忘れてはいけない、覚えているうちに(2)「告知版」というミニコミ誌があった
茶封筒から出てきたのは、『告知版』というミニコミ誌304~322号((1997年9月~1999年3月)だった。影書房の庄幸司郎(1931~2000)さんを発行人とする毎号20頁に及ぶミニコミ誌である。
309号(1998年2月)の巻頭言に当たる「寸言」によれば、1972年1月、庄建設(株)の広報紙としてわずか150部でスタートして26年余りで27400部に達したとある。庄建設関連の建築関連情報、影書房の出版情報、映画・ビデオ事業情報に加えて、「平和憲法(前文・第九条)を世界に拡げる会」「第九条の会」などのさまざまな運動や集会などでの「人的交流の結晶であり、本誌は、それらを通して一つの市民運動の”広報誌”に発展した」と振り返っている。
編集部やゲストによる「寸言」を巻頭に掲げ、「もの言う広場」というさまざまな市民活動のかっちりした報告だったり、呼びかけだったりする論文が数本掲載されている。さらに充実しているのが「『告知版』への便り」と「便り」で、読者からの感想だったり、投稿者の出版・活動報告だったりするが、ほぼ省略なしで掲載されているようだった。「告知版=ネットワーク版」では、寄せられた全国の集会や講演会・学習会などの催事の予告がなされている。
この『告知版』との縁を、いま思い起してみるが、あまりはっきりしない。実は、314号の「便り」の欄に、1998年4月3日付で拙文が掲載されていた。それによると、影書房出版の山田昭次『金子文子』(1996年12月)出版記念の講演会に参加してから、送っていただくようになったらしい。ちょうどその頃、拙著『短歌に出会った女たち』(三一書房 1996年10月)を出したばかりで、金子文子についても一章を設けて書いていたものだから、講演会にも参加したのだろう。また、1998年1月、地域の主婦たち4人で創刊したばかりのミニコミ誌『すてきなあなたへ』の第1号を編集部に送っていたらしく、その画像も紹介されていたのである。
日本で、「九条の会」が発足したのは、2004年6月だったが、1991年、オハイオ大学教授のチャールズ・オーバービー教授(1926~2017)は「第九条の会USA」を立ち上げ、「日本の憲法第九条は全人類の宝」「九条を守る創造性のある多様な取り組みを」と提唱していた。オーバービー教授は、朝鮮戦争時、B29のパイロットだったことから、湾岸戦争をきっかけに、この運動を展開するようになったという。1998年10月には来日し、各地で講演会を開いている。これを全面的に支援したのが『告知版』だった。日本の「第九条の会」のスタートは、「九条の会」の十数年前にまでさかのぼることになる。手元にある『告知版』の「寸言」には、「日米新安保ガイドラインと有事立法に反対する百万人運動」の呼びかけ人として本島等(315号)、家永三郎(316号)、江尻美穂子(321号)、針生一郎(322号)らの熱いメッセージが続く。そんな雰囲気のミニコミ誌だったのである。
1998年5月2日『朝日新聞』より。「平和憲法(前文・第九条)を世界に拡げる会」 の紹介記事も封筒から出てきた。新聞はかなり劣化していて「会員から寄せられるメッセージを整理する庄幸司郎さん」の写真がうまくスキャンできなかった。
『告知版』の発行人であった庄幸司郎は、惜しくも2000年に他界、その後、『告知版』はどうなったのだろう。影書房は、未来社の編集者だった松本昌次(1927~2019)が1983年に創業した出版社である。庄は、松本が都立夜間高校の教師であった時代の大工として働く生徒であったという(松本昌次「庄幸司郎」『戦後出版と編集者』 一葉社 2001年9月)。『告知版』は二人の友情の結晶でもあったミニコミ誌だったと言えよう。
なお、松本昌次のお別れ会に参加した時の記事に以下がある。
2019年4月9日
「松本昌次さんを語る会」に参加、その前に「東京都戦没者霊苑」へ: 内野光子のブログ (cocolog-nifty.com)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/04/post-1208.html
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