意外と近いところにありながら、なかなか訪ねることができない場所がある。今回、江東区北砂に住む友人との間で、とんとん拍子で話が決まり、訪ねることができた。東京大空襲・戦災資料センターは、1970年に早乙女勝元氏らによる「東京空襲を記録する会」が発足、空襲・戦災の資料や物品を収集してきたが、1999年の東京都の「平和祈念館」計画凍結を受けて、篤志家から無償提供による、この地に、市民の力で2002年3月9日にオープンしている。この夏、敗戦直後の東京をテーマにした写真展が開催されているのを知って、ぜひ訪ねたいと思っていた。友人は、展示写真のカメラマンたちが所属していた文化社についての講演会もすでに聞いていたのである。「文化社」、私は知らなかった。
東京大空襲・戦災資料センターHP
http://www.tokyo-sensai.net/index.html
8月31日、台風一過の東京は、やはり暑かった。都営新宿線の西大島で待ち合わせ、まずはランチのイタリアンを食しながらの近況報告である。七夕のように一年に一度くらい会っては、社会を憂え、短歌や職場こそ違うが図書館員だったころに話が及ぶのがいつものパターンである。
焼け残ったピアノ
歩けない距離ではないということだったが、明治通りで、車が拾えたので、センターに直行。レンガ造りの瀟洒な三階建てのビルだった。2階の常設展で、まず目についたのが、1945年5月24日の空襲で焼け残ったという目黒区のピアノだった。この部屋は、空襲体験者による絵画が多い。
ピアノの左肩の角に、不発の焼夷弾が当たった跡が生々しい。ピアノの上の炎を描いた絵は「本郷の台地から見た3月10日の大空襲の大火災(岡部昭)であり、オルガンの上の作品は「青山同潤会の井戸」、手前の大作は「ケヤキの道」(いずれも山本万起)と題されていた
そして絵画の小品の多くは、おのざわしんいち氏による絵画であった。おのざわ氏(1917~2000)は、16歳から川端画学校に学び、1938年応召、南京へ、2年後の除隊、大塚の軍需工場で働いた。太平洋戦争末期、防衛部隊として東京大空襲時には死体処理にも携わる。敗戦直後進駐軍で働いた後、漫画家となり、1970年ころから東京大空襲の絵を描き始めたといい、早乙女氏らとの活動に入ったという。その多くは、童画風でもあるが、語り部としての気迫に満ちていた。
おのざわしんいち氏 のコーナー
「文化社」って
そして、隣の会議室が、今回の目当ての写真展「文化社が撮影した敗戦直後の東京」であった。「文化社」とは、戦争中、陸軍参謀本部の下で主に対外向けの写真宣伝雑誌の制作を担当していた「東方社」(1941~1945年7月)の後継団体で、1945年10月に発足している。「東方社」の説明パネルのなかにその刊行物「FRONT」とあって、ようやく結びついた。文化社は、あの「FRONT」を制作していた東方社の後身だったのである。東方社は岡田桑三(松竹の俳優でもあった)によって立ち上げられるが、主要メンバーの木村伊兵衛、原弘、伊奈信男は、日本工房の名取洋之助と袂を分かった4人で、花王石鹸にいた大田英茂はじめ、何人かの軍人たち、財界人たちをバックに、林達夫、岡正男、岩村忍、小畑操ら幅広い、錚々たる文化人が理事に名を連ね、そのもとで「FRONT」が創刊されている(詳細は、多川精一『戦争のグラフィズム 『FRONT』を創った人々』平凡社 2000年)。 『FRONT』は対外的な宣伝雑誌であったが、国内向けには、すでに内閣情報部(局)から『写真週報』(1938年2月~1945年7月)が刊行されていた。
今回の展示会は「敗戦直後の東京」がテーマで、センターが所蔵する「青山光衛氏旧蔵東方社・文化社関係雄/写真コレクション」と東方社・文化社のカメラマンだった菊池俊吉・林重男氏の遺族所蔵の写真ネガから選んだという46点。私の焼け跡体験にも通じて、なかでも印象に残った写真を紹介しておこう。「個体の作品をカメラに収めるのは、著作権もありますので」という受付の方の言葉もあったので、会場の雰囲気と作品が見分けられるような形で、写真を撮らせていただいた。名前に聞き覚えのあった、二人のカメラマン、以下は、帰宅後、調べたことではある。林重雄(1918~2002)は、日本学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会調査団の委嘱により、日本映画社原爆記録映画撮影班スチール写真担当として、広島・長崎の爆心地を撮影し、後写真家として、反核運動に携わっている。菊池俊吉(1916~1990)も1945年10月より広島に入り、林と同じく委嘱を受けて原爆記録映画撮影班スチール写真を担当している。敗戦後は、広島、東京銀座の写真集を刊行、『世界』『中央公論』『婦人公論』などのグラビアで活躍する。ご両名やその遺族たちが、写真のネガをどのように守ってこられたかは、次の資料に詳しい。
・中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター「菊池俊吉が撮った原爆写真Ⅰ」
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20080704201603850_ja
・山辺昌彦:東京大空襲写真研究と特別展の開催 『政経研究時報』15巻4号(2012年3月)
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焼け跡の池袋
私の池袋の生家は1945年4月13日未明の空襲で焼け出されたが、翌年には、一家の疎開先の千葉県佐原から、父は、一足先に池袋の元の場所にバラックを建て、薬局を再開していた。一家が戻り、私は、1946年7月、入学したばかりの佐原小学校から池袋の小学校に転校した。小学校は焼失していたから、一年生の教室は、川越街道沿いの重林寺の本堂であり、二年になると焼け残った要町小学校まで通学し、けっこうな道のりだったと記憶している。近隣の焼け野原には、我が家のようなバラックが建ちはじめ、付近一帯は、お屋敷だったお宅の石の門柱だけが残っていたり、地主さんや質屋さんだったお宅の蔵だけが残っていたりした。小さな商店街はやがて「平和通り」と名付けらられ、「平和湯」という銭湯が近くだったのがありがたった。薬局といっても、銭湯のお客さんが石鹸を買ってくれたが、他には、ちり紙、綿花、みやこ染などの雑貨とサッカリンと重曹が売れ筋だったことを思い出す。東京のほかの町の焼け跡や復興の様子を知るすべもなく、学校と家の行き来と池袋西口のヤミ市に母親と買い物に行くくらいだった。遊びはもっぱら近くの焼け野原だった。池袋の東口に行くのに、子供には暗くて、浮浪者や傷痍軍人がいる「怖いガード」を通らねばならなかった時代でもあった。
これが今回の展示会のチラシのおもて、下の写真には「寺社の焼け跡」(文化社1946年2月)のキャプションがつけられ、「ゴム跳びをする女の子たち」の説明がある。我が家のバラックの隣は、教会付属の病院の焼け跡での遊びでは、「ゴム跳び」ではなく、私たちは「ゴムだん」と呼んでいた。高さには、小さい児のための「ひざ下」から、頭の上のひとコブシ、ふたコブシ、手伸ばしまであった。ママゴトの記憶もあるが、男子女子入り混じっての馬乗り、石けり、カンけり、水雷艦長などが盛んだった
上段が「池袋駅」(文化社・菊池俊吉 1945年11月)、「西武農業鉄道(現西武鉄道)のホームで、電車に乗り込むのを待つ龍くさっくや包みを背負った人々」で、下段が「品川駅」(文化社・菊池俊吉1946年1月)で、品川駅は引揚列車の終着駅だった」の説明がある。池袋東口の敗戦後の歩みを少なからず見てきた私には、感無量であった
上段は、「宮城前広場で開かれた日本国憲法公布記念祝賀都民大会会場で座っている人たち」(文化社 1946年11月3日)、下段は「上野公園で車座になる被災者たち」(文化社・1945年11月)
東京大空襲、3階の常設展
ここには、戦争の開始と拡大、防空、空襲の被害、東京大空襲と朝鮮人・・・などのテーマごとに罹災証明書、衣料切符などの資料や防空頭巾や焼けた瓦、爆弾の破片、焼夷弾、アメリカ軍の伝単(ビラ)などの実物、東京各地の空襲被害状況の写真が展示されている。写真は、これまでも何度か目にしたことのある、警視庁所属の石川光陽(1904~1989)による「親子の焼死体」などの写真が強烈であった。また、撮影者名をメモし損ねているが、「被災した慶應義塾大学図書館」「破壊された外壁だけが残るカテドラル関口教会内部と神父」「銀座教文館前の消火活動」「大塚駅南側から池袋方面の焼け野原を見る」などは、現在の各々を見ているだけに、そのインパクトは格別だった。
今回の展示会にしても、常設展にしても、東京大空襲はじめ広島長崎などの戦争被害の記録写真が、日本人カメラマンによって撮影され、GHQからの引き渡し要請にもかかわらず、ネガだけは自らのもとに残し続けた努力、それを保管し続けた遺族の方々にも敬意を表したい。軍や官庁が戦時中の記録類を抹殺し、後にも収集には無関心だった公的機関が多い中で、個人の努力で記録を残したことの大切さを実感した。そして「東京大空襲・戦災資料センター」のような施設が、まったくの民間、市民の手で作られ、維持されていることにも驚いている。そういう意味でも、戦争責任を曖昧なままにして、人間の命を粗末にする、この国の在り方は、問われなければならないと思う。
これは、最近刊行の『東京復興写真集1945~46』(勉誠出版 2016年6月)のカタログの表紙で、背景は林重男撮影の「改修中の東京駅」(1946年8月)である
上記写真集カタログからの5枚の写真、いずれも気になる作品だが、右上は国民学校初等科の国語の授業風景(文化社・林重男 2046年5月)で、教科書が行きわたらず、二人で使用、一番手前の女の子は赤ちゃんをおんぶしている。このきょうだいは今、どうされているだろうか。池袋第五小学校5年次、1951年、私のクラスにも、Y君という男子が毎日赤ちゃんを背負って登校していたので、教室で同じような光景を目にしている。Y君は、あまり背が高くなかったから、一番前の席の出入り口付近にいつも座っていた。 小学校のクラス会でも、卒業後の消息が分からず、時々話題になっていた。今頃どうされているだろうか。担任のO先生も、新任で、持ち上がりの初めて送り出した卒業生だったから、印象に残っているとおっしゃっていた
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