2020年2月 8日 (土)

東北へ~今回も短い旅ながら(3)宮城県美術館へ

 東北大学の中善並木と反対方向に進むと地下鉄東西線の川内駅へ。中層の白い住宅棟が並ぶ団地(公務員住宅らしい)に突き当たり、右の坂を下りると、宮城県美術館である。 まず、常設展の方から見ることにした。大方、写真撮影はOKのようだった。最初の部屋は、「洲之内徹コレクション」だけの作品であった。洲之内(1913~87)といえば「気まぐれ美術館」なのだが、すでに記憶も遠く、画商の傍ら美術評論家としての発言が思い出される。その経歴をこれまでよく知らなかった。東京美術学校在学中の1932年にプロレタリア運動にかかわったとして検挙、退学している。故郷の松山でも、運動を続け再び検挙され、転向後の1938年、軍の宣撫工作のため中国にわたる。戦後はこの時代に知り合った田村泰次郎が始めた画廊を引き継ぎ、特異な画家たちの発掘や展覧会に尽力した。この部屋の萬鉄五郎(1885~1927)の風景画と中村彝(1987~1924)の自画像が目を引いた。

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上段が、洲之内コレクション、
萬鉄五郎「春」(1912年)
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洲之内コレクションの中村彝「自画像(帽子を被る自画像)」(1909年頃)、「帽子を被る自画像」(1910年)の習作か。

  つぎの「日本の近現代美術」の部屋にある萬の自画像も洲之内コレクションだった。この部屋の冒頭が、あの鮭の絵で有名な高橋由一の三点、松島の二点はともかく「宮城県庁門前図」は、馬車の配置、当時の雰囲気がよく伝わる作品に思えた。18 81年は明治天皇の東北行幸があり、宮城県にも立ち寄っている。直接の関係はないかもしれないが、県の依頼により描かれたという。

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高橋由一「宮城県庁門前図」(1881年)。江戸時代の学問所養賢堂だったが、1945年7月10日の仙台空襲で焼失した。

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洲之内コレクション、萬鉄五郎「自画像」(1915年)

 つぎのコーナーでは「地下鉄停車場」(1924年)が目を引いたが、清水登之(1887~1945)の作品だった。清水は、若くして渡米、働きながらの修行、画業が長く、都市の人々や光景を描いていたが、件の作品は、フランスに渡ったばかりの1924年制作である。清水といえば、かつて、東京国立近代美術館で見た戦争画の中の一点「工兵隊架橋作業」(1942年)の印象が強い。テーマはまるで異なるのだが、展示会場の他の近辺の画家とは何か別のメッセージ、「生活」や「労働」というものが直に伝わってくるからだろうか。

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清水登之「地下鉄停車場」(1924年)。オルレアンの文字も読める。

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清水登之「工兵隊架橋作業」(1942年)、マレー半島を進む日本軍が爆破された橋の
架け直し工事の様子を描いている。

 また、松本峻介(1912~1948)の五点に出会えたのも収穫だった。なかでも大作「画家の像」は、街を背景に、家族を傍らにしっかりと大地に立つ構図は、代表作「立てる像」を思い起こさせる。まだ少年の面差しさえ伺わせる画家の自画像である

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五点のうち、左より、洲之内コレクション松本竣介「白い建物」(1941年頃)・「ニコライ堂」(1941年頃)と「画家の像」

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松本竣介「立てる像」(1942年)、『新人画展(カタログ)』(2008年11月22日~2009年1月12日、板橋区立美術館開催)より。

 他にパウル・クレー(1879 ~1940 )とカンディンスキー(1886~1944)の展示室も興味深いものがあった。二人はミュンヘンで出会い、ドイツの前衛芸術運動の「青騎士」に参加、ともに、バウハウスで教鞭をとることになる。クレーは1931年にナチス政権によりバウハウスを追われ、移ったデュッセルドルフ大学も解雇され、出身のスイスに避難する。カンディンスキーも、1933年、ナチスによるバウハウス閉校後は、パリへと居を移している。クレーといえば、2002年11月下旬、粉雪が舞い始めたベルンの街をめぐり、市立美術館で、クレーの作品に出会った時を思い出す。現在は、篤志家の支援で、2005年ベルン郊外にオープンしたパウル・クレー・センターに、市立美術館所蔵作品と遺族寄贈の作品およそ4000点が一堂に集められているという。できればもう一度と、かなわない夢を。さらに、カンディンスキーのつぎのような作品もあるのを知っていささか意表を突かれたのである。

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カンディンスキー「商人たちの到着」(1905年)

 併設の佐藤忠良記念館もめぐることに。宮城県大和町出身の彫刻家、佐藤忠良(1912~2011)自身の寄贈により、1990年にオープン。展示は年に何回か入れ替えがあるらしい。今回は、さまざまな「顔」、さまざまな「しぐさ」といったテーマで幾つか部屋に分かれていた。彫刻は、どちらかというと苦手ではあるが、佐藤の作品は、どれも優しく、清潔感のある、わかりやすい作品が多かった。

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「さまざまな顔」の部屋には、「群馬の人」のほか、左「母の顔」(1942年)と右「オリエ」(1949年)が並ぶ。オリエは、新劇女優の佐藤オリエの少女期のものである

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さまざまなしぐさの作品が並ぶ。正面が「足なげる女」(1957年)その左右の女性像の作品名は失念。窓の外に見える右が「少年の像」(1981年)、左が「夏」、ほかに、「あぐら」(1978年)などという作品もあった。

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「ボタン」(1967-69年)

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「甦りの踊り」(1974年)

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「このはづく」(1970年)、こんなフクロウの像が家の部屋にあったらな、とも。

 以上、1時間半余り、疲れて館内カフェで、ランチ代わりのお茶をしながら、朝から別行動の連れ合いにメールをすると、なんと企画展「アイヌの美しき手仕事」を見終わったところだという。夫は、ホール近くのベンチでメモをとっていた。仙台駅近くの朝市をめぐってのランチ、仙台戦災・復興記念館をすべて歩きで回ってきたという。記念館では、88歳の空襲体験者からの話を聞きながら見学したということだった。お茶のあと、私は企画展へ、夫は常設展へ向かった。

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タルトはイチゴかリンゴか迷ったが、イチゴもなかなかの美味。イチゴといえば、夫が朝市で買ってきた仙台イチゴ「もういっこ」は、ホテルの夕食後、部屋でたっぷり食しもした。カフェでしっかりと休んだ後、私は、企画展会場に入った。下段、カフェから中庭をのぞむ。この美術館は前川国男の設計なのだが、いま、村井宮城県知事から県民会館との統合施設として仙台医療センター跡地に移転する計画が出され、郡仙台市長が市民の意向に反するものと、異議を唱え、大きな問題になっているらしい。秋保のホテルで、知事・市長の協議が始まったとのニュースを見たばかりだった。

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柳宗悦と芹沢銈介のコレクションからの出展であった。

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2019年10月 5日 (土)

日曜美術館「異色の戦争画~知られざる従軍画家・小早川秋聲~」(NHKEテレ2019年9月1日)を見て


 やや旧聞に属するのだが、ある地元の会で、表記の番組がよかったよ、と話に聞いて、録画で見ることになった。放送の概要は、下の番組案内を参照してほしいのだが、いま残されている小早川秋聲の「国の盾」という作品はインパクトのあるものだった。ちょうど、私は、高村光太郎のことを書き終えて、そこで書ききれなかったことを、ブログ記事にもしていたさなかだった。Photo_20191005181801
NHKの番組案内より。『国の盾』(151×208cm,
1944年制作、1968年改作)

  この絵には確かに見覚えがあると思って、昔、買って置いた『芸術新潮』か「トンボの本」ではないかと、探し始めると、あった!ありました。『芸術新潮』は<戦後50年記念大特集>の「カンヴァスが証す 画家たちの『戦争』」(1995年8月)であり、とんぼの本の方は「画家たちの『戦争』」(2010年7月)と題されるものだが、同じ新潮社から出ているので、内容的にはだいぶ重なるところが多いのがわかった。

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上段:『芸術新潮』1995年8月。下段:『画家たちの戦争』(2010年7月

 

  NHKの番組案内にはつぎのようにあった。
「陸軍の依頼を受けて描かれたものの、軍から受け取りを拒まれたという異色の戦争画、『国之楯』。作者は日本画家の小早川秋聲。満州事変から太平洋戦争まで、最前線で取材し、数多くの戦争画を描いた。番組では、知られざる従軍画家、小早川秋聲が残した数々の戦争画を、近年新たに発掘された絵や文章を交えて辿(たど)りながら、戦争末期の1944年に戦争画の集大成として描かれた『国之楯』を読み解いていく。」

 小早川秋聲(1885~1974)は鳥取県の寺の家に生まれたが、跡を継ぐのを拒み、京都での日本画の修業の傍ら、国内や中国をはじめ欧米への海外への旅行を繰り返し、文展や帝展への入選を重ねていた。1931年の満州事変以来、関東軍や陸軍の従軍画家として活動した。秋聲の戦争画は戦闘場面というよりは兵士の生活に密着したテーマが多いという。戦場の前線にあっても、この画家の優しいまなざしを垣間見る思いではあった。

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『画家たちの戦争』より 。右『出陣前』(1944年)。

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『画家たちの戦争』より。左上段:『無言の戦友』、左下段:『護国』(1934年)。

 
 ところで、番組の核となった「国の盾」は、兵士の亡骸の暗黒の背景と国旗の赤の部分で覆われたその面貌が、強烈であったが、陸軍に拒否された作品は、この絵ではない。その後、2回にわたって修正されていることも番組で知った。日南町美術館の学芸員の説明によれば、陸軍から戻された作品は、その後1944年と1968年の2回にわたって描きなおされているが、どの部分かはっきりしないという。ただ、当初の作品の背景には、桜の花びらが舞い散っていたことらしいことが絵の具の重ね具合の分析でわかったらしい。その後、資料を読み返してみると、1968年に刊行された『太平洋戦争名画集 続』(ノーベル書房)に収録されたものが、いま残っている「国の盾」であった。番組には、「国の盾」が<戦争画>という類型ではひとくくりできない、画家の戦争への対峙、厭戦・反戦思想までも示唆するような作品であったというメッセージが根底にあったように思う。
 しかし、私たちが、いま、目にする「国の盾」は、カンバスの裏の付記により、1968年に書きなおされことははっきりしているので、敗戦後23年後の書き直しの可能性が高いと思われる。

 陸軍に拒否された作品は、「軍神」との題だったというが、現物を見たという関係者は、見当たらず、写真も残ってはいない。にもかかわらず、ネット検索をしていると、その原作らしい、桜の花びらが散っている絵がヒットしてくるのである。これはどうしたことか、腑に落ちなかったので、日南町美術館に問い合わせてみたところ、あの桜が散る「絵」は、現実のものではなく、NHKBSがかつて放映した「極上 美の饗宴 『闇に横たわる兵士は語る 小早川秋聲 “國之楯”』(2011年8月1日)において、作成された<イメージ映像>だというのである。そして、あの「絵」が独り歩きをして、困惑されているようなことも話されていた。
  ああ、ここにもあった<イメージ映像>の罪づくりな話であった。NHKには限らないが、ドキュメンタリー番組の中の<イメージ映像>については、安直な先入観を醸成する手法なので、やめてほしい。最近、NHKスペシャルのドキュメンタリーなどでの<イメージ映像>の氾濫には、へきへきとしていることは、先の当ブログ記事でも書いている。

*8月20日の朝刊一面は「昭和天皇の“反省”“肉声”報道」が氾濫した~「NHKスッペシャル・昭和天皇は何を語ったのか」の拡散、これでいいのか (2019年8月20日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/08/post-ee7fb1.html

*NHKの良心的な番組って、何ですか~”NHKが独自に入手した資料が明かす・・・”ドキュメンタリーの虚実(2019年8月18日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/08/post-a2ae43.html

 さらに、この番組は、従軍画家が「戦意高揚」の絵ばかりでなく、「国の盾」のような絵を描いた、ということに重点が置かれていて、その画家の「心のうち」を辿ろうという趣旨であった。しかし、私は、陸軍に突き返されたという作品は、それだけでも、十分に意義があることだと思い、そのまま保存しておいてほしかったのである。画家としては意に添わなかった作品だったかもしれないが、1944年の作品として、依頼者の陸軍に拒否された作品として、残しておくべきだったのではないか。敗戦後の「戦争画集」収録にあたって、なぜ書き直したのか、その心の内が知りたいと思った。書き直された絵は、敗戦後初めて描き下ろされた絵としても、その強烈なメッセージは伝え得たと思う。 これまで、私は、歌人たちの戦時下の短歌を敗戦後、歌集にまとめるにあたって削除したり、「全歌集」に「歌集」を収録するにあたって、削除や改作が行われたたりしたことについて、表現者としての責任の観点から分析してきた。近くは、高村光太郎の戦争詩についても考えてきた。画家についても、同じことが言えるのではないか。

<参考>

日曜美術館「異色の戦争画~知られざる従軍画家・小早川秋聲~」
(NHKEテレ201991日) 

https://www4.nhk.or.jp/nichibi/x/2019-09-01/31/15730/1902813/

出かけよう日美旅~「日曜美術館」その舞台をめぐる 第98

鳥取県/日南町へ、小早川秋聲の故郷を行く旅

(NHKEテレ201991日)
http://www.nhk.or.jp/nichibi-blog/400/411643.html

ブログ 日南町美術館の日々

http://blog.zige.jp/museum/

極上 美の饗宴 『闇に横たわる兵士は語る 小早川秋聲 “國之楯”』

201181放送NHK BSプレミアム

2次世界大戦における日本の従軍画家に関する一考察~日本画家小早川秋聲を通して

file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/MN0SN31S/ZD30402007.pdf

<参考>

日曜美術館「異色の戦争画~知られざる従軍画家・小早川秋聲~」
(NHKEテレ201991日) 

https://www4.nhk.or.jp/nichibi/x/2019-09-01/31/15730/1902813/

出かけよう日美旅~「日曜美術館」その舞台をめぐる 第98

鳥取県/日南町へ、小早川秋聲の故郷を行く旅

(NHKEテレ201991日)
http://www.nhk.or.jp/nichibi-blog/400/411643.html

ブログ 日南町美術館の日々

http://blog.zige.jp/museum/

極上 美の饗宴 『闇に横たわる兵士は語る 小早川秋聲 “國之楯”』

201181放送NHK BSプレミアム

白石敬一:第2次世界大戦における日本の従軍画家に関する一考察~日本画家小早川秋聲を通して

file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/MN0SN31S/ZD30402007.pdf

 

 

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2019年8月17日 (土)

はじめてのオランダとハンブルグへのへ旅は始まった(11)ハーレムへ

  アムステルダム中央駅9時17分発、ハーグ行きでハーレムへ、途中のライデンでは、学生たちの乗降が多い。20分弱でハーレム着、ホームや駅前も何となく閑散としていた。

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ホームの階上には、木造の待合室か。


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地味なたたずまいのハーレム駅舎、駅前の花屋さんが店開き。

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新しそうな銅像だが、ガイドブックによれば、オランダ独立戦争、80年戦争(1568~1648年)時代、ハーレムの知事だったヴィッグボルト・リッペルダ男爵と防衛隊の女性の銅像だという。

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駅から、クライス通りを進んで、路地に入ると、ユダヤ人をかくまった町の時計屋さん、その隠れ家は、いまは、コリー・テンボーム博物館となって、公開されている。私たちが訪ねた時は、どうも閉館中らしく、ツアーの人たちがガイドさんの話を聞いているところだった。

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グローテ・マルクト広場と聖バッフォ教会、立派なパイプオルガンがあって、ヘンデルもモーツアルトも演奏したという。中も見学したいところだが、先を急ぐ。フランス・ハルス美術館もスルー。

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市庁舎の観光案内所で、1ユーロの地図を買い、テイラー博物館への道を教えてもらう。日本からですかと、歓迎される。

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広場の裏手はすぐ川になっていて、跳ね橋が見える。係員がひとりいて、通行人や自転車は、橋が上がると赤信号で待つ。

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垂直に立った橋、小さな船が過ぎてゆくのどかな風景。

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実は通り過ぎていた、目当てのテイラー博物館、右手中央の黒い建物だった入り口は狭いが、中の広さと豪華さに圧倒される。

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博物館のフロアガイドとハーレム、私たちが歩いたところ。↓下はテイラー博物館のホームページ・

https://www.teylersmuseum.nl/en/teylers-museum#/en/frontpage/walter-isaacson

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ここでもレンブラントの特別展が5月から開催中で、多くのデッサンが展示されていた。

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博物館のカフェのアップルケーキもおいしかった

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これは「デンハーグの花市」、ヨハネス・クリスティアーン・クリッケンベルグという画家の作品ということが、絵葉書で分かった。

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風車の変遷を示す展示も。

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コレクションの主、銀行家のテイラー(1702~1778)の肖像、絵画ばかりでなく、化石から始祖鳥、万物?の歴史をたどる展示物。とくに失われがちな古い道具や機械類の収集にも圧倒される。

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テイラー博物館からスパーネル川に沿って歩いていくと、大きな風車が見えてきたが、ここも博物館になっていて、見学には20分はかかるということで、パスすることに。途中にあった警察署に寄って駅までの道を尋ねると、川沿いの道から、線路沿いの道へ左折せよとのことで、人っ子一人通らない広い炎天下の道を歩きに歩いて、30分?ハレーム駅に着いた。アムステルダムに戻る予定が大幅に遅れてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2018年5月26日 (土)

街と絵に見たミュンヘンの犬たち

 今回のミュンヘンレポートが、これほど長くなるとは予想をしていませんでした。ワルシャワに入る前に、番外のミュンヘンの犬のレポートとします。2014年の夏、二匹目の飼い犬を亡くして、10月にドイツに来ています。その数年前までは二匹がいましたので、旅行に出る時は、その留守の世話をご近所の友人にお願いしたり、犬の散歩などを仕事にされている方にお願いしたりで、苦労もしました。しかし、いざ、犬のいない生活になると、ご近所の犬や映像の中の犬を見るたびに、元気なころの二匹の姿や晩年の弱り切ってしまった犬のことなどが思い出されてなりませんでした。

 空港では、集めて置かれたバゲッジを探索する麻薬犬を見ましたし、電車やレストランでおとなしくしている犬も何度か見かけました。 ミュンヘンの街なかで出会った犬、思い通りにカメラをむけられませんでしたが、以下、そのうちの何枚かを紹介します。

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マリエン広場で

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モーツァールトの住居近くのアーチの下では、バイオリンを弾く青年がいる。散歩の二匹の犬がアーチをくぐると・・・

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マリエン広場から少し離れた路地、噴水の水を飲もうとするところ。暑い一日だった

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勝利の門の前にて

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ミュンヘン大学への道、何を言い聞かされているのか

 以下は、アルテ・ピナコテークの作品の中に見かけた犬です。何匹もの犬が、絵の真ん中に、あるいは人の足元に、暮らしの中に溶け込んでいるのが分かりました。絵の題名と画家の名を確かめることができないのが残念です。

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馬と馬の間に

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2018年5月25日 (金)

ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(8)

510日、自由に使える一日、さて

 大まかな予定としては、夜は、レジデンツでのコンサート、それまでに、まずはノイエ・ピナコテーク、午後からは、きのうは素通りだった市立博物館、ユダヤ歴史博物館はまわろうということになった。ノイエは10時開館ながら、少し早めに出た。きのう、中央駅で乗車券を買うのに迷った。どこでもチケットの自動販売機は見かけるのだが、どうもよくわからないまま、結局チケット売り場の対面で、3日間のグループ乗車券を購入していた。U2therensienstr.駅下車で一直線のはずのノイエ・ピナコテーク、曲がる道を間違えたのか手間取ったのだ。

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 思いがけずさまざまな作品に出会えて、短時間ながら楽しいひとときであった。駆け足ではあるが、思いがけず出会えた作品、私の好きな作品を中心に、紹介して行きたい。

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ハンプトンコートへの道(1874):シスレー(1839~1898)
   

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ゴッホの部屋の正面の作品が次の「織工」だった

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織工(1884):ゴッホ(1853~1890)、ゴッホにもこんな作品があったことを知る

 モネ、マネ、セザンヌ、ルノアールからクリムトまで、魅力的なのだが、私が立ち止まったのは、スイス、ベルン生まれのホドラーの風景画をはじめとする何点かであった。数年前、見逃したのが西洋美術館でのホドラー展だったからだ。

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Genfer湖の風景(1904年):F・ホドラー(1852=1918)、この絵と一緒に写真も撮りました

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水浴びをする少年たち(1904):ホドラー

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生に疲れた人々(1892):ホドラー、上記2枚は、ホドラーが主唱するパラレリズムに基づく構成がとられている

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お土産に買ったコースターなのだが、右は、ボート(1914):マネが描いたクロード・モネ夫妻の絵とのこと、マネは、しばしばボートをアトリエにして絵を描いていたそうだ。左は、シスレーと思って買ったのだが、ただいま確認中

 ランチは、美術館のレストランで、夫は焼き飯、私はボンゴレのパスタ、と飲み物で済ませた。車の往来を遠くに、池を前にして、ゆったりと過ごした時間だった。

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ミュンヘン、ワルシャワ、気まま旅(7)

アルテ・ピナコテーク、もう少しゆっくりできたら

 朝、晴れていたので、傘を持たずにホテルを出たのだが、予報通り、4時近くになってポツポツ降ってきた。Kさんは、心配し、ホテルまで傘を取りに行きましょう、という。日本だとコンビニなどで透明な傘でも買って済ますところだろう。しかし、コンビニのような店は、まずは見当たらないので、バスで一緒に中央駅前のホテルまで戻るというハプニングもあった。アルテ・ピナコテークは1836年、14~18世紀のバイエルン王家のコレクションを中心にルートヴィヒ一世により開設された。館内の撮影は、フラッシュさえなければ可能なのだが、なかなかタイミングが合わなかったので、以下は絵葉書なども利用して、印象に残った作品の一部を紹介したい。順路は、ドイツから始まる。

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入場券と手首に巻くテープが手渡される

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四人の使徒(1526):A・デューラー(1471~1528)晩年の作品、宗教画が多い中で、自画像(1500)にも多くのメッセージが込められているようだ

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自画像(1629):レンブラント(1606~1669)、ハガキ大の小品ながら、若い青年の志が伝わるってくるような

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生徒たちのグループも静かに鑑賞している

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聖母子(1473):レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1520)

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テンピの聖母(1508 );ラファエロ(1483~1520 )

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メロンとぶどうを食べる子供たち(1645・46):ムリーリョ(1617~82)、プラド美術館には多く収蔵されている画家で、こんな写実的な絵もあった

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説教するキリストのいる港(1598):ヤン・ブリューゲル(1617~82)。説教を聞いている人々と手前の漁港に暮らす人々の生活感がにじみ出ている描写の対比が興味深い

 この日も、Kさんとの約束の時間をだいぶオーバーしてしまったようで、マリエン広場で別れた。合わせて一日ほどお付き合いいただき、ありがとうございました。Kさんは、明日、朝早くから、ノイシュヴァンシュタイン城ツアーの仕事が入っているそうだ。お元気だなぁ。夕食は、昼に案内していただいたホーフブロイでと思って、ふたたび出かけたところ、なんと満席で、入店を断られてしまった。それではということで、昼に店の前を通った、ホテルプラツイの向かいのアウグスティーナのビヤガーデンでは、ようやく若いカップルとの相席が見つかった。取りに戻った傘は、不要となって、夕方からすっかり晴れわたった。よくも歩きました。夫の白ビールが羨ましいが、私は、レモネードでのどを潤した。この時点で18000歩を越えていた。

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これは昼間、通り過ぎたときに写したもので、夕方は外も混んでいた

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右がアウグスティーナ、左がホテル・エデンのレストランのコースターでした




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2018年5月22日 (火)

ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(5)

59日、朝のキャンパス、英国庭園

 この日は、午後から、Kさんに案内していただくことになっていて、午前中は、そのコースにはないミュンヘン大学と英国庭園へと出かけた。ミュンヘン大学(ルートヴィヒ・マクシミリアン大学と呼ぶらしい)は、かつて見た、実話でもあるレジスタンス映画「白ばらの祈り」の舞台にもなっていた。大学にも英国庭園にも近いUniversitat駅までは、中央駅からはU6でもU3でも行けることがわかった。下車して地上に出て、目の前に大きな門がそびえているのに驚いた。ガイドブックにあった「勝利の門」である。バイエルン解放戦争でのナポレオン軍に勝利した記念という。19世紀初頭のことだ。門のてっぺん、ここにも4匹のライオンが女神を守っている。門をくぐって振り返ると地図にある教会も見える。しかし、この文字のモニュメントは何なのだろう。並木道を進むと学生たちの行き来も多くなり、途中で、路上で店開きするらしい古本屋さんにも出会う。さらに進んで、学生の列に誘われるように、キャンパスの中に入って、学部の図書館を覗いたりする。どこまでキャンパスは続くのか、Uバーンの一駅を歩いたらしい。

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犬の散歩にはよく出会うが、初めてのポインセッター


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ここにも4匹のライオンが女神を守る

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教科書や参考書の古本でも売るのだろうか


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haus1 の図書館らしいが、図書館と名の付く所に入ってみたい・・・

さらに進んで、学生の列に誘われるように、キャンパスの中に入って、学部の図書館を覗いたりする。どこまでキャンパスは続くのか、Uバーンの一駅を歩いたらしい。Lutwig通り渡って、英国庭園への道をたどれば、さらにKonign通りを過ぎて、新緑に包まれた道を進む。 

 サイクリングの人たちがひっきりなしに過ぎてゆく。自転車も悪くないなあ、うらやましいことこの上ない。小さな橋を渡るとそこは芝生の広場であった。周辺には、マロニエをはじめ、さまざまな木の花も咲いている。広場からの道は、幾通りもあって、案内図の前で迷っていると、”May I help you?”とまた声を掛けられる。たった三日目ながら散歩中の人、ジョギングの人、学生らしい人たちから、これまでも何度声をかけられたことか。よほど困っているアジア系のシニア二人連れと思われたのだろうか。皆さんの親切が身にしみる、今回の旅でもあった。ガイドブックでも見かける中国の塔というのがとりあえずの目標だ。何しろこの庭園は375ヘクタールとのこと、115ヘクタールという皇居と比べてもその広さが想像できよう。ちなみに東京ドームは4.67ヘクタールなのだが。

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ここでもマロニエの高木も低木も花盛りであった。足元のこの花は何だろう

 ようやく、中国の塔が見えてきた、周辺のビヤガーデンは、まだ掃除中で、長いテーブルとイスは、モップ?で洗われているさなかだった。イザール河畔まではかなりの距離があるとのこと、売店の人は力説していたので、降りたUの駅まで戻ることにした。

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 Kさんとは、マリエン広場で1時に待ち合わせである。その前に、広場近くのデパート、ガラリエ・カウフホーフのレストランで昼食を済ませておくことになった。

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文房具のコーナーなど廻って最上階へ

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ここのレストランはバイキング方式だったので、メニューと格闘することもなくほっとする。サラダのコーナーとケーキのコーナー

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なんとカラフルなランドセルだろう。日本の小学生は、いまだに革製のカッチリした高価なものだし、中学生は、さまざまなデザインのリュックサックを背負うのが主流になったようだが

 

 

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2017年7月27日 (木)

アンジェイ・ワイダの遺作『残像』を見て~ワイダと画家からのメッセージ

 友人の映画評論家の菅沼正子さんから、早くよりお勧めのあった映画『残像』を見に、岩波ホールまで出かけた。昨年、90歳で亡くなったワイダ(19262016)の遺作である。ワイダの作品『カティンの森』と『大理石の男』を見たのが2009年だから、久しぶりのことである。このブログにも、つぎのようなレポートを書いている。

◆『カティンの森』『大理石の男』、ワイダの新旧二作品を見る

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http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/12/post-9c03.html

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プログラムの表紙から

640_2 画家のアトリエは正面のアパートの階上の一室、ある日突然スターリンの垂れ幕が下ろされ、窓からの光は断たれた。 画家は、自らの松葉づえで、それを引き裂くのだった。写真はいづれもプログラムから
         


 今回の『残像』は、ポーランドの実在の抽象画家、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(18931952)が、社会主義政権下の最も弾圧の厳しかった中で、自らの芸術的信条を曲げずに貫いた晩年の4年間を描いたもの。私は、この画家の名前は初めて聞くが、ポーランドを代表する芸術家の一人で、両世界大戦間期に国際的な前衛美術運動に大きな役割を果たした画家であり、理論家であったという。1931年には、妻の彫刻家コブロとともに、ポーランド中部、ワルシャワとクラクフの中間に位置する都市ウッチに美術館も設立している。映画は、そのウッチを舞台に、造形大学の教授として、学生たちからも絶大な信頼を得ていた教育者でもあった彼が、社会主義リアリズムこそが、政治と一体化するという文化政策に抵抗したとして、さまざまな迫害を受け、職も奪われ、絵具も食料も入手できない状況に追い込まれ、病に倒れるまでがリアルに描かれる。プライベートでは、宗教の違いなどから別れた妻と娘ニカはともに暮らしているが、病弱の母親の介護と第一次大戦の戦傷で手足が不自由な一人暮らしの父親を気に掛けて、両親のもとを行き来する一人娘との葛藤をも丁寧にたどられる。

官憲による弾圧・迫害は、徐々に過酷なものとなる。大学での講義が、文化大臣の演説で中断され、その会場で自説を述べれば、以降一方的に休講とされ、馘首される。美術館の展示室から彼の作品は倉庫入りとなり、彼の学生たちの作品展の作品はすべて打ち砕かれ、造形芸術家協会からは除名されてしまう。悩む学長、美術館長も体制にのまれてゆく。それでも、古くからの友人の詩人ユリアン、慕う学生たちの陰ながらの支援で得た生活のための仕事も、密告のため失ってしまう。また、画家を慕い、アトリエでの口述筆記に通う、教え子の女性すらも拘束される事態となるなか、映画には一度も姿を見せない元妻の様子は、娘を通してのみ語られるが、画家には知らされないまま病死する。それしかない赤いコートのまま、母の棺に従うのは、ニカの一人だけという墓地の場面、行き倒れのような形で救急車で運ばれた病院から抜け出した画家が、そのコブロの墓に青い花を捧げる場面、やがて、画家が仕事先のマネキンが並ぶショーウインドウのなかで壮絶な死を遂げるが、通行人の一人にも気づかれないという場面の寂寞と荒涼は、胸に迫るものがあった。

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自宅のアパートのアトリエに集う学生たち
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職を失った画家の仕事先の似顔書きの工房を訪ねる娘のニカ

監督のワレサは、クラクフの美術大学を中退して、ウッチの映画大学を卒業したという。生前の画家との出会いはないが、この映画に寄せたメッセージの末尾でつぎのように述べている。

「私は、人々の生活のあらゆる面を支配しようと目論む全体主義国家と、一人の権威ある人間との闘いを描きたかったのです。一人の人間がどのように国家機構に抵抗するのか。表現の自由を得るために、どれだけの対価を払わなければならないのか。全体主義国家で個人はどのような選択を迫られるのか。これは過去の問題と思われていましたが、いまもゆっくりと私たちを苦しめは始めています。どのような答えをだすべきか、私たちはすでに知っている。そのことを忘れてはならないのです」

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自らの病をおして元妻の墓を訪ねる

 

 また、映画で語られる画家のセリフのなから、断片的に飛び込んでくるいくつかの言葉があった。同じく抽象絵画を目指したカンディンスキー(18661944)やモンドリアン(18721944)の名前も飛び出し、「彼らは、自分の模倣を続けている」と学生たちに語り、公安当局に呼ばれて、大事な分かれ道、体制に従うのか従わないのか、どちらの側につくのか、と選択を迫られたとき、「私の側だ」と立ち去る場面が印象的だった。

モンドリアンといえば、昔のことになるが、私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)の「あとがき」の冒頭で、つぎのように書いているのを思い出した。合評会で、この「あとがき」に言及される方はいなかったが、立ち話で、玉城徹さんが「モンドリアンとはねェ・・・」と苦笑されていたのも思い出の一つである。

「モンドリアンの抽象に出遭ったとき、あの冷徹さに戸惑いながら惹かれていったのはなぜだろうかと考えています。そこには猥雑なものをいっさい拒否しようとする、ひとりの人間の生き方の美と思想があると思いました。この画家の幾何学的な構成にいたる過程は、<樹木>連作が雄弁に語っています。さらに光と影から解放された垂直と水平の世界の展開を見せられたときの感動を忘れることができないでいます。主観的な表現を極度に排し、求めてやまなかったものはなんであったろうか・・・・」

恥ずかしいけれど、歌集の最終章には、こんな歌も残していた。

・描かれたる<樹木>連作たどるとき闇に熱き思いを放つ

・老画家のひとりの冬の死のまぎわコンポジションの原色冷ゆる

 ところで、映画では、ストゥシェミンスキの絵画作品を正面から映し出すことはしていなかった。美術館での展示室での作品群、コラージュ帖やアトリエで制作中の絵としては、何度か映される程度だった。ネット上で検索しても、すぐには出てこない。どんな作品を残していたのか。一度ゆっくり鑑賞したいと思っている。

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2015年11月 1日 (日)

ようやく、藤田嗣治の戦争画14点が公開~国立近代美術館<特集・藤田嗣治、全所蔵作品展示。>  

 これまで、GHQに接収された戦争画が返還(無期限貸与)された1970年以降も、決して全面公開しない国立近代美術館の方針は、理解に苦しむ。これまでも何度かそのことには触れてきた。*1 国立近代美術館が所蔵する153点の2・3点ずつを常設展の片隅で展示していたに過ぎなかった。あるいは、雑誌などの特集や特定画家の回顧展や種々の企画展などへ小出しに撮影されたり、貸出されたりした作品しか目にすることしかできなかった。このたび、「(接収)戦争画」の中でもっとも点数の多い藤田嗣治の14点すべてが初めて一度に展示されることになったのだ。出かけないわけにはいかない。私にとっては、下記の葉山での「戦争/美術」展で「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943年、下記のリスト⑧*2)「ブキテマの夜戦」(1944年、⑩)、国立近代美術館「ゴーギャン展」の折の常設展で「血戦ガダルカナル」(1944年、⑦)に接したとき以来である。

*1今回のテーマに触れた主な当ブログ記事 
・藤田嗣治、ふたたび、その戦争画について(14/02/18)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/02/post-dd37.html

ようやくの葉山、「戦争/美術1940—1950―モダニズムの連鎖と変容」へ(13/09/27) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/19401950-0aad.html

・緑陰の読書とはいかなかったが④断想「〈失われた時〉を見出すとき(102)(木下長宏) (12/09/21)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/09/102-0230.html

・国立近代美術館へ~ゴーギャン展と戦争画の行方(09/9/21)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/09/post-5b23.html

・ 上野の森美術館「レオナール・フジタ展」~<欠落年表>の不思議(08/12/13) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-13fc.html

 今回の展示は、4階の第5室から3階の8室まで、14点の展示が続く。  <特集・藤田嗣治、全所蔵作品展示。>の概要については、以下を参照。 http://www.momat.go.jp/am/exhibition/permanent20150919/

  5室で最初に目に飛び込んでくるのが、①の192×518cmという大作だった。1943年7月18日、まるでグライダーのような小型機(九六式艦上爆撃機というらしい)が中国の南昌飛行場に強行着陸して奇襲した模様が描かれている。大作ではあるが、少年雑誌の挿絵のような趣であった。②③④⑤も他の作品と同じように、多くは報道写真などから構図を得て、描かれていたと思うが、画面のどこかで火の手が上がっていなければ、戦場とも前線とも思えない静寂さが漂うような雰囲気が、⑥「アッツ島玉砕」から一転して、目を凝らさないと重なり合う兵士たちの生死や表情が読み取れない暗さに覆われる。というより、すでに遺体と化した兵士たち、死に直面した女性たちの姿や表情を捉えている。にもかかわらず、日本の戦局の悪化を隠蔽し、「玉砕」「血戦」「神兵」「奮戦」「死闘」「臣節」などという字句により死の美化に貢献した藤田は、他の多くの画家たちと同じ道を歩んだといえる。

*2 今回展示の藤田嗣治の戦争画一覧
①南昌飛行場の焼打 1938-39
②武漢進撃 1938-40 無期限貸与
③哈爾哈(はるは)河畔之戦闘 1941
・(猫 1940 購入 )
④十二月八日の真珠湾 1942
⑤シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地) 1942
⑥アッツ島玉砕 1943
⑦血戦ガダルカナル 1944
・(藤田嗣治:「戦争画の写実とは?―現地で語る戦争画問題―」『旬刊美術新報』25号   1942年5月)
⑧ソロモン海域に於ける米兵の末路 1943
⑨神兵の救出到る 1944
⑩ブキテマの夜戦 1944
⑪大柿部隊の奮戦 1944
・( 藤田嗣治:「南方戦線の感激を山口蓬春藤田嗣両氏の消息に聴く」『旬刊美術新報』29号1942年7月)
・( 藤田嗣治:「戦争画制作の要点」『美術』第4号1944年5月)
⑫○○部隊の死闘−ニューギニア戦線 1943
⑬薫(かおる)空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す 1945
⑭サイパン島同胞臣節を全うす 1945  

  今回の展示室には、当時の雑誌などにおける藤田の発言の一部も紹介されている。広げられた頁をよく読むと、「戦争画の写実とは?」においては、軍服のボタンとか首筋の汗とかのディティールに及ぶ、主観を含めた客観描写の必要を説き、「主観によって誇張していいと思う」といい、「戦争画制作の要点」では、「忠誠の精神」と「体験と知識の必要性」を強調していたことがわかる。解説にはない文言だが、記憶にとどめておくべきだろう。  各作品の解説において、藤田の戦争画は、フランスで活躍中に学んだヨーロッパの名画を手本にして描いていることをかなり詳細に検証していることが特徴的だったと思われる。

  なお、今回の展示カタログが、800円ということで、入館後すぐに購入した。年譜も、作品解説もあるということなので、あまりメモを取らなかったところ、すべての作品解説が収録されているわけではなく、戦争画に関しては③⑥⑦⑭のみであったのは残念だった。それに、他の作品はあっても戦争画の絵葉書は販売されていなかった。 今回は藤田の作品だけだったが、戦争画153点の全面公開が待たれるのであった。 公開されてこそ、その評価も多様に展開されるだろう。過去と向き合うことの大切さは、戦後70年経た今日でも決して遅くはないはずだ。

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65歳以上は入館料が無料ということで、保険証で通過、入場券というものを頂かなかったので、宣伝チラシの片面を代わりに。左が「五人の裸婦」(1923年)、右が「アッツ島玉砕」(1943年)の一部が配されている。

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「南昌飛行場の焼討」(1938~39)

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「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943年)。「ロストシップ」というジャンルがあるほど、難破船を題材にした名画は多いそうだ。解説によれば、ターナー「難破船」(1805年)、ドラクロワ「ダンテの小舟」(1822年)、ジェリコーの「メデューズ号の筏」(1891年)などの影響は大きく、似ている部分もあるという。(『展示カタログ』より)

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「サイパン島同胞臣節全うす」(1945年)(『画家たちの「戦争」』新潮社 2010年、より)
1944年7月7日、サイパン島守備隊全滅。製糖が盛んだったので、多くの日本人移民もいて、彼らを巻き込んだ。作品の右手には、崖から身を投げる女性たちが描かれている。約5000人が身を投げたマッピ岬を米軍は「バンザイ・クリフ」と呼んだ。右下の写真は、従軍先での左から藤田嗣治、小磯良平、宮本三郎。

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2015年1月19日 (月)

一昨年の拙著をご紹介いただきました

 山梨で多角的な活動をされている飯野正仁さんが下記のブログで、内野光子著『天皇の短歌は何を語るのか』(お茶の水書房 2013年)をご紹介いただきました。ありがとうございます。飯野さんは、戦時下の美術家、戦争画を描いた画家たちの責任についても多く発言されています。
モリエール山梨「猫の後ろ姿」1468「読初」(2014年1月3日)http://ameblo.jp/e-no4765/entry-11972758363.html

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