2017年7月27日 (木)

アンジェイ・ワイダの遺作『残像』を見て~ワイダと画家からのメッセージ

 友人の映画評論家の菅沼正子さんから、早くよりお勧めのあった映画『残像』を見に、岩波ホールまで出かけた。昨年、90歳で亡くなったワイダ(19262016)の遺作である。ワイダの作品『カティンの森』と『大理石の男』を見たのが2009年だから、久しぶりのことである。このブログにも、つぎのようなレポートを書いている。

◆『カティンの森』『大理石の男』、ワイダの新旧二作品を見る

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http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/12/post-9c03.html

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プログラムの表紙から

640_2 画家のアトリエは正面のアパートの階上の一室、ある日突然スターリンの垂れ幕が下ろされ、窓からの光は断たれた。 画家は、自らの松葉づえで、それを引き裂くのだった。写真はいづれもプログラムから
         


 今回の『残像』は、ポーランドの実在の抽象画家、ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(18931952)が、社会主義政権下の最も弾圧の厳しかった中で、自らの芸術的信条を曲げずに貫いた晩年の4年間を描いたもの。私は、この画家の名前は初めて聞くが、ポーランドを代表する芸術家の一人で、両世界大戦間期に国際的な前衛美術運動に大きな役割を果たした画家であり、理論家であったという。1931年には、妻の彫刻家コブロとともに、ポーランド中部、ワルシャワとクラクフの中間に位置する都市ウッチに美術館も設立している。映画は、そのウッチを舞台に、造形大学の教授として、学生たちからも絶大な信頼を得ていた教育者でもあった彼が、社会主義リアリズムこそが、政治と一体化するという文化政策に抵抗したとして、さまざまな迫害を受け、職も奪われ、絵具も食料も入手できない状況に追い込まれ、病に倒れるまでがリアルに描かれる。プライベートでは、宗教の違いなどから別れた妻と娘ニカはともに暮らしているが、病弱の母親の介護と第一次大戦の戦傷で手足が不自由な一人暮らしの父親を気に掛けて、両親のもとを行き来する一人娘との葛藤をも丁寧にたどられる。

官憲による弾圧・迫害は、徐々に過酷なものとなる。大学での講義が、文化大臣の演説で中断され、その会場で自説を述べれば、以降一方的に休講とされ、馘首される。美術館の展示室から彼の作品は倉庫入りとなり、彼の学生たちの作品展の作品はすべて打ち砕かれ、造形芸術家協会からは除名されてしまう。悩む学長、美術館長も体制にのまれてゆく。それでも、古くからの友人の詩人ユリアン、慕う学生たちの陰ながらの支援で得た生活のための仕事も、密告のため失ってしまう。また、画家を慕い、アトリエでの口述筆記に通う、教え子の女性すらも拘束される事態となるなか、映画には一度も姿を見せない元妻の様子は、娘を通してのみ語られるが、画家には知らされないまま病死する。それしかない赤いコートのまま、母の棺に従うのは、ニカの一人だけという墓地の場面、行き倒れのような形で救急車で運ばれた病院から抜け出した画家が、そのコブロの墓に青い花を捧げる場面、やがて、画家が仕事先のマネキンが並ぶショーウインドウのなかで壮絶な死を遂げるが、通行人の一人にも気づかれないという場面の寂寞と荒涼は、胸に迫るものがあった。

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自宅のアパートのアトリエに集う学生たち
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職を失った画家の仕事先の似顔書きの工房を訪ねる娘のニカ

監督のワレサは、クラクフの美術大学を中退して、ウッチの映画大学を卒業したという。生前の画家との出会いはないが、この映画に寄せたメッセージの末尾でつぎのように述べている。

「私は、人々の生活のあらゆる面を支配しようと目論む全体主義国家と、一人の権威ある人間との闘いを描きたかったのです。一人の人間がどのように国家機構に抵抗するのか。表現の自由を得るために、どれだけの対価を払わなければならないのか。全体主義国家で個人はどのような選択を迫られるのか。これは過去の問題と思われていましたが、いまもゆっくりと私たちを苦しめは始めています。どのような答えをだすべきか、私たちはすでに知っている。そのことを忘れてはならないのです」

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自らの病をおして元妻の墓を訪ねる

 

 また、映画で語られる画家のセリフのなから、断片的に飛び込んでくるいくつかの言葉があった。同じく抽象絵画を目指したカンディンスキー(18661944)やモンドリアン(18721944)の名前も飛び出し、「彼らは、自分の模倣を続けている」と学生たちに語り、公安当局に呼ばれて、大事な分かれ道、体制に従うのか従わないのか、どちらの側につくのか、と選択を迫られたとき、「私の側だ」と立ち去る場面が印象的だった。

モンドリアンといえば、昔のことになるが、私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)の「あとがき」の冒頭で、つぎのように書いているのを思い出した。合評会で、この「あとがき」に言及される方はいなかったが、立ち話で、玉城徹さんが「モンドリアンとはねェ・・・」と苦笑されていたのも思い出の一つである。

「モンドリアンの抽象に出遭ったとき、あの冷徹さに戸惑いながら惹かれていったのはなぜだろうかと考えています。そこには猥雑なものをいっさい拒否しようとする、ひとりの人間の生き方の美と思想があると思いました。この画家の幾何学的な構成にいたる過程は、<樹木>連作が雄弁に語っています。さらに光と影から解放された垂直と水平の世界の展開を見せられたときの感動を忘れることができないでいます。主観的な表現を極度に排し、求めてやまなかったものはなんであったろうか・・・・」

恥ずかしいけれど、歌集の最終章には、こんな歌も残していた。

・描かれたる<樹木>連作たどるとき闇に熱き思いを放つ

・老画家のひとりの冬の死のまぎわコンポジションの原色冷ゆる

 ところで、映画では、ストゥシェミンスキの絵画作品を正面から映し出すことはしていなかった。美術館での展示室での作品群、コラージュ帖やアトリエで制作中の絵としては、何度か映される程度だった。ネット上で検索しても、すぐには出てこない。どんな作品を残していたのか。一度ゆっくり鑑賞したいと思っている。

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2015年11月 1日 (日)

ようやく、藤田嗣治の戦争画14点が公開~国立近代美術館<特集・藤田嗣治、全所蔵作品展示。>  

 これまで、GHQに接収された戦争画が返還(無期限貸与)された1970年以降も、決して全面公開しない国立近代美術館の方針は、理解に苦しむ。これまでも何度かそのことには触れてきた。*1 国立近代美術館が所蔵する153点の2・3点ずつを常設展の片隅で展示していたに過ぎなかった。あるいは、雑誌などの特集や特定画家の回顧展や種々の企画展などへ小出しに撮影されたり、貸出されたりした作品しか目にすることしかできなかった。このたび、「(接収)戦争画」の中でもっとも点数の多い藤田嗣治の14点すべてが初めて一度に展示されることになったのだ。出かけないわけにはいかない。私にとっては、下記の葉山での「戦争/美術」展で「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943年、下記のリスト⑧*2)「ブキテマの夜戦」(1944年、⑩)、国立近代美術館「ゴーギャン展」の折の常設展で「血戦ガダルカナル」(1944年、⑦)に接したとき以来である。

*1今回のテーマに触れた主な当ブログ記事 
・藤田嗣治、ふたたび、その戦争画について(14/02/18)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/02/post-dd37.html

ようやくの葉山、「戦争/美術1940—1950―モダニズムの連鎖と変容」へ(13/09/27) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/19401950-0aad.html

・緑陰の読書とはいかなかったが④断想「〈失われた時〉を見出すとき(102)(木下長宏) (12/09/21)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/09/102-0230.html

・国立近代美術館へ~ゴーギャン展と戦争画の行方(09/9/21)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/09/post-5b23.html

・ 上野の森美術館「レオナール・フジタ展」~<欠落年表>の不思議(08/12/13) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-13fc.html

 今回の展示は、4階の第5室から3階の8室まで、14点の展示が続く。  <特集・藤田嗣治、全所蔵作品展示。>の概要については、以下を参照。 http://www.momat.go.jp/am/exhibition/permanent20150919/

  5室で最初に目に飛び込んでくるのが、①の192×518cmという大作だった。1943年7月18日、まるでグライダーのような小型機(九六式艦上爆撃機というらしい)が中国の南昌飛行場に強行着陸して奇襲した模様が描かれている。大作ではあるが、少年雑誌の挿絵のような趣であった。②③④⑤も他の作品と同じように、多くは報道写真などから構図を得て、描かれていたと思うが、画面のどこかで火の手が上がっていなければ、戦場とも前線とも思えない静寂さが漂うような雰囲気が、⑥「アッツ島玉砕」から一転して、目を凝らさないと重なり合う兵士たちの生死や表情が読み取れない暗さに覆われる。というより、すでに遺体と化した兵士たち、死に直面した女性たちの姿や表情を捉えている。にもかかわらず、日本の戦局の悪化を隠蔽し、「玉砕」「血戦」「神兵」「奮戦」「死闘」「臣節」などという字句により死の美化に貢献した藤田は、他の多くの画家たちと同じ道を歩んだといえる。

*2 今回展示の藤田嗣治の戦争画一覧
①南昌飛行場の焼打 1938-39
②武漢進撃 1938-40 無期限貸与
③哈爾哈(はるは)河畔之戦闘 1941
・(猫 1940 購入 )
④十二月八日の真珠湾 1942
⑤シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地) 1942
⑥アッツ島玉砕 1943
⑦血戦ガダルカナル 1944
・(藤田嗣治:「戦争画の写実とは?―現地で語る戦争画問題―」『旬刊美術新報』25号   1942年5月)
⑧ソロモン海域に於ける米兵の末路 1943
⑨神兵の救出到る 1944
⑩ブキテマの夜戦 1944
⑪大柿部隊の奮戦 1944
・( 藤田嗣治:「南方戦線の感激を山口蓬春藤田嗣両氏の消息に聴く」『旬刊美術新報』29号1942年7月)
・( 藤田嗣治:「戦争画制作の要点」『美術』第4号1944年5月)
⑫○○部隊の死闘−ニューギニア戦線 1943
⑬薫(かおる)空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す 1945
⑭サイパン島同胞臣節を全うす 1945  

  今回の展示室には、当時の雑誌などにおける藤田の発言の一部も紹介されている。広げられた頁をよく読むと、「戦争画の写実とは?」においては、軍服のボタンとか首筋の汗とかのディティールに及ぶ、主観を含めた客観描写の必要を説き、「主観によって誇張していいと思う」といい、「戦争画制作の要点」では、「忠誠の精神」と「体験と知識の必要性」を強調していたことがわかる。解説にはない文言だが、記憶にとどめておくべきだろう。  各作品の解説において、藤田の戦争画は、フランスで活躍中に学んだヨーロッパの名画を手本にして描いていることをかなり詳細に検証していることが特徴的だったと思われる。

  なお、今回の展示カタログが、800円ということで、入館後すぐに購入した。年譜も、作品解説もあるということなので、あまりメモを取らなかったところ、すべての作品解説が収録されているわけではなく、戦争画に関しては③⑥⑦⑭のみであったのは残念だった。それに、他の作品はあっても戦争画の絵葉書は販売されていなかった。 今回は藤田の作品だけだったが、戦争画153点の全面公開が待たれるのであった。 公開されてこそ、その評価も多様に展開されるだろう。過去と向き合うことの大切さは、戦後70年経た今日でも決して遅くはないはずだ。

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65歳以上は入館料が無料ということで、保険証で通過、入場券というものを頂かなかったので、宣伝チラシの片面を代わりに。左が「五人の裸婦」(1923年)、右が「アッツ島玉砕」(1943年)の一部が配されている。

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「南昌飛行場の焼討」(1938~39)

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「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943年)。「ロストシップ」というジャンルがあるほど、難破船を題材にした名画は多いそうだ。解説によれば、ターナー「難破船」(1805年)、ドラクロワ「ダンテの小舟」(1822年)、ジェリコーの「メデューズ号の筏」(1891年)などの影響は大きく、似ている部分もあるという。(『展示カタログ』より)

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「サイパン島同胞臣節全うす」(1945年)(『画家たちの「戦争」』新潮社 2010年、より)
1944年7月7日、サイパン島守備隊全滅。製糖が盛んだったので、多くの日本人移民もいて、彼らを巻き込んだ。作品の右手には、崖から身を投げる女性たちが描かれている。約5000人が身を投げたマッピ岬を米軍は「バンザイ・クリフ」と呼んだ。右下の写真は、従軍先での左から藤田嗣治、小磯良平、宮本三郎。

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2015年1月19日 (月)

一昨年の拙著をご紹介いただきました

 山梨で多角的な活動をされている飯野正仁さんが下記のブログで、内野光子著『天皇の短歌は何を語るのか』(お茶の水書房 2013年)をご紹介いただきました。ありがとうございます。飯野さんは、戦時下の美術家、戦争画を描いた画家たちの責任についても多く発言されています。
モリエール山梨「猫の後ろ姿」1468「読初」(2014年1月3日)http://ameblo.jp/e-no4765/entry-11972758363.html

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2014年2月18日 (火)

藤田嗣治、ふたたび、その戦争画について

「嗣治から来た手紙~画家は、なぜ戦争を描いたのか」を見て

211日、テレビ朝日、1030分~1125分)

番組の意図

この番組は、民間放送教育協会の企画でRKB毎日放送が制作したもので、全国の民放33局から放映されたらしい。番組のHPによれば、つぎのように記されている。(http://www.minkyo.or.jp/01/2014/01/28_1.html

「戦時中、多くの画家たちが国家のために戦争記録画を描いた。中でも、画家・藤田嗣治は、玉砕相次ぐ敗色濃厚なときにあっても、〈戦争と芸術〉というテーマに立ち向かい、そのために、藤田は異国の地に去り、生涯日本に帰ることはなかった。敗戦後、戦争記録画は軍部のプロパガンダと貶められ、現在まで、一堂に公開されることもなく美術館の倉庫に保管されている。戦争画の実像が見えづらいのと同様に、戦後の日本で、藤田嗣治の実像も見えづらかった。(中略)藤田嗣治が友人に宛てた未公開の手紙には、戦争に翻弄された画家の流転の生涯がにじむ。藤田の心情を読み解き、〈画家は戦争や国家とどう向き合ったのか〉、〈敗戦を境に日本に何が起きたのか〉、その一端に迫る」

 

番組の構成

今回の番組は、19447月戦争末期、藤田が疎開していた神奈川県小淵村藤野(現相模原市)から、画家仲間の中村研一(18951967)にあてた手紙、19456月から815をはさんだ時期の6通(1989年、中村のアトリエの納戸にあるのを養女が発見した)を裏付ける様な形で、直接かかわりのあった人たちの証言で綴られる。手紙の内容は、読み上げられた限りでしかわからないが、気心知れた若い友人だったのだろうか、自在ながら説教のような、あるいは自分に対しての〈檄〉のようにも、聞こえるのだった。中村研一と言えば、藤田と共に、多くの戦争画を残し、国立近代美術館にアメリカから「無期限貸与」されている接収の戦争画153点(国立近代美術館収蔵)の内14点の藤田に次いで9点収蔵されている画家である。

・東京国立近代美術館所蔵(無期限貸与)戦争画美術展一覧

http://home.g01.itscom.net/cardiac/WarArtExhibition.pdf

・独立行政法人国立美術館所蔵作品検索「戦争記録画」

http://search.artmuseums.go.jp/keyword.php

番組では、パリにおける画業とその暮らしぶりにも言及し、それが日本では評価されないと知ると画風を変え、トレードマークの髪形も変え、19395月のノモンハン事件に取材した「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」((陸軍作戦記録画、19417月「第2回聖戦美術展」出品)の好評をきっかけに戦争画のスターとなる経緯を伝えていた。また、藤田を知る画家としてただ一人登場するのが当時美大生であった野見山暁治氏であった。すでにどこかで読んだことがあったエピソード、19435月の日本軍守備隊全滅の「アッツ島玉砕」(陸軍作戦記録画、19439月「国民総力決戦美術展」出品)前の賽銭箱とその横で敬礼する藤田の姿が語られていた。その絵は当初、軍部は戦意昂揚にはならないと展示に難色を示したが「悲惨でない戦争などありますか」と言う藤田のコメントで展示に踏み切り、「祈り」と「敵愾心」の対象になっていったという。19447月日本軍守備隊陥落がテーマの「サイパン島同胞臣節を全うす」(陸軍作戦記録画、1945年)も同系列の作品と言っていい。1945623日沖縄日本軍全滅を知った直後の藤田の中村への手紙には「日本の勝利は確実であります」「本土決戦の折こそ生まれて甲斐ある絵が描けます」という主旨のことが書かれていた。そしてさらに、815を経た824日には「悪夢を見ていたように呆然として気が抜けたよう」と記しながら、「3日間かけて、わが家から戦時色を一掃して焼き、ようやく落ち着いた」とも書き送っている。疎開先藤野の、当時、子どもながら焼くのを手伝った隣人が登場し、その模様を語っていた。また、当時、縦書きのサインを、横文字のローマ字に書きかえていたことを目撃した、藤田の手伝いをしていた女性の「どうしてそんなことを」との質問に「世界の人々に見せることになるから」と答えたそうだ。 

1945831日の手紙には「必死になって多少とも自信のある画をかいたので、二三枚だけは残ればいいと思います」と綴っている。その後のナレーションでは、録画はとっていないのだが、「戦争が敗北に終わると、それまで喝采で迎えていた世評は一変して、戦争画は恥だとされ、戦犯呼ばわりされたことに、藤田は日本に、日本人に失望したと記し、さらに1946年の手紙には「強く美術の国へいきたい希望は旺盛です」と日本脱出をほのめかす。敗戦から4年後19493月、日本を捨てたと締めくくる。

「戦争が烈しい間はいい絵が描けるが、戦争がすんだらもういい絵が描けない」「なぜ戦争を描いたのかといえば、絵描きはと何かと問われれば、〈職人〉だから」「実際、芸術以外になすことがないから」という、手紙の断片の言葉の数々も紹介された。

 

戦争に翻弄されただけだったか

私が気になったのは、登場する、疎開先で藤田に接した人々の証言、中村への手紙の内容、そして戦局、大本営発表に沿った数々の戦争画との微妙なギャップであった。私には、その振幅の間に見えるものは、「苦悩」でもなく、「逡巡」でもないように思われたからである。もし彼の画業の評価をするならば、友人への手紙に吐露している「心情」よりは、ともかく残された作品自体と画家としてどう行動したか、その振る舞いを評価すべきではないかと思ったのである。

藤田嗣治(18861968)の戦争画については、見解が分かれるところであり、これまで、私も、至らないながら何度か記事にしてきた。以下の記事も合わせてお読みいただければと思う。

ようやくの葉山、「戦争/美術19401950―モダニズムの連鎖と変容」へ2013927日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/19401950-0aad.html

国立近代美術館へ~ゴーギャン展と戦争画の行方2009921日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/09/post-5b23.html

上野の森美術館「レオナール・フジタ展」~<欠落年表>の不思議20081213日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-13fc.html

 

この番組は、1989年に発見された藤田から中村への手紙の全面公開を踏まえて制作されたものであり、その手紙の内容が主たるテーマで、それを裏付けるような歴史的な事実、作品や証言によって構成されている。その結果として、本記事冒頭の「番組紹介」にあるように、その手紙には「戦争に翻弄された画家の流転の生涯がにじみ、藤田の心情を読み解く」べき文言が見出せたのだろうか。番組を見たかぎりでは、「戦争に翻弄された」というよりは、「時局に便乗」してゆくさまが見て取れたのである。その後、一方的に敗戦後の時代や世評の変わり身の早さを嘆きつつ、「日本に、日本人に失望した」というのは、いささか身勝手な、と思うのだった。

というのは、番組が、敗戦後、藤田自身がGHQによる戦争画収集に積極的にかかわったこと、朝日新聞紙上における宮田重雄の戦争責任論に端を発した「節操」論争があった事実などには触れずに、一挙に「日本、日本人に失望して出国」したとするまとめ方はいささか性急すぎたのではないかと思う。

また、藤田は、新天地と思われたニューヨークに渡ったのだが、約束されたポストも不意になり、開催にこぎつけた個展もベン・シャーンと国吉康雄に拒まれたといい、やがてフランスに渡り、そこが終焉の地となるのだった。

なお、これは放送後に知ったことだが、藤田の疎開先の藤野に在住だった「白州の杜から」のブログのオーナー(樫徹氏)が、この番組の取材の顛末と見解を述べているのだった。残念ながら、そのインタビューはカットされ放映されなかったが、興味深い、貴重な証言に思えた。昨年の12月の「藤田画伯は、自信のある戦争画は焼かなかったのか!」(2013127日)から放映後の「藤田嗣治作『アッツ島玉砕』は、戦争の現実を伝えているか!」(2014211日) まで断続的に、関係記事は続いていたが、インタビューの主旨は、以下で読むことができた。

「実は、ロケに立ち会うだけでなく、テレビ出演も」『白州の杜から』(ブログ)

http://blogs.yahoo.co.jp/jackyfujino/archive/2013/12/14

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 記事発表後、櫻本富雄氏からご教示いただいたご自身の以下のブログ記事には、藤田嗣治のサイン書き直しのこともすでに指摘され、「アッツ島玉砕」自体の戦後の修正をも示唆されていた。

「戦争と写真③」『空席通信・余話』(2008319日)

http://www.sakuramo.to/kuuseki/126.html

 

(主な参考資料)

・種倉紀昭「松本竣介における表現の自由について」『岩手大学教育学部付属教育実践研究指導センター紀要』No.7 1997 

・増子保志「戦争と美術・GHQと153点の戦争記録画」「戦争と美術2・彩管報国と戦争記録画」

『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』No.7 2006 

・鳥飼行博研究室「藤田嗣治と戦争画:アッツ島玉砕とサイパン玉砕の神話」

http://www.geocities.jp/torikai007/war/bunkajin-picture.html

・近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』 講談社(文庫)2006

・神坂次郎ほか 『画家たちの「戦争」』新潮社(とんぼの本)

  (以下、2015年9月5日補記)

 東京国立近代美術館で戦争記録画12点展示、そして藤田嗣治全点展示へ

2015.06.13() ブログ<日毎に敵と懶惰に戦う>

http://d.hatena.ne.jp/zaikabou/20150613/1434240090

 

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2013年10月 4日 (金)

「92歳の報道写真家 福島菊次郎展」へ

 何種類かの新聞のデータベースが見られ、即印刷ができることもあって横浜の日本新聞博物館まで出かけた。A新聞社のOBでもある旧友からチケットを頂いたこともあって同館の企画展「92歳の報道写真家 福島菊次郎展」(共同通信社共催、2013824~1020日)へ行ってきた。

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 この写真展には「ヒロシマからフクシマへ―。戦後、激動の現場」の副題がついていた。福島菊次郎は(1921年~)は山口県下松市出身、時計店を営んでいたが、1946年から広島の被爆者の写真を撮り続け、『ピカドン ある原爆被災者の記録』(東京中日新聞社 1961年)の日本写真批評家協会賞特別賞の受賞をきっかけに、プロの写真家となって上京した。安保闘争、安田講堂事件、あさま山荘事件、三里塚闘争、水俣病、祝島の原発反対運動など激動の現場に立ち会った。その写真は、大手メディアにもつぎつぎと掲載され、幾冊かの写真集にもなった。1980年代に入り、メディアにも絶望、6年間にわたる無人島生活も胃がんとなって、やむなく柳井市に在住。1989年から写真パネルによる巡回写真展を全国各地で開催するようになり600回に近い。2012年にはドキュメンタリー映画『ニッポンの嘘 報道写真家福島菊次郎の90歳』(長谷川三郎監督)が制作され、2013年には13冊目の写真集『証言と遺言』が刊行された。

今回の展示では最も広いスペースを占める「ビカドン」と名付けられたパネルには、被爆者、漁師の中村杉松さんとその一家の病苦と貧困、離散の始終を追った10年間の写真が並ぶ。過酷で無援の、怨念に満ちた闘病生活、入院中に残された子どもたちの家出が続く悲惨さに胸が詰まる思いだった。三里塚闘争も、当時は農民支援の学生たちの過激さばかりが強調された報道であったが、この展示では1966年空港建設決定から1971年工事開始を経て1978年開港まで、いや今日までの地元の農家の人々の闘いや思いに気持ちが届かなかったことを知らされる。成田空港に近い佐倉市に住む者として、現在、航空機騒音の増大に悩まされているし、今後の空港の”成長戦略“を思うと、もう、便利さや利益追求はもうやめにしてほしいという思いが募るのだった。「東大闘争とあさま山荘事件」「水俣病などの公害」のコーナーでは、当時の新聞やテレビ報道の一面性を知ることにもなる。これらのコーナーの合間合間の、原宿族の若者、ウーマンリブの女たち、瀬戸内離島物語の子どもたちのまなざしは、決して明るいばかりではないが、そのエネルギーにどこかでほっとする部分があったことも確かであった。

映画『ニッポンの嘘』も見たいが、帰宅後、ネット上で見た動画「抵抗の涯 てに 写真家 福島菊次郎の”遺言”」(1)~(6)(Lunatic Eclipse11)が面白かった。高齢ながら、年金を拒み、足もとが危なく転びながらも、天皇・軍隊への反乱のために撮り続けている、以前と較べると「突込みが足りない」とぼやきながら、福島は、愛犬ロクとのアパート一間の暮らしを続ける・・・。地元の岩国米軍基地の一般公開日に出かけ、何回か通った限りの感想として、最初は反対の意思表示をしていた住民たちも、次に訪ねたときは、抵抗姿勢を示すに留まり、現在では、和気あいあいという印象で、日本はアメリカの植民地になってしまった、と嘆いていた。その直感は、国民の自衛隊に関する姿勢にも当てはまると感じたのは 、先月下総航空基地の公開日に見学したばかりだったからかもしれない。

なお、この企画展以外に、ロビーや通路を利用しての、「2020年オリンピック東京決定の号外」展示や「1964年東京オリンピックの報道紙面」が展示されていたが、この意図はどこにあったのか、ただ、話題性に便乗しただけだったのか、不明のままであった。

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館内のカフェ(CAFE de la PRESSE)で昼食の後、4階の新聞ライブラリーに入館、朝日新聞「聞蔵Ⅱビジュアル」(1879.1~)、読売新聞「ヨミダス歴史館」(1874~)のデータベースで、昭和前期1945年までのある人物の検索をすることができた。ただ、毎日新聞(東京日日新聞)のデータベースでは、キーワード検索は見出しのみで、記事全文には及ばないとのことであった。140円というプリント代は少々高いのだが、面倒な手続きがないのがありがたい。

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2013年9月27日 (金)

ようやくの葉山、「戦争/美術1940—1950―モダニズムの連鎖と変容」へ

  

 猛暑のこともあって、延び延びになっていた「戦争/美術」展へ行ってきた。9月に入って、拙著をお送りしたご縁で、大学で表象文化論を講じているKさんより招待券まで送っていただいた。その日は、曇り空でもあったので、車中の冷房がややきつく思われたが、戸塚で湘南ラインに乗り換えると、タンクトップに短パンという若い外国の女性グループや大きな荷物の外国人カップルが目立つ。大方が、鎌倉でどっと降りて行った。逗子駅下車、バスの1番乗り場の「海岸回り」葉山行と駅前交番で確認。前回は新逗子駅から乗ったのだった。途中、「日影茶屋」の前を通る。いまは高島屋の経営らしい。一度、神近市子を偲びながらランチでもと思うが、今日も無理かもしれない。約20分弱、三が丘下車。神奈川県立近代美術館・葉山館まで、家を出てから、ちょうど3時間の道中だった。

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展示のコンセプトは

 

 展示作品一覧のようなプリントがないので、尋ねてみると、カタログの巻末出展作品の一覧表のコピーならどうぞ、ということで頂戴した。どういう構成になっているのか、どうも1940年の直前辺りから、編年体の展示で、1950年代まであるらしい。時代背景や解説は極力排して、作品自体を見てもらうというコンセプトであると、新聞の美術時評で読んだことがある。それに今回は、1945815日で区切ることなく、一続きの画家たちの営為をたどろうとする試みであったという。神奈川県立近代美術館所蔵の作品が主力で、美術館葉山の公式ホームページには、つぎのようにあった。

  

「・・・総動員体制のもと自由が圧殺され戦争に突入し、敗戦をきっかけにしがらみから解放されるという極端な振れ幅の時代のなかで、優れた才能はどのような創造の営みを続けていたのか、あるいは、中断や挫折を余儀なくされたのか。しなやかに、したたかに、ときには強情に生き抜いた画家たち(の足跡を辿る)。・・・」 

 

 

 「しなやかに、したたかに、ときには強情に生き抜いた」とある部分に、私は、違和感を覚えていたのだが、どんな展示になっているのだろうか。うーん、美術の世界でも、こうした戦時下の画家の「見直し」が着々となされているのだな、という思いだった。

 

編年体で構成されている展示を、以下、便宜的に私流にまとめている。

 

前史~1930年代後半

 

 1940年までの序章の一枚目が、山口蓬春の「立夏」と名付けられた、紫黒色の花をいくつも付けた一本のタチアオイであった。松本竣介「建物」、靉光「満州風景」、内田巌「裸婦」、原精一「青年立像」に続く、上野誠の版画、朝井閑右衛門、山下菊二、村井正誠、麻生三郎らの1930年代後半の作品は、重厚な写実あり、都会的なモダニズムありで、その多様な作品からは戦争の影が見い出だせない展示になっていた。

 

原精一(19081986)のコーナーになって、戦時色は色濃くなる。軍隊内のさまざまなスケッチからは、時を選ばず、紙と鉛筆だけの、ときにはわずかな色遣いの水彩画の中の兵士たちの現実、画家のやさしさが伝わってくる。30点近くは、最初の応召で中国に出征した折の作品、年配の「戦友」を正面から描いたパステル画、膝元に拠る犬と戯れている兵士を描いた「横山隊の兵士」、「岳陽報道部」の走り書きがある、椅子を寄せて会議をする部員の背には緊張感も漂う「報道部」などが印象的だった。Kさんもお勧めの作品群であった。

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193841年、日本版画協会が刊行した「新日本八景」シリーズも興味深かった。谷中安規「大川端」恩地幸四郎「雲仙一景」などに交って、前川千帆「朝鮮金剛山」などの外地の名所も現れる。

 

1940年、1941

 

上野誠の版画の労働讃歌の主調は変わらない。日本画の丸木位里(19011995)の「不動」(1941)、彼と結婚した、洋画を学んだ赤松俊子(丸木俊19122000)の「アンガウル島に向かう」(1941)は、ゴーギャンを目指しての南洋諸島体験の成果でもある。紙に描かれた両作品は、日本画か洋画か判別はできない。同じ頃、靉光の人物画も紙の淡彩で、当時、ジャンルの枠組みを相対化するような動きであったことがわかる。この頃の丸木夫妻、内田巌(19001953)の「鷲」(1941)などの作品には、彼らの戦後の仕事や生き方、「原爆の図」作成への情熱や社会的活動への萌芽があったのかもしれない。

 

1942年、1943年、1944

 

 同様のことは、この時期の松本竣介(19121948)「工場」「立てる像」(1942)、もっぱら家族の人物像や静物を描き続けた麻生三郎(19132000)、井上長三郎(19051995)の決戦美術展から撤去された「漂流」(1943)にも言えるのではないか。松本,麻生、井上、靉光と鶴岡政男、今回登場はしない糸園和三郎、大野五郎、寺田政明のあわせて8名が「新人画会」を結成した1943年から統制が厳しい戦中に3回の展覧会を開き、自らの芸術を追求していた。数年前、板橋区立美術館の「新人画会展」で彼らの絵に出会ったときの新鮮さと抵抗の様々な形を思い出していた。その時のブログ記事を合わせてお読みいただければと思う。

 

20081228日「新人画会展―戦時下の画家たちが―絵があるから生きている」(板橋区立美術館)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-d70f.html

 

なお、今回の展示では主要画家に位置付けられている藤田嗣治(18861968)と山口蓬春(18931971)だが、藤田は、当時の軍部の要請で「作戦記録図」の作成に積極的にかかわり、戦後は、占領軍の「戦争画」収集にもかかわった。山口は、会場の葉山館の敷地の向かいの高台に住んでいて、いまは山口蓬春記念館となっている。葉山とは縁が深い日本画家である。山口は、当初、東京美術学校の西洋画科に学んだが、のち日本画に転向した経歴を持つ。1942年には、陸軍省から南方に派遣され、サイゴン、香港、広東に滞在、この会場には、香港の作が5点並んでいた。この日の会場には、唯一の「作戦記録画」と目される「香港島最後の総攻撃図」の下絵があった。本体は、東京国立近代美術館の「戦争画」(アメリカからの無期限貸与)153点の中の1点で、前期の展示であったらしい。他の香港風景は、いずれも、穏やかで明るく、海辺の国際都市の雰囲気がただよう風景画であった。藤田の出展作は「ブキテマの夜戦」(1944)と「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943)の2点であり(ちなみに、上記東京国立近代美術館の153点のなか、最も多いのが藤田で14点を数える)、山口の作風とは対照的であった。ブキテマはシンガポールの中心部から10キロほどの高地、1942年、英軍と闘った激戦地で、作品は、激戦の跡が克明に描かれている。散乱しているものは何なのか、目を凝らさないと分からない暗さである。他の1点は夜の荒海に漂流する小舟に10人近くがひしめいている米兵を描く。また、東京国立近代美術館の戦争画についてと藤田嗣治については、本ブログの以下において書いたことがある。

 

20081213日「上野の森美術館<レオナール・フジタ展>、欠落年表の不思議」

 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-13fc.html

 

2009921日「国立近代美術館へ~ゴーギャン展と戦争画の行方」

 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/09/post-5b23.html 

 

 

1945年~

 

「戦争記録画」というのであれば、丸木位里・俊夫妻による「原爆の図」こそが「戦争記録画」と言えるだろう。「原爆の図」シリーズは、不覚にもこれまで見たことがなかった。埼玉県の女性教育会館までは足を運んでいながら、丸木美術館に行かずじまいであったから、今回、その一部を見ることができたのがありがたかった。四曲一双屏風となった「原爆の図・第二部 火」(1950)「原爆の図・第四部 虹」(1951)には圧倒される思いであった。「火」では、原爆の赤い炎が黒い塊になっている人間たちのなま身を焼きつくしてゆくさまを描き、「虹」では、惨い静寂の中の、右端に、倒れている馬と真裸の母子像の頭上の淡い虹を描く。浜田知明のエッチングの「初年兵哀歌」シリーズは自らの2度にわたる軍隊生活の回顧による作品のえぐられるような鋭さが印象に残った。

 

これまで見てきた画家たちの1940年代後半から50年代かけての作品の展示が、どういう意味を持つのかは、やや曖昧さが残る。「連鎖と変容」、一人の画家が持ち続けていたものを探る作業と変容を見極めるのには、編年体ゆえにやや散漫にも思え、捉えにくい。描いた年による「輪切り」での横断的な構成としては、選んだ画家が恣意的ではなかったか。それにあえて省略したと思われる「年表」の類も、会場に欲しかった。 

「しなやかに、したたかに、ときに強情に生き抜いた画家たち」と束ねてしまえるのか、やはり疑問を残しつつ、会場を後にした。 

これからも、戦争と美術を検証しようするならば、戦時下に描かれた作品の発掘と収集・保存・公開への努力が必要だろう。さらに、現に東京国立近代美術館に「もどって来た」戦争記録画の早期全面公開を、市民として強く求めて行きたいと思うが、たとえば、全国の美術館が一丸となって、公開を要請することはできないのだろうか。 

今回の会場の展示ケースには、大量の関連文献も展示されていた。画家たちの従軍記やエッセイ集、画集やカタログ、美術雑誌など貴重な資料が多かった。かなりのものが「青木文庫」となっていたので、地下室の図書室に寄って尋ねてみた。長い間、美術館の学芸員、館長などを務められたのち、現在は大学の教職に就かれた青木茂氏の寄贈資料だということがわかった。『書痴・戦時下の美術書を読む』』(平凡社 2006年)の著書があることも知った。未整理の資料やまだ青木氏のお手元にある資料は膨大らしいと聞いた。

↓図書室の入り口には、今回の関連テーマの書物が集められていた。

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↓遅い昼食を済まして、レストランを望む。庭園には赤とんぼが群れをしなして飛んでいた。台風20号が近づいて、少し波頭  が立つ一色海岸

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↓町内会の掲示板の津波避難経路らしい。

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↓「山口蓬春記念館は歩いて2分です」の看板に誘われて、「蓬春こみち」を

 上ってゆく。

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↓残念ながら、リニューアル中で休館でした。

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↓山口蓬春「夏の印象」(1950)とチケットでした。
 

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2012年9月21日 (金)

緑陰の読書とはいかなかったが④断想「〈失われた時〉を見出すとき(102)(木下長宏) 

 ④断想「〈失われた時〉を見出すとき(102)(木下長宏 『八雁』519129月)

短歌同人誌『あまだむ』は『八雁』に引き継がれ、この連載が100回を超えたことに驚いている。大教室で聴く講義のような気楽さもあるのだが、難解なことの方が多いかもしれない。今回は、画家の戦争責任がテーマであり、分かりやすかった。私もこれまでの関心事でもあり、このブログにも、藤田嗣治や花岡萬舟の戦争画、国立近代美術館所蔵の戦争画展示などについて、折に触れて書いてきたので、興味深く読んだ。 

http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=55522523&blog_id=19023320081213日) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/07/post-3f6e.html2009年7月1日) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/09/post-5b23.html2009921日)

 

葉山の神奈川近代美術館で「生誕100年記念松本竣介展」が開かれていたそうだ(巡回後、11月からは世田谷美術館でも開催される予定)。竣介といえば、数年前、板橋区立美術館の新人画会展で、そのグループの一人として、初めて絵に接した。骨太の「抵抗の夭折画家」としてのイメージが強かったが、今回のエッセイでさらにいろいろなことを知ることになった。竣介は、13歳の時、かかった脳脊髄膜炎により聴覚を失っているが、このエッセイの著者は「彼の絵のなかには〈音〉が充満している」が、「そういう〈沈黙の音〉とでもいうべき音色に耳を傾けることは、戦後の近代化がより合理化されていった教育、社会制度のなかでは蔑ろにされていくしかなかった」という認識を示した。また、竣介が生きた戦後は短かったけれど、「彼が作り上げようとしてきた〈絵〉の世界の可能性」を再評価している。戦時下の『みづゑ』誌上の陸軍省情報部の軍人たち肝いりの座談会「国防国家と美術」(19411月)に竣介が反論(同年4月)し、それをもって「抵抗の画家」と称される所以ともなっている。  

しかし、著者は、続けて、上記の反論にもまして、敗戦直後の竣介がなした美術界への提言こそきちんと読み直すべきではないかと述べる。一つは、朝日新聞紙上において画家で医師の宮田重雄が、従軍画家として活躍した画家を名指しで、茶坊主画家、娼婦的行動と糾弾したのに対し、鶴田吾郎「戦争画家必ずしも軍国主義者に在らず」「戦争をいかに絵画にするかは画家の任務」、藤田嗣治「国民としての義務を遂行したまで」などと応酬した論争(19451014日、25日)を見ていた竣介は、藤田、鶴田両先生は体験も資料も豊かであろうから、戦争画を描きつづけてくださいという、反論を残している(ボツになったという朝日新聞への投稿)。さらに、美術家団体結成に先だっての194611日付「全日本美術家に諮る」という私文書での提言である。組合、組合常設画廊の民主的・開放的な運営や公募展の在り方、海外交流、材料研究や共同購入、資料室・研究所の設置などをあげ、最後に戦争責任に触れて「芸術家としての直感でこの戦争の裏面に喰ひ入り、敢然とした態度の取れなかったことは恥じていいことだ。戦争画を描いた描かなかつたといふやうな簡単な問題ではない」と自省する内容となっている。ここに提案されていることのほとんどが、今になっても日本美術界で実現されてないことを指摘する。 

私は、最近、戦時下の短歌雑誌や婦人雑誌を読むことがあるが、当時、これらの雑誌においても上記のような軍人が仕切る座談会は競うように掲載されたが、それに異を唱えるようなことをした歌人や評論家は見当たらない。また、歌人の戦争責任についていえば、敗戦直後に『人民短歌』を中心とした原初的な歌人の戦争責任追及はされたが、その後はかなり意識的に、写生論や第二芸術論、結社論にと拡散、戦時下に活躍した大家たちが悲傷や自然回帰の作品へと転じていくことにより、その責任論は後退していった。ただ、その間、例えば斎藤茂吉について、佐藤佐太郎の「戦争中国家に協力して国の要請に順応して戦力に寄与しようとした一面の作歌のあるのはこれも自然で当にさうあるべきはずのものである。そのことと自由人平和愛好者としての性格との矛盾は一見矛盾の如くで実は人間的調和のうちにある両面にすぎない」(「短歌散語」『アララギ』19461月)という発言は上記、藤田嗣治・鶴田吾郎の発言と同じ趣旨であることも知った。 

画家たちの戦争を語るには、針生一郎ほか編『戦争と美術』(国書刊行会2007年)が必須文献のようで、手元に置くべき本かもしれない。不案内ながら以下の文献を参考にした。

 

参考文献 

・宇佐美承:『池袋モンパルナス~大正デモクラシーの画家たち』集英社1990 

・種倉紀昭:「松本竣介における表現の自由について~絵画鑑賞教育に関連して」(『岩手大学教育学部教育実践研究指導センター紀要』7号 1997年) 

・近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(文庫)講談社 2006 

・神坂次郎ほか編『画家たちの「戦争」』新潮社(とんぼの本) 2010年 

2012年9月19日5時過ぎ、二重になった虹

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2010年4月13日 (火)

書庫の隅から見つけた、私の昭和(1)きいちのぬりえ

2010_0422  夫の退職に伴って、たくさんの本が家に帰って来た。我が家の小さな書庫は二人のため込んだ本ですでに満杯、不要なものは捨てなければならない。切羽詰まった感じで3月から作業を始めているが、なかなかはかどらない。いろいろな思いがつまった本、本ではない、移り渡った職場でのレファレンス記録や会議録、組合資料やサークル資料に、10年間の司書講習で使った教材・記録、自分の使った教科書、子どもの教科書、どういうわけか、大正15年生れと昭和8年生れの兄たちの教科書まである。まさに「過去を引きずる女」と夫は笑うが、「片付けられない」女になってしまった。

紙類は、なるべく目をつぶって捨てた。本は、今のところ6箱ほど古本屋さんに送ってみたが、着払いのところ、送料負担のところとあったが、たいした額にはならなかった。しかし、捨てきれないものは、懲りもせず古本屋行きとなるだろう。

そんな作業のなかで、2か所から出てきた、袋入りの「ぬり絵」、すでに色をぬったものを含めると数十枚になった。触ると崩れそうな仙花紙だから丁寧に分類してみると、やはり「きいち」作のものがいちばん多かった。大部分がB6の大きさで、カラー刷りの袋入りであった。なかには、B5、B4という大判もある。漫画とも、アニメの絵とも違う、まして、最近書店に並ぶ「大人のぬりえ」の精密さもない、ふくよかで、目が大きくて、小さい唇の顔、太い足の4・5等身の少女たち。大きなリボン、幅広の帽子、フリルのついたワンピース、浴衣や振り袖も結構多い。憧れのファッションやお姫様のイメージが強かったが、実際のところ、意外と生活感のある絵も多かった。といっても当時の実生活とはかけ離れた牧歌的なものではあったが、「たのしいかりいれ」(大きな稲の束を抱えた)、「ごはんをたきます」(大きな釜ののったかまどに火をくべる)、「むしぼし」(干された着物のかげから顔を出す)の少女たちが愛らしい。なかには男の子と三輪車の「ふたりのり」や男の子が野球帽を後ろ前にかぶった「じてんしゃ」というのもあった。私がぬり絵を楽しんでいたのは、昭和25年前後ではなかったか。小学校高学年で、こんな遊びをしただろうか。もう記憶が定かではない。

そこで、ネット上で行き当たった、町屋にある「ぬりえ美術館」(2002年8月開館)の記事によれば、「ぬりえ」もなかなか奥が深い。国際的な交流もあるという。週末と祝日開館というが、ぜひ訪ねてみたい。

私のスクラップの中に、きいち、蔦谷喜一は200591歳で亡くなった時の訃報がある。川端画学校、クロッキー研究所で本格的に学んでいた。また、美術館の「きいちプロフィル」によれば、敗戦前は、一時「フジヲ」の名前でぬりえを作成していたが、本格的にぬりえを作成し始めたのは昭和22年あたりからだという。私の持っている「きいちのぬりえ」の袋には、いずれも「石川松聲堂」「不許復製」の文字が小さく印刷されている。

ほかの作者では「ひでを」「きみこ」「フジオ」「たけを」と名前のないものが数枚ずつ、残っている。はやく美術館に出かけ、どんな画家だったのかも確かめてみたい。片付けのさなか、また仕事が増えたようだ。

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2009年11月 6日 (金)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<8> グリーグの家へ

郵便局が見つからない

 今朝のベルゲンは風が強く、公園の落ち葉は舞い、通学・通勤の人々は足早に歩いている。フロムで若干買い込んだ土産や旅の前半の荷物を送り返しておこうと、朝一番で宿にも近い郵便局に出かけた。ところが、地図で示されているあたりを何度回ってみても見当たらず、女子学生に尋ねたところ、従いてきて、との言葉に追いかけると、ビルの小さな入り口を示して、入れという。彼女はすでに先を急いで去って行った。ともかくそこは、どの店もまだ、開店準備に忙しい小規模のショッピングモールだった。エスカレーター脇の案内板にはたしかに郵便局〒のマークがあった。2階に上がってみれば、あったあった、9時オープンという。送料込みの日本行きのダンボール箱を買って、ホテルに戻った。ようやく、発送のひと仕事?を終えて、きょうは何が何でもグリーグの家を目指す。

歩けども、歩けども

案内書によれば、20233050系のバスであればよいという。下車駅Hopsbroenへは20分足らずで着いた。降りる客もなく、運転手のいう道を歩き出す。時々車や自転車とは遭うものの、歩いている人はいない。何の変哲もない田舎道をひたすら歩くが、“グリーグ”の文字はどこにもない。停まっていたトラックの運転手に、ガレージに車を入れる女性に、疾走する自転車を留めてまで尋ねてみるが、方向としては間違ってはいないらしい。途中、大きな立体交差のロータリーも見える。20分以上歩いたところで、ようやくGrieg Museumの看板があって、並木道をしばらく行ったところに人影と建物が見え、ほっとするのだった。1995年オープンの博物館にはいろいろな工夫もしてあって、外国人の私たちにも親しみやすい。私の好きな?年表の壁の前で、写真に収まる。グリーグの住まいには、ゆかりの家具や食器や写真などが展示されていた。

グリーグ(18431907年)は、ライプツィヒ音楽院では伝統的な作曲家はもちろん新しい作曲家についても学んだが、ノルウェーらしさを目指し、コペンハーゲンでは多くの作曲家やアンデルセンにも出会い、生涯の伴侶ニーナにもめぐりあう。後、クリスチャニア(現在のオスロ)に居を移し、ピアノ教師の傍ら数々の名曲を残す。「ペール・ギュント」はじめ、イプセンとの仕事も代表的な作品となっている。1885年、ニーナとともにベルゲンから約8キロのこの地に新居を構え、トロルハウゲン(妖精の丘)と名付けたという。晩年もチャイコフスキー、ブラームス、リスト、サンサーンスら、多くの作曲家と交流を深め、バルトーク、ラヴェル、ドビッシーなどには大きな影響を与えたという。

博物館には、イプセンの肖像画も描いているE.Wereckioldの作品やダール、クロ-グの絵も飾られていたので、学生らしい案内ボランティアに、画家たちとの交流について質問すると、「あなた方はアーティストか」と逆に尋ねられてしまう。湖の方に下っていくと、途中にコンサートホールがあり、その先に作曲小屋があった。若い女性から遠慮がちに写真を撮ってくれますかとデジカメを渡される。それならばと私たちも撮ってもらい、尋ねたところアメリカからとのことだった。カフェでの食事の間、ずいぶんと迷っていたようだが、連れ合いは昼のコンサートを聴いていきたいといい、博物館入館とコンサートチケットとのセットに交換してくる。それぞれリンゴケーキとワッフルとお茶で軽く済まし、先ほどのホールに入って、階段状の客席から見ると、舞台の奥の窓には、湖水と山が一枚の絵のようにおさまり、グランドピアノのシルエットが素晴らしかった。30人ほどの聴衆のなかには、作曲小屋で出会った女性もいた。今日のピアニストはRune Alverさんでやさしい声のおしゃべりも心地よく?癒しのひとときではあった。

帰りは、余裕のウォーキング気分で、バス停まで苦にならなかった。

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 ベルゲン大学とスーパー総菜売り場

夕方の5時過ぎにはホテルに帰り、夕食まではと散歩に出た。ホテルの横の大通りを上ると国民劇場にぶつかる。気ままに歩いているといつの間にかベルゲン大学のキャンパスに入ったらしい。街との境などないかのようだ。ヨハネス教会と向かい合っているベルゲン(文化歴史)博物館はもう閉館、ここではベルゲン鉄道開通100年記念展が開催中ではあったが、もう明日はベルゲンを発つ。

ベルゲン最後の夜は、気楽にビールと惣菜を持ち込み、ホテルで済まそうということになった。なにしろ、レストランではその支払い額の25%が消費税なのだ。近くのスーパーは大変な混雑ではあった。欲しいものをかごに入れてゆくのだが、スモークサーモンと白身のお寿司、すり身の揚げ物、マスカット、プラムにビールとミネラルウオーター・・・と、ややわびしい品選びではあった。それでも、食品は14%、ビールは25%の消費税を払ったことになる。ともども、満足の末、ひと眠り、荷物整理はまた後回しになってしまった。

明日は、最後の宿泊地コペンハーゲンへ飛ぶ。

(順序が逆になりましたが、続きをお読みの方は、<1><2>にお戻りいただければ幸いです)

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2009年11月 5日 (木)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<7> フィヨルドヘ

ベルゲン鉄道からフロム鉄道へ

西向きのホテルの部屋から見たベルゲンの日没は9時、街のざわめきは深夜に及んだが、朝は意外と早いのに驚く。私たちは、大きな荷物はホテルに預けて、ベルゲン中央駅に早めに向かう。日本の旅行社で用意したフィヨルド周遊券のバリデ-ションという点検の手続きを経なければならない。結構行列ができていたが、このオフィスのパンフレットで、ベルゲン鉄道が今年11月で開通100年になると知った。記念の絵ハガキも何枚かゲットして、840分ミュルダルに向かう。約2時間、列車は、Daleダーレ、 Bolstadoyriボルスターオイリ、 Evangerエヴァンゲルとフィヨルドの谷や湖水に迫ったり離れたりしながら進む。どの駅も似たようなオレンジ色の小さな駅舎、ヴォスVossから乗り込む観光客も多く、以後は各駅停車となり、長いトンネル(Gravhals)を抜けるとミュルダルだった。雪渓が残る峰々を見上げながら、数分の待ち合わせでフロム鉄道に乗り換えた。深緑の斜面が窓に迫り、眼下の湖水に安らげば、突然岩山が現れ、遠い連山には雪が光る、といった沿線の展望はめまぐるしい。赤い実をびっしりつけた木はなんというのだろう。しばらくして、列車は突然停まって、乗客が降り始めるではないか。背の高い車掌が降りた客を誘導しているので、私たちも木製のホームを進んでゆくと、そこには思いがけず、目の前にすごい水量の滝がしぶきを上げていた。展望台の先まで進むとしぶきはもう雨のようで、床はびしょぬれで滑りそうでもあった。何段にもなった瀑布の右手にはかつての水力発電所の建物が見え、その先の崖の上では、薄物をまとった女性が踊っているような・・・、観光のために仕組んだことらしいが、これは少しやり過ぎでは?車掌の合図で乗客たちは再び列車に乗り込んだ。滝の段差は94mの由。あっという間の50分でフロムに到着した。幾筋かの細い滝を擁した山を背景に赤や朱の家が点在する集落こそ、フロム鉄道の終着駅。人口400人、年間の観光客3万人という村でもある。早めのチェックインをしたのは、正面のガラス張りの窓が目立つホテル・フレットハイムだった。波止場には大きな客船が停泊、すぐにフィヨルド観光に出かける人たちもいる。ホテルで一休みした後、昼食をと辺りをめぐり、結局バイキング方式のレストランに入った。あったかい紅茶がありがたかった。ホテルの夕食での日本人客は私たちのほか、やはり熟年のご夫婦だった。白ワインがほどよくまわった私の夜は早かった。

そしてフィヨルドへ      

周遊券の日程では、午後にフロムを発つ予定であったが、これ以上留まることもないね、と朝一番の遊覧船に乗ることにした。セーターは着込んだものの、薄い上着でもなお寒い。乗船前にお土産屋さんをひとめぐり、どうも気になったのが鉄道博物館であったが、もちろんまだ開館していないので、窓から覗いて鉄道100年の歴史に思いを馳せた。

争うようにして乗船した連れ合いは、甲板の先に席を取って手招きしているではないか。フィヨルドの谷の空気はめっぽう冷たい。留守をするので声をかけた隣家の奥さんが、2年前の北欧旅行の体験から厚手の上着は持って行った方がいいですよ、の言葉を思い出す。いっそう船室に入りたいくらいだったが、熱い缶コーヒーで陣取っていた。連れ合いは席のあたたまる間もなく、撮影に忙しい。地図で見るとノルウェーの西海岸からは一番長いソグネフィヨルドの、一番奥まったアウルランフィヨルドからナーロイフィヨルドへと船は進んでいる。迫る斜面、絶壁の岩、重なる山々を背景に、湖水のような静かな水面を滑るように船は進む。左右には、時折、頂き付近からのジグザグの滝、直接に水面に落下する滝、急斜面から岸にかけて家が点在する集落が見えたりする。集落の真ん中に教会と墓地が見てとれるところもあれば、船着き場付近に数軒の家しか見えないこともある。道路がない集落、夏季しか人が住まない農場もあり、村びとたちの営みを思うと気が遠くなりそうな世界だった。1時間余のクルーズを終えて降りたグドヴァンゲンではようやく日が射してきてホッとする。

 グドヴァンゲンは、フィヨルド観光船の寄港地、今はバスでナーロイ渓谷沿いにスタールヘイムに向かう出発点である。1140分発、乗客は156人、急こう配のジグザグを登り切ったところでバスは停まり、乗客らは、赤茶色の建物になだれ込む。ホテルの売店を突っ切ったところの展望台に案内される。眼下の渓谷と集落、ま向かいの山並みを堪能させてもらったサプライズだった。案内書によれば、これも観光客へのお決まりのサービスらしい。ドイツや北欧の王族たちに愛されたリゾート地だったという。

思いがけずヴォスの展望台にて

再び国道13号線をひた走り、オッペンハイム湖や幾つかの湖水を左右に、草原やスキー場らしい斜面が続く。正面の峰々の尾根には雪渓が光る。フロムを早く発った分、ヴォスで数時間過ごせそうだ。ロッカーに荷物を預け、まず昼食をと思うが、店がない。ホテルという気にもなれず、結局駅構内のカフェで済ますことになった。駅のホームの端にある陸橋には、ケーブルカーの矢印がある。階段も手すりもすっかりさびているわびしい橋を渡ると、傾斜地に点在する住宅、どの家も色とりどりの花を咲かせ、庭には、大きなパラソルを逆さにしたような放射線状の物干しに洗濯物がいっぱいであった。斜面の上の家々のメールボックスは、坂の上り口にまとめて設置されているから、郵便物はここまでしか配達しないのだろう。眼下には、線路と国道と雄大な山並みと湖水が見下ろせる。ケーブルの駅にはそれでも人はいた。56人も乗ればいっぱいのケーブルカーは無人運転で急傾斜に差し掛かると、大きく揺れておそろしい。山頂駅に着けば係員がドアを開けてくれて、なぜかホッとする。発着所付近には羊が放牧されているが、足元の大きな糞には要注意ながら、目の前に展けたパノラマには息をのむ。先ほど訪ねた教会が小さく見える。駅の周辺にわずかに続くヴォスの家並み、湖畔からゆったりした草原には何の競技場だろうか、土色のグラウンドが幾つも点在しているのがわかる。展望台でぼんやりしていると、何本かのケーブルカーをやり過ごしようやく下山、それでも、ひと電車早くベルゲンに帰れそうである。

(フィヨルド遊覧船から)

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(ヴォス、ケーブル山頂駅展望台から)

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