2019年4月 8日 (月)

「文京区春日・小石川=坂と文学をめぐって」に参加しました(2)伝通院から安藤坂・牛坂・金剛寺坂・今井坂・吹上坂・播磨坂を経て石川啄木終焉の地へ

 善光寺坂から伝通院へは新しい道ではなく旧道をのぼる。徳川家康の生母、於大のために建立、千姫の墓所もある。大河ドラマの世界にはあまり関心はないのだが、ここには、古泉千樫、佐藤春夫、柴田錬三郎らの墓地もある。かつては、一帯でもっとも見晴らしのよい高台であったというが、いまでは、林立するビルしか見えない。ようやくここで休憩をとることになって、ホッとする。お休み所に入ると、熱いお茶もセルフサービスで飲める。

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山門の左手には、淑徳学園がある
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著名人墓所案内、高畠達四郎。橋本明治の名もあった
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墓石の文字は釈迢空の筆になるという

 お休み所の裏側の広い窓からは正面に「簡野道明」(18651938)の墓石が見えた。「えッ、誰だっけ、見たことのある名前!」と思っていると、参加者の一人が「漢和辞典の人よ」で、思い出す。そう『字源』(1923年)の編者ではなかったか。差し入れの和菓子をごちそうになり、15分間の休憩もあっという間に過ぎた。清河八郎のお墓参りができてよかったと、参加者のお二人が感想を述べていたのが少し意外ではあった。

 伝通院前の広い道を進み、春日通りの交差点を渡った左手に、一葉の妹、樋口邦子(18741926)が夫妻で営んでいた礫川堂文具店があったところ、書籍も扱っていたという。関東大震災で家を失った幸田露伴に、先の善光寺坂の家を紹介したのが邦子だったらしい。青木玉の作品、ムクノキの前の「小石川の家」である。春日通りを渡った先が安藤坂で、その中ほどに、中島歌子(18411903)の「萩の舎跡」の立て札のみが立つ。ここに樋口一葉、田辺龍子(三宅花圃)も伊藤夏子も通ったはずだ。

 私たちは、安藤坂をくだって、牛天神(北野神社)に向かった。神社までの階段は急で、私にはかなりきつかったが、ここを牛坂と呼ぶらしい。のぼりきって本殿の右手には、中島歌子の歌碑がある。一息ついてくだった先には、かつて神田上水が流れていたところで、いまは暗渠となって、巻石通りとよばれている。

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牛天神参道の牛坂
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中島歌子歌碑「雪中竹」と題して
「ゆきのしたにねさしかためて若たけの生ひいてむとしの光ぞおもふ」
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 かつては、牛坂下のあたりまでが入江であったとも

ふたたび安藤坂に戻り、のぼって左折したところには、川口アパートメントが現れる。案内の大和田さんからは、川口松太郎・三益愛子と川口浩・野添ひとみなどという懐かしい名前が飛び出した。川口家の住居を兼ねたマンションであった。1964年、いわゆる高級マンションのはしりとして話題を呼び、多くの芸能人が住んでいたことでも有名だったのではないか。こんなところにあったのだ。外観はだいぶ、年季が入っているようにも見えた。反対側は永井荷風の生家跡で、荷風の父親がこのあたりに大きな屋敷を構えたというが、いまはマンションが立ち並ぶ。そして突き当たるのが、金剛寺坂で、漱石「それから」の代助が三千代のもとに通う坂だったとの説明を受けると、なんだか義務感で読んだ小説の一つではなかったかと思い出すのだった。

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川口・三益夫婦の子息たちは、何かと話題の多い人たちだったと記憶しているが、早世だったのでは。今はどんな芸能人が住んでいるのかな

 金剛寺坂を巻石通りへとくだって西に進むと右手に、金富小学校、本法寺がある。本法寺は夏目家の菩提寺という。漱石自身の墓は、雑司が谷墓地に立派なものが建てられていて、私も、一度お参りしたことがある。少し戻って、金富小学校の横の坂、今井坂をのぼると、「徳川慶喜公終焉屋敷跡」という表示に出会う。植栽が整えられた庭園に見えた。塀に沿って行くと、「国際仏教学大学院大学」の門があるのだが、初めて聞く名前だな、と思って帰宅後調べてみると、霊友会の研究所が基礎となって1996年設立された大学院のみの大学で、5学年20名の定員だそうで、2010年にこの地に移転したという、日本で一番小さい大学か?キャンパス内になるのか、慶喜の時代の大イチョウだけは健在のようだった。

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文京区が大幅な町名変更を開始したのは、1964年からだったので、私はすでに、大学を卒業、生活圏は、このエリアからは離れている。この案内板の最後にはつぎの短歌が記されていた。
「この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶふかくなりたり」(釈迢空)
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本法寺の桜が見事であった。この本堂に向かって左に、夏目漱石が1888年1月、墓参の折に母を偲んで詠んだとされる句の碑がある。
「梅の花 不肖なれども 梅の花」
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金富小学校脇の今井坂を上ると左手に「国際仏教学大学院大学」の門があり、そこから見えるイチョウ、「徳川慶喜公屋敷大銀杏」と記された石柱が
右端に見える

 さらに、小日向台の住宅街を抜けて春日通りに出ると、同心町、竹早町の旧町名表示版に出会う。私には、新しい中学校の印象があるのだが、なんと開設は1960年だった茗台中学校、その角を左に曲がると、突然、長い石段の坂を見下ろすことになる。これが庚申坂である。この谷を下った先が切支丹坂ということになるらしい。私たちは引き返し、信号を渡って、吹上坂をくだることになる。

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この庚申坂をくだって、地下鉄のガードを越えた先に切支丹屋敷跡がある。
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急な庚申坂と緩いのぼりの切支丹坂なのだが、庚申坂が切支丹坂と間違われることがあるといい、つぎの短歌も、この庚申坂を詠んだとされる。
「とぼとぼと老宣教師ののぼりくる春の暮れがたの切支丹坂」(金子薫園)

  途中、マンションの横の細い道を入って行く一行の後に続くと、石垣とマンションの間に細い枯山水のような庭の奥まったところに「極楽水跡」があった。極楽水とは、伝通院開祖の上人が、引き出した名水の泉であったということで、田山花袋(18721930)の「蒲団」にも登場しているというが、そんな記憶はもちろんない。いまは、小石川タワーマンションの敷地の一部の細い緑地帯となって残っている。

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奥に井戸が見えるが、現在は、水が湧き出ているのだろうか。こうした形で残されていることに、ほっとした気持ちになった。

 

 緩い坂をさらにくだれば、正面の街並みの背後に広がる緑は、小石川植物園で、交差するのは千川通り。右の角には、共同印刷があるはずである。現在は、白い工事シートで全面覆われ、改修中で、社屋の姿はみえない。千川通りは、もともと千川、小石川とも呼ばれるどぶ川であって、洪水も起こっていたらしいが、1934年、暗渠となり千川通りになった。千川の上流は、池袋の立教大学の北側に流れる谷端川で、私の子供のころは、そのあたりのことを長崎とか千川と呼んでいたことを思い出す。こちらの千川が暗渠となる前の小さな工場街を舞台にしたのが「太陽のない街」(1929)で、作者の徳永直(18991958)は、共同印刷の植字工であった。

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改修中の共同印刷社屋、正面の茶色い看板には、大きく「吹上坂」とある。 
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 かつて、小石川には河童が出るなどといわれた寂しいところで、この坂下には「播磨たんぼ」が広がっていた。大正時代はその面影を残していて、つぎのような短歌も読まれていた。
「雑然と鷺は群れつつおのがじしあなやるせなきすがたなりけり」
(古泉千樫)

 時代は下って、1960年代の大学のころ、友人からは、よく氷川下セツルメントへの誘いを受けていたのだが、当時の私の関心の向くところではなかった。今から思えば、少しでも参加しておくべきだったかなとも。今回の散歩コースからは外れるが、植物園の西側に、簸川(ひかわ)神社とその脇の氷川坂の下には、氷川下セツルメント発祥の地の記念碑が建っているそうだ。また茗荷谷駅前の春日通りを渡った直ぐ先に、「大橋」の表札のある大きな門構えのお屋敷があった。まったく人の出入りのない、開かずの門だったような記憶があるが、博文館創業の大橋佐平家一族の住まいだったのだろうか。今回ちょっと足を延ばして、確かめておけばよかったとも思った。

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播磨坂、桜並木の遊歩道、週末なだけに、かなりの賑わいであった。

 文学散歩は、いよいよ最終盤に入り、つぎは、週末の花見客でにぎわう播磨坂の桜並木の遊歩道を、ふたたび春日通りに向かってのぼる、その中ほどを右に折れると、マンションとマンションの間に、石川啄木の歌碑があり、その横にはガラス張りの顕彰室があった。ここが、石川啄木終焉の地であったのだ。歩き始めてすでに3時間余、私の足はすでに疲労の極度に達していた。折も折、大和田さんから、写真撮りましょうかと声をかけていただいたので、啄木の歌碑の前で撮った一枚は、なんとも情けない疲れ切った姿であった。さらに進むと左手に小石川図書館があり、その前には「団平坂」の表示板があり、道の向かいは竹早公園であった。

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石川啄木終焉の地
啄木は、1911年8月、本郷の喜の床から、この地の借家に移り住んだが、翌年1912年(明治45年)4月13日26歳の生涯を閉じる。碑面には晩年の二首が、原稿用紙一枚の草稿そのままに写し取られている。
「呼吸すれば、 胸の中にて鳴る音あり。 凩よりもさびしきその音!」
「眼閉づれど 心にうかぶ何もなし。さびしくもまた眼開けるかを」
(啄木)

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          ガラス張りの、広くはない顕彰室は、歌碑と共に、数年前に市民有志により建てられたという、新しいものである。

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  小石川図書館の前に建てられた、この案内板にも、啄木の最晩年の直筆ノートから一首が記されていた。
「椽先にまくら出させて、ひさしぶりに、ゆふべの空に親しめるかな」(啄木)

迷っていた二次会だったが、どこか座りたい、休みたい一心で、参加することにして、茗荷谷駅前の路地を入った、たしか「和来路」という店ではなかったか、十人ほどで、にぎやかにおしゃべりをしているうちに、何とか帰途につく気力をとりもどすことができた。早めに失礼して、7時半過ぎ、家の近くのバス停で、初めて傘を開いた。降られずによかった、この日の万歩計は16100歩であった。

  ふたたび、小石川の坂の名前のおさらい・・・。

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2019年4月 3日 (水)

「文京区春日・小石川=坂と文学をめぐって」に参加しました(1)富坂から堀坂・六角坂、善光寺坂へ  

 新元号発表、代替わりの迫る中ながら、3月30日、日本社会文学会が開催する「文学散歩」に初めて参加した。今回は、「春日・小石川」ということで、何とか参加したいと思っていた。というのは、池袋で育った私は、地元の池袋第五小学校(今は廃校・統合され池袋小学校)の卒業後、中学校から大学は、文京区竹早町、大塚町、大塚窪町(旧町名)にある学校に通っていたこともあって、10年間もウロウロしていたエリアだったのである。池袋東口始発の都電17番線には、伝通院行、春日町行、数寄屋橋行があって、中学校は、停留所の同心町で下車していた。高校・大学は丸ノ内線の茗荷谷下車で、余裕をもって登校することができなかった、当時の私は、茗荷谷駅から教室まで、いつも駆け足のギリギリセーフのような日々だった。それにしても、いま思えば、あまりにも周辺のことを知らな過ぎたし、無関心でもあったのだ。その後、何かのついでがあれば、すっかり変貌してしまった学校近辺を歩く程度のことしかしていなかった。

 週末の午後、後楽園駅の礫川公園前に集合、総勢15人、案内は大和田茂さん。参加者がそろうまでの間、近くで「天皇制を終わりにさせましょう」とビラを配っている人がいた。その日は、近くの文京区民センターで、「終わりにしよう天皇制」ネットワーク、「おわてんねっと」の集会が開かれる。実は、そちらの集会も参加してみたかったのだが、時間がまるでかぶっているのであきらめたのだった。

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後楽園駅頭で配布していたチラシ

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大和田さんが苦労しての散歩コース地図

 

 礫川(れきせん)公園は、文京区シビックホールや区民センターでの催しの際、横を通り過ぎるだけだった。サトーハチローの「小さい秋みつけた」の碑とハゼノキ、幸田文家庭から移植されたハンカチの木、はじめて見て回った。サトーハチローは向ヶ丘弥生町に住んでいて、そこに記念館があったそうだが、閉館の折、庭から移植したのが、童謡にも登場する、このハゼノキだったらしい。公園には、立体的な段状の噴水があり、壁泉というそうだが、水は流れていなかった。振り返れば、左手の空には、ジェットコースターが轟音と共にめぐってくる。ここからが西富坂というところには、春日局の像があったが、いかにも新しい。といっても、1989年の大河ドラマ「春日局」放映後に建てられたらしい。彼女の辞世「西に入る月を誘い法を得て今日ぞ火宅をのがれるかな」の歌碑もある。この辺一帯は、水戸藩の屋敷だったのを、庭園の後楽園のみを残し、1875年陸軍の東京砲兵工廠となったが、1933年小倉へ移転、跡地を後楽園スタジアムに売却している。後で知ったのだがすぐ近くに、東京都戦没者霊苑があったのだが、知らずに、お参りはできなかったのが残念だった。

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手前がハゼノキ、奥がハンカチの木、ビルの上には、後楽園遊園地のジェットコースターが見える

富坂には進まず、春日通りを渡って、源覚寺=こんにゃく閻魔さんで有名な浄土宗の寺に向かう。眼病の老女が好物のこんにゃくを断って供え、祈願し続けたところ、夢に現れた閻魔王みずからが片目を差し出して治してくれた、というのがいわれらしい。閻魔王の片目がないのが、お堂の中が暗すぎてよくわからなかったが・・・。一葉の「にごりえ」にも登場するという閻魔様の縁日は今でも続いているらしい。山門の正面の通りを300mほど行くと一葉の終焉の地丸山福山町だという。「にごりえ」はもう一度読みなさねばならないが、いまの私によみがえるのは、今井正監督のオムニバス映画『にごりえ』(1953年)の「にごりえ」である。「酌婦」のお力の淡島千景と山村聡、お力へ入れあげ、身を持ち崩してしまったが、思いを断ちきれない源七の宮口精二と妻の杉村春子。高校生の頃、どこかの名画座で見た記憶がある。暗い画面の中の宮口・杉村のセリフを聞きとるのに精一杯だったような。

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閻魔王に供えられたこんにゃくの山

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ここが急な堀坂、 若い人にもややきつそうな、まして・・・

 源覚寺を裏道から少し歩いたところに現れたのは、急な堀坂だった。通りの片側は、大きなマンションが建築中であった。上りつめた丁字路の左手には、島木赤彦(18761926)が下宿し、『アララギ』の編集所にもなっていた「いろは館」跡の碑があった。右手に少し進むと、「三浦梧楼将軍終焉の地」という碑があった。三浦梧楼(18471926)といえば、山形有朋の宿敵、陸軍中将から政界入りをして、枢密院顧問になっている。朝鮮の公使時代、1895108日閔妃暗殺を企てたとされる、あの人で、1962年、富坂二丁目町内会名の解説によれば「政界軍部の御意見番として隠然たる勢力」を持ち、町内会設立にも尽力、「将軍の偉徳を偲んで」建てたと記している。こうした評価だけが定着してしまうことには、危惧を感じるのだった。

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堀坂の戸建ての家の壁にはこんなポスターが張られていた

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いろは館跡の、小倉遊亀の筆になる小さな碑。右手にはいろは館という小さなマンションが建つ 

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「三浦梧楼卿終焉の地」とある


小石川2丁目となった、その緩い坂、六角坂をさらに下ると、左手には、「前川」の表札のある大邸宅の塀が続き、下った先の右の角には、立花隆の仕事部屋兼書庫という円筒のような猫ビルがあった。

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六角坂を下りきった角に立つ猫ビル 

くねった道沿いに進めば、そこは善光寺坂と呼ばれる坂で、右手、中ほどには伝通院の塔頭の一つである善光寺があり、さらに進むと、慈眼寺、沢蔵司稲荷が続き、上り切ったところには、道の中央に大樹がそびえている。その手前には幸田露伴の旧邸があり、次女の幸田文が住み、現在はその娘の青木玉が住んでいるとのことだが、背の高い木戸の脇には「幸田・青木」の表札が見えた。

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慈眼寺の芭蕉の句碑「一しぐれ 礫や降って 小石川」

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沢蔵司稲荷の狐のねぐらだった「お穴」をのぞく

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善光寺坂を上りきったところの道の真ん中に立つのは、ムクノキ、沢蔵司(たくそうず)の魂が宿ているといわれている。角の石塀に囲まれた家が幸田露伴の旧邸、戦後建て直しているが、次女の幸田文とその娘の青木玉が住む。

 

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2019年4月 2日 (火)

新元号発表狂騒でシャッフルされてはならないこと

   きのう、41日、午後の数時間、家を空けていたが、10時半頃から、新聞やテレビを飛び飛びに読んだり、見ていたりした。元号発表が何で「秒読み」までされて報道されなければならないのか。政府は、これまでの、山と積まれた失政の数々を、この政治的ショーという茶番で、シャッフルしたい思いがありありで、うんざり感にさいなまれた。マス・メディアは、分かっていていながら、その茶番に乗って、これでもか、これでもかと、どうでもよい情報を流す。アナウンサーやコメンテイターたちも、皇室や元号に詳しい<専門家>たちも、菅官房長官発表時と安倍首相談話時の背後のカーテンの色が違うとか、緊張した息遣いだったとか、一瞬、表情が緩んだとか、などなど、いい加減やめてほしいと思った。記者たちの違った質問に、首相は、元号の出典や込めた思い?として、国語の教科書や参考書程度のフレーズを間違えないように繰り返すだけであった。

 出典が「国書」というけれど、漢文と漢字による万葉仮名の和歌で成り立つ万葉集だし、万葉集よりも数世紀前の中国の詩文「帰田賦」(張衡)に「仲春令月 時和気清」の一節があり、当然万葉集もそれを踏まえているので(「座談会・新元号のメッセージ」『朝日新聞』、「初の酷暑万葉集出典 中国古典踏まえ」『東京新聞』、「中国古典の影響残す 『文選』孫引きの指摘も」『毎日新聞』ともに42日)、「国書」云々を強調すること自体、ミスリードしていることになろう。「初めての国書から」とする分野外のノーベル賞受賞者やワケのわからない出で立ちの大学教授が、有識者懇談会の模様を語っていたが、その舞い上がっている姿は見苦しかった。

 この出典に関して、日本文学研究者のローバート・キャンベルと歌人の岡野弘彦が、「元号」自体を前提にしてのことだと思うが、ともに、国書か中国の古典かにこだわる必要はない、と語っている(『東京新聞』)42日)のは、その限りでは、日本文学の成り立ちから言っても当然のことだと思った。

 安倍首相は談話で、「(万葉集は)日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく防人や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、わが国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書」というけれど、 日本の文学史において、「天皇から庶民まで」の歌集として「万葉集」像がクローズアップされるのは、たかだか、1890年以降のことである。「読み書きを知らない人たちが口頭で謡ったり、唱えたりしたものにしては、形式が整いすぎてはいないだろうか」と東歌や防人歌の作者に疑問を呈する研究者もいる(品川悦一『万葉集の発明』)新曜社 2001年、82p)。定型短歌は文字社会の産物であり、文字は文明の産物であり、列島社会の文化でもなかったことから「中華文明を継受した支配階層が発達させた文化」と考えるからである(前掲書84p)。

 幅広い階層の人々の歌を収めたという万葉集が、戦争に立ち向かう全国民的な民族意識、ナショナリズムの高揚の必要性と正岡子規らによる和歌革新運動とがあいまって、万葉集教育の普及、万葉集研究に支えられ、「国民的歌集」になっていった歴史を知る必要があるだろう。マス・メデイアの役割も欠かせない要素であった。この「国民的歌集」は、日中、太平洋戦争中にも、もてはやされることになる。学徒出陣世代の方から、斎藤茂吉の『万葉秀歌』上下(岩波書店 1938年)を愛読する者が多かったと聞いたことがある。

 一過性で終わるとも考えられるが、現在、書店では万葉集関係書のコーナーができたり、出版社では増刷を決めたりしていると、42日の夕刊各紙が伝えている。また、歌人たちが、出番とばかりに、メディアをにぎわすかもしれない。

 そんな、騒々しいなかで、「えッ、きのうから、令和に替わったんじゃないの」という人も現れるほどだが、42日の朝刊の片隅には、「森友問題 特捜部に起訴要望」(『朝日新聞』)、「公開の法廷で白黒を 森友不起訴不当受け申立書」(『東京新聞』)の記事があった。森友問題での公文書改ざんをめぐり、佐川元局長らの不起訴処分を受けて、市民団体が大阪地検の検察審査会に起訴を求めて申し立てをしていた。先週、佐川元局長らの不起訴相当、一部不起訴不当の議決を受けた、その市民団体が、さらに大阪地検特捜部に厳正な再捜査を求めたという内容で、いくつかの市民団体が大阪地検の検察審査会に申し立てをしているがそのうちの1件だった。地道に、森友・加計問題の幕引きに異議を唱え、闘い続けている市民たちもいる。

 天皇代替わりの「新しい時代」のどさくさと演出で、数々の違法・不法・不当・不都合な事実をチャラにしたい政府、許してはいけない。

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大谷石の塀と側溝のすきまにスミレが、今年が初めてか

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2018年11月24日 (土)

もう一度、見ておきたい展示だったが、今日までだった~「開館70周年記念展示 本の玉手箱」

 調べ物のついでに、立ち寄ったのが、国立国会図書館新館の「開館70周年記念展示 本の玉手箱」という展示だった。もう一度時間をかけてみたいと思って、チラシを見ると、なんと東京での展示は今日1124日(土)までで、1130日からは関西館での開催となっていた。残念。

私が出かけたのは10月の中旬だったか。展示室は閑散としていて、入場者は23人、やはり年配の人が多い。1960年代後半から、たった11年間の在職だったが、めずらしい書籍や資料に出会えたのは、貴重な体験ではあった。浮世絵・錦絵をはじめ憲政資料室の明治の政治家の書簡、高橋由一の絵画だったり、イギリスの稀覯本、内務省のマル秘資料だったり・・・、当時はまだ非公開だった大量の児童図書などには目を瞠ったものである。しかし、今回の展示では、まさに「玉手箱」のように、こんなものが所蔵されていたのだとあらためて知ることにもなった。ほんの一部の紹介のはずなのだが。

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 展示カタログの表紙、右下、下から2段目に並ぶ、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』   (日本少国民文庫、新潮社 1949年)と、正岡子規「絶筆三句」(1902年)の散らし書きは、写しであったが、右から「をととひのへちまの水も取らざりき  糸瓜咲て痰のつまりし佛かな 痰一斗糸瓜の水も間にあはず」と読めた。1902年9月19日未明に亡くなっているので18日の昏睡に入る直前の筆になるらしい(上田三四二解説『病状六尺』岩波文庫)。

Img546展示カタログの裏表紙。中央の鳥の首の大きく曲がった内側にある、ハートが描かれている細長い変形本が、与謝野晶子『みだれ髪』(東京新詩社 1901年)。なんといっても懐かしいのが、鳥のくちばしの上にある、図書カードボックスである。かつての職場では、独自の参考図書のカードを逐次作成し、このカードボックスに収めたていた。一階ホールの分類、著者、書名、件名目録カードを何度も引きに出かけるのが仕事だった。これらのカードをたくみに使って、目的の本をみごとに探し出したり、さまざまな冊子の書誌類を使って、閲覧者が捜す文献を魔法のように見つけ出してくる先輩たちもいた。因みに、首を突き出している大きな鳥は、図書館が所蔵する一番大きな本103×68㎝の"The birds of Amerika"(1985年)の表紙を飾る鳥の図の一部であった。

Img547カタログの13頁、上段は、内務省発禁図書だった小林多喜二『蟹工船』(戦旗社 1929年)であり、下段は、「日本国憲法」が公布された1946年11月3日の官報号外の一部で、内閣総理大臣吉田茂の他、幣原喜重郎、木村篤太郎、金森徳次郎、芦田均、安倍能成らのサインが見える(入江俊郎文書)。



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2018年3月 9日 (金)

自浄能力を失った歌壇か~「腰が引ける」とは

最近の歌壇の事情には疎いが、歌人たちの書く文章を読んでいて、なんとも言い難い焦燥感に駆られてしまうことが多い。あまりにも周囲をおもんぱかった、近頃の言葉でいえば「忖度」に充ち溢れた言葉の応酬を目の当たりするからかもしれない。

 

そういえば、拙い時評や拙著について、いただく私信のなかで、自分などは「腰が引けて」しまうところを踏ん張っていますね、といった感想を寄せてくださる方が幾人かいらした。また、めったに参加することのない短歌関係の会だが、そんなとき、久しぶりに会った方や初対面の方から、脅迫されるようなことはないんですか、とささやかれることもあった。私は、思わず笑い飛ばしてしまうのだが、皆さん、何を恐れているのだろう。 

以下は、『ポトナム』に寄せた時評だが、同じテーマで、3月27日発売

(筑摩書房)の『早稲田文学』春号<金井美恵子>特集にやや長いものを執筆したので、くわしくはぜひそちらも合わせてお読みいただければありがたい。 

なお、きのうの報道で、金井美恵子が『カストロの尻』で2017年度芸術選奨大臣賞受賞を知った。私はいささか動揺したが、受賞にめげずに?従来通りの活動を続けて欲しい。

     ◇

 もう数年前のことになり、歌壇では、忘れかけている人も多いかもしれない。作家の金井美恵子の「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」(『KAWADE道の手帖 深沢七郎』二〇一二年五月)という長い題を持ったエッセイが、痛烈な短歌批判をしているとして、歌壇を騒がしていた。エッセイのタイトルは、歌壇にいささかの関心のある人ならば、「たとへば(君)」が、河野裕子・永田和宏歌人夫妻が、妻の没後刊行された永田の『たとへば君 四十年の恋歌』(文芸春秋 二〇一一年七月)と河野の一首「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」に由来し、「告白」は、岡井隆の自伝『わが告白 コンフェシオン』(新潮社 二〇一二年一二月)を念頭に置いていることがわかる。 

「『風流夢譚』は短歌について書かれた小説である。では、短歌とは・・・」で始まる、金井のエッセイは天皇賛美を繰り返し、歌会始選者から御用掛となった岡井とともに、夫妻で歌会始選者を務め、在任中に病死した河野への挽歌が新聞歌壇に溢れた現象を斬ったのである。彼らを「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」、「短歌という巨大な共同体的言語空間」をなす歌壇のなかに位置づけ、短歌批判を展開している。歌人による反響がかなり見られたのだが、その大方は、真っ向からの反論というわけではなかった。

 

私としては、かねてより、現代短歌が天皇や皇室から自立しないかぎり、文芸の一ジャンルとしては成り立たないと考えているので、金井からの問題提起は、刺激的でもあり、説得力があると思えた。

 

松村正直は、「短歌を作るものは、短歌の世界だけにとどまってはいけない。短歌の魅力や仕組みを多くの人に広めていく必要がある」(「短歌への嫌悪感」『短歌』二〇一二年九月)として、「金井の論考は、何よりもそのことに気づかせてくれた」という。島田修三は、「昨今の現代歌壇に対する洞察としては、かなり正確に中心を射ぬいている」としながら、「金井には短歌を同時代に文学として理解しようとする意思はほとんどなく、とりつく島のない高飛車な狭量に腹立たしさを覚えたりもしたのだった」と書く(「もの哀しさについて」 角川『短歌年鑑』平成25年版 二〇一二年一二月)。沢口芙美は「いつの間にか歌壇内だけの視野狭窄に私たちは陥っているのではないか」として、金井の論考に触発されて「うた全体に亘るきびしい自己批評の目をもたなければならないのではないか」と述べた(「今年の提言―きびしい自己批判の目を」『歌壇』二〇一三年一月)。 

そんな中で、激しい口調で反論したのは、大辻隆弘だった。「金井の文章に底流するのは、文壇のなかに今も根強く残る短歌への蔑視である。それは、現代短歌を<和歌>とみなし、それを天皇制と直結させる偏狭で硬直した戦後左翼的な短歌観に他ならない」とするものだった(「短歌月評:短歌否定論」『毎日新聞』二〇一二年一一月)。現代短歌と天皇制とを直結させる「偏狭で硬直した戦後左翼的な短歌観」など、いまどこを探しても見出せないほど、歌人たちは、ものわかりがよくなって、ウィングを広げに広げてエールを送り合っている。 

金井の他のエッセイや小説を少しでも読めば、発想の自由さと表現の自在さに圧倒されることはあっても、「偏狭」「硬直」などとの批判は、むしろ的外れの感がある。

  真っ向から反論しなかった論者たちも、金井の指摘する具体的な歌壇の現象についてのコメントは避けて、配慮に満ちた、未来志向の模範解答に逃げ込んではいなかったか。(『ポトナム』2018年3月)

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「自浄作用が働かない歌壇―金井美恵子の短歌批判に歌人はどう応えたか」(付関係文献目録)を書いています。

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2017年12月17日 (日)

何年ぶりだろう、日本近代文学館

 国立国会図書館では所蔵していない雑誌を調べに、駒場の近代文学館に出かけた。久しぶりの渋谷であるし、井の頭線である。

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文学館の隣は、旧前田家本邸

二つ目の駒場東大前駅から線路沿いの通りを右に折れて、立派な家が並ぶ住宅街を4・5分歩くと左手に門がある。くぐれば、すぐに旧前田家本邸の門がある。企画展「小説は書き直される―創作のバックヤード」も開催中だが、まずは、資料請求である。利用者は、多い時で、3人ほど。入館料300円、コピーが一枚なんと100円なのだ。これも致し方ないのかなと思いつつ、12時前から閉館の4時半まで過ごした。

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文学館入口、カメラを構えているのは私らしい

 国会図書館の閲覧申し込みは、そのほとんどがパソコンからで、デジタル化資料は、複写申し込みもパソコンからだ。それに比べて、ここでは、対面で申込用紙に記入し、カウンター内の、目の前のコピー機で複写してくれる。多くは、メモで済ませたが、10枚ほどの複写をお願いした。

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残念ながら、つぎの機会にと・・・

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2017年5月17日 (水)

正岡子規について書きました

 今年は子規生誕150年という。『現代短歌』の特集<子規考>に書いたものです。誌上では子規作品の発表年に誤植がありましたので、送稿の原稿を掲載します。先日発売の6月号には、訂正記事が掲載されています。

 

              ◇ ◇ ◇

子規との気ままな出会いから      

 

子規について、私は、中学校の国語教科書においても、作歌を始めてからの文学史・短歌史においても、素通りに近かった。私の関心は、もっぱら現代短歌にあった。ただ、一九六〇年、学生時代に入会した『ポトナム』は、小泉苳三の書誌学的研究の伝統がまだ残っていたし、私の職場が図書館だったこともあって、書誌への関心は深まった。例えば、戦時期の発禁歌集・歌書、占領期のプランゲ文庫内歌集・歌書の目録や『ポトナム』の小泉苳三、阿部静枝らの著作目録の作成を始めたのが1970年代であった。苳三の『近代短歌史(明治篇)』(白楊社、一九五五年。一九六九年再版)では、近代短歌史の時代区分や子規の役割をめぐる考え方に違いがあることを知った(拙著「小泉苳三と『近代短歌史・明治篇』」『ポトナム』一九八四年八月)。

 

退職後、マス・メディア史を少し学ぶ時期があって、明治期の新聞史において、藩閥政府を批判する陸羯南の『日本』を根拠地とする、ジャーナリスト・俳人・歌人としての正岡子規に出会う。そこで、私が何よりも興味深く思ったのは、病身ながら従軍を思い立ち、種々の曲折を経て、実行したことであった。同僚や『国民新聞』の徳富蘇峰、国木田独歩の従軍記事に刺激されたからだろう。一九八五年三月三日広島に向かい、四月一〇日宇品港を発つが、日清戦争はすでに休戦、船上で下関条約批准を知る。日記には「五月十日 講和成り万事休す」とまで記し、五月一七日帰国船上で喀血するという顛末であった。子規の従軍日記は、愛国的というよりは、軍隊内の差別に激しく抗議する一方、戦後の大陸の山河や小動物、村人の営み、日本兵や記者たちの日常を克明に綴るものであった(拙著「子規の従軍」『運河』199712月)。

 1894年: 
生きて帰れ露の命と言ひながら(従軍の人を送る)
日の旗や淋しき村の菊の垣(天長節)

1895年: 

戦ひのあとに少き燕かな(金洲 燕) 

君が代は足も腕も接木かな(予備病院 接木) 

行かばわれ筆の花散る処まで(従軍の時) 

なき人のむくろを隠せ春の草(金洲城外 春草)

  当時の私の子規認識はここまでで、その後、『正岡子規、従軍す』(末延芳晴 平凡社 2011年)を読み、子規の従軍の目的や背景について新たな示唆を得た。子規は「なぜ、従軍したのか」について、戦争を国と国との喧嘩とみなし、正義による制裁をすべく主体的に参加する意欲と、天皇を国家の中心的頂点に位置づけ、戦争翼賛・植民地容認への過程をたどることによって解明し(304308頁)、「国家と国民は、共同の敵を打ち倒し、祖国の危機を救うという意識と使命感の共同性」を希求した結果だとする(318頁)。 

子規は、八〇句ほどの従軍俳句を詠んだが、同時に、一七もの漢詩を残した。従軍という過酷な世界の印象やイメージ、感慨や情念を、俳句ではストレートに表現できない限界を感じたのではないかとする(218219頁)。さらに、従軍俳句のベースには漢詩があったとし、俳句との相関関係を具体的に示す。「なき人のむくろを隠せ春の草」「戦のあとにすくなき燕かな」の原イメージは、漢詩「三崎山」の「枯骨に春草生じ」、「金州城外」の「乱後の亡民 求むべからず/杏花の空屋に 燕児愁ふ/遼陽の四月 草猶短く/行人の為に 髑髏を掩はず」にあったとする(229263頁)。子規の漢詩や新体詩には、「敵を斬って斬り払え」といった過激で物騒な文言が並び、アジア民族への蔑視をあらわにする。こうした傾向は子規に限らず、子規の時代に限らず、本来ならば、国家の方向を質してゆくべき多くの知識人、文学者、ジャーナリストという市民社会のリーダーたちの陥穽であったのかもしれない。 

 また、品田悦一『万葉集の発明』(新曜社 2001年)に接したときは、日本の近代化の過程で萬葉集は<発明>されたとするなか、萬葉集が時代を超えて「国民歌集」となってゆく経緯を教えられた。品田の書誌的な分析の起点は、小泉の『近代短歌史(明治篇)』の萬葉集再評価の系譜であり、さらには子規による萬葉集評価にあったのではないか。  

その後、ふたたび子規に出会ったのは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』であり、それを原作とするNHKのテレビドラマであった。その子規像は、原作とも異なり、史実とも異なるフィクションに戸惑ったのであった。

  そして今、年を経て、病床記たる『墨汁一滴』『仰臥漫録』『病牀六尺』などを読んで思うのは、子規の「終活」の見事さであり、介護を担った母と妹、律の存在であった。(『現代短歌』2017年5月)  

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2017年3月15日 (水)

今年の「建国記念日」は、甲府へ、石橋湛山記念館、山梨県立文学館と美術館と(2)

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文学館でも時間が足りない

 しっかりと時間もとって、ゆっくり見学するつもりであった。最初に入った文学館ではボランティアの説明の申し出があった。常設展の深沢七郎コーナーで、夫が「笛吹川論争って何ですか」と質問をしたところ、別の人に交代した。彼女は、熱心なあまりついに大きな声になってしまったのか、係員が飛んでくることもあった。途中で、2代目紅野敏郎館長の功績を讃えていたので、いまの三枝館長はどうですか、と思わず尋ねると「天皇家にも出入りしていて、近寄りがたいのですが、でも気さくな方ですよ、著書にも気軽にサインしてくれました」とのこと。

深沢七郎の「風流夢譚」が引き起こした出来事をどのように、説明・展示がなされているかが知りたかった。常設展示のカタログはないということであった。2011年の企画展「深沢七郎の文学<楢山節考>ギターの調べとともに」というガイドブックでは、「笛吹川論争」も「風流夢譚」もつぎのような説明であった。戦前のギタリストとして活動、「楢山節考」以後の小説家としての活動、「風流夢譚」以降のいわば身を隠すような暮らし、日本には本当に表現の自由を支えるベースがなかったことを表す一連の出来事、その後の執筆の傍ら農場や市井での暮らしに、ほっとする一面もあった。

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  なお、このハンドブックから、ハンセン病の医師、『小島の春』の小川正子の生家が春日居(現笛吹市)にあり、生家の近くには資料室や歌碑が何基かあるということをも知った。彼女は、光田健輔弟子であったが、1943年にっは結核で没している。光田は戦後もハンセン病患者の強制隔離を主張して、ハンセン病史に大きな汚点を残している。皇室とハンセン病のことを調べ、沖縄愛楽園を訪ね、ハンセン病のことを少しばかり知っただけに、今度は、訪ねたいと思った。

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 常設展の中では、飯田蛇笏・龍太、山崎方代などもゆっくり見たかったのだが、美術館のロビーコンサートもあるということで、だいぶ端折ってしまったのが残念だった。「新収蔵品展―直筆に見る作家のリアル」も開催されていて、ゆかりのある文学者の手紙や短冊が多かったなかで、新宿ハモニカ横丁“伝説の”文壇バー「みちくさ」関係の出品が多く、戦後まもないの文士たちの一面が見えてきて、興味深いものがあった。また、甲州市出身という竹内勇太郎の「赤胴鈴之助」や「三匹の侍」などの台本もかつてを思い出させる品々であった。

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文學館の窓から美術館と甲斐駒ケ岳を望む

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美術館入り口、企画展大きな看板

美術館へ 

美術館のレストランで昼食をとり、見学し始めたのだが、思いのほか時間がかかり、甲府の乗車予定を大幅に繰り下げた。ミレー館のミレーはやはり心落ち着くコーナーである。私は、バルビゾン派と言われる画家たちが描く、さまざまな「空」に引き込まれてしまう。ミレーの「空を見上げる羊飼いの少女」、トロワイヨンの「近づく嵐」の暗雲が迫るもと牛と牛を追う親子ののどかさ、テオドール・ルソーのフォンテンブローの森の空、ドービニーのオワーズ河の朝焼けの河面と空・・・。クールベは、その生き方も含めて、興味をそそられる画家の一人だが、ここでの「嵐の海」の印象はむしろ“激しさ”は感じられなかった。何年前か、オルセー美術館の入り口に陣取っていたクールベの「世界の起源」に衝撃を受けたことを思い出す。

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ミレー「空を見上げる羊飼いの少女」。リーフレット下段左がコロー「大農園」
右がルソー「フォンテンブローの森のはずれ」

 企画展の「没後100年野口小蘋」、野口小蘋(18471917)の名前は初めて聞いた。明治の女性南画家として、著名とのことであった。幼少より、四条派の絵画などを学んでいたが、父亡きあと19歳のとき、すでに絵を描くことを生業としており、上京後は、官命により皇后陛下御寝殿に草花図を八枚を描き、皇室にかかわる仕事が増し、華族女学校の嘱託教師も務めている。1907年には、女性で初の帝室技芸員に任命され、宮廷では絵画や装飾、調度品なども手掛け、優雅で、こまやかな作品を残す。その技法も確かな写生力がベースにあり、展示の鉛筆書きのスケッチや草花、昆虫などの写生帖には、説得力があった。

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「写生帖」より

 一泊の旅で、見残しが悔やまれる旅でもあったが、元気でありさえすれば、また出かけられると思うことにした。帰途の車中、長い笹子トンネルを通過するとき、昨年の小学校のクラス会で、担任のO先生から聞いた話を思い出していた。小学5年の遠足は昇仙峡だったという話で盛り上がったとき、先生は「トンネルに差し掛かると、あなたがね、このトンネルの長さは何メートルか、しきりに尋ねて来るんだよ」と話された。そういえば、小学校の高学年になったころ、私は、毎日、厚い『少年朝日年鑑』を風呂敷に包んで通学していたことを思い出していた。あまり夢のない「愛読書」だったわけである。作文は大嫌いだったが、壁新聞や夏休みの課題で模造紙に図表や年表を書いたりするのが好きだったなあ。そんなことを思い出していると、いつの間にか眠ってしまったようだった。

 帰宅後、「笹子トンネル」を調べてみると、このトンネルは、新旧2本あり、旧トンネルは 1902年に開通し、全長 4656m、下り線に使用され、上り線の新トンネルは1966年開通、全長 4670m、であることが分かった。遠足時には、まだ旧トンネル一本の時代だった。

 

 

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2016年11月 6日 (日)

『昭和前期女性文学論』(新・フェミニズム批評の会編 2016年10月)に寄稿しました

 すでに二年ほど前に提出した「阿部静枝の短歌はどう変わったか―無産女性運動から翼賛へ」と題する拙稿が、上記論文集に収録され、ようやく活字になりました。執筆者は、コラムを入れると、総勢30人を超え、511頁の大冊になりました。カバーの一部と参考までに出版案内のチラシを載せました。
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出版案内チラシ
 
 「新・フェミニズム批評の会」って?
 1991年に発足、「フェミニズム/ジェンダー批評を取り入れて文学作品の再評価や発掘をはかると同時に、これまで女性作家やその作品を正当に評価してこなかった日本の文学史の書き換えを目指し」(本書「はしがき」)、毎月一回の研究会を開き、これまでも『明治女性文学論』(2007年)『大正女性文学論』(2010年、ともに翰󠄀林書房)を刊行し、このシリーズ第三弾にあたります。他に『樋口一葉を読み直す』『『青鞜』を読む』も刊行していす。直近の 『<311フクシマ>以後のフェミニズム』(御茶の水書房 2012年7月)に、私は「311はニュースを変えたか~NHK総合テレビ<ニュース7>を中心に」を寄稿しています。
 
「阿部静枝」って?
 決してポピュラーな歌人ではありませんが、大正時代に創刊の短歌結社『ポトナム』の指導者の一人で、私が学生時代、短歌に関心を持つきっかけにもなった「阿部静枝」(18991974年)は、私の生家にも近い池袋に住まい、ながらく豊島区議会議員を務めていました。毎月の「東京ポトナム」の歌会では、きびしくも、必ず褒める一か所を見い出してくれる師でもありました。
 阿部静枝については、これまで、断片的にいくつか書いてきましたが、今回は、阿部温知という無産政党政治家との結婚を機に、短歌のテーマや表現に広がりを見せ、その社会的活動も活発となりながら、夫の急逝を経、無産政党終息への過程でその知見と弁舌は、政府、軍、多様なメディアにより重用されていきます。この時代の静枝に焦点をあてました。近著『天皇の短歌は何を語るのか』に収録した「戦時下の阿部静枝~内閣情報局資料を中心に」は、発見以後、あまり利用されることががなかった内閣情報局の内部資料により、当時の女性作家や評論家がいかにマークされ、利用されようとしていたかを考えましたが、それと対をなすものです。
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2016年7月28日 (木)

『ユリイカ』8月号、<特集・新しい短歌、ここにあります>に寄稿しました。

 私は、つぎの題で書いています。

◇三十一文字のポエティック

タブーのない短歌の世界を―「歌会始」を通して考える

以下の目次を見ると、拙稿は、場違い?アウェー?の感を免れませんが、いろいろ頁を繰っていると、思いがけない”歌人”にも出会えますし、これから短歌を始めたい人も、短歌を詠み始めて久しい人も、たかが短歌と思っている人も、新しい発見があるかもしれません。

目次は以下をご覧ください。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=2962

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