2020年5月 1日 (金)

18年前の旅日記~スイスからウィーンへ(4)

20021123日~ウイーン、クリスマス市の初日に
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 アルプスの山並みを越え、やがてウイーンへ、ふたたび

 ウイーン空港からカールスプラッツまでの道順は、リピーターの余裕?で、リムジンバスと地下鉄一本を乗り継いでスムーズにこなせた。ジュネーブと同じブリストル・ホテルでも、その雰囲気はだいぶ違い、部屋は一段と狭い。ホテル前のケルントナー通りを隔てて、オペラ座、昨年の宿ザハ、そしてアストリアホテルと大きい建物が並ぶ。前回は行けなかったシェーンブルン宮殿へ行くことにしていた。何しろウイーンのガイドブックを家に忘れてきてしまったので、ホテルと航空会社からもらった地図しかない。
 地下鉄U4でシェーンブルン駅下車、人の流れにそって進むと、広場の前は大変な人出で、さまざまな露店が出ているではないか。正面には大きなクリスマス・ツリー、小さな舞台で演奏もやっている。これがクリスマス市なのか。なんと土曜の今日が初日だったのである。クリスマスまでちょうど一か月、食品、洋品、おもちゃ、飾り物など、何でも揃いそうである。ところどころに立っている丸い小さなテーブルを囲んで、カップルや家族連れが立ち飲み、立ち食いもしているのだ。さまざまな着ぐるみ、竹馬に乗った足長ピエロの行列や風船配りとぶつかりそうになる。子供たちがほんとうにうれしそう。また大人たちが、実においしそうにマグカップで飲んでいるホットドリンク、夫は気になってしかたないらしく、手に入れてきた。プンシュというものらしく、ジュースとワインを混ぜたようなソフトドリンクらしい。飲み干したカップを返すとお釣りが戻るという。夫は、最初の一口を飲むなりむせてしまい、咳き込むばかり。私も、一口恐る恐る飲んでみたが、相当に強いアルコールで、それ以上は飲めなかった。しばらくチビチビ飲んでいた夫も、観念したのか、さりげなく広場の側溝に流し込んでいた。

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上2枚:シェーブルン宮殿前のクリスマス市、下:翌日の市庁舎前のクリスマス市

 そんなことをしていて、宮殿に入場するのがだいぶ遅くなってしまった。日本語のオーデイオ・ガイドに飛びついて、宮殿の各室を回る。急いで通り過ぎたい部屋もあるが、どうも加減ができないらしい。それにしても、ハプスブルグ家の歴史を聞かされると、その華やかさの割には誰もが幸せとはいえない生涯を送ったのではないか、とそんな庶民の思いはつのるばかりだ。外へ出た頃は、すっかり日は暮れて庭園はすでに闇の中だった。シェーンブルンの庭園には今回も縁がなかったことになる。夜7時半からは楽友協会のコンサートなので、その前に食事もしておかなければならない。それならばと、ケルントナー通りの「ノルトゼー」にむかう。「北海」「北洋」とでも訳すのか、魚料理を食べさせる大衆的なチェーン店である。ケースの中の料理が選べるのが何より便利で、安い。
  ホテルからも近い楽友協会は、ウイーンフィルのニューイヤーコンサートの会場としても知られるが、入るのははじめてだ。ブラームスのドイツレクイエム、ミュンヘンの交響楽団の演奏と重厚な合唱に魅せられた一時間半、聴衆の大部分が地元のシニアだったのもなんとなく落ち着ける雰囲気だ。が、ホテルに着いても入浴する元気がない。一日中の移動を思えば無理もない。疲れがどっと出たのかもしれない。

 20021124日~ハイリゲンシュタットのホイリゲで
 今日は、まず前回見落としていたウイーン美術史美術館のブリューゲルを見る予定だ。歩いてもたいした距離ではないが、開館には間がある。昨日買った一日乗車券で、旧市街を囲むリンク通りをトラムで回ることにした。前回の旅で、この辺で迷ったね、初めて昼食をとったのがこの路地のカフェだった、と懐かしくも、あっという間の一回りだった。まず、議事堂にも敬意を表して下車したところ、震えるほど寒い。広い階段を上がったところで、一人の日本人男性と遭い、寒くないですか、とセーター姿の夫は同情されていた。階段の下では、なにやら、テレビカメラがまわり、議事堂を見上げるようなアングルで、記者が実況放送のようなことをやっている。これは、後でわかったことなのだが、11月24日はオーストリーの総選挙で、極右との連立政権の成り行きが注目を浴びていたらしいのだ。街中にポスターがあるわけでもなく、気づかず、そんな雰囲気がまるで感じられなかった。議事堂に続く広場には、昨日のシェーンブルン広場の規模を上回るクリスマス市が立っている。地図でみれば市役所である。結構出入りのある市民ホールの重いドアを開けてみると、そこは、子供たちがいっぱい。子供たちのためのワークショップ、仕切られた部屋でハンドクラフトの講習会がひらかれていたのである。学童期前の幼い子供たちがエプロンをして、クッキーを焼いたり、クリスマスカードやローソクを作ったり、土を捏ねたりしているのだ。廊下では、中に入れない親たちが見守っているという、ほほえましい光景を目の当りにすることができた。こんなふうにして、ウイーンの市民たちはクリスマスを迎える準備に取り掛かるのだ、と感慨深いものがあった。自分たちの住む千葉県の新興住宅地で、庭木の電飾だけが妙に狂おしく、競うように点滅している歳末風景にうんざりしていただけに、あたたかいものが感じられるのであった。

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上2枚:市庁舎前クリスマス市の催しものなのか、ホール内では、子ども向けのワークショップたけなわ。下:議事堂前では、総選挙当日のテレビ中継番組の収録中で、そのスタッフたちがいずれもしっかりと防寒の重装備のなか・・・

  名残惜しいような感じで、クリスマス市をあとにして、新しくできたミューゼアム・クオーターの一画、レオポルド美術館にも寄ることにした。ここはエゴン・シーレのコレクションとクリムト、ココシュカなどの作品で知られる。そういえば、クリムトの風景画だけを集めた展覧会が、ベルベデーレ宮殿の美術館で開催中らしいのだ。いまは時間がない。レオポルドに並ぶ現代美術館は、巨大な黒いボックスのような建物で、中に入ると、まだ工事中のようなリフトがあって、入場者もまばら、閉まっているフロアも多い。入場料がもったいなかったと嘆きつつ、美術史美術館へと急ぎ、中のレストランで遅い昼食をとる。目当てのピーテル・ブリューゲルの部屋、二階Ⅹ室へ直行する。ここのブリューゲルは、私が旅の直前に出かけた東京芸大の展覧会でもみかけなかったし、1984年日本で開催した「ウイーン美術史美術館展」でも、門外不出ということで一点も来なかったそうだ(芸術新潮 1984年10月)。所蔵点数一二点、世界で一番多いという。「バベルの塔」をはじめ、「雪中の狩人」、「子供の遊び」、「農民の婚宴」などはじめて見るというのになつかしい、という思いがぴったりなのだ。農民や兵士の日常生活がその背景とともに丹念に、克明に描かれ、その一人一人の表情が実にいきいきしているからだろうか。宗教や歴史に取材していても決して叙事的ではないのだ。せっかくの機会なので、周辺の部屋にはヨルダンス、ファン・ダイクがあり、そしてここでも大量の作品を残すルーベンス、前回見ているはずなのに記憶はすでに薄い。

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レオポルド美術館のリーフレットより、クリムトとエゴンシーレ

  少し欲張って、夕飯は郊外のホイリゲでとることにした。ホイリゲといえば、前回は、グリンツインからバスに乗り換えてカーレンベルクまで行ったが、今回は、ホテルで勧められたハイリゲンシュタットのMayerという店を目指す。地下鉄のハイリゲンシュタットからバスで二、三駅と教えられ、降りたところは静かな住宅街だが、まず国旗を掲げた、ベートーベンが遺書を書いたという家に行き当たる。木戸を押すと、小さな中庭、入り口の二階のドアは閉まっているが、脇のドアをノックすると、年配の女性が受付をしてくれる。オリジナルな資料は少ないが、しばらくベートーベンの世界に浸る。ここハイリゲンシュタットでの足跡が分かるようになっていた。すぐ隣りの新しい建物は、シニア専用のマンションらしかった。少し戻ると、分かりにくいが木戸の脇にMayerの文字が読める。そーっと開けてみると、意外に広い庭をめぐる古い建物。いくつもの入り口をのぞいていると、ドアを大きく開いて迎えてくれた。もうこの季節では、中庭にテーブルを出すこともないのだろう。薄暗い中には、すでに何組かのお客さんがつめていた。まずは白ワインを注文すると料理は向かいの建物で買ってきてください、ということだった。ワインは溢れんばかりの小ジョッキで運ばれてきた。中庭を抜けた調理場近くのケースの中にはさまざまな料理が山と積まれている。好きなものを選べるのがありがたい。どれも期待を裏切るものではなかったが、ただ一つ、チーズをスライスした茸で巻いたようなものだけは、残してしまった。お客さんは増えるが、席を立つものがいない。これ以上ワインをのめる体力もなくMayerをあとにした。あたりはすでに暮れかけていたが、Mayerの隣りには聖ヤコブ教会が建っていたのに気づく。 
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ホイリゲ、Mayerの入り口の上に飾られているのは、松の枝の飾りで、新酒の解禁日に掲げられるそうだ。この辺りは11月の第3週という

  帰路、もらったパンフをよく読むと、Mayer家がこの地に葡萄園を開いたのは一七世紀後半、1817年、ベートーベンはこのホイリゲに滞在して「第九」を作曲した、とある。ホイリゲの横を北に進むといわゆるベートーベンの散歩道に出るらしい。いつの日かの再訪を期してホテルに戻れば、今日もまた、ベッドになだれ込む疲れようだった。荷造りは、明日にまわして、おやすみなさい。(了)

 

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18年前の旅日記~スイスからウイーンへ(3)

20021122日~世界遺産の街、ベルンへ
 あと一日となったジュネーブ、お天気が定かでないので、丸一日かかるモンブラン観光
よりベルンまでの遠出を勧められていた。夫は市内観光をほとんどしてないわけだが、レマン湖畔、鉄道の旅もよいのではということで、スイス国鉄SSBのIC(インターシティ)一等車に乗る。車窓に雨滴が流れるほどの雨であったが、少しずつ明るくなって、湖面越し見える、雪渓をいただいたやまなみが目に沁みる。 鉄路が何本となく広がり、ローザンヌ駅に近づく。列車は湖面よりだいぶ高いところを走る。湖面までの斜面に広がるローザンヌの町、列車がカーブを切る度に、湖岸線や街の展望ががらりと変わる。思わず席をたって車窓からの眺めに釘づけになる。ローザンヌからはモントルーに向かう線とは分かれ、列車はレマン湖を離れ、北上する。雪渓の山々が迫ってくるようだ。

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 ベルンの旧市街は、アーレ川の蛇行に囲まれている

   ジュネーブから1時間45分、ベルンはスイスの首都ながら、人口13万、4番目の都市で、街全体が世界遺産に登録されているそうだ。地図を見れば、旧市街は、大きく蛇行したアーレ川に三方囲まれている。駅にも近い、官庁街、裁判所、郵便局、警察署と並んでいるベルン美術館にまず入る。ベルン近郊で生まれたパウル・クレーのコレクションが有名だが、常設だけでもかなりの部屋数である。彼の抽象にいたる過程が興味深かった。ピカソ、ブラック、カンジンスキーら同時代のキュービスムとも若干異なるその「やさしさ」が私には魅力的だったのだ。ジュネーブでその名を知ったベルン生まれのホドラーの作品も多い。印象派の作品も少数ながら捨てがたく、入館者も稀で、のんびりした時間に身を置いていると、異国にいることを忘れてしまうほどだ。

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車窓からのアルプスの山並み、そのままに、ジュネーブからの乗車券にはアルプスの絵が描かれていた。左、旧市街の時計塔が見える

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雨上がりのベルン市立美術館正面とパウルクレーコレクションから

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パウルクレー、1932年の作品、私が訪ねた2002年当時のベルン市立美術館の案内パンフの表紙になっていた。2005年、ベルン郊外にパウルクレーセンターが開館、クレーコレクションは、そちらに移された。立派な斬新な建物らしいが、クレーファンにとって、その展示には不満があるらしい

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ベルン生まれのホドラー(1853~1918)の作品も多い。「オイリュトミー」(1895年)、彼の表現の特徴でもある「パラレリズム(平行主義)による作品で、こうした構図の作品は多く、一昨年2018年ミュンヘンのノイエビテナコークで見た「生に疲れる人々」(1892年)を思い出した

  メインストリートには、いろいろな由来のある像をあしらった噴水が立ち、牢獄塔を正面に右手に入ると連邦議会議事堂が長々と続く。裏手に回るとアーレ川が川幅を広くしてゆったりと流れる。雨上がりの寒さもさることながら、また昼食が心配な時間となる。お目当ての「コルンハウスケラー」は、地下の穀物倉庫をレストランに改造したというが、階段を下りて開けたドアの先の、その広さに驚く。最初は穴倉に入った感じだったが、かまぼこ型の天井には、みごとな絵が淡い灯りに映し出されている。中央の長いテーブルも、夜には賑わうのかもしれないが、今は壁際のテーブルに何組かが散らばっている程度だ。周辺の雰囲気はワインだが、ビールにとどめ、ビュッフェ式の料理とベルンの家庭料理といわれている、ベルナー・プラッテ(野菜とソーセージ、ベーコンを煮込んだポトフ風の料理)を頼んでみる。テーブルの鍋に火をつけてくれる、この煮込み料理は、冷え切った体には最適だった。ジャガイモもソーセージもよかったが、たっぷりと盛られた干しインゲンも残さずいただく。街では、小物や民芸品、チョコレートやケーキがいっぱいのショウ・ウインドウに目移りがし、もう少しゆっくりできたらな、という思いが募る。
  そんな商店街の真中に、アインシュタインが下宿していた家があったりする。 アインシュタインといえば、物理学者で歌人の石原純が、日本への紹介者として有名である。その石原純は、留学中、1913年、チューリヒ工科大学でアインシュタインの指導を受け、「名に慕へる相対論の創始者に、/われいま見(まみ)ゆる。/こころうれしみ。」(『靉日』1922年)と詠んでいる。
  歩道からいちだんと低い、半地下のようなところから、車道に向かって斜めに入り口が開いている、こんなお店が続くのも珍しい。老舗という「チレン」では、チョコレートの詰め合わせと自家用にも小袋をいくつか買ってみる。

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  すぐにたどりつけると思った駅にぶつからず、予定の列車の発車時刻も近い。通行人から教えてもらい、歩道から直接ホームに通じる階段を二人は夢中で駆け下りた。そんな風に駆け込み乗車をしたものの、十数分走ったところで、列車は止まってしまったのだ。時折、車内放送が流れるのだが、まずドイツ語で、つぎにフランス語でというわけで、さっぱり分からない。ジュネーブ空港行き列車だというのに、周辺の乗客はみな慌てず、本を読んだり、パソコンに向かったりしている。三〇分ほどしてようやく動き出して、最初に停車したのがフリブールという駅だった。日没近くになって空は晴れ、車窓からの雪渓やローザンヌの展望も行きにもましてすばらしいものとなった。
  そして、今晩の食事は、駐在員の二人のお勧めでもあった、もう一軒の和食の店にゆく。コルナバン駅のすぐ近く、小料理やふうの店で、ご夫婦でのもてなしに心も和んだジュネーブ最後の夜となった。

  突然ながら、1924 年、斎藤茂吉はパリからヨーロッパの旅に出て、スイスのベルンにも立ち寄っている。齊藤茂吉「ベルン、九月廿八日」(『遍歴』)においてつぎのように詠んでいた。

・ベルンなる小公園にあららぎの実を啄みに来ることりあり(一九二四)

・この町に一夜やどりてHodler(ホドラー)とSegantini(セガンチニー)をこもごも見たり

 

20021123日~ジュネーブ空港で呼び出し放送をされて
 朝は、ジュネーブのホテル前のローヌ川を渡ってすぐのデパート、8時には開店というグローブスに向かう。夫は、きのう目星をつけておいたスイスワインの別送を頼むと、三、四週間はかかりますよ、とのことであった。戻ったモンブラン通りではクリスマス・ツリーなどを積んだトラックが幾台も入り、大掛かりな飾り付けが始まっていた。ウイーン行きの便は10時55分発、空港には少し早めに着いた。免税店で、いま愛用しているスイス製の水溶性クレヨン10色がだいぶ減って来たので、15色を見つけて買えたのが何よりのお土産になりそうだ。丸善ではだいぶ高いはずだ。さらに民芸品などを見ていると、夫は、いま呼ばれなかったか、という。呼び出し放送で、自分の名前が呼ばれたというのである。時計を見れば、離陸まで17、8分しかない。慌ててゲイトへと急ぐが、この通路が長い。動く歩道を走るようにして、駆け込みで搭乗すると、離陸の5分前で、冷たい視線を向けられたような気がした。席を探すにも、天井に頭を何回かぶつける小型機だし、ステュワーデスの制服も、あの真紅のオーストリア航空のものではない。一瞬間違ったかと思ったが、オーストリア航空グループのチロリアン航空だったのだ。大型機が安心というわけではないが、七〇人乗りぐらいだろうか。しばらくレマン湖上空を飛んでいたが、山岳地帯に入ると、その壮大な雪景色は初めて経験するものだった。画面での高度表示もないのだが、かなり低いのではないか。山間の集落、白い川の流れ、点在する小さな湖、どこまでも続く雪の山脈。ウイーンまでの一時間余、飽きることがなかった。 

  • あまそそるアルプスの峰に入り日さし白雲のくづれおもむろにくだる(一九二三)                       大塚金之助『アララギ』一九二三年三月

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最近は、あまりスケッチもしなくなってしまったが、それでも、よく使う緑や黒、茶色は短くなっているし、折れている色もある

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2020年4月30日 (木)

18年前の旅日記~スイスからウィーンへ(1)

 もう整理のつかないCDの山から、乱雑なメモを頼りに昔の原稿を探していたところ、思いがけず、かつて、短歌の同人誌に載せてもらっていた旅行記をみつけた(『風景』106・107号 2004年9月・11月)。拙ブログを始める前のことである。私にとっては、まだ、海外旅行を始めてまもないころの文章であり、なにぶんにも冗長で、ひとり昂ぶっている感、満載なのだが、ともかく、このブログにも記録として残しておきたい衝動にかられた。ところが写真のCDが見つからないので、アルバムからスキャンしたものであるが、これはというものを撮ってないこともわかった。拙文とともにお目障りを承知しながら。

20021119日~レマン湖畔のホテルへ
 今回の旅は、あまりにも唐突であった。ベルギー・フランスの旅から帰って、3週間も経っていないある日、夫は、「ジュネーブの国際会議に参加するけど、一緒に行かないか」という。私は、前回の海外旅行の疲れがようやく抜けたばかりだったし、犬二匹の世話もある。留守番を決め込んでいたが、会議の後はウイーンに回ってもいい、との一言に決心したのだった。昨秋訪れたウイーンには機会があれば、もう一度訪ねたいと思っていたからだ。
 出発まであと3週間しかない。夫は総務省関係の仕事や原稿の締め切りを控え、私は自治会関係の厄介な問題を抱えていたし、自分の仕事もあった。夫はともかくホテルと飛行機をおさえ、ウイーンのコンサートを予約したという。私も、図書館や書店を回って本を探したり、東京芸大の美術館で開催中だった「ウイーン美術史美術館展」へも出かけたりした。

 結局、成田を発つ前の晩は、夫も私も3時間ぐらいしか眠っていなかったので、機内では、私は眠り込んでしまったが、夫は英語での報告ということもあって、その準備で、眠れなかったらしい。ジュネーブへの直行便がないので、フランクフルトの空港で1時間余過ごしたが、あまりにも閑散としているので気味が悪いくらいだった。夕刻の4時半というのに、あたりは真っ暗。月が出ているので、天気が悪いというわけではないらしい。ジュネーブまでもう一時間、空港からは、もう夜だし、ホテルまでタクシーにしようと決めていたが、国際会議担当の駐在員の二人が迎えに来てくれていた。お二人ともジュネーブ着任1年半、三十歳過ぎたばかりの国家公務員である。外交特権があるので空港内まで入れるのだそうだ。疲れている私たちにはありがたいことだった。ベンツに乗って夜のジュネーブの街へと走る。7時過ぎにホテルに着いたが、夫は、出迎えの二人と明日からの会議の打合せでロビーへと降りてゆく。ブリストル・ホテルはレマン湖畔に建っているはずだが、窓の下は、木立やベンチが街灯に映し出されている、静かな中庭、いやモンブラン広場だった。一人になると、慌てて家を出たとき、冷ましておいた犬のえさのタッパーを冷蔵庫にしまい忘れたことを思い出す。週末に帰省する娘の手間を省こうとしたのに、また文句のひとつも言われそうだ。
 打ち合せが済んだ夫とモンブラン通りからシャントブレ通りに入った和食の店を目指す。初日から和食とはだらしない話、五組ほどの客で賑わってはいるものの、古普請だからか階段や床が改装中みたいに埃っぽくも思え、早くひと風呂浴びたいの一心でホテルに戻る。

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ホテルの部屋から中庭にもなっているモンブラン広場、紅葉が見事だった

 

20021120日~美術歴史博物館の開館を待ちながら
 9時半から会議のある夫なので、早めに朝食をと思って、早起きをしたつもりだったが、7時を過ぎている。でも、窓の外は暗く、白みかけたのは、私たちが朝食のため部屋を出た8時近くだった。食後、向かいのモンブラン橋を渡って、イギリス公園まで出かけてみる。帰りはローヌ川の中ノ島になっているルソー島に寄って戻るという寒い朝の散歩であった。国連ヨーロッパ本部近くの会場に向かう夫を見送り、さあ、私一人の自由時間、昨日の駐在員の二人には市内の観光バスはいかがですかと勧められたが、それは午後から一便しかない。ジュネーブの観光シーズンは、10月でほとんどが終る。レマン湖めぐりの観光船も、あの有名なジェット噴水も夏だけの風物らしい。通年では、丸一日かかるモンブラン観光が唯一らしい。私は再び橋を渡り、イギリス公園の花時計の前を過ぎ、まずは旧市街へと急ぐ。たいした距離はなく、10時開館という美術歴史博物館には九時半に着いてしまう。  

 高台にある博物館だが、前の公園(オブセルバトワール公園)からリブ広場、レマン湖への道が一望できる。スケッチの一枚でも描いて置こうとベンチにすわる。じっとしているとかなり寒い。公園では、犬を遊ばせる人たちが集まってきた。なんと犬の糞を始末する小さいビニール袋が自由に引き出せる箱が設置されている。その下には専用のゴミ箱が置いてある。犬専用のゴミ箱はロンドンの公園でも見かけたことがあったが、袋まで用意してあるとは。公園の周囲は立体交差となっていて、すぐ左手には、紅い蔦が絡まるカレッジがあり、裁判所がある。荒いスケッチが出来上がり、体もかなり冷え切った頃、博物館はようやく開いた。入場してすぐ左手の古武器室では、講座が開かれているらしく、すでに20人近くの市民が話を聞いていた。二階に上がって、いきなり、モネ、シスレー、セザンヌ、ピサロ、クールベ、ルノアールなどが並ぶ一室がある。絵についてのキャプションは何一つない。ただ、壁に絵が並べてあるだけなのだ。画風でだいたいの見当はつくものの、絵の中のサインや額縁の記述を読んで確かめるしかない。入館は無料だし、実にラフな展示に驚きもしたが、これが本来の美術鑑賞なのかもしれないと妙に納得してしまう。どの部屋でも入館者に出会うのは稀で、実にゆったりと絵に向き合えるのがありがたかった。 

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ジュネーブ美術歴史博物館の案内のリーフレットがなかなかおしゃれであった

 12、3点はあろうかと思われるコロー・コレクションの部屋では、ここも講習会の準備なのだろうか、コローの一点をイーゼルに立てかけ、囲むように椅子が並べられてゆく。職員の出入りが多いなか、つぎの部屋へと急ぐ。ジュネーブゆかりの画家、フェルディナント・ホドラーのユングフラウを描いた作品、何枚かの青衣女性立像などが印象に残る。そういえば市内にはホドラーのフルネームが付けられた通りがあったはずだ。*注

 すでに12時近いが、近くのプチ・パレ美術館にまわってみたところ、ドアは閉まっていたので、ジュネーブ大学まで足をのばす。ルソー記念館があるはずなのだが、ここも昼休みなのだろうか。大学前の公園(バスティヨン公園)には壮大な100メートルにも及ぶ宗教改革記念碑が広がる。世界史では「カルヴィン派」と習ったが、「カルバン」生誕四〇〇年記念のこの碑の前のベンチで、私は、昨日のフランクフルトからの機内では食べられなかったサンドイッチとミネラル・ウォターという、みすぼらしい昼食となった。記念碑の裏側の広い道(クロワ・ルージュ通り)の後方が旧市街地のはずである。公園の端に、数面ある路上チェスでは、まさに多国籍の人たちがせわしく大きなコマを動かしている。

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上が「宗教改革記念碑」、下が広場のチェスに興じる人たちである

 トレイユ通りという坂を上がりきると、そこは見晴しのいい公園になっていて、世界一長いという木製のベンチがひたすら続く。石畳の路地に入ると、すぐに旧武器庫に突き当たり、その向かいが市役所である。ルソーの生家があるという通りを歩いてみるが、見つからなかった。そのうち、サン・ピエール寺院にぶつかるが、どこが入り口かわからないまま、一段と低い公園に紛れ込み、そのまま回り続けると、狭い広場に出る。メリーゴーランドがしつらえられ、テントの土産ものやが2、3軒並んでいる。人影はまばらで、なんとなくうらぶれた風情を横目に通り過ぎて、にぎやかなリブ通りに出たが、少し戻ったところのカフェで一休み。街は、すでにクリスマス気分で、ローヌ通りのブランド店のショーウィンドウもその飾り付けにさまざまな工夫が凝らされ、見て回るのは楽しい。しかし、見知らぬ街の一人歩きに疲れたのだろうか。早いがひとまずホテル戻ってみる。

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左が、サン・ピエール大聖堂。右、博物館の正面から大聖堂の尖塔が見える

  夫が帰るまでは、まだだいぶ時間がある。少し元気を取り戻して、再び街に出る。最寄りの鉄道ターミナル、コルナバンまでたいした距離ではないはずだ。ホテルの近くにはイギリス教会の石壁が柵も何もないまま、道行く人々の影を映している。その後ろが、バスターミナルになっている。モンブラン通りを進んでみる。この地の土産といえば、チョコレート、チーズ、時計、ナイフ、オルゴール、刺繍製品などらしい。急いで歩いたら5、6分の駅界隈は、さすがに人出も多い。雑多なビルが並ぶ駅前にはノートルダム教会がひっそりと建っている。
 夕食は、民族音楽の生演奏もあるという「エーデルワイス」というホテル内の店に決めていた。湖岸通りから入るのだが、一歩路地に入ると人通りがなく、二人連れでもなんとなく物騒な雰囲気が気になった。駐在員の一人Tさんが「ジュネーブの物価は高いが、治安はいい」と言っていたので、地図を頼りに進む。あちこちで工事現場に突き当たってしまって実にわかりにくかったが、ようやくたどり着いた店では、若くはない二人のミュージシャンが山岳地帯の民族楽器を使っての歌や演奏が始まっていた。夫は、明日の会議が控えていることもあり、ビールだけにとどめ、ワインは、明日の夜までお預けとする。明日の夕食は、Tさんたち二人と会食することにもなっていたからだ。

*注 すでに記憶が薄れていいるが、つぎのような作品だったろうと思う。

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上「無限のまなざし」1913~15年、下「恍惚とした女」1911年

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「白鳥のいるレマン湖からみたモンブラン」1918年、最晩年の作で、ガイドブックの表紙にもなっていた

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2020年4月29日 (水)

18年前の旅日記~スイスからウィーンへ(2)

20021121日~ナシオンから歩けば迷子になって
 夫が参加している会議の会場は、国連ヨーロッパ本部の近くでもあるので、朝は車に同乗し、報告をする夫には「がんばってね」とITUビルの前で別れる。国連の周囲は、何重もの移動用の鉄柵で囲まれているのが目立つ。正門からのぞくと、びっしりと加盟国国旗のポールが並ぶ。夫は昨日の昼休みに、中まで案内してもらったそうだ。観光客用の一時間ツアーもあるらしいが、先を急ぐことにする。振り返ると前の広場の巨大な椅子が目を引く。よく見ると、四本足の一本が途中で折られたというか、壊れたというか、そんな異様な姿で立っている椅子である。これは後からの話だが、あの椅子は戦争によって負傷した者を象徴しているといい、平和へのメッセージが込められているそうだ。が、それだけの説得力があるかどうかは、現在の国連のあり方にもかかっていよう。国連の建物はパレ・デ・ナシオンと呼ばれ、広いアリアナ公園に接している。

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正面が国際連合ヨーロッパ本部(パレ・デ・ナシオン)、加盟国の旗が林立する

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あまりうまく撮れていないが、中央の車の上に見えるのが、一本足を失った巨大な「壊れたイス」

  アリアナ公園に入ると、人影はほとんどなく、黄葉を樹下一面に敷き詰めている大木がまず目に入る。珍しく赤く紅葉している巨樹にも出会う。その木の間に現れたのが、ドームを持ち、外壁に朱鷺色のレリーフをめぐらしている瀟洒な建物、アリアナ美術館である。開館一〇時までには時間がある。ここにはベンチもないが、スケッチをはじめる。時折、目前の柳の枝は揺れ、昨夜の雨滴を振り落とし、今朝の冷え込みが一段と身に沁みる。がまんも限界かと思われた頃、開館と同時に入館する。見上げた吹き抜けの天井の豪華さと回廊に目を見張る。ドイツのマイセン、フランスのセーブルくらいは分かるのだが、中国、朝鮮をはじめ日本の伊万里、柿右衛門、スイスのニヨンなど世界各地の陶磁器が時代順に展示されている。知識のない者でも、その量と種類の多さに圧倒されるのだった。

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アリアナ美術館のうち・そと

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こんなものも出てきたので。アリアナ美術館の開館を待っている間、寒い中でのスケッチ?小学生並みのといっては、小学生に叱られるかも・・・

 せっかくジュネーブを訪ねたのだから、赤十字社にも敬意を表しておきたい。アリアナ公園の向かいとなる赤十字博物館では、日本語のオーディオ・ガイドを借りる。新しい展示技術を駆使し、音と光、映像による演出は、若者向けなのかもしれない。1863年、アンリ・デュナンにはじまる赤十字の活動が曲線をなす壁に、長い年表として現れる。そして、私がもっとも貴重なものに思えたのは、展示場の中央、天井にまで届く棚が続き、ぎっしり収納されている、第一次世界大戦時、三八の交戦国の捕虜収容所に拘束されていた200万人の700万枚に及ぶ調査カードのファイルである。どこの国の高校生たちか、ここで何を学んで帰って行くのだろう。クロークに山盛りになったダウンジャケットやコートは彼らのものにちがいない。

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 国際赤十字社博物館の案内リーフレットから

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国際赤十字博物館の全景

 コルナバン駅までだったら歩いて一五分はかからないはずだ。国連を背に、大通りを歩き始めたが、歩いても、歩いても、駅らしきものが見えない。30分も経つと不安になった。ビルばかりで人の気配がない街、地図を頼りに方向を変えて歩き出してみるが、今度は大きなマンションが続く住宅街に入ってしまう。歩いている人に、中学生程度の英語でコルナバン駅を聞くのだが、なかなか通じない。英語は話せないと断わるひと、ただ首をふるひと、肩をすぼめて腕を広げるひと・・・。そして出遭った、買い物帰りの年配の女性、歩いて行くなら途中まで一緒に、と言ってくれる。中国から来たのか、いつ来たのか、色々尋ねられ、話しかけられるのだが、残念なことに私にはほとんどが聞き取れない。にぎやかな商店街に出て、この道をどこまでも下っていくと、線路に突き当たるから、左に曲がれ、と。何度もお礼を言って別れた後は、びっしょりかいた汗が急に冷たくなる。10分以上歩いて、高架の線路が見えたときのうれしさといったらなかった。15分で着くところを1時間半は歩いていたことになる。

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ビルのてっぺんに、「OMPI」「WIP O」の文字が見えるが、上がフランス語、下が英語で、「世界知的所有権機構」を示す。このあたりで、駅に向かう道を間違えたらしい

 午後からは、ジュネーブ市内の南、カルージュに行きたいと思っていたのだが、コルナバン駅前から出る市バス13番の自動販売機の前で切符の買い方が分からず、まごまごしていて、バスを逃してしまう情けなさ。カルージュは時計職人をはじめ、工芸品、民芸品を作って売る店も多い町ということだったが、残念。午前中の迷子ですっかり自信を失った私は、計画を変えて、より確かな鉄道で、レマン湖沿いの隣町二ヨンへ行くことにする。二ヨンは特急IR(インターレギオ)で16分、アリアナ美術館にも収蔵されていた二ヨン焼きで有名らしい。ジュネーブで働く人々のベットタウンにもなっているという。案内書によれば二ヨン城は2005年まで工事中とのことだった。二ヨン駅も工事中で、間違って山側へ少し歩いてしまったが、静かな住宅街のあちこちでマンション建設が進んでいた。ガードをくぐってレマン湖へくだる街は、古いながら季節はずれの避暑地といったたたずまいである。昼下がりのこともあって、駅周辺は下校の高校生がたむろしている。小さなデパートも、スーパーもある。土産ものやも並ぶが、ドアを開けてみるには勇気が要りそうな雰囲気である。ひっそりと陶器を扱う店もあったが、右手に工事中の二ヨン城を見れば、すぐにアルプス湖岸通りに行き着く近さだ。湖を背に城を見上げると左手の高台には、ローマ時代の遺跡、神殿の柱塔が見える。石段を振り返り、振り返り登って行くと、また市庁舎前の広場に出る。回るといっても、駅を降りてからわずか一時間余りの滞在時間だった。帰りの列車の車窓には、すでに収穫を終えた葡萄畑が湖岸へと斜面いっぱいに広がっている光景が続いていた。
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ニヨンの街からニヨン城をのぞむ、四景

 夜にはとうとう冷たい雨が降りだしたが、会議を終えた夫とTさんたち二人との食事が予定されていた。スイス料理を食べさせてくれる店ということで、着いた先は、おととい私が一人で歩いた旧市街、その中心ともいえる市役所近くのレストラン「レ・ザミュール」である。二人の話だとジュネーブでもっとも古く、クリントン大統領も寄った店とのことだ。注文は、ほとんど二人にお任せで、ボトルの白ワイン、ムール貝の蒸しもの、ハーブ入りチーズ・フォンデユー。ビールはフォンデユーには合わず、おなかをこわす人がいるとのこと、つめたい水も飲まない方がいいですよ、とのことで、ワインをいつになく杯を重ねる。フォンデューは、パンをちぎって、チーズをつけるという単純なものだった。レマン湖でとれたわかさぎのような小魚の皿もあった。デザートは、今夜のお勧めというアイスクリームの上にカラメルソースをかけて焦がしたという、熱くてやがて冷たいという珍しいものだった。昼の会議の話も続いていたが、お子さんの話にも熱が入る。少し先輩の方のTさんは、娘さんは地元小学校の二年生だが、土曜日には日本の補習学校に通っているという。国際的な学校社会のなかで日本を代表しているという自負を身につけさせたいと語る。若い方のTさんの娘さんは一歳半、夫人が画家で託児所に預けているが、言葉が少し遅れていると心配していた。日本語とフランス語の混乱もあるけれど、不安は無用と医師にいわれているそうだ。バイリンガルな子供が育っていくのだろう。羨ましい話だ。私がニヨンまで出かけた話から、いまジュネーブ駐在員の奥さんたちの間で、ニヨン焼き教室が人気だという話になった。それというのも、継承する者が少ないニヨン焼き復活を目指す地元から日本人の器用さが期待されているのだそうだ。そろそろワインがまわってきた。夫とTさんとだいぶ押し問答をしていたが、当然のことながらお礼ということで夫が支払うことになった。雨はまだやまない。ライトアップされたサン・ピエトロ寺院の尖塔を見上げながら、旧市街を駐車場まで歩く。ジュネーブの雨は土砂降りが少なく、傘をさして歩くことは稀だともいう。車での移動が多いのだろう。それにしても、飲酒運転には寛大な国なのかな、と小さな疑問が頭をかすめるが、ホテルまで送っていただいたのはありがたい限りであった

 

 

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2020年2月 8日 (土)

東北へ~今回も短い旅ながら(3)宮城県美術館へ

 東北大学の中善並木と反対方向に進むと地下鉄東西線の川内駅へ。中層の白い住宅棟が並ぶ団地(公務員住宅らしい)に突き当たり、右の坂を下りると、宮城県美術館である。 まず、常設展の方から見ることにした。大方、写真撮影はOKのようだった。最初の部屋は、「洲之内徹コレクション」だけの作品であった。洲之内(1913~87)といえば「気まぐれ美術館」なのだが、すでに記憶も遠く、画商の傍ら美術評論家としての発言が思い出される。その経歴をこれまでよく知らなかった。東京美術学校在学中の1932年にプロレタリア運動にかかわったとして検挙、退学している。故郷の松山でも、運動を続け再び検挙され、転向後の1938年、軍の宣撫工作のため中国にわたる。戦後はこの時代に知り合った田村泰次郎が始めた画廊を引き継ぎ、特異な画家たちの発掘や展覧会に尽力した。この部屋の萬鉄五郎(1885~1927)の風景画と中村彝(1987~1924)の自画像が目を引いた。

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上段が、洲之内コレクション、
萬鉄五郎「春」(1912年)
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洲之内コレクションの中村彝「自画像(帽子を被る自画像)」(1909年頃)、「帽子を被る自画像」(1910年)の習作か。

  つぎの「日本の近現代美術」の部屋にある萬の自画像も洲之内コレクションだった。この部屋の冒頭が、あの鮭の絵で有名な高橋由一の三点、松島の二点はともかく「宮城県庁門前図」は、馬車の配置、当時の雰囲気がよく伝わる作品に思えた。18 81年は明治天皇の東北行幸があり、宮城県にも立ち寄っている。直接の関係はないかもしれないが、県の依頼により描かれたという。

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高橋由一「宮城県庁門前図」(1881年)。江戸時代の学問所養賢堂だったが、1945年7月10日の仙台空襲で焼失した。

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洲之内コレクション、萬鉄五郎「自画像」(1915年)

 つぎのコーナーでは「地下鉄停車場」(1924年)が目を引いたが、清水登之(1887~1945)の作品だった。清水は、若くして渡米、働きながらの修行、画業が長く、都市の人々や光景を描いていたが、件の作品は、フランスに渡ったばかりの1924年制作である。清水といえば、かつて、東京国立近代美術館で見た戦争画の中の一点「工兵隊架橋作業」(1942年)の印象が強い。テーマはまるで異なるのだが、展示会場の他の近辺の画家とは何か別のメッセージ、「生活」や「労働」というものが直に伝わってくるからだろうか。

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清水登之「地下鉄停車場」(1924年)。オルレアンの文字も読める。

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清水登之「工兵隊架橋作業」(1942年)、マレー半島を進む日本軍が爆破された橋の
架け直し工事の様子を描いている。

 また、松本峻介(1912~1948)の五点に出会えたのも収穫だった。なかでも大作「画家の像」は、街を背景に、家族を傍らにしっかりと大地に立つ構図は、代表作「立てる像」を思い起こさせる。まだ少年の面差しさえ伺わせる画家の自画像である

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五点のうち、左より、洲之内コレクション松本竣介「白い建物」(1941年頃)・「ニコライ堂」(1941年頃)と「画家の像」

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松本竣介「立てる像」(1942年)、『新人画展(カタログ)』(2008年11月22日~2009年1月12日、板橋区立美術館開催)より。

 他にパウル・クレー(1879 ~1940 )とカンディンスキー(1886~1944)の展示室も興味深いものがあった。二人はミュンヘンで出会い、ドイツの前衛芸術運動の「青騎士」に参加、ともに、バウハウスで教鞭をとることになる。クレーは1931年にナチス政権によりバウハウスを追われ、移ったデュッセルドルフ大学も解雇され、出身のスイスに避難する。カンディンスキーも、1933年、ナチスによるバウハウス閉校後は、パリへと居を移している。クレーといえば、2002年11月下旬、粉雪が舞い始めたベルンの街をめぐり、市立美術館で、クレーの作品に出会った時を思い出す。現在は、篤志家の支援で、2005年ベルン郊外にオープンしたパウル・クレー・センターに、市立美術館所蔵作品と遺族寄贈の作品およそ4000点が一堂に集められているという。できればもう一度と、かなわない夢を。さらに、カンディンスキーのつぎのような作品もあるのを知っていささか意表を突かれたのである。

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カンディンスキー「商人たちの到着」(1905年)

 併設の佐藤忠良記念館もめぐることに。宮城県大和町出身の彫刻家、佐藤忠良(1912~2011)自身の寄贈により、1990年にオープン。展示は年に何回か入れ替えがあるらしい。今回は、さまざまな「顔」、さまざまな「しぐさ」といったテーマで幾つか部屋に分かれていた。彫刻は、どちらかというと苦手ではあるが、佐藤の作品は、どれも優しく、清潔感のある、わかりやすい作品が多かった。

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「さまざまな顔」の部屋には、「群馬の人」のほか、左「母の顔」(1942年)と右「オリエ」(1949年)が並ぶ。オリエは、新劇女優の佐藤オリエの少女期のものである

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さまざまなしぐさの作品が並ぶ。正面が「足なげる女」(1957年)その左右の女性像の作品名は失念。窓の外に見える右が「少年の像」(1981年)、左が「夏」、ほかに、「あぐら」(1978年)などという作品もあった。

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「ボタン」(1967-69年)

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「甦りの踊り」(1974年)

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「このはづく」(1970年)、こんなフクロウの像が家の部屋にあったらな、とも。

 以上、1時間半余り、疲れて館内カフェで、ランチ代わりのお茶をしながら、朝から別行動の連れ合いにメールをすると、なんと企画展「アイヌの美しき手仕事」を見終わったところだという。夫は、ホール近くのベンチでメモをとっていた。仙台駅近くの朝市をめぐってのランチ、仙台戦災・復興記念館をすべて歩きで回ってきたという。記念館では、88歳の空襲体験者からの話を聞きながら見学したということだった。お茶のあと、私は企画展へ、夫は常設展へ向かった。

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タルトはイチゴかリンゴか迷ったが、イチゴもなかなかの美味。イチゴといえば、夫が朝市で買ってきた仙台イチゴ「もういっこ」は、ホテルの夕食後、部屋でたっぷり食しもした。カフェでしっかりと休んだ後、私は、企画展会場に入った。下段、カフェから中庭をのぞむ。この美術館は前川国男の設計なのだが、いま、村井宮城県知事から県民会館との統合施設として仙台医療センター跡地に移転する計画が出され、郡仙台市長が市民の意向に反するものと、異議を唱え、大きな問題になっているらしい。秋保のホテルで、知事・市長の協議が始まったとのニュースを見たばかりだった。

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柳宗悦と芹沢銈介のコレクションからの出展であった。

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2019年10月 5日 (土)

日曜美術館「異色の戦争画~知られざる従軍画家・小早川秋聲~」(NHKEテレ2019年9月1日)を見て


 やや旧聞に属するのだが、ある地元の会で、表記の番組がよかったよ、と話に聞いて、録画で見ることになった。放送の概要は、下の番組案内を参照してほしいのだが、いま残されている小早川秋聲の「国の盾」という作品はインパクトのあるものだった。ちょうど、私は、高村光太郎のことを書き終えて、そこで書ききれなかったことを、ブログ記事にもしていたさなかだった。Photo_20191005181801
NHKの番組案内より。『国の盾』(151×208cm,
1944年制作、1968年改作)

  この絵には確かに見覚えがあると思って、昔、買って置いた『芸術新潮』か「トンボの本」ではないかと、探し始めると、あった!ありました。『芸術新潮』は<戦後50年記念大特集>の「カンヴァスが証す 画家たちの『戦争』」(1995年8月)であり、とんぼの本の方は「画家たちの『戦争』」(2010年7月)と題されるものだが、同じ新潮社から出ているので、内容的にはだいぶ重なるところが多いのがわかった。

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上段:『芸術新潮』1995年8月。下段:『画家たちの戦争』(2010年7月

 

  NHKの番組案内にはつぎのようにあった。
「陸軍の依頼を受けて描かれたものの、軍から受け取りを拒まれたという異色の戦争画、『国之楯』。作者は日本画家の小早川秋聲。満州事変から太平洋戦争まで、最前線で取材し、数多くの戦争画を描いた。番組では、知られざる従軍画家、小早川秋聲が残した数々の戦争画を、近年新たに発掘された絵や文章を交えて辿(たど)りながら、戦争末期の1944年に戦争画の集大成として描かれた『国之楯』を読み解いていく。」

 小早川秋聲(1885~1974)は鳥取県の寺の家に生まれたが、跡を継ぐのを拒み、京都での日本画の修業の傍ら、国内や中国をはじめ欧米への海外への旅行を繰り返し、文展や帝展への入選を重ねていた。1931年の満州事変以来、関東軍や陸軍の従軍画家として活動した。秋聲の戦争画は戦闘場面というよりは兵士の生活に密着したテーマが多いという。戦場の前線にあっても、この画家の優しいまなざしを垣間見る思いではあった。

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『画家たちの戦争』より 。右『出陣前』(1944年)。

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『画家たちの戦争』より。左上段:『無言の戦友』、左下段:『護国』(1934年)。

 
 ところで、番組の核となった「国の盾」は、兵士の亡骸の暗黒の背景と国旗の赤の部分で覆われたその面貌が、強烈であったが、陸軍に拒否された作品は、この絵ではない。その後、2回にわたって修正されていることも番組で知った。日南町美術館の学芸員の説明によれば、陸軍から戻された作品は、その後1944年と1968年の2回にわたって描きなおされているが、どの部分かはっきりしないという。ただ、当初の作品の背景には、桜の花びらが舞い散っていたことらしいことが絵の具の重ね具合の分析でわかったらしい。その後、資料を読み返してみると、1968年に刊行された『太平洋戦争名画集 続』(ノーベル書房)に収録されたものが、いま残っている「国の盾」であった。番組には、「国の盾」が<戦争画>という類型ではひとくくりできない、画家の戦争への対峙、厭戦・反戦思想までも示唆するような作品であったというメッセージが根底にあったように思う。
 しかし、私たちが、いま、目にする「国の盾」は、カンバスの裏の付記により、1968年に書きなおされことははっきりしているので、敗戦後23年後の書き直しの可能性が高いと思われる。

 陸軍に拒否された作品は、「軍神」との題だったというが、現物を見たという関係者は、見当たらず、写真も残ってはいない。にもかかわらず、ネット検索をしていると、その原作らしい、桜の花びらが散っている絵がヒットしてくるのである。これはどうしたことか、腑に落ちなかったので、日南町美術館に問い合わせてみたところ、あの桜が散る「絵」は、現実のものではなく、NHKBSがかつて放映した「極上 美の饗宴 『闇に横たわる兵士は語る 小早川秋聲 “國之楯”』(2011年8月1日)において、作成された<イメージ映像>だというのである。そして、あの「絵」が独り歩きをして、困惑されているようなことも話されていた。
  ああ、ここにもあった<イメージ映像>の罪づくりな話であった。NHKには限らないが、ドキュメンタリー番組の中の<イメージ映像>については、安直な先入観を醸成する手法なので、やめてほしい。最近、NHKスペシャルのドキュメンタリーなどでの<イメージ映像>の氾濫には、へきへきとしていることは、先の当ブログ記事でも書いている。

*8月20日の朝刊一面は「昭和天皇の“反省”“肉声”報道」が氾濫した~「NHKスッペシャル・昭和天皇は何を語ったのか」の拡散、これでいいのか (2019年8月20日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/08/post-ee7fb1.html

*NHKの良心的な番組って、何ですか~”NHKが独自に入手した資料が明かす・・・”ドキュメンタリーの虚実(2019年8月18日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/08/post-a2ae43.html

 さらに、この番組は、従軍画家が「戦意高揚」の絵ばかりでなく、「国の盾」のような絵を描いた、ということに重点が置かれていて、その画家の「心のうち」を辿ろうという趣旨であった。しかし、私は、陸軍に突き返されたという作品は、それだけでも、十分に意義があることだと思い、そのまま保存しておいてほしかったのである。画家としては意に添わなかった作品だったかもしれないが、1944年の作品として、依頼者の陸軍に拒否された作品として、残しておくべきだったのではないか。敗戦後の「戦争画集」収録にあたって、なぜ書き直したのか、その心の内が知りたいと思った。書き直された絵は、敗戦後初めて描き下ろされた絵としても、その強烈なメッセージは伝え得たと思う。 これまで、私は、歌人たちの戦時下の短歌を敗戦後、歌集にまとめるにあたって削除したり、「全歌集」に「歌集」を収録するにあたって、削除や改作が行われたたりしたことについて、表現者としての責任の観点から分析してきた。近くは、高村光太郎の戦争詩についても考えてきた。画家についても、同じことが言えるのではないか。

<参考>

日曜美術館「異色の戦争画~知られざる従軍画家・小早川秋聲~」
(NHKEテレ201991日) 

https://www4.nhk.or.jp/nichibi/x/2019-09-01/31/15730/1902813/

出かけよう日美旅~「日曜美術館」その舞台をめぐる 第98

鳥取県/日南町へ、小早川秋聲の故郷を行く旅

(NHKEテレ201991日)
http://www.nhk.or.jp/nichibi-blog/400/411643.html

ブログ 日南町美術館の日々

http://blog.zige.jp/museum/

極上 美の饗宴 『闇に横たわる兵士は語る 小早川秋聲 “國之楯”』

201181放送NHK BSプレミアム

2次世界大戦における日本の従軍画家に関する一考察~日本画家小早川秋聲を通して

file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/MN0SN31S/ZD30402007.pdf

<参考>

日曜美術館「異色の戦争画~知られざる従軍画家・小早川秋聲~」
(NHKEテレ201991日) 

https://www4.nhk.or.jp/nichibi/x/2019-09-01/31/15730/1902813/

出かけよう日美旅~「日曜美術館」その舞台をめぐる 第98

鳥取県/日南町へ、小早川秋聲の故郷を行く旅

(NHKEテレ201991日)
http://www.nhk.or.jp/nichibi-blog/400/411643.html

ブログ 日南町美術館の日々

http://blog.zige.jp/museum/

極上 美の饗宴 『闇に横たわる兵士は語る 小早川秋聲 “國之楯”』

201181放送NHK BSプレミアム

白石敬一:第2次世界大戦における日本の従軍画家に関する一考察~日本画家小早川秋聲を通して

file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/MN0SN31S/ZD30402007.pdf

 

 

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2019年8月17日 (土)

はじめてのオランダとハンブルグへのへ旅は始まった(11)ハーレムへ

  アムステルダム中央駅9時17分発、ハーグ行きでハーレムへ、途中のライデンでは、学生たちの乗降が多い。20分弱でハーレム着、ホームや駅前も何となく閑散としていた。

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ホームの階上には、木造の待合室か。


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地味なたたずまいのハーレム駅舎、駅前の花屋さんが店開き。

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新しそうな銅像だが、ガイドブックによれば、オランダ独立戦争、80年戦争(1568~1648年)時代、ハーレムの知事だったヴィッグボルト・リッペルダ男爵と防衛隊の女性の銅像だという。

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駅から、クライス通りを進んで、路地に入ると、ユダヤ人をかくまった町の時計屋さん、その隠れ家は、いまは、コリー・テンボーム博物館となって、公開されている。私たちが訪ねた時は、どうも閉館中らしく、ツアーの人たちがガイドさんの話を聞いているところだった。

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グローテ・マルクト広場と聖バッフォ教会、立派なパイプオルガンがあって、ヘンデルもモーツアルトも演奏したという。中も見学したいところだが、先を急ぐ。フランス・ハルス美術館もスルー。

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市庁舎の観光案内所で、1ユーロの地図を買い、テイラー博物館への道を教えてもらう。日本からですかと、歓迎される。

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広場の裏手はすぐ川になっていて、跳ね橋が見える。係員がひとりいて、通行人や自転車は、橋が上がると赤信号で待つ。

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垂直に立った橋、小さな船が過ぎてゆくのどかな風景。

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実は通り過ぎていた、目当てのテイラー博物館、右手中央の黒い建物だった入り口は狭いが、中の広さと豪華さに圧倒される。

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博物館のフロアガイドとハーレム、私たちが歩いたところ。↓下はテイラー博物館のホームページ・

https://www.teylersmuseum.nl/en/teylers-museum#/en/frontpage/walter-isaacson

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ここでもレンブラントの特別展が5月から開催中で、多くのデッサンが展示されていた。

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博物館のカフェのアップルケーキもおいしかった

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これは「デンハーグの花市」、ヨハネス・クリスティアーン・クリッケンベルグという画家の作品ということが、絵葉書で分かった。

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風車の変遷を示す展示も。

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コレクションの主、銀行家のテイラー(1702~1778)の肖像、絵画ばかりでなく、化石から始祖鳥、万物?の歴史をたどる展示物。とくに失われがちな古い道具や機械類の収集にも圧倒される。

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テイラー博物館からスパーネル川に沿って歩いていくと、大きな風車が見えてきたが、ここも博物館になっていて、見学には20分はかかるということで、パスすることに。途中にあった警察署に寄って駅までの道を尋ねると、川沿いの道から、線路沿いの道へ左折せよとのことで、人っ子一人通らない広い炎天下の道を歩きに歩いて、30分?ハレーム駅に着いた。アムステルダムに戻る予定が大幅に遅れてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2018年5月26日 (土)

街と絵に見たミュンヘンの犬たち

 今回のミュンヘンレポートが、これほど長くなるとは予想をしていませんでした。ワルシャワに入る前に、番外のミュンヘンの犬のレポートとします。2014年の夏、二匹目の飼い犬を亡くして、10月にドイツに来ています。その数年前までは二匹がいましたので、旅行に出る時は、その留守の世話をご近所の友人にお願いしたり、犬の散歩などを仕事にされている方にお願いしたりで、苦労もしました。しかし、いざ、犬のいない生活になると、ご近所の犬や映像の中の犬を見るたびに、元気なころの二匹の姿や晩年の弱り切ってしまった犬のことなどが思い出されてなりませんでした。

 空港では、集めて置かれたバゲッジを探索する麻薬犬を見ましたし、電車やレストランでおとなしくしている犬も何度か見かけました。 ミュンヘンの街なかで出会った犬、思い通りにカメラをむけられませんでしたが、以下、そのうちの何枚かを紹介します。

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マリエン広場で

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モーツァールトの住居近くのアーチの下では、バイオリンを弾く青年がいる。散歩の二匹の犬がアーチをくぐると・・・

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マリエン広場から少し離れた路地、噴水の水を飲もうとするところ。暑い一日だった

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勝利の門の前にて

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ミュンヘン大学への道、何を言い聞かされているのか

 以下は、アルテ・ピナコテークの作品の中に見かけた犬です。何匹もの犬が、絵の真ん中に、あるいは人の足元に、暮らしの中に溶け込んでいるのが分かりました。絵の題名と画家の名を確かめることができないのが残念です。

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馬と馬の間に

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2018年5月25日 (金)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(8)

510日、自由に使える一日、さて

 大まかな予定としては、夜は、レジデンツでのコンサート、それまでに、まずはノイエ・ピナコテーク、午後からは、きのうは素通りだった市立博物館、ユダヤ歴史博物館はまわろうということになった。ノイエは10時開館ながら、少し早めに出た。きのう、中央駅で乗車券を買うのに迷った。どこでもチケットの自動販売機は見かけるのだが、どうもよくわからないまま、結局チケット売り場の対面で、3日間のグループ乗車券を購入していた。U2therensienstr.駅下車で一直線のはずのノイエ・ピナコテーク、曲がる道を間違えたのか手間取ったのだ。

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 思いがけずさまざまな作品に出会えて、短時間ながら楽しいひとときであった。駆け足ではあるが、思いがけず出会えた作品、私の好きな作品を中心に、紹介して行きたい。

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ハンプトンコートへの道(1874):シスレー(1839~1898)
   

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ゴッホの部屋の正面の作品が次の「織工」だった

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織工(1884):ゴッホ(1853~1890)、ゴッホにもこんな作品があったことを知る

 モネ、マネ、セザンヌ、ルノアールからクリムトまで、魅力的なのだが、私が立ち止まったのは、スイス、ベルン生まれのホドラーの風景画をはじめとする何点かであった。数年前、見逃したのが西洋美術館でのホドラー展だったからだ。

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Genfer湖の風景(1904年):F・ホドラー(1852=1918)、この絵と一緒に写真も撮りました

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水浴びをする少年たち(1904):ホドラー

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生に疲れた人々(1892):ホドラー、上記2枚は、ホドラーが主唱するパラレリズムに基づく構成がとられている

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お土産に買ったコースターなのだが、右は、ボート(1914):マネが描いたクロード・モネ夫妻の絵とのこと、マネは、しばしばボートをアトリエにして絵を描いていたそうだ。左は、シスレーと思って買ったのだが、ただいま確認中

 ランチは、美術館のレストランで、夫は焼き飯、私はボンゴレのパスタ、と飲み物で済ませた。車の往来を遠くに、池を前にして、ゆったりと過ごした時間だった。

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ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(7)

アルテ・ピナコテーク、もう少しゆっくりできたら

 朝、晴れていたので、傘を持たずにホテルを出たのだが、予報通り、4時近くになってポツポツ降ってきた。Kさんは、心配し、ホテルまで傘を取りに行きましょう、という。日本だとコンビニなどで透明な傘でも買って済ますところだろう。しかし、コンビニのような店は、まずは見当たらないので、バスで一緒に中央駅前のホテルまで戻るというハプニングもあった。アルテ・ピナコテークは1836年、14~18世紀のバイエルン王家のコレクションを中心にルートヴィヒ一世により開設された。館内の撮影は、フラッシュさえなければ可能なのだが、なかなかタイミングが合わなかったので、以下は絵葉書なども利用して、印象に残った作品の一部を紹介したい。順路は、ドイツから始まる。

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入場券と手首に巻くテープが手渡される

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四人の使徒(1526):A・デューラー(1471~1528)晩年の作品、宗教画が多い中で、自画像(1500)にも多くのメッセージが込められているようだ

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自画像(1629):レンブラント(1606~1669)、ハガキ大の小品ながら、若い青年の志が伝わるってくるような

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生徒たちのグループも静かに鑑賞している

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聖母子(1473):レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1520)

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テンピの聖母(1508 );ラファエロ(1483~1520 )

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メロンとぶどうを食べる子供たち(1645・46):ムリーリョ(1617~82)、プラド美術館には多く収蔵されている画家で、こんな写実的な絵もあった

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説教するキリストのいる港(1598):ヤン・ブリューゲル(1617~82)。説教を聞いている人々と手前の漁港に暮らす人々の生活感がにじみ出ている描写の対比が興味深い

 この日も、Kさんとの約束の時間をだいぶオーバーしてしまったようで、マリエン広場で別れた。合わせて一日ほどお付き合いいただき、ありがとうございました。Kさんは、明日、朝早くから、ノイシュヴァンシュタイン城ツアーの仕事が入っているそうだ。お元気だなぁ。夕食は、昼に案内していただいたホーフブロイでと思って、ふたたび出かけたところ、なんと満席で、入店を断られてしまった。それではということで、昼に店の前を通った、ホテルプラツイの向かいのアウグスティーナのビヤガーデンでは、ようやく若いカップルとの相席が見つかった。取りに戻った傘は、不要となって、夕方からすっかり晴れわたった。よくも歩きました。夫の白ビールが羨ましいが、私は、レモネードでのどを潤した。この時点で18000歩を越えていた。

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これは昼間、通り過ぎたときに写したもので、夕方は外も混んでいた

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右がアウグスティーナ、左がホテル・エデンのレストランのコースターでした




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