2023年11月20日 (月)

<座談会>、かなり緊張したのですが。

 11月18日、土曜の午後、G—W—G (minus) 同人の方からのご依頼で座談会に参加しました。同人の三方、位田将司さん、立尾真士さん、宮沢隆義さん、どなたも近代文学の若い研究者で、G—W—G (minus) のバックナンバーを一部拝読、これは手ごわいぞ、の第一印象でした。座談会に至るまでは、進行や資料など丁寧に対応していただき、1週間前にはzoomの打ち合わせもしていただきました。

 会場は、私の住まいの近くの古民家カフェ「入母屋珈琲」の2階の広々とした会議室、入るなり、中央のテーブルにはなんと、写真のように、私のこれまでの著作、収録された論文集、雑誌のコピーまでが、積まれているのを目にして驚き、もはや感動に近いものがありました。私も、拙著の一部や1960年代の雑誌などを持参しましたが、机上のこれらの資料から突っ込まれると、かなりの覚悟が・・・、などと思ったのですが、話が始まると、三人は各様に、私の4冊の歌集や拙著を読まれていて、おぼつかない私の話をうまく掬い取ってくださりで、あっという間の4時間!でした。多くの刺激をいただきました。

 当日の夕方には、以下のツイートにも。 

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本日、歌人の内野光子さんと座談会をおこないました。短歌と天皇制の関係を中心に、「60年安保」及び「68年」と短歌、阿部静枝と『女人短歌』、齋藤史と『万葉集』、前衛短歌、そして「歌会始」の問題を大いに議論しました。2024年5月刊行予定の『G-W-G(minus)』08号に掲載予定です。乞うご期待! pic.twitter.com/7y1qnDWvmx

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2023年6月30日 (金)

 梅雨空の下諏訪~今井邦子という歌人

  国家公務員共済の宿「諏訪湖荘」のビーナスラインの観光バスと北八ヶ岳ロープウェイを乗り継ぎ、坪庭一周という企画を楽しみにしていたが、あいにくの霧と雨に見舞われた。足に自信がなかったので、私は坪庭はあきらめ、ロープウェイ山頂駅のやたらと広い無料休憩所で、お弁当を一足先に失礼し、スケッチをしてると、40分ほどで一行は戻ってきた。足元がかなり悪かったらしい。観光バスの窓は拭ってもぬぐってもすぐ曇り、百人乗りも可というロープウェイの窓は、往復とも雨滴が流れるほどで、眺望どころではなかった。

 とはいうものの、前日は、夫とともに、下諏訪の今井邦子文学館とハーモ美術館を訪ねることができたし、翌日は雨もやみ、原田泰治美術館に寄り、館内のカフェでのゆったりとランチを楽しむこともできた。鈍色の湖面には水鳥が遊び、対岸の岡谷の町は遠く霞んでいた。諏訪湖一周は16キロあるとのこと、再訪が叶えば、内回り、外回りの路線バスを利用して美術館巡りをしてみたいとも。

 今井邦子文学館は、ところどころ、宿場町の面影を残す中山道沿いの茶屋「松屋」の二階であった。邦子(1890~1948)は、幼少時よりこの家の祖父母に育てられ、『女子文壇』の投稿などを経て、文学を志し、上京し、暮らしが苦しい中、ともかく『中央新聞』社の記者となったが、1911年、同僚の今井健彦(1883~1966。衆議院議員1924~1946年、後公職追放)と結婚、出産、16年に「アララギ」入会、同郷の島木赤彦に師事、短歌をはじめ創作に励むも、自らの病、育児、夫との関係にも苦しみ、一時「一灯園」に拠ったこともあった。困難な時代に女性の自立を目指し、1936年、「アララギ」を離れ、女性だけの短歌結社「明日香」社を創立、1943年には、『朝日新聞』短歌欄の選者を務める。戦時下は、萬葉集『主婦の友』と発行部数を競った『婦人倶楽部』の短歌欄選者をローテーションで務めいる。1944年、親交のあった神近市子の紹介による都下の鶴川村への疎開を経て、1945年4月には、下諏訪の家に疎開したが、1948年7月、心臓麻痺により急逝している。58歳だった。 

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  今井邦子への関心は、かつて『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史 1945ー1953』(阿木津英・小林とし子・内野光子著 砂小屋書房 2001年9月)をまとめる過程で、敗戦前後の女性歌人の雑誌執筆頻度を調べた頃に始まる。20年以上前のことだったので検索の手段はアナグロの時代であって、決して網羅的ではないが、今井邦子の登場頻度が高かったことを思い出す。最近では、邦子が、つぎのような歌を『婦選』創刊号(1927年1月)に山田邦子の名で寄せていることを知って、紹介したことがある(『女性展望』市川房枝記念会女性と政治センター編刊 2023年1・2月号)。

・をみな子の生命(いのち)の道にかゝはりある國の會(つど)ひにまいらんものを

 1924年5月の総選挙で、夫、今井健彦が千葉県二区から衆議院議員に当選している。18歳歳以上の男女に選挙権をという普選運動は、1925年3月が普通選挙法が成立、1928年3月の総選挙で初めて実施されたのだが、婦人参政権獲得運動の願いもむなしく、女性は取り残されたまま、そんな中で、久布白落実、市川房枝らによって創刊されたのが『婦選』であった。邦子が寄せた歌にもその口惜しさがにじみ出ているのだった。

  今井邦子文学館は1995年、松屋跡地に復元再建して開館、二階が展示室になっているだけだった。展示目録もなかったようだし、当方のわずかな写真とメモだけで語るのはもどかしい。それでも、斎藤茂吉や島木赤彦からの直筆の手紙、邦子から茂吉のへ手紙など、活字に起こされていて、生々しい一面も伺われて興味深かった。

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展示室の冒頭、詩などを投稿していた『女子文壇』と姉との写真が目を引いた。転任の多かった父の仕事の関係で、邦子は、姉はな子とともに、祖父母に預けられ、育てられ、両親との確執は続く。その姉との絆は強かったが、若くして死別する。

 1911年の結婚、翌年の長女出産を経てまとめた歌文集『姿見日記』(1912年)には相聞歌も見られるが、出産を機に、つぎのような歌が第一歌集『片々』(1915年)には溢れだすのである。

・月光を素肌にあびつ蒼く白く湯気あげつゝも我人を思ひぬ『姿見日記』
・暗き家淋しき母を持てる児がかぶりし青き夏帽子は」『片々』 
・物言はで十日すぎける此男女(ふたり)けものゝ如く荒みはてける
・入日入日まつ赤な入日何か言へ一言言ひて落ちもゆけかし

 1916年アララギ入会、島木赤彦に師事、1917年長男妊娠中にリューマチを患い、治療はかどらず、以降足が不自由な身となる。1924年夫の政界進出、1926年島木赤彦の死をへて1931年に出版した『紫草』では、赤彦の影響は色濃く、作風の変化がみてとれる。「あとがき」によれば「大正五年から昭和三年(1916~1928年)まで」の3000余首から781首を収めた歌集だった。私にとって、気になる歌は数えきれないほどであったが・・・。子供、夫との関係がより鮮明に表れ、思い煩い、嘆き、心が晴れることがなく、一種の諦観へとなだれていくようにも読める。身近に自分を支えてくれた人たち、その別れにも直面する時期に重なる。以下『紫草』より。

・眠りたる労働者の前をいく群の人汗を垂り行きにけるかも(砲兵工廠前)(「しぶき」大正五年)
・青草の土手の下なる四谷駅夜ふけの露に甃石(いし)は濡れ見ゆ(「夜更け」大正六年)
・病身のわれが為めとて蓬風呂焚き給ふ姉は烟にむせつ(「帰郷雑詠」大正六年)
・三年(みととせ)ぶり杖つかず来て程近き郵便箱に手紙入れけり(「荒土」大正八年)
・もの書かむ幾日のおもひつまりたる心は苦し居ねむりつつ(「さつき」大正九年)
・争ひとなりたる言葉思ひかへしくりかへし吾が嘆く夜ふけぬ(「なげき」大正十年)
・つくづくとたけのびし子等やうつし世におのれの事はあきらめてをり(「梅雨のころ」大正十二年)
・土の上にはじめてい寝てあやしかも人間性来の安らけさあり(「関東震災」大正十二年)
・夫に恋ひ慕ひかしづく古り妻の君が心の常あたらしき(「喜志子様に」大正十三年)
・真木ふかき谿よりいづる山水の常あたらしき命(いのち)あらしめ(「山水」大正十四年)
・うつし世に大き命をとげましてなほ成就(とげ)まさむ深きみこころ(「赤彦先生」大正十五年)
・みからだをとりかこみ居るもろ人に加はれる身のかしこさ(「赤彦先生」大正十五年)
・嘆きゐて月日はすぎぬかにかくに耐ふる心に吾はなりなむ(「梅雨くさ」昭和二年)  
・姉上の野辺のおくりにふみしだく山草にまじる空穂の花は(「片羽集二」)
・ありなれて優しき仕へせざりしをかへりみる頃と日はたちにけり(夫に)(「萩花」昭和三年)

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展示会で見た時は、気が付かなかったが、よく見ると謹呈先が「山田邦子様」となっているではないか。今井邦子が旧姓にちなむ、かつてのペンネームであった「山田邦子」あてなのである。かつての自分への「ごほうび」?「おつかれさま」?なのか、ユーモアなのか。

 1935年にはアララギを離れ、翌年には『明日香』(1936年5月~2016年12月)創刊し、みずからも萬葉集などの古典を学び、後進の指導にもあたる。女性歌人の第一人者として、歌壇ばかりでなく、一般メディアへの登場も著しい。その一例として、つぎの調査結果を見てみたい。戦時下の内閣情報局による『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』(1941年7月)という部外秘の資料からは、当時の八つの婦人雑誌への女性歌人の執筆頻度がわかる。期間は1940年5月号から1941年4月号までの一年間の執筆件数ではあるが、今井邦子は、他を引きはなし、婦女界5、婦人公論2,婦人朝日2、婦人画報1、新女苑1で計11件、五島美代子4件、茅野雅子3件、柳原白蓮3件であった。さらに2件以下として四賀光子、杉浦翠子、中河幹子、築地藤子、北見志保子、若山喜志子が続いている。いわゆる、当時は「名流夫人」として、名をはせた歌人たちであった。今井健彦、五島茂、茅野蕭々、宮崎龍介夫人であったのである。

 また、短歌雑誌ではどうだろうか。かつて、敗戦前後の女性歌人たちの執筆頻度を調べたことがある(前掲『扉を開く女たち』)今回、若干手直ししてみると、次のようになった。もし、邦子が敗戦後も活動できていたら、どんな歌を残していたか、どんなメッセージを発信していたのか、興味深いところである。

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上記の表から、今井邦子と四賀光子は、敗戦を挟んで激減し、阿部静枝と杉浦翠子は、増加している。生方、水町、中河は変わりなく、一番若かった斎藤史は倍増していることがわかる。

 なお、1942年11月、日本文学報国会の選定、内閣情報局によって発表された「愛国百人一首」について、「一つ残念な事があります」として、声を上げていたのである(「婦人と愛国百人一首」『日本短歌』1944年1月)。選定された百首のうち女性歌人の作が「わづか四人であるといふ、驚くべき結果を示されて居ります。現在の短歌の流行を考へ合わせると、そこにもだし難き不思議ななりゆきを感ずる訳であります」と訴えている。小倉百人一首には女性歌人が二十人選定されている一方、昭和の時代の選定に四人だけということを「長い長い歴史に於て真面目に婦人として考へて見なければならぬ事ではありますまいか」と婦人の無気力を反省しながらも、それはそれとして「女の心は女こそ知る、女も一人でも二人でもその片はしなりと相談にあづかるべきではなかつたらうかと、今も口惜く思ふ次第であります」と、12人の選定委員に女性がひとりもいなかったことにも抗議していた。「愛国百人一首」が国民にどれほど浸透していたかは疑問ながら、こうした発言すら、当時としてはかなりの勇気を要したのではなかったかという点で、注目したのだった。

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戦時下、雑誌統合により休刊となった『明日香』は、1945年10月には、謄写版が出され、その熱意が伝わってくる。1946年2月、邦子の下諏訪の家を発行所として復刊号が出されている。扉の一首「雨やみし故郷の家に居て見れば街道が白くかはきて通る」。

 また、『明日香』は、邦子の没後、姉の娘岩波香代子、川合千鶴子らによって続けられたが、2016年終刊に至る。

 

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2022年10月24日 (月)

田端文士村散歩へ~初めての田端駅下車

 土曜10月22日は、秋晴れの予報だったが、すっきりしないものの、出かけることにした。久しぶりの東京、池袋育ちながら、田端には降りた記憶がない。国鉄の操車場のイメージである。北口を出ると、左手に高い陸橋、ほぼ正面に、曲線を描いた長い壁に「田端文士村記念館」とあった。

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 なんと、入館無料である。1993年開館、1988年設立の北区文化振興財団の運営という。今回の企画展「朔太郎・犀星・龍之介の友情と詩的精神」(10月1日~23年1月22日)は、こじんまりした展示ながら、充実しているように思えた。展示は以下のようで、常設展は「漱石と龍之介」「野口雨情の生誕140周年~童謡に込められた雨情の詩心」であった。漱石や龍之介にしても熱心な読者ではなかったし、教科書のほか少しばかり“義務的”に読んだ記憶しかない。朔太郎や犀星については、作品よりも伝記的関心の方が強かった。

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 企画展は、ほぼ同世代といえる三人、萩原(1886~1942)、室生(1889~1962)、芥川(1892~1927)の親密ながらも緊張感を失わない交流が立ち上がってくる。芥川が「文芸的な、余りに文芸的な」を『改造』に連載中の1927年7月24日に、自殺をしてしまう悲劇。その連載のなかの「十二 詩的精神」には、つぎのようなくだりがある。

僕は谷崎潤一郎氏に会ひ、僕の駁論ばくろんを述べた時、「では君の詩的精神とは何を指すのか?」と云ふ質問を受けた。僕の詩的精神とは最も広い意味の抒情詩である。僕は勿論かう云ふ返事をした。

 芥川は「神経衰弱」と不眠に悩まされていたのは一つ事実だが、「遺書」にある「ぼんやりした不安」どころではない、自らの病苦、家族8人での生活苦、人間関係での不信などに苛まれていたのではないか。展示室にある「田端の家」復元の模型を見て、この田端の地に大きな屋敷で大家族を養っていたことが思われてならなかった。これまでもよく見かけた、自宅の庭で、子供たちの前で木登りをする動画フィルム、出版社の宣伝用だったというが、この会場でも流されていた。
 また、ともに北原白秋に師事していた犀星と朔太郎だったが、1915年、朔太郎は、白秋宛の手紙で「室生は愛によって成長するでせう。私は悪によって成長する。彼は善の詩人であり、私は悪の詩人ある」などと記しているのも知った。

 連れ合いは、朔太郎のファンなので、撮影禁止といわれ、盛んにメモも取っていた。つい先日、赤城山の帰りに前橋文学舘に行ってきたばかりでもある。

 記念館を出て、高い陸橋、東台橋をくぐって、両脇が高い崖になっている、まさに「切通し」の道路を進むが、少し違うらしい。戻って陸橋の急な階段を上り切ると、高台に住宅が広がっている。童橋というところまで進むと、左手の路地から、十人近くの一団が出てきたと思ったら、入れ替わりに入っていく一団もあった。「龍之介の旧居跡」に違いないと、私たちも入っていくと、民家ならば3・4軒建ちそうな空き地に「芥川龍之介記念館予定地」の看板が見える。そしてその先の角のお宅の前には掲示板があった。

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『ココミテ シート」2018年夏号(田端文士村記念館)より。上段の写真は、龍之介没後の1930年7月撮影、右から、長男比呂志(俳優)三男也寸志(音楽家)、次男多加志、母、文。文は育児に苦労したにちがいない。多加志は、応召、1945年4月13日、ビルマで戦死、22歳であった。

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「木の枝の瓦にさはる暑さかな」という龍之介の俳句の書幅が展示されていた。旧居の敷地は200坪近くあったという。

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 今度は、童橋を渡って、童橋公園へ。犀星旧居の庭石を移したという一角がある。さらに一筋違う路地には、平塚らいてう、中野重治が住んでいたというが、何の表示があるわけでもなく、家がびっしりと立ち並び、女の子二人が、スケボーで遊んでいた。
 童橋から駅前を通り越すと、福士幸次郎の旧居があったところで、サトウハチローが転がり家でもあったらしい。福士はハチローの父、佐藤紅緑の弟子で、ハチローの面倒を見ることになったらしい。犀星はこの町で何度も転居を繰り返しているが、次に回ったのが、田端523番地の旧居跡、犀星が引っ越した後の家に菊池寛が転入している。その路地を抜けると広い道路に出て、右へと曲がり、八幡坂に向かう。今日の目的の一つが、大龍寺の正岡子規の墓参だった。緩いが長い坂をくだると右側には上田端八幡神社の生け垣が続く。坂を下り切れば、神社の隣が大龍寺、そこへタクシーを降りた中年の女性と出会い、子規のお墓ですよね、という。三人で、墓地に入るが、案内図があるわけでもない。手分けして探し、ウロウロする。墓参に来た若い家族連れにも尋ねてみたが、「うーん、あることは聞いているけど、どこだか・・・」という。古そうなお墓の一画、角に、あった! 一緒に探していた女性は、「俳句がうまくなりたいから、今日は、子規庵を回ってきて、墓参も」と群馬から上京したそうだ。 

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右側が子規の母八重の墓、子規の墓の文字は、子規が入社した新聞『日本』社主陸羯南の筆になる。 代々の墓と墓誌は子規の墓の左横にある。

 あとは八幡坂をのぼって、ひたすら、駅方面に向かう。田端高台通りを右に折れると江戸坂、いまは高層ビルもあるが、正面はJRの宿舎でもあった巨大な建物がある。短いながら、文士村散歩は終りとした。回れたのは、文士村と言われる地区の三分の一ほどだったろうか。

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八幡坂、駅方面に向かって登る。左手が上田端八幡神社のキンモクセイ          

 朔太郎の旧居跡も回れなかったし、『アララギ』の鹿児島寿蔵、土屋文明、五味保義、高田浪吉らや太田水穂・四賀光子、尾山篤二郎らの歌人も住んでいたという。きっと魅力のある街だったのだろう。1945年4月13日の城北大空襲ですべてが灰塵に帰したのだった。

 

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2022年10月 3日 (月)

「私説『ポトナム』百年史」を寄稿しました。

 

 私が永らく会員となっている「ポトナム短歌会」ですが、今年の4月に『ポトナム』創刊100周年記念号を刊行したことは、すでにこのブログでもお伝えしました。上記表題の小文を『うた新聞』(いりの舎)9月号に寄稿しました。『ポトナム』100年のうち60年をともにしながら、その歴史や全貌を捉え切れていませんので、”私説”とした次第です。

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私説『ポトナム』百年史   

・ポトナムの直ぐ立つ枝はひそかなりひと時明き夕べの丘に

   一九二二年四月『ポトナム』創刊号の表紙に掲げられた小泉苳三の一首である。当時の日本の植民地、京城(現ソウル)の高等女学校教諭時代の小泉が、現地の百瀬千尋、頴田島一二郎、君島夜詩らと創刊し、誌名は「白楊」を意味する朝鮮語の「ポトナム」とした。二三年には、東京の阿部静枝も参加した。

  二〇二二年四月、創刊百年を迎え、大部な記念号を刊行した。年表や五〇〇冊余の叢書一覧にも歴史の重みを実感できるのだが、『ポトナム』が歩んだ道は決して平坦なものではなかった。

  今回の記念号にも再録された「短歌の方向―現実的新抒情主義の提唱」が発表されたのは、一九三三年一月号だった。それに至る経緯をたどっておきたい。二三年は関東大震災と不況が重なり、二五年は普通選挙法と抱き合わせの形で治安維持法が公布された。反体制運動の弾圧はきびしさを増したが、社内には新津亨・松下英麿らによる「社会科学研究会」が誕生し、二六年には『ポトナム』に入会した坪野哲久、翌年入会の岡部文夫は、ともに二八年一一月結成の「無産者歌人聯盟」(『短歌戦線』一二月創刊)に参加し、『ポトナム』を去り、坪野の作品は一変する。

・あぶれた仲間が今日も うづくまつてゐる永代橋は頑固に出来てゐら(『プロレタリア短歌集』一九二九年五月)

  苳三は、『ポトナム』二八年一二月号で、坪野へ「広い前途を祝福する」と理解を示していたが、社内に根付いたプロレタリア短歌について、三一年五月に「プロレ短歌もシュウル短歌もすでに今日では短歌の範疇を逸脱」し、短歌と認めることはできず「誌上への発表も中止する」と明言した。先の「現実的新抒情主義」について、多くの同人たちが解釈を試みているが、「提唱」の結語では「現実からの逃避の態度を拒否し、生々しい感覚をもつて現実感、をまさしくかの短歌形式によつて表現することこそ我々の新しい目標ではないか」、その実証は、「理論的努力と実践的短歌創作」にあるとした。総論的には理解できても実践となると難しいが、この提言によって『ポトナム』は困難の一つを乗り切った感もあった。

  以降、戦争の激化に伴い、短歌も歌人も「挙国一致」の時代に入り、「聖戦」完遂のための作歌が叫ばれた。四四年一月の「大東亜戦争完遂を祈る」と題して、樺太から南方に至る百人近い同人たちの名が並ぶ誌面は痛々しくもある。その年『ポトナム』は国策によって『アララギ』と合併し、三月号を最後に休刊となった。その直後、苳三と有志は「くさふぢ短歌会」を立ち上げ、敗戦後の『くさふぢ』創刊につなげ、さらに五一年一月の『ポトナム』復刊への道を開いた。

  しかし、苳三は、四七年六月、勤務先の立命館大学内の教職不適格審査委員会によって、『(従軍歌集)山西前線』(一九四〇年五月)が「侵略主義宣伝に寄与」したことを理由に教授職を免じられたのである。GHQによる公職追放の一環であった。歌集を理由に公職を追われた歌人は他に例を見ない。

・歌作による被追放者は一人のみその一人ぞと吾はつぶやく
(一九五一年作。『くさふぢ以後』収録)

  追放に至った経緯はすでに、教え子の白川静、和田周三、安森敏隆らが検証し、敗戦後の大学民主化を進める過程での人事抗争の犠牲であったともされている。大岡信は「折々のうた」でこの歌を取り上げ、審査にあたった学内の教授たちを「歌を読めない烏合の衆の血祭りにあげられた」と糾弾する(『朝日新聞』二〇〇七年二月二三日)。歌人の戦争責任を問うならば、まず、多くの指導的歌人、短歌メディア自身の主体的な反省、自浄がなされるべきだった。

  苳三は、この間も研究を続け、追放解除後は、関西学院大学で教鞭をとった。戦時下の四一年から三年かけて完成した『明治大正短歌資料大成』三巻、早くよりまとめにかかっていた『近代短歌史(明治篇)』(五五年六月)など多くの著作は近代短歌史研究の基礎をなすものだった。五六年一一月、苳三の急逝は『ポトナム』には打撃であったが、五七年からは主宰制を委員制に変更、現在は中西健治代表、編集人中野昭子、発行人清水怜一と六人の編集委員で運営されている。先の教え子たちと併せて小島清、国崎望久太郎、上田博、中西代表らにいたるまで国文学研究の伝統は、いまも受け継がれている。

  古い結社は、会員の高齢化と減少に歯止めがかからない局面に立っている。結社が新聞歌壇の投稿者やカルチャー短歌講座の受講生などの受け皿であった時代もあったが、結社内の年功序列や添削・選歌・編集・歌会などをめぐって、より拘束の少ない同人誌という選択も定着してきた。さらにインターネットの普及により発信や研鑽の場が飛躍的に広がり、多様化している。短歌総合誌は繰り返し結社の特集を組み、各結社の現況を伝え、結社の功罪を論じはするが、それも営業政策の一環のような気もする。すでに四半世紀前、一九九六年三月号で『短歌往来』は「五〇年後、結社はどうなっているか」とのアンケートを実施、一五人が回答、「短歌が亡びない限り」「世界が滅びるまで」「形を変えて」「相変わらず」存在するだろう、とするものが圧倒的に多かった。私は、「現在のような拘束力の強いとされる結社は近い将来なくなり、大学のサークルや同好会のような、出入りの自由なグループ活動が主流となり」その消長も目まぐるしく、活動も「文学的というより趣味的で遊びの要素が強くなる」と答えていたが、残念ながら二五年後を、見届けることはできない。

  私にとっての『ポトナム』は、一九六〇年入会以来、一会員として、歌を詠み続け、幾多の論稿を発表できる場所であった。婦人運動の活動家でもあり、評論家でもあった阿部静枝はじめ個性的な歌人たちから、多くを学んだことも忘れ難い。(『うた新聞』2022年9月)

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 なお、拙稿の発表後、9月18日、大甘さん(@kajinOoAMA)のつぎのようなツイートがなされているのに気づきました。大事なご指摘をありがとうございます。創刊にかかわった先達から、「白楊」と聞いておりましたまま、調べもしませんでした。


ポトナム短歌会の「ポトナム」って何だろうって思っていた。『うた新聞』9月号、内野光子氏の寄稿に、1922年、植民地朝鮮の京城にて創刊、"誌名は「白楊」を意味する朝鮮語の「ポトナム」とした"とあり、謎は解けた。久々に日韓・韓日両辞書を引っ張り出し、軽い気持ちで"確認"を試みたが… pic.twitter.com/eVWdkhMakj

 

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当ブログ過去の関連記事

1922ー2022年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(1)(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-559b22.html
(2022年4月6日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-a2076e.html
(2022年4月9日) 

忘れてはいけない、覚えているうちに(3)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<1>
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/08/post-448784.html
(2022年8月10日)
忘れてはいけない、覚えているうちに(4)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<2>
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/08/post-f5f72b.html
(2022年8月12日)



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2022年7月 2日 (土)

目取真俊ロングインタビュー「死者は沈黙の彼方に」を聴いた

 初回放送は2021年8月29日だったそうだが、7月2日、NHK沖縄復帰50年シリーズの一環としての再放送だったらしい。マスク越しの目取真の話はやや聞き取りにくいこともあったが、彼の怒りは切々と伝わってきた。NHKの質問者に詰問する場面もあるにはあったが、だいぶ編集されているのではないかとも思われた。
 1960年生まれの彼は、身近な人々が語る戦争体験から想像もつかない凄惨さを知り、多くの人びとが戦争体験を語ることなく、この世を去っていくのを目の当たりにしたという。彼にとって小説とは、彼らの「代弁」というよりは、少しでも「近づく」ことであると力説していたように思う。
 番組での「水滴」などの朗読は、沖縄出身の津嘉山正種によるものだったが、あの思い入れたっぷりの、重々しい演技と声は、私には、むしろ聞き苦しかった。というより、もっと淡々と朗読した方が、聞き手には、届きやすかったのではないか。 
 いや、それ以上に、目取真のインタビューというならば、「こころの時代 宗教・人生」という番組ではなく、行動する小説家に至った過程をもっと丹念に追跡する番組にしてほしかった。辺野古での基地反対活動のさなかに逮捕(2016年)されたことや天皇制と真正面に取り組んだ数少ない小説「平和通りと名付けられた街を歩いて」(1986年)などに触れるべきではなかったのか。「こころ」の問題、宗教?に集約してしまうのが、NHKの限界?だったと済ましてしまってよいのか。
 番組では、去年の6月23日、慰霊の日に「国頭支隊本部壕・野戦病院跡」を訪ね、供え物をしていた場面で、傷ついた兵士たちには手りゅう弾が手渡され、放置されたことが語られていた。彼は、今年も、平和祈念公園の追悼式典には参加せず、本部町の八重岳にある「三中学徒之碑」と「国頭支隊本部壕・野戦病院跡」を訪ねたとブログ「海鳴りの島から」に記されていた。(以下参照)
沖縄戦慰霊の日/本部町八重岳の「三中学徒之碑」と「本部壕・病院壕跡」

https://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/aada4eefbafc810d153c75d719f8b102?fm=entry_awp 2022-06-23 23:43:23 

 また、私は一度だけ、数年前に、目取真俊の講演会に出かけたことがある。(以下参照)

目取真俊講演会に出かけました(2018年7月16日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/07/post-a28a-1.html

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2022年6月 7日 (火)

『喜べ、幸いなる魂よ』(佐藤亜紀)~フランドル地方が舞台と知って

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  近年、めったに小説など読むことはないのだが、主人公がフランドル地方のゲント(現地の読み方がヘントらしい)のベギン会の修道院で暮らす女性と知って、読み始めた。というのも、すでに20年も前のことなのだが、2002年の秋、ブリュッセルに何泊かしたときに、日帰りで、ゲントに出かけて、その小さな街の雰囲気が印象深かったこと、ブルージュに出かけた日は、ふと立ち寄ったベギン会修道院のたたずまいが忘れがたいこともあって、ぜひ、読まねばとの思いに駆られた。 

  小説は、18世紀、亜麻糸を手堅く商う家に生まれた双子の姉ヤネケと養子として引き取られたヤンとの愛の物語である。読書が大好きで、数学や天文学などにも関心が深いヤネケはまるで実験かのようにヤンと愛し合い、二人の間に生まれた子は、二人と引き離され乳母に預けられる。ヤネケは、母方の叔母が暮らすベギン会修道院に入ってしまう。ヤンは、子への愛を断ち切れず引き取り、亜麻糸の商人として働きながら育てるのだった。当時の女性は子を産むことと家を守ることに専念すべきで、学問をするなど許される時代ではなく、双子の弟のテオやヤンの名前で本を出版して、認められるようにもなってゆく。テオは、野心家の市長の娘と結婚するが不慮の事故で急逝すると、市長の娘とヤンは結婚、亜麻糸商を任されることになる。ヤンは、店の帳簿を、数字に強いヤネケに点検してもらうために、修道院に通ったり、ヤネケは、二人ならば許されるという外出を利用して、しばしば生家を訪れたりして、ヤンや子供のレオとの交流もする。

  ベギン会の修道院は、一般社会と切断されているものではなく、統括する組織もなく、信仰に入った単身女性たちは、敷地内のテラスハウスのような住居を所有する。外出も可能で、居住区以外は、男性の出入りもできたという。それぞれ、資産を持ち、亜麻を梳いたり、レース編みをしたり、あるいは家庭教師になったり、さまざまな技能と労働をもって、自分で生計を立て、貯えもする。

  敷地内で、ヤネケが育てているリンゴの木、毎年少しづつ美味になってゆく果実をヤンと食す場面が象徴的でもある。市長の娘の妻との暮らしもつかの間、風邪をこじらせ急逝、今度は、ヤンが市長の座にふさわしい妻をということで、貴族の未亡人と結婚したが、出産時に死去、ふたたびひとり身になるのだ。

 ただ、成長した子供のレオは、ヤネケが母とは知らず、なつかないまま、商売の手伝いをするわけでもなく、やがて家を出てしまう。そして、ヤネケとヤンの老齢期に近づくころ、二人にとっても、フランドル地方にとっても思わぬ展開になるのだが、二人の愛は、揺らぐものではなかった・・・。

 登場人物の名をなかなか覚えられないので、外国文学は苦手なのだが、この小説でも登場人物一覧にときどき立ち戻るのだった。著者は、フランスへの留学経験があるものの、研究書などによる時代考証に苦労したに違いないが、女性の自立と愛の形を問いかける一冊となった。

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ブルージュの街を散策中、長い石塀をめぐらせている施設があったので、何の気なしに小さな戸口から入ってみると、そこには、林の中に白い建物が立ち並ぶ静寂な世界が広がっていた。旧ベギン会の修道院で、13世紀のフランドル伯夫人の手により設立されたが、現存の建物は、17世紀にさかのぼる。いまはベネデイクト会女子修道院として利用されている。ゲントには、二つのベギン会の修道院があるが、訪ねることができなかった。フランドル地方に14あったベギン会修道院は、ユネスコ世界遺産に登録されてるという。

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上が、ゲント市内全景。2002年当時の現地の観光案内書から。下は、正面が聖バーフ大聖堂。

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ゲントは、どこを切り取っても絵になるような街である。

ゲントについては、下記の当ブログ記事でもふれている。

エミール・クラウス展とゲントの思い出(2)(2013年7月9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/07/post-d279.html

 

 

 

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2022年5月12日 (木)

”短歌ブーム”がやってくる?短歌は商売になるのか

 けさ、遅い朝食のかたわら、テレビのチャンネルをまわしていると、なんと、短歌が話題になっている。「『サラダ記念日』以来の短歌ブームが必ずやってくる」と断言するのは『短歌研究』の編集長だった。「スッキリ」のようなワイド番組に短歌雑誌の編集長が登場するのも珍しい。

 岡本真帆(32)という人の歌集『水上バス浅草行き』(ナナクロ社 2022年3月)が、歌集ではめったになく、8000部も売れていて、書店でのサイン会や大手書店の短歌コーナーが紹介されていた。

・ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし

 という一首が紹介されていたが、「におわせ満載の、あるある短歌」で、正直、あまり好きにはなれない。ジェンダーの視点から見ると、眉をひそめそうな一首である。当然、俵万智も登場し、なぜ短歌がブームになったのかを聞かれて、SNSの影響が大きいという。やや不正確だが、短い言葉での表現の過程で、心も豊かになるといった趣旨のことを述べていた。歌集を読まずに申し訳ないが、岡本短歌も俵万智のかろやかさの流れをくむものであって、わかりやすいのは確かなようだ。

 歌壇には、もう一つの短歌ブームがあるようで、表現上では、口語で平明だが、一首として、私などには「意味不明」な短歌がもてはやされている。

 ところで、番組には、木下龍也という人の、注文に応じて短歌一首を1万1000円で売っている?様子も放映されていた。この歌人については、新聞等でも紹介されていた。依頼者の、いまの自分の状況や気持ちを短歌にしてほしいというオファーに応える短歌を作り、依頼者を励ましている現実があるという。なかには、その一首を「お守り」のようにしているという依頼者も登場している。

 要するに、お題に添って短歌を詠み、それを仕事にもしているのだが、現代の短歌のありようとして、「題詠」というのに、私は、いささか違和感を持っている。短歌の学習過程やゲームとしての題詠はあるのかもしれないが、本当の短歌の姿なのだろうか。というのも、戦時下において、著名歌人の多くが、「戦果」に応じて短歌を詠み、戦意高揚に貢献したという歴史、現代にあっても、天皇の決めた「御題」に従って、天皇に詠進するという「歌会始」の存在が、私には暗い影を落としているからである。

 短歌は、他人に注文するものではなく、多くの短歌との出会いの中から、自分の座右の一首を見つけるのを楽しみ、自らも詠んで、革まる気持ちを確かめるものではないかと。

 木下さんには数十件のオファーがあると言い、岡本さんのツイッターには「お仕事の連絡は・・・」などとあった。

庭の半分ほどを占めてしまう一本のヤマボウシ。どんな鳥なのだろう、この茂みの中でしきりに鳴いているようだった。

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2022年4月 9日 (土)

1922 -2022 年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(2)

 ほんとは『ポトナム』の歴史を少しでも伝えねばと思いつつ、いまは、ポトナム私史として、嫌われるのを承知で、あまりにも個人的な記録になってしまうかもしれない。

 私が、ポトナムに文章らしきものを初めて寄稿したのは、カール・サンドバーグ(1878~1967)の『シカゴ詩集』についてであったと思う(「『シカゴ詩集』について1~2」1964年8月~9月)。英文科出身で中学校の英語教師をしていた次兄の話を聞いて、『シカゴ詩集』(1916年)を岩波文庫の安藤一郎訳(1957年)で読み、いたく刺激されたのを覚えている。サンドバーグは、スウェーデンからの移民の子として生まれ、さまざまな職に就き、放浪もし、入隊もする。私淑していたP・G・ライト教授の影響で民主社会党員としても活動、20世紀初頭から、シカゴでの新聞記者生活が長い。「霧」といった、短い抒情的な詩も好きだが、「でっかい肩の都市」シカゴの文明と野蛮が交差する繁栄と猥雑を歌い、反戦・反軍を訴える。

 戦争

 昔の戦争では馬蹄の響きと軍歌の足音。

 今日の戦争ではモーターの唸りとゴムタイヤの騒音。

 未来の戦争では人間の頭では夢想だにされなかった無音の車輪

 と棒の擦過。・・・

「戦争」と題する、上のような一節もあった。過去の戦争と21世紀の戦争は、ない交ぜとなって、遠く離れた地からの砲弾は、住居や病院、劇場を破壊し、原発まで襲う。戦車や銃は、人間をなぎ倒して行く・・・。サンドバーグはもちろん、現代の人間でさえも夢想だにしなかった戦争が止められない現実を目の当たりにして、再読しているところである。そして、ほぼ同時代のベンシャーンの重い画集も取り出して眺めている昨今でもある。
 1970年に、「冬の手紙」30首で、前述の白楊賞を受賞、1971年7月に、第一歌集『冬の手紙』(五月書房)を上梓した。

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『ポトナム』550号(1972年2月)は、『冬の手紙』批評特集を組んでいただいた。評者は、大島史洋、佐佐木幸綱、森山晴美、菅野昭彦、島田修二、岩田正さんの六人であった。『閃』17号(1972年1月)では、田谷鋭、藤田武、水落博、西村尚、近藤和中、佐藤通雅さんの六人であった。当時「閃の会」代表の増田文子さんらの尽力で、お願いできたメンバーであった。励ましや叱声を受けたスタートではあったが、ようやくたどり着いたのが今日となると、忸怩たる思いである。

 1970年代に入って、『ポトナム』には、つぎのような論稿を発表した。静枝追悼号の年譜と解題は、荻原欣子さんとの共同作業であった。

・戦時末期における短歌弾圧 1973年6月

・占領期における言論統制  1973年9月

・阿部静枝著作解題・著作年譜 1975年2月(阿部静枝追悼号)

 1980年代に入ると、歌壇時評や作品合評などにもたびたび参加するようになり、2006年来の和田周三、芝谷幸子、安森敏隆代表時代は毎月エッセイを寄稿することもあり、苦しかったときもあったが、現在は、年に数回の時評などを担当、論争のきっかけにもなったりして、執筆の際の緊張は続いている。

 一方、その傍ら同人誌『風景』(醍醐志万子編集発行)に連載の「歌会始と現代短歌」(1983年10月~1988年1月)と合わせて、1988年10月には『短歌と天皇制』(風媒社)を上梓することができた。昭和天皇重病報道で、さまざまな規制がされる中だったが、決して便乗のキワモノでないことを短歌雑誌以外の月刊誌・週刊誌、全国紙・地方紙などの書評で論じてくださったのはありがたいことだった。以来、私のメインテーマの一つとなり、『現代短歌と天皇制(風媒社 2001年)『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 2013年)につなげることができ、「祝歌を寄せたい歌人たち1~4」(1993年9月~12月)、「戦後64年、「歌会始」の現実」(2009年8月)なども収録することができた。

 また、2000年1月より一年間、『図書新聞』に「短歌クロニクル」欄で歌壇時評を担当したことが縁で「インタビュー内野光子氏に聞く<現代短歌と天皇制>」という一面・二面にわたる特集記事を組んでいただいたことも忘れがたい。同じ頃、立教大学の五十嵐暁郎さんの呼びかけで、「天皇制研究会」に参加、遅れた出版ではあったが『象徴天皇の現在』(世織書房 2008年)にも参加できた。研究会では、二次会も含めて、共同通信社在職中の高橋紘さんらの貴重な話が楽しみでもあった。

 なお、『ポトナム』で、阿部静枝の晩年に指導を受けたこともあって、女性歌人への関心もあったからか、阿木津英さんの呼びかけで立ち上がった女性短歌史の研究会に参加、2001年には、阿木津さん、小林とし子さんとの共著『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史1945-1953』(砂小屋書房)でも、私は、阿部静枝らに、言及している。なお、この書は、石原都政最後の東京女性財団の出版助成を受けることができた。そして、つぎのような論稿も、今回の記念号の阿部静枝稿につなげることができた。

・阿部静枝―敗戦前後の軌跡 1997年6月

・内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか(上・下)2006年1月~2月

・戦時下の女性雑誌における「短歌欄」と歌人たち―『新女苑』を中心に 2017年4月(創刊95周年記念号)             

・女性歌人の評価は変わったのか―『短歌研究』『短歌』の数字から見る 2020年4月                       

 そして、あわせて、現在参加している「新・フェミニズム批評の会」での報告を経て、以下の論集に静枝論を寄稿することができた。

・阿部静枝の短歌は何が変わったのか~無産女性運動から翼賛へ(『昭和前期女性文学論』翰林書房 2016年)  

・阿部静枝の戦後~歌集『霜の道』と評論活動をめぐって(『昭和後期女性文学論』 翰林書房 2020年)

 私にとっての『ポトナム』は、生涯の師であり、友であり続けるだろう。

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左『ポトナム』816号(1994年4月)は、「小泉苳三生誕百年記念特集号」で、「小泉苳三著作解題」を寄稿、「小泉苳三資料年表」を相良俊暁さんとの共編で作成している。右『ポトナム』586号(1975年2月)は、前述の「阿部静枝追悼」特集であった。

 

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2022年4月 6日 (水)

1922~2022年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(1)

 1960年、私が入会した短歌会『ポトナム』が、この4月で創刊100年を迎えた。1922年4月、朝鮮の京城で、京城高等女学校教諭の小泉苳三らにより、植民地で生まれた雑誌である。100年といえば、1922年3月3日、部落差別を掲げ、水平社が京都で創立大会を開き、7月15日に非合法下で日本共産党が結成されている。ともに、紆余曲折があって今日に至っている。
 そして、1922年12月30日には、ロシア、南コーカサス、ウクライナ、ベラルーシを統合したソビエト連邦が成立していたのである。1924年レーニンの死後、スターリンが政権に就き、大粛清が実施され、1991 年のソ連崩壊とともにウクライナは独立した。いまのウクライナは、少なくともこの100年の歴史を背負っていることを知る。

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 そんな100年を思いながら、振り返ってみたい。この記念号の締め切りは一年前ほどにさかのぼるが、編集部の皆さんの尽力には計り知れないものがある。私は、文章としては、以下を寄稿している。これは、昨年2021年3月号の『阿部静枝の戦後~歌人、評論家、政治家としての足跡<1>付「阿部静枝著作年表<1945~>及び「阿部静枝関係参考文献一覧」に続くもので、面倒な年表は、協和印刷の方にも工夫をしていただいた。2回分の本文と年表1945-50年は以下の通りである。ただし、草稿をpdf化しているので、本文は縦組み、年表は横組みという雑誌の体裁とは異なる。まだ、1950年までなので、没年の1974年までだいぶ残っている。

・阿部静枝の戦後歌人、評論家、政治家としての足跡<2>付「阿部静枝著作年表<1945~>」及び「阿部静枝関係参考文献一覧」

ダウンロード - sizuenosengohonbun12.pdf

ダウンロード - sizuenenpyo194550.pdf

 

 歌詠みのブログにしては、自分の歌がさっぱり登場しないではないか、とよく言われるのだが、今回は、3か所に発表していることもあって、思い切って載せることにした。ご笑覧いただければありがたい。Img244

 今回、歴代の「白楊賞」受賞者の一人として、新作8首を寄稿した。誌名の『ポトナム』は朝鮮語で、「白楊」を意味するところから、「白楊賞」と名付けられたらしい。また、つぎの「窓という窓」は、記念号のアンソロジーという企画で、新旧問わず10首ということだったので、昨年出版した第4歌集『野にかかる橋』から選んだ旧作である。横組みの6首は、普段通りの4月号詠草稿である。

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風呂敷に『少年朝日年鑑』を携え通学の日々のありしを

結膜炎病みてプールは見学となりし六年の夏の水しぶき

旧友の営む地下喫茶室もうクラス会は最後かもしれぬ

平和通り進みて細き路地に入り旧島田邸「池袋の森」へ

池袋西武デパート店内を堤清二はひとりめぐりき

北口は「西口(北)」に変わりいて事件のありしホテルはどこか

 

下は、今回の記念号のグラビアから、記念号の表紙をコピーしてみた。(続く)

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2021年3月 6日 (土)

『非国民文学論』(田中綾著)の書評を書きました

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     イチジクの根方のスイセンが咲き出しました

 『社会文学』編集部からの依頼で、田中綾さんの新著『非国民文学論』の書評を書きました。金子光晴は、これまで、アンソロジーで読むくらいでしたが、今回、まとめて読む機会となりました。また、丸山才一の『笹まくら』も初めて読むことになりました。知ることのなかったことを知り、少しばかり学んだ気がしています。お気づきの点など、ご教示いただければうれしいです。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

田中綾『非国民文学論』(青弓社 2020年2月)書評     

本書の構成は以下の通りである。

第1部 非国民文学論 序章いのちの回復/第1章〈国民〉を照射する生―ハンセン病療養者/第2章〈幻視〉という生―明石海人/第3章〈漂流〉という生―『詩集三人』と『笹まくら』/終章パラドシカルな〈国民〉
第2部〈歌聖〉と〈女こども〉 第1章明治天皇御製をめぐる一九四〇年前後(昭和十年代)/第2章仕遂げて死なむ―金子文子と石川啄木

  いずれも二〇〇〇年以降十年間における論稿だが、第1部は、出版に際して、加筆・修正をしているという。序章では、北條民雄の小説「いのちの初夜」(一九三六年)を取り上げ、国家からも〈国民〉からも疎外された「ハンセン病療養者が『書く』ことを通して新しいいのちを獲得しえたこと」を評価する。第1章では、ハンセン病療養者の戦時下の短歌作品から「〈国民〉から疎外された環境にありながら、むしろ戦時のもっとも〈国民〉的なまなざし」を読み取る。第2章では、明石海人の歌集『白猫』(一九三九年)の後半「翳」に着目し、身体こそ拘束されながらも、何ものにも強制されない想像力で独自に構築していた作品世界を「〈幻視〉による生」と捉えている。これらの章では、短歌の一首一首を丁寧に読み込み、制約された環境の中で、「生き続ける」ことの意味を探り続けている作者たちに敬意を払うとともにその作品を高く評価する。著者のこれらの論述の根底には、ハンセン病に対する従来の「救癩の歴史」と「糾弾の歴史」という二項対立の構図から脱したいという思いがあり、多様な『生存』の営みの過程を具体的に明らかにした上で、近代日本のハンセン病問題を捉え直すという「新たな枠組み」(広川和花『近代日本のハンセン病問題と地域社会』 大阪大学出版会 二〇一一年)を目指しているからだろう。多様な生存の営みへの照射は重要である。しかし、たとえば、藤野豊による『「いのち」の近代史―「民族浄化」の名のもとに迫害されたハンセン病患者』(かもがわ出版 二〇〇一年)や戦前から国策としての絶対隔離政策、無癩県運動を批判してきた小笠原登医師による「強制隔離」の実態究明をも「糾弾」と捉えかねないところに、私は若干の危惧を覚えた。葬られてきたさまざまな具体的な事実を広く知らしめた役割も忘れてはならない。また、「救癩」の歴史には皇室との深いかかわりがあること、療養所内での文芸活動が「精神的慰安」になるとして政策的に奨励されていたことへのさらなる言及、検証も欲しかった。一九九六年「らい予防法」廃止以降、「らい予防法違憲判決」を経ても続くハンセン病療養者、家族、遺族たちへの差別を目の当たりにすると、一層その思いが募る。
 つぎに、著者は、金子光晴が疎開中の一九四四年一二月から四六年三月に、妻と息子の三人で綴っていた私家版の詩集「三人」(二〇〇六年古書店で発見、二〇〇八年出版、光晴の作品の一部は公表済み)に焦点をあてる。光晴は、妻森三千代、息子乾と家族三人が結束して、息子の二度の召集を病人に仕立てて逃れていた。著者は、徴兵忌避という行動のさなかの詩作に「家族以外どこにもよりどころがない漂流者としての視線」を捉える。一九三七年、光晴が出版した詩集『鮫』は抵抗詩集としての評価が高く、時には自虐的に、あるいは執拗なまでに嗜虐的に歌いあげた作品が多いと私も読んだ。光晴は、太平洋戦争下に雑誌等に発表した作品と発表のあてもなく綴っていた作品を、敗戦後の一九四八年に『落下傘』『蛾』として、一九四九年に『鬼の子の唄』として、一気に出版している。加えて、上記のような経緯で出現した詩集『三人』には、徴兵忌避をした息子を両親が守り抜き、励まし合うという詩作による「交換日記」の趣がある。その中の光晴自身の作「冨士」「戦争」「三点」「床」「おもひでの唄」が詩集『蛾』に収められた。「三人」では、呼び合っていたあだ名を、『蛾』への収録にあたって「子供」「父」「母」と普遍化し、加筆や修正も頻繁になされている。上記五篇の作品も、他の未発表作品と同様、完成させたのは敗戦後とみなすべきだろう。 
   
光晴の作品には、日付があるものとないものが混在し、雑誌への既発表作品を、詩集所収の時点で、日付を操作し(「瞰望」「真珠湾」「洪水」など、『落下傘』所収)、詩句を書き換えたりする。たとえば、『蛾』所収の「冨士」での書き換えや『落下傘』所収の「湾」は初出(『文芸』一九三七年一〇月)の「(略)地平は/音のないいかつち、/砲口は唸りで埋まる。戦はねばならない/必然のために、/勝たねばならない/信念のために」の傍線部が削除されたりする。『定本金子光晴全詩集』(筑摩書房 一九七七年六月)の光晴による「跋」には、若い時の詩に手を入れるなどするのも「しかたのないこととお宥し下さい。それから、詩集に入ってゐたもので意に充たないものは削除して」とあり、彼の作品鑑賞には、相当の考証が必要になろう。
   つぎに取り上げられた丸谷才一の小説「笹まくら」は、戦時下に徴兵拒否を選択した青年の中年に至るまでの〈漂流〉の物語である。本書では、敗戦後における、一市民の暮らしを脅かす「非国民」のレッテルの「連続性」に着目している点に、私も共感した。その「連続性」の由来については、作家も、著者も明確にはしていない。
 第2部の一九四〇年代に「明治天皇御製」の「謹解書」の類が噴出した背景についても、著者とともに考えたかったが、誌面が尽きた。(『社会文学』53号 2021年3月)

               Img051

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