2018年10月11日 (木)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(6)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(3)

『八雲』創刊号には、短歌の創作欄には、五島茂、佐藤佐太郎、鈴木英夫、香川進、坪野哲久、岩間正男、堀内通孝、岡野直七郎、長谷川銀作、橋本徳寿、山下陸奥、筏井嘉一、と12人の第一線の歌人の名が並ぶ。この辺が、編集陣の久保田、木俣修らの微妙なバランス感覚が働いているところだろう。それにしても女性が一人もいないと思ったのだが、この作品欄とは別に、「短歌ルポルタージュ」と冠した、挿絵入りで阿部静枝「進駐軍のゐる風景」10首が載っていた。その中に次のような3首があった。私自身が、その晩年に指導を受けた歌人でもある阿部静枝((18991974)は、戦前の無産運動で活動、弾圧で挫折、太平洋戦争下では翼賛に傾いた歌人だったので、3首目の決意は、おそらく本気であったのだろう。前の2首は、やや、明確さに欠けるきらいがある。「侘しむ民」の一人としての作者自身なのか、その心変わりをどう受け止めているのかなど、やや整理しかねているようにも思えた。しかし、「大内山」、「宮城」、「雲の上」という表現ではあるが、「天皇」を詠んだ作品として記憶されてもいいのではないか。

米軍ゐてともしかがよふ丸の内大内山のみ暗く侘しき
宮城の小暗く深きをたふとまず侘しむ民の心変わりや
雲の上に主権をおきてひれ伏せる暗愚の歴史閉ぢて起つべし
(阿部静枝)(八雲 創刊号 194612月)

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『八雲』 創刊号(1946年12月)より

 その後の『八雲』には、「天皇制」に言及する評論がしばしば登場する。たとえば、以下の3点をみてみよう。

①西郷信綱「日本文学における叙事詩の問題」
(八雲 19476月)
②岩上順一「歌誌批判・不二・民草について」
(八雲 19479月)
③渡辺順三「歌誌批判・納得できぬこと―短歌人・潮 音・橄欖について」
(八雲194711月)

 ①では、「和歌が一千年以上の時間の流れをくぐりぬけて存續し、今なおわれわれの意識を多少とも制約しているその契機が、天皇制を存續せしめたと構造的に同じ契機であることを私はひそかに信じている。すなわちその連續性は、日本の社會の停滞性の表現以外の何ものでもない」とした上で、「封建的幽暗さから解放されて近代的に組織化され、新しい秩序の到来を呼ぼうとして逃走している民衆の力」というものを素朴に是認しながら、「現代日本に新しい叙事詩の可能性を信じたい」としている。

 ②では、右翼の活動家として何回か投獄もされ、歌人でもあった影山正治(19101979)が、復員後『ひむがし』(194111月創刊)の後継誌として『不二』を創刊(19465月)、万葉浪漫主義を唱えていた影山銀四郎(19081978)が栃木県で『民草』を創刊した(194612月)。その熱烈な天皇制護持は、開戦も敗戦もすべての責任を「聖慮」「神慮」に帰することになり、天皇を苦しめ、人民の人権と相渉るのか、と憂慮している。

 ③は、太田水穂の『潮音』は、敗戦をはさみ、辛うじて休刊を免れ、斎藤瀏の『短歌人』は、19464月に、吉植庄亮の『橄欖』は194612月に復刊しているが、「戦争中は神がかりの祝詞のような文書を書き散らし、戦争に協力せぬものを国賊扱いにしながら、終戦後はまたケロリとして元の雑誌を復刊し、反省も自己批判もなく、歌壇に座を占めているなどは一體人間的な神経があるのかどうかさえ疑いたくなる」と糾弾する。

 西郷(1916-2008)は、斎藤茂吉に傾倒する、当時気鋭の古代文学専攻の研究者であり、岩上(1907-1958)は、戦前から活動する文芸評論家で、治安維持本で投獄されたこともあり、敗戦後は新日本文学会の創立にかかわり初代書記長となっている。渡辺(18941972)は、窪田空穂に師事、口語短歌『芸術と自由』の編集にもたずさわったが、無産者歌人連盟、プロレタリア歌人連盟を経て、一度ならず検挙されている。敗戦後19462月には新日本歌人協会を結成『人民短歌』を創刊している。

こうした論調に先立って、中野重治は、別のメディアにあって、もっと端的に、短歌の政治的利用について言及している。「政治的手段に藝術を用ゐるといふのは、日本の天皇政府がやってきたことで」、その最たるものが歌会始だといい、「天皇の宮中歌會からミラミッド形にさたつて来るあれほど短歌を政治的手段として悪用したものはほかにない」とも語っていた(「文学者の国民としての立場」『新生』19462月)。

また、作品面で、天皇制・天皇への批判がいささかでも垣間見られるものをあげてみよう。参考のため執筆者の生没年を記しておく。

敗戦の責めの所在を見きはめつつ君をうやまはずまた否定せず

神にあらず人にも似ざる旅を行き新しき代の感覚のずれ

(坪野哲久、19061988)(人民短歌194612月)

切羽つまりしわれらが今日のまなこもて天皇をみる遮ることなかれ

(坪野哲久)(短歌往来19482月)

天皇がただすなほに詫び宜らすことすらなしに何革まるべき  

(香川進、19101998)(人民短歌194612月)

奉安殿壊つ清しさや古きもの崩えゆく兆しまのあたり見つ

新憲法かにかく成れど「象徴」の模糊たる二字にわが怡しまず

(安藤佐貴子、 19101999)(短歌研究19473月)

とどろきに陛下応ふと傍観しこの日のさまを書きし記事あり

(宮柊二、19121986)(短歌往来194711月)

 しかし、その一方で、『日本短歌』194712合併号には、「歌会始―選ばれた十五首」と題した記事が載り、4月号には、5人(佐佐木ほか千葉胤明、斎藤茂吉、窪田空穂、鳥野幸次)の選者詠とともに、佐佐木信綱の「詠進歌を選して」を寄稿されている。斎藤・窪田・佐佐木という民間歌人が選者として初めて参加した「歌会始」であった。そこで、信綱は、19471223日、「御前に於いて」披講される感激を記した後、内容上の特色として、新憲法、祖国再建、復興など時代を反映した歌が多かったことと、仕事や職業についてなど生活を歌った歌が多かったことをあげている。

『八雲』の土岐善麿の五十首詠「初夏身辺抄」(19478月)には次のような歌が並ぶ。

たたかひをいかに苦しくおぼしけむ平和の民とともにいますべし

銀のナイフ銀のフオクのかがやくをもろ手にとりてつつましくをり

問はすことみな重要なる課題にしていみじきかな文化国家の元首

(土岐善麿、18851980)(八雲19478月)

 その後の『八雲』の「土岐善麿・木俣修対談・短歌の青春時代」において、「歌会始」ではないが、学士院賞受賞、御進講、御陪食のことを問われて、土岐はご馳走になった鯛の蒸焼き、大きなビフテキ、スープ、灘の生一本などの美味にまで及び、昭和天皇、高橋誠一郎文部大臣らと親しく話しあったこと、進講に対しては、天皇の質問も学者的で「科学者としての陛下のおきもちに皆動かされた」と、感激のほどを語っている(八雲 19481月)。

おほきみもたみくさともにたたかひのわざはいたへてすぐさせたまふ

ばくだんがこのくにつちをこなにすともきみとたみとをひきさくべしや

(金田一京助、18821971)(沃野19472月)

神にあらぬすめろぎなればわれ等また一布衣(ふい)としておんまえにゐむ
(吉井勇、18861960)(短歌往来19477月)

 

 

 こうしてみると、天皇制・天皇に批判的なグループの歌人は1910年前後の生まれで、人間宣言後も天皇、天皇制により一層傾斜してゆくグループは、19世紀生まれといってよく、世代的にも、阿部静枝、坪野哲久世代が中間にあたりで、その作品には、ややあいまいな姿勢、表現が見えるのも興味深い。

 これまでは、著名な歌人を中心に読んできたが、結社などに拠る、一般の歌人たちはどうであったのだろうか。当時、いまの私と同じような視点で作業を進めていた歌人がいる。柳田新太郎(19031948)は、著名歌人に限らないで、広く、結社誌の作品欄を渉猟し、天皇・天皇制について詠んだ歌を収集し、若干の解説を試みていた。以下の仕事も、『短歌往来』創刊時より「短歌紀要」という、いわば、歌誌展望のような仕事の一環であった。もともと、若くして、既成の短歌の革新を目指してプロレタリ短歌運動、新興短歌運動にかかわった。その後は『短歌月刊』を創刊、歌壇ジャーナリストとして活動していた。戦後は、この「短歌紀要」などを執筆していたが194811月、急逝している。柳田は、この記事の中で、資料探索の成果をそのまま提示することを自認していたが、無名有名を問わず、歌人たちが、素朴で迷妄な、「頑固な無条件的な天皇制支持者」となっていることについて「現役の、しかも代表的な歌人たちがああまで無批判的なうごき、今なほ時を得次第再び同じ動きを繰返さうとする気配が見える(これはどういふうことだらうか。歌人たちが終戦以来今日までおよそ三年、ほとんど作品の上に思想的甦へりの苦悶を示さないばかりか、苦悶らしい影さへも見せずにゐることが、外部にこのやうな形で反映しているのではないか。以下略)」とか、「歌人たちは数人をのぞいて知名の歌人の殆どが天皇制及び天皇についての作品を示してをらぬことだが、このことも一つの問題であらう」とか、かなり辛らつな批判もしていた(『短歌往来』19482月、44頁、46頁)。しかし、その一方で、さまざまな立場、さまざまな環境の中で、天皇制、天皇について詠まれた、一般歌人の多数の作品の中には、「歌の世界、歌によつて自己表白を遂げる人びとの意識も、無血革命の進行の度にともなつてそれはそれなりに、またそれが緩慢な速度であらうとも、徐々に移り変りを遂げてゆくのではなからうか」と、願望というか期待を持つて結んでいる(『短歌往来』19483月、47頁)。

柳田新太郎「天皇制および天皇と短歌」短歌往来19482
柳田新太郎「宮廷の歌と市民の歌」短歌往来19483

 柳田が、没後70年の現在の歌人たちの天皇制・天皇への姿勢を見たら、何を語るだろうか。(つづく)

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2018年10月 8日 (月)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(5)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(2)

 

吾が大君大御民おぼし火の群が焼きし焦土を歩ませ給ふ

(佐佐木信綱)(19459月号)

大君の御楯と征きし兵士らが世界に憎まるる行ひをせり

(杉浦翠子)(194510月号)

かすかなる臣の一人とつつしみて御聲のまへに涙しながる

(佐藤佐太郎)(194510月号)

失ひしもののすべてにいやまさる玉のみ聲を聞きまつるかも

(五島美代子)(194510月号)

現つ神吾が大君の畏しや大御聲もて宣らせたまふ

(窪田空穂)(194511月号)

 

いずれも、『短歌研究』からの抜粋であり、以下は、815日直後の新聞に発表された作品である。

大君の宜りたまふべき御詔かは 然る 御詔を われ聴かむとす

(釈迢空)(朝日新聞1945816日)

聖断はくだりたまひてかしこくも畏くもあるか涙しながる

(斉藤茂吉)(朝日新聞1945820日)

 これらの抜粋の仕方に異議を唱える者もいるかもしれないが、私は、有力歌人たちのこうした作品が、ともかく敗戦後の短歌の出発点であったことには間違いない、と思っている。

1946年の歌会始、「御題」は「松上雪」で従来通りの形式で執り行われ、著名歌人たちが、この「御題」で詠んでいるのが、あちこちの雑誌で見受けられた。19461月より川田順は、皇太子(明仁)の作歌の指導にあったっているという記事が消息欄に記されている(短歌研究19464月)。

耐へ難きをたへて御旨にそふべしとなきの涙をかみてひれふす

(斎藤瀏)(短歌研究194612月)

天皇のとどまりたまふ東京をのがれて遠しつつましく住む

(村野次郎)(短歌研究19463月)

旗たてて天皇否定を叫びゐし口角の色蒼白かりき

(吉野鉦二)(短歌研究19463月)

萬世を貫きたまふすめろぎの宮居すらだに焼けたまひつる

(原田春乃)(短歌研究194678月)

 こんな歌も散見できるのだが、その一方で、歌壇への厳しい声も起こっていたのである。『人民短歌』のこと挙げの一つでもある、小田切秀雄「歌の条件」(『人民短歌』19463)であり、臼井吉見「展望(短歌決別論)」(『展望』19465月)などであり、とどめは、桑原武夫「第二芸術―現代俳句について」(『世界』194611月)であった。小田切は「戦時中、侵略権力の掲げた合言葉を三十一文字に翻訳したり、時局向けに自身の感情を綾づけて事足れりとした状態はもう存続する余地はない」「仲間ぼめと結社外での縄張り争いが支配的だった」歌壇や「趣味的な<作者>兼読者なぞといふものは、歌の世界から一掃した方」がよいとする。

臼井は、815日の玉音放送を詠んだ「 御聲のまへに涙しながる」、「玉のみ聲を聞きまつるかも」、「大御聲もて宣らせたまふ」などをあげ、「上句も作者も記すに及ばぬほどその発想の同一に一驚せざるを得ない」とした(本記事、冒頭の歌の下線部分を参照、佐太郎、美代子、空穂の作とわかる)。そして、1940128日を詠んだ歌、次のような歌を、作者名なしで引用し、「宣戦と降伏と、この二つの場合の詠出が、そつくり同一なのに一驚するにちがひない」として、「歌づくりにとつては表現的無力の問題でなく、実際に於て、上述の作に表れてゐる限りのものしか感じ得なかつたのではなからうか。恐らく短歌形式の貧困と狭隘を感ずるほどの複雑豊富な感動内容など持ち得なかつたにちがひない」として、「今こそ我々は短歌への去り難い愛着を決然として断ち切る時ではなからうか。これは単に短歌や文学の問題に止るものではない。民族の知性変革の問題である」と結ぶ。

一億の民ラジオの前にひれ伏して畏さきはまりただ聲を呑む 

*(金子薫園)(短歌研究19421月)

大詔いま下りぬみたみわれ感極まりて泣くべくおもほゆ

*(吉井勇)(短歌研究19421月)

 

  桑原は、現代を代表する俳人の十句と無名の人の五句を、作者名を消して並べたとき、その区別がつくか否かの問題提起をし、一句の芸術的価値判断は、困難であり、その作者の地位は芸術以外のところ―俗世界における地位すなわち「世間的勢力といったものに標準をおかざるを得なくなる」

として、俳句を「菊作り」にもたとえ、「芸術」というより「芸」というがよい、とする。「しいて芸術の名を要求するのならば<第二芸術>と呼んで、他と区別するがよいと思う」と「第二芸術」の由来を述べる。文章の末尾に、引用の十五句のうち十句とその作者、青畝、草田男、草城、風生、井泉水、蛇笏、たかし、亜浪、虚子、秋櫻子の名を明かしている。これは、俳壇のみならず、歌壇、歌人たちにもかなりの衝撃となった。

 ちょうど、「第二芸術」掲載の『世界』発売の直後、194612月、上記の小田切、臼井の短歌へ疑問を受けた形で、久保田正文は「歌人自身が、その使命と時代を自覚することのみが要求されてゐる」として短歌総合誌『八雲』を創刊するに至るのである(「歌壇展望」『八雲』194612月)。さらに、久保田は、その創刊号の「編集後記」では、つぎのように述べ、執筆者も歌人に限らず、有名・無名を問わない「五十首詠」を続け、いわば「読者吸収策」としての短歌投稿欄は設けない、と言った意欲的な編集を進めることになる。

「『八雲』は芸術的に失業した歌人の、救済機関として創刊されたものではない。それ故舊歌壇のギルド的な枠の中で、メッセンヂャアボウイの役をつとめることはしない代りに、短歌の運命を探求する公の機関たらしむことを念願する。短歌が眞に文学の一環としての生命を自覚し、芸術のきびしい途に繋がり得るか否かを實践的にこたへる試練の場を提供する使命を果たさむと志向する」(つづく)

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『世界』1946年11月号の桑原武夫「第二芸術」のGHQの検閲を受けた頁。導入部分で、国民学校の教科書に掲載されている三句の引用のうち、「元日や一系の天子不二の山 鳴雪」の一句が削除されている。残るのは「雪残る頂一の國さかひ 子規」「赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐」。ほか、後半部にも、「勝者より漲る春に在るを許せ 草田男」が削除され、関連の4行が削除されている。プランゲ文庫文書に残る削除部分が読みにくいので、『桑原武夫集2」(岩波書店 1980年5月)に収録のこの論文を確認すると、冒頭の鳴雪の俳句も、草田男の俳句及び関連の文章も削除されたままで、復元されてはいなかった。後者にあっては、削除部分に加えて、さらに数行が削除されていた。もちろん、GHQによる削除も、著作集に収録の際の削除についても一切注記はなかった。引用俳句の誤植の注記は、されていた。これはいったいどういうことなのだろうか。GHQによる削除を、容認したことになるのではないか、の疑問が残る。ちなみに、削除の理由として、二つの俳句の意味が不明確の上、後者草田男の句は、「Critical of US」であり、前者鳴雪の句は「Propaganda」となっていた。なお、この号の『世界』は、向坂逸郎「政治と経済」、恒藤恭「天皇の象徴的地位について(二)」、小林勇「三木清を憶ふ・孤独のひと」にも削除部分が記録されている

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2018年10月 7日 (日)

元号が変わるというけれど、―73年の意味(4)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(1)

 

大地のブロック縦横にかさなり

断層數知れず 絶えずうごき 絶えず震ひ

都會はたちまち灰燼となり

湖はふくれ津波(よだ)となる。

決してゆるさぬ天然の気魄は

ここに住むものをたたきあげ

危険は日常の糧となり 死はむしろ隣人である。
(高村光太郎「地理の書」より) 

 高村光太郎「地理の書」の一節である。1938年の作であるという。敗戦直後の19459月号の『短歌研究』の巻頭論文、中村武羅夫「我が國體と國土」に全編引用されていた。

懲りない面々の「どうしようもナイカク」第4次安倍内閣はスタートしたが、天皇の代替わりは来年に迫った。日本国憲法のもとでは、元号が変わっても、この区切りは、政治的には何の意味もない。しかし、政府は、国民の反応をみながら、その「代替わり」の利用価値を探っているように見える。国民にとっては、憲法上の<象徴>が代わるわけだが、実質的に暮らしには影響がない。ただ、日常的には、年号表示がややこしくなるのが予想できる。なんとしても西暦に統一しないと、すべての事務的処理も、少なくとも日本の近現代史は西暦でないと何年前の出来事かわからくなる。研究・教育に携わる人は、役所の人は、声を上げて欲しい。個人としては、元号が実働しないように身近なところから実践したい。

平成の天皇自身(サイド)は、平成最後の名のもとに、いわば駆け込み的に、いま、さまざまな行事をこなしている。被災地見舞いもその一つだが、私などは、夫妻の姿を見るにつけ、健康第一で、静養されるよう願うばかりなのだ。マス・メディアでは、「平成最後の~」「平成~」などの特集や記事を展開中であり、今後は、ますます拡散するだろう。短歌総合雑誌でもそんな記事をみかけるようになった。それで読者が増えるようには思わないのだが。

 最近、必要があって、敗戦直後の1945年~50年あたりまでの短歌総合雑誌のコピー類やプランゲ文庫のコピーを引っ張り出しては、読み直している。現在進めている作業とは直接関係のない記事や短歌作品にも、ついのめり込んで、立ち往生ということが何回もあった。占領期とも重なるこの時代、「新憲法」が少しづつ定着して行く過程で、「歌壇」や歌人たちは、「短歌と天皇制」をどのように考えていたのかが、気になりだした。これまで、短歌と天皇制をテーマにした旧拙著でも、「歌会始」に関連して触れていることはあったのだが、文献を中心にもう一度、少し立ち止まって、考えるチャンスではないかと思ったのである。

 

冒頭の詩を引用した「我が國體と國土」は、「日本の國體が比類なく神聖にして、尊嚴極まりないことは、わが國の歴史がこれを證明してゐるし、古来幾多の詩歌に依つて歌はれ、文章に綴られ、國民等しく知悉してゐるところである」で始まり、後半は「聯合軍司令部の命に依り以下一部削除」と記された後に、上記、高村光太郎「地理の書」を引用し、この詩こそ「わが本土に對する絶対的の愛敬と國體欽讃の聖なる所以を喝破してゐると言つてよからう」と結ぶ。GHQは検閲の痕跡を残さないのが原則だから、それを明記した文言を入れたまま発売に到っているのは、めずらしい例といえる。

ちなみに、9月号は、だいぶ遅れての発行であったらしい(国立国会図書館の受入印では「昭和201119日購入」となっている。10月号に、編集発行人木村捨録による記事によれば、30日遅れとある。また、その記事には、『日本短歌』9月号は発禁とあるが、16頁立てのものが国立国会図書館に納本されている)。

高村の「地理の書」の上記のような一節は、三陸の大津波や関東大震災を踏まえてのことで、80年前の地学には素人の詩人でも「日本列島」の成り立ちを知っていたのだから、東日本大震災の時に、「想定外の」とか「千年に一度の」などという言い訳は成り立たないはずであった。にもかかわらず、この日本列島は、50基以上の原発を擁していたのである。「ここに住むものをたたきあげ/危険は日常の糧となり 死はむしろ隣人である」というフレーズは、無策に近い、後追いのいまの政府の災害への姿勢であり、防災政策、対策の担当者や一部のマス・メデイアの謂いを代弁しているかのようでもある。

19459月以降、復刊、創刊されたさまざまな短歌雑誌には、疎開生活や空襲による自宅焼失、食糧難などを嘆く短歌とともに、占領軍(進駐軍)への批判や敗戦後の解放感などが歌われた短歌であふれる。GHQによる検閲は、とくに、占領軍の横暴に触れた作品・文章には神経をとがらせ、米兵の性風俗や「植民地化」という文言には、強く反応を示している。一字、あるいは上句、下句がそっくり削除され、空白にしたままの検閲の痕跡を残した短歌が、いろんな雑誌で、散見できる。検閲の対象は、地方のミニコミ誌にまで及ぶが、「痕跡を残さない」検閲がどれほど徹底していたか、は今後の課題かもしれない。

そんな中で、天皇を詠んだ短歌、天皇制に触れる論評は、決して多くはないが、見受けられるようになる。(つづく) 

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『短歌研究』1945年9月号の、中村武羅夫「わが國體と國土」から。上は、GHQの検閲で削除が命じられた箇所は黒塗りになっている。下が、実際に印刷・発売された雑誌の該当部分だが「聯合軍司令部の命に依り以下一部削除」と明記されている。
ちなみに削除された文章は以下の通り。「既に今度の戦争に至って、われわれは二十歳になるやならずの多くの若き武人たちが、天皇の御為に、皇国護持のために□□きながら神となつてゆく姿を、眼の当たり見てゐるのである。日本ならずして何處にこのやうな尊い事実を□□すべき國柄の國家があるであらうか。」とまで読める。

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2018年8月25日 (土)

元号が変わるというけれど、73年の意味(4)<侍従日記>公開記事と1946年元旦詔書

 

このシリーズ記事の小休止として、思い出話に少々のめり込んでしまった。敗戦直後の池袋の小さな薬屋で育った子どもとして、なんとか記憶を呼び起こし、ネットの力も借りながら、記録にとどめておこうと思ったからだ。調べていくと、なかなか興味深い事実も知ることになり、なんだか楽しみが増えたような気持だった。 

ところが、823日の『東京』『毎日』新聞を見て、この時期に、「またか」と唖然とした思いに駆られたのである。というのは、「共同通信」が入手したという「小林忍侍従日記」の一部が公表されたのだった。共同通信が入手したということもあって、『東京新聞』が張り切っているのだが・・・。 

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2018年8月23日『東京新聞』
 
『東京新聞』
(823):一面トップ/「昭和天皇85歳、大戦苦悩」「長く生きても戦争責任いわれる」 

三面トップ「昭和天皇 戦争への思い、深く」「訪米後、世評に涙」 

二八面「昭和天皇 生身の姿赤裸々に」「沖縄訪問 終生望む」 

『東京新聞』(824日):三面「平成即位礼政府対応を批判」 

六面 共同通信社内での昭和史に詳しい二人の対談を、ほぼ全面に掲載 

半藤一利(作家)「宮中の日常 リアルに記録」 

保坂正康(ノンフィクション作家)「人前で涙 帝王学からの解放」

 『毎日新聞』(823日):一面「戦争責任言われつらい」「侍従日記 晩年の昭和天皇吐露」
 二八面「昭和天皇の苦悩克明に」「侍従日記『細く長く生きても』」保坂・半藤二人のコメント
 
 ちなみに『朝日新聞』夕刊(8月23日)一面「昭和天皇『戦争責任を言われる』の見出しで、古川隆久日大教授の「昭和史研究に貴重な資料」というコメントが付せられている。

 

 『東京』23日の一面の「解説(共同・三井潔)」は、「心奥触れる<昭和後半史>」という見出しで「昭和天皇の侍従だった日記には、晩年まで戦争の影を引きずる天皇の苦悩を克明につづられている」と、その意義を語っていて、多くの記事の論調は、ほぼこれに沿うものだった。 

私も、これらの新聞報道やコメントに接して思うのは、「何をいまさら」という思いでしかない。天皇の晩年の繰り言のようなつぶやきが記されていたと言って、驚くことなのだろうか。昭和天皇が、身近な人間に何を語ったとか、胸の内を明かしていたとか、こんな短歌を残していたとかの情報は、幾度となく読み、聞いてきた。しかし、私のつたない体験から、歴史として、その人について、まず、残されるべきは、そのとき、その時期の発言や行動、「何を語り」「何を書き」「何をしたか」だと思うようになった。後年、当事者が自ら語ったこと、身内や身近な人が語ったことなどは、どこまでが事実なのかについての検証が、重要な作業として付いて回るはずである。一般論として、私は、自伝や評伝、「実録」「日記」と称されるものは、参考にはするが、できる限り、その信ぴょう性を検証しなければと思っている。昭和天皇の場合にしても、30代後半から40代前半に、周辺の人物からの進言や密接な組織からの圧力によって、時には利用されているという認識のもとに、それが軍部であったり、GHQであったりしたこともあるのだろうが、自らの判断の結果としてされた行動が、史実として残るのではないか。密室での言動の検証はかなり難しいと言わねばならない。

 冒頭にあるように、いま自分のブログでの敗戦直後の思い出の裏付けをと思って、たまたま手元にあった『元旦号で見る朝日新聞8018791958』(朝日新聞社 1958年)を開いていたら、194611日の広告欄が目に入った。ほとんどが薬品や化粧品メーカーのもので、なつかしい商品名がずらりと並んでいるのに目を奪われた。しかし、この年の元旦には、天皇の「人間宣言」が掲載されていたのだが、活字がつぶれていて、慣れない漢文調で読みにくい。見出しだけは読むことができるだろう。「官報」から引用してみると、以下のようで「人間」「宣言」の文字はなく、太字の部分がこれにあたるが、冒頭には「五箇条ノ御誓文」が登場していたのである。さらに、昭和天皇自身がのちの記者会見で、この「詔書」の一番の目的は「五箇条ノ御誓文」を引用することで、「神格とかいうことは二の問題であって、民主主義は輸入のものではないこと」を強調するためだったと語っている(1977823日)。

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記事中に「人間宣言」の文字はない。この「詔書」の一部分を「天皇、現御神にあらず 君民信頼と敬愛に結ぶ」との見出しで紹介。「現御神」は「あきつみかみ」と読む。「現人神(あらひとがみ)」ではなかった

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官報 号外 昭和二十一年一月一日

 詔書

茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、

 一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ

一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス

一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。

(中略)

然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。

(後略)

 御名 御璽

 昭和二十一年一月一日

(以下内閣総理大臣ほか大臣名)

=======

Img472
 1946年1月1日『朝日新聞』

そして、なんと、この同じ元旦の『朝日新聞』には、高松宮のインタビュー記事も掲載されていて、その見出し「御兄君天皇陛下―高松宮殿下のお話し」「曲がった事がお嫌い 御食慾にも響く御心勞」を見て、「?」となったのである。今回の「小林侍従日記」紹介の記事と見まがうようなトーンであったからだ。インタビューで高松宮は天皇が「曲がった事が嫌い、慈悲深い」という性格であること、趣味は「野草お手植え」であり、食糧問題については心配していることなどを語っている。「人間性」を強調することで「天皇制の維持を図ろう」とし、さらに、「天皇に近い皇族の肉声によって、これまで遠い存在であった天皇の姿が明確化されるという効果を有し」、「人間宣言」と同じ日に掲載されることによって「人間宣言」を補完する役目を担っていた、との指摘もある(河西秀哉「戦後皇族論―象徴天皇の補完者としての弟宮」『戦後史の中の象徴天皇制』 吉田書店 2013年)。高松宮のインタビュー記事では、天皇の「平和」への思いにも言及している。となると、今回の一連の「小林侍従日記」紹介記事が、横並びで「昭和天皇が自らの戦争責任について苦悩していた」ことを強調すること、メディアが一斉に、この代替わりが一年足らずに迫った、この時期に発信することの意味は大きいと言える。

「昭和天皇は、晩年まで戦争責任を気にかけて、悩んでいたのだ。平成も終わるこの時期に、もう問い続けるのをやめてはどうか」のメッセージのような気がしてならないのである。ということは、2015815日の「安倍談話」にも通ずることになりはしまいか、の思いがつのる。<19462018>この間、いったい何が変わった、と言えるのだろうか 

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2018年8月21日 (火)

元号が変わるというけれど、73年の意味(3)皇室とマス・メデイアとソーシャル・メディアと

 201688日、午後3時、天皇のビデオ・メッセージが、一斉に各テレビ局から流された。その内容も大きな問題を抱えているが、どのテレビ局を回しても同じ画像と声が流れている事態に、驚いたのである。まさにメディア・ジャックではないかと。713日夜7時のNHKテレビ、ニュース7のスクープなのか、リークなのか、いまだ判然とはしないのだけれど、「天皇の生前退位の意向」が報じられ、ことは、ここから始まったことになる。

 

 天皇のビデオ・メッセージは、「平成の玉音放送」ともいわれたそうだが、これが初めてではなかったことを知った。2011316日、午後435分から6分弱のビデオによる「おことば」が、在京テレビのどの局も、それぞれ組んでいた特別報道番組の中で流していたという。不覚にも、私にはその記憶がない。316日当時は、地震の被害、津波の被害、原発事故による被害の全貌がまだわらず、その惨状、広がり、死者の増加が刻々と報道されるなか、その衝撃の大きさもあって、天皇のビデオ・メッセージは、聞いていたかもしれないが、記憶にない。その内容は、下記の資料で見ていただくとわかるが、「見舞いと励まし」の域を出ず、印象が薄く、埋没してしまったのかもしれない。しかし、このときは、テレビ東京を除き、すべての在京テレビ局が放映したという。

 

・東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば(2011316日)(宮内庁) 

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/tohokujishin-h230316-mov.html

 (参考のため) 

・象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(201688日)(宮内庁) 

http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12 

 

  天皇のビデオ・メッセージが、このような形で、いわば非常時の「心構え」や天皇みずからの「個人的な意向」が国民に発せられるということは、憲法上、法律上可能なのだろうか。2011年の場合は、被災地や慰霊の旅、さまざまな行事での「おことば」の延長としての「公的行為」、実質的な効用を持たない「挨拶」のような役割しか果たさなかったと思うが、2016年の場合は、憲法第4条の内閣の助言と承認を必要とする「国事行為」の規定にも当てはまらないし、「摂政を拒む」という皇室典範を明らかに逸脱する意思表示でもあった。その「お気持ちがにじむメッセージ」は、通例の「おことば」でもない「記者会見」でもない方法で発信された。あのメッセージは、もちろん公文書となるわけだから、天皇一人で作成したとも考えられない。となると、宮内庁と官邸が関与して、違憲・違法行為をしていることになりはしないか。その不透明な点を厳しく指摘する論者は少ないが、以下はその一つだろう。
 

・「天皇ビデオメッセージ」15『アリの一言』(20168915) 

https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/ffac8315cb4322d232b9dc869befa2a6

 

 私も、当時、手探りながら若干言及しているので、下記のブログをご覧いただきたい。
 
・天皇の「生前退位」の行方~「天皇制」の本質については語られない12 

『内野光子のブログ』(2016112930) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/11/post-dd45.html 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/11/post-e43f.html

 内容的にも、疑義があるわけだが、その伝達方法が、ビデオ・メッセージによる全テレビ局一斉放映という形、いったい、どこの誰が決めたことなのだろうか。 あの11分の間、テレビ局が他の情報を排除し、一斉放映することになった過程を知りたいと思った。各局、その指示を受け入れる判断をしたのは誰だったのか、どのテレビ局も一斉に放映したということが、私には恐ろしく思えたのである。その過程が曖昧なまま、国民は、有無を言わせず、ビデオだけを視聴させられたことになる。

 

一斉放映後のマス・メディアは、少しの戸惑いを見せながらも、高齢化した天皇の任務の重さを理解した心情的な記事が溢れ、国民の多くも同調するという流れができ、世論調査などにもその傾向は色濃く反映された。

 

この一連の流れを見ていると、かつての旧憲法下には「勅令」という法形式があった。今回のメッセージは、個人的な「お気持ち」というソフトな表現が使われた。しかし、その内実は、丁寧で、やさしい言葉と映像につつまれた超法規的な言説ではなかったのか。しかも、その伝達力の速さと広さは、かつての官報や新聞、ラジオ放送などとは比較にならないほどのものとなった。さらに、いつでもどこでもインターネット上では繰り返し視聴できる。それに加えて、多くのマス・メディアは、記事や番組において、法律家や歴史家、さまざまな論者が入れ替わり立ち代わり、慣れない敬語をもって、解説やコメントをしていたことは、記憶に新しい。その一方で、政府や国会は、メッセージに応えるべく「静かな環境」でという建前で、立法の準備を進め、結果的に、論者や政治家による検証や議論をけん制した。

 

現憲法下での天皇の在り方について活発な議論がなされるべき、絶好のチャンスのはずだった。野党もマス・メディアも、有識者会議での論点の限りの整理のみにとどまり、あるべきアジェンダの設定を怠ったと言わねばならない。

ただ、玉石混交、フェイク情報が前提とされるインターネット情報や週刊誌情報ではありながら、私が、かすかに期待をするのは、節度を持った情報交換や意見交換が活発になることであり、皇室・天皇への国民の関心が高まり、そこから課題が生まれることである。(つづく)

 

 

 

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2018年8月16日 (木)

元号が変わるというけれど、73年の意味(2)象徴としての天皇の仕事とは

天皇という一人の人間の死去によって、あるいは退位の意思表示によって、元号、時代表示が変わるということが、この現代の日本で、当たり前のように受け入れられようとしている。これは、いったい何を意味するのだろうか。

 

201688日、天皇は、象徴としての任務を全うすることが難しくなったとして生前退位の意思を固め、象徴天皇としての役割をきちんと受け継いで欲しいという「お気持ち」を発信した。あの日の午後3時、どのテレビ局も一斉に、11分弱のビデオ・メッセージを流したのである。これを聴いたとき、天皇も、身体的に限界を感じて「仕事」を辞めたいということであれば、だれも止めることはできないだろうし、私も、個人の尊厳にもかかわる問題という認識で、当然のことと受け流していた。

 

 
  しかし、よくよく考えてみると、憲法上の国事行為は、限りなく形式的な行為であって、天皇自らの意思に基づいてなされる行為ではない。そのルーティンワークも、考えてみれば、精神的には過酷な任務であろうと思う。しかし、それに加えて、法律上は何ら規定のない「公的行為」、宮内庁のホームページには、「ご公務など」とあえて曖昧な表現をとる「仕事」として、前記事で述べたように列挙されている。これらの中には、明治天皇以来、昭和天皇以来という伝統的、慣例的な行事も多い。その上、平成期の天皇は、「象徴としての天皇の仕事」には、積極的に取り組んできた自負を、あのメッセージに滲ませていた。
象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(201688日)(宮内庁)

 

http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12

 

たしかに、私たち国民の目に触れる天皇の言動は、純然たる国事行為や私的な活動に比べて、「象徴天皇としての仕事」が大部分ではなかったか。戦没者慰霊、国会開会式、被災地お見舞い、戦跡慰霊の旅、全国植樹祭、国民体育大会、全国豊かな海づくり大会、園遊会、外国の要人接待などの国際親善の場での姿や「おことば」であった。国民に寄り添いたい、国民に理解してほしいという天皇個人の気持ちや天皇夫妻のパーソナリティが表出されるのかもしれないが、そこには、それらのイベントには、膨大な政府の力、自治体の力、市民の力が拠出されていること、過剰なほどの労力や時間、予算がかけられていることはぬぐいようもない事実である。そして、その見返りとしての政治的利用を否定するわけにはいかないだろう。というより、天皇の政治利用を目論む権力が登場しても不思議はない。私たちは、歴史からそれを学んだはずである。

 

 
  実は、時の政府・省庁の選択による褒章制度、息のかかった選考委員による様々な顕彰制度、園遊会への招待にいたるまで、政治家や官僚、研究者や文芸に携わる人たち、ジャーナリストやスポーツ選手・芸人・タレントにいたるまで、政府批判はしない、明確な物言いや主張は避ける、政治的な発言はしない・・・、まさに権力は「刃物」を持たずして、メディアや職場や地域で、あるいは、それぞれの分野の「業界」で、自粛や自己規制の雰囲気を作り出すことができてしまっている。失うものがない、一般市民が頑張るしかないではないか。

 

これまで、私は、短歌という狭い世界から、皇室と現代歌人たちとの関係を「<選者>になりたい歌人たち」「祝歌を寄せたい歌人たち」(『現代短歌と天皇制』風媒社 2001年)、「勲章が欲しい歌人たち」「芸術選奨はどのように選ばれたのか」(『天皇の短歌は何を語るのか』御茶の水書房 2013年)などにおいて、検証してきたつもりである。天皇の代替わりを前に、元号が変わる前後に、現代歌人たちは、どんな短歌を詠み、何を語るのか、短歌メディアは、何を発信するのかを見届けたい。

 

 

 

 

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元号が変わるというけれど、73年の意味(1)全国戦没者追悼式と天皇

  きのう、815日、日本武道館において「全国戦没者追悼式」が行われた。安倍首相の式辞、天皇の「おことば」の中では「平成最後の」という表現は登場しなかったが、中継やニュースのテロップでは「平成最後の」を冠するものがほとんどだった。

 

たしかに、現憲法上、「象徴」とされる天皇の在位が、昭和天皇は死去により終り、平成の天皇は、自らの意思表示に端を発し、生前退位の特例法で、来年、平成30年余で終わることになる。 

 

今年に入って、天皇として、皇后として、あるいは夫妻としての“最後の仕事”は続き、そのたびに、メディアによって回顧され、語られる機会も多くなり、「平成最後の」を冠した新聞記事や番組が氾濫するようになった。 



  追悼式の中継を見ていて感じたいくつかの中で、気になったのは、まず、参列者の高齢化を言うならば、安倍首相はじめ、衆参議長、最高裁判所長官、三権の長の挨拶が長かったことと、いずれも「天皇のご臨席を賜り」といった言葉で始まったことであり、天皇夫妻のみが祭壇と同じ壇上に座し、その他の参列者は客席である。見慣れた光景ではあるが、よく考えると、追悼式にしてはおかしくないだろうかと。 

 そもそも、この戦没者追悼式は、1952年、独立後直後、政府主催の式典として開催されたが、開催日は年々異なり、815日に定着したのは、1963年、10年も経ってからだった。そして日本武道館が会場になったのも、開館翌年の1965年からで、その前は、新宿御苑や日比谷公会堂、靖国神社であったこともある。天皇の参列は、もちろん憲法上の国事行為ではないし、法律上の規定に基づくものではない。宮内庁のホームページでは、「ご公務など」の項目に、「宮中のご公務など」「行幸啓など(国内のお出まし)」「国際親善」の三つをあげて、戦没者慰霊は、国会開会式、被災地お見舞い、全国植樹祭、国民体育大会、全国豊かな海づくり大会などと並んだ「行幸啓など(国内のお出まし)」の一つという位置づけである。
http://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/gokomu.html

 

また、同じく宮内庁ホームページの「皇室のご活動」の中に、「天皇皇后両陛下のご活動」として、国事行為などのご公務、 行幸啓、 外国ご訪問、 ご即位10年関連行事、 ご即位20年関連行事、 伝統文化の継承、 宮中祭祀、 御所でのご生活、の項目が挙げられ、「行幸啓」の中の「両陛下の東京都内でのお出ましは,毎年のものだけでも,全国戦没者追悼式,日本学士院授賞式,日本芸術院授賞式,日本国際賞授賞式,国際生物学賞授賞式などがあります」と説明されている。 

http://www.kunaicho.go.jp/activity/activity/01/activity01.html

 

1952_memorial_ceremony_for_the_war_
1952年 5月2日、新宿御苑にて



 全国戦没者追悼式は、当初、
195248日の閣議決定「全国戦没者追悼式の実施に関する件」によれば、「(同年428日の)平和条約の発効による独立(主権回復)に際し、国をあげて戦没者を追悼するため」に実施するとされた。 1982413日の閣議決定「『戦没者を追悼し平和を祈念する日』について」によれば「先の大戦において亡くなられた方々を追悼し平和を祈念するため、『戦没者を追悼し平和を祈念する日』を設け」て、その期日を815日とする、とされている。

 

そういえば、毎年、気にも留めていなかったのだが、きょうの天皇の「おことば」の冒頭でも「本日、『戦没者を追悼し平和を祈念する日』に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。」とあり、閣議決定の通り「平和を祈念する日」の文言がきちんと入っていたのである。首相の式辞では、この文言が語られたことはない。

 

これまでも、首相の式辞と天皇の「おことば」を比較した記事や論評はよく目にした。私自身も2015年に試みたこともある(「戦後70年―ふたつの言説は何を語るのか」『女性展望』 677号 20151112月号)。首相と天皇の言説を比較し、歴史認識の相違などを検証してみた。首相にはない、天皇の「さきの戦争への深い反省」や「平和への国民の努力」などに言及し、天皇を称賛する人々も多い。しかし、そんなことを繰り返してみても、いったい何が変わったのだろうかと思うと、あまり生産的ではない論議に思える。

 

 武道館での追悼式が、仰々しく、お金もかかりそうな祭壇、遺族の代表者選び、招待などにかかる諸費用・労力を思い、最早、形骸化してしまっているのを見るにつけ、もっと素朴な形での追悼ができないものかと思ってしまう。そして、それよりも、政府として、遺骨収集、空襲犠牲者への補償、原爆症認定、慰安婦への謝罪・補償、沖縄の基地問題など、いまだに戦後処理が放置されたたり、解決を見ないまま、日米安全保障強化、防衛費増強、憲法9条改正などを進めているのだから、「追悼」の意思は、微塵も感じられない。いや、そのうち、未来志向とやらで、追悼式自体が無くなる日が来るかもしれない、そんな思いすらしたのだった。

 

 

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2018年8月 7日 (火)

オリンピックと天皇代替わり批判はタブーなのか

 

この夏は、図書館通いとパソコンに向かう時間が多かった。新聞をじっくり読めず、いつも見ているテレビのニュースも見逃すこともたびたびだった。スポーツ界――相撲、アメフト、レスリング、ボクシング・・・選手たちを抱える各競技団体、大学スポーツなどの旧態然とした一強体制には、あらためておどろくとともに、その体制が選手たちをいかに苦しめてきたかも知ることができた。今更ながら、さまざまな報道がされるたびに、安倍一強体制のいまの政治と同じ構図だなと、つくづく思う。メデイアも、いまでこそ勢いに乗って、スポーツ界のスキャンダルを連日報道するけれども、今までは、いったい何をやっていたの、とも言いたくなる。それに、「情報番組」の大半は、このスポーツネタと、いまは災害報道に終始する。災害報道にしても、災害救助、身内を失った人々の悲痛、避難遅れや地域の助け合いやボランテイア活動には言及するが、肝心の災害の要因や災害対策に割かれる情報は極端に少ない。政治ネタを扱うとなれば、政治家や官僚の放言・失言やスキャンダルと自民党総裁選の攻防とやらに焦点があてられる。それに、直近の国会で強行採決に近い形で成立してしまった働き方改革やIR法など、さらに中国・ロシア・韓国・北朝鮮とアメリカとの間で右往左往するだけの「外交」、沖縄の新基地建設、オスプレイ、イージス・アショア導入などを決めた防衛予算に見るアメリカ・ファーストの実態などは、もはや素通りに近い。そして、来年の天皇代替わり、二年後に迫ったオリンピック関連の報道が過熱の一途をたどっている。

 

そもそも、現天皇が、「象徴天皇制」の存続のために、生前の代替わりという方法で「強制終了」に踏み切ったことを受けて、「特例」づくめの半端な形で、乗り切ろうとした政府に、国会では、全政党・会派、「リベラルな」政党も、異議を唱えなかった。そして、すでに、なにやら「恩赦」による特典にだけには浴したいという露骨な動きさえもあるという。

 

東京オリンピック開催にも、政府・議会あげて、盛り上げに懸命なのである。IOCにおける東京招致、関連施設建設、建設費高騰、暑さ対策、聖火のコース、選手強化補助金、広報費用・演出、治安対策・・・。当然のことながら「想定内」の問題であって、いずれも大きな疑問符がつけられ、これらにまつわる不祥事やスキャンダルは後を絶たないだろう。不祥事まみれの「オリンピック」で得をするのは誰なのだろう。

 

直接は聴いたわけではないが、久米宏のラジオ番組でのオリンピック批判に、少し勇気づけられて。

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2018年7月16日 (月)

目取真俊講演会に出かけました

 猛暑の土曜日714日、どうしても聴いておきたかった。目取真俊の小説「平和通りと名付けられた街を歩いて」を読んだことから、天皇制への確固たる批判の姿勢を知り、他の作品からは、沖縄の抱える問題を鋭く分析、提示していることを知り、多くを考えさせられた。昭和、平成の天皇の沖縄との関係を調べるきっかけになった。私は、とくに、その短歌に着目しながら、いくつかの論稿をしたためた。そして、沖縄の歌人たちの短歌、本土の歌人たちの詠む沖縄、本土の歌人たちの沖縄の歌人たちへの対応についても、いささかながら言及してきたからでもある。

 そして何より、辺野古の海を守るため、基地建設に反対・抗議するカヌーチームの一人として発信する「海鳴りの島から」を読みながら、励まされ、座り込みにいけないのを嘆く日々を過ごしているので、目取真さんの声を聴きたかったのである。

 講演の前半は、目取真さん自身が、毎日、撮り続けている海上での抗議活動の様子を伝える映像を中心に進められた。前日713日の活動を撮ったものも映し出され、その速報性にも驚いた。ブログ「海鳴りの島から」をまず見ると生々しい写真が続く。すでに715日の記事には、この日の講演会の報告もなされていた。 

〇海鳴りの島から 沖縄・ヤンパルより…目取真俊

https://blog.goo.ne.jp/awamori777

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 工事の進行状況と海上の抗議行動とその弾圧の熾烈さ、まず海岸に工事用の道路ができ、両端から始まった護岸工事K-1N-3は繋がり、もはや完了間近いと思われる。しかし、カヌーは、幾重ものフロートやフェンスを越え、振り落とされながらも、工事船に接近してスクリューを回らないようにし、クレーンから降ろされる10トンの石が積まれたモッコの下で待ち受けるなどの抵抗によって、工事は一日でも一時間でも遅らせるという、過酷な戦いでもある。毎朝、7時には、海岸に着き、4時ごろまで活動は続き、家での入浴と食事、ブログ執筆などで、一日が終わるという。最近の工事現場では、カヌーが来ない朝6時から工事を始めることもあるという。もし、抗議をしなかったら工事は進む。踏みとどまって抵抗しないと、沖縄には逃げる場所がない、だからあきらめてはいけないと。

 後半は、沖縄の歴史、米軍基地の沿革―本土に散在していた米軍基地が地元の反対運動に遭って、次々と人口140万の沖縄に移され、そして、沖縄の中では、中南部から人口10万の北部に基地が集中していく現況に言及する。本土と沖縄の関係が沖縄県内でも基地のある所とない所の関係が生し、中南部にますます人口が集中するという現象がみられる。沖縄の経済を支えていた3K―基地・きび・公共事業から、観光の比重が高まり、平和の大事さも浸透している一方、本土には知られない、基地がもたらす犯罪多発、教育環境の悪化など目に余るのが実態である。

さらに、817日に、土砂投入工事を開始するとしている沖縄防衛局に対して、承認撤回などをめぐる翁長知事への評価をめぐっての言及もあった。沖縄の革新はすでに革新首長が十分の七の時代から十分のゼロへ衰退し、翁長知事にしても、稲嶺前名護市長にしても、もともと保守派であったのだが、現在に至っている。ともかく、いまは、闘病のなかの決断を迫られている知事を見守りたい、すべての元凶は政府、安倍政権にあるのだからとも。

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新基地建設が進むきょんぷシュワブ沿岸6月29日、名護市辺野古全景(小型無人機撮影)、 「沖縄タイムス」2018年7月13日

 もっと、いろいろな話をされたと思うが、うまくまとまらない。しかし、基地の本土引取り論、沖縄独立論、県民投票の賛否など核心に迫る質疑応答もあって、目取真さんは丁寧に答え、私の理解も少しだけ深まったようにも思う。引き取り論については、安保を前提にしながら引き取ろうと言っても、いったいどこがどういう基地機能を担うのか、具体的な道筋とその可能性が見えない以上賛成できない、という。独立論も、研究者や評論家らによって長い間主張されてきていて、高まりつつも、その実現性に欠け、現在の反基地の闘い、新基地建設を止める運動にはなっていないという。県民投票については、若い人たちが中心になって進めている運動ながら、まず、県民投票をするための条例制定を目指して、有権者の50分の1、約24000名の署名を集めなければならない。723日が締め切りだが、その数のクリアも危うい。たとえ、クリアしたとしても、実際に県民投票にいたるまでの手続きに時間がかかりすぎ、タイミングが悪すぎ、新基地建設の歯止めにはならない。それに、目取真さんは、署名の集計状況を見て、基地を抱える伊江村、東村などが限りなくゼロに近い数字にも驚いたともいう。Photo_6

「『辺野古』県民投票の会」より発表

なお、会場の若い男性から、海上抗議行動を始めた動機を尋ねられ、始めて4年になるが、かつて生家のある今帰仁の海岸で、青い海にウミガメが泳ぎ、ウミガメの産卵も目の当たりにしていた少年の頃を思い出し、ウミガメが産卵の海岸を奪われ、赤土でサンゴが死滅してゆく現実を前に、始めたという。カヌーは自分の手で漕いで、海に出るので、五感で辺野古の海の美しさを感じることができるからだとも、語っていた。

さまざまな思いで、辺野古に座り込みをする人々、カヌーで抗議を続ける人々に対して、陸上では、機動隊員と多くの警備会社アルソックの人たちがごぼう抜きをする。海上では海上保安庁の隊員と警備会社セントラル警備が請け負い、カヌーの侵入を阻止し、突き落とそうともする実態にも触れた。海上の民間警備は、かつてマリン・セキュリティが請け負っていたが、予算の水増しが告発されて交代したという経緯もあったという。

私が最初に読んだ短編小説「平和通りと名付けられた街を歩いて」のラストシーンは忘れがたい。次第に体が冷たくなっていく祖母を背負い、二人の大切な場所に向かう孫の少年の心の陰影、その優しさには、読むたびに、人に伝えるたびに涙してしまう。皇太子夫妻を沖縄に迎えるにあたって、かつて平和通りで魚を商い、一家を支えていた祖母が徘徊しないようにとの警察からの要請で、その当日、家族は祖母を部屋に閉じ込めた。だが、いつの間にか抜け出して、皇太子夫妻の乗る車のフロントガラスに汚物にまみれた手形をつけて、こと切れるという、いわば「不敬」小説なのである。難解にも思える、ミステリアスな、短編も多いのだが、そこには、いつもどこかに人間のやさしさが秘められているのが特徴に思われた。今回、話を聞いて少し納得したような気がしている。

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辺野古に新たな柵設置 ゲート前、抗議激化に備えてか、
米軍キャンプシュワブの工事用車両用ゲート前で進められる柵の設置作業、7月15日午前1時18分、名護市辺野古で。「東京新聞」18716 朝刊。深夜の突貫工事であることが分かる

<7月18日付記>

目取真さんの話の中で、大事なことを一つ書き忘れていた。大型船によるボーリング調査が始まったのは昨年2017年3月だったが、すでに、埋め立て予定地の一部の海底が軟弱なことがわかって、さらに調査を進めるためではなかったかという。工事予定が中止され、一部変更の理由は明らかにされていないが、海底は40mの厚さの泥状態の軟弱地盤で、45トンのコンクリートブロックは沈み込んでしまい、埋め立ては不可能だというのだ。今朝の東京新聞「こちら特報部」によれば、沖縄の市民団体の情報公開によって明らかになった、2014年から2年にわたってのボーリング調査の結果は、地盤の固さを示すN値がゼロであったというのである。国は詳細な調査を出さず、いずれ総合的な判断をするとしているが、海底地盤改良には巨額の費用が不可欠となる、という。

 

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2018年5月 3日 (木)

「和歌御用掛」は岡井隆から篠弘へ~憲法記念日に

 憲法記念日に、またも何を些細な「歌会始」とは、と思うかもしれない。 天皇の代替わりを一年後に控えた430日、2007年から御用掛を務めてきた岡井隆(90)が辞職し、51日付で、2006年から歌会始選者を務めている篠弘になった、との報道があった。岡井は、1993年から2014年まで歌会始選者を務めているので、御用掛と兼務の時代もあった。2015年からは和歌の御用掛として、「お歌に助言をさせていただく人間として戦争体験者の私がお役にたてるのではないかと、考えるようになり」、「両陛下がご公務に頑張っておられるわけですから、私も頑張らねばいけません。体力が続く限り、御用掛を続けさせていただこうかと思っております。」とも語っていた(岡井隆「宮内庁和歌御用掛が明かす 佳子さまの和歌の素養」『文藝春秋』20156月)。20168月の天皇の生前退位表明の一年以上前のことだった。当時、岡井は、体調を崩して、後継者を探したが「適任者が見つかりませんでした」とも、上記記事で述べていた。その後、天皇の状況は大きく変わったが、岡井も心境や体調の変化があったのだろうか。

  いずれにしても、「歌会始」の状況は、大きく変わることはないだろう。ただ、それ以上に危惧するのは、代替わりを控え、歌会始の選者たちを中心に、「幅広い」歌人たちによって、天皇・皇后の短歌について光が当てられ、その鑑賞や「深い読み」が展開されるだろう。「国民に寄り添った」心情や家族愛、政情や歴史認識に分け入った解釈もして見せるに違いない。しかし、そうしたことが、結果的に「象徴」の地位を脱して政治利用につながることは必至で、避けるべきではないかと思うのだ。天皇・皇后(及び皇族)がたしなむ短歌が発信されたならば、いまの私たちができることは、自ら選択することのできない、憲法上矛盾に満ちた特異な存在である人々の短歌作品として、各々が一読者として鑑賞するほかないのではないか、と思っている。 

 すでに、マス・メディアでは様々な形で、「平成回顧」がなされている。政治的権限を持たない天皇の在位期間、元号をひとくくりにする意味は何処にあるのだろう。 

 すでに、このブログ記事でも触れたが、公文書類や出版物、メディア上での年号表記は、西暦で統一すべきである。少なくとも併記が必要である。そうでないと、元号表示だけでは、何年前のことであったのかが、即座に定まらず、まるで、頭の体操を強いられることになる。明治、大正、昭和、平成・・・で示される年号では、「地球規模」の課題や動向、グローバルな国際情勢とはリンクできないし、その換算は容易なことではないからだ。その混乱はどうしてくれるのだろう。

 

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