2019年4月12日 (金)

1960年代、池袋の映画館~こんなチラシが出てきました

 身辺整理が一つも進まない中、映画館のチラシが十数枚出てきた。残念ながら、上映や封切り予定の月日がわかっても「年」がわからないものが多い。チラシに明記されたものだけを選んでみた。市民運動の集会やデモのチラシも同様で、年月を経ると、年の明記がないと、何年のものかがわからない。必要があって、それを知るには、内容から「時代考証」をする手間がかかることになる。それでも特定できない、ということを何度か経験している。それはさておき、2月のテレビ「アド街・昭和の池袋」につられ、下の記事で、1950~60年代の池袋の映画館についても書いたので、あわせてお読みいただければと思う。

私の「195060年代の池袋」ベスト5は~「アド街」を見て(2019年218)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/02/post-0013.html

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1964年9月上旬号とある恵通チェーンの冊子で、1頁が池袋劇場で、2頁新宿座は武智鉄二の「紅閨夢」と「のぞかれた美女」「痴情の家」の三本立て、3頁新宿地球座は「座頭市シリーズ大会」、4頁新宿名画座、渋谷日活地球座のいずれも3本立ての上映案内だった。
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人世坐系列の1965年8月の上映スケジュールである。池袋の人世坐、文芸坐、文芸地下、弁天坐というのは、東上線板橋駅前にあったが、私は入ったことはない。このころは「サンカ」小説の三角寛(1903~1971)の経営だったことでも知られ、「人生」ではなく「人世」、「座」ではなく「坐」に文士のこだわりがあったのだろうか。「人間の条件」の「終夜興行」といわれても・・・、結局「人間の条件」は見ることがなかった。第6部までの全巻で夜の10時
30分から翌朝の8時まで、入場料は200円とある。
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池袋大映劇場のチラシだが、年号の記載がないが、1966年秋の封切り予告ではないか。キャストは拡大してみてほしい。そうそうたるメンバーである。主演の田宮二郎を民芸や文学座の新劇人たちが支えている。脚本橋本忍、監督山本薩夫。何度か映画化やドラマ化されているが・・・。
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1968年1月の池袋世界館のチラシなのだが、世界館ってどこにあったのだろう。広告で見ると、どうも西口の三業
通りににあったようなのだ。手元にある池袋日本館のチラシも、三業通り、トキワ通りの店が広告を出しているので、二館は並んでいたのだろう。上映作品を見ていると、クレイジー・キャッツ、高倉健、ドリフターズ、ザ・タイガーズ全盛時代の感がある
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この池袋日本館のチラシには年の記載はない。裏は松竹文芸大作、総天然色「紀ノ川」(1966年6月公開)と東京オリンピック長編記録映画「世紀の感動」(1966年5月公開)とあるから、2番館、3番館だったろうから、1966年後半~67 年ころか。このチラシを受け取ったころ、私はどんな映画を見ていたのだろう。一時期メモしていた映画の手帳がどこかにあるはず・・・。
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1957年6月、特集文芸春秋の「映画読本」が、本棚の隅から出てきました。懐かしい名前がズラリ・・・。(4月26日付記)

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2019年3月22日 (金)

お彼岸に生家へ、あらためて「池袋の森」へ

 お彼岸ながら、お墓参りは失礼して、池袋の生家の仏壇にお花だけでもと思い、出かけた。池袋の西口から地上に出るたびに、駅前の様相や生家付近の平和通りの様子が少しづつ変わっていく。生家は、長兄が亡くなった後は、義姉が一人で、たばこ屋を営んでいる。この日は、同じビルの階上に住む姪夫妻も、渋谷の三宿で開いている店の定休日とあって、合流、久しぶりにおしゃべりを楽しんだ。
 お互いにご無沙汰ばかりを続けている親戚の消息や思い出話になるが、姪は「いつも母親のこの種の話には分からないこともあって反応が鈍いんだけど、今日は、いろいろ話せたようでよかった」とも言ってくれたが、私の方こそ、疎開中世話になった親戚やその後も親しくしていた親戚は代替わりとともに疎遠になってしまったり、久しぶりに従妹たちと再会を果たしたりした話などを聞いてもらったのではないかと思っている。私の母と義姉の生家とは、そもそも遠縁ということもあって、共通の親戚も多かったのである。
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 そんな時間を過ごした後、家から駅に向かう平和通りから少し入った「池袋の森」にも、久しぶりに立ち寄った。ここはもともと、林業史、林政学の大学教授だった島田錦蔵氏(1903~1992)宅の屋敷跡である。1945年3月14日未明の城北大空襲で焼け出されたのは、私の生家と一緒であった。戦後、島田先生にはお会いしたようなしなかったような・・・。夫人の島田美恵子さんは、たしか自由学園出身で、テキパキとした知的な方で、「母親勉強会」を立ち上げて、教育問題や女性の地位向上のための活動を続けていた。私の母も参加していたので、母とお宅を訪ねたこともあった。庭が広く、樹木の多いお宅だったことを思い出す。昔は「島田牧場」?だったという話を母から聞いたことがある。今では、高層のホテルやビルに囲まれた、小公園「池袋の森」となっている。錦蔵氏の没後まもなく、豊島区が買い取って、1997年4月に開園した由、約1500㎡、島田氏も豊島区もいいものを残してくれたなあ、と思っている。公園は、中央に池とログハウスを配し、戦前からのユリノキの大樹もあり、街の喧騒を離れての、つかの間の静寂の空間ともいえる。
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トンボの池とあるが・・・
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線路をはさんだ東口のごみ処理場の煙突が高い。むかし、マンモスプールがあったあたりか。
 また、余分のことながら、東口の巣鴨拘置所(現サンシャイン)近くに、島田夫人のお母さんが「スガヤ服装学院」を開いていることも、よく聞かされたことだったので、帰宅後調べてみると、1948年開校、2010年に生徒減少のため、法人解散、学校廃止となっていた。やはり東口のキンカ堂が突如閉店したのも2010年(2011年に破産)だった。池袋の戦後復興史を物語る要の一つだったかもしれない、時代の大きな流れを見るようであった。
 姪の話で、東武デパートの旭屋書店で、私の新著『斎藤史・・・』を見つけたよ、一冊だったけど、と聞いたのが気になって、7階の書店に寄ってみた。どこのコーナーだったか聞き忘れ、「短歌・俳句」「随筆」コーナーなど回ってみたが見つからなかった。ということは、一冊売れたことになるのかな?店内の検索機で探してみると、合著も含めて拙著が6冊ほどヒットしたが、いずれも「取寄」の表示となっていた。できれば東口のジュンク堂にも寄ってみたかったのだが、百田尚樹や樹木希林の本が山と積んであるのを横目で見ながら、その意欲を失い、東武デパ地下で少しばかりの買い物をして帰途に就いた。
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西口の駅前の真正面にこんな植え込みがあるのに、初めて気づいた。「えんちゃん」一家だそうだ。池袋には「いけぶくろ」にちなんだ「ふくろう」があちこちに出没する。北口方面の奥に見えるのがドン・キホーテ、昨年の6月にオープンしたという。
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正面から見ると、えんちゃん一家の全貌が。左側に「のとや」のビルが、1階に「のとや」健在、闇市の時代からある店、一度寄ってみたい。

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2019年2月18日 (月)

私の「1950~60年代の池袋」ベスト5は~「アド街」を見て

先週土曜日の「アド街」は池袋だった。、しかも「昭和の」がついていたのである。池袋生まれの私は、見逃すわけにはいかない。ほんの時々だが、アド街は、見ることはあったが、聞き流しの程度のことが多かった。

録画こそ取らなかったが、テレビの前に座った。私は、生れも育ちも池袋で、社会人となり、家を離れた1970年代初めまで暮らしていた。敗戦後の池袋の様子を、育った環境を振り返りたくなった年になったのだろう。昨年の夏には、くすりやの娘としての体験を、このブログでも書き綴ってしまった。

参照

20190216 21:00 - 21:54

出没!アド街ック天国~昭和の池袋~

https://yomu.tv/CodWY

 

この番組は、どういう基準なのかわからないが、20位のランク付けによって、20位から順に、場所や店、人物などが紹介される。いわば、話題性が低いか高いかなのだろう。今回は、流行した歌などにひっかけているのが、特徴なのかもしれない。「私の昭和」とは、ほぼ1015年ほど、いわば一回りくらいはずれ込んでいる感じではあったが、知らなかったことも沢山あって、それなりに楽しかった。

私にとって、池袋といえば、なんだろう。「昭和」というより1950年代、60年代の池袋である。

<ヤミ市>

番組では、どういうわけか「ブラックマーケット」と呼ばれていたが、いつからそんな呼び方をするようになったのだろう。出演者の内の高齢者?に入る荒俣宏(1947~)と渡辺えり子(1955~)は「ヤミ市」と口にしていたようだった。私たち家族には、敗戦後の暮らしの衣食がかかっていた西口の「ヤミ市」であり、子ども心に、強烈な印象を残している。西口のヤミ市の入り口のヘビ屋?は不気味で怖かったが、アイスキャンデーを売っていた食堂の「のとや」があったし、大抵の食料や日用品はそろうのだった。母の買い物にはよくついていった。ヤミ米を調達したのもここだった。

 

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「戦後池袋~ヤミ市から自由文化都市へ 展示資料解説」(池袋=自由文化都市プロジェクト実行委員会編刊 2015年9月)より

<映画>
 高校からの学生時代には、ずいぶんと通った映画館である。番組でも登場した、東口の人世坐(19481968)、文芸座(19561997)、文芸地下劇場(1955~)、西口のシネマロサ(1947~)はもちろん、もっとさかのぼれば、ロサの近くにはエトワールというのもあって、邦画の二本立て、三本立てがかかっていて、ジメジメして、周りに怖いオニイさんがいるような、なんか一番居心地の悪い座席だったような気がする。ロサには、その後、シネマセレサ、シネマリリオなんて言う名の映画館も併殺されたのは、1950年代半ばだったか。さらに駅近には、ピース座(⇒松竹名画座、19511990)というのもあって、池袋演芸場(19511990、新築1993~)と同じ建物だった。さらに、さかのぼれば、旧豊島師範の先、ヤミ市を抜け出たところに邦映座というのがあった。小学校の映画教室でも入ったような気がする。下の地図で言えば東横百貨店の向かいの「東宝シネマ」ということになるのか。東口には、今のジュンク堂の先、旧雑司ヶ谷5丁目の一角に山手劇場(194671957~?)もかなり古く、松竹映画専門だったような記憶がある。家の近くの銭湯「平和湯」の脱衣所の天井近くには、映画館のポスターがぐるりとひしめいていた時代である。

下の図は、手元にあった『新旅行案内5 東京』(日本交通公社 19556月初版、19604月Ⅶ版)の「池袋付近」(84P)の地図である。これによれば、今の池袋駅北口を出たところの東口に抜ける地下道を上がった、現在のパルコ別館とビックカメラ本店のあるところ、丸物デパート(19571969、現在パルコ)の向いに、池袋日活、池袋東急、池袋日勝館の三館が並んでいるが、この辺りにも映画館は建て込んでいた。多分、この中の池袋東急だったのか、高校の映画教室で、『エデンの東』を見た記憶がある。『エデンの東』の日本封切りが195510月とあるから、高校1年か2年生の時だったのか。今でも映画教室なんてやっているのかなあ。池袋東急は、池袋東洋劇場として1949年には開館、改築後のビルで1998年からのシネマコンプレックスとして2011年まで営業していたらしい。

日勝館は、戦前からあった映画館だったらしいが、焼け跡にいち早く開館したのが1946年、1960年には池袋松竹となり1963年池袋スカラ座になっているが、日勝地下や日勝文化劇場というのも記憶にある。いずれも、ハタボーリング場などで知られる旗興行の運営だったというが、1995年再開発のためすべて閉館したという。

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      『新旅行案内5東京』(日本交通公社 19556月初版、19604月Ⅶ版)より

参照

・豊島区映画館・池袋東口地区

https://www.japan-post.com/me/data2/res-me-std.php?FRTWID=FW000237

豊島区映画館・池袋西口地区

https://www.japan-post.com/me/data2/res-me-std.php?FRTWID=FW000238

 

現在はヤマダ電機が入っている旧三越の裏手にも、いくつかの映画館があった。巣鴨プリズン跡のサンシャイン60がオープンしたのが19784月というから、私は、結婚・転職・出産、すでに両親もなくなっている池袋の生家に帰省することはめったになかった10年余を過ごしていた。この間の池袋の変貌ぶりは、大きかった。

 

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         『東京区分地図』(国際地理学協会編刊 1990年5月)より

<立教大学>
 1945414日未明の城北大空襲で、池袋は焼野原になったが、立教のキャンパスだけは大方焼け残った。長兄は、戦前に立教中学校を卒業しているし、次兄は、戦後、疎開先から立教中学校に編入し、そのまま大学に進んでいる。時代は下るが、私も娘も社会人入学した修士課程で世話になっているだけに、我が家には縁のあるキャンパス。私の場合、メデイア史をと思って入学したが、原書購読はきつかった。若い院生に助けられながら、何とか単位も取れ、修論も提出できた。学内外のメンバーで立ち上げられた天皇制研究会にも参加することができたのは貴重な体験で、その後の仕事にも活かすことができたのではないかと思っている。愛校心ともちがう、育った池袋と一体となって立ち現れる、何かと気になるキャンパスにもなっている
 「アド街」の習いによれば、私にとっての「昭和の池袋」ベスト5ということになれば、上記の「ヤミ市」「映画」「立教大学」に続くのは、やはり、「百貨店」だろうか。西口の東横・東武であり、東口の西武である。5番目が、生家のある「平和通り」か。いまは「へいわもーる」というらしいが、その商店街としての変貌ぶりを見ると、懐かしさよりは、やはり寂しさの方がまさってしまう昨今ではある。思いは、いろいろこみあげてくるものがあるのだけれど・・・。

・<池袋学>夏季講座に参加しました~生活者の視点が欲しかった―池袋のヤミ市への熱い視線は、“男のロマン”にも似て―2015年9月15日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/09/post-9a00.html

2015年、戦後70年企画として、立教大学が中心になって開催された「戦後池袋 ヤミ市から自由文化都市へ」という展示とシンポジウムをのぞいてみた。その時の報告は、以下の記事にもあるが、「自由文化都市」といわれても・・・の思いは変わらない。シンポの講師4人のだれもが池袋に住んだことのない研究者ばかりだったのである。

下の地図は「戦後イケブクロ会場案内MAP」『戦後池袋 ヤミ市から自由文化都市へ』2015年9月)より

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2019年2月 6日 (水)

1950年前後、何して遊んでた?金井さんのエッセイ集を読んで

金井恵美子さんから、お送りした拙著への感想と『暮しの断片(かけら)』(平凡社)という、新著エッセイ集をいただいた。画家の金井久美子さんとの合作の、いわば、大人の絵本ともいえる素敵な本だった。猫のエッセイや絵も多く、ねこ派の読者には、魅力満載の本にちがいない。私は、金井さんとは小学校ですれ違うくらい年上なので、暮らしの中のさまざまな記憶で重なることが多いのはやや意外にも思うのだった。私の生家はくすり屋で、池袋の焼け跡から再スタートしているが、1940年代後半から50年代末までのくすり屋にまつわるモノの記憶をたどって、このブログでも、昨年の夏ころ、だいぶ長々と書いてしまった。

                             

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 『暮しの断片』はどこを開いても、なつかしいモノや光景に出会うことができて楽しかった。なかでも、「あそびの記憶」として、一月「雪うさぎ」で始まり、二月お手玉という風に月を追って、竹馬、おはじき、はなかんむり、しゃぼん玉、七夕飾り、西瓜割り、竹とんぼ、影踏み、縄跳び、十二月の「ごむまり」が紹介される。エッセイは、どれもなつかしく、あのモノのない時代、それに連なる私の思い出が、なんともあったっかいのが不思議だった。

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     十月影踏み、十一月縄跳びの頁

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      金井家で17年間暮らした黒トラ「トラー」
 

池袋の焼け跡の原っぱで、盛んに遊んだのは、かくれんぼや鬼ごっこはもちろんだが、缶蹴り、ゴム段、大人自転車の三角乗り、馬飛び、縄跳び、石蹴りなどだった。竹馬は、まず、竹などの調達は難しかったのだろう、同じ高さの空き缶を見つけ、穴をあけ、ひもを通した「缶ぽっくり」を作って、替わり番に、歩いたり、かけっこをしたりした。空き缶もなかなかの貴重品だった。

戦前のあそびの延長だったのだろう、なんの疑問を持つこともなく、「スイライカンチョウ(水雷艦長)」で走り回り、まりつき歌「あんたがたどこさ」とともに「イチレツダンパンハレツシテ、ニチロセンソウハジマッタ・・・」と、歌っていた。さらに、じゃんけん遊びでは「グリコ・チヨコレイト・パイナツプル」と大声をあげていたものの、グリコやチョコレート、ましてパイナップルなど口にしたことも、見たこともないものだった。

しゃぼん玉やまりつき、お手玉、おはじき、自転車乗りなどは、一人でも少人数でも遊べるけれども、「通りゃんせ、通りゃんせ」や「はないちもんめ」などにしても、かなりの人数がいないと面白くはないだろう。そのころ、焼け跡に建つ家は、まばらだったし、だいぶ復興した後でも、遠くから子どもが集まって来たし、友達の友達で、名前を知らない子とも遊ぶことがあった。

 

 家の中での遊びといっても、どの家もバラック住まいで、家の中で、子どもが集まって遊ぶスペースなどなかった。焼け跡のコンクリのたたきなどが残っているところやバラックの軒先にゴザを敷いて、お手玉やおはじき、ままごとやぬり絵、着せ替え人形と、少しは女の子らしい遊びもした。家族合わせなどというゲームをした記憶もある。ぬり絵については、かつて下のような記事を書いたこともある。

 

〇書庫の隅から見つけた、私の昭和(1)きいちのぬりえ

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http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/04/post-a273.html

 

 着せ替え人形というのは、女の子と家族のひと形と様々な服の絵が描かれている一枚の紙を絵の通りに切りぬいて、服の肩には、のり代のような白い紙が突起しているので、それを折り曲げて、人形に着せては、取り替えたりして、セリフ入りの芝居をさせたり、着せたい、好きな服を画用紙に描いたりした。

 家族合わせというのは、お医者さん、政治家、会社員などの父親の職業別の家族、両親と息子と娘のカードをバラバラにしてカードを配り、順番にカードのやり取りをして、早く多くの家族をそろえた方が勝ちということだった。各家族が職業に合った、ダジャレのような名字や名前が付けられているのが面白かったのだが、なかなか思い出せない。当時の家族観や職業観が理想や期待を交えて、如実に反映していたのではないか。

思い出は尽きないが~。

ネットでも調べてみよう。

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2018年9月 2日 (日)

「サザエさん」に見る敗戦直後のくすり事情(1)

いま私の手元には姉妹社発行の長谷川町子『サザエさん』が第一~八巻まである。19491952年に発行されていたものである。たぶん、中学生だった次兄か私が、購入したものではないかと思う。当時、次兄は、私のことを「サザエさんやワカメみたいだ、まるでオッチョコチョイなんだから・・・」なんていわれていたことを思い出すからだ。

現在、『朝日新聞』では「サザエさんをさがして」というシリーズで、サザエさんの4コマ漫画一本を選んで、その背景を探るもので、サザエさんで見る194574年の歴史と言っていいのかもしれない。

手元の八巻分のサザエさんは、当ブログでの「73年の意味」シリーズの本篇・番外篇の時代と重なるので、続きのような内容になるかもしれない。巻数を追って、上シリーズと重なり合うテーマを中心に、たどってみたい。

第一巻19502月刊。「はしがき」も「あとがき」もない。第1頁は、母親が、両脇にかしこまるワカメとカツオを紹介、呼ばれたサザエが、湯気の上っている蒸しパンのようなものを頬張って登場、「どうもあんなふうでこまります」と母親のセリフで終わる。これが、サザエさん1号の4コマ。なお、第四巻の巻頭には、「サザエさんと私」という4頁にわたって、漫画付きの文章が載っている。サザエさん誕生のこと、疎開先の福岡の新聞「夕刊フクニチ」に連載を始めたこと(1946422日)、東京に引っ越し、姉が出版社の姉妹社を起したことなどの経緯が綴られている。

第一巻での薬の登場は何度かあるが、その一つ、寝床で「ゴホンゴホン」とやっている父親にたのまれたサザエが持ってきた「せきどめ」を服んで、「ピタッとやんだよ」と喜ぶ傍らで、薬瓶をよく見たサザエの「これはげざいグスリだ」にのけぞる父親。もう一つは、私が「熱さまし」としてよく服まされたのが、父の調合による粉薬を思い起こさせる。確か「フェナスチン」という薬が入っているので、よく効く、という話をしているのを覚えている。薬包紙を開いて、三角になったところで、薬を口にすべり落として、水と一緒に一気にのみこむ。後はひたすら布団をかぶって汗をかくまで我慢する。直りかけると、母親は、大事にしていたみかんの缶詰を開けてくれたのは敗戦からだいぶ時が経てからだろう。その「フェナセチン」を、いま調べると、長期服用の副作用は、前から指摘されていたようで、2003年には「日本薬局方」から外されていた。かなりアブナイ?薬を服まされていたことになる。

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第一巻の表紙。最初の書籍化は、横長の装丁だったらしい


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第1巻。やや不鮮明だが、4コマ目の父親の手元には薬瓶と薬袋、右手には今、服まんとして薬包紙を持っているのに、バケツの水を運んできたサザエさんだ

第二巻19502月刊。東京への引っ越しの際の疎開地の人々との別れ、東京の住まいのご近所との出会いが描かれ、はんぺん、果物などの配給の場面と物価の実情も分かる場面も面白い。タクアン百目5円50銭、ガラス一枚80円、シャケ一切れ8円などと。サザエは「新円かせぎ」に友人の働いている出版社ハロー社に勤め始め、これまでにない経験をする。婦人警官に<密着取材>した折の、発疹チフス予防注射の場面で、思い出す。発疹チフスが大流行したのは1946年、3300人以上の死者を出したという。シラミやダニ駆除のため、殺虫剤として、GHQが持ち込んだDDTが大量にあちこちで散布されたという。私は、夏に疎開地から池袋に帰ってきているが、学校で頭から散布されたという記憶がない。戦時下は、マラリヤ予防には威力を発揮したという。日本での製造は、1949年に「味の素」が製造開始したとある。BHCという殺虫剤もあった。私の記憶では、ボール紙の平たい丸い容器に入ったコナのDDTを、箱の上部をぺこぺこ押して、小さな穴から噴霧していたこともある。ボール紙の筒状の容器から、畳のヘリなどに落とし、大掃除で畳を上げたときは、新聞紙の上に、やたら撒いたこともある。日本では、環境ホルモンへの影響や発がん性のため1971年には販売禁止された。

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第2巻。筒状の容器にいれて、後ろから押し出して噴霧させていた液体の殺虫剤もあった。金属製の「噴霧器は別売りです」とお客さんに言ったのを覚えている。エアゾール式は、1952年のキンチョール、1953年のアースまで待たねばならない


第三巻19502月刊。サザエはフグ田マスオと結婚して、タラも生まれる。当初実家を離れていたが、すぐに、両親たちの家に引っ越し、同居する。NHKのど自慢が人気だったらしいが、私には、あまり記憶がない。忙しい予選申し込みができないので、係に電話して、サザエが電話口に唄っているのは「啼くな小鳩よ」であった。学生がアルバイトで、南京豆ふた袋15円、ノート2冊で30円で売ってたり、米一升一40円の夢を見たりする。

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第三巻の冒頭、サザエよりの挨拶の「ことば」が載り、結婚・出産の報告がなされている

第四巻19496月刊。巻頭には前述の「サザエさんと私」を掲載、出版社勤めはどうなったのか不明だが、洋裁の仕立ての内職を始めたりする。取引高税が出て来るので1948年発表の作品か。相変わらず、もち米、魚などの配給、停電の場面などが何度か登場する。

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第4巻。4コマ目になんと吸入器が登場する。サザエさんの家にもあったんだ。たしかに、我が家にもあったし、売ってもいた。これはアルコールらんぷで、水を温めて、その蒸気を吸入する装置。メーカーなどは覚えていないのだが、どこか仰々しい箱に入っていて、父や兄も、お客さんに説明するときは、実に慎重に扱っていた。一時期、私はのどの具合が悪いとき、と言っても40歳前後のころ、クリニックに行くと、水ではない薬剤の入った吸入をやらせられることがあった。最近ではあまり見かけなくなった光景だ

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こんな感じだったのかな。ネットから拝借した

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購入先から受け取った、使用済みの印紙が、各家庭のあちこちに置かれていたのだろう

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2018年8月31日 (金)

73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(8)

(8)くすり屋の雑貨

 今回のシリーズを書くにあたって、本棚にあったつぎの2冊を取り出した。こうした懐古趣味は、結構、昔から私にはあったのだなと思う。

・串間努:図説・昭和レトロ商品博物館 河出書房新社 2001

・初美健一:まだある 今でも買える”懐かしの昭和“カタログ―生活雑貨篇 大空出版 2006

 著者の串間は1963年生まれ、初美は1967年生まれ、というから、私の子どもの世代と言ってもいい若さである。こうしたものを、記憶を残そう、ものを残そうという人がいるということは、頼もしい限り。私は、たまたま30年間近く、まちのくすり屋の娘として過ごしたときの記憶をたどりながら、当時の暮しや家族、商品、お客さんとのさまざまな思いを、後付けながら、できれば社会的背景も自分ながらの理解で綴っている。「自分史」というくくりはあまり好きではないけれど、これからも綴っていくことができればと思う。

 当時のくすり屋が扱っていた、さまざまな雑貨にも、さまざまな思い出がある。

「チリ紙」や「綿花」も大事な商品だった。チリ紙に関しては、厚い束で届いたものを小分けに、二つ折りにし、紙テープで束ね、それを積み重ねて店頭に出していた。「京花」という上質紙は、個別に袋に入っているものもあった。また、少し時代が下ると、色も灰色っぽく、しわしわの柔らかい紙質のものを平らに積み重ねたまま手洗いに置く「落とし紙」もあったと思う。いわゆるテイッシュ・ペーパーは、日本では、1953年にクリネックスから売り出されていたが、高価だったので、普及するのはかなりあとだったのでは。70年代の初めに私が生家を離れるころ、ロール式のトイレットペーパーは一つずつ包装されていたようにも思う。

「綿花」あるいは「脱脂綿」は、平たく折りたたんで「衛生綿」などと書かれた20センチ四方くらいの紙袋に入っていた。子どものころは、消毒用や傷あてに使用するものとばかり思っていたが、化粧用品でもあり、生理用品でもあったのである。アンネ・ナプキンが売り出されるのは1961年のことだった。いま、ドラッグ・ストアで見る、あの多様さは夢のようでもある。

 店は、銭湯「平和湯」の斜め向かいでもあったので、石鹸はよく売れた。石鹸の登録・クーポン制については前述したが、1950年統制解除になると、品物が多くなる。店さきの台の最上段に、何種類かの石鹸を半ダースの箱からばらして並べる仕事もあった。花王、ミツワ、牛乳、アデカ、ニッサン、資生堂(オリーブ)、ライオン、ミヨシ・・・。当時は、石鹸と言えば、固形の化粧石鹸、洗濯石鹸、粉石鹸・・・とあり、父などは、化粧石鹸を「シャボン」と呼んでいた。この頃の石鹸事情については、『暮しの手帖』(20号 1953年)で、「商品テスト」を実施していることがわかった。これを見ると、私の記憶では、化粧石鹸と洗濯石鹸の売れ筋がごっちゃになっていたようだ。『暮しの手帖』のテスト結果は、今でこそ商品名が明らかにされるのが特徴だが、まだABC・・・の匿名だったようだ。

 現在でも、「ワ、ワ、ワが三つ・・・」(1954)「…牛乳石鹸、よい石鹸」(1956)「あごのしゃくれたお月様~うぶゆのときから花王、花王石鹸、・・・」(1956)を思い出すが、なんと、このすべての作詞・作曲が、「日曜娯楽版」(NHKラジオ番組1947年10月12日~1952年6月8日)の三木鶏郎と知ったのが、今回だったのである。お中元やお歳暮の時期になると、半ダース入りの箱にのし紙をつけて、手軽な贈答品としても、売れていた時代があった。

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「暮しの手帖」20号(1953年)より。カラーでないのが残念なのだが、当時「「舶来」石鹸などとは縁がない店であり、暮らしだった。また、洗濯用の粉石鹸はどれほど普及していたのか。花王ビーズ、ライオン、ゲンブ、ニッサン・・・、思い出す。合成洗剤としては、モノゲン(1934発売、1964年モノゲンユニ、2006年販売終了)、エマールというのもあって、純毛や絹ものなどを洗うときは、ぬるま湯で溶いて、丁寧に洗っていた記憶もある。

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現在、我が家で使っている「化粧石鹸」は、ほぼ、上の二つ。一番下のは、娘が帰省したときに使う石鹸で、無添加、釜練りというが・・・

   番外編の方が、回を重ねることになってしまったのだが、ひとまず今回で終わりたい。「73年の意味」については、これからも、天皇の代替わりに向けて、オリンピックに向けて、自分のなかで、渦巻く思いを伝えていきたいと思う。

 

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2018年8月30日 (木)

73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(7)

街のくすり屋の経営改革?② 

 小太郎漢方薬(エキス剤)の販売を始める

 1960年代に入っての頃、私には突如のように思われたのだが、父が、小太郎漢方製薬の漢方薬を店に置くようになった。当時、漢方薬と言えば、中将湯(津村順天堂⇒1988年ツムラ)、実母散(喜谷実母散本舗⇒1950ヒサゴ薬品⇒1995年キタニ)、命の母(笹岡薬品⇒2005年小林製薬独占販売)などの女性向けの薬や浅井万金膏(1997年製造中止)とお灸のための百草などを思い浮かべていた。大きな流れとして、「生薬」の時代から、ティーパック化した「煎じ薬」「振り出し薬」になって、エキスの錠剤化、糖衣錠化が進むのが1950年代半ばから1960年代だったか。

  小太郎漢方がエキス剤、いわゆる錠剤の製造販売を開始したのが19574月であり、父は、漢方の研修会に何度か出かけているようだった。いわゆる、慢性化した症状を訴えるお客さんや売薬ではなかなか効かないというお客さんに、父は熱心に勧めていたようだ。と言っても即効というわけではないので、リピーターは少なかったと思われた。というのも、「ビスラット(スラっと痩せて美しくなる? 石原薬品⇒2008年小林製薬)ってやせられますか」などとやってきた、漢方志向のお客さんに、「奥さん、薬飲むより、まず、余分なものは食べないようにしなきゃ。奥さん、おやつなんか結構つまんでいませんか」などと応ずるものだから、お客は、怒って帰ってしまうなんていうこともあった。母がこぼしていたように、父の「バカ正直」な一面であったかもしれない。

 

 漢方薬のメーカーでは、津村順天堂が有名であったが、1967年に漢方薬の一部が保険適用になり、徐々に適用も拡大し、1988年社名を「ツムラ」と変えた頃には、医療用漢方薬のシェアを伸ばしていた。2009年、民主党政権下、事業仕分けで、漢方薬の適用外しが目論まれたが、医療用漢方薬はすでに定着して、多くの利用者の反対にあって終息したという経緯もあったらしい。保険適用が拡大して、街のくすり屋の漢方薬はどうなっていったのだろうか。父が目論んだ”多角経営“も功を奏さないうちに、しぼんでしまったのかもしれない。

 製薬会社と卸と薬局と  

 どうしても、曖昧な記憶に頼らざるを得ないのだが、つぎに述べるような、メーカーから直接届けられる医薬品は別として当時の店の仕入れはどうなっていたのだろう。仕入れは、主に兄の仕事になっていったらしい。「ナカダ」という卸問屋の社員が注文を取りに来ていた。父や兄に向って、「センセー、センセー」を連発しながら、新製品の説明や売れ筋商品の説明をし、ときには、世間話を交え、注文を取っていた。「センセー」というのは、学校の「先生」しか知らなかったので、何とも奇妙な気分だったのを覚えている。三共、武田、塩野義、山之内などの大手の品は「ナカダ」から仕入れていたのではないか。1950年代の後半、たどれば戦前から創業していた大正製薬と佐藤製薬だが、新しい大衆薬を開発して、特約店方式で販路を開拓しているようだった。卸を通さず、街の薬局に直接、営業社員を回らせ、注文を取っていた。この辺のことを調べようとして、会社のHPの沿革を見るのだが、どうもはっきりしない。会社史などの資料を見なければと思うが、23の文献が見つかった。前述の化粧品の資生堂と同じ方式である。卸を通さない分だけ、若干、利益も多いので、販売にも熱が入る。同じ風邪薬でも、佐藤製薬の「ストナ」や大正製薬の「パブロン」「ナロン」などを勧めていたのも確かであった。

  60年代に入ると、テレビが普及し、薬品・化粧品のコマーシャルが登場し、華やかな宣伝合戦が始まるのが、この頃だろう。当時、栄養ドリンク剤で、少し大きめのアンプル入りが大流行していた。店さきで、アンプルの突起の根元にハート形のヤスリを入れてから、中指で弾いたり、てのひらで抑え込むようにすれば、すぐに折れた。お客さんは、短いストローで一気に服んでいくという光景がよく見られた。最初、私も、アンプルを切るのに緊張したが、次第に慣れていった。ところが、カラスの粉が液剤に混じることもあるということで、今のようなびん入りになったという。大正製薬からはリポビタンD1962年)や佐藤製薬からはユンケル黄帝液(1967年)などが疲労回復、栄養剤としてよく売れた。多くのサラリーマンはよほど疲れていたのだろう。さて、その効き目のほどなのだが、わが家の家族は、誰ひとり、口にする者はいなかった。

 なお、私は、1972年にくすり屋の生家を離れ、76年には名古屋に転居しているので、その後の店の様子には疎くなっていった。 しかし、この度、医薬品卸の「ナカダ」を調べていると、薬業界の流通は、激変しているのを知った。私の理解ではつぎのような流れがあったようなのだ。

1961年に国民皆保険制度が発足すると、それまで、薬はくすり屋で売るもの、くすり屋で買うものであったのが、薬は、医者からもらうものになっていったのである。 

しかし、薬事法の改正で、前述のように、販売規制が緩和されるなかで、医薬品の部外品化が進み、1999年には、ドリンク剤は「指定医薬部外品」になってコンビニにも並ぶようになったのだ。2006年、薬剤師養成は6年制となって、専門性が要請された。その一方で、2009年には、薬剤師でなくとも登録販売者が一部医薬品を販売できるようになった。同時に、独禁法により、再販制度が緩和される過程において、医薬品も化粧品もすべて指定からはずれることになり、現在は、書籍・新聞・雑誌・音楽ソフトに限られている。 

 こうした規制緩和の進むなかで、医薬品卸の「ナカダ(中田薬品)」は、1983年に丹平商事と合併、2008年には、200410月に発足したアルフレッサホールディングスと資本提携、2010年には、完全な子会社となっている、ことも分かった。そして、かつて1600もあった医薬品卸は100となり、いまは全国4つのグループに統合され、その4グループには大手製薬会社が大株主になっているのが現状らしい。  

 (参考)
・澤野孝一朗:日本の薬事法制と医薬品の販売規制―薬局・薬剤師・商業組合及び規制緩和 オイコノミカ(名古屋市立大学) 442号(2007年)file:///C:/Users/Owner/Desktop/B41-20071101-121沢野医薬品9規制緩和.pdf
・丹野忠晋・林 行成:日本の医療用医薬品の卸売企業の 
現状とその経済学的分析
跡見学園女子大学マネジメント学部紀要 第15号 (2013315
日)
file:///C:/Users/Owner/Desktop/contentscinii_20180827165910卸と製薬会社
.pdf
・角田博道:医薬品流通経済研究  流通再編
http://www.pharma-biz.org/Column_ryutu/ryutu01.html 

 

   週刊誌の販売  

  これも、うちの店で、いつ始まったのかが、明確ではない。ともかく、1960年代は週刊誌ブームといわれた時代であった。私が大学に入った直後くらいだろうか。安保闘争の最中で、創刊まもない「朝日ジャーナル」などを小脇に抱える学生も多かった。店先の端っこに、雑誌を差し込む台が置かれ、発売日ごとに週刊誌は届けられるのだが、それと交換するため、前週の雑誌、売れ残った雑誌は、束ねて何部返品かの伝票を添えて用意しておく、その作業はかなり厄介なものだったが、すべて兄の仕事のようだった。売り切れる雑誌もあるが、残る雑誌も多い。このコーナーでどのくらいの利益を上げていたのだろうか。通常は二割程度とのことではあったが、それに加えて、週刊誌の販売は、我が家への「カルチャーショック」が大きかった。新聞は、隣が読売の専売店だったこともあって、読売・朝日・毎日のうちの23紙はいつも購読していたが、それまで縁のなかった週刊誌がどっと押し寄せてきた感じだった。買ってくださるお客さんには申し訳なかったが、汚さぬように丁寧に読ませてもらうことになったのである。私などは、歴史ある?週刊朝日、サンデー毎日(共に1922年創刊)はじめ、週刊女性(1957)、女性自身(1958)、女性セブン(1963)はもちろん、週刊新潮(1956)、週刊文春(1959)などは、発売日の夜にでも読まないと、売り切れてしまうので、読み切るには、いささか過密スケジュールでもあった。週刊明星(195891)、週刊平凡(195987)、平凡パンチ(196488)などにも目を通していたから、自慢ではないが雑学?やスキャンダル・ゴシップ類は、結構、身に着けていたかもしれない。長兄は、店番をしながら、あるいは寝室にまで持ち込んで、アサヒ芸能(1956)、週刊実話(1957)、週刊大衆(1958)、週刊現代(1959)、週刊ポスト(1969)などにも手を広げていたかもしれない。隔週に刊行される、表紙もグラビアも過激な男性向けの雑誌もあった。

 

 こうしてみると1960年代前後に創刊された週刊誌が多いのが分かる。週刊誌販売も、くすり屋が、薬・雑貨・化粧品の他に、商売になる品は何でも置かねばという不安の表れだったのではないか。
 生家を離れて、一人暮らしをすることになった時は、しばらく「週刊誌ロス」に見舞われたが、購入することはまずなかった。新聞に出る広告の見出しを見て、楽しむことを覚えた。これは今でも変わっていないかもしれない。

 

 

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73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(6)

街のくすり屋の経営改革?➀

  今回、薬や化粧品のことを、ひとまずメーカーだけは確認しておきたいと思って、ネットで調べていると、会社にはそれぞれ「今昔物語」があった。発展を続ける会社、身売りをする会社、合併や統合をする会社、廃業した会社といろいろであった。さまざまな商品の現代にいたる来し方を探ると、さらに興味深い事実に出会うこともある。その才があるならば、朝ドラの脚本が何本もかけそうな物語がいっぱい潜んでいるのではないか。経済高度成長期、激動の日本の近現代史を垣間見る思いがする。

 

ここでは、街の小さなくすり屋にも、私の知る限りながら、さまざまな時代の波をかぶらざるを得なかった。父が池袋で薬局を開いたのが1925年か24年、それまでは、十代にして両親を亡くし、薬剤師の資格を持って、朝鮮に渡り、兵役をはさんで、仁川の薬局、ジョホールのゴム園の診療所、日本に帰国後の病院、ずっと雇われ薬剤師だったはずだ。結婚を機に開業しているが、やはり、1945年の空襲による住居兼店舗の焼出は、痛手だったと思う。もともと正直ではあっても、決して商売上手とは言えなかった。それに蓄えるということも苦手だったらしく、母は、よく嘆いていた。お父さんは、一人暮らしが長かったから、自分勝手なところもあって困ることも多いと。店の経理のようなことも苦手だったのだろうか。

 

 

企業組合に加入

 

1950年、たぶん設立まもない「東優企業組合」という東京の薬局が加入する企業組合に加入したのである。売り上げや帳簿類をすべて組合に提出して、父も兄も母も組合の従業員として給与をもらうというシステムで、税金対応などを組合に任せるという趣旨であったと思う。今でも、中小企業協同組合の一つとして、街の薬局や調剤薬局、ドラッグストアが加入する組合として健在のようである。当時の母は、なぜ、せっかくの売り上げをすべて組合に納入しなければならないのか、どんな利点があるのかと、いつも不満げだったのを覚えている。父は、月に何度か、組合に足を運んでいた。「トーユー」に行ってくると、店を留守にすると、そんな愚痴が、私にも聞こえてきた。

 

薬局の開業には、「調剤室」の確保が義務付けられていたが、この調剤室が、どの店でもお飾りのような状態であったことは否めない。うちの店も、事務室のような、もの置きのような様相を呈していた。父たちは、迷った上、改築を機に「調剤室」を造らず、薬局から「薬店」に衣替えをした。

 

敗戦後のくすり屋にとって、1951年、GHQの指示による薬事法改正が掲げる医薬分業は、医師には特例があって、既得権が維持され、処方も販売も可能であったため、分業は定着しなかった。1961年に国民皆保険制度発足すると、それまで、くすり屋で買うものであった薬の多くは、医者からもらうものになっていった。1974年には、医療報酬費の改定がなされ、処方箋料が大幅にアップしたこともあったが、大きな進展は見られなかった。1992年段階での分業率は14%台だった。院外薬局、門前薬局が目につくようになり、調剤薬局大手の医師へのリベート問題も発覚するなか、院外処方箋は増加を続け、2003年で51%となり、その後の2016年には70%を超えた。

(参考)

・早瀬幸俊:医薬分業の問題点 薬業雑誌 1233号(2003年)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/yakushi/123/3/123_3_121/_pdf/-char/ja

 

たばこの販売許可をとる

 

ほぼ同じころ、たばこの小売販売の許可を取ったのだった。さまざまな条件をクリアしなければならないことがあったらしく、販売できるようになってほっとしたようだった。喫煙の健康上被害は、いま厳しく問われ、喫煙できる場所も制限される時代になった。しかし、販売店の数は、明らかに増加しているが、販売の規制はどうなっているのだろうか。うちの店では、まだ、外国たばこを扱うことができなかった。私が店番をしていた頃は、ピース(1946年発売)、ホープ(1957年~)、ハイライト(1960年~)が全盛、しんせい(1949年~)、ゴールデンバット(1906年~)、わかば(1966年~)というのもあった。我が家はだれも煙草を喫まずに、売っていたことになる。利益は一割程度だったとも。やはり、発注・納品事務に、自動販売機への補充など楽ではなかったと思う。

 

 

ドラッグストアの進出に対抗して

 

さらに、1960年代、大学に入ってまもない頃、池袋のくすり屋が騒然としたことがある。いわゆる安売りのドラッグストアが池袋西口に進出して来たことがある。父や兄の存命中に、きちんと聞いておくべきだったのだが、どこの経営のどんな店だったのか、確かな記憶も情報もない。池袋一帯のくすり屋が潰されるのではないかとの危機感から、池袋の同業者が集まって、その安売り店の近くに、仮店舗を建てて対抗して安売りを始めたのである。そして、各店から一名づつ交代で人を派遣し、常時、数人が店員となって詰めていて、かなりの賑わいだった。私も何度か、二つの店の前を通ったことがある。いったい、いつまで続いてどんな決着を見たのか、思い出せない。相手は進出をあきらめたのか、あきらめさせたのか。

 

それにしても、当時は1954年以来定価が決められ、値下げできないという再販制度があって、医薬品45品目が指定されていたはずなので、それ以外の商品の値下げ競争だったのか。この再販制度は、消費者の利益を損なうとして、73年に26品目、93年に14品目と縮小され、1997年に撤廃された。1974年には、薬局を開店するには一定の距離を要する薬事法が職業の自由に反するという違憲判決により改正され、撤廃された。街のくすり屋の安売り競争は激化、さらに大型ドラッグストアやスーパー内の薬局進出が盛んとなり、197080年代は街の小さなくすり屋にとっては厳しい時代であったにちがいない。

 

現在の池袋西口近辺には、かつて私も回覧板や書類などを届けに行ったような個人経営の薬局が何店か、たしかに営業を続けている。しかしその何倍もの、チェーン店のドラッグストアが乱立しているようなのだ。池袋の兄の店は、存命中に閉業して、すでに久しい。

 

 

 

 

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2018年8月26日 (日)

73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(5)

ポマードとコールドクリームの時代から

 それでも、世の中は、少しずつ変わりつつあったのか、庶民の暮らしにもいささかのゆとりができたのか、男性は身だしなみ、女性はおしゃれにも気が回るようになった。くすり屋では、女性化粧品や男性の整髪料などが売れ筋になったのである。
 

 例のテカテカに塗り付けて、独特の匂いを放っていたポマード、その商品名が、今でも口をついて出てくるから不思議である。メヌマ(井田京栄堂)、ケンシ(ケンシ精香)、柳屋(柳屋本店)、エーワン(エーワン本舗)などなど・・・、製造元は、さすがにネットで調べたのだが、店のカウンターのガラスケースに並べていたような気がする。それにチックもポマードのメーカーが作っていたと思うが、思い出すのは「丹頂チック」(金鶴香水⇒1959 年丹頂KK1971年マンダム)、細長い筒状だから、ケースの中でよく倒れてしまっていた。ポマードもチックも戦前から製造されていたものだが、ワセリンを主原料とした鉱物性と植物性があるなどといった説明を聞くともなく聞いていた。男性整髪料は、やがてヘアリキッドの時代に移行していくのである。そういえば、敗戦直後、歌手の岡晴夫が、当時売れっ子ながら、今でいうサイドビジネスでポマード工場を持っていたことも聞いていたが、その商品名が分からない。薬剤師になりたての長兄が、彼の「東京の花売り娘」(佐々詩生作詞 上原げんと作曲1946年)、「憧れのハワイ航路」(石本美由起作詞 江口夜詩作曲1948年)、「啼くな小鳩よ」(高橋掬太郎作詞 飯田三郎作曲1947年)など、裸電球の下で、拳をマイクに見立てて唄っていた姿を思い出す。当時の私と言えば、銭湯「平和湯」横に来る紙芝居と夕方のラジオ放送劇「鐘の鳴る丘」(194775日~19501229日、当初は土日だけだったが、のち月~金放送)に釘付けになった時代である。巌金四郎の語りとパイプオルガンの音楽は重々しかったが、「とんがり帽子」(菊田一夫作詞 古関裕而作曲)は、いまでも一番は歌える。
 

話はややそれるが、数十年ほど前、池袋の生家を解体、建て直すとき、物置からこんなものも拾っていた。もうぼろぼろの崩壊寸前なので、スキャンするのも気が気ではなかったが、当時の雰囲気が伝えられればと思う。

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崩壊寸前の「全音歌謡傑作集」(全音楽譜出版社 1948年11月 61頁 45円)「懐かしのメロデイ」として「別れのブルース」「影を慕いて」などもふくめて48曲収録。どういうわけか。「ブンガワンソロ」と「東京ブギウギ」の間に「とんがり帽子」が紛れた込んでいた。上段の表紙絵、岩田専太郎の挿絵をもっと俗っぽくしたような、こんな絵が、人気があったのだろうか

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『全音流行歌集』(全音楽譜出版社 1950年5月 64頁 40円)表紙は高峰秀子。見開きで一曲、必ず上記のように挿絵が付く。30曲収録。挿絵の作者名はどこにもないが、上の「傑作集」の表紙絵とも共通する雰囲気がただよう

そして女性の化粧品はといえば、脈絡なく、浮かんでくる商品名、化粧水では、ヘチマコロン(近源商店⇒ヘチマコロン社)明色アストリンゼン(桃谷順天館)、クリームでは、明色クリンシンクリーム、クラブ(美身)クリーム(中山太陽堂⇒1971年クラブコスメチック)、ウテナバニシングクリーム(ウテナ)、マダムジュジュ(寿化学⇒1961年ジュジュ化粧品⇒2013年小林製薬)、キスミー(伊勢半⇒1965年キスミーコスメチックス⇒2005年伊勢半)の口紅などで、寿化学を除いては、いずれも歴史の古い化粧品メーカ―で、いわば大衆的な化粧品だったかもしれない。口紅は、「変色」といって、塗る前はオレンジ色なのに塗ると紅色に変色し、色落ちしにくいという実用性もあって、売れ筋だった。なお、子ども心の印象では、資生堂やパピリオは、どこかこだわりのある、やや高級品めいた雰囲気があった。コールドクリームと呼ばれるものがあったが、「栄養」が強調されたイメージで、やがて、脂分の少ないバニシングクリームが好まれたようだった。50年代になると、女性化粧品はますます多様化し、細分化していった。
 

父たちの店も改築を機会に、資生堂の特約店となって、少し様子が変わった。私が高校生のころだったか、贅沢なホネケーキという洗顔石鹸や四角い壜の真っ赤な化粧水オイデルミンなどが珍しかった。しかし特約店というかチェーン店になると、注文にはノルマが課せられ、高額な商品がセットで届けられ、返品なしであった。容器のフタがゴールドとシルバーで価格が異なり、差別化していたようだ。また、お客さんを花椿会の会員に入会させ、買い上げ額によって景品も異なった。売り上げが多いと、会社から美容部員がやってきて、一日近く張り付いて、宣伝・販売・実演などをしていた。わが店の成績は良くないので、たまにやってきた美容部員が暇そうにしていたのを覚えている。兄の奥さんは、子育てに忙しいこともあって、大学生の頃、資生堂の美容研修講座に参加したことも何度かあった。新商品の使い方、基礎的化粧品の説明、果ては、化粧のフルコースを実演で見せられ、実技まで課せられる。ふだんは、化粧をしない私だが、講習を受けた日は、バリバリのファンデーションの上にさまざまな商品をフルに使った厚化粧で帰宅したものだった。それでも、化粧っけなしで、資生堂コーナーでは、受け売りの商品説明をしたのだった。
 卒業後の職場では、朗読見合いの婦人部の催しで、「ちふれ」の出張販売の手伝いをしたこともある。私が使う化粧品と言えば、店のケースから失敬する化粧水、乳液、クリームくらいなものだったが。
 

 
 

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73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(4)

  

 配給通帳と取引高税 

 

二つの配給通帳

  敗戦直後から食糧事情が劇的に改善されたわけではなく、私の手元に残っているいわば配給通帳なる「家庭用主要食糧購入通帳」(農林省発行)と「家庭用品購入通帳」(東京都発行)の数年分を見てみると、記入された数字などは乱数表にも見え、解読がむずかしいし、通帳についている引換券のようなもの意味も分からない。ただ、興味深かったのは、さまざまな広告が掲載されていることで、農林省も東京都も、印刷物や配給の諸経費を賄っていたのだろうと思う。広告からは、当時の暮しの一部が見えてくる。池袋駅付近は、まだ、白衣の傷痍軍人たちが募金箱を携え、何人も立っていたし、ガード内や駅構内には、浮浪者や浮浪児たちも多かった時期である。

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昭和23年(1948年)の「家庭用主要食糧購入通帳」農林省発行、西暦の表示がない。右肩に「砂糖通帳5枚交付済み」、左肩に「衣料切符5枚交付済」の判がおされている。下段は家族名簿となっていて、割当定量の瓦数が手書きされている

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表紙を開くとまるで乱数表にも思えるのだが、左の「世帯一日当たり配給割当量及び月別人員確認欄」には、6-10歳 1 320/16-25歳 2 810/26-60歳 2 770、とあり、我が家の家族と配給量が分かる。116-25歳2人というのは兄二人で、食べ盛りということで量が多い。この単位は瓦で、表紙の割当定量の人数分が記されている

 右の「配給明細表書」には、月日・品名・配給量実量・米換算・金額・配給済み月日・備考・印の欄がある。品名のところには、米・馬・甘・押などが並ぶ。馬は馬鈴薯、甘は甘薯、押は押し麦。サは砂糖、ミは味噌、正は醤油か。換算表の脇には、砂糖5、味噌醤油5枚交付済みとなっているので、この通帳で配給を受けていたのだろう。  価格を見ると、米5キロ133円と読めるのだが・・

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昭和23年「家庭用主要食糧購入手通帳」の裏表紙の上段の「代替え食糧の米換算表」
押し麦・丸大豆・小麦粉・脱脂大豆・高粱は、米と同量だが、食パン1斤(こっぺ3個)は米360瓦、馬鈴薯10瓩は2222瓦、甘薯10瓩は2857瓦などと細かい

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1949年の「家庭用品購入通帳」で、元号が小さく併記されている、東京都発行。左の引換券のようなものが、無秩序に切り抜かれ、虫食いのように白く写っている

石鹸のクーポン制
  配給で思い起こすのは、うちの店から石鹸を買ってくれるお客さんに登録してもらい、ある程度の登録者を確保しないと石鹸が売れない、という時期があったと思う。まだ調べ切れていないのだが、その登録者を確保するために、近くの知り合いや共同住宅の人たちを、母に連れられて、一軒一軒お願いして回わったことを断片的に思い出すのだ。なかには、学校の同級生の家もあったりして、どこか恥ずかしい思いをしたこともあった。 石鹸は、生活の必需品であったが、戦時中は配給も止まっていたらしい。19465月に3年ぶりに配給開始と、年表などには記されている。2年ほどは、年間一人45gのものが3個とかの程度だったらしく、標準価格10銭の石鹸が20円の闇値がついていた。GHQの指示で19494月石鹸配給規則により、小売りや卸売りの段階で「予約注文制(クーポン制)」が実施されることになり、上記のような予約注文のクーポン券を集めることが必至とされたのだろう。メーカーは、クーポン獲得実績により原料の量が決まるので、過剰な競争をもたらしたらしい。それも、19507月には、配給撤廃、同年12月には油脂製品価格統制が撤廃されている

(参考)
・宝子山嘉一:石鹸業界における流通の変遷12
「経営学紀要(亜細亜大学)」92号、101(2002)
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180825211702.pdf?id=ART0000946483
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180825213018.pdf?id=ART0000946358

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花王石鹸のHPより。配給当時の石鹸たち、花王、ゲンブ、ADK(アデカ)の文字、ミツワのマークなどが見える

取引高税
「石鹸配給規則」は一年半ほどで廃止したのだが、この時期、子ども心にも記憶に残っているのが、印紙騒動だった。後でわかることなのだが、消費税の一種の「取引高税」がなせるところだったのだ。これは、1948年に導入されて一年で廃止された税制だったことになる。

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こんなポスターが作られていた! 国税庁のHPより

  我が家の店先での騒動というのは、お客さんごとの売り上げ額の1%にあたる印紙に消印を押して、お客に手渡せ、というものだった。レジスターというものなどなかったので、売り上げやつり銭は、カウンター下の仕切られた箱に金額の違いごとに納め、それとは別に、あらかじめ購入しておいた印紙も金額ごとに仕切って入れて置かれた。間違いなくお客さんに印紙を手渡すのはかなり煩雑なことのようだった。それに、ちゃんと印紙を渡しているかどうか、「脱税」していないかどうか、税務署員が客を装って、店頭に現れるというのである。いつ頃まわってきそうだとか、どの店には来たらしいとか、同業同士の情報交換などもしていたらしいことも、大人たちの話から伝わってくるのだった。厄介さに加えて、何かと緊張が重なるのがわかった。

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税務署員だけでなく、お客さんからの通報制度まであった? 国税庁のHPより

 

 消費税の一種で、この時の取引高税は39業種にわたり、主食・みそ・醤油・家賃・入浴料はのぞくとなっていたという。しかし店頭での煩雑さは、予想可能であったろうに、その完全実施の困難さもあったのだろう、一年で廃止になった。シャウプ勧告がなされたのは、翌年の1949年であった。

 現代の消費税もややこしいことになっているが、非課税や軽減税率の制度もないまま、10%まで引き上げたらどうなるのだろうか。そしてその使い道も問題である。それ以前に、所得税での総合課税や累進課税の実施、法人税の税率を高くする方が先なのではないか。現在のような高所得者、法人優遇税制では、景気が良くなるはずがない、とも思えるのだ。いったい、政府と日銀は何をやっているのだろう?!

 

 

 

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