2016年10月19日 (水)

日曜日は、池袋第五小学校のクラス会でした

 幹事の方々のお世話で、4年ぶりのクラス会だった。2年持ち上がりの担任のO先生の米寿のお祝いの会でもあり、ホテルの一室の壁には、幹事手づくりの「会次第」が貼られていたが、「旧池袋第五小学校」と「旧」が付いているのが、やや寂しくも思えた。すでに2005年、大明小学校との統合で「池袋小学校」と校名が変わっている。集うもの、昔の児童14人と賑やかであった。

O先生は、相変わらず絵画の制作にいそしみ、お元気そうで何よりだった。長い間所属されている「白日会」では、年会費が免除される特典に浴する年齢になられた由、感慨深げに話された。健康の秘訣はと問われ、まだ人が出歩かない早朝に、ほぼ毎日「歩く」ことではないか、とも語っていた。言うは易くしてと、わが身を振り返るのだった。

 私たちのクラスは、先生が教職について初めて送り出した卒業生だったという。先生が詰襟の学生服で写っている遠足の集合写真もある。たまたま隣になったOくんは、だいぶ前、先生の個展が地元の三越で開かれているのを知って出かけたところ、数十年ぶりの対面にもかかわらず、名乗る前に、先生から名前を呼ばれて、驚くとともに感激したとのこと。また、Sくんは、遠足で高尾山の頂上からの眺めに、隣の先生に「スゴイね、お父さん」と思わず叫んでしまってはずかしかったけれど、思うに、五人兄弟で、父親との接触が少なかったこともあって、たしかに先生は「お父さん」のようでもあったと。Tさんは、先生が風邪かで休まれたときに、放課後、何人かで、先生の住まいを訪ねて、小さな家の節穴から中をのぞいて帰って来てしまったとのこと、いや、私の記憶では、先生の家に皆で上がらせてもらった覚えがあるので、別の時だったかもしれない・・・。そんな話で盛り上がったが、まるで、『二十四の瞳』のような、と思ったものである。といっても、私たちのクラスは卒業時、55人だったので、「一一〇の瞳」ということになりそうだ。先生も、子どもたちの親たちも、苦難の時代、昭和20年代、池袋の話である。 

 

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池袋東口、パルコ(旧丸物百貨店)が途切れ、左に西口へのガードを見て、第2パルコの先が、線路沿いの池袋駅前公園となる。この公園の位置こそ変わらないが、当たりは一変している。クラス会会場は、右手の第一イン池袋だった。もちろん、こんなところにホテルがあるのも、ルノアールが入っているのも知らなかった。正面が、西武池袋スケートリンク跡に建てられた清掃工場の煙突で、これはかなり遠くからも見られる高さである。スケートリンクの手前には、人世座系列の名画専門の「文芸地下」があった。そういえば、第一インの手前の角から、池袋日活、池袋東急、池袋日勝館という映画館が並んでいたはずである。 今は、ビッグカメラとヤマダ電機が並んでいる。先生が長い間個展を開いていらした池袋三越は、今はヤマダ電機の本館である

 

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2016年9月 3日 (土)

ようやく、東京大空襲・戦災資料センターを訪ねる

   意外と近いところにありながら、なかなか訪ねることができない場所がある。今回、江東区北砂に住む友人との間で、とんとん拍子で話が決まり、訪ねることができた。東京大空襲・戦災資料センターは、1970年に早乙女勝元氏らによる「東京空襲を記録する会」が発足、空襲・戦災の資料や物品を収集してきたが、1999年の東京都の「平和祈念館」計画凍結を受けて、篤志家から無償提供による、この地に、市民の力で200239日にオープンしている。この夏、敗戦直後の東京をテーマにした写真展が開催されているのを知って、ぜひ訪ねたいと思っていた。友人は、展示写真のカメラマンたちが所属していた文化社についての講演会もすでに聞いていたのである。「文化社」、私は知らなかった。

東京大空襲・戦災資料センターHP

http://www.tokyo-sensai.net/index.html

 831日、台風一過の東京は、やはり暑かった。都営新宿線の西大島で待ち合わせ、まずはランチのイタリアンを食しながらの近況報告である。七夕のように一年に一度くらい会っては、社会を憂え、短歌や職場こそ違うが図書館員だったころに話が及ぶのがいつものパターンである。

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焼け残ったピアノ
 
歩けない距離ではないということだったが、明治通りで、車が拾えたので、センターに直行。レンガ造りの瀟洒な三階建てのビルだった。2階の常設展で、まず目についたのが、1945524日の空襲で焼け残ったという目黒区のピアノだった。この部屋は、空襲体験者による絵画が多い。

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 ピアノの左肩の角に、不発の焼夷弾が当たった跡が生々しい。ピアノの上の炎を描いた絵は「本郷の台地から見た310日の大空襲の大火災(岡部昭)であり、オルガンの上の作品は「青山同潤会の井戸」、手前の大作は「ケヤキの道」(いずれも山本万起)と題されていた

  そして絵画の小品の多くは、おのざわしんいち氏による絵画であった。おのざわ氏(19172000)は、16歳から川端画学校に学び、1938年応召、南京へ、2年後の除隊、大塚の軍需工場で働いた。太平洋戦争末期、防衛部隊として東京大空襲時には死体処理にも携わる。敗戦直後進駐軍で働いた後、漫画家となり、1970年ころから東京大空襲の絵を描き始めたといい、早乙女氏らとの活動に入ったという。その多くは、童画風でもあるが、語り部としての気迫に満ちていた。

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おのざわしんいち氏 のコーナー

「文化社」って
 
そして、隣の会議室が、今回の目当ての写真展「文化社が撮影した敗戦直後の東京」であった。「文化社」とは、戦争中、陸軍参謀本部の下で主に対外向けの写真宣伝雑誌の制作を担当していた「東方社」(194119457月)の後継団体で、194510月に発足している。「東方社」の説明パネルのなかにその刊行物「FRONT」とあって、ようやく結びついた。文化社は、あの「FRONT」を制作していた東方社の後身だったのである。東方社は岡田桑三(松竹の俳優でもあった)によって立ち上げられるが、主要メンバーの木村伊兵衛、原弘、伊奈信男は、日本工房の名取洋之助と袂を分かった4人で、花王石鹸にいた大田英茂はじめ、何人かの軍人たち、財界人たちをバックに、林達夫、岡正男、岩村忍、小畑操ら幅広い、錚々たる文化人が理事に名を連ね、そのもとで「FRONT」が創刊されている(詳細は、多川精一『戦争のグラフィズム 『FRONT』を創った人々』平凡社 2000年)。 FRONT』は対外的な宣伝雑誌であったが、国内向けには、すでに内閣情報部(局)から『写真週報』(19382月~19457月)が刊行されていた。

今回の展示会は「敗戦直後の東京」がテーマで、センターが所蔵する「青山光衛氏旧蔵東方社・文化社関係雄/写真コレクション」と東方社・文化社のカメラマンだった菊池俊吉・林重男氏の遺族所蔵の写真ネガから選んだという46点。私の焼け跡体験にも通じて、なかでも印象に残った写真を紹介しておこう。「個体の作品をカメラに収めるのは、著作権もありますので」という受付の方の言葉もあったので、会場の雰囲気と作品が見分けられるような形で、写真を撮らせていただいた。名前に聞き覚えのあった、二人のカメラマン、以下は、帰宅後、調べたことではある。林重雄(19182002)は、日本学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会調査団の委嘱により、日本映画社原爆記録映画撮影班スチール写真担当として、広島・長崎の爆心地を撮影し、後写真家として、反核運動に携わっている。菊池俊吉(19161990)も194510月より広島に入り、林と同じく委嘱を受けて原爆記録映画撮影班スチール写真を担当している。敗戦後は、広島、東京銀座の写真集を刊行、『世界』『中央公論』『婦人公論』などのグラビアで活躍する。ご両名やその遺族たちが、写真のネガをどのように守ってこられたかは、次の資料に詳しい。

・中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター「菊池俊吉が撮った原爆写真Ⅰ」

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20080704201603850_ja

・山辺昌彦:東京大空襲写真研究と特別展の開催 『政経研究時報』154号(20123月)

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焼け跡の池袋

私の池袋の生家は1945413日未明の空襲で焼け出されたが、翌年には、一家の疎開先の千葉県佐原から、父は、一足先に池袋の元の場所にバラックを建て、薬局を再開していた。一家が戻り、私は、1946年7月、入学したばかりの佐原小学校から池袋の小学校に転校した。小学校は焼失していたから、一年生の教室は、川越街道沿いの重林寺の本堂であり、二年になると焼け残った要町小学校まで通学し、けっこうな道のりだったと記憶している。近隣の焼け野原には、我が家のようなバラックが建ちはじめ、付近一帯は、お屋敷だったお宅の石の門柱だけが残っていたり、地主さんや質屋さんだったお宅の蔵だけが残っていたりした。小さな商店街はやがて「平和通り」と名付けらられ、「平和湯」という銭湯が近くだったのがありがたった。薬局といっても、銭湯のお客さんが石鹸を買ってくれたが、他には、ちり紙、綿花、みやこ染などの雑貨とサッカリンと重曹が売れ筋だったことを思い出す。東京のほかの町の焼け跡や復興の様子を知るすべもなく、学校と家の行き来と池袋西口のヤミ市に母親と買い物に行くくらいだった。遊びはもっぱら近くの焼け野原だった。池袋の東口に行くのに、子供には暗くて、浮浪者や傷痍軍人がいる「怖いガード」を通らねばならなかった時代でもあった。

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これが今回の展示会のチラシのおもて、下の写真には「寺社の焼け跡」(文化社1946年2月)のキャプションがつけられ、「ゴム跳びをする女の子たち」の説明がある。我が家のバラックの隣は、教会付属の病院の焼け跡での遊びでは、「ゴム跳び」ではなく、私たちは「ゴムだん」と呼んでいた。高さには、小さい児のための「ひざ下」から、頭の上のひとコブシ、ふたコブシ、手伸ばしまであった。ママゴトの記憶もあるが、男子女子入り混じっての馬乗り、石けり、カンけり、水雷艦長などが盛んだった

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  上段が「池袋駅」(文化社・菊池俊吉 1945年11月)、「西武農業鉄道(現西武鉄道)のホームで、電車に乗り込むのを待つ龍くさっくや包みを背負った人々」で、下段が「品川駅」(文化社・菊池俊吉1946年1月)で、品川駅は引揚列車の終着駅だった」の説明がある。池袋東口の敗戦後の歩みを少なからず見てきた私には、感無量であった

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 上段は、「宮城前広場で開かれた日本国憲法公布記念祝賀都民大会会場で座っている人たち」(文化社 1946年11月3日)、下段は「上野公園で車座になる被災者たち」(文化社・1945年11月 

東京大空襲、3階の常設展
 ここには、戦争の開始と拡大、防空、空襲の被害、東京大空襲と朝鮮人・・・などのテーマごとに罹災証明書、衣料切符などの資料や防空頭巾や焼けた瓦、爆弾の破片、焼夷弾、アメリカ軍の伝単(ビラ)などの実物、東京各地の空襲被害状況の写真が展示されている。写真は、これまでも何度か目にしたことのある、警視庁所属の石川光陽(19041989)による「親子の焼死体」などの写真が強烈であった。また、撮影者名をメモし損ねているが、「被災した慶應義塾大学図書館」「破壊された外壁だけが残るカテドラル関口教会内部と神父」「銀座教文館前の消火活動」「大塚駅南側から池袋方面の焼け野原を見る」などは、現在の各々を見ているだけに、そのインパクトは格別だった。

今回の展示会にしても、常設展にしても、東京大空襲はじめ広島長崎などの戦争被害の記録写真が、日本人カメラマンによって撮影され、GHQからの引き渡し要請にもかかわらず、ネガだけは自らのもとに残し続けた努力、それを保管し続けた遺族の方々にも敬意を表したい。軍や官庁が戦時中の記録類を抹殺し、後にも収集には無関心だった公的機関が多い中で、個人の努力で記録を残したことの大切さを実感した。そして「東京大空襲・戦災資料センター」のような施設が、まったくの民間、市民の手で作られ、維持されていることにも驚いている。そういう意味でも、戦争責任を曖昧なままにして、人間の命を粗末にする、この国の在り方は、問われなければならないと思う。

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  これは、最近刊行の『東京復興写真集1945~46』(勉誠出版 2016年6月)のカタログの表紙で、背景は林重男撮影の「改修中の東京駅」(1946年8月)である

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  上記写真集カタログからの5枚の写真、いずれも気になる作品だが、右上は国民学校初等科の国語の授業風景(文化社・林重男 2046年5月)で、教科書が行きわたらず、二人で使用、一番手前の女の子は赤ちゃんをおんぶしている。このきょうだいは今、どうされているだろうか。池袋第五小学校5年次、1951年、私のクラスにも、Y君という男子が毎日赤ちゃんを背負って登校していたので、教室で同じような光景を目にしている。Y君は、あまり背が高くなかったから、一番前の席の出入り口付近にいつも座っていた。 小学校のクラス会でも、卒業後の消息が分からず、時々話題になっていた。今頃どうされているだろうか。担任のO先生も、新任で、持ち上がりの初めて送り出した卒業生だったから、印象に残っているとおっしゃっていた

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2015年9月15日 (火)

<池袋学>夏季講座に参加しました~生活者の視点が欲しかった―池袋のヤミ市への熱い視線は、“男のロマン”にも似て―

 池袋第五小学校同窓の伊藤一雄さん(『池袋の西口、戦後の匂い』の著者、当ブログの7月22日記事参照)からのメールで知った、下記「池袋学」のシンポジウムに出かけた。2日ぼど前に、立教大学の係からは、参加申込が多く会場を変えたという電話まで頂戴した。912日には、国会周辺で「止めよう!辺野古埋め立て」の集会もあり、迷いながらこちらに参加したというわけだ。数日前に熱を出して体調が万全ではないこともあった。この日のキャンパスは、長雨の後だけに、芝生や蔦の緑が鮮やかで、レンガの校舎に映えていて、見学に来ていた女子高生が感嘆の声を上げていた。

 

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戦後池袋の検証~ヤミ市から自由文化都市へ

2015912日(土)14:0016:00

池袋キャンパス 11号館地下1 AB01教室

川本 三郎 氏(評論家)

吉見 俊哉 氏(東京大学教授)

マイク・モラスキー氏(早稲田大学教授)

石川 巧(立教大学文学部教授)

主催:東京芸術劇場、立教大学

後援:豊島区

協力:NPOゼファー池袋まちづくり、立教大学ESD研究所

※戦後70年「池袋=自由文化都市プロジェクト」と共同企画

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 300席の会場はほぼ満席、若い人が多い集まりに出るのは久しぶりだった。これまで川本、吉見両氏の本や発言には、若干接しているつもりだが、モラスキー、石川両氏は初めて聞く名前だった。実行委員長の挨拶が終わると、吉見氏の「池袋・東京・戦後~貫戦期の狭間としての闇(ヤミ)市」と題しての報告が始まった。

吉見氏から、池袋のどんな話が聞けるかな、と思っていたが、その中心は、ご自身が、2020年の東京オリンピック招致が決まったころから、いろいろな場で盛んに発言し続けている「東京文化資源構想」であった。東京には、北東部の上野・本郷・谷中・秋葉原、神保町など江戸・明治・大正の趣を維持している盛り場があり、南西部の渋谷・原宿・六本木・青山というアメリカナイズされた盛り場も生まれた。1964年の東京オリンピックを境に、東京の中心は北東部から南西部のエリアへと移行した、というのだ。それらのエリアは、いずれも歩いて移動できる範囲でもあるという。そのどちらにも属さない池袋はどんな位置を占めているのか、については、若干触れるには触れた。従来の二つのエリアの核となったのは、「駅」ではなく、「墓地」と「大学」であり、池袋周辺にも、雑司ヶ谷墓地、護国寺があり、立教・学習院・日本女子大などの大学があるから、盛り場の要素を十分持ち合わせている、という。氏の報告のサブタイトルにある「貫戦期」とは聞き慣れない言葉だが、「ヤミ市」は敗戦後に成立したものではなく、口にこそ出さないが、戦時下には日本の「負け戦」を認識していた国民は多く、すでに「ヤミ市」の要素は、市民の間では容認されていたことであった、ということを意味しているらしい。また2回目の発言では、人間のスケールに合った「ストリートカルチャー」としての「ヤミ市」の中の自由に着目し、「ゆっくり、細く、楽しく」を目指し、路面電車も復活させたいとも。

モラスキー氏は、1970年代の日本への留学以来、日本の戦後文化史を研究、日本の居酒屋やジャズの受容史などにも及ぶ。池袋については、上野、新宿などと比べてとらえどころがない盛り場である。現在、文学作品に現れた「ヤミ市」について研究していて、その作品集を編集している由。「ヤミ市」には、流通システムとしての「市場」、イチバとしての「場所」、履歴書のいらない、素人も参加できる「解放区」としての役割があるという。「店」と「街」との境界線が曖昧なことが特徴の一つとも言える。2度目の発言で、「ヤミ市」には、無計画的な自由、管理されない自由があり、従来の価値体系への挑戦とみることができる、と。

川本氏は、大正末期の永井荷風の日記に登場する「池袋」を紹介する。荷風が港区の自宅から雑司ヶ谷墓地の父の墓参りのついでに池袋に立ち寄り、予想していた以上に、市内の商店街に劣らず賑わっていたと記していたことに着目、関東大震災後の東京市内の人口移動の様相を反映していると見る。また、池袋の三業地生まれの種村季彦のエッセイからも、各地からの流入者や大泉撮影所が近いこともあって映画関係者も多く、移住者を拒まない独特の文化圏を形成していたのではないか。現在でも中央線沿線には「ヤミ市」が現存するということは、自然に出来上がった、居心地のよい空間を人が求めている証ではないか。日本の住宅は狭いので、サラリーマンは街に出て、居酒屋を求めるのではないかとも。

3人の話は、興味深かく、私の知らないこともあって、楽しかった。しかし、どうもしっくりとこないのはどうしてなのかな、の印象なのだ。吉見氏は、「東京文化資源構想」に、池袋をややムリをして当てはめようとした感じがしないでもなかった。それに、東京の中心を種々の文化資源が潜在する北東部に取戻すことが、新しい都市としての方向性を示すかのような話しぶりであったが、高度成長期にこれほどまでに変貌してしまった東京を、文化資源を核にして改造することは、並大抵のことではないだろう。都市として、人口減少、インフラの老朽化、自然災害などをどう克服していくのかという不安も伴うのだった。

モラスキー、川本両氏の話では、居酒屋、墓地、寺、大学などにしても、都市の中の点景や文化・風俗として捉えているように思えて、やや違和感を覚えた。たしかに、池袋におけるヤミ市、人世坐、池袋演芸場、沖縄料理おもろ、祥雲寺、鬼子母神、トキワ荘、サクマ式ドロップなどなど・・・について語られるのだが、それは、やはり、池袋を訪れる人々の感覚や感性によるものであって、必要以上に美化されたり、昭和への郷愁に駆られたりした結果ではなかったかと危惧するのだった。

パネリストの3人は、池袋に住んだことがなく、それだけに客観的ではあるが、生活者としての視点に欠けているように、私には思われたのである。いわば、「男のロマン」ではなかったのかとも。だから、今回の「戦後池袋の検証~ヤミ市から自由文化都市へ」で、戦後70年を池袋に暮らし、見つめてきた人をパネリストに迎えたら、もっと立体的に、池袋を活写・検証することができたのではないか、と。 

そういう意味で、私が着目したのは、東京芸術劇場のギャラリー・トークで、日替わりで、池袋に暮らし働いた方々のの話が聞けそうな企画である。一日でもいいから聴きに出かけてみたいと思っている。ぜひ記録に残し公開してほしい。さらに、豊島区制施行80周年記念事業「記憶の遺産80」(豊島区地域区民ひろば課作成・NPOとしまの記憶をつなぐ会協力)というインタビュー動画アーカイブであった。これら動画の作成と公開は、貴重な企画だったと思う。立教大学放送研究会と大正大学の放送・映像表現コースの学生が、戦前・戦後の豊島区を知る高齢者33人にインタビューしたものを、話題ごとに80タイトルにまとめたものだ。「池袋」に限っても、「池袋三業町会とともに生きる」「戦後池袋の焼け跡」「坂下通り商店街の遊び」「思い出の人世坐」「池袋西口戦中戦後の娯楽」などなど・・・、各編34分程度に編集されている。ここに、登場する方々は、居住歴が7080年が平均だろうか。私が、池袋の実家を離れたのは30歳過ぎ、記憶にあるのは戦後のことだから、知らないことも多いはずである。父母や兄たちから聞いたことのある話もよみがえってくるのだった。いま、長兄も亡くなり、義姉と姪たち家族が住む実家には、体調のこともあって、立ち寄ることもなく、家路につくのだった。

 

「記憶の遺産80」の詳細は以下参照。

http://www.toshima-kioku.jp/toshima80/80toha.html

 池袋に限らず、生活者・企業による記録や記憶の積み重ねによる、足が地に着いた都市(計画)論の展開に期待したいと思った。

 

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2015年7月22日 (水)

なつかしの池袋の本屋さん

 おとといの720日、池袋西武の書店リブロが閉店した。前身の西武ブックセーターが開業したのが1975年というから、私は、すでに池袋の生家を離れていたし、リブロになったころは名古屋に住んでいた。生家に帰省や出張で上京した折、リブロと併設の「ぽえむ・ぱろうる」、セゾン美術館(1975年西武美術館スタート1989年セゾン美術館と改称、1999年閉館)などに立ち寄ったことはあったが、近しい本屋さんという訳ではなかった。しかし、閉店となるとやはりさびしい。もっとも、リブロの居ぬきの形で三省堂池袋本店8月からすでに一部開業の準備を進めているそうだ。これまであったロフト内の三省堂書店とは併存するらしい。西武デパートの向かいに1997年(2001年に売り場倍増で約2000坪)、ジュンク堂池袋店の開業と近年のアマゾンなどによる書籍のネット販売の影響が大きかったのではないかと思う。出版自体、書籍、書店の行方というのは、将来どうなるのだろうか。図書館勤めが長い割には、蔵書家でもないし読書人でもない私だが、前の記事で紹介した伊藤一雄さんの『池袋西口 戦後の匂い』にあやかって、本屋さん体験を、いま、記しておこうと思った。

 

 戦後の池袋平和通りに、本屋さんはなかった。ただ、戦前の西原通り(西山町会と原町会の間)には、小さな本屋があったらしい。1933年生まれの次兄が、幼いとき、いっとき、家からいなくなって、近所を探しても見つからず、両親はあわてて警察に届けようと思った矢先、ひょこっと家に帰ってきたことがあったらしい。あとから、近所の本屋さんの話で、ずっと座り込んで絵本を読んでいた、というエピソードを聞かされていた。その次兄も弟を探しまわっただろう長兄も故人となって、確かめようがない。戦後は、私の知っている限り、母などが月極めの雑誌を買ったり、私の小学館の学年雑誌などを買ったのは、西口バス通りの芳林堂書店(創業は19483月とHPにある)。当時は、要町に向かうバス通りの右側にあったのが、後、向かいビルに移転したはず。もともとの位置にあるのが、現在の芳林堂コミックプラザだろうか。1990年代の後半、退職後、立教大学に通うことになった折、芳林堂にはよく立ち寄った。最上階に「栞」というカフェがあり、昔は、バス通りにあった古書専門の「高野書店」が入っていた。2004年、実家の長兄が板橋日大病院に入院、見舞いの折、バスの車窓から閉店直後のビルを見て驚き、バスに乗るたび、寂しく思ったものだった。閉店したのが20031231日だったという。現在、高田馬場ほか12店舗を持つ会社だが、HR のロゴマークをあしらったブックカバーは健在なのだろうか。なお、東武デパートの旭屋書店、開業は1971年というが、約500坪でリニューアルしたのが1992年、池袋で、少し時間にゆとりができると立ち寄ったのが、この本屋さんと東武美術館(19922001年)であった。美術館は20013月に撤退してしまったが、旭屋書店は健闘しているらしい。

 

 二又交番を経て立教通りに入ったすぐ左にあったのが大地屋書店1990年代後半には、すでに文庫専門店になっていた。子供のころは、ここまで足を運ぶことは少なかった。

 池袋駅東口のパンとレストランのタカセ、その向かいの新栄堂書店には、だいぶお世話になった。中学校は、新栄堂の前が始発の都電17番で通学、高校・大学は、地下鉄丸ノ内線で通学していた。丸の内線は、その頃は、確か東口からしか入れなかったので、毎日、池袋駅北口手前のガードをくぐっていかねばならなかった。受験参考書と学生時代のテキストなどは、まだ、大学生協などというものもなく、ほとんど新栄堂で、粘りに粘って、迷いに迷って購入したことを思い出す。ブックカバーが恩地孝四郎の幾何学的ながら、今思えば地味なデサインであった。細長い店舗は、立ち読みしている人がいると、声を掛けないと後ろが通れないような狭さだった。その新栄堂も2006年には閉店、ビックカメラになっているという。

 

 1972年に、池袋の実家を離れ、小田急線の向が丘遊園近くに転居したので、立ち寄る本屋は、通勤経路の新宿の紀伊国屋書店か、職場から土曜の午後の帰り、神田神保町の三省堂書店か書泉、古書店に寄ることが多くなった。さらに1976年、結婚・転職で、名古屋に転居してからは、東京の本屋さんとは縁が切れた。名古屋では短大の図書館勤めだったので、店頭選書と称して、栄の丸善と開店したばかりの三省堂書店にはよく「出張」した。1988年千葉県に転居後も、私大図書館勤めだったが、本はもっぱら、出入りの書店から一割引きで購入することが多くなった。

 1976年、私が東京の職場を離れ、1990年代後半、再び池袋と縁ができるまでの間に、池袋の書店事情は、大きく変わり、さらに、今世紀に入ってからは、ネット販売が浸透し、また大きく変貌したのが分かる。

 2003年、西口の芳林堂の閉店、2006年東口の新栄堂の閉店、1997年超大型のジュンク堂池袋店がオープンした影響が大きかっただろうと思う。たしかに、ジュンク堂池袋店に足を踏み入れた時のことが思い出される。そここに、椅子とテーブルが置かれているのは、最近の公共図書館のようでもあるし、書庫の端に、申訳のように机やいすが置いてある、私の知っている大学図書館とは趣を異にしていて、めっぽう明るかった。時間さえあれば、居心地のいい空間だろうと思った。ネット購入と違って、手に取って読めるのが何よりも強みだろう。 ジュンク堂と言えば、昨年、沖縄の那覇で、一つのビルにジュンク堂と丸善が入っているのを見て、老舗の丸善が?と思っていたら、とっくに両者の連携は進んでいたらしい。それだけ書店経営も大きな曲がり角に来ているのだろう。

 そして、現在の本の調達はと言えば、最寄の駅ビルに残った1軒の書店があるが、よほど運が良ければ欲しい新刊本に出会うことができる。しかし、まず、この店では入手できない。私にとってはどうでもよい?本ばかりが並び、とくに、目立つのが、保守的、右翼的論者の本が山積みされていたりすることだ。私の住んでいる、ここって、どんな町なんだろうと気がめいることがある。新刊は少し我慢して、「日本の古本屋」で探したり、東京に出た折、お茶の水や日本橋の丸善だったり、定期検診の通院で利用する地下鉄の早稲田駅の近くの本屋さんだったりしたが、その本屋さんが最近、大型のコンビニになって、学生でにぎわっていた。

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伊藤一雄さん、『池袋西口 戦後の匂い』(合同フォレスト 2015年7月)出版おめでとう

   あのころの池袋を知っている人も、知らなかった人も、きっとなつかしさで胸がいっぱいになるような本だ。

   私は、空襲の焼け跡が生々しい池袋に、疎開先から家族で戻ったのが、敗戦の翌年、小学校1年の夏だった。借地に建てたバラックは、店と6畳と台所だけで、5人が暮らしはじめた。  

   このブログで、池袋第五小学校の恩師乙黒久先生のことは何度か触れた。その同じ乙黒先生のもと、私より10年あとの池五の卒業生が著者の伊藤さんだ。乙黒先生からの紹介ということで冊子「池五の界隈」が私にも贈られてくるようになった。小学校、中学校時代を池袋の、なんと私の暮らした平和通りの家のすぐ近く、同じ地主さんの敷地に住んでいたという。池五っ子の遊びのテリトリーは、ほとんど同じだが、時代が少し違っていた。伊藤さんは、当時のことを思い出しながら、克明に記録した。文学青年そのままに、そして、新宿区を拠点に自治体行政に長く携わった専門知識を忍ばせながら、池袋の「いま・昔」を辿りにたどったのが、この本である。記憶だけではなく、資料探索も怠りなく、綴られた冊子「池五の界隈」は7冊にも及んだ。そのたびに、私も、決して嫌いではなかった「まち歩き」を伊藤さんと共にするような気持ちで、私の記憶や感想をメールでお届けした。それが、つぎの冊子で登場して来たりするから少し緊張もするのだったが、まだ、お目にかかったことがない。

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   池袋西口にひしめいていたヤミ市、なかなか進まない西口の区画整理、駅界隈や平和通りの商店の数々、当時はやっていた遊びや娯楽の王者でもあった映画やこれもひしめいていた数々の映画館、都電やトロリーバスが走っていた街、デパートが進出し、地下鉄ができて、ターミナルとなっていく池袋がいきいきと語られる。”私の池袋の戦後史”が綴られる中で「文学のまち」「映画のまち」 「美術のまち」という章もある。

  巣鴨プリズンがサンシャインビルとなる頃、私は池袋の生家を出ているが、帰省するとサンシャインとゴミ焼却場の高い煙突が窓から見える部屋で眠る。路地を入れば、ラブホテルが軒を並べ、長汐病院が大きくなり、商店主も多国籍になってゆく平和通り界隈だが、見覚えのある看板を掲げている店も残り、Sさんの屋敷跡は「池袋の森」となったりしている。 まだまだ、池袋は変わるだろう。しかし、こんな時代もあったと池袋を思い返すことは、たんなるセンチメンタリズムだけには終わらないにちがいない。大人の自転車で三角乗りにに挑んで何度でも転んだり、社会科では、新憲法の基本を熱心に教えた先生たち、憲法「前文」を必死になって暗記しようとしたり、買ってもらった少年朝日年鑑を毎日風呂敷に包んで登校したり、ローマ字の時間がとても新鮮に思えたりした頃の自分を思い返すのも悪くはない。 

   伊藤さん、続編が読みたいです。

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2014年8月 9日 (土)

白蓮ブームに乗るわけではないが・・・、短歌への誘い

もう、50数年前のことになる。50歳代の母が短歌をはじめたばかりで、地元の豊島区民短歌会に参加していた頃、母にも勧められ、高校生のいたずら心で、三首を初めて投稿した。受験生の身で歌会に参加することはなかったが、歌会から帰宅するなり母は、謄写版刷りの歌会詠草を取り出して「光子の歌が点を取ったよ」と見せられた。残念ながら、その資料はもちろんないのだけれど、投稿した三首のなかの二首は、いまでも覚えている。文法的な間違いもあって添削したいところなのだが。

・見い出せる旧友避けて着席す入試迫りし模試会場

・夕刊を配りし少年等の囲む火の白き煙は星空に消ゆ

「二首目は宮崎白蓮も採ってくれたんだよ」と母は自分のことのようによろこんでいた。宮崎白蓮、柳原白蓮の話は母から何度も聞かされていて、いわば歴史上の人物と思っていただけに驚いたのを覚えている。白蓮が点を入れてくれた理由も母はメモを取ってくれていたようだったが、思い出せない。二首目、わが家の隣は空地をはさんで新聞配達所だった。配達員の宿舎も兼ねていて、未明から賑やかなことだった。それに、アルバイトの中高生たちもよく出入りしていて、その空地の焚火で暖をとっていたところを題材とした。

当時の区民短歌会は、たしか豊島新聞社が主催していたのではなかったか。選者は、白蓮のほかに、阿部静枝、四海民蔵、遠山光栄、富永貢らすべて豊島区在住のそうそうたるメンバーであったと思う。

 その後まもなく母を亡くした私は、母が師事していた『ポトナム』の阿部静枝先生の指導を受けることになった。その後は、新聞投稿欄や短歌コンクールに応募の経験を経ないまま今日に至っている。いや、唯一、河野裕子が「桜花の記憶」で角川短歌賞を受賞した年、佳作かであったのが最初で最後であった。私の短歌のスタートに「白蓮ありき」の思いがめぐる。

 朝ドラの「花子とアン」、いま登場人物たちは関東大震災から立ち直ったという運びだが、日中戦争下、翼賛の道を歩むことになる村岡花子や白蓮がどのように描かれるのかを注視したい。 

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2012年10月14日 (日)

久しぶりの池袋で喫茶店を探す

 昨年は、大震災で中止になった池袋第五小学校のクラス会、先週の土曜日は久しぶりの池袋だった。午前中、地域の会議があったもので、昼食会になるというクラス会には参加できないが、近くの喫茶店で開く2次会には間に合いそうだ。2次会には何人ほど残るだろうか。先生も残ってくださるだろうか。喫茶店フラミンゴは、確か駅の西口を出てすぐの同級のOくんのビルにあったはずだが、いくら看板を見上げても、それらしい看板が見当たらない。喫茶店はOくん自身の経営だとのこと。少しあわてて、近くの商店のひとに尋ねると、「うーん、そこにあったんだけどね、なくなってね、もう一つのフラミンゴが、西口前の公園に面したビルにあるよ」とのこと。2店もあったけ、知らなかった。例のウェストパークまで行って見回しても、ない!事前に幹事よりもらっていたメールに、店の電話番号があったのでかけてみる。「とにかく西口の正面に戻ってください。西口を出てすぐ左手にみずほ銀行の隣に三井住友があります。そのビルの地下です」と聞きながら歩いていると、すぐに見つかった。駅の前、数メートル?!ではないか。入口は狭いが看板があった。地下2階というが、意外と広くて明るい、なつかしい様な雰囲気の店だった。クラス会のご一行はまだらしいので、しばらく待っていたが、ウェイターに聞いてみると「社長から頼まれて、ここにお席は用意してあります」とのこと。その端っこでしばらく店内を眺めていると、ほとんどが、中高年の女性たちのグループで、かなり混んでいる。軽い食事もとれるらしい。おしゃれという感じではないけれど、落ち着いておしゃべりできる雰囲気の、まさに“昭和の”喫茶店の趣だったのである。 
 
しばらくすると、先生を先頭に10人ほどが入っていらした。一通りの挨拶が済んで、もろもろの話に突入、数年ぶりとなった隣席のR子さんとは家族の話に。私の母は、50代半ばで病死したが、彼女のお母さんは40代で7人のお子さんを残して病死されたということを初めて知った。ついこの間までお姑さんの面倒を見ていらしたのは聞いていただけに驚くのだった。明治生まれの 昭和の母たちの生涯は、さまざまで、長生き自体がかなり難しかったのにちがいない、の思いにしんみりしてしまう。 
 
社長のOくんの家は、この池袋駅西口近くの地主さんで、いくつかのビルや土地のオーナーであり、そのビル内では、喫茶店のほか飲食店なども経営、陶芸教室まで運営されている。喫茶店の賑わいに景気を尋ねると、いい時はこんなものではなかったし、階段に空席待ちの行列ができ、11000人ということもあったそうだ。池袋は営業時間が長くないと商売にならず、従業員のやり繰りが大変だという。おまけに、この辺の店は中国人オーナーや経営者が多く、彼らに対しては役人も警察も実に消極的で、よほどのことがないと動かないという。話は、中国の反日デモや日中の労働法制にも及んだ。
 
この店も一度全席を禁煙にしたら、客足が落ちて、分煙にしたという。そういえば、店の入り口の看板には、「喫煙席あります」との張り紙もあった。高いガラスの仕切りがあって全体の3分の1くらいの席がおさまっていた。なお、昔あったフラミンゴは、「サン・フラミンゴ」が正式であって、数年前に閉店したのを聞いたことを思い出した。いまは「銀座ルノアール」になっていることが分かった。池袋の東西にあった「談話室滝沢」が撤退したのは、それよりも数年前2005年だったのではないか。喫茶店経営も難しい時代になって久しいということらしい。
 
幹事の一人のIくんが「佐倉のお宅のそばにマックスバリューがあるでしょう」というのでびっくり。数年前、住宅地開発中の一画に24時間営業のスーパーができるというので、それに接するわが町内からは、営業時間短縮の要請があって、自治会の担当として、何度か幕張のイオン本社まで足を運んだことがある(結局、24時間でオープンしながら、開業後半年を待たず営業時間は短縮された)。そのスーパーのなんの話しかと思えば、「マックスバリューのチラシ」の仕事をしているとのことだった。長いこと広告の仕事をされていたIくん、いまは退いているはずだが、そんな仕事にかかわっているらしい。中国で作成されたチラシを日本でチェックしているのだという。あのチラシは、折り込みのタイミングと価格が勝負らしいことは聞いたことがあるが、その作成が海外だというのもちょっと不思議な気がし、ここでも中国の話になった。「池袋に中華街を」をという話も聞いたことがあるが、外国人力士が多くなった相撲界を見るようなさびしさがあった。 幹事の皆さんにはいつも頭が下がる。色々な話が聞けて楽しかった。ありがとう。   
 
会場から10分もかからない実家に義姉を訪ね、亡兄に供えるつもりで、寄った花屋が休憩中。朝からの会議のこともあって、何やらすっかり疲れてしまったので、デパ地下でわずかな買い物をして帰途につくのだった。

 

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2011年3月15日 (火)

東北関東大震災、その時私たちは

閉じ込められた車内で

3月11日の午後、浅草公会堂での東京大空襲展を見た後、地下鉄銀座線で渋谷へ出て、山手線で新宿に向かっている車内のことだった。下から突き上げる衝撃の後、数分間、縦に横に車両ごと大きく揺れ、なにが起きたのか、一瞬わからなかった。窓の外では何本もの架線が波打って上下に揺れているのがわかる。「地震、地震だ」の声に、ようやく我に返る。「ただ今、三陸沖に地震が発生しましたので、停車しています」という車内放送が繰り返される。何度かの余震にも見舞われているうちに、周辺の若い人たちは、ケータイで入手した、地震情報を語り出す。私の隣席の人も、ケータイ画面を見せてくれた。夫も懸命の検索で、ようやく様子がわかってくる。夫が娘にメールをすると職場から「こちらは無事、落ち着いて行動せよ」のメールが届く。停車して30分以上たった、320分頃、車内放送で山手線全車両停車している状況で、照明や放送も中止となる旨が流れると、長期戦になるかなと少し不安になる。何となく車内の空気を察知したのか、近くの母親に連れられた男の子がぐずり始めた。「遅れちゃうよー」と泣き始めると、母親は「地震だから仕方ないのよ、先生にきちんといおうね」となだめるが、涙をぽろぽろ流し始めた。

それでも、その頃、私たちは新宿での所用をあきらめて、きょうはもう早めに家に帰ろうなどと、気楽に話していた。ところが、女子係員が来て、今から先頭車両から下車をして、代々木駅まで歩いていただくことになりましたのでしばらくお待ちください、とのこと、もうすでに4時を回っていた。何車両かを歩いて、先頭の乗降口から階段で線路に降ろされた。思いのほか結構な高さである。まさに線路の中を、列をなして歩いていくうちに、ケータイからの地震情報、被害情報を教えてくれる人もいて、だんだんと客観的な状況が見えてきた。夫のケータイの電池があまりなくなったという。着いた代々木駅は人でごった返していた。テレビの大型画面からの地震情報、駅員からの交通情報を得たものの、いっさい鉄道は動いていないらしい。まずは新宿まで歩こうか、手段がなければ、池袋の私の実家まで歩こう、歩けない距離ではないはずと、行列をして手洗いを済ませた。キヨスクで、お茶とおにぎりと思ったが、おにぎり、弁当、菓子パンの類はすでに売り切れていた。仕方なくフルーツケーキとドーナツを購入、浅草で買ったせんべいもある。ともかく新宿南口まで歩く。駅近くの生活用品の店の棚からは、食器類が割れたまま床に落ちていたり、ビルの外壁やガラス破片が舗道に落ちていて、赤いコーンが置かれていたりした。南口駅頭の人群れは尋常ではなかったが、あちこちに駅員か警官か立ってくれているのはありがたかった。ともかく明治通りを行けば池袋東口に出られるはず。尋ねてみると、やはり明治通りが一番わかりやすい、という。新宿南口530分出発である。

ひたすら明治通りを歩けば

紀伊国屋書店を向かいに見て、マルイの前あたりの公衆電話だったか、列が少し短い。ともかく家で留守番の犬の件、今晩帰宅できないかもしれないので、ご近所の知人に電話して散歩と食事をお願いした。新宿3丁目の伊勢丹の角がもう明治通りだ。左に折れて、すぐに花園神社があるが、帰宅困難者の人波をしり目に、さすがにきょうの境内はひっそりとしていた。信号待ちの時は、人群れはさらに膨らむ。池袋方面からの人の列もあり、なかなかスムーズには歩けない。そこで、渋滞で、車の列の動きが鈍いことをいいことに、時々車道に出て歩くこともあった。30分も歩いた頃、この辺で夕食をとれるうちにと、セルフサービスの「おふくろの味」風の食堂に入る。休息も兼ねて20分弱、陽はすっかり落ちたが、歩道の人並みはまた増えた感じだ。

途中、明るいロビーがある建物で、「どうぞ、どうぞ、トイレが使えます」との案内をしている人がいる。中では、丸いテーブルを囲んで休んでいる人もいる。看板を見れば日本赤十字社東京都支部とある。あらかじめ池袋の実家の義姉に電話を入れたかったので、公衆電話の有無を尋ねたが、「申し訳ありません、ありません」という。道中の公衆電話はどこも相変わらずの行列。それに、歩道でのもう一つの行列は、バス停である。ここも長蛇の列、ともかくバスは動いているらしいのだ。大久保通りを渡ると、「西早稲田駅」の灯り、こんな駅、あったけとよく見ると「副都心線」とあった。そういえば、開通は最近、まだ乗ったこともなかった。だいぶ歩いたつもりが、まだ新宿区の諏訪町の交差点、さらに、進むと左に大正製薬の看板、そこは神田川、架かる橋は高戸橋というらしい。ああ、ここが「神田川」という感慨もつかの間、高い石組の崖下は「学習院下」、都電荒川線の停留所である。ここは昨年だったか早稲田から都電に乗って通り過ぎたところだ。やがて千歳橋、間もなく雑司ケ谷に入る。池袋も近い。新宿を出て間もなく池袋まで4㎞の表示を見たから、代々木からだと6km近くは歩いただろう。池袋東口到着730分、北口へのガードをくぐれば実家へは5分。突然の訪問で申し訳ないが、私は、今晩はお世話になろうと思うのだが、夫は、ホテルがとれればと、東横インなど3軒ほど立ち寄ってみるが満室。

8時前には、実家に到着、熱いお茶をいただき、テレビの前で、ようやく落ち着いたが、その被害の大きさに改めて驚いた。娘をはじめ、何人かに電話を掛けさせてもらった。義姉は、長兄の亡くなった後、小さな店を切り盛りしている。娘たちの訪問や電話に守られながら暮らしている。あれから、この夏で6年が経つ。七回忌はどうしようね、という話になった。暑いさなかなので、きょうだいの家族だけで、簡単にしようかと思うとの義姉の提案に、私も異存はなかった。続く余震のなかではあるが、12時前には、就寝、長い一日が終わった。

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2011年2月14日 (月)

昭和の旅行私史(1)遠足はどこへ行ったか覚えてますか

豊島園がディズニーランドだった?あの頃

ここ10年ほどの海外旅行の記録を作っていたら、小学校時代からの遠足ってどこへ行ってたっけ、と思い始め、その遠足を含めて、国内旅行の記憶をたどってみることにした。日記は、小学校では、夏休みや冬休みの宿題で書くものだとしか思っていなかったし、社会人になってからの手帳は捨ててはいないが、探すのも難儀だ。第一、空白も多い。遠足や旅行の記録で、手っ取り早いのは、アルバムである。昭和20年代の小学校での遠足は、その日の、たった一枚残されている集合写真が頼りである。写真に日付や場所が入るのはずっと後のことだし、家族アルバムの黒い台紙に鉛筆で自分のメモや父母の手になる日付・撮影場所が残っていればありがたいというものだ。残念ながら、年月日が明確な写真の方が少なかった。前後の脈絡から表のようになった。東京の城北地区からの小学校の遠足は、定番ともいえる、低学年の豊島園、村山貯水池、大宮公園、長瀞、稲毛への潮干狩り、高学年の高尾山、鎌倉や箱根の修学旅行ということになる。商家だった我が家では、休業日もない、家族旅行など望むべくもない暮らしだった。それ以外だと、夏休みに母に連れられて実家のある千葉県の佐原行き、佐原の親戚が上京すると、兄や母が連れってくれる豊島園のプールやボート、ウォーターシュート(1927開業~1968年停止)が楽しみでもあった。豊島園は、現代のディズニーランドというところだろうか。明治生まれの父は、戦前の浅草六区や花やしきの賑わいを忘れがたかったようだ。自慢ではないが、私は千葉県民ながら浦安のディズニーランドに行ったことがないし、行くつもりもない。

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我が家のカメラの歴史もわかる

中学や高校になると集合写真ばかりでなく先生や友人が撮ったスナップが多くなる。卒業アルバム用に写真撮影担当の添乗員が随いてくるようなこともなかった。現在の修学旅行では、ケータイやデジカメ持参可なのだろうか。戦前、我が家には写真機はなかったらしい。我が家の写真機1号はマミヤ16の小型である。調べてみると、発売が1949年というから、発売後間もなく購入したのではないか。2台目の二眼のリコー・フレックスで撮り初めは1957年8月31日とあり、いとこや叔母が訪ねてきて、夜間の撮影に成功したというスナップもある。この時代の焼き付けはどれも皆小さく、名刺ほどの大きさと5センチほどの正方形の焼き付けが多い。リコーの二眼シリーズの1号は1950年9月発売といい、7300円で、かなり大衆的な価格で人気を呼んだという。我が家で購入したのはかなり時間が経っていることになる。カメラが結構重いのとシャッターを切るときのバシャという音の感覚が懐かしい。

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アルバムの変遷、黒から白へ、そして

中学校になると、私は、家族とは独立した、自分だけのアルバムを持つようになって、いろいろな旅行資料、学校から配布された日程表をはじめ、パンフレットや入場券などを張り付けるようになったので、かなり正確な日付や行程がわかるようになった。同世代の人と比べるとどうなのだろう。中学校・高校は、地元の公立ではなく、文京区の大学付属だったから、当時としては、結構、校外学習や夏の学校などが充実していたような気がしているのだが。この頃から、アルバムの台紙が、黒のボール紙からクリーム色に変わっている。表紙は相変わらず厚いもモコモコしたものである。1960年代後半には、一人旅などが多くなると、写真の枚数増え、厚い表紙が煩わしくなり、スクラップブックのやや上質なものに替えた。写真は4角の三角コーナーで留め、資料は袋を張り付けそこに入れるようにした。それが、1970年代半ばになると、ノリのついた白い台紙をフィルムで覆う方式のアルバムになり、紙類なら何でも気軽に挟めるし、レイアウトも自在になった。台紙の枚数も加減できたので、「編集」もラクになったが、つい重くなるのがやはり難点だった。だから、今では、5冊箱入りで、1冊にハガキ(大)が1頁3ポケット合計48枚が収まり、巻末に大きなポケットが2頁付き、若干のメモ欄もあるホルダーを使うことが多い。数年前までは焼き増しをするとサービスしてくれた、1頁4ポケット、10枚で40枚収納のホルダーも小回りが利いて重宝したが、今は80円で購入しなければならない。それでも整理しきれない、写真があちこちの封筒から出てくる昨今でもある。デジカメを使うようになってからは、パソコンやCDに落としてから必要なものだけを焼き付けるようにしているが、それでもアルバムは増えてゆく。

小・中・高時代は遠足と修学旅行がすべてだった

私の場合、「旅行記録1」の一覧表を見ると、小学校から高校時代まで(1946年から1958年)の「旅行」といえば、遠足(校外学習)と修学旅行がすべてだったといえる。中学1年の夏の箱根行きの一泊が学校生活初めての宿泊だった。小学校では、運動会と学芸会、春秋の遠足が大きなイベントであり、楽しみでもあった。少しわき道にそれるが、早朝、映画館に出かける映画教室というのもあった。「稲の一生」「石の花」「空気の無くなる日」などかろうじて思い出せるのだが、「鐘の鳴る丘」や「鞍馬天狗」は家族と見に行ったのだろうか。高校では、池袋の映画館前に集合して、鑑賞した「エデンの東」が印象に残っていし、「哀愁」を校内で鑑賞したこともある。遠足の集合写真はあるが、運動会・学芸会の写真もない。他に、卒業記念の集合写真が一枚ある程度だ。6年担任のO先生は、私たちが初めて送り出す卒業生ということで、あたらしいカメラで撮ってくださったものが数枚残されている。その時のクラスといえば、写真に映っているだけでも男子31人、女子26人の総勢57人の大所帯だったのだ。数年前、先生は、この写真のネガが出てきたので、焼き付けてみたと、人数分の写真を持参されたのには驚いた。白黒ながら、50数年前のものとは思えず、男子だけの集合写真はこの時初めて目にしたのだった。この10年ほどは、担任のO先生の絵画の個展に合わせてよくクラス会が開かれ、いつも15・6人は集まる。地元池袋の変貌ぶりはもちろんだが、弟の赤ちゃんを背負って登校していたY君はどうしているだろうか・・・、今日は銀座のママさんはいらしてないけれど・・・、あの怖かった音楽の先生は校長先生で退職されたけれど先ごろ亡くなられた・・・などと話題は尽きない。この一覧を見て、心残りは小学校2年次の遠足写真がなく、どこへ行ったか分からないことであった。低学年での2年半の在校なので尋ねてみる友人もいない。

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旅行記録1(19401953年)

 

1940

 

昭和15

 
 

3月東京都豊島区池袋に生まれる

 
 

1944年  

 
 

千葉県佐原に母と疎開

 
 

1945

 

昭和20

 
 

413日の空襲で池袋の生家が焼出

 
 

1946年  

 
 

4月佐原小学校に入学。7月池袋の焼跡にバラックを建て一家が転居。池袋第2小学校に転校、当初重林寺の仮校舎

 
 

2から遠足豊島園(小1

 
 

1947

 
 

1時期2部授業で仮校舎要町小学校に通う

 
 

(小2

 
 

1948

 
 

春:村山貯水池(3)

 

秋:大宮公園

 
 

1949

 
 

4月、直近の池袋第5小学校に転校

 
 

5から春:大宮公園

 

        (小4

 

11月長瀞

 
 

1950

 

昭和25

 
 

春:稲毛海岸(5)

 

秋:高尾山

 
 

1951

 
 

5月鎌倉(6)

 

11月昇仙峡

 
 

1952

 
 

4月中学校入学

 
 

3月修学旅行箱根・十国峠(6)

 

4月中学校歓迎遠足向ヶ丘遊園(1)

 

5月長瀞

 

7月箱根(芦ノ湖・乙女峠)

 

秋:韮山反射炉

 
 

1953

 
 

4月歓迎遠足豊島園(中2

 

6月軽井沢

 

7月正丸峠・伊豆ヶ岳登頂

 
 

1954

 
 

5月修学旅行京都・奈良(3)

 

7月山中湖・富士山登頂

 
 

1955

 

昭和30

 
 

3月中学校卒業、4月高校入学

 
 

7月夏の生活・蓼科高原・立科山登頂(高1

 
 

1956

 
 

7月夏の生活・富浦海岸(高2

 

10月修学旅行東北(松島・平泉・十和田湖・秋田)

 
 

1957

 
 

4月修学旅行(京都・奈良・吉野・大阪)(高3

 
 

1958

 
 

3月高校卒業、4月より予備校に通う

 
                                                                                             

 

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2010年3月13日 (土)

戸山公園から鬼子母神へ――箱根の山と本の山

一気に登る「箱根山」

箱根山通りは、かれこれ10年近く通い続けた道だ。国際医療センターへと数か月に一度の定期検診に向かう。帰路は、風がやや冷たいものの、ようやく晴れたこの日、初めて戸山公園へと入る。いつも急ぎ足で通り過ぎる、都営住宅1階の商店街の裏側の侘しさは格別で、店を閉じて久しい幾軒かがあった。敗戦直後の1949年、明治以降陸軍用地であった一帯に戸山ハイツと呼ばれる団地ができ、1970年代にいまの高層に建て替えられた。この公園自体は、17世紀の半ば造られた尾張藩の下屋敷で、水戸の偕楽園に並ぶ回遊式名園の跡だという。きょう目指すのは、海抜44.6mの箱根山である。団地の棟を離れて木立の中へ入ると、戸山教会と幼稚園が見えてくる。さらに進むと、なるほどスリ鉢を伏せたような築山にきちんとした階段がつけられていた。登り始めると、背後からは、男子高校生の一団がすごい勢いで駆け上がって来る。そういえばあちこちに「箱根山駅伝大会」の順路表示がされていた。息づかいがだいぶ荒くなっている生徒たちがあとから、あとから「スイマセーン」と追い抜いてゆく。中には、手をついて這い上がるようにのぼっていく生徒もいる。近くの高校の体育の授業ででもあるのだろうか。起伏もほどよい、格好のマラソンコースなのだろう。頂上からは、新宿方面が一望できる。辺りには、桜の裸木が大きく枝を張り、芽吹きを待ちかねているようであった。50段ほどの階段を下りれば、野良猫にえさをやっているお年寄り夫婦、車いすを押し、押されているのは、その会話から息子と老いた母のようでもあったし、犬との散歩を楽しむお年寄りも多い。団地の住人の高齢化は著しいにちがいない。沈丁花や越前水仙の香を楽しむのもつかの間、車の往来の激しい早稲田通りに出る。ようやく念願の「箱根山登山」を果たすことができたというわけだ。

路面電車で鬼子母神へ

きょうの帰り道には、もう一つ寄りたいところがあった。鬼子母神近くというか、むしろ南池袋、明治通りにある「古書往来座」をのぞいてみたかったのである。家の中の本がなかなか片付かないので、買い取りを相談してみようかと思い立ったのである。まずその前に、早稲田大学南門前の「高田牧舎」で昼食を済ませた。この店の独特のロゴでの店名を掲げる看板を見上げて、一度入ってみたいと思っていたのだ。2時近かったので、客はまばら、何の変哲もないレストランながら、窓越しに眺める門を出入りする学生たち、門の際には数本の桜も咲き始めていて、どこか懐かしい風景であった。「牧舎」というのは、明治時代の創業者が麹町の放牧場からこの地に引っ越してきて、ミルクホールを開いたことに由来するらしい。ランチはどれもフライやソテーで、中高年向きとはいえないが、グルメ情報では、やや割高感があって学生よりも教職員の利用が多いようなことが記されていたのを思い出す。なるほど、お年寄り夫婦は、食後、二人で薬を取り出して服み、ともにしっかりと帽子をかぶる散歩スタイルであった。大隈講堂の左手、成文堂の路地を入っていくと、「角帽」の大きな看板、水野帽子店というのがあり、棚には角帽が重ねられることなく等間隔で並んでいた。商売として成り立つのかな、と余分な心配もしながら、大通りにつきあたり、左折すると屋根のある都電のホームが見えてくる。久しぶりの路面電車、一律160円。鬼子母神までは、面影橋、学習院下をへて三つ目である。始発から20人ちょっとで満席となった。鬼子母神で下車後、矢印に沿って進んだのは、ケヤキ並木の参道だが、両脇は普通の住宅で、壁や屋根にぶつかるケヤキは、どれも相当の古木で、太い幹だけが残されているものもあった。境内の駄菓子屋は江戸時代からで、上川口屋の看板をあげている。隅にある句碑はと近づいてみると、作者が「苔人」とあり、もしやと裏面に回ってみる。「昭和37年、白炎社」とあり、御子息が建立されたらしく、河合苔人の句とわかる。昭和30年代になって、父は、河合氏が主催する句会によく出かけていた。池袋で 薬局を営む薬剤師であった父は、ドクダミの別称「十薬」という俳号が気に入っていて、地元の「豊島新聞」の俳壇に自作が載るのを楽しみにしていた。たしか選者をつとめていらした苔人さんの句碑に出会うとは思わなかっただけに、きょうの散歩の収穫だった。鬼子母神から明治通りに出る角のビルの一階にあった!古本屋さんの「往来座」が。

店内をひとまわりしてみると、整然としていて見やすかったのだが、歌集の類が見つからなかったので、聞いてみる。「少しだけですが」と棚の前まで案内してくれる。子規、茂吉から塚本邦雄、馬場あき子、福島泰樹等が並ぶ。店のひとは、基本的には、発送費を持って下さるのなら、どんな本でも、何冊でもよいという。査定をした後、値のつかないものも引き取らせていただく、とのこと。私がいま手放してもよいと思うのは、図書館学・書道関係と短歌関係の一部である。天皇制と女性史、美術関係の本はもう少しの間?手元に残しておきたい!

家に帰って、あちこちに積まれたり、押し込まれたりした本の山を眺めては、途方に暮れるのである。

補記:昨3月13日の「毎日新聞」によれば、「箱根山駅伝」は、3月14日、新宿区若松地区16町会が合同で初めて開催するのだという。区内在住・在勤者の一般参加16チームと町会対抗14チームが参加、5人が4200mを走るらしい。(2010年3月14日)

Photo

箱根山通りに面した戸山住宅

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戸山教会の右手奥が箱根山

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