2012年10月14日 (日)

久しぶりの池袋で喫茶店を探す

 昨年は、大震災で中止になった池袋第五小学校のクラス会、先週の土曜日は久しぶりの池袋だった。午前中、地域の会議があったもので、昼食会になるというクラス会には参加できないが、近くの喫茶店で開く2次会には間に合いそうだ。2次会には何人ほど残るだろうか。先生も残ってくださるだろうか。喫茶店フラミンゴは、確か駅の西口を出てすぐの同級のOくんのビルにあったはずだが、いくら看板を見上げても、それらしい看板が見当たらない。喫茶店はOくん自身の経営だとのこと。少しあわてて、近くの商店のひとに尋ねると、「うーん、そこにあったんだけどね、なくなってね、もう一つのフラミンゴが、西口前の公園に面したビルにあるよ」とのこと。2店もあったけ、知らなかった。例のウェストパークまで行って見回しても、ない!事前に幹事よりもらっていたメールに、店の電話番号があったのでかけてみる。「とにかく西口の正面に戻ってください。西口を出てすぐ左手にみずほ銀行の隣に三井住友があります。そのビルの地下です」と聞きながら歩いていると、すぐに見つかった。駅の前、数メートル?!ではないか。入口は狭いが看板があった。地下2階というが、意外と広くて明るい、なつかしい様な雰囲気の店だった。クラス会のご一行はまだらしいので、しばらく待っていたが、ウェイターに聞いてみると「社長から頼まれて、ここにお席は用意してあります」とのこと。その端っこでしばらく店内を眺めていると、ほとんどが、中高年の女性たちのグループで、かなり混んでいる。軽い食事もとれるらしい。おしゃれという感じではないけれど、落ち着いておしゃべりできる雰囲気の、まさに“昭和の”喫茶店の趣だったのである。 
 
しばらくすると、先生を先頭に10人ほどが入っていらした。一通りの挨拶が済んで、もろもろの話に突入、数年ぶりとなった隣席のR子さんとは家族の話に。私の母は、50代半ばで病死したが、彼女のお母さんは40代で7人のお子さんを残して病死されたということを初めて知った。ついこの間までお姑さんの面倒を見ていらしたのは聞いていただけに驚くのだった。明治生まれの 昭和の母たちの生涯は、さまざまで、長生き自体がかなり難しかったのにちがいない、の思いにしんみりしてしまう。 
 
社長のOくんの家は、この池袋駅西口近くの地主さんで、いくつかのビルや土地のオーナーであり、そのビル内では、喫茶店のほか飲食店なども経営、陶芸教室まで運営されている。喫茶店の賑わいに景気を尋ねると、いい時はこんなものではなかったし、階段に空席待ちの行列ができ、11000人ということもあったそうだ。池袋は営業時間が長くないと商売にならず、従業員のやり繰りが大変だという。おまけに、この辺の店は中国人オーナーや経営者が多く、彼らに対しては役人も警察も実に消極的で、よほどのことがないと動かないという。話は、中国の反日デモや日中の労働法制にも及んだ。
 
この店も一度全席を禁煙にしたら、客足が落ちて、分煙にしたという。そういえば、店の入り口の看板には、「喫煙席あります」との張り紙もあった。高いガラスの仕切りがあって全体の3分の1くらいの席がおさまっていた。なお、昔あったフラミンゴは、「サン・フラミンゴ」が正式であって、数年前に閉店したのを聞いたことを思い出した。いまは「銀座ルノアール」になっていることが分かった。池袋の東西にあった「談話室滝沢」が撤退したのは、それよりも数年前2005年だったのではないか。喫茶店経営も難しい時代になって久しいということらしい。
 
幹事の一人のIくんが「佐倉のお宅のそばにマックスバリューがあるでしょう」というのでびっくり。数年前、住宅地開発中の一画に24時間営業のスーパーができるというので、それに接するわが町内からは、営業時間短縮の要請があって、自治会の担当として、何度か幕張のイオン本社まで足を運んだことがある(結局、24時間でオープンしながら、開業後半年を待たず営業時間は短縮された)。そのスーパーのなんの話しかと思えば、「マックスバリューのチラシ」の仕事をしているとのことだった。長いこと広告の仕事をされていたIくん、いまは退いているはずだが、そんな仕事にかかわっているらしい。中国で作成されたチラシを日本でチェックしているのだという。あのチラシは、折り込みのタイミングと価格が勝負らしいことは聞いたことがあるが、その作成が海外だというのもちょっと不思議な気がし、ここでも中国の話になった。「池袋に中華街を」をという話も聞いたことがあるが、外国人力士が多くなった相撲界を見るようなさびしさがあった。 幹事の皆さんにはいつも頭が下がる。色々な話が聞けて楽しかった。ありがとう。   
 
会場から10分もかからない実家に義姉を訪ね、亡兄に供えるつもりで、寄った花屋が休憩中。朝からの会議のこともあって、何やらすっかり疲れてしまったので、デパ地下でわずかな買い物をして帰途につくのだった。

 

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2009年10月 8日 (木)

サクマ式ドロップス工場の思い出~池袋第5小学校のクラス会へ

 先週末、このところ毎年開いている小学校のクラス会に数年ぶりに参加した。5・6年担任の乙黒久先生は、池袋三越の画廊で毎年個展を開いていらした。この春の個展にも伺ったが、三越の閉店に伴い、30年間続いた個展もしばらく休まれるという。

 幹事の熱心な探索に、58名中かなりの消息がわかってきた。この日は、19人が出席、私の隣席は、池袋西口一帯で手広く不動産業を展開しているOクンだった。西口一帯が大きく様変わりしたのは、昭和50年代の区画整理の頃からだろうか。私が生家を離れたのが1972年、平和通りの2丁目側への道路拡張工事はまだ始まっていなかった。Oクンの家は2丁目の地主さんの一人で、その家にも近かったサクマ式ドロップス工場の話になった。昭和20年代の小学校時代、工場近辺に漂うドロップの甘い香りは、実に魅力的であった。紙芝居のおじさんの景品はイモアメだったし、アイスキャンデーはサッカリンの時代だった。Oクンの話によれば、「サクマ式」の「式」が付くのと付かないのがあるということだったので、後で調べてみると、不覚にも、ネット上では結構盛り上がっている話だった。

池袋に今でも本社があるのは、佐久間製菓のサクマ式ドロップスで、明治40年代創業のドロップ工場は、太平洋戦争下、砂糖の払底で廃業した。敗戦後まもなく元の番頭さん(?)が操業を再開したといい、元社長親族も恵比寿で操業を開始し、もめたらしい。その後、池袋の方は佐久間製菓として「サクマ式ドロップス」(赤缶)を継承、恵比寿の方はサクマ製菓を継承、商品名は「サクマドロップ」(青缶)とすることに落着して今日に及んでいるらしい。映画「火垂るの墓」のラストシーンのドロップの缶は戦前の「サクマ式ドロップス」だったのだろう。 

ドロップ工場の斜め前にあった「やよいパン」のパンは「やわらかいだけであまりおいしくなかったね」といえば、「あそこは学校給食のパンを一時手広く納入していたけど、やめたのはいつだったかな」と借地人でもあった経営者のその後の消息は知らないそうだ。

その近くの原医院の先生には、私の亡母が退院した後の最期をみとってもらっている。「あそこは跡取りが医者にならなくてね」ということだった。また、1971年、心筋梗塞で倒れた父が一日だけ入院して亡くなった1丁目の長汐病院は、今では高齢者専門のような病院になっているということだ。長汐さんは、町の開業医として信頼も厚く、長汐夫人は穏やかな方で亡母とはずいぶん親しかった。家にテレビがなかった頃、母と二人で、今の天皇の結婚パレード中継を長汐さんのお宅で見せてもらったという懐かしい思い出もある。

親兄弟がすでにない私が、そんなこんなの話ができるのは小学校のクラス会ならではであろう。この日の会場のメトロポリタンホテルも、国鉄官舎の跡地で、隣接して鉄道学校もあった。東京芸術劇場は豊島師範の跡地だった。もう少し目白寄りになると記憶も曖昧になる。

2次会は、Oクン経営の居酒屋であった。その近くの地上にあった「純喫茶フラミンゴ」が先ごろから空き店舗になっていたので聞いてみると、昨年の夏に閉店したという。数年前、母校の池袋第5小学校は統合でその校名はなくなり、池袋小学校になってしまった。「談話室滝沢」が閉店、「芳林堂書店」も閉店、「20世紀も遠くなりにけり」の思いしきりであった。

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2008年4月19日 (土)

マイリスト「すてきなあなたへ」に54号を登載しました

(目次)
開発行政、こんなことあっていいの?ミニ開発、乱開発を認めた、そのツケは誰が
福祉コーナー*ショートステイの話
自治会費への寄付や募金の上乗せ、やっぱり無効!最高裁決定くだる
あなたの思い出の喫茶店は―昭和は遠くなりにけり(2)
菅沼正子の映画招待席*「つぐない」―小さな嘘に踏みにじられた人生―

~編集後記~
前回の福祉コーナーの記事については、お母様の介護をされている主婦の方から記事の執筆者にお尋ねがありました。少しでもお役に立てたのが、大きな励ましとなりました。今回は、映画招待席に写真を取り入れてみました。ペーパーの本誌はカラーでないのが残念です。
「自治会費への寄付や募金の上乗せ、無効」は、当ブログでも記事としましたが、昨年8月の大阪高裁判決時の記事とあわせて、アクセスが絶えることがありません。全国津々浦々の自治会が抱えていた問題だったのでしょう。

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2008年1月11日 (金)

マイリスト「すてきなあなたへ」に53号を登載しました

(目次)
「クリスマス&忘年会」参加して―ある特別養護老人ホームにて―
成田に近代文学館分館が完成、ご存知でしたか
菅沼正子の映画招待席25 潜水服は蝶の夢を見る―左目のまばたきだけで自伝を書き上げたすごい人―
あなたの思い出の喫茶店は―昭和は遠くなりにけり(1)

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2007年12月30日 (日)

喫茶店の思い出はめぐる~その閉店の軌跡

銀座「ルノアール」からコピー機が消えた
 12月半ば、短歌の小さな集まりの会場は、銀座6丁目ルノアールのマイ・ルームだった。歌集の批評会だったので、A4一枚のメモを用意し、出席者の数を確かめてから店内でコピーを取るつもりだった。一階に降りてコピー機を探すが、「なくなりました。近くにコンビニがあります」とのこと。

ルノアールは、「喫茶室」の冠称がつき、ゆったりとしずかに話せる雰囲気の店で、ビジネスマンにも好まれ、店内にはコピー機が設置されているのが特色だったのに!知らない間に様変わりしていたのである。

「談話室滝沢」の閉店

 様変わりといえば、せんだって、池袋の実家に近い、池袋東口の「談話室滝沢」を探したのだが見つからないことがあった。「滝沢」は20053月、なんと全店閉店していたことをつい最近知った。池袋店と新宿店は、銀座の花椿通り「椿屋珈琲店」の経営になっているという。銀座の「椿屋珈琲店」には、買い物帰りに、一度連れ合いと寄ったことがあるが、格調高い、落ち着いた空間ではあったのだが、池袋も新宿もまだ新しくなってからは訪ねるチャンスがない。新宿の「滝沢」は、1970年代、まだ知り合ったばかりの連れ合いと入ったことがある。当時の店内には、琴の音が流れ、足元の流水と飛び石が印象的だったことなどが思い出される。「滝沢」の店内はあくまで明るく、ウェイターやウェイトレスはアルバイトでなく、全員が社員で徹底した接客教育がなされているという評判だった。いまやスタバやドトールに押されてしまったのだろうか。当時は、うっかり知らない店に入ると、暗い照明の、仕切りの高い「同伴喫茶」なる店が結構多かったのである。

 

大学歌人会と「カスミ」「大都会」
 大学の最寄り駅だった茗荷谷は、たしかに学生街ではあったのだが、安保闘争の真っ盛りで、正直なところ、近くの喫茶店の名前など思い出せない。むしろ、ラーメンや天丼、いなりずしの店などに出入りしていたことの方が記憶に残っている。当時の地下鉄丸の内線は池袋-赤坂見附間しか走っておらず、全線使えた定期券で、そのパスを使って集会や国会への請願デモに時々出かけたものである。ノンポリ学生の日常でもあった。

 現在の茗荷谷は、結構おしゃれな、マンションが建ちならぶ街となって、1978年閉学の母校のおもかげはない。大方は公園になり、残された古い校舎には文科省関係団体がおさまっているようだった。

 大学では、新聞部と短歌会に入ってみたが、新聞部の部室では、相当の猛者たちがケンケンガクガクの議論をしていることが多く、訳がわからないまま、23回、出版社に広告取りに行かせられたくらいで、退会してしまった。短歌だけは今でも続けているというわけだ。当時は、都内の大学横断の大学歌人会というのがあったが、もはや風前の灯で、参加者といえば私たちの大学の故林安一さん、野地安伯さん、津田正義さんや国学院の故岸上大作さん、高瀬隆和さんの名前を思い起こす程度だ。歌会には、渋谷道玄坂の「カスミ」を何度か使っていた。その「カスミ」も、暖簾わけの「CASUMI」(元住吉)のホームページによれば、1983年には閉店したという。高田馬場の「大都会」の一室を借り切って、国学院のOBだった故阿部正路さんら歌集合同出版記念会「明日を展く会」があったことはかすかに覚えているが、最後列に私もおさまっている記念写真が最近出てきた。

「田中屋」か「ボストン」か―目白界隈のスイーツは
 大学卒業後、学習院大学に2年間勤めていたことがある。目白界隈の喫茶店といえば「田中屋」なのだが、当時、清水幾太郎教授が贔屓にされていた「ボストン」のケーキにはファンも多かった。昼食は、輔仁会館の食堂で済ますことが多かったが、教授たちはよく「華天園」の出前も利用していた。私が勤務していた共同研究室に面した窓からは大学本部棟と1960年竣工のピラミッド校舎が見下ろせ、前川国男設計のその中央教室は、当時の斬新な発想が話題を呼び、映画やテレビドラマなどにもよく登場していた。そのピラミッド校舎が、キャンパス再開発のため、2008年には解体されてしまい、来月1月には「懐かしの<ピラ校>にさよならを!」の見学会が開かれるというではないか。私の在職中に学習院は85周年を迎え、天皇・皇后を迎えて記念行事が行われ、職員として後列に並んだことも思い出す。なお、上記の喫茶店「田中屋」はすでに10年も前に閉店し、同じ場所のビルの地下1階に、今は「目白田中屋」という洋酒専門店になっていることが分かった。品揃えでも一目おかれている店とのことだ。


 当時、ポトナム短歌会や「閃」短歌会の<若手>会員だった私は、歌会や上京会員の歓迎歌会の会場係をやらせられ、下落合に近い「きかく寿司」をよく使ったものだったが、健在なのだろうか。

 

「社会党文化会館」か「憲政記念館」か
 2年の私学勤めの後、私は永田町の国立国会図書館の職員となった。界隈の喫茶店といえば、館内のそれであり、少し足を伸ばすとしても、社会党文化会館、憲政記念館、都道府県会館などのレストランであった。その名も硬い施設だったから、珈琲の味もいま一つだった。さらに昼休みのジョギングコースであった内堀通りには、国立劇場「あぜくら」、東条会館、半蔵門会館などがあり、さらに足をのばすと赤坂プリンス、フェアモントなどがあるが、ホテルでのお茶は、快適ではあるものの、当時の若者には手が届かない値段だった。 私たちの職場は、当時800人以上の職員が働いていたが、職員同士の結婚が多く、少し遠出した店に、意外なカップルを発見して噂になることも多かった。

 

 今では、1年に数回、調べもので通う国会図書館は、出かけるたびに工事中の模様替えがあって不便していたが、このところようやく落ち着いた。昔の目録室からカードボックスや冊子の蔵書目録は姿を消し、検索・閲覧申し込みはすべて機械化され、判例のコピーなども閲覧しながらクリック一つで複写が取れるようになったことはありがたいのだが、それ以上を望むのはたんなる感傷なのだろうか。新館の喫茶室はときどき利用するが、緑茶と和菓子のセットもある。

 

1970年代、神楽坂の「軽い心」、神田の「小鍛冶」
 ポトナム短歌会の月例歌会が、神楽坂赤城神社脇の東京都教育会館で開かれていた頃は、坂下に大きなネオンサインを掲げた「軽い心」という名前の店で、二次会になることが多かった。歌会での論議が足りない気分で、三々五々神楽坂を下ってきたところに、「軽い心」はあった。私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)の批評会もこの教育会館だった。批評会には日常的にはあまり寄り付かなかったが阿部静枝先生も出席してくださり、豊島区役所のエレベーターで会った、まだ健在だった頃の私の父に「光子は大丈夫でしょうか」と声を掛けられたという話しをされて、不覚にも涙したことを覚えている。『冬の手紙』を手がけてくれた増田文子さんと選歌や編集の打合せを何度かしたのが、神田北口の「小鍛冶」であった。ショートケーキで有名だった、その「小鍛冶」も、ごく最近閉店したらしいのだ。


名古屋へ、そして千葉
 
結婚した当時、夫の職場は名古屋だったので、仕事を続けたかった私は名古屋に通う一年間を経て、転職・転居が適った。それからは、育児をしながらの短大図書館勤務。幸いにも歩いて5分の職住近接、娘が6年間通った保育園は自宅の斜め前、5年間通った学童保育所は自転車で45分ほどだった。喫茶店でお茶を飲むようなゆとりも必要もなかったような暮らしだった。名古屋で思い出すことがある。短大前の通りに、イート・インのパン屋が開店した。その開店祝いのいくつかの花かごから、店のオープンと同時に待ち構えた主婦たちによって、あっという間に抜き取られてしまうのを目撃した。街で、むき出しの小さな花束を持っている主婦たちに出遭ったら、どこかで美容院が開店したか、レストランがオープンしたか、そんなところである。名古屋の、この慣習には驚いた。何しろ、花かごをビニールでしっかり覆ったり、店内の奥まったところに置いてない限り、たちまち生花は抜き取られてもよいことになっているらしいのだ。名古屋は「お値打ち」かどうかが、判断の基準になるという実利的な風潮の強い土地でもあって、おかげで、保育所・学童保育所がかなり進んでいて、私も勤め続けることが出来たとは思って、感謝するところも大きいのだが。

以降、1988年千葉県に転居した以降も、喫茶店とは縁のない日常となっていた。それでも、自治会で何度か利用した、同じ町内の喫茶店「ホームズ」は二十年以上営業していたのだが、昨年、オーナーの奥様が亡くなって閉店し、カメラマンでもあったご主人が先月引っ越された由、自治会の回覧板で知ったのだった。ケーキは奥様が焼いていたし、1日わずかしか焼かなかった食パンやバタロールはパン屋さんのパンとは一味違っていたのにとさびしいことだった。

 

知らない街のカフェで

近頃では、鑑賞の後の美術館のカフェ、日帰りの小さな旅の地で見つけた喫茶店でのひとときが、私にはうれしい。それに、この10年間、ときどき出かけた海外での、歩き疲れた後のカフェでの珈琲は格別であった。ウィーンのSILK、プラハのカフェ・ミレーナやアヴィニヨンの美術館前の小さなカフェ、ブルージュの旧市街広場のにぎやかなカフェ、もう一度出かけてみたい・・・。

 

「滝沢」閉店で始まった、喫茶店の思い出めぐりでは、思いがけず、多くの店が、すでに前世紀に閉店の憂き目を見ていることがわかった。ささやかな青春の軌跡が消し去られるような寂しさである。喫茶店―経済成長の申し子でもあったのだろうか。景気が下降線をたどり、生活様式の変容、文化の多様化、コミュニケィションの閉塞などと重なり、いわば零細の個性的な喫茶店は消え、チェーンやフランチャイズ方式の店のみが生き残れる時代になってしまったのだろうか。(20071229日記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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