2015年6月 7日 (日)

「すてきなあなたへ」70号(2015年6月8日)をマイリストに掲載しました

目次
川崎簡易宿泊所火災に思う~ある記憶に重ねて~
嵐のような、あの佐倉市長選は、何だったのか
          ~これからが大事、見抜く力の大切さ*
編集後記~70号までたどり着きました
菅沼正子の映画招待席 42 「アリスのままで」
          ~明日はわが身かもしれない

*6月5日の前記事と重なる内容ですが、年表も付してコンパクトにまとめましたので
 あわせてお読みいただければと思います。下をクリックしていただくか、左のマイリスト欄の70号をクリックしていただいても読むことができます。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/sutekinaanatahe70.pdf

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2013年3月27日 (水)

横浜で、二つの展示会(2)「再生への道 地元紙が伝える東日本大震災」

 

 ホテルにも近かったので、日本新聞博物館で調べものと思って立ち寄ったところ、「地元紙が伝える東日本大震災」展が開催中であった(201339日~616日)。東北地元4紙、岩手日報、河北新報、福島民報、福島民友新聞の紙面や号外、報道写真などで、地震発生、福島原発事故発生以来の2年間の新聞報道を検証するものであった。

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 全般的な印象でいえば、私たち首都圏の住民が接してきた新聞報道とは、雲泥の差がある写真であり、記事内容であった。「温度差」などと言えるものではない、その凄惨さと過酷さが伝わって来る紙面であった。  

311日「岩手日報」が撮影した衝撃的な一枚の写真、防潮堤を乗り越えようとしている津波にトラックや乗用車が乗り上げている一瞬をとらえていた。どんな大きな活字の記事よりもインパクトが大きい。また、原発事故の第一報というより一面扱いでの最も早い記事は「福島民友」だったのだろうか。312日朝刊左下にある「原子力緊急事態宣言」として、政府が311日午後730分に発した旨の記事になっていた。私は、この宣言を、代々木近くで山手線を降ろされ、新宿を経て歩き通し、池袋の実家にたどり着いた直後のテレビで聞いたように思う。また、掲載されたか否かは定かではないが、地震当日の停電の編集局、資料が散乱した中で、ローソクを灯しながらの編集作業を写した一枚も印象的だった。「福島民報」の20117月に始まった、シリーズ「放射線との戦い」と10月に始まった「3.11大震災 福島と原発」の連載には、原発は福島に、そして日本に何をもたらしたかを問い続けている悲痛な叫びがつまっているようであった。 

また、一昨年12月の政府の福島原発事故収束宣言に対する地元4紙の社説や論説は、いずれも、大いなる疑問と不安を残す論調であったのは、当然のことだろう。1年後の311における4紙の社説は、風化への懸念と再生への道を探るものだった。さらに、201210月、たださえ復興が眼に見えない中「復興予算の流用」が明らかになり、被災地の人々の怒りを代弁した。 

地元4紙と全国紙との落差のようなものは十分伝わってくる。今回の展示は、スクラップブックのようなもので、報道の全貌を知ったわけでもない。しかし、この2年間の奮闘ぶりもよく理解できた。しかし、これは全国紙にも言えることだが、原発に関して、福島原発事故までの報道への検証がなされたのか、今回の展示では見えてこないのが、残念だった。

なお、帰宅後、調べたところ、地元4紙の発行部数は次の通りだった。

福島民友(1885年創刊)21万

福島新報(1892年)  25万

河北新報(1897年)  48万

岩手日報(1876年)  22万

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そして、翌日出かけた野毛山動物園 、桜も見ごろ。

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ライオン夫婦はお休み中、この後、

メスのライオンが突然吠え出した。 

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 数日前に、埼玉から横浜まで、数社の乗り入れで直通になったばかりの

中華街は、大変な混みようだった。評判という中華粥専門店には行列が

できていた。

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横浜で、二つの展覧会(1)「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー」展

  結婚記念日も私の誕生日もせわしく過ぎてしまい、少しゆっくりしようと横浜までやってきた。私は、事前の調査も甘く?飛び込んだような横浜美術館、「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー」の二人展が開催中であった(2013年1月26日~3月24日)。あすが最終日だった。キャパ(19131954)は、若くして戦場のベトナムで命を落とした<戦場カメラマン>くらいの知識しかない。
二人展の<パート1>が、女性戦場カメラマンの草分け、ゲルダ・タロー(19101937)の作品であり、なんと、キャパのパートナーであったが、スペイン内戦の取材中に非業の死を遂げた。27歳という若さであったという。知らなかった。いつになっても、ほんとうに知らないことが多すぎるの思い頻りである。
戦場に散った日本のカメラマンとして、私がわずかに思い浮べるのは、澤田教一(19361970)、一之瀬泰三(19471973)、橋田信介(19422004)・・・、そして山本美香(19672012)。浅薄ながら、タローに美香さんが重なってしまうのだ。

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タローとキャパ、カタログから 

タローは、ドイツのシュトゥツガルトに生まれ、1929年ライプツィヒに出て学び、1933年反ナチスの政治活動にかかわったとして一時期、保護観察下に置かれるが、パリに出る。1934年、後にロバート・キャパと名乗るハンガリー出身のカメラマンと出会い、翌年から二人の共同生活が始まる。タローは、キャパの助手やマーネジャーなどを務め写真を学ぶ。19362月にスペインに人民戦線政府が成立、7月にフランコ率いる反乱軍が蜂起してスペイン内戦が始まる。二人は、アラゴン、コルトバなど各地の戦線を転々として取材にあたり、パリ、マドリードを根拠地に前線の取材に入り、共々「ル・ガール」やフランス日刊紙「ス・ソワール」などへの作品発表が活発になる。19377月、国際作家会議の取材に入った後、725日ブルネテ戦線での戦乱に巻き込まれ、戦車に轢かれ、翌26日野戦病院で死去。マドリードでは多くの文化人の弔問を受け、27歳の誕生日81日には、パリでフランス共産党主催による葬儀が行われた。 

彼女の死後、1938年、キャパがタローにささげた二人の写真集「生み出される死」(Death in the making)があるが、撮影者の明記がない。タローには、当初使用したローライフレックスによる正方形の作品が多かったが、後、キャパの使用するライカ35㍉に変えたという。そのフォーマットが撮影者判断の決め手になった時期があるという。 

タローの作品には、共和国軍内でも役割が限定された女性兵士たち、子どもや戦災孤児、難民、兵士らのつかの間の休息などを捉えた作品が多い。しかし、バレンシアでの「遺体安置所」の現実へも決して眼をそらさない覚悟をも持ち合わせていた。

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タロー撮影、国際作家会議 1937年7月 カタログより

<パート2は、キャパである。キャパは1913年、ハンガリー、ブダペストに生まれる。1931年、左翼学生運動に加担したという理由で、ブダペストを追われることになり、ベルリンのドイツ政治高等専門学校で学ぶが、学費が途絶え、写真通信社デフォト暗室助手として働く。193211月、デフォトの経営者グットマンよりコペンハーゲンに派遣され、演説会のトロツキーを撮影した作品が、写真家としてのデビュー作となる。ヒトラーが掌握したブダペストからウィーンに逃れるが、1933年、向かったパリで、著名な写真家たちと親交を深める。1934年、ゲルダ・タローに出会い、翌1935年共同生活を始め、活動を共にする。19368月から、二人でスペイン内戦の取材に入り、バルセロナ、アラゴン戦線、マドリード、トレド、コルドバ戦線を取材、コルドバでの共和国軍兵士の一枚「崩れ落ちる兵士」(「ライフ」1937712日掲載)が、後、キャパの話題作となる。今回の展示は、つぎの各章に分かれる。 

1 フリードマンからキャパへ 1932~1937 

2 スペイン内戦 1936~1939 

3 日中戦争  第二次世界大戦 I 1938~1941 

4 第二次世界大戦 II 1941~1948

5 インドシナまで 1946~1954 

1章では、先の熱弁をふるうトロツキー、19366月パリ、ラファイエット百貨店のストライキ中の女子社員やガードマン、714日革命記念日のパリ市民たち、パリの人民戦線の集会など、報道カメラマンの鋭くも優しい市民への視線を感じる一連である。 

2章では、きびしいスペイン内戦の戦局の推移がわかるような展示というが、聞いたことのある地名ながら、スペインのどのあたりなのか見当もつかなかった。一度でも旅行すれば、ある程度の方向感覚がつかめるかもしれない、行かなければいけない国だね、呟いてみるが、いつ果たせるものか。この時期の作品で、最も衝撃だったのは、193712月、アラゴン戦線におけるテルエルでの作品だった。電話の架線工事をする兵士が撃たれ、木の上でそのまま絶命している画像である。反ファシズムを掲げ、国際的にも文化人の支援や義勇軍の応援を受けながらも人民戦線側はやがて後退を余儀なくされる。1938年フランコがブルゴスに内閣樹立後は、193810月、人民戦線の支援部隊、国際旅団はソ連が離脱して解散、その後、フランコ政府は、英・日独伊・米と列強各国の承認を得る。

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キャパ撮影、1937年12月 テルエル、アラゴン戦線 カタログより

 

3章でのキャパは、19381月、日中戦争の取材に向かい、漢口、徐州、西安、鄭州などめぐり、日本の侵略に抗する中国軍サイドからの取材で始まる。19387月、空爆を受けた漢口の市民たちの表情や姿には、日本軍の侵略の烈しさを物語る作品になっていた。当時の政府要人たちの会議や蒋介石、周恩来らが被写体となっている。日本の従軍画家たちが残した戦争画と同様のプロパガンダの一環であった。19389月にはバルセロナ、アラゴン戦線に戻り取材を進め、フランス、ベルギーでの取材に続き、193910月以降は、アメリカ、メキシコなどで「ライフ」の仕事が中心となる。 

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キャパ撮影 1938年7月 漢口空爆のあと


 第4章では、チュニジア、シチリア、アルジェリアなどでは連合国軍、アメリカ軍の従軍取材を続け、19446月にはノルマンディ上陸作戦にも加わり、その後のパリの解放や翌年4月のライプツィヒ解放にも立ち合う。 

2次世界大戦後は、アメリカに渡り、市民権を得、映画製作や自伝の執筆、活動をこなすが1948年には、イスラエル建国宣言に端を発したアラブとの戦乱の取材を続ける。 

この間、スペイン内戦時代以来、親交を深めたヘミングウェー、ピカソ、スタインベック、さらにはアウィン・ショー、イングリット・バークマンらとの交流や共同の仕事を進めている。 

5章では、みずからのエージェンシー「マグナム・フォト」の設立を実現した後、19544月、毎日新聞の招きで来日。日本での撮影旅行の成果も、今回展示されているが、概して、素人目にもどちらかと言えば平凡に思える作品が多い。というのも、わずかな滞在期間もさることながら、日本についての理解も知識も浅いままの取材だからだったのではないか。日本のメーデーの取材直後には、「ライフ」の仕事で、インドシナ取材のため、バンコクに飛び、ベトナム北部で取材中、525日、地雷を踏んでの最期であった。

 

 若くして亡くなったキャパの魅力的な生き方とその作品への視線は熱く、いくたびかの回顧展、ドキュメンタリ作成、評伝出版、劇化などが繰り返されてきていた。しかし、彼のカメラマンとしてのスタートの時期のパートナーでもあったゲルダ・タローの存在や作品はあまり知られてこなかったのではないか。私は、今回初めて知って、二人の作品が発信するメッセージとその生き方に感銘を受けたのだった。

今回の展示は、キャパの弟コーネル・キャパ夫妻がニューヨークのICP(International Center Photography)へ寄贈したコレクションによるものか、寄贈による作品が中心となっている。 

 

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2012年6月 6日 (水)

生誕130年斎藤茂吉展へ、「茂吉再生」とは

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新緑のフランス山

 610日の会期末も迫り、どうしても今日しか行けないとあって、9時過ぎに家を出た。横浜は、今日から3日間港まつりとも聞いていたが、みなとみらい線も込みあってはいなかった。元町中華街で下車、何度も何度もエスカレーターでひたすら登り、地上に出る。登りついでにフランス山の階段を経て、港の見える丘公園に出る。薄曇りで、港の景色はクリアではない。霧笛橋を渡ると、神奈川近代文学館、「茂吉再生」の文字が大きい看板が見えてきた。 

 茂吉展の看板やポスター、チラシにも「茂吉再生」とある。この茂吉展の編集者は神奈川県内に住む尾崎左永子と三枝昂之があたっている。「再生」のコンセプトはどの辺にあるのだろうか。茂吉が現代に「再生」したのか、茂吉自身の生涯における、どの時点でのことを言うのかなど、という思いが馳せる。会場は、大きくは4部構成で、序章「生を写す歌―『赤光』『あらたま』の衝撃」、第1部「歌との出会い」、第2部「生を詠う」第3部「茂吉再生」となっている。カタログや会場の解説などを読んでも、第3部「茂吉再生」のタイトルにしか「再生」の文字がみあたらない。展示会全体を「茂吉再生」と名付けた意図は不明なままだが、東日本大震災被害の復旧・復興を目指す「再生」と掛けるのだったらやや強引でもあるし、あまりにも時流に乗って政策的過ぎるのかな、と思う。

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霧笛橋のポスター

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文学館入口の看板

 

 それはともかく、私が印象深かった作品や気になった展示などをいくつか記録にとどめておきたい。
 

1.本よみてかしこくなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり 

茂吉の書画は小学生のころからすぐれていたらしい。漢字とカタカナで書かれた日記などは、とても子どもとは思えないほどで、老成しているといった感じで、生家、そして一族の期待を担った少年時代を過ごしていたことがわかる。展示の短冊「本よみてかしこくなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり」のキャプションには、1904年長兄広吉、次兄富太郎がともに応召していたときの作とあった。岩波文庫で読んだ『赤光』の作品と少し違わなくない?と思って、持参した文庫本を開いてみると、冒頭「折に触れ 明治三十八年作」の3首目に「書(ふみ)よみて賢くなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり」とあった。文庫は、改選第3版(1925年)を定本としている。巻末に収録された初版(1913年)は、伊藤左千夫の追悼歌「悲報来」で始まり、最近作を冒頭に置いた編集であった。 

当時の心境を、茂吉自身、当初の作品は「具合の悪いのが多い。併し同じく読んでもらふうへは自分に比較的親しいのを読んでもらはうと思つて、新しいのを先にした」と跋で記している。後、その初版は、1921年の大幅な削除や訂正・改作により「改選」され、編年体に改められた。今回、その「改選」時の書き込みのある「赤光」が展示されていた。改選第3版には「これをもつて定本としたい」旨の跋も今回あらためて読み直したのだった。第1歌集『赤光』の成り立ちに思いを馳せる短冊であった(小倉真理子「初版『赤光』の特異性」『短歌』20125月、参考)。

 

2.墓はらのとほき森よりほろほろとのぼるけむりに行かむとおもふ 

この1首は、伊藤左千夫の選を経ずに、初めて『アララギ』(19109月)に掲載された5首の冒頭作品であり、「木のもとに梅はめば酸しをさな妻ひとにさにづらふ時たちにけり」と並ぶ。『赤光』にはともに「明治四十三年 2をさな妻」(表題歌の「のぼる」は「上る」に「のぼる」の振りがなが付せられている)に収録されている。茂吉は、東京帝大医科大学入学後の1906年左千夫に入門し、左千夫選によって『馬酔木』に初めて載ったのが19062月であり、新聞『日本』の左千夫選歌壇にも投稿している。1908年『馬酔木』廃刊後は、『アカネ』を経て、10月には、左千夫創刊の『アララギ』に参加している。
 

来て見れば雪げの川べ白がねの柳ふふめり蕗のとも咲けり

(『馬酔木』(根岸短歌会)19062月) 

(『赤光』には「折に触れて明治三十九年作「来て見れば雪消の川べしろがねの柳ふふめり蕗の薹も咲けり」とある) 

大き聖(ひじり)世に出づを待つとみちのくの蔵王高根に石は眠れり
 (『日本』伊藤左千夫選19077月)

 

 医師としての業績は、長崎医専教授、ヨーロッパ留学を経て、研究というよりは、養父の脳病院の医師として経営に奔走することになる。昭和期に入り、40代半ばとなった茂吉は、『アララギ』の編集発行人となると共に歌壇の論客としても活発な活動を続ける。日中戦争下では、妻との別居・永井ふさ子との出会いなどを背景に、作歌とともに柿本人麿研究などに打ち込み、太平洋戦争下においては、種々のメディアへ夥しい数の戦意昂揚歌を発表するに至っている。

 

3.決戦をまのあたりにし国民(くにたみ)の心ゆるびは許さるべしや 

 19441017日『朝日新聞』に掲載の「戦運」5首のうちの1首。未刊の幻の歌集だった『萬軍』にも収録。第3部「茂吉再生」の冒頭の展示には、戦時末期の上記新聞掲載作品、『萬軍』の原稿などが展示され、「(作歌)手帳55」における次のような敗戦直前の作品に着目して、不安や迷いを吐露していたと説く。

 

川はらの松の木したにひそみゐるわれの生(いのち)のいくへも知らず

1945421日) 

勇まむとこころのかぎり努むれど心まよひてこよひ寝むとす

1945726日)

 

4.沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ 

 194510月『短歌研究』に掲載「岡の上」の1首、「こゑひくき帰還兵士のものがたり焚火を継がむまへにをはりぬ」などと並び、敗戦後の茂吉<第一声>としても名高い。今回の茂吉展の編集者三枝は、カタログにおいて、この「岡の上」は、戦時下の検閲と占領軍の検閲のはざまで困惑し切っていた短歌ジャーナリストの木村捨録のもとに、茂吉みずからが19459月下旬に送付してきたもので、木村の「その高い調べに頭を下げて感激、敗戦後の短歌に確信を持った」との発言を引用する(45頁)、同趣旨のことを別の場所でも述べている(『短歌』20125月、84頁)。

 

5.峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり 

     (昭和天皇1942年歌会始作品)

 上記234の作品の展開のなかで、その解説において、気になる点があった。次のようなくだりがある。
 

  「戦時下、短歌には、国民の心情を結束する役割を求められていた。その責務を重く受け止めていた茂吉は、ラジオや新聞の求めに応じ、夥しい数の戦意昂揚歌を作る」(46頁) 

一方、上記4にあるように、敗戦直後、茂吉が(みずから)短歌雑誌に送付してきたことが美談のように語られていることである。このように作歌の背景を展開する構図はかつて、どこかで、見たような・・・。思い起こすのは、19891月、昭和天皇の追悼記事や番組で、つねに国民を思い、平和を願っていたことを証する短歌をさかんに引用し、天皇の戦争責任を相対化する風潮であった。1942年の短歌は、軍部に押し切られやむなく開戦に踏み切り、1945年の短歌は、周囲を押し切って終戦の「聖断」を下したという経緯が史実とは別次元で、心情的に語られるのであった。

 

峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり

1942年歌会始「連峰雲」) 

爆撃にたふれゆく民のうへおもひいくさとめけり身はいかならむとも

1945年「終戦時の感想」)

 <いずれも『おほうなばら―昭和天皇御製集』(読売新聞社1990年)から> 

 

6.ふたたび「再生」について 

なお、こだわるようだが、「再生」の文字は、カタログをよく読むと、「敗戦後の苦悩」と題して、「敗戦の日を故郷で迎えた茂吉は、再生の兆しを探すように、実りの季節を迎えた野山を歩き回った」(48頁)と一か所だけ記されていた。また、神奈川近代文学館のホームページに、「茂吉再生―困難をえる歌の力」と題して本展編集委員三枝は「展覧会の趣旨」として、その末尾には次のように記している。

 

 「2012年、生誕130年の記念すべき年に開催する本展では、幾多の辛苦を克服し、大きく再生をはたした茂吉の生涯と、歌の数々を展観する。その生涯を支えた「困難をえる歌の力」は今日の日本人の共感を得るものと確信する」

 

 なお、茂吉展の準備で、生前の北杜夫の協力を得たことは分かるが、茂吉展に北杜夫のコーナーはなくてもよかったのではないか。他の文学館などで、別の企画もあるようなので、今回は、茂吉に集中すべきではなかったか。その分、やはり私は、戦時下に歌人として「求めに応じ」どんな活動や足跡を残したのかを、もう少し丁寧に追跡すべきではなかったか。その圧倒的な物量が、敗戦後の茂吉の心身にどんな影を落としたのかを解明してほしかった。そこからの「再生」の意味も重さも立ちのぼってくるかもしれない、そんな思いが残った。

 

行きつ戻りつしながら、2時間近くかかっただろうか。外に出ると、雲行きあやしく、遠くで雷も鳴っている。あわててアメリカ山公園を抜け、リフトでみなとみらい線の駅頭に降りると、雨が降り出した。元町の商店街の軒下を伝って石川町駅まで、少し雰囲気の変わった、久しぶりの元町、それはそれで楽しみながら家路についた。

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アメリカ山公園、雷が遠くで鳴りはじめた

 

 

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2007年4月28日 (土)

マイリスト「野の記憶―日記から」に「一泊の旅、横浜へ」を登載しました(2007年4月)

一泊の旅、横浜へ―急いで調べたいことがあった

元町汐汲坂ガーデンのラブラドール
放送ライブラリーで考えたこと
 「GHQ原爆プレスコード」(中国放送1980年放映)  
 「神と原爆浦上カトリック被爆者の55年」(長崎放送2000年放映)
「言葉の戦士 黒岩涙香と秋山定輔―明治新聞人の気概を知りたい」展
雨の中華街、夜の埠頭
朝の大桟橋―鯨のせなか
クスノキは残った―横浜開港資料館
CAFE de la  PRESSEのランチ

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