2024年11月13日 (水)

生まれて初めて法廷に立った! 即位礼・大嘗祭はなぜ違憲なのか

 即位礼・大嘗祭違憲裁判は、平成から令和への天皇代替わりの即位礼の諸儀式と大嘗祭の違憲性を問うもので、2024年1月31日、東京地裁の一審判決は、憲法判断を回避、政教分離原則や信教、思想の自由について、憲法は制度的に保障したもので、個々の私人の信教の自由を直接保障するものではないとして棄却するものでした。私たち原告は、東京高裁に控訴、といっても、私などは、8月31日の集会に初めて出て、話をさせてもらった程度のことながら、事務局の勧めで、11月12日、控訴審の第1回口頭弁論で、陳述することになりました。

 8月31日の集会で話したことは「短歌と勲章~通過点としての歌会始」でした。事務局の方は、ご自由に思いのたけを書いてよいとは言うものの、それでは陳述にはなりそうもありません。さてと、ということで、分厚い「控訴理由書」を何度読んでも、むずかしい。それならばと、開き直って、代替わり当時の諸儀式を、テレビや新聞で見る限りではあるが、なんとも、時代離れした、あるときは滑稽にも思えたり、あるときは新天皇夫妻が気の毒になったり、付き合っている参列者たちって、どうなの?と思ったりしたことを書いてみてもいいのではないかと。
 儀式を三つほどに絞って、あらためて思い出しながら、いったいこの儀式の法的根拠はあるのかと調べてみて、驚くことばかりでした。 

 以下が私の陳述の要旨で、約15分、実際は、「ですます調」で丁寧に?話したつもりです。なお、冒頭には、自己紹介的なもので、なぜ即位礼・大嘗祭に関心を持ったかも述べました。傍聴席には30人以上いたように思います。

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「剣璽等承継の儀」 2019年5月1日の映像で見るかぎり、三権の長など二十数人がひかえた松の間に式部官長と宮内庁長官の先導で新天皇、秋篠宮、常陸宮が入り、壁際にしつらえた壇上の中央に天皇が立ち、壇の下の左右に秋篠宮、車いすの常陸宮が控えている。そこへ剣と璽をそれぞれ捧げ持った侍従たちが、天皇の前の二つの「案」と呼ばれる台に恭しく置く。さらに、国事行為で使われる御璽(天皇の印)と国璽(国の印)が捧げられた後、直ちに、侍従たちが台の上から引き取り、ふたたび捧げ持ち、天皇たちとともに部屋を退出する。男性たちの床を打つ靴音ばかりが響く6~7分間ほどの無言の儀式であった。女性の皇族は参列できないのが慣例で、今回は参列者側に、当時の安倍内閣の閣僚、片山さつき議員が女性として初めて参列したと報じられている。

 皇位の継承の証である「三種の神器」のうちの剣は熱田神宮に、鏡はは伊勢神宮に収められ、宮中にある剣と鏡は、形代(かたしろ)と呼ばれるレプリカだ。その鏡は賢所に、剣と勾玉は、吹上御所の「剣璽の間」に置かれているそうだ。しかし、代々の天皇すら、それらの包みを開いて中身を見てはならないものとされている。

 少なくとも「三種の神器」の「剣」に関していえば、これらの由来は、古事記・日本書紀にある、素戔嗚尊の八岐大蛇退治の折、尻尾から出てきた剣であり、後に天照大神に献上したのが「草薙剣」であるといった神話が由来です。この神話は寓話であり得ても、裏付けのある史実でもなく、伝統でもない、荒唐無稽な、グロテスクなフィクションではないでしょうか。天皇自身も「天照大神」の「子孫」であるとは信じていないでしょうし、国民の大かたも信じられない中で、見てもいない「剣」を大真面目に承継したとして、演じなければならない「剣璽等承継の儀」での姿は滑稽に思えてしまう。

「剣璽等承継の儀」の法的根拠は、皇室典範にも日本国憲法にもなく、根拠というならば、「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う国の儀式等の挙行に係る基本方針について 」という長い件名の「閣議決定」(2018年4月3日)だ。時の政府によっていかようにもできるという証左ではないか。その「閣議決定」では、「各式典は、憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重したものとすること」、「各式典についての基本的な考え方や内容は平成の代替わりを踏襲されるべきものであること」と記され、「剣璽等承継の儀」については国事行為である国の儀式として、宮中において行う。」とされている。

 承継されるべき「三種の神器」なるものがもっぱら「神話」にもとづいたものもあり、長い歴史の中での承継、移転の経緯にも疑問が多い。「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」の地位継承の儀式を、「国事行為」の中の「儀式を行ふこと」に含めるという「閣議決定」は、憲法第7条十項を拡大解釈したものと言わざるを得ない。

 今回の各式典は、基本的に昭和から平成の代替わりにおける「考え方や内容は踏襲されるべきもの」とされた。1915年の大正、1928年の昭和、1989年の平成への代替わりの儀式は、明治42年、1909年2月11日に公布された「登極令」によって実施されたことになる。令和の代替わり儀式が、1947年廃止されたはずの「登極令」と内容的に変わらない2018年の「閣議決定」によって実施されたことは、形式的にも、内容的にも新憲法下では認めがたいもので、違憲性が高いと考える。

即位礼正殿の儀 2019年10月22日に行われた「即位礼」の最初の儀式は、「賢所大前の儀」。賢所は、「天照大神」が祀られているというところ。天皇は、格式の高いという白の束帯姿、剣と勾玉を捧げ持つ侍従たちに先導されて賢所への回廊を進み、さらに皇霊殿、神殿を巡り、皇后も白の十二単姿で続く。侍従や女官が長い裾を、腰をかがめて移動する姿は、決して美しい姿とは言い難い。天皇は、その各所で「お告げ文」なるものが読まれているそうだが、その声を聞いた者はない。そして、秋篠宮を先頭にロングドレスの女性皇族の7人が傘をさして、あの日は雨風の強い日だったので、砂利道を賢所に向かう姿のちぐはぐな光景には、「伝統」なるものの異様さに気づかされる。

 続いて午後に行われた「即位礼正殿の儀」は、松の間に設えた天皇用の「高御座」、皇后用の「御帳台」が並ぶ。高御座の正面から束帯姿の天皇、御帳台から皇后も異なる色鮮やかな十二単で現れた。ここでも、天皇の前には剣と璽が置かれ、ここで発する天皇の「お言葉」といえば、「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承」したことを内外に宣明し、これに対して安倍首相が祝辞「寿詞」(よごと)を述べ、首相の万歳三唱に、参列者が唱和していた。
  ここで、6.5mの高御座、5.7mの「御帳台」、天皇は、床上1.3mの位置から「お言葉」を述べ、首相が天皇を見上げて読む祝辞は「私たち国民一同は、天皇陛下を日本国及び日本国民統合の象徴と仰ぎ」とあり、「令和の代(よ)の平安と天皇陛下の弥栄(いやさか)をお祈り申し上げます」との言葉で結んでいる。

この一連の流れの中にはつぎのような問題点があると考える。
・これらの儀式は、憲法、皇室典範、皇室典範特例法上の定めにもなく、あるのは「閣議決定」(2018年4月3日)のみ。
「高御座」「御帳台」の設えの違いは何なのか。これら二つの設えも時代によって異なり確固たる伝統なるものはないうえ    に憲法上の平等規定に違反。
・憲法第一条「日本国及び日本国民統合の象徴」であり、「主権の存する日本国民の総意に基く」天皇は仰ぐ存在ではない。にもかかわらず、首相の祝辞は、「大日本帝国憲法」の「天皇制」を引きずっているとしか思えず。

 大嘗祭 毎年11月に行われる皇室行事の新嘗祭は、天皇の代替わりの折には大嘗祭として行われていた歴史上記録もあるが、永らく中断したり、その儀式としてのあり様も様々な変遷をたどったりしている。
 今回、大嘗祭以外の諸行事「剣璽承継の儀」「即位後朝見の儀」「即位礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴の儀」は、2018年4月3日「閣議決定」の基本方針により「国事行為」とされた。大嘗祭は、同日の「内閣口頭了解」という3行ほどの文書で決められた。それも、平成への代替わりのときの大嘗祭についての 「閣議口頭了解」(1989年12月21日)を踏襲する、とだけ記されている。
 その踏襲された「閣議口頭了解」では、つぎのような理由で、宮内庁が取り仕切る皇室行事として宮廷費からの支出により実施することが決められた。
・皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式である
・天皇が祖先や神(皇祖及び天神地祇)に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀
 豊穣などを祈念される儀式であり、この趣旨・形式等からして、宗教上の儀式としての性格を有するものと見られることは
 否定することはできない
・国がその内容に立ち入ることにはなじまない性格の儀式なので大嘗祭を国事行為として行うことは困難である
・その儀式について国としても深い関心を持ち、その挙行を可能にする手だてを講ずることは当然と考えられる。その意味に おいて、大嘗祭は、公的性格がある

  ここで、問題なのは、大嘗祭の「趣旨・形式等からして、宗教上の儀式としての性格を有するものと見られることは」否定せず、さらに、「国がその内容に立ち入ることにはなじまない性格の儀式」としながら、大嘗祭は公的性格があるとするのは大きな飛躍でしかない。あきらかに憲法20条の政教分離の原則、89条の「公の財産の支出又は利用の制限」に反すると考える。
 宮内庁の「大嘗祭について」(2019年10月2日)の文書でも明らかなように、この儀式の次第は「貞観儀式」(平安時代中期、870年代)「登極令」(1909年)などの記述と「基本的に異なるところはない」とも記され、今回も平成の代替わりと同様に行う、されていた。

 さらに、大嘗祭のメインと言われる悠紀殿、主基殿において天皇と神とが寝食を共にすることによって皇位継承がなされるという「秘事」に至っては、あまりにも現実離れした「ままごと」のようでもある。「秘事」と称して、天皇と二人の女官しか知り得ない作業や行為であるとしながらも、さまざまな準備や用意をする人々の手を借りねばならないはずで、「秘事」はもはや建て前にしか思えない。にもかかわらず、参列者や国民には知らされないという矛盾に満ちた儀式といえよう。なお、悠紀殿、主基殿における供え物の新穀の産地を決めるのは、亀の甲羅を火にくべて、その割れ具合による「亀卜」という占いによって都道府県が決めたというが、これも秘密裏に行われているので、その実態は分からない。

これまで見てきたように、大嘗祭の諸儀式は、すでに廃止された「登極令」を持ち出して踏襲しており、現在の法的な根拠もなく、日本国民統合の象徴であって、その地位は主権の存する国民総意に基づく天皇がなすべき行為、儀式とは言えず、憲法第一条に反する。

 したがって、上記で述べた、少なくとも「剣璽等承継の儀」「即位礼正殿の儀」「大嘗祭」は、過去の閣議決定、閣議口頭了解や廃止された「登極令」などを踏襲するもので、法的根拠はないまま実施されたことはきわめて違憲性が高いと考える。その憲法判断を求めるものである。同時に、これらの儀式が国費をもって実施したことによって、私が受けた精神的な苦痛は多大かつ持続しているので、国に対する損害賠償を求めるものである。 

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 五人の陳述が終わると、谷口園恵裁判長は、双方の弁護士と二言三言話していたが、よく聞き取れなかったのです。裁判長が「これで結審・・・・」のような声がしたかのような瞬間、傍聴席から「逃げるな」の声や、原告の弁護士から「忌避申し立て」などの声が飛んで、裁判官たちは退席していったのです。

 後の報告集会で、ようやく閉廷前後の顛末がわかりました。弁護士、陳述人が順次感想を述べ、質疑に入りました。きょうで結審、次は判決ということになるのが、控訴審では多いそうです。谷口裁判長の来歴なども紹介され、判決には期待できないが、これからも頑張りましょうということになりました。
 これからは、裁判の傍聴ならばいざ知らず、法廷に立つことはまずないでしょう。貴重な体験でした。事務局の桜井大子さん、弁護士の吉田哲也さんには、お気遣いいただきました。ありがとうございます。

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地裁から報告集会会場の日比谷図書館に向かう。なつかしい西幸門、NHKへの抗議デモやモリ・カケ問題のデモの出発地点であった。また、野音のさまざまな集会のたびに通った門。集会後、夕暮れ近い公園の黄葉はまだ始まったばかりのようだった。傍聴した連れ合いともども「やっぱり疲れた」と、ここも久しぶりの「松本楼」で夕食をとった。

 

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2024年10月28日 (月)

ショウほど素敵なものはない?政府が決める文化勲章なのに

 投票日が27日に迫った、10月25日、政府は、文化功労者20人と文化勲章受章者7人を決定、発表した。受章者を誰が選ぶのかといえば、政府なのだ。「選ぶ」の主語は政府なのだが、主語なしで「今年の文化勲章は、・・・〇〇さんら7人、文化功労者には・・・〇〇さんらの20人が選ばれた」と報じたのは朝日新聞である(11月26日朝刊、35頁)。手元の「毎日」は「政府は・・・文化勲章を・・・の7氏に贈ることを決めた」(10月26日朝刊 23頁)と「東京」は、「政府は、・・・〇〇氏ら7人に贈ると決めた」(10月26日朝刊 4頁)とある。選挙報道でざわついていたメディアだが、すでに著名な受章者たちの幾人かのよろこびの声も併せて報道している。ことしは、文化功労者の草笛光子、文化勲章のちばてつやへの注目度が高かったようである。11月3日の文化の日、皇居での授章式後の記念撮影には、緊張した姿が報じられて来た。中には、日常の言動とうらはらに、ひたすらありがたがる受章者もいたりする。

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 私は、これまで、このブログをはじめ、いろいろな場所で話したり書いたりしてきたことなのだが、文化勲章は文化功労者の中から、多くは数年後に受章することが多い。文化功労者や文化勲章のような国家的褒章制度において、受章者がどのように選定されたかを問題にしないで、その受章の結果ばかりが独り歩きすることに危惧を抱いている。というのも、文化功労者を選考にあたって、文科大臣は文化功労者選考分科会に諮問の上、文科大臣が決定することになっている。その選考分科会の委員は文科大臣が学識経験者から任命する。要するに、文科大臣から選考を投げられている選考分科会の委員は、文科大臣任命なのだから、いわば、文科大臣の意向が最重要視されていることになる。

  さらに、驚くことは、文化功労者選考分科会の委員は9月初めに任命され、会議はたった一日しか開かないそうだから、そこで文化功労者と文化勲章の授章者が決まるというのである。文化勲章については、文化功労者選考分科会委員の全員の意見を聞くという手続きが加わるが、その後は、文科大臣の推薦、内閣賞勲局の審査を経て閣議決定される。選考分科会委員に任命された人が、いくら優秀な学識経験者としても、選考はまずムリ筋の話ではないか。

  ということは、文科省サイドから提出された受章者候補者を承認するしかないのではないか。そして、元文科省次官であった前川喜平のつぎのような発言などと考え合わせると、文科大臣の選考分科会委員の任命にすら首相官邸の横やりが入っているというのだから、さもありなんという推測は、現実となって驚きもしたのである。
  つまり、朝日新聞デジタルの記事「前川喜平元次官が語る官邸人事・不当と違法の分かれ目は」(2020年10月28日)によれば、文科大臣が任命するはずの分科会メンバーなのだが、前川さんが文科省次官のとき、文化功労者選考分科会委員10人のリストを杉田和博官房副長官のところは持っていくと、「この2名を外せ、政権批判をメデイアでしていた、こんな人を選んじゃダメ、ちゃんと調べてくるように」と差し替えさせられたという。

  10人の文化功労者選考分科会委員は毎年9月上旬に任命されるが、どういう訳か、官報での氏名公表は10月末日のようである。受章者の決定・報道後にしか、選考分科会委員の氏名が公表されないことは、何を意味するのか。今年の選考分科会委員の氏名は、まだ官報には載っていない。

  そんなふうに、時の政府により、恣意的に、閉鎖的に決まっていく受章者を華々しく報じ、受章者のよろこびの声と晴れがましい姿を報じるメディアの変わらぬ姿勢には、疑問を抱かざるを得ない。

 ショウ(章・賞)ほど素敵なものはない、ということなのか。

 

 

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2024年9月 4日 (水)

台風はどこへ~「短歌と勲章~<歌会始>という通過点」と題して話しました。(2)文化勲章への道~国家的褒章はだれが選考するのか

 歌会始選者を国家的褒章の一つであることから、さらに、その上の褒章制度とされる紫綬褒章や日本芸術院会員、文化勲章の受章者はどのように選考されるのか。歌会始選者への通過点とも思われる芸術選奨がどのように選考されるのか。そこに共通するのは、究極的には、ときの政権によって決められているという実態に着目した。受章者、選ばれた人たちを報道するメディアは、一様にその名誉や権威を称え、どんな選ばれ方をしたかについては触れることはない。選ばれた人たち自身の対応といえば、なぜ選ばれたかと謙遜の弁とともに光栄であるとよろこびの言葉が語られ、それを伝えるのがメディアである。

 芸術選奨: 11の部門別に文科大臣任命による選考審査委員と推薦委員を設置。「文学部門」の選考審査委員7人の内1人が歌人、推薦委員10人の内2人が歌人という構成である。ここにも、資料②にあるように、受賞者が後に推薦委員になり、選考審査委員になるというコースが出来上がりつつあり、固定化、閉鎖的な選考システムであることがわかる。毎年2月末日前後に委員名と前年の業績を対象に受賞者・授賞理由が公表される。

 紫綬褒章: ほかの分野の褒章とともに、科学技術分野、学術・スポーツ・芸術文化分野で業績のあった人たちを対象に、毎年4月29日と11月3日に受章者が公表される。しかし、この褒章制度の根拠法は、新憲法下には存在せず、1955年、なんと1881年明治14年の太政官布告第63号「褒章条例」を持ち出すという離れ業で復活させたものである。形式上も推薦委員会すらもなく、各省庁や自治体などの推薦により、内閣賞勲局との協議で閣議決定される、官制の、官僚による褒章であることがわかる。国民は、受章者ですら、明治初期の太政官布告に拠るものだとはよもや思わないであろう。

 文化勲章:文化勲章を受章するには、原則として、文化功労者選考分科会によって文化功労者になっていなければならない。その文化功労者選考分科会の委員は文科大臣の任命により毎年9月初旬に公表される。

 昨年の9月下旬、委員の名前を知りたくて官報を検索するが、見出せず、文科省に9月何日のどのページに載っているかを問い合わせた。翌日の回答では「9月2日に委員は任命されているが、官報に載せるのを忘れました」という。そんなことがあるのかと一瞬驚いた。さらに、数年前までは文科省のホームページに委員名は公表されていたはずだが、近頃載せないのですか、と尋ねたところ、「文化功労者選考分科会は、一年に1回しか開催されないので、委員の先生方の名前をホームページで永らく公表しているのはいかがと思いまして」との返事に、また驚いたのである。ホームページに載せない理由もさることながら、9月に任命されて、1回の会議で、11月3日の授賞式に間に合わせていることになる。ということは、文化功労者と文化勲章は、文科省によりすでに受章者は決まっていて、選考分科会は、そのリストを承認するだけではないのかと、推測されるのだった。

 そして、この推測を裏付けるような記事を見出したのはつい最近である。前川喜平元文科省次官のインタビュー記事につぎのような個所があって、私の推測は確信に替わったのである。次官当時、文科大臣が任命するはずの文化功労者選考分科会委員10人のリストを杉田和博官房副長官のところに持っていくと、「この2名を外せ、政権批判をメディアでしていた、こんな人を選んではダメ、ちゃんとしらべてくるように」との発言で、差し替えさせられた、という(「前川喜平元次官が語る 官邸人事・不当と違法の分かれ目は」朝日新聞デジタル 2020年10月28日)。官邸の介入も明らかになったのである。

 上記いずれの場合も、最終決定は閣議であり、その過程でも、省庁、政権の選考介入があるのは間違いない。それをかくも有難くいただく人たち、何も文化勲章などもらわなくとも、と思うような人たちのよろこびの声を聞くのは、ちょっと情けなくもなる。

 なお、当日、時間が少しでもあったら、触れたいと思ったのが、メディアで活躍する有識者、評論家、コメンテイターと呼ばれる人たち、しかもリベラルと思われる人たちの天皇制への傾斜が顕著になってきたことである。

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 以下は、15分ほどで話したことの要旨である。具体的な人名とその発言内容を紹介したかったのである。資料④は、人名と発言の出典を示した。

金子勝(1952~):マルクス経済学者の金子は、2018年の(明仁)天皇の誕生日会見で、「天皇陛下は声を震わせて」、沖縄に人びとの苦難の歴史に触れて、その犠牲に心を寄せ続けていくとの発言を紹介した後、「アベは聞いているのか?」とツイートして、天皇の言葉を評価した。

内田樹(1950~):「天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること」に「さらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむ者の慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです」と明仁天皇を評価する。

金子兜太(1919年~2018年):戦後の前衛俳句運動の理論家でもあった俳人、金子は『東京新聞』連載の「平和の俳句」【2016年4月29日】の入選作「老陛下平和を願い幾旅路」の短評に「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。」 「アベ政治を許さない」というプラカード揮毫者でもある。自身、激戦務める。2003年日本芸術院会員、2008年文化功労者となる。

水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る(『少年』、1955年)

望月衣塑子(1975~):東京新聞社会部の気鋭の記者である望月は、作家の島田雅彦との対談の中で、コロナ禍でこそ、天皇や皇后のメッセージが欲しい、と天皇・皇后へ賛美と期待を寄せている(「皇后陛下が立ち上がる時」『波』2020年5月)

木村草太(1980~):気鋭の憲法学者は「そもそも天皇制自体、憲法の立て付けとして少しおかしい」としながら、天皇制の積極的な意義として「政治の場に品格や公共性を示すことができる」として、天皇の前での醜い争いができなくなる、というが、例えば国会議員や閣僚が品格や公共性を示しているとは到底思えないし、天皇が、醜い争いの抑止力にもなっていないのが現状ではないか。

長谷部恭男(1956~)2015年6月衆議院憲法審査会において、自民・公明などの推薦の参考人として、集団的自衛権の違憲を表明して話題になった憲法学者だが、天皇制について、日本国憲法は身分制秩序の破壊を「大部分は貫徹したが、最後に天皇制という身分制の飛び地を残し」たとして、天皇制を容認している。

 時間もないので、河西秀哉、落合恵子、高橋源一郎を端折り、最後に、加藤陽子(1960~)、上野千鶴子(1948~)に触れた。加藤は、「前(明仁)天皇は『原子力発電所の状況が予断を許さぬ』と言い切り、「この人は危機のときに本当のことを言ってくれるはずという人々の信頼に応えた。」という形で親天皇制を示す。上野は、その加藤の研究者としての評価を「(加藤さんは)前天皇の信任が厚く、何度もご進講に招かれています」と語り、あたかも「ご進講」が研究者のステイタスかのようにも聞こえる。

 こうした発言がメディアで繰り返されることによって醸成された雰囲気の中で、国民は、天皇や皇族たちとの距離を縮めたかのような、天皇制へちかしく傾き、一種の思考停止に陥ってしまっているのではないか。

 このような言説をどう乗り越えるのかが今後の私たちの課題かと思う。乗り越えるべき壁は高くて厚い。「無駄な抵抗」と言わせないために、小さな穴でもあけたいと思う。亡くなられた関千枝子さんのお誘いで原告になったものの、傍聴にも集会にも出ずしまいであったが、今後は少しでも、参加できたらと思う、と結んだが、今後の活動は体力勝負になるだろう。

 私の話の後、弁護士の方から、第一審判決までの流れと控訴審にあたっての争点などが話されたが、とくに裁判経過がややこしい。

 夜の開催、台風の行方が分からずじまいであったが、50人の方が参加された由。まずはほっとし、早く宿へといそぐ。家から持ち込んだいなりずしとフルーツ、夫は、部屋の近くの自動販売機でビールとおつまみを買い、ともどもお疲れさまでしたの乾杯と反省会になった。

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予約のとき、「皇居の見えない部屋ならあります」とのこと。KKRホテル東京、最上階15階から丸の内方面をのぞむ。夜の高速道路の車列の灯りもきれいだった。朝食をとった12階のレストランからは、皇居が望めたが、のぞいてどうする?

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2024年8月27日 (火)

「大塚金之助の短歌と天皇制」を書きました―『大塚会会報』最終号!

・人間が 神になったり その神が 人間になる 国なのである

・君のしずかな 態度の底に 暴力を ひそませているのを 見のがしはしない
(『日本評論』25巻1号 1950年1月)

 1977年に亡くなられた、経済学者大塚金之助の短歌です。このたび『大塚会会報』最終号(53号 2024年8月)に「大塚金之助の短歌と天皇制」を書きました。

 大塚金之助の一橋大学、明治学院大学、慶應義塾大学の教え子の方々が相寄って「大塚会」を発足、1981年に『大塚会会報』を創刊しています。私は、どの大学ともご縁があったわけではないのですが、「短歌に出会った男たち―大塚金之助」(『風景』57号 1995年7月)を目にとめられた水野昌雄さんのお誘いで、会友として入会いたしました。その後、「大塚金之助の留学詠」(『大塚会会報』40号 2013年8月)などを寄稿しています。武田弘之さんの『群青』に連載中の「歌人・大塚金之助ノート」を読んではいましたが、あまり熱心な読者ではなかったように思います。ただ、「獄窓の歌」に感銘を受け、大塚金之助に関心を持つようになりました。
 会報には、歌人では、武田さん、水野さんのほか、三井修さん、田中綾さんたちが寄稿されていたように思います。今回、大塚会の解散を機に最終号への原稿依頼がありました。締め切りが6月末日ということもあり、短いものを送りましたところ、なんと、8月25日に出来上がって届いたのです。その手際の速さに驚いてしまいました。創刊号より編集をされていた戸塚隆哉さん、長い間、ほんとうにありがとうございました。

 拙稿は、以下で読むことができます。

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2024年8月10日 (土)

8月8日は何の日だったか、2016年のこと、忘れはしません。

 8月6日と8月9日、広島と長崎に原爆が落とされた日の間の8月8日しか選択肢がなかったという。明仁天皇が生前退位を表明するビデオメッセージが放映された日である。

 明仁天皇にも忘れてはならない日が四つあるとか。私にも忘れられない日はいくつかあるが、近々では、親の命日を忘れて過ごしてしまうことはあっても、この8月8日は忘れることができない。

 というのも、あの日から、天皇制に関する世の中の風向きがかわってきたようにも思えるからである。その約一カ月前の7月13日の夜7時のNHKニュースで、唐突に生前退位の「お気持ち」報道がなされたのである。どこからのリークだったのか、頃合いを見ての報道であったのか、なんともきな臭い生前退位表明であった。当初はこの報道を否定していた宮内庁サイドであったが。

 私は、現憲法下で、天皇自らが生前退位の意思表明ができるのか否かが疑問であった。メッセージの中身といえば、加齢によりしくじることもままあり、公務が負担になったこと、昭和天皇から代替わりのときに生じた社会のさまざまな混乱を避けたい、といったことが語られた。本来「公務」というならば、国事行為だけのはずが、平成期の天皇は皇后をともないながら「公的行為」という曖昧な領域における活動を盛んに行ってきたのである。昭和天皇から引き継いだ国民体育大会・植樹祭・豊かな海づくり大会などの行事にとどまらず、戦没者慰霊、災害地訪問、福祉施設訪問などを積極的に増やし、誕生日、外国訪問、さまざまな行事の際の記者会見や「おことば」の発信という場も拡大してきたのは、天皇自身の意向ではなかったのか。

 明仁天皇は、たしかに、昭和天皇の1988年の「下血報道」や様々な場での「自粛」の横行を目の当たりにしていたので、あの「騒動」はやりきれない、という思いは理解できる。しかし、自ら拡大してきた「公務」が負担になったからというのは、私には腑に落ちなかった。

 一方、世間では「長い間、ご苦労様でした。ゆっくりお休みください」と理解を示した。同時に、政治の世界では、2016年9月「天皇の公務負担軽減などに関する有識者会議」という諮問機関が立ち上げられ、2017年4月21日最終報告書がまとめられた。政府、国会では「静かな環境のなかで」天皇退位特例法が審議され、参院全会一致で、2017年6月9日成立、天皇の終身制は不動とし、一代限りの退位容認となった。

 2019年5月1日、新天皇即位日程を挟んで、長い間、明仁天皇夫妻への国民に寄り添う発言や振る舞いへの讃美報道や記事が続いた。そして、平成を語るのに天皇夫妻の短歌まで動員して情緒的なヒストリーが作り上げられていったのである。

 そして、代替わりに伴う諸儀式をさまざまな映像で見る限り、「日本国民統合の象徴である」天皇がなすべき行為であったのか、「主権の存する国民の総意に基く」地位にある天皇がなす行為であったのか、はなはだ疑問である。神話にもとづく儀式であったり、伝統儀式といっても、長い歴史の中で、定着しているはずもない手続きであったり、まず法律的な根拠もない中で、皇室や国民の日常とはまったくかけ離れた束帯や十二単姿で歩む映像は異様であった。天皇を仰ぎ見て、首相や招かれた人たちが万歳三唱する姿は、平等や国民主権にも悖り、滑稽にも思われた。

 即位・大嘗祭違憲訴訟の原告でありながら、集会や傍聴にも参加できないまま、このたび、控訴をひかえた集会に是非ということで、話をすることになった。まずは体調管理につとめないと・・・。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

なぜ私たちは天皇制に反対しているのか 
即大訴訟控訴審に向けて8・31集会

202年8月31日(土)18時~
文京区民センター2A

講演:内野光子「短歌と勲章~<歌会始>という通過点」

主催・即位・大嘗祭違憲訴訟の会

詳細は下記をご覧ください

ダウンロード - img175.pdf

 

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2024年7月29日 (月)

きのうのNHK「日曜美術館」は「香月泰男」だった

 日曜の朝、「日曜日美術館」をリアルタイムで見るのは久しぶり。「鎮魂 香月泰男の「シベリア・シリーズ」だった。2021年10月、葉山の神奈川県立近代美術館で見たはずの「シベリア・シリーズ」57点。番組では、その内の数点を香月自身の作品に付した言葉の朗読や「シベリア・シリーズ」を所蔵する山口県立美術館の学芸員などの解説を聴きながら、ゆったりと鑑賞することができた。葉山の展示は「生誕110年」だったが、今年は、没後50年記念の展覧会が山口県立美術館で開催している。もうかなうこともないだろう、香月の生家近くの「香月泰男美術館」にも出かけてみたいなとしきりに思う。

 香月泰男(1911~1974)は、1943年召集されるが、シベリアの抑留生活から1947年に復員、生涯描き続けたのが、シベリアでの過酷な体験であった。番組でも紹介された、私にとっての圧巻は、「朕」と「北へ西へ」だった。

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「朕」(1970年)は、1945211日紀元節の営庭は零下30度あまり、雪が結晶のまま落ちてくる中、兵隊たちは、凍傷をおそれて、足踏みをしながら天皇のことばが終わるのを待ち、朕のために、国家のために多くの人間の命が奪われてきたことを描いたという。絵の中の白い点点はよく見ると雪の結晶である。また、中央の緑がかった二つ四角形は、広げた詔書を意味しているのが、何枚かの下書きからわかったという。

 

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 「北へ西へ」(1959年)、敗戦後、ソ連兵によって行き先を知らされないまま、「北へ西へ」と列車で運ばれ、日本からは離れてゆくことだけはわかり、帰国の望みは絶たれたという。

 

<当ブログの関連過去記事>

葉山から城ケ島へ~北原白秋と香月泰男(2021年11月5日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/11/post-e73a2a.html

 

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2024年7月24日 (水)

皇室情報氾濫の中で、見失ってしまいそうな・・

安定的な皇位継承策の迷走、もはや名案はないのでは! 

  2020年11月、有識者会議は、安定的な皇位継承策の”迷案“二案(①女性皇族が結婚した後も皇族として残る ②女性皇族は、旧皇族男子と養子縁組をして皇族に復帰する)が政府に提出され、2022年1月には国会に提出されたものの、いっこうに論議は進まなかった。2024年4月、自民党を最後に、各党の対応が公表され、6月の通常国会では、皇室典範の改正が論議されるかに思われたが、政府・国会はそれどころではなく、政治とカネの問題で揺れた。

 というのも、そもそも議論に値する二案とも思われず、いずれの案も、安定的な皇位継承の対策案に直結するものではなく、二案とも天皇家を含む皇族の基本的自由原則に反するもので、違憲というほかない。

  皇族の男子にしても、女子にしても、子を産むことを前提にし、皇位継承の安定をはかるという法改正は、皇位継承を男子に限るとする現皇室典範ともども、憲法に定める基本的人権原則に反するものではないか。それにしても、憲法の平等原則に反する天皇という存在自体が日本国憲法の矛盾を露呈していることを、声を大にして言う政治家も研究者も滅多に出遭わないのが私には不思議に思えてならない。

   マス・メディアは、新聞もテレビも、毎日どこかで、天皇夫妻が、秋篠宮夫妻が、愛子さんが、佳子さんが、悠仁さんがどうしたこうした、果ては上皇夫妻がどこへ出かけたとか・・・、宮内庁の広報室が流している情報を、そのまま、競うように報じている。週刊誌はといえば、愛子さんの日赤就職を働く女性のごとくに報じているが、皇后が名誉総裁なのだから究極の縁故採用ということになる。佳子さんがギリシャの訪問先で激安のブラウスを“お召し”になっていることを報じるが、それがなんだというのだろう。悠仁さんの進学先の憶測が乱れ飛んでいるが・・・。ともかく、宮内庁は、極端な誤報でなければ見て見ぬふりして、広報室情報とともに、皇室への関心を高めるべく必死のようにも思える。

天皇の英国訪問のなぜ? 

  しかし、メディアの皇室情報の発信には、皇室への、国民の関心を高めることに寄与する以上に、もう一つの大きな役割を果たしているにもかかわらず、国民には伝わりにくい情報がある。というより、意図的に伝えようとしない部分あることを、あらためて知ることになったのが、今回の天皇夫妻の英国訪問であった。

 そもそも皇族の外国訪問は、外務省が宮内庁とで決められていく。天皇は政治的発言や活動は憲法上認められないことになっているので、政府サイドは「皇室外交」という言葉は使用せず「親善訪問」と表現する。

  天皇夫妻による6月22日から8日間にわたる英国訪問に先立って、岸田首相は「皇室と王室との間の交流を通じて両国の友好と親善を改めて確認し、両国の従来からの良好な関係が一層強化されるものと確信」すると語り(2024年6月4日談話)、帰国後は、林官房長官が「今回の御訪問を契機に、今後我が国と英国との間の友好関係及び我が国皇室と英国王室との親善関係がなお一層発展することを期待」すると述べている(6月29日談話)。

  天皇自身は、出発直前の6月19日の宮内記者会の代表質問に答えて、17世紀以降の日英両国の関係史、近代歴代天皇と英国交流史から語り始め、両国の若い世代の交流に着目、期待するとの発言に続き、後半は、妻との共通の英国体験、オックスフォード大学などの思い出の地を訪ねる楽しみを、饒舌なまでに語っている。


  そして、日本のメディアでは、6月25日のチャールズ3世国王主催のきらびやかな晩餐会、パレードを歓迎する沿道の人々、天皇夫妻のセンチメンタルジャーニーのエピソードと体調が懸念された雅子さんの笑顔の写真や動画を報じるばかりであった。

 ところが、6月28日、天皇夫妻の公式行事を終えたことを受け、ジュリア・ロングボトム駐日大使は、次のような「総括コメント」を発表している。

「我々はこれまでCPTPP(米国抜きの環太平洋経済連携協定)、GCAP(グローバル戦闘航空プログラム)、サイバーセキュリティー、デジタル、洋上風力発電、科学技術など、さまざまな重要分野において新たなパートナーシップを築いてきました。特に、昨年の広島アコードの合意は、これらの協力関係をさらに促進させる追い風となりました。(中略)国王陛下と天皇陛下が生物多様性と環境保全に共通の関心を抱いていることが示すように、王室と皇室の親密さも含まれています。国際的な金融およびビジネスサービスの先駆的なエコシステムであり、革新的な研究機関や学術機関も包括するシティー・オブ・ロンドンが主催した晩餐会には、「両国のビジネス界を代表するゲストの方々がご出席されました。晩餐会は、両国の市場間や自治体間の連携を通じた、歴史に根付く日英協力の深化を象徴するものでした。」

 なんとここでは、今回の訪問の政治的、経済的意図を明確に語っているのである。さらに、後半では、「2025年の万博への英国の貢献」や「来年の空母打撃群の訪問」という「未来志向」にも及んだ。

 なお、「広島アコード」とは、BBC NewsワールドニュースTVによれば、昨年2023年5月の広島サミットの折、19日からの主要7カ国(G7)首脳会議に先駆けて行われたリシ・スーナク英首相と日本の岸田文雄首相は18日夜のワーキングディナー(夕食会)で、安全保障や経済、世界的な課題など、幅広い分野で戦略的な日英の連携を深めていく「広島アコード」に合意、欧州とアジアにおけるもっとも近いパートナーとして、安全保障と防衛での協力にいっそう努力するという確認であった(2023年5月18日)。相手国英国が明確にしているものを、日本政府は、天皇の政治利用を覆い隠し、日本のメディアも言及することがない。

  また、英国駐日大使のコメントにある「空母打撃群の訪問」って、聞き慣れないので調べてみると「空母を中核として護衛艦、航空機などの編成になる機動部隊」のことらしく、2021年にもインド太平洋地域に派遣されている。英政府は2023年5月17日、2025年には、日本、米国、英国がインド太平洋地域で定期的に合同演習をすると発表している。「空母打撃群」が派遣されて、日本にも寄るのでよろしく?ということなのだろう。前回のときは空母内でコロナ患者が大勢出て問題にもなったらしいが、それも思い出せないでいる。

   本当に知らないことが多すぎる中、天皇が、皇族が現実に果たしている、あるいは、利用されている実相を注視してゆきたい。
   こうした事態は、今回に限らず、例えば1992年の明仁天皇の中国訪問時の日中の攻防、日本国内での対立の調整の結果であったことも、私は、ようやく知ることになったのである(「天皇訪中 曲折の1992年」『朝日新聞』2023年12月21日)。

 

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頂きものだけれどと、娘からのおすそ分けの桃とネクタリン。農園からの直送とのことで、まだ固そうなので。

 

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2024年7月 2日 (火)

来年の歌会始の選者が決った~やっぱり栗木京子も

  2022年12月に亡くなった篠弘の後任は栗木京子だろうとブログなどで予想していたのだが、みごとに外れて2024年から大辻隆弘になった。*ところが、来年の選者になったのである。きのう、宮内庁から7月1日付で発表になった2025年の歌会始の選者五人は、以下の通りである。肩書は産経新聞に拠る。

三枝昂之(80)=山梨県立文学館館長、永田和宏(77)=歌誌「塔」選者、京都大名誉教授、今野寿美(72)=歌誌「りとむ」同人、現代歌人協会会員、栗木京子(69)=現代歌人協会理事長、歌誌「塔」選者、大辻隆弘(63)=現代歌人協会会員、現代歌人集会理事

*来年の「歌会始」はどうなるのだろう(2023年3月 9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/03/post-74140a.html

   2012年から務めてきた内藤明に替わって栗木京子が入ったことになる。誰が選者になったって、コップの中のこと、世の中に関係ないよ、と言われそうだが、やはり、ここで確認しておきたい。

 これまでも、幾度となく、書いてきたことなのだが、歌会始の選者になることが、歌人にとって、一つのステイタスになっていながら、歌壇ではなんとなく無関心を装ったり、無視したりする風潮がある。また、歌会始は、数ある短歌コンクールの一つに過ぎないという軽くいなす人たちもいる。果たしてそうだろうか。

 歌会始は、天皇と国民をつなぐ伝統ある貴重な文化的な行事であると喧伝されているが、毎年、あのNHKの中継を見ていると、文化的というより、異様な雰囲気にしか思えない。伝統といっても、たかだか明治以降、いや戦後から今のような形になったといってよい。国民から募った入選作、皇族・召人・選者の短歌は天皇に捧げる次第となっている。その一部が独特の朗誦で披講され、披講される間、作者は立ち上がる。天皇だけは、終始座って、それを聴き、いちばん最後に天皇の一首が披講されて終了する。選者の一人は、「御用掛」となって、年間を通して皇族方の短歌の指導にあたるのである。

 選ばれる歌も、普通に短歌雑誌や新聞歌壇、ネット上に行き交っている短歌が登場するだろうか。たとえば、政権批判や脱原発、基地反対、日本の戦争責任を読むことができるだろうか。誰もが傷つかない、平和への希求、暮らしの中の機微などが選ばれるだろう。

 それに選者の顔ぶれを見てみると、永田と栗木は、アララギ系の結社「塔」の選者、幹部である。三枝・今野は、夫婦で「りとむ」という結社を運営している。大辻は、「未来」の理事長、選者である。現代にあっては、「短歌結社」の独自性などはすっかり弱まってはいるものの、歌壇的に見ればかなり偏っていて、選者の私物化にも思えてくる。

 昨年、若い研究者と「短歌と天皇制」について話しあったことが活字になった。その時の参考資料として作成した表の一つを参考までに下記に示した。国家的褒章制度の中での「歌会始選者」の位置づけを見て欲しい。ダウンロードの方が見やすいかもしれません。        

  近年の歌会始選者たちの国家的褒章受賞歴

木俣修 1928~1983 (形成)

歌会始選者1959~83 →御用掛1960~1983→ 紫綬褒章1973 → 芸術選奨文部大臣賞1974 → 日本芸術院賞恩賜賞1983死去

岡野弘彦1924~ (人) 

歌会始選者1979~2008/芸術選奨文科大臣賞1979 → 御用掛1983~2007 → 紫綬褒章1988 → 芸術院賞・芸術院会員/勲三等瑞宝章1998 → 文化功労者2013 → 文化勲章2021

岡井隆
1928~2020 
  (未来)

 歌会始選者1993~2014 → 紫綬褒章1996 → 御用掛2007~2018 → 芸術院会員2009 → 文化功労者2016 → 旭日中綬章追贈2020死去

永田和宏1947~              (塔)

芸術選奨大臣賞2003 → 歌会始選者2004~ →紫綬褒章2009 → 瑞宝中綬章2019 御用掛2023~

篠弘1933~2022 
(まひる野)

紫綬褒章1999 → 旭日小綬章2005 → 歌会始選者2006~22 →  御用掛2018~2022   
(日本文芸家協会理事長2010~2016)(現代歌人協会理事長1995~2008)

三枝昂之1944~
(りとむ)

芸術選奨文科大臣賞2006 → 歌会始選者2008~ → 紫綬褒章2011 →  旭日小綬章2021

河野裕子1946~2010               (塔)

 歌会始選者2009~2010 

内藤明1954~ (音)

 芸術選奨新人賞2003 → 歌会始選者2012~2024

今野寿美1952~        (りとむ)

 歌会始選者2015~

大辻隆弘1960~   (未来)

 歌会始選者2024~

栗木京子1954~ (塔)

芸術選奨大臣賞2007 → 紫綬褒章2014 → 歌会始召人控2019 → 歌会始召人2020 → 歌会始選者2025~             (現代歌人協会理事長2020~)


(参考)

馬場あき子
1928~   (かりん)

紫綬褒章1994 → 芸術院賞2002 → 芸術院会員2003 → 文化功労者2019 → 旭日中綬章2021

佐佐木幸綱
1938~心の花)

芸術選奨大臣賞2000 → 紫綬褒章2002 → 芸術院会員2008 →  旭日中綬章2022 
現代歌人協会理事長2008~2017)

小島ゆかり
1956~ (コスモス)

 芸術選奨大臣賞/紫綬褒章2017 → 歌会始召人控2023 

2023年10月現在。但し、マーカ部分を2024年7月、(参考)欄より移動改訂
(内野光子作成)

 ダウンロード - 2024e5b9b4e8bf91e5b9b4e381aee6ad8ce4bc9ae5a78be981b8e88085e3819fe381a1e381aee59bbde5aeb6e79a84e8a492e7aba0e58f97e8b39e.pdf

「近年の歌会始選者たちの国家的褒章受賞歴」
座談会「臣下」の文学――「勲章」としての短歌 内野光子・位田将司・立尾真士・宮澤隆義 『G・W・G(ミーヌス)』8号 (2024年5月)所収

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2024年5月19日 (日)

GWG(ミーヌス)8号、先程発売開始しました。。

 今日、5月19日東京流通センターで、文学フリマ開催中です。

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 昨年の11月、GWGミーヌス同人の方々との座談会に参加しましたが、下記のような表題でGWGミーヌス8号に収録、刊行されました。同時に、本日19日の「文学フリマ東京38」ブースH-22で発売中です。

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 座談会の紹介は、つぎのようになっています。かなり過激な?表題や見出しになっていますが、私の発言は、私の素が露わになることもしばしば。若い日本文学研究者に囲まれての気ままな発言を根気よく聞いてくださり、まとめてくださいました。古い合同歌集や歌集『冬の手紙』(1971年)にまでさかのぼり読んでいてくださり、身の引き締まる思いがしました。

 座談会:「臣下」の文学――「勲章」としての短歌】短歌によって天皇/制を「撃つ」ことは可能か。内野光子氏を迎え、短歌と天皇/制、「60/70年安保」と革命、結社と資本主義、第二芸術論・前衛短歌と「私性」、阿部静枝の「フィクション」、齋藤史・瀏と2・26事件をめぐり、大いに議論を展開した。

 8号の諸論文も力作で、広くて深い分析と考察には、いまさら私には手が届きそうにもないのですが、教えていただくことも多く、楽しんで読み進めています。一つでも関心のあるテーマがありましたら、お手に取ってみてください。

 

 

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皇族たちの”公務”って~愛子さん、佳子さんの”働き”を通じて

愛子さんの「夢“みる光源氏」見学が「公務」ですか

 愛子さんの日赤就職のニュースとともに、4月1日からの勤務と成人皇族としての活動の両立をはかるとの報道がなされた。さらに、5月11日には「 初めての単独公務で平安文学に関する特別展」に出かけたことが報じられていた。

「平安文学に関する特別展」とは、東京の国立公文書館で3月から開催中の「夢みる光源氏‐公文書館で平安文学ナナメ読み!‐」で、5月12日が最終日だったのである。この特別展は、今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」と連動しての企画であったのだろう。

なぜこれが「公務」なのか?違和感があったので、宮内庁のホームページで4月以降の愛子さんの単独での活動を調べてみた。

4月10日 明治神宮参拝(昭憲皇太后110年祭)
4月11日 仙洞御所(上皇・上皇后)訪問(大学卒業・就職の挨拶)
4月14日 雅楽鑑賞
4月25日 武蔵野陵・東陵参拝(昭和天皇・皇后陵)(大学卒業・就職の報告)
5月11日 国立公文書館訪問(特別展「夢みる光源氏‐公文書館で平安文学ナナメ読み!」見学)

 こうしてみると、5月11日前の4つの事案は当然のことながら、公務とはいえず、私的行為である。祖父母への大学卒業・就職の挨拶、昭和天皇墓前への報告はもちろん、神社参拝という宗教的な行為は、公的行為ではあり得ない。とすると、雅楽鑑賞が私的行為という位置づけになるが、上記特別展見学とは何が異なり、「公務」になったのかが不明である。一つ思い当たることと言えば、「主催者の願い出」により訪問したという報道であったが、「願い出」に応じると公務?というのもおかしな論理である。

天皇の「国事行為」については憲法上の定めがあるが、「国事行為」以外の天皇はじめ他の皇族たちについての行為や活動についての法令上の規定はない。宮内庁のホームページには、天皇の「宮中でのご公務など」として、以下のように例示し、あわせて、「行幸啓(国内のお出まし)」と「国際親善」が挙げられている。

新年祝賀・一般参賀/天皇誕生日祝賀・一般参賀/親任式/認証官任命式/勲章親授式/信任状捧呈式/ご会見・ご引見など/拝謁・お茶・ご会釈など/午餐・晩餐園遊会/宮中祭祀

 これらの行為は、法令に基づかない行為ながら、天皇以外の皇族をも含めて、純然たる私的行為と区別して、慣例として行われてきたにすぎない。いわゆる「公的行為」として、実施されてきた行為・活動であった。

 とくに、平成期における天皇・皇后は、災害被災者・被災地訪問、戦地慰霊の旅、福祉施設などの訪問、全国的な行事―植樹祭・国民体育大会・豊かな海づくり大会・国民文化祭・歌会始への参加、全国的な各種団体の美術展・コンサート鑑賞などの文化的な行為に積極的に取り組んできたことは確かである。「国民とふれあい、国民に寄り添う」と喧伝されて、結果的にどんどん拡大してきた「公的行為」であったとも言える。それに重なる宮中祭祀の負担も大きく、背負いきれなくなって、平成の天皇は生前退位に至ったと言えよう。

 令和期は、コロナ禍に見舞われ、活動全体が縮小したが、天皇皇后は、平成期の在り様を目指しながら、戸惑っているようにも見える。そうした中で、宮内庁サイドの広報強化策によって、愛子さんの「公務」は、どのように演出されていくのだろうか。

 佳子さんのギリシャ訪問が「公務」ですか

  佳子さんについても、宮内庁のホームページで、4月以降の単独での活動を調べてみると、4月1日全国高等学校女子硬式野球選抜大会観戦、4月12日林野庁長官の説明(森と花の祭典参加準備)、5月10日伝統工芸染色展・陶芸展見学以外は、5月25日から6月1日の日程でのギリシャ訪問関連の事案で、ギリシャ事情に詳しい専門家の進講4回受けている。他に、このギリシャ訪問を昭和天皇陵に報告し、5月16日には、ギリシャ代理大使による昼食会に招かれている。ギリシャと日本との外交関係樹立から125年を迎えるにあたり、招待されたものであるという。

 今回、進講が重ねられているには、訳があるらしい。昨年11月のペルー訪問の際、その先々での発言というか、随行記者に問われての感想がお座なりだったり、案内人への質問が的外れだったりして、ネット上での批判が多かったということである。私が知らなかったことなど以下の記事に詳しい。

「佳子さま ギリシャご訪問に“観光旅行”と批判再燃の懸念…前回ペルーでは「語彙力がない」と批判噴出」(『女性自身』2024年05月15日 )
https://jisin.jp/koushitsu/2324605/

  そこで今回のギリシャ訪問に際しては入念な事前準備がなされたのではないか。「公式訪問」と銘打たれた国際親善も、いわゆる「公的行為」、「公務」とみなされているのが現状である。

そもそも皇族の「公務」は必要だったのか

 天皇の国事行為と純然たる私的行為の間の広く曖昧な部分を公的行為として「公務」とみなし続けてきた慣例、その公務を拡大してきた経緯を見直すことなく、公務を担う皇族が減ってしまったから、何とかその担い手を確保したくて、出てきたのが有識者会議での一案、女性皇族が結婚しても皇族に残るとする案であった。共産党、れいわが反対をしている。他の党は大筋で認めているが、その細部については不透明で、今国会で協議が始まったものの、どこに着地するかは分からないのが現況である。
 「公務」の担い手を増やすより、とりあえず「公務」を縮小することをなぜ考えないのだろう。公務が減っても、国民生活に何の支障もきたさない。困るのは、宮内庁なのではないか。皇族たちが「国民とふれあい、国民に寄り添う」機会が減少して、メディアへの登場も減り、皇室自体への関心が薄れることを一番おそれているはずである。同時に、これまで、天皇はじめ皇族たちの「公務」によって、さまざまな恩恵を受けてきた政権にとっても、その縮小は不都合なのではないか。戦死者慰霊や被災地訪問、施設訪問などに見るように、政権の不始末や失政を補完したり、国民の目を反らさせたりしてきたからである。

 そんなことを考えているときに、若い弁護士の堀新さんつぎのような文献を見つけて意を強くした次第なのだ。

「すべての公務を廃止しても問題はない」皇族に残る佳子さまのために考えるべきこと「皇室の存在意義」はどこにあるのか
PRESIDENT Online 2021年11月2日
https://president.jp/articles/-/51456?page=1

そして行き着くのは、皇室自体、天皇制自体の存在意義なのである。

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2階のベランダに洗濯物を干しに出たら、ヤマボウシが一気に白い十字の苞を開き、花のようであった。

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