歌会始の陪聴者になったことをさりげなく明かしている(『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』新潮社 二〇一二年、178 )。また、同書の山田航の解説によれば、①は、岡井隆、石井辰彦らと朝日カルチャーセンターの朗読会(二〇〇九年九月六日)の「皇居を詠む」のテーマで朗読した作品だったという。続けて、山田は、①について、穂村は、ある時期「天皇であるということは尋常ではないほど厳しい自己規律が必要なのだと気づき、そこに激しい他者性を見て」「時代と自己との関係性を見つめなおすようになった」として、②では、平成の天皇には「昭和天皇に見出している人間くささとはまったく異なっている」ものを見て取る(177p)。

穂村の「歌会始に招待されるシステムみたいなのがあって、毎年いろんな人が呼ばれていますが」の書きぶりからは、あえて深く考えないポーズをとる。山田は、「他者性」「関係性」といった用語を使用するが、近頃のテレビタレントのキャスターでさえ好んで口にする、一種の流行語にも思え、内容的には何も踏み込んで語っていないことになる。

世代的には確かにバランスをとっている現在の歌会始選者、篠弘から三枝昂之、永田和宏、内藤明、今野寿美の五人に至るまでの曲折や現状について触れる時評や論評は極端に少ない。選者の出自や師系をたどると、篠(まひる野)、三枝(かりん⇒りとむ)、永田(塔)、 今野(まひる野⇒かりん⇒りとむ、三枝の妻)、内藤(まひる野⇒音)ということになり、アララギ系の高安国世創刊の「塔」の永田を除いて他の四人は、すべて窪田空穂・窪田章一郎系にたどり着く。かつては、いいも悪いも偏らない配慮がなされていた。現在にあっては、多くの歌人が、所属結社の主張、師の系統による特色を厳密に受け継いでいるとはいいがたく、薄らいでいるとは言うものの、いかにも偏向のそしりは免れないだろう。

かつて、岡野・上田三四二の戦中派が選者入りした一九七九年、そして、天皇の代替わり後の岡井隆が選者になった一九九三年のときには、歌壇の反応は熱く、持続していた。さらには、敗戦直後の論争にもさかのぼることができる。 

戦後短歌史における「歌会始」

戦後短歌史における短歌と天皇制の問題は、具体的には「歌会始」の問題に集約されるだろう。詳細は、拙著『短歌と天皇制』(一九八八年)『現代短歌と天皇制』(二〇〇一年、ともに風媒社)『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 二〇一三年)にゆずるが、ここで、要点をさらっておけば、つぎのようになる。

一九四七年からの“新生”歌会始は、宮内省の御歌所の旧寄人二人と佐佐木信綱、斉藤茂吉、窪田空穂のいわゆる民間歌人三人を選者としてスタートした。御歌所主事を経て、当時は歌詠課課長、その後長い間侍従長を務める入江相政が実務を取り仕切っていたことは『入江相政日記』に詳しい。天皇制自体、天皇の戦争責任論、退位論などが取りざたされる存亡の危機に瀕した激動の時期であり、昭和天皇の歌会始以外の短歌を一般の雑誌や新聞にリークするなど、現在では考えられないほど、その政治的利用も活発であった。

一九五〇年六月に始まった朝鮮戦争による日本は特需景気を経て、一九五二年四月のサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約発効により独立することになるが、同時に、沖縄はアメリカの軍政が固定化し、日本の各地での米軍基地は強化されていった。さらに、日本遺族会設立、軍人恩給復活、自衛隊法成立、小学校に「道徳」復活など「逆コース」をたどる。一九五八年皇太子の婚約が決まると、皇室ブームを週刊誌ブームが支えることになる。歌会始の選者も、木俣修や五島美代子の起用によって、四賀光子と女性二人の時代がしばらく続くことになる。一九六〇年新安保条約成立後は、安保反対の国民運動も後退し、経済高度成長期を迎える、そのころの岡井といえば、現代歌人協会が歌会始入選者の祝賀会を開催したことについて、かなりのハイテンションで、つぎのように述べていた。

 「(宮中の)の一行事に文学の仮面をかぶせた歌人たちは、その仮面性を知っている以上、腹であれらの歌の形をしたものどもをわらっているか、否定している筈である。あるいは仮面でも詐称でもないという人がいるかもしれない。その人には、あの皇室関係者の御歌を一つ一つ自己の文学観に照らして価値づけてもらわねばならない」

「この歌会始の儀につながる一切事は、旧支配者に対する民衆の残忍な戯れなのであろうか。尊王の至誠が、皇室の民主化の至情が、とにかくそうした熱情のたぐいをすっかり凍結しつくしたところに生まれる非情な遊びなのだろうか。しかし、そこには美がない。この非情な穢醜を、私を肯定することができない」

(「非情の魅力について」『現代歌人』創刊号一九六〇年五月 4748頁)。 

一九七九年いわゆる「戦中派」の中核でもあった上田三四二(一九二三年生)と岡野弘彦(一九二四年生)が佐藤佐太郎と宮柊二に代わって、歌会始の選者になったとき、一九六〇年代には角川『短歌』の編集にも携わった同世代の片山貞美は、つぎのように批判した。

 

「事は天皇・皇族の参加する宮廷行事である。当然のことに参加する者の意識は改って、天皇を頂点とする制度の秩序のなかに整然と組み入れられることをあらわにする。(中略)つまり詠進歌の行事は今日では短歌の文学的問題をほとんど含まず、政治的問題が主だと見なければならないのだ。だから選者は選歌を通して天皇制支持という姿勢をあらわにすると見なければなるまい」

(「二人の戦中派」(角川)『短歌年鑑一九七九年版』) 

さらに、天皇制は家父長制とともにわたしたちの生活の根にかかわる問題で、「戦中派はそうした問題に一九四〇年代の戦争体験によって最も鋭く迫った人びとのはずである」から、選者になることは許せないと言い切った。しかし、一九七九年六月元号法が施行され、『短歌』は、一九八四年から、翌年の「宮中歌会始詠進要領」の掲載を開始する。短歌総合雑誌が「要領」を掲載、選者の一人岡野弘彦の詠進の勧めともいうべきエッセイや宮内庁での歌会始のプロモーターである入江相政のエッセイなどが続く時代の始まりとなった。戦後の短歌史上、短歌総合誌が、国の皇室行事に加担するというエポックをなした。さらに菱川善夫の『短歌』論文削除事件などが明らかになるのもこの時期であり(菱川善夫「変化と病―昭和五十年代の時代状況」『短歌現代』一九八五年二月)。歌壇全体が自粛ムードのなかで推移することになったことは、ある年代以上の歌人には覚えがあるのではないか。

一九九年の歌会始選者に岡井隆が就任することが公になった一九九二年秋、歌壇の様相は少し違っていた。「前衛歌人」の岡井が選者になったことの衝撃は少なからずあった。詳しくは筆者作成の「岡井隆歌会始選者就任関係書誌(一九九二~二〇〇〇)」(前掲『現代短歌と天皇制』所収)を見ていただけばわかるように、全国紙から同人誌に至るまで、必ずしも網羅的ではないにしても、その反響は数年にも及び、八〇点近く、アンケートなどを含めればその発言者は一〇〇人に達するだろう。岡井自身の発言も7点ほど含んでいる。岡井が、繰り返し主張し続けたのは、「歌会始は、だれもが参加できる奔放最大の、知名度の高い短歌コンクールで、国家や皇室との関係はいまや薄くなってきた。これからの歌会始は、参加する多くの応募歌人により、反権力を歌ってきた歌人らが選者になることによって、イメージは変わる」ということだったのだろうか。座談会やインタビュー記事からだけでは不明確な点が多い。さりとて、岡井自身の執筆になる、たとえば、「あるニヒリストの演舌―歌会始の件につき」(『未来』一九九三年一月)、「歌会始の選者として」(『短歌往来』一九九三年二月)などを読んでも、独特の言い回しではぐらかされた感じがしないでもない。代表的な反響として、上記『短歌往来』の一五名による「アンケート・岡井隆氏が歌会始の選者を引き受けられました。そのことにつき率直な意見を述べてください」の回答が、温度差はあるものの、裏切り、嫌悪、遺憾、不可解、失望、好ましくない、納得できない、天皇との距離を保つ、などが一〇名、一方、騒ぐこともない、興味がない、ぴんと来ない、驚くこともない、今後に注目したいという五名だったというのも興味深い。当時、『未来』で岡井隆の選歌から離れた会員、『未来』から離れた会員もいたという。

 近年の岡井隆は、歌会始の選者はやめたが、和歌御用掛として、皇居に通っているし、メディアへの露出度は高く、その発信力は衰えてはないようで、むしろ焦りさえもかんじさせる。昨年から今年にかけて、短歌誌ばかりでなく、つぎのような一般メディアにも登場する。

『朝日新聞』(夕刊)「人生の贈りもの」(二〇一五年二月)という一〇回のインタビュー記事では、

「かつてのマルキストが、歌会始の選者を引き受けたのはなぜか」の質問に、一九七〇年に蒸発して九州へ行った後で考え方を変え、五〇歳前後で思想転向したとして、つぎのように続ける。 

「ぼくみたいに若いころ天皇制を否定していた左翼の人間が転向したわけです。日本の文化人って、転向しても理由を述べない人が多いねえ。あれはやっぱり書くべきだと思います。説明責任があります。僕はその理由をいろんな機会に『自分が若いころには分かっていなかった』とちゃんと書きましたよ。それを経たあとは、ずーっと揺るがない。その一つの表れとしての歌会始です」(『朝日新聞』二〇一五年二月二六日付夕刊) 

ここでは、明確に「転向」に言及し、何度も「説明責任」を果たしてきたというが「若気の至り」

では、説明したことにはならない。現に、二〇〇八年の段階では、これも、小高賢との対談で「岡井さんの選者就任で一番足りないのは、ご自身の論理的説明ではなかったか」の質問につぎのように答えていた。

 「振り返って客観的に眺めてみると、やっぱり僕は転向したのだと思う(中略)。自分自身のためだけでもいいから、きちっとあきらかにしておく必要があったかなあと思う。ただなにか書こうとすると、みんな、大島史洋君もそうだったけれど、『岡井さん、もうやめなさい。何を言ったって、全部、言い訳に取られるから、何も言わない方がいいですよ』というから、そう思っちゃった」

(『私の戦後史』角川書店 二〇〇九年 二九六頁)

 

私の検索の限りでは、以後も論理的に説明している発言が見当たらない。岡井は、さらに「宮内庁和歌御用掛が明かす 佳子さまの和歌の素養」(『文藝春秋』二〇一五年六月)においても、歌会始を「国民参加型の文化行事」と位置づけ、最近体調を崩した折に(和歌御用掛の)後継者を探したが「適任者が見つかりませんでした」と記す。しかも、天皇・皇后は平和への特別な想いを持っているので「お歌に助言をさせていただく人間として戦争体験者の私がお役にたてるのではないかと、考えるようになり」、「両陛下がご公務に頑張っておられるわけですから、私も頑張らねばいけません。体力が続く限り、御用掛を続けさせていただこうかと思っております。」と結ぶ。

二〇一六年に入って、『朝日新聞』の「はじめての歌会始~皇室と国民 同じお題で心詠む」(「文化の扉」一月一〇日)にも登場、「2万人以上の人が一つのお題で定型の詩を作りあうのは、他国にはない」「歌会始は、日本の伝統が脈々と続いていることを世界に知らせる良い機会なのです」と述べている。はたして「日本の伝統が脈々と続いている」歌会始なのかは、明治以降の歌会始のありようを見ても、そんな素朴なことではなく、戦略的な結果が今に至っていることを承知の上、見て見ぬふりをしていることではないか。

現在五〇代以下の歌人たちは、先にも述べたような歌人への言論統制・圧力について、今の世の中においては、なおさらそれはありえない、自分はそんな目には合ってはいないと、楽観している向きも多いかもしれない。しかし、現在にあっても、天皇・歌会始のことに言及するとき、選者と師弟関係・友好関係があったり、自分に目をかけてくれる選者であったりすると、たとえ異議があっても、急に言葉を改め、敬語が増えたり、慎重な言い回しになるか、無関心・無言をつらぬくことが多いと、私は見ている。自覚的、無自覚的を問わず、すでに自粛や萎縮にもつながっていることを指摘しておきたい。

 

聖域やタブーをつくらない議論の場を

こうした歌壇の大きな流れのなかで、私は、最近、一つの事件に遭遇した。それに連なるもろもろのことに共通して見えてくるものは、やはり国家権力の文芸への介入を受忍する、民主主義の衰退であった。

二〇一五年一二月、現在の歌会始選者の一人今野寿美が二〇一六年から『赤旗』の歌壇選者になるという記事であった(『赤旗』1228日)。今野寿美の思想の自由、『赤旗』の編集の自由だといって、片づけられる問題なのだろうか。今野の選者としての歌会始の自身の作品と『赤旗』歌壇の選歌の結果を比べてみてほしい。明らかにダブルスタンダード的な要素が伺える。『赤旗』歌壇の選者を務めたことのある歌人の「なんかおかしい、今野さんの選歌は、明らかに『赤旗』におもねすぎている」との感想は聞いていたが、この件についての論評は、今のところ見当たらない。だが、これには、前触れがあった。一九四七年以来、七〇年近きにわたって、「玉座」から天皇の「おことば」が述べられている国会開会式には参加していなかった日本共産党が、二〇一五年のクリスマス・イブに、二〇一六年の通常国会から出席すると発表したのだった。そのために開かれた記者会見の模様を、『赤旗』より詳しく報道したのが『産経新聞』であった(一二月二五日)。「共産党、国会開会式に出席へ 天皇陛下御臨席に反対方針を転換「アレルギー」払拭へ」の見出しで、共産党は安全保障関連法の廃止を求める野党連立政権「国民連合政府」構想を提案しており、従来の対応を変えることで他党に根強い「共産党アレルギー」を払拭する狙いがあるとみられる、と報じた。ちなみに、「朝日新聞デジタル(12241249分)」では、「共産党が通常国会開会式へ 党として初、野党と同調」の見出しで、これまで天皇陛下の出席を理由に欠席してきたが、方針を転換した。開会式に出ている他の野党と足並みをそろえることで、来夏の参院選での共闘へ環境を整える狙いがある、とした。

さらにさかのぼれば、二〇〇四年の新綱領、昨二〇一五年一〇月の「日米安保条約廃案一時凍結」の発表で、野党共闘、アレルギー払拭をめざし、一枚一枚、たけのこのように、皮をはいで行って、残るものは何なのだろう。そういう流れのなかで、一見、寛容で、ウイングを広げたかのような『赤旗』紙面への著名歌人の登場、歌会始選者の『赤旗』歌壇への起用であったのである。だが、一方、歌人に限らず、いささかでも異を唱える者の排除や無視という非民主的な要素、開かれた議論の場を想定しがたい状況が、蔓延しているのではないかが懸念される。思想の自由、表現の自由を守ることの難しさを痛感するのである。

歌壇に限って言えば、そんな風潮を早くよりキャッチし、警鐘を鳴らし続けている歌人もいる。そして、二〇一六年の年末になって、佐藤通雅は、拙著3冊をあげて「果敢にタブーに踏み込んだこれだけの作業を、見て見ぬふりをいいのかと義憤の念にかられて、私はいくつかの文章を書いてきた」との論考が発表された。拙著で述べた「天皇・皇后の被災地訪問は、政府や企業あるいは自治体の被災地・被災者対策の不備を補完する役割」とすることについて、佐藤は、「補完の域を脱した、内部からの抵抗を感じることが何度もある」「為政者への無言の異議申し立て」であると、私の考えとの違いをも踏まえ、「いずれにしても、選者になったとたん黙して語らないのも、周りが見て見ぬふりをするのも不健全にはかわりはない。タブーはもう脱ぎ捨てて、さまざまな角度から意見を出し合い、問題を共有していくことを私は望んでいる」と結論付けた(「歌の遠近術12短歌と天皇制への視点」『短歌往来』二〇一五年一二月)。

しがらみのない、インターネットの世界から巣立つ歌人たちにも、ぜひ、歴史から学び、聖域やタブーをつくらない議論の場を構築し、こまやかな感性とゆたかな感情を大切にしてほしい、と願う。

 

 

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2017年3月20日 (月)

「天皇の退位」は実現する見込みだが~衆参両院正副議長の「とりまとめ」をめぐって

「とりまとめ」への経過

201688日には、天皇の「生前退位」の「お気持ち表明」が一斉にテレビ放映された。先立つ713日にはNHKのスクープとして、天皇が「生前退位」の意向を宮内庁関係者に示していたと報じられた。これまで、政府は、面倒な問題として先送り、避けて来た問題が浮上し、慌てての対策が、コントロールが効く政府の諮問機関「有識者会議」なるものを立ち上げた。その中間報告が政府の意向を受けたものだったので、両院の議長が事前協議の形で、各党・会派の協議を行い、317日、与野党は、衆参両院正副議長による「議論のとりまとめ~特例法の制定によって退位を可能にする~に合意し、首相に提示した。4月下旬、有識者会議の「最終提言」を経て、5月の連休後に国会に提出、成立する見込みとなった。昨年11月の段階で、私なりの情報の整理を試みたので、ご覧ください。 

天皇「生前退位」の行方~天皇制の本質については語られない(1)(2

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/11/post-dd45.html20161129日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/11/post-e43f.html (20161130日)

 現在も、上記の段階から基本的な方向が変わったとは言えない中で、官邸の意向を十分忖度した上での10の各党・会派の妥協の産物ではなかったかと思う。「とりまとめ」自体にも矛盾点がいくつかある。しかも、これとて、今後の有識者会議の最終提案、国会での法案審議と進行する中で、何が起こるかわからない。安倍首相は、特例法に「今上天皇」を書き込むことにこだわり、女性宮家創設の検討と退位が先例になることを極力さけたい意向だったという。今回の提案には、ともかく「今上」の文言はなくなり、あとの二つについては皇室典範付則などで、その可能性を残した。さらに、典範付則には特例法との一体化を明記し、憲法との整合性をはかり、特例法には、今回の天皇の意向表明が広く国民の理解を得たという経緯を書き込むことで、天皇の気持ちが反映されることを確保したということだ。 

「とりまとめ」と付された「政党の意見」

この「とりまとめ」は、あくまでも「国会」「立法府」としての見解ではなく、「衆参正副議長による議論のとりまとめ」であったということである。この見解への各党の対応がどうだったのかでも、今回の問題点が浮き彫りになるだろう。安倍首相は、「重く受け止め、直ちに法案の立案に取りかかりたい」旨の発言が報じられた。また、この「とりまとめ」には7つの党・会派の意見も合わせて付された。朝日新聞によれば(5面、「7党・会派の意見(要旨)」、民進党は、主張してきた「恒久法に規定されるべき退位」が事実上制度化されと理解する、などの意見を付した。共産党は、①特例法の立法理由が退位を認めることについて広く国民の理解が得られていることに置かれるならば、憲法にてらして適合的だ②「おことば」を政治の側が「重く受け止めて」立法措置をとるとなると、憲法に背いた政治的機能の行使になりかねず不適切であり同意できない③「象徴としての行為」のすべてを肯定的に評価する記述は同意できない④「とりまとめ」は、全会派を拘束する文書すべきではない。今後の国会審議を縛るものとしてはならない、とする意見を付した。

今回の「見解」自体が不透明で、文意が曖昧な個所がある上に、付された意見を読むと、さらに、混迷が深まる。民進党の意見は、念押しや確認のつもりなのかもしれないが、これってたんなる「勝手な期待」としか読めない。共産党は、見解への「反対意見」ではなかったのか。「とりまとめ」に、これだけの問題点があるのに、なぜ合意したのだろう、というのが素朴な疑問である。318日の「赤旗」では、全体会議での小池書記長の「発言」として、「天皇退位の立法化の理由が退位を認めることについて広く(主権者である)国民の理解が得られていることに置かれるならば、憲法にてらして適合的であり、了としうる」と「とりまとめには問題点があり、全会派を拘束する文書とすべきではない」の2点をあげ、「意見」としては、上記「朝日」の「意見(要旨)」②をあげている。③は、「発言」としても「意見」としても、記事には登場しない(2面「全会派拘束するべきではない 天皇退位『とりまとめ』小池書記局長問題点指摘」)。それにしても、小池発言の「天皇退位の立法理由が…了としうる」という仮定の問題を想定しての「期待」にすぎず、意見としてどんな意味があるのだろうか。要するに、この際、天皇のことなので「仲良きことは美しきことかな」の発想なのか。こと、天皇の件となると、「突出」したくなかったのか。憲法上の疑義がある「とりまとめ」に、こうした意見を付すくらいなら、なぜ反対しなかったのだろうと。もっとも、このブログでも何回か記事にしているように、共産党は、天皇制へのスタンスを、確実に転換したのにもかかわらず、きちんとした説明責任を果たさないまま、ポピュリズムへと雪崩れていく姿に戸惑い、驚いている。

一方、今回の「とりまとめ」報道、新聞各社の社説をのぞいてみると、いずれも、「とりまとめ」への一定の評価を踏まえ、皇位の安定的継承のための課題を残し、法案審議の過程に着目する、という姿勢のようだ。

毎日新聞:退位の議長見解 政治の土台は固まった 

朝日新聞:天皇退位 「総意」が見えてきた

読売新聞:「退位」特例法案 一本化を促した「国民の総意」(いずれも318日朝刊) 

天皇に、憲法上疑義のある発言をさせた責任~原武史氏の発言

また、さまざまな識者のコメントや発言も溢れた。その中で、私が注目したのは、原武史へのインタビュー「『お気持ち』と政治」(「朝日新聞」318日)であった。天皇の退位の意向を受けて、立法に動くこと自体が憲法に反する、という。こうした疑義が憲法学者から出ないこともおかしな事態だと。現実として、国民の多くが高齢の天皇夫妻の言動を見て、退位容認に傾いていると思うが、どういう過程をとるべきだったのか、を記者に問われて、まず憲法上の「摂政」で対応した上で、国民の多くの声に動かされ結果、政治が動くか、天皇からの意向を早くより伝えられていた政府が動くかして、立法審議へと進むべきだったと。保守派・伝統派の一部での「摂政」での対応を可とする考え方との相違を問われて、「退位のよしあしよりも、過程全体が憲法や皇室典範など現行法にのっとっているかどうかです。次元の違う問題です」と答えていた。

さらに、原は、昨年の天皇の「お気持ち」表明を敗戦後の「人間宣言」と重ねて、リベラルと言われる人からも評価されていたが、あの「人間宣言」は、『昭和天皇実録』の記述によれば「万世一系イデオロギーを継承していた、と指摘、比較というならば敗戦時の「玉音放送」との比較にこそ意味がある、と主張する。「いったん天皇からその意思が示されるや、圧倒的多数の国民が受け入れました。これが天皇と国民の関係です。この点で458月と現在は変わっていません」と結論付ける。

今の時期、こうした明確な発言は、貴重であると思った。護憲や立憲主義を主張するリベラル派と称される識者や護憲政党までも、皇室典範改正や特例法を可とする風潮を理解しがたく、高齢の天皇への同情や言動への敬意・親近感をそのまま「国民の総意」としていることを不安に思っていたので、大いに共鳴したのだった。

また、どのような文脈での発言からなのか、インタビュー記事からでは不明ながら、皇居前の肖像写真のコメントに「天皇に会えば、どうしても感情が入る。研究者として、会うべきではないと思います」の言葉にも説得力があった。

というのも、私が、これまで様々な機会で述べてきたように、「歌会始」選者となった歌人たち、「歌会始」に陪聴者として招かれた歌人たち、それに連なる、もしかしたら声がかかるかもしれない歌人たちの短歌作品や発言に目を止めるだけでも、親天皇、親天皇制へと傾いていく現実を目の当たりにしてきたからである。それが、研究や文芸にかかわる者、表現者としての自律性を大きくゆがめているのではないか、の疑問が増幅していく昨今なのである。

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2017年2月14日 (火)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(1)

沖縄、屋我地島、愛楽園を訪ねる

出発の前、数日間は、那覇の気象情報が気になっていたが、この季節の気温は、千葉より10度は高い。朝、着ていくものに迷ったが、セーターに薄いコートにマフラーで家を出る。羽田1030分発ANA469便、修学旅行の高校生も乗っていて、ほぼ満席ながら静かな機内であった。あの重量の航空機が空を飛ぶこと自体信じがたい私は、いつも無事の着陸を祈るしかないのだ。夫は5回目、私は3回目の沖縄行きである。

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屋我地島は、1953年に屋我地大橋が架けられ本島と結ばれ、1960年にはチリ津波で損壊し、1963年に再建、現在は1993年建設の三代目。2005年古宇利大橋、2010年に今帰仁の天底からワルミ大橋が架けられた

 

今回の最初の目的地は、沖縄本島中部の名護市澄井出、屋我地島の沖縄愛楽園なので、空港前からの高速バスで、名護バスセンターに直行、タクシーに乗り継いでの長距離移動である。高速バスとはいえ、各所の高速道路を乗ったり降りたり、停留所の多い路線バスなのである。最後の高速道路を降りて、終点までのあとわずかのところで、道路工事のため対面交通の個所があり、世富慶(よふけ)辺りの海岸道路の渋滞には参った。本土より日没が遅いとはいえ、不案内な愛楽園構内は明るいうちに回りたいと思っていた。

 

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愛楽園航空写真。右手上の岬の手前の赤い屋根の建物が交流会館、資料室が2015年新設された。左手上の橋が古宇利大橋

 

この日、朝720分に家を出て、愛楽園に着いたのが5時近くだったから、10時間近い移動時間を要したことになる。すでに閉館時刻をすぎていたが、交流会館の受付で案内図をいただく。会館の前には、「高松宮・同妃殿下」(1985年)、「三笠宮寛仁親王・同妃殿下」(1992年)来園記念植樹の掲示があった。地図を頼りに歩き始めると、建物の番号は付されているものの案内板らしきものがない。出会う人は親切に教えてくれるのだが、似たような建物が多く、道路も微妙に曲がりくねっていて、迷ってしまうのだ。そんなとき、広場の隅に何かモニュメントのようなものがみえたので、近づくと、そのモニュメントの脇には、大きな碑と台座が横倒しになっていた。覆うブルーシートが、ところどころ破れていて、「貞明皇后」(大正天皇の皇后、18841951)と読めたので、訳が分からないながら、いささかの衝撃が走った。

なお、「愛楽園」は、現在「国立療養所沖縄愛楽園」となったが、そこには苦難の歴史があった。沖縄ではハンセン病者の療養所設置が各地での反対でなかなか進まない中、自らも16歳の時に発病した、クリスチャンの青木恵哉(18931969)がこの屋我地島北東の小さな岬に土地を求め、1935年末に病者とともに上陸、開園したのが、愛楽園の前身であった。愛楽園発行の案内によれば、1938年沖縄県告示により「国頭愛楽園」と命名、1941年国立に移管、19441010日米軍空襲以降、赤十字の標識が掲げられていなかったため兵舎と間違われ、幾度かの爆撃や機銃掃射により施設は壊滅状態となる。米軍、琉球政府の所管を経て、1972年日本復帰とともに厚生省に移管された。敷地約10万坪、201612月末現在、入所者数164人、園内物故者1348人という。私が関心を寄せたのは、「沖縄における天皇の短歌」について調べていて、現天皇の皇太子時代、沖縄海洋博開会式に出席するために訪れた1975年に、ここ愛楽園を訪ね、琉歌「だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔目にど残る」と詠んでいたことを知ったときだった。

 

*青木恵哉『選ばれた島~沖縄愛楽園創設者の生涯』(聖公会沖縄教区祈りの家教会 195810月)

 

 

さらに、案内図を見ながら、この辺りに「早田壕(はやたごう)」があるはずと、渡り廊下を給食の配膳台を押してきた女性に尋ねると、しばらく間をおいて「ソウダ壕かしら」と、屋根付きの渡り廊下の奥に走って行って、手招きをしてくれる。「ここですよ」と廊下の右側のガラス戸のカギを開けて「向かいにもありますから、済んだら両方ともカギをかけておいてくださいね」と足早に仕事に戻られた。壕の入り口には格子が嵌められていて、中には入れないが、傍らには「早田壕」の説明パネルがあった。

 

「早田壕」とは、19443月に愛楽園に着任した早田晧(19031985)園長は、入所者避難のために横穴式の壕を掘らせた。貝殻の多い硬い地層のため、約一年で、怪我をした人も多く、病状の悪化、栄養失調、マラリアなどで288人が亡くなっている、とあった。

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結局、この日は、日も暮れてきたので、名護市内のホテルに向かい、明日また訪ねることにした。すでに沖縄各地でのプロ野球キャンプ入りが始まり、このホテルにも、間もなく、日ハムの一同がやって来るそうだ。近くの名護球場は、もっぱら夜間練習などで使用するとのことだった。

 

翌日の愛楽園再訪で、交流会館内の資料室をゆっくり見学することができた。資料室は一昨年オープンしたばかりであるが、時系列での展示とテーマごとの展示もあって、多くを教えられた。

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とたん屋根が暑い、かまぼこ型の居室

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澄井出小中学校の年表、1951年開校、1981年閉校の歴史

  また、皇室とハンセン病については、片野真佐子『皇后の近代』(2003年)原武史『皇后考』(2015年、いずれも講談社)に詳しいが、その皇室とハンセン病との関係は、戦前の救ライ事業における、貞明皇后の短歌「つれづれの友となりても慰めよ ゆくことかたきわれにかはりて」と療養所への下賜金が、象徴的に表しているような皇室による「慈悲の心」が、強制隔離や差別を助長したとされる。らい予防法は、1996年に廃止されたが、小泉純一郎内閣時、国家賠償裁判で、2001年の熊本地裁の病者差別違憲判決を受けて政府は謝罪した。2005年には「検証会議最終報告書」が出され、そこにおいても、皇室とのかかわりによって「隔離強化という国策を支持する世論を喚起したのである」と結論づけている。資料室の展示パネルにも、そうした事実が明確にされていた。

 

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復帰1972年を経て1974年再建されたという

ところで、昨夕、探すことができなかった「青木恵哉頌徳碑」、強制断種や堕胎によって葬られた子どもたちの「声なき子供たちの碑」、愛楽園で亡くなった人々の慰霊碑に手を合わせることができた。今でこそ、屋我地島と本島には橋が架かり、これらの慰霊碑は、リゾート地として名高い古宇利島との長い橋も望める地となった。私は、波打ち際に出て、思わず白い砂を掬い、小さな貝殻を拾って小さな箱に収めたのであった。

 

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小島の間に見えるのが古宇利島

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青木恵哉頌徳碑

 

 

 

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2017年1月22日 (日)

「短歌サロン九条」で「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」について報告しました。

「短歌サロン九条」は、「憲法九条を守る歌人の会」の有志の方が、隔月に開く勉強会だという。今回121日に、表記の題での報告の機会をいただいた。20人ほどの参加者であった。

テーマは、昨年6月「思想史の会」での報告と同じなのだが、その報告後、私自身は、2度目ながら34日で沖縄に出かけ、8月末日には、『社会文学』への寄稿「沖縄における天皇の歌は何を語るのか」が活字になったこともある。

「思想史の会」の会での報告の模様は、以下の本ブログ記事を参照

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/06/post-167c.html(2016年6月27日)

昨2016年88日には、現天皇の「生前退位」表明があり、近く「有識者会議」の論点整理が発表され、国会でも各党協議が始まるというが、政府は、特例法による対応など、ほぼ着地を決めている。辺野古新基地建設承認取消訴訟では、最高裁の上告棄却を経て、工事が再開された。北部訓練場の一部返還はされたが高江のヘリパッド建設によって、基地機能は強化された。さらに、1213日には、名護市沿岸にオスプレイMV22が墜落、19日には飛行再開、年明けには空中給油再開、その後も米軍機の事故が相次いでいる。このような状況の変化によって、沖縄、天皇にかかわる問題は、重大な局面を迎えたと言える。本来ならば、日本国憲法下における日米安保条約・地位協定、そして象徴天皇制が照射され、論議されるべき機会であったはずなのに、政治やマス・メディアの世界では、そういう流れにはなっていない。

そんな時期に、新しい情報を踏まえて報告することは、いささかの緊張を伴った。準備を進めている間に、現天皇が、皇太子時代、夫妻で初めての沖縄訪問の折、1975年に、訪ねた国立ハンセン病療養所「愛楽園」(屋我地島)、2004年に訪ねた「南静園」(宮古島)に触れて、皇室と日本のハンセン病対策との密接な関係に着目せざるを得なかった。(注)1931年らい予防法の成立を機に「らい撲滅」「患者の強制隔離」の徹底を推進するため、節子皇太后による「御歌」(「つれづれの友となりても慰めよ ゆくことかたきわれにかはりて」)と「下賜金」に象徴される救らいとして「慈悲の心」が強調された。不治の病ではないとして治療を進める医師、特効薬プロミンの開発を無視する形で、敗戦後も隔離政策は引き継がれ、貞明皇后没後は、高松宮・喜久子夫妻が継承した。らい予防法が廃止されたのは1996年であり、ハンセン病患者への差別が違憲とされたのは、2001511日、国家賠償法訴訟の熊本地裁判決で、当時の小泉純一郎首相は控訴を断念、患者への謝罪がなされた。その後の報告書でも、ハンセン病対策に皇室がかかわったことによって差別が助長されたと、つぎのような報告がなされている。

「このように、藤楓協会は、その誕生から厚生省と一体の関係にあったのである。皇室の「仁慈」を強調することにより、全患協の運動を抑制し、「純然たる民間団体」を装って、「文化国家」に反するハンセン病患者の絶滅を目指し、隔離強化という国策を支持する世論を喚起したのである。」

(「第四章(4)藤楓協会及び皇室の役割)『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』20053月 150頁   https://www.jlf.or.jp/work/pdf/houkoku/saisyu/4.pdf

なお、藤楓協会は、2001年の本地裁判決を踏まえ、2003年3月解後「、その事業の一部は、社会福祉法人「ふれあい福祉協会」が引き継いでいる。

 というのも、現天皇夫妻の沖縄訪問は、皇太子時代の5回を含め10回を数え、訪問の折の夫妻の短歌や天皇の「おことば」、天皇誕生日記者会見での発言で、繰り返される沖縄戦犠牲者への慰霊や鎮魂、沖縄の現状への言及は、現天皇夫妻の個人的な沖縄への思い入れや意図とは異なり、別の役割を果たしていたのではないかと考えられたからである。

天皇の短歌や発言によって、沖縄の戦争犠牲者の慰霊を続け、沖縄の人々の心に寄り添い続けるということは、昭和天皇の沖縄にかかる「負の遺産」、敗戦末期の本土防衛のための沖縄捨て石作戦、敗戦直後の国体維持のための「天皇メッセージ」を払拭しようとする意図があるように思われたからである。さらに、敗戦後から現在に至るまで「国益」と称して、沖縄を差別し続けている政府の沖縄対策の欠陥を、情緒的に慰撫し、補完していないかとの危惧をいだいたからであった。

私の報告は、ほぼレジュメのような流れで進めて、約1時間半で終了、最後に、近年、いわゆるリベラル派と称される論者や表現者が、現天皇の発信や振る舞いから、その人間性に、親しさや信頼を寄せる発言が相次いることが、現憲法下での「象徴天皇制」の本質を見極めることへのバリアになっていないかとの不安を語ったのだった。

また、質疑の中で、参加者のお一人は、とくに歌会始の「選者」につながる人脈について、「短歌結社」に深く由来すること、選者の継承や陪聴者選びに至るまで、大きく影を落としていることを指摘された。私も、結社の主宰や選者たちが「右といえば右、左といえば左」的に、逆らわない歌人たちが多いことも実感していたので、これからも見据えていきたいと思った。また、お一人は、橋本喜典と岡井隆の短歌作品を比較して、岡井の無邪気なまでの宮廷入りに酔いしれている様子が紹介された。一方、美智子皇后の短歌の魅力を語る参加者もいらした。

会場の喫茶店「パンドラ」のオーナーでもある梓志乃さん、司会の久々湊盈子さんと田村広志さん、城間百合子さんらのお世話になった。当日配布の「報告概要」と「資料」を若干補充し、添付した。

なお、近く、私は、屋我地島の「愛楽園」、渡嘉敷島の戦跡などを訪ねたいと計画を進めている。

「報告概要」と「資料」:

http://dmituko.cocolog-nifty.com/okinawanotennonotanka.pdf

(注)

皇室とハンセン病との関係については、以下の文献などを参考にした。

片野真佐子『皇后の近代』 講談社 2003年11月

大塚郁「戦中期の<皇恩>とハンセン病者の文芸―序説」『千葉大学社会文化科学研 究プロジェクト成果報告書』156号 2008年3月

原武史『皇后考』 講談社 2015年2月

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2017年1月14日 (土)

「歌会始」のテレビ中継を見て

きのうは、私のブログへアクセスがいつになくにぎわった。検索のキーワードは「歌会始」だった。私も、113日「歌会始」のNHKのテレビ中継を見た。そして、今朝の新聞記事も読んだ。

昨年は、88日の天皇の「生前退位」表明をめぐって、「天皇制」は重大な局面を迎えたはずだった。「そもそも日本国憲法のもとの<象徴天皇制>ってなんだ?」ということを考えるチャンスであったはずが、現在はそういう流れにはなっていない。

今年の「歌会始」の「野」への応募歌数が20205首だったそうだ。近年では、2万首超えることが少なくなっていて、昨年の18962首を少し上回ったが、今年の入選作品や皇族、選者たちの作品にも、新聞で“話題になる”になるような歌が少ないらしく、目立つ記事も見当たらなかった。また、出席の皇族方も、三笠宮家の喪中でもあったためか、男性は皇太子と秋篠宮の2名、女性は、秋篠宮妃紀子さんと眞子さん、常陸宮妃華子さんの3名という寂しさである。平成30年で終わった時、「歌会始」に今の天皇・皇后はどのあたりに座るのかな、それとも出席しないのかな、など余計な心配もする。NHKの中継を見ていると、入選者の事前取材も入選作を予知しているかのようだし、昨年713日のNHK「生前退位」スクープ報道も宮内庁とNHKの蜜月を思わせ、キナ臭さを感じた。いずれにしても、代替わりを前に、ジャーナリズムの報道姿勢と動向は、注視しなければならないだろう。

近く「生前退位」の有識者会議の論点整理も発表されるが、これとて、政府への忖度は必至だろうし、政府は先のめりに「特例法だ」、「元号だ」と盛んに地ならしを進めている。

 

先ほど気付いたのだが、中島一夫さんのブログ(KAZUO Nakajima 間奏)で、昨年8月号の『ユリイカ』の拙稿「タブーのない短歌の世界を―『歌会始』を通して考える」を紹介してくださっていた。思いがけない読者からの声に、力をいただいた。

KAZUO Nakajima 間奏

http://d.hatena.ne.jp/knakajii/20170108/p1201718日)

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2017年1月 6日 (金)

『琉球新報』の「県民意識調査」結果~その天皇観は何を語るのか

元旦に、ネット上で今回の「意識調査」のことを知ったが、11日の『琉球新報』が届いて、詳しく知ることができた。昨年の拙稿『沖縄における天皇の短歌は何を語るのか』(『社会文学』44号(20168月)において、NHK放送文化研究所の沖縄県並びに全国を対象とした「世論調査」を利用したり、このブログでも、天皇の「生前退位」についての新聞社各社の世論調査のことにも触れたりしたので、類似の質問の回答が比較できるのではないかと思った。

『琉球新報』では5年に一度、「県民意識調査」を実施していたそうで、今回は、20161015日から1125日、55地点の対象世帯を調査員が訪問面接した1047人の回答結果であった。遠く離れた私には、意外な回答結果があったりしたが、ここでは、県民の「天皇・皇室観」についてみてみようと思う。

*以下の表をPDFにしました。こちらの方が読みやすいかもしれません

http://dmituko.cocolog-nifty.com/yorontyosateno.pdf

 

世論調査「天皇観」の動向

 

201716日、内野光子作成)

 

『琉球新報』<天皇、皇室に親しみを持っていますか >               

 沖縄201611月         

9.1

 

強く持っている 

31.7% 

 

まあ持っている

 

29.8

 

余り持っていない

 

6.4
全く持っていない 

14.9

 

どちらともいえない

 
 6.0 

 

わからない

0.1 % 
無回答
 

 「沖縄県民意識調査」『琉球新報』201711日、より作成  

 

NHK<天皇は尊敬すべき存在か> 

沖縄1982年                       

 41 そう思う 

37 そうは思わない

 

16どちらともいえない 

 

7%
わからない無回答

沖縄1987  

45% そう思う

 

29 そうは思わない

 
 19% どちらともいえない 

7%わからない無回答 

 沖縄1992  

34 % そう思う

 
 32% そうは思わない 

28%どちらともいえない

 
7% わからない無回答  

沖縄2002 

30% そう思う        

 33% そうは思わない 

 

 

27% どちらともいえない

11%

 わからない無回答

沖縄2012   

51%  そう思う

 

 

 

19% 

そうは思わない

 

24% 

どちらともいえない

 

6%

わからない+無回答

全国2012                                 

72 そう思う

 

13そうは思わない

 

13どちらともいえない

 

0.2  わからない

無回答

 「復帰40年の沖縄と安全保障~沖縄県民調査と全国意識調査から」『放送研究と調査』20127月、より作成

 

 

NHK<あなたは、皇室に対して親しみを感じていますか、それとも感じていませんか> 

全国2009                                                  わからない+無回答1%

 15とても感じている    46 ある程度感じている 

29% あまり感じていない

 

9まったく感じていない

 

1%

  

 「平成の皇室観~即位20年 皇室に関する意識調査から」『放送研究と調査』20102月、より作成

 

NHK<天皇は尊敬すべき存在だ>(そう思う)の全国・沖縄の動向 

   1978 

1982

 
 1987   1992 

1995

 

1996

 
 2002   2012 
 

沖縄

 
 

36

 
 

41

 
 

45

 
 

34

 
 

29

 
 

32

 
 

30

 
 

51

 
 

全国

 
 

56

 
 

 
 

 
 

56

 
 

 
 

51

 
 

 
 

72

 

 「本土復帰後40年間の沖縄県民意識」「NHK放送文化研究所年報2013」より作成

 

『朝日新聞』<あなたは天皇に対してどのような感じを持っていますか>

全国201611      反感を持つ0.5%、その他0.3%、わからない・無回答1.2%⤵    

 

14.8%尊くて恐れ多い

 
 

47.1% 

 

親しみを感じる

 
 

19.5%

 

すてきだと思う

 
 

16.6 何とも感じない

 
 

2

 

%

 

 『朝日新聞』20161120日朝刊、より作成  

 

 

*以上の表をPDFにしました。こちらの方が読みやすいかもしれません 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/yorontyosateno.pdf

 

上記のように、『琉球新報』沖縄県民意識調査における「親しみを強く持っている」「まあ持っている」を合わせると40.8%になり、「余り持っていない」「全く持っていない」を合わせると36.2%になる。40%以上の県民が、天皇に「親しみ」を持っているというのが、私などはむしろ意外であった。NHK放送文化研究所の調査での設問は「天皇は尊敬すべき存在だと思いますか」とあり、「親しみ」「尊敬」とのニュアンスは若干が異なるが、『放送研究と調査』(20127月)の調査での51%と、過去の分も含めて見ると、昭和天皇の晩年と平成に入っての前半期とその後の動向が興味深い。これらの結果は、大きく、二つの視点から分析してみる必要がある。一つは、時系列の動向と全国と沖縄という地域の違いである。

 沖縄県民の天皇観の動向
 
沖縄における天皇観については、さらに、時代の変化自体と昭和から平成への天皇の代替わり、とくに平成の天皇周辺による意識の変化及びメディアの対応が影響しているとみられる。時代の変化は、沖縄の場合、昭和晩期の「そう思う」が40%超えているのも意外であったが、平成に入って、「そう思う」が30%前後に減少し、「そう思わない」が漸増して、拮抗することになる。その要素としては、戦前の教育を受けた世代の減少と日本国憲法における象徴天皇制の経年などがあげられるだろう。天皇への畏敬の念や尊敬の気持ちが薄れていくのは、その数字だけでなく、平成期の「どちらともいえない」「わからない・無回答」という、いわば深く考えない、無関心層を合計すると、その割合が、351992)、382002)、302012)と約3分の1前後を推移し、根強いことからも分かる。

沖縄において、こうした状況が劇的に変化を見せるのは、2012年の「そう思う」が51%、「そう思わない」が19%という数字である。全国の場合を見ても、1978年、1992年、1996年の推移を見ると、50%台だったのが、2012年に72%に上がっている。この理由として、「復帰40年の沖縄と安全保障~沖縄県民調査と全国意識調査から」(『放送研究と調査』20127月)は、「11年の東日本大震災後の被災地訪問などの活動も少なからず影響していると思われる」(6頁)と分析している。NHK在位20年の世論調査における「天皇の役割として意義あるものも」として、国際親善、戦争犠牲者慰霊、障がい者・高齢者・災害被災者激励などが上位を占めていたこと(「平成の皇室観~即位20年 皇室に関する意識調査から」『放送研究と調査』20102月、26頁)や「これからの皇室に望むこと」として、国民との触れ合い・国際親善・伝統文化の継承が上位を占めていたこと(前掲27頁)との整合性は理解できよう。さらに、最新の朝日新聞の調査でも、「天皇の重要な活動」として国際親善・被災地見舞いが上位を占めていたこととも、その方向性を一にする。天皇の「国民との触れ合い」「被災地見舞い」への「努力」が、調査の結果に大きく影響していることが推測される。 

沖縄県民と全国の天皇観の乖離

このような沖縄県民の意識の動向の特色は、全国の数字にはもっと如実に表れる。直近、いずれも昨年201611月、88日の天皇の「生前退位」表明以後の調査結果で、『琉球新報』の親しみを「強く持っている・まあ持っている」の40.8%と『朝日新聞』の「親しみを感じる・すてきと思う」合わせて66.6%で、「尊くて恐れ多い」を入れると81.4%という数字を比べてみると、歴然とする。こうした傾向は、NHKの長いスパンでの調査結果にも表れている。こうした乖離の要因は、明治時代からの沖縄の近代史において天皇の果たした役割にある。おおざっぱに言ってしまえば、琉球処分に始まり、長い間、本土の人間との差別に苦しんだ挙句、捨て石作戦の結果としての沖縄戦による多大な犠牲者、昭和天皇メッセージによって米軍占領を容認したことへの天皇への不信が根底にあると思う。そして、いまだに、日本の安全保障のためと称して米軍基地4分の3を担わされ、沖縄県民の人権、財産や自然が大きく侵害されている現実を思えば、当然のことであろう。40%以上の県民が天皇に「親しみ」を持っていることの方が、不思議に思われたのであった。 

天皇への「尊敬」や「親しみ」はどのように形成されたか

まずいえることは、『琉球新報』も分析しているように、県民の世代構成の変化が見て取れるのは、近代の重要な出来事に『沖縄戦』をあげた人の割合が最多であることには変わりがないものの、200152.8%から201645.7%に下がっていること(201713日)。また、在沖米軍基地はどうあるべきだと思いますか」の「撤去・縮小」をあげた割合は、

2038.7%、3048.0%、4060.7%、5071.6%、6071.9%、70代以上72.4%であり、20代・30代では「どちらともいえない」が3分の1を超える、という結果を「中高年は革新的、若者、基地問題で戸惑い」と、分析している。こうした結果の分析は、「天皇観」においても共通するところがある。NHK2012年の調査結果の分析においても、「天皇は尊敬すべき存在か」の「そう思う」と答えた世代別の割合が、

2012%、3014%、4022%、5032%、6052%、70代以上63

という(「復帰40年の沖縄と安全保障~沖縄県民調査と全国意識調査から」『放送研究と調査』20127月、7頁)、全世代平均での40.8%の内訳をみて、理解できるだろう。

 こうした、天皇観が形成されていったのは、昨年、88日、天皇の「生前退位」表明の翌日の『琉球新報』の社説が、つぎのように述べていることに象徴されるような、メディアの論調が大きく影響していると思う。

就任以来、平和憲法を重んじてきた陛下は「象徴天皇の地位と活動は一体不離」との信念を貫いてきた。国事行為以外にも、「常に国民と共に」「声なき国民の苦悩に寄り添う」という思いを忘れず、とりわけ、沖縄など、太平洋戦争の犠牲者の慰霊に心を砕いてきた。

 広島、長崎の原爆犠牲者に黙とうをささげ、中国や韓国の苦難に「深い悲しみ」を表明してきた。阪神淡路大震災や東日本大震災などの被災地にも小まめに足を運び、被災者を激励した。

 沖縄には即位前から10回も訪れ、琉歌で戦没者を哀悼している。父の昭和天皇が米国に差し出すことを認めた沖縄の痛みに触れ、昭和天皇と戦争責任、民主主義の関係に葛藤しながら、象徴天皇としての自らを磨き上げたのだろう。

 多くの国民が敬意と共感を抱き、昭和天皇には厳しい沖縄県民の間でも好意的な人が多い要因だろう。(「社説」『琉球新報』201689日) 

 沖縄のメディアにさえ、こうした天皇観が披瀝されている現実、とくに、下線部分のような、天皇への評価は、本土の、全国メディアと呼応しているかのようにも思え、その結果が、高齢世代からの高い支持につながっていると考えられる。平成に入っての在位10年、20年のイベント、戦没者慰霊、障がい者や高齢者施設への見舞い、被災地への見舞いや励ましの映像と関係者の感動や感謝のことばが繰り返し報道される「天皇報道」あるいは、周辺の皇室報道との相乗効果によって、形成されたものと思われる。

 しかしよく考えてみると、天皇のこうした行為は、象徴天皇制のもとでは、憲法で定められた国事行為でもなければ、もちろん私的な行為でもない。今回の「生前在位」表明で、個人としての自由な行動や発言も許されない基本的な人権が認められない、生まれながらの存在を前提にしている「象徴天皇制」の矛盾が、照射されたといってもいいだろう。天皇の表明は憲法違反だ、皇室典範を改正して恒久的に対処すべきだ、今回限りの特例法での対応が望ましいとの議論に矮小化され、天皇制と日本国憲法、民主主義との乖離自体に着目する議論がなされないのはどうしてなのか。敗戦直後の昭和天皇退位論、昭和天皇の戦争責任論が活発になされた状況を、いま思い起こし、日本の戦後史の原点に立って見つめなおしていい時が来たということではないのだろうか。いま、天皇の個人的な資質や性格が問題なのではない。

現政府の「未来志向」なる「無責任」体制のなか、「日本国憲法」の護憲派やリベラル派と称される人たちさえも、「天皇制論議」は「さておき」、ぎごちなくも「陛下」といい、敬語をあやつる報道人、知識人や文化人のなかにも、「天皇」の権威にすがろうとする人たちがいる。

本ブログの関連記事以下もご覧いただければと思います。

天皇「生前退位」の行方~「天皇制」の本質については語られない(1)(2

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/11/post-dd45.html20161129日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/11/post-e43f.html20161130日)

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2016年12月14日 (水)

吉川氏との<論争>その後

 はや12月、今年は、私にとってめったにない経験をさせてもらった。というのも、すでにこのブログでもお知らせしたように、私が会員となっている『ポトナム』(2016年7月号)での歌壇時評に、『うた新聞』紙上で、吉川氏は反論を書き(8月号)、それに私が答えたところ(9月号)、また吉川氏の反論が掲載された(10月号)。以下は、『うた新聞』11月号の私の答えである。同新聞の12月号には、その応答がない。

 そもそも、発端は、私が『ポトナム』の歌壇時評で、2015年、安保関連法案が強行採決された後、開催された二つのシンポジウム「時代の危機に抵抗する短歌」(京都)「時代の危機と向き合う短歌」について、主催者側の吉川宏志氏と三枝昂之氏が「時代の危機」というより、歌人は「言葉の危機」にどう向き合うか、という視点で総括されていたことに疑問を呈した、ことに始まる。吉川氏は、私の時評の、シンポジウム参加者の感想の引用部分を私の言葉として、それを前提に非難してきたので、そこを明確にしてほしいことと、私がこれまで、他の著作でも主張したことのない言説をもって難じていることに、いささか困惑したのである。私の第1回目の反論は、以下をご覧ください。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/10/89-e189.html

 

 さらに、吉川氏の反論は、私が時評や反論で言及していないことや他の雑誌の小文にまで及び、その主旨をねじまげ、自らの稿を進めたのである。私の2回目の反論は、末尾に再録した。

 二人のやり取りについては、あまり反響がないようなのだ。多くは当たらず触らず、ということなのだろう。今のところ、友人にご教示いただいた「歌壇時評・今問われているもの」(今井正和『くれない』2016年11月号)と「2016年評論展望」(屋良健一郎『(短歌研究)短歌年鑑』2016年12月)の中で言及されている。貴重な発言として受け止めたい。

 なお、直接ではないが、吉川・内野の双方に登場する『ユリイカ』の拙稿について、「歌壇時評・ぼくも行くかも」(斉藤斎藤『短歌人』2016年11月号)では、「歌会始の選者を引き受ける歌人を筆者は批判する気にはなれない」として、佐佐木幸綱のかつての言「俺は行かない」を模しての表題であった。「活躍」する歌人の「配慮」に充ちた発言としての典型なのかしらと思いつつ、やはり寂しかった。

 また、私が最初の時評で引用し、吉川氏が曲解したた岩田亨氏のブログでの発言であるが、その岩田氏が、『うた新聞』へ寄稿されると、自身のブログで公表された。さらに、上記『短歌年鑑』の屋良氏の「評論展望」への反論も『短歌研究』に書かれるそうである。その展開に期待したい。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

吉川氏「<いま>を読む」に再び、応える  

      

 前号の「<いま>を読む」は、私の九月号の反論であった。そこでは、私の『ポトナム』時評を八月号同様に「印象」をもって読み通すことに終始していた。「歌会始選者に安保法制について論じる資格がないというような言い方には無理があろう」、三枝氏の著書の「どこを読んだら、<戦中の歌人の戦争責任を不問に伏す>という言葉が出てくるのだろう」という二つの疑問が返ってきた。しかし、その疑問の設定自体が、私の二つの文章や表現(『ポトナム』七月号、『うた新聞』九月号)に即したものではなく、捻じ曲げられてしまっているのが残念だった。関連の質問もあるので、念のため答えておきたい。

「歌会始選者」と「集団的自衛権を強引に進める政権」への批判は矛盾しないのではないか、という。私は、シンポジウム登壇者に「歌会始選者」がいると気づいたという参加者の文章を引用はしたが、その評価にも、矛盾にも言及はしていない。

吉川氏は、『ユリイカ』八月号の小文を引用して、「歌会始選者」と「赤旗歌壇選者」の兼任についての私の疑問に触れ、氏は、両者の兼任は「交流する」ことによって「タブーでなくなったという意味」で評価をする。「タブー」であったという意味が不明だが、私は、特定の歌人による兼任だけを問題視したわけではない。『ユリイカ』で、私が言いたかったのは、ジャーナリズムや論壇において、基本的な核となる争点での対立を避け、「寛容」や「共存」へとなだれ込んでゆく現象を背景に、言論の自由・自立を脅かす異論の排除・無視という重苦しい潮流がある、ということであった。それを見据えずに政権批判や権力に抵抗することが、ますます困難になることへの不安であった。

三枝氏の『昭和短歌の精神史』について、私は、氏が「既存のフィルター」を排し、戦争期と占領期の作品に向かうことを提唱しながら、みずからも「<時局便乗批判>から歌人たちの戦中をもう少し自由にしたい」というフィルターに固執してしまっている、と評したことがある(『天皇の短歌は何を語るのか』八九~九〇頁)。今回、吉川氏が、私の引用した「戦争責任を不問に付す」という岩田亨氏の発言を私の発言にすり替えてしまうことに困惑している。岩田氏の言と私の上記の言に、重なる部分があるとしても、すり替えることは、読者に誤解を与え、岩田氏にとっても迷惑であったろう。

 なお、シンポの表題が、京都での「時代の危機に抵抗する短歌」が、東京では「時代の危機と向き合う短歌」に変わり、『記録集』の書名も後者になっていた。「時代の危機」「言葉の危機」と称される状況は、他ならない私たち自身が作り上げてしまった結果でもある。登壇者もパネリストたちも口にする「自主規制」や「自粛」、表現者一人一人の「自主規制」との内なる格闘こそが先決で、「向き合う」という着地では、どちらの「危機」も越えることはできないだろう。

(『うた新聞』201611月)

 

 

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2016年12月 4日 (日)

「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」(『社会文学』)をご紹介いただきました

 今頃になって気づいたのですが、 山梨モリエールさんが、ブログ「猫の後ろ姿」に、2回に分けてご紹介くださっていました。ありがとうございました。

鮮明な書影も添付されています。つぎの2本をご覧ください。

猫の後ろ姿 1739 内野光子「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」 

2016-09-01

http://ameblo.jp/e-no4765/entry-12195659447.html

②猫の後ろ姿 1745 金子兜太『あの夏、兵士だった私』
20160909
http://ameblo.jp/e-no4765/entry-12198439598.html

 

Photo


Photo_2

「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」付<年表・沖縄の戦後短歌―本土短歌ジャーナリズムと天皇の沖縄訪問19442016)> 『社会文学』4420168pp6580

 

(参考:当ブログ記事)

残暑お見舞い申し上げます~沖縄に関するテーマで書きました

2016829

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/08/index.html 

「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」を報告しました
2016627
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/06/post-167c.html

「平和の俳句・老陛下平和を願い幾旅路」(『東京新聞』2016429日)

2016517

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/2016429-463d.html

 

 

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2016年11月30日 (水)

天皇「生前退位」の行方~天皇制の本質については語られない(2)

政府の対応

ビデオメッセージ放送の直後、安倍首相は、天皇の国民に向けての発言を重く受けとめ、年齢や公務の負担を考え、どのようなことができるのか、しっかりと考えていかなければいけない、と文書を読み上げた。

菅官房長官は、臨時に記者会見し、公務の在り方について憲法の規定を踏まえたうえで、引き続き、考えていくべきものだという認識と天皇のお言葉が、国政に影響を及ぼすようなご発言ではなく、憲法との関係で問題になるというふうには考えていない、と述べた。

宮内庁の風岡長官は、宮内庁での記者会見で、今後の天皇の在り方について、個人としての心情を憲法上の立場を考えての発言だった。お気持ちが、広く国民に理解されることを願っていると述べた。

天皇の希望する「譲位」が可能なのかどうか、政府筋や各党、「有識者」らの考えるところも伝えられている。現在は、安倍首相の私的諮問機関「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の論議、ヒアリングによる意見聴取が続けられている。ヒアリングは、117日(皇室制度分野)、14日(歴史分野)に行われ、あと1130日の憲法の専門家による1回を残すのみとなった(議事録公表はそれぞれ15日、24日)。「有識者会議」の会議名「天皇の公務の負担軽減等に関する」にも象徴されるように、そして任命されたメンバーは、財界人やこれまで各種の審議会委員の常連で「おなじみ」の名が多く、政府からの独立性には疑問を残す。すでに結論ありきで、若干の調整や妥協のもとに、政府の意向である「特例法」に落着させようとする思惑が感じられる。さらに、ヒアリング対象者のメンバーも、その意見の多様性というよりは、かなり偏向したものが予想される。ところが、現在までの議事録要旨、新聞記事などにより「意見聴取の概要」を作成してみると、その結果はかなり微妙である。第3回のヒアリングが今日30日に開催予定である。以下の表は後日補充したい。

これらのヒアリング結果を、有識者会議がどうまとめるかであり、内閣が、その結果をどう受け止めるかである。世論の動向もかなり重要な要素とはなり得るが、いまの安倍内閣では、当初の「特例法」による対応を強行するかもしれない。

 

天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議メンバー  

 

今井 

日本経済団体連合会名誉会長

小幡 純子

上智大学大学院法学研究科教授

清家 

慶應義塾長

御厨  

東京大学名誉教授

宮崎  

千葉商科大学国際教養学部長

山内 昌之 

東京大学名誉教授  

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/pdf/sechikonkyo.pdf

                                                                                                                        意見聴取の概要                  

 

対象者

 
 

肩書

 
 

生前退位

 
 

特例法

 
 

日程

 
 

平川祐弘

 
 

東大名誉教授 比較文化論

 
 

反対

 
 

反対 

 

1

 

117

 

 
 

古川隆久

 
 

日大教授 近現代史

 
 

容認

 
 

反対  

(皇室典範)  

 

保阪正康

 
 

ノンフィクション作家  

 

賛成

 

 
 

条件付容認  

(皇室典範)

 

大原康男

 
 

國學院大名誉教授 宗教学

 
 

反対

 
 

反対

 
 

所 功

 
 

京都産業大名誉教授  

日本法制史

 
 

賛成

 
 

条件付容認

  (皇室典範)  
 

渡部昇一

 
 

上智大名誉教授

 
 

反対

 
 

反対(摂政)

 
 

2

 

1114

 
 

岩井克己

 
 

ジャーナリスト

 
 

賛成

 
 

反対  

(皇室典範)

 
 

笠原英彦

 
 

慶応大教授 日本政治史

 
 

反対

 
 

反対

 
 

櫻井よし子

 
 

ジャーナリスト

 
 

反対

 
 

反対(摂政)

 
 

石原信雄

 
 

元官房副長官

 
 

賛成

 
 

容認

 
 

今谷明

 
 

帝京大名誉教授日本中世史

 
 

反対

 
 

反対

 
 

大石 真

 
 

京大教授 憲法 

 
 

賛成

 
 

反対  

(皇室典範)

 
 

3

 

1130

 
 

園部逸夫

 
 

元最高裁判事

 
 

賛成

 
 

賛成

 
 

高橋和之

 
 

東大名誉教授 憲法

 
 

賛成

 
 

賛成

 
 

百地 章

 
 

国士舘大客員教授 憲法

 
 

賛成

 
 

賛成

 
 

八木秀次

 
 

麗澤大教授 憲法 

 
 

反対 

 
 

反対 

1130日については、121日の新聞記事に拠り、補記した(123日)

 

国民はどう受け止めたか

では、国民は、どう受け止めたのだろうか。当然、メディアの社説や報道による情報操作が多分に反映されてはいるが、いくつかの世論調査結果を見てみよう。設問やの選択肢が異なるので、比較や推移を見るのは簡単ではないが、一つの目安とはなるだろう。

これらの数字を見る限りでは、今後の天皇を含めて、「生前退位」を認めたいとするのは6割から9割にもおよび、そのためには、現天皇に限らず、制度・法律の制定を望むという世論は根強く、、6割から7割を占めることが分かる。政府は、この民意をどう反映するのか、が課題となった。

 

日本経済新聞2016725日発表)

 生前退位表明は憲法上問題ない   80

  〃       問題ある   11

わからない、その他        9

 今後の天皇にすべてに認める制度を 65

現天皇一代限りの制度を      12

現行まま、摂政を         15

わからない、その他            8

 NHK82628日実施、95日公表)
* 生前退位認めた方がよい    84.4% ⇒
  生前退位認めない方がよい    5.2
  わからない          10.4

*⇒皇室典範を改正による     70.3

特別法による         24.5%  

わからない、その他   5.2%

出典:生前退位に関する世論調査2016826日~28日実施(NHK放送文化研究所)

file:///C:/Users/Owner/Desktop/生前退位/20160905_1.pdf

 日本経済新聞20161030日発表)
 生前退位を認める          63%⇒
〃 認めず摂政を置く          13
国事行為を委任する           11

*⇒皇室典範の改正による       61
  一代限りの特例法による      23
  その他              16%

東京新聞20161120日発表)

 生前退位をできるようにした方がよい 89.3

現行制度のままでよい        8.6

わからない・無回答         2.1

 生前退位の法整備は特例法でよい   25.9

〃今後すべての天皇を対象に    69.9

 わからない・無回答         4.2

(参考)
平成の皇室観 ~「即位 20年 皇室に関する意識調査」から~
放送研究と調査2010https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/report/2010_02/100202.pdf

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