2023年3月31日 (金)

「横浜ウォーキング」参加してみようかと(2)

大佛次郎記念館とイギリス館と

   心配していた昨夜からの雨は止んでいる。窓からのベイブリッジも昨日よりはっきり見える。午後からのウォーキングまで、どうか降らないで、と祈るしかない。11時の集合、ランチの会食まで時間があるので、大佛次郎記念館へ向かう。水たまりの残る散策路、多くの人が花壇の手入れに出ていた。

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港の見える丘展望台より、大佛次郎記念館をのぞむ

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 記念館は大佛次郎(1897~1973)の没後、1978年に開館している。この春は「大佛次郎 美の楽しみ」展を開催中で、大佛コレクションの中の挿絵画家や交流のあった画家たちの作品の一部が展示されていた。旧蔵の尾形光琳「竹梅図屏風」は、重要文化財となって東京国立博物館に所蔵されているそうだ。長谷川路可、長谷川春子、佐藤敬らの作品が目を引く。「鞍馬天狗」から「パリ燃ゆ」「天皇の世紀」まで、古今東西にわたる時代を描く、その幅の広さは格別なのだが、いざ自分が読んだ作品となると、あまりにも少ないのに気付くのだった。和室もどうぞとの案内で、上がってみると、大きな窓からの眺めはさすがであった。階下では、大佛の猫好きにちなんだ、猫の写真展も開催されていた。

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 記念館併設の「霧笛」という喫茶室には、二人とも入ったことがない。夫はぜひとも、ここでコーヒーをというのだが、10時半のオープンの時間なっても「しばらくお待ちください」と“close”の札をさげたままなのである。それではと、近くのイギリス館に入ってみる。1937年にイギリス総領事公邸として建設されたそうで、外観・室内も格調高いたたずまいであった。正式には、横浜市イギリス館といって、横浜市指定文化財になっていて入館も無料である。なんとなく人の動きがあわただしいと思ったら、午後と夜、コンサートがあるという。ウォーキングの後、コンサートもいいね、とチラシをもらう。

 ふたたび「霧笛」に寄り、豆を挽く香りにつつまれながら、念願かなって、コーヒーとケーキを待つ。

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私はかぼちゃのケーキを、夫はチーズケーキを

いよいよ「横浜ウォーキング」

 総勢二十人余の参加者が 簡単なランチを食べながら、今日のウォーキングの説明を聞く。三班に分かれて、各班にKKRのスタッフとNPOのガイドさんが付き添う、という。ほとんどがシニアなので、安心といえば安心である。私たち夫婦は、参加者七人の三班であったが、その内三人は、こうした催しの常連らしくスタッフとも親しげである。他の人も、国内・国外を問わず、旅行三昧の暮らしで、私たちの比ではないらしい。お一人は87歳といい、皆さんの意気軒高な、定年まで勤めあげたらしい国家公務員のOBで、その元気さに圧倒されてのスタートであった。

「元町・中華街」まで、緩やかな方の谷戸坂をくだって、みなとみらい線には一駅だけ乗り、「日本大通り」下車。

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「日本大通り」の改札を出た通路には、こんなモザイクの壁画並んでいて、そのうちの一枚が、横浜のシンボルを一枚に収めたような作品。これからめぐる「三塔」と赤レンガ倉庫も描かれている。柳原良平の作と聞いたが、かの「トリス」のオジサンの横顔も船上に描かれているではないか

 日本大通りと本町通りの交差点に立つ。神奈川県庁の敷地の角には「運上所跡」の碑がある。県庁の屋上には、三塔の一つ「キングの塔」と呼ばれる塔が建つ。屋上を半回りすれば、街と港を一望できる。

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 地上に出て、次に向かったのが横浜開港資料館である。ここには二人とも、数年前に新聞博物館・放送ライブラリーに来たときに寄ったことがある。三つ目の塔は、横浜市開港記念会館の塔なのだが2021年12月から改修だそうで、見上げるだけだった。

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横浜開港資料館中庭「玉くすの木」、江戸時代より大火や空襲に遭いながら、再生した、たくましい木。夫の撮影による三班の女性一同。ガイドさんのとなりに従いているのが筆者か

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香淳皇后の歌碑

 山下臨港線プロムナードに突然現れたのが香淳皇后の歌碑だった。ガイドさんも、参加者も素通りだった。私たち二人が写真を撮っていて、少し遅れてしまったのだが。「<ララ>の功績を後世に残す会」(2001年4月5日)の銘板「第二次世界大戦後の多くの日本人を救った<ララ>物資」によれば、1949年10月19日、昭和天皇・皇后が横浜港のララ倉庫を訪問した折に詠んだ短歌とあり、つぎの二首が刻まれていた。

ララの品つまれたるを見てとつ国の熱き心に涙こほしつ
あたゝかきとつ国人の心つくしゆめなわすれそ時はへぬとも

 ララ物資の第一便は1946年11月30日、この横浜新港埠頭に入港したという。私も学校給食の脱脂粉乳世代だったし、教室ではくじ引きで、傘や靴が配られたこともある。焼け跡のバラック住まいのご近所で、砂糖やメリケン粉、ソーセージの缶詰などを分け合っていたのを思い出す。それがララ(LARA:Liensed Agencies for Relief in Asia=アジア救済公認団体)からのものであったのか、なかったのか。ララといって、私が思い出す短歌は、山田あきの次の一首である。

ゆたかなるララの給食煮たてつつ日本の母の思ひはなぎず(『紺』歌壇新報社 1951年5月)

 疎開地から戻って、池袋の小学校に転校したものの、校舎はなく、仮校舎のお寺の鐘楼跡で、給食の用意をしていた母たちの姿に重なる。

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変わった防潮柵、閉じるわけでもなく、その役目を果たすらしい

 港沿いに「大桟橋」を右に見て「象の鼻」の由来を聞きつつ、青い屋根の塔、クイーンの塔が立つ「横浜税関」の「資料展示室」にも立ち寄る。つぎに、赤レンガ倉庫の一号館が二号館より短いのは、関東大震災で倒壊したからとの説明を聞く。最近リニューアルした商業施設らしく、若い人たちでにぎわう中、私たちはここを通り抜けた。広場の先のかまぼこ型の白い建物には「海上保安資料館(北朝鮮工作船展示)」の大きな文字があり、突然の「北朝鮮工作船」に驚く。海上保安庁って、他にやることもあるだろうに、と中に入って、さらに驚く。2001年12月、奄美大島近くのEEZ内で不審船を自衛隊が確認した以降、海上保安庁巡視船との攻防の末、不審船は、自爆して沈没、後の引き上げ・調査の結果、北朝鮮の工作船と判明した。30mある船体と回収した武器などが展示されていたのである。入り口近くには、実に詳しく、説明する案内人がいた。夫は、思わず、胸に下げている名札を覗き込むと、「海上保安庁に45年間務めたOBです」と誇らしげに?答えていた。それにしても、展示がここ横浜の地で、工作船関係のみという違和感はぬぐえなかった。

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階段を上ると船内を俯瞰できるようになり、不審船に遭遇した巡視船の活動の様子が大きな画面で映写されていた

 さらに、私たちは、長い商業施設を経て、「横浜ハンマーヘッド」へと進むと、世界でも有数だったという、荷揚げ用の巨大なクレーンが聳えていた。サークルウォークという円形のデッキを経て、万国橋をわたり、あとは馬車道まで歩くことになるのだが、頭上に、これも突然、小さなケーブルが行き来をしているのにびっくりするのだった。

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桜木町駅前からみなとみらいの運河パークまでを結ぶ、都市型ロープウエイ。定員8人、合計36基のゴンドラが片道630mの道のりを約5分で運行、大人片道1000円、大観覧車と合わせて1500円というチケットもあるそうだ。5分で1000円?!

 馬車道駅からみなとみらい線に乗り、終点の元町・中華街に着くころは、私など、もうかなりのくたばりようで足が重い。宿について一休み、5時からは夕食が始まり、班別のテーブルはにぎやかなおしゃべりの場になった。そして、各班2・3名が指名され、感想を述べたりした。私たちは、7時からのコンサートがあるので、本降りになった雨の中をイギリス館へと急いだ。

 コンサートには、二十数人が来場、バロック時代の古楽器による演奏だった。素朴なチェンバロの音色、オーボエのやさしい高音、当時のヴィオラの弦は7本で、ヴィオラ・ダ・ガンバと呼ぶらしいが、奏者は、楽器を両足で支えての演奏、こんなにも身近で聞くコンサートは、はじめてだった。バッハを父とするC.P.E.バッハ作曲のヴィオラ・ダ・ガンバのための曲というのも初めて知った。ウォーキングの疲れをいやされ、至福のひとときを過ごすことができた。このようなコンサートは山手の西洋館を会場として、しばしば開催されているという。今回は、初めての平日開催とのこと、偶然な、うれしい出会いであった。
  この日の万歩計は、12917歩、近年にない記録であったが、明日の足腰がどんなことになっているか、心配はつきない。

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2023年3月29日 (水)

<横浜ウォーキング>に参加してみようかと(1)

 いきなり、きつい、雨の谷戸坂

 横浜のKKR(国家公務員共済組合)の宿、ポートヒルが企画する「横浜三塔をめぐるウォーキング」というものに参加してみようか、ついでに近代文学館にでも寄ってみようということになった。その企画には、ランチと夕食までついているので、日帰りは無理かと、前泊ともども二泊の予約もとれた。ただ、予報では三日間とも雨模様なのと私の脚が不安ではあった。

 3月23日、みなとみらい線も久しぶり、2019年の「松本清張展」以来か。終点の元町・中華街から地上に出るとかなりの本降りの冷たい雨。早めながらランチをと、夫はお目当ての店を探すが、イラストマップではわかりにくい。カラの台車を押す宅配の人ならと呼び止めてしまう。マップをヨコやタテにしながら親切に教えていただく。その店は、傘を差しながらも若い人たちは並んでいる。もうどこでもいいよ、と少し大きな構えの店に入った。仕切られた個室風のところには、すでに二組の家族が入っていた。ランチのコースに満足、ひとまずは宿に向かうのだが、夫は、アメリカ山の脇の坂道に入り、左手の高い石塀に沿って進む。途中、石段にかわったりするが、私には、とにかくきつい。つい最近、循環器科のいくつかの検査で、問題なしの診断を受けた身ながら、苦しかったのだ。宿のある港が見える丘公園への違う道があるはずなのにと、ようやく登りきった左手がKKRの宿であった。向かいが交番、そうそう、港の見える丘公園の展望台が目の前だった。
 チェックインには、まだ間があったが、お願いしての入室、熱いお茶で一休みできたのがありがたかった。

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 雨の谷戸坂、振り返る

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県立神奈川近代文学館のパンフから

県立神奈川近代文学館常設展をひとりじめ?

 宿を出て、イングリッシュガーデンを進めば霧笛橋、時間がたっぷりとれる今日のうちにと文学館に入る。神奈川にゆかりのある作家たち、神奈川を舞台にした作品が、作家別に展示され、最初は丁寧に見ていたが、後半は、関心のある作家のほかは素通りに近かった。それにしても、平日とはいえ、入館者は、私たちだけ? シニア料金の110円にも、感動さえ覚える。大佛次郎記念館とも連携しているので、半券を見せれば、やすくなりますよ、とも声をかけていただく。

 常設展では、中島敦が、横浜高等女学校で、八年間も教師を務めていたこと、大佛次郎が、住まいは鎌倉ながら、横浜のホテルニューグランドを仕事場にしていたことなどを知る。また、作家たちの書簡に見る達筆ぶりには驚きながら。
 企画のコーナーの「夏目漱石の絵はがきコレクション」には興味深いものがあった。漱石あての絵はがきの一部ながら、友人や教え子、読者たちからの作品評や旅の便りなどさまざまである。漱石は、書簡の類を引っ越しのたび、大方は処分していながら、絵はがきは残していたらしい。写真も電話も、まだ普及していない、一世紀ほど前の通信手段であった「絵はがき」、パソコンやスマホ世代にはほど遠い、ぬくもりのある世界に浸った。

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宿の窓から、港の見える丘公園をのぞむ

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雨が小降りになると、セレブ犬?の社交場にもなっていた

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夜景と
ウェルカムドリンクを楽しみながら

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2015年6月 7日 (日)

「すてきなあなたへ」70号(2015年6月8日)をマイリストに掲載しました

目次
川崎簡易宿泊所火災に思う~ある記憶に重ねて~
嵐のような、あの佐倉市長選は、何だったのか
          ~これからが大事、見抜く力の大切さ*
編集後記~70号までたどり着きました
菅沼正子の映画招待席 42 「アリスのままで」
          ~明日はわが身かもしれない

*6月5日の前記事と重なる内容ですが、年表も付してコンパクトにまとめましたので
 あわせてお読みいただければと思います。下をクリックしていただくか、左のマイリスト欄の70号をクリックしていただいても読むことができます。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/sutekinaanatahe70.pdf

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2013年3月27日 (水)

横浜で、二つの展示会(2)「再生への道 地元紙が伝える東日本大震災」

 

 ホテルにも近かったので、日本新聞博物館で調べものと思って立ち寄ったところ、「地元紙が伝える東日本大震災」展が開催中であった(201339日~616日)。東北地元4紙、岩手日報、河北新報、福島民報、福島民友新聞の紙面や号外、報道写真などで、地震発生、福島原発事故発生以来の2年間の新聞報道を検証するものであった。

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 全般的な印象でいえば、私たち首都圏の住民が接してきた新聞報道とは、雲泥の差がある写真であり、記事内容であった。「温度差」などと言えるものではない、その凄惨さと過酷さが伝わって来る紙面であった。  

311日「岩手日報」が撮影した衝撃的な一枚の写真、防潮堤を乗り越えようとしている津波にトラックや乗用車が乗り上げている一瞬をとらえていた。どんな大きな活字の記事よりもインパクトが大きい。また、原発事故の第一報というより一面扱いでの最も早い記事は「福島民友」だったのだろうか。312日朝刊左下にある「原子力緊急事態宣言」として、政府が311日午後730分に発した旨の記事になっていた。私は、この宣言を、代々木近くで山手線を降ろされ、新宿を経て歩き通し、池袋の実家にたどり着いた直後のテレビで聞いたように思う。また、掲載されたか否かは定かではないが、地震当日の停電の編集局、資料が散乱した中で、ローソクを灯しながらの編集作業を写した一枚も印象的だった。「福島民報」の20117月に始まった、シリーズ「放射線との戦い」と10月に始まった「3.11大震災 福島と原発」の連載には、原発は福島に、そして日本に何をもたらしたかを問い続けている悲痛な叫びがつまっているようであった。 

また、一昨年12月の政府の福島原発事故収束宣言に対する地元4紙の社説や論説は、いずれも、大いなる疑問と不安を残す論調であったのは、当然のことだろう。1年後の311における4紙の社説は、風化への懸念と再生への道を探るものだった。さらに、201210月、たださえ復興が眼に見えない中「復興予算の流用」が明らかになり、被災地の人々の怒りを代弁した。 

地元4紙と全国紙との落差のようなものは十分伝わってくる。今回の展示は、スクラップブックのようなもので、報道の全貌を知ったわけでもない。しかし、この2年間の奮闘ぶりもよく理解できた。しかし、これは全国紙にも言えることだが、原発に関して、福島原発事故までの報道への検証がなされたのか、今回の展示では見えてこないのが、残念だった。

なお、帰宅後、調べたところ、地元4紙の発行部数は次の通りだった。

福島民友(1885年創刊)21万

福島新報(1892年)  25万

河北新報(1897年)  48万

岩手日報(1876年)  22万

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そして、翌日出かけた野毛山動物園 、桜も見ごろ。

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ライオン夫婦はお休み中、この後、

メスのライオンが突然吠え出した。 

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 数日前に、埼玉から横浜まで、数社の乗り入れで直通になったばかりの

中華街は、大変な混みようだった。評判という中華粥専門店には行列が

できていた。

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横浜で、二つの展覧会(1)「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー」展

  結婚記念日も私の誕生日もせわしく過ぎてしまい、少しゆっくりしようと横浜までやってきた。私は、事前の調査も甘く?飛び込んだような横浜美術館、「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー」の二人展が開催中であった(2013年1月26日~3月24日)。あすが最終日だった。キャパ(19131954)は、若くして戦場のベトナムで命を落とした<戦場カメラマン>くらいの知識しかない。
二人展の<パート1>が、女性戦場カメラマンの草分け、ゲルダ・タロー(19101937)の作品であり、なんと、キャパのパートナーであったが、スペイン内戦の取材中に非業の死を遂げた。27歳という若さであったという。知らなかった。いつになっても、ほんとうに知らないことが多すぎるの思い頻りである。
戦場に散った日本のカメラマンとして、私がわずかに思い浮べるのは、澤田教一(19361970)、一之瀬泰三(19471973)、橋田信介(19422004)・・・、そして山本美香(19672012)。浅薄ながら、タローに美香さんが重なってしまうのだ。

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タローとキャパ、カタログから 

タローは、ドイツのシュトゥツガルトに生まれ、1929年ライプツィヒに出て学び、1933年反ナチスの政治活動にかかわったとして一時期、保護観察下に置かれるが、パリに出る。1934年、後にロバート・キャパと名乗るハンガリー出身のカメラマンと出会い、翌年から二人の共同生活が始まる。タローは、キャパの助手やマーネジャーなどを務め写真を学ぶ。19362月にスペインに人民戦線政府が成立、7月にフランコ率いる反乱軍が蜂起してスペイン内戦が始まる。二人は、アラゴン、コルトバなど各地の戦線を転々として取材にあたり、パリ、マドリードを根拠地に前線の取材に入り、共々「ル・ガール」やフランス日刊紙「ス・ソワール」などへの作品発表が活発になる。19377月、国際作家会議の取材に入った後、725日ブルネテ戦線での戦乱に巻き込まれ、戦車に轢かれ、翌26日野戦病院で死去。マドリードでは多くの文化人の弔問を受け、27歳の誕生日81日には、パリでフランス共産党主催による葬儀が行われた。 

彼女の死後、1938年、キャパがタローにささげた二人の写真集「生み出される死」(Death in the making)があるが、撮影者の明記がない。タローには、当初使用したローライフレックスによる正方形の作品が多かったが、後、キャパの使用するライカ35㍉に変えたという。そのフォーマットが撮影者判断の決め手になった時期があるという。 

タローの作品には、共和国軍内でも役割が限定された女性兵士たち、子どもや戦災孤児、難民、兵士らのつかの間の休息などを捉えた作品が多い。しかし、バレンシアでの「遺体安置所」の現実へも決して眼をそらさない覚悟をも持ち合わせていた。

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タロー撮影、国際作家会議 1937年7月 カタログより

<パート2は、キャパである。キャパは1913年、ハンガリー、ブダペストに生まれる。1931年、左翼学生運動に加担したという理由で、ブダペストを追われることになり、ベルリンのドイツ政治高等専門学校で学ぶが、学費が途絶え、写真通信社デフォト暗室助手として働く。193211月、デフォトの経営者グットマンよりコペンハーゲンに派遣され、演説会のトロツキーを撮影した作品が、写真家としてのデビュー作となる。ヒトラーが掌握したブダペストからウィーンに逃れるが、1933年、向かったパリで、著名な写真家たちと親交を深める。1934年、ゲルダ・タローに出会い、翌1935年共同生活を始め、活動を共にする。19368月から、二人でスペイン内戦の取材に入り、バルセロナ、アラゴン戦線、マドリード、トレド、コルドバ戦線を取材、コルドバでの共和国軍兵士の一枚「崩れ落ちる兵士」(「ライフ」1937712日掲載)が、後、キャパの話題作となる。今回の展示は、つぎの各章に分かれる。 

1 フリードマンからキャパへ 1932~1937 

2 スペイン内戦 1936~1939 

3 日中戦争  第二次世界大戦 I 1938~1941 

4 第二次世界大戦 II 1941~1948

5 インドシナまで 1946~1954 

1章では、先の熱弁をふるうトロツキー、19366月パリ、ラファイエット百貨店のストライキ中の女子社員やガードマン、714日革命記念日のパリ市民たち、パリの人民戦線の集会など、報道カメラマンの鋭くも優しい市民への視線を感じる一連である。 

2章では、きびしいスペイン内戦の戦局の推移がわかるような展示というが、聞いたことのある地名ながら、スペインのどのあたりなのか見当もつかなかった。一度でも旅行すれば、ある程度の方向感覚がつかめるかもしれない、行かなければいけない国だね、呟いてみるが、いつ果たせるものか。この時期の作品で、最も衝撃だったのは、193712月、アラゴン戦線におけるテルエルでの作品だった。電話の架線工事をする兵士が撃たれ、木の上でそのまま絶命している画像である。反ファシズムを掲げ、国際的にも文化人の支援や義勇軍の応援を受けながらも人民戦線側はやがて後退を余儀なくされる。1938年フランコがブルゴスに内閣樹立後は、193810月、人民戦線の支援部隊、国際旅団はソ連が離脱して解散、その後、フランコ政府は、英・日独伊・米と列強各国の承認を得る。

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キャパ撮影、1937年12月 テルエル、アラゴン戦線 カタログより

 

3章でのキャパは、19381月、日中戦争の取材に向かい、漢口、徐州、西安、鄭州などめぐり、日本の侵略に抗する中国軍サイドからの取材で始まる。19387月、空爆を受けた漢口の市民たちの表情や姿には、日本軍の侵略の烈しさを物語る作品になっていた。当時の政府要人たちの会議や蒋介石、周恩来らが被写体となっている。日本の従軍画家たちが残した戦争画と同様のプロパガンダの一環であった。19389月にはバルセロナ、アラゴン戦線に戻り取材を進め、フランス、ベルギーでの取材に続き、193910月以降は、アメリカ、メキシコなどで「ライフ」の仕事が中心となる。 

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キャパ撮影 1938年7月 漢口空爆のあと


 第4章では、チュニジア、シチリア、アルジェリアなどでは連合国軍、アメリカ軍の従軍取材を続け、19446月にはノルマンディ上陸作戦にも加わり、その後のパリの解放や翌年4月のライプツィヒ解放にも立ち合う。 

2次世界大戦後は、アメリカに渡り、市民権を得、映画製作や自伝の執筆、活動をこなすが1948年には、イスラエル建国宣言に端を発したアラブとの戦乱の取材を続ける。 

この間、スペイン内戦時代以来、親交を深めたヘミングウェー、ピカソ、スタインベック、さらにはアウィン・ショー、イングリット・バークマンらとの交流や共同の仕事を進めている。 

5章では、みずからのエージェンシー「マグナム・フォト」の設立を実現した後、19544月、毎日新聞の招きで来日。日本での撮影旅行の成果も、今回展示されているが、概して、素人目にもどちらかと言えば平凡に思える作品が多い。というのも、わずかな滞在期間もさることながら、日本についての理解も知識も浅いままの取材だからだったのではないか。日本のメーデーの取材直後には、「ライフ」の仕事で、インドシナ取材のため、バンコクに飛び、ベトナム北部で取材中、525日、地雷を踏んでの最期であった。

 

 若くして亡くなったキャパの魅力的な生き方とその作品への視線は熱く、いくたびかの回顧展、ドキュメンタリ作成、評伝出版、劇化などが繰り返されてきていた。しかし、彼のカメラマンとしてのスタートの時期のパートナーでもあったゲルダ・タローの存在や作品はあまり知られてこなかったのではないか。私は、今回初めて知って、二人の作品が発信するメッセージとその生き方に感銘を受けたのだった。

今回の展示は、キャパの弟コーネル・キャパ夫妻がニューヨークのICP(International Center Photography)へ寄贈したコレクションによるものか、寄贈による作品が中心となっている。 

 

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2012年6月 6日 (水)

生誕130年斎藤茂吉展へ、「茂吉再生」とは

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新緑のフランス山

 610日の会期末も迫り、どうしても今日しか行けないとあって、9時過ぎに家を出た。横浜は、今日から3日間港まつりとも聞いていたが、みなとみらい線も込みあってはいなかった。元町中華街で下車、何度も何度もエスカレーターでひたすら登り、地上に出る。登りついでにフランス山の階段を経て、港の見える丘公園に出る。薄曇りで、港の景色はクリアではない。霧笛橋を渡ると、神奈川近代文学館、「茂吉再生」の文字が大きい看板が見えてきた。 

 茂吉展の看板やポスター、チラシにも「茂吉再生」とある。この茂吉展の編集者は神奈川県内に住む尾崎左永子と三枝昂之があたっている。「再生」のコンセプトはどの辺にあるのだろうか。茂吉が現代に「再生」したのか、茂吉自身の生涯における、どの時点でのことを言うのかなど、という思いが馳せる。会場は、大きくは4部構成で、序章「生を写す歌―『赤光』『あらたま』の衝撃」、第1部「歌との出会い」、第2部「生を詠う」第3部「茂吉再生」となっている。カタログや会場の解説などを読んでも、第3部「茂吉再生」のタイトルにしか「再生」の文字がみあたらない。展示会全体を「茂吉再生」と名付けた意図は不明なままだが、東日本大震災被害の復旧・復興を目指す「再生」と掛けるのだったらやや強引でもあるし、あまりにも時流に乗って政策的過ぎるのかな、と思う。

 

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霧笛橋のポスター

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学館入口の看板

 それはともかく、私が印象深かった作品や気になった展示などをいくつか記録にとどめておきたい。
 

 

1.本よみてかしこくなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり 

 

茂吉の書画は小学生のころからすぐれていたらしい。漢字とカタカナで書かれた日記などは、とても子どもとは思えないほどで、老成しているといった感じで、生家、そして一族の期待を担った少年時代を過ごしていたことがわかる。展示の短冊「本よみてかしこくなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり」のキャプションには、1904年長兄広吉、次兄富太郎がともに応召していたときの作とあった。岩波文庫で読んだ『赤光』の作品と少し違わなくない?と思って、持参した文庫本を開いてみると、冒頭「折に触れ 明治三十八年作」の3首目に「書(ふみ)よみて賢くなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり」とあった。文庫は、改選第3版(1925年)を定本としている。巻末に収録された初版(1913年)は、伊藤左千夫の追悼歌「悲報来」で始まり、最近作を冒頭に置いた編集であった。 

 

当時の心境を、茂吉自身、当初の作品は「具合の悪いのが多い。併し同じく読んでもらふうへは自分に比較的親しいのを読んでもらはうと思つて、新しいのを先にした」と跋で記している。後、その初版は、1921年の大幅な削除や訂正・改作により「改選」され、編年体に改められた。今回、その「改選」時の書き込みのある「赤光」が展示されていた。改選第3版には「これをもつて定本としたい」旨の跋も今回あらためて読み直したのだった。第1歌集『赤光』の成り立ちに思いを馳せる短冊であった(小倉真理子「初版『赤光』の特異性」『短歌』20125月、参考)。

 

2.墓はらのとほき森よりほろほろとのぼるけむりに行かむとおもふ 

 

この1首は、伊藤左千夫の選を経ずに、初めて『アララギ』(19109月)に掲載された5首の冒頭作品であり、「木のもとに梅はめば酸しをさな妻ひとにさにづらふ時たちにけり」と並ぶ。『赤光』にはともに「明治四十三年 2をさな妻」(表題歌の「のぼる」は「上る」に「のぼる」の振りがなが付せられている)に収録されている。茂吉は、東京帝大医科大学入学後の1906年左千夫に入門し、左千夫選によって『馬酔木』に初めて載ったのが19062月であり、新聞『日本』の左千夫選歌壇にも投稿している。1908年『馬酔木』廃刊後は、『アカネ』を経て、10月には、左千夫創刊の『アララギ』に参加している。

 

来て見れば雪げの川べ白がねの柳ふふめり蕗のとも咲けり

(『馬酔木』(根岸短歌会)19062月) 

(『赤光』には「折に触れて明治三十九年作「来て見れば雪消の川べしろがねの柳ふふめり蕗の薹も咲けり」とある) 

 

大き聖(ひじり)世に出づを待つとみちのくの蔵王高根に石は眠れり
 (『日本』伊藤左千夫選19077月)


 医師としての業績は、長崎医専教授、ヨーロッパ留学を経て、研究というよりは、養父の脳病院の医師として経営に奔走することになる。昭和期に入り、40代半ばとなった茂吉は、『アララギ』の編集発行人となると共に歌壇の論客としても活発な活動を続ける。日中戦争下では、妻との別居・永井ふさ子との出会いなどを背景に、作歌とともに柿本人麿研究などに打ち込み、太平洋戦争下においては、種々のメディアへ夥しい数の戦意昂揚歌を発表するに至っている。

 

3.決戦をまのあたりにし国民(くにたみ)の心ゆるびは許さるべしや 

 

 19441017日『朝日新聞』に掲載の「戦運」5首のうちの1首。未刊の幻の歌集だった『萬軍』にも収録。第3部「茂吉再生」の冒頭の展示には、戦時末期の上記新聞掲載作品、『萬軍』の原稿などが展示され、「(作歌)手帳55」における次のような敗戦直前の作品に着目して、不安や迷いを吐露していたと説く。

 

川はらの松の木したにひそみゐるわれの生(いのち)のいくへも知らず
1945421日) 

 

勇まむとこころのかぎり努むれど心まよひてこよひ寝むとす

1945726日)

 

4.沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ 

 

 194510月『短歌研究』に掲載「岡の上」の1首、「こゑひくき帰還兵士のものがたり焚火を継がむまへにをはりぬ」などと並び、敗戦後の茂吉<第一声>としても名高い。今回の茂吉展の編集者三枝は、カタログにおいて、この「岡の上」は、戦時下の検閲と占領軍の検閲のはざまで困惑し切っていた短歌ジャーナリストの木村捨録のもとに、茂吉みずからが19459月下旬に送付してきたもので、木村の「その高い調べに頭を下げて感激、敗戦後の短歌に確信を持った」との発言を引用する(45頁)、同趣旨のことを別の場所でも述べている(『短歌』20125月、84頁)。

 

5.峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり 

     (昭和天皇1942年歌会始作品)

 上記234の作品の展開のなかで、その解説において、気になる点があった。次のようなくだりがある。

 

  「戦時下、短歌には、国民の心情を結束する役割を求められていた。その責務を重く受け止めていた茂吉は、ラジオや新聞の求めに応じ、夥しい数の戦意昂揚歌を作る」(46頁) 

 

一方、上記4にあるように、敗戦直後、茂吉が(みずから)短歌雑誌に送付してきたことが美談のように語られていることである。このように作歌の背景を展開する構図はかつて、どこかで、見たような・・・。思い起こすのは、19891月、昭和天皇の追悼記事や番組で、つねに国民を思い、平和を願っていたことを証する短歌をさかんに引用し、天皇の戦争責任を相対化する風潮であった。1942年の短歌は、軍部に押し切られやむなく開戦に踏み切り、1945年の短歌は、周囲を押し切って終戦の「聖断」を下したという経緯が史実とは別次元で、心情的に語られるのであった。

 

峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり

1942年歌会始「連峰雲」) 

 

爆撃にたふれゆく民のうへおもひいくさとめけり身はいかならむとも
1945年「終戦時の感想」)

 <いずれも『おほうなばら―昭和天皇御製集』(読売新聞社1990年)から> 

 

6.ふたたび「再生」について 

 

なお、こだわるようだが、「再生」の文字は、カタログをよく読むと、「敗戦後の苦悩」と題して、「敗戦の日を故郷で迎えた茂吉は、再生の兆しを探すように、実りの季節を迎えた野山を歩き回った」(48頁)と一か所だけ記されていた。また、神奈川近代文学館のホームページに、「茂吉再生―困難をえる歌の力」と題して本展編集委員三枝は「展覧会の趣旨」として、その末尾には次のように記している。

 

 「2012年、生誕130年の記念すべき年に開催する本展では、幾多の辛苦を克服し、大きく再生をはたした茂吉の生涯と、歌の数々を展観する。その生涯を支えた「困難をえる歌の力」は今日の日本人の共感を得るものと確信する」

 

 なお、茂吉展の準備で、生前の北杜夫の協力を得たことは分かるが、茂吉展に北杜夫のコーナーはなくてもよかったのではないか。他の文学館などで、別の企画もあるようなので、今回は、茂吉に集中すべきではなかったか。その分、やはり私は、戦時下に歌人として「求めに応じ」どんな活動や足跡を残したのかを、もう少し丁寧に追跡すべきではなかったか。その圧倒的な物量が、敗戦後の茂吉の心身にどんな影を落としたのかを解明してほしかった。そこからの「再生」の意味も重さも立ちのぼってくるかもしれない、そんな思いが残った。

 

行きつ戻りつしながら、2時間近くかかっただろうか。外に出ると、雲行きあやしく、遠くで雷も鳴っている。あわててアメリカ山公園を抜け、リフトでみなとみらい線の駅頭に降りると、雨が降り出した。元町の商店街の軒下を伝って石川町駅まで、少し雰囲気の変わった、久しぶりの元町、それはそれで楽しみながら家路についた。


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アメリカ山公園、雷が遠くで鳴りはじめた

 

 

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2007年4月28日 (土)

マイリスト「野の記憶―日記から」に「一泊の旅、横浜へ」を登載しました(2007年4月)

一泊の旅、横浜へ―急いで調べたいことがあった

元町汐汲坂ガーデンのラブラドール
放送ライブラリーで考えたこと
 「GHQ原爆プレスコード」(中国放送1980年放映)  
 「神と原爆浦上カトリック被爆者の55年」(長崎放送2000年放映)
「言葉の戦士 黒岩涙香と秋山定輔―明治新聞人の気概を知りたい」展
雨の中華街、夜の埠頭
朝の大桟橋―鯨のせなか
クスノキは残った―横浜開港資料館
CAFE de la  PRESSEのランチ

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