2018年11月24日 (土)

もう一度、見ておきたい展示だったが、今日までだった~「開館70周年記念展示 本の玉手箱」

 調べ物のついでに、立ち寄ったのが、国立国会図書館新館の「開館70周年記念展示 本の玉手箱」という展示だった。もう一度時間をかけてみたいと思って、チラシを見ると、なんと東京での展示は今日1124日(土)までで、1130日からは関西館での開催となっていた。残念。

私が出かけたのは10月の中旬だったか。展示室は閑散としていて、入場者は23人、やはり年配の人が多い。1960年代後半から、たった11年間の在職だったが、めずらしい書籍や資料に出会えたのは、貴重な体験ではあった。浮世絵・錦絵をはじめ憲政資料室の明治の政治家の書簡、高橋由一の絵画だったり、イギリスの稀覯本、内務省のマル秘資料だったり・・・、当時はまだ非公開だった大量の児童図書などには目を瞠ったものである。しかし、今回の展示では、まさに「玉手箱」のように、こんなものが所蔵されていたのだとあらためて知ることにもなった。ほんの一部の紹介のはずなのだが。

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 展示カタログの表紙、右下、下から2段目に並ぶ、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』   (日本少国民文庫、新潮社 1949年)と、正岡子規「絶筆三句」(1902年)の散らし書きは、写しであったが、右から「をととひのへちまの水も取らざりき  糸瓜咲て痰のつまりし佛かな 痰一斗糸瓜の水も間にあはず」と読めた。1902年9月19日未明に亡くなっているので18日の昏睡に入る直前の筆になるらしい(上田三四二解説『病状六尺』岩波文庫)。

Img546展示カタログの裏表紙。中央の鳥の首の大きく曲がった内側にある、ハートが描かれている細長い変形本が、与謝野晶子『みだれ髪』(東京新詩社 1901年)。なんといっても懐かしいのが、鳥のくちばしの上にある、図書カードボックスである。かつての職場では、独自の参考図書のカードを逐次作成し、このカードボックスに収めたていた。一階ホールの分類、著者、書名、件名目録カードを何度も引きに出かけるのが仕事だった。これらのカードをたくみに使って、目的の本をみごとに探し出したり、さまざまな冊子の書誌類を使って、閲覧者が捜す文献を魔法のように見つけ出してくる先輩たちもいた。因みに、首を突き出している大きな鳥は、図書館が所蔵する一番大きな本103×68㎝の"The birds of Amerika"(1985年)の表紙を飾る鳥の図の一部であった。

Img547カタログの13頁、上段は、内務省発禁図書だった小林多喜二『蟹工船』(戦旗社 1929年)であり、下段は、「日本国憲法」が公布された1946年11月3日の官報号外の一部で、内閣総理大臣吉田茂の他、幣原喜重郎、木村篤太郎、金森徳次郎、芦田均、安倍能成らのサインが見える(入江俊郎文書)。



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2018年3月 9日 (金)

自浄能力を失った歌壇か~「腰が引ける」とは

最近の歌壇の事情には疎いが、歌人たちの書く文章を読んでいて、なんとも言い難い焦燥感に駆られてしまうことが多い。あまりにも周囲をおもんぱかった、近頃の言葉でいえば「忖度」に充ち溢れた言葉の応酬を目の当たりするからかもしれない。

 

そういえば、拙い時評や拙著について、いただく私信のなかで、自分などは「腰が引けて」しまうところを踏ん張っていますね、といった感想を寄せてくださる方が幾人かいらした。また、めったに参加することのない短歌関係の会だが、そんなとき、久しぶりに会った方や初対面の方から、脅迫されるようなことはないんですか、とささやかれることもあった。私は、思わず笑い飛ばしてしまうのだが、皆さん、何を恐れているのだろう。 

以下は、『ポトナム』に寄せた時評だが、同じテーマで、3月27日発売

(筑摩書房)の『早稲田文学』春号<金井美恵子>特集にやや長いものを執筆したので、くわしくはぜひそちらも合わせてお読みいただければありがたい。 

なお、きのうの報道で、金井美恵子が『カストロの尻』で2017年度芸術選奨大臣賞受賞を知った。私はいささか動揺したが、受賞にめげずに?従来通りの活動を続けて欲しい。

     ◇

 もう数年前のことになり、歌壇では、忘れかけている人も多いかもしれない。作家の金井美恵子の「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」(『KAWADE道の手帖 深沢七郎』二〇一二年五月)という長い題を持ったエッセイが、痛烈な短歌批判をしているとして、歌壇を騒がしていた。エッセイのタイトルは、歌壇にいささかの関心のある人ならば、「たとへば(君)」が、河野裕子・永田和宏歌人夫妻が、妻の没後刊行された永田の『たとへば君 四十年の恋歌』(文芸春秋 二〇一一年七月)と河野の一首「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」に由来し、「告白」は、岡井隆の自伝『わが告白 コンフェシオン』(新潮社 二〇一二年一二月)を念頭に置いていることがわかる。 

「『風流夢譚』は短歌について書かれた小説である。では、短歌とは・・・」で始まる、金井のエッセイは天皇賛美を繰り返し、歌会始選者から御用掛となった岡井とともに、夫妻で歌会始選者を務め、在任中に病死した河野への挽歌が新聞歌壇に溢れた現象を斬ったのである。彼らを「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」、「短歌という巨大な共同体的言語空間」をなす歌壇のなかに位置づけ、短歌批判を展開している。歌人による反響がかなり見られたのだが、その大方は、真っ向からの反論というわけではなかった。

 

私としては、かねてより、現代短歌が天皇や皇室から自立しないかぎり、文芸の一ジャンルとしては成り立たないと考えているので、金井からの問題提起は、刺激的でもあり、説得力があると思えた。

 

松村正直は、「短歌を作るものは、短歌の世界だけにとどまってはいけない。短歌の魅力や仕組みを多くの人に広めていく必要がある」(「短歌への嫌悪感」『短歌』二〇一二年九月)として、「金井の論考は、何よりもそのことに気づかせてくれた」という。島田修三は、「昨今の現代歌壇に対する洞察としては、かなり正確に中心を射ぬいている」としながら、「金井には短歌を同時代に文学として理解しようとする意思はほとんどなく、とりつく島のない高飛車な狭量に腹立たしさを覚えたりもしたのだった」と書く(「もの哀しさについて」 角川『短歌年鑑』平成25年版 二〇一二年一二月)。沢口芙美は「いつの間にか歌壇内だけの視野狭窄に私たちは陥っているのではないか」として、金井の論考に触発されて「うた全体に亘るきびしい自己批評の目をもたなければならないのではないか」と述べた(「今年の提言―きびしい自己批判の目を」『歌壇』二〇一三年一月)。 

そんな中で、激しい口調で反論したのは、大辻隆弘だった。「金井の文章に底流するのは、文壇のなかに今も根強く残る短歌への蔑視である。それは、現代短歌を<和歌>とみなし、それを天皇制と直結させる偏狭で硬直した戦後左翼的な短歌観に他ならない」とするものだった(「短歌月評:短歌否定論」『毎日新聞』二〇一二年一一月)。現代短歌と天皇制とを直結させる「偏狭で硬直した戦後左翼的な短歌観」など、いまどこを探しても見出せないほど、歌人たちは、ものわかりがよくなって、ウィングを広げに広げてエールを送り合っている。 

金井の他のエッセイや小説を少しでも読めば、発想の自由さと表現の自在さに圧倒されることはあっても、「偏狭」「硬直」などとの批判は、むしろ的外れの感がある。

  真っ向から反論しなかった論者たちも、金井の指摘する具体的な歌壇の現象についてのコメントは避けて、配慮に満ちた、未来志向の模範解答に逃げ込んではいなかったか。(『ポトナム』2018年3月)

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「自浄作用が働かない歌壇―金井美恵子の短歌批判に歌人はどう応えたか」(付関係文献目録)を書いています。

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2017年12月17日 (日)

何年ぶりだろう、日本近代文学館

 国立国会図書館では所蔵していない雑誌を調べに、駒場の近代文学館に出かけた。久しぶりの渋谷であるし、井の頭線である。

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文学館の隣は、旧前田家本邸

二つ目の駒場東大前駅から線路沿いの通りを右に折れて、立派な家が並ぶ住宅街を4・5分歩くと左手に門がある。くぐれば、すぐに旧前田家本邸の門がある。企画展「小説は書き直される―創作のバックヤード」も開催中だが、まずは、資料請求である。利用者は、多い時で、3人ほど。入館料300円、コピーが一枚なんと100円なのだ。これも致し方ないのかなと思いつつ、12時前から閉館の4時半まで過ごした。

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文学館入口、カメラを構えているのは私らしい

 国会図書館の閲覧申し込みは、そのほとんどがパソコンからで、デジタル化資料は、複写申し込みもパソコンからだ。それに比べて、ここでは、対面で申込用紙に記入し、カウンター内の、目の前のコピー機で複写してくれる。多くは、メモで済ませたが、10枚ほどの複写をお願いした。

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残念ながら、つぎの機会にと・・・

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2017年5月17日 (水)

正岡子規について書きました

 今年は子規生誕150年という。『現代短歌』の特集<子規考>に書いたものです。誌上では子規作品の発表年に誤植がありましたので、送稿の原稿を掲載します。先日発売の6月号には、訂正記事が掲載されています。

 

              ◇ ◇ ◇

子規との気ままな出会いから      

 

子規について、私は、中学校の国語教科書においても、作歌を始めてからの文学史・短歌史においても、素通りに近かった。私の関心は、もっぱら現代短歌にあった。ただ、一九六〇年、学生時代に入会した『ポトナム』は、小泉苳三の書誌学的研究の伝統がまだ残っていたし、私の職場が図書館だったこともあって、書誌への関心は深まった。例えば、戦時期の発禁歌集・歌書、占領期のプランゲ文庫内歌集・歌書の目録や『ポトナム』の小泉苳三、阿部静枝らの著作目録の作成を始めたのが1970年代であった。苳三の『近代短歌史(明治篇)』(白楊社、一九五五年。一九六九年再版)では、近代短歌史の時代区分や子規の役割をめぐる考え方に違いがあることを知った(拙著「小泉苳三と『近代短歌史・明治篇』」『ポトナム』一九八四年八月)。

 

退職後、マス・メディア史を少し学ぶ時期があって、明治期の新聞史において、藩閥政府を批判する陸羯南の『日本』を根拠地とする、ジャーナリスト・俳人・歌人としての正岡子規に出会う。そこで、私が何よりも興味深く思ったのは、病身ながら従軍を思い立ち、種々の曲折を経て、実行したことであった。同僚や『国民新聞』の徳富蘇峰、国木田独歩の従軍記事に刺激されたからだろう。一九八五年三月三日広島に向かい、四月一〇日宇品港を発つが、日清戦争はすでに休戦、船上で下関条約批准を知る。日記には「五月十日 講和成り万事休す」とまで記し、五月一七日帰国船上で喀血するという顛末であった。子規の従軍日記は、愛国的というよりは、軍隊内の差別に激しく抗議する一方、戦後の大陸の山河や小動物、村人の営み、日本兵や記者たちの日常を克明に綴るものであった(拙著「子規の従軍」『運河』199712月)。

 1894年: 
生きて帰れ露の命と言ひながら(従軍の人を送る)
日の旗や淋しき村の菊の垣(天長節)

1895年: 

戦ひのあとに少き燕かな(金洲 燕) 

君が代は足も腕も接木かな(予備病院 接木) 

行かばわれ筆の花散る処まで(従軍の時) 

なき人のむくろを隠せ春の草(金洲城外 春草)

  当時の私の子規認識はここまでで、その後、『正岡子規、従軍す』(末延芳晴 平凡社 2011年)を読み、子規の従軍の目的や背景について新たな示唆を得た。子規は「なぜ、従軍したのか」について、戦争を国と国との喧嘩とみなし、正義による制裁をすべく主体的に参加する意欲と、天皇を国家の中心的頂点に位置づけ、戦争翼賛・植民地容認への過程をたどることによって解明し(304308頁)、「国家と国民は、共同の敵を打ち倒し、祖国の危機を救うという意識と使命感の共同性」を希求した結果だとする(318頁)。 

子規は、八〇句ほどの従軍俳句を詠んだが、同時に、一七もの漢詩を残した。従軍という過酷な世界の印象やイメージ、感慨や情念を、俳句ではストレートに表現できない限界を感じたのではないかとする(218219頁)。さらに、従軍俳句のベースには漢詩があったとし、俳句との相関関係を具体的に示す。「なき人のむくろを隠せ春の草」「戦のあとにすくなき燕かな」の原イメージは、漢詩「三崎山」の「枯骨に春草生じ」、「金州城外」の「乱後の亡民 求むべからず/杏花の空屋に 燕児愁ふ/遼陽の四月 草猶短く/行人の為に 髑髏を掩はず」にあったとする(229263頁)。子規の漢詩や新体詩には、「敵を斬って斬り払え」といった過激で物騒な文言が並び、アジア民族への蔑視をあらわにする。こうした傾向は子規に限らず、子規の時代に限らず、本来ならば、国家の方向を質してゆくべき多くの知識人、文学者、ジャーナリストという市民社会のリーダーたちの陥穽であったのかもしれない。 

 また、品田悦一『万葉集の発明』(新曜社 2001年)に接したときは、日本の近代化の過程で萬葉集は<発明>されたとするなか、萬葉集が時代を超えて「国民歌集」となってゆく経緯を教えられた。品田の書誌的な分析の起点は、小泉の『近代短歌史(明治篇)』の萬葉集再評価の系譜であり、さらには子規による萬葉集評価にあったのではないか。  

その後、ふたたび子規に出会ったのは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』であり、それを原作とするNHKのテレビドラマであった。その子規像は、原作とも異なり、史実とも異なるフィクションに戸惑ったのであった。

  そして今、年を経て、病床記たる『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病牀六尺』などを読んで思うのは、子規の「終活」の見事さであり、介護を担った母と妹、律の存在であった。(『現代短歌』2017年5月)  

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2017年3月15日 (水)

今年の「建国記念日」は、甲府へ、石橋湛山記念館、山梨県立文学館と美術館と(2)

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文学館でも時間が足りない

 しっかりと時間もとって、ゆっくり見学するつもりであった。最初に入った文学館ではボランティアの説明の申し出があった。常設展の深沢七郎コーナーで、夫が「笛吹川論争って何ですか」と質問をしたところ、別の人に交代した。彼女は、熱心なあまりついに大きな声になってしまったのか、係員が飛んでくることもあった。途中で、2代目紅野敏郎館長の功績を讃えていたので、いまの三枝館長はどうですか、と思わず尋ねると「天皇家にも出入りしていて、近寄りがたいのですが、でも気さくな方ですよ、著書にも気軽にサインしてくれました」とのこと。

深沢七郎の「風流夢譚」が引き起こした出来事をどのように、説明・展示がなされているかが知りたかった。常設展示のカタログはないということであった。2011年の企画展「深沢七郎の文学<楢山節考>ギターの調べとともに」というガイドブックでは、「笛吹川論争」も「風流夢譚」もつぎのような説明であった。戦前のギタリストとして活動、「楢山節考」以後の小説家としての活動、「風流夢譚」以降のいわば身を隠すような暮らし、日本には本当に表現の自由を支えるベースがなかったことを表す一連の出来事、その後の執筆の傍ら農場や市井での暮らしに、ほっとする一面もあった。

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  なお、このハンドブックから、ハンセン病の医師、『小島の春』の小川正子の生家が春日居(現笛吹市)にあり、生家の近くには資料室や歌碑が何基かあるということをも知った。彼女は、光田健輔弟子であったが、1943年にっは結核で没している。光田は戦後もハンセン病患者の強制隔離を主張して、ハンセン病史に大きな汚点を残している。皇室とハンセン病のことを調べ、沖縄愛楽園を訪ね、ハンセン病のことを少しばかり知っただけに、今度は、訪ねたいと思った。

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 常設展の中では、飯田蛇笏・龍太、山崎方代などもゆっくり見たかったのだが、美術館のロビーコンサートもあるということで、だいぶ端折ってしまったのが残念だった。「新収蔵品展―直筆に見る作家のリアル」も開催されていて、ゆかりのある文学者の手紙や短冊が多かったなかで、新宿ハモニカ横丁“伝説の”文壇バー「みちくさ」関係の出品が多く、戦後まもないの文士たちの一面が見えてきて、興味深いものがあった。また、甲州市出身という竹内勇太郎の「赤胴鈴之助」や「三匹の侍」などの台本もかつてを思い出させる品々であった。

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文學館の窓から美術館と甲斐駒ケ岳を望む

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美術館入り口、企画展大きな看板

美術館へ 

美術館のレストランで昼食をとり、見学し始めたのだが、思いのほか時間がかかり、甲府の乗車予定を大幅に繰り下げた。ミレー館のミレーはやはり心落ち着くコーナーである。私は、バルビゾン派と言われる画家たちが描く、さまざまな「空」に引き込まれてしまう。ミレーの「空を見上げる羊飼いの少女」、トロワイヨンの「近づく嵐」の暗雲が迫るもと牛と牛を追う親子ののどかさ、テオドール・ルソーのフォンテンブローの森の空、ドービニーのオワーズ河の朝焼けの河面と空・・・。クールベは、その生き方も含めて、興味をそそられる画家の一人だが、ここでの「嵐の海」の印象はむしろ“激しさ”は感じられなかった。何年前か、オルセー美術館の入り口に陣取っていたクールベの「世界の起源」に衝撃を受けたことを思い出す。

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ミレー「空を見上げる羊飼いの少女」。リーフレット下段左がコロー「大農園」
右がルソー「フォンテンブローの森のはずれ」

 企画展の「没後100年野口小蘋」、野口小蘋(18471917)の名前は初めて聞いた。明治の女性南画家として、著名とのことであった。幼少より、四条派の絵画などを学んでいたが、父亡きあと19歳のとき、すでに絵を描くことを生業としており、上京後は、官命により皇后陛下御寝殿に草花図を八枚を描き、皇室にかかわる仕事が増し、華族女学校の嘱託教師も務めている。1907年には、女性で初の帝室技芸員に任命され、宮廷では絵画や装飾、調度品なども手掛け、優雅で、こまやかな作品を残す。その技法も確かな写生力がベースにあり、展示の鉛筆書きのスケッチや草花、昆虫などの写生帖には、説得力があった。

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「写生帖」より

 一泊の旅で、見残しが悔やまれる旅でもあったが、元気でありさえすれば、また出かけられると思うことにした。帰途の車中、長い笹子トンネルを通過するとき、昨年の小学校のクラス会で、担任のO先生から聞いた話を思い出していた。小学5年の遠足は昇仙峡だったという話で盛り上がったとき、先生は「トンネルに差し掛かると、あなたがね、このトンネルの長さは何メートルか、しきりに尋ねて来るんだよ」と話された。そういえば、小学校の高学年になったころ、私は、毎日、厚い『少年朝日年鑑』を風呂敷に包んで通学していたことを思い出していた。あまり夢のない「愛読書」だったわけである。作文は大嫌いだったが、壁新聞や夏休みの課題で模造紙に図表や年表を書いたりするのが好きだったなあ。そんなことを思い出していると、いつの間にか眠ってしまったようだった。

 帰宅後、「笹子トンネル」を調べてみると、このトンネルは、新旧2本あり、旧トンネルは 1902年に開通し、全長 4656m、下り線に使用され、上り線の新トンネルは1966年開通、全長 4670m、であることが分かった。遠足時には、まだ旧トンネル一本の時代だった。

 

 

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2016年11月 6日 (日)

『昭和前期女性文学論』(新・フェミニズム批評の会編 2016年10月)に寄稿しました

 すでに二年ほど前に提出した「阿部静枝の短歌はどう変わったか―無産女性運動から翼賛へ」と題する拙稿が、上記論文集に収録され、ようやく活字になりました。執筆者は、コラムを入れると、総勢30人を超え、511頁の大冊になりました。カバーの一部と参考までに出版案内のチラシを載せました。
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出版案内チラシ
 
 「新・フェミニズム批評の会」って?
 1991年に発足、「フェミニズム/ジェンダー批評を取り入れて文学作品の再評価や発掘をはかると同時に、これまで女性作家やその作品を正当に評価してこなかった日本の文学史の書き換えを目指し」(本書「はしがき」)、毎月一回の研究会を開き、これまでも『明治女性文学論』(2007年)『大正女性文学論』(2010年、ともに翰󠄀林書房)を刊行し、このシリーズ第三弾にあたります。他に『樋口一葉を読み直す』『『青鞜』を読む』も刊行していす。直近の 『<311フクシマ>以後のフェミニズム』(御茶の水書房 2012年7月)に、私は「311はニュースを変えたか~NHK総合テレビ<ニュース7>を中心に」を寄稿しています。
 
「阿部静枝」って?
 決してポピュラーな歌人ではありませんが、大正時代に創刊の短歌結社『ポトナム』の指導者の一人で、私が学生時代、短歌に関心を持つきっかけにもなった「阿部静枝」(18991974年)は、私の生家にも近い池袋に住まい、ながらく豊島区議会議員を務めていました。毎月の「東京ポトナム」の歌会では、きびしくも、必ず褒める一か所を見い出してくれる師でもありました。
 阿部静枝については、これまで、断片的にいくつか書いてきましたが、今回は、阿部温知という無産政党政治家との結婚を機に、短歌のテーマや表現に広がりを見せ、その社会的活動も活発となりながら、夫の急逝を経、無産政党終息への過程でその知見と弁舌は、政府、軍、多様なメディアにより重用されていきます。この時代の静枝に焦点をあてました。近著『天皇の短歌は何を語るのか』に収録した「戦時下の阿部静枝~内閣情報局資料を中心に」は、発見以後、あまり利用されることががなかった内閣情報局の内部資料により、当時の女性作家や評論家がいかにマークされ、利用されようとしていたかを考えましたが、それと対をなすものです。
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2016年7月28日 (木)

『ユリイカ』8月号、<特集・新しい短歌、ここにあります>に寄稿しました。

 私は、つぎの題で書いています。

◇三十一文字のポエティック

タブーのない短歌の世界を―「歌会始」を通して考える

以下の目次を見ると、拙稿は、場違い?アウェー?の感を免れませんが、いろいろ頁を繰っていると、思いがけない”歌人”にも出会えますし、これから短歌を始めたい人も、短歌を詠み始めて久しい人も、たかが短歌と思っている人も、新しい発見があるかもしれません。

目次は以下をご覧ください。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=2962

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2016年5月22日 (日)

白蓮年譜の空白~『塹壕の砂文字』献呈先から探る〜

(3月20日の本ブログ記事「〈短歌サロン九条〉(憲法九条を守る歌人の会)“柳原白蓮を語る”に参加しました ~「評伝」におけるオマージュについて」でも触れていましたが、『日本古書通信』に寄稿の「白蓮年譜の空白」を再録します。

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白蓮年譜の空白~『塹壕の砂文字』献呈先から探る〜

NHKの朝ドラ「花子とアン」で村岡花子と柳原白蓮をモデルとした人物の描き方が、あまりにも史実とかけ離れ、ひとり歩きしているのを知って、ブログで異議を唱えていた。そんな折、櫻本富雄氏から、文庫大の宮崎燁子(柳原白蓮)編『支那事変歌集 塹壕の砂文字』(協和書院 一九三八年九月)を頂いた。表題紙(遊び紙)に「昭和十三年十月 白蓮」のサインがあり、左上には「贈呈 松本恒子様」とある。その「松本恒子」が気にかかる旨の添え書きも一緒だった。

とりあえず、短歌史や女性史などの辞典や年表類を調べ、ネット検索もしてみたが、「松本恒子」のことは分からなかった。

二〇一五年一一月、東京池袋の西武で「愛に生きた歌人・柳原白蓮の生涯展」が開催された。早速出掛けたが、白蓮の出自、宮崎龍介との「出奔」前後の経緯や往復書簡、敗戦直前の長男の戦死の悲嘆からのめり込む平和運動などに焦点があてられていて、日中戦争下の展示や記述は極端に少なかった。

「生涯展」にはなかった白蓮の『支那事変歌集 塹壕の砂文字』とは、「あとがき」によれば、「東洋平和、亜細亜民族の福利」を目指し、前線と銃後の「双方を結びつける魂と魂の親交を願つて」編集されたアンソロジーで、募集した短歌と新聞歌壇などの作品を収録し、白蓮自身もつぎのような短歌十首を寄せている。このアンソロジーは前年一九三七年の日中全面戦争突入を受けて刊行された読売新聞社編『支那事変歌集』(三省堂)や大日本歌人協会編『支那事変歌集戦地篇』(改造社)(ともに一九三八年一二月)に先駆けるものであった。

・旗ふるよあれは誰が夫たれが子ぞ命をわすれ出征つますらを

・やがてきく東洋平和の鐘の音に君がいさをもなりひゞけとぞ

献呈された「松本恒子」がやはり気になり出し、ネット検索を再開すると、意外なことが浮上してきた。一つは「山ちゃん1952」というブログで、内務省警保局の資料に「生長の家現勢一覧表」として、総裁谷口雅春以下役職者の名前が並ぶなか、「婦人部長 松本恒子」の記載もあることが分かった。さらに、生長の家婦人部の雑誌『白鳩』創刊号(一九三六年三月)復刻版を知り、彼女は「白鳩会の生ひ立ち」「白鳩会の使命」を執筆、『生長の家三拾年史』はじめ『同四拾年史』、『同五十年史』にも登場し、生長の家初代の婦人部長、白鳩会初代会長で一九四四年まで務めていたことを確かめた。

そこで、手もとの白蓮の主な伝記(注1)や思想的な系譜をたどった文献(注2)などにもあたるが、「生長の家」への言及は見当たらなかった。さらに、白蓮自身が宗教について綴る『大法輪』『宗教公論』『心霊研究』などの文章も読んでみたが、その片鱗も伺えなかった。

国立国会図書館OPACで<生長の家/柳原白蓮>を検索、ヒットは「『白鳩』(一〇九号)」の一件であった。ようやくたどり着けるかと思ったが、白蓮は、読者歌壇「生活の歌」の選者だった。その後、白蓮の選は見えないが、エッセイの寄稿は確認できた。『白鳩』の読者歌壇は、欄名・選者を変え、一時中断もあったが、白鳩会三代目の会長でもある歌人日比野友子が永らく務め、一九五八年からは中河幹子が引き継いでいる(ちなみに二〇一二年七月からの選者は小島ゆかり)。

松本恒子と白蓮の直接の接点は、まだ見出せないが、生長の家の幹部と『白鳩』歌壇選者の白蓮との親交は推測できる。生長の家は、大本教の出口王仁三郎の側近だった谷口雅春が、一九二一年第一次大本教事件を契機に大本教を離れ、一九三〇年に開いた神仏混淆の新興宗教である。病苦や貧困の解決を説き、天皇信仰・大陸進出・聖戦完遂を推進していた。

ここで思い起こすのは、白蓮が宮崎龍介のもとに「出奔」した事件後、身をひそめていた住まいが、出口王仁三郎紹介による大本教信者中野岩太の京都府綾部の別荘であったこと、関東大震災後の龍介・白蓮の転居先も、東京の中野家の離れだったことだ。中野岩太は、王仁三郎のもとを離れ、浅野和三郎が立ち上げた心霊科学研究会のメンバーとなった人物である。大本教と白蓮の関係は確かだが、そこを離れた谷口雅春との関係は、不明である。

一九四〇年代に入って、白蓮は、『婦人倶楽部』<靖国の英霊に捧げまつる>特集(一九四〇年一〇月)に、読者歌壇の選者として、今井邦子、中河幹子らとともに、つぎのような歌を寄せている。

・征きてみ楯死にて護国の神となる男の中の男とぞおもふ

また、長谷川時雨を中心に相寄った女性作家たちが銃後支援をめざした「輝く会」主催の九段対面の日、遺児の日の白扇揮毫に参加、機関誌『輝ク』には、つぎの二首が見られ、佐佐木信綱編『新日本頌』(八雲書林 一九四二年一一月)には自選十六首を寄せている。

・天が下やがて治まり日の出ゆ東亜の空によき春来れ(九段対面の日)(一九四〇年四月)

・やがて鳴る東洋平和のかねの音に君がいさをもなりひびけとぞ(遺児の日)(一九四一年四月)

・大君のみことのまゝぞ生も死も我のものならずいざ子どもらよ(『新日本頌』)

『日本短歌』(一九四四年二月)の<皇軍将士におくる歌>女性歌人特集で、白蓮は「吾子は召されて」と題して寄稿、わが子に及んだ出征という事実の前に、気持ちは動揺したと思うが、つぎのような「祝出征」の作品が八首並ぶ。さらに、「一片の雲は南に急ぐなりけふのいくさの神集ひかも」などを加え、『皇道世界』(一九四四年二月)にも発表した。これらは、白蓮主宰の『ことたま』(同年一月)に発表済みの作品とも重複する。

・国をあげて極まるときし召されたり親をも家をも忘れて征けや

・日の丸の御旗を肩にかけて征くあれが我子よと見てたもれ人

・借りたるをかへすが如く有難く吾子をたたせて心すがしき 

 こうした作品群がまったくなかったように、後の作家たちは、昭和初期の白蓮事件から一挙に戦後に飛び、平和運動家になった白蓮を賛美する。歌人たちも、白蓮の日中戦争下の短歌を語ろうとしない。各種の年譜においても、日中戦争下の記述は白紙に近く(注1②③⑤⑥)、上記の『塹壕の砂文字』も登場しない。しかし、菅(注2②)は、このアンソロジーに寄せた白蓮の十首と小説『民族のともしび』(一九四三年 奥川書房)に着目、素朴な母子の愛情が国家によってどのように母性ファシズムへと変貌し、戦時下の人々を支配したのかを分析している。秋山(注2③)は、定義が不明なまま、「公の歌」と「私の歌」と称し、『塹壕の砂文字』の作品は「公の歌」とし、出征するわが子を見送る一連には両者が混在していると捉える。この二人の評者も、その他の日中戦争下の夥しい数の作品には触れない。

 今回、一冊のアンソロジーの献本先から、日中戦争下、積極的に戦争協力していた生長の家と白蓮の親密性、種々のメディアに発表した作品を読み込み、読者歌壇の選者としての足跡をたどり、まず、伝記や年譜の空白を埋めた上での柳原白蓮の検証や評価の必要性を痛感した。とともに、一冊の本が私の手元に届くまでの七八年間の道のりを思うと古書界の深さ、ものを書くという表現者の覚悟の重さを思うのであった。

1 ①宮崎龍介:柳原白蓮との半世紀 文芸春秋 一九六七年六月 ②永畑道子『恋の華・白蓮事件』 新評論 一九八二年一一月 ③野々宮三枝:柳原白蓮略年譜 短歌 19923月 ④林真理子『白蓮れんれん』 中央公論新社 一九九八年一〇月 ⑤馬場あき子ほか『流転の歌人・柳原白蓮』 NHK出版 二〇一四年八月 ⑥宮崎蕗苳監修『愛に生きた歌人・柳原白蓮』 河出書房新社 二〇一五年一一月

2 ①水野昌雄:白蓮―その思想遍歴 短歌 一九九二年三月 ②菅聡子:柳原白蓮の<昭和> お茶ノ水女子大学人文科学研究5 二〇〇九年三月 ③秋山佐和子:私の歌、公の歌― 柳原白蓮と戦争 短歌研究 二〇〇九年一一月 ④中西洋子:柳原白蓮における歌の変容と到達 目白大学人文学研究8 二〇一二年二月      (『日本古書通信』20164月)

 

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2016年5月17日 (火)

「平和の俳句・老陛下平和を願い幾旅路」(『東京新聞』2016年4月29日)

  やや旧聞に属するが、連休中の新聞は、旅行中だったり、帰宅後高熱に見舞われたりして、しばらく読めなかった。まとめて読んでいて驚いたのである。  冒頭の俳句は、東京新聞が昨年から戦後70年を記念して広く募集している「平和の俳句」企画の一環で、昭和の日に発表されたものだった。作者は74歳とある。いとうせいこうと金子兜太が選句、毎日、一面に一句づつ連載されている。ときどき、編集部員の選句などの特集をやっていて、興味深く読んでいた。ところが、この日の金子兜太の選評に驚いた。「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。」とあったのだ。

    しかしである。この句を選び、上記のような選評を寄せた金子兜太(1919~)といえば、直近では「アベ政治を許さない」とのプラカードを揮毫した俳人である。この違和感は何だろうか。 もっとも、少し、さかのぼれば、日本銀行を定年まで勤め、句作に励み、俳句関係の賞を総なめにし、1988年紫綬褒章、1996年勲四等旭日章、2003年日本芸術院賞、2008年文化功労者を受章、残すは文化勲章くらいと思われる”順調な“コースを歩んできた俳人と言えよう。さらにさかのぼれば、1941年から『寒雷』に投句、加藤楸邨に師事、敗戦後、文芸上の「社会性」が問われると「社会性は態度の問題である。―社会性があるという場合、自分を社会的関連のなかで考え、解決しようという『社会的な姿勢』が意識的にとられている態度を指している」(「俳句と社会性」『風』1954年11月)と表明、方法を模索、前衛俳句の旗手として活躍」(松井利彦編『俳句辞典近代』桜楓社1977年11月126頁)した俳人だった。「俳句造型論」を掲げ、社会性俳句を経て、更に難解性を増し、主体の尊重から季語を持たない一行詩の性格を強めたが、その後は伝統への回帰を志向していると、その辞典にはあった。1962年『海程』を創刊、後代表となり、1987年からは「朝日俳壇」の選者を務め、今日に至っている。俳人だった父を持つ出自といい、歌壇でいえば岡井隆のコースにも似ているな、と思った。さらにさかのぼれば、1943年、東京帝大経済学部を繰り上げ卒業して、日本銀行に入り、海軍経理学校を経て海軍主計中尉として、トラック島に着任、飢えのため多くの部下を失って、捕虜となり復員・復職している。戦地を去る日を「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置いて去る」と詠んでいる。過酷な戦地体験が、後の句作に大きな影響をえていると、本人もいろいろなところで述べている。

    金子兜太に限らず、近年の天皇夫妻の被災地訪問や戦没や慰霊の旅や「おことば」についてメディアで発言するとき、突然、最高級の敬語を使ったり、その「平和を願う」内容を称揚したり、その労をねぎらう「識者」や「文化人」が増えてきている。「歌会始」の傘のもとにある歌壇人はじめ、保守政治家・論者・政治団体ならいざ知らず、リベラルや民主主義を標榜している人々の中にも、目立つようになった(文・矢部宏治、写真・須田慎太郎『戦争をしない国―明仁天皇メッセージ』 小学館2015年7月など)。また、これまでの「党是」により出席を拒んできた日本共産党が天皇の出席する国会開会式に出席し、歌会始の選者を赤旗歌壇の選者に据えるなど、天皇への傾斜や親密性をあらわに表明してはばからない。その理由が実に粗雑極まりないのである(「ことしのクリスマス・イブは(2)(3)~なんといっても、サプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった!(その1・2)」2015年12月28日。「ことしのクリスマス・イブは(4)~歌会始選者の今野寿美が赤旗「歌壇」選者に」2015年12月29日参照。http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/index.html   )。

  憲法上の「象徴天皇制」のもとですら、その法的根拠が曖昧な天皇や皇族の行為をこのまま見過ごしてしまってよいのかとも思う。いまの政治が余りにも反動的だからと言って、「天皇」にすがるような、寄りかかるような言動は、慎まなければならない(「戦後70年 二つの言説は何を語るのか」 2016年1月11日http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/01/70-6a1c.html)。 天皇夫妻は、今月の19日にも日帰りで熊本の被災地を訪問する予定という。被災住民の住居確保、瓦礫処理がすすまないところも多く、天皇夫妻を迎える準備や警備についても十分想像ができるなか、いつも思うのは、マス・メディアは好んで、訪問先の人々の感謝の言葉や前向きな声を拾おうとするけれど、具体的にはどんな成果が期待できるのだろうか。  結論から言えば、現政府の対応のまずさや遅れを、精神的に少しでも補完し、緩和する役目しか果たしていないような気がしてならない。天皇夫妻の、その個人的な誠意とは別に、結果的に現政府を利するという政治目的のために利用されてはいないのか。そうした懸念を拭い去れないでいる。皇室、天皇への傾斜や親密性の拠って来るところは何なのか、日本にとっても、私にとっても大きな課題である。  

    「日の丸・君が代」裁判の教師たちの弁護人の一人である澤藤統一郎弁護士のブログで、いち早く、くだんの「平和の俳句」に触れている記事を後から知った。あわせて、お読みいただければと思う (「昭和の日」の紙面に、「いま読む日本国憲法」と「天皇ご夫妻に頭が下がる」の記事「澤藤統一郎の憲法日記」2016年4月29日http://article9.jp/wordpress/?p=6807 )。

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2016年 4月29日『東京新聞』一面

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2015年11月16日 (月)

「愛に生きた歌人・柳原白蓮の生涯展」へ

 池袋の実家に出かけるついでに、西武別館ギャラリーで開催中(~1116日まで)の表記「白蓮展」に出かけた。まさに、予想通り、高齢の女性たちが人垣を作っていた。歌人白蓮に関心がある人たちというよりテレビ「花子とアン」のファン層が多かったのではないか。

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 展示会への違和感はどこから

カタログや出品資料目録もないので、メモを取ろうとペンと手帳を取り出すと、係員が飛んできて「ペンはいけません」と制止する。「すみません、鉛筆を貸してもらえますか」とお願いすると「ご用意はいたしておりません。メモすることがいけないことになっています」「なぜですか、少しメモを取りたいのですが」「申し訳ありません、そういうことになっております」とのこと。仕方がないので、ロッカーまで戻って、バッグのポケットから鉛筆を探して持ち出した。あとは、係員の目を気にしながら、最小限度のメモを走り書きするしかなかった。なぜ? 写真がイケないというのは、理解できないことではない。しかし、メモ自体がイケないとは!

 戦時下の白蓮は

会場は、チラシにあるように、十四の章に分かれていた。やはり私が気になるのは、戦時下の白蓮の活動をどう伝えるかであった。これも予想にたがわず、空白なのであった。つまり、「第十章 歌人柳原白蓮」「第十一章 平和運動へ」「第十二章 中国との交流」「十三章 晩年 安らかな暮らし」という流れだったので、戦時中にあたる章を設けていなかった。第十一章に、「香織の戦死、平和運動へ」との解説があり、学徒出陣で出征中の長男が、敗戦の4日前、鹿児島空襲で亡くなった衝撃から立ち直って翌年1946年には「悲母の会」を立ち上げ、平和運動に参加していく経過がたどられる。そして「十二章」は、戦前からの宮崎龍介とその父との関係から、戦前・戦後を通した、蒋介石や孫文、毛沢東らとの交流が多くの写真と共に語られていたが、「十二章」の冒頭の解説には「戦局悪化に伴い、宮崎家は、中国との懸け橋になるべくギリギリの活動を行ったが・・・」といった趣旨のことが書かれているのみだった。宮崎龍介の無産政党運動の中での位置づけも不明確なままだった。龍介が、近衛文麿の蒋介石への「密使」として送られようとした「密使事件」として言及し、白蓮ともども「反戦」思想の持ち主のような捉え方が強調されていた。

戦時下の白蓮の活動については、当ブログの以下を参照されたい。

◇ これでいいのか、花子と白蓮の戦前・戦後(4)「花子とアン」が終わって白蓮の戦前戦後を振り返る(2014年10月)

  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/10/post-2de4.html  

 私には、一つの宿題があった。「花子とアン」放送中、上記ブログを書いている折、櫻本富雄さんから柳原白蓮選によるアンソロジー『支那事変歌集 塹壕の砂文字』(協和書院 19389月)を送りいただいていた。自筆と思われる贈呈先の名前と白蓮の署名と日付が書かれているものだった。その献本先の氏名に心当たりがないかとのことでもあったので、とりあえず、女性史や女性文学史、歌人関係の辞典や書物を調べてみたが、不明だった。もしかしたらとも思ったが、展示にかかるものからは分からなかった。あらためて、再び家でネット検索していると、「生長の家」の幹部であるらしいことが分かった。

そのアンソロジーは、白蓮の「あとがき」によれば「前線にあられる方々と、銃後の留守を預かる私共と、双方を結びつける魂と魂との親交を願って、せめてお互ひに励ましあひ」とあり、白蓮身辺の歌集とともに、新聞歌壇などの作品にも対象を広げたとある。白蓮自身も巻末に、つぎのような10首を寄せている。

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売店で、展示会カタログの代わりという「ガイドブック」を購入したところ、章立てと構成が異なるものの、今回の展示の概要がわかる形にはなっていた(『柳原白蓮の生涯 愛に生きた歌人』宮崎蕗苳監修 河出書房新社 201511)。その売店のところで、私が参加している研究会での大先輩でいらっしゃる近代文学専攻の渡辺澄子さんにお遭いした。このガイドブック巻頭の論考を書かれているとのことだった。帰路の車内で早速読み始めると、その論考でも、このアンソロジーに触れていることが分かった。

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やはり、ここでも「年譜の空白」

さらにこの「ガイドブック」を読み進めると、巻末に1頁の「白蓮略年譜」が付されていた。やっぱりというか「昭和12年(1937)盧溝橋事件、龍介の密使事件のため憲兵隊に召喚」とあり、次の行が「昭和20(1945)811日学徒出陣中の香織、鹿児島県の串木野(現・いちき串木野市)にて空爆により戦死」とあり、上記アンソロジーの出版の記述もない。

当ブログでも触れた「土門拳記念館」の「年譜」でも、1944年、海軍省の依頼による霞ケ浦の予科練での密着取材の件に触れられることなく、空白であった。ここに、共通する姿勢は何なのか。一人の人間、とくに文芸の表現者の生涯をたどるとき、ある時期の表現活動を封じるということが、なにを意味するのか。さまざまな表現者たちが、そうした「操作」を繰り返すことは、史実を歪め、歴史を歪めることになるのではないか。

そう考えると、私が必要上よく利用する、歌人の年譜や短歌史年表の類の一行は、編者や作成者の思想がまともに反映する、大切な一行であることを痛感するのだった。

絢爛たる「恋文」

今回の展示会の圧巻は、なんといっても白蓮が伊藤伝衛門邸のもとから宮崎龍介へと送った恋文の公開だろうか。2年間にわたる約700通の手紙が残されているという。実に華やかな大阪の柳屋製の竹久夢二が描く絵封筒、巻紙、便箋はじめ、白蓮自作の歌が刷り込まれた歌封筒などが用いられている。その一部が展示されていた。さらに、白蓮が伊藤家を出奔した「白蓮事件」後、いわば幽閉されていた時期に龍介とかわされた書簡などの展示も初公開だという。パソコンや携帯電話、スマホなどのない時代の、その書状の量に圧倒されたことは確かである。現代の恋人たちは、いったいどんなふうに、ことばをかわすのだろうか。

なお、会場には、白蓮の肉声を聞かせるコーナーがあって1957310日、NHKラジオ放送番組の一部を流していた。シャキシャキした、気さくな物言いで、華族女学校在学中の様子を語る部分だったのだろうか、先生の下田歌子について「ほんとうにおきれいな方でしたよ、その頃の先生と言えば、きれいな方はいなかったんですけれど・・・」みたいなことを、さらっと言ってのけていたのには、少々驚いた。かつて皇太子と正田美智子さんの婚約が成立したとき、異を唱えていたという白蓮の一面と共通したものを感じるのだった。複雑な家族関係や生い立ち、その後の2度の結婚による抑圧された生活が逆に作用しているのだろうかとも。

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