2022年3月10日 (木)

あの遠い赤い空~東京大空襲とウクライナと

 池袋の生家が空襲で焼け出されたのは、1945年3月10日の「東京大空襲」ではなく、4月13日から14日未明にかけての「城北大空襲」であった。私は、母の実家があった千葉県の佐原に母と次兄の三人で疎開をしていた。池袋では、父が薬屋を続けていたし、長兄は、薬専を1945年9月の繰り上げ卒業と召集を前に「軍事教練」のために通学していたはずである。 
 私には、母に抱かれながら「東京の空が赤い」と指さされた夜のかすかな記憶がある。それが、3月10日であったのか、4月の城北大空襲の遠い炎であったのか、尋ねた記憶もない。

 そして、4月の大空襲の数日後だったのだろう、父と長兄を、佐原駅頭で迎えたときの記憶がかすかによぎる。後で聞かされた話と重ねてのことなのだが、私は父に、東京からの土産をねだったそうだ。それまで、父がたまに疎開先を訪ねてきたときの森永キャラメルだったり、ビスケットだったり、なにがしかの土産を楽しみにしていたらしい。父は、隅に焼け焦げの残った、小さな肩掛けかばんを指して、逃げるのが精一杯で、何もないんだよ、諭したそうだ。
 家は燃え、防空壕の周りも火の海で、父と長兄は、手拭いで手をつなぎ、焼夷弾が燃え盛る中を、川越街道をひたすら走り、板橋の知り合いの農家に駆け込んだという。

 かすかながら、私にはもう一つの記憶がある。まだ、疎開前だったから、1944年のことだと思う。やはり空襲警報が鳴り、家族で防空壕に逃げようとしたとき、ちょうど風邪でもひいていていたのだろうか、母は、家の中の床下の暗い物入の中で、布団にくるまっていた。私たちに早く防空壕へ「逃げて」という声と顔がよみがえるのである。そして、これは母から何度か聞いた話なのだが、やはり、真夜中に空襲警報が鳴り、寝ている私をたたき起こすものの、くずっている私に、母は、防空壕に逃げないと死んじゃうよ、と必死だったらしい。そのとき、「シンデモイイ」と泣き叫んだそうだ。

 いずれもどこかで、すでに書いたりしているかもしれないが、やはり今日という日に、書きとどめておきたい。いま、ロシアのウクライナ侵攻の爆撃や避難する市民たちの映像と重なる。
いま、いったい私に何ができるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

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2021年3月10日 (水)

十年目の3月11日、どうしたらいいのか

 3月5日、山本宣治の命日だった。3月8日は、国際女性デーであった。そして、首都圏の非常事態宣言は2週間延長された日でもある。千葉県などは、いまだに、三桁の新規感染者が続くこともある。

 そして、今日は、東京大空襲の日であった。10万人の犠牲者を出し、東京の下町を焼き尽くしていた炎が遠い西の空を染めていたのをたしかに見ていた、かすかな記憶がよみがえる。疎開地の千葉県佐原から、母に促されてみたのだろう。店を守っていた父と専門学校の学生だった長兄が残っていた池袋の生家が無事だったのもつかの間、4月14日の未明、その我が家も城北大空襲で焼失、命からがらに憔悴して疎開地にやってきた父と兄、私は父に、いつものようにお土産をねだっていたという。何もわかっていなかったのである。

 そして、明日は3月11日、まず、思い起こすのは、あの日の私自身の記憶につながることではある。しかし、その後、次から次へと伝えられたテレビや新聞で報道された画像や記事、そして、10年にわたって、さまざまな人たちの証言や専門家による検証であった。津波に襲われることなく、福島の原発から遠く離れた、この地にあっても、強烈な恐怖となって迫ってくるのは、原発事故の眼に見えない、収束のない被害と津波の恐ろしさである。自身のわずかな体験ながら、津波に襲われ、多くの命と街を奪われた石巻、津波の被害に加え、原発を擁する女川の地を訪ねて、その感を一層強くしたのだった。その思いの一端を、このブログでも記してきた。

 昨3月9日の閣議で「東日本大震災復興の基本方針」の改定が決定されたという。そのポイントというのが、
①復興庁の設置は、10年間延長し、その前半5年間は第二期の「復興・創生期間」とする
②地震と津波の被災者の心のケアなどソフト事業に重点を置く
③原発事故の被災地では、避難指示が解除された地域への帰還や移住を促進し、国際的な教育研究拠点を整備する
④原発の汚染水処理の処分については、先送りできない課題だとして、風評対策も含め、適切なタイミングで結論を出す

 それに先立ち「第29回復興推進会議及び第53回原子力災害対策本部会議の合同会合」を開催し、上記の基本方針を議論したというが、首相は次のように述べたという(首相官邸ホームページ)。

「間もなく、東日本大震災から10年の節目を迎えます。被災地の方々の絶え間ない御努力によって、復興は着実に進展しています。
 昨年12月、岩手・宮城では、商業施設や防潮堤などを視察し、まちづくりやインフラ整備の進捗を実感しました。今後、これらの地域における被災者の心のケアやコミュニティ形成といったソフト面の施策に注力してまいります。
 昨年9月に続いて、先週末も福島を訪問し、地元の方々と移住されてきた方々が協力して、新しい挑戦を行う熱い思いに触れることができました。福島の復興のため、その前提となる廃炉の安全で着実な実施、特定復興再生拠点区域の避難指示解除に向けた取組と区域外の方針検討の加速、さらに移住の促進など、取り組んでまいります。
 こうした状況を踏まえ、来年度から始まる復興期間に向けて、『復興の基本方針』を改定いたします。
 福島の復興なくして、東北の復興なし。東北の復興なくして、日本の再生なし。 この決意の下に、引き続き政府の最重要課題として取り組んでいく必要があります。閣僚全員が復興大臣であると、その認識の下に、被災地の復興に全力を尽くしていただきたいと思います。」

 この日のNHK夜7時のニュースは、基本方針のポイントと、閣議前の復興会議の議論を踏まえての発言の最後のフレーズだけを放映していた。「福島の復興なくして、東北の復興なし。東北の復興なくして、日本の再生なし。」とはなんと白々しい、と思うことしきりであった。

  災害や痛ましい事件のあとに、被災者や被害者、その周辺の人たちへの「心のケア」の大切さが言われるが、少なくとも、東日本大震災の被災者には「心のケア」より、何より大切なのは、生活再建、経済支援なのではないか。いくら避難指示が解除されたからといって、仕事が確保され、生活環境が整わないかぎり、「望郷の念」だけでは戻れないだろう。首相がインフラ整備の一部を視察したからと言って、災害公営住宅の家賃の値上げや廃炉・汚染水処理が進まないなかのエネルギーミックスなど言われては、不信感は募るばかりだろう。
  その一方で、聖火ランナーの辞退者が続き、途切れてしまうし、海外からの一般客は断念しながらも開催するというのだから、福島復興の証としての五輪は、幻想でしかなかったのだ。
  それを質すべき野党の体たらくに、期待することはできない。政府も野党もアテにならない。客観性に欠けるマス・メディアの報道、テレビや新聞に登場する常連のコメンテイターたちも、自分の“居場所大事”な人が多い。たまにまともなことを言うと、すぐに炎上し、自粛へと傾いていく。若い人は、新聞もテレビさえ見ない、まして本を読まない人が多いらしい。

  ならば、私たちはどうしたらいいのか。自分と異なる人の意見もしっかりと聞く。悩みは増えるけれど、自分が感じたり、思ったり、考えてたりしたことを、率直に発信していくほかないのかもしれない。そして、先人の残した知見から少しでも学ぶことなのだろうか。平凡なことながら、それが難しい。高齢者にはつらい日が続く。3月は、私の誕生月でもあったのである。

 

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2018年4月13日 (金)

1945年4月13日、池袋の生家は焼けた!

 ちょうど、73年前の413日の夜から14日の未明、東京池袋の私の生家は、城北空襲で焼け落ちた。母と小学生の次兄と3人は、すでに、千葉県佐原の母の実家に疎開していたのだが、薬局を営んでいた父と薬専に通っていた長兄が被災し、命からがらに川越街道を走りに走って、ひとまず、知り合いだった板橋の農家にお世話になったという。

 

 当時は、電話もない、大本営発表のラジオニュースだけが頼りの時代であった。安否は何で確かめたのだろう。その空襲から数日後だったのか、親類が営んでいた佐原駅前の食堂で、憔悴しきっていた父と長兄を迎えたことは覚えている。父が、池袋から佐原を訪ねてくることはそれまでも何回かあったようなのだが、その都度、かならず、森永のキャラメルとかサクマのドロップとかをお土産に持ってきてくれたことも覚えている。その日も、私は、そんなお土産をねだったのだろうか、父が、持ち帰った、たった一つの小さな肩掛け鞄の焼け焦げた角を指して、家から何一つ持ち出すことができなかったという意味のことを聞かされたかすかな記憶もよみがえる。 

 こんなことを思い出したのは、実は、昨日412日、ある法律関係の雑誌のインタビューを受けていたからだ。これまでのいくつかの市民活動でお世話になっていた弁護士のTさんの紹介での企画だったらしい。インタビューアーの弁護士Mさんは、これまでも雑誌でのインタビュー記事の百数十本をこなされているベテランである。もはや、私は、まな板の上のコイなのかもしれない。

 

 どういうわけか、東京の空襲時の話や私の進学時や就職・転職時、さては子育て時代に苦労した話や短歌との出会いという、かなりの昔話に花が咲いた。Mさんも女性が仕事を続けることへの関心が高かったのかもしれない。さて、どんな記事になるのかしら。

  そして、今朝、『東京新聞』28面の「きょう城北大空襲 桜 戦争と平和」という記事に出会った。家を焼かれた被災人口64万人、死者約2500人であったという。

  東京の空襲は、19441124日の中島飛行機武蔵製作所から始まり、連日、家屋を焼き、死者を出し、1945815日の敗戦の日の青梅空襲まで続く。1945310日の下町大空襲の死者は10万人ともいわれ、525日の山の手大空襲も7000人以上の死者を数える。

 本ブログにもかつて掲載したこともあるが、我が家の「罹災証明書」を再掲したい。また「国債貯金通帳」をスキャンしてみた。

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この「罹災証明書」によれば罹災日4月13日、証明書の発行日が4月14日になっているが、当時池袋警察署は無事だったのか、調べてみると、やはりや4月13日には焼け出されていて池袋本町2丁目の「重林寺」が仮庁舎となったとある。なんとその重林寺は、一家が、翌年疎開先から池袋の焼け野原のバラックの家に戻った時、私が転校した池袋第二小学校の臨時教室にもなっていたのである。

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「豊島信用組合」の通帳で、1943年8月から1・2か月に一度、15円から40円程度が「受入高」として記載されている。利子が64銭、2円4銭などの記載も見える。最後の2行の受入れ日付の記入がなく、昭和20年4月22日に200円、6月21日130円拂出している。表紙にも、頭注にも「便宜拂出」として「千葉銀行佐原支店」の押印があるのがわかる。疎開先の佐原で、空襲罹災後1週間ほどで200円が下ろされている。当時の「100円」って、どれほどだったのだろう。罹災後の一家の疎開先の佐原信用組合に開いた父名義の「報国貯金通帳」「国債貯金通帳」「貯金通帳」というのも残っているがわずかな出入りしかない。

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2016年9月 3日 (土)

ようやく、東京大空襲・戦災資料センターを訪ねる

   意外と近いところにありながら、なかなか訪ねることができない場所がある。今回、江東区北砂に住む友人との間で、とんとん拍子で話が決まり、訪ねることができた。東京大空襲・戦災資料センターは、1970年に早乙女勝元氏らによる「東京空襲を記録する会」が発足、空襲・戦災の資料や物品を収集してきたが、1999年の東京都の「平和祈念館」計画凍結を受けて、篤志家から無償提供による、この地に、市民の力で200239日にオープンしている。この夏、敗戦直後の東京をテーマにした写真展が開催されているのを知って、ぜひ訪ねたいと思っていた。友人は、展示写真のカメラマンたちが所属していた文化社についての講演会もすでに聞いていたのである。「文化社」、私は知らなかった。

東京大空襲・戦災資料センターHP

http://www.tokyo-sensai.net/index.html

 831日、台風一過の東京は、やはり暑かった。都営新宿線の西大島で待ち合わせ、まずはランチのイタリアンを食しながらの近況報告である。七夕のように一年に一度くらい会っては、社会を憂え、短歌や職場こそ違うが図書館員だったころに話が及ぶのがいつものパターンである。

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焼け残ったピアノ
 
歩けない距離ではないということだったが、明治通りで、車が拾えたので、センターに直行。レンガ造りの瀟洒な三階建てのビルだった。2階の常設展で、まず目についたのが、1945524日の空襲で焼け残ったという目黒区のピアノだった。この部屋は、空襲体験者による絵画が多い。

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 ピアノの左肩の角に、不発の焼夷弾が当たった跡が生々しい。ピアノの上の炎を描いた絵は「本郷の台地から見た310日の大空襲の大火災(岡部昭)であり、オルガンの上の作品は「青山同潤会の井戸」、手前の大作は「ケヤキの道」(いずれも山本万起)と題されていた

  そして絵画の小品の多くは、おのざわしんいち氏による絵画であった。おのざわ氏(19172000)は、16歳から川端画学校に学び、1938年応召、南京へ、2年後の除隊、大塚の軍需工場で働いた。太平洋戦争末期、防衛部隊として東京大空襲時には死体処理にも携わる。敗戦直後進駐軍で働いた後、漫画家となり、1970年ころから東京大空襲の絵を描き始めたといい、早乙女氏らとの活動に入ったという。その多くは、童画風でもあるが、語り部としての気迫に満ちていた。

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おのざわしんいち氏 のコーナー

「文化社」って
 
そして、隣の会議室が、今回の目当ての写真展「文化社が撮影した敗戦直後の東京」であった。「文化社」とは、戦争中、陸軍参謀本部の下で主に対外向けの写真宣伝雑誌の制作を担当していた「東方社」(194119457月)の後継団体で、194510月に発足している。「東方社」の説明パネルのなかにその刊行物「FRONT」とあって、ようやく結びついた。文化社は、あの「FRONT」を制作していた東方社の後身だったのである。東方社は岡田桑三(松竹の俳優でもあった)によって立ち上げられるが、主要メンバーの木村伊兵衛、原弘、伊奈信男は、日本工房の名取洋之助と袂を分かった4人で、花王石鹸にいた大田英茂はじめ、何人かの軍人たち、財界人たちをバックに、林達夫、岡正男、岩村忍、小畑操ら幅広い、錚々たる文化人が理事に名を連ね、そのもとで「FRONT」が創刊されている(詳細は、多川精一『戦争のグラフィズム 『FRONT』を創った人々』平凡社 2000年)。 FRONT』は対外的な宣伝雑誌であったが、国内向けには、すでに内閣情報部(局)から『写真週報』(19382月~19457月)が刊行されていた。

今回の展示会は「敗戦直後の東京」がテーマで、センターが所蔵する「青山光衛氏旧蔵東方社・文化社関係雄/写真コレクション」と東方社・文化社のカメラマンだった菊池俊吉・林重男氏の遺族所蔵の写真ネガから選んだという46点。私の焼け跡体験にも通じて、なかでも印象に残った写真を紹介しておこう。「個体の作品をカメラに収めるのは、著作権もありますので」という受付の方の言葉もあったので、会場の雰囲気と作品が見分けられるような形で、写真を撮らせていただいた。名前に聞き覚えのあった、二人のカメラマン、以下は、帰宅後、調べたことではある。林重雄(19182002)は、日本学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会調査団の委嘱により、日本映画社原爆記録映画撮影班スチール写真担当として、広島・長崎の爆心地を撮影し、後写真家として、反核運動に携わっている。菊池俊吉(19161990)も194510月より広島に入り、林と同じく委嘱を受けて原爆記録映画撮影班スチール写真を担当している。敗戦後は、広島、東京銀座の写真集を刊行、『世界』『中央公論』『婦人公論』などのグラビアで活躍する。ご両名やその遺族たちが、写真のネガをどのように守ってこられたかは、次の資料に詳しい。

・中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター「菊池俊吉が撮った原爆写真Ⅰ」

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20080704201603850_ja

・山辺昌彦:東京大空襲写真研究と特別展の開催 『政経研究時報』154号(20123月)

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焼け跡の池袋

私の池袋の生家は1945413日未明の空襲で焼け出されたが、翌年には、一家の疎開先の千葉県佐原から、父は、一足先に池袋の元の場所にバラックを建て、薬局を再開していた。一家が戻り、私は、1946年7月、入学したばかりの佐原小学校から池袋の小学校に転校した。小学校は焼失していたから、一年生の教室は、川越街道沿いの重林寺の本堂であり、二年になると焼け残った要町小学校まで通学し、けっこうな道のりだったと記憶している。近隣の焼け野原には、我が家のようなバラックが建ちはじめ、付近一帯は、お屋敷だったお宅の石の門柱だけが残っていたり、地主さんや質屋さんだったお宅の蔵だけが残っていたりした。小さな商店街はやがて「平和通り」と名付けらられ、「平和湯」という銭湯が近くだったのがありがたった。薬局といっても、銭湯のお客さんが石鹸を買ってくれたが、他には、ちり紙、綿花、みやこ染などの雑貨とサッカリンと重曹が売れ筋だったことを思い出す。東京のほかの町の焼け跡や復興の様子を知るすべもなく、学校と家の行き来と池袋西口のヤミ市に母親と買い物に行くくらいだった。遊びはもっぱら近くの焼け野原だった。池袋の東口に行くのに、子供には暗くて、浮浪者や傷痍軍人がいる「怖いガード」を通らねばならなかった時代でもあった。

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これが今回の展示会のチラシのおもて、下の写真には「寺社の焼け跡」(文化社1946年2月)のキャプションがつけられ、「ゴム跳びをする女の子たち」の説明がある。我が家のバラックの隣は、教会付属の病院の焼け跡での遊びでは、「ゴム跳び」ではなく、私たちは「ゴムだん」と呼んでいた。高さには、小さい児のための「ひざ下」から、頭の上のひとコブシ、ふたコブシ、手伸ばしまであった。ママゴトの記憶もあるが、男子女子入り混じっての馬乗り、石けり、カンけり、水雷艦長などが盛んだった

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  上段が「池袋駅」(文化社・菊池俊吉 1945年11月)、「西武農業鉄道(現西武鉄道)のホームで、電車に乗り込むのを待つ龍くさっくや包みを背負った人々」で、下段が「品川駅」(文化社・菊池俊吉1946年1月)で、品川駅は引揚列車の終着駅だった」の説明がある。池袋東口の敗戦後の歩みを少なからず見てきた私には、感無量であった

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 上段は、「宮城前広場で開かれた日本国憲法公布記念祝賀都民大会会場で座っている人たち」(文化社 1946年11月3日)、下段は「上野公園で車座になる被災者たち」(文化社・1945年11月 

東京大空襲、3階の常設展
 ここには、戦争の開始と拡大、防空、空襲の被害、東京大空襲と朝鮮人・・・などのテーマごとに罹災証明書、衣料切符などの資料や防空頭巾や焼けた瓦、爆弾の破片、焼夷弾、アメリカ軍の伝単(ビラ)などの実物、東京各地の空襲被害状況の写真が展示されている。写真は、これまでも何度か目にしたことのある、警視庁所属の石川光陽(19041989)による「親子の焼死体」などの写真が強烈であった。また、撮影者名をメモし損ねているが、「被災した慶應義塾大学図書館」「破壊された外壁だけが残るカテドラル関口教会内部と神父」「銀座教文館前の消火活動」「大塚駅南側から池袋方面の焼け野原を見る」などは、現在の各々を見ているだけに、そのインパクトは格別だった。

今回の展示会にしても、常設展にしても、東京大空襲はじめ広島長崎などの戦争被害の記録写真が、日本人カメラマンによって撮影され、GHQからの引き渡し要請にもかかわらず、ネガだけは自らのもとに残し続けた努力、それを保管し続けた遺族の方々にも敬意を表したい。軍や官庁が戦時中の記録類を抹殺し、後にも収集には無関心だった公的機関が多い中で、個人の努力で記録を残したことの大切さを実感した。そして「東京大空襲・戦災資料センター」のような施設が、まったくの民間、市民の手で作られ、維持されていることにも驚いている。そういう意味でも、戦争責任を曖昧なままにして、人間の命を粗末にする、この国の在り方は、問われなければならないと思う。

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  これは、最近刊行の『東京復興写真集1945~46』(勉誠出版 2016年6月)のカタログの表紙で、背景は林重男撮影の「改修中の東京駅」(1946年8月)である

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  上記写真集カタログからの5枚の写真、いずれも気になる作品だが、右上は国民学校初等科の国語の授業風景(文化社・林重男 2046年5月)で、教科書が行きわたらず、二人で使用、一番手前の女の子は赤ちゃんをおんぶしている。このきょうだいは今、どうされているだろうか。池袋第五小学校5年次、1951年、私のクラスにも、Y君という男子が毎日赤ちゃんを背負って登校していたので、教室で同じような光景を目にしている。Y君は、あまり背が高くなかったから、一番前の席の出入り口付近にいつも座っていた。 小学校のクラス会でも、卒業後の消息が分からず、時々話題になっていた。今頃どうされているだろうか。担任のO先生も、新任で、持ち上がりの初めて送り出した卒業生だったから、印象に残っているとおっしゃっていた

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2016年5月16日 (月)

「ノーベル平和賞」ってなに?沖縄施政返還の日に~佐藤栄作元首相とオバマ大統領

1972年、515日、沖縄の施政権が返還された。44年の月日を思う。さらにさかのぼれば、1945年から1972年までの米軍による占領期が長かった。この長い戦後史は、私たち本土の者が活字や映像などをたどっただけではなかなか理解しかねることも多いのではないか。

 ちょうど、沖縄の戦後文学、短歌について少し調べているとき、201641日、作家の目取真俊氏(1960~)が辺野古のキャンプシュワブ近辺の海上抗議行動中に米軍に拘束され、海上保安庁に逮捕されたというニュースが入った。「沖縄県民がどれだけ反対しても意に介さず、力ずくで作業を強行する日本政府への怒り」からカヌーによる抗議行動に参加したのは20148月からだったという(「季刊目取真俊」『琉球新報』2016413日)。氏のブログ「海鳴りの島から」では、全国紙ではなかなか報じられることのない沖縄の現況、とくに基地反対運動の動向を知ることも多かったので、他人事に思えなかった。

 512日に目取真氏は、米軍に拘束され、海上保安庁に引き渡されるまで8時間を要した件で、憲法で保障された人身の自由などの権利を侵害され、精神的苦痛を被ったとして、国を相手に60万円を求め、那覇地裁に提訴した、というニュースがもたらされた(『琉球新報』2016513日)。記者会見では、憲法よりも日米地位協定が優先され、市民が自分の権利すら守られない状況を許す政府の在り方が問題であると指摘している。

 そしてきょう、515日「NHKニュース7」では、沖縄返還に伴い、いったん撤去した核兵器を、「危機の際には再び持ち込む権利がある」と、アメリカ国防総省が公刊した歴史文書に記されていたことを報じた。日米間でいわゆる「密約」が交わされていたことは、当時の首相佐藤栄作の遺族のもとに、両国首脳がサインした極秘文書が残されていたことで明らかになったのだが、7年前、政府が設けた有識者委員会では検証の末「文書を後の政権に引き継いだ節は見られない」などとして「必ずしも密約とは言えない」とした結果を報告していたのである。

NHKは、「日本政府は1968年、唯一の被爆国として『核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず』とする非核三原則を宣言し、みずからは核を持たないという政策を堅持している」と解説するが、密約を隠蔽していた佐藤首相がノーベル平和賞を受賞していたのだから、噴飯ものである。

ノーベル平和賞といえば、200945日、アメリカとEUの初の首脳会議が行われたチェコのプラハで、オバマ大統領は、「核兵器を使用したことがある唯一の核保有国としてアメリカが先頭に立ち、核兵器のない世界の平和と安全を追求する道義的責任がある」という決意を表明し、その年の109日にノーベル平和賞を受賞したのである。そのオバマが、527日、伊勢志摩サミットの帰路に広島を訪問することが決まった。政府やメディアは、野党までが、今やこぞって大歓迎ムードである。はたしてこれでいいのか、過去の反省や謝罪のない「未来志向」とは、何なのか。なんでも「水に流す」ことでいいのだろうか、というのが素朴な疑問である。被爆者たちと対面することすら避けて、犠牲者慰霊の献花だけで、駆け抜けようとするに違いない、それがそんなに画期的なことなのか。長崎はどうなのか、東京大空襲はどうなのか、太平洋戦争末期の日本各地での無差別空襲、そして何よりも沖縄の地上戦での多大な犠牲者に対して、その後のアメリカと、そして日本政府の仕打ちの過酷さと無責任な対応に怒りがこみあげて来るのを禁じえない。大いなる声を上げなければならない。

日本政府が、みずから「謝罪」を要求しないということは、日本も、もはやどこにも謝罪はしないという意思表示でもある。昨年の戦後70年の「安倍談話」にも、それがよくあらわれていたではないか。

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2015年8月 2日 (日)

代々木の婦選会館を訪ねて(3)『語り継ぐ戦争の記憶~戦争のない平和な世界をめざして』が出版されました

 今回の報告者のお二人、鳥海哲子さんと山口美代子さんの体験記録も収録されている、表題の『語り継ぐ戦争の記憶~戦争のない平和な世界をめざして』が、日本婦人有権者同盟から出版されたばかりと、紹介された。発行日は2015年8月15日となっている。46人の女性による戦争体験記録集である。その内容は、以下の通りであるが、体験者も、体験のない方も、是非一読をされたらと思う。全国各地から寄せられた、執筆の方々の苦難と悲痛の連続であった体験に及ぶことはできないが、私も、戦後体験を共有するものとして、自らの家族史や地域史と重ね合わせながら読み進めるのであった。

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(目次)

・国家総動員―勤労奉仕・学徒動員・挺身隊

・戦中・戦後の生活・教育

・疎開――集団学童疎開・縁故疎開

・思想統制と疑心暗鬼の社会――特高・治安維持法

・東京大空襲

・沖縄地上戦――ひめゆり隊

・地方都市の空襲――岡山・水戸・仙台・郡山・岐阜・宮崎・熊本・鹿児島

・原爆の投下――ヒロシマ・ナガサキ

・出征・強制連行

・外地からの引き揚げ――満州・朝鮮・樺太

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2015年8月 1日 (土)

代々木の婦選会館を訪ねて(1)さまざまな戦争体験を聞く

こう暑くなると、東京に出るのも一仕事である。日比谷野外音楽堂の集会や国会包囲行動も、体調との相談である。やはり、代々木の市川房枝記念会女性と政治センター(婦選会館)での「女性展望カフェ」には出掛けたいと思った。婦選会館の図書室で調べものもしたかったのだが、下記のイベントが開催されるのだ。関さんは、被爆者としてのさまざまな活動をなさっているジャーナリストとして有名でもある。山口さんは、私の元の職場の大先輩で、女性史の研究家で市川房枝記念会の運営や資料整備にもかかわっている方で、私も資料の件ではいろいろお世話になっている。

***  ***

女性展望カフェ いま語る―戦争の時代を生きて

場所:婦選会館

日時:2015730日(木)13:3016:15

講師:木﨑和子さん(繊維製造業)…310東京大空襲を逃れて

関 千枝子さん(ジャーナリスト)…広島で被ばくして

鳥海哲子さん(元編集者)…勤労動員で風船爆弾づくり

山口美代子さん(元国立国会図書館職員)…北朝鮮からの引揚げ

 ***  ***

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新宿南口の喧騒を離れて・・・。都営新宿線6番出口からは2・3分のところです

 関さんや山口さんの体験については、これまでも一部は書物で読んだ記憶があるが、あとのお二人の体験談は初めてであった。4人の戦争体験は、それぞれ場所も状況も異なってはいたが、学童や思春期の、多感な時期に遭遇した、太平洋戦争末期から敗戦直後の悲痛な体験であった。

 木崎さんは、強制疎開によって、300mほど離れた、墨田区横網町の関東大震災の犠牲者を祀る東京都慰霊堂近くに暮らしはじめてまもなく、310日の大空襲に遇い、親戚をたより山形県に逃れたが、肺結核であった長兄はで22歳、母親は49歳で、敗戦を知らずに病死した。残された父親は、棟梁の仕事で足を悪くしていたので、疎開先では、製材所の木端で鍋・釜のフタを売ったり、強制疎開の立ち退き料だった3万円を取り崩し、疎開してあったわずかなものを売り食いしたりして、木崎さんと姉との3人暮らしで、1950年に東京に戻れたということであった。横網町公園にある東京都慰霊堂の現在の資料をたくさん用意してくださっていた。

 関さんは、広島第二県女学校2年生の時、級友たちは建物疎開のために動員された出先で被爆、病気欠席をしていた関さんを除き、全員が亡くなったと語った。毎年、86日には、広島の少年少女の死を悼むフィールドワークを開催、案内役を務めている。広島平和記念資料館のまとめによれば、動員学徒8222人中5846人が犠牲になったとされているが、実数はもっと多いだろうとのことであった。

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関さんは、写真と共に、平和大通りに建てられた、犠牲となった少年少女たちの慰霊碑をめぐる

 鳥海さんは、旧千葉県立市原高等女学校3年生のとき、それまでは援農という動員であったが、19452月に、五井(現市原市)にできた風船爆弾工場に動員された。和紙をこんにゃく糊で何枚も何枚も重ね合わせた紙をひたすらつくらされた。秘密兵器作成の一端を担う作業だから家族にも漏らしてはならない、洩らしたらスパイとして罰せられると緘口令がしかれていたが、2カ月もすると、市原高女の校舎は司令部が入り、生徒たちは軍属として、815日まで務めた。風船爆弾については、後になって、直径10mにも及ぶ大きな風船に水素ガスを詰め、爆弾をぶら下げて、工場近くの一宮海岸からジェット気流に乗せて太平洋を越え、アメリカ本土に至らせ、爆発させようというものだったと知る。

 この風船爆弾の研究・作成していたのが、川崎市生田の旧陸軍登戸研究所であって、昨年12月開催の明治大学内「登戸研究所」跡の博物館見学と研究会には、私も参加、その時のレポートを本ブログ記事としているので、ご覧ください。

20141223日:明治大学生田キャンパス「登戸研究所」を訪ねて(1)(2)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/12/post-1fea.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/12/post-242d.html

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人影と比べるとその大きさがわかる。風船爆弾作成に動員されたのは、主に高等女学校生徒を中心に、群馬県以西、宮崎県までの18都府県と満州にまで及び、100校ちかくを数える。女子の方が指先が器用だったからと言われている。都内だけでも、国公私立をふくめ、35校に及び、千葉では、鳥海さんが在学されていた市原高女だけだったらしい。完成品をチェックするには天井の高いスペースが必要で、東京では日劇、宝塚劇場、国技館などがしようされたという

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上総一宮海岸の風船爆弾打ち上げ基地跡。打ち上げ基地は、茨城県大津と福島県勿来の海岸の三か所だった

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これだけの風船爆弾がアメリカに着地していた。戦後、オレゴン州でピクニック中の一家が
風船爆弾に触れて6人が犠牲となっっている

 山口さんは、横浜の小学校を卒業後、父親の判事の転任に伴い、一家で任地の朝鮮の京城、さらに元山に転居した。ご自身は、4年で元山高等女学校を卒業後は元山女子師範学校に進学して、815をむかえている。その直後、父親がソ連軍によって拘束、元山郊外の抑留所に収容されて、19451231日に解放されたが、それからが一家の苦難の引揚げ行になったという。敗戦当初の朝鮮の人たちの反応や38度線までたどり着いたときの喜び、乗り継いで釜山に着き、博多からの船に乗った時の思いなどがなまなましく語られた。「平和なくして平等なく 平等なくして平和なし」という市川房枝のことばで締めくくられた。

 いずれの体験も、軍国少女であり、十分な教育を受けられなかった時代を振り返り、戦争は戦場での犠牲ばかりでなく、生き残った多くの人々にも苦難をもたらすものであることを際立たせた。2度と繰り返してはならない、繰り返さないためにも、いまの政治のありようには、さまざまな方法で抗議する重要性を訴えているようだった。コーヒーブレイクをはさんで、多くの方の質疑によって、体験や覚悟が交わされるのだった。

 

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2008年3月16日 (日)

「Requiem東京大空襲 広瀬美紀写真展」と池袋空襲

 

 

「広瀬美紀写真展」

 数日前のNHK「首都圏ネットワーク」の特集で写真展のことを知った。東京大空襲による犠牲者たちの仮埋葬地だった公園やお寺を訪ね、その現在を記録し、話を聴いた空襲体験者たちの現在の姿もカメラに収め、東京大空襲を語り継ごうとしている若い女性カメラマンを紹介した番組だった。急遽、会場の銀座ニコンサロンに出かけた。7丁目ライオンビヤホールを入ったところに見つけたニコンプラザ銀座、もちろん初めて足を踏み入れる。連れ合いを待って、カメラの展示室を覗いてみる。高級カメラのその価値もわからないまま、ニコンといえば木村拓哉のコマーシャル、大きなパネルが壁に何枚か掛かっていた。

 

 広瀬さんの写真展の入場者は盛況というほどではないが、途切れることはなかった。やはり年配者が多い。受付では広瀬さんが「こちらからどうぞ」と順路を案内されていた。最初の作品群が、昨年39日付けの「戦後補償は軍人軍属だけでなく、民間人の空襲被害者にも」の横断幕を持って東京地裁前に並ぶ原告団や原告の方の写真だった。被害者並びに遺族による原告団は112名に及ぶ。今年の310日にも20人が第2次訴訟に踏み切ったという。訴訟に関する情報は、NHKの番組では一切紹介されていなかっただけに意表を衝かれたのだが、この写真展のメッセージはさらに明確となった思いがする。会場を見渡すと、60枚近いすべての作品がモノクロであるのもこのテーマに即しているように思われた。今回の作品は、約6000枚もの中から厳選されたという。

 310日の大空襲犠牲者の仮埋葬地は、70か所以上に及び、菊川公園・現菊川小学校(仮埋葬者4515人)、猿江恩賜公園(10259人)、墨田公園(3682人)荒川遊園(1662人)などの現在ののどかな風景が撮られている。そして、体験者が当時の罹災現場や思い出の地で語ることばの一部がキャプションに綴られている。繰り広げられただろう残酷な場面が何一つないのに、見る者の心に深く、突き刺さり、突き動かすものがあるのはなぜなのだろう。今回の仮埋葬地の写真には310日空襲に限らない犠牲者の仮埋葬地も写されている。荒川、世田谷、新宿区などの仮埋葬地もあったので、池袋空襲の犠牲者の仮埋葬地のことも、広瀬さんに尋ねてみると、そこにもすでに撮影に出かけられた由。というのも次のような経緯があったからである。

 

池袋空襲、墜落のB 29

私は、去年310日、このブログで、私の池袋の生家が空襲で焼け出された翌日、1945414日付のわが家の「罹災証明書」を見つけ出した話を書いた。その後、池袋空襲について調べる中で、池袋東口の南池袋公園の「豊島区空襲犠牲者哀悼の碑」の前で「413根津山小さな追悼会」が毎年開かれているのを知った。また、米軍資料によれば、城北一帯に330機のB29が飛来していたという。また、豊島区内の被害だけでも死者778人、焼出家屋34000戸、被害者162000人であった。

 

413日夜からから14日未明に掛けて、父と学生だった長兄は、手と手を手ぬぐいで縛って、川越街道を板橋の知り合いの農家まで走って逃げた、と後で聞かされている。母と次兄と私は母の実家のある、千葉県佐原に疎開していた。敗戦翌年の夏、焼け跡に建てたバラックに一家で戻ったので、復興最中ながら焼け跡が生々しい池袋は記憶しているが、空襲の夜の池袋は知らない。

また、「本土空襲墜落機調査」の記録によって、米軍の犠牲者が上記根津山に埋葬されていたことを知った。その部分のコピーをそのまま登載することにする。おそらくは20歳代前半、8桁の認識番号を持つ軍曹たちの最期にも思いはいたる。記録の末尾にはつぎのように記されていた。

夜間単機天候偵察中、豊島区池袋5丁目に墜落、現場から回収された遺体は、池袋本町の重林寺に一端仮埋葬された後、根津山墓地に改葬された。

 

仮埋葬されたとされる重林寺は、私が疎開先から転校した池袋第2小学校の仮校舎となっており、家からは歩いて5分ほどの川越街道筋にあるお寺(真言宗豊山派)だったので ある。                    (2008年3月16日)

 

搭乗者   機長、副操縦士、航法士、爆撃手、レーダー手、機関士、

      無線士、中央火器官制、右銃士、左銃士、尾部銃手

      計11名、全員死亡

墜落日時  1945年4月14日

墜落位置  東京都豊島区池袋5丁目189番地

所属    第20空軍第73爆撃団だい497爆撃群第870爆撃機

墜落原因  不明

機体ニックネーム Wheel N Deal

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2007年3月10日 (土)

3月10日、東京大空襲から62年~わが家の罹災証明書発見~

今日、墨田区横綱公園の都慰霊堂で法要が開かれ、その様子はテレビや新聞でも報道されていた。それに先立つ39日には、東京大空襲遺族らが政府を相手取り、謝罪と賠償を求めて東京地裁に提訴した。民間人の戦争被害については、「すべての国民が等しく受忍しなければならない」とする1987年の最高裁判例はあるが、法の下の平等と外国の補償制度を軸に据えて、犠牲者の記録もないまま放置を続けた政府の責任を明らかにするという。この成り行きはしかと見守りたい。

 私が疎開先の千葉県佐原(現在香取市内)から眺めた遠い東京の赤い空、その記憶がぼんやりと甦るのだが、それがいつの空襲であったのか定かではない。当時、池袋で薬局を営んでいた父と薬学専門学校に通っていた長兄を残して、母は小学生の次兄と4歳の私を連れて、佐原の実家に疎開をしていたのだ。その後池袋の家は空襲で焼き落ち、その焼け跡に父と長兄はバラックを建て、薬局を再開したのが1946年春だったと思う。その年の7月に私たちも疎開先から戻って、久しぶりに家族全員揃っての暮らしが始まったことになる。

その池袋の家が何度目かの建て替えをしたとき、すでに父母は他界し、わたしも家を出ていたのだが、長兄から頼まれて、物置のガラクタを整理しに行ったことがある。その折持ち帰った荷物の中から、敗戦前後のわが家の記録とも言うべき書類がいくつも出てきた。私は書類の中から10センチ四方にも満たない、大きい罫紙を切った裏紙に空色インクの謄写文字が消えかかった「罹災証明書」を見つけた。私の生家が焼け落ちたのは、罹災月日昭和20年(1945年)413日とあり、はじめて知ったのだった。罹災地に家の住所、世帯主と罹災人員数、翌414日の日付で池袋警察署警部三好某の名と捺印があり、その朱色ばかりがやけに大きく鮮やかである(写真参照)。


 書類の中には、疎開先の佐原信用組合の昭和
20519日付け「報国貯金通帳」があり、519日に弐円、619日に弐円預け入れ、残高4円と記帳されているが、裏表紙の元利金領収欄が空欄である。ということは払い出しをしていないということだろうか。当時の4円って、どれほどのものだったのか、知りたくなった。

 

 池袋空襲罹災証明書
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報国貯金通帳
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