2023年2月13日 (月)

どうする高齢者!立ち上がるのはだれか(1)

 「どうする家康」 どころではない。
   高齢者には、ガラガラと坂を転げ落ちるように生きづらい社会になってゆく。内閣支持率下落のさなか、「閣議決定」で、何もかも決まっていってしまう現実を目の当たりにし、国会は形骸化するばかりである。

 2月10日の閣議で、75歳以上の健康保険料引き上げのための健康保険法改正が国会に提出される。昨年10月には、医療費が倍額になった。週一の通院、二カ月、三カ月ごとの定期診療に通わなければならない身には、大打撃である。今回の保険料値上げの対象は、後期高齢者の四割あたるという。コツコツと働いてきて、年金生活者になってからは、医療や介護への不安が募るばかりで、老後を楽しむどころではない。コロナ対策にしても、死者のほとんどが高齢者で、増加のさなかに、対策を緩和したり、感染者の受け皿の医療体制が整わないまま、5月には5類にしたりするというのだから、いわば、高齢者を置き去りするに等しいのではないか。

 こんな仕打ちをされている高齢者を横目で見て、国会では、与党はもちろん、野党もまったくと言っていいほどアテにならない。政権の敵失ばかりを責め立てるばかりで、自らの政党の選挙対策に余念がなく、連携だの共闘などと騒がしく、党内外の批判にさらされ、慌てふためいて反撃している党もある。

 どうすればいいのか。本来ならば、自ら立ち上がらねばならないはずの高齢者だが、その核になる組織がない、リーダーがいないと、あきらめてしまいそうになる。いや、リーダーや組織が華々しい運動は、大方は、しぼんで、挫折してしまうのが、通例ではなかったか。だったら、ひとりでも、片隅からでも叫びたい。その声が重なり合うときが来る日まで、とも思う。

   2018年11月から数カ月にわたって展開されたフランスの「黄色いベスト」運動を想起する。当初、私は、ガソリン税値上げ反対の、トラックの運転手たちによる抗議行動と思っていた。一部暴徒化する様子も報道されていた。ところが、どうだろう、毎週土曜日の抗議デモは、地方から都市へ、サラリーマンや自営業者、高齢者や女性へと多くの市民による運動となった。その結果、マクロン政権は、ガソリン税値上げの完全撤回、富裕税課税の不動産限定を中止、購買力向上ための減税、国民との大討論会の約束などをとりつけるに至ったのである。

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『毎日新聞』2018年12月17日、より

フランスでは、いま

 それにつけても、フランスやイギリスの労働者たちの大規模な集会やデモの報道を目にして思うのは、なぜ、日本人はこれほどおとなしいのだろう、従順なのだろうかと。

 フランス政府は、今年の1月10日に、年金の支給開始を62歳から段階的に64歳に引き上げるという改革案を発表した。1月19日には、労働組合が中心となって、改革案に反対する大規模なストや抗議デモが各地で行われ、 内務省は、  112万人が参加したと発表した。一方、主催者側は、ストやデモの参加者は200万人を超え、公共職の参加率が高かったとする。国民教育省によれば、全国で四割の教員が参加小学校の休校が相次ぎ、一斉ストでは、パリの地下鉄などダイヤが大きく乱れた、と報じた。(「フランス、反年金改革デモ112万人 政府に逆風強まる」『日本経済新聞』2023年1月20日、「仏年金デモ100万人超」『東京新聞』2023年1月21日)

 さらに1月31日には、「全国で280万人、パリ50万人。1995年の社会運動より大きい歴史的な動員だ。労組に一般市民が大勢加わり若者も多く、大学や高校での封鎖も始まっている」と報じるメディアもあった(「年金改革反対デモ広がる〜1995年を超える歴史的動員に(飛幡祐規)」『れいばーネット』 2023年2月1日)。「1995年の社会運動」とは調べてみると、やはり年金改革の問題で、公共交通、電気・電気・ガス・学校など大規模なストが約1カ月にも及んだときのことらしい。そして、2月7日にも大規模なストライキが実施され、公共交通機関や学校、製油所などの運営がストップし、国民の反対は根強いと、ロイターは伝える(「仏で3度目の大規模スト、年金改革巡り 交通機関や学校にも影響」 2023年2月8日)。さらに2月11日にも、大規模ストライキを予定しているというが、どうなったことだろう。

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『朝日新聞』2023年1月20日 、より

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年金制度改革案に反対する抗議デモに参加し、警官隊に拘束された男性=パリで2023年1月31日、AP。『毎日新聞』2023年2月1日、より

 こうしたストライキやデモをする人たちの意思とエネルギーは何に由来するのだろうか。今回の大規模な運動は、最大の労働組合「労働総同盟」(CGT)を含め、八労働組合が呼びかけている。と言っても、フランスの労働者の組合組織率は8.8%だというが、団体交渉適用率が98%という高さなのである。組合員でなくとも、団体交渉で得た成果は、非組合員にも適用されている(「日本の労使問題」『東京新聞』(サンデー版大図解シリーズ)2023年2月5日)。そして何より、その組合というのは、業種別、産業別組合なのであって、日本の企業内組合とは性格を異にする。日本の組合の組織率は日本の組合の組織率は、「厚生労働省のまとめによると、2022年6月時点の労働組合員数は999万2000人と前年に比べて0.8%減った。雇用者に占める組合加入者の割合(推定組織率)は16.5%」(「労働組合加入率22年は16.5%で過去最低」『日本経済新聞』2023年1月4日)で、日経のこの記事では、加入率の減ったり理由として、正社員の加入が減ったことと、働き方の多様化、労組への期待低下を上げていた。日本の企業内組合は、いわゆる「御用組合」が多くを占め、本来の組合の役割を果たしていないといってよいだろう。(続く)

 

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2020年5月 1日 (金)

18年前の旅日記~スイスからウィーンへ(4)

20021123日~ウイーン、クリスマス市の初日に
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 アルプスの山並みを越え、やがてウイーンへ、ふたたび

 ウイーン空港からカールスプラッツまでの道順は、リピーターの余裕?で、リムジンバスと地下鉄一本を乗り継いでスムーズにこなせた。ジュネーブと同じブリストル・ホテルでも、その雰囲気はだいぶ違い、部屋は一段と狭い。ホテル前のケルントナー通りを隔てて、オペラ座、昨年の宿ザハ、そしてアストリアホテルと大きい建物が並ぶ。前回は行けなかったシェーンブルン宮殿へ行くことにしていた。何しろウイーンのガイドブックを家に忘れてきてしまったので、ホテルと航空会社からもらった地図しかない。
 地下鉄U4でシェーンブルン駅下車、人の流れにそって進むと、広場の前は大変な人出で、さまざまな露店が出ているではないか。正面には大きなクリスマス・ツリー、小さな舞台で演奏もやっている。これがクリスマス市なのか。なんと土曜の今日が初日だったのである。クリスマスまでちょうど一か月、食品、洋品、おもちゃ、飾り物など、何でも揃いそうである。ところどころに立っている丸い小さなテーブルを囲んで、カップルや家族連れが立ち飲み、立ち食いもしているのだ。さまざまな着ぐるみ、竹馬に乗った足長ピエロの行列や風船配りとぶつかりそうになる。子供たちがほんとうにうれしそう。また大人たちが、実においしそうにマグカップで飲んでいるホットドリンク、夫は気になってしかたないらしく、手に入れてきた。プンシュというものらしく、ジュースとワインを混ぜたようなソフトドリンクらしい。飲み干したカップを返すとお釣りが戻るという。夫は、最初の一口を飲むなりむせてしまい、咳き込むばかり。私も、一口恐る恐る飲んでみたが、相当に強いアルコールで、それ以上は飲めなかった。しばらくチビチビ飲んでいた夫も、観念したのか、さりげなく広場の側溝に流し込んでいた。

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上2枚:シェーブルン宮殿前のクリスマス市、下:翌日の市庁舎前のクリスマス市

 そんなことをしていて、宮殿に入場するのがだいぶ遅くなってしまった。日本語のオーデイオ・ガイドに飛びついて、宮殿の各室を回る。急いで通り過ぎたい部屋もあるが、どうも加減ができないらしい。それにしても、ハプスブルグ家の歴史を聞かされると、その華やかさの割には誰もが幸せとはいえない生涯を送ったのではないか、とそんな庶民の思いはつのるばかりだ。外へ出た頃は、すっかり日は暮れて庭園はすでに闇の中だった。シェーンブルンの庭園には今回も縁がなかったことになる。夜7時半からは楽友協会のコンサートなので、その前に食事もしておかなければならない。それならばと、ケルントナー通りの「ノルトゼー」にむかう。「北海」「北洋」とでも訳すのか、魚料理を食べさせる大衆的なチェーン店である。ケースの中の料理が選べるのが何より便利で、安い。
  ホテルからも近い楽友協会は、ウイーンフィルのニューイヤーコンサートの会場としても知られるが、入るのははじめてだ。ブラームスのドイツレクイエム、ミュンヘンの交響楽団の演奏と重厚な合唱に魅せられた一時間半、聴衆の大部分が地元のシニアだったのもなんとなく落ち着ける雰囲気だ。が、ホテルに着いても入浴する元気がない。一日中の移動を思えば無理もない。疲れがどっと出たのかもしれない。

 20021124日~ハイリゲンシュタットのホイリゲで
 今日は、まず前回見落としていたウイーン美術史美術館のブリューゲルを見る予定だ。歩いてもたいした距離ではないが、開館には間がある。昨日買った一日乗車券で、旧市街を囲むリンク通りをトラムで回ることにした。前回の旅で、この辺で迷ったね、初めて昼食をとったのがこの路地のカフェだった、と懐かしくも、あっという間の一回りだった。まず、議事堂にも敬意を表して下車したところ、震えるほど寒い。広い階段を上がったところで、一人の日本人男性と遭い、寒くないですか、とセーター姿の夫は同情されていた。階段の下では、なにやら、テレビカメラがまわり、議事堂を見上げるようなアングルで、記者が実況放送のようなことをやっている。これは、後でわかったことなのだが、11月24日はオーストリーの総選挙で、極右との連立政権の成り行きが注目を浴びていたらしいのだ。街中にポスターがあるわけでもなく、気づかず、そんな雰囲気がまるで感じられなかった。議事堂に続く広場には、昨日のシェーンブルン広場の規模を上回るクリスマス市が立っている。地図でみれば市役所である。結構出入りのある市民ホールの重いドアを開けてみると、そこは、子供たちがいっぱい。子供たちのためのワークショップ、仕切られた部屋でハンドクラフトの講習会がひらかれていたのである。学童期前の幼い子供たちがエプロンをして、クッキーを焼いたり、クリスマスカードやローソクを作ったり、土を捏ねたりしているのだ。廊下では、中に入れない親たちが見守っているという、ほほえましい光景を目の当りにすることができた。こんなふうにして、ウイーンの市民たちはクリスマスを迎える準備に取り掛かるのだ、と感慨深いものがあった。自分たちの住む千葉県の新興住宅地で、庭木の電飾だけが妙に狂おしく、競うように点滅している歳末風景にうんざりしていただけに、あたたかいものが感じられるのであった。

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上2枚:市庁舎前クリスマス市の催しものなのか、ホール内では、子ども向けのワークショップたけなわ。下:議事堂前では、総選挙当日のテレビ中継番組の収録中で、そのスタッフたちがいずれもしっかりと防寒の重装備のなか・・・

  名残惜しいような感じで、クリスマス市をあとにして、新しくできたミューゼアム・クオーターの一画、レオポルド美術館にも寄ることにした。ここはエゴン・シーレのコレクションとクリムト、ココシュカなどの作品で知られる。そういえば、クリムトの風景画だけを集めた展覧会が、ベルベデーレ宮殿の美術館で開催中らしいのだ。いまは時間がない。レオポルドに並ぶ現代美術館は、巨大な黒いボックスのような建物で、中に入ると、まだ工事中のようなリフトがあって、入場者もまばら、閉まっているフロアも多い。入場料がもったいなかったと嘆きつつ、美術史美術館へと急ぎ、中のレストランで遅い昼食をとる。目当てのピーテル・ブリューゲルの部屋、二階Ⅹ室へ直行する。ここのブリューゲルは、私が旅の直前に出かけた東京芸大の展覧会でもみかけなかったし、1984年日本で開催した「ウイーン美術史美術館展」でも、門外不出ということで一点も来なかったそうだ(芸術新潮 1984年10月)。所蔵点数一二点、世界で一番多いという。「バベルの塔」をはじめ、「雪中の狩人」、「子供の遊び」、「農民の婚宴」などはじめて見るというのになつかしい、という思いがぴったりなのだ。農民や兵士の日常生活がその背景とともに丹念に、克明に描かれ、その一人一人の表情が実にいきいきしているからだろうか。宗教や歴史に取材していても決して叙事的ではないのだ。せっかくの機会なので、周辺の部屋にはヨルダンス、ファン・ダイクがあり、そしてここでも大量の作品を残すルーベンス、前回見ているはずなのに記憶はすでに薄い。

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レオポルド美術館のリーフレットより、クリムトとエゴンシーレ

  少し欲張って、夕飯は郊外のホイリゲでとることにした。ホイリゲといえば、前回は、グリンツインからバスに乗り換えてカーレンベルクまで行ったが、今回は、ホテルで勧められたハイリゲンシュタットのMayerという店を目指す。地下鉄のハイリゲンシュタットからバスで二、三駅と教えられ、降りたところは静かな住宅街だが、まず国旗を掲げた、ベートーベンが遺書を書いたという家に行き当たる。木戸を押すと、小さな中庭、入り口の二階のドアは閉まっているが、脇のドアをノックすると、年配の女性が受付をしてくれる。オリジナルな資料は少ないが、しばらくベートーベンの世界に浸る。ここハイリゲンシュタットでの足跡が分かるようになっていた。すぐ隣りの新しい建物は、シニア専用のマンションらしかった。少し戻ると、分かりにくいが木戸の脇にMayerの文字が読める。そーっと開けてみると、意外に広い庭をめぐる古い建物。いくつもの入り口をのぞいていると、ドアを大きく開いて迎えてくれた。もうこの季節では、中庭にテーブルを出すこともないのだろう。薄暗い中には、すでに何組かのお客さんがつめていた。まずは白ワインを注文すると料理は向かいの建物で買ってきてください、ということだった。ワインは溢れんばかりの小ジョッキで運ばれてきた。中庭を抜けた調理場近くのケースの中にはさまざまな料理が山と積まれている。好きなものを選べるのがありがたい。どれも期待を裏切るものではなかったが、ただ一つ、チーズをスライスした茸で巻いたようなものだけは、残してしまった。お客さんは増えるが、席を立つものがいない。これ以上ワインをのめる体力もなくMayerをあとにした。あたりはすでに暮れかけていたが、Mayerの隣りには聖ヤコブ教会が建っていたのに気づく。 
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ホイリゲ、Mayerの入り口の上に飾られているのは、松の枝の飾りで、新酒の解禁日に掲げられるそうだ。この辺りは11月の第3週という

  帰路、もらったパンフをよく読むと、Mayer家がこの地に葡萄園を開いたのは一七世紀後半、1817年、ベートーベンはこのホイリゲに滞在して「第九」を作曲した、とある。ホイリゲの横を北に進むといわゆるベートーベンの散歩道に出るらしい。いつの日かの再訪を期してホテルに戻れば、今日もまた、ベッドになだれ込む疲れようだった。荷造りは、明日にまわして、おやすみなさい。(了)

 

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2014年11月 1日 (土)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(1)

 旅をしながら、パソコンでメモを取るという芸当ができないので、手許のメモと資料で綴っていきたい。今回は、20115月に予定していた旅行を311に出遭ってキャンセルして以来の海外行きとなった。この間、今夏1710か月で亡くなった老犬の介護が始まり、二人で家を空けられなかったことにもよる。行き先は、2008年のドイツ行きで、駆け足だったベルリンにもう一度という思いとドレスデン、ワイマールを除いた都市を訪ねるということで、フランクフルト2泊、ライプチッヒ2泊に落ち着いた。当方の体調も考えて、ベルリン3泊が限度かなと、いつもお世話になっている旅行会社に、往復の航空券と鉄道、ホテルを依頼したのが、9月初旬だった。連れ合いは、前には利用しなかったグーグルマップによる路線とストリートビュー検索で準備しているようだった。

 

フランクフルト、初めまして

 

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 1020日、フランクフルト空港は乗継ぎで何回か降りてはいるが、滞在するのは初めて。着陸の少し前に、ルフトハンザのパイロットがストライキに入ったので、乗り継ぎの方にはご迷惑をかけます、のアナウンスがあった。「よくがんばるなあ」と。自分たちが乗る便でないこともあってか、まずは応援の気分である。日本の航空会社では、ストライキが実施されたことはほとんど聞いたことがない。フランクフルト空港14時25分着。ホテルのモノポールに着いたのは予定の16時30分をだいぶ過ぎていた。ホテルは、フランクフルト中央駅南口の真ん前、ビジネスホテル風で、自由に利用できるというロビーのカフェで日本人らしい姿も見かける。片言の日本語を話すカウンターの方に、旧オペラのレストランの夕食の予約をしてもらう。室内はシンプル、冷蔵庫のものは無料との触れ込みである。ひと風呂浴び、駅前からのバスに乗るつもりが、教えられた64番で待っていても来ないので、U102ホームから二駅、旧オペラに向かう。630分、あたりはすっかり暮れて、旧オペラは、噴水とともにライトアップされ、ルネサンス様式の美しい姿を見せていた。パリのオペラ座をモデルに1880年建設、第2次大戦で破壊、1981年に修復されたそうだ。レストランは、天井や壁の装飾、格調高い雰囲気のなかで、私は魚介スープ・マッシュルームのクリームソーススパゲティ・サラダとイチゴのアイスクリームにした。日本を発つ2日前に、何しろ右手の人差し指を、けがしてしまい三針縫った身なので、ワインは自信がなくて、ソフトドリンクにする。下の写真、そんな雰囲気が伝わるだろうか。連れ合いはシュニッツエルとワイン、これも実においしそうであった。帰り道は、かなりの冷え込だった。

 

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ハイデルブルクの街を駆け抜けて

1021日、6時過ぎ起床、真っ暗で、空の様子がわからない。朝食時には、たしかに日本人、中国人が多いようだった。予報は、曇りだが、傘を持ち、ハイデルベルク城へとまず遠出した。中央駅DB9番ホーム、750発、マンハイム乗換えで、旧ハイデルベルク駅下車、バス乗り場で、ぼんやりしていて33系を逃してしまったらしく、歩きはじめた。10分ほどでカール広場に着く。ケーブルカーに乗ると、3分もかからず城に着く。これで6€、高いね、と思わず顔を見合わす。今度は、城内への入館料6€を払って、日本語の案内リーフレットをもらう。よく見ると、6€はケーブルカー料金込みだったらしい。ハイデルベルク城は、まさに古城の風情で、それぞれの館の建設の時期や様式が異なり、その朽ちよう、崩れようも異なるので、その感がいっそう強い。中世には幾度かの戦禍や落雷に見舞われ、18世紀には廃城になっていたのを、19世紀に入って、保存・修復がなされるようになった。とくに印象に残ったのは、ワインの大樽と薬事博物館であった。17世紀から18世紀の城主たちが、12.5万ℓ、19.5万ℓ、22万ℓと、競うように大きな樽を建造していたようだ。もう一つ、薬事、というより医療の必要性と熱情がこもっているコレクションは、もともとミュンヘンにあったものが、1944年の空襲で、ここに移されたという薬事博物館であった。また、城全体について、完全に修復するのではなく、遺跡として残していくという姿勢も伺えた。ここにもゲーテの記念碑とベンチがあると聞いていたのに見つからない。受付に戻って尋ねたところ、工事中で重機が動いている先の庭園にあることが分かった。ゲーテには敬意を表した後、見渡せば、さらに城の裏には庭園が広がっていた。振り返ると、辛うじて円筒の姿をさらす火薬庫が草や樹木に覆われている空濠に今にも崩れ落ちそうな感じであった。が、さすがに、観光地なのか、中国人の幾組かのグループがやってきては、写真を、長い棒の先にデジカメを付けて自分や家族を写している光景をよく見かけた。

もう一度、最初の展望台に戻り、ネッカー川をはさんで広がるハイデルベルクの街並み、赤い屋根が密集し、凹凸をなす街の歴史を実感した。これから訪ねる大学はどの辺りなのだろうか。

 

以降、私のデジカメは、充電方法を間違って、バッテリー切れ、連れ合いの写真拝借。

 

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ワイン22万リットルの大樽

 

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火薬庫の先の庭園に、ゲーテ記念碑はあった

 

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対岸には、哲学の道があり、眺めもいいという

 

ケーブルを降りたところからマルクト広場を経て、ドイツでいちばん古いと言われるニュールンベルク大学へと移動、旧校舎の方には、博物館と大講堂、そして学生牢があるはず。大学には権力の介入を許さないという、大学の自治の象徴でもある学生牢は、旧校舎の3階にわたってあり、どの部屋もさまざまな壁いっぱいの落書きに圧倒される。現在、ヨーロッパの都市のあちこちで見られるビルの壁面や鉄道沿線の列車や石塀の落書アート?の原型のようでもある。観光客はここまではなかなか入っては来ないが、出会った女性の一人から、階段に設けられている鉄条の扉を閉めた中から、カメラを差出され、撮影してくれないかの申出に、少し戸惑う。しかも、もうちょっと下がって全身をとの注文まであった。どの国の方だろう、おんな一人旅の思い出の一コマとなっただろうか。

それからが、大変だった。なにしろ、予定の列車まで、あと25分もない。旧市街をだいぶ奥まで来てしまったので、間に合うのだろうか。連れ合いは、すごい勢いで歩き出し、ときには走って、振り返る。当方も、必死に追いかけるが、何せ、ニトロの錠剤をお守りのように持ち歩いている身でもある。苦しくなったらどうしよう。もう、二人とも汗びっしょりで、1258分発が2分ほど遅れて間に合ったのである。その後も、ドイツの列車の遅れには、結構戸惑ったものだが、この時ばかりはありがたかった。ホテルからテイクアウトした、パンやフルーツで空腹をしのぐ。フランクフルト中央駅にはなんと30分遅れの14時半を過ぎていた。後の予定は詰まっている。

 

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ハイデルベルク大学大講堂、旧校舎内、正面の中央、白い胸像がバーデン大公フリードリヒ、その右が大学創立者のルプレヒトⅠ世、正面の絵は、フェルディナンドケラーの知恵と芸術の女神アテネが、天井には、4つの学部、神学・法学・医学・哲学が表現されている。1886年500周年を記念して完成、現在も式典に使用されているとのこと

 

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旧市街、こんなお店でお茶でものみたかった!

 

 

美術館のカフェで雨脚を見つめる

フランクフルト中央駅に戻って、今度はマイン川を渡り、シュテーデル美術館へと急ぐ。川沿いの遊歩道は、黄葉がはらはらと舞い散り、まるで映画の一シーンのようだった。このあたりは、美術館や博物館が建ち並ぶ地区で、シュテーデル美術館は、すぐに見つかった。銀行家シュテーデルの収集による美術館で、全部を見るには相当の時間と根気が必要と思われた。1階が近現代180019452階が中世13001800、地階1945~、という時代別の展示である。

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  まずは1階からだが、クールベ(フランクフルトの橋)、モネ(昼食、秋の河畔)、ルノアール(読書する少女)、ゴッホ(農家風景)などは軽く?通り過ぎたが、ここでムンク(漁夫と娘)やハンマースホイ(室内)と出会ったのは思いがけず、懐かしかった。また、ロダンも何点かあったが、ドガは踊り子の絵もさることながら、彫刻も何点かあり、小品ながら、その躍動感はさすがと思われた。7月に17歳の飼い犬を亡くしたばかりなので、F.マークという人の「雪の中の犬」の雪上で横たわり、安心しきって眠っている大きな白い犬の前では、思わず立ち止まる。この絵は、人気らしく、ショップでもこれをモチーフにしたグッズも多かった。

つぎは、2階なのだが、上がる中央階段の正面、両側の壁いっぱいに主に中世の宗教画や肖像画が所狭しと展示されていた。ルーベンスやフランス・ハルス、ハンス・ホルバインらの名前も見える。もったいないような展示だが、2階には、ラファエロ、フェルメールがあるはずで、先を急いだ。第1室にフェルメールの他作品はあるのに、「地理学者」は見当たらない。係員に聞いてみると、いまは展示がない、貸し出中とのことだった。そんなこともあろう、とあきらめて、回り始める。連れ合いは、宗教画や歴史画ばかりと思いきやこの時代に印象派の芽生えが色々な絵にあるではないかと、しきりに気に入った風景画などを写真に収め、キャプションに顔を寄せて読んでいると、絵に30センチ以上近づかないで、と注意を受けていた。私は、しつこく、念のため、またフェルメールの地理学者はどこかと別の監視員に聞いてしまった。「来年3月には返却される」とのことだった。この時代の作品にしばしば登場する動物たちは、どれも生活感が漂っている場合が多く、まさに「共生」していた様子が伺える。ヨハン・ハインリヒ・Roos(1631~1685)という画家の、羊飼いたちにとって家族同然の牛たちを何度も描いているのが、興味深かった。また、ジョン・Hoppnerのウサギを抱く少女が愛らしかった。 

 

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クールベ、フランクフルトの橋

 

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ドガ:ラージ ダンサー

 

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 朝からの疲れが出たのか、なんかぐったりしてしまって、美術館のカフェで、私は紅茶をいただいたが、もう身に沁みわたるような感じで、生き返ったようだった。が、外はいつの間にか、かなりの雨に煙り、雨脚も強くなっていた。

 

 

 

ザクセンハウゼン地区の居酒屋で

すでに暮れかけたので、あまり遅くならないうちに、お目当てのレストランに行かねばと席を立つ。美術館横を折れたシュバイツァー通りは、大きな黄葉が散った後で、滑りそうで足もとが危ない。ときどき、水たまりを渡り損ねたりしながら、ようやく居酒屋風の店(Zum Grauen Boch)に到着、すでに満席に近く賑わっていて奥まで進む。「とりあえず」、りんご酒とソーセージの盛り合わせを一皿頼んでみる。運ばれてきて、そのボリュームにびっくり仰天。山盛りの酢キャベツの上に、長いソーセージ、本場の?フランクフルトソーセージ、すこし色合いが違った2本(これが血の混じったソーセージ?)、それに厚さ3センチ以上もある骨付きハムようのものが、お皿にはみ出しているではないか。ご覧のとおりである(日本からプリントアウトして持参しメニューの価格から値上げしていて、その盛り合わせは23€が30€になっていた)。 りんご酒は、かなり酸味が強くて、素朴な感じではあるが、私はグラスの三分の一ものめなかった。どう頑張っても完食はできまい。濃い色のフランクは手つかずだった。お客さんも次から次へ入って来るので、退散することにする。雨は小降りになっていた。近くのUのSud駅から中央駅へと向かった。長い一日の締めくくりは、持参した湯沸しで、いつものお茶をのんだのであった。

 

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隣の席は女子会たけなわ・・

 

 

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2008年8月 3日 (日)

やはり気になる「働く女たち」,ウィーン美術史美術館所蔵「静物画の秘密展」(国立新美術館)

                                                                                                             

  昨秋のアムステルダム美術館所蔵「フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展」(国立新美術館)に続き、この夏のフェルメール展も始まったが、会期の終りが近い「静物画の秘密展」に出かけてみることにした。連れ合いは、帰路の買い物の方が目的のようだし、前日に誘った娘も東京についでがあるとかで、久しぶりの3人での展覧会となった。

 ウィーン美術史美術館の静物画といえば、何だろう。花や果物の、ときには残酷な鳥の死骸が転がっているような精密画だろうか。やはり、第1室の最初の作品は、切り落とされた頭が脇に置かれ、引き裂かれ、吊るされた「解体された雄牛」だった。日常のすぐ裏側の市場や台所に見る人間の残忍さがここまで精緻に描かれると、厳粛な気持ちにもなる。「魚のある静物」(Sebastian Stokoskopff1650年頃)は、高橋由一の「鮭」を思い起こさせる構図である。静物画の一つジャンルとしての花束の図も、どれも決して明るくはない。その命のはかなさをメッセージとして秘めているからなのか、「青い花瓶の花束」(Jan Brueghel the Elder1608年頃)の花瓶の周辺には、萎んで散った花片がいくつか描かれている。「朝食図」というジャンルもあるらしく、今回も何点か出品されている。また、肖像画と風俗画に属する作品も数多いが、これらの作品のリアルさとそこに秘められた「寓意」についていくつかの作品の解説に付されていたが、私には、「そこまでは読み取れない!」という部分があった。たとえば「農民の婚礼(欺かれた花嫁)」(Jan Steen1670年頃)の事細かな解説は放棄した。あの猥雑な人物群像と一人一人の表情が実にいきいきとしていることが読み取れることができれば、十分ではないかと。

 今回の展示で、もっとも気になったのが、「台所道具を磨く女」(Martin Dichtl1665年頃)であった。整理されて重ねられた鍋や金物、その一つを根気よく磨いている表情には、時代を支えた働く女たちの、多くは決して若くはない働く女の自負がにじみ出ている作品に思えた。時には揶揄的に描かれる厨房で働く女たち、散らかし放題の食堂や台所の絵を見すぎてしまったためだろうか、清涼感さえ漂う作品に思えたのだ。残念ながら絵葉書にはなっていなかった。

 今回の美術展の「看板作品」の一つはベラスケスの「薔薇色の衣裳のマルガリータ王女」(1,65354年頃)らしい。あの王女の愛らしさが、のちの悲劇的な物語の序章のようにとらえられるからだろうか。2002年の「ウィーン美術史美術館名品展」(東京芸術大学美術館)では、「青いドレスのマルガリータ王女」(1659年)がやはり評判であった。そういえば、「魚のある静物」「農民の婚礼」、「青い花瓶の花束」、「朝食図」(de Heem166069年)「楽譜、書物のある静物」(Bartolomeo Bettera17世紀後半)などは、このときにも出会っているはずなのだが。

 

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2007年11月27日 (火)

連休前、フェルメールとオランダ風俗画展

六本木交差点にて

連れ合いは午後遅めに水道橋に所用があるといい、天気のよさも手伝って、フェルメールを見に行こうか、ということになった。六本木の国立新美術館は黒川紀章設計という、その外観や使い勝手はどんなものだろう。「フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展」の混雑が予想されるので早めに家を出た。久しぶりの六本木、というより麻布や表参道あたりまでは来ているものの、この六本木交差点に立つのは何十年ぶりか。たしかに角のアマンドは健在だ。その店を背に交差点から少し進んだところに「国立新美術館近道」とある。飲食店や古いマンションの間に「六本木7丁目プロジェクト」なる再開発のビル工事が続く。路地を抜けると、まず「政策研究大学院大学」の看板、右手が、目当ての国立新美術館である。

 

展覧会、ちょっとその前に

 かつては、東京大学生産技術研究所・物性研究所があったところと聞いている。前者は、駒場キャンパスに、後者は柏キャンパスに移転しているはずだ。文部省がらみの国有地なので政策研究大学院と新美術館に転用したことになる。それにしても、この大学院大学、大田弘子が教授を務めていたことでも知られる大学、埼玉大学に設置されてスタートした大学がいつの間にか、こんなところに移転していたのだ。設置が取沙汰されて、目的がいま一つ分からなかったし、そして、現在何をやっているのかも分かりにくい。かつての中教審大学、筑波大学の大学院版にも思えたのだ。官・産・学に政治が一体となった、短期集中・実務重視、学問の国際化・多様化に備え、社会人・外国人歓迎の研究・教育機関というのが「看板」らしい。だが、国費を投じて新設した意味は何ほどなのか。既存の大学で十分機能は果たせたのではないか。御用学者や審議会メンバーの養成所や待合室にならなければよいが。

 一方、国立新美術館にも、開館までの紆余曲折があるらしいのだ。当初の「ナショナル・ギャラリー」構想は後退して、収蔵品は持たない、学芸員はわずか、貸し展覧会会場という、ハコモノに近いコンセプトになった。たしかに、都美術館のどの企画展に出かけてみても、団体公募展などがびっしりという状況だったから、こうした貸し会場も必要だったには違いない。ハードの後追いにはなるが、ソフトを考え、変えていくのは利用者の当事者意識がカギになるのだろう。

 

フェルメールと「風俗画」

オランダには出かけたことはないが、ベルギーの美術館で出会ったフランドル絵画やルーブル、ウィーンの美術館でのフェルメールに思いを馳せながら、会場に入る。入り口の混雑をひとまず通り抜けると、「牛乳を注ぐ女」の遠近法、光線、絵の具の下まで細部にわたって分析したコーナーがしばらく続いて、ようやく本体が遠くの壁に見える第2室に入った。絵が浮き立つ、かなり強い照明に意表を衝かれたが、「ゆっくり見たい」コースと「遠くから眺めるだけでよい」コースに分かれているのにも驚いた。混雑緩和の便法なのだろうけれど、少々味気ない思いで通り過ぎる。たしかに「本邦初公開」なのかもしれないが、鑑賞者にとって、科学的な解説もコース分けも少し「やりすぎ」で、押し付けがましい感じもする。フェルメールは、この一点のみなのだが、展示の大部分は、展覧会の表題のように、宗教画でもない、歴史画でもない、静物画でもない、室内で働く女性を丹念に、精密に、描き続けた「風俗画」であった。窓からの日差しに微妙な翳を落とす、女使用人たちの服の大きな襟のしわ、大鍋の底のへこみ、籠の少し歪んだ網目、そこここに登場する幼子や犬、猫にも思わず近寄りたくなる親しみを覚える。少なくともここに集められた絵には、酔っ払っている男や女に言い寄る男などが登場するが、働いている男にはお目にかかれなかった。男は外で働き、女はもっぱら家事にいそしむという分業が確立していたのだろう。一方では、ヤン・ステーンの描く乱雑で放埓な室内や家族たちや眠り込んでしまった主婦や女使用人の姿もしばしば描かれているのには、興味を抱かせられる。17世紀の半ば、独立新興国となったオランダの一面への風刺や警告になっているのだと思う。また、「女の仕事」という連作版画は、当時の働く女の姿が克明に描かれているが、カタログの解説によれば、作者は、当時では珍しく女性だったということで、いっそう印象深いものとなった。

時代は一挙にくだって、19世紀の風俗画の中で、ひときわ私の目を引いたのは、そこだけにやわらかい日差しが届いているような、窓辺で読書をする少女を描いた「アムステルダムの孤児院の少女」であった。ニコラス・ファン・デル・ヴァーイという名の画家であった。覚えておこう。

 

全面パソコン検索の図書館へ

 東京駅近くでの昼食後、連れ合いとは別れて、国立国会図書館に出かけた、議事堂裏の銀杏並木も、図書館へと渡る交差点の日当たりのいい数本だけが見事に黄葉していた。ここ国会図書館のなかの様変わりは、出かけるたびに目を見張る。あの膨大なカードボックスと冊子目録が後退して久しいが、本館も新館も入ったところのホールは、検索用のパソコンの列が何重にも連なる。つい先日は、判例を調べに行ったが、冊子の判例集を見ることなく、画面からの操作で必要なコピーが取れるようになっていた。自宅でのネット検索やCDROMでの検索はやっていたものの、ここでは、さらに、その対象は広く、複写もかさんでしまった。今日は、雑誌記事のコピーを取りにきた。閲覧・複写時間の延長はありがたく、民間委託の効用であろう。かつては、昔の同僚に一寸の間、会うのもの楽しみであったし、館内で偶然出会ったりする後輩職員もいたが、今年の三月、一番若かった友人も定年退職してしまった。

はや、暮れかけて、議事堂も、周辺の高層ビルの壁いっぱいに明かりがともると、何枚もの光りの板に照らし出されるようだ。丸の内線の議事堂駅までの数分、いつも走るように通勤していたのは、三十年以上も前のことになる。

家に帰ってみれば、四隅に本が積まれているかのような居間、買いすぎた生協の野菜が転がりだしそうな台所、まるで「ヤン・ステーンの描く部屋」になりそうな・・・。

                          (20071127日記)

 

 

 

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