2026年5月10日 (日)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(3)モンドリアン

 モンドリアン(1872-1944)はアメリカの画家と言えないかもしれないが、最晩年をアメリカで過ごし、精力的に制作したことをもって、私は、勝手にそう呼んでいる。同じアメリカの画家と言っても、ワイエスとモンドリアンとの共通点は、何なのだろう。素人の私には、脈絡なく惹かれるものがあったのである。

 モンドリアンについては、このブログでも何度か触れたことがある。

・アンジェイ・ワイダの遺作『残像』を見て~ワイダと画家からのメッセージ
(2017年7月27日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/07/post-8567.html

・はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(9)デン・ハーグ市立美術館のモンドリアン(2019年8月13日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/08/post-ab1282.html

 というのも、これらの記事で、私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)の「あとがき」につぎのように書いていたからである。繰り返しになるが。

「モンドリアンの抽象に出遭ったとき、あの冷徹さに戸惑いながら惹かれていったのはなぜだろうかと考えています。そこには猥雑なものをいっさい拒否しようとする、ひとりの人間の生き方の美と思想があると思いました。この画家の幾何学的構成にいたる過程は、<樹木>連作が雄弁に語っています。さらに光と影から解放された垂直と水平の世界の展開を見せられたときの感動を忘れることができないでいます。主観的な表現を極度に排し、求めてやまなかったものはなんであったろう。・・・」

 

 2019年、出身のオランダのアムステルダムの王立美術館で出会ったモンドリアン、ハーグ市立美術館で、「モンドリアンコレクション」の<樹木>シリーズを目の当たりにしたときも、抽象への展開のナゾは解けたわけではないが、どちらの絵にも、短歌の精神と技法を見たような気がした。もちろん私は、抽象画への境地にはたどり着けない。映画やニュースで知る限りのニューヨークだが、その猥雑さと活力を色鮮やかな幾何学的構成もって描いた作品には不思議な魅力があったのである。

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モンドリアン展(西武美術館1987年)カタログより。右上段の絵は、叔父のフリッツ・モンドリアンの作品「小川の牛」。

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1987モンドリアン展のチラシより。

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2026年5月 6日 (水)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(2)ワイエス

 1990年、年頭の「ワイエス ヘルガ展」は、今はなつかしい、池袋のセゾン美術館(1975~1999)で見ている。残念ながら、カタログは買わずじまいだった。いま手元に残っているのは、チケットの半券と二枚の絵ハガキである。当時、ワイエスといえば、私は、メイン州のオルソン・ハウスとペンシルヴァニア州のチャッズ・フォードの住まいの周辺とそこに住む人々を丹念に、愛情をこめて描き続けていた、国民的人気も高い画家という印象が強かった。ところが、日本で「ワイエス ヘルガ展」が開かれる前から、1971から85年の15年間、隣家の農場で働く中年の女性ヘルガのヌードや肖像を、双方の家族にも知られず描き続けた未発表の作品群が公になったとの報道を聞くようになった。一つの対象を、一人のモデルを描き続けてきたワイエスなので、どんな作品なのだろうかと、興味津々だった。鉛筆によるデッサンや水彩画、テンペラ画と使い分けて、ヘルガを描き続ける執念は、胸に迫るものがあるが、ワイエスの妻も、ヘルガの夫も知らない間に二百数十点の作品が残されていたとは、驚異でもあり、そんなことってあるだろうかと不思議に思ったものである。少なくとも、ワイエスの妻は、気づいていたはずである、と下世話な推測もしているところである。

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上段は、「農道」(1979年)①、下段は「果樹園にて」(1982)②。

 いま改めて、1987年ニューヨークでに出版された画集“The Helga Pictures ”(Harry N.Abrahams,Inc.)の翻訳を見ている(「ワイエス画集Ⅲ」リブロポート 1987年5月)。この画集には、ヘルガシリーズコレクションのオーナーによる文章とナショナルギャラリー副館長の「アンドリュー・ワイエスの「ヘルガ組曲」」と題する、欧米美術史の中でのワイエスの位置づけと評価を丹念に追っている論文が付されている。画集は、裸の、戸外の、室内の眠っているヘルガなど、様々な季節、時間における30のポーズごとに関連する作品が集められている構成になっている。上記の副館長の論文の冒頭では「このシリーズ全体を通して明らかにされるのは、抑制と複雑さ、画面の質感と深い情感の表現に重要な焦点があてられていることだ」と評価している。

 例えば、上記の絵はがきとなっている「果樹園にて」のテーマのもとに、水彩画は1973年から85年まで10枚、鉛筆によるデッサンが1973年から1982年までの9枚の作品で編集されている。絵はがきの1982年の作品②が完成品というわけではなく、1985年にも季節が違う作品③が制作されている。デッサン④も、異なる構図で、長い年月にわたって描かれていることがわかる。同じモチーフで繰り返し、年月をかけて、さまざまな視角で対象を捉えていることになる。

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「果樹園にて」(1985)③

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「果樹園にて」(1973)④

 また、上記の絵はがき「農道」①と題される作品はこれ一作のみであった。また、ヌードの中には、「ネルと一緒に」(1979)⑤のような作品もあって、微笑ましくもなるのだった。

 今回のワイエス展が楽しみである。

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 「ネルと一緒に」(1979)⑤

 

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2026年4月28日 (火)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(1)ワイエス

 派手なネクタイで、カメラに向かってこぶしを上げたり、手を振ってみたりして登場するトランプ大統領が、ジェスチャーたっぷりで会見する映像を、毎日見せられると、もううんざりという感じの昨今である。そんなとき、ふと、ワイエスの『アメリカの詩情 オルソン・ハウスの物語』(丸沼芸術の森 2010年)をひらくと、そこには、あまりにも静寂な、海辺の一軒家にひっそりと暮らす姉弟の物語が繰り広げられる。アメリカ東部メイン州の海辺の丘の上のオルソン家の体が不自由だが自立心の高い姉と農業に勤しむ弟の暮らしを分け入るように子細に描き続けた画家の物語でもある。折しも4月28日から、上野の都美術館で開館100周年記念の「アンドリュー・ワイエス展」が開かれると知った。なんという偶然!

 アンドリュー・ワイエス(1917~2009)は、ペンシルヴァニア州のチャッズ・フォードに生まれ、著名な挿絵画家だった父親の教育もあって、幼少時から水彩画を描き始め、二十歳のころには、地元で個展を開くまでになっていた。1939年兵役に志願するが、身体虚弱で不合格になり、その翌年から、夏の間の避暑地であったメイン州のグッシングのオルソン家にアトリエを提供されるようになり、二拠点生活が始まり、姉弟が亡くなる1960年末まで続いたのである。

 姉弟を描くといっても、その姿が描かれるのは稀である。さまざまな視角でとらえられたオルソン家の全景と共に壁、屋根、窓であったり、納屋の中の農具や馬具であったり、収穫したトウモロコシを積んだ手押し車、ブルーべリーを運ぶバスケット、水を運ぶバケツなどをあるがままのその場所で克明に描いている。以下はいずれも、前掲「オルソン・ハウス物語」からのコピーである。この画集は、2010年9月から埼玉立近代美術館で開催された「丸沼芸術の森」所蔵の展覧会のカタログである。今回の都美術館の展示作品一覧によれば、「丸沼芸術の森」所蔵の作品もかなり多いようだ。直接、絵に出会えるのを楽しみにしている。

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「アメリカの詩情 オルソン物語」の表紙「オルソンの家」(1969)

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「干し草をかき集めるアルヴァロ」(1947)、右手遠くに家が見える

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「玄関の前に座るアルヴァロ」(1942)、働きづめだったアルヴァロは、1967年12月24日に死去。

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「クリスティーナの世界」習作(1948)何枚もある中の1枚。

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「クリスティナーの世界」習作(1967)、クリスティーナは、弟の後を追うように1968年1月27日死去、最後の肖像画となった。

 ワイエスに私が初め出会ったのは、1974年、東京国立近代美術館での「アンドリュー・ワイエス展」であった。職場の近くでもあったので、土曜の午後にでも出かけたのではなかったか。当時は週休2日など夢の夢であった。
 あらためて、このワイエス展のカタログを取り出してみると、すっかり茶色になった新聞切り抜きが落ちてきた。こんな記事を読んで出かけてみる気になったのかもしれない。

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   上記左の朝日新聞の記事は、文面から74年5月と分かるのだが、日にちは不明、執筆は小川正隆。毎日新聞の方は74年4月19日(夕刊)、執筆は安井収蔵記者となっている。調べてみると、両者ともすでに故人となっているが、社内の美術担当から、美術評論家となり、大学教員や美術館館長になっていたことを知る。なにせ半世紀以上も前のことだったのだ。当時の薄れたメモによれば、衝撃を受けたのは「冬の蜂の巣」(1959)と下記の「卵の計り」(1959)のリアルさだった。さらに、つぎの2点の寡黙さに注目していたようだ。後から思えば、オルソン家の姉クリスティーナと弟アルヴァロの暮らし方や生き方を象徴しているような作品だったのである。姉弟の晩年と没後のオルソン家のたたずまいが伺われる。

1965
「風下」(1965)

1968
「アルヴァロとクリステイーナの家」(1968)

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チケットの作品は「遥か彼方に」(1952)だった。

  ワイエスは、アメリカでも国民的画家とも言われ、人気が高いそうだが、日本でも、その後、何回か展覧会が開催されている。渋谷のbunkamuraで1995年「アンドリュー・ワイエス展 アメリカの郷愁」、2008年「アンドリュー・ワイエス展 創造の道程」などが開催されている。この時にも、以下のような記事を書いていたのである。

ワイエス展、Bunkamuraへ(2008年11月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/11/bunkamura-7f3a.html

 私が次に出かけたのは、1990年、池袋のセゾン美術館で開催された「ワイエス展 静逸な生命の肖像 ヘルガ」であった。ワイエスの後半生の意外な展開に驚かされたのであったが。(つづく)

 

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2024年12月19日 (木)

あの瞳が輝いている~高橋真琴さんが亡くなられた。

 高橋真琴さんが90歳で亡くなられた。高橋さんが、同じ佐倉市にお住まいと知ったのは、1992年、町内の空き店舗で開催された「山川惣治と高橋真琴チャリティ展」であった。山川さんの似顔絵を描くコーナーでしきりに筆を動かしているのが印象的だったが、高橋さんにお目にかかることはなかった。山川惣治の少年王者は懐かしかった。高橋さんの描く少女の挿絵は同時代に見ることはなかったが、いろいろな意味で画期的な少女漫画であることを知ったので、興味深いものがあった。

町内の山川ファンの男性が、近くに住む山川さんと併せて高橋さんの展覧会を思いついたらしい。その後、高橋さんのお住いと画廊が駅一つ先の志津にあるというので訪ねたことがある。可愛らしい画廊で、温厚な高橋さんとお話しすることができ、小さな絵をも求めた。高橋さんは、青少年育成などの地域活動をされていて、私も友人たちとミニコミ誌を発行したりしていたので、しばらく、手紙や年賀状などのやり取りが続いていた。

その後、高橋さんは、佐倉市の名士のような形で、さまざまな場で活動されるのを遠望するようになった。いま、佐倉市を走るコミュニティバスの車体には、高橋さんの描く少女の瞳の星は輝いている。

いま書棚を片付けていて、高橋さんの絵や年賀状は、箱のなかだが、いずれお目に掛けたいと思っている。

ご冥福を祈ります。

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2006年6月29日「朝日新聞」より。古いファイルから、こんな記事が出てきた。

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2018年12月1日から走り始めている佐倉市コミュニティバス。

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2024年7月29日 (月)

きのうのNHK「日曜美術館」は「香月泰男」だった

 日曜の朝、「日曜日美術館」をリアルタイムで見るのは久しぶり。「鎮魂 香月泰男の「シベリア・シリーズ」だった。2021年10月、葉山の神奈川県立近代美術館で見たはずの「シベリア・シリーズ」57点。番組では、その内の数点を香月自身の作品に付した言葉の朗読や「シベリア・シリーズ」を所蔵する山口県立美術館の学芸員などの解説を聴きながら、ゆったりと鑑賞することができた。葉山の展示は「生誕110年」だったが、今年は、没後50年記念の展覧会が山口県立美術館で開催している。もうかなうこともないだろう、香月の生家近くの「香月泰男美術館」にも出かけてみたいなとしきりに思う。

 香月泰男(1911~1974)は、1943年召集されるが、シベリアの抑留生活から1947年に復員、生涯描き続けたのが、シベリアでの過酷な体験であった。番組でも紹介された、私にとっての圧巻は、「朕」と「北へ西へ」だった。

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「朕」(1970年)は、1945211日紀元節の営庭は零下30度あまり、雪が結晶のまま落ちてくる中、兵隊たちは、凍傷をおそれて、足踏みをしながら天皇のことばが終わるのを待ち、朕のために、国家のために多くの人間の命が奪われてきたことを描いたという。絵の中の白い点点はよく見ると雪の結晶である。また、中央の緑がかった二つ四角形は、広げた詔書を意味しているのが、何枚かの下書きからわかったという。

 

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 「北へ西へ」(1959年)、敗戦後、ソ連兵によって行き先を知らされないまま、「北へ西へ」と列車で運ばれ、日本からは離れてゆくことだけはわかり、帰国の望みは絶たれたという。

 

<当ブログの関連過去記事>

葉山から城ケ島へ~北原白秋と香月泰男(2021年11月5日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/11/post-e73a2a.html

 

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2023年5月26日 (金)

マチス展~思い出いろいろ(2)

 先の記事にあるように、ニースのマチス美術館へ訪ねたのは、2004年のことだったが、その後、思いがけず、マチスの晩年、ニースのスタジオを訪ねたに日本のカメラマンがいたことを知った。毎日新聞社のカメラマンだった阿部徹雄氏は、1952928日、そのスタジオで、すでにベッドで過ごすことも多いマチスにインタビューを行い、カメラに収めていた。阿部氏の訪欧取材旅行の折、訪ねた藤田嗣治とブラマンクの写真と併せて、子息の阿部力氏が編集・出版した渾身の写真集『1952年のマティス ヴラマンクそしてフジタ』(初版2014年、第22019年)がある。今回のマチス展でも、多くの写真パネルが展示されていたが、上記の阿部徹雄・力氏による写真集には、マチス晩年の姿と製作中の切り絵の写真が収められている。

 阿部力氏の了解を得て、写真集からスキャンした数葉を紹介しておきたいと思った。

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 第二版(2019年1月5日)の表紙

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描きかけの作品が壁面に置かれている。車椅子の後ろの鏡には、ベッド上のマチスがサングラスをかけているのが映り込んでいる

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阿部徹雄氏が、日本から持参した土産の砂鉄製の風鈴が揺れているようだ。制作意欲をにじませる表情にも見える

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上は、製作中の「デコレーションマスク」、下の左側には「ネグレス」、歌手ジョセフィン・ベーカーをモチーフにした作品という

 
 なお、カメラマンの阿部徹雄(19142007)は、1936年、毎日新聞社の前身東京日日新聞社に入社、日中戦争が激化する中、広東支局に長期間勤務後、太平洋戦争末期には海軍報道班員となったが、陸軍二等兵として召集、敗戦を迎える。戦後は、毎日新聞社傘下のタブロイド夕刊紙「サン写真新聞」の写真部長を務め、『カメラ毎日』創刊時より編集にたずさわっている。その後、造形作品を中心に、数冊の写真集、写真文集を出版している。私が氏を知ったのは、没後10年近く経った頃だった。ポトナム短歌会で師事した阿部静枝の夫、弁護士で、政治家でもあった阿部温知の甥にあたる人であることを、静枝の遠縁にあたる方からご教示いただいたのだった。

 また、阿部徹雄の作品の一部は、毎日新聞社のフォト・バンクの「阿部徹雄コレクション」(戦時下を含め約900)に収められている。

https://photobank.mainichi.co.jp/php/KK_search.php

  当ブログの以下の記事もご参照ください。
「没後50年藤田嗣治展」へ出かけました~戦争画とは何であったのか(2
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/09/50-6ea4.html2018920日)

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2023年5月14日 (日)

マチス展へ~思い出いろいろ・・・

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  私には、なんとなく、なつかしくも、親しくもあるマチス、5月11日、都美術館開催中の「マティス展 The Parth to Color」に出かけた。予約制なので、並ぶこともなかったが、やはり、かなりの入場者ではあった。上記のチラシの眠る女性の絵には見覚えがあったので、手元のファイルを繰っていたら、1996年の「身体と表現1920ー1980 ポンピドゥーセンター所蔵作品」(国立近代美術館)のチラシにもあった「夢」(1935年)と題する作品だった。          

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 そして、2004 年秋のマチス展(国立西洋美術館)、この年は、やたらと忙しがっていた時期で、11月22日の日記では、「マチス展時間切れ、残念」との記述があって、出かけてはいない。ただ、記念のパスネットが残っていた。栞の2点はどこで入手したものかは分からないが、どちらも有名な切り絵のようである。

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パスネットの絵は「夢」(1940年)、中央はジャズシリーズの「イカロス」(1947年)、 左は「アンフォロとザクロの女」(1953年)。アンフォロとは、柄のついた深い壺のことを言うらしい。

 

 今回のマチス展は、つぎのような時系列の構成になっていて、とくに、私には苦手な彫刻の作品も多く展示されていたのも特徴だろうか。鑑賞の仕方がわかるといいのだが、多くは素通りしてしまった。

1. フォーヴィスムに向かって 1895─1909
2. ラディカルな探求の時代 1914─18
3. 並行する探求―彫刻と絵画 1913─30
4. 人物と室内 1918─29
5. 広がりと実験 1930─37
6. ニースからヴァンスへ 1938─48
7. 切り紙絵と最晩年の作品 1931─54
8. ヴァンス・ロザリオ礼拝堂 1948─51

 私が、気になったのは、第一次世界大戦期に重なる「ラディカルな探求の時代」のつぎのような作品だった。

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左「コリウーのフランス窓」(1914年)右「窓辺のヴァイオリン奏者」(1918年)。コリウールはスペイン国境に近い地中海に面した小さな港町で、マチスやピカソをはじめ多くの芸術家たちが愛した、美しい村というが、この黒い外の光景は、何を意味しているのだろうか。ヴァイオリン奏者のモデルは、息子のピエールかとも解説にあったが、誰とも分からない存在を強調しながら、窓の外には白い雲が立ちのぼっているのは、「コリウールのフランス窓」とは対照的だが、決して晴れてはいないことにも注目した次第。

 晩年の切り絵については、ニースのマチス美術館を訪れたときのことを思い出す。2004年9月末からのフランス旅行の折、アヴィニヨンに4泊して、エクサンプロバンスからの「セザンヌの旅」ツアーに参加したりしたが、大した前準備もなく、ニースへ、そしてマチス美術館にも行ってみたいと思い立ち、日帰りを強行した。ヴァカンスの季節はとうに終わったニースの街と海、バスでマチス美術館近くに下車したつもりだったが、なかなか見つからなかった。まさか、古代ローマの遺跡に隣接していようとは思っても見なかったのである。

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2005年10月1日、たどり着いたマチス美術館

 

 マチスは、金魚の絵を多く描いているようで、2005年秋の「プーシキン美術館展」(都立美術館)に出かけた折の「金魚」(1912年)の絵葉書が残っていたが、今回のマチス展では、「金魚鉢のある室内」(1914年)を見ることができた。1912年の作品はとてつもなく明るいのだが、1914年の作品には、シテ島近くのサン・ミッシェル河岸の住まいの窓から見下ろすサン・ミッシェル橋も描かれているが、全体的にブルーの暗い色調である。また、近くのノートルダム寺院も様々に描いているが、炎上を知ったら、何を思っただろうか。

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左「金魚」(1912年)プーシキン美術館蔵。 右「金魚鉢のある室内」(1914年)ポンピドゥーセンター国立近代美術館蔵

*日本語の表示は「マティス」が適切なのかもしれないが、私は、「マチス」として親しんできたので、そちらで統一した。

 

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2020年5月 1日 (金)

18年前の旅日記~スイスからウィーンへ(4)

20021123日~ウイーン、クリスマス市の初日に
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 アルプスの山並みを越え、やがてウイーンへ、ふたたび

 ウイーン空港からカールスプラッツまでの道順は、リピーターの余裕?で、リムジンバスと地下鉄一本を乗り継いでスムーズにこなせた。ジュネーブと同じブリストル・ホテルでも、その雰囲気はだいぶ違い、部屋は一段と狭い。ホテル前のケルントナー通りを隔てて、オペラ座、昨年の宿ザハ、そしてアストリアホテルと大きい建物が並ぶ。前回は行けなかったシェーンブルン宮殿へ行くことにしていた。何しろウイーンのガイドブックを家に忘れてきてしまったので、ホテルと航空会社からもらった地図しかない。
 地下鉄U4でシェーンブルン駅下車、人の流れにそって進むと、広場の前は大変な人出で、さまざまな露店が出ているではないか。正面には大きなクリスマス・ツリー、小さな舞台で演奏もやっている。これがクリスマス市なのか。なんと土曜の今日が初日だったのである。クリスマスまでちょうど一か月、食品、洋品、おもちゃ、飾り物など、何でも揃いそうである。ところどころに立っている丸い小さなテーブルを囲んで、カップルや家族連れが立ち飲み、立ち食いもしているのだ。さまざまな着ぐるみ、竹馬に乗った足長ピエロの行列や風船配りとぶつかりそうになる。子供たちがほんとうにうれしそう。また大人たちが、実においしそうにマグカップで飲んでいるホットドリンク、夫は気になってしかたないらしく、手に入れてきた。プンシュというものらしく、ジュースとワインを混ぜたようなソフトドリンクらしい。飲み干したカップを返すとお釣りが戻るという。夫は、最初の一口を飲むなりむせてしまい、咳き込むばかり。私も、一口恐る恐る飲んでみたが、相当に強いアルコールで、それ以上は飲めなかった。しばらくチビチビ飲んでいた夫も、観念したのか、さりげなく広場の側溝に流し込んでいた。

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上2枚:シェーブルン宮殿前のクリスマス市、下:翌日の市庁舎前のクリスマス市

 そんなことをしていて、宮殿に入場するのがだいぶ遅くなってしまった。日本語のオーデイオ・ガイドに飛びついて、宮殿の各室を回る。急いで通り過ぎたい部屋もあるが、どうも加減ができないらしい。それにしても、ハプスブルグ家の歴史を聞かされると、その華やかさの割には誰もが幸せとはいえない生涯を送ったのではないか、とそんな庶民の思いはつのるばかりだ。外へ出た頃は、すっかり日は暮れて庭園はすでに闇の中だった。シェーンブルンの庭園には今回も縁がなかったことになる。夜7時半からは楽友協会のコンサートなので、その前に食事もしておかなければならない。それならばと、ケルントナー通りの「ノルトゼー」にむかう。「北海」「北洋」とでも訳すのか、魚料理を食べさせる大衆的なチェーン店である。ケースの中の料理が選べるのが何より便利で、安い。
  ホテルからも近い楽友協会は、ウイーンフィルのニューイヤーコンサートの会場としても知られるが、入るのははじめてだ。ブラームスのドイツレクイエム、ミュンヘンの交響楽団の演奏と重厚な合唱に魅せられた一時間半、聴衆の大部分が地元のシニアだったのもなんとなく落ち着ける雰囲気だ。が、ホテルに着いても入浴する元気がない。一日中の移動を思えば無理もない。疲れがどっと出たのかもしれない。

 20021124日~ハイリゲンシュタットのホイリゲで
 今日は、まず前回見落としていたウイーン美術史美術館のブリューゲルを見る予定だ。歩いてもたいした距離ではないが、開館には間がある。昨日買った一日乗車券で、旧市街を囲むリンク通りをトラムで回ることにした。前回の旅で、この辺で迷ったね、初めて昼食をとったのがこの路地のカフェだった、と懐かしくも、あっという間の一回りだった。まず、議事堂にも敬意を表して下車したところ、震えるほど寒い。広い階段を上がったところで、一人の日本人男性と遭い、寒くないですか、とセーター姿の夫は同情されていた。階段の下では、なにやら、テレビカメラがまわり、議事堂を見上げるようなアングルで、記者が実況放送のようなことをやっている。これは、後でわかったことなのだが、11月24日はオーストリーの総選挙で、極右との連立政権の成り行きが注目を浴びていたらしいのだ。街中にポスターがあるわけでもなく、気づかず、そんな雰囲気がまるで感じられなかった。議事堂に続く広場には、昨日のシェーンブルン広場の規模を上回るクリスマス市が立っている。地図でみれば市役所である。結構出入りのある市民ホールの重いドアを開けてみると、そこは、子供たちがいっぱい。子供たちのためのワークショップ、仕切られた部屋でハンドクラフトの講習会がひらかれていたのである。学童期前の幼い子供たちがエプロンをして、クッキーを焼いたり、クリスマスカードやローソクを作ったり、土を捏ねたりしているのだ。廊下では、中に入れない親たちが見守っているという、ほほえましい光景を目の当りにすることができた。こんなふうにして、ウイーンの市民たちはクリスマスを迎える準備に取り掛かるのだ、と感慨深いものがあった。自分たちの住む千葉県の新興住宅地で、庭木の電飾だけが妙に狂おしく、競うように点滅している歳末風景にうんざりしていただけに、あたたかいものが感じられるのであった。

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上2枚:市庁舎前クリスマス市の催しものなのか、ホール内では、子ども向けのワークショップたけなわ。下:議事堂前では、総選挙当日のテレビ中継番組の収録中で、そのスタッフたちがいずれもしっかりと防寒の重装備のなか・・・

  名残惜しいような感じで、クリスマス市をあとにして、新しくできたミューゼアム・クオーターの一画、レオポルド美術館にも寄ることにした。ここはエゴン・シーレのコレクションとクリムト、ココシュカなどの作品で知られる。そういえば、クリムトの風景画だけを集めた展覧会が、ベルベデーレ宮殿の美術館で開催中らしいのだ。いまは時間がない。レオポルドに並ぶ現代美術館は、巨大な黒いボックスのような建物で、中に入ると、まだ工事中のようなリフトがあって、入場者もまばら、閉まっているフロアも多い。入場料がもったいなかったと嘆きつつ、美術史美術館へと急ぎ、中のレストランで遅い昼食をとる。目当てのピーテル・ブリューゲルの部屋、二階Ⅹ室へ直行する。ここのブリューゲルは、私が旅の直前に出かけた東京芸大の展覧会でもみかけなかったし、1984年日本で開催した「ウイーン美術史美術館展」でも、門外不出ということで一点も来なかったそうだ(芸術新潮 1984年10月)。所蔵点数一二点、世界で一番多いという。「バベルの塔」をはじめ、「雪中の狩人」、「子供の遊び」、「農民の婚宴」などはじめて見るというのになつかしい、という思いがぴったりなのだ。農民や兵士の日常生活がその背景とともに丹念に、克明に描かれ、その一人一人の表情が実にいきいきしているからだろうか。宗教や歴史に取材していても決して叙事的ではないのだ。せっかくの機会なので、周辺の部屋にはヨルダンス、ファン・ダイクがあり、そしてここでも大量の作品を残すルーベンス、前回見ているはずなのに記憶はすでに薄い。

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レオポルド美術館のリーフレットより、クリムトとエゴンシーレ

  少し欲張って、夕飯は郊外のホイリゲでとることにした。ホイリゲといえば、前回は、グリンツインからバスに乗り換えてカーレンベルクまで行ったが、今回は、ホテルで勧められたハイリゲンシュタットのMayerという店を目指す。地下鉄のハイリゲンシュタットからバスで二、三駅と教えられ、降りたところは静かな住宅街だが、まず国旗を掲げた、ベートーベンが遺書を書いたという家に行き当たる。木戸を押すと、小さな中庭、入り口の二階のドアは閉まっているが、脇のドアをノックすると、年配の女性が受付をしてくれる。オリジナルな資料は少ないが、しばらくベートーベンの世界に浸る。ここハイリゲンシュタットでの足跡が分かるようになっていた。すぐ隣りの新しい建物は、シニア専用のマンションらしかった。少し戻ると、分かりにくいが木戸の脇にMayerの文字が読める。そーっと開けてみると、意外に広い庭をめぐる古い建物。いくつもの入り口をのぞいていると、ドアを大きく開いて迎えてくれた。もうこの季節では、中庭にテーブルを出すこともないのだろう。薄暗い中には、すでに何組かのお客さんがつめていた。まずは白ワインを注文すると料理は向かいの建物で買ってきてください、ということだった。ワインは溢れんばかりの小ジョッキで運ばれてきた。中庭を抜けた調理場近くのケースの中にはさまざまな料理が山と積まれている。好きなものを選べるのがありがたい。どれも期待を裏切るものではなかったが、ただ一つ、チーズをスライスした茸で巻いたようなものだけは、残してしまった。お客さんは増えるが、席を立つものがいない。これ以上ワインをのめる体力もなくMayerをあとにした。あたりはすでに暮れかけていたが、Mayerの隣りには聖ヤコブ教会が建っていたのに気づく。 
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ホイリゲ、Mayerの入り口の上に飾られているのは、松の枝の飾りで、新酒の解禁日に掲げられるそうだ。この辺りは11月の第3週という

  帰路、もらったパンフをよく読むと、Mayer家がこの地に葡萄園を開いたのは一七世紀後半、1817年、ベートーベンはこのホイリゲに滞在して「第九」を作曲した、とある。ホイリゲの横を北に進むといわゆるベートーベンの散歩道に出るらしい。いつの日かの再訪を期してホテルに戻れば、今日もまた、ベッドになだれ込む疲れようだった。荷造りは、明日にまわして、おやすみなさい。(了)

 

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18年前の旅日記~スイスからウイーンへ(3)

20021122日~世界遺産の街、ベルンへ
 あと一日となったジュネーブ、お天気が定かでないので、丸一日かかるモンブラン観光
よりベルンまでの遠出を勧められていた。夫は市内観光をほとんどしてないわけだが、レマン湖畔、鉄道の旅もよいのではということで、スイス国鉄SSBのIC(インターシティ)一等車に乗る。車窓に雨滴が流れるほどの雨であったが、少しずつ明るくなって、湖面越し見える、雪渓をいただいたやまなみが目に沁みる。 鉄路が何本となく広がり、ローザンヌ駅に近づく。列車は湖面よりだいぶ高いところを走る。湖面までの斜面に広がるローザンヌの町、列車がカーブを切る度に、湖岸線や街の展望ががらりと変わる。思わず席をたって車窓からの眺めに釘づけになる。ローザンヌからはモントルーに向かう線とは分かれ、列車はレマン湖を離れ、北上する。雪渓の山々が迫ってくるようだ。

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 ベルンの旧市街は、アーレ川の蛇行に囲まれている

   ジュネーブから1時間45分、ベルンはスイスの首都ながら、人口13万、4番目の都市で、街全体が世界遺産に登録されているそうだ。地図を見れば、旧市街は、大きく蛇行したアーレ川に三方囲まれている。駅にも近い、官庁街、裁判所、郵便局、警察署と並んでいるベルン美術館にまず入る。ベルン近郊で生まれたパウル・クレーのコレクションが有名だが、常設だけでもかなりの部屋数である。彼の抽象にいたる過程が興味深かった。ピカソ、ブラック、カンジンスキーら同時代のキュービスムとも若干異なるその「やさしさ」が私には魅力的だったのだ。ジュネーブでその名を知ったベルン生まれのホドラーの作品も多い。印象派の作品も少数ながら捨てがたく、入館者も稀で、のんびりした時間に身を置いていると、異国にいることを忘れてしまうほどだ。

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車窓からのアルプスの山並み、そのままに、ジュネーブからの乗車券にはアルプスの絵が描かれていた。左、旧市街の時計塔が見える

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雨上がりのベルン市立美術館正面とパウルクレーコレクションから

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パウルクレー、1932年の作品、私が訪ねた2002年当時のベルン市立美術館の案内パンフの表紙になっていた。2005年、ベルン郊外にパウルクレーセンターが開館、クレーコレクションは、そちらに移された。立派な斬新な建物らしいが、クレーファンにとって、その展示には不満があるらしい

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ベルン生まれのホドラー(1853~1918)の作品も多い。「オイリュトミー」(1895年)、彼の表現の特徴でもある「パラレリズム(平行主義)による作品で、こうした構図の作品は多く、一昨年2018年ミュンヘンのノイエビテナコークで見た「生に疲れる人々」(1892年)を思い出した

  メインストリートには、いろいろな由来のある像をあしらった噴水が立ち、牢獄塔を正面に右手に入ると連邦議会議事堂が長々と続く。裏手に回るとアーレ川が川幅を広くしてゆったりと流れる。雨上がりの寒さもさることながら、また昼食が心配な時間となる。お目当ての「コルンハウスケラー」は、地下の穀物倉庫をレストランに改造したというが、階段を下りて開けたドアの先の、その広さに驚く。最初は穴倉に入った感じだったが、かまぼこ型の天井には、みごとな絵が淡い灯りに映し出されている。中央の長いテーブルも、夜には賑わうのかもしれないが、今は壁際のテーブルに何組かが散らばっている程度だ。周辺の雰囲気はワインだが、ビールにとどめ、ビュッフェ式の料理とベルンの家庭料理といわれている、ベルナー・プラッテ(野菜とソーセージ、ベーコンを煮込んだポトフ風の料理)を頼んでみる。テーブルの鍋に火をつけてくれる、この煮込み料理は、冷え切った体には最適だった。ジャガイモもソーセージもよかったが、たっぷりと盛られた干しインゲンも残さずいただく。街では、小物や民芸品、チョコレートやケーキがいっぱいのショウ・ウインドウに目移りがし、もう少しゆっくりできたらな、という思いが募る。
  そんな商店街の真中に、アインシュタインが下宿していた家があったりする。 アインシュタインといえば、物理学者で歌人の石原純が、日本への紹介者として有名である。その石原純は、留学中、1913年、チューリヒ工科大学でアインシュタインの指導を受け、「名に慕へる相対論の創始者に、/われいま見(まみ)ゆる。/こころうれしみ。」(『靉日』1922年)と詠んでいる。
  歩道からいちだんと低い、半地下のようなところから、車道に向かって斜めに入り口が開いている、こんなお店が続くのも珍しい。老舗という「チレン」では、チョコレートの詰め合わせと自家用にも小袋をいくつか買ってみる。

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  すぐにたどりつけると思った駅にぶつからず、予定の列車の発車時刻も近い。通行人から教えてもらい、歩道から直接ホームに通じる階段を二人は夢中で駆け下りた。そんな風に駆け込み乗車をしたものの、十数分走ったところで、列車は止まってしまったのだ。時折、車内放送が流れるのだが、まずドイツ語で、つぎにフランス語でというわけで、さっぱり分からない。ジュネーブ空港行き列車だというのに、周辺の乗客はみな慌てず、本を読んだり、パソコンに向かったりしている。三〇分ほどしてようやく動き出して、最初に停車したのがフリブールという駅だった。日没近くになって空は晴れ、車窓からの雪渓やローザンヌの展望も行きにもましてすばらしいものとなった。
  そして、今晩の食事は、駐在員の二人のお勧めでもあった、もう一軒の和食の店にゆく。コルナバン駅のすぐ近く、小料理やふうの店で、ご夫婦でのもてなしに心も和んだジュネーブ最後の夜となった。

  突然ながら、1924 年、斎藤茂吉はパリからヨーロッパの旅に出て、スイスのベルンにも立ち寄っている。齊藤茂吉「ベルン、九月廿八日」(『遍歴』)においてつぎのように詠んでいた。

・ベルンなる小公園にあららぎの実を啄みに来ることりあり(一九二四)

・この町に一夜やどりてHodler(ホドラー)とSegantini(セガンチニー)をこもごも見たり

 

20021123日~ジュネーブ空港で呼び出し放送をされて
 朝は、ジュネーブのホテル前のローヌ川を渡ってすぐのデパート、8時には開店というグローブスに向かう。夫は、きのう目星をつけておいたスイスワインの別送を頼むと、三、四週間はかかりますよ、とのことであった。戻ったモンブラン通りではクリスマス・ツリーなどを積んだトラックが幾台も入り、大掛かりな飾り付けが始まっていた。ウイーン行きの便は10時55分発、空港には少し早めに着いた。免税店で、いま愛用しているスイス製の水溶性クレヨン10色がだいぶ減って来たので、15色を見つけて買えたのが何よりのお土産になりそうだ。丸善ではだいぶ高いはずだ。さらに民芸品などを見ていると、夫は、いま呼ばれなかったか、という。呼び出し放送で、自分の名前が呼ばれたというのである。時計を見れば、離陸まで17、8分しかない。慌ててゲイトへと急ぐが、この通路が長い。動く歩道を走るようにして、駆け込みで搭乗すると、離陸の5分前で、冷たい視線を向けられたような気がした。席を探すにも、天井に頭を何回かぶつける小型機だし、ステュワーデスの制服も、あの真紅のオーストリア航空のものではない。一瞬間違ったかと思ったが、オーストリア航空グループのチロリアン航空だったのだ。大型機が安心というわけではないが、七〇人乗りぐらいだろうか。しばらくレマン湖上空を飛んでいたが、山岳地帯に入ると、その壮大な雪景色は初めて経験するものだった。画面での高度表示もないのだが、かなり低いのではないか。山間の集落、白い川の流れ、点在する小さな湖、どこまでも続く雪の山脈。ウイーンまでの一時間余、飽きることがなかった。 

  • あまそそるアルプスの峰に入り日さし白雲のくづれおもむろにくだる(一九二三)                       大塚金之助『アララギ』一九二三年三月

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最近は、あまりスケッチもしなくなってしまったが、それでも、よく使う緑や黒、茶色は短くなっているし、折れている色もある

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2020年4月30日 (木)

18年前の旅日記~スイスからウィーンへ(1)

 もう整理のつかないCDの山から、乱雑なメモを頼りに昔の原稿を探していたところ、思いがけず、かつて、短歌の同人誌に載せてもらっていた旅行記をみつけた(『風景』106・107号 2004年9月・11月)。拙ブログを始める前のことである。私にとっては、まだ、海外旅行を始めてまもないころの文章であり、なにぶんにも冗長で、ひとり昂ぶっている感、満載なのだが、ともかく、このブログにも記録として残しておきたい衝動にかられた。ところが写真のCDが見つからないので、アルバムからスキャンしたものであるが、これはというものを撮ってないこともわかった。拙文とともにお目障りを承知しながら。

20021119日~レマン湖畔のホテルへ
 今回の旅は、あまりにも唐突であった。ベルギー・フランスの旅から帰って、3週間も経っていないある日、夫は、「ジュネーブの国際会議に参加するけど、一緒に行かないか」という。私は、前回の海外旅行の疲れがようやく抜けたばかりだったし、犬二匹の世話もある。留守番を決め込んでいたが、会議の後はウイーンに回ってもいい、との一言に決心したのだった。昨秋訪れたウイーンには機会があれば、もう一度訪ねたいと思っていたからだ。
 出発まであと3週間しかない。夫は総務省関係の仕事や原稿の締め切りを控え、私は自治会関係の厄介な問題を抱えていたし、自分の仕事もあった。夫はともかくホテルと飛行機をおさえ、ウイーンのコンサートを予約したという。私も、図書館や書店を回って本を探したり、東京芸大の美術館で開催中だった「ウイーン美術史美術館展」へも出かけたりした。

 結局、成田を発つ前の晩は、夫も私も3時間ぐらいしか眠っていなかったので、機内では、私は眠り込んでしまったが、夫は英語での報告ということもあって、その準備で、眠れなかったらしい。ジュネーブへの直行便がないので、フランクフルトの空港で1時間余過ごしたが、あまりにも閑散としているので気味が悪いくらいだった。夕刻の4時半というのに、あたりは真っ暗。月が出ているので、天気が悪いというわけではないらしい。ジュネーブまでもう一時間、空港からは、もう夜だし、ホテルまでタクシーにしようと決めていたが、国際会議担当の駐在員の二人が迎えに来てくれていた。お二人ともジュネーブ着任1年半、三十歳過ぎたばかりの国家公務員である。外交特権があるので空港内まで入れるのだそうだ。疲れている私たちにはありがたいことだった。ベンツに乗って夜のジュネーブの街へと走る。7時過ぎにホテルに着いたが、夫は、出迎えの二人と明日からの会議の打合せでロビーへと降りてゆく。ブリストル・ホテルはレマン湖畔に建っているはずだが、窓の下は、木立やベンチが街灯に映し出されている、静かな中庭、いやモンブラン広場だった。一人になると、慌てて家を出たとき、冷ましておいた犬のえさのタッパーを冷蔵庫にしまい忘れたことを思い出す。週末に帰省する娘の手間を省こうとしたのに、また文句のひとつも言われそうだ。
 打ち合せが済んだ夫とモンブラン通りからシャントブレ通りに入った和食の店を目指す。初日から和食とはだらしない話、五組ほどの客で賑わってはいるものの、古普請だからか階段や床が改装中みたいに埃っぽくも思え、早くひと風呂浴びたいの一心でホテルに戻る。

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ホテルの部屋から中庭にもなっているモンブラン広場、紅葉が見事だった

 

20021120日~美術歴史博物館の開館を待ちながら
 9時半から会議のある夫なので、早めに朝食をと思って、早起きをしたつもりだったが、7時を過ぎている。でも、窓の外は暗く、白みかけたのは、私たちが朝食のため部屋を出た8時近くだった。食後、向かいのモンブラン橋を渡って、イギリス公園まで出かけてみる。帰りはローヌ川の中ノ島になっているルソー島に寄って戻るという寒い朝の散歩であった。国連ヨーロッパ本部近くの会場に向かう夫を見送り、さあ、私一人の自由時間、昨日の駐在員の二人には市内の観光バスはいかがですかと勧められたが、それは午後から一便しかない。ジュネーブの観光シーズンは、10月でほとんどが終る。レマン湖めぐりの観光船も、あの有名なジェット噴水も夏だけの風物らしい。通年では、丸一日かかるモンブラン観光が唯一らしい。私は再び橋を渡り、イギリス公園の花時計の前を過ぎ、まずは旧市街へと急ぐ。たいした距離はなく、10時開館という美術歴史博物館には九時半に着いてしまう。  

 高台にある博物館だが、前の公園(オブセルバトワール公園)からリブ広場、レマン湖への道が一望できる。スケッチの一枚でも描いて置こうとベンチにすわる。じっとしているとかなり寒い。公園では、犬を遊ばせる人たちが集まってきた。なんと犬の糞を始末する小さいビニール袋が自由に引き出せる箱が設置されている。その下には専用のゴミ箱が置いてある。犬専用のゴミ箱はロンドンの公園でも見かけたことがあったが、袋まで用意してあるとは。公園の周囲は立体交差となっていて、すぐ左手には、紅い蔦が絡まるカレッジがあり、裁判所がある。荒いスケッチが出来上がり、体もかなり冷え切った頃、博物館はようやく開いた。入場してすぐ左手の古武器室では、講座が開かれているらしく、すでに20人近くの市民が話を聞いていた。二階に上がって、いきなり、モネ、シスレー、セザンヌ、ピサロ、クールベ、ルノアールなどが並ぶ一室がある。絵についてのキャプションは何一つない。ただ、壁に絵が並べてあるだけなのだ。画風でだいたいの見当はつくものの、絵の中のサインや額縁の記述を読んで確かめるしかない。入館は無料だし、実にラフな展示に驚きもしたが、これが本来の美術鑑賞なのかもしれないと妙に納得してしまう。どの部屋でも入館者に出会うのは稀で、実にゆったりと絵に向き合えるのがありがたかった。 

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ジュネーブ美術歴史博物館の案内のリーフレットがなかなかおしゃれであった

 12、3点はあろうかと思われるコロー・コレクションの部屋では、ここも講習会の準備なのだろうか、コローの一点をイーゼルに立てかけ、囲むように椅子が並べられてゆく。職員の出入りが多いなか、つぎの部屋へと急ぐ。ジュネーブゆかりの画家、フェルディナント・ホドラーのユングフラウを描いた作品、何枚かの青衣女性立像などが印象に残る。そういえば市内にはホドラーのフルネームが付けられた通りがあったはずだ。*注

 すでに12時近いが、近くのプチ・パレ美術館にまわってみたところ、ドアは閉まっていたので、ジュネーブ大学まで足をのばす。ルソー記念館があるはずなのだが、ここも昼休みなのだろうか。大学前の公園(バスティヨン公園)には壮大な100メートルにも及ぶ宗教改革記念碑が広がる。世界史では「カルヴィン派」と習ったが、「カルバン」生誕四〇〇年記念のこの碑の前のベンチで、私は、昨日のフランクフルトからの機内では食べられなかったサンドイッチとミネラル・ウォターという、みすぼらしい昼食となった。記念碑の裏側の広い道(クロワ・ルージュ通り)の後方が旧市街地のはずである。公園の端に、数面ある路上チェスでは、まさに多国籍の人たちがせわしく大きなコマを動かしている。

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上が「宗教改革記念碑」、下が広場のチェスに興じる人たちである

 トレイユ通りという坂を上がりきると、そこは見晴しのいい公園になっていて、世界一長いという木製のベンチがひたすら続く。石畳の路地に入ると、すぐに旧武器庫に突き当たり、その向かいが市役所である。ルソーの生家があるという通りを歩いてみるが、見つからなかった。そのうち、サン・ピエール寺院にぶつかるが、どこが入り口かわからないまま、一段と低い公園に紛れ込み、そのまま回り続けると、狭い広場に出る。メリーゴーランドがしつらえられ、テントの土産ものやが2、3軒並んでいる。人影はまばらで、なんとなくうらぶれた風情を横目に通り過ぎて、にぎやかなリブ通りに出たが、少し戻ったところのカフェで一休み。街は、すでにクリスマス気分で、ローヌ通りのブランド店のショーウィンドウもその飾り付けにさまざまな工夫が凝らされ、見て回るのは楽しい。しかし、見知らぬ街の一人歩きに疲れたのだろうか。早いがひとまずホテル戻ってみる。

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左が、サン・ピエール大聖堂。右、博物館の正面から大聖堂の尖塔が見える

  夫が帰るまでは、まだだいぶ時間がある。少し元気を取り戻して、再び街に出る。最寄りの鉄道ターミナル、コルナバンまでたいした距離ではないはずだ。ホテルの近くにはイギリス教会の石壁が柵も何もないまま、道行く人々の影を映している。その後ろが、バスターミナルになっている。モンブラン通りを進んでみる。この地の土産といえば、チョコレート、チーズ、時計、ナイフ、オルゴール、刺繍製品などらしい。急いで歩いたら5、6分の駅界隈は、さすがに人出も多い。雑多なビルが並ぶ駅前にはノートルダム教会がひっそりと建っている。
 夕食は、民族音楽の生演奏もあるという「エーデルワイス」というホテル内の店に決めていた。湖岸通りから入るのだが、一歩路地に入ると人通りがなく、二人連れでもなんとなく物騒な雰囲気が気になった。駐在員の一人Tさんが「ジュネーブの物価は高いが、治安はいい」と言っていたので、地図を頼りに進む。あちこちで工事現場に突き当たってしまって実にわかりにくかったが、ようやくたどり着いた店では、若くはない二人のミュージシャンが山岳地帯の民族楽器を使っての歌や演奏が始まっていた。夫は、明日の会議が控えていることもあり、ビールだけにとどめ、ワインは、明日の夜までお預けとする。明日の夕食は、Tさんたち二人と会食することにもなっていたからだ。

*注 すでに記憶が薄れていいるが、つぎのような作品だったろうと思う。

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上「無限のまなざし」1913~15年、下「恍惚とした女」1911年

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「白鳥のいるレマン湖からみたモンブラン」1918年、最晩年の作で、ガイドブックの表紙にもなっていた

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