2017年3月15日 (水)

今年の「建国記念日」は、甲府へ、石橋湛山記念館、山梨県立文学館と美術館と(2)

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文学館でも時間が足りない

 しっかりと時間もとって、ゆっくり見学するつもりであった。最初に入った文学館ではボランティアの説明の申し出があった。常設展の深沢七郎コーナーで、夫が「笛吹川論争って何ですか」と質問をしたところ、別の人に交代した。彼女は、熱心なあまりついに大きな声になってしまったのか、係員が飛んでくることもあった。途中で、2代目紅野敏郎館長の功績を讃えていたので、いまの三枝館長はどうですか、と思わず尋ねると「天皇家にも出入りしていて、近寄りがたいのですが、でも気さくな方ですよ、著書にも気軽にサインしてくれました」とのこと。

深沢七郎の「風流夢譚」が引き起こした出来事をどのように、説明・展示がなされているかが知りたかった。常設展示のカタログはないということであった。2011年の企画展「深沢七郎の文学<楢山節考>ギターの調べとともに」というガイドブックでは、「笛吹川論争」も「風流夢譚」もつぎのような説明であった。戦前のギタリストとして活動、「楢山節考」以後の小説家としての活動、「風流夢譚」以降のいわば身を隠すような暮らし、日本には本当に表現の自由を支えるベースがなかったことを表す一連の出来事、その後の執筆の傍ら農場や市井での暮らしに、ほっとする一面もあった。

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  なお、このハンドブックから、ハンセン病の医師、『小島の春』の小川正子の生家が春日居(現笛吹市)にあり、生家の近くには資料室や歌碑が何基かあるということをも知った。彼女は、光田健輔弟子であったが、1943年にっは結核で没している。光田は戦後もハンセン病患者の強制隔離を主張して、ハンセン病史に大きな汚点を残している。皇室とハンセン病のことを調べ、沖縄愛楽園を訪ね、ハンセン病のことを少しばかり知っただけに、今度は、訪ねたいと思った。

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 常設展の中では、飯田蛇笏・龍太、山崎方代などもゆっくり見たかったのだが、美術館のロビーコンサートもあるということで、だいぶ端折ってしまったのが残念だった。「新収蔵品展―直筆に見る作家のリアル」も開催されていて、ゆかりのある文学者の手紙や短冊が多かったなかで、新宿ハモニカ横丁“伝説の”文壇バー「みちくさ」関係の出品が多く、戦後まもないの文士たちの一面が見えてきて、興味深いものがあった。また、甲州市出身という竹内勇太郎の「赤胴鈴之助」や「三匹の侍」などの台本もかつてを思い出させる品々であった。

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文學館の窓から美術館と甲斐駒ケ岳を望む

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美術館入り口、企画展大きな看板

美術館へ 

美術館のレストランで昼食をとり、見学し始めたのだが、思いのほか時間がかかり、甲府の乗車予定を大幅に繰り下げた。ミレー館のミレーはやはり心落ち着くコーナーである。私は、バルビゾン派と言われる画家たちが描く、さまざまな「空」に引き込まれてしまう。ミレーの「空を見上げる羊飼いの少女」、トロワイヨンの「近づく嵐」の暗雲が迫るもと牛と牛を追う親子ののどかさ、テオドール・ルソーのフォンテンブローの森の空、ドービニーのオワーズ河の朝焼けの河面と空・・・。クールベは、その生き方も含めて、興味をそそられる画家の一人だが、ここでの「嵐の海」の印象はむしろ“激しさ”は感じられなかった。何年前か、オルセー美術館の入り口に陣取っていたクールベの「世界の起源」に衝撃を受けたことを思い出す。

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ミレー「空を見上げる羊飼いの少女」。リーフレット下段左がコロー「大農園」
右がルソー「フォンテンブローの森のはずれ」

 企画展の「没後100年野口小蘋」、野口小蘋(18471917)の名前は初めて聞いた。明治の女性南画家として、著名とのことであった。幼少より、四条派の絵画などを学んでいたが、父亡きあと19歳のとき、すでに絵を描くことを生業としており、上京後は、官命により皇后陛下御寝殿に草花図を八枚を描き、皇室にかかわる仕事が増し、華族女学校の嘱託教師も務めている。1907年には、女性で初の帝室技芸員に任命され、宮廷では絵画や装飾、調度品なども手掛け、優雅で、こまやかな作品を残す。その技法も確かな写生力がベースにあり、展示の鉛筆書きのスケッチや草花、昆虫などの写生帖には、説得力があった。

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「写生帖」より

 一泊の旅で、見残しが悔やまれる旅でもあったが、元気でありさえすれば、また出かけられると思うことにした。帰途の車中、長い笹子トンネルを通過するとき、昨年の小学校のクラス会で、担任のO先生から聞いた話を思い出していた。小学5年の遠足は昇仙峡だったという話で盛り上がったとき、先生は「トンネルに差し掛かると、あなたがね、このトンネルの長さは何メートルか、しきりに尋ねて来るんだよ」と話された。そういえば、小学校の高学年になったころ、私は、毎日、厚い『少年朝日年鑑』を風呂敷に包んで通学していたことを思い出していた。あまり夢のない「愛読書」だったわけである。作文は大嫌いだったが、壁新聞や夏休みの課題で模造紙に図表や年表を書いたりするのが好きだったなあ。そんなことを思い出していると、いつの間にか眠ってしまったようだった。

 帰宅後、「笹子トンネル」を調べてみると、このトンネルは、新旧2本あり、旧トンネルは 1902年に開通し、全長 4656m、下り線に使用され、上り線の新トンネルは1966年開通、全長 4670m、であることが分かった。遠足時には、まだ旧トンネル一本の時代だった。

 

 

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2016年11月 6日 (日)

『昭和前期女性文学論』(新・フェミニズム批評の会編 2016年10月)に寄稿しました

 すでに二年ほど前に提出した「阿部静枝の短歌はどう変わったか―無産女性運動から翼賛へ」と題する拙稿が、上記論文集に収録され、ようやく活字になりました。執筆者は、コラムを入れると、総勢30人を超え、511頁の大冊になりました。カバーの一部と参考までに出版案内のチラシを載せました。
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出版案内チラシ
 
 「新・フェミニズム批評の会」って?
 1991年に発足、「フェミニズム/ジェンダー批評を取り入れて文学作品の再評価や発掘をはかると同時に、これまで女性作家やその作品を正当に評価してこなかった日本の文学史の書き換えを目指し」(本書「はしがき」)、毎月一回の研究会を開き、これまでも『明治女性文学論』(2007年)『大正女性文学論』(2010年、ともに翰󠄀林書房)を刊行し、このシリーズ第三弾にあたります。他に『樋口一葉を読み直す』『『青鞜』を読む』も刊行していす。直近の 『<311フクシマ>以後のフェミニズム』(御茶の水書房 2012年7月)に、私は「311はニュースを変えたか~NHK総合テレビ<ニュース7>を中心に」を寄稿しています。
 
「阿部静枝」って?
 決してポピュラーな歌人ではありませんが、大正時代に創刊の短歌結社『ポトナム』の指導者の一人で、私が学生時代、短歌に関心を持つきっかけにもなった「阿部静枝」(18991974年)は、私の生家にも近い池袋に住まい、ながらく豊島区議会議員を務めていました。毎月の「東京ポトナム」の歌会では、きびしくも、必ず褒める一か所を見い出してくれる師でもありました。
 阿部静枝については、これまで、断片的にいくつか書いてきましたが、今回は、阿部温知という無産政党政治家との結婚を機に、短歌のテーマや表現に広がりを見せ、その社会的活動も活発となりながら、夫の急逝を経、無産政党終息への過程でその知見と弁舌は、政府、軍、多様なメディアにより重用されていきます。この時代の静枝に焦点をあてました。近著『天皇の短歌は何を語るのか』に収録した「戦時下の阿部静枝~内閣情報局資料を中心に」は、発見以後、あまり利用されることががなかった内閣情報局の内部資料により、当時の女性作家や評論家がいかにマークされ、利用されようとしていたかを考えましたが、それと対をなすものです。
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2016年7月28日 (木)

『ユリイカ』8月号、<特集・新しい短歌、ここにあります>に寄稿しました。

 私は、つぎの題で書いています。

◇三十一文字のポエティック

タブーのない短歌の世界を―「歌会始」を通して考える

以下の目次を見ると、拙稿は、場違い?アウェー?の感を免れませんが、いろいろ頁を繰っていると、思いがけない”歌人”にも出会えますし、これから短歌を始めたい人も、短歌を詠み始めて久しい人も、たかが短歌と思っている人も、新しい発見があるかもしれません。

目次は以下をご覧ください。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=2962

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2016年5月22日 (日)

白蓮年譜の空白~『塹壕の砂文字』献呈先から探る〜

(3月20日の本ブログ記事「〈短歌サロン九条〉(憲法九条を守る歌人の会)“柳原白蓮を語る”に参加しました ~「評伝」におけるオマージュについて」でも触れていましたが、『日本古書通信』に寄稿の「白蓮年譜の空白」を再録します。

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白蓮年譜の空白~『塹壕の砂文字』献呈先から探る〜

NHKの朝ドラ「花子とアン」で村岡花子と柳原白蓮をモデルとした人物の描き方が、あまりにも史実とかけ離れ、ひとり歩きしているのを知って、ブログで異議を唱えていた。そんな折、櫻本富雄氏から、文庫大の宮崎燁子(柳原白蓮)編『支那事変歌集 塹壕の砂文字』(協和書院 一九三八年九月)を頂いた。表題紙(遊び紙)に「昭和十三年十月 白蓮」のサインがあり、左上には「贈呈 松本恒子様」とある。その「松本恒子」が気にかかる旨の添え書きも一緒だった。

とりあえず、短歌史や女性史などの辞典や年表類を調べ、ネット検索もしてみたが、「松本恒子」のことは分からなかった。

二〇一五年一一月、東京池袋の西武で「愛に生きた歌人・柳原白蓮の生涯展」が開催された。早速出掛けたが、白蓮の出自、宮崎龍介との「出奔」前後の経緯や往復書簡、敗戦直前の長男の戦死の悲嘆からのめり込む平和運動などに焦点があてられていて、日中戦争下の展示や記述は極端に少なかった。

「生涯展」にはなかった白蓮の『支那事変歌集 塹壕の砂文字』とは、「あとがき」によれば、「東洋平和、亜細亜民族の福利」を目指し、前線と銃後の「双方を結びつける魂と魂の親交を願つて」編集されたアンソロジーで、募集した短歌と新聞歌壇などの作品を収録し、白蓮自身もつぎのような短歌十首を寄せている。このアンソロジーは前年一九三七年の日中全面戦争突入を受けて刊行された読売新聞社編『支那事変歌集』(三省堂)や大日本歌人協会編『支那事変歌集戦地篇』(改造社)(ともに一九三八年一二月)に先駆けるものであった。

・旗ふるよあれは誰が夫たれが子ぞ命をわすれ出征つますらを

・やがてきく東洋平和の鐘の音に君がいさをもなりひゞけとぞ

献呈された「松本恒子」がやはり気になり出し、ネット検索を再開すると、意外なことが浮上してきた。一つは「山ちゃん1952」というブログで、内務省警保局の資料に「生長の家現勢一覧表」として、総裁谷口雅春以下役職者の名前が並ぶなか、「婦人部長 松本恒子」の記載もあることが分かった。さらに、生長の家婦人部の雑誌『白鳩』創刊号(一九三六年三月)復刻版を知り、彼女は「白鳩会の生ひ立ち」「白鳩会の使命」を執筆、『生長の家三拾年史』はじめ『同四拾年史』、『同五十年史』にも登場し、生長の家初代の婦人部長、白鳩会初代会長で一九四四年まで務めていたことを確かめた。

そこで、手もとの白蓮の主な伝記(注1)や思想的な系譜をたどった文献(注2)などにもあたるが、「生長の家」への言及は見当たらなかった。さらに、白蓮自身が宗教について綴る『大法輪』『宗教公論』『心霊研究』などの文章も読んでみたが、その片鱗も伺えなかった。

国立国会図書館OPACで<生長の家/柳原白蓮>を検索、ヒットは「『白鳩』(一〇九号)」の一件であった。ようやくたどり着けるかと思ったが、白蓮は、読者歌壇「生活の歌」の選者だった。その後、白蓮の選は見えないが、エッセイの寄稿は確認できた。『白鳩』の読者歌壇は、欄名・選者を変え、一時中断もあったが、白鳩会三代目の会長でもある歌人日比野友子が永らく務め、一九五八年からは中河幹子が引き継いでいる(ちなみに二〇一二年七月からの選者は小島ゆかり)。

松本恒子と白蓮の直接の接点は、まだ見出せないが、生長の家の幹部と『白鳩』歌壇選者の白蓮との親交は推測できる。生長の家は、大本教の出口王仁三郎の側近だった谷口雅春が、一九二一年第一次大本教事件を契機に大本教を離れ、一九三〇年に開いた神仏混淆の新興宗教である。病苦や貧困の解決を説き、天皇信仰・大陸進出・聖戦完遂を推進していた。

ここで思い起こすのは、白蓮が宮崎龍介のもとに「出奔」した事件後、身をひそめていた住まいが、出口王仁三郎紹介による大本教信者中野岩太の京都府綾部の別荘であったこと、関東大震災後の龍介・白蓮の転居先も、東京の中野家の離れだったことだ。中野岩太は、王仁三郎のもとを離れ、浅野和三郎が立ち上げた心霊科学研究会のメンバーとなった人物である。大本教と白蓮の関係は確かだが、そこを離れた谷口雅春との関係は、不明である。

一九四〇年代に入って、白蓮は、『婦人倶楽部』<靖国の英霊に捧げまつる>特集(一九四〇年一〇月)に、読者歌壇の選者として、今井邦子、中河幹子らとともに、つぎのような歌を寄せている。

・征きてみ楯死にて護国の神となる男の中の男とぞおもふ

また、長谷川時雨を中心に相寄った女性作家たちが銃後支援をめざした「輝く会」主催の九段対面の日、遺児の日の白扇揮毫に参加、機関誌『輝ク』には、つぎの二首が見られ、佐佐木信綱編『新日本頌』(八雲書林 一九四二年一一月)には自選十六首を寄せている。

・天が下やがて治まり日の出ゆ東亜の空によき春来れ(九段対面の日)(一九四〇年四月)

・やがて鳴る東洋平和のかねの音に君がいさをもなりひびけとぞ(遺児の日)(一九四一年四月)

・大君のみことのまゝぞ生も死も我のものならずいざ子どもらよ(『新日本頌』)

『日本短歌』(一九四四年二月)の<皇軍将士におくる歌>女性歌人特集で、白蓮は「吾子は召されて」と題して寄稿、わが子に及んだ出征という事実の前に、気持ちは動揺したと思うが、つぎのような「祝出征」の作品が八首並ぶ。さらに、「一片の雲は南に急ぐなりけふのいくさの神集ひかも」などを加え、『皇道世界』(一九四四年二月)にも発表した。これらは、白蓮主宰の『ことたま』(同年一月)に発表済みの作品とも重複する。

・国をあげて極まるときし召されたり親をも家をも忘れて征けや

・日の丸の御旗を肩にかけて征くあれが我子よと見てたもれ人

・借りたるをかへすが如く有難く吾子をたたせて心すがしき 

 こうした作品群がまったくなかったように、後の作家たちは、昭和初期の白蓮事件から一挙に戦後に飛び、平和運動家になった白蓮を賛美する。歌人たちも、白蓮の日中戦争下の短歌を語ろうとしない。各種の年譜においても、日中戦争下の記述は白紙に近く(注1②③⑤⑥)、上記の『塹壕の砂文字』も登場しない。しかし、菅(注2②)は、このアンソロジーに寄せた白蓮の十首と小説『民族のともしび』(一九四三年 奥川書房)に着目、素朴な母子の愛情が国家によってどのように母性ファシズムへと変貌し、戦時下の人々を支配したのかを分析している。秋山(注2③)は、定義が不明なまま、「公の歌」と「私の歌」と称し、『塹壕の砂文字』の作品は「公の歌」とし、出征するわが子を見送る一連には両者が混在していると捉える。この二人の評者も、その他の日中戦争下の夥しい数の作品には触れない。

 今回、一冊のアンソロジーの献本先から、日中戦争下、積極的に戦争協力していた生長の家と白蓮の親密性、種々のメディアに発表した作品を読み込み、読者歌壇の選者としての足跡をたどり、まず、伝記や年譜の空白を埋めた上での柳原白蓮の検証や評価の必要性を痛感した。とともに、一冊の本が私の手元に届くまでの七八年間の道のりを思うと古書界の深さ、ものを書くという表現者の覚悟の重さを思うのであった。

1 ①宮崎龍介:柳原白蓮との半世紀 文芸春秋 一九六七年六月 ②永畑道子『恋の華・白蓮事件』 新評論 一九八二年一一月 ③野々宮三枝:柳原白蓮略年譜 短歌 19923月 ④林真理子『白蓮れんれん』 中央公論新社 一九九八年一〇月 ⑤馬場あき子ほか『流転の歌人・柳原白蓮』 NHK出版 二〇一四年八月 ⑥宮崎蕗苳監修『愛に生きた歌人・柳原白蓮』 河出書房新社 二〇一五年一一月

2 ①水野昌雄:白蓮―その思想遍歴 短歌 一九九二年三月 ②菅聡子:柳原白蓮の<昭和> お茶ノ水女子大学人文科学研究5 二〇〇九年三月 ③秋山佐和子:私の歌、公の歌― 柳原白蓮と戦争 短歌研究 二〇〇九年一一月 ④中西洋子:柳原白蓮における歌の変容と到達 目白大学人文学研究8 二〇一二年二月      (『日本古書通信』20164月)

 

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2016年5月17日 (火)

「平和の俳句・老陛下平和を願い幾旅路」(『東京新聞』2016年4月29日)

  やや旧聞に属するが、連休中の新聞は、旅行中だったり、帰宅後高熱に見舞われたりして、しばらく読めなかった。まとめて読んでいて驚いたのである。  冒頭の俳句は、東京新聞が昨年から戦後70年を記念して広く募集している「平和の俳句」企画の一環で、昭和の日に発表されたものだった。作者は74歳とある。いとうせいこうと金子兜太が選句、毎日、一面に一句づつ連載されている。ときどき、編集部員の選句などの特集をやっていて、興味深く読んでいた。ところが、この日の金子兜太の選評に驚いた。「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。」とあったのだ。

    しかしである。この句を選び、上記のような選評を寄せた金子兜太(1919~)といえば、直近では「アベ政治を許さない」とのプラカードを揮毫した俳人である。この違和感は何だろうか。 もっとも、少し、さかのぼれば、日本銀行を定年まで勤め、句作に励み、俳句関係の賞を総なめにし、1988年紫綬褒章、1996年勲四等旭日章、2003年日本芸術院賞、2008年文化功労者を受章、残すは文化勲章くらいと思われる”順調な“コースを歩んできた俳人と言えよう。さらにさかのぼれば、1941年から『寒雷』に投句、加藤楸邨に師事、敗戦後、文芸上の「社会性」が問われると「社会性は態度の問題である。―社会性があるという場合、自分を社会的関連のなかで考え、解決しようという『社会的な姿勢』が意識的にとられている態度を指している」(「俳句と社会性」『風』1954年11月)と表明、方法を模索、前衛俳句の旗手として活躍」(松井利彦編『俳句辞典近代』桜楓社1977年11月126頁)した俳人だった。「俳句造型論」を掲げ、社会性俳句を経て、更に難解性を増し、主体の尊重から季語を持たない一行詩の性格を強めたが、その後は伝統への回帰を志向していると、その辞典にはあった。1962年『海程』を創刊、後代表となり、1987年からは「朝日俳壇」の選者を務め、今日に至っている。俳人だった父を持つ出自といい、歌壇でいえば岡井隆のコースにも似ているな、と思った。さらにさかのぼれば、1943年、東京帝大経済学部を繰り上げ卒業して、日本銀行に入り、海軍経理学校を経て海軍主計中尉として、トラック島に着任、飢えのため多くの部下を失って、捕虜となり復員・復職している。戦地を去る日を「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置いて去る」と詠んでいる。過酷な戦地体験が、後の句作に大きな影響をえていると、本人もいろいろなところで述べている。

    金子兜太に限らず、近年の天皇夫妻の被災地訪問や戦没や慰霊の旅や「おことば」についてメディアで発言するとき、突然、最高級の敬語を使ったり、その「平和を願う」内容を称揚したり、その労をねぎらう「識者」や「文化人」が増えてきている。「歌会始」の傘のもとにある歌壇人はじめ、保守政治家・論者・政治団体ならいざ知らず、リベラルや民主主義を標榜している人々の中にも、目立つようになった(文・矢部宏治、写真・須田慎太郎『戦争をしない国―明仁天皇メッセージ』 小学館2015年7月など)。また、これまでの「党是」により出席を拒んできた日本共産党が天皇の出席する国会開会式に出席し、歌会始の選者を赤旗歌壇の選者に据えるなど、天皇への傾斜や親密性をあらわに表明してはばからない。その理由が実に粗雑極まりないのである(「ことしのクリスマス・イブは(2)(3)~なんといっても、サプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった!(その1・2)」2015年12月28日。「ことしのクリスマス・イブは(4)~歌会始選者の今野寿美が赤旗「歌壇」選者に」2015年12月29日参照。http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/index.html   )。

  憲法上の「象徴天皇制」のもとですら、その法的根拠が曖昧な天皇や皇族の行為をこのまま見過ごしてしまってよいのかとも思う。いまの政治が余りにも反動的だからと言って、「天皇」にすがるような、寄りかかるような言動は、慎まなければならない(「戦後70年 二つの言説は何を語るのか」 2016年1月11日http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/01/70-6a1c.html)。 天皇夫妻は、今月の19日にも日帰りで熊本の被災地を訪問する予定という。被災住民の住居確保、瓦礫処理がすすまないところも多く、天皇夫妻を迎える準備や警備についても十分想像ができるなか、いつも思うのは、マス・メディアは好んで、訪問先の人々の感謝の言葉や前向きな声を拾おうとするけれど、具体的にはどんな成果が期待できるのだろうか。  結論から言えば、現政府の対応のまずさや遅れを、精神的に少しでも補完し、緩和する役目しか果たしていないような気がしてならない。天皇夫妻の、その個人的な誠意とは別に、結果的に現政府を利するという政治目的のために利用されてはいないのか。そうした懸念を拭い去れないでいる。皇室、天皇への傾斜や親密性の拠って来るところは何なのか、日本にとっても、私にとっても大きな課題である。  

    「日の丸・君が代」裁判の教師たちの弁護人の一人である澤藤統一郎弁護士のブログで、いち早く、くだんの「平和の俳句」に触れている記事を後から知った。あわせて、お読みいただければと思う (「昭和の日」の紙面に、「いま読む日本国憲法」と「天皇ご夫妻に頭が下がる」の記事「澤藤統一郎の憲法日記」2016年4月29日http://article9.jp/wordpress/?p=6807 )。

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2016年 4月29日『東京新聞』一面

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2015年11月16日 (月)

「愛に生きた歌人・柳原白蓮の生涯展」へ

 池袋の実家に出かけるついでに、西武別館ギャラリーで開催中(~1116日まで)の表記「白蓮展」に出かけた。まさに、予想通り、高齢の女性たちが人垣を作っていた。歌人白蓮に関心がある人たちというよりテレビ「花子とアン」のファン層が多かったのではないか。

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 展示会への違和感はどこから

カタログや出品資料目録もないので、メモを取ろうとペンと手帳を取り出すと、係員が飛んできて「ペンはいけません」と制止する。「すみません、鉛筆を貸してもらえますか」とお願いすると「ご用意はいたしておりません。メモすることがいけないことになっています」「なぜですか、少しメモを取りたいのですが」「申し訳ありません、そういうことになっております」とのこと。仕方がないので、ロッカーまで戻って、バッグのポケットから鉛筆を探して持ち出した。あとは、係員の目を気にしながら、最小限度のメモを走り書きするしかなかった。なぜ? 写真がイケないというのは、理解できないことではない。しかし、メモ自体がイケないとは!

 戦時下の白蓮は

会場は、チラシにあるように、十四の章に分かれていた。やはり私が気になるのは、戦時下の白蓮の活動をどう伝えるかであった。これも予想にたがわず、空白なのであった。つまり、「第十章 歌人柳原白蓮」「第十一章 平和運動へ」「第十二章 中国との交流」「十三章 晩年 安らかな暮らし」という流れだったので、戦時中にあたる章を設けていなかった。第十一章に、「香織の戦死、平和運動へ」との解説があり、学徒出陣で出征中の長男が、敗戦の4日前、鹿児島空襲で亡くなった衝撃から立ち直って翌年1946年には「悲母の会」を立ち上げ、平和運動に参加していく経過がたどられる。そして「十二章」は、戦前からの宮崎龍介とその父との関係から、戦前・戦後を通した、蒋介石や孫文、毛沢東らとの交流が多くの写真と共に語られていたが、「十二章」の冒頭の解説には「戦局悪化に伴い、宮崎家は、中国との懸け橋になるべくギリギリの活動を行ったが・・・」といった趣旨のことが書かれているのみだった。宮崎龍介の無産政党運動の中での位置づけも不明確なままだった。龍介が、近衛文麿の蒋介石への「密使」として送られようとした「密使事件」として言及し、白蓮ともども「反戦」思想の持ち主のような捉え方が強調されていた。

戦時下の白蓮の活動については、当ブログの以下を参照されたい。

◇ これでいいのか、花子と白蓮の戦前・戦後(4)「花子とアン」が終わって白蓮の戦前戦後を振り返る(2014年10月)

  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/10/post-2de4.html  

 私には、一つの宿題があった。「花子とアン」放送中、上記ブログを書いている折、櫻本富雄さんから柳原白蓮選によるアンソロジー『支那事変歌集 塹壕の砂文字』(協和書院 19389月)を送りいただいていた。自筆と思われる贈呈先の名前と白蓮の署名と日付が書かれているものだった。その献本先の氏名に心当たりがないかとのことでもあったので、とりあえず、女性史や女性文学史、歌人関係の辞典や書物を調べてみたが、不明だった。もしかしたらとも思ったが、展示にかかるものからは分からなかった。あらためて、再び家でネット検索していると、「生長の家」の幹部であるらしいことが分かった。

そのアンソロジーは、白蓮の「あとがき」によれば「前線にあられる方々と、銃後の留守を預かる私共と、双方を結びつける魂と魂との親交を願って、せめてお互ひに励ましあひ」とあり、白蓮身辺の歌集とともに、新聞歌壇などの作品にも対象を広げたとある。白蓮自身も巻末に、つぎのような10首を寄せている。

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売店で、展示会カタログの代わりという「ガイドブック」を購入したところ、章立てと構成が異なるものの、今回の展示の概要がわかる形にはなっていた(『柳原白蓮の生涯 愛に生きた歌人』宮崎蕗苳監修 河出書房新社 201511)。その売店のところで、私が参加している研究会での大先輩でいらっしゃる近代文学専攻の渡辺澄子さんにお遭いした。このガイドブック巻頭の論考を書かれているとのことだった。帰路の車内で早速読み始めると、その論考でも、このアンソロジーに触れていることが分かった。

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やはり、ここでも「年譜の空白」

さらにこの「ガイドブック」を読み進めると、巻末に1頁の「白蓮略年譜」が付されていた。やっぱりというか「昭和12年(1937)盧溝橋事件、龍介の密使事件のため憲兵隊に召喚」とあり、次の行が「昭和20(1945)811日学徒出陣中の香織、鹿児島県の串木野(現・いちき串木野市)にて空爆により戦死」とあり、上記アンソロジーの出版の記述もない。

当ブログでも触れた「土門拳記念館」の「年譜」でも、1944年、海軍省の依頼による霞ケ浦の予科練での密着取材の件に触れられることなく、空白であった。ここに、共通する姿勢は何なのか。一人の人間、とくに文芸の表現者の生涯をたどるとき、ある時期の表現活動を封じるということが、なにを意味するのか。さまざまな表現者たちが、そうした「操作」を繰り返すことは、史実を歪め、歴史を歪めることになるのではないか。

そう考えると、私が必要上よく利用する、歌人の年譜や短歌史年表の類の一行は、編者や作成者の思想がまともに反映する、大切な一行であることを痛感するのだった。

絢爛たる「恋文」

今回の展示会の圧巻は、なんといっても白蓮が伊藤伝衛門邸のもとから宮崎龍介へと送った恋文の公開だろうか。2年間にわたる約700通の手紙が残されているという。実に華やかな大阪の柳屋製の竹久夢二が描く絵封筒、巻紙、便箋はじめ、白蓮自作の歌が刷り込まれた歌封筒などが用いられている。その一部が展示されていた。さらに、白蓮が伊藤家を出奔した「白蓮事件」後、いわば幽閉されていた時期に龍介とかわされた書簡などの展示も初公開だという。パソコンや携帯電話、スマホなどのない時代の、その書状の量に圧倒されたことは確かである。現代の恋人たちは、いったいどんなふうに、ことばをかわすのだろうか。

なお、会場には、白蓮の肉声を聞かせるコーナーがあって1957310日、NHKラジオ放送番組の一部を流していた。シャキシャキした、気さくな物言いで、華族女学校在学中の様子を語る部分だったのだろうか、先生の下田歌子について「ほんとうにおきれいな方でしたよ、その頃の先生と言えば、きれいな方はいなかったんですけれど・・・」みたいなことを、さらっと言ってのけていたのには、少々驚いた。かつて皇太子と正田美智子さんの婚約が成立したとき、異を唱えていたという白蓮の一面と共通したものを感じるのだった。複雑な家族関係や生い立ち、その後の2度の結婚による抑圧された生活が逆に作用しているのだろうかとも。

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2015年7月29日 (水)

田中綾著『書棚から歌を』(深夜叢書社 2015年6月)を読んで

 著者がまだ院生の頃、師の菱川善夫氏とご一緒で、札幌でお会いしたときの印象が色濃く、新進の学究と思っていたが、「親子ほど年の離れた学生と接し・・・」と「あとがき」にあり、愕然としたのは私の方だった。また、「〈明治〉〈大正〉〈昭和〉〈GHQ占領期〉をまとめて〈昔〉の一語で片付ける彼/彼女らに、近代と、私たちの〈今〉とは地続きであることを伝えなければ・・・」ともあり、切迫した想いが執筆の動機とある。しかし、『北海道新聞』に連載中のコラム(今回の収録は、200911月~20151月)でもあるので、講義のような堅苦しさはなく、読みやすく、何よりも対象の書物の幅が広い。歌人ではない著名人のあるいは無名の人たちの短歌も拾い上げられ、その作品と作者の物語性や意外性が、なんとも興味深い。

 初回が、斎藤慎爾『ひばり伝』(講談社 2009年)から、美空ひばりが小林旭との祝宴の折に発表された「我が胸に人の知らざる泉あり つぶてをなげて乱したる君」の1首が表題となり、その背景が語られる。2回目が、太宰治『斜陽』のために自らの日記を提供した太田静子(19131982)が、結婚前の若いころ、口語による、定型にこだわらない「新短歌」にのめり込んだ時代の1首「樹液の流れに 上衣が失はれはじめた いま動けば 美しい攪乱がくる」を引く。これは、著者の「新短歌」史・逗子八郎研究の余滴でもあったのではないか。

 土岐善麿「十五単位司書の資格をとりしこともわが生涯の何の契機か」は、犬伏春美・犬伏節子『土岐善麿と図書館』(新典社 2011年)から引いた1首。東京都立日比谷図書館長(19511955)を務めた善麿の社会的活動の一部を伝える。図書館法によれば、1968年までは、司書資格取得に15単位が必要であった。私が、名古屋の愛知学院大学司書講習会で参考業務演習を担当していた時代(19771988年)は19単位だった。1単位のために、1週間余を通しての演習はきつかったが、それが1か月以上続く受講生はその比ではなかったはずだ。それでも、その資格を活かして、正規の図書館館員として就職する人はかぞえるほどだった。その後、資格取得には、1998年からは生涯学習論や児童サービス論が加わり、2011年からは大幅に再編され、情報サービス演習、情報資料組織論演習が加わり、24単位になったそうだ。IT時代に入ったのだから、図書館サービスの様変わりは当然のことだろう。ただ、大学図書館での非正規職員、公共図書館での外部委託・指定管理者制度の問題は、今後の図書館サービスの質的な向上に深刻な問題を投げかけているのはたしかである。そんな思いをも立ちあがらせる1首であった。

 林うた「教ふるに故なく笑ふこと多き此の少女等とはへだたりとほき」の「林うた」は、東京の女子高等師範学校を出て、郷里の高等女学校で教鞭をとっていた頃の歌人、阿部静枝のペンネームである。無産婦人運動の活動家であって、後、評論家、政治家としても活動した。50数年前に、私が短歌の手ほどきを受けた師でもある。同郷の菅原千代による『林うた歌集さいはひ』(左右社 2012年)から引いている。

 朝日歌壇に入選が続いたホームレス歌人公田耕人、獄中歌人郷隼人も登場し、小林多喜二や山本周五郎、出口王仁三郎の短歌も登場する。

短歌を詠む人、短歌を語る人はもちろん、これまで短歌に縁がなかった人でも、どの頁から読み始めても、十分楽しめる一冊ではないか。

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装画は池澤賢「熔鉱爐」(1949年)

 

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2015年7月 9日 (木)

採択を控えての教科書展示会に出かけた~「国語」のなかの<近代・現代短歌>

   「ハンパナイ」などといって、カタログハウスのダニとりシートのコマーシャルに親子で出演の俵万智をみた。今世紀に入ってからの中学生の誰もが、「国語」の時間に出会っている現代歌人である。
  近くのコミセンで教科書展示会が開催されていたので、最終日の午後、雨のなかを出かけた。展示会と言ってもロビーに長机を出してのそっけないもので、隣のホールは、ドア開放でダンスパーティーまっさかりのすごい音響である。ゾロリとした夜会服を着た女性たちがにぎやかに行き来するなかでの閲覧であった。メモをとっていると、よほどご機嫌がよろしいのか、背後から「オベンキョウですか」なんて覗いてきたりする雰囲気だった。展示の閲覧は、他に女性二人連れだけだった。

  今回も時間がなく、大急ぎではあったが、「国語」の近・現代短歌の扱い、「歴史」における敗戦前後の扱い、「公民」における憲法、なかでも天皇についての記述に着目したかった。やっぱり、初日から通うほどの時間が欲しかったと悔やまれるが、時間ぎりぎりの5時近くまでねばった。コピーがとれないというので、もっぱらデジカメで撮るのが精いっぱいで、大事なところが抜けたりしていた。

  教科書は、ほぼ10年に一度の学習指導要領の見直しがされる中で、4年に一度、検定・採択が行われる。まず、民間で著作・編集された教科書は、2年目に文科省の審議会で検定を受け、合格したものの中から各自治体の教育委員会や国立・私立学校の校長が使用する教科書を選び、その採択を前に、市民には展示される仕組みになっている。その際、採択に関しての意見や要望を投函できることになっている。今回は、2016年度4月から使用される教科書の検定結果が4月6日付で公表された。 とりあえず、国語教科書の状況を記しておきたい。

  ちなみに、筆者の住む佐倉市では、『伝え合う言葉 中学国語』(教育出版)が採択されている。

   現在、検定を受けた中学校「国語」教科書は、東京書籍、学校図書、教育出版、三省堂、光村図書 の5社から発行されている。 (以下の文部科学省「中学校用教科書目録(平成28年度使用)」では、全科目確認できる)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/h27tyuugakuitibakenkyukasysaitakuitiran.pdf

  拙著『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 2013年)の「中学校国語教科書の中の近・現代歌人~しきりに回る〈観覧車〉」の章でも、五社発行の2006年度、2012年度から使用している教科書の比較を試みている。今回の展示で、2016年度から使用の教科書に収録された近代・現代歌人の作品を調べてみた。
  以下その一覧と各社教科書がどう変わったか、変わらなかったかを概観してみようと思う。過去の分については、上記拙著か過去のブログ記事をご覧いただくとありがたい。

・2011年11月30日
中学校国語教科書の中の近代・現代短歌と短歌作品~しきりに回る「観覧車」http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/11/post-de32.html

  まず以下の収録の歌人と作品を一覧して、どんな感想を持たれただろうか。自分たちが出会った歌人と作品を思い出してみよう。私は短歌と近代の歴史事項に限って追跡してはいるが、たとえば、美術の教科書、音楽の教科書にも地殻変動は起きている。一度、お子さんやお孫さんの教科書をのぞいてみては。

(1)「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
~中学校では、“ハンパナイ”俵万智である~

 中学校で、歌人と言えば、「俵万智」であり、短歌と言えば、『「寒いね」と・・・』ではないだろうか。教科書に登場する歌人の短歌を作者の生年順に並べた。掲載の教科書の出版社の略称をカッコ内に示した。

  <中学校国語教科書(2016年より使用)収録の近代・現代歌人の作品>

正岡子規(1867~1902) 4社(教育除く)
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる(学図・東書・三省堂・光村)
窪田空穂(1877~1967)
麦のくき口にふくみて吹きをればふと鳴りいでし心うれしさ(光村)
与謝野晶子(1878~1942) 4社(学図除く)
なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな(光村・教育)
その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな(三省堂)
金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に(東書)
小百合さく小草がなかに君まてば野末にてほひ虹あらはれぬ(教育)
斎藤茂吉(1882~1953) 5社
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆ(学図・三省堂・教育)
ただひとつ惜しみて置きし白桃のゆたけきを吾は食ひをはりけり(光村)
最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片(東書)
みちのくの母のいのちを一目みん一目みんとぞたたにいそげる(教育)
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり(教育 )
北原白秋(1885~1942) 3社(光村・学図除く)
帰らなむ筑紫母国早や待つと今呼ぶ声の雲にこだます(教育)
草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり(東書・三省堂)
土岐善麿(1885~1980 )
遺棄死体数百といひ数千といふいのちをふたつもちしものなし(学図)
若山牧水(1885~1928) 4社
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(東書・三省堂・教育・光村)
石川啄木(1886~1912) 5社
不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心(東書・学図・三省堂・光村)
やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに(教育)
ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく(教育)
釈迢空(1887~1953) 2社
たたかひに果てにし子ゆゑ 身に沁みて ことしの桜 あはれ 散りゆく(学図)
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり(三省堂)
岡本かの子(1889~1939)
桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり(東書)
植田多喜子(1896~1988 )
顔よせてめぐしき額撫でにけりこの世の名前今つきし児を(学図)
正田篠枝(1910~1965)
大き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり(教育)
竹山広(1920~2010)
死屍いくつうち越こし見て瓦礫より立つ陽炎に入りてゆきたり(教育)
岡野弘彦(1924~)
砂あらし 地を削りてすさぶ野に 爆死せし子を抱きて立つ母(学図)
馬場あき子(1928~) 2社
つばくらめ空飛びわれは水泳ぐ一つ夕焼けの色に染まりて(光村)
あやまたず来る冬のこと黄や赤の落葉はほほとほほゑみて散る(学図)
岡井隆(1928 ~)
眠られぬ母のためわが誦む童話母の寝入りし後王子死す(学図)
寺山修司(1935~1983)4社(教育除く)
わがシャツを干さん高さに向日葵は明日ひらくべし明日を信ぜん(学図)
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり(東書・光村)
列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし(三省堂)
平井弘(1936~)
困らせる側に目立たずいることを好みき誰の味方でもなく(学図)
佐佐木幸綱(1938~)
のぼり坂のペタル踏みつつ子は叫ぶ「まっすぐ?」、そうだ、どんどんのぼれ(学図)
河野裕子(1946~2010)
振りむけばなくなりさうな追憶の ゆふやみに咲くいちめん菜の花(学図)
道浦母都子(1947~)
秋草の直立つ中にひとり立ち悲しすぎれば笑いたくなる(学図)
栗木京子(1954~) 4社(教育除く)
観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生(東書・学図・三省堂・教育・光村)
早坂類(1959~)
虹よ立て夏の終わりをも生きてゆくぼくのいのちの頭上はるかに(東書)
俵万智(1962 ~)
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(東書・三省堂・教育)
思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ(光村)
穂村弘(1962~) 3社(学図・教育除く) 校庭の地ならし用のローラーに座れば世界が夕焼け(光村)
ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちくる涙は(東書)
シャボンまみれの猫が逃げ出す午下り永遠なんてどこにもないさ(三省堂)
ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち(教育)
荻原裕幸(1962~) 夏木立ひかりちらしてかがやける青葉のなかにわが青葉あり(東書)
千葉聡(1968~) 卒業生の最後の一人が門を出て二歩バックしてまた出ていった(東書)
永田紅(1975~) 細胞のなかに奇妙な構造のあらわれにけり夜の顕微鏡(三省堂)

(2)観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
~見回せば、回る、まわる観覧車~

  2012年版に続き、今回も、栗木京子「観覧車・・・」の一首は、中学校「国語」教科書を”制覇”した。今回の検定に際して、教科書の「近代・現代短歌」の内容がどう変わったかを概観してみたい。

<中学校国語教科書における「近代・現代短歌」の概要(2016年度版)>
(2015年7月6日作成 内野光子)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/tyuugakkkokokugoitiran.pdf

注:朱の歌人名及び短歌の初句は、新しく収録されたもので、作品初句のみが朱のものは、 作品が変更されたことを示す。

「中学校国語」(学校図書)
 俵万智の短歌鑑賞のエッセイは変わらないが、「十五首」中身は、若干入れ替わった。もともと、中学校の教科書に岡井隆や平井弘が登場するのも珍しいが、前回の永井陽子と荻原裕幸が消えて、馬場あき子と岡野弘彦が入り、やや歌人の年齢層が高くなった感じである。もともと、植松寿樹に師事した『沃野』同人の植田多喜子の一首は、ややマイナーながら、作者のかつてのベストセラー『うづみ火』などが、選歌に影響しているのかもしれない。近代・現代短歌において、与謝野晶子を排除している選択にも、他との違いが見られよう。現在の傾向は知らないが、かつて、全国の公立高校の国語の入試問題文に馬場あき子のエッセイが盛んに使用されていた時期があったので、登場は、むしろ遅かったようにも思った。

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「短歌十五首」は『中学校国語2」に収録

『新編新しい国語』(東京書籍)  
 道浦の鑑賞文は変わらないが、登場の歌人と作品が大幅に変更され、「扉」に「短歌七首」が別枠で登場した。なぜここに一首だけ「猿丸太夫」が、という違和感はあるのだが、6人6首が新たに加わった。ここでの、荻原・早坂・穂村・千葉の起用は、歌人の「若返り」とともに、その作品の青春性、「親しみやすさ」に着目したのかもしれない。また「短歌五首」の与謝野晶子と寺山修司が道浦の引用と重なっているためか、正岡子規と若山牧水に変更されている。多くの歌人や作品に触れさせよういう点に配慮した編集と言えようか。早川については名前だけは知っていたが、やや意外という感は免れなかった。

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「扉の短歌七首」[

『現代の国語』(三省堂)  
  俵万智の自作一首と栗木京子の一首を交えての、短歌入門的なエッセイが新しくなった。歌人では馬場あき子と在日コリアン2世の李正子(「<生まれたらそこがふるさと>うつくしき語彙に苦しみ閉じ行く絵本」)が去って、永田紅が新入りとなった。2006年版、2012年版からの変遷をたどると、その人選がかなりめまぐるしいことが分かる。 

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『伝え合う言葉 中学国語』(教育出版)

2年次の「近代の短歌」(九首)では、前回の<ふるさとの歌>の若山牧水「幾山河」が北原白秋「帰りなむ」に代わった。3年次の「ことばの自習室」に、穂村弘のエッセイ「それはトンボの頭だった」と佐佐木幸綱の鑑賞「古典の歌、現代の歌」の二つが収められた。後者にあっては、竹山広と正田篠枝というそれぞれ長崎と広島の被爆者歌人の作品をとりあげたのが特色といえよう。

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熊谷守一の絵が表紙を飾る

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「近代の短歌(九首)」は第2巻収録

『国語』(光村図書)  
  2006年、2012年、そして今回と、検定ごとに取り上げる歌人と作品がかなり入れ代わっている。収録歌人について、2006年には、伊藤左千夫、島木赤彦、長塚節、前田夕暮、佐藤佐太郎、宮柊二、塚本邦雄の作品があり、2012年には、前川佐美雄、木下利玄、岡本かの子、斎藤史、高野公彦も登場したが、今回は、数を絞って6名となり、新しく馬場あき子と穂村弘が加わった。今世紀に入っても、1950年代に中学生だった筆者には、伊藤、島木、長塚、前田、木下、岡本などの名前はなつかしい。

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3年次の「古今和歌集 仮名序」、大判で絵本のようだ

  以上、各社の収録作品を一覧してみると、近代・現代の短歌から選ぶとしたら、世代的に見て、いわゆる戦中派の歌人の登用が少ないのではと思った。たとえば、佐藤佐太郎(1909年生)、宮柊二(1912年生)近藤芳美(1913年生)らの名は、今回の新版からは完全に消え、戦前生まれの佐佐木幸綱世代から一挙に戦後生まれの河野裕子らに飛ぶ。もっとも、教科書は、作品で短歌史をたどるわけではないが、今どきの中学生の愛唱する短歌が、これらの中から生まれるのだろうか。正岡子規「くれなゐの」、斎藤茂吉「死に近き・・・」、若山「白鳥は・・・」、石川啄木「不来方の・・・」などほぼ定番に加えて、栗木京子「観覧車・・・」、俵万智「「寒いね」と・・・」などを一読、知識としての短歌ではなく、短歌への関心が芽生えて来るものだろうか。収録作品が集中していない与謝野晶子や寺山修司、穂村弘らの一首が、思春期の中学生、スマホ愛用の中学生の琴線に触れるものだろうか。 新聞はもちろんのこと、テレビの接触時間も下降線をたどる若者たち、大学の国文学科の行方も取りざたされる中、短歌の行方も気になるところである。

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2015年1月19日 (月)

村岡花子、ドラマの出来事があたかも史実のようにひとり歩きして(2)あやかる記事の氾濫!

  前回の記事「まず、展示会の多さにびっくり!その中身は?」の続きである。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/01/post-ccc7.html201417日) 

展示会に続いて、朝ドラ「花子とアン」の放送が進むにしたがって、その視聴率が高いとして、あやかる記事が氾濫した。前の記事に掲載した文献は、ほんのわずかでしかなかった。もちろん網羅的とは言えないが、その後、補って一覧とした。一般的に言えることは、親族が執筆した評伝や発言というものは、どう頑張ってみても、その客観性に限界があると思っている。それにしても、この大量発信にはどういうメッセージが込められているのだろうか。週刊誌は、好んで、本来脇役であった蓮子というよりそのモデル「柳原白蓮」に焦点を当てるものが多くなり、とくにスキャンダル性の高い「白蓮事件」周辺をテーマにした記事が続いた。78月に集中し記事が多いのは、雑誌・週刊誌の夏季休暇の時期と放送が終盤に差し掛かった時期とが重なってのことだろうか。ドラマに出演のタレントにまつわる記事も多かった。

今回は、新聞・雑誌記事に加え、ネット上での散見した、いくつかの記事も対象とした。その中には、中島岳志(南アジア地域研究、政治思想史)のツイッターでは、ドラマの進行に従って、村岡花子や宮崎龍介の残した具体的な言説とその出典を示しながら、ドラマの内容と現実とのギャップを提示し続けていた。村岡花子は、戦時下になって体制に迎合したというのではなく、児童文学も翻訳も社会的活動も、当初から、全体主義的な思想が根底にあったとする。また、古澤有峰(医療・文化人類学、哲学・宗教・政治学・・・)は、村岡を全体主義的思想の持ち主と断定できず、戦前・戦後の反戦的言説にも等しく触れなければアンフェアになるというのだから、両者の論争の展開を期待したいとも思った。私自身といえば、村岡花子に限らず、表現者が体制や輿論におもねる言説があったというなら、それも自らの足跡として忠実に残すことが、表現者の責任だと思っている。振り返って、自分にとって不都合な業績や発言を無視したり、隠蔽したりすれば、もうそれだけで、トータルな、正常な評価を拒んでいるのではないかと思ってしまう。正当な評価は、全面的な情報開示、作品開示が前提となって、初めて可能になるのではないか。

そういう意味で、中島岳志の研究者としての文献発掘の仕事や一つのデータベースとして「憲法とたたかいのblog」上の「花子とアン白蓮の生涯」は、貴重なものに思えた。私自身、文献目録作成には現物に当たるのを原則としているので、全国紙4紙は眼を通し、短歌雑誌、二、三の週刊誌の一部は確認に努めた。また、ネット検索により、原文再録や現物映像があれば確認した。番組案内・視聴率報告出演出演タレント情報などは原則として省略した。あとは、補正を待たねばならないが、とりあえず利用していただいて、ご教示をいただければありがたいと思っている。

なお、この記事一覧作成中、とくに感じたことを二つほど書きとどめておきたい。

一つは、「赤旗」(日曜版も含む)の記事が、異様に多かったこと。しかも、村岡花子と柳原白蓮を、戦前・戦後を通じて抵抗の文学者として高く評価していることだった。97日の松尾は、花子は「(白蓮)のような反戦思想の持ち主ではありません。せめて時代への沈黙の代わりに『赤毛のアン』翻訳に夢を託します」、1941128日の「コドモニュース」の担当から外された花子は、辞表を提出する「一方で、花子は文学報国会に参加し、時代に妥協していきます」と述べるにとどまり、花子が、文学報国会の活動のみならず、大政翼賛礼賛への発言が増幅していく事実には目を向けない。白蓮を「反戦思想の持ち主」との前提にも問題のあるところである。715日の永野は、戦時下の白蓮の活動や作品には触れずに、息子の戦死で打ち砕かれた幸せが平和を願う世界連邦運動へと導いた、としている。1225日のテレビ欄での口山は、「真実を求める想像の翼は戦火をかいくぐってなお健在だった」と言い切る。以上は署名記事だが、コラム「潮流」の論調や日曜版のインタビュー記事になると、朝ドラ「花子とアン」へのエールと村岡花子と柳原白蓮という実在人物への礼賛に終始する。さらに、出演のタレントに役柄を語らせる記事まで登場する。もはや戦時下の活動や発言などまるでなかったような、番組へエールは高まるのである。

ちなみに、白蓮の先の私のブログ記事に掲げたつぎのような作品をみても、「反戦思想」の持ち主だったのか。

・天が下やがて治まり日の出ゆ東亜の空によき春来れ

(輝く 19404月)

・征きてみ楯死にて護国の神となる男の中の男とぞおもふ

(婦人倶楽部 194010月)

・国をあげて極まるときし召されたり親をも家をも忘れて征けや

(日本短歌 19442月)

花子と白蓮のとくに日中戦争期・戦後の言動については、当ブログ2014926日から連載した「これでいいのか、花子と白蓮の戦前・戦後」(1)~(4)を参照いただきたい。

朝ドラ「花子とアン」の放送中にも、この一覧にあるように、花子や白蓮の描き方が史実と大きく乖離していることが指摘されても、反論もなく、無視が続いている。各地の議員などのブログによれば、赤旗読者勧誘の一助にもしているらしい様相が伺われるのであった。商業メディアならいざ知らず、革新政党の政党機関紙が、視聴者に人気があるからと言って、ドラマと史実をないまぜに、歴史的な検証もなしに、迎合してしまっていいのだろうか。たかが朝ドラ、されど朝ドラ、NHKが公共放送であることも忘れてはならないだろう。

二つは、歌人の発言が意外に少なかったこと。結社誌や同人誌などはわずかしか目にしていないので、何とも言えないが、いわゆる短歌関係雑誌や新聞の関係記事は少なく、つぎの3件であった。『歌壇』8月号に執筆の三枝昂之は、山梨県出身で、「村岡花子展~ことばの虹を架ける~山梨からアンの世界へ」(2014412日~629日)を開催した山梨県立文学館の館長であり、『短歌』9月号の「村岡花子と短歌」では、花子と白蓮が入会していた竹柏会「心の花」の主宰佐佐木信綱の孫で歌人の佐佐木幸綱と花子の孫の村岡恵理との「孫・孫」対談という企画であった。この対談では、ドラマでは、花子と短歌や白蓮以外の歌人との関係がすっぽりと省略されているのが残念だったこと、信綱の竹柏会からは多くの個性的な女性歌人が輩出し、影響しあったことなどが語られていた。また、『短歌研究』12月号の『年鑑』の一年回顧の座談会には、佐佐木と三枝が参加しており、その冒頭の話題が「村岡花子と柳原白蓮に見る短歌の底力」であった。ドラマ「花子とアン」によって短歌自体に光りが当てられたこと、花子の仕事には短歌の素養が生きていたこと、山梨県立文学館の展示は、実生活の花子にスポットライトをあて、入館者動員が記録的だったことが語られていた。いずれの記事にも、ドラマの花子・白蓮人気にあやかっての発言が多く、両人の全体像を踏まえた上で言及がなかったのが残念であった。

「花子とアン」関係記事一覧抄(発表年月順)

(内野光子作成、201516日現在 未完)

注 ①村岡花子・柳原白蓮の親族の執筆ないしインタビュー:●印

   ②短歌雑誌記事:網掛け ③赤旗及び日曜版:太字

  http://dmituko.cocolog-nifty.com/hanakotoankijiitiran.pdf

 

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2013年7月29日 (月)

短歌総合誌の役割

(以下は『ポトナム』7月号「歌壇時評」です。) 

短歌総合誌の購読をいつ辞めようかと迷う。自分が所蔵してなくても、どこかの図書館へコピー依頼ができればよい。が、短歌雑誌関係の記事索引が整備されていないので、総合誌だけでも手元に置きたいという思いに駆られる。夥しい数の結社誌や同人誌はもちろん、何種かあるタブロイドの新聞については尚更で、検索の手段がないということは、掲載の作品・エッセイ・論文や記事は消耗品のようになってしまう。国立国会図書館、日本現代詩歌文学館、国文学研究資料館、日本近代文学館などがデータベース化していても不思議はないのだが、短歌雑誌に関しては、その採録対象がどこも半端なことで終っている。その間隙を補うような形で、年間の記事索引作成のような仕事は、一部、一時期、短歌総合誌が担ってきた。 

角川の『短歌年鑑』に、結社誌や同人誌も含めた文献目録が掲載されなくなったのはいつからだったか。私が所蔵している一番古い一九六六年版には「一九六五年度短歌年表」(阿部正路道編)があり、すでにその欄は設けられていた。三一〇頁のうち四六頁を割いている。平成八年度版(一九九五年一二月刊)には、「平成七年度短歌評論年表」(編集部)として続いていたが、その数年前から採録対象は『短歌』『短歌研究』『短歌現代』の三誌に限られていた。平成八年度版、平成九年度版(一九九六年一二月刊)の「編集後記」のいずれも、この「年表欄」の中止に触れることなく、静かに消えてしまっていた。その後、数年間のブランクがあって、現在のように、自誌『短歌』のみの一年分の目次を載せるようになった。短歌研究社の『短歌年鑑』では、二〇〇三年版(二〇〇二年一二月刊)から「全国結社同人誌主要論文一覧〈作家論・古典研究・現代短歌論〉」が登場する。他の「評論展望」「特集展望」欄などと合わせれば、短歌雑誌の年間索引として利用できるし、わずかな点数の抄録もある。が、対象雑誌の網羅性は望めないし、キーワードでの検索ができない。それでも、国立国会図書館「NDL-OPAC」、国文学研究資料館「国文学論文目録データベース」を補完する目録とはなるだろう。こうした地味な仕事は、誌面と人材の関係でなかなか続かないが、少なくとも、今の形でもいいからぜひ継続してほしい。 

このように文献探索が容易ではないからと言って、身近なところで〈見つけた〉資料や身辺の文献をことごとしく掲げ、先行研究や文献、出典等の紹介や提示がおろそかな論文やエッセイが横行していいというわけではない。都合の悪い先行研究は無視し、読者が検証できる手がかりを残そうとしない場合もある。『ポトナム』には、小泉苳三の書誌学的な蓄積や伝統もあり、国文学の研究者も多いなか、歌壇に模範を示していくべきだろう。 

なお、『短歌研究』は、二〇一三年の場合、三月に「現代代表女性歌人作品集」、五月に「現代の104人」というように、毎年、各々の節句に由来する特集が組まれる。今年の三月には一五一人と付記されていた。五月は、長い間「現代の88人」が定着していたが、近年は、寄稿の歌人の数が少しづつ増えている。男性が「現代の・・」であり、三月だけに「女性」と明記されるのはいかにも不自然ではないか。作品集への女性の寄稿者数が男性より多いものの、「歌壇」の実態や読者の数は、その比ではなく圧倒的に女性が多い。また、「現代代表女性歌人作品集」となったのは二〇一二年からで、それまでは「現代代表女流歌人作品集」だった。「女流」は、「男流」という対語がないことから差別的な意味合いがあるとして、影を潜めたと思っていたのだが、歌壇にはどっこい生きていたことになる。

(『ポトナム』2013年7月号所収) 

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