2018年9月19日 (水)

「没後50年藤田嗣治展」へ出かけました~「戦争画」とは何だったのか(2)

戦争画への評価

藤田の戦争画は、もちろん体験に基づくものでもなく、写実でもなく、「想像」と多様な「技法」の産物であったことはどの評者も認めるところだが、その思想と鑑賞者の受け取り方については、大きく意見が分かれるところである。

その典型的な一つは、今回の藤田展の公式ウェブサイトに岸恵子が寄せている、つぎのような考え方であろう。小難しい言い回しはなく、実に簡明で分かりやすいのは確かだ。

「アッツ島玉砕」を戦争賛歌とし、藤田嗣治さんを去らしめた戦後日本を私は悲しいと思う。戦争悪を描いた傑作なのに。晩年の藤田さんに私は寂しい翳を見た。瞳の奥には希代の才能が生んだ作品群、特に巨大壁画「秋田の行事」の躍動する煌めきも感じた。欧州画壇の寵児ではあっても、日本国籍を離脱するのは辛かったのではないかと、私は想像する。」(岸惠子/女優)

  また、今回の藤田展の監修者でもあり、「作戦記録画」全14点を収録した『藤田嗣治画集』全三巻(小学館 2014年)をまとめた林洋子は、少し前のインタビューで次のように語っている(「『藤田嗣治画集』刊行 作戦記録画全点を初収録」『毎日新聞』夕刊 2014414日)。

「(作戦記録画が)ようやく、『歴史化』が可能になってきたと思います。藤田の作戦記録画をめぐる批判は『森を見て木を見ていない』という印象がありました。一点一点、違うことを冷静に見ていただきたい」「(この10年)絵画技法においては、もっとも研究が進んだ画家になりました」

前述の『朝日新聞』における、いくつかの藤田展紹介記事では、1920年代の「乳白色の裸婦」や敗戦後日本を去り、アメリカを経て、1950年から晩年までのフランスでの作品に焦点が当てられているもので、「作戦記録画」について触れたものは、②「激動の生 絵筆と歩む」のつぎの一カ所だけであった。会場のパネルの「年譜」を見ても、前述のように、やや不明点があるものの簡単な記述であった。

「軍部の要請で、戦意高揚を図るための<作戦記録画>を盛んに描くようになる。終戦後、戦中の国策協力を糾弾される中、49年春に日本を去った。それから二度と祖国に戻ることはなかった」 

藤田の戦争画をめぐっては、古くから、技法に優れ、描法の開拓を評価するが、芸術としての内容、内面的な深まりが見えない、表層的だとかいう指摘や「狂気」にのめり込んだとか、「狂気」を突き抜けたとか、鎮魂の宗教画だとか、さまざまな評価があるようだ。絵画を含め文芸において、技法はあくまでも手段であって、第一義的には、作品の主題、作者の思想の表出が問われるべきではないか。あの凄惨な戦争画が「鎮魂」とは言い難いのではないかと思っている。とくに、当時、藤田自身が新聞紙上で、つぎのようにも述べているところを見るとなおさらである(「戦争と絵画」『東京日日新聞』 1942122日)。

「かかる大戦争のときに現われものは現われ、自滅するものは自滅し、真に実力あり誠心誠意の人のみが活躍出来る。画家としてこの光栄ある時代にめぐりあった私は、しみじみ有難いと思う。(中略)今日の戦時美術はその技巧に於いて、諸種の材料に於いて正銘の日本美術であることは我々の喜びである」

 藤田は、陸軍省や海軍省から戦地へ派遣されるものの戦場に向かうわけではなく、絵具や画材は十分に与えられ、戦局の情報も知り得た制作環境のなかで、描きたいものを描く達成感が得られたのかもしれない。しかし、作品の多くが、現実に、戦意高揚、聖戦貫徹という役割を果たし、国民をミスリードしているという自覚は、なかったのだろうか。自分の戦争画が多くの鑑賞者を動員することを目の当たりにし、国家権力や大衆に迎合することによって、得られたものは、日本での名声であり、海外生活が長かった藤田にしては、「祖国愛」、「日本」への帰属意識だったのかもしれない。

そして、藤田は、敗戦後のGHQへの対応によって、多くの疑念を抱かせた。しかし、戦争画を描いたのは藤田ばかりではなかったのだが、日本の美術界は、画家たちと国家権力、戦時下の美術という基本的な問題を個人の「戦争責任」へと矮小化させ、曖昧なまま戦後を歩み始めたのであった。もちろん画家一人一人の戦争責任は、各人が、その後、戦時下の作品とどう向き合い、処理したのか、以後どんな作品を残したのか、どんな発言をし、どんな生き方をしたのかによって、問われなければならないと思っている。 

戦争画に対するマス・メディアの動向、過去そして現在

先の藤田研究の第一人者と言える林洋子は、作品一点一点の差異を冷静に見る必要を説き、「森を見て木を見ていない」という傾向を嘆くが、私には、藤田作品のテーマの推移、技法の変遷、その時代の言動というものをトータルに振り返る必要があるのではないかと思っている。むしろ「木を見て、森を見ない」、技法偏重の論評が多くなっていることがみてとれる。それが、大きな流れとなって「戦争画」評価の着地点をいささか緩慢に誤らせてしまっているような気がする。

さらに、敗戦後、73年を経て、戦争体験者、戦時下の暮しを知らない人々、戦後生まれがすでに83%を占めるに至り、美術史上、戦争画への評価は、大きく変わりつつあるのか、それとも、変わり得ない何かがあるのか。門外漢ながら、昨今の動きが、私には、とても気になっている。

今回の藤田展の主催者として、朝日新聞社とNHKが並んでいる。戦時下の朝日新聞社は、「戦争画」の展覧会を幾度となく主催している。この二つの事実は決して無関係なこととは思われないのだ。

<朝日新聞社主催の戦争画展>

19385月 東京朝日新聞創刊50周年戦争美術展(於東京府美術館、朝日新聞社主催)

19397月 第1回聖戦美術展(於東京府美術館、朝日新聞社・陸軍美術協会主催)

19417月 第2回聖戦美術展(於上野日本美術協会、朝日新聞社・陸軍美術協会主催)

19419月 第1回航空美術展(於日本橋高島屋、朝日新聞社・大日本航空美術協会主催)

19429月 第2回航空美術展(於日本橋高島屋、朝日新聞社・大日本航空美術協会・大日本飛行協会主催)

194212月 第1回大東亜戦争美術展(於東京府美術館、朝日新聞社主催)

19439月 第2回航空美術展(於日本橋高島屋、朝日新聞社・大日本航空美術協会・大日本飛行協会主催)

194312月 第2回大東亜戦争美術展(於東京府美術館、朝日新聞社主催)

19443月  陸軍美術展(於東京都美術館、朝日新聞社・陸軍美術協会主催)

19445 月 第8回海洋美術展(於東京都美術館、朝日新聞社・大日本海洋美術協会・海洋協会主催)

19454月 戦争記録画展(於東京都美術館、朝日新聞社・陸軍美術協会・日本美術報国会主催)

「戦争/美術 関連年表19361953」(長門佐季編)『戦争/美術19401950モダニズムの連鎖と変容(展覧会図録)』( 於神奈川県立美術館葉山 1913年)より作成 

なお、このほかにも、さまざまな戦争画展は開催されているが、突出しているのは朝日新聞社で、他の東京日日新聞、読売新聞などとの激しい競争と陸軍・海軍同士の確執も加わっての結果らしい(河田明久「作戦記録画をめぐる思惑のあれこれ」『戦争/美術19401950モダニズムの連鎖と変容(展覧会図録)』2013年)。さらに言えば、敗戦直後、藤田の戦争責任を糾弾する宮田重雄「美術家の節操」を掲載したのも『朝日新聞』(19451014日)であったのである。

 また、NHKには、戦争画周辺をテーマにした番組や藤田をテーマにした番組も多い。最近だけでも、私自身がみた番組を中心に、ネットでも確認できたものを加えるが、もちろん網羅性はないので、もっとあるのかもしれない。

<最近のNHK藤田嗣治関係番組>(  )内は出演者
1999923日「空白の自伝・藤田嗣治」NHKスペシャル(藤田君代、夏堀全弘)
2003127日「さまよえる戦争画~従軍画家の遺族たちの証言」NHKハイビジョンスペシャル(藤田嗣治、小磯良平、宮本三郎らの作品紹介と遺族たちと小川原脩の証言)
2006416日「藤田嗣治~ベールを脱いだ伝説の画家」NHK教育テレビ新日曜美術館(立花隆)
2012711日「極上美の饗宴 究極の戦争画 藤田嗣治」NHKBS(笹木繁雄、菊畑茂久馬、司修、アッツ島生存者、サイパン島住民生存者、東京国立近代美術館美術課長蔵屋美香)
2012826日「藤田嗣治―玉砕の戦争画」NHK日曜美術館(笹木繁雄、菊畑茂久馬、司修、野見山暁治)
20151217日「英雄たちの選択・アッツ島玉砕の真実」NHKBSプレミアム201898日「特集・よみがえる藤田嗣治―天才画家の素顔」NHK総合
201899日「知られざる藤田嗣治―天才画家の遺言」NHK日曜美術館

 こうしてみるとこの20年間に、再放送を含めると、20本近い関連番組が流れていることになる。NHKは、一人の画家についての取材を続け、繰り返し放送していたことになる。1999年「空白の自伝・藤田嗣治」、ハイビジョンスペシャル「画家藤田嗣治の二十世紀」(未見、未確認)の制作を担当した近藤文人は、『藤田嗣治<異邦人>の生涯』(講談社 2002年、2008年文庫化)という本まで著している。近藤は、先行研究に加えて、当時未刊だった夏堀全弘「藤田嗣治論」(『藤田嗣治芸術試論』三好企画 2004年公刊)、藤田の日記などの未公開資料を読み込み、藤田君代夫人(19112009)へのインタビューを重ねた上で、書き進めている。藤田自身の日記や夫人のインタビューに拠るところが多い部分は、どうしても身内の証言だけに、客観性、信ぴょう性に欠ける部分が出てくるだろうし、当時は存命だった夫人への配慮がある執筆部分も散見できる。その後の関連番組は、そのタイトルからも推測できるように、藤田のさまざまな側面から、その作品や生涯にアプローチしていることがわかる。戦争画への言及は、そのゲストの選択から見ても分かる通り、むしろ薄まってゆき、というより、再評価への道筋をつけている。この間、2006年には、NHKは「パリを魅了した異邦人 生誕120年藤田嗣治展」を東京国立近代美術館、日本経済新聞社と主催している。グローバルに、華やかな活躍をした<伝説>の画家としての部分がクローズアップされ、今回の没後50年の藤田展に繋がる軌跡をたどることができる。もはや「戦争責任」はそれとなくスルーしてもよいというムードさえ漂わせる論評も多くなったのではないか。上記に見るような、朝日新聞やNHKの番組で繰り返されるメッセージが、その手助けをしてはいないか、いささか恐ろしくなってくるのである。しかも、『朝日新聞』、NHKに限らないのだ。 

 網羅性はないが、私の「戦争と美術」のスクラップブックを繰り始めて、気が付いたことがある。2006年の生誕120年の藤田展に関して、北野輝「藤田嗣二と戦争責任」上下(『赤旗』2006912日・13日)において、この藤田展が藤田芸術の全貌に触れる機会になったことは歓迎するが、「藤田の再評価」「手放しの賛美」や戦争画の「意味を欠いた迫真的描写」の凄惨嗜好が玉砕美化への同調となり、現実の人間の命や死への無関心を助長しないかという問いかけがなされていた。それが、同じ『赤旗』における、今回の藤田展評は、「没後50年藤田嗣治展 多面的な画作の軌跡 漂泊の個人主義的コスモポリタン」(武居利史、201894日)と題して、作品の成り立ち、創意工夫に着目する。作戦記録画の出品は二点のみで「代わりに展示で充実するのは、戦後米国経由で渡仏して20年間の仕事だ」とした上で、「藤田の生き方は、国粋主義的ナショナリストというより、個人主義的コスモポリタンに近い。美術のグローバル化を先取りした画家といえよう」と締めくくる。 二人の執筆者は、ともに敗戦後設立された「日本美術会」に属し、美術の自立、美術界の民主化活動に励んでいる人たちである。執筆者の世代の相違なのか、その基調の変化にいささか驚いたが、共産党の昨今の動向からいえば、不思議はない。しかし、追悼50年の「大回顧展」なのだから、その作品を、生涯を、トータルに検証すべきではなかったのか。

こうした傾向については、何も美術界の傾向に限らず、他の文芸の世界でも、私が、その端っこに身を置く短歌の世界でも、同様なことが言える。いまさら「戦争責任」を持ち出すことは、まるで野暮なことのように、戦時下に活躍した著名歌人たち、自らの師匠筋にあたる歌人たちが、時代や時局に寄り添うことには寛容なのである。ということは、そうした歌人たち自身の国家や社会とのかかわりにおいても、抵抗というよりは、少しでも心地よい場所を探っていくことにもつながっているのではないか、と思うようになった。

なお、藤田に関わる資料をひっくり返しているなかで、ある写真集というか、訪問記を思い出した。それは、毎日新聞のカメラマンであった阿部徹雄の1952年のマティス ヴラマンクそしてフジタ』(阿部力編刊 2016年)であった。これは、ご子息がまとめ、解説も書いている。1952年の三人の画家の訪問記であった。精選された写真は、アトリエだったり、家族との団らんであったり、これまで、あまり見たことがなく、その日常が興味深く思えた。とくに、モンパルナスの藤田の住居兼アトリエ(カンパニュ・プルミエール通り23)、1952年と言えば日本を離れて間もない藤田65歳のころである。19521011日・14日・20日の三回訪問している。その取材ノートの部分には、藤田夫妻の日常と実に率直な感想が記されていた。日常の買い物などは藤田がこなしていることや夫人は「家の中ばかりいて、外の空気に触れない人らしい。藤田さんという人は本当に奥さん運のない人だ。気の毒な位芸術の面がそのことでスポイルされているように見えた。この人の芸術的センスに良妻を与えたいものだ」とのメモもある。 

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写真集の表紙(右)と裏表紙。チラシより

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チラシの裏

 

 藤田の没後、君代夫人については、藤田作品の公表・著作権、伝記、取材などをめぐる各方面とのトラブルが伝えられているが、当時も、その一端をのぞかせていたようで、かなり起伏の激しいことが伺われた。藤田夫妻のツーショット写真もあるが、「19521014日談笑する藤田さんと君代夫人。君代夫人は化粧をして、機嫌よい姿を見せてくれた。」との添え書きもある。

なお、カメラマンの阿部徹雄(1914‐2007)が、私がポトナム短歌会で師事した阿部静枝の夫阿部温知の甥にあたる人であることを知ったのは、ごく最近である。それというのも、静枝の遠縁にあたる仙台の方とブログを通じて知り合い、ご教示いただいた。この写真集も、彼女を通じて頂戴したものである。

なお、阿部徹雄の作品の一部は、毎日新聞社のフォト・バンクの「阿部徹雄コレクション」(戦時下を含め約900)に収められている。

https://photobank.mainichi.co.jp/php/KK_search.php

 

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2018年8月 9日 (木)

「共闘」という幻想、から抜け出すために

これほどのマイナス要因がつぎつぎと暴かれる安倍政権、その弱者軽視政策、まるでアメリカ・ファーストであるかのような外交・防衛政策にあきれながらも、内閣支持率が劇的に下がることはない。この政府の犯罪的な行為やスキャンダルも、メディアは、たんなるスキャンダルとして、面白おかしく騒ぎたてるが、あくまでも一過性で、深く調査報道を試みることもなく、忘れ去ってしまったかのように、次のスキャンダルへと乗り換える。また、NHKのように、政治スキャンダルはそそくさと、国会報道は、与野党の争点を深めるのではなく常に<攻防>としかとらえず、災害やスポーツの専門チャンネルかと思うほどの時間を割いて、「政府広報」に徹するメディアもある。そして、政府は、不都合が生じれば、「大騒ぎすることもない」と、ひたすら嵐の過ぎるのを待って、いつまでも安泰なのである。もちろん、こうした政府にも無関心だったり、いや、このままの政権維持でもかまわないで、と深く考えなかったりする国民も、合わせれば三分の2くらいになることも確かなのだ。

 

では、この一強に抗議する市民たちは、「アベ政治を許さない」「9条を守れ」「原発再稼働反対」などと、いつも仲間内では盛り上がるが、その輪を広げることができない。後退する運動を「継続は力なり」とみずからを慰める。近年は、多弱の「共闘」が叫ばれ、その内実は、政党や会派間の攻防・調整に精力が注がれ、なかなか実を結ばない。というのも、みずからの政党・会派の議員当選、一票でも支持票をのばすことが目標になってしまうからだろう。特定の複数政党、政党色が濃いいくつかの「市民団体」などが主導する集会に参加してみると、「共闘」を目指す議員たちが入れ替わり、連帯の挨拶や報告はするけれども、自分の番が終わると、集会の成り行きを見守るわけでもなく、参加者の声に耳を傾けることもなく会場を後にする場合が多い。大きな集会だと壇上から各党代表がつないだ手を振り上げ、その後のデモ行進の先頭には立つが、いつの間にか姿を消していたりする。

私は、特定の政党に属したり、後援会というものにも入ったりしたことがない。詳細は分からないのだが、共闘を目指した集会などに参加して思うのは、参加した市民の熱気に反して、招かれて講演をしたり、スピーチをしたりする著名な「文化人」「学者」「ジャーナリスト」たちが、どうして、こうもいつも同じような顔ぶれで、同じような内容の話になるのだろう、ということなのだ。さまざまな市民団体が、競うように、そうした「著名人」を招いて、人集めに腐心しているかのような印象を受ける。現に、新しい情報も提案もなく、新聞・テレビ情報を繰り返し、アジテーションに終わることが多く、「またか」の徒労感がつきまとう。あるいは、かつて保守政党の「重鎮」が安倍政権批判をしたり、かつて憲法改正論を主張していた学者が、改憲批判をしたりしたからと言って、過去の言動との整合性が問われないままに、すぐに飛びついて講演依頼をしたり、執筆させたりして重用する。それだけならまだしも、少しでも、疑問を呈したり、批判したりする人物に反論するわけではなく、無視したり、排除したりすることが当たり前になっている。

それに、首長選挙で、共闘のもとに立てた統一候補者や当選者のスキャンダルが浮上したり、公約を守らなくなったりしたとき、共闘を組んだ政党や組織の対応が、あまりにも無責任なのも、納得できないことの一つなのだ。たとえば、まだ記憶に新しい、都知事選での鳥越候補、米山前新潟県知事、三反田鹿児島県知事などなど・・・。統一候補選択にあたって、知名度や人気が優先され、政治的信条の確認などがおろそかになっていたのではないか、など裏切られた思いがする。

「共闘」の成果が上がらないのは、既成の党や会派の方針からすこしでも外れると、そうした意見や活動を無視したり、排除したりするからではないか、との思いにもいたる。市民の一人一人の思いが、塊になって動き出し、政党を動かすというのが、市民運動の本来の姿にも思えるからである。 

私がつねづね思うのは、そもそも、主体的な疑問や怒りがあってこそ、なんとかしなくてはという思いにかられ、抗議や抵抗の形が決まってくるのではないかと。「なんか少しおかしくない?」という素朴な疑問が「ことの始まり」になるのが、私の場合だ。たしかに、活字や映像の情報がきっかけになることもある。後で、自分で、少し丹念に、新聞を読んでみたり、ネットで調べてみたりしていると、さらに、知りたくなるし、疑問も増えたりする。自分取り込んだ情報や知識、そして機会があって、たとえば、市民運動の現場に足を運び、当事者との交流で得た体験は、身に刻まれる。自分からも発信したくなるし、行動の起点にもなることが多い。 

著名人を追いかけたり、ひたすら署名活動に奔走したりする人たちには、どうしてもついていけない自分がいる。せめて、野次馬根性を失わず、体力だけは維持して、ということだろうか。

 

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2018年6月 2日 (土)

この諦めと、閉塞感ただよう中で~森友・加計問題と報道萎縮について、記者たちは~

 きのう、61日、永田町の議員会館会議室で、小規模ながら熱気にあふれたやり取りが展開されていた。近年の報道統制や萎縮に危機を肌で感じている7人の研究者・弁護士たちが、第一線の大手メデイアやソーシャルメディアの記者たちに訴えていた。世の中の新聞・テレビは、日大アメフト部の悪質タックル問題と米朝首脳会談の「駆け引き」の報道とに大幅な紙面と時間を割いていた。その合間に、森友関係の財務省の文書改竄・隠ぺい問題、加計学園からの"虚偽"報告問題、申し訳程度に開会中の国会での質疑が足早に報道される。531日には、何と、森友問題関係の公文書偽造、虚偽記載、背任などで告訴されていた財務省の38人の不起訴決定が大阪地検から公表されていた。佐川前理財局長はじめ、あれだけ大量の公文書改ざん、隠ぺいが明らかになったにも関わらずである。そして、このドサクサにに、働き方が選べると標榜し、高プロ申告制による残業代ゼロにしての、経営者が喜ぶだけの「働き方改革」法案を強行採決しようとしている。大方の国民の無力感、脱力感は、計り知れない。これがまさに、いまの政府の思うツボかもしれない。

 

 そんな状況の中でも、研究者・弁護士によるアピールは「権力監視報道に立ち戻り、報道現場の萎縮報道克服を求めます」であった。そのきっかけというのは、329日の参院総務委員会であきらかになったNHK報道局上層部の強圧的な指示であり、NHK大阪放送局で、森友問題を精力的に取材、いくつかのスクープもとった敏腕記者を意に添わず記者職を外して閑職へ異動させるという露骨な動きが明らかになったからである。

 

 出席したのは、以下の7名だった。 

梓沢和幸(弁護士) 

 小林 緑(国立音楽大学名誉教授/元NHK経営委員) 

  澤藤統一郎(弁護士) 

  杉浦ひとみ(弁護士) 

  瀬地山角(東京大学大教授) 

醍醐 聰(東京大学名誉教授/NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ共同   代表)
  服部孝章(立教大学名誉教授)

 集まったメディア関係者1823名、スタッフ2名を含み、総勢32名となった。 

 前記、NHK上層部の報道現場、ニュース番組の編集責任者への具体的な指示というのは「森友問題をトップで伝えるな、どうしても伝える時は三分半以内、昭恵さんの映像を使うな、前川前文部次官の講演問題と連続して伝えるな」というものであった。大阪放送局の件も合わせて、50数名の研究者・弁護士の賛同者名簿を添付してNHK会長に申し入れをしようとするものだった。 

1 受信料で支えられる公共放送機関としてのNHKは、権力から独立して自主自律の放送を貫くなか、権力を監視し、国民の知る権利に応える放送を続けているという視聴者の信頼を得ていることが大前提です。NHKが日々の報道でも人事においても、こうした前提を自ら壊すような言動は視聴者への背信行為であり、厳に戒めること

2. NHK報道局の上層部は取材・番組制作の現場の職員を萎縮させるような人事権を含む権限の濫用を斥け、事柄の核心に迫ろうとする意欲的な取材、番組制作への職員のモチベーションを支え、高めるような役割と職責を果たすべきこと

3. 以上の趣旨と関連して、目下、伝えられているNHK大阪放送局の記者を異動させる人事につき、不当で不合理なおそれも強く、中止を含め根本的に再検討すること

 当日の質疑は、記者自身に関わる問題だけに、具体的かつ真剣であるように思えた。大阪放送局の人事に関しては、とくに、最初に報道した「日刊ゲンダイ」のIさんはじめ、「東京」のMさん、「朝日」の記者さんは、かなり突っ込んだ質問を投げかけていたが、記事にしてくれるのかどうか・・・。 

会場の手伝いとして参加した私だが、個人的なことを言えば、出席者の服部先生には、社会人入学した修士課程で指導を受け、瀬地山先生は、非常勤でいらしていたジェンダー論を聴講していたので、久しぶりにお目にかかれる機会となった。

 

 

 

 

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2018年5月 1日 (火)

「山口メンバー」と「佐川(氏)」~NHKの「総合的判断」とは何か

「佐川が、サガワが・・・」と連発する麻生大臣だったが

 やや旧聞に属するが、麻生財務大臣が、記者会見や国会答弁で「佐川、サガワ」と連発していた3月の中旬頃であった。NHKのテレビのニュースを見ていると、財務大臣の会見や答弁を伝える録画で「サガワ」という音声が流れるたびに、テロップには必ず、「佐川氏」と表示されるのだ。ふつう、テロップの文字は、発言等の要約が示されるのだが、上記の表示が繰り返されるのである。テロップは、難聴者への伝達の手段としても重要な役割を担うものと思われるが、上記の「氏」という付記表示は、どういうことなのだろう。まさに「呼び捨て」が問題になっている麻生発言に、わざわざ敬称を付記するのは、事実を伝えていないことにならないのではないかと、疑問に思い、NHKの「ふれあいセンター」に電話してみた。相変わらず「そういうご意見があったことは担当に伝えておきます」との紋切型である。「なぜ、音声にないことまで、テロップに付記するのか、事実を曲げて伝えていることにならないか、そこまでする理由を聞きたい」といえば、電話口は上司という人の声に代わった。ここでも「担当者の総合的な判断によるものです」という答えにならない返答なのである。「総合的判断」とは、理由ではなく、まさに「NHKの勝手でしょ」という「恣意性」に過ぎない。 

 

 「麻生大臣に呼び捨てに呼んでもらいたい、呼び捨ては信頼の証でもある」とかいう副大臣まで現れたり、323日には、野党議員からの質問主意書に閣議において「麻生大臣が財務省の職員の名前を敬称を付けずに呼ぶことは通常であり、佐川氏の在任中も敬称を付けずに呼んでいたことから、前長官の退任から間もない時期にそれを継続した」までで「呼び捨ては問題ない」という答弁書を決定したりした。しかし、麻生大臣の「呼び捨て」は、多くの批判を浴び、前役職などを付けるようになった、というのが顛末であった。「呼び捨て」は、偉そうな上司の謂いで、身内の者に敬称を付けないというのと少し違い、麻生大臣の場合は、苛立ちと憎まれ口をたたいて質問をかわす魂胆と品性自体が見え隠れする。公の発言では役職名などを付した方が適切であったとは思う。

 

 しかし、NHKがそれを補う必然性はない。 NHK報道における「敬称付記」は、あまり問題視されなかったが、これは何のための配慮であったのか、誰のための配慮であったのかを考えたとき、NHKの報道姿勢が問われる問題であったと思っている。麻生大臣の佐川前国税庁長官に一方的に責任を転嫁するような発言を和らげたかったのか、前国税庁長官だった人への敬意のつもりだったのか、麻生大臣の乱暴な言葉遣いを少しでも庇うためだったのか・・・。いずれにしても、NHKの「政府広報」の一端をのぞかせる一件であったかと思う。

「山口メンバー」の「メンバー」ってなに?

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   報道に登場する人の呼び方について、もう一件、NHKに抗議したいことが生じた。425日、NHKTV「シブ5時」で、TOKIOの山口達也が自宅での女子高校生への強制わいせつ容疑で書類送検されたという速報が流れて、その後、民放が追っての報道だったらしい。私は、NHKTV「ニュース7」で知った。その時、ネット上でも話題になった「TOKIO山口達也メンバー」という呼び方が気になった。その後のニュースや翌26日午後の記者会見後のwebニュースでも、NHKは、「TOKIO山口達也メンバー」という呼び方を使い続けていた。我が家で購読の全国紙でも同様の呼び方をするので不思議に思ったのだ。普通だったら、「TOKIOのメンバーの山口達也さん」か、読売新聞のように「TOKIOのメンバー山口達也容疑者」と呼ばれるところではないか。「山口達也メンバー」ということは、「メンバー」がまるで、「さん」や「氏」などと並ぶ敬称の一つかのように使い方である。「用語」にうるさいNHKらしからぬ使い方なので、 その理由を426日の夜「ふれあいセンター」に尋ねてみた。「どうしておかしな使い方をするのか」には「総合的判断」の結果だという。「おかしい、というご意見は担当者に伝えます」で終わった。さらに、ニュースでは、あらためて、記者会見の様子を長々報道したり、街の声を拾ったりして、報道した挙句、「メンバー」などという不自然な敬称を使用するのは止めてほしい、まるで、所属事務所の広報のような報道でしかないのは公共放送としてあるべき姿ではない、とも伝えた。

 

  さらに、NHKには抗議したいことがあった。というのは、こうした速報が、書類送検後、被害者との示談成立後、タイミングよくNHKからなされたことだった。番組で共演した女子高校生ということから、NHKの「Rの法則」であるということは、民放の情報番組では語られていたし、NHKも「Rの法則」の番組ホームページを閉鎖した上に、次のような画面が登場するのである。


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Rの法則」は現在放送をお休みしています。
 
今後の予定などにつきましては、
 
このホームページなどであらためてお伝えします。
 
【番組からのお願い】
 
今、番組出演者のSNSアカウントやブログなどに対して、
 
個人を著しく中傷するような心無い書き込みが数多く投稿されています。
 
こうした投稿は出演者たちを深く傷つけ、悲しませるものです。
 
絶対にやめていただくよう強くお願いいたします。
 
Rの法則」制作スタッフ一同

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 私は、「メンバー」使用の件とは別に、以下の質問をしたのだった。

・今回の事件の被害者は、NHKの番組で、山口容疑者と共演した女子高校生だということが報じられているが、事実 
―答えられない

・事実ではないということか
―答えられない

・何故答えられないのか 
―出演者が特定してしまうことがあり、人権問題になるから

 

 「人権擁護問題については、慎重な対応が必要とされているのはご存知でしょう」とも開きなおられた。しかし、「答えられない」という対応こそ、上記の質問内容を認めたことになりはしまいか。現実には、そうした報道がなされている以上、NHKは説明責任があるのではないか。「特定する・しない」以前の問題として、自局の番組に問題を抱えた出演者がいたら、その管理が必要ではなかったのか。少なくとも、飲酒が原因で入院している病院からスタジオ入りするような山口容疑者を出演させ続けていた責任が、NHKにはあるはずである。そんな主旨のことも伝えたが、一切答えはなかった。青少年を出演させ、青少年を対象とする教育テレビの「教養」番組を標榜するならば、そうした慎重さも必要であったろう。

 こうしたNHKの対応は、福田財務省事務次官のセクハラ被害者のテレビ朝日の社員が上司に相談したとき、「被害者が特定するので、報道することを拒んだ」という、テレ朝の対応にも似ている。「人権擁護」の名のもとに、なにかが隠蔽されているのではないか、公共放送たるNHKがタレントの所属事務所にひれ伏したのか、共同で画策したのかの疑問も残る。 

  起訴猶予処分、4人のメンバーの記者会見などのレールに乗って、さらなる画策は続く模様ではある。

<5月2日付記> NHKは、「午後なま」で、2日午後2時からの4人の記者会見の中継を20分以上続けた。「ニュース7」でも、いい大人たちがそろいもそろって、事務所に言い含められたように、無理やり連帯責任を強調するかのように、30秒以上の深い礼の謝罪とか、山口本人が土下座をして辞表を出したとか、なぜアルコール依存症との診断書を出してくれなかっただの、20数年来の仲間を見捨てられないだの、見守りたいだの、向き合うべきことに向き合うだの・・・相変わらずで、ニュースでは「街の声」を拾うなど、所属事務所の思惑通りの報道をしていた。NHKの責任に一点たりとも触れることはなかった。一件落着、あとは様子見でなのだろう。

<5月3日> 今日のフジテレビ「特ダネ」で、番組のMCが、NHKの対応、責任について言及していた。他のコメンテーターの一人が「Rの法則」の楽屋が、「合コン状態」?だったとも。4月27日のフジテレビ「バイキング」のMCも盛んにNHKのことに言及していたのを今日知った。私は番組自体を見たことはなかったが、過去の番組紹介によると、ショウもない若者迎合らしい?テーマが並んでいて、若年層の視聴率狙いが露骨だが、ほんとうはどうだったのかとも。昨日今日の他の番組でNHKに触れることはあったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2018年2月 8日 (木)

最高裁は「受信料が義務」とは言ってはいない~あやまった広報とNHKニュースの偏向ぶりが見ていられない

 昨年の126日、最高裁は、テレビを持った時点でNHKとの受信契約を義務付けている放送法が合憲との判決を出した。しかし、それが即、受信料の支払い義務を生じる、ということにはならない点に、注意しなければならない。判決は、NHKが国民の知る権利応える放送をしていることが前提になっているのである。受信料制度は「国民の知る権利を実質的に充足する、合理的な仕組み」であるかどうかが問われたことになる。

衆参の本会議中継や予算委員会の中継を見た後で、7時のニュースを見ると、実に見事に安倍首相へのエールのストーリーが出来上がっているのである。都合の悪いテーマの質疑は最初からすべてスルー、どうしても伝えなければならないと思う質疑では、首相や閣僚の、どうでもいいような読み上げ答弁のみを“しっかりと”と取り上げて、“自由自在に”編集する。野党議員の質問部分はカットして、何を質問しているかがわからいときもあるし、アナウンサーのナレーションで質問の要旨のみが読み上げられる形をとるのが常套手段だ。

  さらに安倍首相の議会内外の行動に密着している記者もいて、要所、要所では必ず登場し、これまた、“ていねい”に解説がほどこされる。いま政府は、世論操作に必死で、NHKに限らず、メディア戦略に力を入れ、安倍首相は、しきりにメディアの幹部やタレントやアスリート、学者などを取り込むために「会食」などを続けている。

第一に、政治のニュースそのものが、努めて短縮されるのだ。国会中継も視聴者の関心の度合いなどと言いながら恣意的である。このところの雪の気象情報などは、末尾の「気象情報」以外にも別枠を取る。北朝鮮のミサイル情報ほか、日本の危機を煽るような動向も丁寧な報道がなされる。相撲協会のスキャンダル、オリンピック、スター選手の動向などに長い時間を割く。火山噴火災害など大きな災害事故はもちろんだが、地方の災害・事件・事故もこと細かく報道して、30分の大半を占めることもある。加えて、緊急とは言えない、先端医療、IT・ロボット、宇宙、自然の生態などのテーマを好んでニュース項目として取り上げ、それが自局の特集番組の番宣の役割を果たすこともある。

そして、受信料を取って流す番組かと思うような番組もある。タレントやお笑い芸人を使った旅番組、まるでファッションを誇示するような女優を登場させる語学番組、民放で人気を得たタレントを起用する医学や科学番組だったりすると、もうそれだけで、見る気もしなくなる。もし、そんなことで、視聴率が取れると思っているのだったら、大きな間違いである。TV視聴者の大半は、いまや高齢者で、私の周辺にも、芸人が並んで、ガハハと笑いころげたり、安倍首相の顔がクローズアップされたりすると、見たくもないと、テレビを切る、という人が多い。また同時に、「いい番組もあるんだよね」という人もいるのだが、それだからと言って、帳消しにはならないのである。いわゆる、歴史の検証番組やドキュメンタリーで、丹念な“独自取材”を強調するものだとわかっても、現代の課題に直接切り込むスタンスが見られない。NHK幹部の高給取りの実態や番組の捏造、職員や記者、アナウンサーらの不祥事が後を絶たず、自局職員の過労死についての報道が遅れたことなどを知ると、まずもって受信料は払いたくないという思いに駆られるのである。

ふれあいセンターなどに集まる視聴者の声を自らは「録音を取ります」などとけん制しながら、その声を、どう反映させているのか、反映するつもりがないのか、知らせようとしないのが、≪皆さまのNHK≫の視聴者対応なのである。しかし、新聞の投書欄には、NHKの受信料についての意見と提案が多く寄せられている。たまたま、1月~2月にかけて東京新聞「発言」欄には、いくつかの投書が続いた。

123日「NHK映らぬ テレビ開発を」(男性無職 67歳)「勝手に送り付けられた商品に対して、受け取りを拒否する権利が私たちにはあるはずです。NHKが写らないテレビがあればいいと思います。特定の周波は受信できないテレビを作ることは可能なはず」

23日「督促より番組の充実を」(主婦 42歳):「放送内容の捏造や度重なる不祥事、私事的中立を欠く番組構成など、公共放送とは程遠いNHKの在り方に疑問」を抱き受信料支払い手続きをしていない。「NHKはストーカーまがいの執拗な督促をを続けるのではなく、視聴者に進んで契約をしたいと思わせる番組作りにまい進するか、(受信量未払いだと見られない)スクランブル(暗号)放送への切り替えを進めてほしい」

23日「NHK受信は選択希望制に」(パート女性 69歳):「ニュースやドラマは他局で十分、若者にこびているとしか思えない番組や出演者が楽しんでいるとしか思えないバラエティー番組が目につきます」「今の技術があれば、スクランブル(暗号)放送が可能なはずです。機器(テレビやスマホ)を購入したからと言って有料にするのではなく、NHKの受信は選択希望にすべきだと思います」

私も「公共放送の中立公正」、「公共性」を標榜するならば、他の水道・電気・ガス料金などと同様に、「見た分だけの料金を支払う」という受信料制度を取り入れるべきだと思っている。NHKは、これらの意見にどう応えるのか。

最高裁判決で「NHKの受信料が義務」となった、などという誤報に、惑わされてはならない。


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毎週火曜日のNHKの短歌番組の第4週目の「短歌de胸キュン」。若者をターゲットにした番組で、お笑い芸人とタレントをゲストに競詠させる番組で、出演者同士は実に楽しそうではある。上記写真の左下が選者の佐伯裕子、今年の4月からは栗木京子だそうだ。栗木は再度の登場か。一年に数回見る程度だが、歌人のお二人の奮闘がどこか痛々しいような・・・。2012年4月から始まっているが、同じころ始まったTBS系でのプレバト「俳句コーナー」の方が、娯楽に徹した感がある。この違いって何だろう。
他の3週は3人の選者が登場、それぞれゲストを迎えるが、どうも、そのゲストが選者の交友や好みが反映されているようなのだ。

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2018年1月24日 (水)

2018年、今年の歌会始、その行方は

  112日、平成時代の歌会始は、来年が最後となるが、それ以降の明仁上皇、美智子上皇后の作品はどうなるのだろうと、要らぬ心配もしながら、NHKの中継を見ていた。改元後、夫妻は歌会始に出席するのか、短歌は詠み続けられると思うが、発表の機会はあるのか、などなど・・・。岡井隆の選者就任の折の発言、たんなる「短歌コンクールの一種」との位置づけは、現実とは明らかに異なる性格、様相を呈している中で、天皇に「詠進」するという形式をとっている以上、上皇夫妻は、他の皇族と同じ扱いになるのかしら・・・。皇室行事には一切かかわらないことになるのか。それに、戦時を体験した者として、少しでも役立つのなら天皇にお仕えしたい、と言っていた、御用掛の岡井隆はどうするのかしら・・・。 

 

それはともかく、今年の歌会始の映像を見ていて、一番に目立ったのは、皇族方の出席者の少なさであった。男性では、皇太子と秋篠宮の二人であった。これが皇室の現実である。一方、陪聴者は、いつになく男性が多いように思った。陪聴者の待合室は、かなり混み合っていて、男性優先になったのだろう。

「語」の作品群を読んでいて、もっとも気になったのは、皇后のつぎの一首だった。 

 

・語るなく重きを負ひし君が肩に早春の日差し静かにそそぐ 

 

 平成の時代に、天皇はいくたびか、やや政治的事象に踏み込んだ「おことば」を発信することもあった。「生前退位」表明もその一つといえるが、時の政府に“苦い”思いをさせてきた経緯は確かだと思う。もっと語りたいこともあったろうに、黙して裡に背負ったまま、天皇は、語らなかったと、皇后は詠んだ。 

 

小学校入学以来、あたらしい憲法を当然のこととして過ごしてきた私などは、日本国憲法における象徴天皇制という前提が、不思議な存在であった。一人の人間を「象徴」とすること自体の曖昧性と非人間性、日本国憲法の根幹である民主主義と平等の精神との矛盾を擁する制度が、論議されなければならないはずだったのに、七〇余年が過ぎてしまったという思いがある。 

ふつうの歌詠みならば、「自注自解」の機会もあるが、皇后が自らの短歌を自解したり、自注したりするとどうなるのか。どういうわけか、二〇〇四年、平成一六年を期して、宮内庁のホームページには、各年の歌会始「御製御歌及び詠進歌」一覧に加えて皇族方すべての短歌に解説が付せられるようになった。その執筆者は不明で、宮内庁の担当者なのか、御用掛なのか、選者の一人なのか・・・。いわば、かつての「謹解」と呼ばれる作業でもある。大方のメディアの歌会始報道記事において、これらの「謹解」がそのまま使用がされているところから、メディア向けといってもいいのかもしれない。宮内庁記者クラブの記者たちは、短歌の読解力不足と思われたのか、面倒なので宮内庁に解説を依頼したのか、は不明だが、「官製」「お墨付き」の解説や鑑賞がなされるなどという文芸はあり得ないだろう。作者の手を離れた一首は、本来、読み手の自由・自在があってこそ、文学となり得るのではないか、と思うのだが。

 

今年の皇后の短歌についてはつぎのような解説がなされている。  

「天皇陛下は、長い年月、ひたすら象徴としてのあるべき姿を求めて歩まれ、そのご重責を、多くを語られることなく、静かに果たしていらっしゃいました。この御歌は、そのような陛下のこれまでの歩みをお思いになりつつ、早春の穏やかな日差しの中にいらっしゃる陛下をお見上げになった折のことをお詠みになっていらっしゃいます。」

 

「重き」には、昭和天皇の昭和前期の戦争責任や占領期の沖縄への対応という負の遺産、平成期の平和からの後退、数々の災害に見舞われた日本の歩みを読み取ることもできよう。

 

なお、今年の「選歌」入選者の男女比や年齢構成をみると、ここ数年の動きに大きな変化はみられない。ちなみに平成年間の応募者数、入選者10人の男女比を一覧してみた。応募者は、2万人前後を推移するが、今世紀初めの数年は、2.5万人前後を推移し、2005年の2.8万をピークに下降する。応募者の男女比は発表されていない。なお、新聞報道によれば、入選者の年齢構成は、10代を12名入れるのが恒例となり、20代~50代が少なく、60代以上が圧倒的に多い。  

こうした状況の中で、来年、改元される。「歌会始」どうなっていくのか。短歌愛好者たちの中で、応募者が「歌会始」にどんなところに魅力を感じているのか、皇室や天皇がどれほどの求心力を持つのかにかかっているのではないかと思う。「皇室」の権威付けが若干強化されようとも、「皇室」への親和性が補完されようとも、いまさら、国民の関心や求心力が増幅されるとは、考えにくい。改元後、「歌会始」が劇的に活況を呈するということはまずない、と思われる。  

しかし、歌壇の中での「歌会始」ワールドの在りようは、持続するだろう。歌壇やいわゆるネット歌壇なるものとの境界線を微妙に維持しつつ、選者というステイタスは手放しがたいものとなり、第二の岡野弘彦、岡井隆を生むだろう。そんな予兆の中で、当ブログの「201811日の歌人たち」(111日)の繰り返しになるが、「来年に迫った生前退位を前に、様々な形での<平成回顧>報道は激しさを増すだろう。そして、天皇夫妻の短歌の登場の場も増えるだろう。いま、<生前退位>という日本近代史初の体験」を目前に、右翼ならずとも、保守もリベラルも、何の躊躇もなく<尊王>や<親天皇>を口にするようになってきた。  

すでに、『東京新聞』(夕)では、「歌会始」選者である永田和宏による「象徴のうた 平成という時代」の連載が始まった(2018115日、122日~)。歌会始の選者今野寿美が新聞『赤旗』の選者にもなったことは、このブログでも言及したが、今年の1月には交代し、務めたのは2年間であった。

 

 

<参考> 

歌会始応募者数一覧(1991~2018) 

http://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/eishinkasu.html 

有効応募歌数は、これより数百首下回る。

*当初の記事において皇后の作品「負ひ」の部分を「背負ひ」としておりました。訂正し、お詫びします。

 

 

 

 

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2017年11月11日 (土)

11月9日NHK「ニュース7」、会計検査院院長インタビュー放映の意味(2)~NHK「ふれあいセンター」の対応~

 きのうの続きだが、NHKふれあいセンターとのやり取りでは、おかしなことがいっぱいあって、また怒りがこみあげてくる。録音をとっているはずなのに、オペレーターたちは、記録に余念がなく?こちらの話に全くの無言、無反応で、電話が切れたのではないかと「聞こえていまずか」と確認することも何度かあった。電話の受け手は、「ハイ」くらいの返事をしたらどうなのか。とくに、代わって出てくる「上司」というのが、態度が悪い。今回の場合もそうなのだが、視聴者の話をさえぎって、NHKの代弁者、防波堤の如くしゃべるのだ。正直言って、その「上司」の個人的な意見など聞きたくない。

 今回のやり取りで、こんなこともあった。私が、NHKが前川元文科省事務次官のインタビューを放映していないことと今回の会計検査院長のインタビュー報道には、共通する問題があると、言いかけると、「え?今度は前川さんの話?、別件ですね」というから、「最後まで聞いてください」と。両者に共通するのは、あまりにも恣意的で、政府への偏向が著しい報道姿勢ではないかと、つい力が入ると、「前川さんの件、報道局に伝えるのか」、気のない返事、「伝えるも伝えないも、あなたが選択することではなく、すべて伝えるのが仕事でしょ」といえば、「私は混乱してしまった」とのこと。なんとも情けない「上司」ではあった。

「ふれあいセンター」なのだから、できれば担当者とのやりとりが望ましい。もしそれが無理なら、担当者からの意見や声を、後刻でもいい、視聴者に伝えるシステムが必要なのではないか。さらに、すぐにでもできる提案をしたい。「ふれあいセンター」の仕事を、NHKの下請けのアルバイトに丸投げをするのでなく、担当でなくてもいい、NHKの現場担当者を含めた職員自らがローテーションで、視聴者のナマの声を聞くチャンスを設けるべきだと思う。「みなさまのNHK」をいうならば、何よりも「ふれあい」の一歩であり、職員の「研修」にもなるのではないか。「ふれあいセンター」が、むしろ、NHK職員や現場担当者(これもかなり下請けが多いらしいが)と視聴者とのバリアになっている現実を十分承知しながら、視聴者の意見を聞くふりをしているのが実態なのだろう。

各地で開かれる「経営者と語る会」も、もっと回数を増やし、各地でトラブルになる参加者の人数制限など撤廃すべきである。受信料から、高額給料を払っている経営委員であり、大会議室くらい難なく用意できるだろうに。

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2017年11月10日 (金)

1月9日NHK「ニュース7」、会計検査院院長インタビュー放映の意味~NHKの政府追従報道はどこまで続く~

 1022日、総選挙前夜の党首追跡報道が、議会の議席数に比例する時間をもって編集するという悪弊とともに、その与党分が「よいしょ」一辺倒であったと複数の方からメールをいただいた。私は見ていなかった。

 トランプ来日報道も日米首脳親密強調の色濃いものであった。私が見たニュースで、少し驚いた場面があった。115日「ニュース7」で、トランプ大統領の移動の車列を沿道で迎えて「岐阜からこのためにだけに来たので、(見られて?)うれしい」という若い男性が大写しされていた。こんなレアケースがニュースとして流される内容なのだろうかと大きな疑問が残った。

 そして昨日119日の「ニュース7」で、森友問題の調査報告が迫ったとして、河戸会計検査院長との単独インタビューを放送した。調査が詰めの段階に入り、調査に必要な重要文書が欠けているのは問題であり、国有財産の値引きに関しては種々の要件により値引きはあり得る、という主旨であった。

 これって、調査報告書が公表される前の、院長みずからのNHKへのリーク?なのか。それにしても、公表前に、会計検査院組織内、議会、国民に予断を与えてしまう内容ではないか。いや、森友問題における文書不備が問題だといい、値引きもあり得るということは、すでに調査結果の方向性を明示したにも等しい。

 私は、今朝、NHKふれあいセンターに電話をした。河戸院長のインタビュー報道は、第三者機関であるはずの会計検査院が、報告書公表前に、報告内容を予断させるような発言を放送したのは、メディアとしてのルール違反があり、視聴者をミスリードする可能性があるのではないか。どうして、この時期に報道したのか、と質問すると、「そういうご意見があったことを担当に伝えます」という、いつもの応答である。さらに、こうした放送をしたことについてNHKの意図を確認したいといえば、「質問には答えないことになっています」とこれまた、いつもの返答なのである。「同じような質問が多く来ている場合、これまで、NHKとしての回答をしてもらったことは何度でもありますよ」といえば、上司のN.Jと名乗る男性に代わった。 

私: 先ほどの方から、質問の内容を聞いているか。

NHK:聞いている。いま、WEB上でその記事を読んでいるが、何が問題なのか。

私: 報告書公表前に、その内容をNHKにもらしたことにならないか。

NHK:内容は、一般論であって、文書が欠けているのが問題、値引きする場合もあり得るという、当たり前の発言であって、これまでも報道されていることで、まったく問題はない。

私: 一般論ではない。はっきりと森友問題の調査報告書についての質問に答えている。この時期に、院長のこのような発言を報道することは、メデイアとしてのルール違反であり、視聴者をミスリードしていることになる。

NHK :ルール違反とか、ミスリードというのはおかしい。反論したい。

私:私はあなたの反論を聞きたいのではなく、NHKの意図を確認したい。あなたたちは、NHKの責任者でもないし、意見を伝えるだけといつも言っている。あなたの意見ではなく、NHKの見解を知りたい。



 「ふれあいセンター」、「ふれあい」など言いながら、いつも一方通行で「担当者に伝えます」というばかりのシステムが問題なのだ。受信料はとことん集金するが、あとの意見対応がないに等しい。質問などが殺到した場合は、統一見解、回答があってしかるべきではないか。即答でなくともよい、NHKとしての見解が知りたい。

  ついでながら、NHKは、前川元文科省事務次官に、他局に先んじて、真っ先に、インタビュー取材しながら、とうとうそのインタビューを放映することはなかった。そして今回まるでスクープかのように、会計検査院長の独自インタビューを、この時期を選んで放映したのである。政府に都合の良い情報は率先して流すが、不都合な情報は流さない、という、これほど、露骨で、恣意的なNHKにつけるクスリはないのか。すぐに編集権を持ち出して、やることは政府広報ではやりきれない。


 
受信契約による受信料の支払いについて、126日には最高裁の判決が出る。司法の適切な判断を待ちたい。

 

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2017年6月10日 (土)

加計問題の行方、これでいいのか(1)(2)

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 今年のアジサイの花の色は、鮮やかなような・・・

 

加計問題の行方、これでいいのか

~はぐらかしの安倍首相答弁、文科省に責任を振る、二転三転の菅官房長官

答弁(1)

 肝心な時に国会中継をスルーするNHK 

NHKが中継する国会質疑を見ていると、ニュース番組では、なかなかわからないことも分かって来る。たとえば、65日の参院決算委員会での加計問題の質疑を見ていて、当方もいらだつことが多かったが、近頃の安倍首相も、かなりいらだっていることは明らかだった。答弁に窮する場面では、質問には答えず、聞かれてないことを延々としゃべる。ヤジが飛べば、「静かにしてくださいよ、人が誠実に話しているのに」「落ち着いて、落ち着いてくださいよ」「○○さん、ヤジはやめましょうよ」と名指しまでする。そのくせ、人の質問中には、自分の席からは、平気でヤジったり、指をさしたり、隣の麻生大臣とニヤニヤと私語を交わしたりする。首相たるもの、ヤジぐらいでオタオタするな。これほど、マナーも、教養も備えていない首相をいただいた不幸、しかし、歎いているばかりはいられない。

 第一、NHKが、この国会中継をするかしないかの基準は、随分と曖昧で恣意的なのである。問い合わせると、返ってくる答えは、国民の関心とNHKによる総合的判断の結果であるという。番組表に、中継表示がない場合、国会中継をするのか否かは、前日の夕刻までに判断するのだという。さらに、議事が延長した場合、中継を継続するか否かは、直前までその判断が伝えられない。これは、一昨年の安保関連法案の審議の時に知った。ことほど左様に、NHKは、国会中継に消極的である。国民の関心事より政府への配慮が顕著なのは明らかである。

 さらに、中継しても、午前中の分は12時のニュースでしか報道せず、7時や9時のニュースでは省略してしまう。また、まったく中継をしなかった場合は、ニュース番組内で伝えることは、めったにない。

 もっとも、以下の衆・参議院のインターネット中継のサイトでは、会議名をクリックすれば、開会中であれば、中継が見られるし、検索により録画も閲覧できる。(続く)

参議院インターネット中継

http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/index.php

衆議院インターネット中継

http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php

 

加計問題の行方、これでいいのか

~はぐらかしの安倍首相答弁、文科省に責任を振る、二転三転の菅官房長官答弁(2)

NHK報道の現実

68日のNHK「ニュース7」は、以下のように、国会のニュースは皆無であった。菅官房長官の記者会見も一切報道されなかった。

その「ニュース7」のニュース項目で振り返ってみよう。カッコ内の時間は、私が録画の時刻表示によって計った。合計28分となり、そのあとの気象情報に続く。

①福岡の母子3人殺人事件(610秒)+⑦続報(120秒)

FBIコミー前長官、議会に文書提出・トランプ大統領の捜査妨害(510秒)

③日本原子力開発機構大原研究所での被ばく事故(350秒)

④イギリスの総選挙(420秒)

⑤渋谷暴動事件、容疑者の45年の逃亡生活(210秒)

⑥ホンダの自動運転技術実用化へ(110秒)

⑧宮里藍 ⑨村田諒太 ⑩プロ野球速報(合わせて350秒)

 

このNHK報道の現実を見て、どう思われるだろうか。公共放送のニュース番組なのだろうか。もともと、NHKのニュースは、必要以上に、事件・事故、災害、スポーツに関する報道に時間を取り、この日は北朝鮮のミサイル打ち上げこそなかったが、北朝鮮脅威とともに、宇宙・医療・ITなどの科学トピックスや街の話題的なネタも好んでというより、重大な政治・経済ニュースを避けたり、薄めたりするために、大々的に報道して、限られたニュース番組を占拠することもある。8日の「ニュース7」も典型的なパターンで、28分の枠の中で、730秒を殺人事件にあてた。そして⑥の自動運転技術の実用化などは、速報性もなく、この日の項目にする必然性はない。②や④の海外情報も大事ではあるけれど、国内の国会での重要な論議をすべて無視したのは、政府に不都合な情報は流さないという、「政府広報」に徹した証だろう。

世論の動向が一番だと思うが、この日の、菅官房長官の記者会見の答弁で窮地に立たされたことが、翌日69日の文科省の内部文書再調査に繋がったともいわれる重要なやり取りであったわけである。それを報道しなかったという、NHKの報道姿勢の劣化はぬぐいようもない。 

私は、この日68日、NHKの参議院国会中継がなかったので、参議院のインターネット中継で、いくつかの委員会の審議を閲覧した。加計学園問題や共謀罪が取り上げられるはずだったからであった。

 

68日、参議院インターネット中継を見た

国会では、共謀罪、加計学園問題などが、いくつかの参議院委員会で議論されていたにもかかわらず、結論的に言えば、NHKの国会中継は一切なく、上記のようにその日の夜のニュースでは一切報道されなかったのである。私は、この8日は、時間の都合もあって、午後からインターネット中継と録画で、以下のいくつかの委員会をハシゴする形となった。 もちろん断片的ではあるが、関心ある方は、録画でぜひ確かめていただきたい。これらの一部は、当然のことながら、民放の報道番組では、取り上げられていたのである。

 

内閣委員会(2017年6月8日):

山本太郎議員 昼過ぎに、参議院内閣委員会の中継を見ると、山本太郎議員が質問に立っていた。行政文書の情報公開が、民主主義の根幹であり、憲法の国政調査権に基づいての文書公開を迫っていた。後半は、「国家戦略特別区域法」がうたう岩盤規制の改革突破の名のもとに、いかに不透明な、理不尽な特区事業が実施されたことについてあらためて知ることになる。例に挙げたのは、安倍首相と加計学園ではなく、「解雇特区」とも呼ばれる労働者派遣事業の規制緩和の一つ、神奈川県、東京都で展開される家事代行サービスに外国人材導入を例に、特区諮問会議の民間議員竹中平蔵が人材派遣会社パソナの会長であることを質していた。パソナは、神奈川県、東京都でも、特区の事業者として認定されている。特区の民間議員は、首相の任命であることから、「お友達」であっても不思議はない。岩盤規制にドリルで穴をあけるどころか、首相指導の「利権特区」ではないのか。

山本議員の質問の後は散会となったので、録画で、さかのぼって、田村智子議員と桜井充議員の質問を閲覧した。こうした質疑を通して、政府関係者の答弁の無内容~記憶にありません、承知していません、差し控えさせていただきます、今治市の責任での文書でございます、などが繰り返され、山本幸三地方再生担当大臣に至っては、下を向いてボソボソと自信のない言語不明瞭な答弁が続く光景をまのあたりにする。 

田村智子議員は、201629日 今治市の市議たちが、内閣府の地方創生推進室を訪ね、藤原豊次長、審議官他と面談し、藤原次長が、今治市に獣医学部を新設しても、人口減の時代、学生が集まるのか、今治市の財政負担などについて懸念を示したという出張報告書を入手、その内容を、藤原次長に質せば、会ってはいるが、その内容は定かではない、との答弁。田村議員は、その後、119日の第25回諮問会議で特区今治市の獣医学部の事業者として加計学園が急に固まるまでに何が起きたのかに焦点を絞る。



桜井充議員も、情報公開法について質していた。審議過程に係る文書は公開できないが、審議終了後には公開しなければならないのに、なぜ公開しないのか、の質問には、佐々木基地方創生事務局長は、審議終了後であっても、検討・協議過程以外の文書であっても、それを公開することによって、国民に混乱を招き、将来同種の案件について悪影響を及ぼし、支障をきたす場合は、公開できないと、見当はずれの答弁をしていた。今や、国民の混乱を招くのは、むしろ公開しないからでであって、国民の大半は公開を望んでいる公文書ではないのか、とも思えるのだ。

今治市側から入手した複数の行政文書に「内閣主導にて不透明に進行する」「内閣府が考えているスケジュール感に対応するために」という文言がでてきたり、20184月の加計学園獣医学部開学のスケジュールが先行したりする文書の存在を示せば、それは、あくまでも今治市の責任で書いた文書で、自分たちは承知していない、その内容は不正確だと藤原次長は答える。また、201542日には、内閣府を訪ねた今治市の職員が、予定を変更して、首相官邸にいたことが伺われ、その時間帯の「首相動静」によれば、下村文科大臣と山中伸一事務次官が面談していることになっていることは何を意味するのか。特区の担当は内閣府なのに、なぜ、提案者側の今治市職員が官邸を訪ねるのか、の疑問に迫った。また、事業者が決まる前に、201610月には、今治市は、加計学園による予定地でのボーリング調査を承諾していることも不可解だとする。

さらに、中村時広愛媛県知事はこの4月の記者会見で、長年の大学誘致をあきらめていた頃「内閣府から助言があって、国家戦略特区で出したらどうかということだったので、出したら許可が下りたということですので、その国サイドのことについては、私は何があるのか、どういう議論があったのかは分かりません」の発言があり、後で、内閣府からは「誤解がある」とのクレームが付く一件も質された。答える藤原次長の痛々しい、苦しそうな姿は、財務省の佐川理財局長にも通じ、情けない。つい、それぞれのご家族の気持ちはいかばかりかと、思いを馳せてしまうのだ。どんなに出世したとしても。

 

法務委員会(2017年6月8日):

また、次に閲覧したのが、参議院法務委員会で、福山哲郎議員の「共謀罪」新設法案、「テロ等準備罪」新設法案についての質問がなされていた。政府が、盛んにいうのは、この法案が通らない以上、国際的組織犯罪防止国際連合条約=TOC条約が締結できない、締結国と組織犯罪についての情報が共有できない、従って、オリンピック開催時のテロが防止ができないという論法なのである。

福山哲郎議員は、そもそも、TOC条約は、趣旨・内容から、アメリカの911事件以前に成立し、その「立法ガイド」(解説)では、人身取引、密入国、銃器取引などを防止し、マネーロングを防止するのが目的の一つで、テロ等準備罪には触れていない、さらに、政治的な意味合いのあるテロ防止をこの条約の対象から除外するとまで記されている、というのだ。また、外務省条約局の職員が、その解説においても、「テロ防止」には一切触れていない、とも。この条約の批准のために「テロ等準備罪」を新設するのは論外だとし、法案の第62項、2項の2に見るように、集団に属していなくとも、捜査の対象になるということではないか、の質問には、金田法務大臣は答えらえず、刑事局長からは、集団に属していなくとも、周辺の者、密接な者、関わり合いのある者ものは対象になるという、驚くべき答弁であった。さらに、報道でも取り上げられていた、国連の特別報告者による今回の法案はプライバシーの見地から非常に問題があるとの安倍首相への書簡を個人的な意見だとして拒み、抗議し、安倍首相国連事務総長との懇談で、あの書簡は、国連の総意ではない、という言質を取り付けたという点に対して、その事実を問い質せば、岸信夫外務副大臣は外交上の発言なので回答は控えるとの対応であった。

 

農水委員会(2017年6月8日):

つぎに、見たのが参院農水委員会で、ここでは森裕子議員が奮闘していた。

森裕子議員は、内閣委員会の桜井議員との連携で、201542日の今治市幹部職員の内閣府・首相官邸への訪問、面談について質していた。ここでも、記録もないし、記憶もないというのが、藤原次長の答弁であった。森議員は、今治市サイドの行政文書の徹底的な情報公開をしていて、まだたくさんの文書が出てくるのではないか。また、文科省内部文書について職員の複数が命をかけて文書の存在について、上司に報告しているのに、なぜ、握りつぶすのか、部下を見捨てる気なのか、と迫っていた。相手は、常盤豊高等教育局長であり、義家副大臣である。

 

菅官房長官の記者会見

 68日の記者会見は、かなりひどいものだった。テレビ朝日の報道ステーションで、食い下がる記者たちとの質疑が長い間放映されていた。その答弁は、これまた、テープレコーダーのごとく「出所不明の文書であることには変わりなく、文科省が適切に調査して、報告した」と繰り返す。記者が、公益通報者保護法で、内部通報者はどう保護されるかを問えば、仮定の問題には答えない、というありさまだ。この質疑は、いつになく、30分にも及んだという。(続く)

 

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2017年4月28日 (金)

ほんとに、何から言い出していいのかわからないほど(1)政治家の「失言」とメディア

政治家の本音の世界

 政治家の場合本音かウソのどちらかであって、「失言」ということはあり得ないのではないか。本音かウソを言い放ち、誤解と言いつくろい、それでおさまらなければ、撤回と謝罪を繰り返すという処理が当たり前になってしまった。役職更迭・辞任はあっても、議員を辞職することはめったにない。

「貧乏人は麦を食え」 (池田勇人大蔵大臣、1950127日参議院予算委員会)、「中小企業の五人や十人自殺してもやむを得ない」「(池田通産大臣19521127日の衆院本会議)「バカヤロー」 (吉田茂首相、1953228日衆議院予算委員会)など、子供心にうっすらと記憶に残る政治家たちの本音発言は、今日に至るまで、幾度、聞いてきたことだろう。今回の今村元復興相の「帰還困難者の自己責任論」(201744日復興庁記者会見)「東北でよかった」(2017425日自民党二階派講演会)発言は、モラルとか「弛み」「緩み」、「感情的になった」の次元ではなく、彼らは、ふだん思っていることを正直にストレートに述べたに過ぎなかったのである。そこには、つねに「弱者切り捨て」政策の系譜が脈打っている。

さらに、記者の質問に対して、「出ていけ、二度と来るな」(前掲44日記者会見)という今村発言、さらに「あますとところなく記録を取って、一行でも悪いところがあったら首を取れとは、なんちゅうことか」と取材陣を指さし、「そんな人は(会場に)に入れないようにしないといけない」(2017426日東京都内の講演会)という二階自民党幹事長のメディア批判は、トランプ大統領のメディア攻撃以上に重大発言だった。アメリカには、まだ、司法やメディアによるチェック機能が歯止めとなっている。

 折しも、国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」は、426日、2017年の世界各国の報道自由度ランキングを発表した。日本は、180国中72位で、ランキングを始めた2010年の11位から年々順位を下げ、「先進国」では最下位、自由度最悪180位の北朝鮮を批判できる状況ではない。日本では、チェックすべきマス・メディアが、政府の意向をまさに「忖度」してテレビの報道番組のキャスターを降板、交代させてしまうのだ。森友問題でのキーワードともいえる、官僚たちの「忖度」をきびしく追及できるのだろうか。組織犯罪処罰法改正案に「共謀罪」新設の論議についても、個人のジャーナリストたちによる抗議は見受けられるけれども、マス・メディアとしては、社説や記事で法案の欠陥や審議についての言及、「一般人」に降りかかるリスクへの警鐘はあっても、メディア自体、わが身に降りかかる危険に対しては、あまりにも無防備ではないか。「一変」したとして、いつ「弾圧」されるかもしれないのである。「大逆事件」や「中央公論社解散」の時代に引き戻される「治安維持法」の世界にならないとも限らない。

 

近頃のNHKは何を伝えたのか

NHKは、会長が変わっても、その放送内容は、政府広報の色彩はますます濃厚になるばかりである。「視聴者の関心」という客観性のない、恣意的な選択による国会中継に始まり、ニュースは「編集権」と称して、その項目と時間配分における政治報道の偏向は目に余る。たとえば、国会質疑報道にしても、質問の方は、映像と読み上げで簡単に済ませ、整ったところの首相や閣僚、官僚の答弁を肉声で伝える。答弁につまったり、トラブったりしたところは省略する。これは国会中継や他局の報道を見ないことには分からずじまいである。

NHKは政治報道を、すぐに“政局”報道に論点をずらす。政府の政治日程に焦点を合わせる。自国より、他国の軍事・政治事情に重点を置く。北朝鮮、韓国、中国そして中東の軍事・戦局報道に力点を置き、日本の軍事的危機をあおる。国内に事件や災害が発生すれば、必要以上に事細かく報じ、落着すると被害者・被災者に寄り添い、立ち直るすがたを追うが、事件や災害の核心に迫る調査報道はしない。「専門家」や街の声の予定調和的な編集が、かえって信頼度を損なうこともある。一昨年の安保法案強行採決報道、昨年からの沖縄のオスプレイ墜落や基地関連報道、今年になっての、南スーダン派遣部隊の日報問題、森友学園への国有地払い下げ報道、閣僚たちの「失言」報道、共謀罪審議報道にも、あてはまる。仕方なく、民放や新聞報道の後追いとなった事例も多かった。

視聴者の手の届かないところで、受信料は、会長以下理事たち、経営委員たちの高い報酬となり、記者たちの取材費に、大河ドラマのロケ費用やタレントの出演料になる。なかには犯罪に手を染める職員たちの給与にもなった。民放のパクリのようなバラエティやクイズ番組、これでもかとタレントを並べる。新番組「ごごナマ」がいい例だ。語学番組や高校講座、音楽・美術・旅行・自然などの教養番組にすら、タレントを起用し、押しつけがましいコメントやナレーションが流される。なんか、もう「うんざり」という感を免れない。若者ばかりでなく、高齢者のテレビ離れも進むだろう。

受信機器を持っただけで受信料が発生するという放送法は、契約の自由を侵す。受信料未払いの実態は定かではないが、NHKと総務省がNHK放送の同時ネット配信を進めると、視聴の有無にかかわらず、住民税化への道につながる。だとすると、それをNHKだけが独り占めするということは、もはや国営放送となり、その肥大化は免れない。現実には、放送と通信の融合を前提に、民放やその他のマス・メディアとの競合や競争によって報道の質を高めることにつなげるにはどうしたらいいのか、無関心であってはならない。

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