2022年7月 2日 (土)

目取真俊ロングインタビュー「死者は沈黙の彼方に」を聴いた

 初回放送は2021年8月29日だったそうだが、7月2日、NHK沖縄復帰50年シリーズの一環としての再放送だったらしい。マスク越しの目取真の話はやや聞き取りにくいこともあったが、彼の怒りは切々と伝わってきた。NHKの質問者に詰問する場面もあるにはあったが、だいぶ編集されているのではないかとも思われた。
 1960年生まれの彼は、身近な人々が語る戦争体験から想像もつかない凄惨さを知り、多くの人びとが戦争体験を語ることなく、この世を去っていくのを目の当たりにしたという。彼にとって小説とは、彼らの「代弁」というよりは、少しでも「近づく」ことであると力説していたように思う。
 番組での「水滴」などの朗読は、沖縄出身の津嘉山正種によるものだったが、あの思い入れたっぷりの、重々しい演技と声は、私には、むしろ聞き苦しかった。というより、もっと淡々と朗読した方が、聞き手には、届きやすかったのではないか。 
 いや、それ以上に、目取真のインタビューというならば、「こころの時代 宗教・人生」という番組ではなく、行動する小説家に至った過程をもっと丹念に追跡する番組にしてほしかった。辺野古での基地反対活動のさなかに逮捕(2016年)されたことや天皇制と真正面に取り組んだ数少ない小説「平和通りと名付けられた街を歩いて」(1986年)などに触れるべきではなかったのか。「こころ」の問題、宗教?に集約してしまうのが、NHKの限界?だったと済ましてしまってよいのか。
 番組では、去年の6月23日、慰霊の日に「国頭支隊本部壕・野戦病院跡」を訪ね、供え物をしていた場面で、傷ついた兵士たちには手りゅう弾が手渡され、放置されたことが語られていた。彼は、今年も、平和祈念公園の追悼式典には参加せず、本部町の八重岳にある「三中学徒之碑」と「国頭支隊本部壕・野戦病院跡」を訪ねたとブログ「海鳴りの島から」に記されていた。(以下参照)
沖縄戦慰霊の日/本部町八重岳の「三中学徒之碑」と「本部壕・病院壕跡」

https://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/aada4eefbafc810d153c75d719f8b102?fm=entry_awp 2022-06-23 23:43:23 

 また、私は一度だけ、数年前に、目取真俊の講演会に出かけたことがある。(以下参照)

目取真俊講演会に出かけました(2018年7月16日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/07/post-a28a-1.html

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2022年6月 7日 (火)

『喜べ、幸いなる魂よ』(佐藤亜紀)~フランドル地方が舞台と知って

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  近年、めったに小説など読むことはないのだが、主人公がフランドル地方のゲント(現地の読み方がヘントらしい)のベギン会の修道院で暮らす女性と知って、読み始めた。というのも、すでに20年も前のことなのだが、2002年の秋、ブリュッセルに何泊かしたときに、日帰りで、ゲントに出かけて、その小さな街の雰囲気が印象深かったこと、ブルージュに出かけた日は、ふと立ち寄ったベギン会修道院のたたずまいが忘れがたいこともあって、ぜひ、読まねばとの思いに駆られた。 

  小説は、18世紀、亜麻糸を手堅く商う家に生まれた双子の姉ヤネケと養子として引き取られたヤンとの愛の物語である。読書が大好きで、数学や天文学などにも関心が深いヤネケはまるで実験かのようにヤンと愛し合い、二人の間に生まれた子は、二人と引き離され乳母に預けられる。ヤネケは、母方の叔母が暮らすベギン会修道院に入ってしまう。ヤンは、子への愛を断ち切れず引き取り、亜麻糸の商人として働きながら育てるのだった。当時の女性は子を産むことと家を守ることに専念すべきで、学問をするなど許される時代ではなく、双子の弟のテオやヤンの名前で本を出版して、認められるようにもなってゆく。テオは、野心家の市長の娘と結婚するが不慮の事故で急逝すると、市長の娘とヤンは結婚、亜麻糸商を任されることになる。ヤンは、店の帳簿を、数字に強いヤネケに点検してもらうために、修道院に通ったり、ヤネケは、二人ならば許されるという外出を利用して、しばしば生家を訪れたりして、ヤンや子供のレオとの交流もする。

  ベギン会の修道院は、一般社会と切断されているものではなく、統括する組織もなく、信仰に入った単身女性たちは、敷地内のテラスハウスのような住居を所有する。外出も可能で、居住区以外は、男性の出入りもできたという。それぞれ、資産を持ち、亜麻を梳いたり、レース編みをしたり、あるいは家庭教師になったり、さまざまな技能と労働をもって、自分で生計を立て、貯えもする。

  敷地内で、ヤネケが育てているリンゴの木、毎年少しづつ美味になってゆく果実をヤンと食す場面が象徴的でもある。市長の娘の妻との暮らしもつかの間、風邪をこじらせ急逝、今度は、ヤンが市長の座にふさわしい妻をということで、貴族の未亡人と結婚したが、出産時に死去、ふたたびひとり身になるのだ。

 ただ、成長した子供のレオは、ヤネケが母とは知らず、なつかないまま、商売の手伝いをするわけでもなく、やがて家を出てしまう。そして、ヤネケとヤンの老齢期に近づくころ、二人にとっても、フランドル地方にとっても思わぬ展開になるのだが、二人の愛は、揺らぐものではなかった・・・。

 登場人物の名をなかなか覚えられないので、外国文学は苦手なのだが、この小説でも登場人物一覧にときどき立ち戻るのだった。著者は、フランスへの留学経験があるものの、研究書などによる時代考証に苦労したに違いないが、女性の自立と愛の形を問いかける一冊となった。

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ブルージュの街を散策中、長い石塀をめぐらせている施設があったので、何の気なしに小さな戸口から入ってみると、そこには、林の中に白い建物が立ち並ぶ静寂な世界が広がっていた。旧ベギン会の修道院で、13世紀のフランドル伯夫人の手により設立されたが、現存の建物は、17世紀にさかのぼる。いまはベネデイクト会女子修道院として利用されている。ゲントには、二つのベギン会の修道院があるが、訪ねることができなかった。フランドル地方に14あったベギン会修道院は、ユネスコ世界遺産に登録されてるという。

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上が、ゲント市内全景。2002年当時の現地の観光案内書から。下は、正面が聖バーフ大聖堂。

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ゲントは、どこを切り取っても絵になるような街である。

ゲントについては、下記の当ブログ記事でもふれている。

エミール・クラウス展とゲントの思い出(2)(2013年7月9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/07/post-d279.html

 

 

 

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2022年5月12日 (木)

”短歌ブーム”がやってくる?短歌は商売になるのか

 けさ、遅い朝食のかたわら、テレビのチャンネルをまわしていると、なんと、短歌が話題になっている。「『サラダ記念日』以来の短歌ブームが必ずやってくる」と断言するのは『短歌研究』の編集長だった。「スッキリ」のようなワイド番組に短歌雑誌の編集長が登場するのも珍しい。

 岡本真帆(32)という人の歌集『水上バス浅草行き』(ナナクロ社 2022年3月)が、歌集ではめったになく、8000部も売れていて、書店でのサイン会や大手書店の短歌コーナーが紹介されていた。

・ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし

 という一首が紹介されていたが、「におわせ満載の、あるある短歌」で、正直、あまり好きにはなれない。ジェンダーの視点から見ると、眉をひそめそうな一首である。当然、俵万智も登場し、なぜ短歌がブームになったのかを聞かれて、SNSの影響が大きいという。やや不正確だが、短い言葉での表現の過程で、心も豊かになるといった趣旨のことを述べていた。歌集を読まずに申し訳ないが、岡本短歌も俵万智のかろやかさの流れをくむものであって、わかりやすいのは確かなようだ。

 歌壇には、もう一つの短歌ブームがあるようで、表現上では、口語で平明だが、一首として、私などには「意味不明」な短歌がもてはやされている。

 ところで、番組には、木下龍也という人の、注文に応じて短歌一首を1万1000円で売っている?様子も放映されていた。この歌人については、新聞等でも紹介されていた。依頼者の、いまの自分の状況や気持ちを短歌にしてほしいというオファーに応える短歌を作り、依頼者を励ましている現実があるという。なかには、その一首を「お守り」のようにしているという依頼者も登場している。

 要するに、お題に添って短歌を詠み、それを仕事にもしているのだが、現代の短歌のありようとして、「題詠」というのに、私は、いささか違和感を持っている。短歌の学習過程やゲームとしての題詠はあるのかもしれないが、本当の短歌の姿なのだろうか。というのも、戦時下において、著名歌人の多くが、「戦果」に応じて短歌を詠み、戦意高揚に貢献したという歴史、現代にあっても、天皇の決めた「御題」に従って、天皇に詠進するという「歌会始」の存在が、私には暗い影を落としているからである。

 短歌は、他人に注文するものではなく、多くの短歌との出会いの中から、自分の座右の一首を見つけるのを楽しみ、自らも詠んで、革まる気持ちを確かめるものではないかと。

 木下さんには数十件のオファーがあると言い、岡本さんのツイッターには「お仕事の連絡は・・・」などとあった。

庭の半分ほどを占めてしまう一本のヤマボウシ。どんな鳥なのだろう、この茂みの中でしきりに鳴いているようだった。

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2022年4月 9日 (土)

1922 -2022 年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(2)

 ほんとは『ポトナム』の歴史を少しでも伝えねばと思いつつ、いまは、ポトナム私史として、嫌われるのを承知で、あまりにも個人的な記録になってしまうかもしれない。

 私が、ポトナムに文章らしきものを初めて寄稿したのは、カール・サンドバーグ(1878~1967)の『シカゴ詩集』についてであったと思う(「『シカゴ詩集』について1~2」1964年8月~9月)。英文科出身で中学校の英語教師をしていた次兄の話を聞いて、『シカゴ詩集』(1916年)を岩波文庫の安藤一郎訳(1957年)で読み、いたく刺激されたのを覚えている。サンドバーグは、スウェーデンからの移民の子として生まれ、さまざまな職に就き、放浪もし、入隊もする。私淑していたP・G・ライト教授の影響で民主社会党員としても活動、20世紀初頭から、シカゴでの新聞記者生活が長い。「霧」といった、短い抒情的な詩も好きだが、「でっかい肩の都市」シカゴの文明と野蛮が交差する繁栄と猥雑を歌い、反戦・反軍を訴える。

 戦争

 昔の戦争では馬蹄の響きと軍歌の足音。

 今日の戦争ではモーターの唸りとゴムタイヤの騒音。

 未来の戦争では人間の頭では夢想だにされなかった無音の車輪

 と棒の擦過。・・・

「戦争」と題する、上のような一節もあった。過去の戦争と21世紀の戦争は、ない交ぜとなって、遠く離れた地からの砲弾は、住居や病院、劇場を破壊し、原発まで襲う。戦車や銃は、人間をなぎ倒して行く・・・。サンドバーグはもちろん、現代の人間でさえも夢想だにしなかった戦争が止められない現実を目の当たりにして、再読しているところである。そして、ほぼ同時代のベンシャーンの重い画集も取り出して眺めている昨今でもある。
 1970年に、「冬の手紙」30首で、前述の白楊賞を受賞、1971年7月に、第一歌集『冬の手紙』(五月書房)を上梓した。

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『ポトナム』550号(1972年2月)は、『冬の手紙』批評特集を組んでいただいた。評者は、大島史洋、佐佐木幸綱、森山晴美、菅野昭彦、島田修二、岩田正さんの六人であった。『閃』17号(1972年1月)では、田谷鋭、藤田武、水落博、西村尚、近藤和中、佐藤通雅さんの六人であった。当時「閃の会」代表の増田文子さんらの尽力で、お願いできたメンバーであった。励ましや叱声を受けたスタートではあったが、ようやくたどり着いたのが今日となると、忸怩たる思いである。

 1970年代に入って、『ポトナム』には、つぎのような論稿を発表した。静枝追悼号の年譜と解題は、荻原欣子さんとの共同作業であった。

・戦時末期における短歌弾圧 1973年6月

・占領期における言論統制  1973年9月

・阿部静枝著作解題・著作年譜 1975年2月(阿部静枝追悼号)

 1980年代に入ると、歌壇時評や作品合評などにもたびたび参加するようになり、2006年来の和田周三、芝谷幸子、安森敏隆代表時代は毎月エッセイを寄稿することもあり、苦しかったときもあったが、現在は、年に数回の時評などを担当、論争のきっかけにもなったりして、執筆の際の緊張は続いている。

 一方、その傍ら同人誌『風景』(醍醐志万子編集発行)に連載の「歌会始と現代短歌」(1983年10月~1988年1月)と合わせて、1988年10月には『短歌と天皇制』(風媒社)を上梓することができた。昭和天皇重病報道で、さまざまな規制がされる中だったが、決して便乗のキワモノでないことを短歌雑誌以外の月刊誌・週刊誌、全国紙・地方紙などの書評で論じてくださったのはありがたいことだった。以来、私のメインテーマの一つとなり、『現代短歌と天皇制(風媒社 2001年)『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 2013年)につなげることができ、「祝歌を寄せたい歌人たち1~4」(1993年9月~12月)、「戦後64年、「歌会始」の現実」(2009年8月)なども収録することができた。

 また、2000年1月より一年間、『図書新聞』に「短歌クロニクル」欄で歌壇時評を担当したことが縁で「インタビュー内野光子氏に聞く<現代短歌と天皇制>」という一面・二面にわたる特集記事を組んでいただいたことも忘れがたい。同じ頃、立教大学の五十嵐暁郎さんの呼びかけで、「天皇制研究会」に参加、遅れた出版ではあったが『象徴天皇の現在』(世織書房 2008年)にも参加できた。研究会では、二次会も含めて、共同通信社在職中の高橋紘さんらの貴重な話が楽しみでもあった。

 なお、『ポトナム』で、阿部静枝の晩年に指導を受けたこともあって、女性歌人への関心もあったからか、阿木津英さんの呼びかけで立ち上がった女性短歌史の研究会に参加、2001年には、阿木津さん、小林とし子さんとの共著『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史1945-1953』(砂小屋書房)でも、私は、阿部静枝らに、言及している。なお、この書は、石原都政最後の東京女性財団の出版助成を受けることができた。そして、つぎのような論稿も、今回の記念号の阿部静枝稿につなげることができた。

・阿部静枝―敗戦前後の軌跡 1997年6月

・内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか(上・下)2006年1月~2月

・戦時下の女性雑誌における「短歌欄」と歌人たち―『新女苑』を中心に 2017年4月(創刊95周年記念号)             

・女性歌人の評価は変わったのか―『短歌研究』『短歌』の数字から見る 2020年4月                       

 そして、あわせて、現在参加している「新・フェミニズム批評の会」での報告を経て、以下の論集に静枝論を寄稿することができた。

・阿部静枝の短歌は何が変わったのか~無産女性運動から翼賛へ(『昭和前期女性文学論』翰林書房 2016年)  

・阿部静枝の戦後~歌集『霜の道』と評論活動をめぐって(『昭和後期女性文学論』 翰林書房 2020年)

 私にとっての『ポトナム』は、生涯の師であり、友であり続けるだろう。

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左『ポトナム』816号(1994年4月)は、「小泉苳三生誕百年記念特集号」で、「小泉苳三著作解題」を寄稿、「小泉苳三資料年表」を相良俊暁さんとの共編で作成している。右『ポトナム』586号(1975年2月)は、前述の「阿部静枝追悼」特集であった。

 

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2022年4月 6日 (水)

1922~2022年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(1)

 1960年、私が入会した短歌会『ポトナム』が、この4月で創刊100年を迎えた。1922年4月、朝鮮の京城で、京城高等女学校教諭の小泉苳三らにより、植民地で生まれた雑誌である。100年といえば、1922年3月3日、部落差別を掲げ、水平社が京都で創立大会を開き、7月15日に非合法下で日本共産党が結成されている。ともに、紆余曲折があって今日に至っている。
 そして、1922年12月30日には、ロシア、南コーカサス、ウクライナ、ベラルーシを統合したソビエト連邦が成立していたのである。1924年レーニンの死後、スターリンが政権に就き、大粛清が実施され、1991 年のソ連崩壊とともにウクライナは独立した。いまのウクライナは、少なくともこの100年の歴史を背負っていることを知る。

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 そんな100年を思いながら、振り返ってみたい。この記念号の締め切りは一年前ほどにさかのぼるが、編集部の皆さんの尽力には計り知れないものがある。私は、文章としては、以下を寄稿している。これは、昨年2021年3月号の『阿部静枝の戦後~歌人、評論家、政治家としての足跡<1>付「阿部静枝著作年表<1945~>及び「阿部静枝関係参考文献一覧」に続くもので、面倒な年表は、協和印刷の方にも工夫をしていただいた。2回分の本文と年表1945-50年は以下の通りである。ただし、草稿をpdf化しているので、本文は縦組み、年表は横組みという雑誌の体裁とは異なる。まだ、1950年までなので、没年の1974年までだいぶ残っている。

・阿部静枝の戦後歌人、評論家、政治家としての足跡<2>付「阿部静枝著作年表<1945~>」及び「阿部静枝関係参考文献一覧」

ダウンロード - sizuenosengohonbun12.pdf

ダウンロード - sizuenenpyo194550.pdf

 

 歌詠みのブログにしては、自分の歌がさっぱり登場しないではないか、とよく言われるのだが、今回は、3か所に発表していることもあって、思い切って載せることにした。ご笑覧いただければありがたい。Img244

 今回、歴代の「白楊賞」受賞者の一人として、新作8首を寄稿した。誌名の『ポトナム』は朝鮮語で、「白楊」を意味するところから、「白楊賞」と名付けられたらしい。また、つぎの「窓という窓」は、記念号のアンソロジーという企画で、新旧問わず10首ということだったので、昨年出版した第4歌集『野にかかる橋』から選んだ旧作である。横組みの6首は、普段通りの4月号詠草稿である。

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風呂敷に『少年朝日年鑑』を携え通学の日々のありしを

結膜炎病みてプールは見学となりし六年の夏の水しぶき

旧友の営む地下喫茶室もうクラス会は最後かもしれぬ

平和通り進みて細き路地に入り旧島田邸「池袋の森」へ

池袋西武デパート店内を堤清二はひとりめぐりき

北口は「西口(北)」に変わりいて事件のありしホテルはどこか

 

下は、今回の記念号のグラビアから、記念号の表紙をコピーしてみた。(続く)

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2021年3月 6日 (土)

『非国民文学論』(田中綾著)の書評を書きました

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     イチジクの根方のスイセンが咲き出しました

 『社会文学』編集部からの依頼で、田中綾さんの新著『非国民文学論』の書評を書きました。金子光晴は、これまで、アンソロジーで読むくらいでしたが、今回、まとめて読む機会となりました。また、丸山才一の『笹まくら』も初めて読むことになりました。知ることのなかったことを知り、少しばかり学んだ気がしています。お気づきの点など、ご教示いただければうれしいです。

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田中綾『非国民文学論』(青弓社 2020年2月)書評     

本書の構成は以下の通りである。

第1部 非国民文学論 序章いのちの回復/第1章〈国民〉を照射する生―ハンセン病療養者/第2章〈幻視〉という生―明石海人/第3章〈漂流〉という生―『詩集三人』と『笹まくら』/終章パラドシカルな〈国民〉
第2部〈歌聖〉と〈女こども〉 第1章明治天皇御製をめぐる一九四〇年前後(昭和十年代)/第2章仕遂げて死なむ―金子文子と石川啄木

  いずれも二〇〇〇年以降十年間における論稿だが、第1部は、出版に際して、加筆・修正をしているという。序章では、北條民雄の小説「いのちの初夜」(一九三六年)を取り上げ、国家からも〈国民〉からも疎外された「ハンセン病療養者が『書く』ことを通して新しいいのちを獲得しえたこと」を評価する。第1章では、ハンセン病療養者の戦時下の短歌作品から「〈国民〉から疎外された環境にありながら、むしろ戦時のもっとも〈国民〉的なまなざし」を読み取る。第2章では、明石海人の歌集『白猫』(一九三九年)の後半「翳」に着目し、身体こそ拘束されながらも、何ものにも強制されない想像力で独自に構築していた作品世界を「〈幻視〉による生」と捉えている。これらの章では、短歌の一首一首を丁寧に読み込み、制約された環境の中で、「生き続ける」ことの意味を探り続けている作者たちに敬意を払うとともにその作品を高く評価する。著者のこれらの論述の根底には、ハンセン病に対する従来の「救癩の歴史」と「糾弾の歴史」という二項対立の構図から脱したいという思いがあり、多様な『生存』の営みの過程を具体的に明らかにした上で、近代日本のハンセン病問題を捉え直すという「新たな枠組み」(広川和花『近代日本のハンセン病問題と地域社会』 大阪大学出版会 二〇一一年)を目指しているからだろう。多様な生存の営みへの照射は重要である。しかし、たとえば、藤野豊による『「いのち」の近代史―「民族浄化」の名のもとに迫害されたハンセン病患者』(かもがわ出版 二〇〇一年)や戦前から国策としての絶対隔離政策、無癩県運動を批判してきた小笠原登医師による「強制隔離」の実態究明をも「糾弾」と捉えかねないところに、私は若干の危惧を覚えた。葬られてきたさまざまな具体的な事実を広く知らしめた役割も忘れてはならない。また、「救癩」の歴史には皇室との深いかかわりがあること、療養所内での文芸活動が「精神的慰安」になるとして政策的に奨励されていたことへのさらなる言及、検証も欲しかった。一九九六年「らい予防法」廃止以降、「らい予防法違憲判決」を経ても続くハンセン病療養者、家族、遺族たちへの差別を目の当たりにすると、一層その思いが募る。
 つぎに、著者は、金子光晴が疎開中の一九四四年一二月から四六年三月に、妻と息子の三人で綴っていた私家版の詩集「三人」(二〇〇六年古書店で発見、二〇〇八年出版、光晴の作品の一部は公表済み)に焦点をあてる。光晴は、妻森三千代、息子乾と家族三人が結束して、息子の二度の召集を病人に仕立てて逃れていた。著者は、徴兵忌避という行動のさなかの詩作に「家族以外どこにもよりどころがない漂流者としての視線」を捉える。一九三七年、光晴が出版した詩集『鮫』は抵抗詩集としての評価が高く、時には自虐的に、あるいは執拗なまでに嗜虐的に歌いあげた作品が多いと私も読んだ。光晴は、太平洋戦争下に雑誌等に発表した作品と発表のあてもなく綴っていた作品を、敗戦後の一九四八年に『落下傘』『蛾』として、一九四九年に『鬼の子の唄』として、一気に出版している。加えて、上記のような経緯で出現した詩集『三人』には、徴兵忌避をした息子を両親が守り抜き、励まし合うという詩作による「交換日記」の趣がある。その中の光晴自身の作「冨士」「戦争」「三点」「床」「おもひでの唄」が詩集『蛾』に収められた。「三人」では、呼び合っていたあだ名を、『蛾』への収録にあたって「子供」「父」「母」と普遍化し、加筆や修正も頻繁になされている。上記五篇の作品も、他の未発表作品と同様、完成させたのは敗戦後とみなすべきだろう。 
   
光晴の作品には、日付があるものとないものが混在し、雑誌への既発表作品を、詩集所収の時点で、日付を操作し(「瞰望」「真珠湾」「洪水」など、『落下傘』所収)、詩句を書き換えたりする。たとえば、『蛾』所収の「冨士」での書き換えや『落下傘』所収の「湾」は初出(『文芸』一九三七年一〇月)の「(略)地平は/音のないいかつち、/砲口は唸りで埋まる。戦はねばならない/必然のために、/勝たねばならない/信念のために」の傍線部が削除されたりする。『定本金子光晴全詩集』(筑摩書房 一九七七年六月)の光晴による「跋」には、若い時の詩に手を入れるなどするのも「しかたのないこととお宥し下さい。それから、詩集に入ってゐたもので意に充たないものは削除して」とあり、彼の作品鑑賞には、相当の考証が必要になろう。
   つぎに取り上げられた丸谷才一の小説「笹まくら」は、戦時下に徴兵拒否を選択した青年の中年に至るまでの〈漂流〉の物語である。本書では、敗戦後における、一市民の暮らしを脅かす「非国民」のレッテルの「連続性」に着目している点に、私も共感した。その「連続性」の由来については、作家も、著者も明確にはしていない。
 第2部の一九四〇年代に「明治天皇御製」の「謹解書」の類が噴出した背景についても、著者とともに考えたかったが、誌面が尽きた。(『社会文学』53号 2021年3月)

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2020年2月10日 (月)

僕の前に道はないのか~アテにならない人たち、高村光太郎を手掛かりに

   地元の9条の会、「憲法9条をまもりたい会」のニュース40号(2020年2月)が出来ました。2006年7月、佐倉市の志津地区の有志14人で発足し、ほそぼそと活動を続けています。ニュースもようやく40号になりました。この間、講演会、映画会、駅頭宣伝、戦跡見学なども重ねてきましたが、もう一つ続けていることがあります。佐倉市内の4つの県立高校の校門前で、登校時のチラシ配布があります。すでに5巡目に入りました。チラシ配布にあたっては事前に高校側に挨拶に出かけ、主旨を説明し了解を得ています。しかし、年々、高校側からの確認や注文が多くなってきているのも事実です。40号の巻頭にはそんな会員の嘆きやつぶやきが語られています。現在の憲法のことを一番知ってもらいたい高校生たちへ、どうしたら私たちの思いが伝わるのか、毎回、チラシの内容は極力身近な問題を、レイアウト、おまけのしおりなどを挟んで工夫しているつもりなのですが、実際のところどうなのでしょうか。

 今回、私は、国語の教科書でもおなじみの高村光太郎のことを、改めて書いてみました。これまでも、昨年来、雑誌『季論21』やこのブログでも、くどいように書いてきました。その要旨たる部分を、寄稿したのが以下の文章です。

***********************************************

僕の前に道はない/僕の後ろに道はできる/ああ、自然よ/父よ・・・

 国語の教科書で、この詩と出会い、声に出して朗読しているときの心地良さがよみがえる人も多いのではないか。高村光太郎の「道程」と題する詩である。 

智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。・・・

   高度経済成長期の公害問題が深刻化する中で、しきりに引用されたこのフレーズは、『智恵子抄』の「あどけない話」であったことを私も後で知った。
 この詩人高村光太郎〈1883~1956〉は、1941年12月8日、太平洋戦争開戦の二日後には、「十二月八日」と題して詩を作り、翌一月号の『婦人朝日』に発表した。

記憶せよ、十二月八日。/この日世界の歴史あらたまる。/アングロ・サクソンの主権、/この日東亜の陸と海とに否定さる。・・・

 また、1945年4月、東京の自宅を空襲で失い、8月15日、疎開先の花巻市郊外で「玉音放送」を聴いた光太郎は「一億の號泣」と題して、8月17日の『朝日新聞』に寄稿している。

綸言一たび出でて一億號泣す。/昭和二十年八月十五日正午、/・・・/玉音(ぎょくいん)の低きとどろきに五體をうたる。/五體わななきとどめあへず。/玉音ひびき終りて又音なし。/この時無聲の號泣國土に起り、/普天の一億ひとしく/究極に向つてひれ伏せるを知る。・・・

 太平洋戦争下、光太郎は、「シンガポール陥落」(1942年2月)、「アッツ島玉砕」(1943年5月)、「米軍の沖縄本島上陸」(1945年4月)との「大本営発表」があれば、即座に、新聞社やNHKの要請に応えた。ラジオは「愛国詩」の朗読を流し、新聞や雑誌は競うように光太郎の詩を載せ、国民の士気をあおり、愛国心を駆り立てた。「婦人」や「少国民」向けの雑誌にもよく登場した。ラジオで最も多く繰り返し放送されたのは、「最低にして最高の道」(『家の光』1940年9月)であったという。

もう止そう。/ちいひさな利欲とちひさなと不平と、/ちひさなぐちとちひさあ怒りと、/さういふうるさいけちなものは、/ああ、きれいにもう止そう。・・・

 また、「今上陛下指したまふところ、/われらよろこびおもむくなり、/あきらけきかな、おおいなるかなけふの賀節(よきひ)」(「ことほぎの詞」1942年2月)、「一切を超えて高きもの、/一切を超えて聖なるもの、/金色の菊花御紋章。」(「海軍魂を詠ず」1943年5月)などのように、神州の国を、天皇を、うたい上げ続け、日本文学報国会における詩歌部会長という要職も務めた。

 ところが、光太郎は、敗戦後も、疎開地の山小屋に留まり、「暗愚小傳」と名付けた20篇の詩を『展望』(1947年7月)に一挙発表すると、これらの作品は、戦時下の自らの活動を反省し、戦争責任を引き受けたとして、その潔い深い「自省」を高く評価された。しかし、山小屋生活といえども、多くの地元の人々や知人や東京の編集者らに支えられての暮らしであった。1946年2月、預金封鎖と新円切り替えがなされ、財産税が光太郎にもふりかかる。東京の弟との手紙で、光太郎の預貯金は5万6000円、亡父高村光雲の家が10万円と査定されたことがわかる。それがどれほどのものか。ちなみに私の父が残していた「国債貯金通帳」によれば1945年4月の空襲直後疎開先の銀行で便宜代払いを受けたのが200円と136円で残高ゼロとなっていた。その一方で、新しい「国債貯金通帳」と「報国貯金通帳」にも10円、2円の単位で貯金していた。父は、空襲で借家の店を失うまで、池袋で薬屋を営み、一家5人を支えていた。光太郎の山小屋生活といっても、私たちの疎開先や焼け跡のバラックでの暮らしの困難さ、家族を失った者の悲しみを想像できただろうか。 
 光太郎は、やがて、東京に戻り、彫刻を再開、十和田湖畔に立つ「乙女の像」の作成にあたる。その晩年には、つぎのような詩を発表する。唯一の被爆国にあって、1954年「第五福竜丸」の被爆体験、日本学術会議の原子力研究の自主・民主・公開の三原則声明、水爆禁止署名運動などが続く中で、光太郎は、つぎのフレーズで終わる「新しい天の火」(『読売新聞』1955年元旦)を発表した。

新年初頭の雲間にひかる/この原始爆発大火団の万能を捕へよ。/その光いまこのドームに注ぐ。/新しい天の火の如きもの/この議事堂を打て。/清められた新しき力ここにとどろけ。

 また、光太郎最晩年の「生命の大河」(『読売新聞』1956年1月1日)には、つぎのような一連があった。この発表の直前12月16日には原子力基本法など関連三法が成立し、まさに新年一月一日に施行している。発足した原子力委員会の初代委員長が『読売新聞』社主正力松太郎であったのである。

放射能の克服と/放射能の善用とに/科学は万全をかける。/原子力の解放は
やがて人類の一切を変へ/想像しがたい生活図の世紀が来る。

 ときの政府を支え、メデイアへの要請に応え、いとも簡単に「原子力平和利用神話」へとなだれ込んで行く。あの敗戦後の「自省」は何であったのか。この詩人の在りようは、現代の文化人や有識者の作品や発言と決して無縁ではない。引退した保守政治家や退職後の高級官僚がにわかに饒舌になったり、役職や勲章がちらつき、メディアの出番が多くなったと思ったら、いつの間にか発言がトーンダウンしたりする人がなんと多いことか。イチローよ、国民栄誉賞は、もらってくれるな?!

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東北へ~短い旅ながら(4)仙台文学館

 翌日の午前中、仙台文学館へでかけることにしていた。仙台駅西口に広がるデッキは、どこまで続くのか、幾通りにも分かれ、複雑だ。うっかり地上に降りてしまうと、横断ができないで、また、デッキに戻ったりする。バスターミナルの宮城交通②番乗り場から、北根2丁目(文学館前)下車、進行方向に向かって右側、入口への坂を上る。この文学館は、昨年で20周年を迎えた由、初代館長は井上ひさしだったが、現在の館長は、歌人の小池光である。

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台原森林公園の一角にある仙台文学館

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文庫版ほどのリーフレットと入場券

 

  20周年記念特別展「井上ひさしの劇列車Ⅱ」からまわる。井上ひさしの特別展は何度か開催されているらしい。今回は、井上の「評伝劇」と称される宮沢賢治、樋口一葉、太宰治、林芙美子、小林多喜二、魯迅、河竹黙阿弥、吉野作造、チェーホフをテーマにした劇の直筆原稿やメモ、書簡、参考資料などの展示とともに、一作ごとの意図や主人公・登場人物への井上の思いや評価を綴るエッセイからもたどる解説がなされていた。井上が取り上げる対象は、いずれも魅力的な人物には違いない。私自身も、一葉、芙美子、作造など深入りしそうになった人たちである。演劇自体も見ず、脚本自体も読まず、軽々には言えないのだが、今回の展示を見た限り、井上は、劇の主人公、登場人物には、親しみと敬意のまなざしをもって、惚れ込んでしまっている側面がみられた。たとえば多喜二を描いた「虐殺組曲」の特高刑事が多喜二を追っていくうちに感化されていく過程とか、林芙美子の戦前・戦後の 評価などには、「実は懸命に生きた、みんないい人」という楽観的な部分が気になった。

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「虐殺組曲」の解説、右がと二人の特高刑事への思い、左が社会運動にかかわった井上の父と多喜二を重ね合わせていたなど

 

 つぎに、「手を触れないでください」という和紙による壁のトンネルを通って、常設展に進んだ。その冒頭は、館長小池光の短歌が天井からの白い布いっぱいに並べられた展示だった。ここにも井上ひさしと仙台ゆかりの文学者、土井晩翠、島崎藤村、魯迅などのコーナーがある一方、佐伯一麦、恩田陸や伊坂幸太郎などの<平成>の作家たちの大きな写真パネルが目を引く。名前は聞くが、すでに知らない小説の世界である。仙台との縁を教えられる。

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館長小池光へのオマージュが強烈で、短歌講座なども定期的に開催されているらしい。こうした傾向は山梨県立文学館長の三枝昂之の場合も同様で、館長が前面に出る催事というのはいかがなものなのだろう。

 

 つぎの「震災と表現」のコーナーは、数年前、北上市の現代詩歌文学館での東日本大震災のコーナーと比べてのことなのだが、やや物足りなさを覚えたのも確かであるが、多くの震災関係の作品を残している佐藤通雅のパネルに出会って、歌われている背後の現実に思わず祈るような気持ちにさせられるのだった。

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 最後になったが、今回の文学館訪問の目的でもあった、朗読ライブラリーの「阿部静枝」のビデオを見ることになった。連れ合いはカフェで休んでいるという。阿部静枝(1899~1974)つながりの知人Sさんからも聞いていた、たった4分ほどの朗読ビデオだったが、その操作や、ストップをしての写真撮影に手間取った。このビデオは「コム・メディア」制作(朗読黒田弘子)となっていたが、12首ほどの選歌は、静枝の特徴を捉えたもので、なるほどと思わせるところがあった。

 

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生みし子は他人に任せて顔ぬぐひ世に生きゆくは復讐の如し(『霜の道』1950年)

 

 他にもつぎのような作品が朗読されていた。カッコ内は筆者が補記した。

 

・叶はざるねがひひそむ嫉みゆゑ強ひてもひとにさからはんとす(「秋草」1926年)

・憎まんとしてなみだ落つきみをおきなにを頼りてわが生くべしや(同上)

・ひたすらに堪へんと空をみつめゐる眼底いつか熱く濡れつつ(同上)

・ひとは遂にひとりとおもふおちつきをもちてしたしき山河のながめ〈同上)

・濃むらさきを好きなのは誰なりしかなあやめのおもひでひっつにあらず(『霜の道』1950年)

・暗き海の浪迫り寄れ死は想はず生き抜きて世を見かへさんとす(同上)

・せめてわが男の子を生みしありがたさわれに似る女を想ふは苦し(同上)

・忘却の救ひがあれば生きてゐよくちびるに歌のわく日も来なむ(『冬季』1956年)

・東西を分てる橋の切断面ぎざぎざの尖まで取り歩みゆく(『地中』1968年)

・断絶の壁ある下を掘りつらぬき人の想ひを通はせし地中(同上)

・生きものなどよせつけぬ様の星を知り地上のもろもろ更に美し(同上)

 

 仙台駅に戻って、荷物を預けたホテルへの道すがら、利久という店でランチを済ませた。みやげというものをほとんど買っていない。駅構内では、かまぼこ、牛タンの店がしのぎを削っているようだったが・・・。やはり疲れていたのだろう、帰りの新幹線「はやぶさ」では、しばらく眠り込んでしまったようだ。

 

 

 

 

 

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2020年1月16日 (木)

『季論21』46号に寄稿しました高村光太郎についての拙稿が一部閲覧できるようになりました

 昨年10月12日の本ブログでお知らせしましたように、『季論21』(2019年秋号)には、以下を寄稿していました。その一部がネット上で閲覧できるようになりました。「ピックアップ記事」の一つとして、途中までご覧になれます。なお、昨年9月には、当ブログにも「あらためて、高村光太郎を読んでみた1~9」として、以下の拙稿に書ききれなかったことも連載していますので、あわせて、お読みいただければ幸いです。

「「暗愚小傳」は「自省」となり得るのかー中村稔『高村光太郎の戦後』を手掛かりとして

http://www.kiron21.org/pickup.php?112

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季論21


「暗愚小傳」は「自省」となり得るのか

――中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして

内野光子



はじめに

中村稔は、二〇一八年に『髙村光太郎論』(青土社)を出版し、二〇一九年にも同社から『髙村光太郎の戦後』を出版した。新著では髙村光太郎と斎藤茂吉の評価を変えたという。髙村光太郎と斎藤茂吉の愛読者は多く、それぞれに、自認する研究者も数多い中で、二冊の大著によって、一九二七年生まれの著者は、どんなメッセージを届けたかったのだろう。

私は、二〇一九年一月に、『斎藤史《朱天》から《うたのゆくへ》の時代――「歌集」未収録作品から何を読みとるのか』(一葉社)を出版した。そこでは、斎藤史が、一九四三年に出版した歌集『朱天』を生前に自ら編集した『斎藤史全歌集』(大和書房 1977年、1997年)に収録する際に、削除と改作をおこなった点に着目、その背景と実態を分析した。さらに、二・二六事件に連座した父の斎藤瀏、処刑された幼馴染の将校にかかわり、昭和天皇へ募らせていた怨念は、大政翼賛へ、さらに晩年の親天皇へと変貌していく様相を、作品や発言からの検証も試みている。

私としては、斎藤茂吉や斎藤史をはじめ多くの歌人たちが、そして、髙村光太郎も、戦時下に依頼されるままに、あれだけの作品を大量生産して、マス・メデイアに重用されていたにもかかわらず、敗戦後、自ら「歌集」や「詩集」を編集する際に、さまざまな「ことわり」をしつつ、戦時下の作品を積み残した経緯がある。

今回は、まず、新著『髙村光太郎の戦後』の光太郎の部分を中心に、中村の光太郎像を検証したい。なお、私自身の関心から、日本文学報国会における髙村光太郎と戦時下の朗読運動渦中の光太郎にも触れることになるだろう。さらに、拙著『斎藤史《朱天》から《うたのゆくへ》の時代』にかかわり、髙村光太郎に、戦中・戦後の作品の削除や隠蔽はなかったのか、についても言及できればと思う。

蟄居山小屋生活の実態

中村の新著、第一章の冒頭では、光太郎の敗戦後の七年にわたる山小屋での蟄居生活、それにいたる経過がたどられる。一九四五年から山小屋を去る一九五二年一〇月まで、光太郎の日記と書簡などを通じて、その暮らしぶり、人の出で入り、執筆・講演などの活動も記録にとどめ、作者、中村の見解も付せられる。

それにしても、光太郎の日記には、地元の人々や知人、出版関係者たちから届けられた食品などが、一品も漏らさないという勢いで、誰から何をどれほどと克明に記録されている。中村も書くように、光太郎は「礼状の名手であった」のである(本書43頁)。

礼状には、贈り主への感謝の気持ちとどれほど役に立っているかなど率直な心情を吐露する内容が多い。戦前からの著名な詩人から、このような手紙をもらったら、舞い上がる人も多かったのではないか。同時に、日記には、到来もののほかに、自分が食したもの、菜園の種まきや収穫、作付け、施肥などの農作業についてもこと細かく記録にとどめている。「食」へのこだわりは執念にも似て、正岡子規の病床日記を思い起こさせる。

書簡の中で興味深かったのは、東京の椛澤ふみ子との文通の多さと両者の間には屈託のない和やかな雰囲気が漂っている点であった。彼女から日常的に届く新聞のバックナンバーの束など、光太郎にとっては、大事な情報源ではなかったのか。たまに、山小屋を訪ねることもあり、「小生の誕生日を祝つて下さる方は今日あなた位のものです」(1947年3月13日、79頁)とも綴る。なお、余談ながら、中村は、一九四八年五月の訪問の記述を受けて、当時二十代の椛澤と光太郎との関係を、父と娘のような清潔な交際だったように見える、と述べている(124頁)。

敗戦後の光太郎を語る吉本隆明は、上記の「食」への執念は「自分と、自然の整序があれば、その両者がスパークするとき美が成り立つという思想」に基づき、「美意識と生理機構の複合物としての食欲であった」(「戦後期」『吉本隆明全著作集8』勁草書房 1973年、183頁)とも分析しているが、私は、より単純に、光太郎の戦前の暮らしにおける西欧趣向やブランド信仰にも起因する飢餓感と自らの健康・体調への不安からという現実的な背景を思うのだった。

『髙村光太郎の戦後』にみる光太郎の「自省」とは

そうした暮らしの中から、敗戦後初めて刊行された詩集『典型』の冒頭は「雪白く積めり」であった。その静寂な世界は、一見、戦前の饒舌さが後退したかに思えたが、詩の後半に「わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。」「敗れたるもの卻て心平らかにして……」などのフレーズをみると、大げさな身振りは変わっていないとも思った。

「雪白く積めり」

雪白く積めり。/雪林間の路をうづめて平らかなり。 /ふめば膝を沒して更にふかく/その雪うすら日をあび て燐光を發す。(後略)

(「雪白く積めり」1945年12月23日作『展望』1946年3月。『典型』収録)

  中村は、この「雪白く積めり」について、「さすがに高い格調の、精緻な叙景に高村光太郎の資質、非凡さを認めることができるとしても」いったい何を読者に伝えたいのかがわからない失敗作だとも断言している(46~47頁)。

  詩集『典型』に収録の「典型」と題する一篇の冒頭と末尾を記す。みずからの「愚直な」生を振り返るような作品である。中村は、前著の『髙村光太郎論』でも「光太郎の弁解の論理を肯定しないけれどもその思いの切実さを疑わない」としているが、新著ではさらに踏み込んで、最初に「典型」を読んだとき、作者が愚者を演じているようで反感を覚えたが、「弁解が多いにしても、『暗愚小傳』の諸作の結論として虚心にこの詩を読み返して、これが彼の本音だった、と考える。そう考えて読み直すと、深沈として痛切な声調と想念に心を揺すぶられる。この詩は決して貧しい作品ではない。詩人の晩年の代表作にふさわしい感動的な詩である」と絶賛する。さらに「これほど真摯に半生を回顧して、しみじみ私は愚昧の典型だと自省した文学者は他に私は知らない」との評価をする(160~161頁)。

「典型」

今日も愚直な雪がふり/小屋はつんぼのやうに黙りこむ。/小屋にゐるのは一つの典型、/一つの愚劣の典型だ。(中略)

典型を容れる山の小屋、/小屋を埋める愚直な雪、/雪は降らねばならぬやうに降り、/一切をかぶせて降りにふる。

(「典型」1950年2月27日作『改造』1950年4月。『典型』収録)

 しかし、敗戦後、疎開先の花巻から最初に発信された詩は、一九四五年八月一七日の『朝日新聞』に掲載された「一億の號泣」であった。「綸言一たび出でて一億號泣す。/昭和二十年八月十五日正午、/われ岩手花巻町の鎮守/……」で始まり、つぎのような段落がある。これは詩集『典型』に収録されることはなかった。その「序」で、光太郎は「戦時中の詩の延長に過ぎない」作品は省いたとある。こうした作品を指していたのだろう。
「一億の號泣」

(前略)天上はるかに流れ來る/玉音の低きとどろきに五体をうたる。/五体わななきとどめあへず。/玉音ひびき終りて又音なし。/この時無聲の號泣國土に起り、/普天の一億ひとしく/宸極に向つてひれ伏せるを知る。(後略)

(「一億の號泣」1945年8月16日作『朝日新聞』『岩手日報』1945年8月17日)

 

 また、中村が言及する「わが詩をよみて人死に就けり」も光太郎の敗戦後を語るには欠かせない作品であると、私も思う。

「わが詩をよみて人死に就けり」

爆弾は私の内の前後左右に落ちた。

電線に女の大腿がぶらさがつた。

死はいつでもそこにあつた。

死の恐怖から私自身を救ふために

「必死の時」を必死になつて私は書いた。

その詩を戦地の同胞がよんだ。

人はそれをよんで死に立ち向つた。

その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた

潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

 この九行の詩は、制作月日が不明だが、日記の一九四六年五月一一日には、「余の詩をよみて人死に赴けり」を書こうと思う、という記述があるが、この作品も詩集『典型』には収録されなかった。

(以下は本文をお読みください)

 

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2019年12月10日 (火)

忘れてはならない12月8日

記憶せよ、十二月八日。
この日世界の歴史あらたまる。
アングロ・サクソンの主権、
この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは彼らのジャパン、
眇たる東海の國にして
また神の國なる日本(につぽん)なり。
そを治(しろ)しめたまふ明津御神なり。(後略)
―昭和十六年十二月十日―

 「十二月八日」と題する高村光太郎の詩である。初出は、『婦人朝日』1942 年1月号であった。詩集『大いなる日に』(道統社 1942年6月、第二刷3000部、初版1942年4月)に収められているが、「十二月十日」は作詩の月日で、真珠湾攻撃の二日後に作られたことがわかる。

 一昨日12月8日は、「真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦」の日、78年目の日だった。一部のテレビニュースでは、ハワイでの戦没者2400人の追悼式が行われ、生き残りの兵士の参列が数少なくなったと報じていた。日本の新聞では、12月8日の、いわばサイドストーリーのように、「朝日新聞」(12月8日)は「ペリリュー島<最後の生還者>遺言」、『毎日新聞』(12月3日)、『朝日新聞』〈12月8日〉の千葉版では、船橋市の行田の海軍無線電信所の歴史を記した労作「行田無線史」と著者の郷土史家滝口昭二さん(82)の紹介記事が掲載されていた。行田無線電信所から真珠湾攻撃を命じた暗号電文「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」から発信されていたという記事が目についた程度だった。

1971-2 
『読売新聞』(2018年8月7日)より、18年7月撮影の行田無線電信所跡の現在。上の奥の楕円形のグランドは中山競馬場。私たち家族は、名古屋から千葉に転居した時、この円形の電信所跡の左上の扇形部分に建ち並ぶ公務員宿舎に半年ほど暮らしていた、懐かしい場所。
1971-1
1971年当時は無線塔がたっていたらしい (船橋市資料視聴覚センター)

 

 日本でも、太平洋戦争開戦の日は、忘れてはならない大事な日であるはずだ。この日を境に、日本軍はアジア解放のためにと標榜しながら、戦局は拡大し、日本軍の兵士はもちろんアジア各地で多くの犠牲者を出し続けた。各地での敗退が続くなか、政府は、メディアや文化人を総動員して、国民の戦意を高揚、多くの犠牲を強いた。そんな中で、高村光太郎も、従軍作家や従軍画家に先んじるかのように、戦争詩を発表し続けた。

五月二十九日の事

もとより武士(もののふ)のあはれを知らぬ彼らの眼には
ただ日本軍全滅すとのみ映じたのだ。
皇軍二千餘人悉く北洋の孤島に戦死す。
この悲愴の事実に直面して
その神の如き武人の心にわれら哭く(後略)

 光太郎自身の詞書によれば「昭和十八年六月一日作。五月卅日十七時の大本営発表によりのアツツ島守備部隊の全員玉砕を知る。(後略)」とあり、6月3日夜のNHKラジオ放送の特集番組「アツツ島の勇士に感謝し戦争完遂を誓ふ」において、朗読され、後の詩集『記録』I(龍星閣1944年3月初版 10,000部)に収められている。

 すでに1944年から始まっていた東京空襲、1945年3月10日に続く4月13・14日の大規模空襲で、光太郎自身のアトリエも焼失するのだ、その間の4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸した即日4月1日に作った詩を4月2日の『朝日新聞』に発表している。この即応性と器用さが多くのメディアに重用され、政府のプロパガンダに徹したのである。

 さらに、1945年8月15日の敗戦の玉音放送を、疎開先で聞いた光太郎は、8月16日午前中に作り、翌日の『朝日新聞』に「一億の號泣」を発表しているのである。まさに、この早業に脱帽するばかりである。

一億の號泣

綸言一たび出でて一億號泣す。
昭和二十年八月十五日正午、
われ岩手花巻町の鎮守
鳥(と)谷崎(やがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ來(きた)る
玉音(ぎょくいん)の低きとどろきに五體をうたる
五體わななきとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無聲の號泣國土に起り
普天の一億ひとしく
究極に向つてひれ伏せるを知る(後略)

(1945年8月16日作『朝日新聞』『岩手日報』1945年8月17日)

 その後、疎開先から東京に戻ることなく山小屋生活を続け、「暗愚小傳」という20篇の詩作品を発表(『展望』1947年7月)し、「わが詩をよみて人死に就けり」と題する詩を書き、戦時下の活動を「自省」したという。しかし、光太郎の晩年の詩を通読して思うのは、いわゆる新聞の元旦号、雑誌の新年号を飾る「新しい年を祝う」「めでたい」作品が並ぶことだった。そしてそこに散見する「原子力の未来への期待」であったのだ。1955年1月1日『読売新聞』に発表された「新しい天の火」では、つぎのように歌い上げる。

新しい天の火

(前略)
ノアの洪水に生き残つた人間の末よ、
人類は原子力による自滅を脱し、
むしろ原子力による万物生々に向へ。
新年初頭の雲間にひかる
この原始爆発大火団の万能を捕へよ。
その光いまこのドームに注ぐ。
新しい天の火の如きもの
この議事堂を打て。
清められた新しき力ここにとどろけ。

1956年1月1日『読売新聞』に発表された最晩年の作品「生命の大河」には、こんな一連がある。

科学は後退をゆるさない。
科学は危険に突入する。
科学は危険をのりこえる。
放射能の故にうしろを向かない。
放射能の克服と
放射能の善用とに
科学は万全をかける。
原子力の解放は
やがて人類の一切を変へ
想像しがたい生活図の世紀が来る。

 

 この発表の直前12月16日には原子力基本法など関連三法が成立し、まさに新年の1月1日に施行、発足した原子力委員会の初代委員長が読売新聞の正力松太郎であったのである。この間の事情は、当ブログの以下を参照いただけたらと思う。

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(8)晩年の「新しい天の火」
(2019年9月25日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/09/post-1f9939.html

 12月8日から、つい話は飛んでしまったが、高村光太郎の『智恵子抄』と表裏一帯をなす戦争詩を知ることによって、文芸の国家権力からの自立の重要さを知ることにもなるのではないか、の思いに至るのだった。

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