「CIAと緒方竹虎」(20世紀メディア研究所第51回特別研究会)は驚きの連続でした
上記研究会(2009年7月25日午後2時~5時、 早稲田大学)の案内が送信されてきたときから、今回はぜひ参加したいと思った。
― プログラム ――――――
1.序論:情報公開、OSSからCIAへ 山本武利(早大)
2.総論:CIAファイルの中での緒方ファイル 加藤哲郎(一橋大)
3.各論:
①緒方竹虎とCIAとの接触―新聞・インテリジェンス経験者として
山本
②CIAアレン・ダレスの52年末訪日とその帰結 加藤
③緒方竹虎のCIA関係急接近―コードネーム、ポカポンの55年」誕生を
読み解く 吉田則昭(立教大)
④急死直前のCIAの緒方関係評価報告 山本
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会場にあふれる熱気
司会も務める吉田則昭さんは、10年以上前、私が社会人入学した折、指導教授の門奈直樹ゼミの博士課程にいらした若い「先輩」だった。久しぶりにお話できるかも知れないという期待もあった。研究会の前日、朝日新聞(7月24日)に「日本版CIA構想 緒方竹虎50年代 米・公文書」という記事が出た。あすの研究会の予告を兼ねた記事と思いきやいっさいその記述がないばかりか、「1950年代、内閣官房長官などを務めた緒方竹虎氏が、米中央情報局(CIA)の関係者と頻繁に接触していたことが、米国公文書館で公開されたCIAの秘密文書で明らかになった。・・・」と始まる内容であった。「オガタタケトラ」は子供だった私には、朝日新聞出身の保守党にしては清潔感のある政治家のように映っていた。太平洋戦争末期の小磯、東久邇内閣で情報局総裁を務めたことはずっと後で知ったことだ。
会場のドアを開けると、思いもかけない盛況で、受付の机が部屋の隅に追いやられ、空席もない。受付の椅子に座っていた女性に勧められるままに座って汗を拭う。資料も足りないらしい。すでに山本報告は始まっていて、CIA成立経過と今回2007年1月のアメリカ国立公文書館・CIAのナチス・日本の戦犯情報公開法による公開個人ファイル調査の経緯を話されていた。山本先生はGHQによる日本占領期検閲関係資料のプランゲ文庫の整備・研究の第1人者で、数年前、目録整備完成記念のシンポジウム(於国立国会図書館)での話を聞いたことがある。物静かながら、占領期の日本研究の基盤を築いた方だ。
「暗号解読」でわかってくること(総論・各論②)
次の加藤先生は、時々のぞくホームページでは、精力的な活動の一端が見えていたが、想像通りの元気さで、これまで公開された公文書の日本人個人ファイル(第1次788人中4人、今回約1100人中29人)の中で「緒方ファイル」の突出した量に着目、文書の解読、解明を進めてきたという。冒頭、「きのうの朝日の記事は、当会は一切関知していないし、驚いている。緒方と縁の深い朝日が牽制をしたのかもしれない」という主旨のことを発言され、「今日の参加者には新聞関係者が多く、暗号解読を専門とする方々もいる」とのことで、否がおうにも期待は高まるのだった。もっとも、文書ファイルには人によって当たり外れがあって、たとえば昭和天皇HIROH ITOのファイルにはたいした情報しかなかった?らしい。文書には、空欄(伏字)や暗号が多いものの、緒方ファイル、正力松太郎ファイルなど文書点数が多いファイルを読み進める中で、PO =日本、POGO=日本政府、 POCAPON =緒方竹虎、PODAM=正力松太郎、KUBARK=CIA 、ODOYOKE=アメリカ政府、などと徐々に解読してきたという。
CIAが緒方に接近してきた必然性を、加藤先生は、①日本版CIA内閣調査室拡充構想を持っていた②保守合同と日ソ交渉を含め、首相ポストが目前だった③緒方を「反ソ・反鳩山」と見立てて首相にしたかった、にあったとするが、緒方の1956年1月急死により結果的に挫折した、とする。ただ文書の上で、CIAが緒方に接触を繰り返していた事実は確かだが、たとえば暗号化されていたことなど緒方自身は知らず、自覚的に接触したかどうかは検証を要し、文書内容が交友関係、噂話、操作情報などが入り混じっているので、その扱い方には十分な注意が必要だとしている。緒方がCIAへの協力者だったというよりCIAの「ターゲット」になっていた、という表現の方が正確かもしれないと。
しかし、たとえば、今回、1952年12月のクリスマスから年末にかけて、CIA(当時、副長官、ジョン・ダレスの実弟)アレン・ダレスが来日していて、マーフィー駐日大使、吉田茂首相、緒方副首相、村井順内閣調査室長、岡崎勝男外務大臣らとの会見報告書が発見された。その前後の報告文書の内容からも、その来日・会見の目的を明らかにしてゆく。これまでも、松本清張、吉原公一郎、春名幹男らが触れているように、ダレスの私的な旅のついでとか、(CIAの謀略が失敗におわったという)鹿地亘事件の善後策のため、あるいはアメリカの政権交代引き継ぎためとかの来日ではなく、この会見以降、新情報機関ないし日本版CIA構想が協議されたという事実がかなり明確になった、とする。
CIAの緒方への期待と失望(各論①・④)
山本先生による各論①では、CIAは緒方の「新聞人としての朝日への影響力」、「インテリジェンス専門家としての志向」、吉田茂をつぐ次期首相候補としても期待を寄せたが、頭山満(緒方夫妻の仲人を務めた)、玄洋会、黒龍会など右翼的な背景も指摘されるのに加え、鳩山一郎を支持する読売新聞の正力松太郎の優位は不動であり、緒方が正力のTV権益独占への妨害したこと、緒方の新しい情報機関構想が戦前の情報局を想起させ、新聞界・世論が反対したことなどが重なり、その影響力を喪失していく様子を文書で追跡する。各論④では、1956年1月28日の急死によりはからずも最晩年となるCIAの緒方関連の工作報告文書によって緒方の評価を探る。緒方の地位が喪失しても従来通りの関係を持続する意味を、CIAが望むなら、「将来的展開がどうであれ、この明らかに友情あふれる重要人物がCIAとの関係を友好的かつ援助的な関係として持続するだろう」という文書(1956年1月11日)を紹介する。さらに1月24日の文書では、三木武吉の言として、首相としては緒方が最もふさわしいが、鳩山を継ぐのは岸信介・池田勇人、河野一郎三者の1955年末の会合で、岸とすることに決定した、と報告している。その文書には、緒方の金づくりがあまりにも紳士的すぎて、資金がない、との文面もある、と。また、CIAから緒方への資金提供があったか否かを示す文書は見出していないが、手土産として緒方が好きなウィスキーのスコッチやタバコが供されたことははっきりしているらしい。
コードネーム・POCAPON誕生を読み解く(各論③)
吉田さんの報告によれば、緒方のコードネームが初めて登場するのは1955年5月29日の文書からだという。敗戦後からの「緒方年表」が資料として配布されたので、他の報告の際にも役に立った。1955年は日本の政治史においても重要なターニングポイントであったことがわかる。緒方は1952年第25回総選挙で自由党から衆議院議員当選、第4次吉田内閣の官房長官(兼国務大臣)、第5次吉田内閣副総理(兼国務大臣)を務め、1954年末、自由党の分裂を経て、自由党総裁は吉田より緒方へ、鳩山内閣が成立する。1955年から緒方は保守合同を精力的に遊説して回る。11月自由民主党結成、総裁代行委員に就任。この時期のCIAとの連続的な「接触記録」には、次期首相人事の行方についてのやりとりも含まれている。また、それより数か月前の母校70周年記念祝典出席のための[福岡行きの同行記]報告文書の吉田さん訳も配布された。時間がなくて十分な説明が省かれたけれども、帰宅後読んでみると、興味深い内容が盛りだくさんであった。接触者は自分の身分について、緒方の三男四十郎の留学中の親友ということにしようという打ち合わせまでもしている。さらに、私が関心をもったのは、占領初期における占領軍による検閲について民生局のフーバー大佐と語っていることだった。
かなり身勝手な参加記となってしまった。今朝の毎日新聞では、一面・二面で「彼を首相に、日本は米国の利害で動かせる・緒方竹虎を通じCIA政治工作・50年代米文書分析」という、かなり詳しい記事になっていた(7月26日)。しばらくあちこちで話題になるに違いない。
http://mainichi.jp/select/today/news/20090726k0000m00117000c.html
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