2019年4月 2日 (火)

新元号発表狂騒でシャッフルされてはならないこと

   きのう、41日、午後の数時間、家を空けていたが、10時半頃から、新聞やテレビを飛び飛びに読んだり、見ていたりした。元号発表が何で「秒読み」までされて報道されなければならないのか。政府は、これまでの、山と積まれた失政の数々を、この政治的ショーという茶番で、シャッフルしたい思いがありありで、うんざり感にさいなまれた。マス・メディアは、分かっていていながら、その茶番に乗って、これでもか、これでもかと、どうでもよい情報を流す。アナウンサーやコメンテイターたちも、皇室や元号に詳しい<専門家>たちも、菅官房長官発表時と安倍首相談話時の背後のカーテンの色が違うとか、緊張した息遣いだったとか、一瞬、表情が緩んだとか、などなど、いい加減やめてほしいと思った。記者たちの違った質問に、首相は、元号の出典や込めた思い?として、国語の教科書や参考書程度のフレーズを間違えないように繰り返すだけであった。

 出典が「国書」というけれど、漢文と漢字による万葉仮名の和歌で成り立つ万葉集だし、万葉集よりも数世紀前の中国の詩文「帰田賦」(張衡)に「仲春令月 時和気清」の一節があり、当然万葉集もそれを踏まえているので(「座談会・新元号のメッセージ」『朝日新聞』、「初の酷暑万葉集出典 中国古典踏まえ」『東京新聞』、「中国古典の影響残す 『文選』孫引きの指摘も」『毎日新聞』ともに42日)、「国書」云々を強調すること自体、ミスリードしていることになろう。「初めての国書から」とする分野外のノーベル賞受賞者やワケのわからない出で立ちの大学教授が、有識者懇談会の模様を語っていたが、その舞い上がっている姿は見苦しかった。

 この出典に関して、日本文学研究者のローバート・キャンベルと歌人の岡野弘彦が、「元号」自体を前提にしてのことだと思うが、ともに、国書か中国の古典かにこだわる必要はない、と語っている(『東京新聞』)42日)のは、その限りでは、日本文学の成り立ちから言っても当然のことだと思った。

 安倍首相は談話で、「(万葉集は)日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、わが国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書」というけれど、 日本の文学史において、「天皇から庶民まで」の歌集として「万葉集」像がクローズアップされるのは、たかだか、1890年以降のことである。「読み書きを知らない人たちが口頭で謡ったり、唱えたりしたものにしては、形式が整いすぎてはいないだろうか」と東歌や防人歌の作者に疑問を呈する研究者もいる(品川悦一『万葉集の発明』)新曜社 2001年、82p)。定型短歌は文字社会の産物であり、文字は文明の産物であり、列島社会の文化でもなかったことから「中華文明を継受した支配階層が発達させた文化」と考えるからである(前掲書84p)。

 幅広い階層の人々の歌を収めたという万葉集が、戦争に立ち向かう全国民的な民族意識、ナショナリズムの高揚の必要性と正岡子規らによる和歌革新運動とがあいまって、万葉集教育の普及、万葉集研究に支えられ、「国民的歌集」になっていった歴史を知る必要があるだろう。マス・メデイアの役割も欠かせない要素であった。この「国民的歌集」は、日中、太平洋戦争中にも、もてはやされることになる。学徒出陣世代の方から、斎藤茂吉の『万葉秀歌』上下(岩波書店 1938年)を愛読する者が多かったと聞いたことがある。

 一過性で終わるとも考えられるが、現在、書店では万葉集関係書のコーナーができたり、出版社では増刷を決めたりしていると、42日の夕刊各紙が伝えている。また、歌人たちが、出番とばかりに、メディアをにぎわすかもしれない。

 そんな、騒々しいなかで、「えッ、きのうから、令和に替わったんじゃないの」という人も現れるほどだが、42日の朝刊の片隅には、「森友問題 特捜部に起訴要望」(『朝日新聞』)、「公開の法廷で白黒を 森友不起訴不当受け申立書」(『東京新聞』)の記事があった。森友問題での公文書改ざんをめぐり、佐川元局長らの不起訴処分を受けて、市民団体が大阪地検の検察審査会に起訴を求めて申し立てをしていた。先週、佐川元局長らの不起訴相当、一部不起訴不当の議決を受けた、その市民団体が、さらに大阪地検特捜部に厳正な再捜査を求めたという内容で、いくつかの市民団体が大阪地検の検察審査会に申し立てをしているがそのうちの1件だった。地道に、森友・加計問題の幕引きに異議を唱え、闘い続けている市民たちもいる。

 天皇代替わりの「新しい時代」のどさくさと演出で、数々の違法・不法・不当・不都合な事実をチャラにしたい政府、許してはいけない。

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大谷石の塀と側溝のすきまにスミレが、今年が初めてか

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2019年3月12日 (火)

改元奉祝のなかで、「天皇依存」の系譜(2)そして、歌人たち

天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ(吉川宏志)
 『短歌』201110月 『燕麦』2012年所収)

   東日本大震災による原発事故の直後に、吉川宏志が発表した作品である。当時、結句の「恥じぬ」の解釈をめぐって、若干の論議が交わされた。「ぬ」は完了なのか、「打消し」なのか、つまり「恥じた」のか「恥じない」のかどちらなのかと。私は、それまでの吉川の作品や発言から当然、「恥じた」として読んだ。「打消し」なら「恥じず」とするのが自然だからとも思った。作者は、もちろん「完了」の方だと明言し、近年の平井弘とのインタビューの中で、吉川自身、この一首について、つぎのようにも語っている。

「天皇に『原発をやめよ』と言ってもらおう、という発想自体に、天皇を利用しようという心根があるわけでしょう。それが恥ずかしい、という歌なんですよ。ただ、今の状勢を見てたら、天皇が言ってもだめかもしれないですね。今の政権は、天皇の意志なんてまったく無視しているわけでしょう。」(特集 平井弘インタビュー「恥ずかしさの文体」(後編)『塔』2017年4月) 

   また別の場所で、吉川は、国旗国歌法(1999813日に公布・施行)が成立したころは「〈天皇制〉を厳しく否定する論調が、歌壇では特に強かった」という認識で、当時の歌壇、時代の空気を思い起こしながら、つぎのように記す。 

 戦争体験などをして、非常に嫌悪感をもっている人たちが存在することもよく理解している。そういった人たちが、反対するのもよくわかる気がする。けれども、「君が代を歌わない権利」がある一方、「君が代を歌う権利」があることも明らかだろう。だから、卒業式などで歌うことを強制することには反対だけれど、逆にあまりに過剰に君が代を否定することにも違和感をもつ。君が代をたまに歌ったくらいで、異常な国家主義者になるわけでもない。君が代を肯定する善男善女は、世の中に無数にいるだろう。現在では、非常に激しく君が代を非難する態度も、社会的にあまり共感されないのではないだろうか。

 左翼的な人々(の一部)は、現実の天皇制を廃止すれば良いのだ、と考えた。しかし、そうではなくて、権力と責任の存在が曖昧なシステムそれ自体に、危険性は存在していた。おそらく、現実の天皇制を批判しても、何も変わらない。
 
むしろ、今年の天皇陛下の年頭のお言葉「東日本大震災から2度目の冬が巡ってきました。放射能汚染によりかつて住んでいた地域に戻れない人々や,仮設住宅で厳しい冬を過ごさざるを得ない人々など,年頭に当たって,被災者のことが,改めて深く案じられます。」
 
を聞くと、原発事故を忘れてしまったかのような、現在の首相や政府の発言よりも、ずっと心に沁みてくる。
 
 いろいろな意見はあると思うが、私は、単純に天皇制は悪だとは考えない立場である。
 (①②とも「短歌と天皇制について」『シュガークイン日録3』20130122日) 

  「国旗国歌法」の条文には、強制、義務化の文言はない。当時の小渕首相はじめ、議会の質疑でも、強制・義務化はない、としてスタートした。その後の経緯は、どうだろう。教育現場では、学習指導要領で縛り、職務命令という形で、「君が代」斉唱時の不起立、ピアノ伴奏拒否などにより受けた処分や不利益は、教師たちの思想信条の自由を侵すものではないか、との訴訟で各所でなされた。管理者の裁量の範囲内であり違憲とは言えない、という判断が定着しつつある中、処分が重すぎるという判決もあったが、まだ係争中のケースもある。吉川は、①において、「強制することには反対だけれど」などと、天皇みたいなことを言う。「君が代をたまに歌ったくらいで、異常な国家主義者になるわけでもない。君が代を肯定する善男善女は、世の中に無数にいるだろう。」とは、どういうことか。統制や弾圧は、些細なことから始まり、それによる萎縮や自主規制が強まり、息苦しくなって、気づいたときは、すでに抵抗の手段を奪われていたという歴史を、私たちは教えられたり、学んできたりしたと思う。

 

 政治の世界に限らず、時代はすでに、数の力で、少数派や異論を無視し、排除する構図が出来上がりつつある。「寛容」や「多様性」の旗を掲げるならば、日常的な談論風発、百家争鳴、混沌こそが、民主主義の基本ではなかったか、とも思う。自分と異なる意見が多数を占め、数の力が及ばないとき、「面従腹背」と言ってしまうのか。吉川のように「天皇を利用しようとする心根」を「恥じた」のならば、いまは“リベラルで、いい人”の天皇を持ち出すのは、フェアでない。②で言うように「権力と責任の存在が曖昧なシステムそれ自体に、危険性は存在していた。」とするならば、その「曖昧なシステム」に「天皇制」が寄与していなかったかを検証する必要もあるだろう。

 「単純に天皇制は悪だとは考えない立場」をとるのは自由だが、その「危険性」に本気で向き合おうとするとき、「現実の天皇制を批判しても、何も変わらない。」とするのは、いささか「単純」すぎないか。

  たまたま、吉川は、自分の意見を表明しているが、天皇依存の歌人も多いのではないか。逆に、天皇の短歌や「おことば」が、過大に評価され、利用されているのを憂慮している歌人もいるのではないか。いまこそ、この「改元」の奉祝ムードの只中でこそ、大いに声を上げるべきだろう。

24img111 レイアウトは異なるが、2019年2月24日朝刊各紙に掲載された政府広報

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商魂たくましい、広告の数々・・・。上が「朝日新聞」2月24日朝刊、下が同紙2月25日朝刊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年3月11日 (月)

改元奉祝のなかで、「天皇依存」の系譜(1)<リベラル>な人々

  大辻隆弘の「短歌と天皇制」(217日『朝日新聞』)について書くにあたって、自著と手元の本や新聞・雑誌のスクラップなどを読み返してみた。大辻が、「リベラル派」というわけではないが、「リベラル派」の「天皇依存症」について考えてみたい。

「天皇」への依存ぶりがよくわかるのは、多くの場合、安倍政権への反発や非難が根底にあって、天皇の「おことば」や「祈り」に行きつき、よほどまともなことをと相対的に評価するというパターンである。

 

<リベラル>な人々が

  まず思い起こすのが、かつて、当ブログにも書いたことある金子兜太(19192018)の発言であった。当時の『東京新聞』が連載していた「平和の俳句」で、選者の金子が、「老陛下平和を願い幾旅路」の句を選んだ短評で「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。」(2016429日)と記していたことに、いささか驚いたのである。太平洋戦争下においては、海軍主計中尉として戦地体験を持ち、トラック島を離れるに際して、「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置いて去る」と詠んだ代表作もあり、戦後の社会性俳句、前衛俳句運動のリーダーでもあった金子であった。近年、安倍政権批判の市民運動でのシンボリックなプラカードとなった「アベ政治を許さない」を揮毫したことでも知られていた。

<参考>
 
「平和の俳句・老陛下平和を願い幾旅路」(『東京新聞』2016429日) (『内野光子のブログ』2016517日)
 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/2016429-463d.html

 

  また最近では、マルクス経済学者として知られる金子勝(1952~)は、昨年の天皇誕生日の記者会見後、つぎのようにツイートしていた(7:53- 2018年12月23)。 

【沖縄に寄り添う】天皇陛下は記者会見で、沖縄のくだりで声を震わせて「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました」「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と語る。アベは聞いているのか? @masaru_kaneko

 

日本共産党では
  これらの断片的な発言では、天皇制への言及はないものの、「安倍憎し」の思いからの、平成の天皇への活動や「おことば」への心情的な共感であった。さらに、近年、日本共産党が、天皇制、天皇へのスタンスを大きく「右」に舵を切った。そのきっかけは、20147月の安保関連法閣議決定に危機感を感じてのことであったのだろうか。何とか支持者を増やしたい、嫌悪感を払拭したいとでも思ったのか、201512月には、当ブログの下記の2件で触れているが、一つは、国会開会式への出席を表明したことである。議場の「玉座」から天皇が開会の言葉を述べる、あの開会式に、新憲法以来、出席を拒否してきた日本共産党が、天皇の言葉に政治的な発言がなくなったので、出席するといい出した。私は支持者でもないが、ちょっと理解に苦しみ、ネットで「綱領」を調べてみて、やはり疑問は去らなかったので、中央委員会に電話もしてみた。関心のある方は、そのやり取りを見てほしい。
 「綱領」(2004年)には「党は、一人の個人が世襲(せしゆう)で「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫(しゆびいつかん)した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃(そんぱい)は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである。」とある。たしかに天皇の制度の存廃は、国民の総意によって解決されるべきものであろう。しかし、法律や制度が、つねにすべて合憲というわけではないからこそ、その改廃や運用が議会や司法に問われるのではないか。前段では、現在の天皇の制度は、民主主義と両立するものでないことを明言しているからこそ、それまでずっと、その制度の運用の一環として望ましくないとして開会式を拒んできたはずである。環境に大きな変化があったわけでもない、天皇の言葉が劇的に変わったというタイミングでもない。変えた要因は不明のまま、マス・メディアが報ずるように、「共産党アレルギー」を払拭したかったのか、あるいは、共産党の「国民の声」係が電話口で答えるように、「開会式に出席したって『べつに、イイじゃん』っていう国民がほとんどでしょう、いまは安保関連法阻止の方が重要な課題なのを理解しないあなたの方がオカシイ」ということだったのか。

  環境の激変というのであれば、翌年20168月の天皇の生前退位表明であったかもしれない。ここでも、共産党は、その中身が、違憲の可能性がある退位特例法にも「静かな環境」での論議の末、全党一致で賛成した。 

<参考>
今年のクリスマスイブは(2)なんといってもそのサプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった(1)(20151227日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-6623.html

 

 

若い<論客>たち

 こうした流れの中で、安保関連法反対、憲法9条改変反対、原発再稼働反対というその一点で共通する著名人となると、保守政治家や研究者、文学者、ジャーナリストやタレントなど、過去の活動や発言などはお構いなしに、集会や講演会などに登場するという現象が蔓延する。最初は、その意外性と物珍しさもあるのだろうが、繰り返されると、多くは、準備の足りない、アジテーションで終わり、いわゆる肩書や名前への「依存度」は増す。
なお、最近、共産党の広報の一つ「生放送!とことん共産党」という動画が配信されていることを知った。そこに登場する“若き論客”の白井聡や中島岳志の天皇観というのも気になったのである。それぞれ1時間前後の小池晃との対談の動画だけからでは明確ではない。  

白井は、その動画で、日本は、戦前の天皇に代り、敗戦後は、アメリカがその地位を引き継ぎ、天皇制国家は、対米従属国家となったことを強調していた。アメリカの同盟国の中でも日本は、類を見ない屈辱的な関係を維持しているが、アメリカとしては冷戦崩壊以降、とくにトランプ政権以降は、同盟国としての存在価値は下がっていることに気づかねばいけないと。別のところでは、その属国意識が、政治も官僚もメディアも劣化させ、考えることができない人間が増やしてしまい。安倍政権の「やってる感」に国民は騙されている(「戦後体制の根幹を崩す安倍政権」『マスコミ市民』20193月)。また、昨年の新著『国体論』(文芸春秋)では、つぎのような主旨の構想を展開する。すなわち、平成の天皇は「国民統合」を志向するがゆえに、親米保守の政権が日本社会を荒廃させている現状に危機意識をもって「本来ならば国体の中心にいると観念されてきた存在=天皇が、その流れに待ったをかける行為に出たのである」とした。その決断に対する「共感と敬意」の意思を国民が受け止めることで真の民主主義への可能性を探ることができるのではないか、ということらしい。

    天皇の決断を介して、真の民主主義の可能性を探るというのも、大いなる天皇依存であって、まさに国民一人一人が考えて行動すべき本来の民主主義から大きく外れることになるのではないか、と私には思えたのである。

 また中島は、先の「とことん共産党」の対談では、苦難の中で「ブレない共産党」に敬意を表していたが、まず、天皇制に関しては曲折があったことは確かだろう。その辺をどう受け止めているのかは、どこかで語っているのだろうか、図書館にかけ込まねばならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年3月 5日 (火)

「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(4)

「無反応」だったのか

 なお、前々回の記事で触れた子安宣邦の大辻時評にかかるツイートの「平成という時代が天皇制国家日本の強みを再確認しながら終わろうとするようなことをだれが予想しただろうか。今日の「朝日歌壇」の時評で歌人大辻隆弘が書いている。・・・」の主旨がややつかみにくいのだが、この冒頭の一文がまず気になった。子安にして「天皇制国家日本の『強み』を再確認」する時代を予想できなかったというのも疑問だったが、「強み」というのも、どういう意味なのか、分かりにくかった私には、さらなる説明をブログなどで展開してほしいと思った。ツイートやフェイスブックでの発言は、私にはどうも苦手だというのがよく分かった次第。
 それはともかく、大辻は、前記時評で「『短歌研究』1月号の<平成の大御歌と御歌>の特集に対して無反応だった」というが、彼が引用している瀬戸夏子の「白手紙紀行」(『現代短歌』20192月)は、「苛立っている」「慨嘆する」というレベルより、立派な批判的な反応ではなかったのか。そこを、軽くスルーしていることも気になっている。
 彼女は、『短歌研究』の総力特集を読んで「戦後短歌は終わったのかもしれない、と思った」と書き出す。昨年12月の天皇の誕生日記者会見における言葉を全文引用し、その上で、リベラルの多数派をよろこばせるだろうせる内容だが、「だからといって歓迎ばかりしていられないだろう。もし明仁天皇が逆のことをおっしゃられたらどうつもりなのか。」と(こうした敬語が自然に出てくるのがいささか驚きではあったが)。瀬戸は、まさに、「天皇依存症」のリベラル派の痛いところを突く。

さらに、後半で、「短歌においては御製がヒエラルキーの最上位である、という価値観、これまで戦後歌人がその矛盾に苦しんできながらもがいてきたはずのその現実『短歌研究』一月号はなんの臆面もなくさらけ出してしまった。『短歌研究』はもう戦後文学としての短歌の顔を捨てるつもりなのだろうか?」と疑問を呈している。
 末尾では、「ざっと<うた>の歴史を約一三〇〇年と仮定して考えるなら、むしろ戦後短歌の約七〇年が例外状態だったといえるのかもしれない」さらに、最後尾で、「短歌において差し迫った問題として、勅撰、あるいは勅撰時代の『うた』の気配が短歌の世界に到来することを考えなければならないのかもしれない。それは『和歌』と『短歌』を必ずしもはっきり区別して扱わず、一三〇〇年の伝統というおいしいところどりをしてきたつけを払わされるような、事態であるかもしれない。わたし自身もふくめた話ではあるが、もう少しちゃんと考えておいた方がいい。」と結ぶ。(下線部は、原文では傍点)

『短歌研究』の特集への反応が鈍い中で、ストレートな異議申し立て、反論は貴重なものであった。私が、このブログ記事(1)(2)で述べてきたように、そもそも、戦後短歌の出発において、彼女の言葉で言えば、短歌は、「和歌」と「シームレスに接続」、天皇制と「順接」していたことを検証してきたつもりなのだが、うまく伝えることができただろうか。また、私もこのブログの以下で、歌壇における「平成」との向き合い方に触れている。『ポトナム』2月号の時評の転載である。

なぜ元号にこだわるのか~元号を使わないワケ(201925日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/02/post-3b72.html

 


 さらに、大辻が「天皇制との関係は、文学としての短歌の『原罪』であると同時に、文芸としての短歌の『強味』でもあるのだ」と、かっこよく言ってのけたが、その内実は、瀬戸のいう「伝統のおいしいところどり」であり、私に言わせれば、短歌や歌人の権威づけに「皇室」を利用しているのではないか、としか思えないのである。
 なお、大辻は、この4月からNHK短歌の選者になるそうだ。

2019年2月17日『朝日新聞』↓

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「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(3)

「天皇制アレルギー」って?

 

 大辻のいう「天皇制に対するアレルギー」とは、何を意味しているのか、が分かりにくい。書き出しの一文からは、まず、戦後短歌の出発当初の「天皇制に対する拒否反応」が、「現在は薄らいでいる」という風に読みとることができる。その例証として、『短歌研究』1月号の特集「平成の大御歌と御歌」に、「以前なら厳しい批判に曝されたであろうこの特集に対して歌壇は無反応だった」ことを挙げている。 

 また、短歌雑誌による天皇夫妻の短歌関連記事に対する歌壇の無反応をもってして「天皇制へのアレルギー」が薄らいだという見立てから察するに、平成の天皇夫妻、生身の「天皇(夫妻)への歌人たちの感情ないし意識」の変化を指しているようにも考えられる。 

 「歌壇」において、前者のような「天皇制に対する拒否反応」があったのかといえば、当ブログの直前の記事でも述べているように、少なくとも「天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された」ことについての反省から戦後短歌が出発した、という実態は見受けられなかったことと、短歌史の執筆者たちの共通認識の双方からも反省から出発としたとは考えにくかった。

 また、敗戦直後の社会状況に立ち戻って、歌人たちが「天皇制」とどう向き合ってきたかを、当時の短歌雑誌などを材料に検証してきたつもりである。さらに、その対象を歌人以外にも広げてみも、そこから見えるものは、戦前の天皇制とのギャップに戸惑いながらも、天皇制への関心は強く、GHQの占領政策、東京裁判、日本国憲法制定過程を背景に、天皇制打倒、天皇の戦争責任論、天皇退位論が政界やマス・メディア、世論にあっても、今では想像もつかないくらい活発に議論されていたことを知ることになる。 

同時に、19462月から始まった昭和天皇の「巡幸」において、迎える国民の対応には、熱烈なものがあり、ぎごちなく手を振る姿や視察先での「あっ、そう」という対応が、逆に親しみを感じさせたのだろうか。我が家では父も薬専の学生だった長兄も入隊せずに、家族に戦死者が出なかったためなのか、50才を過ぎたばかりの父や周りの男性の大人たちが気軽に「天ちゃん、テンちゃん」と呼ぶのを耳にしていたことが思い出される。配給の食糧では間に合うはずもなく、子ども三人の家族五人のためヤミ米を手に入れるため苦労していた母、毎夜のように停電が続いていた時代の光景の一つでもあった。また、19465月の皇居前広場の食糧メーデーには25万人もの人が集まったといい、その1週間前のデモ隊の一部が、皇居内の厨房までなだれ込んだという話もあるくらいである。

 日本は、日米安全保障条約と引き換えに独立をしたが、各地で基地闘争も展開された。時代は下って、皇太子結婚前後のミッチーブームをへて、東京オリンピック、東海道新幹線開通、大阪万博というイベントなどを通じて、日本経済は高度成長が続いたとされる中、全国で公害問題も表面化する。そして、この間、19612月、深沢七郎の「風流夢譚」掲載の『中央公論』発行の中央公論社社長宅襲撃事件をきっかけに、日本の言論の自由は転換期を迎え、とくに天皇に関する言動を自主規制する風潮が高まった。1964年生前叙勲の復活、1968年明治百年記念式典、天皇在位50年、60年記念式典、元号法公布などを経て、昭和天皇の闘病・死去に至って、その自主規制は、一般国民の「自粛」という社会現象にまで達した。昭和天皇死去報道の前後のマス・メディアにおいては、たしかに天皇・皇室情報の絶対量は増えたかもしれない。しかしその内容は、あくまでも、上記の「自主規制」の範囲内での盛り上がりであったといってもいいだろう。天皇・天皇制批判の書籍が書店の店頭から消えた時期でもあった。

 また、たとえば、1979年、進藤栄一によって、天皇が琉球諸島をアメリカの長期軍事占領することを希望していることを示す、いわゆる「天皇メッセージ」なる外交文書(対日政治顧問のWJシーボルトのマッカーサ―元帥のための覚書)をアメリカ国立公文書館で発見、発表(『世界』19794月)され、20083月には、同館からその文書の公開があり、確認され、沖縄の人々や本土の一部の人たちには衝撃を与えた。しかし、それにはことさら触れず、大方のマス・メディアは、昭和天皇の最晩年の短歌「思はざる病となりぬ沖縄を たづねて果さむつとめありしを」の思いを引き継いだとする平成天皇(夫妻)の11回に及ぶ沖縄の戦争犠牲者慰霊の旅をことごとしく報道し、「平和への願い」を表明し続ける天皇像を発信し続けている。

「平成」の時代になって、天皇・皇室情報は、宮内庁のホームページなどから入手しやすくなった。テレビ・新聞の天皇・皇室情報は、現在も変わることなく、宮内庁の記者クラブ「宮内記者会」を通しての取材によるものである。雑誌、とくに週刊誌などの取材にも、便宜を図るようにはなったというが、独自の報道内容には、宮内庁からはたびたびクレームをつけられているのも、ホームページから伺い知ることができる。そういう意味で、少しは開放的になったかに思われる。とくに、天皇夫妻は、公的行為として、積極的に、戦没者慰霊の旅や被災地慰問の旅を重ね、伝統的・文化的な行事にも出向いたり、招待したりして、社会への露出度は、高くはなった。さらに、「天皇家」にかかわる様々な情報、プライベートに属する情報も、従来の映像・活字メディアに限らないネット社会でも行き交うようになった。 

加えて、昭和天皇の側近たちの日記などが、公刊されるようになったことも見逃せない。藤田尚徳『侍従長の回想』(講談社1961)に始まり、東京裁判において天皇の戦争責任免責の一部を担ったという『木戸幸一日記』(東京大学出版会1966)、『宮中見聞録』(1968)などで知られていた木下道雄『側近日誌』(文芸春秋 1990)、『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』(文芸春秋 1991)、『入江相政日記』(朝日新聞社 199091)、『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞社 2007)、『関屋貞三郎日記』第1巻(国書刊行会 2018)などが出版され、富田朝彦元宮内庁長官や小林忍元侍従次長らのメモが発見されたなどの報道も続く。 

こうした情報によって、これまで、知りえなかった天皇周辺の状況が明らかになる部分は格段に広がったかに見える。大量の資料の公刊、発掘も、大辻のいうように、歌壇に限らず「天皇制アレルギー」は、一見「薄らいでいる」ように見えるかもしれない。いわゆる「タブー」が解かれたかにも受け取れる。しかし、ここで、もう一度、これらの内容にたちいってみたい。大きな皇室イベントのたびごとに、そして、とくに815日前後になると、新資料発見・発掘が頻出したり、似たような特集記事や特集番組が続出したりする。そこで、語られるのは、多く昭和天皇の苦悩であったり、平和への思いであったりする。また、平成の天皇は、象徴天皇として、国民に寄り添う、世界平和を願う発言や活動だったりする。その底流としての、天皇家の夫婦像や家族愛、絆が強調されるのも定番である。

だが、それ以上の情報は出てこない。とくに代替わりが迫った昨年から今年にかけて、そしてこれからも、新旧天皇の称揚情報は続き、象徴天皇制が民主主義と共存するものなのかどうかの議論は消し去られていく。
 

そして、いわゆる「リベラル」と称されていた人々や革新政党までが、平成天皇、象徴天皇制へとなだれ込んでいるのを目の当たりにする。 

そのあたりの状況を、二人の研究者は次のように分析している(朝日新聞付録「GLOBE2019111日)
 

原武史(1962~)は、「世襲の君主制は、潜在的に民主主義と矛盾する要素をはらんでいる。」として、次のように語る。

https://globe.asahi.com/article/12061627
 
 「天皇が内閣や議会を媒介せず、国民一人ひとりと結びつくことで、今の政治に対する「アンチ」につながっている側面もある。本来は野党が政権へのアンチにならなければいけないのに、そうならないで、天皇・皇后を理想化して、すがっている。政党政治が空洞化するという点で、超国家主義が台頭した昭和初期に通じるものがある。いまでも天皇に対する批判はタブーだ。20168月、現天皇がビデオメッセージで「退位」の意向をにじませた際も、もっと議論があると思っていたが、多くの憲法学者や政治学者がすんなり認めた。天皇が「おことば」を発するや、それが絶対になる、ということは本来おかしい。」
 
 
 また、河西秀哉(1977~)も、
「天皇制が、ある意味で民主主義の枠外にあることは間違いない」として次のように語る。https://globe.asahi.com/article/12061618
 
「これまで私たちは、そうした矛盾を考えないできた。その間にも、特にいまの天皇皇后両陛下は、被災地訪問や慰霊の旅を精力的に進めて、それこそが象徴としての役割だという概念を定着させてきた。(中略)高度成長が終わり、社会の分断がいわれるようになると、天皇は国民の「再統合」という役回りをより積極的に果たすようになる。
 
それが政治の不作為を埋める。沖縄でも被災地でも、本来なら政治が解決しなければいけない問題だが、天皇が行くことで、不満が顕在化するのを抑えてしまう。いわゆるリベラルの人たちも、本来は自分たちが語らなければならないこと、しなければならないことを、天皇に仮託してしまっている。ねじれのような状況だが、戦後70年にわたって天皇制についてきちんと考えてこなかったツケのようなものかもしれない。」

  本来、国民の一人一人が考えて、行動しなければならないはずのことを、原が「天皇にすがっている」、河西が「天皇に仮託してしまっている」と表現しているように、いわば「天皇依存症」に冒されているとする指摘は重要である。私も、これまで、こうした天皇の役回りは、まさに政治の弱点を補完しているにすぎないと述べてきた。それに甘んじていれば、一種の思考停止にも似て「楽」でもあるが、本来の機能を果たさない政治体制への抵抗の力を損ない、結果的に体制維持や支持につながってしまっていることが、現在の政治状況にいたらしめたと考えている。


 
 天皇家から発信される短歌というメッセージを過大評価するのも、同じような役割を期待しているからなのではないか。(つづく)

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2019年3月 1日 (金)

「短歌と天皇制」(2月17日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(2)

 

 戦後短歌は皇室との関係を結ぶことに慎重だった」のか
 

大辻の冒頭の一文を繰り返せば、「太平洋戦争中、短歌は戦意高揚の具であった。天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された。その反省から出発した戦後短歌は、皇室と関係を結ぶことに慎重だった。」とある。この時評の前提になっているので、やはり、こだわらざるを得ない。私は、すでに、「歌人は敗戦をどう受けとめたか」(『現代短歌と天皇制』風媒社 2001年)において、第二芸術論出現以前の論調を中心に分析を試みている。また、それと重なる部分もあるが、昨年の10月に当ブログで以下のテーマで連載をしている。下記の3件だけでも、見ていただきたい。ここでは、重複する部分もあるが、当時の短歌作品や歌人の執筆した文章をたどりたい。  

 元号が変わるというけれど、―73年の意味()敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(2)(201810 8)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/7352-e1cf.html

  元号が変わるというけれど、―73年の意味()―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制> (3) 2018/(20181011)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/736-7809.html

  元号が変わるというけれど、―73年の意味(8)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(4)20181029日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/73-4720.html

 

  たとえば、1945815日直後の『朝日新聞』には「大君の宜りたまふべき御詔かは 然る 御詔を われ聴かむとす(釈迢空)」(816日)「聖断はくだりたまひてかしこくも畏くもあるか涙しながる(斎藤茂吉)」(820日)などが大家たちの作品が発表されている。のちの「第二芸術論」において、1941128日の開戦を受けての作品とどこが違うのかと、批判の対象にもなる種類の作品であった。ちなみに、髙村光太郎の「一億の号泣」が同じようなコラムで発表されたのが817日であった。 

また、つぎの短歌は、いずれも、194510月号の『短歌研究』に発表されたものだが、まだ、GHQの検閲も軌道には乗っていなかった時期でもあったのだろう。続く、11月号では、翌年の歌会始の「勅題」は「松上雪」と発表されたことを報じている。  

・天皇ぞわれにまします天つ日ぞわれを照らさすこの和ぎを(吉植庄亮)
・大君のみためぞ吾ら生ける身もはてなむ身も捧げまつるらむ(高田浪吉)
・ひたふるに胸肝あつき詔やうつつの御声ききたてまつる(佐藤佐太郎)

 翌年、1946年になると、GHQの検閲が始まったことを、つぎのように伝える。 

「聯合軍最高司令部の事前検閲に就いて」と題して、歌集歌書短歌雑誌等一切の出版物は印刷前にゲラ刷りを日本放送協会内の聯合軍最高司令部検閲部宛に提出し検閲を受けることになった、旨の記事がある(「歌界記事」『短歌研究』194612月)。その後の天皇制にかかる作品の検閲状況は、上記の記事③を見ていただければわかるだろう。
 
1947123日開催の「歌会始」に際して、御歌所の千葉胤明、鳥野幸次に加えて、民間歌人として、斎藤茂吉と窪田空穂とともに選者となった佐佐木信綱は、『日本短歌』194611月号に「詠進歌に就いて」、19474月には「詠進歌を選して」を寄せ、後者では、「十五名の豫選歌が、御前に於いて、崇厳なる御式のもとに披講せられるのを承ってまことに感激に堪へなかつた次第である」として、時代を反映した、新憲法、祖国の再建、戦災地の復興について、生活を歌った作品の多かったことを特色としてあげている。

 

民間歌人が、歌会始の選者になったことに対しては、つぎのように評価も分かれていること自体、「短歌が皇室と関係を結ぶことに慎重であった」とはいえない例証ではないか。むしろ、皇室との積極的な関与を歓迎する考え方がかなり蔓延していたことにもなるだろう。 

岡野直七郎(18961986)は、「ひとたび聖断が下った以上、押しなべての国民は、今までの緊張がにわかに弛んで涙を流しつつ大詔を奉承したのである。(中略)国民詩である短歌の作者が、この日の感動を詠嘆したことは、極めて自然の勢であつた」と冒頭部分で述べた後、末尾では、川田順の皇太子殿下の作歌指導役に就いたこと、翌年1947年の歌会始の選者に、御歌所の歌人に佐佐木信綱、斎藤茂吉、窪田空穂が加えられたことを「特筆すべきとして、歌界の範囲が如何に広いかを示唆するものである」と結んでいる(「(昭和二十一年における短歌)終戦一年間の展開」『短歌研究』194612月)。

  

新短歌運動の推進者であったが、当時は、短歌ジャーナリストとして活動していた柳田新太郎(19031948) は、「御題『あけぼの』歌会始(一月二十三日)の詠進歌一三八二六首、選歌『天地にひかりみなぎりあけてゆくこのあけぼのの大きしづけさ(塩沢定)』一五首。今年から民間歌人三名(信綱、茂吉、空穂)が選者に加つたその結果に一応の期待がつながれたが、蓋を開けてみれば相も変らぬ御歌所短歌。在米羅府の高柳勝平(橄欖同人高柳沙水)の『あけぼのの大地しつかと踏みしめて遠くわれは呼ぶ祖国よ起てと』だけが異色、述べている(「短歌紀要」『短歌往来』19474月創刊号)。 

 窪田空穂(18771967)は、後に、つぎのような三一首の連作を寄稿している(「吹上御苑を拝観して」『短歌研究』194878月合併)。皇室と距離を置くどころではない。

 

御研究室に通はせたまふ路と聞き心ただならず踏みゆく朽葉 

見るはただ薄原なり焼け残る小き御文庫ぞ御住まひどころ 

吹上の御苑拝せしこの方や偲ぶに畏くわがこころ重し

 川田順は、1946年年頭より皇太子の作歌指導にあたり(「歌界記事」『短歌研究』19464月)、吉井勇は「すめろぎ」と題して5首を寄せている(『短歌往来』19477月)。 

おのづから胸ぬち熱し親しげに若き侍従の仕ふる見れば 

浪速津の市井のことも逡巡はずもうしてかしこすめろぎのまへ 

神にあらぬすめろぎたればわれ等また一布衣として御前にゐむ

 吉井、川田は、谷崎潤一郎と新村出とともに、天皇に招かれ文芸について語っているし(「座談会・天皇陛下の御前に文芸を語る」『小説新潮』19479(創刊号)、二人はともども1948年に「歌会始」選者になっている。吉井は1960年までつとめ、木俣修に譲ったかたちである。川田は「老いらくの恋」事件で、一年で降板するのだが。

 1951年の「歌会始」の豫選者 の中には、春日井瀇、五島茂、高尾亮一、中西悟堂という、すでに歌人としてメディアで活躍している著名人たちもいた。これも、中堅の歌人たちを含めて、皇室との関係を持ちたいとする願望の強いことの証ということができよう。 

 その後の、歌人と皇室との関係については、これまでの拙著で繰り返し述べていることなのだが、ざっくり言えば、「短歌が皇室と関係を結ぶことに慎重であった」というより、歌人たちは、むしろ、積極的な皇室へのアプローチを躊躇しなかったともいえる。

 なぜ、「天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された。その反省」もないままに、皇室との関係を深めようとした歌人たち、彼らにも寛容であり、抵抗なく受容した歌人たち、そして、今、現在の歌人たちにも、そのまま引き継がれ、さらにその関係は強化されようとしている、真っ只中にいる。

 その要因は、直接的には、各歌人たちが天皇とつながりたいという名誉欲や自己顕示欲につながるのだが、大局的にとらえると、GHQが日本の占領政策のために編み出された「象徴天皇制」というかたちで天皇制を残したこと、日本政府はつねに天皇、皇室を政治的に利用しようと目論んでいること、天皇及び周辺も象徴天皇制のもとで天皇家の繁栄持続を願い続けていたことを、マス・メディアが全面的に支えることによって、天皇制は「天皇家の物語」として深く、国民の間に浸透していた、考えられる。

うした流れの中で、たしかに、1960年前後、岡井隆による「歌会始」批判などが歌壇をにぎわしたこともあったが、それも一過性で、その岡井も1993年から2014年まで選者、その後は御用掛を務めるに至った。その間には、1979年には、いわゆる「戦中派」と称される世代の岡野弘彦(1924~)と上田三四二(19231989)がそろって選者入りしたときも、その意外性を指摘する声もあったが、岡野は、2008年まで務め、その後は御用掛を務めていたが、今は、篠弘に譲ったようである。 

本記事の前半のような作業の中では、戦後短歌のスタートにおいて「短歌が皇室と関係を結ぶことに慎重であった」という事実は見出しがたかった。

昭和天皇の時代が終わり、平成に入ってからの「短歌と天皇制」、いかなる変貌遂げたのか、遂げなかったのか、について報告できればと思う。

 

私は、ツイッターというのは苦手で、参加?はしていないのだけれど、大辻の、この「時評」には、子安宣邦が直後に反応して、それをめぐってにぎわっているのを知った。その件とあわせて、つぎは、「天皇制アレルギー」について触れたい。(つづく)

 

 
 

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2019年2月25日 (月)

「短歌と天皇制」(2月17 日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(1)

 

「その反省から出発した戦後短歌」って、ホント?

 

すでに、1週間以上も経ってしまったのだが、217日『朝日新聞』の「歌壇時評」の見出しは「短歌と天皇制」であった。皇室情報がメディアにあふれ出ているこの時期に、埋もれそうな見出しであった。しかし、見出しと同じ書名の著書(『短歌と天皇制』 風媒社 1988)を持ち、そのテーマで書き続けている私としては、ほっとくわけにもいかず、読んでみた。執筆者の大辻隆弘(1960~)は、未来短歌会の選者でもあり、評論もこなす歌人である。しかし、その内容は、やはりというか、自身の「結論」に導く強引な論法には、かなりの問題があることがわかった。その文章は次のように始まる。 

「太平洋戦争中、短歌は戦意高揚の具であった。天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された。その反省から出発した戦後短歌は、皇室と関係を結ぶことに慎重だった。戦後短歌には天皇制に対するアレルギーがあったのだ。が、今、そのアレルギーは薄らいでいるように見える。・・・」

 まず、「その反省から出発した戦後短歌」という認識は、かなり「美化した」というより、当時の短歌状況を歪めていることにならないか、と思ったのである。もちろん私にしても、当時の歌壇や歌人の状況をリアルタイムでは知りようがない。戦後生まれの大辻は、何を根拠にしているのだろうか。いくつかの戦後短歌史は、敗戦直後の短歌状況をつぎのように述べている。 

「短歌は、戦意昂揚に踊らされていたために、衰弱がひどくて真の文学的立ち直りを見ることができなかった。戦後の虚脱状態がしばらくつづくのである」(木俣修『昭和短歌史』明治書院 1966年再版 571頁)

「終戦直後の内部的な混乱、また第二芸術論による外部からの追討ちにもかかわらず、このころ歌壇はもうこういう「年齢的、歌歴順の秩序」をすっかり回復している。割切っていえば――ということは、一時期における左翼『人民短歌』運動の強勢と、若手「新歌人集団」グループの急激な進出を別にすれば、歌壇は、敗戦によって格別の変化を蒙ることがなかったといっていい。とは言え、戦後はすべての歌人にとって再出発だった」として、歌人によっては、解放であり、試練であり、喪失であり、それが創作活動の刺激となり「戦後短歌の多彩な収穫を約束した」とする(上田三四二『戦後短歌史』 三一書房 1974年 89頁)

「この人たち(茂吉、文明、空穂、善麿、夕暮など近代短歌の大家)にとって国家からの桎梏から解放されるということは、悲しみに富んだ悔しみにほかならなかったのである」とし、この「悲傷の極限」から始まる戦後は、戦時中の弾圧から解放された歌人たち「渡辺順三らが『人民短歌』誌上で、いくぶん戦争責任の問題を取り上げたが、みずからの禍根を払っての公式的な攻撃であったきらいもあって、ついに歌壇の一般問題にならなかったのである」(篠弘『現代短歌史Ⅰ』短歌研究社 1983年、22頁)

 これらの「短歌史」に「反省」という言葉が出てこない。だが、その一事をもって、断ずることはできないし、これらの執筆者の言は当然検証されなければならない。私も、必要に迫られて、限られた範囲ながら、敗戦直後の主な短歌総合雑誌や復刊間もない結社雑誌に目を通し、当時の短歌や歌人たちの文章をたどるだけでも、「戦後短歌の出発」にあたって「短歌は戦意高揚の具であった」こと、「天皇に忠誠を表す形で戦争協力歌が量産された」ことへの反省があったとは受け取りがたかった。逆に、GHQの検閲文書を収録したプランゲ文庫により短歌雑誌の検閲記録には、天皇制賛美を理由として削除された短歌や文章も決して少なくないことも知るようになった。


 
 上記の上田三四二の文中にある、歌壇における「年齢的、歌歴順の秩序」とは、1949年から50年代にかけて、10年余を短歌ジャーナリズムに身を置いた中井英夫が、敗戦後も変わることのない歌壇の状況を端的に表した言葉だが、「昭和二十年~二十三年」の歌壇の状況についても言及している。俳句に向けられた第二芸術論の余波で歌壇も大揺れに揺れたことに触れて、「大部分の歌人の胸中に深く巣食っていたのは、戦争中に戦争協力の歌を作るのはまったく当たり前のことではないかという、当時の日本人は考えて怪しまず、そのまま今日まで持ち越されてしまった手前勝手な論理であった」(中井英夫『増補黒衣の短歌史』潮出版社 19751920頁)と述べ、その典型として、佐藤佐太郎の一文(『アララギ』19461月)をあげるのである。

 

 戦後短歌の出発を語るからには、せめて、これらの短歌史をひも解く謙虚さが必要ではなかったか。

 

 

 

 

 

 

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在位30年記念式典にやはり登場した、天皇・皇后の短歌

 

  

きょう224日の政府主催の在位30年記念式典は、NHKだけが、14時から1時間の予定でフルの中継をしていた。もう一度録画で見るつもりだが、とりあえずの感想を述べておきたい。どこで少し狂ったのか、式典は、10分近く延びて、NHK15時から5分間のニュースが1510分から始まった。
 入場と同じく、安倍首相が先導して退場する天皇夫妻は、舞台に整列している祝辞を述べた人たちや演奏をした人たち、ひとり一人に言葉をかけ、挨拶をしているようだった。途中で、招待客1100人ともいう会場の人々に対しても、天皇は、ながらく手を振る場面もあって、首相と菅官房長官は、夫妻の前後で、少し戸惑っているようにも見えた。想定外だったのかもしれない。

 最初に画面で示された式次第のなかに、「御製、御歌の朗読」というのがあった。沖縄出身の歌手が、天皇の「琉歌」に皇后が作曲した「歌声の響」を歌うということは、かなり前からマス・メディアで喧伝されていた。「御製・御歌」を波乃久里子が朗読することを私は知らなかったが、 朗読されたのは、二首とも、2003年歌会始の「御題」の「町」として発表された短歌だった。選歌は天皇夫妻の希望であったのだろうか。

・我が国の旅重ねきて思ふかな年経るごとに町はととのふ
(天皇)

・ひと時の幸分かつがに人びとの佇むゆふべ町に花降る
(皇后)

 つぎに、登場した、上記の「歌声の響」は、天皇夫妻が皇太子時代1975年、初めての沖縄訪問時に、屋我地島(名護市)の国立療養所沖縄愛楽園を訪れ、その別れ際に、ハンセン病の入園者たちから、「だんじょかれよし」という地元の船出歌で見送られたことに、心打たれた夫妻、のちに天皇が琉歌を作り、皇后が曲を付けたものを愛楽園に送ったという、経緯を持つ楽曲だった。歌い手が三浦大知、ピアノ千住明、バイオリン千住真理子であった。その琉歌というのは、沖縄に伝わる八・八・八・六という三十音の歌謡であり、式典では、繰り返しなどを取り入れて歌われていた。

だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔 目にど残る

だんじよかれよしの歌や湧上がたん ゆうな咲きゆる島 肝に残て

 この琉歌の舞台となっている沖縄愛楽園は、その前身は、1938年に国策であったハンセン病者の強制隔離のために開設された国立国頭療養所であり、1972年沖縄の本土復帰とともに厚生省に移管となり国立療養所沖縄愛楽園となった。1996年、らい予防法が廃止された後、今日に至るまで、元患者の方々のさまざまな差別や苦痛が続いている現実もある中で、昨年、沖縄愛楽園は開設80年を迎え、『沖縄タイムス』は、社説で、次のように述べている。

  「愛楽園は1938年11月10日開園した。80年の間に延べ3904人が入所し、2100人が退園、1372人が園で亡くなった。現在も142人の入所者が暮らす。
 入所者の平均年齢は84歳。(中略) 元患者たちの、家族や親族、社会から受けた激烈な差別の記憶は鮮明だ。実名を明かせないまま生涯を終えた人は数知れず、長い年月を経て今ようやく語り始めた人たちもいることを思えば、国の誤った政策の影響の甚大さ、根深さを知る。」

「社説」の全文は、以下を参照ください。

◇沖縄タイムス社説
[沖縄愛楽園80年]謝罪・反省に終わりなし(2018122日)
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/353190

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  いわば、政府主催の天皇の「お祝いごと」としての式典で、こうした入園者たちとの交流というエピソードがことさら、一つの物語、美談のように流布されることには、どうしても違和感というか、やりきれなさがともなってしまう。そして、上記社説は、「隔離政策の根拠となった「らい予防法」が施行(96年に廃止)されて1世紀以上たつが、元患者や家族の人権回復は道半ばだ。国策にならい、ハンセン病への差別と偏見を助長してきたメディアの責任も重い。過ちへの謝罪と反省に終わりはない。」と結んでいる。
 メディアの責任とともに、国策に積極的にかかわって協力していた貞明皇后はじめ皇室の責任も決して軽くはないはずである。この件については、以下の私のブログを参照いただければと思う。

◇冬の沖縄、二つの目的をもって~難しいと逃げてはいけないこと
(1)屋我地島、愛楽園を訪ねる(2017214日)
 
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-eeb9.html

◇皇室とハンセン病と―名護市屋我地島の「御歌碑」(201822日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/02/post-abe5.html

 さらに、式典最後の天皇の「お言葉」では、その結びの部分で、皇后の次の歌を紹介していた。

  「平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇(りょうあん)の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。
しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。」

 ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ(皇后)

*皇后の歌集『瀬音』(大東出版社 1997年)の「平成二年」の最後の 一首として収録されている。

 しかし、この結びの部分は、「お言葉」の中ほどの段落で、次のように述べている個所と共通する一面を持っていると思えたのである。全国各地からの寄せられた言葉を「皇室と共に平和な日本を・・・」ととらえ、下記のように「務めをはたしてこられたのは、この国の持つ民度のお陰」と述べている点であった。こんなとき、「民度」なんていう言葉を使うのかなあ、というのが正直な気持ちだった。「国民に寄り添う」という言葉も実体がとらえにくいなか、それにしても「寄り添いながら」「民度」を見極められているのかなとも。

  「これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。」
 当日にと思って、書き始めたのだが、日付が変わってしまった。きのうは、沖縄県民投票の日であったのだ。

 

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2019年2月 6日 (水)

1月16日「歌会始」の天皇の短歌

また、「歌会始」の話となってしまう。思いがけず、旧著『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001)が「週刊金曜日」に紹介された記事を当ブログでお知らせしたばかり。①  その時の執筆者の太田昌国さんが、以下のような論考を執筆されているのを、ネット上で知った。② そこでは、岡井隆の歌会始選者就任時の衝撃や今年の歌会始の天皇の「贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」にも言及している。「歌会始」のテレビ中継や新聞記事を読んでの感想はさまざまだと思うが、少しでも批判的な要素のある内容のものは、なかなか目に触れにくい。関心のある方はぜひお読みください。後半では、短歌と天皇制をテーマにした旧拙著3冊にも触れている。

 

 2019年、歌会始は終わったが~召人は二人?

(2019 1 17日)

 

②太田昌国のみたび夢は夜ひらく[104] 歌会始と天皇が詠む歌

(201924)

『反天皇制運動 Alert 』第32号(通巻414号、201925日発行)掲載

http://www.jca.apc.org/gendai_blog/wordpress/?p=836

 

 今年の天皇の歌は、阪神淡路大震災の10年後の追悼式典で渡された、亡くなった少女の自宅跡で花を開いたひまわりの種を詠んだものである、というエピソードが、復興の象徴として、テレビ中継はじめ、当日116日、翌日の117日のテレビや新聞で繰り返し報じられた。大震災は、まさに24年前の117日の早朝のことだったのである。これは、たんに偶然のこととは思えず、限りなく意図的なものに、私には思えたのである。天皇、選者、宮内庁の意向などもろもろが勘案、忖度が働いていたのではないか、と。

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2019年2月 5日 (火)

なぜ元号にこだわるのか~使わないワケとは

 私が会員になっている『ポトナム』の2月号に発表した「短歌時評」です。もともと表題はついていませんが、上記のように付けました。何度でも同じことを言っているような気がしますが、新しいファクトにもとづいて、言い続けるしかないかとも思っています。

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 私の周辺で、「いまの天皇っていいひとだよね」との言について、異を唱える人は少ない。短歌に関心のある人たちの間では「皇后のうたはさすがだね」と盛り上がったりする。昨年末、誕生日会見での「大嘗祭は身の丈で」という発言が報じられると「秋篠宮を見直した」との声も聞かれた。

 歌壇の現況を知る手立てとも思い、最新のカドカワムック『短歌年鑑』①と『短歌研究』一二月号の『短歌年鑑』②の二冊を通覧した。やはりというか、「平成」の文字が目立った。①には「巻頭言・『平成』に持続する前衛意識」(篠弘)、「回顧と展望・平成三十年を振り返る」(坂井修一)と、「平成」の文字こそないが「特別企画・歌会始の三十年」(岡野弘彦・篠弘・今野寿美)の記事がある。「編集後記」には、「平成最後の『短歌年鑑』ですが、五月に改元が予定されているため〈二〇一九年版〉という西暦表記になっています」とのことわりの一文が入っていた。②には、「座談会・二〇一八年歌壇展望 平成の『終わりの前』になにが起こったか。」(佐佐木幸綱・三枝昂之・栗木京子・小島ゆかり・穂村弘)、「歌人アンケート『平成の名歌』」などが目を引く。「編集後記」には「一年を通じて、特集のタイトルに平成という言葉を何度も使いましたが、その都度、“タイムカプセルの機能”を意識しておりました」とある。さらに『短歌研究』一月号の予告には、総力特集「平成の大御歌と御歌」のもと、鑑賞座談会(芳賀徹・園池公毅・寺井龍哉・今野寿美)と特別寄稿(岡野弘彦・春日真木子・加賀乙彦・篠弘)があった。三月には、現代歌人協会主催「現代短歌フェステイバル イン京都(平成時代の短歌を振り返る)」が開催されるという広告も目に入った。『短歌年鑑』①も、西暦・元号併記の時代も長く、西暦だけの時代もあったが、平成二年以降は、たしかに元号表示のみとなっていた。②では、西暦と元号の併記が続く。

 元号法は一九七九年六月に成立・施行されたが、元号は皇位が継承された場合に限り、政府が決める、という主旨の短い条文でしかない。国際化やグローバル化が進む、このインターネト社会において、各省庁のデータは西暦に統一、郵便切手や金融機関の一部でも西暦表示が進み、運転免許証も西暦表示に切り替わるなど、さまざまな場面で、その利便性から西暦表示に移行し始めている。

 昨年末の『朝日新聞』(一二月七日)に、代表的な文芸誌『すばる』(集英社)、『新潮』(新潮社)、『文學界』(文藝春秋)、『群像』(講談社)の一月号の広告が並んでいた。すべて「20191月(号)」の表示であった。なぜ、私が、これほどまでに元号にこだわるのかと言えば、そもそも、天皇という一個人の死や健康状態による改元が時代区分の指標になることへの疑念であった。

 現代にあって、短歌と天皇との深い関係を標榜し、短歌史を元号で括る意味がどれほどあるのか。かつては「明治短歌史」「大正短歌史」「昭和短歌史」という書物、『昭和萬葉集』という大部なアンソロジーも編まれた。しかし、この時代に、短歌と天皇との関係をより深めたいと望む歌人たちに「ワケ」があるとすれば、イデオロギーというより、短歌メディアと歌人たちによる、いわば一種のもたれあいのもと、「平成最後」を利用しているのではないかという思いにも駆られる。五月以降は、歌壇でも改元特集が組まれるかもしれない。天皇や皇室への親密性が、その歌人の評価にもつながるという時代が続くかもしれない。「平成を振り返る」というならば、象徴、文化、伝統、お人柄などという意匠やオブラートに包まれて存在し続ける天皇という制度を考えるよいチャンスにできればと思う。

(『ポトナム』2019年2月)

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