2019年10月 4日 (金)

『象徴のうた』(永田和宏著)の書評を書きました

 先月号の『現代短歌新聞』に掲載されたものです。『象徴のうた』は、昨年1月から今年3月まで、週一で63回にわたって『東京新聞』に連載された記事をまとめたものです。平成の天皇夫妻の短歌を中心に、鑑賞・解説をしていますが、共同通信配信のシリーズでしたから、各地の新聞での読者も多かったと思います。著者は、2004年から歌会始ん選者を務めています。それだけに、時代背景や天皇家の内情などを交えながら、天皇夫妻はじめ皇族方の短歌の意を丁寧に読み解き、鑑賞がなされています。そのスタンスは、おのずから明確で、国民に寄り添おうとする「お気持ちの最も大切な部分」が「お二人のお歌、短歌にこそ籠められている」というものです。しかし、短歌や「おことば」などとして発信されるメッセージは、そんなに単純なものとは思われないというのが私の感想でした。あまりにも過剰な思い入れは、かえって、読者の鑑賞を損なってしまうのではないかとさえ思えたのです。まだ、お読みでない方は、一度、近くの図書館で、ご覧になるとよいと思います。

 Img306

『現代短歌新聞』2019年9月1日号より。

| | コメント (0)

2019年8月20日 (火)

8月20日の朝刊一面は「昭和天皇の“反省”“肉声”報道」が氾濫した~「NHKスッペシャル・昭和天皇は何を語ったのか」の拡散、これでいいのか  

 

 一昨日818日の当ブログ記事では、NHKへのもろもろの不満の中で、817日放送のNHKスペシャル「昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録『拝謁記』」について書いた。この数日、NHKニュースは、「NHKスペシャル」などの特別番組と共に「昭和天皇賛美」キャンペーンが半端でない。改元初の八月を期して「ここまでやるか」の印象で、先々の報道の偏向、国策報道への暴走がすでに始まったのではないか、の思いがする。

 

 今朝8月20日の朝刊は、NHKが「独自に入手した」田島道治の「昭和天皇拝謁記」の一部がメディアに公開されたのを受けて、わが家購読の三紙と毎日8月19日夕刊・20日朝刊、朝日20日朝刊、東京20日朝刊で、読売、日経はどうであったろうか。今朝のテレビといえば、「あおり運転」の容疑者宮崎某の学歴や職歴をはじめ小中学校からの友人知人、これまでの事件の実写や関係者の証言が盛られた。  

 

Kimg0080

   昭和天皇の「おことば」に「反省」の文字を入れることを吉田茂首相に拒まれたという個所に焦点があてられる。一方、「象徴」の在り方を模索したといいながら、かなり早い時期から「憲法改正をして、再軍備をしなければ」などの政治的な発言を政府に伝えようとしたことを田島に止められていたことにも触れる。「内奏」という形での情報収集や政府への介入を試みていたことは、ほかの資料でも明らかである。

 これらの発言、田島との密室でのやり取りが、検証もなく、即「肉声」として取り上げられること自体、そしてそれがたとえ事実だとしても、発言の時代的推移における矛盾については、検証されないままである。そして、「先の戦争への反省」「平和への思い」が「平成」を経て現在の天皇に受け継がれているという「定説」は、むしろ覆されたのではないか。そして、天皇の「先の戦争への反省」「平和への思い」を過大評価することによって天皇賛美への道を確固とすることは、結局、誰を利するのか、国民は冷静に考える時期に直面している。私たちは、政府の、メディアの情報への、そして同調圧力へのリテラシーこそが問われているのではないか。

 

 

| | コメント (0)

2019年8月18日 (日)

NHKの良心的な番組って、何ですか~”NHKが独自に入手した資料が明かす・・・”ドキュメンタリーの虚実

 

 ほんとうに、近頃は、NHKと民放のテレビ番組の区別がつきにくい。チャンネルを回して、数秒間見ている限りでは、民放のコマーシャルも入らないのでわからない。なんかどこかで見たことがある芸人たちが並んで、まん中にまたどこかで見たことのあるタレントが仕切っているような・・・。アナウンサーらしき人が真ん中にいても、あとの二人はタレントであったり、タレントを助けるアナウンサーの役だったりする場合もある。こんな番組、どこかの民放で見たことあると思ったらNHKだったということもしばしば。NHKは潤沢な予算と人員を擁しながら、恥も外聞もなく民放の番組をパクったり、民放で売れ始めたタレントを横取りしたりする。

 N国の出現に危機を感じたNHKが頼み込んだのか、政府が、NHKに恩を売ったのか。中谷一馬衆院議員(立憲)の質問への答弁書という形で、8月15日の閣議で、「受信契約が成立した段階で、受信料の支払い義務が生じる」などという閣議決定をした。受信料の支払い義務は、放送法上の根拠がない。これまでも「義務化」の立法を画策しているが、法律は成立していないことからしても、「受信料支払い義務」はあり得ない。そこのところを質問した議員もわかっていないし、応える閣僚たちの立法府・議会軽視も甚だしい。支払わない人対策はNHKに投げるほかない。スクランブル化についてはNHKの公共放送の性格からして、やるべきではない、とも。現在のNHK報道番組は、政府広報に堕していると言ってもよい。これまでも、番組編集や人事に政府の介入や圧力があった、NHKサイドから政府に忖度をしたという「事案」は数知れない。

  そんな中で、毎年八月になると、NHKスペシャルは、NHKが独自の資料を入手したとして、ブックトラックで恭しく運ばれた資料を、ときには手袋などして、番組担当者や研究者が、重々しく頁をめくる映像が流される。「これぞ超一級資料新発見!」として、既視感たっぷりに番組は始まる。資料と証言で編集されるものと思えば、物々しい再現映像がこれでもこれでもかと挿入されるのも、いつものパターンである。

 今年は、二つの番組を見た。

①NHKスペシャル「全貌 二・二六事件~最高機密文書で迫る~」(2019年8月15日、総合午後7時30分~(73分)再放送:2019年8月18日、午前0時35分

  これまでも謎が多い二・二六事件で、出てくる資料は陸軍側のものが多かったが、今回、海軍側の「最高機密文書」をNHKが入手したという。やはり、画面に大写しされたのは、「極秘」の印が押された赤表紙の資料で、二・二六事件発生後、リアルタイムで刻々集まってくる情報が記録されていた文書であった。1945年9月2日ミズリー号船上での降伏文書調印式に海軍側の随員として参加していた富岡定俊少将のもとにあった資料だったらしい。その辺のことは詳しく説明がないまま、番組は進む。調べてみると、富岡は、戦後、旧海軍大学校のもとに設けられた「史料調査会」に席を置き、戦史の研究にたずさわっている。ということは、もちろん資料は個人のものではない。本来ならば、防衛省防衛研究所戦史研究センターに保管されるべき資料ではないか。資料の公開が待たれる。

  陸軍側の皇道派の蹶起部隊の将校や幹部の意見の食い違いや変化を追うとともに、海軍側に集まる情報と対策が克明に記されている資料による事態を明らかにしてゆく。反乱軍として鎮圧し、事態の収拾を図りたい天皇と海軍との連携が浮き彫りになる。海軍と陸軍の対立の構図がここでも強調されていた。しかも、海軍側の資料によれば、すでに事件の1週間前の2月19日には、蹶起が近く、そのリーダーの将校の名前など具体的に記録されていたことがわかる。ということは、海軍側は、事件発生は予想できたにもかかわらず、放置、傍観していたことになる。というよりは、海軍による鎮圧まで計画していたというから、いずれにしても、1936年以降、この事件を利用して、軍部、天皇による軍国化・天皇神格化が一挙に進んだことになる

Img_01226 2b1dfd94bc8c485ba9765b454d08c29be1565257

 

 相変わらずのドラマ仕立てで、蹶起部隊と陸軍幹部、陸軍と海軍、天皇との「攻防」の苦悩や緊張感のみが高められる形で進めようとする番組という印象が免れず、この時代の軍部や天皇の核心に迫る姿勢が感じられなかった。

 

②NHKスペシャル「昭和天皇は何を語ったのか~初公開・秘録『拝謁記』」(総合2019年8月17日午後9時~(59分)再放送

 17日当日の「ニュース7」のトップが、なんと「昭和天皇 拝謁記<象徴天皇>初期の模索明らかに」というこの番組の宣伝を長々と放映していた。16日前日の「ニュース7」でも、「昭和天皇『拝謁記』入手 語れなかった戦争への悔恨」として、この番組の宣伝がかなりの時間放映された。ほかにも伝えるニュースはあったはずである。この連日のキャンペーンには、どこか不穏な臭いもする。ただの「八月ジャーナリズム」に終わらないような気もする。

Photo_20190831221801

敗戦後の宮内府長官田島道治の昭和天皇「拝謁記」が、遺族から提供されて、初めて公開されたのだという。田島が、天皇とGHQ・マッカーサー・首相らと間の仲介役であったことは知ってはいたが、「拝謁記」があることは知らなかった。にわか勉強と原武史のツイートなどにより、以下のことを知ったのである。

原は、8月16日のツイートで以下のように綴る。
「またNHKが「独自」と称して宮内庁長官田島道治が昭和天皇の肉声をメモしていていた膨大なメモが見つかったとするニュースを長々と流していたが、今日のニュースを見る限り、加藤恭子『昭和天皇と田島道治と吉田茂』(人文書院、2006年)ですでに明かされたこと以上の発見はほとんどなかった。」

また18日には、以下のようにもツイートしていた。
「学者の世界では、先行研究ですでに明らかにされていることをきちんと踏まえた上で、新たな史料によってわかった知見は何なのか、その範囲をくっきりと浮かび上がらせることが求められる。連日のNHKのキャンペーンは、このルールを全く無視しているようにしか見えない。」 

  私などが、ぼんやりと感じていたことを、原は、研究者として的確に言いおおせていたと思う。私は、加藤恭子の『昭和天皇と田島道治と吉田茂』は未見であるが、ネットで以下のような資料に出遭った。加藤恭子のある研究会での報告であるが、彼女は、田島道治の上記伝記執筆を依頼されて、遺族とともに大量の文書と日記を苦労しながら解読作業をしていることが分かる。その成果が、前掲書にも記されているのだろう。「拝謁記」と名付けられての執筆記録なのか、日記に拝謁記録が混じっているのかが不明で、加藤が読んだものとの関係も一切触れていない。加藤の「報告」で1952年5月3日の「独立式典」でのスピーチ草稿の経緯は、はっきりしていた。だから、<初公開>とか<秘録>と言えるのかとも思う。NHKの番組のために編成された?解読研究プロジェクトのチーフでもある古川隆久も、自著『昭和天皇』(中央公論社 2011年)で、加藤の資料は「田島日記」として引用している。<第一級>の<新資料><独自資料>を裏付けようとするために、研究者の言を拾うのはNHKの得意とするところでもある。原のツイートでの怒りがわかるような気がした。

*加藤恭子研究会報告(2003年)file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/XLUAEPA6/50kato_k.pdf

 ところで、番組が伝える中身なのだが、「拝謁」部分の会話は、あくまでも密室でのやり取りであって、その信ぴょう性にも言及する必要があるのではないか。そこを素通りして、天皇と田島のやり取りが、俳優二人によって「信頼厚く、誠実で」あり続ける演技が展開されるのである。昭和天皇を演じた俳優には気の毒だが、「人柄を滲みださせようとする演出」は、過剰にも思われ、無理がある。

  昭和天皇が過去の戦争への「反省」にこだわるのは、当然のことではあり、その上、多くの国民を他国の人々を犠牲にしたという自覚があったからだと思うが、吉田茂首相によっての削除を結果的に認めてしまうほどの「反省」ではなかったか。すでに「下剋上」の世界では自分の意見を言えなかったといった主旨の言い訳は、「反省」や「悔恨」とは真逆の認識ともいえよう。東京裁判終結後も「退位」云々に触れ、「退位した方が気が楽」とも語ったとされているが、むしろ、東京裁判後の「安心感」からでた「愚痴」の域を出なかったのではないか。

その後の「沖縄メッセージ」隠蔽工作、戦争責任「ことばのアヤ」発言などとの整合性などを思えば、「発言」や「言葉」の軽々しさはぬぐいようもない。

現代においても、天皇の「おことば」の一語一語の過大評価が横行しているが、意味がないばかりか、評者自身の自立性すら疑いたくなるほどである。

文句ばかり言うのなら、見なければよいのだが、やはり「短歌と天皇制」について、考え続けている身としては、はずすわわけにはいかなかったのである。

 

| | コメント (0)

2019年6月12日 (水)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人たちを振り返る(3)1959年(続)

短歌研究1959年6月号/7月号/8月号/9月号                  

社会問題、天皇制からの切り口へ
 1959年の後半も「主題制作」と「長期連作」の企画は続き、「連載短歌」は吉井勇、生方たつゑ、塚本邦雄に代わって、5月号からは、佐藤佐太郎「北の海」「佛桑華」「雨季」、斎藤史「密閉部落Ⅰ~Ⅲ」が始まっていた。また、6月号からは、<未発表歌集シリーズ>という新企画が始まる。第一弾が木俣修青春歌集「市路の果」152首(1928年3月~1931年6月)は、北原白秋系の『香蘭』時代の作品が中心で、木俣は、1935年6月には白秋創刊『多磨』に参加している。8月号は、前川佐美雄青春歌集「”春の日”以前」150首(1920~1925年)であった。

・教室をおはれし友はつひにまた會ふはなからむと重々といふ
・とめどなく思ひまよふ十行に足らぬ履歴を紙にしるして
(木俣修「市路の果」『短歌研究』1959年6月)

・野の駅に汽車待ちをれば少女子が和えに雨に濡れ来て川をたためり
・俄雨に合歓の花散る草山をから傘すぼめてわれら行くなる
(前川佐美雄「”春の日”以前」『短歌研究』1959年8月

・落人は笛の音のごとく痩せながら空よるべなくさまよひにけり
・とほき歴史のかたより落つ聲かともはるかにたかし 天上の雁
(斎藤史「密閉部落Ⅱ」『短歌研究』1959年6月)

 また、6月号で目についたのは、竹山広(1920~2010)の作品だった。
・ものかげに潜みて燠を吹くごときくるしき愛をわれら遂げきつ
・朝来てなほ生ける脈しるしゆく残るくるしみをはかり見むため
(竹山広「ルルドの水」『短歌研究』1959年6月)  

 竹山の『心の花』に復帰直後の発表作で、長崎で結核療養中に被爆、兄を失い、長い空白の後、被爆体験の作品を出版したのは、1981年、第一歌集『とこしへの川』であったのである。 

 7月号・8月号には、「短歌による社会時評」があり、7月号の吉田漱「皇室ブーム」、井伊文子「今日の沖縄」、君島夜詩「北鮮帰還」は、歌人による時評であった。8月号のそれは、勤評闘争のさなかの教師の短歌、少年院や女子刑務所の入所者の短歌、ハンセン病者の短歌、労働者の短歌を現場に近い歌人が紹介する形をとる。私が注目したのは、吉田による、皇太子結婚への慶祝短歌の背景を分析したもので、大きく皇室への関心層と無関心層に分け、前者には、もっとも時流に敏感で、警職法反対と奉祝歌が同居できる「率先型」から懐疑型、傍観型、憧れ型、天皇制自体には決定的な意見を持たない良心型、天皇制廃止の抵抗型などに分けているのが辛辣であった。つぎのような結語部分は重大な指摘であったと、いまさら思う。
「天皇制、皇室、国家、これらの、ふりかえりが、本当にまだ各々のうちで、不十分なところに、実は問題があるので、その大きな大衆層は、いつたいどういうものかの分析、「保守的ムード」の検討、マスメデアに対する考察、ひいては世界の機構、国家の位置に目がとどかぬかぎり、今回のようなブームはきわめて容易におこる」

 前後するが、前記事の5月号の秋村功「道化師を操るもの」の反響として、6月号の「読者の批評」欄には、2件の投稿があった。秋村・吉田のいう「皇室ブーム」について共感し、皇室ブームへの疑問や違和感を持つ人たちが、声を上げていたことの証ではないか。その一つは、秋村の「皇室のプライベートな慶事がそのまま庶民のめでたさに通じるかのごとく錯覚させるむなしい報道」や「日本文学の源泉である短歌」と、歌会始にのぞむ選者たちは「誰かが作りあげた筋書きの上で踊つている悲しい道化であるかもしれない」とする主旨に対して、重要な問題を投げかけているとして、「文学の将来を左右するような切実な問題に、目を蔽って見すごすことは、とりも直さず“戦前“の愚を再びおかそうとする危険なしとしないからだ」「伝統があるから尊いのではなく、その発展を求めてこそ伝統は生き継がれるので、未来に通(じ)る詩でなくては伝統も死に絶えて終う」と訴えていたことも目に留まった。寄稿は、「大阪市 片山碩」となっていた。『覇王樹』の1960年代の同人だったらしい。
 皇太子の結婚をきっかけとしたミッチーブーム、皇室ブームへの歌壇の反応は、天皇制自体への疑問と危機感を率直に吐露している編集者、執筆者も、読者も、実に健全であったことを示しているのではないか。現在の天皇の代替わりをきっかけに、当然論議されるべきであった課題を、野党もメディアも歌人も、スルーして、奉祝ムードになだれ込んでいる実態を目の当たりにして、いっそうその感を強くした。
 また、歌人であり、琉球王家、尚家出身の井伊文子(1917~2004)の「今日の沖縄」は、当時、沖縄の情報が少ないなか、貴重なレポートであったと思う。中野菊夫や吉田漱らとともに、短歌を通じて沖縄と本土と数少ないパイプの役割を果たしたことは見逃せない。
 さらに、8月号の斉木創(香川県青松歌人会、1914~1995)による「H氏病者の現状」は、ハンセン病者の短歌が盛んになった昭和初期、「療園と皇室との紐帯は周知のように、極めて厳密な格別の庇護のもとにあり」、数知れないご慈悲に守られ、“聖恩感謝”の思想」は、病者にとっては血肉化された金科玉条であった、と書き起こされる。斉木は、自作「厳かしき世代におはし来て天皇は癩の上にすらやさしかりける」を引いて、昭和天皇の1950年、四国視察の際の「あな悲し病忘れて旗をふる人の心のいかにと思へば」に応えた過去のさまざまな呪縛から放たれ、意識変革をもたらしたのは民主憲法であったと述べながらも、現実の厳しさ、レプラ・コンプレックスを取り払う道を探ろうとする。斉木は、らい予防法が撤廃される1996年を目前に亡くなっている。
 なお、9月号の五十首詠では、特選は、山口雅子「春の風車」、石井利明「座棺土葬」であったが推薦作3人の内の一人に新井節子「流離の島」があったことにも着目したい。新井は、沖縄県屋我地島の国立療養所沖縄愛楽園に暮らすハンセン病者であり、その作品は、つぎのようなものだった。
・離れ島の中また隔つ境界の並木に日暮れの風こもり鳴る
・爆撃に皹破れし窓揺さぶりて北風酷薄の日を育ち来ぬ

(新井節子「流離の島」『短歌研究』1959年9月)

 なお、この年の5月号にさかのぼるのだが、中野菊夫「署名簿」(20首)は、私が近年知ることになる、ハンセン病者とされて、殺人事件の容疑者(熊本県の菊池恵楓園入所者)が最高裁まで争った「菊池事件」を詠んだ連作である。死刑が確定したのが1957年9月、直後に「救う会」が発足し、再審、助命嘆願、特赦など様々な運動を展開したが、1962年9月には、死刑が執行されたのである。中野は、事件自体にも冤罪ではないかという疑問、裁判制度への怒りをあらわにして、死刑確定後の被告にも面会し、恩赦申請の署名活動を進めていた。中野は、前述のように、早くより、ハンセン病者の短歌指導も積極的に行っていた。作品にある「隔離裁判」とは、感染などを理由に、ハンセン病者が裁判所以外の「特別法廷」でなされた裁判のことで、最高裁は、2016年になって、その特別法廷は法の下の平等な裁判を受ける権利を侵して違法であることを認め、謝罪している。1996年「らい予防法」の廃止後も、ハンセン病者や家族への差別は依然と根強く、「菊池事件」の再びの再審請求もいまだ続いている。現代においても、皇族のハンセン病者に「寄り添う」姿が、ことさら強調されるということは、何を意味しているのだろうか。
・隔離裁判なしたる狭き法廷に椅子ありうすく埃かぶりて
・ライを忌み親しきすら詳言をなさざりき偏見は今も變らず
・無力にして皇太子結婚をいまは待つ君の恩赦をたのめるがため
(中野菊夫「署名簿」『短歌研究』1959年5月)

 なお、8月号には、1956年の五十首詠特選となった小崎碇之介(『ポトナム』同人、1918~1995)が、「焱と死者の街」(53首)を発表している。小崎は、船員で、公務のため門司に赴く途中、広島駅近くの壕で仮眠中に被爆するが、助かった直後に綴った作品で、14年間、筐底に秘めていたという。GHQの占領下では、原爆に言及する出版物には極めて厳しい検閲がなされていたので、その後も、多くの歌人たちは出版には慎重だった時期でもある。
・まなぶたを刺す閃光にまどろみの覚めき砂零る壕におびえて
・雨昏く火の街にふり死者へふり生者をうちて心狂はしむ
(小崎碇之介「焱と死者の街」『短歌研究』1959年8月)

短歌研究1959年10月号/11月号

<未刊歌集>という方法

 10月号の未刊歌集は、斎藤史の「杳かなる湖」(87首、1943~45年、1946年)であった。1946年分は、歌文集『やまぐに』(臼井書房 1947年7月)に収めたと、「あとがき」には記している。また「総数百首」とも書く(うーん、簡単な足し算のはずだが)。この「杳かなる湖」の成り立ちと『斎藤史全歌集』への収録状況などは、拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』でも触れている(表5「『全歌集』に収録された敗戦前後の「歌集」と初版『歌集』の歌数などの比較」)。史は、この未刊歌集をもって、「昭和三年から頃から今日までのものを、どこかに一応整理したことになるのだろうが、年月の風化の中に、どれほどとどまるものやら・・・」とも述べている。
・からからと子の乳母車押しながら風に逆らひゆく夕昏れを
・我は今かく渇(かは)けるをいづ方に夕凪美(は)しき湖(うみ)はありなむ
・東京に居らざる我をおとしむることば伝へて来し秋だより
(斎藤史「杳かなる湖」『短歌研究』1959年10月

Img215
拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』から

 新しい企画が重層的に展開するのはめまぐるしくもあるが、書き手の意欲もそそり、雑誌全体から躍動感が伝わり、読者の期待感も大きかったことだろう。しかし、主題制作や連作については、加藤克己、高尾亮一や当時の若い論者、菱川善夫、秋村功らによる厳しい批判も現れていた。たとえば、小崎の五十首詠特選(8月号)について、「私の五選」10月号で、高尾は「異常な体験の作品としては叙述的にすぎている」、加藤は「一首一首の終着の常識性、報道性のため主題を貫く思想が寸断される」、秋村は「被爆当時の死や実体として捉えず、その後の観念化された視点からしか捉えられていないのが惜しい」と。斎藤の「密閉部落」についても、秋村は「あらかじめ予定された視点から、悲劇の観念が事実との遭遇により、形を持つたまでであ」り、「”部落“を支える深部を抉り出すようにつとめてこそ、通俗ロマン主義的傾向から脱しうる道なのだ」とする。
 また、10月号で岡井隆「暦表(カレンダア)組曲」が3回で完結するのだが、加藤は、9月号の「私の五選」で、岡井の生活批評として注目するが、「持前の生への傲慢と不逞の変形として、もつときびしい深傷の感覚をふまえた上での、現実へのもうひとつ痛烈な風刺のコトバがほしい」と評している。同号では、9月号の五十首詠について、前身の編集部選から1958年選考委員方式になって2年目、初めて特選となった山口雅子「春の風車」、石井利明「座棺土葬」の批評もあり、なかなか手厳しいものであった。
 11月号の<未刊歌集>は近藤芳美の未発表歌集「大地の河」(120首、1940年9月~1941年末)であった。『早春歌』前の召集兵として戦地から妻への軍事郵便で送付した短歌がノートにまとめられていたのを忘れかけていたが、今回、若干手直しをしてをまとめたと「あとがき」に記している。
・前線に夜半発ち行くトラックか塀の銃眼をてらしつづけり
(敵前上陸の訓練をうく。暁舞台と呼ばれる)
・死せる兵運ばれて去り夜具一つたたまれており朝明くる窓
(軍医に胸を病んでいることを告げられ、そのまま内科病棟に移された)
・白衣着て佇つ身にまぶし夏となる大地の河の黄なるみなぎり
(朝鮮人娼婦らの一団に見送られて病院船に乗る)

 Img214
『短歌研究』1959年10月号、11月号より

 また、11月号では、三大連載と銘打った、山本健吉「人麻呂私抄」が11回、木俣修「昭和短歌史」が24回、柴生田稔「斎藤茂吉・その歌と生涯」11回と佳境に入っていた。そして、現在から振り返ってみれば、毎号、一冊、一冊に意欲的な作品や論文が多く、歌人研究や短歌史における資料的な価値が高い。現在の短歌総合誌の大方の「軽さ」からは想像もつかない。

 

| | コメント (0)

2019年6月 7日 (金)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人を振り返る(2)1959年

 当ブログは、2006年1月に開きましたが、今回の記事がちょうど1000件目にあたります。雑多で、つたない発信ですが、楽しいときもあり、苦しいときもありました。お訪ねくださる皆さまに支えられ、続けることができました。予想外の反響に励まされ、思いがけない出会いや情報交換のチャンスにも恵まれました。ありがとうございます。そして、リンクをしてくださっている方々には重ねてお礼を申し上げます。更新は、遅々たるものですが、ときどきの思いを綴っていきたいと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。

 

~主題制作と長期連作の試み~

『短歌研究』1959年1月号/2月号

 現在の短歌総合雑誌の新年号といえば、若干の違いはあるものの、老若男女の著名歌人総出のアンソロジーだったり、老大家を前面に押し出したり、中堅層を集めたりと、やはり「おめでたい」感がぬぐえない。今年の『短歌研究』1月号は、なんと総力特集「平成の大御歌と御歌」であった。
 1959年、杉山正樹は、1月号の編集後記に「<新春作品特集>は、旧来の総花式なアンソロジイを排して短歌の可能性を探る試みを開始しました」として、「主題制作・生きている”戦後“日本人の心の記録」のもとに、近藤芳美・宮柊二・木俣修にはじまり、岡井隆・田谷鋭・葛原妙子・寺山修司と続き、福田栄一・坪野哲久・斎藤史の『新風十人』メンバーの作品が奈良原一高の写真とともに30・14首の交互で並ぶ。ベテランの佐藤佐太郎・吉野秀雄、新人の山崎芳江・小崎碇之介・山下富美の30首も配するが、この新年号のもう一つの試みというのが50首に近い大作の「連載短歌」で、吉井勇「人の一生」、生方たつゑ「火の系譜」、塚本邦雄「水銀傳説」である。座談会「日本の詩と若い世代」(大江健三郎・江藤淳・岡井隆・寺山修司・嶋岡晨・堂本正樹)がもっとも新年号らしいといえば言えるかもしれない。

・靴音の近付き聞こえ闇に消ゆ心よぎりし何の恐怖か
(近藤「五八年冬」)

・たたかひの後を生きつつ身に疼くくらき痛みを語りあへなく
(柊二「おもい光」)

・壓を加へんとするものはことば柔らかにわが書きものを閲(けみ)しゆきたり(修「黄の鎮み」)

・尾行(つけ)られていると信じ初めしより昂然と雷雨の街を歩めり(隆「少年行」)

・揉みあひて階のぼる群を狭(せば)めつつコンクリートの壁(へき)ありと見つ(鋭「野の靄」)

・窓に碍子(がいし)黒き夜 星黒き夜 われはなにゆゑに群(むれ)、を怖れし(妙子「風 衝」)

・一本の樫の木やさしそのなかに血は立つたまま眠れるものを
(修司「洪水以前」)

・せばめられてゆく自由われも守りたしわれの守られゆく背後なく
(栄一「一枚の罪」)

・拳銃を斜に帯びて移動する道化の一群 制服の青
(哲久「水甕交響」)

・云ひ立てて無實叫ばぬ白鳥を撃つ たはむれに基地の兵の銃丸
(史「流木」)

 

 この作者たちの思想・信条は異なりながら、共通するのは、直接的には、教員の勤務評定反対闘争、警職法改正反対闘争などで国民的な盛り上がりは見せたものの、教員の管理強化、小中学校における「道徳」の導入など国家権力による統制強化、1960年に向けて、日米間安保条約改定交渉が開始されることなどによるじわじわと締め付けられるような危機感であり、閉塞感ではなかったか。
 さらに、編集後記で、杉山は「短歌が日本人の心の記録という意味を持つとすれば憲法改定への暗い動きが底に流れる今日、戦後の心象を刻みつけたこの企劃も、ひとつの意味をもつかと思われます」とも記している、その時代背景へのスタンスも留意すべきだろう。

 翌2月号では、この企画の反響を、批評特集「現代短歌の突破口」としてまとめている。魚返善雄・大岡信・楠本憲吉と歌人6人の反応は各様だが、企画自体を評価する大方の中で、やはり、その中身、短歌作品や写真とのコラボに疑義、言及する評者も多い。「連載短歌」の吉井勇、生方たつゑ、塚本邦雄の連作は続く一方で、<新・戦後派作品特集(30首+作者のノート>(我妻泰・石川不二子・杜沢光一郎・小野茂樹ら7人)、<新鋭作品集(15首)>(石牟礼道子・水落博・中井正義ら7人)が組まれている。

・墓碑銘のなき死つぎつぎよみがえる海へきざはしふかき月かげ
(石牟礼道子「母たちの海」)

 この記事を書いているさなか、6月5日の毎日新聞(『石牟礼文学の原点発見 本紙熊本版に短歌21首投稿』)を目にする。記事によると、石牟礼の短歌のスタートは毎日新聞熊本版「熊本歌壇」(蒲池正紀選)の1952年11月11日~53年5月31日までの21首の入選作だという。その記事には、当時の「熊本歌壇」欄の2首が載っていた。

・舞ひ下りてふはりと羽をとざしたる秋の揚羽はしずかなるもの
(毎日新聞「熊本歌壇」1952年12月28日)

 かつて、私は、石牟礼道子(1927~2018)が短歌にかかわっていた時期は決して短くはなかったことを知って、「短歌に出会った女たち」の一人として、彼女の短歌との出会いと別れをたどったことがある(「石牟礼道子『苦海浄土』にたどりつくまで」『短歌に出会った女たち』三一書房 1996年)。彼女が短歌を作り始めたのは、10代の戦前までさかのぼることがわかっている。そして、『短歌研究』でのデビューはと遡ってみると、手元の資料から2件見出すことができた。バックナンバーの現物が以下の画像である。

・傷つきしけものも花も距りぬ変身の刻近づく暗さ
(「変身の刻」『短歌研究』1956年9月)

・岩礁のさけめよりしばし浮揚する藻と生々しわれの変身
(『海女の笛』『短歌研究』1956年11月)

 1首目は、五十首詠特選1人と推薦4人に続く入選者15人の一人として14首掲載されたのだが、そのうちの1首であり、2首目は、9月号で五十首詠<特選>であった小崎碇之介とともに入選8人の入選後第一作20首詠のなかにある。当時、すでに、水俣病は工業廃水が原因であるとする漁民や患者たちと認めようとしない日本チッソと闘争は激化していた。石牟礼が水俣病にかかる文章を発表しはじめるのは、少し後の1963年以降で、1970年『苦海浄土 わが水俣病』(講談社)の第1回大宅壮一ノンフィクション賞を辞退した石牟礼だったが、その後の歩みや曲折は別稿に譲りたい。

Img211
石牟礼道子「変身の刻」1959年9月号

 

~「歌会始」が問われ始めたが~

『短歌研究』1959年3月号/4月号/5月号                  

 前年、1958年11月27日の明仁皇太子の婚約報道以降、いわゆるミッチーブームのさなか、1959年の「歌会始」は、1月12日に開催されている。「窓」の題のもと選者は、吉井勇・土屋文明・四賀光子・松村英一・五島美代子・木俣修、陪聴者には、久保田万太郎・芹沢光治良・高見順らがいたと伝え、続けて、現代歌人協会・日本歌人クラブ・女人短歌会の共催で、預選者を祝って、選者、入江相政侍従ら宮内庁詠進歌委員など90名が参加して、預選者を祝ったと報じている(『短歌研究』1959年2月号)。そして、選者に新しく、若い木俣と女性二人目として五島が加わったことが影響したことになるのか、戦後最高の応募歌数2万2400首を越えたことが注目された。

 そして、4月10日の皇太子結婚を控えた、このタイミングで、『短歌研究』3月号では、「編集部S」の名で、「歌会始はだれのものか?歌壇から選者を送って十二年 もはや遠い儀式ではない」<特別記事>が掲載された。「歌会始」が選者に民間歌人を加えて10年余を経、「現代短歌の飾窓」として、その短歌は誰の目にも止まる存在になったことで、歌会始が現代短歌と無縁な別世界の出来事ではなくなった。それを受けて、編集部は、各世代の歌人30人、短歌に関心のある文学者10余人にアンケートをとったという。質問も、回答の全容も不明ながら、当時の儀式「歌会始」の実態とその様式が定まったのは明治期に入ってからの第二期であると歴史をたどった上で、「あれはあくまで尊重すべき儀式である」とした回答が最も多かったと報告している。新しい選者の木俣のように、新聞や雑誌の短歌コンクールと同様に選歌し、よりよいものにしていけばよい、とする考え方と現代短歌と歌会始が近づいたということは、現代短歌の文学的な堕落を意味する(杉浦明平)、「(短歌)が文学であるならば、天皇制と結びついて国家権力に守られたくない。現代短歌のためにはこのままでおくべきでない」(岡井隆)という意見、選者も召人も断り続けていた土岐善麿の「われわれが歌を作るのとはモチーフが違うもので、自由自在な表現が可能かも疑問だ」との意見も紹介されている。ではどうすればいいのか、おそらく執筆者であろう杉山はつぎのような文章で締めくくっている。
 「あの第二芸術論や短歌滅亡論が、宣戦の詔勅にも終戦の詔勅にもひとしなみに感動した歌人の姿勢にはっしたことをおもいあわせれば、近く迫つた皇太子の御成婚式も短歌にとつては危険な瞬間かもしれないといえる。その意味からも、今こそ、広い眼で現代短歌の置かれている状況を見つめるべきではないだろうか」(『短歌研究』1959年3月)

 Img213
「歌会始は誰のものか」『短歌研究』1959年3月号

 また、翌月4月号で、水野昌雄は「敗北の記録を超えるために」において、歌会始の根本的矛盾は選者たちがすぐれた歌を選ぼうとするほど、天皇制のために役立つことによつて非文学化せざるを得ないとの指摘をしている。さらに、5月号では、秋村功が「道化師を操るもの」を寄せ、1月1日の新聞に(昭和)天皇の「御製」が掲げられているの目の当たりにして、暗い回想、悲観的な行方、現状への激しい憤懣という複雑な気分に包まれたという。「皇室のプライベートな慶事がそのまま庶民のめでたさに通じるかのごとく錯覚させるむなしい報道」によって、「現在の天皇には親近感に似た尊敬の念さえもつ」という庶民像が形成されてゆく。そんな中で「年に一度、天皇が主催する文学の祭典に、日本の文学の源泉である短歌をもつて」のぞむとする選者の木俣に限らず、選者たちは「誰かが作りあげた筋書きの上で踊つている悲しい道化であるかもしれない」とする。では、どうすればいいのかについて、歌会始に応募する2万人以上含む日本人の精神構造を、より合理的でより自主的な判断力をもつものへと変容させる重要性を指摘する。

 さらに、5月号の編集後記「読者への手紙」では、つぎのように記す。
「祝婚歌が巷にみちみちたあとにくる季節こそ、本当は注目すべきなのかもしれません。(中略)祭式の合唱隊と化したマス・メディアが合言葉をくりかえし告げているうちに、たれもが同じ受身の姿勢で無邪気に合言葉をかわしはじめる危険なムードが、戦後これくらいありありと感じられることはなかつた」(『短歌研究』1959年5月)

Img212
「読者への手紙」と奥付『短歌研究』1959年5月号

 1959年、あれから、まさに60年後の今、私たちが経験している「天皇代替わり」における時代の空気を予想しているかのように思われた。私たちは、マス・メディアは、そして歌人たちは、過去に学ぶということを忘れたしまったのではないか。
 また、5月号の「歌人の日記」において、我妻泰はつぎのようにも書いていた。現在、こんな趣旨の発言ができる歌人は存在するだろうか。
「一九五九年冬 *月*日 俺の中で天皇及び皇太子は絞殺しなければならぬ制度として俺の一部分とともにのたうつているのに、日本中は皇太子妃で他愛なくにやついている。まるでシンバッドに出てくるビニールフィルムに隔てられた一眼人のように、見えていながら俺たちは手も足も出ないのか・・・・」(「九年間の状況」『短歌研究』1959年5月)

 

 

| | コメント (0)

2019年5月25日 (土)

自治会と寄付・募金について、やはりおかしくないですか(3)日赤と皇室の関係も改めて考えたい(続)

 日本赤十字社には、年間にして、どのくらいの社資が集まっているのだろうか。平成29年度(2017年度)で日赤本社、千葉県支部、佐倉市地区の単位で調べてみると・・・。

 いずれも決算が出ている平成29年度の数字である。佐倉市地区に関しての歳出歳入などの詳細な数字は、公開されていないことがわかった。

・佐倉市地区では臨時職員を一人置いて、社会福祉課地域福祉班職員がその事務を行っている。なぜ、地方公務員が日赤の業務を行わなければならないのかも大いなる疑問である。佐倉市で集めた社資や寄付金はすべて県支部に送り、県は、毎年、全体の11%ほどを市町村に還元していることがわかった。かつては2200万以上の社資や寄付金が集まっていたが、いまは、1700万円台を推移しているようだ。人口減や自治会組織率が低迷していることも大きく影響しているだろう。

・千葉県支部では、歳入の77~78%が社資となる。前述のように歳出の11%は地元還元、13%程度が日赤本社に収められている。いわゆる運営費は、管理業務、各事業共通管理運営費などを併せてみると1億5000万円前後、歳出総額の20%程度を占める。

・一方、日赤本社では、一般会計歳入の三分の二が社資である。これが、年々確実に減少しているので、広報に努めるとしているが、足元の、地元での社資の集め方に、「自由意思」を標榜しながら、「強制」が伴っている現実を直視し、改革しなければならないはずだ。一般会計歳出を見ると、人件費・事務費などの科目では出てこない。各事業の中に組み入れているのかはわからない。総務管理費45億と、資産管理費12億などを合わせると運営費ということになるのだろうか、20%前後になることがわかった。なお、病院、血液、福祉事業は独立の特別会計とし、退職給与資金特別会計では、平成29年度は288億の積立金、264億の交付金、基金残高は465億を超えていた。

 災害への義援金は、運営・事務費などは差し引かないということであった。団体や個人からの義援金の受け皿になっているのが日赤だといえる。そもそも、戦場で、敵・味方なく負傷者の救護にあたった「博愛」精神を社是とする、1952年に厚生省の認可法人となった民間団体である。現代にあっては、政府を、国を、ひたすら「補完」するのではなく、本来の寄付文化を育て、根付かせてほしいと、願うばかりである。さらに、皇族たちの名誉職は必要なのだろうか。しかも「公務」というではないか。

日本赤十字社HPより作成

一般会計歳入決算のあらまし(平成29年度事業報告及び歳入歳出決算概要・一般会計)

・歳入総額  312億円(←平成28年度351億円)

 社資収入  209億円(←平成28年度228億円)

日本赤十字社千葉県支部HPより作成

千葉県支部の事業・活動(平成29年度事業報告書)

・歳入総額  763,166,654円(←平成28年度783,331,516円)

 社資総額  586,181,949円(←平成28年度613,994,940円)

佐倉市のHPより

平成29年度赤十字事業資金(社資)募集実績報告

・社資総額   17,531,766円 (←平成28年度17,864,541円)

 一般        16,913,966円 (←平成28年度17,249,341円)

 法人          617,800円 (←平成28年度   615,200円)

 皆さまからお預かりした赤十字活動資金(社資)につきましては、全額を日本赤十字社千葉県支部へ送金を行いました。

<問い合わせ>
 日本赤十字社千葉県支部 電話:043-241-7531
 日本赤十字社千葉県支部佐倉市地区 電話:043-484-6135
 (佐倉市福祉部社会福祉課地域福祉班内)

 

 

 

| | コメント (0)

2019年5月 4日 (土)

憲法記念日にふたたび~『あたらしい憲法のはなし』

 わが家にある『あたらしい憲法のはなし』は「昭和22年8月2日翻刻発行」である。仙花紙というのか、用紙はすでに茶色、表紙もご覧のように、すすけて、その綴じも今にも崩れそうである。これは、1933年生まれの次兄が、疎開先の中学校から、家の近くの立教中学校に編入して間もないころ、使用した教科書だったのか、裏表紙には、ローマ字のサインがあり、校名や三学年という表示もある。池袋の実家が建て直されるというとき、物置きから拾って!きた記憶がある。兄のところでなく、私の手元にあるのも不思議な気がしているが、すでに亡くなって久しいので、尋ねるすべもない。あらためて、読んでみた。この本は、中学校一学年用の教科書として作られたが、兄たちは、明らかに三学年で使用していたことになる。1950年には副読本となり、朝鮮戦争が始まって以降、使用されなくなった。教育現場では、ほんとに短い期間しか使用されないテキストだったわけである。

20195img154-2

Img182

   頁をそっと開いていくと、ところどころに、兄の几帳面なこまかい字の書き込みがある。第一章「憲法」という概説部分2~3頁をスキャンしてみた。鉛筆HBかHでの書き込みか、非常に読みにくいのだが、

20195img154-1

・2頁の右肩には「世界各国共通ニ「最高法規」トハ憲法ヲ云フ」(旧かな!)と読める書き込みがあり、

・3頁の右肩には「個人の人間としての基本的権利」とあるのは、文中の「基本的人権」の説明なのだろうか。

・頁下には「第二次世界大戦死者5000万人」と書かれているのは、すぐ上の文中に「こんどの憲法にも、あとでおはなしするように、これからは戦争をけっしてしないという、たいせつなことがきめられています。」とあるので、先生が話したことなのか、自分が何かで知ってメモしたものなのか。

・左肩には「憲法の歴史 (欽定)→(國民)」とあるが、下では、明治憲法とはちがい、「こんどのあたらしい憲法は、國民がじぶんでつくったもので、・・・」との一文があった。

 「あたらしい憲法」を学ぶ教師と生徒の熱意と期待が伝わって来るようであった。ちなみに、第五章「天皇陛下」を開いてみると、実に、興味深いことが書かかれているではないか。

 こんどの戦争で、天皇陛下は、たいへんごくろうをなさいました。なぜならば、古い憲法では、天皇をお助けして國の仕事をした人々は、國民ぜんたいがえらんだものでなかったので、國民の考えとはなれて、とうとう戦争になったからです。そこで、これからさき國を治めてゆくについて、二度とこのようなことのないように、あたらしい憲法をこしらえるとき、たいへん苦心をいたしました。ですから、天皇は、憲法で定めたお仕事だけをされ、政治には関係されないことになりました。(15頁)

 そして、16頁には、次のような挿絵を添えて、「日本國民統合の象徴」を説明している。17頁の末尾では、つぎのように締めくくっている。執筆者の「苦心」が伺われような文章ではあるが、敗戦までの天皇の位置づけが、こんなにも不正確だったとは知らなかった。政治的権能を持たないようにしたのは、「ごくろう」がないようにとの理由付けだったのには、いささか驚きもしたが、GHQ占領下においても、天皇の戦争責任への言及がここでは皆無であったことを知るのだった。

  天皇陛下は、けっして神様ではありません。國民と同じような人間です。ラジオのほうそうもなさいました。小さな町のすみにもおいでになりました。ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、國をおさめてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません。これで憲法が天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。(17頁)

 Img183_1

 

 

 

| | コメント (0)

2019年5月 3日 (金)

「天皇の短歌」と代替わり~憲法記念日に考えたい

 近頃は「来たァ~」なんて言うのは、すでに古い?!代替わりの前日4月30日の新聞、わが家の購読紙のうちの二紙に、やはり天皇・皇后の歌が出たのである。
 『朝日新聞』は、一頁全面の上半分に「天皇陛下の歌」、下半分に「皇后美智子さまの歌」として、数枚の写真とともに各二十首が配されている。「世のうつろい見つめ筆とり」と題して、リードには「戦争の記憶、平和への願い、国民と家族への深い思い。天皇皇后陛下は日々、移り変わる社会を見つめ、率直な気持ちを歌に込めてきた」とある。そして5月1日には同じ一頁全面に「世を思い詠む 令和へ続く歌」と題して「新天皇陛下の歌」「新皇后、雅子さまの歌」と各二十首が載っていた。そのリードには「外国訪問先での交流、震災被災地への思い、長女愛子様の成長。新天皇、皇后両陛下は折々の出来事を歌にしたためてきた」とある。誰の選択の結果なのかはわからないが、解説がないのがせめてもの救いだった。最近、宮内庁では、マス・メディア向けなのか、歌会始の歌に、天皇夫妻はじめ一部の皇族の歌に解説をつけているのだ。

Img173-2

朝日新聞、2019年4月30日

Img177

Img176
朝日新聞、2019年5月1日

 『東京新聞』は、1頁の3分の2を使って、「心映す歌」と題して右側に「被災地へ」として天皇と皇后の歌を2首づつ、左側に「戦没者へ」として、天皇・皇后の歌を2首づつならべている。歌の背景には、「阪神大震災からの復興の象徴として皇居で育てられた『はるかのひまわり』」の写真と「大戦中、追い詰められた民間人が次々と身を投げたサイパン島北部のバンザイクリフ」の写真があしらわれている。そして各歌の下には、80字前後の解説が付せられている。そのリードには、「天皇、皇后両陛下は、折に触れて数多くの歌を詠まれてきた。陛下が模索されてきた象徴天皇像とはどのようなものであったのか。象徴天皇のとしての活動の核心部分ともいえる被災地お見舞いや戦没者慰霊を詠んだ歌の中から平成という時代を表す八首を二〇〇四年から歌会始の選者を務める永田和宏さん(七一)に選んでもらった」とある。永田は、この『東京新聞』に一年以上前から「象徴のうた 平成という時代」と題して天皇夫妻、皇太子夫妻の歌を中心に、毎週1首、その背景とともに解釈と鑑賞を続けてきた歌人でもある。4月23日、第63回をもって連載は終了した。いわば永田和宏による「謹解集」といってもよく、その集大成が、この日の「八首謹解」ともいえるのではないか。

Img173-1
東京新聞、2019年4月30日

 Img179 
東京新聞、2019年4月16日、第62回は、皇后の今年の歌会始の「今しばし生きなむと思ふ寂光
に園の薔薇のみな美しく」が取り上げられ、このシリーズの最終回の4月23日、第63回は天皇の「贈られしひまわりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」であった。記事本体はカラーである。後掲の写真「短歌研究」4月号のグラビアもこの2首が見える。
 

  日本国憲法上の象徴天皇制において、とくに国民統合の象徴としての天皇の地位は世襲であり、多くの基本的人権を奪われた存在は、国民主権、基本的人権とくに平等という基本条項との齟齬は明白で、今回の代替わりで、少しは注目され始めた。しかし、政府・政党、メディア・企業と一部の国民が、憲法自体が持つ矛盾について、多くは自覚的に目をつむり、触れようとはしない。1945年敗戦後の占領軍アメリカと日本政府による政治的妥協の産物として残された制度であったことを、いま、思い返すチャンスでありながら、古来の伝統や文化にことよせ、新・旧天皇の足跡や人柄への最上級の礼賛を重ね、代替わりの慶祝ムードを盛り上げているのである。 新しい元号になったからといって、「新しい時代」が来るわけもなく、そんな幻想を率先して振りまいているのが、大方のメディアである。

 そうしたムードづくりに大きな役割を果たしているのが、憲法に規定のない宮中祭祀と行幸啓であったのではないか。国事行為ではありえないから、いずれも、公的行為として、執り行われてきた。「宮中祭祀」といえば基本的には宗教的儀式で、国民にとっては、いかにも異様で、ときにはグロテスクにも思える姿をさらすことになる。そこは、控えめにと、秋篠宮による「大嘗祭は身の丈で」発言につながったのではないか。行幸啓については、国民に「寄り添う」、戦争や災害の犠牲者へ「祈る」という見える形で、年々「拡充」してきたのが、平成天皇夫妻だったといえないか。その「務め」が身体的にも果たせなくなったからと「生前退位」表明になった。

 私が冒頭にあげた「天皇の短歌」は、先のムードづくり、しかも文化的な香りのする手段の一つとして、これまでもしばしば登場した。毎年一月の「歌会始」を舞台として、国民を巻き込んだイベントに、現代歌人や「文化人」たちも「ひそかに」呼応し続けている。

 今の制度の中で、短歌を詠むのが好きな皇族たちが、歌を詠むのもいいだろう、歌会を開いたり、指導者を招いたりするのもよいとしよう。しかし、国民を巻き込まないでほしい。「歌会始」を皇室と国民を結ぶ文化の懸け橋のような言い方をする歌人たちもいる。開かれた皇室の典型のようにありがたがる人々がいる。短歌コンクールの一つ考えればいいという歌人もいた。しかし、国民が応募する歌は、天皇に捧げる「詠進歌」なのである。天皇が国民統合の象徴であることを貫徹するならば、上下の関係はあり得ないのではないか。

 今回の退位・即位の儀式での「おことば」の受け渡しの光景を見ても、その内容を見ても、多くの国民から見れば、異様な言葉遣いでありながら、あまりにも当たり前のことを述べているにすぎない。退位の儀式では、天皇の「おことば」に先立って、安倍首相は、国民の代表として感謝と敬愛の意を述べ、即位の儀式での首相の言葉は、新天皇のあとに、毎日新聞では「安倍首相発言」、朝日では「首相国民代表の辞」を述べたとして、その要旨が記事に見られ、東京新聞は「首相発言全文」が掲載されていた。その扱いがバラけているのにも注目する。

 『毎日新聞』では今のところ、平成天皇夫妻の歌をまとめたという記事は見られないのだが、4月23日には、毎日歌壇の選者で、2006年から歌会始の選者である篠弘が、今年の歌会始の天皇夫妻の歌を引用して、「歌のご相談で御所にうかがいました」とも述べる「両陛下とわたし」という連載コラムに登場している。4月8日の「余禄」では、天皇の昨年の歌会始の歌「語りつつあしたの苑を歩みゆけば林の中のきんらんの咲く」を引用、天皇夫妻の絆をたたえている。

 そういえば、けさの『東京新聞』で、長谷部恭男が日本国憲法において封建制秩序が残っている天皇制は、国民一般の保障が及ばない「身分制の飛び地」だとしていた(「天皇・皇族に基本的人権は」)。また、沢藤統一郎弁護士の「憲法日記」(2019年4月29日)によれば、「天皇制は、憲法体系の番外地」だと講演で述べたという。「飛び地」や「番外地」であるならば、私たち国民は、まず日本国憲法の基本的条項から大きく外れる、その「番外地」や「飛び地」をなくすよう、みずから努力しなければならないのではないか。

 また、短歌雑誌なども、この代替わりを商機と見たのか、万葉集特集、御製・御歌特集だとか、ざわついているのだが、短歌の愛好者や愛読者の心をとらえるのだろうか。

20194img151-1
短歌研究、2019年4月。グラビアから

Img181

20194img149
短歌研究、2019年5月、表紙及び広告より

20194img149-1
短歌、2019年5月。広告より

| | コメント (0)

2019年4月 2日 (火)

新元号発表狂騒でシャッフルされてはならないこと

   きのう、4月1日、午後の数時間、家を空けていたが、10時半頃から、新聞やテレビを飛び飛びに読んだり、見ていたりした。元号発表が何で「秒読み」までされて報道されなければならないのか。政府は、これまでの、山と積まれた失政の数々を、この政治的ショーという茶番で、シャッフルしたい思いがありありで、うんざり感にさいなまれた。マス・メディアは、分かっていていながら、その茶番に乗って、これでもか、これでもかと、どうでもよい情報を流す。アナウンサーやコメンテイターたちも、皇室や元号に詳しい<専門家>たちも、菅官房長官発表時と安倍首相談話時の背後のカーテンの色が違うとか、緊張した息遣いだったとか、一瞬、表情が緩んだとか、などなど、いい加減やめてほしいと思った。記者たちの違った質問に、首相は、元号の出典や込めた思い?として、国語の教科書や参考書程度のフレーズを間違えないように繰り返すだけであった。

 出典が「国書」というけれど、漢文と漢字による万葉仮名の和歌で成り立つ万葉集だし、万葉集よりも数世紀前の中国の詩文「帰田賦」(張衡)に「仲春令月 時和気清」の一節があり、当然万葉集もそれを踏まえているので(「座談会・新元号のメッセージ」『朝日新聞』、「初の酷暑万葉集出典 中国古典踏まえ」『東京新聞』、「中国古典の影響残す 『文選』孫引きの指摘も」『毎日新聞』ともに4月2日)、「国書」云々を強調すること自体、ミスリードしていることになろう。「初めての国書から」とする分野外のノーベル賞受賞者やワケのわからない出で立ちの大学教授が、有識者懇談会の模様を語っていたが、その舞い上がっている姿は見苦しかった。

 この出典に関して、日本文学研究者のローバート・キャンベルと歌人の岡野弘彦が、「元号」自体を前提にしてのことだと思うが、ともに、国書か中国の古典かにこだわる必要はない、と語っている(『東京新聞』)4月2日)のは、その限りでは、日本文学の成り立ちから言っても当然のことだと思った。

 安倍首相は談話で、「(万葉集は)日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、わが国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書」というけれど、 日本の文学史において、「天皇から庶民まで」の歌集として「万葉集」像がクローズアップされるのは、たかだか、1890年以降のことである。「読み書きを知らない人たちが口頭で謡ったり、唱えたりしたものにしては、形式が整いすぎてはいないだろうか」と東歌や防人歌の作者に疑問を呈する研究者もいる(品川悦一『万葉集の発明』)新曜社 2001年、82p)。定型短歌は文字社会の産物であり、文字は文明の産物であり、列島社会の文化でもなかったことから「中華文明を継受した支配階層が発達させた文化」と考えるからである(前掲書84p)。

 幅広い階層の人々の歌を収めたという万葉集が、戦争に立ち向かう全国民的な民族意識、ナショナリズムの高揚の必要性と正岡子規らによる和歌革新運動とがあいまって、万葉集教育の普及、万葉集研究に支えられ、「国民的歌集」になっていった歴史を知る必要があるだろう。マス・メデイアの役割も欠かせない要素であった。この「国民的歌集」は、日中、太平洋戦争中にも、もてはやされることになる。学徒出陣世代の方から、斎藤茂吉の『万葉秀歌』上下(岩波書店 1938年)を愛読する者が多かったと聞いたことがある。

 一過性で終わるとも考えられるが、現在、書店では万葉集関係書のコーナーができたり、出版社では増刷を決めたりしていると、4月2日の夕刊各紙が伝えている。また、歌人たちが、出番とばかりに、メディアをにぎわすかもしれない。

 そんな、騒々しいなかで、「えッ、きのうから、令和に替わったんじゃないの」という人も現れるほどだが、4月2日の朝刊の片隅には、「森友問題 特捜部に起訴要望」(『朝日新聞』)、「公開の法廷で白黒を 森友不起訴不当受け申立書」(『東京新聞』)の記事があった。森友問題での公文書改ざんをめぐり、佐川元局長らの不起訴処分を受けて、市民団体が大阪地検の検察審査会に起訴を求めて申し立てをしていた。先週、佐川元局長らの不起訴相当、一部不起訴不当の議決を受けた、その市民団体が、さらに大阪地検特捜部に厳正な再捜査を求めたという内容で、いくつかの市民団体が大阪地検の検察審査会に申し立てをしているがそのうちの1件だった。地道に、森友・加計問題の幕引きに異議を唱え、闘い続けている市民たちもいる。

 天皇代替わりの「新しい時代」のどさくさと演出で、数々の違法・不法・不当・不都合な事実をチャラにしたい政府、許してはいけない。

Dscn2417

大谷石の塀と側溝のすきまにスミレが、今年が初めてか

| | コメント (0)

2019年3月12日 (火)

改元奉祝のなかで、「天皇依存」の系譜(2)そして、歌人たち

天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ(吉川宏志)
 『短歌』201110月 『燕麦』2012年所収)

   東日本大震災による原発事故の直後に、吉川宏志が発表した作品である。当時、結句の「恥じぬ」の解釈をめぐって、若干の論議が交わされた。「ぬ」は完了なのか、「打消し」なのか、つまり「恥じた」のか「恥じない」のかどちらなのかと。私は、それまでの吉川の作品や発言から当然、「恥じた」として読んだ。「打消し」なら「恥じず」とするのが自然だからとも思った。作者は、もちろん「完了」の方だと明言し、近年の平井弘とのインタビューの中で、吉川自身、この一首について、つぎのようにも語っている。

「天皇に『原発をやめよ』と言ってもらおう、という発想自体に、天皇を利用しようという心根があるわけでしょう。それが恥ずかしい、という歌なんですよ。ただ、今の状勢を見てたら、天皇が言ってもだめかもしれないですね。今の政権は、天皇の意志なんてまったく無視しているわけでしょう。」(特集 平井弘インタビュー「恥ずかしさの文体」(後編)『塔』2017年4月) 

   また別の場所で、吉川は、国旗国歌法(1999813日に公布・施行)が成立したころは「〈天皇制〉を厳しく否定する論調が、歌壇では特に強かった」という認識で、当時の歌壇、時代の空気を思い起こしながら、つぎのように記す。 

 戦争体験などをして、非常に嫌悪感をもっている人たちが存在することもよく理解している。そういった人たちが、反対するのもよくわかる気がする。けれども、「君が代を歌わない権利」がある一方、「君が代を歌う権利」があることも明らかだろう。だから、卒業式などで歌うことを強制することには反対だけれど、逆にあまりに過剰に君が代を否定することにも違和感をもつ。君が代をたまに歌ったくらいで、異常な国家主義者になるわけでもない。君が代を肯定する善男善女は、世の中に無数にいるだろう。現在では、非常に激しく君が代を非難する態度も、社会的にあまり共感されないのではないだろうか。

 左翼的な人々(の一部)は、現実の天皇制を廃止すれば良いのだ、と考えた。しかし、そうではなくて、権力と責任の存在が曖昧なシステムそれ自体に、危険性は存在していた。おそらく、現実の天皇制を批判しても、何も変わらない。
 
むしろ、今年の天皇陛下の年頭のお言葉「東日本大震災から2度目の冬が巡ってきました。放射能汚染によりかつて住んでいた地域に戻れない人々や,仮設住宅で厳しい冬を過ごさざるを得ない人々など,年頭に当たって,被災者のことが,改めて深く案じられます。」
 
を聞くと、原発事故を忘れてしまったかのような、現在の首相や政府の発言よりも、ずっと心に沁みてくる。
 
 いろいろな意見はあると思うが、私は、単純に天皇制は悪だとは考えない立場である。
 (①②とも「短歌と天皇制について」『シュガークイン日録3』20130122日) 

  「国旗国歌法」の条文には、強制、義務化の文言はない。当時の小渕首相はじめ、議会の質疑でも、強制・義務化はない、としてスタートした。その後の経緯は、どうだろう。教育現場では、学習指導要領で縛り、職務命令という形で、「君が代」斉唱時の不起立、ピアノ伴奏拒否などにより受けた処分や不利益は、教師たちの思想信条の自由を侵すものではないか、との訴訟で各所でなされた。管理者の裁量の範囲内であり違憲とは言えない、という判断が定着しつつある中、処分が重すぎるという判決もあったが、まだ係争中のケースもある。吉川は、①において、「強制することには反対だけれど」などと、天皇みたいなことを言う。「君が代をたまに歌ったくらいで、異常な国家主義者になるわけでもない。君が代を肯定する善男善女は、世の中に無数にいるだろう。」とは、どういうことか。統制や弾圧は、些細なことから始まり、それによる萎縮や自主規制が強まり、息苦しくなって、気づいたときは、すでに抵抗の手段を奪われていたという歴史を、私たちは教えられたり、学んできたりしたと思う。

 

 政治の世界に限らず、時代はすでに、数の力で、少数派や異論を無視し、排除する構図が出来上がりつつある。「寛容」や「多様性」の旗を掲げるならば、日常的な談論風発、百家争鳴、混沌こそが、民主主義の基本ではなかったか、とも思う。自分と異なる意見が多数を占め、数の力が及ばないとき、「面従腹背」と言ってしまうのか。吉川のように「天皇を利用しようとする心根」を「恥じた」のならば、いまは“リベラルで、いい人”の天皇を持ち出すのは、フェアでない。②で言うように「権力と責任の存在が曖昧なシステムそれ自体に、危険性は存在していた。」とするならば、その「曖昧なシステム」に「天皇制」が寄与していなかったかを検証する必要もあるだろう。

 「単純に天皇制は悪だとは考えない立場」をとるのは自由だが、その「危険性」に本気で向き合おうとするとき、「現実の天皇制を批判しても、何も変わらない。」とするのは、いささか「単純」すぎないか。

  たまたま、吉川は、自分の意見を表明しているが、天皇依存の歌人も多いのではないか。逆に、天皇の短歌や「おことば」が、過大に評価され、利用されているのを憂慮している歌人もいるのではないか。いまこそ、この「改元」の奉祝ムードの只中でこそ、大いに声を上げるべきだろう。

24img111 レイアウトは異なるが、2019年2月24日朝刊各紙に掲載された政府広報

24img108_1
25img110_3
商魂たくましい、広告の数々・・・。上が「朝日新聞」2月24日朝刊、下が同紙2月25日朝刊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

より以前の記事一覧