2022年9月16日 (金)

元首相の「国葬」には反対です~貞明皇后の葬儀でも、もめていた!

小学生が動員された: GHQの統治下にあった1951年5月17日、大正天皇の妻、昭和天皇の母、節子皇太后が66歳で急逝した。追号は貞明皇后とされ、6月22日、「大喪儀」が行われている。護国寺に隣接する豊島岡墓地での葬儀後、その日のうちに、多摩東陵に埋葬されている。この日、地元、池袋の小学校から先生に引率されて、護国寺近くでその葬列を見送った記憶がある。どの先生と誰と、何人くらいで出かけたのかも曖昧ながら、6年生の何人かの代表の一人であった記憶がある。今回の安倍元首相の国葬騒動で、思い出したのである。
 私の卒業した小学校は、とっくに他校と統合されて名前を変えている。気になるので、いま手元にある『創立三十五年記念誌』(1961年)の「沿革」を見てみたが、そんな記録はない。ではと、豊島区役所教育委員会に電話すると、それだけ古いと文書は残っていないというのが庶務課の回答、「行政情報センター」に相談してみてはと、直通電話を知らされる。センターにかけ直してみると、こちらとしても教育委員会に調べてもらうしかないと、まさにタライまわしの展開であった。せめて「豊島区史」のようなもので調べられませんかと尋ねると、1951年には、そのような記載はない、ということであった。手元の貞明皇后の評伝でも、学校現場の弔意状況までの記載がみあたらなかった。当時の新聞を見なければと思うが果たせないでいる。

貞明皇后の葬儀の顛末: 今回の国葬論議にかかわり、元首相ということで、吉田茂の「国葬」が前例として話題になっているが、実は、貞明皇后の葬儀の折にも、政府と宮内庁の間で、つまり、吉田茂首相と昭和天皇との意向の違いがあったらしい。宮内庁のホームページには、「貞明皇后大喪儀」について「昭和26年5月17日、皇太后陛下(貞明皇后と追号された。)が崩御になったので、同年6月22日の斂葬の儀を中心として、一連の大喪儀の儀式が行われました。事実上の国葬とされました。」との記述がある。「事実上の国葬」が気になるところである。
 敗戦後失効した「国葬令」(1926年10月21日)は、大正天皇死去の直前に成立しているが、「国葬」となるのは、「天皇、皇后、皇太后、太皇太后」と明記され、「国家に偉功ある者」も対象になり得るが、ときの内閣の判断に拠ることも明記されていた。貞明皇后の場合は法的根拠も前例もなかったのである。
 貞明皇后の葬儀をめぐっては、田島道治の『昭和天皇拝謁記』に詳しいらしい。未見なので、以下の記事を参考に、そのいきさつをたどってみよう。実にややこしいが、「天皇の政治利用」には違いなかった。

・森暢平「占領期、「国葬」が政治的論点となった貞明皇后逝去 社会学的皇室ウォッチング!/43」(週刊エコノミストオンライン 2022年8月8日配信)
https://weekly-economist.mainichiま.jp/articles/20220808/se1/00m/020/001000d

 貞明皇后が亡くなったのは、1951年5月17日の午後だった。
5月17日夜  吉田茂首相「占領下のため国葬は望まない」➡ 田島道治宮内庁長官
5月18日未明 大橋武夫法務総裁(法務大臣)・佐藤達夫法制意見長官(法制局長官)「国葬は法制上存在しないが、皇太后という身分であることからプライベートとは言い難く、公的な面もあることから、皇室の私的予算の「内定費」扱いではなく、「宮廷費」支弁による「皇室行事」にしては」と提案 ➡ 田島宮内庁長官
5月18日朝9時 田島「上記提案」➡ 昭和天皇「已むを得ず」
5月18日朝10時 岡崎勝男官房長官「宮廷費扱いの準国葬とする」➡ 宮内庁
5月18日夕刻 松井明首相秘書官「内閣は国葬をお願いしたが、陛下の考えで国葬にしないことになった、と説明したいので、了解を」➡ 田島宮内庁長官、拒否

 費用の出所を内定費にしても宮廷費にしても、国費には違いないのだが、このような経過をたどり、首相サイドの提案を宮内庁サイドは拒否した一方、「国情に鑑み、なるべく質素に行うようにとの「御思召」があった」との説明部分を容認したという。吉田首相は、「天皇の意向」ということにして、貞明皇后の葬儀に関しての国会での議論と占領軍への忖度批判の両方を封じたい思惑あったと、上記文献で森暢平は推測する。まさに、天皇の政治利用の一端であったのである。

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1951年6月23日『官報』「皇室事項」に、 葬儀の次第報告と昭和天皇と吉田茂の誄(るい)辞が再録されている

今回の「国葬」: 岸田首相が安倍元首相の葬儀を「国葬」とすると、その理由も曖昧なまま、議会に諮ることもなく、早々に表明した。それというのも、さまざまな政府批判―物価高、コロナ対策、旧統一教会問題、オリンピック汚職などへの批判を、「国葬」をすることによって、いささかでもシャッフルしたい思惑だったのだろう。岸田首相は、元首相の長期の首相在任・功績に加えて、各国からの元首相への哀悼と国民への弔意が示されているので、「国葬」で応えるとの弁を繰り返し、「丁寧な説明」からは程遠い、というより説明がつかないのである。「弔問外交」といっても、参列する国のトップはわずかでしかない。新聞社などの世論調査でも、国葬反対が多くなり、50パーセントを越える結果も出ている。国民の多くは、気づいてしまったのである。
 イギリスのエリザベス女王の葬儀関連の行事が伝統に則して、華麗に進められているが、いまは、チャールズ新国王に渡る4兆円以上の相続財産が国民の関心の的にもなっているという。それこそ、女王が、「国情に鑑み、私の葬儀は極力質素に」とか、相続財産の一部を大型寄付にあてるなどの遺言を残していたら、彼女の人気はさらに高まったのではないか。

 なお、吉田茂や他の国葬については以下に詳しい。
・森暢平「55年前の社会党の失敗 立民は同じ轍を踏むな 社会学的皇室ウォッチング!/47」(サンデー毎日9月25日・10月2日合併号 2022年9月12日配信)
https://news.yahoo.co.jp/articles/93c69894ab305ce6ee25c9c0f362f594cdba28b7

・前田修輔「戦後日本の公葬―国葬の変容を中心に」(『史学雑誌』130-7 2021年7月) https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/130/7/130_61/_pdf

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めずらしく鳩がやって来た!もう一羽は、フェンスのてっぺんを歩いていた。

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2022年8月26日 (金)

『論潮』15号に寄稿しました~GHQの検閲下の短歌雑誌に見る<天皇><天皇制>

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 一昨年、岡村知子さんから『杉原一司歌集』を送っていただいたご縁で、日本近代文学の女性研究者を支援する同人誌『論潮』を知った。八月発行の15号に、お誘いいただき、ゲストとして、かなり長文の拙稿を掲載していただいた。これまで、雑誌やブログに断片的に書いてきたものだが、何とか、まとめることができたのは、ありがたいことだった。

<内容>
研究ノート・GHQの検閲下の短歌雑誌に見る<天皇><天皇制>90~128頁

はじめに
一 『短歌研究』一九四五年九月号に見る敗戦
二 天皇の「声」はどう詠まれたか
三 検閲下の「第二芸術論」
四 『アララギ』一九四七年一月号に見る「天皇」と「天皇制」
五 『八雲』登場
六 語りたがらない歌人たち
  内務省の検閲とGHQの検閲
  歌人はGHQの検閲をどう受け止めていたのか
  語り出す歌人たち

<関連拙著>
・「占領期における言論統制――歌人は検閲をいかに受けとめたか」

・『ポトナム』19739月、『短歌と天皇制』風媒社198810月、所収。

・「被占領下における短歌の検閲」『短歌往来』18873月、『現代短歌と天皇制』風媒社 20012月、所収

・元号が変わるというけれど、―73年の意味()~(9)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(1)~(5
  2018年107日~115

https://app.cocolog-nifty.com/cms/blogs/190233/entries/90067631

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/7352-e1cf.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/736-7809.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/73-4720.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/11/735-edf2.html

・「占領軍による検閲の痕跡」『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』 一葉社 2019年1月

・『プレス・コードの影』(中根誠著)書評「警鐘の書」『歌壇』20217

・『プレス・コードの影』(中根誠著)書評「表現の自由とは」『うた新聞』20218

 

 

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2022年3月 4日 (金)

歌人の自律性を考える~歌会始、学術会議任命拒否問題に触れて

   以下は、『ポトナム』三月号の「歌壇時評」に掲載されたものである。『ポトナム』は、今年4月で創刊100年を迎える。同人の高齢化は否めないが、健詠、健筆を願うとともに、若い人たちにも頑張って欲しいと思うばかりである。

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 ことしの「歌会始」の選者は、岡井隆引退後の二〇一五年以来、篠弘、三枝昂之、永田和宏、今野寿美、内藤明と変わっていない。応募歌数は、東日本大震災後、二万首前後を推移したが、平成からの代替わりとコロナ禍由来なのか一九年約一万六千、二〇年約一万四千、二二年は一万三八三〇首と下降線をたどっている。それでも、多くの人たちが、応募を繰り返し、入選を目指している。『短歌往来』の新人紹介欄で、ある一人は、さまざまな短歌コンクールに入賞し、「歌会始は未だ入選できず」と短いエッセイに書き(二〇二一年七月号)、一人は、所属結社とともに「令和三年度宮中歌会始佳作」と記していた(同年九月号)。二人は、ごく自然に「歌会始」の入選を目指していることを明言している。若い人たちが、天皇や天皇制に対して関心が薄いことは知っていたが、その延長線上で、「歌会始」を他の短歌コンクールや新聞歌壇と並列的に認識していることもわかった。それを象徴するかのように、ことしの入選者は、六〇歳以上が六人、四〇・五〇代三人と高校生一人、併せて一〇人であった。高校生は、直近九年間で七人の入選者を輩出した新潟県の私立高校の生徒であった。熱心な教師の指導のままに、高校生たちは、「歌会始」の意味を十分理解することなく、応募しているにちがいない。
 「歌会始」は、宮中行事の一つに過ぎなかったが、現在のような形になったのは一九四七年以降である。皇室と国民を結ぶ伝統的な文化的、国家的行事として守られるべきだとする説には、財政や人事においても国家的な介入を前提とするものだろう。

 国家的介入といえば、日本学術会議が推薦した新会員一〇五人の内六人が総理大臣の任命を拒否された事案が発生した。学術会議はじめ、日弁連ほか多くの学会が、任命拒否の理由を質し、学問の自由を侵すものだとして抗議声明を発し、多くの識者たちも抗議の声をあげた。二〇年一〇月、現代歌人協会の栗木京子理事長、日本歌人クラブの藤原龍一郎会長との連名で「任命拒否を速やかに撤回し」、国民への説明責任を果たすべきとする声明を出した。また、一九年五月にも、高校の新しい学習指導要領のもとに、従来の必修「総合国語」の教科書が、二二年度から「現代の国語」と「言語文化」に再編されるのを受けて、現代歌人協会理事長と日本歌人クラブ会長名で声明を出していた。「現代の国語」は、論理的、実用的文章を中心とし、「言語文化」の中で扱われる近現代文学、近現代詩歌は、大きく後退するのではないかとの危機感からだったか。
 上記団体の会員でもない私だが、さまざまな意見を持つ歌人たちを束ねた形で「声明」を出すにあたって、どのように合意形成がなされたのか不安になった。表現者としての自覚を持つ歌人たちの団体であるならば、自主・自律性が問われよう。国からの財政支援はないとしても、団体の役職者たちが、歌会始の選者や召人、靖国神社献詠の選者だとしたら、自由な論議が展開されるのだろうか。
 学術会議にしても、欧米のように財政や人事は政府から独立した「アカデミー」として活動すべきではなかったかと、私は考える。また、近現代文学との出会いは、学校教育における教科書だけではないはずで、教科書による押し付け的な文学教育からの解放を目指す考え方もある。本誌一月号でも述べたように、若手歌人たちの「最も印象に残った一首」との出会いは、大半、教科書ではなかった。

 国家権力と本気で対峙するならば、「声明を出しておく」ことよりも、歌人、歌人団体は、「歌会始」や「靖国神社」とは、きっぱり縁を切るべきではないか。

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まだ、やってくるヒヨドリ。ヤマボウシの枝から、真下のえさ台を監視しているのか。ちょっと見ただけでは、枝に紛れていて、気がつかなかった。

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2022年2月17日 (木)

秋篠宮家の長男の進学先が決まったらしい

 在学中の中学校と進学先の筑波大学付属高校との間の時限的な提携校進学制度を活用した上、一般入試も受験し、2月16日に合格が確定したとの報道である。ちなみに今年の募集要項をみると、男女ほぼ同数の合計80名、英・国・数・理・社の五教科(300点満点)と調査書(80点満点)をもって総合的に判断する、となっていた。大学名は変わったが、私の母校には違いなかったので、なんとなく気にはなっていた。
   私が受験した当時は、五科目に加えて、音楽、体育、職業・家庭、図工が加わっての9科目であった。苦手だった音楽と体育の実技の試験が不安であった。体育は、運動場に出て、先生(後から思えば広井先生)の前で逆上がりをやった記憶がある。この実技に、私は半そでの体操服でのぞんでいたのを、手伝いか何かで、どこかで見ていた内部進学の生徒がいたらしい。あとで、「寒いのに、かなり張り切っていたじゃない」とからかわれたのを覚えている。また、音楽は、一人づつ教室に入って、黒板に書かれた楽譜の楽典的な知識と歌唱のテストであったと思う。

 募集定員は男子30名、女子15名であった。付属中学校からの内部進学者と合わせて各クラス男子30名、女子15名の5クラス編成で、高校からの外部入学者は、五クラスに男子6名、女子3名が配属されたことになる。入学当初は、「付属文化」?みたいなものに戸惑いながら、高校からの女子3人が固まっていることも多かったが、それぞれの性格や選択科目の違いもあって、まじりあっていくことができたのだろう。私は、嫌いではなかった「書道」を選択、上条信山先生の時間は楽しかった思い出がある。高校なのに、第二外国語があるというので、ドイツ語を選択したものの挫折した。大学でもドイツ語を選択、英語も一緒なのだが、まったくものになっていない。後に海外旅行をするたびにいやというほど知らされた。
 担任は三年間、化学の米山勝太郎先生だった。授業では「なぜって、おめぇ」が口癖だった。数年前、白寿を全うされた。数学の横地清先生は「もう、人生に疲れたな」風のボヤキで始まる授業だったが、指導はきびしく、あてられて黒板で立ち往生、解答できないと、妙な宿題が課せられた。理不尽ながら従うしかなかった。そうして、時どき、勧められたのが「ヴィーチャとその友達」という少年向けの物語だった。ロシアの子どもたちはみな教え合って向上するという話らしかったが、読みかけたものの登場人物の名がややこしくて、こんな余裕はないみたいなことで挫折?いまだに先生の宿題は果たしていない。世界史の山本洋幸先生は、物語調の弁舌で、聞いていて楽しかったが、受験対策としてはどうであったのだろう。
 数年後、大学での「社会科」の教育実習で、母校でお世話になるのだが、指導の金原左門先生には絞られた。「一般社会」で「国際社会の成立」?あたりの授業だったのだが、人前で話すことが苦手だった私は、「君は教職には向かないかも」とも言われた。一方、池袋の薬屋で育った私は、店番に立つことは、けっこう好きで、栄養剤を勧めたり、資生堂の高い化粧品を売って、花椿会入会の勧誘をしたりした。土地柄、男性用品を買いに来たお客には「ダースですか、バラですか」なんて応じていたのだから。

 高校での校外生活、夏の富浦海岸、蓼科高原での生活、二年の東北、三年の関西の修学旅行は、かなりの日数、家を離れることになり、出先から、何枚ものハガキを家に書いていたらしい。休業日もなく働いていた家族たち、旅行などというものは七つ上の兄が高校の修学旅行に出かけたくらいだったからだろう。いまのようなスイミングスクールなどない時代、富浦では、クラスのほとんどが遠泳に挑戦していたが、私はボートから氷砂糖を渡すくらいの応援しかできなかった思い出もある。
  スポーツでは、対外戦も盛んで、学習院との大掛かりな試合は「院戦」と呼ばれた。馬術とか開成とのボートレースとかの観戦も体験することができた。

 私の最初の就職先が学習院大学で、二年で飛び出したっけ。そして、いつの頃からか、天皇制への関心が高まった。妙な因縁ではある。
  コロナ禍の前に、高校最後の同期会というので、何十年ぶりかで参加した。これも数十年前のたった一冊の同窓会名簿も処分した。会費は納めていないが、同窓会「会報」だけは頂戴している昨今である。

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岩波少年文庫で、1954年1
月に出版されてたというから、当時は新刊であった。

 

 

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2022年2月12日 (土)

「建国記念の日」だった2月11日、祝日を振り返る

 窓を開けると、前夜からの雪は止み、朝の陽ざしがまぶしかった。2月11日は何の日だっけ、三連休の初日というが。

「建国記念の日」だったのだが、近頃の祝日は、その由来も、だんだん訳がわからなくなって来た。天皇の代替わりの2019年には、天皇誕生日というものがなかったのは、私としてはすっきりしたものの、代替わり報道のものものしさに、辟易としたし、元号と西暦の換算の混乱はいまでも続く。昨年の東京オリンピックの年は、カレンダーの山の日、海の日、スポーツの日は、オリンピック日程に合わせ、移動した。

 そもそも、敗戦後の祝日法は、1948年7月に制定され、その当時は、元日(1月1日)、成人の日(1月15日)、春分の日(春分日)、天皇誕生日(4月29日)、憲法記念日(5月3日)、こどもの日(5月5日)、秋分の日(秋分日)、文化の日(11月3日)、勤労感謝の日(11月23日)だった。この九つの日であった。私の小学校からの学生時代のすべては、この祝日しかなかった。大学生になって、文化の日はかつての明治節、明治天皇の誕生日、勤労感謝の日は新嘗祭、春分の日は春季皇霊祭、秋分の日は秋季皇霊祭であったことを知った。社会人になって、退職するまで、土曜日は出勤日だった。

 いわゆる紀元節復活の動きは、占領軍か去って始動し、9回も国会に提出されながら、成立することはなかった。1965年、佐藤栄作首相は、政府は、2月11日を建国記念日とする法案を提出すると表明、神話にもとづく神武天皇の即位由来の「紀元節」「建国記念日」と名付けることを避け、「建国記念日」を設けるという祝日法改正法案が、1966年6月25日成立してしまった。同法改正では、敬老の日の9月15日、体育の日の10月10日を新設するが「建国記念日」だけは、何月何日にするのかは、政令で定めるとしたあいまいな形であった。総理府に設置した「建国記念日審議会」は9回の会議、5回の公聴会、世論調査を経て、9人の審議委員中7人の賛成多数で「2月11日」を答申、ただちに1966年12月9日の政令で、2月11日が「建国記念の日」となったという経緯がある。 敬老の日や体育の日をセットにして祝日、休日を増やすという世論操作が功を奏したのではなかったか。ちなみに、その審議会メンバーをみると、いかにも政府のシナリオ通り、出来レースの感が強いのは、現在も変わっていないのではないか。
 ちなみに、審議会の会長:菅原通濟、会長代理:吉村正、桶谷繁雄、榊原仟、田邊繁子、舟橋聖一、松下正壽各委員が2月11日に賛成。反対の阿部源一(東洋大学教授、経済学専攻)は、祝日とするのは望ましくない、強いて挙げるなら1月1日とする意見、奥田東(京都大学総長、農学専攻)は、人間社会でなく国土に重きをおくべきで、立春の日がよいとする意見であった。

 1973年からは、祝日と日曜が重なると、振替休日制度が導入され、休日は増えた。また、労働時間の短縮の流れの中で、まず、1992年4月から国家公務員の週休2日制が導入され、国公立学校においては、1992年から月一の土曜休みが始まり、完全に週休2日になったには2002年4月からであった。

 2000年代に入ると、これまで月日が固定していた祝日を移動することで、日曜日・月曜日の連休が増える仕組みが始まった。

成人の日:1948年から1月15日  ⇒ 2000年から1月第2月曜

体育の日:1966年から10月10日  ⇒  2000年から10月第2月曜

            (2020年からスポーツの日)

海の日: 1996年から7月20日  ⇒ 2001年から7月第3日曜

敬老の日:1966年から9月15日  ⇒ 2003年から9月第3日曜

 さらに、2007年から5月4日の「みどりの日」、2016年から8月11日の「山の日」を新設して、5月ゴールデンウイークの3連休の確保、8月のお盆休みのスタートを早めた。もちろん、祝日、休日が増えることは悪いことではないが、まずその恩恵に浴することできるのは、公務員や学校、大手企業の社員たちではないか。その一方、出勤日の残業、待ち帰り残業が増えたりすることもある。そもそも暦通りに休めない職種や中小・零細企業の労働者がいる。正規労働者の休日を確保するために非正規労働者で補完、夜間労働や長時間労働を非正規のシフト制でカバーする事業も増え、サービスを受ける利用者や経営者の利便性や効率性と裏腹に、労働環境の格差はますます広がっていくのが現実ではないのか。
 定年延長や再雇用が進む一方で、非正規の若者が増加し、結婚や出産が遠のいてゆく中で、ほんとうに休日を楽しめる人たちが増えているのだろうか。「新しい働き方」?弱者切り捨て、放置につながりかねない。

 祝日・休日とは、縁遠くなった身ではあるが、そんなことを考えた「祝日」ではあった。

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2月12日、今朝の雪。つばきが蕾をつけはじめたが、水仙はまだのようで、いつもより遅いかな。

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このところ、ヒヨドリに陣取られ、近づけなったメジロ、夕方になって、ようやくエサ台に現れた

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2022年2月 3日 (木)

根付く「不平等」の壁

 以下は、『ポトナム』に寄稿した歌壇時評である。
 一つ前の記事は、貞明皇后の短歌を引いた。今回は、明治天皇美子皇后、昭憲皇太后の短歌の引用で始まる。今は、旧著でも、このブログでも何回か触れているが、平成期の美智子皇后の短歌を読み、少しまとまった文章を書こうと思っている。昭和期の良子皇后、現代の雅子皇后も含めて、近現代の皇后は、それぞれに、ことなった性格や能力を持っていたと思うが、彼女らの行動や例えば短歌にしても、政治に利用されるという大きな役割からはみ出すことはなかった。あったであろう葛藤や配慮が痛ましいだけに、現代こそ、天皇制そのものが、不平等や格差を広げ、その根源になっていることを自覚しなければならないだろう。

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・松が枝にたちならびてもさく花のよわきこころは見ゆべきものを(「男女同権といふこと」)

・むつまじき中洲にあそぶみさごすらおのづからなる道はありけり(「夫婦有別」)

 最近、明治以降の皇后の短歌を読んでいる。類歌が多い中で、「詞書」が珍しかったので、この二首に立ち止まった。一八七九年、明治天皇の美子皇后の歌である。教育、とくに女子教育の普及に熱心であったことは知られるところだが、女性の「よわきこころ」、「おのづからなる道」、その弱さ、役割分担というものをわきまえ、それを積極的に自覚すべきだと説いている。皇后としては、女性の「エリート」の育成を目論みながらも、女性低位の教育制度をはみ出るものではなかった。当時、中村正直によるJ・S・ミルの訳書や福沢諭吉の『学問のすすめ』などが刊行され、「新聞紙上では”男女同権”が一大流行語になった」(関口すみ子「男女同権論」『女性学事典』岩波書店 二〇〇二年六月 三三三頁)ことを、見逃さずに詠んだものと思う。

 「男女同権」とは、もはや死語に近いのかもしれない。近年は、ジェンダーの平等、多様性の尊重という言葉に入れ替わりながら、平等が語られるようになった。二〇一五年、国連サミットで、二〇三〇年を達成期限として採択された「SDGs(持続可能な開発目標)」の一七の目標の一つとして「ジェンダー平等を実現しよう」が掲げられた。政治家やタレントたちが、あの一七色?のドーナツ型のバッジをつけはじめた。「世界中の人々が豊かに暮らし続けていくための世界共通」の「開発目標」の一環なのかと思うと、どこか違和感を持ってしまう。さらに、社会的性差、文化的性差をなくすことが「多様性の尊重」に束ねられてしまうことにも危惧を覚えてしまう。あのバッジが氾濫しても、現実には「世界経済フォーラム」によるジェンダーギャップ指数はいずれの分野でも低位から抜け出せず、各様のパワハラ、セクハラは後を絶たない。夫婦別姓すらも法制化することができない。

・「新しい女」と言ひしは百年前いまなほ上書き入力つづく
    寺島博子『歌壇』二〇二一年八月

・旧姓を筆名とするその後の厨の海鼠は真夜ふとりぬ
    大野景子「作品点描」『角川短歌年鑑』二〇二二年版

   新刊の『角川短歌年鑑』では、「作品点描」「自選作品集」の配列が、従来の世代別から五十音順に変更された。「編集後記」によれば年代を超えてより多くの作品に触れ、氏名による検索がしやすいようにということであった。年齢によって作品の評価がされがちなことから解放されるという意味でもよかったと思う。
   また、最近、大学を拠点とする短歌会出身の若い歌人たちが活躍するようになった。すると、歌壇では、大学院生とか大学教員などの肩書がさりげなく表示されることが多くなり、いまだ学歴社会を引きづっているようにも思う。そして、職業に貴賤はないというものの、「図書館長になった」の詞書のある、つぎのような一首に出会った。館長は閑職ではなく、激職のはずなのに。

・大学の最後の仕事 書生らの守り神なりわれはよろこぶ
   坂井修一「漏刻」『短歌』二〇二一年一〇月

   三〇余年、その大半を大学図書館で働いてきた身としては、「いまだに変わっていないな」の思いしきりであった。教員にとって、図書館職員は「書生?」なのである。(『ポトナム』2022年2月) 

 

 

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2022年1月24日 (月)

1929年、貞明皇后は詠んでいた!「世の人にひろくたからをわかつこそまことのとみといふべかるらめ」

 論文とも言えない、エッセイにしてはいかにも気の利かない原稿ながら、「貞明皇后の短歌」について書き終えた。活字になるのはいつ頃のことか。
 貞明皇后(1884~1951年)は、明治天皇には皇太子妃として、大正天皇には皇后として、昭和天皇には皇太后として、天皇三代に仕えた人だった。貞明皇后の歌集や伝記などを読んでいると、15歳で、嘉仁皇太子と結婚し、病弱な夫を助け、女官制度の改革などにも取り組み、天皇家の一夫一婦制を確立したが、その苦労も格別だったことがわかる。天皇と政府、自身と政府との間での自らの立ち位置、長男、後の昭和天皇との確執などに悩みながら、慈善事業や「神ながらの道」に活路?を見出していく過程などを知ると、その健気さと痛ましさに、同情の念さえ覚え、のめり込んでしまいそうになる。しかし、片野真佐子さんの『近代の皇后』(講談社 2003年)と原武史さんの『皇后考』(講談社 2017年)の政治思想史からの論考に助けられながら、冷静さを取り戻すことにもなった。 そんな中で、私は、つぎのような短歌に立ち止まり、しばし考えさせられた。

・かなしさを親はかくしてくにのためうせしわが子をめではやすらむ」(1907年)

・生きものににぎはひし春もありけるをかばねつみたる庭となりたる(1923年)

・世の人にひろくたからをわかつこそまことのとみといふべかるらめ(1929年)

 1首目は、日露戦争後に詠まれたものだが、太平洋戦争下では、決して公には歌ってはならぬテーマであったろう。2首目は、関東大震災直後に詠まれたもので、「庭」はどこを示しているのかは定かではないが、「宮城前広場」は、震災直後は三十万人の避難民であふれかえっていたという(原武史『皇居前広場』光文社 2003年)。3首目は、1929年世界恐慌の不況時の歌で、富の格差への疑問が率直に詠まれている。1・3首目は、『貞明皇后御歌集』(主婦の友社編刊 1988年)に収録されているが、2首目は、その生々しい内容からか、上記『御歌集』には収録されておらず、伝記の一つ『貞明皇后』(主婦の友社編刊 1971年)に記されていた1首だった(148頁)。
 3首目は、「成長と分配の好循環?」などと岸田首相は叫んでいるが、この歌を「しっかり」読みこんで欲しいとさえ思う。三首とも、皇后らしからぬ、現代にあっても決して触れてはならない領域、暗部を詠んでいて、あの平成の美智子皇后だって、詠みはしなかった。
 アメリカの富裕層や欧米9か国の富豪たちが「今こそわれら富裕層に課税せよ」と提言しているというのに、日本は、日本企業は、富豪たちは何をやっているのか。

参照
ソロス氏ら米大富豪「超富裕層に課税を」(日本経済新聞 2019年6月25日)

世界の富豪102人が19日、「今こそ私たち富裕層に課税を」(2022年1月20日 AFP=時事)

 

 

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2022年1月22日 (土)

天皇制の行方(3)憲法との矛盾、整理してみると

 今年の「歌会始」
 私のしたことが。18日の「歌会始」のNHK中継を見逃してしまった。カレンダーにも、日記帳にも書いておいたのに。その頃、何をやっていたのだろう。加齢現象とするには悔しい。18日のNHK、夜7時のニュースでは、めずらしく、関係の報道はなかった。何しろ、オミクロン株の急激な感染拡大状況とその対策が、時間の大半を占め、トンガの火山爆発関連、春闘関係のニュースが続いた。他のニュースと一緒に、あのなんとも奇妙な歌の披講を聞かずに済んだのは可としなければならないだろう。

「皇位継承問題」国会に投げられたが
皇位継承問題についても、18日の7時のニュースではスルーしていた。1月の有識者会議の報告を受けた岸田首相が両院議長に投げ、その報告の説明を受けた各党代表の対応は、9時からのニュースウオッチナインでの報道となった。

 当ブログの「天皇制の行方」(1)(2)でも述べたように、有識者会議の報告は、次の2点に尽きる。

①女子皇族が結婚後も皇族としての身分を保持する
②旧宮家(1947年廃止され、11宮家51人が皇籍離脱)の男系男子を養子として皇族復帰する

の二案であった。「安定的な皇位継承策」は先送りとなったが、NHKは、世論調査を実施、①案賛成65%反対18%、②案賛成41%反対37%という結果であった。各党の反応はまちまちで、自民党の茂木敏充幹事長は「バランスの取れた報告だった。皇位継承の問題と切り離して皇族数を確保することが喫緊の課題」と表明している。「皇族数の確保」って、山からくだって街に出没する猪やクマを「確保」[捕獲」するかのような扱いではないか。とりあえず、①の女性皇族の「確保」を目指すらしい。②に至っては、75年前に廃止された宮家の男系男子を養子に迎えよ、とは、何を考えているのかわからず、時代錯誤もはなはだしい。戦前に「万世一系」などと言われた天皇家ではあるが、そもそも歴代天皇が確定したのは大正時代の末期、1926年3月、宮内省に「帝室制度審議会」のもと「臨時御歴代史実考査委員会」が立ち上げられ、同年10月には、皇統譜から神功皇后が排除されたという経緯がある。明治、大正天皇は、皇后の実子ではなかった。そんな風に継承されてきた皇位である。

「憲法にてらして女性・女系天皇を認める」という共産党の対応
そして、私が、あらためて驚いたのは、共産党の対応だった。「しんぶん赤旗」の電子版(2022年1月19日)によれば、小池晃書記局長は「日本国憲法では、第1条で、天皇について『日本国の象徴』『日本国民統合の象徴』と規定している。この憲法の規定に照らせば、多様な性を持つ人々によって構成されている日本国民の統合の『象徴』である天皇を、男性に限定する合理的理由はどこにもない。女性天皇を認めることは、日本国憲法の条項と精神に照らして合理性を持つと考える。女系天皇も同じ理由から認められるべきだというのが、日本共産党としての基本的な立場だ」と述べている。
  たしかに、平成からの天皇代替わり直後の「しんぶん赤旗」(2019年6月4日)の「天皇の制度と日本共産党の立場 志位委員長に聞く」(聞き手 小木曽陽司・赤旗編集局長)のインタビューで、
志位委員長は「私たちは、憲法にてらして女性・女系天皇を認めることに賛成です」とし、つぎのように、続けている。

 「日本国民統合の象徴」とは、天皇が積極的・能動的に国民を「統合する」ということではありません。もしかりにそのよう な権能を天皇に認めたら、政治的権能を有しないという憲法の制限条項と矛盾するという問題が生まれてくるでしょう。「日本国民統合の象徴」という憲法の規定は、さまざまな性、さまざまな思想、さまざまな民族など、多様な人々によって、まとまりをなしている日本国民を、天皇があくまで受動的に象徴すると理解されるべきだと考えます。

理解しがたい説明、ますます窮地に
 「日本国民を、天皇があくまでも受動的に象徴する」というが、象徴に受動的、能動的もないように思うし、天皇が勝手に「国民統合の象徴」になってもらっても困る、というより、「統合される国民」と「象徴となる天皇」とう存在を認めること自体が「法の下の平等」に反するのではないか。同時に、憲法に天皇の「世襲」条項がある以上、その不平等な枠内で、男女平等をうたって、女性、女系天皇を認めるということは、本末転倒ではないのか。
 志位委員長自身も、「皇室の内部での男女平等という見地からこの問題に接近すると、『もともと世襲という平等原則の枠外にある天皇の制度のなかに、男女平等の原則を持ち込むこと自体がおかしい』という批判も生まれるでしょう」と自覚しながら「私は、そういう接近でなく、国民のなかでの両性の平等、ジェンダー平等の発展という角度から接近することが重要ではないかと考えています」と言って、天皇を男性に限定している現状をただすことは、国民のなかでの男女平等の発展に寄与するから、ということらしい。
 さらに、公明党の山口代表の衆院解散直後の演説(2021年10月14日)で、共産党が「天皇制は憲法違反、廃止すべきだ」と言っているなどとの攻撃をされたのに対して、共産党の小池晃書記局長は10月15日、記者会見で、「わが党の綱領には、『天皇の制度は憲法上の制度』と明記しており、『憲法違反』であるわけがない。しかも、天皇の条項を含め、『現行憲法の前文をふくむ全条項をまもる』としている」と指摘、「二重の意味で誤りであり、荒唐無稽で完全なデマ発言だ」と厳しく批判した。
 また、昨年末には『中央公論』(2022年1月)において、山口代表が、共産党は「法の下の平等、国民主権と天皇制とは両立しないから」「天皇制は憲法違反の存在」と主張していると指摘したことに対して、『しんぶん赤旗』には、次のような記事があったらしいが、電子版では見当たらなかった。記事は、山口代表が、共産党綱領の「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく」の部分を取り上げて、「法の下の平等原則と世襲の天皇の制度が両立しない」と曲解しているという(「公明代表、共産党攻撃を正当化」『しんぶん赤旗』2021年12月28日)。
  その根拠としてつぎのような一文が続く。「そもそも憲法14条は『国民』の『法の下の平等』を保障したものであって、天皇は象徴としての地位にあるかぎり、その憲法上の地位は『国民』とは区別されたものであり、『法の下の平等』を享有しません。このことは広く共有された論点です」と。さらに、綱領の「人間の平等の原則」は「自然人である人間がすべて平等であるということであり、現在の憲法の枠内で天皇を除外した『国民の平等』とは異なります。」というのである。

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 天皇は自然人ではない?!
 「え?天皇は自然人ではない」と私には読めたのである。そうだとしたらいったい何なのだろう。人間天皇と地位とを区別せよとでもいうのだろうか。天皇の象徴としての地位は「国民」とは区別されたものであり、「法の下の平等」は享有しないというならば、何をいまさら「女性天皇、女系天皇」に賛成などというのだろう。基本にたちかえれば、天皇制を「天皇の制度」と呼び変えたところで、「国民主権」と「天皇の制度」とは両立しないのは、当然のことではではないのか、と私は考える。ただ、宮中祭祀と神道との関係に触れないまま、創価学会を母体とする公明党が言うことか。「おまいう」の部類かもしれない。
  また、先の綱領の続きでは「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである。」と宣言しているわけで、少なくとも、「国民主権の原則の首尾一貫した展開のため」に努力をすべきはずなのに、共産党は、目の前の、ともすれば、情緒的で移り気な国民の動向を気にするばかりで、現憲法内の矛盾を、「矛盾」として認めることをなぜそれほど拒むのだろう。言を弄して、矛盾を矛盾として認めないことを助長するような解釈や弁明を繰り返している。それでいて、支持者を増やすばかりか、減っているのが現実である。
  いま、天皇家が断絶して、天皇制が消滅したからといって、困るという国民がどれほどいるのか、とくに、若年層にあっては、なおさらのことであろう。何が何でも天皇制を残したい人たちというのは、どこかで利用してきた、利用したいと考えているからではないか。

  そもそも、共産党が、2004年の綱領改定のとき、「君主制の廃止」を綱領から削除したのはなぜか。前述の志位委員長のインタビューでは、「日本国憲法の天皇条項をより分析的に吟味した結果」だとし、改訂前は、戦後の天皇の制度について「ブルジョア君主制の一種」という規定づけをしていたが、主権という点では、日本国憲法に明記されている通り、日本という国は、国民主権の国であって、君主制の国とはいえないことから、民主主義革命が実行すべき課題として「君主制の廃止」を削除した、という主旨のことを話している。現憲法施行後、半世紀以上も経っていたのに、「より分析的に吟味した結果」というのも、にわかに信じがたい。

  かつての、2010年、鳩山由紀夫首相の「沖縄の普天間基地移転、県外を断念」表明の折の「学べば学ぶほど」の言を思い出してしまうのだが。
https://www.youtube.com/watch?v=h7md9o_4_SE

 

 

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2021年12月23日 (木)

天皇制はどこへゆく(2)

 12月22日、今後の皇室のあり方を検討してきた政府の有識者会議(清家篤座長)は、最終報告書を岸田首相に提出した。報道に拠れば、二つの案というのも、不明確な物言いで、何が言いたいのかわかりにくい。要するに、結論的には、皇位継承者は秋篠宮、その長男という流れを「ゆるがせにしてはならない」として、その先のことは「具体的に議論するには機が熟しておらず、かえって皇位継承を不安定化させるとも考えられる。将来、悠仁さまのご年齢やご結婚などをめぐる状況を踏まえたうえで議論を深めていくべきだ」と先送りをしたことになる。秋篠宮の長男は来春、筑波大付属高校に進学するそうだから、十年後くらいには、結婚することになっても、その相手は、これまでにないプレッシャーをうけることになるだろう。美智子皇后の失語症、雅子皇后の適応障害という重い前例がある。

 二案の一つは、皇族数の確保の点から、女性皇族が結婚しても皇籍を離れない、とするもので、夫も子どもにも皇位継承権はない。さらに、座長は、記者会見で「現制度の下で人生設計をお考えで、その意思は尊重されなければいけない」と述べ、対象は新制度創設後に生まれた女性皇族とすべきだとの考えを示した、という。

 もう一つの案というのが旧皇族の男系男子を養子に迎える案で、旧皇族とは戦後1947年に皇籍を離脱した11の宮家の子孫を示すというから、すでに70年以上も前の皇族?が復活!ということなので、もうこれは、完全にアウトだろう。

 有識者会議はいったい何を議論したのだろう。今回は、女性天皇、女系天皇には一切触れてないようだが、それ以前の問題として、今の制度の中で、皇位継承者がなくなるというのであれば、それを機会に天皇家、皇族の存在意義、必要性が問われるべきだろう。

  敗戦直後から、天皇の退位論というのが、何度も何度も浮上しながら、大きな国民的な議論とならなかったことは確かである。敗戦直後の戦争責任論と絡めての退位論をはじめとして、その後も、1950年代の占領終了後、明仁皇太子の結婚時、1970年代の昭和天皇の渡欧・渡米時の戦争責任決着論、1980年代の天皇・皇太子の高齢化など、その契機と理由はさまざまであった。国会で論議されたこともあったが、天皇制維持が前提であったのである。

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きれいに晴れ上がった冬至だった。ご近所で、手広く家庭菜園をなさっている方から、ときどき野菜をいただいている。この日はなんとご覧のような立派な白菜や大根などをいただいた。大根も、人参も、カブも庭の水道で土を落とした。他にもビニール袋に詰め込まれた?ほうれん草、チンゲン菜、小松菜もあった。年末のありがたい食糧支援であった。

 

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2021年12月20日 (月)

どうしても言い続けたいこと~天皇制はどこへゆく

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  また、狭い短歌の世界の話、歌会始の話であるが、天皇制とも密接にかかわっていることは間違いないのだから。
  ことしの歌会始は、新型ウイルス感染拡大のため一月から三月に延期された。さらに、密を避けるため、いわゆる招待者である陪聴者は一けたに縮小したが、普段だと100人近い年もあった。また入選作や皇族の歌を独特の朗詠―披講する役の人たちは、アクリル板とフェイスシールドを用いていた。他の参加者は、天皇夫妻はじめすべてマスク着用であり、入選者の一人はオンライン参加だった。テレビ中継のどの画面も、どこか異様な光景にも見えた。こうまでして開催すべきだったのか。来年も同様の方法、規模で実施する予定らしい。年末には、入選者氏名が発表されるはずである。

  選者は、2015年、岡井隆が引退して以来、篠弘、三枝昂之、永田和宏、今野寿美、内藤明というメンバーは替わってはいない。応募歌数は、東日本大震災後の2012年以来2万首前後を推移していたが、平成からの代替わりとコロナ禍が大きく影響しているのか、昨年が約1万6000首、ことしが約1万4000首とかなり落ち込んでいる。9月末日締め切りだったから、増える要因は見つからないが、来年はどうだろうか。昭和から平成への代替わりの折にも、1992年1万3000首台になったことがある。

   それでも、短歌愛好者の中で一定の人たちが、応募を繰り返し、入選を楽しみにしている人たちがいることは確かである。そして、最近、知って驚いたことがある。『短歌往来』という短歌雑誌で、新人紹介の欄がある。1969年生まれの男性は、NHK全国短歌大会などさまざまな短歌コンクールに入選していて、『未来』という結社に入会、「歌会始は未だ入選できず」と短いエッセイに書いていた(7月号)。また、同じ欄で、女性(生年不明)は、「令和3年度宮中歌会始佳作」、『好日』『湖笛』に所属の旨、記されていた(9月号)。「新人」なので、短歌をはじめて日が浅い二人が、何の抵抗もなく「歌会始」の入選を目指していることを明言していることだった。若い人たちが、天皇や天皇制に対して関心がないことは知っていたが、その延長線上で、「歌会始」が、ほかのさまざまの短歌コンクールや新聞歌壇と並列的に語られていることだった。ということは、彼らの指導にあたっている歌人たちの意識の反映でもあるのだろう。

  選者という地位は、さまざまな国家的な褒章制度の対象者となり、ひいては、芸術院会員、文化功労者、文化勲章への期待も高まろうというもの。文化勲章受章者の歌人は斎藤茂吉、佐佐木信綱、土屋文明だったが、いずれも選者であった。ことしの受章者の岡野弘彦は30年間近く選者であり、ついにたどり着いたという印象である。同じく選者だった窪田空穂と岡井隆は、文化功労者になったが、もう少し長生きをしていれば、文化勲章を受章したかもしれない。

  平成期の天皇の生前退位や眞子さんの結婚問題、また、女性天皇論などをきっかけに、天皇制自体について考える良い機会であったのに、ただ、ただ皇位継承者の減少を危惧する論調ばかりが先行している昨今である。政府の有識者会議の示す対策は、天皇家を存続させるためとはいえ、あまりにもアクロバット的な、時代錯誤的なものでしかない。

 

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